薄田泣菫「奈良の女乞食」

奈良の女乞食
 奈良へ往つた折のことだ。
 戒壇院から紀寺(きてら)へ出ようとして、名も知らぬ狭苦しい町を、真つ直ぐに南へ通りかかつたことがあつた。ちやうど神嘗(かんなめ)祭も過ぎた頃で、板廂(いたひさし)のぶよぶよになつた、(むさ)くるしい店先に、尻腐れのした果物やら、開き切つた(かさ)のいやに赤ちやけた湿地茸(しめちたけ)やらが、ちよつびりと盛り揚げられた場末の八百屋、厚ぼつたい安羅紗(ラシヤ)の外套とか、襟垢(えりあか)()れ切れぬ、()げちよろけの細い縞物(しまもの)袷衣(あはせ)とかが、寒さうに吊り下げられた古着屋といつたやうなものが、不揃ひに立ち続いてゐる町の様子を見かへりながら、小石の凸凹した通りをすたすたと歩いていつた。
 先下りになつた道が、不意に鍵の手に折れて、壊れかかつた築土(ついち)に添うて、くるりと右へ周ると、ちよつとした新道の、繊細な出格子の附いたしもたやらしい家の前へ出た。何気なくその門口まで来かかつて、私は思はず立ち止つた。
 そこには女乞食がゐた。門口の舗石(しきいし)にべたりと腰を下ろして、まだ真新しい門の柱に()りかかつたままで寝てゐる。油気のない胡麻白(こましろ)の髪は、ばらばらに首筋に解けかかり、水脹(みつぶく)れのした黄疸(わうたん)病のやうな顔は、ぐたりと横倒しに肩に(もた)れかかつて、唇の痙攣(ひきつ)るたびに白い歯が際立つて気味悪く眼につくが、それよりも奇異に堪へぬのは、ぶくぶくのおん襤褸(ほろ)の上へ、手鍋だの、柄杓(ひしゃく)だの、鼻緒の切れた足駄(あした)だの、鉄葉(ブリキ)空鑵(あきくわん)だの、世帯道具一式残らず、縄からげのまま(くく)り附けてゐることで、世界中のあらゆる大きな勲章を、広い胸一杯にひからかしてゐる独逸(ドイツ)の宰相も、(かび)の生えた数知れぬ書物を鼻先にぶら下げてゐる大学の教授も、かうして自分の全生活を文字通りに「体現」してゐるほどの大胆と皮肉とには、なかなか及びもつくまいと思はれた。もしかひよつとして路の出合頭に、野良狗(のらいぬ)にでも()え付けられた日には、どうしてあの(さま)ではすたすた駆け出すこともできなからうし、もしまた物に(つまつ)いて、前に(のめ)りでもしようものなら、あの柄では鍋も柄杓もめちやめちやに()(つふ)されてしまふに相違ない。
 乞食は柱に凭れて、こくりこくりと居睡(ゐねむ)つてゐる。垢染(あかし)んだ、()えた果物のやうに、()つついてみたら膿汁(うみじる)でも出さうな指を組み合せて、(もら)(たま)りの頭陀袋(つたふくろ)を大事さうに抱へ込んだままで……ついその鼻先を、朝鮮白菜か何かをしこたま積み揚げた荷車が、がたぴしと通りかからうと、または小意気な鳥打帽をちよつと横倒しに、顔のつるつるした外国人の見物客が、きやつきやつと気軽に軽噪(はしや)ぎながら過ぎてゆかうと、そんなことにはお構ひなしに、こくりこくりと居睡つてゐる……
 ……産れ在所の節句を想ひ出してゐるといつたやうな容子でもなければ、貰ひの大きかつた何がし寺の供養を夢みるといふふうでもない。ただもう他愛もなく、死んだやうに寝込んだままで。
 私はつひそ人間といふものを、これほど浅猿(あさま)しいと思つたこともなければ、またこれほど親しいものに思つたこともない。立ち止つてまじまじとその寝顔を(のぞ)き込んでみた。血の薄い唇は、呼吸をするたひに(ふいこ)のやうにぴくぴくと動いてゐる。ああこの女も()きてゐるのだ。(生命といふものは、何といふちぢむさい、荷厄介なものであらう。)世の中にはいやに勿体振つて、人間の生命を何かまたと得難い珠玉のやうに(あか)めてゐるものがある。さうかと思ふと、真に詰らぬ木の端くれのやうな物に(たと)へて、唾も吐きかけないばかりに(ざけす)み切つてゐる者もある。人によると、人生を蔑むのは、取りもなほさずこれを崇めるので、やがてまた第一歩を彼岸の高いところに進める所以であるといふやうに解釈する者さへある。それがどちらにしたところで、かうして生れ落ちた以上は致し方もないことだが、世の中にはそんなことを論じる余裕もなく、ただ生きるために生きてゐる人もある。
 生きるために生きる  何という露出(むきたし)な愛相つ気のない言ひ草であらう。が、しかしこの短い、そして強い事実に立脚した生涯でなければ、よしそれが神のやうな生活であらうとも、私たちにはどこかに寂しい空虚があるやうに思へてならぬ。誰やらが言つた「超人」といつたやうなものの境涯がいつか私たちにあり得るとしても、それはこの短い、裸な、生きるために生きるといふ事実に基いたものでなければなるまいと思ふ.)
