児玉大将伝

杉山茂丸

杉山茂丸『児玉大将伝』序


 庵主は児玉大将を神に祭った。なぜ神に祭った、「天性善心な人で、悪意なく、野心なく、国家個人のことども、善事とさえ言えぼ、勇往邁進、縮尻(しくじ)っても、少しも後悔せぬ、その善事のためには、見事死ぬ人であった」。また「善事のためには、どんな下賤のいうことでも、どんな下品なことでも、直ちに我を忘れて、猛断遂行するだけの、胆力の充満した人であった」。庵主は真に大将を、善の権化と信じたからである。古往今来、もし私心のない、善の権化があったなら、庵主は、誰でも神に祭るのである。しかし、庵主ぱ生来、幾万という人に交ったが、神に祭るほどの人は、児玉大将一人であった。また今一っ大将を神に祭る理由がある。それは何事にも「悪気がなかった」これはそのまま、神たるの資格である、一大条件である。世の中には幾多の、英雄、豪傑、忠臣、義士もあろうが、大抵が、英雄、豪傑、忠臣、義士になりたい連中ばかりである。児玉大将も、もともと人間であるから、百歳までも、二百歳までも存命されたら、或いは神たるの資格を、失われたかも知れぬが、庵主の見た限りでは、生るるから、腹一杯、神たるの事業を小細工の隅々より、大速力の大仕掛けまで、やってやってやり通して、一息に、ドンと薨去せられた人である。その勇断猛進の速度というものは、とんと些少の不善事、非神事も、行う暇がないほど働き続け、後にわが帝国が、東洋における、安危存亡の大難関たる、日露戦争の大騒動を、一息に斬り平げて、ハッという間に、薨去せられたのである。すなわち神に祭らるべき、正真正味のところばかりを実行して、薨去せられたから、庵主は正当に神に祭ったので、幾度繰返してみるも、少しも不思議はないのである。
 しかし、庵主ももともと凡人で、児玉大将の前途については、前代無比の大事業に、いろいろ期待していたこともあり、また約束していたこともあったから、その薨去に対する庵主の驚愕と落胆とは、十三年を経過した今日でさえ、なおこれを筆紙に書き現わすことは出来ないほどである。当時庵主は、あたかも猿が樹から墜ちたように、向島の別荘に、ドンと寝込んで、まるで児玉邸には、寄り付かなかったのである。天下の知友は、庵主に熱誠に忠告した。「貴様は児玉大将に対して、不義理である、不人情である、なぜ今少し、大将の死後に尽さぬのだ」と、甚だしきは罵倒まで受けたのである。庵主は、この痛罵声裡にあっても、それに耳を貸すことが出来なかった。満一年経った頃は、さぎの痛罵者も、児玉大将のことをモゥ忘れていた。その忘れていた頃、庵主の児玉大将伝記は、発刊せられた。世人がオヤというて、これを読みつつある翌年の三回忌には、児玉神社が向島に建立せられた。ここに至って、さきの知
友らは曰く、「なるほど、貴様は、それほどまでに大将を忘れずにいたか、我々が、気短かに忠告したのは悪かった」と言うてくれた。しかし庵主は、もともと児玉大将に、伝記を書いてくれと、頼まれなかった。また神に祭ってくれとも、頼まれなかった。庵主が勝手になした仕事である。世人が何と思う思わぬを、考える隙のないほど、忘れたことはなかった。その後向島の別荘が、数度の洪水のために破壊されたから、児玉神社を、相州の江の島に移転して、二千坪の敷地に玄機庵という庵室をこしらえて置いたら、思わぬ借金のために、取り揚げられてしもうた。それが各新聞に出ると、また忠告者が発生した。曰く「貴様は児玉大将に恥を掻かせた、不都合だ」と。庵主は始めて答えた、曰く「恥は俺が掻いたのだ。児玉神社は、チャンと借金取りが祭っている、かえって貴様たちに問うが、俺がような、借金持に神社を建てさせるから、取らるるのだ、貴様たちのような、借金持たずの金持が建てれぽ、決して取られぬのである。どうだ。俺に忠告するなら、貴様たち、金を出して建ててはどうじゃ」と、忠告者は苦笑いをして去った。これはもっともなことで,忠告者は、児玉大将を、国家が神に祭らねばならぬ人格であることと、その功績とを知らぬからである。庵主は、それを明細に知っているから、止められぬのである。
 折から、さきに刊行した、児玉大将伝記が、全国に行き渡ったところが、さあ数千通の攻撃状が、庵主の机上に堆積した。曰く「児玉大将伝を刊行したは殊勝であるが、その文章がむつかし過ぎて、普ねく一般の国民に読めぬのである。まず、女、子供は申すに及ばず、最高度、中学生徒ぐらいの力で、読めぬというは、刊行の意義を没却し、すなわち、故大将の威徳を冒漬するものである」と。これには庵主も、ハッと思うほど恐縮した。実にその通りで、一言の、申し開きも出来ぬほど、堅くるしい、むつかしい文章であった。そこで、一々書面を以て詫状を出した。その相手の多数は、大抵小学校の先生である。曰く「はなはだ不注意な文字を以て、故大将の威徳を冒牘したことは今更お詫びの仕様もないから、ぎっと庵主の生存中に、平易な、()仮名(がな)付で、小説的の伝記を出版しますから、どうかご勘弁を願いたい」と。それから、寸時頃刻も忘れず、俗用蝟集の生活中に、十分か二十分かの暇を(ぬす)んで、書き上げたものが、この本である。しかしもともと、愚文悪章の庵主であるから、この化物のような原稿を、斯道の大先生に目を通して貰うた。ところが博文館の親方がこのことを聞いて、その児玉大将の伝記は、是非自分の方で出版すると言い出した。これは、この本の大主人が児玉大将で、校閲が、例の斯道の大先生であるからである。庵主の原稿そのままでは、従来博文館が出版して、こりごりするほど、手を焼いているのである。庵主は何でも構わぬ、故大将の十三年忌に、思いに思うた伝記が出さえすれば気が済むのである。なぜ気が済むかと言えば、児玉大将薨去の後に至り、余り天下に人物が
なさ過ぎるのである。世界の大勢は、わが帝国に、その安危存亡を逼っているではないか、この恐るべき大難関を、解決するにはドウしても故大将を想起して、諦められぬからである。故に極端な愚文なれども、この児玉大将伝は、庵主が憂国慨世の涙の結晶である。思うがままを記して序にかえる。
     大正七年五月大将の祥月命日より六十日前、
     庭の青葉にさみだるる日
                             其日庵主人手記


  児玉大将の墓にもうでて
なき魂を弔う野辺にしぐれして
     聞くも寂しき入相の鐘



最終更新日 2005年09月07日 02時26分30秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一 鳳児出産の報、詩会の莚を賑わす」

   一 鳳児出産の報、詩会の莚を賑わす
 夢に()くような瀬戸内の淡い景色が、溶けて流れて、西へ西へと漂う浪の上に、絵から脱け出た青螺(せいら)が、(さかしま)に影をひたして、浮島かと棊布(きふ)する。霞隠れに徳山城がクッキリと白く浮き出て、古松千年の色が、鮮かに彩られている。
 城は宗藩たる萩の咽喉(いんこう)(あた)り、魏然(ぎぜん)として天の一角に男らしい雄偉な態度を示している。この城在る以上は、いかなる敵もたやすく宗藩に(うかが)い寄ることが出来ない、さながら一夫関に当れぽ、万卒も越えがたき天険を、人工に築き成した神鉞鬼斧(しんえつきふ)の跡であろう。
 しかし城は嶮岨を擁して、鼎鏤(ていかく)のような堅固ではあるが、それは忌わしき干戈(かんか)が、殺
気を雲と漂わせる時である。もしも戦いのための城ということを忘れて、優美な天守閣を、松の葉隠に眺めるときには、前に洋々たる紺青の海をたたえて、潮の花は玉と砕け、後に青葉若葉の匂い濃かな連山を繞らして、月が啼く時鳥(ほととぎす)の声をそばだてた枕に聞く。山の精の佐保姫と、海の精の海若(わたつみ)の神とが、手を執り交して漫歩(そぞろある)きするような、山紫水明の土地である。風光明媚と言うことは、ほとんどこの城下に集まったかのように、やわらかい気候が五風十雨に揺らいでいる。
 城下の一角には、お組と呼ばれる諳士の邸宅が、杉や鼠梓木(ねずみもち)生籬(いけがき)にかぎられながら、隣から隣へと列んでいる。その中ほどの横本町の小路に亭々として空をしのぐ老松が、竜の髯虻(ひげみずち)の鬚を海風に(くろ)ませつつ、露繁き(みどり)の下に、板廂(いたびさし)の低い家が、軒葱(のきしのぶ)に苔蒸しつつ建てられる。
 これは藩臣児玉半九郎の住居で、彼は今臨月の妻元女と、長女のお久、次女のお信とともに、平和な家庭を、楽しく暮している。
 今日は向う前なる島田蕃根(いわね)という藩の儒者の所に、詩文の会があるというので、主人半九郎は先刻出向いたのであった。
 出向いて見ると、講堂なり書斎なりの先生の室には、はや五六人の親しき門弟や友人が、さながら一家のように、(むつ)まじく詩を賦し、文をやりながらも、時折雑談に花を咲かしていた。
「今日は(ぬく)といというよりも、暑いほどの季候(ようき)じゃ」と、蕃根先生はだれに言うともな
く、一座を見渡してにっこりした。
「閏でござりまするで、二月二十五日とはもうしながら、三月末でござりまするでな。……児玉氏、このぶんでは御身が庭の自慢の桜も、やがて咲き揃うでござろうな」と、側の大髻(おおたぶさ)がふりむいた。
「いや、咲いた段ではござらぬ。今晩あたり夜風に吹かれたりゃ、もう落花じゃ」と、半九郎は答えた。四十恰好の色の黒い、分別気の男で、鋭いながらも、どこやら沈着な眼の輝きが、ともすれば嶮しくなる面貌(おもざし)に、奥底のある落付きを見せて、十品な侍ぶりである。
「年々歳々花相同きも、歳々年々人同じからずかな」と、横鬢の少し抜け上ったのが悟ったようなことを言う。
「オウ、そういえば児玉氏、御身御内宝は産月(うみづき)のはずじゃが、相変らず御健勝かな」と、急に心づいたと見えて、先刻(さつき)の大髻がたずねた。
 児玉は小倉袴の膝に両手を突き入れたまま、黙って笑っている。眉の間の深い皺が、笑う時にかえって愛嬌つくって見える。
「左様」と、蕃根先生は児玉の方を見ながら、墨を含ませた水筆を丁寧に硯箱の縁へかけた。
「半九郎、今度は男子(なんし)かな」
「ハア、男であって欲しいと思いまするじゃ」と、児玉は苦笑(にがわらい)する。
「男じゃ男じゃ、ぜひ男を産まにゃならん。この天下多事の際に、男でのうては役に立たんわい」と言ったが、蕃根先生は思わずあたりを見廻した。もしや外に聞く人があったらと、細心に注意したのである。
此中(このじゆう)江戸からの音信(たより)には、黒船どもが追々参るじゃとよ、去年相州浦賀に砲台を増
築してな、どうやら彦根の手で守らせるそうじゃが、このぶんではじゃ」と、先生は目を(みは)って、さらにさらに小声になった。
「高い音声(おんじよう)じゃ言われんけど、徳川家の天下も、どうやら千万年の泰平はありそうにもない。……松下村塾あたりでも、いたく時勢を慷慨いたしおるじゃ」と、思わず深い溜息をもらした。
「松陰先生のことじゃ、さもおありもうそう」と、児玉は気を引立てられるように覚える。
「二百余年のわが世も、やがて夢と覚める時がこわしょう」と、一人の若侍は眉を()げ、(ひじ)を張る。
「いやしかし各位方(おのおのがた)、壁にも耳じゃて、この席は格別、他所では迂闊に申されな」と、蕃根先生はおし止めた。お庭番なる幕府の間諜は、中国、四国から九州路へかけての大小名の間に、影のごとく風のごとく出没することを、先生はよく知っている。
 折から「ごめん下さりませ」と言う優しい声が、勝手口に聞こえる。女の声ながら、折が折であるから、人々は目を(そばだ)てて、不安の眉宇を曇らした。
「児玉の久でございます。……あの父にちょっと」と言う声は、児玉の惣領娘であった。
「児玉(うじ)、御身の娘御じゃよ。……あたら水禽の羽音でござったわい」と、一同は自分たちの臆病をドッと笑った。
 半九郎は急いで勝手の方へ立ったが、やがてにっこりとして帰って来た。
「児玉氏、急用が出来(しゆつたい)し申したかな」
「いや、今の間に荊妻(かない)が出産いたしたそうじゃ」
「オウ、それは安産で結構でござるぞ」と、蕃根先生は喜んだが、今噂した唇もまだ乾ぬうちであるから、もしも男でなかったらばと思うと、なんとなく気の毒なので、蕃根先生は黙ってその顔を見た。男か女かと、口までは出るけれども、強いてそれを聞く勇気がない。
「先生」と、半九郎は心底から愉快そうに呼びかけた。
「ハハァ、男子(なんし)じゃったな」と、蕃根先生は、機微の間に天の囁きを聞いたのである。
「お陰で男子とござりますそうな」
「めでたい、手功(てがら)じゃ、大手功じゃ」と、一同は自分の子が産れたように喜びはやす。
「半九郎、早う行きなさるがえい」
「しからばご無礼いたしますじゃ。許されい」と、半九郎は今まで人前を忍耐(がまん)していたが、心の(うち)は鼠舞いをして飛び出したいのであった。
「そのかわりにじゃ、追っつけしっかり振舞って貰わにゃならんぞ」と、一同がさざめく時には、半九郎の姿はもう見えなかった。
「ヤッ、早行きおったぞ」と、大髻は笑いながら後を見送った。
「オウ、児玉め、あまり慌てたで、下駄を片足はき違えて行きおった。平生(ふだん)落付いていおるが、よくよく嬉しいと見えたわい」と、一同はまた顔見合せて笑う。
 蕃根先生は自分の甥でも新しく出来たかのように、しぎりにニコニコしていたが、急に思いついて、
各位方(おのおのがた)、幸いの詩会じゃ、児玉の男子誕生に、一詩祝うてつかわそう」と、(ひだ)の崩れた平生袴(ふだんばかま)を、そのまま坐り直した。



最終更新日 2005年09月08日 12時16分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二 百合若と命名してその前途を祝す」

   二 百合若と命名してその前途を祝す
 半九郎が島田邸を辞して、希望の光の漂うわが家へ帰った時には、産婆(とりあげ)はもう玉のような男の児の始末をして、襁褓(うぶぎ)に包んで、産婦の側にヤンワリと寝かしてあった。勝手の方では、召使や手伝いの女や、惣領のお久などが、まめまめしく立ち働いている。それが皆いきいきとして、薄暗い児玉の家に、鋭い光明が輝き渡るのを感じられた。こういうのを、五彩の雲気がたなびくとでもいうのであろう。半九郎は心も空に、産婦の枕辺に坐って、今産れた嬰児(あかご)の顔をシゲシゲと見守り、ただ胸先の血が躍るように覚えた。児玉の家を起し、父祖の名を挙げる者は、必ずこの児であろう。この児でなければならぬと、半九郎の胸裡は、溢るるぼかりの嬉しさに充ちた。
「男の児とはじつにめでたかったのう。おまえの手功(てがら)じゃわい」と、産婦の顔を見て、なにごとも思わず心の底からにっこりした。
 実際児玉家に男子が生れたのは、普通のめでたいと言うよりは、より以上にめでたかった。それは半九郎自身は、河田家から出て、この家の養子となったのであるから、真実の血統の男子としては、この嬰児(あかご)よりほかないのである。この嬰児を獲たために、半九郎は養家に対して、重い責任を果したような心地がするので、半九郎は始めて重大の義務を遂行したのであった。
「めでたいことじゃったのう、よいことをいたしたな」と、蕃根先生は自分も嬰児の顔を見るのを楽しみにして後から入って来た。
「先生、いらっしゃいまし」と、次女のお信は茶を酌んで来る。
「オウ、おまえも嬉しかろうの、よい弟が出来て。可愛がってやんなされよ」
「ハイ、真実(ほんとう)に私、嬉しゅうございます」と、お信は蕃根先生の真面目に嬉しがる様子がおかしいので、下を向いたまま引き退って行ったが、やがて勝手で、二、三人の女の笑いさざめく声が聞こえた。日ごろ静かな児玉家は、ただ浮々と賑わしい。
「しかしまったくめでたいことじゃのう、貴公今年は四十一歳になるな、世間で言う四十一の一つ児で、それで男子じゃ、見やれ、生れたぼかりじゃが、彼の凜々(りり)しい容貌(おもざし)は。大切(だいじ)に育てなさい。児玉家の宝物じゃぞ」と、蕃根先生は自分のことのように、心からめでたがる。
「いや、どうか知れませぬが、幸い男でござる。児玉の血統(ちすじ)はこれで絶えぬようになったと申すもので、どうか壮健に育て上げたいと思いますじゃ」
「まだ生れたばかりで、考えはいたすまいが、なんと言う名前を付けなさるかい」と、蕃根先生は腰下(こしさげ)の火の用心から、刀豆(なたまめ)煙管(きせる)を取り出し、煙草(たばこ)を詰めたまま首を捻っている。
「とうに考えてありまするじゃ」
「ホウ、それは手廻しじゃな」と、蕃根先生は笑った。
百合若(ゆりわか)はどうでござろうか」
「ウム、百合若じゃな」と、蕃根先生は物の味でもかみしめるように、幾度も口の中で繰り返した。
「なるほど、百合と、……百の字がよう利いている。至極の名じゃ」
 昔から徳山の風習は、四十二の二つ児[#入力者注「四十一の一つ児」?]には、必ず百の字を冠につける。そうすると、その児の将来(おいさき)がめでたいという縁起であった。そこで半九郎はこのほどから、女なら百合、男なら百合若と、ひそかに考えていたので、妻女お元にも、内々洩して笑ったこともあった。
「百合若は至極の名じゃ、それがよろしかろう。やがてこの百合に立派な花が咲いて、根塊(ねだま)が太るように、勇々(ゆゆ)しい武人(さむらい)になろうでな」と、蕃根先生は将来を祝福したが、これは単に一場の祝福に止まらなかった。百合若が牛にも馬にも踏まれず成長した五十余年の後、源太郎将軍となって、国家の隆替(りゆうたい)を一穿に負い、乾坤一擲(けんこんいつてき)の大戦を満州の野に試みて、日東帝国の武威を四海に輝かし、「日本の勃興(らいじんぐおぶじやつぱん)」の語が、世界の果から果に、張目して迎えられた日露戦争を、小さな体に背負って立った一代の俊傑になろうとは、半九郎も蕃根先生も思いも寄らなかったであろう。



最終更新日 2005年09月08日 23時21分58秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三 誕生の祝宴に志士国事を激論す」

   三 誕生の祝宴に志士国事を激論す
 百合若が生れた祝の内宴は、横本町の家で催おされた。親戚朋友は元より、われもわれもと祝ってくれた誰彼を招いて、上下隔てなしの酒宴(さかもり)であった。
 このごろ半九郎は藩の評定役(ひようじようやく)をうけたまわっていた。始めは殿の御小姓であったが、後に小笠原流の諸礼師範役となり、ついで代官から今の役になったのである。
 小藩ながらも、評定役と言えば、一藩の政治にたずさわる重い役目であるから、勢いに走る人々が、襟元につく浅ましい了簡で、児玉家へ出入する者が多い。当時半九郎は藩の権者(きけもの)として翹望(ぎようぼう)の的となっていた。
 しかし半九郎は役柄が捧げる勢力を借りて、自己の党派を作ったり、私利を営んだりするには、あまりに潔白清浄の男であった。清廉な道義心の強い、一徹な武士気質で、悪を憎むことのぱなはだしい性質であるから、したがって偏狭な嫌いがある、政治家にはむしろ不向であったかも知れぬ。
 礼に始った酒が、ようやく乱れて玉山まさに崩れんとすると、耳熟し、気昂り、若い者の勇ましい武芸談から、やがてはこのごろ流行(はやり)の攘夷論となった。若殿(ばら)は肱を張り肩を怒らし、眉を昂げ歯を咬み、口角泡を飛ばして議論を始めたので、酌に立った児玉の娘や親類の女たちは、手持ち無沙汰になって、勝手の方へ下ってしまった。
 十二畳の座敷の床柱に、背をもたせた年配の武士は、さっきから若侍の議論を聞いていたが、やがて少し膝を乗出して、
各々方(おのおのがた)いろいろと議論がござるが、さようのことはあまりかような席で言わぬがよい。御身たちが勤干の、鎖国のと言うたところが、田作(ごまめ)切歯(はぎしり)というものじゃ、上でお取り上げにはなるまい。御身たちは上からの仰せどおりにいたしおればよいのじゃて」と、太い眉をひそめて、苦々しげに言ったのは、評定役の富山源二郎という重役であった。
「身どもは御上に対して、忠義を存するによって、とかく諍議(あげつら)いもいたすでござるが」
と、若侍の粟谷は不満そうに富山の顔を睨まえた。
 富山は佐幕党の開国論者である。公武合体などととなえて、俗論派と目指される穏和党であったから、多くの血気な若侍からは、国賊のように睨まれている。今鎖国論がこの席に起ったのも、じつは彼に対する当つけであった。
「御身たちのように、匹夫の勇を(たの)んで、(みだ)りに夷人を追い払うて、戦争となったらいかがいたす了簡じゃ」
「それぞ望むところではござらぬか、腰の刀は見栄に()すのではござりませぬ、武士たる者の魂でござる。臆病風に吹きまくられて、戦が怖ろしいで武士と申されまするか。夷人(ばら)幾万人攻寄せまいろうとも、この刀の試し斬りでござる。なんと面白いことではござるまいか」と。粟谷は肩を(そびや)かした。
「それがすなわち血気にはやると申すのじゃ、御身一人で百万人も打ち斬れ申そうか。しかし万一夷人が勝ったればいかがいたす」
「さればその時は、城を枕に討死いたすまでとおわすさ。面倒な議論はいり申さぬ」と、若侍の考えは単純である。
「御身たち城を枕もよろしゅうござろうが、後に残った町人百姓、女子供はなんといたす。皆夷人どもの目下にいたされるつもりかの。よい了簡じゃ」と、富出は嘲笑(あざわら)った。
「その時はおよそ日本国に住んで、皇国(みくに)の米を食うほどの者は、さっばり死んで見せるがようござろう」と、粟谷も気が立っている。
「ホウ、それで皇国の人種(ひとだね)が絶えた後は、日本六十余州、皆夷人の領分にいたして惜しくはござらぬか」と、富山はどこまでもと問い詰める。
「しかし日本は神国でござる、夷人どもに敗けようはずがござらぬ」
「それはただ敗けぬと口に言うただけで、しかと見切りがござるか」
「富山殿、貴殿は命惜しさに、夷人に降参いたされる覚悟でおいやるな」と、粟谷は血相変えた。重役といえども、理には敗けじの面魂である。
「やっ、重き役儀の拙者に対して、無礼なことを言い召さるな」と、富山も気色ぽんだ。顳額(こめかみ)の青い筋は、みみずのごとくに顕われる。
「役所ではさもござろう。この席は無礼講とお言やらぬか」
「無礼講も次第により申すそ、武士たる者に降参なぞと、今一言、言うてみい」と、富山は膝を立て直して、拳を握った。
「まず待たれい。……富山氏お気にさえられな、多寡が酒席の戯言(ざれごと)でござるわい」と、主人(あるじ)の半九郎は慌てて押し隔てた。
「いや、酒興とは申さぬ。自体彼らが重役を(なみ)しおるが奇怪でござるぞ。児玉氏御身もこ同役でござる、かようのことを聞き捨てにいたしなば、上のご威光にもかかわるわい」と、富山は真蒼になっている。
「ハハア、上のご威光になにおわそう、御身と粟谷との言葉争いまでじゃに」と、半九郎も常々富山の処置に快からぬ、何かというと上を(かさ)に着るのを、怪しからず憤慨していたのであった。
「貴公もこのごろの流行(はやり)にかぶれて、大海の水を貝殻で掬乾(かいほ)そうとすると同類じゃの」
と、傲慢の鼻の先で富山は笑った。
「怪しからん。拙者はただ無事を思うまででござる。意見を言えいとならば、別にござるぞ」
「それ聞き申そう。児玉氏、貴殿のことなりやよも強がりの影弁慶ではござるまいな」
と、富山は肥った(からだ)をぎごちなく動かしたが、上半白の眼で、ジロリジロリとあたりを睨め回す。
 若侍との言葉争いは、たちまち主人と客との諍論(いさかい)になったので、手に汗握る人々は、あわてて止めようとしたが、常に富山の人もなげな挙動(そぶり)が憎らしいので、半九郎に言いすくめられるのを見て、笑ってやろうと待ち構える人の悪いのが、眼顔で知らせるので、止めに出る人も少しためらった。そして亢奮した眼光(まなざし)は、言いあわしたように、二人の面に交互に注ぐのである。
「粟谷氏も折角上の御為と思うてお言やるのでござろう、それを一概に押し伏せるなら、この後御為になることも、進んで言い出る者はないわけじゃ。ましてこの席は、評定の席ででもござろうか、ほんの懇親な寄合でござる、重役も下役も区別(けじめ)はござるまい。御身は上の仰せとお言やるが、それは御布令(こふれ)となって出た時のことじゃ、まだ評定中なりや、上の仰せではござらぬはずじゃ、重役方の言葉を上の仰せと言って押えるのは、とりもなおさず上の御名前を掠め奉つるではござるまいか。……まず理屈はおいて、今一献過されい」と、半九郎はなだめるともなく言った。
「児玉氏、御身までが拙者を批難しめさるか」
「いや、さようではござらぬが、物の道理じゃ」
「なにが道理じゃ。尊王とか攘夷とか、空騒ぎいたしても、おのれをはからぬ戦は必ず敗北じゃ。拙者は戦いをした揚句に、皇国(みくに)を夷人に取られることは、たって承服つかまつらぬわい」
「戦いをせずに、日本国へ熨斗(のし)を付けるよりは、まだましでおわそう」
 半九郎の寸語は、針のように富山の肉を刺し、肺腑を貫いた。
「さようでござる、拙者も大の不同意じゃ」
「身どももさようでござる」
 若侍は異口同音に半九郎の言葉に賛成した。
「これこれ半九郎、大人げないではないか」と、先刻(さつき)から黙って聞いていた蕃根先生は目で知らした。
「富山氏もまずお控えめされい。ほかならぬめでたい祝儀の席上じゃて、言葉争いは不祥じゃ。まして世の中が一方ならず騒々しい折柄、一致協同いたさねばならぬに、鷸蚌(いつぽう)の争いをいたすではござるまい」
蕃根先生は苦り切ってたしなめたので、富山も不承無承に苦笑いをしたが、落ちくぽんだ鋭い眼は、たえず半九郎の顔に注がれて、一座はなんとなく白けた。



最終更新日 2005年09月09日 01時43分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四 佐幕党、半九郎を陥れんと謀る」

四 佐幕党、半九郎を陥れんと謀る
 武陵桃源のような日東帝国は、百合若の生れた嘉永五年から引き続いて、にわかに内憂外患に襲われ、恐ろしい不安の雲が、六十余州をひきつつんで、常闇の魔界の底へひきこもうとするかのように思われた。
 アメリカ軍艦が相州の浦賀に来て、開国互市を求めたことは、たちまち長夜の眠りをさます警鐘の乱打となって、唆り立てるように津々浦々を驚かした。
 夢にも予期せぬ黒船の来朝は、弘安の昔の蒙古襲来を連想して、国家の危急存亡はこの時にあると、時の執政はただ眼をみはるばかり、騒ぎ立てるのみで、是非を裁いて所置する能力はなかった。
 直接衝にあたる幕府は、十隻の軍艦を眼のあたりに見て、臆病風がつくし、京都の朝廷では、夷狄などはただちに打ち払ってしまえと、なんの分別もなしに厳命を下される、その間には浪人志士などいうものが、事あれかしと煽動するので、国内は蜂の巣を()ったような騒ぎ、人々は目をそばだて息をひそめて、この先いかに成行くかと、安き心もなかった。
 そして天変地妖は続いていたり、安政元年には駿河に恐ろしい激震が起り、翌二年には江戸に大地震が(ふる)って、死者三万人を数えた。じつに古今未曾有の激震で、江戸中大半は破壊し、焼失してしまったのである。
 その騒ぎと恐れとが、人々の脳裡を去らぬうちに、翌三年の八月十一日の夜には、大阪、堺、兵庫、池田あたりに、稀有な大雷雨があって、山は崩れ、家は流れ、人畜の死傷算を乱して、そして恐ろしい雷雲の中に、馬に跨がる鬼、人に()る夜叉など、異形な怪物が電光(いなずま)に照されて隠顕したなどと、声をひそめてささやく者すらあった。
 それやこれやで、天下の物情恟々(きようきよう)たる折から、徳山藩の重役たる富山の邸には、常に二、三の腹心が集って、政治向の内談を怠たらなかった。もとより同志の者の会合は、必ずしも富山の邸に限るのではない、尊王の正義派と佐幕の俗論派となく、寄り寄り志す方に三人五人と集会して、(ひじ)を張り目を(いか)らして、たがいに一藩の方向を定めようと密議に密議をこらしているのであった。
「おぬし、江戸の音信(たより)をお聞きやったか」と、主人の富山は、二人の客の顔を見まわした。
「いや、まだ聞き申さぬが、なにごとがござりましたかな」と、こもごも膝を進める。
「未曾有の大風雨(おおあらし)があって、江戸屋敷も大破いたした趣じゃ。しかし(かみ)には御恙(おんつつが)もいらせられぬという飛脚でござる。京地(かみがた)の雷雨の噂が、やっと知れたと思うと、また江戸でござる」
「それはいつでござりましたか」
「八月二十七日、異様な光物が、西より東に飛ぶかと思うと、たちまち大風となって、品川の海は大海嘯(つなみ)、江戸中の家々は、恐ろしい悪魔の足で、蹴散かされるように壊れて、死傷合せて十万人とござる。去年の地震にも増した大風雨と申すことじゃ」
「それというも、是非もわきまえずに、攘夷などと騒ぎまわる(やから)がござるで、天の罰でもござろうか」と、一人の客は仔細らしく言ってのけた。主人が佐幕党なので、その意を迎えるためである。
「よもや。……しかし天下大乱の前表でござらねばよいが。……当地においても、近ごろ攘夷の暴論をとなえる者が日一日と多うなった。攘夷ということの是非も知らず、ただ人意を迎えるために騒ぐのは苦々しい。すでに児玉半九郎などは、尊王の発頭人になって、若侍を煽り立ておるが、今度はまた暴論を陳べて、怪しからぬ意見書を差し出したということでござるぞ。その中には身どもたちのことを、さまざまに悪口いたし、不忠不義の奸賊と申しおるそうな、奇怪至極ではござらぬか」と、富山は忌々しそうに眉をひそめた。
「自体児玉は、このごろ興譲館の目付を承わって、学校方を勤めおる身で、お政治向きに口入(くにゆう)するとは重々不届でござる。これを(しお)に、蟄居閉門いたさせてしまえぽ、邪魔を払うてよろしうござろう」
「そうも考え申したが、児玉をさよういたす時は、かえって若侍どもが騒ぎ立て、よろしゅうござるまい。そこで拙者の考えには、評定所へ児玉を呼び出して、意見書のことを糺し申せば、必ず慷慨悲憤の気を洩すに相違ないによって、その時狂人と申し()して、親類に預け申したら、きやつ必ず自殺いたそうも知れぬ。さようなことも一時邪魔者を片づけ申す手段(てだて)ではござるまいか」と、富山はこうして半九郎を押し籠めようとする毒計を画いた。
「さすがは一段と名案でござる。半九郎さえなくば、勤王党も火の手が鎮まり申すでござる」
「そうすれば、後はこちらの天下じゃて、御本家の重役方も安心なされよう」と、佐幕党の帷幕(いばく)謀計(はかりごと)は、剛直火のごとき半九郎を葬むるべく、密謀を(めぐ)らしたのである。



最終更新日 2005年09月10日 12時16分09秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「五 意見書を提出して累その身に臻る」

五 意見書を提出して(るい)その身に(いた)
 国を憂うること家を思うがごとぎ半九郎は、このごろの天下の形勢が、日一日と(ちぢ)まるように覚え、寝ても覚めても、胸を塞ぐばかりに悶え苦しんだ。
 自分は今興譲館の目付である。政治向きには縁の遠い勤めではあるが、役柄がそれでないからと言って、国家の大事をよそに見ることは出来ない。藩の執政が因循姑息(いんじゆんこそく)に流れ、ただ一時の安きを(ぬす)もうとして、大義名分を考えぬのは奇怪千万であると思うので、当路に上表して、自分の意見を開陳したのであったが、なんの反響もない。二度も三度も、重ねて同じ意見を上申した結果、ついに評定所から召喚(よびだし)になった。
 半九郎はじつに死を決したのである。今日の召喚(よびだし)の吉か凶かは知らねど、所詮は五尺の男児義に死するの(とき)なりと、けなげに思い定めたので、心の中に妻女お元や、お久、お信の二人の娘、ことに最愛の一子百合若に、よそながら別れを惜んで、横本町の家を出た。
 妻子は影の薄いような半九郎の後姿を、見えずなるまで見送ったが、思わず顔を見合して、寂しそうにうつむいた。
「お父様はこのごろご機嫌がお悪いかして、お顔の色が勝れませぬ」と、姉娘は心配気に(ふさ)ぐ。
「いろいろお役柄のことでご心配遊ばすからです。そうしてこのごろは常住お(つむり)が病めるとおっしゃるから、坊やも大人しくして、お世話焼かせるじゃありません」と、母は膝の百合若の肩に手を置いた。
「坊は大人(おとな)だ」と、百合若は身体をゆりうごかしている。
「大人なら、もっと行儀をよくしておいで」と、妹娘は百合若を母の膝から引ぎ取ろうとしたが、容易に放れない。
「お母さま、それではご用が出来ません」と小児に()けて、三人とも奥座敷へ戻って来た。
「今日のお召喚は、もし悪いことではございますまいか」と、姉のお久は気が()めてならない。
「さあ、よもやとは思うけれども、このあいだじゅうお父様が何やら大切なお書物(かきもの)を、切々(せつせつ)となすっていらしった。あれをお上へお差出しになったご様子だから、そのためのお召喚ではあるまいかと思います」
「なんでも御上のお重役は、お父様や島田先生を目の上の瘤のように思っていなさるというお話ですから」と、姉の目にはもう美しい(うるみ)がある。
「これ、滅多なことをお言いでない。それでなくとも、お父様たちの落度を見つけようと、鵜の目鷹の目がついて回っていますもの」と、母の眼は異様に輝いた。
「マアおそろしい」と、二人の娘は身をふるわした。
 半九郎は二時(やつどき)過てもまだ戻って来ない。もしや凶事ではあるまいかと、母子ぱワクワク心配になって、島田先生の所へ相談に行ったが、あいにく先生も不在(るす)であった、妻女お元は途方に暮れて、寂しい胸を抱いて、トボトボわが家へ帰って来ると、二人の娘は心配に目を(はら)している、召使も勝手の方で、考え考え針を運ばしていた。
 もうかれこれ二時半も過ぎて、秋の末の寂しい風が、落ちかかる日差をなぐれて、サワサワと吹いて来るのが、心の底までしみ渡って、厭な気持になって来る。
 やがてのことに、門前にドヤドヤと人の足音が聞えると、百合若は「お帰りい」と、甲走(かんばし)った可愛い声で、チョコチョコと玄関の方へ駆け出した。母も娘も、ほっと胸撫で下して出迎えに出る。
 半九郎は悄然(しようぜん)として帰って来た、顔色は蒼褪め、目は血走っている。そして半九郎に付き添って、遠縁の親類が、二人まで連れ立って来たのである。
 妻女は「お帰り遊ばせ」と挨拶すると同時に、何事かが降って湧いたに違いないという感じが、ひしと胸にこたえた。
「ご新造、内密じゃが、半九郎殿はちと逆上の気味でござる、すでに上役所で、無法な暴論をいたされたが、逆上と見て、寛大なご処置をもって拙者どもへお預け下されたのじゃ。いっさい閉門同様外へ出すことはまかりならぬ、ならば座敷牢に入れ置くようにと、重役方のお申付けでござるから、万一違背いたさるるにおいては、親類までも難儀とござる、よくご承知おかれい」と、付添いの縁者は、恐ろしい猛獣を首尾よく護送したように、ほっと息をついた。彼らは身に降りかかる余沫(とばしり)を恐れるのである。
 半九郎は書斎へ入ったまま、黙って考え込んだ。石仏のように固くなったまま動かない。
貴君(あなた)、ご気分がお悪ければ、横におなり遊ばせよ」と、元女は送って来た親類を帰してから、良人(おつと)の側へ寄って、しげしげとその顔を見て涙ぐんだ。
「皆戻りおったか」
「ハイ、お帰り遊ばしました」
愚者(ばかもの)どもが」と、噛んで吐き出すように言って、半九郎は寂しく笑った。
「もういかん、不忠不義俗論に固まりおった重役どもをしりぞけねば、この徳山藩は滅亡じゃ」と、あてもなく凄い目で天井を睨まえた。
「貴君、マアそう一図にに思召さないで、ご酒でも一献召し上れ」
「ウンニャ、一滴の酒も、鉛の熱湯を呑むようじゃわい」
「それではちとお休息(やすみ)遊ばせ」
「この大切な時に、眠ってなどおれんわい」と、はたして半九郎は非常に激昂している。これがやがて富山らのために、マンマと発狂に言い做されたのであろう。
 半九郎は役所で激論したことを思うと、無念骨髄に徹して、唇を噛み、眼をいからして、一夜まんじりともせなんだ。最愛の百合若が膝へ寄るのも、見向きもせぬのである。



最終更新日 2005年09月11日 02時15分17秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「六 浅見氏を養うて一家の断絶を免る」

六 浅見氏を養うて一家の断絶を免る
 秋老い野は黄ばんで、黄金の浪は眼もはるかに漂うけれども、寂しさは人の袂に余って、ハラハラ散る木の葉が野分に掠められつつ、行方も知らず舞って行く。
 赤々とした強い日が、濃い影を大地に彫りつけると、日の熱さと風の冷やかさとが、べつべつに感じられて、衣服(きもの)の軽さを覚ゆるほど、心寂しくなって来る。
 半九郎は座敷牢同然の室のうちに、世を怒り、時を慨して、(はらわた)も千切れ、()も痩せるように悶えたが、ついに重き病を惹き起こした。憂愁積って()を傷めたのであろう、燃ゆるばかりの怒りは、知死期(ちしご)の苦しみを増し、()ゆるように(うめ)いたが、ついに十月の十九日というに、妻女の厚き看護(みとり)のかいもなく「残念じゃ」と、ただ一語を()(くだ)くように吐いたまま、四十六歳を 期として悶死してしまった。天も悲しみ、地も泣いて、この夜の月半輪、熟銅(じゆくどう)のように赤く、空は煙のような靄に包まれていた。
 しかし半九郎の死んだことは、富山一味の思う壷で、手を下しこそせぬけれども、やがて彼らが刃を擬し、毒を飼ったと同じである。勝気の妻女は口惜しさに声を()んで泣いた。自分たちが家長に別れて、喪家の(いぬ)のごとくになるのも、みな富山のためであると思うと、その肉を(くら)わんとまでに腹が立つのである。
 力と(たの)む忰はわずかに五歳、そのほかは女であるから、何の役にも立たない、元女は一時途方に暮れて、共に死なんとまでに思い詰めたのである。そして親類さえも、後難でも降りかかるかのように恐れて、なるたけ近寄らないようにしているほど、人情の氷のように冷やかなのが、かかる時にありありと知られる。
 しかし日頃兄弟のようにした島田蕃根(いわね)先生だの、興譲館の剣道指南浅見栄三郎など、権威に屈せぬ人々の世話で、からくも野辺の送りをすましたが、児玉家にとって、さしあたっての当惑は、藩の掟として、元服前の幼年者には家督相続を許さぬことである。これは今にわかに設けた法令ではなく、藩祖以来動かすべからざる定めであるから、せっかく血統の百合若という者があっても、すぐに相続させることは出来ない。児玉家にとっては、嘆きの上の当惑である、新しい未亡人の元女は、はたと胸を塞がれて、飲食も咽喉へ通らぬばかりである。誰に相談しようにも、親類が力になってくれぬので、児玉家はここに断絶せねばならぬ悲運とはなった。
 児玉家の行末を、元女同様に心配したのは蕃根先生であった。亡友のためになんとかして家名を立て、祀りを絶やさしたくないと思うので、ひそかに心を傷めていたが、今日も少しの暇を見て、庭口から訪ねて来た。草も木も在りし姿に変らねど、眺める人がないと思うと、蕃根先生は引き入れられるような厭な心持になる。
「だんだんと寂しゅうござろうの。……しかしあまり愁傷して、病わぬように、気をのんびりとするがえい」と、出迎えた未亡人を見て、蕃根先生は傷わし気に言いつつ、縁に腰打ちかけた。
「毎々ご親切にありがとう存じます、半九郎も定めし草葉の陰で喜んでおりましょう」
と、姉娘のお久が酌んで来た渋茶をすすめる。
「時に当家の跡目のことじゃが、いろいろと拙者も考えたが、他より養子を迎えて、一時相続させるより外はござらぬじゃ。それについて浅見栄三郎じゃな」と、蕃根先生はドッカリ落付いて例の火の用心を取り出した。
「浅見様」と、尢女も思い当るように、晴やかににっこりした。
「あれはご承知のとおり、興譲館で一刀流の師範をいたしおる。まず剛毅一徹の男じゃて。また半九郎殿とは無二の親友でもあるから、拙者の考えでは、浅見の次男坊巌之丞を貰って、久姐(ひささん)の婿にしたらどうかと思う。巌之丞は拙者のところへ、漢籍を稽古に通って来るが、なかなか見所のある人物じゃ、齢もたしか十五、しかし大人も及ばぬ格腹(かくぶく)じゃ、久姐(ひささん)と同齢で、好い似合いの夫婦だと思うが」
「どうもご親切に、ようおっしゃって下さいました。実は私もあの巌之丞様ならばと、とうに存じてはいましたが、何を申すも、これという財産(もの)もありませんし、小姑の二人ある家へ、私から参ってくれるようにとは、よう申されませんで」
「何の、遠慮は無沙汰じゃ、何がなくとも、立派な家柄の児玉家じゃ、喜んで参ろうと思うが、しかし肝腎の久姐がどうあろうかの」と、ふと頭を上げると、足音を(ぬす)んで廊下を通る、久女の後姿が見えた。ハハア、もう聞いたなと蕃根先生は心にうなずく。
「いえ、男前なら、稽古事なら、何一つ批点のない巌之丞様、お久に何の否やがございましょう」
「それならば結構じゃ。一時そうしておいて、百合坊が成人いたしたら、またその時の相談もあるというものじゃから」
 二人はあつめた額を離して、嬉しそうに笑った。お久は菓子鉢を捧げて来たが、なぜか耳まで真赤にしていた。二人の(はなし)を確かに洩れ聞いたのである。初々しい優しさが、美しい顔に溢れて、涼しい眼元には、いい知れぬ愛嬌をたたえている。