 私は袂から二銭銅貨を一つ探り出して、そつと気づかぬやうにその膝に載せてやつた。もぞくさと身動きする拍子に、銅貨はつるりと滑り落ちて、かちりと舗石に鳴つた。その音にきよとりと眼を覚した女乞食は、厚ぼつたい(まふた)を妙にしよぼつかせて、そこに衝つ立つてゐる私の顔を見上げながら、格別気にも止めぬげに、またこくりこくりと睡り懸らうとしたが、ふと脚下(あしもと)に転がつてゐる銅貨が見つかると、手を伸べて気が進まなさうに、そつと拾ひ取つた。そして私に会釈するでもなく、そのままうとうととまた睡りかける……まるでどこかの、女王が貢物か何かを尻目にかけたとでもいつたやうな調子で……私は甚くそれが気に入つてしまつた。
 今まで蔭つてゐた秋末の日は、時雨雲が西北へ()れ切つてしまふと、(ひる)過ぎの(ふる)へるやうな弱い日畧(ひかけ)を落してきた。それを横顔に浴びながら、いつまでも睡りこけてゐる女乞食の気楽さ……
ふと気がつくと、道往く人が二人立ち止つて、奇異(ふしぎ)さうにこちらを見返つてゐる……私は忙しさうにそこを離れて、すたすたと途を南へ急いでいつた。      〔大正15年刊『泣菫文集』(鷺草)〕
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最終更新日 2006年02月02日 00時19分50秒

薄田泣菫「角田浩々歌客氏を悼む」

角田浩々歌客氏を悼む
 角田浩(かくたかうかう)君がなくなつた。
 その日は私は菊池幽芳君と一緒に、文楽座の人形芝居を(のぞ)きにいつてゐた。ちやうど色の黒い津太夫が「鱶七上使(ふかしちじやうしネ)」の段を語りかかつてゐたところで、太夫があの皺枯(しやが)れた声を振り絞つて、
「物まう、頼みませうとどつてう声、撥鬢頭(ばちびんあたま)の大男……」
と語り出すのに()()れてゐると、本家茶屋から電話が掛つたと知らせてきた。
「誰からだらう、ここへ来てゐるのを知つてる人はないはずなんだが……」
私は独語(ひとりごと)を言ひながら電話に掛つた。相手は新聞社のY君であつた。
「今東京から報知(しら)せてきましたが、あちらの角田さんがね……」
私はそこまで聞くと、なぜともなしにはつと胸を躍らせた。Y君の声は銀のやうに頭へてゐた。
「先刻亡くなられたさうです。何でも肋間神経痛と肺炎とが……」
 私は引き(ちき)るやうにY君との談話(はなし)を切つて、急いで桟敷へ帰つて来た。あまり急いで二階の階段を駆け上つたので息苦しかつた。
「角田君が亡くなつた……」
「え!」菊池君はさつと顔の色をかへた。
「角田君が亡くなつた……」
「いつ? 真実(ほんたう)かい」菊池君は自分の耳を疑ふやうな眼つきをして私の顔を見た。私は電話で聞いた報告を繰返し繰返し言つた。
 二人は顔を見合せて、深い溜息を吐くより外に仕方がなかつた。床には色の黒い津太夫が伸し上つて、(わめ)くやうに何か語つてゐるらしかつたが、少しも耳には入らなかつた。舞台を見ると、多為蔵の鱶七が両肌を脱いで、大きく見えを切つてゐたが、私はその刹那に、角田君が歌舞伎よりも、何よりも、文楽の人形芝居を好いてゐたのを思ひ出して悲しくなつた。
 考へてみると、私と角田君との交際はかなり長いはうだ。曾根崎の小さな露地で君に会つたのは、今から十七年も以前のことだ。君はその頃まだ独身で、国元から阿母(おつか)さんを引き取り、二階の一室には松崎天民君を世話したりなどしてゐた。私たちは日ざしの()さない小さな前栽(せんさい)に、萎縮(いぢ)けて咲いた朝顔の花を見ながら、よく婦人や宗教やのことを話したものだ。いつだつたか、夏の朝私が訪ねてゆくと、下の座敷にはちやうど来合せた客があるので、私は二階の書斎に通されたことがあつた。
 待つ問の所在なさに、柱に(もた)れてぼんやり隣の家根を眺めてゐると、どこからか蝉が一つ飛んできて私の肩に止つた。私は掌面(てのひら)でそつと押へた。見ると、哲学者のやうに間抜けな顔をした、そしてまた哲学者のやうに黙りこくつてゐる唖蝉(おしぜみ)なのだ。
 悪戯好きな私は、角田君の机の抽斗(ひきだし)をあけて、そつとこの哲学者を投り込んでおいた、主人が何気なく開ける…(はず)みに勢ひよく飛び出しでもしたら、どんなにか可笑しからうと思つてゐたのだ。角田君は上つてきた。そして二分と経たないうちに、抽斗に手をかけた。私は込み上げる笑ひをじつと辛抱して見てゐた。
 抽斗は開いたが、哲学者は飛び出さなかつた。
「おや、蝉がゐるよ」
 角田君はそれを掌面に取りあげて、友達のやうな懐かしみを持つて見惚(みと)れてゐた。私はそれを見て、
「酒と談話(はなし)とが好きなやうに、生物もやつばり好きらしいな」
と思つた。実際角田君は酒と談話(はなし)とが大好きであつたが、それにもまして小さな動物が好きであつた。私たちは同じやうに田舎もので、土を穿つて大きくなつた境涯だけに、かういふ方面ではいつもよりずつとよく談話(はなし)が合つた。
 私たちはよく小鳥の談話(はなし)をした。土龍(もくら)談話(はなし)をした。蜥蜴(とかげ)や蜘蛛のことまで夢中になつて談話(はなし)をした。私が心斎橋筋の騒々しい家の二階で、文鳥を飼つてゐた頃には、君はソクラテスのやうな醜い顔をした小狗(こいぬ)を可愛がつて、それに権兵衛といふ名をつけて喜んでいゐた。
 文鳥が亡くなつたので、私がしばらく小鳥を思ひ止まつてゐる頃から、君は画眉鳥(ほほじろ)や、駒鳥や、瑠璃を飼ひ出した。大手(とほり)や森の宮の家へ訪ねてゆくと、画眉鳥が滑らかな声で、
 一筆啓上つかまつり候
と唄つてゐるのをよく聞いたものだ。
 眼尻に皺を寄せて、前歯の欠けた口元をにこにこさせてそれにじつと聴き惚れてゐる君の顔を見ると、私は富士の裾野に生れて、そこにゐる小鳥や草木の花と同じ夢をたつぷり持ち合せてゐる君の性格を思はずにはゐられなかつた。実際君は土から生れた詩人であつた。君が入つてゐた慶応義塾の学風と、その当時の世間の風潮とに影響されて、その才能の幾分かを無駄費ひさせられてゐたが、それにも(かかは)らず、君は詩人として立派な生地を()つてゐた。
 今年の一月に君に会つた時、私は何よりも先に、君が大阪から東京へ連れていつた画眉鳥の消息を聞いてみた。すると君の目は光つた。
「画眉鳥ですか、大変な目に遭はせてね……」
と、くしやくしやの手巾(ハンケチ)洋袴(スホン)の隠しから引つ張り出して、いつもの癖のやうに口許を拭つた。
「忘れもしない、去年の十一月六日でしたよ、ちやうど御大典で陛下が東京をお発ちになるといふ朝でした……」
かういつて、君はその朝小鳥を入れた部室を(いたち)に襲はれて、雲雀は引つ掻かれ、(うづら)は噛まれ、青雀は両脚とも折られてゐたが、画眉鳥だけは仕合せと羽を少し痛められただけで、(さへす)りに何の差支へもなかつたことを話した。そして傷つけられたものを哀み、免れたものを喜ぶのに、まるで肉親の噂でもするやうな真情を見せてゐた。