最終更新日 2005年09月11日 17時50分59秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「七 二青年相謀りて富山を刺さんとす」

七 二青年相謀りて富山を刺さんとす
 母の望み、娘の願いの(えにし)の糸は、島田先生の媒介(なこうど)によって結ばれたが、喪中ではあるし、ただ約束ということに止めて、翌々年の嘉永五年、二人とも十七の春を迎えたので、めでたく婚礼の式を挙げた。この時百合若も早七歳、世の常の子供とは違って、発明な(たち)であるから、四書の素読を島田先生の所へ習いに行っていた。
 巌之丞が来てからというものは、児玉の家は在りし昔にかえって、賑々(にぎにぎ)しく晴やかな家庭となった。笑いさざめく声が、常に春のように和らいで、希望の光が漂うていた。
 ことに巌之丞は齢に似合ず、分別のある青年で、学問なり武芸なり、同藩中肩を並べる者すらないと言われた。そして身の丈は抜群で、凜々しい(りり)立ちであるから、外見(よそみ)には二十三、四とも見えるほどであった。
 しかし暗雲四方(よも)にみなぎり、殺気天を蔽える今日このごろは、睦まじき若夫婦を、長く同棲することを許さなかった。
 安政の大疑獄に引き続いて、水戸烈公の幽閉となり、勤王攘夷の正義の士は、幕府の迫害を受けて、刑場の草を紅に染めた。続いては水戸の浪士が天下の大老を桜田門外の雪の曙に斬った万延の変となり、文久二年には、安藤閣老が坂下門で襲撃された。圧迫に対する反抗心は、燎原の火のごとぐに盛んになって来る。()かれた水は溢れずにはいない。
 巌之丞はこの時藩公から御前衛に選抜されて、京都へ出張したが、やがて周旋方となって国事に奔走することとなり、巌之丞の名はにわかに脱藩の浪士の間に聞こえて来た。そして自分自身が、浪士と同じ主義であるから、藩の周旋方でありながら、事実は浪士の徒党であった。
 今にも京都は修羅の巷となろうとして、勤王、佐幕両党の暗殺ぱしきりに行われる、所司代や奉行がいても、権威は地に()ちて、政令は全く行われない。
 巌之丞はもはや言論で理非を分くべき時ではないと思った。君国のためには、()むを得ず暗殺も行わねばならぬ。非常の時には非常の手段が必要であると信じたので、宗藩の国老永井雅楽(うた)を暗殺すべく、久阪義助、品川弥二郎、福原乙之丞などと深く結托した。それは永井が口に公武合体を唱えながら、ややもすると正義派の行動を妨げ、しばしば裏をかくからで、巌之丞は永井暗殺を一身に引き受けた。
 永井を斬って己れも自殺する、一身を犠牲に供して、国家のために(たお)れようと覚悟したので、風蕭々(しようしよう)として易水寒く、壮士一度去って(また)還らずと、決死の別れを同志に告げて、ひそかに永井をつけ(ねら)ったけれども、それを決行する暇もなく、永井は国許に蟄居を命ぜられたので、あたら斬奸の剣を(はこ)に収めて、流呈光底長蛇を逸するの(うらみ)を残した。
 巌之丞はじつに亡養父半九郎の遺志を継いで、正義のために身を殺して悔なき者であったが、事を挙げるに及ばずして、徳山に帰り、自分の陰謀を素知らぬふりで、藩の大目付を承わった。
 二十一歳の若者が、大目付の大役を命ぜられたのは空前のことで、家門の光栄はこれに極まっている。
 妻のお久も、母の元女も、今年十一になる百合若も、嬉し涙に暮れるほどに喜んだが、しかし藩主はかかる大役をいいつけるほどに信頼されても、同僚なる俗論党の人々は、巌之丞の年の若いのを侮り、君公の覚え(めで)たきを(そね)んで、言うことは一つとして取り上げられなかったので、血気の巌之丞は無念の歯を咬み、地踏鞴(じたたら)踏んで口惜しがったのである。
 まして時の執政は、さきに養父を憤死せしめた富山源二郎であった、それで(かたく)ななる佐幕主義を固守しているから、巌之丞はジリジリするばかりに残念でならない。
 もうこの時には、京都蛤門の変からして、長藩は朝敵の汚名を受けている。それで当の敵は会藩とは言え、じつは徳川幕府である。公憤は元より、私の怨からしても、遺恨骨髄に徹しているはずを、富山の卑屈者は、まだ佐幕を口癖に言っている。巌之丞は彼の顔を見ると、唾を吐きかけたいばかりであった。
 秋は深く、露繁き児玉家の庭に、萩のうねりは月影を(こぼ)さずして、虫の音に優しき宿を貸している。
 慷慨悲憤の(まなじり)を決する巌之丞も、庭面(にわも)に余る秋の哀れが身に沁みると、何となく心が和らいで、引き入れられるような沈んだ気が、殺伐の心の浪をようやく(なだら)かにするので、思わずうっとりとして飽かず虫の音に耳を貸していた。
「児玉氏」と、突然藩籬(いけがき)の外に声がした。木にも草にも心()く身は、わざと灯火を隠すようにして、巌之丞は外を透しみた。
「オゥ、河田氏か」と、巌之丞は喜ばしげに立って迎えた。
「さしつかえはあるまいか」と、河田はこっそりと入って来た。そして立ちながら巌之丞を仰ぎ見た眼には、心なしか凄い光が閃めく。
「誰も聞く人はないが、何の用事かな」と、離室(はなれ)の書斎に向い合った。妻のお久は茶をすすめたまま、心利かして退って行く。
「児玉氏、拙者はもはや決心致した。言論でいかように説こうとも、それは迂遠で、俗論党の頑固(かたくな)な耳には入り申さぬわ」と、河田は拳を握って激昂している。
「それで」と、巌之丞は不安を感ずるとともに、心が引き立てられるように勇ましくなった。
「拙者は俗論党の巨魁を、一刀両断に斬って捨てようと思うのじゃ」と、さすがに声を潜めて四辺(あたり)を見回しながらも、勢い込んで右手の拳に空を斬った。
「巨魁……富山源二郎でござるか」と、巌之丞はギクリとした。怨み重なる奸賊を、自分が先へ手を下そうと思っていたところであったから、どうやら先手を越されたような気がする。
「富山は御身の親類ではござらぬか」
「さよう、近い縁戚(みより)ではあるが、大義には親を滅すではござらぬか」
天晴(あつばれ)ご覚悟でごさる」と、巌之丞は敬服した。河田は名を佳造と呼んで、正義派中の急進党、熱烈火のごとき男である。
「聞くところによると、富山は我々正義派を一網にいたして、政道を自分勝手に致そうという計略で、寄り寄り手段も熟したとござる。
 彼奴(きやつ)の毒手に(かか)ろうより、先に発して彼奴(きやつ)の首を血祭にいたそう。御身も父上以来倶不戴天の仇でござろう」
「元より国家の賊は富山でござるは」と、巌之丞は昂然として言った。
「しかしかかることは、なまじ多勢ではよろしくない、御身と二人で踏ん込んで、有無を言わせず(しるし)を挙げるでござろう。元兇さえ(たお)せば、首なき(むくろ)じゃ、俗論の奴輩(やつばら)蟄塞(ちつそく)いたすは知れてござる。……拙者は親類の間柄じゃによって、彼奴も心置きなく逢い申そう、そのときただ一気に刺し殺そうと存ずるが、もし仕損ぜぬとも限らぬで、御身は物の陰に潜んで、様子悪しと見ば、すぐに飛び込んで参られい」
「よろしい、二人力をあわせたりや、敵にいかなる用心があろうとも、よも仕損じはいたすまい」と、巌之丞は()ぎ冷しの茶をグッと飲んで、しきりに膝を進ませた。
「しからば明日夕刻に、用談にかこつけて、決行いたそう」と、河田は莞爾とうなずく。
「近頃快いことでござるわい。腕が呻るような心地がいたすぞ」
「しかし御内方にも内密にな」
「もちろんのこと、男子たる者が、婦女子に大事を明すべきではない。……さらば幸先
を祝うて、一盃献じ申そう」
 巌之丞は妻のお久を招んで、河田に酒をすすめた。
 明日に迫る大事の義挙、成否にかかわらず、一命を懸けねばならぬのである。自分のために養家の家名を断絶せしむる場合がないとも限らぬが、国のためには替えられじと、巌之丞はじっとお久の顔を見た、まだ丸髷の裏(はず)かしい新妻は、これを名残りとも知らで、いそいそと酌をする。その姿を見ると、さすが決死の丈夫(ますらお)も、いじらしくなって、思わず(はらわた)の底に熱涙が湯のように溢れて来る。
 お久は明日に迫る良人の大事とも知らず、銚子の代りにと座敷を立って、廊下伝いに母屋へ来ようとすると、突然萩の植込みがガサガサと動いて、黒き影がヌッと顕われた。
「マア、びっくりしました。百合様、何をしていますの」と立ち淀む。
「虫を見つけていたのです」と、言下に百合若は答えたが、その眼に落ちつかぬ輝きがあった。
 百合若は先刻から離室(はなれ)周囲(まわり)にいたのであった。たしかに姉のお久より以上に、中の様子を知っていたに違いないが、子供ながらも剛毅(しつかり)した気性であるから、いかなる大事に望むも、驚き慌てるのではなかった。



最終更新日 2005年09月12日 00時10分25秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「八 富山源二郎わずかに身をもって免かる」

八 富山源二郎わずかに身をもって免かる
 徳山藩の執政として、威権飛ぶ(とり)(おと)す富山源二郎は、正義派の憎むがごとき奸賊ではなかった。公武合体を唱うる宗藩の国老永井雅楽(うた)と連絡して、無謀な勤王論をしりぞけ開国の国是を立てようとしたことが、時の士気に合わなかったので、彼は外国と戦端をひらいて、もし敗軍に及び、城下の盟をするようなことがあっては、日本の領土をいかにして保全すべきかと、このことのみ苦労であったのだ。ことに口に勤王を唱え、攘夷を言うものの、敵は本能寺に在りて、幕府に対する感情の背反から、美名を尊攘に()きて、幕府を仆そうという口実に過ぎぬと思ったのである。しかし今は蝸牛角上の争いをする時ではない。外に虎視眈々たる英米二国が、鋭い爪牙(そうか)を磨いているのであるから、内に一致協同して、外侮を防ぎたいという意見であった。
 彼は傲岸な男で、この意見の前には、何者をも許さない、いかなる手段をもっても、反対党を圧服し自分の主義を貫徹せしめようと思った。富山から見ると、河田や児玉ごとき正義派は、常識のない、単純な考えのみ把持する者で、取るに足らぬ豎子(じゆし)のように思いなしたであろう。おそらく正義派の全部が、低級の頭脳を持つ烏合の衆のように思われてならなかった。
 富山は時の執政として、内外の政道大小となく、自分で必ず眼を通し、人任せなどにすることがないから、役所の退下も遅れて、暮六刻(くれむつどき)というに、ようやく自宅へ帰って来た。
 小豆島花崗(みかげ)の春日燈籠は、今火袋へ火を入れたばかりで、白い木芙蓉(ふよう)の花が(ほんの)りと照し出されている。
 鞍馬の沓脱に続く飛石の側には、梛木(なぎ)の植込みがあって、その葉隠れに釣した虫籠から、鈴虫が髯を(ふる)うて、玉を転ばすような声で、心の限りに啼き始めた。
 ザッと(ゆあ)みしてうちくつろいだ富山は、蒲莚(かばござ)敷かせた縁に端居(はしい)して、侍女に軽く煽がせている所へ、
「河田様が一大事のご用がおあり遊ばしますそうで、ご入来(じゆらい)遊ばされました」と、今一人の侍女が取り次いで来た。
「河田。……あの佳造殿か」と、富山は眉を曇らした。
「よろしい、ここでお目にかかろう」
 元より親類のことではあるし、年配からしてもはるかに後輩であるから、さのみ礼も正さず、そのままうちくつろいだ座敷へ請じ入れた。
「オゥ、佳造殿、ようござった」と、常々主義は違うけれども、富山は河田などを眼中に置いていない。まだ子供のように思っているのである。
「日頃はご無沙汰のみつかまつりましたが、本日は政道のことにつきまして、ご意見を承わりたく、突然推参つかまつりましてござる」と、(ひじ)を張り、肩を聳やかし、息遣いさえすこぶる荒い。それをじっと見ていた富山は、はたして河田が議論に来たのであろうと、嘲笑うようにジロリと一瞥して、その眼を庭前に投げた。その態度が傲慢無礼なので、血気の河田は総身の肉が躍るばかりに顫える。
「なんぞお気づきのことどもがござるかな。……しかしここは私宅でごさるじゃて、役向のことなら、詰所で聞き申そう」
「いや、役向ではござらぬが、昨今尊公のお政道向き、一円合点が参らんによって、拙者親類の(よしみ)をもって、一応ご意見に参り申してござる」と、河田はいつしか座蒲団から前へとすべり出した。驚破(すわ)という時討損ねまじき用意である。
「ハテ、身どもに忠告とござるか」
「左様でござる。此中(このじゆう)お政道向一向因循姑息で、ただ一日一日と繕い仕事をいたすも同然でござる。すでに去年京都において、当方ご本家は朝敵の汚名を受けて、忠義の魂を汚し申したは、遺恨骨髄ではござるまいか、当方に(むじつ)の名を着せましたは、奸悪無双の幕府において、当方を憎んでのことでごさろう。承われば朝敵征伐と申しなして、当方へ指して討手を差向ける仕度最中とござりますじゃ。かように幕府から()(にじ)られるような扱いを受けても、尊公は幕府の旨を受けて開国いたし、洋夷どもの蹂躪(じゆうりん)に任せようとお考えござるか。尊公は獅子身中の虫も同然、君国を売る奸賊でござるぞ」
 河田は心激して、口どもるばかりに焦立って来る。
「公けにおいては、太夫でござれど、拙者親類の端に繋がれば、一族の名義にもかかわることでござる、きっとご忠告申す。速やかに俗論をお脱しあって、正義のため忠節を尽されたい。いかがでござるか」と、河田の(ただむき)は鳴って声あらんばかりにいきまく。
「ハハァ、何かと思えば、左様のこ念なら、まずおかれい」と、富山は鼻の先で笑った。
「何とござる」と、河田の(まなじり)は裂けんばかりに上釣(うわず)った。
立売御門(いたちこもん)の騒動は、畢竟(ひつきよう)御身たちごとき血気の若侍が、上のこ趣意もはばからず、自儘に暴動いたしたによって、(みぐる)しい敗北をなし、そのうえ君公に朝敵の悪名を着せ申したのじゃ。不忠不義とは御身たちのような攘夷鎖国を振り回す人々のことではござるまいか。それもよし幕府を敵に取って、見事勝つ見込みがあればじゃが、天下の兵を引き受けて、防戦かなわぬ時は社稷(しやしよく)はたちまち亡びるじゃ、みすみす見え透いたことにもかまわず、ただ強がり自慢は、身ども政道にかかわる身では承服いたされぬ。今日のところでは、ひたすら恭順して、臨機の処置を執るほかござるまい。御身たちごとき湾泊者(やんちゃもの)の騒動した尻を拭くは、いつも身どもらじゃ、それも存ぜずに、手緩(てぬる)いように思うは、御身たちの了簡が若いからじゃ、ちっとたしなみ召されい」と、富山はジロリと上目で河田を睨めながら、片手に銀の長烟管(ながぎせる)を伸して、火入の火を掻ぎ捜っている。
「左様ござればこそ、俗論党と申すでござる。今日のような乱脈な世の中は、すべて一刀両断に裁かねばなりませぬ。朝敵とまでに悪名つけられ、面目を踏潰されても、まだ恭順とか、謹慎とかいうは、腰抜け武士の言うことでござるぞ。戦わぬ先から、負けることが見えては、一寸も動かれるものではござらぬ。勝つも負けるも、覚悟一つでござるわい」
暴虎憑河(ぽうこひようが)して死すとはそれじゃ、貴公らは狂犬(やまいぬ)同然、理も非もなく、太刀を抜こうと言うのじゃな」
「何ッ」と、河田はきっと身構えした。全身の血は一時に逆流して、脈管はみるみる緊張した。そして左手(ゆんで)に引寄せた刀は、拇指の先にブツリと鯉口を切る一瞬間忽然として耳を(つんざ)く叫び声は裏の方から起った。
狼藉者(ろうぜきもの)ッ」
 鎖魂(けたたま)しい響きが、ひっそりした邸に(こだま)を返して聞こえると、バタバタとあわただしい足音がして、富山の家来は庭口から駆け込んで来た。
「何じゃ」と、富山は油断なく河田に心を配りながら乗り出した。不意の出来事に機先を挫かれて、河田も思わず躊躇(ためら)った。
「裏の納屋に怪しき曲者(くせもの)がおりましたを、下男が見出しましたで、召し捕うといたしますると、案外飛出して打ってかかりました」
「ウム」と、富山は目を(みは)ったが、河田はハッと胸を轟ろかして片唾(かたず)を呑む。
「取り逃したか。……棄て置け」と、富山は鷹揚の大腹中を示す。
 河田はもしもその曲者が、巌之丞ではあるまいかと、胸を轟かしつつも、黙って家来の顔に射るがごとき視線を配った。
「三人で取り囲みましたが、つい取り逃しましたでござりまする。しかし曲者の面体は見届けましてござる」
 河田の胸は一時に鼓動を止めて、ヒヤリと怪しい感じに打たれた。
「児玉巌之丞様にござりました」
 さすがの富山も、ぎょっとしたらしいが、わざと平気を(よそお)って、
「大事ない。身どもを(ねら)いに参ったのじゃろう。覚悟いたしおるわい」と、ニヤリと物凄き笑いを河田の顔に投げた。
「命が怖ろしゅうて、持説が改められるか」
と、聞けがしに投げるように言った。
「太夫、拙者の苦心もお聞き入れになりませぬか」
「オゥ是非がない。国家は御身たちのような若者の力は借りぬわい」
「もう一度、お考えになっては」
「くどいわい」と、長烟管(ながぎせる)を投げ出した。
「何を」と河田は膝を立てると同時に、ヒラリと一刀を抜き放した居合いの奥技は、目にもたまらぬ早さである。躍りかかって斬りつける電光一閃、アワヤ富山は袈裟懸(けさがけ)に斬り(たお)されたと見えたが、かなたも心に油断がない、たちまち後様に飛び退いたが、身を翻えして燕返しに、姿はたちまち奥へと消えた。
 無念、遺恨の切先は、わずかに(くるぶし)を削ったばかりであった。河田は餌に飢えた獅子の、乳羊を駆るがごとく、悪鬼の形相すさまじく、「うぬ、卑怯なッ」と、勝手知ったる奥へと追いすがると、嬉しや富山の後姿は、わずかに三、四歩の先にある。
「うぬッ」と鋭く叫ぶとともに、振りかぶって大上段に斬り下げたが、無残、発矢(はつし)承塵(なげし)へ斬り込んで、力余った刃は深く柾目に食い入ったので、慌ててはずそうとする暇に、敵はたちまち勝手の方へと逸してしまった。
「狼藉じゃ、出合え出合え」と、家中はにわかに(かなえ)の湧くような騒ぎ、シドロモドロに踏み鳴らす足音、慌てて仆るる響き、皿小鉢の破るる音など、騒然として阿鼻叫喚の修羅場を現した。
 河田はなおもと奥深く踏み込んだが、富山は早くも姿を隠したので、あたら千仞の功を一()に欠いて、空しく彼蒼(ひそう)を睨んで突っ立つばかりであった。五臓六腑は裂け破れ、ビリビリに引き千切られるように覚えて、無念の膏汗(あぶらあせ)は、額際から流れて来る。



最終更新日 2005年09月12日 21時49分13秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「九 親類寄合に托して巌之丞を暗殺す」1

九 親類寄合に托して巌之丞を暗殺す
「兄上、太夫を仕留めましたか」
 突然物影から駆け出して来た百合若は、今帰って来た義兄巌之丞にすり寄って、蒼ざめた義兄の顔を見上げながら、小さな声で尋ねた。
「ヤッ」と、巌之丞は胸先をえぐられたような心地がする。
「百合さん、どうして知っている」と、棒のように突っ立って、シゲシゲと百合若の怜悧な(おもて)瞰下(みおろ)した。まだ十二の子供が、いかにして胸中の秘密を見破ったかと、そぞろに空恐ろしくなる。
「昨日河田様のいらしった時、植込みで聞いていました」と、百合若は毅然として答えた。はたして虫を取るふりをして、姉を欺いた時には、一大事を胸の奥に畳んでいたのであった。
「左様か、面目ないが仕損じたわい。河田も一時ほかへ落ちたぱずじゃ」
「兄上は」と、百合若は今にも捕吏が来ぱしまいかと、義兄の身の上が追いかけられているように心許ない。
「オウ、今にも役所から沙汰があろう。残念じゃがいたし方はない。乃公(わし)は逃げ隠れはせぬつもりじゃ。百合さんも父上の子じゃから、乃公(わし)の身に何事があろうとも、俗論党の腰抜け武士になってはならんよ。父上にも乃公(わし)にも、俗論党の奴輩は七生までの敵じゃ」
と、無念を(こら)えて、自分の居間へと入った。百合若はまた後からついて来る。
「兄上、お姉様は知ってござるか」
「いや、お久も母上も、全くお知りやらぬ。……少しの間も心配かけまいと思うのじゃ」
「それなら今の間に、どこへか身を隠して下さい。そして時節をまって下さい」
 十二歳の少年には珍しい百合若の分別に、巌之丞は嬉しさが溢れるばかり、じっとその顔を見る眼に、情熱の涙が溢れる。
「百合さん、(かたじけ)ないが、いまさら逃げ隠れて、なまじ中途で捕まれば恥の上塗りじゃ」
「それでもお母様やお姉様に、兄上の浅ましい縄目をお見せ申すのは、なおさら(つら)いではございませんか」
 剛気の巌之丞は、憮然として百合若の手を握りしめた。忠義に凝った(くろがね)のごとき(はらわた)も九回する思いである。
「しかし安心しなさるがよい、児玉の家まで連坐(まきそえ)させることはせぬから。……乃公(わし)の代りに母上に孝養して下されい」
 巌之丞は横を向いて、拳を上げて涙を払った。無心の虫は喞々(そくそく)として昨日のごとく、萩の葉末にすだくのが、腹の底へ沁み渡る。
「巌之丞お帰りか。今浅見殿から急のお使で、親類一統寄合を申し付かったと言うてな」
 母は巌之丞の血走る(まなじり)を見て、心にそれと察したけれども、噫気(おくび)にも口へは出さなかった。
「承知つかまつりました。ただいますぐと参会いたしまする」
 百合若は不安そうに義兄の顔を見たが、これも口を(つぐ)んで何とも言わない。
「城下は一方ならぬ騒ぎのようですから、途中よく気をつけてな。卑怯者が何をするか解りませぬ」と、母はこれが一期の別れかと思うけれども、気丈な男優(おとこまさり)であるから、にこりと笑って涙さえ見せない。
貴方(あなた)、ご機嫌よろしう、よくお気をつけ遊ばして」と、妻のお久は泣かじとすれど、涙は長い腱毛(まつげ)に露を貫いている。そして生れたばかりの文太郎を抱いて、袖を噛みしめたまま、懐かしき夫の横顔を仰いだ。
「お久ッ」と、巌之丞は思わず呼びかけた。
「ハイ」と、お久の声は怪しく(ふる)える。
「行って来るぞ」と、千万無量の思い、一期の別れの涙をのんで、実家の浅見へと急いだ。
 百合若は子供とは言いながら、ませた性質(たち)であるから、義兄の身の上も心許なければ、またわが家のことも気になって、現在(いま)将来(のち)とのことが、小さき胸を塞いだ。しかし身を捨て、国老を刺そうとする義兄を持ったことを、一方(ひとかた)ならず心の誇として、気が引き立てられるように昂奮するから、今にも捕吏(とりて)が来たらば、一歩も(しきい)を跨がせはせぬと、ひそかに小刀の目釘を(しめ)していた。
 母も無言、姉も無言、児玉の家はしばし口を開く者はなかったが、心の裡に咄嗟の覚悟をしたのは誰も同じであった。
 突然、頼む頼むと、玄関に太く鋭い声が聞こえた。
「巌之丞殿おいやるか」と、役所の手丸提灯を提げた武士は、あたりに目を配って突っ立っている。
「ご不在ならば、ご隠居にお逢い申そう」と、役儀の権を笠に着て、横柄に睨め回していた。
 さてはと母の元女は、はたと胸を打たれた。しかしかくあるべしとは、かねて期したことで、ただ遅い速いが問題に過ぎぬのであるから、元女は悪びれもせず、その場へ出迎えた。
「何ご用でございまするか、私に仰せ下さいまするよう」と、さすがに躍る胸を押し鎮めて静かに手をつかえた。
「巌之丞殿身上について、きっと申渡す次第ござれば、即刻当家へ親類どもを集めて、ご沙汰を待ちまするよう、きっと申渡しますぞ」と肩を聳やかしてにこりともしない。
「ハイ、仰せの趣き、しかと畏まりましてござります」と、母は突いた手をそのまま、面を起して役人の顔を見上げた。さすがに青ざめた顔には、青筋がキリキリと現われて、心の(せわ)しさを見せている。
 巌之丞の実家でも親類寄合、養家でもまた同じ厳命である。そして仰せ渡しは無論遠島か獄舎にきまっている。物に動ぜぬ母も、覚悟していただけに、なおさら胸をつかれて途方に暮れたのである。
「百合若、おまえちょっと浅見へ行って、お兄様を呼んで来ておくれ。今のようなわけだから」と、母は帰り行く役人を見送りながら顧みて、百合若を促した。
「とうとう悪人どもが遣って来ましたね、奸賊を打放し損ねたから、兄上はさぞ残念でしょうね」と、独語(ひとりごと)のようにいう。
「オヤ、おまえご存じか」と、母はいまさらに驚いた。
「知っていますとも、昨日から知っていました。私は男ですもの」と、百合若は力み返って、バタバタと浅見家へ駆けつけた。小さき胸は火のごとく熱し、心は(にゆ)るばかりにいらだつ。



最終更新日 2005年09月13日 00時28分31秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「九 親類寄合に托して巌之丞を暗殺す」2

 浅見家へ来て見ると、親類寄合どころの沙汰ではない、一団の捕吏が邸の周囲(まわり)を取巻いて、蟻の通う隙もない。
 百合若はさてはと、胸を轟かせつつ、つと馳せぬけて、勝手から奥へと通った。見ると明け放された襖越しに、十畳の座敷の真中(ただなか)、百日蟻燭を立てたのが、縁から渡る夜風に、ハタハタと揺いで、明煌々(こうこう)と輝いている。その中央(まんなか)に主人の浅見栄三郎は、唇を一文字に引き緊め、山も(ゆる)がぬように、端然と坐を占めている。その側には土足のままの捕吏が、浅ましき縄打せる惣領の安之丞を引き据えて立ちはだかっていた。義兄はと見ると、鋭い眼光でじっと捕吏の様子を見つめたまま、少し居合腰に身構えている。捕吏はじつに巌之丞の兄なる安之丞を捕縛に来たので、先刻の暴行を(しお)に、正義派一味を一網に打尽する計画に違いないと、百合若は拳を握りつつも、敵の機敏さに怖気をふるった。
「兄上」と、突然入って来た百合若の姿に、一同は思わず視線を小さき身体に射るように集めた。
 小さいながらも、度胸のすわった百合若である。捕吏を尻目にかけて、浅見家の人々に挨拶した。
「用事か」と、巌之丞は百合若を見やった。
「ハイ、ただいまお上より親類寄合をいたしまするようと、お命令(いいつけ)がございましたから、それで母上が私とご一緒にお帰りなさるようにとおっしゃいました」
 自分と一緒にということだけは、百合若の作りごとであった。彼はどこまでも義兄と進退をともにしたいと考えた。義兄の身に万一のことがあれば、自分が楯となって、刀の続くだけは斬りまくろうと、子供ながらも健気な考えを持っているらしい。そしてジロリと捕吏の顔を睨んだ、驚破(すわ)と言わば、躍りかかりかねぬ権幕である。捕吏の頭人は
小癪なと言わぬばかりに百合若を眼下に睨みつけている。
「父上、奸賊どもが一気に正義の士を片づける計略と見えまする」と、巌之丞は捕吏を睨んで唇を咬んだ。
「是非もない。……両刀の手前を恥かしめぬように死なれい」
 父は悲憤の涙を笑いに紛らした。
「兄上、お別れ申します」と、巌之丞は無念骨髄に徹して、アワヤ縄取る捕吏を斬り殺し、兄を奪わんかと思ったが、老いたる父の難儀を思って、わずかに胸を押えるのである。
「いずれおなじ道じゃよ」と、兄は冷かに答えた。おりから(さつ)と吹く風に、()がゆらいだかと見ると、ハラハラと木の葉が縁先にごぼれた。
「秋の夜風は毒じゃ、夜道に気をつけい」と、兄は暗撃ちの危険をそれとなく弟に諷した。言うも聞くも血の涙である。
「早く行け、立派に死ね」と、父は凜然と言い放って、帰り行く巌之丞を目送した。
「兄上、残念でございますな」と、百合若は後を振り返った。暗を照らす捕吏の手丸の光が、ことありげに動いているほかは、あたりは(しん)として、目に見えぬ危険が、四方から迫って来るように思われる。
「今に見よ。俗論党の奴輩(やつばら)、思い知る(とき)が来よう」
 巌之丞は大跨に歩いた。百合若は小走りについて来る。
 いままで彼方の茶畑に鳴いていた轡虫(くつわむし)が、急に音を()れた。何やら黒き影が、黒き中に動くように見える。二人は言い合したようにひしと立ち止まった。
 突然右手(めて)の藪陰から、ドヤドヤと無燈の捕吏が駆け出した。
「御用だ、神妙にいたせ」と、早言の太い鋭い声が、闇の中から吠えつくように響いた。
「何、武士に対して、推参な奴め」と、巌之丞はきっと身構えたまま、射るがごとき眼光(まなざし)を閃めかして、闇の奥まで見破るように気色ばんだ。右手(めて)は早くも柄頭(つかがしら)にかかっている。「巌之丞、逃げも隠れもいたさぬぞ」と、雷のごとぎ声で叱りつけたので、臆病風に誘われた捕吏は、ただ気合を計るばかり、近寄もせず、いつしか影を消してしまった。
「愚かな奴じゃ」と、巌之丞は呟く。
「兄上、あれは捕吏ではございますまい」と、(さか)しき百合若は油断なく気を配っていた。
「何故かい」
公然(おもてむき)の捕吏なら、いかに臆病でも逃げ隠れはいたしますまい。……あれは暗撃ちの刺客でございます」
「ハハア、いずれにしても同じだ」と、巌之丞はあながち気に止めない。
「ご用心なさいませ。卑怯な奸賊でございますから」
 二人は露けき途を、闇に送られながら、わが家へと帰って来た。
「オゥお帰りか」と、母は死んだ者が蘇生(よみがえ)ったような心地がした。妻や妹が右左から取りすがらんばかりに泣いて喜ぶ。
「公用人様が、先刻からお待ちなすっていらっしゃいます」と、妻のお久はソッと夫に告げた。家の者は公用人が来て、帰りを待つほどであるから、ひよっとしたら巌之丞はまだ無事であるかも知れないと、心恃(こころたの)みをしていたのが、はたして帰って来たので、嬉しさにほっと吐息を吐いたのであった。
「オウ児玉氏、今夜(こよい)はちと騒がしいで、御身も気遣いでござろうが、内分でご相談いたしたいことがござる、是非今から詰所へ同道して下さらんか、重役方も待ちかねておられる。決して悪いことではござらぬ」
 公用人は巌之丞を素引(そつぴこ)うとするのである。正義派の危険分子と目差される中に、児玉巌之丞は俗論派から最も恐れられていた。胆力なり、武芸なり、手に立つ者がないから、もしも表向き捕えようとすれば、傷者(ておい)死人の山を築かねぼならぬから、不意に起って討取るほかはないと、百方手段をめぐらしたのである。
「宜しゅうござる。何処(いずく)なりと参り申そう」
 巌之丞は、(おび)き寄せて自分を捕縛するためであろうと推察せぬではないが、重役に逢って、最後の説破を試みようという念があるから、潔よく立ち上った。
 親類寄合のために来合せた牧与左衛門というのは、危ぶみながら袖を引いて、
「親類寄合を命令(いいづけ)ておいて、御身を外へ呼び出すとは、一円合点が参らんそよ」と、小声でささやく。
「いや覚悟がござりまする」と、潔よく胸を敲いた。巌之丞は堅くも死を期している。
 公用人は一足先に玄関の式台を下りた。巌之丞も続いて下りようとする途端植込みの間より躍り出した二人の兇漢は、氷の刃を隠し持って、物をも言わず突然(いきなり)に横合いから斬りつけた。
「卑怯なッ」と、巌之丞は躍り上って抜合せたが、最初の深傷は、肩から背へ、骨を刻むまでに斬り込んだので、噴き出すように流るる血は、ベットリと衣服(きもの)に沁みて、腰を浸すまでに流れた。
「ヤッ、兄上がッ」と、百合若は絶叫して取って返し、小刀を抜き放して玄関へと飛び出したが、この時遅く、先に立った公用人まで振り返って、巌之丞に斬り付けた。
 一刀流の達人として、一藩に聞こえた手練(てなれ)も、不意の一撃に最初の深傷を負ったので、
咄嗟の間に斬り伏せられて、無念と一声、蹣嬲(よろめ)いて前へと(たお)れた。
 じつに電光石火もただならぬ瞬間であった。敵は巌之丞の倒れたのを見て、バラバラと闇に紛れて逃げ出してしまった。あはれ一世の俊髦(しゆんもう)をもって聞こえた巌之丞も、二十二歳を一期として、卑怯な毒刃のために、あえなく武士(もののふ)の花と散ったのである。
「兄上兄上」と、百合若は敵を追い捨て、倒れた死屍(なきがら)の上にしがみついた。親類寄合に呼び立てられた牧与左衛門や、松岡要助の人々は、家人とともに、あえなき死屍(なきがら)を取り囲んで、ほとほと途方に暮れてしまった。
 百合若は泣き入る姉を励まし、血液(ちのり)の漂う玄関先の始末をなし、義兄の死屍に白布を被い、四隅に縄張をして、検視の役人が来た時、取り乱した様子を見せまいとした。
 義兄の横死に憤慨した百合若が、いきまき荒く組頭へ届けに行った時は、夜風はサラサラと渡って露重く、星ばかり惨として光が薄れた。そして千草にすだく虫の声のみ、ひとしおに哀れを増すばかりであった。



最終更新日 2005年09月13日 00時44分25秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一〇 瑞巌の故事を説いて蕃根、健を励ます」