 菊池君も言つたことだが、君はまた石が好きで、旅をすると自分で拾ひ歩き、また外国へ往く人でもあると、わざわざ頼んではうばうのを(も」り)ひ集めたものだ。菊池君が持つて帰つたモリエール墓畔の石、吉武君が拾つてきたホオソオン墓域の石  -かういふものは、瑠璃や画眉鳥と一緒に、君の傍で絶えず何か歌つてゐたのだ。君はよく石の沈黙を愛すと言つたが、話し上手で座談好きの君は、沈黙家の石にも何か話し掛けずにはおかなかつたらうし、また君のやうな聴き上手に出会つては、石にしても何か話し出さないではゐられなかつたらう。実際君が石の秘密をよく知つてゐたのを思ふと、沈黙家の石も君だけには何かお喋舌をしたり、唄つて聞かせたりしたものに相違なかつた。
 君は酒好きだつたが、量にかけたら大して飲むといふほどではなかつた。ただいかにも酒好きで、酒好きといふよりも酒の趣味が好きで、ちびりちびり盃を嘗めてさへをれば、好い気持でゐられるらしかつた。今から十五、六年前、私たちは一緒に雑誌を編輯(へんしゆう)してゐたことがあつたが、何か相談事でもあつて皆の顔が揃ふと、君はいつも小僧を呼んで、(くつした)のやうな財布から銀貨を(つか)み出して、掌面の上にそれを置いた。
「済まないが、お酒を一本ね」
 酒が来ると、それをちびりちびり嘗めながら、突飛な私たちの意見と打つて変つた穏健な説を述べたものだ。どんな場合にでも、どんな事にでも、君はいつも穏健な立場を失はなかつたが、酒を飲むとなほ一層穏健になつた。そして酔が廻ると、肱を枕にしてころりと横になつてしまつた。
 君は誰を呼ぶにも、必ず「翁」といふ言葉を附け加へた。子供や婦人をも「……翁」と呼んでゐたが、(しま)ひにはそこらの道具や石塊のやうなものまで「翁」呼ばはりをした。私は君とは八つも年下であつたし、それに君から翁と呼ばれ始めたのが、まだ二十五、六歳の頃だつたので、それが(しやく)でたまらず、喧嘩腰で訂正を申し込むと、君がその後の手紙には、私の名前の下にいつも「翁」の字が三つも重ねてあつたり、時には「老翁」とか「老爺」といふ文字があつた。この癖はいまだに残つて、ついこの頃受け取つた葉書にも、やはり「翁」の字が附け加へてあつた。
 私は友人として角田君のあらゆるものを受け容れることができる。酒好き、石好き、小鳥好き、談話(はなし)好き、お説教好き、li何ひとつ気に入らぬものはなかつたが、ただひとつ「翁」の字だけは辛抱ができなかつたものだ。だが、そんなに「翁」呼ばはりの好きだつた角田君が、たつた四十八で亡くなつたのを思ふと、胸が一杯になる。「翁」の字を返さうにも、君はもうこの世にゐない。私は今にして初めて君から貰つた「翁」の字を受け容れる。
 交友十七年、君が最期の日にあたつて、病症をも知らず、枕頭をも見舞はず、そのまま永久の別れとなつたかと思へば、残り惜しさに堪へられない。追憶は泉のやうに湧き上つて、言葉はそ  の一、二をも掬み尽し得ない。
〔大正15年刊『泣菫文集』(鷺草)〕



最終更新日 2006年02月12日 10時21分00秒

薄田泣菫「随心院の文殻地蔵」

随心院の文殻地蔵
 私は小野小町のひとり娘だ。
 母は私を産んだ産みの苦しみに、(ひと)く身体の(やつ)れたのを気にして、二度ともう子を(はら)まうとしなかつた。私は生れ落ちたその日から呪はれた。母は私を見ると、さも薄気味悪い「凋落」の影にもでも出会つたやうに、真つ青な顔をしてぶるぶると(ふる)へた。実をいふと、母は私といふ子のあるのをなるべく忘れて暮したいのが、何よりの願望であつた。かうして親から見離された私は、生れ落ちるなり他手(ひとで)に渡つて、小栗栖(をぐるす)野守(のもり)の飼つた山羊(やぎ)の乳で育てられたが、それでも母の身の上については、何ひとつ聞き洩らすやうなことはなかつた。私は子供心にも、いつか母に復讐をする時機があるだらうと思つてゐたのだ。
 母は様々な男心を(もてあそ)んだ。大葉黄菫(おほばきすみれ)が欲しいといつて、八月の暑い日盛りに色の白い、年下の男を貴船(きふね)の山奥まで上らせた。道心の固い美しい(ひじり)(そその)かして、暗闇にまぎれて山から逃げさせた。またある時は女蕩(をんなたら)しの若い公家衆を、百夜(ももよ)が問通ひどほしに通はせたこともあつた。母はさういふ恋の(やつこ)達を自分の思はく通りに試してみて、ちやうど香聞(カうきき)をする人が、いろんな香料を嗅いで、(かす)かな色合を(たの)しむやうに、男心の底を見比べたり、(ただ)れた自分の感情を味はつたりして独りで喜んでゐた。そしてかうした情の溺れきつたなかにも、肉体だけは大事に守つて、仮にも男に許すなどといふことはしなかつた。言ふまでもなく母は処女ではなかつたが、誰ひとり私といふ娘があらうなどと知らうやうはなく、そんなことを信ずるくらゐなら、いつそひと思ひに附子(ぶす)でも飲んだはうがましだと思つてゐるらしかつた。で、ある男は母を法華寺の観世音に(たと)へて、美しいには美しいが、手触りにどこか冷たいところがあるといつた。またある男は、折角生け捕つたと思ふと、従来の昵懇(なしみ)をも惜し気もなく()(ちや)らかして、巧く身を擦りぬけてしまふ。まるで尻尾をふり切つて草つ原に逃げこむ蜥蜴(とかげ)のやうだと言つて悔しがつた。私はそんな噂を聞くたびに、色彩の華美な母の生活を呪はずにはゐられなかつた。
 が、それも長くは続かなかつた。ひとしきり花のやうに咲き盛つた母の容色も、漸次に衰へていつた。これまでその周囲に()(たか)つてゐた多くの男は、呆気ないやうな、遊び疲れたやうな顔をしててんでに別れていつた。なかには蜜蜂のやうに、すぐまた他の花をあさりに出掛けるのもあつた。かういふ輩に限つて、ひとつてにでも聞いたやうに、母と自分との恋話を平気で女に言つて聞かせたりした。
「気の毒なものさ」
と素気ない調子で言つて、女と顔を見合せて莞爾(につこり)する。そして次の瞬間には、もうほかのことを思つてゐようといふものだ。
 過ぎ去つた日の(はで)な色彩を思ひ出すにつけて、残つた灰色の寂しみは、母にはとても堪へられぬらしかつた。白膠木(ぬるで)の落葉がはらはらと(こぼ)れかかる日であつた。母は私を訪ねてきて、しみじみとこんなことを言つた。
「私も今になつて、やつと思ひ知つた。お前もどうぞ私に()ないやうにしなさい。男は渡鳥のやうなもの、女の春が過ぎれば皆往つてしまふのさ」
 私は黙つて聞いてゐたが、心の裏では嘲笑(あざわら)つた。母の踏んできただけの(みち)は、私にだつて踏めないこともない。それに母がああして産みの子の存在を呪つてまで、踏み込まねばならなかつた途は、若い物好きな私の心をそそのかさずにはゐなかつた。