一〇 瑞巌の故事を説いて蕃根、健を励ます
 (ちん)より恐ろしき毒手は、ついに巌之丞の上に加えられた。陰険なる俗論党は、公然と入牢をも申し付け、死罪にも行い得べき、生殺与奪の権を持ちながら、わざとあらわに刑罰を加えないで、密かに刺客をはなって巌之丞を倒した。兇徒は元より召捕らるべくもあらずして、かえって児玉の家は断絶の悲運に、常闇の黒白(あやめ)も分かぬ底へと墜ちた。氷のような冷かな人情は、遺憾なく淪落の人を、悲みより悲みへと押し出して、浮む瀬もない苦悶の浪に浸したのである。
 御馬廻として百石の扶持を賜った家柄は、わずかに一人半扶持の合力を下さるべく、(かみ)の恩恵なるものが、巌之丞の遺子文太郎という当歳の嬰児(みどりこ)に下ったのである。
 無残の刃に親を惨殺し、家邸を没収して、粥を煮るだも足らぬ切米を下されることが、何の恩恵であろう。一家の祀も絶えて、宿なき犬の累々として路頭に迷うことが、上の情けならば、上なる者は鬼よりも夜叉よりも残酷でなければならぬ。
 主人亡き後の児玉一家は、旦夕(たんせき)の貯えもなくて、雨露を凌ぐ草の家も貸されず、一杯の水も思うままに飲むことも出来ない。親子五人の因果同志が、親戚(みより)の家に寄食人(かかりゆうと)となって、肩身狭く泣き暮らし、人の気をのみ(かね)る浅ましさは、肉も(ただ)れ、骨も()えるように、ただ昨日の慕かしく、今日の怨めしさをかこつばかりである。
 坐して食えばの譬えは、わずかに残る家財を売代(うりしろ)なして、その日その日を送るが、それはわが身の肉を削ると同じく、売食の品が尽ればと、近き将来の定まれる運命を思うと、肚胸(とむね)をつかれて、煮えるような膏汗が流れ、息苦しさに幾夜も寝られぬほど、明けても暮れても、この苦しみに悶えた。
 春とは名のみに、まだ七日(ななくさ)過ぎたばかりであるから、寒さは袖袂から沁み徹って、肉を斬り、骨を削るばかりであるが、哀れな児玉の遺族は、綿の入った物さえも着られない、それも大人は悲しいながらも諦めもしよう。明けて十三の百合若、今は名前だけを健と、大人らしく改め、型ばかりの元服をしたものの、遊びたい盛りの子供である、いかに男の子なればとて、折目のついた衣服(きもの)も着たかろう、皆の仲間に入って遊びたかろう、それが襤褸(ぼろ)を下げぬばかりの扮装(みなり)で、初春早々人に後指を指させることが、親の身としては自分の身を寸々(ずたずた)に斬り(さいな)まれるよりも辛い。されど負けぬ気の元女は、こうなっても、人に哀みを乞おうとは思わない。夜の目も寝ずに賃仕事を励みながら、いろいろなことを考えて、身も震えるようにたまらなくなった。そしてひそかに潤む目で、百合若の健を見ると、昨日今日の貧苦に磨かれて、ひとしお物事に心づくようになったので、母や姉の手助けをしようと思うらしく、今寂しい眠りから覚めた文太郎を抱き上げて、黙って門口の方へ出たのは、守りでもして賃仕事の間を欠かせまいとするのであろう、母の元女は下を向いてせぐり来る涙をのんだ。継ぎかえる糸の針の穴ぱ、幾度刺せども横にそれて通らない。
 健は踵の切れた冷飯草履をはいたまま、潤っぽい往来に、薄日を斜めに受けながら、しょんぼりと立っていた。空には、紙鳶(いかのぼり)の呻りが、勇ましく鳴るけれども、健はそれを見ると、あの紙鳶を買うだけの金が余分にあったならば、この児に乳の粉を思うままにやることが出来ようにと、ホロリとして抱いた子をみつめた。生みの母のお久が、不慮の珍事に驚いて乳が上ってから、引き続いての転変と貧窮とに、養いも思うに任せぬか、文太郎は栄養不良がありありと額の皺に読まれていた.
 母や姉は今の扮装(みなり)を恥じて、成るたけ外へ出ぬようにするけれども、健はさすがに子供であるから、人の遊ぶ方へ行ってみたいので、不器用に文太郎を抱いたまま、総鎮守の社の方へと行った。そこには独楽(こま)を廻し、紙鳶を上げたりして、見知り越の家中の子供が、ワヤワヤ騒いでいる。
「オイ、児玉の金柑(きんかん)が来たぞ。見てやれ、浪人になった(ざま)を」と、腕白の年嵩(としかさ)なのが唇を反して(あご)で指さした。
「アア来おった来おった、お正月だと言うに、襤褸(おんほろ)を着ているぞ」と、また一人が相槌を打つ。
 健の耳には、百雷の轟くがごとく、その言葉が腹の底まで響いた。ハッと思うと、悲しいような、口惜しいような、何とも名状されぬ感じが胸を塞いで、健は棒のように立ちすくんだ。そうして鋭い目で、ジッと睨みつけると、腕白はたちまちドヤドヤと側近く押し寄せて来た。
「怒った怒った。乞食が怒ったって、お粥腹じゃ向って来られまい」と、体を突きつけるようにして、(ひじ)を張って来る。
 健は急に母や姉が恋しくなって、早く帰りたいと思ったが、負け嫌いな気性は、今となって、(うしろ)を見せるのはなおさら口惜しい。
「ヤアこいつは袴をはいていないそ。袴売っちゃったかい」と、ワイワイ寄集(よりたか)って来る。
そして目を反らし、唇を鳴らして、哀れな健の落魄(おちぶれ)た姿を嘲笑うのである。
「うるさいッ」と、堪え堪えし健はたまりかねて、叫ぶように言った。何かは知らず胸が一杯になる。
「浪人の乞食が怒った。やっつけちまえ」と、つと後へ飛んで行ったが、土塊(つちくれ)を拾って投げつけると、無残肩先にパッと当って、爆弾のごとくに散ったのが、抱えた文太郎の顔ヘバラバラと振りかかった。子供ながらも勢いにつく彼らは、みじめな健の姿を見て、面白半分弱い者いじめに(なぶ)りかかるのである。
「何をする」と、健は目眦竪様(もくしたてざま)にけかとばかりに怒った。アワヤ腰の小刀に手をかけんかとまで激昂したが、片手にいたいけな甥の文太郎を抱えているから、口惜しさを噛み殺して、怨めしそうに睨まえた。彼の身驅(からだ)はビリビリと顫えて、足の親指は大地に食い込まんばかりに、全身の力が籠った。
「何を怒るんだ。貴様は宿なしだぞ……口惜しきゃ向って来い」
 一人は意地悪気に健の頬桁(ほほげた)を突いた。健は口惜しさに悶ゆる腸をじっと片手で押えると、熱血を煮え欄らしたかと思う涙が、眼の底まで湧いて来るけれども、負け嫌いの気性は、眼を(いか)らし、眉を昂げて、固くそれを堪えた。
「ヤイ、貴様らの来る所じゃない、帰れッ」と、二、三人ドヤドヤと後から健を突き飛ばした。
「うぬッ」と、健はかっとして再び小さ刀に手を掛けんとしたが、抱いていた文太郎が急に泣き出したので、思わず気勢を挫かれて、両手に抱え上げた。
「覚えていろッ」
 健は捨白(すてぜりふ)を残して、鎮守の森を斜めに横ぎりつつ、トボトボと歩き始めた。
「ワアイ、乞食い」と、ドッと笑う声が、(こだま)を返して騒がしい。健は口惜しさの余りに振り返ったが、途端に流星のごとくに飛ばされた(いしつぶて)が、横鬢(よこびん)にあたったので、アッとおさえる手に、ダラダラと血が流れた。
 言おうようなき侮辱と狼藉とは、健の心身を完膚なきまでに傷つけた。武士の面目は、小さい心にも、もう立たないと思った。自分の面目はともかく、父と兄との名を辱しめ、児玉の家に拭うべからざる疵を負わせたのである、勘弁も耐忍(かまん)も、もうこれまでである。
 健の心は火のように激し、満身の血ぱ渦をなして逆巻き流れた。彼は眠りより覚めた猛虎のように、躍り上って驀然(まつしぐら)に駆け出した。文太郎をわが家に送り込んで取って返し、うらみ重なる彼らを皆殺しにするつもりである。彼の眼は血走り、顔は藍よりも青い。
「待ちなさい」
 突然大木の陰から躍り出て、行手を遮ったのは、思いもかけぬ蕃根先生であった。
「どこへ行きなさる」と、仁王立ちに立ちはだかられて、健は袖の下を摺抜けもならず、下を向いて、思わず悲憤の涙に暮れた。
「オウ、よく耐忍(がまん)したの」と、蕃根先生は今の様子を知っていたのであった。
「口借しかろう。……しかし耐忍じゃよ、人間の屑ともない彼らを相手に、刀でも抜いたら、理非もなくこちらが非分じゃ、よく耐忍したわい。その耐忍を忘れなさるな、さぞかしおまえの父親半九郎殿が、褒めてござろうぞ」
 健は意外の言葉に夢心地になった。耐忍をしたのではない、耐忍の緒を切って、今や彼らを斬り捨てようと思った心の秘密は、蕃根先生の言葉にやや揺らいだ。
「人間と思えば腹も立とう、彼らは犬畜生じゃ、畜生を相手にすれば、人間の恥ではあるまいかな。……それよりもこういう無念なことをよく心に刻んで、今に立派な人間になって、彼らの顔を見返してやれ、それが立派な復讐じゃぞ」
 蕃根先生は先に立って歩き始めた。健も機先を折られたのと、先生の訓戒とに、少し心が落ちついたので、トボトボと後に下ってついて来る。
「昔奥州松島の瑞巌寺の和尚は、まだ俗の時に伊達政宗に恥を与えられたが、政宗は国主であろう、歯が立たぬのじゃ。……なにとぞして政宗の顔を見返したいと思った一念で、入唐して難行苦行を致して天晴(あつぱれ)の名智識となって帰朝した。さて勅願寺なる瑞巌寺の大禅師になって、政宗の顔を見返したということじゃ」
「へー」と、先生の話が面白いので、健はうっかり聞き惚れてしまった。
「瑞巌寺の禅師様は、それよりいかがいたしました」
「それじゃ」と、先生は健の面から殺伐の気が薄れたので、思わずにっこりと安心する。
「誰でも普通(なみ)の人間ならば、その時昔の恨みを言おうが、しかしそこが大禅師じゃ。……厚く政宗に礼を述べたということじゃな」
「ヘェー」と、健は意外な顔つきで、斜めに先生の顔を見上げた。
「どうじゃ、えらいではないか。今自分が大禅師となり、国師と崇められるのは、政宗に辱しめられて、発憤したお陰じゃ、それがなければ、大禅師どころではない、屑のようなただの人間で(おわ)って、ろくろく人に名さえ知られぬのじゃ、今日のような身になったも、元はと言えば政宗のお陰じゃろう、して見れば政宗は大恩人じゃて」
「ヘエー、えらい人です」と、健は禅師の大度量に感じた。
「それじゃからよ、おまえも今日のことに発憤して、志を挫かずに、立派な人間になりなさい、そうしたら、彼らはおまえの足元にも追つくのではないて」と、先生は巧みに健を諭して、危うい血の雨を未然に防いだのである。
 (さか)しき健は、たちまち蕃根先生の訓戒に感じて、悲憤の怨みを、他日に晴そうと、深く深く心の底に彫り付けたのである。
 彼は夢から覚めたように、心がはっきりとした。貧苦も、恥辱も、彼の前には成功を導く光である。悪少年が侮辱を加えたのも、天が自分を試すに、彼らの口を借りたのであるかも知れない。甘き言葉も、苦き経験も、すべて天が偉人を試みる誘惑や威嚇である、自分は今天から試めされているのであると、健少年の心は豁然ともて開けた。艱難汝を玉にすと先生から聞いたことを、独り心に繰返すのである。



最終更新日 2005年09月14日 02時30分23秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一一 新知を拝領して名を源太郎と改む」

一一 新知を拝領して名を源太郎と改む
 わが()を削いで食べるような貧窮の中に、健は薪木を(きこ)り、荷を負うなどして、飢と戦い、渇と争いつつ、辛うじて成長した。それもこれも、自分に対する天の試金石だと思えば、怨みも(かこ)ちもせず、人の侮りに垢をふくんで隠忍した。
 落魄(おちふれ)はてた児玉家は、世間からもう忘れられてしまった。始めは気の毒にも、哀れにも思った者がないでもなかったが、ようよう人の念頭から薄らいで、正義派の人々も、巌之丞の横死を、昨日の夢と気にも止めなくなったので、児玉家は唯一の慰藉たる同情をさえ、自然自然に消滅さしてしまった。
 しかしこの間にあって、健の克己心は遺憾なく養成された。今に見よという奮発心は、健の脈管の血となって流れたのである。
 生きているというばかりに露命を繋いで、母子五人が逼塞(ひつそく)している間に、世の中は急転直下の勢いをもって、破天荒の変転となり、正義派はにわかに勃興して来た。もしも父や兄が、この時に生きていたならばと、詮ない未練も出るが、一藩の空気が急に一洗されたのは、思っても心地よいのである。健は急に肩身が広くなって、襤褸(ぼろ)の衣服にも光が差すかと思われた。
 さしも飛禽(とぶとり)(おと)した富山源二郎は執政を免ぜられ、評定役の粟屋采雄(みねお)がその後をついだ。そして島田蕃根先生は、にわかに起されて評定役となった。もう正義派の勢いというものは、隆々として旭日の昇るがごとく、俗論党はその前の薄霜のごとくに消えてしまった。
 正義派の陳勝呉広として、空しく横死を遂げ、家を没収された人々は、再興の恩命に浴することとなって、天来の福音は、月も洩るいぶせき茅屋の児玉家へも下った。
 あたかも慶応元年七月十三日であった。児玉の一家は心ばかりの霊棚(たまだな)を設けて、瓜の牛、茄子(なす)の馬の足掻(あがき)を早め、父や兄の霊を招こうと、母や姉たちが、とりどりに働いている時であった。評定役詰所からの召喚(よびだし)が来たので、一家ぱ何事かと、目を見合した。
 折が折であるから、悪い沙汰とは思わぬが、当惑なのは健の衣服(きもの)であった。色も()せ、継ぎはぎした洗い晒しの浴衣一枚で、詰所へ出頭することは、児玉家の恥辱である。さればとて、この場合猶予はされない、それは即刻ということであるから、なんとしても一時の中に出してやらねばならぬ。
 利かぬ気の母の元女は、人から物を借るということは、口が腐っても言い出すような女ではないが、この時ばかりは、なんとも工夫する間がないので、是非なく親類(みより)の松岡要助に頼んで、そこの忰のを一着借り受け、ともかくも出頭させるのであった。
 借衣も貰物も、健は少しも頓着しない。松岡に付添われて急いで役所へ出頭して見ると、正面には太夫の粟屋、脇坐には蕃根先生が控えて、厳めしく威儀を正していたが、殺風景な重役詰所も昔と違って、どことなく暖かい色が(ほの)見えて、希望の花が蕾ながらに芽ぐんでいるように思われた。
 粟屋は蕃根先生に軽く目礼して、少し(にじ)り出ると、付添の松岡が、両手をついて頭を下げるので、健も同じように真似をした。
「児玉健、これまでそのほう家名断絶仰せ付けられておったが、この度上格別の思召をもって、そのほうをして家督相続仰せ付けられ、新知二十五石中小姓にお取立になる。ありがたく心得るよう」
 健はハッとお受けはしたが、さながら夢に夢見るようである。今日のお召しが悪い首尾とは思わなかったが、新知二十五石のお取立てを蒙ろうとは、あまりの意外で、事実とは思われない、もしも自分の耳の聞き誤りではなかったかと、ひそかに疑ったのである。
「ありがたき仕合せ謹しんでお受け仕つる」と、松岡は健に代って側から口を添えたが、しばし畳に平伏した。
「いや、ご同様祝着に存ずる」と、粟谷太夫はうなずいた。
「健殿、ありがたいことじゃ。みな太夫のお取りなしでござるぞ」と、蕃根先生は口を添える。
「ハッ、ありがたき仕合せで」と、健はこんな場合に何と言ってよいか解らぬ。そして目の前に絵のように泛ぶは、自分が帰って母や姉に披露した時、人々の嬉し喜ぶ顔である。健はわが身の運の芽ざしがようやく顕われて、他日の大成が目の前にある心地がする。そして今日お取立になれば、もう浪人の乞食ではない、立派な徳山藩士である。鎮守の森で自分を辱しめた悪少年の顔が見たいと、急に身驅(からだ)が大きくなったように覚える。
 児玉の家には絶えて久しき瑞雲が棚曳いた。昨夜の御灯火(みあかし)に丁子が咲いたのも、このめでたき前表であったろう、霊棚の真菰もさわやかに香り、迎い火の苧穀(おがら)の火影に、亡き(たま)のにっこりと笑うのが、ありありと目に見える心地がした。児玉一家はただソワソワとして、何事も手につかない。
 しかし健が新知お召出しになった時には、毛利一家の宗支藩は朝敵の汚名を蒙り、幕府は六十余州をこぞって、征討の師を向けようとする時であって、社稷(しやしよく)は風前の灯火(ともしぴ)を揺いで、石にあたる鶏卵の、砕けるよりほかなき運命であったが、一藩の士気は烈々として火と燃え、水と激していた。一時の苟安(こうあん)を願う因循な俗論党は影をひそめて、闔藩(こうはん)の主戦論が勃々として雲のごとくに湧き上った。
 健は名を源太郎と改め、十六歳の青年ながら、一方を承わって、戦陣にのぞんだ。英気颯爽として、自分ながら威風あたりを払うように覚えて勇ましい。
 幕府が天下の精鋭を尽した長州征伐は、窮鼠の猫を食むがごとき長州藩の必死の覚悟に打ちしらまされて、諸手の口は連戦連敗である。中には心ならずも幕府の催促に余儀なくされた外様(とざま)の者は、陣を抜いて帰国する者すらあった。
 哀れさしもの大兵を擁する幕軍は士気衰え、将士に闘志なく、軍令(みだ)れて通じ難きところへ、あまつさえ将軍家茂は、親征の途中大阪で急病を発し、危篤の報が風のごとくに伝わった。幕軍は不安の念に襲われて、しきりに家を憶う者ばかり、征長の軍は全く立竦(たちすく)んで、進みも退きもならぬ破目に陥ったのである。
 健が中小姓となって、源太郎と名を改めた第一歩は、一藩の興廃を賭した戦争の中であったから、源太郎は死生の(ちまた)に、人間の一大事を諦め、何事に出逢っても物に動じることがなかった。そして源太郎の機智頓才と、勇武とはようやく人に知られて来て、さすがに半九郎の子で、巌之丞の弟であると言われた。
 やがて昨日の朝敵は今日の官軍となって、幕府はにわかに賊と目指されるようになった、さながら理も非も混淆されて、闇裡(くらやみ)に物を探るような乱世である。長藩はにわかに官軍の大立者(おおだてもの)となり、幕府征討の錦旗を守護して、人兵続々と関東から東北へ下ることとなった。
 今日役所において、半隊司令士を拝命し、急に出征を命ぜられた源太郎は、力足踏みしめて、急ぎわが家へ帰って来た。その凜々しい姿を見ると、母は昨日の浅ましく情なかったことを思い泛べて、かえってゾッと身ぶるいが出た。
「オウお帰りか。牧の家でも京都へ上るそうなが、おまえの方ぱまだご沙汰はありませんか」と、母は最愛(いと)しき源太郎の出陣を嬉しく思わぬではないが、また万一のことを考えると、さすがに女気の悲しくなる。
「ハイ、いよいよご沙汰を戴きました。しかし喜んでくだされ、半隊司令士を仰せつかりましたから」
「そう、それはめでたい」と、口には答えたが、胸はたちまち一杯になった。
「マア、源(さん)、おまえ出陣なされるのかえ」と、二人の姉はいまさらのように、懐かしげに源太郎を見て、涙を浮べている。戦争、死という関連した観念は、絶えず雲のごとくに胸を往来するのである。
「それでいつ出立しますかえ」
「ハイ、急のご沙汰でございまして、二十二目に当地を立ちまして、二十四目に三田尻から蒸気で秋田の土崎へ参るはずでございます。どうか皆様ご機嫌よく、めでたく凱陣をお待ち下さいまし」源太郎はさすがに心許ないので、勇む心の中にも、家のことが思われる。
「いいえ、めでたい凱陣などと、けっして二度と再び帰ろうと思うではありません」
 母の元女は凜然(きつぱり)言った。
「アレお母様」と、二人の姉は左右から取りすがるようにして、素気(すげ)ない母の言葉を怨めしく聞いた。
「侍というものは、戦の門出が討死の別れでありますそ。生きて帰る量見で、何の手功(てがら)が出来ようそ。和女(おまえ)たちも源太郎の門出の日を、命日と思っておいでなさい」と、母の言葉はどこまでも気強い。姉は取りつく島もない心地である。
「おまえ、戦に出たら、後のことを思わずに、目覚しい働きをして、立派に死んでおいでなさい、お父様やお兄様の名前を汚してはなりません」
 女らしい温かい言葉はないが、心の底には温かい言葉より以上に、熱き火が炎々と燃えているのである。口にこそ雄々しく言うけれども、(はらわた)はずたずたに裂かれるように悲しい。
「畏まりました。必ず立派に討死して参ります」と、源太郎は勇み立った。二人の姉はたまらなく俯伏してしまう。
「お父様があのようにお死にやったも、お兄様が不慮の死様(しによう)をしたも、皆徳川方のためですそ。それを思ったら、一歩も退くことは出来ませんぞ」と母は心中の悲しさを包んで、雄々しく言い放った。
「それその玄関の所で、お兄様が俗論党の不意討に、前へのめって(たお)れた姿は、おまえの眼に残っていよう。土間は一面の血の海になって、お兄様が無念そうに唇を噛んで息を引き取った(さま)を忘れてはなりませんぞ」
 母は自分の口から言ったのであるが、急にその時のことを思い出したので、じっと目を(つぶ)った。姉のお久はせっかく忘れんとする当時の光景が、ありあり眼の前に現われたので、悲愴の気に打たれて、クラクラと眩暈(めまい)がして来た。お信は母と姉とを見比べて、ただオロオロする。
「何しろ勇ましい門出、めでたく祝ってあげたい。そうして仕度は二人にしてもらいなされ、手落ちのないように。児玉の家の名を揚げる時が来たのだから、このようにめでたいことはありませぬ」
 男優りで聞こえた母のお元はやる瀬なき悲しさをめでたさの衣に包んで、涙一滴落さぬのである。
 出陣のことを聞かして、もしや母に心配かけはしまいかと思った源太郎は、このありさまにほっとして、案ずるより産むが安いと、ひそかに喜んだのである。
 しかしこの夜さり、二人の姉は眠ったけれども、母は(しとね)の中でマンジリともせなんだ。秋の末の裏枯れて、木の葉のハラハラと雨戸打つ音に、いかばかり(はらわた)を絞ったであろうか、気丈な母は、夜更け人静まってから、一人(しとね)の中で、枕紙を潤したのである。



最終更新日 2005年09月14日 23時08分35秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一二 奥州征伐を了えて仏式練習生となる」

一二 奥州征伐を了えて仏式練習生となる

 じめじめと降る秋雨に、戎衣(じゆい)の袖を(うる)おし、征人(うた)た家郷を思う寂しき海の上に、船足鈍き外車の火輪船に送られて、出羽の土崎に上陸したのは、明治元年十月十一日であった。故国を出る時に、単衣を軽しと思わなんだが、出羽の地は早霜を置いて、荒涼たる野面(のもせ)に、(しき)立つ葦は枯れ伏している。
 土崎へ着いて見ると、会津、庄内は降服したので、残賊の函館に拠る者を追討すべく、十一月の一日に土崎から青森へと行進した。半隊司令士の源太郎は、威風四方を払って、肩で風切る心地がした。この勇ましきありさまを、一目故国の母に見せたい。そして鎮守の森の悪少年にも見せて、目を驚かしてやりたいと、若い花やかな血は、駿馬の朝風に勇むがごとくに振い立った。
 はやりにはやる丈夫(ますらお)も、北国の雪に(はば)まれては、心のみ威きも、軍を進むること難く、空しく海を隔てて、函館の空を望むのみであったが、翌る二年の春、雪解(ゆきげ)の水が川に落ちて、春の千草が野を彩るころになって、海陸相応じて、蝦夷地に攻め寄せた。
 敵は名に負う榎本釜次郎、一隻の(ふね)を七隻に使うとさえ言わるる水師の名将、まして荒井郁之助は、五尺の隙があれば、艦を乗り入れるという航運の手練(てたれ)、陸には大鳥圭介の神謀鬼策、古えの楠氏(なんし)にも喩うべき名将である。この海陸の玉麒麟が、決死の猛卒を率いて戦うのであるから、容易に攻め破ることは出来ない。
 源太郎司令士は、部下を引率して、江刺港に上陸し、各所に転戦して、五稜郭の大川口に迫ったのは、五月の二日であった。
 幕軍の勢いは日に日にちぢまって、悪戦苦闘は夜を日に継ぎ、血は流れて川となり、屍は積んで丘をなさんばかりであったが、源太郎は幸いに薄手一つ負わない。しかし国を出る時に引き連れた部下はようやく減って、今では顔を知らぬ者のみ多くなった。今日は人の身、明日はわが身の上と、うら寂しき征人の心は、夢に乗って何処(いずく)に走るであろうか、夜は更けて陣中(げき)として声もない。
 味方は連日の戦いに、気も力も抜けるばかりに疲労して、そこごこに固ったまま、死人のごとくに眠りこけている。万一のためにと四方に張った哨兵も、立ちながらに眠ったと見えて、見回りの足音さえない。
 半隊司令士は自分の持場に就いたまま、眠ってはいたけれども、思わず夢に驚かされて、ハッと目を覚した。露はシットリと落ちて、露営の天幕も絞るばかり、風なき空は重く垂れて、闇にゆらぐ君影草の花の匂いが、柔らかき空気をそよがせている。
 夜襲(ようち)、もしやという観念が、虫が知らすかのごとく源太郎の胸を伝わった。静けき夜、闇き空、疲れたる兵士、窮鼠のごとき敵、こう考えると、今夜あたりは、敵が万一を期して襲撃しはしまいかと思った、しかし隊長から就眠を命令されたのであるから、部下の兵を起すことは出来ない。自分だけそっと起き上って、闇路を透しながら、あたりに気を配った。蝦夷松(えぞまつ)や、椴松(とどまつ)の大木が、闇の中に一際黒く突っ立つ森、それに続く楢の林の彼方(あなた)は、小川を中に挟んで、広い野原になっている。
 何とも知れぬ異様の響が、風なきにサヤサヤと聞こえる。源太郎司令士は、きっと身構えて聞き耳立てた。もしや猛獣が人の肉の臭を嗅いで、飢えた牙を磨ぐのではあるまいか。それとも敵の夜襲か。
 俄然、闇を(つんざ)く小銃の音がした。途端に裂帛(れつばく)のごとき叫声(きようせい)が聞こえる。味方の哨兵が、何者をか発見したのである。
「起きろ起きろッ」と、源太郎が部下を叱咤する刹那、轟然たる一斉射撃が聞こえるかと思うと、バラバラと弾丸が飛来した。源太郎の側に駆けつけた兵士はあっと叫んだが、口から血を吐いて仆れた。
夜襲(ようち)だ、気をつけい」
 徳山献功隊の猛者(もさ)は、空を蹴って飛び起きたが、時すでに遅し、死物狂いの敵兵は、山も崩るる喊声を上げて殺到した。
 味方は寝込みを襲われたのであるから、さすがに慌て狼狽(ふため)いて、ただ刀を抜いて振り回した。(くら)さは闇し、不意であるから、敵味方も解らず、刀の触るるところ、自他の区別もなく斬りつけた。バタバタと悲鳴を上げて仆るるは、大方味方の同志討ちである。さしも驍勇の献功隊も、まったく度を失って、乾坤一時に覆えるような騒ぎとなった。
(あかり)を点けい、灯を点けい」
 突然百雷の轟くがごとき声が、そこごこと馳せ廻りつつ響く。
「児玉がいるぞ、しっかりせえ」とまた叫んだ。とっさの間にも、機智に富む言葉に、隊中そこごこに火を点したので、ようやく敵味方が解った。
「敵は小勢だ、折敷いて射撃せい。立つな立つな。立つ者は敵だぞ」
 源太郎はまた叫んだ。敵味方の区別は、夜目にも判然と知れた。
 敵はじつに五稜郭の勇卒三百人、死をこの一戦に期して、官軍の崩れに乗じようとしたので、味方は苦戦に苦戦を(かさ)ねて、ようやくにして撃退した。もしも源太郎司令士の機智がなければ、この手を奪われて、不測の災いを招いたかも知れなんだが、幸いに辛く防戦の功を樹てたので、源太郎司令士は、隊長から厚く賞詞を受けるとともに、徳山藩にこの有為の青年士官のあることを、宗藩の重なる人々に認められたのである。
 窮鼠猫を食む死物狂いの幕兵、まして隊長として聞こえたのは、一代の軍略家たる大鳥圭介である。官軍の将校は、かつてこの人に戦術を学んだ者が多いから、言わば弟子をもって師と闘うのである。互いに名を惜しみ、恥を知って(せめ)ぐのであるから、肉を弾とし、骨を楯として、稀代の悪戦に一歩も退かじとするので、両軍の死傷は、(おもて)をも向け難き悲惨なありさまであった。
 しかし敵はようやく兵器弾薬に窮し、勢いますます(ちぢ)まるので、榎本、大鳥も大勢のおもむくところを察し、官軍の軍門に降ったので、源太郎は赫々(かくかく)の功名を、竹帛(ちくはく)に垂れる機会に接せず、六月一日に品川に凱旋した。
 去年(こぞ)の九月二十二日に、懐かしき故郷を出てから、ほとんど一年足らずの日子を、軍旅の間に起臥して、戎衣(じうい)の袖は泥に(まみ)れ、血に汚れ、荒布のごとくに繿縷(つづれ)下げたが、戦功の武士は言い知らぬ面目を晴やかにして、江戸の東京に、喜びの盃を上げた。日頃小男と侮らるる身も、市中(まちなか)に大手振る心地よさは、二尺も三尺も丈が仲びたような気持であった。
 十日余を祝酒に飲み通した揚句、諸隊はすべて国許へ引揚げを命ぜられたが、その中有望の俊才を選抜して、仏式調練を練習させることとなったので、長藩から七十人の青年軍人を抜擢した。源太郎は徳山献功隊の司令士として、第一に編入されたのである。
 源太郎は献功隊の生存者が、故郷へ錦を花と飾るべく、意気揚々として出立するのを、中仙道口へ見送ったのは、六月十六日であった。爛々たる盛夏(まなつ)の日が、()くがごとくに銃剣を射り、閃々として輝く勇ましさ。この人々が国へ帰る時、門に()って待つ家人の喜びを思うと、自分も一度帰国したいと思う心が、雲のごとくに湧いて、そぞろに故郷懐かしく思わぬではなかったが、今の一時の喜びよりは、後の楽しみを思い、彼は帰り行く人を見送って、影の見えなくなるまで立ち尽した。
「オウ児玉、貴公も練習所へ入ることになったな。俺もご同様じゃ、宜しく頼むぞ」と声をかけたのは、宗藩の家臣寺内正毅であった。
「ご同様生き残って、仏式練習所へ入ろうとは思わなかったな。五稜郭の弾の雨は随分烈しかった。しかし傷を負わんで結構じゃった」と、何げなき体で振り向く。
「これからは若い者の世界になるのじゃ、前祝いに一献やろう」と、寺内は促し立てる。
「また酒か」と、源太郎はうなずく。
「そういう貴公、酒には目がなかろう」と、青年士官は錦片(にしきぎれ)の肩を列べて、本郷の方へと引き返した。



最終更新日 2005年09月15日 00時27分46秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一三 脱隊鎮撫を兼ねて郷里に母を省る」

一三 脱隊鎮撫を兼ねて郷里に母を省る
「児玉おるか」
 大阪の上町、鎮台裏の下宿に、突然尋ねて来たのは、児玉と同じく徴士となって、仏式練習所にいる同僚である。
「一大事件が出来たが、知っておるか」
「イヤ、少しも知らんぞ」と、児玉は机を離れて、火鉢を客の方へ押し出しながら向き直った。窓越しに見える天王寺の塔は、氷のような空に甕えて、乱雲走るがごとき中を、夕鴉が(ねぐら)を求めて鳴いて行く。樹々の梢の骨立った茶臼山は、近く楯間(びかん)に落ちて、削るばかりの寒さが森々と骨に沁みる。
「ばかな奴輩(やつばら)が不平を起して脱隊をしおって、藩庁へ迫ったということで、藩から密使が、練習所へ来たのじゃ」
「それでは献功隊もか」
「いやそれは解らんが、奇兵隊を始めに、遊撃、御楯、山崎、豊府などの連中が、論功行賞に不満足を起して、一時に脱隊したらしいのじゃ」
「ばかなやつらじゃ、不公平のこともあったろうが、我々どもは賞典が欲しくて戦をしたのではない。御上のために戦ったのじゃ、王政復古になれば、それが立派な賞与じゃ」と、源太郎は唾棄するように言った。
「一杯やろうか、ここから見える冬景色は格別じゃぞ」と、平気で酒を呼び始めた。
「しかし児玉、我々ども七十人は、藩からお召返しを受けておるぞ。脱隊征伐じゃ。暢気に酒を飲む場合ではない」と、同僚は激昂している。
「それだから酒を飲むのじゃよ。飲めるうちにうんと飲んで置かぬと、もし国へ行って、弾丸に(あた)ったら最期、何ぼ飲みとうても、地獄じゃ酒を売るまいぞ」と、児玉は笑いながら、無性に独酌する。
「相変らず面白いことを言うわい」と、同僚も、いつしか腰を落付けてしまう。
「しかし、こうあちこち歩いていては、さっぱり修業が出来ぬではないか。……去年の八月東京から京都へ移るかと思うと、また十一月にはこの大阪へ来たのじゃ、それからまた二月ばかりすると、国元へ行くのでは、落付いて何もすることは出来んな」
「乃公に愚痴をこぼしてはいかん。どうで我々どものように、命令で動く人間は仕方がないと諦めるがえい。うっかりして不平組と目指されたりゃ、最期じゃぞ」
 児玉は大口開いて呵々(からから)と笑ったが、杯を突出すように置いて、
「もうないわい。貴様愚痴をこぼさずと、酒を買えよ」と、大分耳が熟して来た。同僚も仕方がないので苦笑をしながら、下宿の小女に言い付けて、酒を買って来させた。
「何時出発か、様子を聞かぬか」と、酔っても本性を違えぬ児玉は、泰平楽を言う中にも、真面目なところが籠っている。
「いずれ明日にも、表立った命令があろうが、この月の二十九日、和船で天保山沖から出て、軍艦に曳かれて、下の関へ上るはずになっているそうじゃ」
「それなら愚痴をこぼすことはないそ。久しぶりで国へ帰って、ゆるゆる家の者の顔が見られるわい。……何の脱隊連中が、隊にいればともかく、隊を離れたら烏合の衆じゃ、どうなるものでない」
 源太郎はいながらにして、脱隊連のなすなきを見極めたので、国へ召還(めしかえ)されることが、むしろ久しぶりの慰労休暇のような気がするので、喜んで出発した。暢気な彼は、官費で帰省されるぐらいに思ったのであろう。
 船は二月四日に下の関へ着いたが、ただちに部署(てくはり)をして、長府山口の囲みを破り、一挙に連絡を取ろうとした。その計画は児玉の主張であったが、案のごとく脱隊兵は、ただ勢いに乗じて騒ぎ立ったばかり、誰を主脳として、指揮を奉ずるというのでないから、たちまち新進の青年将士のために破られて、小郡(おごおり)を奪われ、厚良の嶮をさえ攻め落され、瞬く間に山口の囲みは解けてしまった。
 何の赤児の腕を捻るより易い脱隊兵の鎮撫に、わざわざ大阪から仏式練習生を召還(よびかえ)すほどのことはないにと、児玉は暖簾(のれん)脛押(すねおし)の心地がしたが、脱隊兵のおかげで、久しぶりで徳山の家を見舞う暇が出来たので、急いで故郷へと馬を飛ばした。
 徳山の城下へ入ると、横本町のわが家の老松は、はるかに梢の翠を滴らして、目も冴え冴えするように覚える。故園皆旧によりて、四囲の風物は、昔ながらの徳山である。かつて侮りを受けた鎮守の森は、(くろ)みながらに天を摩している。あの木、あの社と、児玉は(ふる)き記憶を追懐して、慕かしいような、寂しい心地に打たれて、馬上に低徊しつつ、ふと心づくと、早やわが家の門口である。
 藩籬(いけがき)は破れて、犬の潜るに任せたのが、まだそのままに直さずにある。父が自慢と聞いた桜の芽はふくらみかけて、今年は枝もたわわになるまでに咲くであろう。昔ながらの面目は少しも改まらないが、今は徴士となって、仏式練習所に学ぶ身は、やがて朝廷の直参であると思えば、両の肩が隆々と聳えて、家の目標(めじるし)の老松の高さにも劣らないように思われた。
 馬丁は早くも奥へ入って、主人(あるじ)の帰省を知らした。あまりの突然さに、二人の姉は、(まろ)ぶごとくに出て来たが、弟の姿のあまりに変ったのを見て呆気(あつけ)に取られて、言語(ことば)もなく顔見合した。
「どうもしばらくでした。ただいま帰りました」と、児玉は洋袴(ずほん)の塵を払って、玄関へと上った。母の元女は、もう大分白髪が見えているが、昔に劣らぬ元気は、いきいきと眉宇の間に現れている。
「ようお帰り」と、さすがに懐かしそうに、源太郎の洋風の姿を見上げ見下した。
「突然でしたけれど、山口で休暇を貰いましたから、急いで帰って参りました」と、源太郎はにこにことあたりを見廻している。目に触れるもの皆懐かしい。天井に吊るした富山の薬袋は、煤にくすげたまま、所もかえず棹縁に結ばれているし、蕃根先生の書いた額を、父が手経師に拵えたのも、座敷の承塵(なげし)に掛っている。自分が甥の文太郎を抱いて叩かせた襖の破れも、まだそのままに繕わずにあった。
「マア源様、よう帰って下さった、私は夢のようで」と、姉は嬉しさに涙を泛べて、茶を淹れる方角もない。
「おまえ、よく帰っておくれだと言いたいが、なぜ今ごろ帰って見えました」と、母の元女は、源太郎の前に開き直った。
「エッ」と、源太郎は予想外な心地がして、二人の姉と顔を見合せる。お久もお信も、母の心を図りかねて、ただハラハラするばかりである。
「おまえが山口から、わざわざ来ておくれなのは、無事な顔を見せて、私に安心させたいつもりでありましょうが、私は去年おまえが門出をした時に、源太郎という忰は、討死したものと諦めてしまいました」
「マァ」と二人の姉は、何か言おうとして母の方へいざり寄った。
「それが立派に手功(てがら)をした上、無事な凱旋したのを聞いて、人一倍喜んだには違いないが、また練習所へ入るから、国へ帰れぬという手紙が来た時、内心では残念にも思いましたけれども、そこを修業仕遂げさえすれば、立派な人間になれるから、それまでは逢うまい、音信(たより)もしまいと思い定めました。孝心なおまえのことだから、なまなか音信(たより)をして、親のことを心配さしては、修業のためになるまいと、じっと辛抱していました」と、切口上に言う母の言葉はいつしか怪しく曇って来る。
「どうもすみませんでした」と、源太郎は少しテレる。それを気の毒そうに見る姉は、慌てて茶や菓子を持って来てすすめる。
「今度脱隊騒動に帰って来て、首尾よく鎮撫してしまったのは結構ですが、少しの休暇に、私のことを案じて帰るようでは、御上のご用は勤まりますまい。練習所がめでたく済むまでは、もうけっして母も姉もあると思ってはなりませんぞ。……練習所が済んでから、めでたく逢いましょう」
 男まさりの母の一徹な気性は、依然として変らない。
 源太郎は心の中で、練習所はもう済んだと同じであると思うけれども、昔気質(かたぎ)の母に説き聞かすよりは、その言葉に従うが、母の気を休める道でもあると思って黙った。
「お母様、つい心づきませんでした。休暇中行く所がありませんから、戦争の話でもしてお聞かせ申そうかと思ったのです」と、源太郎はわざと何の気もないように答えた。
「そうでしょう。東京の方のお話しを聞かして下さいよ、今夜は寝ずに聞いていますから」と、お信は幼稚(あどけ)ないことを言うのは、もしも剛情な母が、せっかく帰った弟を泊めもせずに、追い帰しはしまいかと思うので、わざと母へ対して(さぐ)りを入れたのであった。
「源太郎殿、戻らしやったそうじゃの」と、例の蕃根先生が、様子を知って入って来たのは、姉たちにとって渡りに船である。この人の言うことならば、かつて背かぬ母のことであるから、もしも弟を追い帰すと言わば、蕃根先生に縋って止めて貰うのであるが、縋るまでもなく、先生は止めるに違いない。
「立派な男になられたな。見違えてしもうたぞ。……お元殿しっかり馳走して上げるがえい。源太郎殿は立派な武士になった。徳山藩の武士というより、今では朝廷の御直参じゃ……よく帰って見えた。晩には乃公(わし)の所へ来てくれるよう、手功話(てがらばなし)が聞きたい」
と、先生はわが子が帰ったように喜ぶので、二人の姉はこれなら母が沒義道(もぎどう)なことを言うはずはないと、ほっと息をついてにっこりした。
 しかし二人の姉よりも、さらに喜んだのは母のお元である。口には強いことを言って、わが子を励ますものの、足かけ二年夢にも忘れぬ最愛児(いとしこ)が、めでたく錦を着て帰ったのを、一晩はおろか、一月も二月も泊めたいのは山々であるが、なまじ優しいことを言っては、励みがつくまいと思うので、素気(すげ)なく言ったものの、一夜さえも泊めずに帰すのが親の慈悲かと、心に泣くところへ、蕃根先生の言葉は、地獄で仏の思いがする。



最終更新日 2005年09月16日 18時10分34秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一四 佐賀の乱に奮闘してついに重傷を負う」1