 程なく私は一人の男を知つた。それは母が凋落の最後の日まで、捕へようとしてつい取り逃がした男だつた。私はその人の口から、母の卑しい誘拐について何ひとつ隠さず聞いたが、別に気恥しいとも思はなかつた。私はこのほかにも幾人かまた若い男を知つた。さういふ人たちは、ちやうど孳彫曝の鵞鳥が・小高い丘で」とか堀りに大幅の輪を作つて、隴く青草を踏みにじりながら、躍り騒いでてんでに自分の配偶を求めるやうに、私の身辺に(たか)つてきて、どうかして機嫌を取らうとするのだが、私はそれを同じやうな笑顔とながしめとで迎へながら、誰ひとりにも首肯(うなつ)いては見せなかつた。
 かうした仕打を見た母は、私を口汚く罵らずにはおかなかつた。そして自分が童貞か何ぞのやうに、私と同じ土地にゐることが堪へられない恥辱だといつて、いつの間にか都を去つて、生れの里の小野の随心院に籠つた。私は産みの娘の派手な恋沙汰を嫉妬(ねた)むにつけて、面変(おもがは)りのした自分の姿を誰にも見せまいとする母の心に、むかしの誇りがまだ消え残つてゐるのを見て、心憎さに溜らなかつた。
 その後六月ばかり経つてからのことだつた。私は一度母の生活が見たいといふ物好きな心から、初めて随心院の門を潜つた。折よく母は花摘みに醍醐の山へ登つた跡だつたので、私は黙つてその書入つてみた・硬つばしい劉爨の葉の擢雪つた薄暗い窒で、塗きつた空気に齶憐香がしつとりと沈んでゐた。虫の喰つた経机に、手擦れになつた絹表紙のお経と、二つ三つの仏具が転がつてゐるほかには、何ひとつそこらに見られなかつた。私は悲しくなつた。そのままそつと室を滑り出ようとして、小屏風の蔭になつた灰色の壁根に、ちらと(あか)い物を見つけてまた立ち止つた。
 私は屏風越しに覗いてみた。母が若盛りの頃着馴れたらしい、はでな模様の下着を引き散らした上へ、地蔵尊が一つ転がつてゐた。木彫の上へ克明に紙を貼つて、貼ぬきにでもするらしい拵へだ。私はそれを見て吃驚した。紙といふのは従来種々な男から母に寄こした恋の文殻で、なかには血を吐くやうな深い恨みや、地獄の火のやうな黒い呪詛に充ちたものも交つてゐた。母はかうして失はれた娘の代りに、過ぎ去つた恋の追懐(おもひで)から、いまひとり産みの児を拵へようとしてゐるのだ。
 私は嫉妬に燃えるやうな気持で、いきなり地蔵尊を抱きおこしてみた。そしてまた吃驚した。まあ何といふ醜い顔であらう。(ねむ)さうに(まぶた)(ゆる)みかかつた、口元に締りのない、どことなく生命に疲れたといふ顔付きだ。私はそれを誰やらに肖てゐると思つて、どうしても記憶に浮ばなかつたが、今思ひ出してみると、他でもない、一昨年の夏頃、うるさく私に附き纏つてゐたのを、素気ない返事をしたからといつて、河添ひの白楊(はこやなき)の樹で(くび)れて死んだ()子粉屋(しのこや)の主人の顔であつた。
 私は仏の(そば)を離れて、まるで王女か何かのやうに気取つた身振りで、冷たい板敷を踏んで歩いた。何といふ醜い出来だらう。母の心が美しい誇りに満ちた頃だつたら、まさかこんな物は作らなかつたに相違ない。それを思ふと、母の衰へはただ肉ばかりではなかつた。勝気な母のーあらゆる男を奴隷のやうに脚もとに膝まつかせた、そして自分ひとりが価値の源か何ぞのやうに振舞つた  あの黒味がちの眼から火のやうに(ふる)へてゐた霊魂も、すつかり衰へてしまつて、かうした醜い幻しか孕むことができなくなつたのだ。私はさう思ふと、初めて母を(ゆる)すやうな気持になつた。ああ宥されーこの短い言語(ことは)に包まれた哀憐と侮蔑の長い影を思つて、私はその価の貴いのを思はずにはゐられなかつた。
                               〔大正15年刊『泣菫文集』(鷺草)〕



最終更新日 2006年02月12日 11時50分05秒