一四 佐賀の乱に奮闘してついに重傷を負う
 母の情に激励された源太郎は、一夜をわが家に明かしたまま、すぐに本隊へ引き返して、三田尻より船で大阪へと戻ると、また元の練習所へ入ったが、明治三年の六月というに、めでたく卒業の月桂冠を戴いた。そしてすぐに大隊第六等下士官に任ぜられたが、半年にして(ごん)曹長となり、翌四年の四月十五日には、たちまち准少尉に(のほ)され、八月六日少尉に進んだかと思うと、翌月二十一日にはまた中尉に任ぜられた。さながら全速力で陞進(しようしん)するので、あだかも天馬空をかけるのおもむきがあった。当時整然たる秩序がなく、はなはだしき過度時代ではあったが、この異数の陞進には、同僚が目をそばだてて呆れた。誂らえた官等服が仕立て上らぬうちに、それより上の官等に進むなどは、じつに空前絶後である。
 しかし源太郎の官等が、走馬燈のように変り行くのみではなく、当時の政府の施設も電光石火の趣きがあり、官府や官職の改廃は、朝令暮改の有様であって、さながら百年の仕事を、一年で仕遂げようとするのである。しかし陸軍の方は、同じ改廃とは言いながら、次第に拡張されるので、鎮台が出来たり、御親兵が廃されて近衛になったり、山県が都督をやめて、西郷が代るというようなことで、源太郎も歩兵四番大隊副官を免ぜられて、十九番大隊の副官に補されたが、五年七月二十五日は、さらに歩兵大尉に任ぜられ、大阪鎮台副官心得を命ぜられたのである。
 陸軍が営々として建設と革進とに尽瘁(じんすい)している間に、政府の施政は、孜々(しし)として促進され、にわかに旧制度を破壊して新設備に移るのが、極端から極端へ走るので、政府部内は意見の衝突から、動揺を来たし、それが征韓論に爆発して、西郷、後藤、板垣、副島、江藤らの参議は、袂を連ねて辞職した。
 それに続いて、意見を同じゅうする官人は、潔よく職を辞したので、政府はにわかに一敵国を草奔の間に設けたような観があった。もしも地位名望ある彼らが、一致して政府に反対したなら、何様天下の一大事である。王政維新の大騒乱がわずかに済んで、人の心がようやく落付こうとする時、またしても第二の革命が起っては、国家の安危にかかわると、政府筋ではしきりに、在野の諸星の行動を内偵したが、西郷も板垣も皆国へ帰ってしまって、表面は国政に念を断って、ただ風月を(とも)としているばかりであるが、最も危険なのは佐賀の江藤新平である。参議中の年少者で、血気燃ゆるがごとく熾んなる上に、稜々の覇気は天に冲するばかり、さながら活火山のごとき性格である。それで義の赴く所には水火も辞せず、清廉潔白で、国を憂うる赤誠(まこころ)が、心の底に旋渦して湧き上るから、一歩誤ればいかなる驚天動地の活劇を演出するか解らぬのである。まして士を養うに情を深うするので、江藤のために死なんことを願う壮士は千をもって数うるほどで、これが江藤の帰国とともに、皆佐賀へ集ったのであるから、佐賀の地は殺気立ち蔽い、暗雲低く迷うて、何となく物騒がしくなった。
 果然、活火山はさらに猛烈な勢いをもって爆発した。佐賀における官金取扱いの小野組を、江藤門下の壮士が襲って、官の金庫を掠奪するとともに、二千五百の健児は、猛然として蹶起した。岩倉、大久保の奸徒討つべし、政府膺懲(ようちよう)せずんばあるべからず。
 天の声かとばかりに絶叫した暴徒は、一挙に佐賀の市中を占領し、天下の兵を引受けて戦うべく部署を定めた。そして佐賀城を攻略して、これを根拠地となすべく、猛烈に攻撃して来た。しかしこの暴動はむしろ偶然に突発したので、総帥江藤の計画は、かかる小規模の無謀なものではなかったが、部下の壮士が血気にはやって突発したために、未熟の計画そのままに暴挙を余儀なくすることになったのである。
 報を聞いた廟堂では、すぐに熊本鎮台の兵を出して賊を攻撃せしめたが、容易に()つことが出来ぬので、さらに東伏見宮嘉彰親王殿下を征討総督とし、山県有朋を征討参軍として、大攻撃の部署を定め、まず大阪鎮台に出兵を命じたのである。
 当年二十三歳の若武者たる児玉大尉は、大阪鎮台の副官として、参謀陸軍少佐渡辺(なかは)に随行し、出征することになった。今まで仏式練習所で、揖斐(いび)教官に教えられた戦術を、実地に試むべき時が来たのである。源太郎副官は、腕を(たた)いて長風に(うそふ)いた。
 佐賀征討の官軍は、東京、大阪、熊本、広島の四鎮台に、近衛の一聯隊を合せて総員五千余人、猶竜(ゆうりゆう)、北海の二船と、米国汽船紐育(にゆうようく)号とに分乗して、隊伍粛々と博多湾へ乗り込んだ。内乱を鎮定するに、外国汽船を借りて便乗するとは、いかにも奇観であるが、当時の海運は極めて貧弱なもので、わずかの兵を送るさえも、外国汽船を借るありさまであった。
 官軍の司令官は陸軍少将野津鎮雄(しずお)で、攻城野戦の名将である。少佐東武直と、少佐茨木惟昭がある。それに少佐渡辺央が、児玉大尉とともに参謀として帷幕に参画しているから、佐賀の賊は一挙にして撃破すべく見えた。
 しかし敵も聞こゆる猛将勇卒、ことに(さきの)秋田県令島義勇は、驍勇無比の闘将なるとともに、深謀遠慮に富む名将であるから、官軍の半数にも足らぬ兵勇を擁して、険を扼し、途を拒むので、さすがの官軍もたやすく進むことが出来ない。
 ことに敵は奥羽から蝦夷の果までも出征した歴戦の古兵(ふるつわもの)で、戦場の進退(かけひき)に馴れ切っているから、弾丸雨飛の中に、心憎きまでに、笑って諧謔を弄している。あまつさえ義によって立った熱情の権化である。江藤先生のために死なんと、心深く思い定めているから、打てども突けども(ひる)まばこそ、弾丸の前に肉墻(にくしよう)を築いて平然としている。さながら信仰の前に死を知らざる宗教戦のごときありさまである。したがって白兵戦の残酷なるは、目も当てられぬばかりであった。
 しかし官軍は一歩ずつ堅実な陣地を進めて、二月二十三日には、大阪鎮台の本体は中原を出て、本道を寒水(さもみず)村へと進み、前衛は早くも安良(あら)川をこえた。
 このあいだに敵と是非衝突しなければならぬ地点であるが、敵は防備を設けないのか、いっこうに抵抗する様子がない。寒水村の本営では、渡辺参謀がひそかに児玉副官の耳に口をつけてささやいた。
「児玉君、まだ前衛から報告が来よらんな。どうも不思議でならん。安良川の線でこちらを食い止めねばならんのじゃ」
「そうです、敵もなかなかあなどられんから、必ず死物狂いで防がにゃならんですがなあ」と、官軍の謀士は、敵の備えのないのを、かえって不思議に思ったξ。
 突然本隊付の下士官は、血走る眼光(まなざし)で飛び込んで来た。
「ただ今安良川方面で、非常に銃声が起っています」
「そうか」と、児玉大尉は帷幕を出て、前方の丘へ登った。佐賀へ通ずる一路、坦々(たんたん)として(といし)のごとく、二重山の山間に入ると、木立の繁みを破って、はるかに銃声が聞こえる。
「前衛の衝突じゃ。そうなくてはならん。しかし敵は優勢じゃろうか。……少しも報告が来んがなあ」と、少し心配になるので、眉を(しか)めて戻って来た。
「いよいよやりおるな。しかしこちらは兵数が多いから、大丈夫じゃろうが、とにかく前進しよう」と、渡辺参謀が立ち上がる時、騎兵の伝令は砂煙を上げて飛んで来た。
「伝令か、報告が少しもないが、どうしたのか」と、参謀は叱りつけるように言った。
「ハッ」と、伝令下士はヒラリと馬から飛び下りたが、思わず二、三歩よろよろとして踏み止った。一気に駆けつけたので、跨がる足が硬直したらしい。馬は白泡の汗を掻いて、煙のような息を吐いている。
「前衛は安良川を渡って、半里ほど進んだところで、突然敵の伏兵に襲われました。敵の兵数は六百ぐらいであります」
 伝騎の報告が終るか終らぬに、たちまち雷霆(しりいてい)の轟くがごとき響きが、殷々(いんいん)として起った。
「放列を()いたな」と、参謀は司令官と顔見合せた。小銃の射撃で追い払われなかったに違いない。時間からしても、追撃の発砲ではないらしい。
「敵は非常に優勢で、小銃の下から抜刀で斬り込んでまいります。官軍は非常に苦戦になりました」
「よろしい、茨木少佐に言え、本隊はすぐに行進を起すから、何事があっても、現在の地点を守備せい。全滅に及んでも差支えないそ、一人も生きると思うなと」
 野津将軍は屹然(きつぜん)として命令した。伝騎は一礼のまま、諸角(もろかく)入れて元来し道へと馳せ去った。一団の砂煙は、馬をも人をも包んで、矢のごとくに駆けて行く勇ましさ、並木の間に隠顕して、絵よりも鮮やかである。
 砲声はますます烈しく、ますます明らかになる。もしや味方が退却したのではあるまいかと、心許なく本隊は駆足で飛ばした。
 安良川の流れを渡って、彼方の(どて)に上ると、戦は今や(たけなわ)である。茨木少佐は放列を小山の麓に布いて、側面の敵を砲撃し、自ら歩兵の陣頭に進んで、群がる敵と戦うけれども、不意に左右から夾撃(きようげき)されたのと、官軍は実戦を知らざる新募の兵であるから、気()え胆おののき、思うように防戦することが出来ない。しだいしだいに(うち)しらまされて、先鋒(さきて)はあえなくも崩れ立って来た。それと見てとる敵は、白鉢巻に日本刀を振りかぶり、勢いに乗じて(おもて)も振らず飛び込んで来る。官軍は退色(ひきいろ)立って右往左往に乱れると、将校の命令などは耳へも入らない。アワヤ官軍は総退却となろうとする一刹那、本隊が到着したので、辛くも頽勢を食い止めた。
 本隊は少時(しばし)の休憩もなく即座に部署につく。佐々木少尉は自ら半小隊を率いて、敵の右側を衝いたが、大厦(たいか)の崩るるは一木の支うところではない、無念の歯を咬みながらも、たちまち全滅してしまう。阿部大尉も負傷する。敵はここを先途とますます戦線を拡げて、いまや官軍を包囲せんありさまとぱなった。
 官軍は今を限りの悪戦となって、司令官野津少将は、部下の止めるのも聴ぎ入れず、自ら馬を陣頭に進め、弾丸雨飛の中に陣刀を揮って、味方を指揮した。
 かくと見る児玉大尉は、後れはせじと、司令部を後にして早くも戦線へと駆けつけ、指揮旗を右手(めて)に揮って、一歩も退くなと、属声(れいせい)叱咤した。



最終更新日 2005年09月17日 00時11分56秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一四 佐賀の乱に奮闘してついに重傷を負う」2

 味方の旗色はやや立て直した。さすがに恥を知る兵士は、踏み止まって盛り返し、屍の山を踏み越えて前進する途端一弾飛来って、旗を振る児玉大尉の右手を貫通した。ハッと思った大尉は、すぐに旗を左手(ゆんで)に持替え、進め進めと兵気を鼓舞する間もなく、無残、流弾はまた左の二の腕を貫いて、余勢烈しく肋骨部に盲貫した。
 もういかぬと思ったけれども、利かぬ気の大尉は、なおも躍り上って、
「射て射て、勝敗は今だぞ。最後の辛抱が勝利だッ」と叫ぶうちに、血は噴き出すがごとく溢れて、軍服は朱に染めたようになった。心は矢竹とはやるけれども、たちまち(めくる)めきて、バッタリ前へのめる。
「児玉副官がやられたッ」と、側なる兵士は、銷魂(たまき)るばかりに絶叫する。
 このときは敵も味方も一歩も去らず、鋒刃相()ちて、火花を散さんばかりの大激戦である、いずれか一歩を退れば、敗軍の大悪魔は猛然と襲いかかるのである。
 官軍は命とたのむ児玉副官を(たお)されて、愕然として色を失した。兵士はタジタジとなって意気たちまち沮喪する。全軍の大敗北はここに兆を現わす瞬間、児玉大尉は一刻の昏睡から覚めて、かっと目を開いた。自分は血碧(ちみどり)にまみれて、磊碗の間に(たお)れている。ヒュッヒュッと、通魔の呪いのごとき銃丸(たま)の音は、雨や霰と前後左右に降り注いで、あたりは死傷者の山を成し、ただ一人収容する暇さえない。
「うぬッ」と、大尉は眼をいからして蹶起した。前歯は堅く紫色の唇を噛んで、吐く息は火炎のように渦巻く。
「児玉は()られはせんぞ。しっかりしろ」と、力足を踏みしめたが、さすがによろよろとして剣を()いて立ち直った。
「射て射て、今一時だぞッ」
 大尉は血を吐かんばかりに絶叫したが、軍服はまるで朱に染って、満身皆紅である。
「大尉殿、敵は退却を始めました」と、付近の兵士が耳元についてささやく。
「そうか、射て射てッ」と、大尉は躍り上って叫んだが、たちまち後ざまに昏倒した。
「大尉殿、傷は浅いです」と、兵士は気を励ます。
「そんなことは知っているわい。くたびれたから少し休むのだ。貴様ら進め進め」と、大尉は声を励まして罵しる。
「オイ、担架(たんか)を持って来い」と、兵士は叫んだ。軍医も駆けつけて来て、応急手当を加えた。
乃公(おれ)は後方へは行かんぞ、このままにしておけ。こんなことで死んでたまるか。ほうっておけほうっておけ」
 軍医は幾度か後送を勧めたが、頑として聴き入れない。さればとて一刻も手当を怠れば、多量の出血で虚脱してしまう。まして死傷者は算を乱して、苦悶の呻吟が大地から湧き立つように起る折柄、大尉にばかり関係(かかりあわ)れないので、仕方なしに銃身を(たて)にして、手足を線鉄(はりがね)(くく)りつけ、ありあわせた軍需品の箱の中へ、仰向けに収容した。
「ヤア、酷いことをするぞ。……とうとう活きながら棺桶へ入れおった。……これで死ねば世話はない」と、重傷にも屈せず、大尉はからからと笑った。
 しかし児玉大尉の奮戦は、色めき立った味方の気勢を恢復し、ついに賊軍を撃退して、やがて敵の根拠を陥入れたので、佐賀の乱は初めて平いだ。
 児玉大尉は戦地からすぐと福岡の臨時病院に後送されて、治療に手を尽されたが、思いのほかに傷が深かったので、容易(たやす)く治癒しない、ましてこのごろは熱さえ昂まって、衰弱は日に加わって来た。
 同僚の将校は、報を聞いて続々見舞に来るが、いずれも戦勝の余勇を負う血気の軍人ではあるし、病院の規律なども、厳しくないので、さしも重態に瀕した児玉大尉の枕元に集会を開いて、高談放歌し、酒を呷り剣を抜いて舞うのさえある。もしも看護卒が注意でもしようものならば、上官の権を濫用して、鉄拳を振りまわすから、誰一人(くちばし)を容れる者がない。それも患者が喧噪を嫌うなら格別、少し熱が低いと、自分が先に立って大声を立てて騒ぐ。これが寝返りも出来ぬ重態の人とは思われない。
 今日も同僚が見舞に来たが、見舞とは名ばかりで、容態一つ聞くのではない、すぐと枕元の椅子にふんそって、しきりに戦功を自慢していたが、昼飯ごろになったので、看護卒にいいつけて鮪の刺身を取り寄せ、持参の酒をらっぽ飲みにして、咽喉(のど)に音を立てている。
「うまそうだなあ」
 さっきから黙って見ていた児玉大尉は、羨ましそうに目を放さない。
「うまいそ、一杯やろうか」と、同僚は何の思慮もなく、かたわらの茶碗に注こうとする。
「どうぞしばらく、ただいま医官に伺って参りますから」
 側にいた看護卒は驚いて押し止めた。
「黙れッ」と、同僚の将校は睨めつける。
「薮などに聞いたって何が解るか、酒は百薬の長だぞ」と、荒々しく床板を踏み鳴らした。
「困りましたなあ」と、看護卒は泣き出さんばかりの顔をする。
乃公(おれ)は酒よりも鮪の刺身が食いたいのだ」と、児玉大尉はまた駄々をこねる。
「かまわんぞ、どうせ乃公(おれ)は助からんのだ、毒でもえいから食わせろ、好きな物でも食っておかなきゃ、死んでも浮かび切れんぞ」
 看護卒は直立不動の姿勢をとったまま、渋面作って、何と答えてよいか解らない。
「これ、食わせなけりゃ、死ぬと貴様の所へ化けて出るぞ」
「ハハァ、児玉、貴公は(なり)が小さいから、化けても幅がきかんよ」
 瀕死の患者と見舞客が勝手な熱を吹く所へ、軍医は入って来たが、この有様に眉を寄せて立ち淀んだ。迂闊に何か言えば、気の立った戦闘員は、何をするか知れない。
「児玉大尉殿が、刺身を召し上りたいと言われます」と、看護卒はようやく責任を譲ってほっと重荷を下した。
「刺身」と、軍医はしばし考える。
「オイ君」と、同僚将校はしかつめらしい軍医の顔を見て、咽喉仏の見えるまで、大きな口を開けて笑う。
「この病院じゃ人間の食うようなものを食わせはせん。児玉に刺身を食わしてやりたまえ、食わせないと、君の所へ化けて行くぜ、どうで死ぬんだからな」
 患者の(そば)で、死ぬときめている見舞客に出逢って、軍医は呆れて物が言えない。
「よろしい、食べられるかどうか知らんが、さしつかえありますまい」
 どうせ希望のない患者と思ったので、軍医はその好める物を許したのである。そしてすぐに次の室へと見舞った。
忌々(いまいま)しい奴だなあ、食べられるかどうか知れんと言いおるわい」と、同僚将校は聞こえよがしに怒鳴る。
 やがて看護卒は刺身の皿を捧げて来たが、仰向いたままの大尉の口へ、箸で挟んで恐る恐る丁寧に入れる。
「ウム、こいつはうまいそ、うまいうまい、うんと食ってやろう」と舌鼓を打つ。
「こら、乃公が食わしてやるわい」
 同僚の大尉は看護卒から皿と箸とを奪い取って、
「それ入れてやるぞ」
 突然三片を一箸に挟んで、患者のロへ押し込んだ。
「どうだ、うまかろう」
「ウム、うまいけれど気をつけてくれ、醤油が鼻の中へ飛び込んで、どうもならんぞ」
「貴公の鼻の穴は大きいからだ、もう少し小さくしろ」
 乱暴な見舞客は、見る見る刺身皿を空にしてしまった。
「どうだ、モッと食うか」
「うん、食う」
「もう一皿持って来い」
 看護卒は呆れて、また一人前持って来た。
「野郎、今度のはまずいぞ」と、患者は腹を立てる。しかし今度のが悪いのではない、前のに飽いたのに、まだ意地を張って食べようとするからである。
 看護卒はこの上どんな難題に悩まされるか解らぬと、ひそかに怖気(おじけ)をふるって、挙手の敬礼をしたまま、いち早く引下ってしまった。後では重態の患者と見舞客とが、アハハハハと大声に笑うのが聞こえた。



最終更新日 2005年09月17日 07時52分48秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一五 熊本に転職して神風連の変に遭う」

一五 熊本に転職して神風連の変に遭う
 一時西陲の風雲を巻き起し、天下の大事ともなるべき佐賀の乱は、幸いに鎮定して、首魁の江藤は高知の甲の浦で捕縛され、島義勇も、副島義高も鹿児島で捕われたので、暴徒は余蘖(よけつ)なきまでに打尽されてしまった。
 児玉大尉の負傷は、一時望みなき重態に落ちたが、気を負うて屈せぬ気性だけに、ついに瀕死の危険を脱して、漸次快方に向ったのには、さしもの軍医も舌を巻いて、むしろ天佑であると驚歎した。
 病院を辞して、元の隊へ復帰してからも、長らく右の手が利かなかったので、常住(しよつちゆう)左で文字を書いていた。それで右が使えるようになってからも、左は依然として利いたので、戦争のお陰で腕を一本拾ったと笑っていた。
 やがて九年の八月二十八日になって、大尉は大阪鎮台から熊本鎮台に転任を命ぜられ准参謀に補せられたが、この若き大尉は、まだ独身であったので、結婚談がさかんに起り、ついに大阪の人岩永半四郎の娘の松子という才色兼備の婦人を迎えて、温かき家庭を作ったのは、十月の十六日であった。
 山桜の花と香わしき武士(もののふ)の紅き血は、春の霞の温かき夢に酔うて、夜の永きを短かしと苦しみ、琴瑟(きんしつ)(とこし)えに和らいで、玉椿の八千代を契った。喜びはこれに止まらずして、同じ十九日というに、少佐に昇進した.。家の内はただ春の光が漂うて、歓楽はいつ尽きるとも知らなかった。
 しかし(あざな)える縄のごとき禍福は、所もかえず足許から起り立った。新しい夫妻が、初々しげに睦じく語らう時、その足下には恐ろしき爆弾の口火が燃やされていたのである。ただ爆発に及ばなんだために、天下は(とこし)えに泰平とのみ思ったので、歓楽極るとこう哀愁たちまち生ずとは、実にこのことであった。それは新夫婦が慕かしき赤心(まこころ)の契りをこめて、まだ一週間ともたたぬ二十二日の夜に、恐ろしき神風連の暴動が起って、楽しき夢の浮世は、たちまち阿修羅の(ちまた)となったのである。
 神風連は時勢に通ぜざる頑冥不霊の徒が、開国の国是に反対し、一も二もなく西洋の文物を排斥する集合で、彼らは廃刀断髪の令に、身を焼くばかりに憤慨し、(まなじり)を決して時の廟堂を嫉視した。
 今の政府の要路の人々は、鎖国攘夷をとなえて、徳川氏を亡ぼしたので、神風連の豪傑も、そのためにこそ一身を犠牲にして、寸功をもたてたのである、それが位置を変えて、自分たちが廟堂に立って政治を執るようになると、たちまち前の主張を忘れて、徳川幕府より以上に卑屈な開国方針をとり、夷人の服制に則り、夷人の食を真似る、こんな者に国政を任しておけば、十年も経たぬに、秋津島根の神国は、夷人に奪われてしまう。じつに国家の一大事であるから、急に発して県庁と鎮台とを襲い、売国の奸賊の肝を冷させねばならぬと、迅雷耳を蔽うに(いとま)あらせず、疾風の木の葉を捲くがごとく奮い立った。彼らの多くは、電線の下を横切る時には、頭上に扇子をかざし、唾を吐いて過ぎるほどで、西洋の事物とさえ見れば、善悪を問わず唾棄したのである。
 鎮台でもうすうす士族の不平を知らぬではなかったが、暴動を起そうなどとは予期せなんだのである。それを探知した彼らは、十月二十二日の真夜中、冷露袖に沁みて、夜気爽やかに、残月雲を洩れて星(まばら)なる藤崎神社の御手洗前に集合する者百七十人余り、首魁太田黒伴雄、加陽(かよう)栄太、大野鉄平、上野謙吾、愛敬左司馬らは、甲冑に身を固め、床几に懸って上段に控えている。自余の徒党は烏帽子直垂(えほしひたたれ)を着る者、(よろい)を着せしものまちまちの服装ながら、誰一人洋服に似た者すらない。いずれも両刀を帯し、好みによって手馴れの槍薙刀(なぎなた)を携えるもある。落ち行く月が、斜めに宮の森をながれて凄き光を投ると、篠芒(しのすすき)の揺らぐように、刃渡りが輝く恐ろしさは、常闇の魔王が阿修羅の眷属を促して、人間を攻め滅ぼすべく、悪念の毒火を吹くかと恐ろしい。
 首魁太田黒は厳かに立ち上って、神寂(かみさび)たる神前に額づき、しばし黙疇を捧げたる後、神符を焼いて盟をなし、暗号を定めて部署を示した。
  一の手は赤嶺一雄を指図役とし、鎮台司令官種田政明の邸を襲い、必ずその首を挙げること。
  二の手は斎藤熊五郎を指図役とし、聯隊長中佐与倉知実(ともざね)を斬ること。
  三の手は千葉真鞆(まとも)を指図役とし、同じく中佐高島茂徳を斬ること。
  四の手は吉村一を指図役とし、県令安岡良亮を襲撃すること。
  五の手は浦楯紀(たてのり)を指図役とし、前八代県令太田黒惟信(これのぶ)を襲撃すること。
  六の手は加々美十郎を指図役とし、砲兵営を襲うこと。
  七の手は鹿島甕雄(かめお)を指図役とし、歩兵営を襲うこと。
  ただし一の手より五の手に至る各組は、目的を達し次第ただちに鎮台士官ならびに県庁役人の邸宅に随所乱入し首級を挙ぐること。
  以上五組の諸手は、目的を達し次第、六、七の手の後詰(こづめ)たるべきこと。
  婦女子を斬るは刀のけがれにつき、敵対せざる限り捨て置くこと。
 軍令秋霜のごとく厳として侵すべからず、四(りゆう)の白旗を夜風に靡かせて、法螺(ほら)の貝を吹き鳴し、英気颯爽として威風あたりを払い、七手に分れ驀然として熊本市中に乱入した。寂しき風は葦の花に乱れて暗雲飛ぶことしきりに、名も知れぬ怪鳥(けちよう)は、けたたましき声を上げて、墨を流したような雲より雲へと飛交して啼く。



最終更新日 2005年09月18日 10時09分29秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一六 暴徒官邸を襲うてついに種田少将を斬る」

一六 暴徒官邸を襲うてついに種田少将を斬る
 殺気天を蔽うて、妖氛(ようふん)しきりに満てる安政橋の袂に、新屋敷と称する一廓があり、司令官種田少将の邸はここに設けられてある。おりから少将は夜更けるまで客と相対して酒を酌み交したので、大酔淋漓として奥座敷に寝てしまった。熊本随一の美人として聞こえた愛妾お勝の方は、東京柳橋の芸者であったが、多情多恨の将軍と相思われて、根ながらに手活(ていけ)の花と栽え替られ、はるばる九州の涯まで従って来たので、泡沫(うたかた)の流れの身とは言え、操正しく心男々しくして、古の静御前をそのままであると、将軍麾下の士から喝仰されていた。
 もとより人少なの邸ではあるし、おりから書生は郷里に帰ったので、召使の者とては馬丁と老婦(ばあや)とがあるばかり、それも幾間か隔てて勝手の方に寝てしまったから、奥には将軍と勝女とがいるのみである。
 蘭灯影暗くして、時計のきしむ音のみ、刻々と地の底へ滅入るように聞こえる。勝女は寝もやらずして、東京へ送る手紙を書き始めた。ひしと戸が閉めてあるのに、どこから迷い込んだか、すたれ果てた秋の蝶がヒラヒラと舞って洋灯(らんぷ)の中に入ったので、火がパッと揺らいで、ジイジイと怪しき音を立てた。
 勝女は半元服の美しき眉を顰めて、それを眺めていたが、火に焚かれる虫の身の果てを思うと、引き入れられるような厭な気持がするので、そのまま洋灯の螺旋(ねじ)を捻って、寝巻と着替ゆる途端、庭の植込みに怪しき音がして、喞々(そくそく)たる虫の音がはたと止んだ。
 勝女の冴えた眼は、キラリと輝いたが、そのままそっと中腰になって、自分の耳を疑うように考えた。
 その刹那破れるばかりに戸を敲く音がする。勝女はうすうすこのごろの物情を知っているから、もしやと胸を轟かしたが、心地よげに眠る少将の夢を驚かすに忍びないので、そっと立って玄関の方へ行った。
誰方(どなた)」と、勝女は弱身を見せじと、銀鈴を(まろ)ばすような声で、きっと尋ねた。
「開けろ開けろ」
 外にはガヤガヤと人の挙動(けはい)がして、戸を砕かんばかりに(たた)ぎ立てた。
 勝女は早くもそれと察した。少将の身の上心許なしと、取って返して、少将の上に蔽いかぶさるようにして揺り起した。
「旦那様旦那様、お起き遊ばせ、何か変な者が参りました」と、力の限り揺すぶった。
 ()れよとばかり敲く戸は、たちまち外されて、暴徒はドヤドヤと乱入した。
 勝女はアナヤと驚いたが、たちまち身を挺して座敷の入口に身構えし、
「誰じゃ誰じゃ、ここは種田少将の邸、無作法しやるな」
 (きぬ)を裂く声は、凜々と冷え渡る夜半に響いて、暴徒は耳をつんざかれるように覚え、思わず踏み込む一足を躊躇(ためら)った。
 勝女は蘭灯の火影に、暴徒の姿を見ると、甲冑に身を固めて、明煌々(こうこう)たる抜刀(ぬきみ)を抜きそばめ、ただ一刀に斬り捨んず気勢である。
女郎(めろう)退()け、怪我するぞ」
 (おど)して通らんものと、大声に叱咤した。
「いいえ退きません、退きません。私を殺してお通りなさい」
 女ながらも少将の大事と、花より優しき体を、むらがる白刃の前に投出した。
「何、こやつが」と、先に立つ暴徒は烈火のごとくに怒って、無反(むぞり)業物(わざもの)を振りかぶった。
「サア、私を殺して下さい」
 ドッカと坐って、いきまく男の顔をジッと睨めた。美人が嬌嗔(きようしん)を発した(かんばせ)は、朧ながらに照されて、月にも花にも(たと)えん方もない。
「貴様は何者だ」と、先に立つ男は地踏鞴(じたたら)踏んでもどかしがる。多寡が軟弱(かよわ)き女一人、
斬り捨てるはたやすいが、軍令の禁ずるところである。
「私は少将様に召し使われる女、闇撃(やみうち)に来るような卑怯な貴君方が恐ろしくって、逃げ隠れはいたしません。私の目の黒い中は、ここ一足も入れません」と、白刃を踏んで恐れぬ勝女の顔は、上気して花より鮮かである。
「エイ、退()けえ」と、後なる暴徒は、飛び込みざまに足蹴にした。
「エエ、口惜しい」と、勝女は金切声に、その足に獅噛(しが)みついた。途端に飛び込んだ一人は、威しの背打を食らわしたが、手許狂って肩先深く斬り下げた。
「あっ」と、勝女がよろめき(たお)るる暇に、暴徒は驀然と飛び込んで、今起き上がった少将の真向めがけて一刀浴せかけたり。
「下郎推参なり」
 獅子吼のごとき大喝一声、飛び起きざまに手槍を揮って先なる暴徒の胸板めがけて突き出す途端に、(おめ)き叫んで前後左右より斬り付ける無残の刃、残念と叫びもあえず、少将がバッタリ前へ仆るる所をのしかかって、暴徒は無惨無惨(むざむざ)その首を掻き切り、鬨の声を張りあげて引き揚げた。
 それと見る勝女の口惜しさ、己れ少将の敵と、がばとはね起きて追い駆んとしたが、重傷(ふかで)に弱ってよろめきよろめき、襖に擱まって、怨めし気に睨まえた。バラリとかかる遅れ毛を、きっと前歯に噛みしめたのが、しどけなき雪の肌を染むる血汐に、一入(ひとしお)凄婉(せいえん)を増し、鬼気人に迫るを覚える。



最終更新日 2005年09月19日 09時03分36秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一七 髭を剃り装を変じて討伐のことに従う」1

一七 髭を剃り装を変じて討伐のことに従う
 児玉参謀の白河端の住居には、まだ眠りもやらで、新妻の松子と、行く末の楽しみを語り合い、八千代の(ちぎり)(かわ)らじと祈る所へ、慌だしく裏口を(たた)くのは、軒続きの家主落合の声である。
「児玉様、お目覚めですか、一大事でございますぞ」と、あたりを(かね)る低い声ながら、底力ある響きがする。
「ヤッ」と、奥の間に夫妻が顔を見合せる間もなく、日頃親しき落合は、はや次の間まで入って来た。
「落合様、何じゃ」と、参謀は飛び起きた。
「児玉の旦那、世間が変でござるぞ。今鎮台の方に火の手が見えるが、ただの火事じゃありません。鉄砲の音がポンポンしています」と、声をひそめてささやく。
「そうですか、ここじゃ少しも聞こえんでな」参謀が庭の雨戸を細目に明けて、遥かに城の方を見ると、炎々たる火光は天を焦して、まさしく鎮台に危急ありと覚しく、豆を炒るがごとき小銃の音は、手に取るように聞こえる。
「松子、軍服を出してくれ」
 参謀はきっと眉をあげた。
「アレ貴君(あなた)」と、松子夫人は胸を轟かしつつ、良人(おつと)の顔を気づかわし気に見る。
「旦那いけませんや、今行っちゃ危険(けんのん)です、士族の頑固党に違いありません、あぶのうごわすぞ」と、家主もしきりに押し止めた。
「やッ、そうには違いないが、役目じゃ仕方がない。……しかし乃公は殺されはせんから、安心してくれ」
 松子夫人がためらいながら持っている軍服を、引手(ひつた)くるようにして着替るとたん、またしても庭口から飛び込んで来たのは、邸続きの酒井砲兵少尉の馬丁である。
「児玉の旦那大変です、兵営を焼討されて、そこらじゅうに斬り合が始まりました。早く鎮台へいらっしゃるように、主人の申付でごさいます」と促し立てる。
「オゥ、酒井君は当直じゃったな」
「そうです、私は兵営から飛んで来ました」
 東京から連れて来た酒井少尉の馬丁は、勇み肌で気が利いているから、かかる場合に役に立つ男であった。
「司令官の邸へ行ったか」
「いいえまだ行きません、これから司令官や聯隊長の所へ行きます」
「そうか、ご苫労だった。それでは僕が司令官の所へ行くから、(おまえ)は聯隊長の方へ行け」参謀はそのまま門を出ると、安岡権令の邸と見える山崎の方は、今や炎々たる猛火に包まれて、空をも焚き立てんばかり、吹ぎ散る火の粉は満天の星かと鮮やかに燃える。それと対峙して、本庄方面からも、一条の火の手は揚った、いまにも熊本市中を焼き払わんばかりの有様である。
「こりゃ実に不思議だ。軍服を脱いで行こう」と、急いで平服に着かえ、新屋敷を指して、脱兎のごとくに駆け出した。
 不思議なことには、この怪しき大火と、銃声とを聞きながら、市中は誰一人目覚める者がないのか、(げき)として音もなければ外へ出る者すらない。ことによると、頑固党の奴輩と市民とは、内々申し合せがあるかも知れない、迂闊に歩いては危険であると思うので、驅の小さいのを幸い、軒下を伝って、鼠のごとくに駆け出した。月は全く沈んだけれども、三個所の火の手で、往来は白昼のようである。
 参謀はただ一人寂しく物凄き市中を駆け抜けて、早くも安政橋まで来ると、橋のかなたに人声がして、甲冑扮装の十余人の一隊が、意気揚々として引き揚げて来るらしい。
 南無三、見つけられてはと、参謀は物影を這うようにして、慌てて橋の下へ隠れ、橋杭に(つかま)って、静かに彼らをやり過そうとした。
 それと知らぬ一隊は、あだかも参謀の隠れている所まで来て、しばし立ち止まった。参謀は(ひや)りと水を浴びせられた心地になる。
「うまくやり申したな。大抵片づいたでごわす」
「いや面白いことじゃった。しかしあの女子(おなご)は見上げたものじゃ。誰か知らぬ、あれを斬ったは無慈悲じゃったの」
 暴徒の一群は、橋の欄干に(たむろ)して、空一面に焚けただれた雲の色を心地よげに見上げた。
「この分じゃ、諸手ともうまく仕遂げたらしい。しかし児玉参謀はどうあったか。誰かやった者があるはずじゃ」
 橋の下に隠れたる当の少佐は、思わず襟元から水を浴びせられる心地がした。橋板一枚の上と下、物の三寸と隔たらぬ所に、敵と味方が別れているのである。
「一体児玉はどういう風の男じゃろうか」
「左様、自体小男の痩せた奴じゃ、鼠みたようなチョロチョロ髭をはやしおる、まだ二十五六、ほん小僧じゃよ」
 足の下に当人がおるとも知らぬ神風連の猛者(もさ)は、しきりに参謀の人相を説き始めた。思いもかけず見知り人がいたかと思うと、参謀はびっくりして、思わずそのチョロチョロ髭に手をあてた。そしてもしや彼らは、種田邸を襲撃したのではあるまいかと思った。引き揚げて来る方角がそれであるし、惜しき女を斬ったと言う、十に九は司令官の新屋敷に殺到したに違いないと、参謀は橋の下に潜みながら、実に気が気でない。
「サアこれから砲兵隊の後援(ごつめ)しようそ。もし途中でチョロチョロ髭を見たら、容赦なく斬り捨てるじゃ」
 参謀は橋の下で密かに舌を吐いた。
 賊が橋上に佇ずんで、二三の雑談を交したのは、ただ一瞬時、物の三分とはかからぬのであったが、橋の下の人には、千秋の思いがする。
 やがて児玉参謀は、橋桁から首をもち上げて、遥かに隔たり行く敵の足音に耳をそばだてたが、続いてくる暴徒もないらしい。
 よしと、参謀は身を躍らして、鼠のごとくに安政橋を走り脱けた。かなたの袂には鎮台の賄方がある。
 児玉参謀はそっと賄方の裏ロへ回って、しばし様子を見回したが、幸いに(おもて)は人足が杜絶えて、誰知る者もない。戸の隙から中を覗くと、洋灯(らんぶ)は点してあるけれども、わざと物の陰に隠して、外へ光の洩れぬようになっている。そして屈強な男どもは、身つくろいして寄り集っているらしい。
「オイ、ちょっと開けてくれ」と、参謀は静かに戸を叩いたが、あたりが静かなので、自分の耳には恐ろしい響きとなってきこえる。
「誰かい」と、中からも小さい声で尋ねた。
「児玉だ児玉だ、鎮台の児玉だ」
 ささやくばかりの低声(こごえ)で、戸の隙から吹き込むように言った。
「児玉の旦那ですか」と、賄の主人(あるじ)は飛び上らんばかりに驚き、慌てて戸を開けるとたん、参謀はヒラリと飛び込んだ。
「大変な騒動が起りましたが、旦那ご無事で結構です。サア奥へいらっしゃい」と、主人は参謀が隠家を求めに来たと思ったらしい。
「ウム、おまえの家はよく毀されないな」
「へー、ここは大丈夫ですから、旦那ご安心なさいまし」
「いや、わしは今自宅から飛び出してきたのだが、この(なり)じゃあぶないから、印袢纏(しるしはんてん)と股引を貸してもらいたい」
「旦那外へ出ちゃいけません、もう県庁の方も兵営の方も、ドンドン焼討ちが始まっています。うちの若い者が、鎮台から飛んで帰って来ましたが、県令様も()られたということです、鎮台の旦那方の所へは、皆討入りましたようです。塩屋中尉も傷を負ったそうで、そこら中の往来に首や胴が転がっていたと言いますから」と、目を円くしてあぶながる。
「いやよろしい、そうなりゃなおさら行かにゃならない。ついでに剃刀を借りたいな」
「何になさるので」と、主人は怪訝顔に鏡台の曳出しを探している。
「この髭を剃るんだ、こいつが命取りだ。……第一印袢纏に髭じゃ、すぐに化けの皮が(あら)われるわい」
「旦那は落ちついた者ですな、恐れ入りました」と、主人は側から手伝って、袢纏や股引の指揮(さしず)をする。参謀はゴリゴリと口髭を剃り落してしまった。
「ヤア、若くなったぞ」
 鏡の中をのぞき込んで、独りで噴き出しながら、そっと外へ出ると、幸いに町消防(まちひけし)の一隊が、火を望んで駆けつけるのに出会った。参謀はすぐにその中に紛れ込んで、ワイワイ言いながら駆け行くので、途中で暴徒に逢っても、誰一人児玉少佐と心づく者なく、こともなく司令官の新屋敷へ辿りついた。



最終更新日 2005年09月19日 09時48分23秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一七 髭を剃り装を変じて討伐のことに従う」2

 夜更とは言いながら、近辺(かいわい)は火の消えたごとくに森閑として、人棲める邸町とも思えぬばかりに静かである。この騒ぎにこの寂寞がますます不審で、なおさら心(もと)なく、参謀はひっそりした種田邸の門をホトホトとたたいた。中からは何の応答(いらえ)もない。
 ふと見ると、足元にふみにじった草鞋(わらじ)の痕、それが五人十人の人数ではないらしい、門の扉には足を揚げて蹴つけた痕が、ありありと火光(ほかげ)に読まれる。
 さては先刻の暴徒の一隊は、確かにここを襲撃した者に違いない。司令官の安否はいかにと、参謀は(ましら)のごとくに塀を乗越して、中の口の格子戸を慌だしくたたいた。
誰方(どなた)でいらっしゃいますか」と、少し息づかいの忙しい、冴えた女の声がした。
「オウ奥様ですか」と、児玉少佐はその無事を知って少し安心した。勝女は将軍の愛妾ながら、正妻がいないので、部下の将校は奥様と呼び習わしていたのである。
「児玉様でいらっしゃいますか」と、中から嬉しそうに言ったが、声は怪しくふるえていた。
「児玉です、別条はありませんか」
 中から急いで開けた勝女は、参謀を引き入れて、再び元のごとくに鎖固(さしかた)めたが、家の内はムウっと血なまぐさい鬼気が人を襲って、何様ただごとならず見える。暗闇ながらも、勝女の息づかいのせわしいのも訝かしい。
「どうかなすったか」
「ハイ、やられましたわ」と、さすがに自若としている。
「エッ」と、児玉少佐は胸を衝かれた。途端に火を摺って手燭に点じた勝女の、水の滴るるような婀娜姿(あだすがた)は、無残、肩より裾にかけて血碧になって、玉を刻んだ顔は一点の生気だもなく蒼白い。
 見るとあたりの戸障子は蹴放されて、生々しき血は襖といわず壁といわず、塗るがごとくに(したた)っている。そして無益に揮った刀の鋒尖(きつさき)は、柱や鴨居に噛みついたごとくに切り込まれた。
「ご主人はご無事ですか」
「もういけません」
 男優りの勝女も、気が緩んだか、ベッタリと蹲ってしまった。勝気の彼女は、暴徒が引き揚るとともに、蹌跟(よろぽ)いながら、自から外へ出て門を閉じ、玄関の締りをつけ、少将の死屍(なきがら)には、布団(ふとん)を覆うて、いますがごとくに(つくろ)ったのである。
 少佐は勝女の言葉に猶予もならず、つかつかと奥の寝間へ入って、そっと掻巻(かいまき)をまくったが、首なき将軍の死屍(なきがら)を見て、■(ぎんぜん)として涙を浮べた。
「チエッ、残念でしたなあ」
 誰に言うともなく、少佐はあたりを睨んで立ち上った。将軍の手には、なお手槍を握りしめて放さなかった。少佐は一本ずつに指を放して、手槍を取り上るや否や、万一の用意にそれを脇挟んで、残る方なく家内を臨検した。見ると老婆は勝手元に斬り倒され、馬丁は行衛も知れずになった。
「奥さん、(しつ)かりなさい、僕がこの(かたき)を取ります」と、少佐は殊勝(けなげ)に力を添えて、勝手の酒を気つけ代りに勝女に呑ませ、負傷の手当などするところへ、またしても門の戸を砕けるばかりにたたく者がある。
 少佐は手槍を掻込(かいこ)んで、内より雨戸を明けた。暴徒ならばただ一突と爛々たる眼光(まなざし)
闇中を睨まえながら、
「誰かッ。何の用だッ」と大喝一声、雷霆(らいてい)一時に震うがごとくである。
「ヤツ、児玉参謀殿ですか、鎮台の河島書記です」
「何だ君か、早く入れ」と、少佐は少し力抜けがしたが、この人が来たので、手配(てくばり)がしやすくなった。
「鎮台はどうか」
「私も私宅にいると、急に小銃の音がしましたから、驚いて飛び起きたので、鎮台は火をかけられました、防戦が非常に困難のようですから、急いでこちらへ報告に来たところです。……何でも頑固士族が暴動を起したに違いないですが、今夜の騒動は、陸軍より先に、市中に知れていたらしいです。町々は森閑として、ただの一軒、灯火(あかり)の見えるのはありません」
「この分では県庁の方も心配だな」
 続いて鎮台下士が二人、司令官の身を気遣って、私宅から駆けつけて来た。これで種田邸の護衛は出来る。
 児玉参謀はツクヅク考えた。迅雷耳を掩うのいとまなく爆発して、四方一時に攻撃の暴威を逞しゅうしたのであるから、参謀長も聯隊長もあぶない。県庁は元より守備兵はなし、県令の身上はなおさらである。自分が衝に当らねば熊本を保つことは出来ないと、決然として起ち上った。
「河島君、君その服を脱ぎ、変装して鎮台へ命令を伝達してくれたまえ。大至急にやらにゃいかん。……奥様に聞いてみたまえ、何か衣服(きもの)があるだろう」
 少佐は一面河島書記に準備(したく)を命じ、一面には手帳を裂いて命令を(したた)めた。
 一今夜鎮台を襲撃せる賊徒を討伐すべし。
 一司令官種田少将は健在なり。
 一この命令を接受せる隊はただちに護衛兵を司令官邸に派遣すべし。
「サアこの命令書を持って行ってくれ、司令官の()られたことは決して言っちゃならんぞ、誰が訊ねても」
「承知しました」と、河田書記は勇ましく答えた。
「ご苦労じゃが、全速力で飛んで行ってもらいたい」
 河田は和服の尻引っからげて、裏門から脱兎のごとくに飛び出した。
「うまくやってくれりゃえいがなあ」と、少佐は気づかわしげに物陰から後を見送った。
この時はさすがに馳せ違う人影が、夜の寂寞を破って雑然たる足音となって聞こえて来た。しかしそれが良民やら暴徒やら解らぬから、危険は一層増したのである。
 児玉少佐は今や鎮台の責任が双肩にかかることを自覚したので、長くこの邸に止まることは出来ぬが、護衛兵が来なければ、安心して出で去ることも出来ない。今か今かと待つほどに、河出書記の命令伝達が首尾よく城外花畑の、小川第三大隊の手に落ちたので、即時に兵を割いて、駆足で派遣して来た。
 印袢纏股引(しるしばんてんももひき)の参謀少佐は、すぐに兵を要所に配って、不測の変に備えた上、急いで高島参謀長の邸へと駆けつけた。
 この時鎮台の火の手はようやく衰えたが、赤黒い余炎は空一面に拡がって、その絶間絶間から、熟銅の色をした星が、惨憺たる下界を呪うように覗いている。折から颯々(さつさつ)たる夜風は、しっとりした雨気を送り来って、蕭殺たる風物うたた凄涼を加える。
 半町とは隔たらぬ高島邸、門前の柳は音なく枝垂(しだれ)て、人の挙動(けはい)はないが、門の扉は半ば開き、腥風面を(うち)て、狼藉の跡が思われる。
 児玉少佐は門を入ると、すぐに庭へと回った。旧藩の重役が贅を尽した邸で、庭の数寄は、城下に聞こゆる臨泉亭樹である。()の目の植込みの間に潜んで、少佐は邸内の様子を見たが、回縁(まわりえん)の雨戸が二三枚外れて、家の中は真の闇、人がいるとは思われない。ふと見ると、庭の松の小枝隠れに、二階の雨戸も一枚外されている。
 さすがの少佐も肚胸を衝いた。参謀長の身の上はいかにと、植込みの中を出て外回りを一巡したのは、もしや暴徒が残ってはいまいかと警戒したのである。
「少佐殿、大変です」と、護衛に連れた兵士は、歯の根も合わぬまでに恐怖して、朧に暗き池の方を指さした。
「何か」
「参謀長殿です」と顫えながらに逡巡(しりごみ)しておる。
「しっかりせえ」
 少佐はずかずかと池の側へと寄った。果せるかな、石橋架けた水汀(みぎわ)の、小さな黒松を植えた芝生に、高島参謀長は(たお)れている。寝巻姿のままながら、烈しく防戦したと見えて、握る刀は(ささら)のごとくに刃毀(はこぽ)れして、最後の勇々(ゆゆ)しさが目に見えるようである。
「参謀長殿」と、兵士は引き起そうとしたが、たちまち押えた手を放して、
「首を()られてしまいました」と、ふるえ声になる。
「静かにせえ」
 少佐は歯をかんで、ほっと太い溜息を吐いた。ここも暴徒に襲われたに違いないとは思ったが、よもや大佐が、この浅ましい死屍(なきがら)になろうとは思わなかった。万一にも傷を負うくらいに過ぎないと信じたが、今は万事休す、鎮台の首脳は皆殺戮されて、残るは自分ばかりとなった。さしもの少佐も唖然として手の下しようがない。
「家の中を臨検しよう」と、少佐は家内の惨状を予期しながら、引き具した二人の兵士を見た。
「ハッ、しかし」と、顔見合せて言葉も出ない。
乃公(わし)について来い」
 少佐はヒラリと縁へ飛び上がった。
「どなたかおらんか。家の方はおらっしゃらんか」
 三四度呼んでみたが答がない。そして障子襖は踏みたおされ、調度は蹴散らされた様子である。
「雨戸を残らず外せ」と、少佐は万一中から不意に襲われぬ用心をした。豪胆なる暴徒は家の内に潜んで、見舞の官人に斬りかからんも図り難い。
「少佐殿、奥様が殺されています」
「ウム」と、児玉少佐は失望の溜息を洩して、力なく手槍を杖ついて立った。
 奥様というのは、司令官の勝女と同じく、やはり愛妾であるが、見るも無残に斬殺されて、四辺(あたり)はさながら血の海になっている。胴に斬り込まれた重傷(ふかで)からは、血糊に(まみ)れた(はらわた)が露出していた。豪胆なる少佐も、惨憺たるこの有様に魂を奪われて、ほとんど手のつけようがない。しかし、ともかくも家の内を(しら)べねばならぬから、準備(ようい)の手燭に火を(とも)して、(くま)なく調べて見ると、下女も書生も惨殺されて、家内の惨状は目もあてられない。ただ馬丁のみ、いち早く二階から逃げ出したらしいので、さきに見た二階の戸の外れたのは、その痕跡であった。
 露深き庭には、枯々の虫の声が、哀れ深く亡魂(なきたま)を弔らうように鳴くのが、陰に籠ってしきりに耳につくばかり、嵐の過ぎた後のように四辺(あたり)は静かである。



最終更新日 2005年09月19日 10時57分04秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一八 仁尾大属と謀りて善後の策を講ず」

一八 仁尾大属と謀りて善後の策を講ず
 ちょうど種田邸が襲撃されたと同時である。鎮台の砲兵歩兵の両営に、天より降ったか地から湧いたか、突然一団の怪兵があらわれて、昼の疲れに眠りこけた兵舎に、おめき叫んで乱入した。それと同時に怪しき火は、大紅蓮の火炎を渦巻き立てて、四方八方より焼立て来り、さながら阿鼻叫喚の修羅場である。煙の下からは、思い思いの甲冑に身を固めた、人とも鬼とも解らぬ怪物が、剣を舞して殺到する不意の襲撃に、兵士は寝耳に水の狼狽、いずれを敵とも味方とも分かず、軍服を着る間もなければ、襯衣(しやつ)のままで躍り出でる。煙に(むせ)び、火に焚かれ、逃げ惑えるは袈裟掛けに斬り殺され、将校と言わず、下士卒と言わず、大半殺傷されて、板押(はめ)も壁も血碧(ちみどり)になり、(うめ)き苦しむ声は、活きながら地獄の底へ落ちたようである。
 暴徒は猛虎の羊群を駆るがごとく、思うままなる惨虐を逞しくして、さっと引揚げてしまった。さながら大風の蕭颯(しようさつ)として吹き来るごとく、忽然と顕われまた忽然と消えてしまった。人々はただ呆気にとられて、手に手に消防するやら、負傷者を看護するやら、全く夢に騒動した後のように、ただ茫然としている所へ、児玉少佐は印袢纏のまま駆けつけた。見ると負傷者の中には、与倉聯隊長もあるし、そのほか重だった将校の死傷も数知れぬばかりである。暴徒は頑固士族の神風連であろうとは、すぐに推察されたけれども、神風連が軍隊に何の怨みがあって、司令官以下の私宅まで襲い、見ても無残な惨害を逞しくしたのであろうか、その趣意に至っては少しも解らない。
 しかし軍隊に対してさえ、この暴戻であるから、県庁の惨状は思いやられるので、児玉少佐は、同僚の林少佐とともに、兵士を点検して、すぐに討伐隊を組織し、市内の秩序を恢復するにつとめたが、この時少佐は一身に鎮台を背負って立ったのであるから、その多忙さは息さえつけぬ有様であった。
 天変地異一時に襲来せるごときすさまじき一夜は、仄々(ほのほの)と白んで来た。県庁の吏員は、真蒼になって鎮台へ避難して来る。しかしいずれも下級の官吏であるから、暴徒もこのごときを眼中には置かぬので、私宅を襲撃するようなことはなかったが、彼らは県庁の焼撃ちを見て、わが身も敵から捜索されているような心地がして、肝魂(きもだましい)も身に添わず、足も宙に逃げて来たのであるから、ただ途中にゴロゴロ死骸が転がっているというばかりで何の要領も得ない。
 さらぬだに乱脈になった鎮台は、これらの避難者が加わってますます雑沓して来た。そして今になって急に強いことを言って、大言壮語するのがあるが、その語尾は(ふる)えて、声に曇りを帯びているのは隠されない。
 児玉参謀は自ら県庁との連絡をとるべく、護衛兵を具して出かけた。この時にはもはや(まかない)の印袢纏ではない。新夫人松子の機転で、軍服を届けてよこしたのは、一面に自宅の無事を知らせる方便であった。
 市中へ出て見ると、軒を並べる大廈高楼は、いずれも表戸を閉めて、音もなく静まり返っている。
 朝露の並木が萎垂(しほた)れる大路に、無残の死骸はそこごこに散乱して、血は莢草(しまくさ)に滲み、小溝に流れている。(かしら)の転げて彼蒼(ひそう)を睨むのや、手首の千切れて飛び散るなど、大戦の跡よりなお(むごた)らしい。
 殺されたのは、いずれも県庁や学校に関係した人々で、多くは火の手を見て、驚いて駆つけるのを、物の陰から躍り出て、虎豹の飛びかかるがごとくに斬り殺したのである。洋服姿の者などは、目も当られぬ残酷な殺され方をしていた。
 県庁へ来て見ると、火は幾棟かの建物を焼いて、ほとんど自然に消えたのである。群がる県吏は戦々兢々として、ただワヤワヤするばかり、児玉参謀の登庁を見て、いずれも甦生(よみがえ)った思いがした。
「県令はご無事か」と、参謀は居合せた属官を見て、真っ先に訊ねた。
「手前は幸いと負傷(けが)もいたしません」
「いや、君のことじゃない、安岡県令だ」
「ハア、一向存じません」と、県吏は失心したかのようである。
「小関参事はいられるだろう」
 参謀は二階の県令官房へ来てたずねた。
「一向お見えになりません」
「困るな、誰か重だった人がいるだろう」と、四方(あたり)を見回していると、廊下を通る仁尾大属(だいさかん)の姿がみえた。
「オゥ、仁尾様ですか。意外なことでしたな」児玉参謀は挙手の礼をした、そしてこの人ならば、非常の時にも狼狽(うろた)える平家の公達(きんだち)ではないと思った。
 仁尾大属は文官ながら、年少気鋭の勇々(ゆゆ)しい男振りで左手の負傷を白布で巻いていたが、生々しき血汐は、名誉の働きを誇るがごとくに滲んでいる。洋服の上に巻きつけた兵児帯には、無反(むぞり)の一刀を帯して、亢進した面は、色白の頬に花の香を湛えた。
「児玉様、神風連の暴発じゃ。ただ一歩先んじられたばかりに、惨憺たることになりました。鎮台は無事ですか」と、立ちながら(つくえ)を挟んで向き合った。
「僕の方よりも、県令様はどうですか」
 児玉参謀ぱ万に一つも無事を予期していない。
「残念じゃが、()られました」
「そうでしたか、実に無念ですな。ひどいことをしおる」
「いや、しかし児玉参謀が無事なのは何より幸いじゃ。実は司令官以下、貴君方も皆殺られたという風評で酷く、心配しました。現に中少尉の私宅へさえ襲撃を加えたです」
「貴君も無事で重畳でした。負傷しましたな」
「いや、ほんの爪掻疵(つめかききず)で」と、仁尾大属(だいさかん)は、虹のごとき気を吐いて椅子へ腰を下した。
「実はこの騒動は、内々知らぬではなかったで、昨夜深更まで、安岡県令の官宅で、神風連の鎮撫策を相談していましたのじゃ。……巡査を出して捕縛するのは易いが、まだ十分の犯跡もないに、こちらから挑むようなことをすると、熊本市民や、不平士族の中にも内々彼らに気脈を通じるもあるし、現に県庁内でも、下級の(やとい)などは安心が出来んで、これらに蜂起されたら、毛を吹いて疵を求むるようなものじゃで、その相談に夜を更していまするとじゃ。突然ドヤドヤと騒がしい足音がしたかと思うと『安岡いるか』と突然相談の席へ躍り込んだのは、一二二十人もござろうか、暴徒は皆甲冑で、槍薙刀を振回して、手当り次第斬りまくって、待てしばしもないのですわい」
「それでは県庁の主なる官員は、皆集っておったですな」
「暴徒は何人かの内通で、それと知って来たらしいです。僕は何が何やら夢中で、暴徒の刀をもぎ取って、二三人斬りつけたと思うが、何分にも多勢に無勢で、県令も殺られるし、小関参事も殺される。その他居合した者は、大抵殺られてしもうたで、僕は滅多斬りの最中、一方の血路を開いて、裏口から県庁へ逃げて来たのですが、もうこの時には書物庫(しよもつぐら)には一杯火が回っておって、小使まで殺されていました。実に残忍酷薄の惨状で口にも筆にも尽されん」と、仁尾大属は、血走る眼に県令の住居の方を見た。血腥(ちなまぐ)さき風は、煤ぶり燃えの異臭を送って、白い煙の揺ぐのが、窓越しに見える。
「それは大事件ですな。実は僕の方でも、種田司令官も、高島参謀長も殺られて、あまつさえ首まで持って行かれたという始末じゃし、鎮台も焼討ちにあって、与倉中佐は重傷を負う、散々な体たらくじゃ」
「実に猛獣のごとき奴輩(やつばら)です。僕はとに角巡査隊を召集して、暴徒の捜索をやらせているが、驚いたことには、彼奴(きやつ)らはいずれも自殺したらしい。今報告によると、首魁は太田黒伴雄、中島謙吉のそうだが、彼奴は真先に自殺したと申すことで、手のつけられん奴どもですわい」
 児玉参謀は呆れて顔を見合した。神風連の暴徒は、あらかじめ自殺を覚悟して、行きがけの駄賃にこの乱暴をしたのであるから、狼藉の限りを尽くしたのもそのはずである。
 文官としては勇悍にして意気(さかん)なる仁尾大属は、この事件を本省に急報すべく、郵便局に打電を命じてみると、暴徒は事を挙げるに先立って、早くも電線を切断したので、修理の暇ももどかしく、権中属久保猷を福岡に急派して、長文の報告電報を打たせた。すると陸軍省からの返電に、
「児玉少佐は生きているか」と問い合して来た。
「生きて働いている」
 奇骨ある久保中属は、直ちに返事を打つと、さらにまた飛電が受信器を訪れた。
「児玉と相談して始末せよ。相当官吏すぐに派遣する」
 命令は極めて簡明であったが、まだ二十七歳の若年将校たる児玉少佐が、当局に信任される程度が思いやられる。
「児玉様、貴君(あんた)一足飛びに司令官じゃ。陸軍省から返電が来ましたわい」と、仁尾大属は久保の返電を受け取ると、すぐに鎮台に児玉参謀を訪ねた。焼跡の兵営は、早くも応急の仮建てが出来て、兵士は常のごとく操練している。ハハアこれだから、中央部の当局がこの人を信頼するのであると、ひそかにうなずいた。
「政府もうまいことを考えましたな。安い司令官を拵えた。これじゃ月給が助かるわい……しかし貴君も差向県令じゃないか」
「まず明智の三日天下かな」
「ご同様神風連のお陰じゃ。……しかし今度暴徒が起れば、お互いにこれはないぞ」と、左手(ゆんで)に首筋をたたいて笑った。
 暴動以来蕭殺(しようさつ)の気に充ちた鎮台も、両雄の会合に、柔らかな空気に触れて、人々も始めて心から笑った。



最終更新日 2005年09月19日 16時31分33秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「一九 西郷謀反の報到り熊本籠城に決す」

一九 西郷謀反の報到り熊本籠城に決す
 金城鉄壁をもって聞こえた熊本の銀杏城(きんなんじよう)は、天下の名城として今もなお人口に膾炙(かいしや)しておる。
 かつては肥後守清正が万一の時に、右大臣家をここに奉じて、義に篤き島津の猛将勇士とともに、徳川と天下を争わん底意を含んで、堅固に堅固の縄張をした。それが細川家に移って、さらに足らざるを補い、短かきを継ぎて、金甌無欠の城塞となったが、明治の維新となって、細川氏より朝廷に引き継がれ、やがて熊本鎮台を置かれたのである。
 神風連の暴動以来(このかた)、引き続いて前原一誠の萩の乱は起り、天下の人心洶々として、安き心もなく、枕を高く寝ることさえ出来ぬ。
 七年の征韓論に、冠を掛けて野に下った英雄は、さながら熄火(そくか)山のごとく、いつ爆発の毒煙を噴き上るか知れぬのである。ことに朝野ともに張目して、その動静に注意を怠らなんだのは、薩南の豪傑西郷南洲であった。
 王政復古の大立物(おおだてもの)として明治功臣の筆頭たる南洲先生は、自ら使節となって朝鮮に使し、京城に命を(おと)して、問罪の師の名を作らしめ、鶏林八道を日本の有として、後来東洋の平和を永遠に確保せんと企てた遠謀深慮は、廟堂の文治派と議合わず、空しく骸骨を乞うて、薩の故山に帰臥したのである。
 南洲先生の辞職は、全国を挙って痛借し、同情の念に堪えなかった。したがって南洲先生の説が正義で、廟堂の参議が奸物であるかのように考えた。その結果は南洲先生故山に帰るとも、必ず国家のために何事をか考えているに違いない、先生のごとき大人物が、このまま手を(こま)ぬいて雌伏することはないと、好奇心をもって、多大の望みを先生に托した。まして同郷の陸軍出身の将校は、憤然職を抛って、われもわれもと先生の後を追ったので、西南の風雲はすこぶる急に、猛獣毒蛇の巣窟とも見えた。しかし佐賀の乱にも、神風連の騒動にも、萩の暴挙にも、先生は全く関知せず、閑雲野鶴に伴って、また世間のことに思いを馳せぬかのごとくであった。南洲果して最愛の国家を忘れたのであろうか、熱血火よりも紅なる英雄は、国を憂うること、家を思うに数倍して、君国のために殉せんことを誓ったのである。
 しかし南洲先生の茫たる人格は、薩摩隼人(はやと)(はや)()には解らなかった。(いたず)らに先生の胸中を揣摩(しま)臆測して、しきりに大言壮語をなし、みだりに官憲の施設に反抗したのである。そして危険の度は刻一刻と加わって来た。
 この危険に備え、不虞を戒むべきは、熊本鎮台の任務であるから、鎮台の参謀部では、常に密偵を四方に派して、情報を捜るに努めたが、櫛の歯を曳くがごとき密信は、日に日に危険の促迫を報じて、いよいよ公然叛旗を翻えしたという急報があった。
 明治十年の二月十二日、春まだ浅き熊本城外の花信、ようやく野面(のもせ)の梅に来りて、鶯の初音をうたう優しき声を聞きながら、城内の司令官室に(つくえ)を囲んで密議に耽る将校の一団がある。
 正面の椅子によって、黙って部下の説に耳を貸すのは、翩々(へんへん)たる儒将の風事(ふうぽう)ある司令官少将谷干城である。それに(とな)って地図の上にまなじりを注ぐのは、参謀長の中佐樺山資紀で、それと対い合ったのは参謀児玉少佐である。いつもの通り軍服の腕を組んで、椅子に反返(そりかえ)っている。物言う時にはチョロチョロ髭が、筋肉の動くにつれて軽く揺らいだ。そのほか聯隊長やら、副官やら、城中の将星はことごとくこの一室に集まった。
「西郷はいよいよ鹿児島に兵を集めたのじゃが、今日あたりは新政厚徳の旗をたてて、打立つはずじゃ。差向き当鎮台はその衝に当るから、諸君慎重に撃退法を立てて、遠慮なく意見を開陳されたい」と、谷将軍は座中を見回した。
 敵の兵数は目下のところ約一万五千、五大隊に別って、第一大隊は篠原国幹、第二大隊は村田新八、第三大隊は永山弥一郎、第四大隊は桐野利秋、第五大隊は池上四郎、別働隊としては別府晋介の加治木隊、砲隊は二隊で、岩元平八郎、餅原正之助、田代五郎、柴山四郎兵衛、小荷駄に桂四郎がいる。大口と伊集院の二手になって進んで来るはずじゃ。と、樺山参謀長は、児玉参謀と地図を指しながら、敵の情勢を語った。
「佐敷の三太郎峠に防禦陣地を設けにゃなりませんな」と、児玉参謀は司令官の方を見た。三太郎峠というのは、肥後国佐敷の佐敷太郎峠を中央にして、赤松太郎峠、津奈太郎峠の三峠の総称で、鹿児島から熊本へ通ずる第一の嶮岨である。
「それは至極の名論じゃが、遠く三太郎峠へ兵を出して、鎮台を空虚にしたら、熊本は旧士族の不平組が、いつ暴動を起さぬも知れぬじゃ。その(きざし)は最早寄り寄り現われおる。鎮台の憂は薩賊よりも足許の不平士族じゃて。残念ながら三太郎峠防禦の名策も考えねばならぬ」と、参謀長は地図の上に手を措いた。
乃公(わし)は熊本籠城と覚悟している。実は乃公は西郷が薩賊の中にいようとは思わなんだのじゃ。しかるに鎮台病院の烏山一郎が、万難を排して鹿児島を調べて来た情報によると、西郷も私学校党に擁せられて、やむなく指揮を執ることになったとあるから、乃公は野を清め席を払って、西郷の攻め寄せるのをこの城で待とうと思うのじゃ。三太郎峠は必ず守らねばならず、敵もあすごで激戦をする考えであろうが、もし三太郎峠の戦争が永引けぽ、この熊本に騒動が起って、敵に内応する者が出来るであろう。……この城一度陥入れば、九州一円は敵のものとなるのじゃ。……九州が敵となったれば、勝敗の数は逆睹されんじゃろう」
 ■(こんがい)の重任を托された谷将軍は、一時の勝ちを貪ぼって快しとせず、おもむろに大局の利を考えたのである。
「されば城下に敵を引き受けて、市街戦をするも一策じゃが、その場合には士族は元より、町人農夫まで、鎮台に不利益を図ろうと思われる。所詮楠公千早の故智を守って、籠城一点張りにしたならば、その中に官軍の援兵が到着しよう」
 参謀長も長官と同意見である。たれ一人異議を称うる者はない。
「児玉君、どうじゃ」と、司令官は参謀の意見を敲いた。
「三太郎峠を捨てるといたしますれば、無論籠城専門にいたさねばなりませぬな。今鎮台の兵は歩兵第十三聯隊の第一第二大隊、それに砲工兵を合せ約二千人、(やとい)書記や人夫を入れて、総計三千七百人。この食糧が一日三十石費やすのであるが、目下のところ貯蔵高は五百石、ちょうど二十日余りの食糧に過ぎんですから、これは至急に徴発せねばなりませぬ。それで炊事場を岳丸に設けたら利便がよろしいでしょう」
「大きに」と、司令官はうなずいた。
「目下のところ、鎮台には野砲六門、山砲十二門、臼砲が七門、弾薬は十分でありまするから、私の考えでは、守備兵の配置を、下馬橋、古城、法華坂、藤崎神社、片山邸、漆畑、埋門(うずみもん)、棒安坂、千葉城、岳丸の十ヵ所にして、鹿柴(ろくさい)をたて、地雷を埋め、橋を撤して、よく連絡をとるようにしたらば、薩賊も攻撃方法に困難いたすじゃろうと思います」
 児玉参謀は掌を指すがごとくに説明した。
「児玉君、君の意見によると、段山はどうするかな」
 司令官は窓外を仰いだ。こんもりとした城西の名山は、一抹の藍をはいたように、鮮やかに楯間に落ちる。
「段山ですな」と、児玉参謀は空を仰いだ。
「放棄します」と、きっぱり答えると、卓を囲む将校は、均しく参謀の(おもて)をみつめた。そして司令官の意を忖度(そんたく)しようと思うらしい。
 段山は城外に聳ゆる丘陵で、この山に登る時は、熊本城は手に取るように見える。これを敵に奪われれば、防守に少なからぬ困難があるから、何人もここを死守せねばならぬと思っているのに、突然放棄すると言われたので、人々は怪訝(かいが)の念に打たれたのである。
「段山を捨てるのはいかにも残念で、不利益ではあるが、籠城と決定する以上(たす)けのない僅少な兵で、いたずらに戦線を拡げるのは、守備を薄弱ならしむるもので、是非がありません」
「いや、乃公(わし)もさよう思っている」と、児玉参謀の議は容易(たやす)く司令官に容れられた。
「そこで私の考えるには、ここで神風連騒動に戦死した者の招魂祭を行い、花々しくお祭騒ぎをさせて、鎮台では薩賊が進軍中なのを知らぬ風に見せて、突然籠城することにしたいと思います。薩賊の細作(しのび)がたくさん市中にいるし、県庁にも軍隊内にもあろうと思いますから、彼らに油断させて、突然防備にかかったらいかがですか。少し忠臣蔵の故智ですがなあ」と、児玉参謀は大事の密議にあたって、面白そうに洒落を言っている。
「ヤア愉快じゃ」と、樺山参謀長は案を敲いた。
何時(なんどき)でも号砲五発打ったらば、軍人の家族は城へ入ることに申合せて置くがよい」と、谷将軍は部下の士卒をして、内顧の憂なからしめんとした。良人(おつと)も妻も、親も子も、死なば諸共であるから、籠城の志は固い。ことに彼らを城外に置いて、万一敵の人質となれば、味方の士気を沮喪させる(おそれ)がある。
 手はずはことごとく整った。命令一下、熊本市街は殺気殷々として、巨(きよほう)天に轟き、血の海、屍の山を現出するのである。
 しかし城外の春風のどかに吹いて、野山の若草ようやく萌えんとし、蝶も寝よげと処女のごとき趣きがある。ただ機一転すれば、処女は羅刹となりて毒炎を噴き、魔女となって人肉に飢ゆるので、人と魔との界は実に一瞬一刻に迫った。



最終更新日 2005年09月20日 00時03分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二〇 猛火を冒して危く弾薬函を搬出せしむ」

二〇 猛火を冒して危く弾薬函を搬出せしむ
 城下の要処に掲示した鎮台の招魂祭、神風連の騒動に無残の死を遂げたる種田少将以下の霊を祭り、鎮台の鎮護と仰ぐべく、山崎の練兵場に荘厳なる祭壇を設け、隊内に各種の飾物やら、余興場やらを造り、軍隊手製の煙火(はなび)を打ち揚げ、素人相撲を興行し、何人(なにびと)にも随意に参観を許したので、熊本市中は割れ返るような賑い、戦死者の遺族はもとより、近郷近在聞伝えて、立錐の余地なきほどの人出であった。
 当時新聞でもあれば、鹿児島の情報が、一般市民に知れてもいたろうが、なんらの通信機関もないから、一刻の中に熊本市中が焦土となろうとは、何人も夢にも思わない。突然、正午の十二時に、非常号砲が全市を震撼して轟いた。一発、二発、三発、実に五発の砲声である。底鳴のすさまじい音を空中に残して、柔らかき空気を激動さした。
 軍人の家族は、この号砲を聞くと、たちまち用意の手回りを携えて、三々伍々入城したけれども、一般市民にぱ、何の相図やら解らない、招魂祭のために放した礼砲ではあるまいかと、(おの)がじしに判断したが、やがてそれが籠城の第一歩であると聞いた時に、市民は愕然として色を失した。歓楽たちまち地を替えて、凄惨たる光景を現出したが、城内ではかかることに頓着なく、全速力をもって防禦の施設をなし、たちまちにして、敵の大軍を迎うべき準備が整った。兵糧は倉廩(そうりん)に充ち、弾薬は山と積まれた。この豊富な兵資をもって、上に勇将あり、下に猛卒あり、上下心を一にして守れば、天下の兵をもって攻むるも、一年二年にわかに落つべきやと、たのもしく思われたが、その唯一のたのみも、危うく根柢より覆えらんとする大珍事が起った。
 時は二月の十九日、早急(さつきゆう)の防備も完成したので、谷将軍は参謀長樺山中佐を従え、諸手(しよて)の検閲をしている最中である。
「火事だ火事だ」
 けたたましき叫び声が、耳をつんざくばかりに起った。折から広書院の執務室にいた児玉少佐は、その声に驚かされて、(かたえ)の窓を開けると、轟々と鳴る凄まじき焼音(やけおと)とともに、黒く渦巻く毒焔は、書院と天守との渡廊下より起り、火気は朦々として、顔は熟するばかりに熱した。
 はたと窓を立て切った児玉参謀は、たちまち城内守備兵配備図が、火炎の下にあることを思い起した。
 帷幕の謀将が肝胆を砕いた防禦図は、刻下の大敵を控えて、ただ一つの命の綱である。これを焼いてしまえば、熊本城は杖を奪われた盲目(めしい)にひとしい。
 少佐は蹶起して秘密図を取り出すべく、煙の下より身を挺して、天守閣へと奮進した。音に聞ゆる熊本城の天守は、見上ぐる数十段の石垣の上に、雲を貫かんばかりに聳ゆる城楼である。三階より上に登れば、魔が差すとまでに恐れられた高楼で、火は毒蛇の舌の舐ずるがごとく、メラメラと這い、ドッと煽り立てて、見る見る天守の櫓より迦婁羅(かるら)の冥火は燃え上った。
「もう駄目ッ」と、火を救う兵士は、太き息を内へ引いて、失望の歎声を発した。
「何のッ」と、児玉参謀は雨と降る火の粉を冒して突進する。
「ヤッ、児玉参謀だッ」と、驚く将士が手に汗握る間に、少佐は烈火を衝いて飛び込んだが、姿はたちまち見えずなった。
 がらがらと焼け落ちる凄まじき音、ドッと噴き上る黒煙、火声爆音轟々として、耳も聾せんばかり。たちまちにして一陣の風は、大紅蓮の冥火を吹いて、楼門の大戸は渦巻き立て燃え出した。
「児玉少佐は焚死(やけし)んだぞッ」
 それと見ながら、飛び込んで救い出すことも出来ない。
 たちまち黒き人影は、火の中より躍り出たが、一散にこなたを望んで駆けて来る。人か神か、火に投じて焚かれぬは鉄石より造り出したるか、さながら齊天大聖紅孩兒(せいてんたいせいこうがいじ)の三昧火を破るの勢いがある。
「ヤア、児玉参謀だッ」と、将士はドッと歓声を揚げた。
 と見る参謀の軍服は、火に焼かれ、煙に(いぶ)され、顔と言わず手と言わず、灰色に(くす)んでいるが、意気ますます凜烈として、鬼神をも畏れしむる概がある。
「大切の書類は取り出したぞ、安心しろ。……早く弾薬庫へかかれッ」と、雷のごとき声で叱咤した。
「サア早くしろ早くしろ。早く行って一温(ひとあたた)まりしろ。いい焚火だぞ」
 九死に活を得た危急にも、沈着にして物に動ぜぬ参謀は、勢い威く将士を励ました。しかし表に沈着の様子を見せるが、この時の参謀の苦悶は鉛の熱湯を呑むよりも苦しい。秘密図は辛うじて取り出したものの、火は早くも弾薬庫を包んで、恐ろしき火気はたたき付けるように壁を打つ。
 これを見た児玉参謀は、奮然として火薬庫の屋根に登り、
「早く火薬を運ベッ」と、声を限りに叱咤した。この大胆なる振舞いに励まされて、兵士は我を忘れて火薬庫にむらがり入り、函を取り出すや否や、石垣の下へと投げ出した。
 危険とも、無謀ともたとえようがないが、この場合かくしなければ、万一の安全を保
てぬのである。火気を浴びて揮い立っ屋上の児玉少佐の姿は、魔界の業火を滅すべく、八大竜神が形をあらわしたかと神々しい。
 参謀の壮烈なる奮励によって、火薬はことごとく石垣の下に搬出され、破裂したのはただ一函であった。
 城の火は、今や炎々と燃え盛って、四方は火の家火の塔となり、音に聞こえた天守閣は、巍然として焼け落ちもせず、目覚しき火柱を冲している。
 参謀は火薬庫の屋上に立ったまま、仰いでこの壮観に見入った。
「危い、早く下りろツ」と、口々に絶叫する声が、ふと参謀の耳に入った。火気の間から下を見ると、司令官も参謀長も、声を限りに呼んでいる。
 火柱の骨ばかりに焼け細った天守閣は、今や最後の火焔を閃めかして、逆に頭上に落ちかかっている。
 児玉参謀はハッと胸を轟うかしたが、今更()がるるに途はない、なまじ逃がれんとしても逃がれ(おわ)せる運命ではない。
 参謀は咄嗟(とつさ)に覚悟を極めた、(みぐ)るしき死様(しにざま)をして、後のものわらいになるよりは、運を天に任せるのみと、火薬庫の屋の棟に毅然として立ちはだかり、きっと目を閉じる一刹那、一揺れ煽る風に捲かれて、幾十丈の火柱は、がらがらどうと音立てて、かなたの方向へと横様に倒れた。実に天佑である。一刻の間に、二度三度死を免かれた少佐は、身を翻えして屋上より飛び下りると、上官や同僚は、四辺(あたり)を取り巻いて喜んだ。
「いヤ、君の働きで弾薬が無事だった。……君が屋根へ上って励ましてくれなければ、とても無事に搬出することは出来ん。火薬が爆発すれば、籠城もそれまでじゃった」と、司令官は、口を極めて参謀の勇気を称した。
「ハイ、ちょっと軽業をご覧に入れたばかりで」と、参謀は功を誇るでもなく、すぐにまた消防の指揮をした。




最終更新日 2005年09月20日 22時43分23秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二一 宇宿県属、西郷の書を齎らして来る」

二一 宇宿県属、西郷の書を齎らして来る
 焦眉の危急を眼前に控えて、命と恃む名城を焼失せしめた。失火の原因は不明であるが、薩軍に心を寄せる者が、ひそかに火を放ったのではあるまいかと、人々目をそばだてて、互いに人の心を疑い始め、人心ますます洶々(ようよう)とするばかり。幸いに弾薬は焼かなんだが、兵糧は全部焼失した。
 人々は互いに恐ろしき不安の念に襲われ、兵士は落胆の余り、オドオドして戦う心はない。危険は敵よりも、味方の足許から起り、何時(なんどき)不測の災いが振りかからんとも知れない。
 それを見た司令部の苦心は一通りでなく、すぐに会計官を走らして、兵糧を山と積ましめ、兵士を派出して、城に搬入せしめなどするうちに、折よくも少佐川上操六が、久留米の兵を引率して熊本へ向う途中、植木の坂道にて、はからずも熊本方面の火の手を見たので、早くも戦争の開始されたものと思い、付け剣を命じたまま、駆け足で駆けつけたので、いったん失望の淵に沈んだ城兵も、ようやく元気を恢復した。
 籠城の準備、火事の擾乱、人心の収攬等に司令部の主脳が忙殺される一方には、賊の動静を報ずる密偵の報告が、頻々として卓上へ落ちる。城の包囲は早両三日の後である。この際断然決心のあるところを市民に知らせ、城兵の心を固めるがよいと評議一決して、急に市民の立ち退きを命じ、翌二十日正午を期して市街に火をかけ、市中を一塊の焦土と化し、賊軍来れと待ちかけた。
 城中の勇士は一人として生きんことを思う者なく、必死を期したる三千の逞兵(ていへい)は、刻下に(ちぢ)まる激戦を憶うて、血湧き肉躍る思いがする。
 折から突然鹿児島県令大山綱良の使者が来た。大山が県令の職にありながら、薩賊と通じて官職を濫用することは、早く鎮台に知られていたのである。
 廟堂の封冊を受けながらも、賊に(くみ)する大山の使いであるから、城中では敵の軍使のごとくに待遇した。迂闊に城内の様子を知らせるならば、彼はたちまち秘密を敵に通じるに違いない。
「大山県令の使者は貴君(あんた)か。……乃公(わし)は当鎮台の参謀長樺山中佐じゃ」
 中佐は厳めしき軍服の威容を示して、悠然と正面の椅子に()った。その側には児玉参謀が炯々たる眼光(まなざし)に、使者の一挙一動を読むべく、油断なき光を投げている。
 使者に立ったのは、県属(けんさかん)の宇宿という丈夫(ますらお)に、副使の格とも見るべき、二人の部下であった。
「ハッ、西郷陸軍大将より当鎮台への書状を、鹿児島県庁へ依頼いたされましたにより即ち携帯いたして参りました」と、宇宿は悪びれもせず二通の書状を出した。
「フム、鹿児島県庁では、賊徒の書状の取次をいたすか」と、参謀長は冷笑をうかべて、児玉参謀と顔見合ぜた。宇宿は軍使同然の役を承わるほどあって、冷然として顔色も動かさない。
別紙書面一通陸軍大将西郷隆盛より其御台へ依頼に付送致候条御落手可給候也
   二月十五日                 鹿児島県令 大山綱良
  熊本鎮台御中
(別紙)
拙者儀今般政府へ尋問の廉有之明後十七日県下発程陸軍少将桐野利秋篠原国幹及び旧兵隊の者随行致候間其台下通行の節は兵隊整列指揮を可被受此段及御照会候也
明治十年二月十五日                陸軍大将 西郷隆盛
 熊本鎮台司令官殿
 参謀長は西郷の書面をじっと見つめたが、みるみる眼を(いか)らして、宇宿県属を睨めつけた。
「かかる書面を鹿児島県庁にては、何故に当鎮台へ伝達いたすか。かかる傲慢無礼の書面は、なぜ引き破って捨てられぬか。……察するところ大山県令は賊徒の手足となって、叛逆を企てたであろう。……怪しからぬ奴らじゃ」
 書状を一掴みにして、引き破らんばかりにいきまいた。
「イヤ、この書状は大切な証拠品ですから、私が保管いたしましょう。……察するところこの書状は西郷から出たものではありますまい。かくのごとき愚蒙な書状を、西郷が遣わそうとは思いませぬ。恐らく無智の奴どもが、西郷の名を借りたに違いない。しかしそれを取り次ぐ大山県令は正気の沙汰とは思えませぬな。こんな書状で威嚇されるような熊本鎮台ではない。児戯にひとしい」
 児玉参謀はチョロチョロ髭を捻りながら、からからと笑った。宇宿県属を発憤さして、巧みに鹿児島の様子を捜ろうと思ったのである。しかし宇宿はますます冷然として色だも動かさない。
「本来なら貴公を帰すのではないが、この度は許すによって、帰って西郷にも大山にも言いなさい。熊本鎮台は畏くも、天皇陛下の御信任によって、この度の賊徒のごとき不逞の逆賊を征服いたすのじゃ。……逆賊の通行に敬礼などとはもってのほかじゃぞ。何時(なんどき)でも攻撃いたせ、弾丸硝薬の献立をいたして待ちおるぞ」
 宇宿は冷然たる面に、わざとらしき微笑を湛えた。
「ただ今のお言葉に、この宇宿を帰すべきでないと言われたが、宇宿は鹿児島県庁の官員でござるぞ。県令の命令を奉じて当鎮台へ使いに参ったのでござる。それを敵の軍使同様に見なさるるは、近頃奇怪至極ではござらぬか」
 宇宿県属は参謀長の言葉尻を捉えた。
「まして室外に護衛の兵士を置かれるように見受けるが、県庁の官員は兵隊の敵には未だ成り申さぬ」
「何を、貴公ごときは、大山の部下で、内実当鎮台の内情を偵察に参ったのじゃろう。官員に化けた賊じゃぞ」
「これは無法なことを言われる。たとえ西郷大将が一大事を思い立たれようと、大山県令が問罪の師を興されようと、宇宿は依然たる県官でござる。まだ免職の辞令を承わりませぬぞ」
「いや盛んじゃ」と、児玉参謀は泰然として笑った。
「四方に使して君命を辱しめぬというのは貴公じゃ。……よろしい、書状はたしかに請け取ったが、さて答えは今参謀長の言われた通り、弾丸硝薬これ膳羞(ぜんしゆう)じゃ、せっかくお待ち申すと言われい。貴公もおっつけ、賊徒になる時があったら、また改めて逢おう。よく乃公(わし)の顔を覚えて置きたまえ。(なり)が小さいで、名詮自称の児玉少佐じゃよ」と、参謀はいかなる場合にも諧謔を弄している。
 かつて神風連の暴動に(まかない)被衣(はつぴ)を着て、縦横に折衝した児玉少佐はこの人かと、宇宿県属は百万帯甲の兵を恐れず、ただ一人の青年参謀を憂いとした。この人ある以上、熊本鎮台は容易に陥ちまいと、宇宿は児玉参謀に対して、感嘆を惜しまなんだ。
 軍使に等しき宇宿県属が帰ると、ほどなく東京から電報が来て、有栖川熾仁親王が征討総督を命ぜられ、少将野津鎮雄の第一旅団、少将三好重臣の第二旅団が、二十日に大阪を解纜(かいらん)して、海路博多に向うという喜ばしき通知であった。そして西郷以下の官職を剥がれたのはもちろんである。
 陸軍大将として、現代の偉人として、一世に翹望されたる西郷隆盛は、ここにはしなくも賊名を負ったので、官賊両軍の火蓋を切る第一声は目睫の間に迫り、西南の風雲は混沌として黒白(あやめ)を分かぬ大擾乱となった。



最終更新日 2005年09月20日 23時55分19秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二二 三太郎峠に賊の諸将軍議を凝らす」

二二 三太郎峠に賊の諸将軍議を凝らす
 (いか)()の焦り立ったるごとき薩摩隼人は、新政厚徳の旗を、海門(おろし)の朝風に靡かせ、隊伍整々として鹿児島を出発した。
 折から残寒氷のごとく、霏々(ひひ)たる雪は天地を封じて、桜島さえ朧に包まれ、戎衣の袖はみな白く、満目皚々(がいがい)たるは、天変の人を戒しむるものか、隼人の面々は、廟堂を廓清することこの雪のごとく清からしめんと揚言し、勇み進んで進発した。凜冽たる意気は斗牛を呑まんばかりの概がある。
 しかし蜿蜒たる山地の崎嶇羊腸(きくようちよう)たる阪路を、積雪を踏んで行軍するのであるから、その困苦は言語に絶し、ただ気をもって奮いたつのみ、心身(つか)れて綿のごとくであった。
 佐敷の三太郎峠、肥薩の国境風景はいたってよろしいが、またはなはだ嶮岨で、しかも官軍の死力をつくして防がねばならぬ所であるから、薩軍は銃に弾丸(たま)を込め、剣の鞘を払って進んだが、不思議や一兵の姿だに見えない。
「鎮台は腰抜けばかりでおわすわい。この要害を守らんことがあるか」
 その名を聞けば、泣く児も黙ると言われた火のごとき闘将桐野利秋は、佐敷太郎の頂上に、四方を睥睨して罵しった。
「いやそうばかりではあるまい。鎮台には谷がいる、樺山や児玉もいるのじゃ、ここへ兵を置かねばならんことを、知らぬはずはない」と、帷幕の謀将西郷小兵衛は首を傾げた。
「鎮台がなぜにここへ兵を配らぬか、貴公たちそれが読まれぬか」と、(おもむ)うに口を開いたのは、前の近衛司令官陸軍少将篠原国幹であった。飢えたる(みさご)のごとくに鋭どい眼は、欄々として人を射る凄まじさ、一度怒れば三軍の貔貅懾伏(ひきゆうせいふく)する威望がある。
「腰抜けよ」と、桐野は冷笑(あざわら)う。
「いやそうではない。ここに守備兵を出さぬようなりゃ、鎮台の兵数が少ないのじゃ」
「少のうても、ここで一戦(ひといくさ)せにゃ、軍人の面目は立たぬわい。乃公(わし)に五百の兵があってここを守れば、三千五千の兵で攻めようとも、金輪際攻め落とされるものではない」
 桐野は気を吐くこと虹のごとくである。
「いや五百の兵で守れよう、しかしそのうちに肥後の士族が(われ)らに内応して、鎮台を攻撃したり、後を断切ったら、五百の兵でどうなろう。それを見越したによって、涙を呑んでここを捨てたのじゃ」
 戊辰以来の戦将にして謀士たる篠原国幹は、よく敵を知りて、その兵数の(すくな)きを見極めた。
「さればじゃ、敵の兵数が少ないによって、(われ)ら全軍は一気に熊本を攻め落とさねばならぬ。疾風迅雷の勢いで、遮二無二総攻撃をいたそうではござるまいか」と、篠原は意気昂然として、早くも熊本城を呑むの概がある。
「そうじゃ、かねがね拙者の献策した三道並び進む軍略は、今日でもまだ遅くはあるまいがな」と、南洲先生の末弟たる小兵衛は進み出た。
「一軍はもちろん熊本を攻め、一軍は日向より豊後豊前に出で、一軍は汽船に乗じて、長崎を襲撃するのじゃて、これが万全の策じゃがなあ」
「小兵衛殿(どん)まだ言うか、いやしくも我々が公明正大の軍を興したに、奇兵を出して襲撃するには当らんわい。……熊本など我らの砲声を聞けば、一溜りもなく落城じゃ」と、桐野は金銀作りの太刀をたたいて笑っている。
「いや桐野、敵を侮ってはならんぞ。熊本の兵隊とて藁人形ではない。全軍総掛りに攻め落とさにゃ、だんだん防禦方法を講ずるによって、戦争が難儀になろう」と、篠原は大兵をもって一気に攻略する主義である。
「しかしな、力攻めとすれば、味方に損失が立とうが」と、池上四郎は(くちばし)をいれた。
「それは是非に及ばん。たとえ味方半分(うしの)うても、熊本さえ落ちたりゃ、九州一円は味方に参ろう。九州が手に入れば、すぐに大阪を攻撃するのじゃ、中国四国の順慶党は、皆味方の軍門に集まろうぞ」
「ハハァ、篠原、御身は熊本を買いかぶりおるじゃ、鎮台兵など何とあろうか。乃公(わし)の一隊で、(わけ)もなく蹂躪(ふみにじ)ろうに、心配するだけ阿呆よ」
 桐野は勇を(たの)んで、鎮台を眼中に置かない。中村半次郎の昔より、戦えば()たざるなく、攻むれば取らざるなき一代の闘将は、人を斬ること草を薙ぐがごとく、巍然たる熊本の銀杏城も、彼の前には張抜きの一夜造りとも見えぬのである。
「ともかくも熊本に出てからにするも、遅うはあるまい」と、西郷は諸将の互いに下るまじき様子を見て、仲裁するように言ったので、軍議はここに幕を閉じ、諸隊は肅々として赤松太郎峠を下った。
 小兵衛は魁梧なる驅幹を一揺りして、わが隊へと帰って来たが、喟然(きぜん)として天を仰いで、思わず数語を洩した。
「薩摩武士を心地よく殺す者は桐野じゃ、薩摩武士の一世を誤まらしむるも桐野じゃ」と、腹心の部下を顧みた。
 この夜天くらく雲迷うて、北斗破軍の将星は光鋩薄く、力なき輝きを蜀桟の嶮道に聳ゆる松の梢に投げた。



最終更新日 2005年09月21日 12時19分24秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二三 樺山参謀長傷つき与倉聯隊長戦歿す」1

二三 樺山参謀長傷つき与倉聯隊長戦歿す
 味方とも賊ともつかざる怪しき使者の宇宿県属は、使命を辱かしむることなく、悠々と熊本鎮台を辞し去ったが、互いに要領を得ずに別れたのであった。しかしこの時には、薩軍は驟雨の乱雹を交えて一過するがごとく、その先鋒は早くも川尻に達したのである。
 先鋒の兵は二大隊の貔貅(ひきゆう)、これを率いる者は精悍無比の荒武者として聞こえた前陸軍少佐別府晋介であった。かれは軍職にありし時、受くるところの俸給を、ことごとく平等に部下に頒ち、兵士と苦楽を共にしたるため、全軍皆この人のために死せんことを(こいねが)った。まして今郷党の壮丁を率いて、会心の戦争を試みようとするのであるから、冲天の意気凜々として勇ましく、士卒はさながら手足のごとくに動くのである。
 鎮台でも絶えず斥候を出して警戒していたので、夜陰になって、賊の前哨と官軍とは、はからず川尻付近に衝突した。
 官軍の兵数はわずかに一小隊、直ちに散開して射撃せしめたが、薩軍は寡兵と侮り、煙の下から刀を舞して殺到したので、官軍の死傷は見る見る六七名に及び、力及ばずして背進した。これが官薩両軍の戦闘行為を開始した第一歩であった。
 あくれば二月二十一日、薩軍の先鋒は熊本市中に侵入し、意気揚々として坪井通を過ぎたので、岳丸および千葉城の守兵は、拳下りにこれを狙撃した。薩軍もすぐに応じて、城兵を攻撃したが、いずれも小戦闘に過ぎなんだ。
 官軍はいよいよ敵の総攻撃を予期し、城外の家屋を焼き払い、下馬橋を撤して、守りを固うした。
 二十二日になると、果して賊の全軍は行進を起し、五千七百人を二手に分ち、午前三時というに、玉かと光る霜を踏んで、川尻の本営を発し、一は新屋敷方面より、一は段山方面より、一斉に熊本城へと迫ったのは、夜も全く明け放れた午前六時であった。
 殷々(いんいん)たる砲声は、百千の雷一(いかずち)時に落ちかかるがごとく、毒煙濛々として、天柱地維
も砕けんばかりのすさまじさ、熊本全市は微塵と化して、あわや金城湯池も震い(くず)れんかと思われた。
 戦争は始め下馬橋の砲台より打ち始められ、安巳橋、長六橋から進撃する薩軍を掃蕩すべく発砲したのであったが、飯田丸、千葉城の砲兵と、岳丸の歩兵とは、これに力を添えた。やがて城の背面に迂回した敵は鋒を東南に向けて千葉城を攻撃し、京町より錦山神社の辺に出没し、埋門(うずみもん)を攻撃して、隙あらば城に乗り込まんものと、寺原に集合した。
 一隊(いつて)は高田原より下島橋を渡り、一隊は山崎新町等の焼残れる土塀を楯とし、勇を揮って県廰を襲い、藤崎神社を奪う計画と見た城兵は、釣瓶(つるべ)射ちに猛烈な十字火を浴びせるので、さしもの敵もためらって進むことが出来ない。
 城中にては初度の戦いといい、幸先の寿(ことほ)ぎといい、是非とも今日の戦いにうち勝ち、士気をふるわせねばならぬので、司令官初め、参謀部の将校は、自から戦線を巡視して、しきりに兵気を鼓舞した。
 参謀長樺山中佐は、藤崎神社の砲兵陣地に至り、しきりに敵の情勢を視察していると、たちまち流弾飛び来りて、中佐を傷けた。
 中佐はあっとよろめいたが、からくも踏み止まって、
「賊の弾丸(たま)でも時にはあたるわい」と、大口開いて笑ったが、しかし疵は軽くなかった。看護卒に助けられて、空しく城内へ引き返したので、城中の婦女子は、愕然として色を失った。
 この時段山に拠りたる敵は、西北より殺到して、四方地村より片山邸を攻撃した。この手の聯隊長与倉智実が、味方の真先に進んで縦横に奮戦するさまは、阿修羅の荒れたるがごとき勢いである。
「しっかりしろ、何ほどのことがあるか、撃て撃て」と、剣を揮って号令する勇ましさ。一時色めき立った味方は、聯隊長の指揮に励まされて、一歩ずつ陣地を進め、あわや敵を圧迫せんとする折から、賊の一人は早くも与倉中佐を認め、松の大木を楯にして、狙い澄ました一発は、哀れむべし聯隊長の胸板を貫いたので、「残念」と一声叫びもあえずタジタジと後様に(たお)れた。
 日を同じゅうし、時を一つにして、鎮台の首脳たる二中佐が、一は傷つき、一は戦死したのであるから、城兵の落胆はたとうるに物なく、慈父に別れたような心地がした。この時敵の攻撃は刻一刻と激しく、何とも知れぬ物の響きは、轟々として人語を弁ぜず、立騰る煙は漠々として、丘とも言わず、市とも言わず、天地を封じて魔界とするがごとく、世界はこの時に破滅するかとすさまじい。必死を極めたる城兵は、雨と降り注ぐ弾丸飛来の中に、持場持場を一歩も去らず、銃身も裂けよと連発する。互いに名を惜しみ、命を軽んずる猛将勇士が雄叫びの声は、兜卒天上をも驚かさんばかりである。
 児玉参謀は本営にあって、諸手の報告を受け、地図を案じて戦況の進転に目も放さぬ。一方には負傷者の救護、糧食の配付、弾薬の補充に一身も足らざるばかり、まして樺山参謀長の負傷によりて、全局の責任はことごとく双肩に降りかかって来た。
「参謀、樺山中佐殿の負傷は案外軽いから、安心したまえ」と、軍医は少閑をぬすんで入って来た。
「そうか、それはよかった。……ほかの負傷者はどうかね」
「いや非常じゃ、病室は満員じゃから、また別に天幕張(てんとばり)を設けるように命令しておいた」
「そうか、マアよい。鎮台に百人死傷者が出れば、敵に三百人は出来る、そろばんに合わぬこともあるまい」
「相変わらず暢気じゃ。……しかしめでたいことがあるぞ。与倉中佐の奥様が、この騒ぎの中で出産された。可愛い女の子じゃ。……娘子軍(ろうしぐん)の方じゃ、急にモグリの産婆が出来て騒ぎをやりおる」
「ヤア、それは愉快じゃ、与倉聯隊長は片山邸方面で激戦中じゃが、それを聞いたら、ますます勇気が増すじゃろうな」と、児玉参謀は、側にあった冷酒をグイとあおった。
 突然伝令卒は息せき駆けて来て、「報告」と一声、直立不動の姿勢をとったが、その顔は蒼ざめていた。
「何か」と、参謀は向き直った。
「ただ今片山邸前で、与倉聯隊長殿が負傷いたされました」
「与倉ッ」と、参謀は軍医と顔を見合した。
「負傷は重いか」
「肋骨に銃創を負われましたので、極めて重傷であります」
「収容したか」
「すぐに担架で収容いたしました」
「よろしい」と、参謀はうなずいたが、すぐに軍医に目交(めま)ぜしたまま、連れだって天幕(てんと)を出た。病院へと見舞うのである。
 今夫人が出産の報を聞いて、めでたいと祝った唇も乾かぬに、良人(おつと)たり父たる中佐の重傷と聞いては、夫人の驚きを思いやって、その嘆きが目に見えるように偲ばれる。幾度か死地に落ち、絶望の淵に沈んでも、談笑自若たる参謀も、さすがに胸の轟くを禁じられない。



最終更新日 2005年09月21日 23時23分37秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二三 樺山参謀長傷つき与倉聯隊長戦歿す」2

 病院へ来て見ると、負傷者の呻く声、苦しむ叫びは、この世からなる阿鼻叫喚で啾々たる鬼気人に迫るを覚える。
 与倉中佐はと見ると、重傷どころではない。とくに(こと)切れて、魂魄(こんぱく)(とこし)えに帰らず、忠義の鬼となった遺骸(なきがら)は、花より紅なる血潮を浴びて、眠るがごとくに横たわっている。
 軍医はすぐに創面を検べ、診断を行ったが、憮然として二三歩退いたまま立った。
「残念だな」と、児玉参謀の声は絞るばかりに苦しい。
「心臓を貫通しておる。即死じゃ」と、軍医はまたつかつかと進んで、死せる中佐の顔を見た。
「弱ったなあ」と、参謀は溜息を吐いた。中佐の死を悼むのもあるが、今出産した夫人に、このことを聞かせねばならぬのは、参謀としては実に悲痛である。
「夫人にこれを聞かせたなら、一大事が起ろうし、聞かせないとしても、いずれほかから知れるにきまっているが」と、軍医も当惑している。
「宜しい。……夫人とは僕が一番懇意じゃから、僕からうまく話そう」
「どうかそう願いたい。よほど遠回しに、気を落ちつかせておかないと、夫人まで殺すようなことになるから」
 児玉参謀は中佐の尊き遺骸(なきがら)に敬礼したまま、俯向きがちに婦人の集合所へと行った。乾濠の中へ畳を敷いて、上に天幕を張り渡し、飛び来る弾丸の危険をのがれたる避難所で、各将校の夫人や児女は、鉄砲の音に胸轟かし、良人(おつと)の安否を気遣いつつ、繃帯の製造やら、ふさわしき軍需品の製作に忙しい。
「児玉様、(いくさ)はいかがです」と、参謀に親しき夫人は、それと見るより、右左からすがりつくばかりに尋ねる。
大勝(おおがち)大勝。今ドンドン鉄砲を撃って、薩摩芋の丸焼きをこしらえているところじゃ。奥様方の大好物、いくらでもご馳走しますぞ」
「またあんなご冗談ばかり」と、夫人たちは驚きと恐れとの中に、思わず心から笑った。
「与倉の奥様がおめでたいそうじゃが、どこにいられますか」
「あちら」と指さす方には、幕張をして、小さな嬰児(あかご)の声さえ聞こえた。
「奥さん、おめでたいでしたな」と、参謀は快闊に言って、幕の入口にたたずんだ。この中へ入って、中佐の戦歿を伝えるのは、さながら夫人に死刑の宣告を与えるがごとくである。参謀の胸は今更におののく。
 見ると夫人は緑の髪を結び髪にして、軍服の外套の古びたのを枕に、静かに横たわっている。日ごろ雪のように白き顔は、さらに白くなって、透き通るかと神々しい。側には嬰児が、仰向けに寝かされたまま、夢をたどって動いている。
「奥さん、おめでたいことでしたな」
「オヤ児玉さん、こんな時に産気づきまして、みなさまにご迷惑をかけました」と、夫人は寂し気に笑った。
「いやどうして、実にめでたいことで、幸先がよろしいと、司令官始めことのほか喜んでいられます」
良人(やど)は立派な働きをいたしておりますか」と、産婦の思いは良人の上に馳せる。
「片山邸でけさから非常の奮戦をいたされました」
 児玉参謀は口まで出るけれども、思い切って中佐戦死の報を言い出せない。
「マアそうでございますか。それでは定めし負傷者も出来ましたでしょうに」
 夫人は良人の部下をいたむのである。
「そうです、何分にも激戦でしたからな。それで与倉さんも多少負傷されたようですが、ご安心なさい、いたって軽傷で、今病院に収容されて来られましたのじゃ」
 いたましき夫人の姿を見ては、重傷とさえ言う勇気はなかった。夫人は寝ながらに、参謀の顔をじっと見つめていたので、少佐は思わずあらぬ方に瞳を移した。
「児玉さん、良人は負傷ではございますまい」
 優しい声にはりを持たせて、夫人はきっぱり言った。
「エッ」と、児玉参謀は思わず肚胸(とむね)をつかれて唾を呑み込んだ。今まで静かなりし砲台は、急に火蓋を切って撃ち出したのか、地鳴りを起こして轟然と耳をしいたげる。
「私も軍人の(かない)でございますから、良人が戦死いたしましても、それは覚悟の前、取乱すようなことはいたしませんから、どうぞ真実(ほんとう)のことをおっしゃって下さいまし」
 男優りの殊勝(けなげ)な覚悟の中にも、澄み切った眼の底に、一点の紅涙がうかんでいる。
「いや奥さん、実にあっぼれのお覚悟でいらっしゃる。それで僕も安心しました」
 児玉参謀は夫人の言葉を聞いて、甦ったような心地がした。
「実は奥さん、与倉様は重傷を負って、立派な戦死を遂げられました。実に軍人の亀鑑(てほん)ですじゃ」
 参謀は膏汗を拭ったのである。
「卑怯なことはございませんでしたか、立派に死にましてございますか」
 落ちついてはいるけれども、夫人はやや早言に急き込んだ。(かたえ)に看護する夫人連は、与倉夫人の胸中を思いやるとともに、今日は人の身、明日はわが身の上と、同じ思いの涙にむせんだ。
「どうして立派なお働きでしたぞ。段山から突撃して来た敵は、篠原国幹の一隊で、手負い(じし)のような獰猛の命知らずじゃ、これが四方地村から片山邸へと、揉みに揉んで攻め寄せる。官軍は片山邸に砲台を築いて、盛んに応戦したが、敵はその煙の下を潜って突撃して来るので、味方の歩兵と激しい銃槍戦になって、台尻で殴り合うような有様になったのです。その時与倉さんは、歩兵の真先に立って、弾丸雨飛の中を事ともせず、指揮をとられているうち、不幸にも胸部を貫通されて殪れられたが、そのために部下の兵士が憤激して、敵へ突貫したので、遂に賊軍を撃退したです。全く与倉さんの賜物です。片山邸が落ちたりゃ、味方のために少なからぬ不利益でござった。与倉さんの戦死は、名誉の上にも名誉ですぞ」
 息も継ぎあえず、眼で見るように参謀は語った。黙って聞いていた夫人は、にっこりと寂しき笑いを見せた。満目蕭条の寒林に、一輪の山茶(つばき)が春を告げる趣がある。
「それで私も安心しました。死ぬも生きるも、みなお国のおためでございます」と、さすがに顔を背向けたので、参謀も看護の人も、あまりのいじらしさに声を出す者はない。
「奥さん、なにごとも僕が生きている間は、遠慮なくおっしゃって下さい。荊妻(かない)をお側につけておきますから」と、ようやくその場を辞して思わずほっと溜息を吐いた。百万の敵を前にして、奇策縦横混々として尽くるなき児玉参謀も、この時ばかりは寿命を縮める思いがした。



最終更新日 2005年09月22日 00時11分19秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二四 賊軍大挙城に迫り篠原国幹これに傷つく」

二四 賊軍大挙城に迫り篠原国幹これに傷つく
 慓悍無双の薩軍は、打てども突けどもひるまばこそ、雲霞のごとくに押寄せ来り、熊本城を中に包んで、四方八面より攻め立てる烈しさ、息をつく暇さえなくて、翌二十三日に渡った。
 夜半(よなか)よりかけて、片山邸の激戦はますますはなはだしく、弾と弾とは虚空に相うち、電光ほとばしって、霹靂天地に鳴りはためく中を、血の海屍の山を踏越え飛越え、一歩も退かじと血戦するので、一勝一敗追いつ返しつ(しのき)を削って争った。薩軍はますます戦線を拡げて、新町より法華坂に至り、刀折れ弾尽きるまでは、いつやむべしとも見えなかった。
 薩軍は精鋭を(すぐ)って、片山邸に向い、必ずこの手を乗取らんとするので、官軍も胸墻を厳にし、盛んに霰弾を打ちかけるから、さしもの賊も、力攻めにすることが出来ない。敵と味方の距離は、一町とは隔たらぬまでに接近した。
 たちまち敵陣の中より躍り出たのは、小隊長宇都宮良左衛門と名乗る猛者(もさ)で、身の丈六尺に近く、色黒く筋骨逞しき大男であるが、右手に赤旗を降りかざし、悠々として官軍の胸墻に迫り来る大胆不敵、死を見ること眠るがごとくに思う心憎さ。官軍の兵士も呆れて彼のなさん様を見た。
 良左衛門は敵味方の半ばまで進み来たり、旗を振って官軍をさしまねぎながら、
「早く降参せい」と、大喝一声(おもて)も振らずに突進して来る。誰一人続く兵はなし、さながら卵子を取って岩に擲つの愚に過ぎない。
 折から、児玉参謀は、巡視のためにここへ来合わせたが、大胆不敵の振舞を見るより、
「撃て撃て」と、側なる兵士に命令した。
「生かして帰せば、ますます鎮台を侮るわい」と、参謀は歯を噛むばかり。
「どこを撃ちますか、顔でも胸でも」と、射的自慢の兵は、銃に弾込めしながら、胸墻から下を覗いた。
「どこでもよい……。はずすな」
 兵士はにこりとして照尺を懸けた。寿永の昔那須宗高が扇の的の風流にはあらねども、兵士にとっては、一代の誉である。敵方こそ知らざれ、周囲(ぐるり)の味方は息を殺して見ている晴の射的である。的は動いて定まらぬ勇士の奮戦、仕損じなば一期の不覚と、心に軍神の加護を祈りつつ、銃を斜に構えて、飛切りを射つがごとく轟然一発、音に応じて、良左衛門は舞いながらに倒れた。
「やったやった」と、味方は異口同音にときの声を挙げる。敵は怒って雲霞のごとくに押寄せて来た。
 児玉参謀はいきまく敵の大軍を眼下に見下しながら、
「いも野郎め、腹を立ておったぞ。……来るわ来るわ、蟻のようにやって来るぞ。…汚ならしいから霰弾で掃いちまえ」
 官軍は思う矢頃に敵を(おび)き寄せて、にわかに大小砲を撃ち出したので、さしもの敵も堪り得ず、見る見る負傷(ておい)死人の算を乱して退却した。
「逃ぐる者は斬るぞッ」と、敵の大将篠原国幹は、怒りのまなじり朱をそそぎ、大刀を(そら)して叱咤するが、崩れ立ったる戦の習い、浮足踏んで雪崩(なだれ)来る勢いに、心ならずもあとずさりしつつ、篠原はこの頽勢を挽回せんと焦ったが、己れも流弾に傷ついて、無念ながらも後へ退いた。
 しかし海内(かいだい)無双の勇を誇る薩摩隼人は、一度や二度の失敗で、気を挫くようなのではない。必ず熊本城を屠って、威を天下に振わんものと、翌二十四日よりは、全軍鼓躁して進撃し、両軍の撃ち出す大砲は、砲身もとけんばかりに熱し、地雷の爆発は天に轟き、砂煙は面も向くべからず、必死となって攻め戦ったが、両軍ともに互角の勢い、勝敗の数は全く解らない。
 しかし敵はただ一つの■(さつじ)たる熊本城を、十重二十重(とえはたえ)に取り囲み、蟻のはい出る隙間もないので、城兵は外界との音信を杜絶されてしまった。これが鎮台にとって第一の苦痛である。援軍がどこまで来ているか、いずれの地点に戦争があるか、勝敗の決はいかに、全く五里霧中にさまようのである。
 将来の策戦の上にも、城兵の勇気を鼓舞する上にも、援軍と連絡をとる必要がある。実に一刻も猶予されぬのであるが、この重囲を突破して、首尾よく使命を果す勇士は何人(なにぴと)であろうか、鎮台の参謀部では、司令官を始め、上長官が額をあつめて評議を凝した。
(いたず)らに勇気あるばかりではいかぬわい。機転が利いておって、それで外貌(かおつき)の朴訥な、風采の粗野な男でなくば、無事に目的が遂げられんからなあ」と、聯隊長は腕を組んで考えた。
「どうも注文が難しいの」と、谷将軍は苦笑した。
「私に任せて下さい。私が人選して来ます」児玉参謀は一人で呑み込んだ。
「そんな人物があろうか」と、負傷の痕に繃帯を施した参謀長は気遣わし気に言った。
「本来なら私が決行するのですがなあ」と、児玉参謀は残念そうに言う。
和主(おぬし)のようなチョロチョロ髭は、すぐに敵に見あらわされるわい」と、一同は思わずふきだした。
「それじゃ児玉君に人選を頼むから、至急捜してくれたまえ」と谷将軍は一切を参謀に依託して危ぶまない。
「承知しました」と、児玉参謀はポケットより刀豆(なたまめ)煙管(きせる)を取出して、さもうまそうに紫の煙をゆるがした。
「ヤア、児玉、貴公煙草(たばこ)があるな」と、奥少佐はすぐとその煙草入れを引ったくるようにして、煙草をひねりつつ煙管のあくのを待っている。
「児玉、煙草があるなら、俺にも飲ませろ」
「僕にも」と、煙草に飢えた人々は、見る見るうちに、煙草入れの粉も残さず吸ってしまった。
「ひどい奴らじゃ」と、参謀は怨めしそうにからになった煙草入れを眺めている。
「細君の贈り物を散々な目に会わしたな」と、参謀長は腹を抱えて笑った。
 籠城の苦しみは、実に煙草の欠乏にあったから、煙草と見れば、(やに)でも呑みたいのである。
「細君の心入れも、煙草だけに煙になったのじゃろう」と、参謀は負惜しみを言って、スタスタと幕外へ出て行った。
「オイ児玉君、君は一体誰を推選するつもりかな」と、聯隊長心得少佐川上操六は、後から追尾して尋ねた。
「煙草強盗が来たな」と、児玉参謀はつぶやきながら立ち止まった。
「ハハア、よっぽどくやしいと見えるわい」
「君に意見があるのか」
「恐らく君と同意見であろうと思うから、黙っていたのじゃ」
「そうか、僕は君の聯隊の谷村伍長に限ると思うていたのじゃ」
「ウム、谷村計介、あれじゃ、あれより外にないぞ」と、川上少佐は手をうって喜んだ。
「僕もあの男ときめているのじゃ。……それじゃ僕の聯隊へ来たまえ。そうして君から命じたらよかろう」
「ウム、二人で言いつけよう」と、児玉参謀は自分の意見が、川上少佐と符節を合したのを喜んだ。
 折から城西に聳ゆる段山から撃出す敵の砲弾が、空鳴を生じて、猛獣の長嘯(ちようしよう)するがごとくに飛来し、地物にあたって炸裂するので、城内を通行するにも、いちいち身をかわして歩かねばならない。
「今になると段山はどうかせにゃならんな」と、川上少佐は呟いた。
「あれを取入れれば、味方の戦線が広くなるし、取らねばこの危険じゃ。……あちら立てればこちらが立たず、両方立てれば身が立たぬじゃ。段山は端唄(はうた)から出来ておるわい」と、参謀は平気に洒落ている。



最終更新日 2005年09月22日 07時54分21秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二五 城中議を凝して旅団と連絡を謀る」

二五 城中議を凝して旅団と連絡を謀る
「オー谷村、貴公をわずらわさにゃならんことがあるわい。……こっちへかけなさい」
直立不動の敬意を表する谷村伍長に向って、さもさも信をおくように言ったのは、児玉参謀である。
「遠慮なく入ってくれ、秘密な(はなし)じゃ」
 川上少佐も口を添えた。
「ハッ」と、軍人らしく、つかつかと入って来た谷村は、再び敬礼して椅子についた。二十五六の色の黒いむくつけな男で、戦争以来ろくろく湯にも入らぬので、砂塵と硝煙とにくすぶった顔は、無精髭に蔽われて、乞食よりも汚ない。
「谷村、貴公に死んでもらいたいと思うのじゃが、死ぬより以上じゃ、是非生きて貰わにゃならんことがある」と、参謀は例によって謎のようなことを言う。
「おまえに伝令となって、官軍に連絡を取って貰わにゃならんのじゃ。今日までに実は十五回も密使を出したが、少しも反響がない。察するところ敵に拿捕されたのじゃと思う。……おまえならば必ず成功するじゃろうと、児玉参謀も乃公(わし)も堅く信ずるのじゃから、おまえをよんだのじゃ。おまえの意見を聞いて、しかる上に司令官に上申しようと思う」
「谷村、貴公今一度佐賀の腕を見せてくれ」と、児玉参謀は計介の旧功をそやし立てた。
 谷村計介は日向諸県郡倉岡の人で、谷村平兵衛の養子である。明治五年はじめて歩兵として熊本鎮台に入り、佐賀の乱に三木少尉の二分隊に属し、四面包囲攻撃を受けながら、身を挺して住吉津に到り、船を艤して全軍を救った勲功は、陸軍部内の佳話となっていた。後伍長となり、台湾征討にも従軍し、再び熊本に帰って、川上少佐の第十三聯隊に属しているのである。
「貴公、どうじゃ、仕遂げてくれるか」
「ご命令なら何ごとをもいたしますが、しかしこれは難事中の難事でござりまする、一身を殺しさえすればよろしいことなら、計介直ぐにお受けいたしますが、死んでは功がないのでございます、まことに大任でござりまするな」
「じゃから貴公をわずらわすのじゃ」
「いや、万一賊に発見いたされますれば、私の一身は軽い者で、死はいといませぬが、大役を仕損じ、鎮台の安危にもかかわることでございますから、私ごとき身分のひくい下士には、勤まりかねる儀かと存じまするが」
「その謙遜には及ばん、聯隊長たる乃公が見抜いておるし、児玉参謀がわざわざおまえを招かれたのじゃ。引き受けい」
 川上聯隊長に言われて、谷村計介は無骨な手を膝に重ねて、しばし黙然と考えていた。
「万一の仕損じをお許し下されば、私は喜んで承ります。たとえ仕損じて賊に捉えられ、いかなる拷問を受けますとも、鎮台の様子を洩すことはいたしませんから、ご安心下さいまし。……しかし是非とも官軍に達して、ご命令を伝達いたしたいと存じます」
「そうか、貴公のことじゃから、その辺ぱ安心しているが、卑怯と言われようが、何と言われようが、助かるだけは助かって、首尾よく味方の援軍に達してくれ」
「承知いたしました。多数の鎮台兵の中からお見出しに預かって、実に私の面目でございます。しかし私一人で、万一のことがありますと、折角のこ趣意が通りませんから、今一人誰かお出し下さるわけにぱ参りませんか。……二人のうちに一人は目的を遂げようかと心得ます」
 稲韋竹麻(とういちくま)と取り囲む賊が、哨兵線を戒厳して、鎮台の密使を警戒する最中であるから、計介は必ず目的を遂行する自信はない。しかし自信はなくとも、士は己を知る者のために死すとさえ言う者を、出来る限りの手段を尽して、上官の負託に背くまいと、固く決心の(ほぞ)を定めたので、同行者を求めたのである。たとえ自分が途中に殪るるとも、残る一人が志を継ぐに違いないと、計介は一身の利害を思わず、鎮台の安危を担うのである。
「それはこちらでも考えているので、監獄看守の宍戸正輝を同行させるつもりじゃ。……しかし乃公ぱ貴公に信頼をするのじゃ」
 児玉参謀は士を用いるに巧みである。計介は勇み立ってその場を退いた。しかし勇み立った彼の姿は、勇まぬ時と同じように、闇黒(くらやみ)から牛をひき出したごとくのろのろしている。
「川上君、みたまえ、軍服着ていなけりゃ百姓じゃ。あれなら賊の目をくらませよう」
「きっと成功するぞ。……旅団と連絡がとれれば、鎮台は生き返るのじゃ」
「実際そうじゃ、堂々たる熊本鎮台、ご同様の命が、あの薄汚ない谷村の肩に繋るかと思うと、イヤハヤ散々じゃわい」と、児玉参謀は哄然として笑った。
 天幕(てんと)の中の卓上には、破裂した砲弾を花活(はないけ)として、無雑作に投込まれた鶴頂梅(ぶんこうめ)が、玉を刻むはなびらをほころばせて、妙なる(かおり)を放っている。花の(さきがけ)は時にとっての縁喜である。



最終更新日 2005年09月23日 21時55分02秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二六 谷村計介重囲を脱して官軍に投ず」1

二六 谷村計介重囲を脱して官軍に投ず
 武夫(もののふ)の花と散るよりもなお香わしき大任を負いたる谷村計介は、児玉、川上両少佐の知遇に感じ、必ず官軍の旅団に達して、城中幾千の生霊を救うべく心に誓った。
 司令官谷少将は、両少佐とともに、谷村計介を召出して、目ずから命令を伝えた。なまじ書状がある時には賊に捉えられた時、いいぬけの途がないからである。
 計介が隊へ帰った時には、早くも谷村が重任を受けたことが、誰言うとなく隊中に知れた。大旱の雲霓(うんげい)を望むがごとくに援兵を待ち焦るる人々は、谷村の使命を知って、自分たちが早や救助されたごとくに感じ、必ず谷村の成功を信じて疑わなかった。
 同隊の兵士は、谷村の周囲に集り、変装の手助けを始める。さらぬだに汚なき顔は、煤をもってさらに塗りたぐり、鶉衣(うずらごろも)かと見ゆる繿縷(ほろ)に縄の帯をしめたる、いかに慧眼の賊でも、これが鎮台下士とは思えぬのである。
「よし、これなら大丈夫だ」と、計介は白い歯を出してにこりと笑った。
「よく似合ったなあ。軍服よりよほどよいぞ」と、後の方で笑う者がある。
「ばかにするな」と、谷村が振り返ると、それは児玉参謀であった。
「うまくやってくれよ」
「きっとやります」
 谷村は決然として答えた。この寒空に繿縷(ほろ)一枚、身に寸鉄をだに帯びざる勇士は、単身城内をひそみ出て、薩南健児の重囲の中を、右に抜け、左にかわし、息を殺して潜行するのである。
 同時に城を出た宍戸看守は、谷村と固く手を握り交して、
「命があったらまた逢おう」
 うなずき合って、右と左に別れた。棲み馴れたる熊本城を今を限りと顧みると、烏羽玉(うばたま)の闇は深く鎖しながらも、巨人のごとき城門は、国の礎を誇るがごとくに、巍然として聳.えている。
 夜は沈々として、一点の火光だもなき城中には、五千に近き生霊が、望みをわが一身にかけるかと思うと、感慨胸に充ち、意気凜冽として、斗牛を呑むの概がある。よし賊に千里眼あればとて、忠義に凝りたる一身を、やわか天神の加護を垂れたまわざることやあると、計介は固き信念をもって、南関の国境に向わんとして、独鈷山の麓なる牧岡越にて、はしなく敵の哨兵線にかかった。
「誰かッ」と、黒闇々たる中より、バラバラと躍り出でたる三人の賊は、銃剣を計介の胸に擬して、一歩たりとも身動きすれば、直ちに突き殺さん権幕である。
「旦那様、どうぞハアご勘弁を」と、計介は大地にすくんでブルブルふるえている。
「貴様は鎮台兵じゃろう」
 賊の下士らしいのが、破れ鐘声にどなりつけた。
「どういたしまして、手前は宿なしでございます。この戦に稼ぎはなりませず、食べるものを捜しに、うろうろしておりました。どうぞ命ばかりはお助けを」と、伏し拝む。
「ウンニャ」と、下士は頭を振った。
「懐を改めい」
 二人は急造(さそく)の松明を差し付けた。一人は手を押え、一人は懐を改めたが、もとより何一品だもない。
「何にもありませんぞ」
 兵士はやや力抜けがした。
 下士は松明(たいまつ)の光に、ツクヅク谷村の顔を見て、
「なるほど鎮台じゃあるまい。しかし鎮台のやつらに何を頼まれておるか解らんわい。……縛れ縛れ。……明日隊長へ申出てからにしよう」
 南無三と、谷村は肚胸(とむね)を衝かれた。今城を出たばかりで、直ぐに捉えられては、児玉、川上両少佐が、多勢の中から自分を推選された知遇にも背き、せっかくの苦心も水の泡であると、思わず暗涙にむせんだ。
「ヤア、こいつ泣きおるわい」
「全く乞食に違いあるまい」
 賊はささやきながら、計介を立木に繋いだまま出て行った。
 明日になって、戦の血祭に、刀の錆となってはなおさら残念であると、計介は何とかして縄を抜けようと、足摺して身を悶えた。(いましめ)の痕は固いけれども、荒縄を用いたのは、天の幸いである。計介は後ざまに縛られたまま、爪で縄を掻きむしり始めた。
 バラリバラリと、鼠が縄を食い切るごとく、ジリジリと切れ始めた。計介の喜びはたとえん方もない。力に任して身悶えするほどに、プツリと音立てて縄はバラリと切れた。計介は力余って、よろよろとなったが、足を踏みしめるや否や、一散に逃げ出し、谿間深くさぐり入って、辛くも古関から原倉を過ぎて吉次越にかかった。
 吉次越は熊本より高瀬に通ずる玉名郡の難道、峩々たる嶮山重畳して、欝蒼たる老樹昼なお暗く、雲の梯天(かけはし)に参し、四十八谿は奈落にいたり、白雲漠々として道を封ずる時は、天魔波旬もなおよじ難き絶所である。
 一夫関を守れば、万卒も越え難き岨道(そばみち)に、賊は(とりで)を設けて官軍の来攻に備え、熊本への連絡を断っている。
 計介は谿より峯、峯より崖へと、はうがごとくに身を潜ませたが、賊の名将篠原国幹が、地理を按じて哨兵を置いたので、いぬころ一匹はい出る隙もなく、計介は再び賊に捉えられた。
「へーへー、私は小田の農夫(ひやくしよう)で、磯貝五六と申す者でございます。どうぞお助けなさって下さいまし」
「貴様は鎮台の密使に相違ない、白状しろ」
「いえどういたしまして、この度の戦で稼ぐことが出来ませんから、筑後の親類(みより)を尋ねて参るのでございます」と、計介は土下座をしたまま、手を合せて拝んだ。
「こいつ一筋縄では白状せんわい。責めに懸けても言わせい」
 小隊長とも見える賊は、弓の折を振上げて、赤裸の計介を、肉も破れよと打据えた。
「どうぞ許して下さいまし、私は官軍なんぞじゃございません」
 計介は泣き(わめ)いたが、無慈悲の(しもと)は容赦なく、ヒュウヒュウとうなりを立てて打ちたたく。皮は破れ、肉は裂けて、血がジリジリと流れて来た。
「お慈悲に助けて下さい」
 計介は声を限りに泣き叫んだ。
「やかましいわい。苦しきゃ白状しろ」
「全く小田村の磯貝五六でございます。怪しい者じゃございません」
「しぶとい奴じゃ。その木へ釣上げろ」
 無残なる賊の小隊長は、残忍酷薄の本性を現わして木の股へ釣上げ、ひしひしと打ちたたく。計介は歯を噛みて堪ゆるけれども、いつしか息も絶えだえになってしまった。
「こうして釣しておけ、強情の奴じゃ」
 小隊長は弓の折を投げ捨て、かなたへ行ってしまう。釣上げられた計介は、身体の重みで、縄が次第次第に肉にくい入った。その痛さ苦しさは、生きながら肉を裂ぎ、骨を削るものかわ、全身の血は(さかし)まに下って、無念の歯を噛みながら、我知らず気が遠くなった。ただ時折うごめくのみ。計介は忠義の鬼となったのであろうか、冷やかなる山路の風は、梢に声あって、からだから流るる血汐をなめるように吹いている。
「オウどうしたのじゃ、この者は」と、計介の側近く現われたのは、陸軍少佐の軍服の上に、白木綿の兵児帯を結んで、無反(むぞり)の大刀を打込んだあっぱれの猛者(もさ)である。
「こ奴は何をしたのか、許してやれい」と、木の下に佇む番兵に命じた。
「この者は鎮台兵か、または官軍のしのびだろうという見極めで、さっき小隊長が責められましたが、強情で白状いたしませんから、刑罰にあわせましたのでございます」
「それにしても下してやれ、こういたしておけば絶命するわい」
「しかし小隊長が」
「よろしい、拙者がいたしたと申せ」
 きっと言ったのは、篠原の第一大隊の部下に、その人ありと聞えた大河平(おこひら)武輔であった。
「官軍のしのびならなおさらじゃ。かくまで拷問しても言わぬなら、死んでも言わんわい。……武士の意地じゃ」
 この手の大将たる大河平の情ある言葉に、兵士は詮方なく谷村を下したが、計介の身体は綿のようになって、虫の息になっている。
「旦那、有難うございます」と、計介はオロオロして礼を述べたが、いたみをさする気力もない。
「貴様官軍か知らぬが、助けてつかわすそ。官軍にしたところで、貴様一人を助けたからが、勝つ軍に負けはせぬわい。早く行け」
 大河平は武士の情があった。しかし計介は身体の痛みで、思うように足が動かぬのみか、許されたを幸い、ここを逃げ出したら、再び追いかけ来りて殺されるやも知れない。
「旦那、私は小田村の農夫(ひやくしよう)、その日暮しの貧乏人でございます。筑後の親類へ逃げて行こうと思って、この山の中に迷い込んだところを捉ったので、飯もろくろく食わず、ぶたれて身体が思うようなりません。……三度の飯さえ食わしてくんなさればいいので、どうぞ何かの用に使って下さい。身体さえ癒れば、人より余計な仕事をしますから。食い稼ぎにさえなればよいので」
「フム」と大河平はしばらく考えて、谷村の顔を見つめたが、薄扁たい下品な四角顔(しかくづら)、あるなしの鼻は、二連銃のように並び開いている。色は漆よりも黒く、見るから野卑な面構えで、密偵やしのびでもする者は、眼のくばりに油断なく、瞳に輝きが見えねばならぬが、この男の眼はドンヨリと曇って、きょときょとと臆病なのが、ありありと見え透く。
「使ってくれというなら、小荷駄にでも回って、身体がしっかりしたら、どこへでも行け。貴様が鎮台のしのびであろうとも、こっちでは少しもかまわん」
 大量なる大河平武輔は、谷村を鎮台の伍長と知ってか知らずか、平然として人夫の中へ組み入れた。
 計介は辛く命を助かったものの、朝から晩まで兵粮弾薬を負わされて、山麓より山頂へと追い上げられ、牛馬のごとく使役される苦しさには、意地になっても耐ゆるけれども、(いたず)らに時を過して、内外の連絡をかいては、千辛万苦して城をしのび出ない昔と同じであると、計介は重き荷を負いながら、心は空をも(かけ)りたい思いである。
 峻嶺峨々たる吉次越の頂上に、計介は弾薬函を負うて腰を下した。遥か北にあたって、雪颪(ゆきおろし)のような音が、とどろと鳴り響くのは、官軍の野砲らしい。見渡す彼方に雲騒ぎて、朱を流したような夕陽は、黝墨(くろず)み渡る森に沈み、夜は咫尺(しせき)の間に迫っている。
 計介はきっとあたりを見回した。人夫の宰領はとくに砲台へ行ってしまったので、自分の側には、同じ荷担ぎが一人、小刀を手挟んで、仔細気に佇んでいる。
 逃げるは今ぞと、計介のドンヨリした眼はキラリと野獣のごとくに輝いた。彼はひそかに弾薬函の連尺を外したが、たちまち飛鳥のごとく身を躍らして、後ざまに人夫の弱腰を突き飛ばした。
 ふいの一撃に、人夫はあっと叫ぶ間もあらせず、足を浮かせてよろめくと、斧もて削れるがごとき千仞の崖を踏み外して、消し飛ぶごとく真逆様に落ち込んだ。
 それと見る計介は、脱兎のごとく木立の中に駆け入ったが、さながら夢中になって、目も眩むばかりの懸崖をすべり下り、しばし岩窟に身を潜めて、あたりの様子をうかがったが、俄かに変る空模様に、雲とも靄とも分かぬ夕煙は、漠々として谷を封じ、日は一刻ずつに落ち込むので、谷底はたちまち小暗くなって、三四間先さえはっきりと見えない。
 計介はようやく谷を這い出でた。木にも草にも心をおき、野衾(のぶすま)の叫びにも魂を驚かして、心的(こころあて)の道を高瀬の方へと潜行した。かれはさっきの砲声をこの方面に聞きなしたので、やがて久留米の官軍が進軍して来るに違いないと、足を宙に走ったのである。


最終更新日 2005年09月24日 00時06分19秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二六 谷村計介重囲を脱して官軍に投ず」2

 計介はただ心当てに、足に任せて走るのみであるから、いずれが敵の陣とも、味方の哨兵線とも知らず、さながら暗中を模索して行くのである。うっかり人に尋ねて、もし疑われでもすれば、このあたりの人心ははかり知ることが出来ぬのみか、佐々友房の一連一千余人の肥後士族が、賊に加担した中に、この辺の人が多いと聞いているので、計介は少しも油断せぬだけに、道一つ尋ねることも出来ない。
 やがて高瀬近くなると、果して官軍は精鋭を尽して、長駆ただちに熊本城を救うべく、第一旅団の将士は、野津司令官の下に、力をあわせ心を一にして、賊軍を圧迫しつつ、南下するらしい。計介は百難を排した甲斐があって、初めて天日の光を見たような心地がした。
 計介が賊軍の見張りを潜行した時には、麦の芽の寸々にして青き畑をはい歩き、森林の間を匍匐(ほふく)し、人を恐るる野鼠の出没するがごとくに、一足ずつに様子をうかがいて十町余りに五時間も費し、始めて味方の哨兵線へと辿りついた。かれは天地を拝して、神明の佑護を謝した。
「止れッ誰か」と、官軍の哨兵は、銃剣を構えて、計介の胸元に擬した。
「僕は熊本鎮台歩兵第十三聯隊の伍長谷村計介と言う者だ。城を脱け出て、連絡に来たのじゃから、本部へ案内したまえ」
「いかん」と、哨兵は没義道に言った。
「嘘を言え、貴様のような汚ない官軍はおらんぞ。案内などが出来るものか」と、哨兵は神経が亢奮(こうふん)して、木も草も皆敵に見ゆるらしい。うかつに物を言えば、すぐに銃殺されそうである。
 計介は敵の哨兵にこそ細心の注意をしたれ、味方には全く思い到らなんだのである。彼は味方の軍に行きさえすれば、どこでも喜んで助けてくれると信じていたのであるから、今更案に相違して、呆れ惑いながらも、ばかばかしくなった。
「貴様のような乞食が官軍におるか。貴様は賊のしのびに違いないぞ」と、哨兵は頑として聞き入れない。かれは賊へ行けば官軍と言われ、官軍へ来れば賊と疑われるのである。
「不審に思うなら、僕を縛って連れて行ってもよい。このとおり、小刀一本持ってはいないのだ」
 彼は縄の帯を解いて、身に寸鉄も帯びざることを示した。
「どうしようか」
 兵士は同僚にさややいた。
「何を言うか解らんけれど、捕縛して連れて行けば仔細なかろう」
 兵士の間に相談がまとまった時にぱ、計介は縛られながらようやく安心した。
 殺伐の修羅に馴れて、情を知らぬ兵士は、計介を高手小手に縛め、荒々しく船隈の本営へと護送して、怪しき密偵を捕縛したことを誇り顔に報告した。
 計介はすぐに参謀部へと回されたが、幸いに彼の顔を知る者があったので、始めて司令官の前へ引き出された。計介は張りつめた気が緩むとともに、思わず声を立てて泣いた。
乃公(わし)は野津じゃ。貴様よく城を脱けて来られたな」
 野津少将は谷村の憐れな姿を見て、途中の辛苦を思いやった。
「闍下、私は歩兵第十三聯隊の伍長谷村計介であります。谷司令官閣下のご命令を受けて、友軍に連絡をとるため、ようやく当旅団へ参りました。……途中危険ですから、手紙も何も持ちません。私が口上で申上げます」
「よろしい。熊本の様子はどうか」
「谷司令官閣下始め、皆ご無事であります。佐官以上では与倉聯隊長が戦死いたされました」
 計介ははっきり言ったが、たちまち当時の悲惨な様を思い出し、与倉夫人のけなげなさまなどが胸に充ちて、思うように語ることさえ出来ない。
「鎮台では、十九日に天守を焼きました。失火とはございますが、原因は解りません。そのため糧食全部を失いました。しかし弾薬だけは、児玉参謀が火の中に飛び込んですくい出されましたので、幸いに無事でございました」
「オゥ、児玉は無事か。……児玉さえいれば、まだまだ熊本を落すようなことはせぬわい」
 児玉参謀が計介を知るごとく、野津少将は児玉参謀を知っている。計介は自分を信じられたほどに嬉しい。
「城は二十三日から全く囲まれました。しかし賊には大砲が少のうございますから、何分か悲惨の損害を減じております。……将校や県官の夫人たちを城内に避難させましたから、籠城の苦痛は一層加わりました。ことに連絡が絶えて、官軍の情勢が解らぬため、兵士の中には意気沮喪する者が出来ようかと、司令官始め、将校方が、心痛いたされまするで、私が連絡を通じに出たのでございます。途中二度も賊のために捉まりまして、言語道断の拷問に逢いましたが、命だけは取り止めましてございます」
 谷村計介は感極まって、ホロホロ涙を流しながら、痩せ衰えた眼に喜びの色をうかべた。
「それは大儀であった。児玉や川上がそちを選抜いたしおっただけ、よく成功いたしくれた。実は当方でも鎮台の様子が少しも解らんのであったが、それを聞いて安心いたした。しかし一刻も早く救援せねばならぬ。……ついてはいろいろそちに様子を聞かねばならぬことがあるから、当方に滞在いたしおれ、そしてよく療治いたしたがよかろう」
「ハイ、お言葉でございますが、私はこのことを一刻も早く城へ報告したいと思います」
 計介の一心は、三千余人の戦友の安危あるのみで、この疲れたる身体に、よろめく足を踏みしめても、再び城内へ辿りついて吉報を聞かしたいのである。官軍救援のしらせは、城兵にとって、甘露の慈雨より悦こぼしい。
「いや、それは当方から人を出すことにいたす。そちのように疲れておっては、再度の密使はかえって危うい。……安心して療治いたせ」
 情深き将軍の言葉に、計介は強て争いかね、後方に退いて軍医の手当を受けた。
 野津将軍の第一旅団は、計介の密報によって、旦夕の危急に瀕するを知り、俄かに全軍の運動を起し、三好少将の第二旅団と連絡して高瀬口より玉名郡の木の葉に突出し、稲佐山の堡塁を落し、進んで田原坂(たばるざか)の賊軍に迫った。別軍は吉次越より大久保に出で、一手はさらに河内通りを南下し、三面相応じて賊を圧迫したが、田原坂の嶮をたのめる賊軍は、驃悍(ひようかん)無双の篠原国幹が決死の兵を率いて死守するので、官軍の死傷は刻一刻におびただしく、戦うごとに追い返されて、容易に攻め落すことは出来ない。天地に震う両軍、吶喊(とつかん)の声と、大小砲の響とは、深山幽谷に鳴りはためきて、世は今を限りと覚ゆるまでに、手いたき激戦に及んだのは、同じ年の三月四日であった。
 谷村計介はこの時まで司令部に止まっていたが、先鋒の銃声を聞いては、しばしも安閑とされない。まして櫛の歯をひくごとき報告は、味方の苦戦と聞こえるので、計介は脾肉(ひにく)をたたいて立上り、ずかずかと参謀部へ行った。
「私は無事にいることが、実に苦痛でございます。どうか戦線へ編入して下さい。ただ一発でも撃ちたいです」
「相変らず愉快な男じゃ」と、司令官は、手にした地図を石の上に置いた。
「しかしそちは鎮台の預り者じゃから、怪我でもさせては乃公(わし)が谷に済まんでなあ」
「ハイ、しかし同じ陸軍の軍人でございます。ただ見物するだけでも、お許しを願います」と、容易に承引しない。
「そうか、しからばそちに伝令を申し付けるから」
 野津将軍は計介の熱心に動かされて、比較的危険の少ない伝令の任を授けた。
「有難う存じます」
 計介は蹶起して戦線へと馳せ向った。
 前線の戦は今やたけなわである。賊は胸墻(きようしよう)を山上に設け、えいえい声して攻め登る官軍を、(さかし)まに選み撃ちするので、見る見るうちに将校の多くは、バタリバタリと倒れる。突撃兵は木の根岩角に伏して、敵の射撃の衰えるを待ちて、また進み始めれば、たちまちごうごう然と一斉に撃ち出すので、行く者も行く者も皆全滅してしまう。なまなか地物に拠ったものは、撃ちすくめられて動くことが出来ない。塁上からは大石巨木を転ばしかけるので、味方は将棋倒れに谷へと落ちて、苦しみ悶える声は、耳も聾せんばかりである。
 名に負う薩南の驍将篠原国幹の率いる将卒は名を惜しみて命を知らざる猪突の健児、しかも九州第一の天険たる田原坂に拠るのである。まして守将篠原国幹は、己の策の容れられざるに憤激し、屍をこの地に曝して、名を千載竹帛(ちくはく)に垂れんと期するものから、官軍必死の攻撃も、寸地をだに占領することが出来ない。
 谷村計介は人のとどむるを聴かずに、戦線へと進んで、戦の有様を見ると、今や味方は敵の拔刀隊に追い捲られて、嶮しき阪道を雪崩を打って逃げ戻る。見る見るうちに、前後左右へ斬り倒さるる腑甲斐なさ。
 指揮官は刀を揮って怒髪逆まに「引くなッ、帰せ戻せ」と新手を率いて攻め登ると、塁上より俯瞰して釣瓶懸けに撃ち出す敵の弾丸は、飆々(ひようひよう)とすさまじき音を発して雨のごとくに降り注ぐ。檜や花柏(さわら)の木立は弾丸(たま)に砕けて、大枝小枝が、バラバラと飛んで来る。さながら暴風の一時に怒りて、百雷この時に震うがごとき有様である。
 かくと見て、歯を咬み腕を扼した計介は、我を忘れて馳せ出でた。言い甲斐なき味方の有様かな、わが熊本鎮台の猛兵なら、かほどの不覚はあるまいと思うと、計介の全身は無念の怒に燃えて、悪鬼の火焔(ほのお)を吹くがごとく、前後を忘れて弾丸雨飛の中へ飛び込み、倒れし兵士の手より銃を奪うて、弾薬を腰につけるや否や、
「俺に続けッ」と叫びざま、傷を負うたる猛獣のごとく、面も振らず敵塁へと突貫した。
「谷村殺すな、続け続けッ」と、指揮官は躍り上って絶叫した。味方はこれに励まされて、再びドッと盛返し、戦友の屍を踏越え踏越え、(おめ)き叫んで突進するや、敵の射撃はますます猛烈になり、さながら豆をまくがごとく、弾丸は冥鬼の叫ぶがごとき呪いの声を発して飛んで来る。真先に進んだ指揮官は、大喝一声「進めッ」と叫んだまま、真額(まびたい)を打たれて、仰向けに反り返った。
 進むも死、退ぞくも死、官軍は猛虎の狂えるがごとく、死物狂いに胸墻に取りついた。
「飛込めッ、飛込めッ」
 何者の叫び声とも知らず、官軍はこれに励まされ、胸墻に乗り入らんとして、我先にと焦り立てる。賊は塁上より銃を逆まにして、群がる官軍を打ち払うのである。
「飛込めッ、飛込めッ」
 天の声とも聞ゆる大音声は、再び官軍の頭上に轟いた。
 火出つるばかりの大激戦の中にも、官軍の勇士は驚いて振仰いだ。見ると夜叉王の怒りたるがごとき谷村計介は、全身に鮮血を浴びながら、胸墻の上に突っ立って、銃を振回しつつ絶叫している。
「谷村だぞ。それ続けッ」
 味方の勇士は、戦友の死骸を踏台にして、後れはせじと胸墻に取り付く途端、賊の銃手が狙撃したる一弾は、計介の胸板を貫通した。
「ばか!」
 天にも響けと罵しる最後の一声とともに、無残、計介は胸墻の上にクルクルと回ったが、真逆様に敵塁の中へと落ち込んだ。
「谷村が殺られたッ」
 官軍はたのみ切ったる勇士を討たれて、続いて飛入る者はない、見る見る敵に撃しらまされて、再び坂下へと退却した。
 見上ぐる坂道は、伏屍累々(ふくしるいるい)として、血は滝のごとくに流れ、硝煙低く地をはう田原坂の岨道(そばみち)に、人の世の戦を(よそ)(すみれ)の花は、踏みにじられながらも、夢のようにほのぼのと咲き出で、蝶の羽翅(はがい)(もろ)く折れつつも、花にすがって動きもやらず眠っている。



最終更新日 2005年09月24日 00時21分53秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二七 奥少佐突出隊を率いて川尻に向う」1

二七 奥少佐突出隊を率いて川尻に向う
 生別死別をかねたる密使の門出に、泣いて谷村を送り出したる城内の勇士は、その後の消息(よう)として聞こえず、さらに一入(ひとしお)の心配を増したのみ、両軍の連絡は依然として絶えている。
 司令官以下士卒に至るまで、今は救援の(あだ)なる望みを断って、城を枕に討死すべく、決心の(ほぞ)を固めた。なまじ生きんと思えばこそ、心に後れが出る。笑って肉弾となろうと思えば、百万の敵軍も物の数ともない。
 城中の者は男となく女となく、全く必死を極めた。城陥れば一人だも生き残らずと覚悟して、刀折れ弾尽きるまでは石にかじりついても、敵を悩まし、忠義の鬼となって、賊を滅ぼさんとの一念は、身を焚いて悪魔のごとくに(たけ)り立った。
 救援の望みを絶った自暴自棄にはあらねど、城兵は今まで空恃(そらだの)みにした救いの手を思い切ったので、心を防戦に一つにして、鉄桶(てつとう)の中に坐するがごとく、寸分の隙もなく防備を厳にした。
 賊もまた、熊本城をひしひしと取り囲んで、蟻のはい出る隙もないまでに、陣地を拡げ、胸墻を設けた。始めは隻手にして取るべきのみと侮った鎮台が、思いの外に手ごわいので、ほとほと攻めあぐね、互いに睨み合うばかり、劇しき戦いは起らなかったが、三月十二日の午後一時に、各方面一斉に蹶起して、激烈なる大攻撃を開始し、ことに段山は肉弾相当り、空拳相うつ両軍の勇士が、名を惜しみ功を誓いて、惨烈なる大活劇を演出した。
 この激戦は実に翌十四日の午後五時まで続き、両軍は多数の死傷者を出したが、官軍は辛うじて段山を奪取した。
 熊本城にとりて、この段山ほど苦しきものはない。これを守るには多数の兵が要るし、さればとて敵に渡せば、俯しながら打ち込まれる憂がある。今一人を十人にも使いたいほど、手の少ない鎮台にとりては、段山守備の兵を分遣することは、手足をそがれるに等しい。
「おそらく段山ぐらい厄介なものはあるまい。多大の血を流して占領はしたものの、守備の兵が足らんので、実に困難するわい」と、参謀長は地図を()べたまま眉をひそめた。
「そうです。道楽息子を持ったようなものですな」と、児玉参謀は例によって軽口を言っている。
「君の意見はどうかね」
「やむを得んければ、秀吉高松城の水責めをやりましょう。……tかしこの水責めは敵を攻めるのではない、味方の守備のために」
「なるほどな」と、参謀長は耳を傾ける。
「僕はまず春日村の石塘(いしどて)を堰止めて、井芹川と坪井川の水を溜めて、城の西の方を一面の湖としたら、この手の守備兵はほとんど無用になる。もちろん敵も攻め寄れん代りに、こっちも出て行くことが出来んから、不便はこ同様じゃろうけれど、……せめてそうでもしなければ、兵士を休息させることが出来んでしょう」
「面白いな。消極戦術じゃわい。水で防ぐとは名案じゃ、一つ司令官と相談してみよう」
「しかしあまりに突飛な戦術ですが、いわゆる臨機応変にやってみたいと思いますじゃ」
 児玉参謀の機智は、早くも地の理を察して、水を利用すべき計画を立てた。司令官以下も、窮余の一策として、速やかにこの奇策を行うべく準備した。
 折柄薩軍も大兵を擁すとは声言するものの、戦線は数十里にわたりて広く、南は八代、松橋、宇土より、甲佐、御船に及び、東は阿蘇より大津に出で、西は一帯の海岸線にわたり、北は野出、三岳、植木、鳥栖、田島、大池に及び、四方八方に兵を分けたので、熊本城を包囲する兵数は、必ずしも多いものではない。したがって攻撃力が薄弱なので、熊本隊弾薬輸送隊長弓削新(ゆげしん)は、賊将池辺吉十郎にむかって、熊本城水攻めの策を献じた。それがあたかも児玉参謀の水運利用の謀事(はかりごと)と符節を合せたるがごとくであった。
 鎮台より水利を用いるは、敵前の作業であるから、仕事が困難であるが、賊が行う時には、自分の陣中の作業なので、誰に妨げられる(おそれ)はない。
 たちまちにして土豚(どとん)は幾千俵となく運ばれ、立木そのままの材木は積まれ、見る見る井芹川は流れを塞がれたので、滔々たる大水は逆まに溢れ、奔馬の勢いをもって田と言わず、畑と言わずに侵入し来り、数千(けい)の田畝は森々(びようびよう)たる大湖を現出してしまった。
 わが思うことを、敵の手によって行なわれた城内の将校は、刻一刻と嵩り来る水勢を見て、手を拍って喜んだ。
「こっちでやることを、先方でやってくれて、これで当分楽が出来るわい。……まるで馴合(なれあい)で戦争しているようなものだぞ」と、互いに顔を見合せて笑った。
 薩軍は実に持久の計を立てたのである。戦わずして勝つべき手段は、日をむなしゅうして城中の食糧を断たんとするのである。いかなる勇士も、食尽きては戦うの勇なければ、手を濡さずして城を落すことが出来るのである。
 水攻めによって、一次の安きを保った城兵は、日に日に乏しくなる食糧に、心細さはたとうるものもない。もはや糧米は数十日を余すのみである。副食物とてももとより少なく、三食を二食とし、二食は今や一食と減ぜねばならぬ窮状となって、口に入るべきものならば、何物をも辞さぬ哀れさを覚えた。糧米庫(りようまいぐら)燃跡(やけあと)より掘り出さるる(くすぶ)った玄米を、コトンコトンと寂しき響を伝えて搗く音は、腸に滲み通るばかりである。虎とも組まんず勇士が、背骨に引っつくような腹を押え、落窪んだ眼を光らせるみじめな有様を、我人ともに悲痛な感じをもって見交した。
 この哀れなる有様を見て、九竅(きゆうきよう)より血をはくばかりに覚ゆるは、司令部の将校である。今城内には三千余人の戦闘員の外に、千五百余人の非戦闘員、中には女子供がたくさんいる。これらの人に糧米の不足を覚られ、気を屈しさせては、何時中(なんどきうち)から災が生じないとも限らない。恐るべきは敵の攻撃よりも、味方の失望落胆である。失望落胆のあまり、自殺者も出来、病人も殖えるようなことがあれば、熊本城の命は無理に自滅を早めるようなものである。何をか兵士の心を慰める方法はあるまいかと、城内はかえってこの頃の無為に苦しみを覚えた。
 敵と対峙する間は、矢竹心に気は張れども、空しく城中に閉籠って糧食の欠乏を告げ、幾日かの後には、餓えて(たお)るる運命を自覚しては、決死の士気もようやく沮喪し、気力も鎖沈するのが日一日と目に立つので、司令部では、兵士の中を物色して、蕎麦(そば)を打たせ、(あめ)を造らせなどして、園遊会のような真似をさせる。一方には菰垂寄席(こもだれよせ)を設け、のど自慢、芸自慢の兵士を駆り出して、演劇音曲(しばいおんぎよく)の與行を催うさせなどして、辛くも沈淪し行く人気を引き立てた。
 しかしかかる戯れも、一時の興奮剤に過ぎない。いつしかあきて来ると、城の運命を悲観して、人々の顔には不安の雲が間断なく引きはえる。
 籠城も早五十余日、糧食は十日余りを過すに過ぎない。まして副食物は全く欠乏したので、死馬の肉を肉汁(そつぶ)として病人に与え、煮出しの肉は時折兵士に与えるが、一人に一片(ひときれ)も当れば、熊掌(ゆうしよう)炙物(あぶりもの)でも食べるように舌鼓を打つ。時折敵弾に打たれて馬が倒れると、各隊から飛んで出て、その肉を奪い合う、実にこの世からなる餓鬼道の苦しみである。
 さしも不撓不屈の英雄も、部下の兵士の窘窮(きんきゆう)を見、刻々ちぢまり行く城の運命を考えては、このまま死の命数を待つことは出来ない。
 悲愴惨憺たる突出隊組織の窮策は、司令官谷将軍の心の底に画された。今や官軍は各方面より熊本城を望んで近寄りつつあるのは、遠雷の響を雲のあなたに夢かとほのかに聞くので察知される。しかしそれがどのくらいまで進んでいるであろうか、恐らくは賊に喰い止められて、容易に近接することが出来ぬのであろう。この際城内から一大隊以上の突出隊を出して、賊の重囲を突破し、幸いに味方に達すれば一時の連絡を得て、城兵は轍鮒(てつぶ)の水を得たる喜びがある。しかし不幸にして、不成功に終り、全軍刀下の鬼となるとも、そのために城兵は幾日かの食を食い延ばすことが出来る。
 残忍酷薄の作戦ながら、死中に活を求め、九死に一生を脱する乾坤一擲の壮挙である。雲霞(うんか)のごとき敵の大軍を突破する無謀の戦闘は、干城自ら当るべきのみと、心中深く思い定めたる将軍は、城中の重立たる将校を集めて、今を限りの別れを掬むべく、大広間に名残りの会議を開いたのは、春暖かき四月七日の朝であった。



最終更新日 2005年09月24日 17時06分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二七 奥少佐突出隊を率いて川尻に向う」2

 硝煙弾雨にまみれながら、武士(もののふ)の花と咲く桜は、そよ吹く風に誘われて、戎衣の袖に雪かと誤たれ、欄漫として心の限り朝日に匂う麗わしさ、桜の下に死を期して、一歩も去らず戦いたる南朝の武臣を思いうかべ、今や死すべき時ぞ来れると、桜の馬場の花を仰いで、剣橇(けんは)を握る将校の顔は、晴やかに輝いた。
 城内の会議室にあてたる広書院は、二列の長卓子(ながてーぶる)に椅子を配って、猛将勇士は星のことくに居流れ、負傷(いたで)を包む繃帯に、手いたき戦いの名残りを止むるも勇ましい。外に数万の大敵を控え、中に飢餓の身に迫るを覚えながら、淋漓たる慷慨、悲愴なる意気は、そぞろに鬼神を泣かしむるものがある。
「諸君、長らく賊軍の防禦に勤められ、敵をして一歩も城へ入れしめぬのは、皆諸君が勇戦の賜物で、この干城は実に熱涙をのんで感謝いたしおるところじゃ、諸君なかりせぽ、熊本城はとうに賊軍に蹂躪されてあったろうと思うと、そぞろに寒心に堪えぬ」
 司令官谷将軍は、(だつ)を排して起立しつつ、満座の将校を見渡した。
「諸君この熊本城は、籠城と決定して、敵に包囲されてより最早五十余日、外に一兵の救いなく、内に多数の婦女童幼を収容しているが、ご同様始め士卒の意気は少しも衰えず、また士卒らに一人として敵に内応せんとする者さえなきは、むしろ不思議の奇蹟のように思われるが、しかし、それは諸君が部下を薫陶されるに、道をもってせられるからで、これまた干城が感謝せねばならぬのである。諸君、熊本城内四千余の生霊は、今や軍隊組織に非ずして、大いなる一家である。諸君はその父兄たり、士卒はその子弟で、すべて他人ではない。皆血族のごとき関係を生じ、苦楽を共にして生活しつつあるは、けだし籠城の賜物ではあるけれども、実に軍隊生活の美事である。しかるに諸君、ご承知のごとく、官軍の援兵は近くに来りながらなお城に入ることが出来ぬのは、賊の抵抗が激烈で、容易に勝を制し得られぬためである。従来の戦局から考えても、この先幾日にして、果して味方の救いに逢うか、実際推定を下すことが出来ぬのである。諸君、今や城内の糧食は、はなはだ長きを保つことが出来ぬのであるから、万一食が尽て来たらば、下級の兵卒に、いかなる珍事が出来(しゆつたい)いたさんも知れぬ。いや今日でも、糧食の乏しくなったことを、兵士らは皆承知いたしおるから、今日までこそ無事に軍人の本分を守って来たれ、今日以後何事が突発せんとも限らぬのじゃ。そこで干城自身何人にも(はか)ることなく、窃かに考慮した一策があるから、それを諸君に相談したいと思うのじゃ」
 将軍が卓(たくれい)風発の意気は、ひらいて万朶(ばんだ)の桜となり、庭前の春色と(けん)を競うかと勇ましい。
「干城の考えというのは、薩摩方面より進軍して来たる味方が、最も城に接近しているらしくもあり、またこの方面の賊軍の警戒が、比較的手薄のように思われるから、一大隊以上の突出隊を出して、この方面に突進し、万難を排して官軍に達したならば、ここに両軍の連絡がとれて、城内の様子が味方にくわしく知れるによって、いかなる犠牲を払っても、急速救援されるに違いない。もしまた不幸目的を達せずして、全軍ことごとく戦死せんか、実に尊き肉の犠牲ではあるが、一大隊の兵員の食糧を、城兵に遺すわけで、城の生命が幾日でも延びるのである」
 将軍の眼は炯々として輝き、美しき熱涙が漂うている。
「かくのごとき残酷なる方略は、いやしくも鎮台の長官として、多数の生霊を預る身として、夢にも口にすべきことではない。陛下の軍人をかかる無謀の策に殺すのは、不忠の(そし)りを免かれないが、窮余の一策として、万やむを得ぬと思う。しかしなお他に名策あらば、諸君は遺憾なく審議を尽されたい」
 将軍の顔は見る見る熱して来た。声涙共に下る悲痛の色は、緊張した双頬に浮かんだが、並居る将士誰一人として仰ぎ見る者がない。座中は水を打ったように鎮まりかえって、わずかに唾を呑む音が聞こえるのである。
「諸君に異議なくば、直ちに決行いたそうと思う。ついてはこの挙たる万に一つも成功を期しがたく、かつ当鎮台の安危にかかわる大事であるから、この突出隊の指揮は、干城自ら陣頭に立って号令いたそうと思う」
 将軍の鮮かな血色には、固き決心の色があらわれた。……将士は互いに顔を見合すばかり、誰一人答える者がない。
「それについては樺山参謀長は、児玉参謀とともに、干城のなきあとを預って、万事に過失のなきよう、籠城の守備を固められたい」
 大鵬一度飛べば上九万里を窮め、颯爽たる勇姿は蒼冥(そうめい)をつんざいて、碧落(へきらく)を破らねば已むまじき概がある。将軍は静かに椅子についた。
 忍びの緒を切って、花と散る討死の覚悟は、部門の誇りとは言え、飢餓を救う突出に、今を限りの思い出を契りて、生別死別を兼ねるかと思えば、さしもの貔貅(ひきゆう)も■(げんぜん)として心も朽ちるばかりである。
「閣下のご意見は、今日の場合、非常に処するに非常の処置として、まことにごもっともであります」
 樺山参謀長は決然として、司令官の面を仰いだ。
「しかし閣下が突出隊の指揮をとらるることは、もっての外でござる」
 参謀長は頭を振った。よくこそ言ったと言わぬばかりに、各将校は参謀長の顔を見た。
「閣下は鎮台の首脳、熊本城の精神であるから、主脳や精神が城を出ては、後は首なき(むくろ)で、方向さえも解らぬではござらぬか.まして突出隊は千に一つも成功を期しがたいと見ねばならぬので、閣下が戦死されたら、当城は闇でありましょう。好んでかくのごとき危険を冒すことは、司令官たる尊き身をもって成すべきではありません。……この任務は是非拙者が承る」
 樺山参謀長はきっと言って、人々の賛成を得べく見回した。
「それはいかん。やはり同じことだ」と、突然大声を出したのは、児玉参謀であった。
「何故いかん」と、参謀長は少し気色ばむ。
「司令官が首脳なら、参謀長は顔だ、顔がなくては、眼も見えねば、耳も聞こえず、飯も食われん、参謀長を殺すことは断って不同意です。孔明死して蜀亡ぶではありませぬか。……突出隊長は私が申受ける。是非私にお命じを願いたい」
 児玉参謀の声は、満堂を圧するばかり、凜然として椅子に反り返った。
「児玉君」と、突然呼びかけたのは、さっきから一語をも発せなんだ少佐奥保鞏(やすかた)である。
「君もまたその任ではあるまい」と、奥少佐は静かに微笑する。
「怪しからん、なぜその任ではないか」
帷幕(いばく)の将は謀を内にめぐらすべきものじゃ、兵を(ひつさ)げて直前敵陣を破るは戦将の任じゃあるまいか。……多言をもちいず、僕がその任に当るべきじゃ。……閣下、突出は聯隊の方へお命じ下すって、指揮は私にお任せ下さい。……聯隊でも争う者はありません」
 奥少佐の辞色はすこぶるはげしい、固く死をもって乞うのである。
「そうじゃ、鎮台の枢機に参する参謀のやることではない。これは奥君の言うことがもっともでありましょう」
 川上聯隊長が言下に賛成すると、我も我もと聯隊将校は奥少佐の説に傾いたので、谷司令官もやむなく初志を翻えして、ついに奥少佐を突出隊の指揮官とした。



最終更新日 2005年09月24日 17時18分45秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二八 熊本の囲いついに解け賊魁城山に亡ぶ」

二八 熊本の囲いついに解け賊魁城山に亡ぶ
 風蕭々(しようしよう)として寒き易水に、白虹日を貫ぬく悲壮なる突出隊は、八日の黎明をもって、熊本城を出で、川尻指して疾風のごとく突貫すべく、歩兵第十三聯隊の第一大隊を選抜し、奥少佐指揮官となり、大迫大尉参謀となりて、全隊の肉弾囲みをついやして突出することとなった。
 別に突出隊とともに、敵の不意を襲うて、薩軍の陣営に殺到し、前後左右に敵を薙倒し、その混乱に乗じて、突出隊の道を開くべき進撃隊がある。指揮官は小川大尉で、歩兵第十四聯隊の第一大隊と、五番組の警視隊である。兵士は銃を携えるけれども、警視隊はみな抜刀で、剣光氷よりも冷やかである。
 まだ黎明(しののめ)に間があるので、突出隊は十分の睡眠をとらんとしたが、気昂り心躍りて、誰一人眠る者はない。三々伍々打ち寄りて、懐かしき戦友に最後の訣別(いとまごい)を告げ、あるいは残り止まる城兵の、糧尽きたる暁を思いうかべて、孤城落日の哀れさが、惨として胸を浸すのである。突出将校の妻女は、表に良人(おつと)を励ましながら、ひそかに泣き崩れて、(おもて)も上げない。良人と呼び、妻といつくしまれたる情も、今を限りの夢となり、片羽の鴛鴦(おしどり)はただ浮萍(うきぐさ)とともに漂う身とはなった。
 武人戦いに臨む時、家を憶わずとは言いながら、目前に迫る愛別離苦に、(はらわた)を絞らるる征人の怨み、濳々(さんさん)たる熱涙は湯のごとくに滲みわたる。
 夜はますます更け渡りて、風冷やかに夢を吹ぎ、鬼気啾々(しゆうしゆう)として人に迫る時、落花はハラハラと勇ましき人に降りかかりて、天もこの壮挙を送る者のごとく、全軍の土気凜として(おご)った。月なき闇もやや薄れて、銃影剣光の時折きらめくも物凄い。
「オウ奥君いよいよ出発だね。……しっかりやってくれたまえ」と、児玉参謀は固く指揮官の手を握った。
「後を頼むぞ。……出て行く身より、残る人のことを考えると、実に苦心だろうと思うからな」
 奥指揮官は熱情のこもったことばで答えた。
「いや、後のことは心配せんで。大いに奮戦して首尾よくやりたまえ。……僕は詩が出来たが見てくれ」
 人生の大事に望み、危急存亡の(とき)に会しても、勇士は自若として動かない。
「どれ見せたまえ。……妖氛捲地蔽山河(ようふんちをまいてさんかをおおう)軍気満城人益和(ぐんきまんじようひとますますわす)早鎖城門春不入(はやくじようもんをとざしてはるいらず)微風何送落花多(びふうなんぞらつかをおくるおおき)……か、なるほど君としてはけだし傑作だろう」
「褒めるのかけなすのか」
「どっちでも大した違いはない。……冥土へ行ってから次韻するぞ」
「そうだ、ゆっくり幼学便覧でも見て勉強するか」
 両勇士は笑って広場へと来た。突出隊も進撃隊もことごとく結束して、今や出発の一令を待つばかりである。
「諸君の成否は、当鎮台の安危にかかるから、奮って成功してくれ」
 谷将軍の沈痛な声は、しんしんたる夜気を渡りて、兵士の耳朶(じだ)に一々ささやくごとくに聞かれた。
「誓って成功を期します」
と答える奥少佐の声は、言簡にして意深く、何とも知れぬ感覚が、兵士の全身に響き渡った。彼らの懐には繃帯一巻、リント三尺、腰につけたるは、餅四切れ、握飯一個、副食物としては、死したる馬をさいて料理したる肉五十目、もって二食分にあて、弾薬は百二十発を携えた。
 時はいよいよ迫って、午前四時になんなんとした。俄然として撃ち出す大砲は、死したる夜半の空気を振動し、洞然として地軸に響き渡った。すわやと、士気にわかに揮い立つとともに、十余門の大砲は、乾坤(けんこん)裂け砕け、宇宙も破却せんばかりに轟いた。敵塁にあたって炸裂するすさまじさは、百千の(いかずち)一時に落ちかかるごとくである。寝耳に水の敵兵は、不意の砲撃にうろたえ騒ぎ、上を下へと擾乱するところへ、煙の下より切って出でたる進撃突出の両隊に、坪井通りより、明午、安巳の二橋を指して、(おもて)も振らず突撃した。
 警視隊は先鋒となって、安巳橋へと殺到すると、賊の前哨は(かがり)を焚いて夜を(いまし)めている。
「鎮台は出おったか」
 哨兵は警視隊の先鋒を、味方と誤ったのである。
「オウ出たッ」
 言いもおわらず、さっとほとばしる紫電の光に、敵は袈裟掛けに斬りつけられ、血煙上げて打ち倒れた。
「進めッ」と、天に響く号令は、この手の隊長の口よりほとばしった。警視隊は刀を揮って、驚きあわてる敵を斬り倒し、無二無三に敵塁へ突入した。さしもの敵も、不意の襲撃にうろたえ騒ぎ、ひとたまりもなく敗走したので、官軍は(かち)に乗ってしきりに数塁を陥入れ、縦横無尽に斬って回り、早くも手取水道町へと来た時に、夜はほのぼのと明け初めた。
 機や逸すべからず、九死に一活を得るは今なり、突出隊は銃槍をむらがらし、一団の鉄丸となって砲煙弾雨の中に突き入り、支ゆる敵を突退け押退け、吶喊(とつかん)の声物凄(ものすさ)まじく、河岸の(とりで)を奪い、安巳橋の上流百メートルの地点を跋渉し、辛くも水前寺に到れる時は、進撃隊の戦声が遥かの後方に今をたけなわと聞こえ、敵兵の影だもない。
 奥少佐は直ちに民家を焼払って、無事通過の合図をなし、八丁馬場より右折して魚取橋を過ぎ、勇を揮って賊を追散しつつ、辛くも宇土の友軍に達し、万死に一活を得たのは、むしろ天佑であった。
 奥少佐の突出隊を助けて、首尾よく重囲を脱出せしめた進撃隊は、勢いに乗じて敵営に乱入し、千変万化の突撃を試みて、縦横無尽に荒れ回り、日頃の欝屈を晴したあげく、賊の糧米をさえ奪って、早くも城へ引揚げて来た。
 城内に残り止まる将校は、気づかわし気に両隊の突撃を観望し、烽火の揚るのを今か今かと待っていた。出立に臨んで奥少佐は同僚を顧み、
「首尾よく賊の囲みを突破したら、水前寺で火の手を挙げよう。火の手が挙ったら成功したものと思ってくれたまえ。もし火が挙らなんだら、一人も残らず全滅したものと諦めてくれたまえ」と言ったので、残る人々は、小高き丘に登って、水前寺方面をみつめていると、灰色の靄の底に、ボゥッと朱を点じたような火の手が見えたかと思うと、たちまち黒煙を渦巻き立てて、一道の火炎は、火柱のごとくに天に冲した。
「うまいうまい、うまく行ったぞ」
 城中の人々は、我を忘れておどり上り、手を叩いて狂喜した。彼らは突出隊が、首尾よく連絡しさえすれば、直ちに救いの大兵が来るとのみ思ったのであるが、昨日と過ぎ今日と暮れても、城外の賊営は依然として静かで、官軍の応援は空しく空だのみである。
 城の糧はますます乏しく、わずかに粟飯二度、粥一度の食すら得られない。ことに文官その他の非戦闘員になると、粥二度粟飯一度で、副食物の珍味と舌を()った死馬の肉さえもはや得られない。まして薬剤の欠乏は、負傷者の手当をさえ思うように施こすことが出来ないので、惨憺たる悲風は到るところに吹き渡った。
 折しもあれ、谷将軍は部下の士気を鼓舞すべく、自ら各隊の兵を(けみ)さんものと、司令部の将校を引具して、城内を巡視したのは、突出後の五日目なる四月十二日であった。
 段山付近の賊は、早くもそれと知って、ひそかに銃手を木立に忍ばせ、矢頃を計って狙撃させた一発は、ねらい違わず将軍の咽喉(のど)を貫通して、後に立ちたる牧伍長の顎を砕いた。
 将軍はハッと思ったが、自分の負傷を味方に知られるは、ますます士気をくじくばかりであると、強いて気を張るけれども、淋漓たる流血は、肩より胸へかけて、滝なすばかりに流るるので、将軍は我知らずそこへ(うずくま)った。
 将軍負傷の報は、響の応ずるがごとくに、城内の士卒に知れ、口より耳へと、不安の響きを伝えたので、何とも知らぬ恐怖の念は、そこともなく湧いて来た。今や熊本城内の士気は、朽木のごとくに腐れて、さしも堅固の城も、根柢より揺ぐかと危うき折から、翌十三日になると、城外の戦声次第に近づき来りて、援軍の接近したのが知れたので、城兵は始めて蘇生の思いをなし、絶望の底に沈淪した士気ぱ、にわかに揮い立った。
 一日千秋と焦るる(あす)の日になると、城外の賊兵は、かえって雲集して来たので、城兵は一喜一憂、心も心ならざるうちに、夜は白々と明けて、殷々(いんいん)たる砲声は四方に起り、川尻方面は間断なく釣瓶かけて連発するので、激戦の状も思いやらるるとともに、やがて天の使に等しき援軍の姿を見るべく、心も空に期待した。
 この時官軍の戦線は、孔雀の尾のごとく拡げられ、別働第二第四の両旅団は、鶴翼の備えを張って、賊軍を包囲し、ここを先途としのぎを削って血戦したので、賊軍はようやく圧迫されて、次第次第に陣地を捨て退却した。
 それ賊は敗走するぞ、この期を外さず一揉みにせよと、戦機を見るに敏なる第二旅団の山川中佐は、緑川と加勢川との中洲に進んだので、勇往直前迅雷耳を蔽うの(いとま)もなく、直ちに北岸に攻め寄せた。
 山川中佐は会津若松の名将、戊辰の役に一方の将となって、神出鬼没の奇策を弄し、官軍を駆け悩ましたので名高かった。その後官軍に降り、許されて陸軍に出仕し、わずかに聯隊長に補されているが、軍略なり才幹なり、当時の将官中、企て及ぶ者は少ない。
 この日も旅団司令官山田少将より、全軍一時に進軍するまで、熊本城に入ることを禁じられたが、この戦捷の勢いに乗じて、熊本市中に突進せずんば、今宵のうちに賊は再び塁壁を築き、頑強に死守するに違いない。しかる時は再び莫大の犠牲を払わねば恢復し難いと思ったので、中佐は入城の旨を本部に報告するとともに、駆足の喇叭(らつぱ)を勇しく吹奏せしめて、賊の敗兵を追撃しつつ、長駆直ちに熊本に達した。先鋒の福富少尉は真一文字に長六橋まで来ると、城兵はよもや味方がかくまで早く来ようとは思わないので、大砲二三発撃ち出して、防禦につとめるらしい。
 かくと見た山川中佐は、再び喇叭(らつぱ)を吹かしめ、旗を揮って城に合図しながら、
「別働第二旅団の右翼指揮官山川中佐だぞうッ」
 天にも響く大音声は、熊本城の人々を復活せしむる福音であった。城内の兵士は一斉に(とき)の声を挙げ、手を拍って躍り上った。負傷兵さえも杖を曳き、肩に助けられて、城の上からのぞいて喜んだ。中には感きわまって慟哭する者さえある。
 籠城以来のみならず、恐らくは人生始めての大歓喜の中に、樺山参謀長児玉参謀の面々は、城を出て迎い入れた。餓え疲れたる城兵の眼からは、山川中佐の身体から、後光がさすように尊く思われた。
 中佐はすぐに谷将軍に面会して、別働軍の戦況を告げ、再び城外に退いて、迎町に舎営し、伏兵を置いて、敵の来襲にそなえたが、敵はついに来なかった。
 十五日になると、各隊隊伍粛々として熊本城下に入り来り、城の安全はここに保障された。五十余日の長い月日の間、一介の助けなき孤城を守って、忠を君にいたした城内の士卒は、始めて再生の助けを得たのである。児玉参謀のごときは、にわかに重荷が下りたような心地がして、わが身ながらも軽くなるを覚えた。



最終更新日 2005年09月24日 22時20分53秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二九 メッケル少佐と世界の大勢を論ず」1

二九 メッケル少佐と世界の大勢を論ず
 西南の役は熊本救援に第一の目的を達し、さらに賊を薩南に圧迫して、九月二十四日岩崎谷の激戦に、西郷、桐野以下ことごとく亡び、誤って賊名を負いたる英魂は、空しく祀られぬ鬼となり、さしもの戦乱も始めて(たいら)ぐを得た。
 児玉少佐は間もなく東京に凱旋したが、翌十一年十二月に、近衛局出仕を命ぜられ、十三年の四月には、陸軍中佐に陞進して、東京鎮台の歩兵第二聯隊長になった。
 第二聯隊は当時下総の佐倉に置かれたが、天下全く静謐(せいひつ)に帰したとは言いながら、十年戦争の血なまぐさき風が、名残りの夢を吹くので、兵気はすこぶる激越であった。したがって演習などの劇しさは、全く血を見ぬばかりで、実戦と異るところがない。
 当時の第一聯隊は、大佐乃木希典(まれすけ)が隊長であったが、第二聯隊との対抗演習がしばしば行なわれた。ある時習志野に両隊の対抗演習があったので、児玉聯隊長は部下を率いて中央突貫の戦術を試み、敵を両断して足をも溜めさせずに撃破した。演習とは言いながら、敵を破って帰る心地よさは、光風霽月もものかは、闊然として胸宇ことごとく開く思いがして、聯隊の将校は宿舎に集まって、敵の戦術を批評し、味方の剛臆を語りなどして、若き将校の室は、夜更るまでも賑わしい。
「ヤア、盛んじゃな」と突然聯隊長が入って来た。
「これはどうも」と、部下の将校は急に(かたち)を改めて窮屈げに畏まる。
「聯隊長殿は今頃急のご用でも……」と、一人の大尉は畏る畏る尋ねた。
「イヤ、ちょっと歩哨線を見回ったのじゃ、戦争の大敵は油断じゃからな」
「ハッ」と、将校連は真綿で首を絞められる心地がする。
「時に君たちは、自分たちの綽名(あだな)を知っているか。兵士どもが勝手な綽名をつけているが」
と、聯隊長は人々の真中にドッカと坐った。
「ヘー、一向」と、互いに顔見合せて苦笑いしている。
「自分の綽名を知らんようじゃいかんな。……奴ら僕のことを木鼠(りす)だと言いおるわい。……僕が見えると、木鼠が来た来たと言うのじゃ」
「ヘエー、実にけしからんことで」と恐縮する。
「けしからんことはない、かえって兵士たちによく覚えられてよいのじゃ。……第一木鼠とはうまくつけたでないか、僕の(なり)が小そうて、クルクル駆け回るから木鼠じゃ、鼠小僧、木鼠(きねずみ)三吉、皆(なり)が小そうて、はしこいからじゃ。君たちもみな綽名があるぞ。眼の細いのが海豚(いるか)、色の黒いのが海坊主、怒る奴が雷様、乃木大佐のことは加州玉と言うわい、色が黒くて鬚だらけじゃからな」
「どうも酷いことを言いますな」と、一座の将校は聯隊長から兵士の綽名を受売りされて、苦笑いをしながら、冷汗を流している。
「中に擂鉢(すりばち)というのがあるが、誰だろうかな」
 聯隊長はジロリとあたりを見回して笑った。
「へー擂鉢」
「うん擂鉢じゃ、なぜ擂鉢か知っているかい」
「解りませんが、あまりよろしいことじゃありますまい」と、(かたえ)の大尉は苦り切る。
「それはあまり人使いが悪いのじゃ、上官の威光を振り回して、兵隊を犬猫のように使うものじゃから、摺小木のように、兵隊が摺り切れてしまう。そこでその士官を擂鉢というのじゃ、うまくつけるじゃないか」
「へー、なるほど」と、聞く人は耳がいたく、身体がこそばゆくなる。
「どうで君、兵隊は士官に対して不平が言えぬから、せめて綽名でも付けて欝憤を晴すのじゃ。……うまいことを言いおるわい」
 聯隊長は兵士の綽名にかこつけて、部下の士官を戒しめた。
「擂鉢は丈夫のようでも、落すとこわれるから、気をつけにゃならんよ」
「どうも恐れ入りましたな」と、士官連は苦り切ってモ。シモジしている。
「まず悪口の綽名はそうじゃが、この外に通り符帳があるぞ。聯隊長が聯ちゃん、大隊長が大ちゃん、中ちゃん、少ちゃん、曹さんと種々あるのじゃ、九州辺の芋掘と違って、佐倉聯隊は東京近在が多いから人が悪い。そのつもりで使わにゃいかんよ」
 聯隊長は笑いながら立ち上った。人々は生身の膏を絞られる心地がして、(そびら)に汗を流して縮み上った。
 木鼠(りす)の尊号を部下の兵士より奉られた軽快敏捷の聯隊長は、客気(かくき)に任せて腹一杯の悪戯を試み、破天荒の悪洒落をして、佐倉の花柳界を驚かし、豪放の気をやった。
 中佐の聯隊長とは言いながら、ようやく三十になったばかり、子供の時代が短かくして、大人の時が早く来たのであるから、一面に深謀遠慮の名将たるとともに、半面には穉気満々たる青年将校であった。皮肉な遊びをして、佐倉の町を煙に捲いたのも、この穉気の悪戯で、軍刀提げた大きな凸坊であった。凸坊は決して罪な心はない。ただ自分の悪戯が成功しさえすれば、手を拍って喜ぶに過ぎない。自分に損があろうが、徳になろうが、そういうことは全く念頭に忘れられていたのである。
 この大きな凸坊は、切々順境をふんで、明治十六年、三十二歳にしてはやくも大佐に任じられ、翌々年には参謀本部の管東局長となった。
 参謀本部は陸軍の主脳で、当時の人材を網羅したものであるから、軍人として参謀本部へ抜擢されることは、実に一身の名誉であった。



最終更新日 2005年09月24日 23時25分25秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「二九 メッケル少佐と世界の大勢を論ず」2

 ちょうどこの頃であった。わが陸軍の恩師として有名なるドイツ参謀少佐メッケル氏が、参謀本部へ招聘されて、戦略戦術はもとより、陸軍諸制度の革新について、満腔の蘊蓄(うんちく)(ひら)いて、熱心に指導した。メッケル少佐はドイツ人ではあるが、学術の前には人種や国家の別はないと信じる人であるから、一身を賭して日本学生を教えたのである。それで児玉大佐は日々メッケルに親炙(しんしや)して、その六韜三略の秘密の鍵を与えられ、自由に研究することが出来た。師翁の腹の中へ、下駄ばきで入った許六のごとく、肝胆相許
したのであった。
 ある年の夏メッケル少佐は、官邸の庭に夏草の露をふんで、牽牛花(あさがお)の朝の蕾を数えながら、夕涼みを納れていた。
 都ながらも、打ち水の(にわたずみ)に塵も静まりて、新月は兜の前立てのように、日枝(ひえ)の森の梢をなぐれて、ほどちかき明星と、目の下の下界の噂でもしているようにみえる。カンナや、黄蜀葵(とうあおい)や、木芙蓉(もくふよう)が、涼しき空を憧れて仰ぐ側に、萩はたわにしだれて露を重げに眠りかける。緑の葉、紅のはなびら、黄金の花、その花壇の中に、メッケル少佐の白き服は、神仙の逍遥するかと気高い。
「お邪魔に来ました」と、破格のドイツ語が庭木戸の方に聞こえたので、メッケル顧問は、花の間からこなたを見交してにっこりした。
「オウ児玉さん、お入りなさい」
「夕方から大分涼しくなりましたな」と、児玉大佐はいつもの通訳を従え、厳めしい軍刀を左手(ゆんで)に携さえつつ、小砂利の上を踏んで来た。
「こちらへ」と、メッケル顧問は先に立って、洋館の廊下へ来た。そこには鉄製の丸卓子(まるてーぶる)が据えられて、三脚の曲木椅子がある。
「ここが涼しいです。花畑を見下します」
 メッケル顧問は、手作りの花が自慢である。
「美しく咲きましたな。……みんな本国から種をお取り寄せですか」
 大佐は如才なく、花壇を褒め立てる。
「そうです、本国から取り寄せたのもありますが、英国のサットンや、米国のヘンダアソン、仏国のビルモランと、諸国の種苗商から送らせました。……日本は季候がよろしいから、すべての花が立派に成育します」
「そうです。花ばかりでなく、欧州の戦術も日本へ輸入して、同化させたいものです」
「児玉さん、あなたは真正の軍人です、いかなる場合にも、軍事を忘れません」と、メッケル顧問は、にこりと笑いながら、ボーイの持って来た曹達水(そうだすい)をすすめた。
「児玉さん、立派な軍刀を持っていますな」と、メッケルの眼は、早くも大佐の軍刀に注がれた。平生(いつも)の指揮刀と違いて、幅の広い立派な(こしら)えである。
「オウこれですか、日本刀を仕込んだものです。ご覧下さい」
 大佐は釣環を外して、ソッと軍刀を顧問の前においた。メッケルは好奇心をたたえながら、ブツリと鯉口を切ったが、ズラリと抜放すや、思わずゾッとして、刀を見つめたまま、驚きの目をみはった。
「これが純粋の日本刀ですか」
 百練の精鉄は凝り来って氷のごとく、右手(めて)に振りかざせば、紫電閃めき出でて、白虹日を貫くかとものすごい。
「私、始めて真正の日本刀を見ました。私本国にいる時、日本刀の鋭い話聞きましたが、こんなものすごいものとは思いませんでした。日本人の腹切りは、この刀でしますか」
「いや、この刀より小さい、短刀というので切ります」
「オウッ」と、メッケル顧問は身を顫わして(おのの)いた。
「これは備前長船(おさふね)の住人で、兼光という名工の鍛えたものです。欧州の刀のように、機械で作るのではありません。鍛冶が斎戒沐浴して天地神冥に祈り、心力を傾注して造り上げたもので、日本人の大和魂は、みなこの刀にこもっています。国家を守るのはこの刀です」
 大佐は意気軒昂として、刀を振り回した。手練の刀法は、剣に霊あってただ自から舞うがごとく、玉散る光は眼にも止まらない。
「日本の魂は立派です。……私もドイツの魂を見せましょう」
 メッケルはつと室内へ入って、一(ふリ)の軍刀を携えて来た。細身作りの指揮刀で、日頃顧問の腰に帯する軍刀である。
「児玉さん、ドイツの魂はこの刀です、貴君(あなた)の魂に比べては鈍刀です。まして刃もついていません、紙さえ切れぬかも知れませんが、この刀の指揮一つで、国家を守ります。日本人の魂が日本刀にこめたりゃ、ドイツ人の魂はこの軍刀にあります」
 メッケル顧問は児玉大佐の手を握りしめた。
「日本の魂とドイツの魂と提携すれば、宇内に恐れるものはありません」
 メッケル顧問は曹達水(そうだすい)をグッと呑み乾して、胸も透くような涼味を掬した。
「しかし児玉さん、もし日本とドイツと国交が断絶する不幸があったら、大和魂はどうしますか」
 メッケル顧問は例の奇問を発する。……しかし奇問と奇答とは、むしろ大佐の領分である。
「その時は貴君(あなた)から習った戦術を日本化して、貴国の軍隊を粉砕し、貴君を軍門の俘虜とします」
「そうじゃ」と、メッケル顧問は思わず案を拍った。
「愉決愉决。それが大和魂で、やがてドイツ魂であります。名称は違っても、魂にかわりはありません。……軍隊の教育は形式よりも精神であります。大和魂が亡びない限り、日本は決して衰えません」
 慨然としてメッケル顧問は天を仰いだ。
「欧州の人は支那人を事大主義だと言います。しかし支那人よりも、彼らの方が事大党であります。彼らは支那の領土が、外見上大きいので、東洋の覇王は支那と信じています。日本という国のあるのを知りません、知っている者は支那の属国かと思っています。実を言えば私も、支那の陰にいる小さな半開人だと思っていましたが、日本へ来て、始めて日本の大きなことを知りました。領土は狭くとも、精神は大きい。他日日本は支那
の侮りから怒って、支那大陸を征服する時があります。私はそれが近き将来だと信じますから、日本の陸軍では、あらかじめ清国(しんこく)の上陸地点や、地理を踏査しておく必要があります」
 天下の大勢に通じて、未然を察するメッケル顧問は、諄々として説き立てた。色白き彼の顔は紅を漲して、目には欄々たる光がきらめく。彼は日本陸軍の精鋭を率いて、武を十八省の野に耀やかさんことを憶うのである。
「ご教示を服庸しまして、参謀本部の人たちにも、内々伝達いたします」
 児玉大佐は自分の意見と符節を合したので、ひそかにうなずいた。廊下に釣した花瓦斯(はながす)はいつしか(とも)されて、両雄の英姿を画のごとくに描き出した。
「しかし児玉さん、日本が支那に打ち勝った時は、列国は驚嘆するとともに、嫉妬をもって迎えられることを予期せねばなりません。……日本は支那に()ったがために、さらに支那より大なる恐ろしい敵を設ける運命が必ず来ます」
「あるいはそういうこともありましょう、東洋に利害を有する国は。……しかし日本は東洋の平和を攪乱(こうらん)する者ではありません」
 大佐はメッケル顧問が真面目なので、次第次第に釣り込まれた。何となく邦家の危機が目前に迫るように覚える。
「日本は東洋の平和を攪乱しません。しかし西洋人は信じません、彼らは深い疑いをもって、日本人を敵視します。嫉妬をもって迎えます。欧州は世界のことはすべて西洋人が解決し得るものという誤った自信を有しています。東洋のことも、西洋から処理されるものと思ったのが、日本がにわかに勃興すると、列国は日本の勢力を圧迫して、頭を出すことが出来ぬようにします。しかし私の信ずる大いなる日本人は、決してそれに甘んじません。ドイツ魂がかかる場合に屈服せぬごとく、日本魂が承知しません。この場合日本の忠良なる臣民は、駿馬が朝風に(たてがみ)を揮うがごとく蹶起します、この花園の花のような日本の婦人までも、恐ろしき敵愾心を起します。かくして日本は欧州の強国と兵を闘わせねばならぬ運命が来ます」
 児玉大佐は酔えるがごとくに聞き惚れた。花の匂いを誘う涼風は、軍服を透して水のごとくに滲みる。
「列国は立派な軍器をもっています。今日の戦争は科学の争いだと言います。欧州の戦術家は、すぐに兵力の多少、軍器の優劣、軍艦の噸数を、算盤(そろばん)の上から数えます。これらの有形物は、もちろん数えなければなりませんが、さらにさらに大いなる勢力、即ち国の魂という無形の勢力を閑却することを許しません。……日本魂を世界に発揮するのはその時であります。私はその時の来るのを信じ、日本魂の発現を見て、安けく天国に逝きたいと思います」
 情激し気(あが)りて、顧問はハラハラと熱涙を(こぼ)したが、やがて気をかえて、からからと笑った。
 美しき花園の夏の夕は、俄然として殺気漲り、顰鼓(へいこ)の響の地を(うこ)かすを覚えた。星を包む黒き雲は、簇々(ぞくぞく)として空にみなぎり、崩れて落ちて組合うがごとく乱闘した。狼の眼のごとき雲間の星、悪魔の吐く火のごとき瓦斯(がす)の光は、陰森たる鬼啾の声に(ゆら)いで、ものすごき明滅を庭に投げている。



最終更新日 2005年09月24日 23時33分46秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三〇 陸軍制度取調べのため欧州派遣を命ぜらる」

三〇 陸軍制度取調べのため欧州派遣を命ぜらる
 悪戯(いたずら)好きな皮肉の児玉大佐は、到るところとしてその本領を発揮せざることなく、陸軍部内を闊歩した。上官と言わず、同僚と言わず、ことに参謀本部の上官連は、その騙戯(ぺてん)にかけられて腹も立たれず、苦笑いをするばかりであった。
 大佐はやがて陸軍大学校長に補せられたが、ついで二十三年の夏には陸軍少将に任ぜられた。かつて浪人の孤児(みなしご)として、鎮守の森に苛められた百合若が、権曹長となった時に、今日の栄位に登ろうとは夢にも思わなかったであろう。当年の金柑(きんかん)が蜜柑となり、臭橙(だいだい)となり、文旦(うちむらさき)となったのである。彼をいじめた悪少年は、今生きているのか死んだのか、(よう)として名さえ聞こえぬのに、乞食の子のようにぼろを下げた百合若は陸軍少将となって、正服の肩章(えばれつと)から、五彩の光が差すのである。
 明治二十四年の十月に少将は、陸軍制度取調べのために、欧州派遣を命ぜられた。
 語学と言っては、日本語以外にほとんど通じないけれども、卓落不覊(たくらくふき)の児玉将軍は、物ともせずに、横浜から仏国行の外国汽船に乗り込んだ。先方へ着きさえすれば、案内の陸軍留学生がおるけれども、途中は全くの一人旅である、言語が通じなければ、黙ってすますばかりである。将軍はどこまでも大胆不敵である。
 なまじ言語が通じて、生兵法のきずを招くよりも、知らぬがかえって気安く、将軍は無事マルセーユへつくと、出迎えの留学将校の池田少佐が来ていたので、将軍はさすがにホッと安心した。それから汽車でパリに着き、花の都を目の前に見て、一月余り暮したが、ドイツのフランクフルト・アム・マインの歩兵聯隊長たるメッケル大佐、往時(そのむかし)の日本陸軍顧問メッケル少佐に逢いたいので、フランスの取調べをそこそこにして、再び汽車でドイツへと入った。
 フランクフルトはドイツでも片田舎ではあるが、聯隊は有名なる戦術家にして、軍事教育に非凡の才を有するメッケル大佐が指揮を執るので、整然として一糸乱れず、模範軍隊としてゲルマン連邦に聞こえていた。自然外国から見学に来る者も多く、現に日本の原口少佐、後に中将となった兼済(かねなり)と呼ぶ人と、大尉南部辰丙とがいて、すぐに将軍を停車場に出迎えた。
「ヤアよくお着きで、実は途中線路をお間違いになるようなことはあるまいかと心配しました。……何分にもこのフランクフルトは辺鄙(へんぴ)で、線路が混雑しておりますから」と、原口少佐は、将軍の颯爽たる英気を見て、少なからず安心した。
「ウム、これを見てくれ。……池田少佐め、こんな物をくれおったのじゃ、これさえ人に見せれば、きっとフランクフルトへ行かれると言いおった」
 将軍は笑いながら、池田少佐のくれた名刺を出した。
「ハハア、これですか」と、原口、南部の両武官は、それを見るとともに思わず噴き出した。
「何じゃ、何が書いてある」
「エー、この旅行者はフランクフルト・アム・マインツに行く、ドイツ語に通ぜざれば、慈善心ある紳士は、途中親切に世話を頼む。……と書いてあります」
「ひどい野郎だ、おれを盲目乞食にしおったわい」
 将軍も思わず噴き出さずにはいられなかった。しかし盲目乞食のお陰で、長途遥々(はるばる)とこの片田舎へ来られたのである。
 フランクフルトの聯隊は、古い赤煉瓦に常春藤(ふゆつた)の寂しくすがる建物が、さながらローマの古城のように、茜さす夕映の雲の流れるところに竜城のごとくそびえ、広々とした練兵場には、演習の跡なる塹壕がチラホラ見える。黒ずむ森の木立は、真夏の演習における兵士のオアシスである。外出兵の服装こそは現代なれ、あたりの風物はギリシャ式に崇厳一の(さび)をおびている。
「児玉さん、よく来なすった」
 聯隊の門前に出迎えていたメッケル大佐は、双眼に熱き涙を湛えている。
「おう、メッケル先生」
 将軍も言い知らぬ感情に打たれて、棒のように突立ったまま、互いに手を握りしめた。
 もう定年に近い大佐は、半白の髪を短かく刈詰めて、ドイツ式の軍帽を冠っていたが、くびには名誉ある日本の旭日章が、燦たる光輝を放っている。
 欧州一代の戦略家たる名将を、空しく一佐官に老朽(おいく)ちさせて、かかる片田舎の草の中におくかと思うと、夜光の玉を道に委する心地がして、そぞろにもったいない。時に会わざれば蛟竜(こうりゆう)も池中に潜むと聞くものの、あたらかかる名将を塚の下の苔と朽ちさせるは、誰の罪であろうかと、将軍は老の(しわ)のようやく漂うメッケル大佐の顔を見て、我知らず暗涙のせぐり来るのを禁じられない。
「もはや貴君(あなた)に逢う望みは絶えたと思うたが、よく来てくれられた。……この聯隊を貴君の家と思うて、快く寝泊りをして下されい」
 メッケル大佐は故国において用いられねど、海を隔てた知己の国の知己の人に尋ねられたのであるから、廉頗(れんぱ)(ちよう)の使いに逢ったような心地がする。
 いく日かの逗留に、駒のいななき勇ましき演武野に、聯隊の閲兵式に臨み、演習の馳走を供され、歓待到らぬ(くま)もないので、将軍は先を急ぐ身ながらも、思わず数日をここの客となった。
 あかぬ別れに再会を契って、今やベルリンに向って出立せんとする前日である。心をこめた大佐の饗応(もてなし)に歓を尽して、喫煙室に心(ゆる)(むか)い合った。通訳の南部大尉は少し退いて座につく。
 暖炉の上に掲げた額は、日本帝室より贈られた勲記で、名将半生の名誉を語っている。棚に飾った日本刀は、黄金造(こがねづくり)の太刀で、一向宗の乱に鈴木飛皹守が()びたという言い伝えがある。彼は石山本願寺の謀将となって、織田の軍勢を悩ました戦略家である。メッケル大佐はその人となりを聞いて、ひとしおこの太刀を愛蔵しているらしい。
 大佐の喫煙室は、ほとんど日本趣味で飾られたので、将軍はここにいる間は、さながら故国へ帰ったような心地がする。
「児玉さん、東洋の風雲は果して急になりましたな」と、大佐は壁にかけた東亜地図に目をそそいだ。
「そうです、欧州の禍機はバルカン、東洋は朝鮮にありますな」
「しかしその後ろにはみな平和を口に唱える悪魔がいます。……貴君(あなた)の今度の旅行は、畢竟悪魔視察でしょう」
 東西の名将は相見て笑った。
「悪魔というものは、外形の恐ろしいものです、しかし畢竟魔物ですから、正義には勝てません。彼らの実質ははなはだ貧弱です。……ご覧なさいこの魂を」と、メッケル大佐は飾棚の日本刀をとってスラリと抜き放した。白光ほとばしり、紫電躍って目を射らんばかりの業物(わざもの)である。大佐は軽く一振二振して、再び(さや)へと収めた。
「悪魔にはこの魂がありません。魂のない百万の兵は塑像と同じです。日本小なりとい
えども、立派な魂があります。悪魔が北方の鷲と化して、(くろがね)の爪を()いでも恐れること
はありません」
 メッケル大佐は、スフィンクスの謎のようなことを言って、にっこり笑った。将軍も会心の笑みを洩した。深き深き秘密は、ただ両将の心中に包まれているばかりである。
「支那は日本の敵とするにたりません。他日悪魔と戦かう時がありましょう。……児玉さん、貴君が軍機を司る間は、私は断じて日本の勝利を疑いません。……さっそく悪魔の国の視察をなさい」
 メッケル大佐の眼光は、はやくも東洋の禍機を見破って、あわれ日本の顧問としてあらしめば、馬を満州の原頭に立てて、乾坤一擲の快挙を試みんにと、そぞろに肉躍る心地がする。
 後年日露戦争の初期にあたり、世界をこぞって日軍の大敗を予期した際、冷然群盲を笑って、日本の連戦連勝を言明したただ一人の具眼者は、実にメッケルその人であった。



最終更新日 2005年09月25日 22時52分35秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三一 露都の夜会に名歌妓の歓待を受く」1

三一 露都の夜会に名歌妓の歓待を受く
 雪の都と言われ、氷のちまたと唄わるる露都セント・ペテルスブルクの冬は、灰色の重い雲に蔽われて、頭から押えつけられるような陰欝な空気が、花柏(さわら)の並木をそよとも動かせず、枯残る野幌菊の残骸が、雪間から花殼を垂れている。汽車やら工場やらから吐き出される黒(けむり)は、いかの墨のように灰色の海に広がって、その末が低く大地へ舞い下ると、(いぶ)り臭い匂いが脳を刺激して、(めまい)を催おさせる。
 天も地も凍り果て、鏗々(けんけん)たるステッキの音は、さながら鉄板の上をたたくがごとくに、(かん)の音になって遠く響いて行くと、馬車の(わだち)が物を…轢きつぶすように、地の底へめり込む響きを送って来る。馭者も客も毛皮に包まれて、ただ眼ばかりの人が往き通いするのである。
 不愉快に曇った空が夜に入ると、街の建物は、厚い窓の戸をとざし、身を切るような寒気を防ぐので、雲を突く大厦高楼も、ただ一団の黒ぎ塊としか見えない。ただ軒燈や街燈が、寂しい光を気のないように大道へ投げている。
 しかし往来は(よみ)の国のようにもの寂しいが、ドア一枚の家の内は、明煌々たる電燈が昼よりも明らかに輝き渡って、暖炉の火は炎々と燃え盛り、自然の寒さを雌伏せしむべき気勢に誇っている。ホテルの骨牌(かるた)室には何某の伯爵、陸軍の将官というような身分ある人が、ウオッカやコニャックの酔いを吹いて、火のような顔をしながら勝負を争うと、莫大な数字を記入した手形が、右から左へと転々する。彼らは冬籠りの夜を、かくして賑わしく明すのである。翩々(へんへん)たる軽羅(うすもの)を着た舞姫が、肌をあらわにして、人々の間に立ち交る時、温められたる室には、蘭の花が咲き匂い、生温(なまぬる)い春の空気が溶けて流れるのである。歓楽の香に酔い、常世の花に眠る人は、ただ天使の囁きを耳にするばかりである。
「御身はなぜか今夜大層沈んで見えるが、何者か御身の感情を損ねましたか」
 丈の高い若い男爵は、燕尾服の襟に一朶の蘭花を挿したまま、椅子にもたれた夜会服の美人の側へ寄った。
「いいえ、有難う」と、美人は秋波(ながしめ)に男爵を見上げた。透き徹るように色が白く、瞳の黒いイタリア式の花の(かんばせ)は、露もたれんばかり、一挙一動が何とはなしに男を悩殺する権威がある。
「今夜は御身の春の歌を聞く光栄には浴されませぬか」
 女はにこりと笑って、軽く舞踏靴のかかとに床を打ちながら、男爵の襟挿を無言に取った。
「マア美しい花」
 女はからだを少し曲げながら、なつかしそうに花を唇に当てると、あふるるばかりの香精が、花の底を傾けて湧いてくる。
貴君(あなた)、今日日本の紳士は、食堂へお出になりませんか。この喫煙室にも」と美人はほのかに多くの人々を見回したが、似たと思う人もない。
「日本の紳士」
 男爵は軽く首を傾げた。
「ハイ、名誉ある軍人」
「オウ、日本の将軍児玉」
「イタリアの尊き塑像を見るような、気高い人格、(わらわ)はマレイ人種という日本人に、かばかり人品の好い男子があろうとは思いませぬ」
 瑠璃のような美人の眼には、千万無量の愛嬌がうかんだ。
「御身は小さき日本人を愛したまうか。物好きにはおわさぬか。御身が名高き歌姫として、この国にて得たまいたる名声を傷つけたまわぬを祈りまするぞ」
 男爵の眼は浅い嫉妬に輝やいた。花の都の明星と憧れ、春の歌の匂い鳥ともてはやさるるイタリアの名妓が、人の数にもなき東洋の島根の人に思いを通わすことが、スラブの名誉を傷つけらるる心地がする。
「いえ男爵、日本人の筋肉は、小さいながら平等に、最もよく発達してはいませぬか」
「さようさよう、雛形のように」
 男爵は冷やかに歌姫の物好きを笑った。
(わらわ)はわが国人に似た児玉将軍を愛し参らす。(わらわ)の亡き兄上に、面差(おもざし)の似まいらせるものを」
 歌姫の玉の(かんばせ)には、臙脂(えんじ)を水にたらしたような優しき紅がほのめいた。
 男爵は呆れ果て、歌姫の椅子から三尺あまり退って、双手を前に組合せたまま立った。
「男爵、何のよき話がおわすか」と、佐官の軍服したるロシア将校が、つかつかと寄って来た。
「オウ聞きたまえロウジイ君、カチュリア嬢は、日本の児玉将軍を愛せらるるとよ、もの好きにはおわさぬか」
「ハハア、嬢は手遊(おもちや)の軍人を好みたまうと見ゆるぞ、まだ幼な心がうせぬのじゃ」
 歌姫の顔には見る見る嬌嗔(きようしん)を発した。さっき男爵から受けた蘭の花は、知らず知らず揉みちぎられて、舞踏靴の下に踏みしだかれていた。
貴君(あなた)(わらわ)(はずか)しめたまうにか。好きと嫌いとは人の好みによるものを」
 歌姫は(もすそ)を払ってつと立った、すっきりとした嬌姿は、風に乱るる柳の糸の、清き流れを掠めるに似て、水もしたたるばかりの美しさ。やや反身(そりみ)になって、二人をきっと見つめるとあたりに咲く八千草の盛花に(いうど)られて、花の女神の佐保姫かと気高い。
「オウ御身の愛さるる児玉将軍が見えましたぞ。今扉のところへ小さいからだをあらわされしぞ」
 男爵は小さいという言葉に力をこめて言うと、相手の佐官は哄然として笑った。彼らは嫉妬の眼に歌姫を嘲けるのである。
 歌姫カチュリアは、二人を尻目にかけて、つとのび上ってドアの方を見ると、果してイタリア貴紳の典型たる児玉将軍は、随行の原口少佐と浅川中尉とを伴なって、にこやかに室内を見回している。
「オウ日本の将軍よ」
 カチュリアは鈴をまろばすように、冴えた肉声に、溢るるばかりの(なまめ)きをたたえつつ、児玉将軍の側へ進み寄った。
「カチュリア嬢、いつも朝日の晴れ輝くように麗わしくおわさるるよ」
 随行の浅川中尉は、カチュリア嬢と熟面の間らしい。
「閣下、この淑女はイタリアの歌姫として名高いカチュリア嬢であります」
「オウそうか、私は日本の軍人で児玉という者じゃ」
 カチュリア嬢は、将軍の差出す手にひしと握手した。
(わらわ)は闍下の声明の欧州に響き渡ることを記憶しておりまする。閣下もカチュリアの名を記憶して下さいませ」
 カチュリア嬢の美しき眼元には、人を酔わせる愛嬌がある。
「西洋の芸妓(げいしや)というものは、うまいことを言うものじゃな」
 将軍は随行員をかえりみて、小声にささやいた。
「いや閣下、西洋の歌姫は日本の芸妓と非常に違います。歌姫は芸術家として社会から多大の尊敬を払われております」
「フム、難かしいものじゃの。……君もその尊敬をはらう一人じゃろう」
 日本武官の話はその国語であるから、歌姫にもあたりの人にも解らなかった。
「閣下、近き日、閣下のために音楽会を催おしたいと思いまする。必ずご臨席下さいまするよう」
 カチュリア嬢のために、音楽会を催おされることは、交際社会の名誉であった。あたりの人は羨ましげに将軍を見たが、語学に通ぜざる日本の軍人にとっては、実に有難迷惑である。



最終更新日 2005年09月26日 12時12分55秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三一 露都の夜会に名歌妓の歓待を受く」2

「原口、弱ったな」
 将軍は金髪美人の好意を、むげにも断りかねた。
「西洋では婦人を尊ぶ国柄ですから、婦人の招待を断るわけにもゆきますまい」
「そうかな。郷に入っては郷に従えだわい」
 将軍は不承無情(ぶしよう)にうなずいた。原口少佐は辞令になれているので、将軍の意を受けて、カチュリア嬢の招きを謝した。
「貴嬢の光栄ある招待は、私の心から感謝するところであります。貴嬢が欧州における声楽家なることは、遠き日本にまで聞こえています。私はかかる声楽家に招待されたことを、畢生の名誉と信じます」
 側で聞く浅川中尉は驚いた。将軍が夢にも思わぬ空世辞を、そらぞらしく通訳するものかなと、ひそかにおかしさを堪ゆる苦しさは、五臓六腑が煮え返るばかりである。
「オウ、閣下は(わらわ)の歌を愛したまうか」
 カチュリア嬢は手を胸先に組み合わせて、天の神に感謝の心を捧げた。
「カチュリア嬢」
 突然例の男爵は呼びかけた。
「日本の将軍は、御身の歌を好まるるとよ。……御身の得意とする春の歌を唄いたまえ、将軍の耳を喜ばせるとともに、我々にも傍聴(かたえぎ)きの光栄を施したまえよ」
「憎むべき男爵よ。御身には聞かせずとも、妾の歌は遠来の珍客に捧げはべるものを」
「何にてもよし、我々はこの席より退去を命ぜられぬ限り、我々の耳は御身の歌を聴く自由を有するよ」
「そうそう、われらは歌を聴くに通訳は用いぬものを」と、ロゥジイ佐官は相槌を打った。
「カチュリア嬢、われわれの耳にも御身の歌を聴く贅沢を許したまえ」
 傍の人々は我遅れじと賛同したので、カチュリア嬢はにこりと将軍に会釈したまま、おもむろにピアノの側に立った。
「久し振りにカチュリア嬢の独唱を聴くことよ」
 客の一人は早椅子もろともに身を進める。
「しかし日本の軍人に聞かせるためと言わざりしか。カチュリア嬢は物好きの淑女よ。小さき島の小さき軍人を、何とてかく尊敬する」
 客は驚きの目を見張って口々にひそひそささやいている。
 女神の神々しき権威を、さっと眉宇の間にうかべて、カチュリア嬢は屹然と立った。詩聖スコットの湖上の佳人の歌を唄わんとして、花の唇を潤すのである。あたりはなりを鎮めて片唾(かたず)を呑む。さながら山雨来らんとして風楼に充つる瞬間の寂寞を現じた。人と人との息は、明らかによまれる。
  (ほこ)ろびそめし唇に    薔薇(ばら)の姿は(なまめ)かし、
  恐れの雲かつ散れば       望みの星は輝かめ、
  (あした)の露のかわかぬに  薔薇の薫りぞいやたかき。
  涙の玉の纓絡(ようらく)は   恋の心を飾るなり、
  君乞う許せ野茨(のいばら)に  花の(かざし)に我ならん、
  幾歳か経る思い出に       望みと恋を忍ぶにも。
 カチュリア嬢の円転たる嬌喉には、金鈴を振るがごとき妙なる声音がある。一座は水を打ちたるがごとく、感極まり悄として声がなかったが、始めて我に返ると、急霰のごとき拍手を浴せかけた。彼らは迦陵頻伽(かりようびんが)の妙なる声音に、恍惚として酔ったのであるが、当の主賓たる児玉将軍には、何を唄っているのか少しも解らないから、ただケロリとしてカチュリア嬢の顔を見ていたが、人が手をたたくを見て、おつきあいの拍手をしつつすまし返るのを、随行武官はおかしさを堪えて顔見合した。
 交際になれた浅川中尉は、さっき日本公使館の宴会で申し受けて来た花環を持っていたが、早速の機転にその花環を将軍に渡して、
「閣下からカチュリア嬢にお贈り下さい。こういう場合に花環を貰うことは、歌姫の名誉です」
「そうか。……到来物の順送りじゃな。面白い面白い」
 人の悪き将軍は、二度の勤めの花環を何食わぬ顔して、カチュリア嬢に捧げた。
「日本の軍人の心をこめた花環です。貴嬢の名誉のために」
 浅川中尉は勝手な通訳をしたけれども、カチュリア嬢は、中尉が口から出まかせのお世辞とは知らない。将軍の心から出た言葉と思うので、ポゥッと顔をあからめつつ、花環に熱き接吻をした。白百合の気高き匂いは、絶世の美人の心をそそりて、絵にも描けぬ美しさである。
 英気颯爽たる日本の名将と、嬋娟(せんけん)たるイタリア美人との対照は、日本嫌いの男爵やロウジイ佐官さえも、美しき史劇をみる心地を禁じられなかった。
「光栄ある小さき軍人よ」と、彼らはあぶの羽をするようにつぶやいたが、カチュリア嬢を尻目にかけて、かなたの室へと行ってしまう。あたりの人の目をそばだてるのを、カチュリア嬢は見向きもしない。
(わらわ)は日本の風光に憧がれはべれば、近く山緑なる島根に遊ばんと思いはべる。その折は将軍、妾のために案内の労をとらせたまうか」
「オウ、我らのみならず、わが国人は貴嬢のために喜んで案内いたすことと思う」
 将軍も如才なく答えたが、その答えはかえって美人の満足を買えなかった。
「否、妾は将軍の国人の歓迎よりも、ただ一人の将軍の案内を得れば、望みは足りはべるものを」
 窈窕(ようちよう)たる歌姫は、花環の中なるすみれの花を摘んで、将軍の襟に挿しながら、再び固き握手を交した。五色の酒に美しく酔える歌姫は、ようやく将軍の側を離れて、彼方の卓子へと、人々に擁せられながら行く。さながら女王の行啓(みゆき)せらるる趣きがある。
「驚いたな、どうも西洋の女は少し調子が変っておるから、勝手が違うわい」
 さすがの児玉将軍も、狐につままれた心地がして、急ぎ自室へと退いた。



最終更新日 2005年09月26日 00時38分53秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三二 巧みにイタリア名妓の追跡を免る」

三二 巧みにイタリア名妓の追跡を免る
 実桜の花に故国を偲び、夜風の仇に吹かぬ間を、花の命にして、ベルリンのチーアカアテンを散歩する日本の青年は、浅川中尉と大井中尉の二将校である。
「閣下はまたベルリンへ帰られるか」と、大井中尉はステッキの先でコツコツとアスファルトの上をたたいている。
「多分見えるじゃろう。フランクフルトにはそう長くは滞在されまい」
「君はロシアへ随行したが、何か珍談はなかったかね。原口少佐に聞いたが、ホテル・フランシイに美人がいたそうだな」
「ウムいた。そいつがどうも閣下を歓待しおるのじゃ。……君も知っていはせんか。イタリアの歌姫でカチュリア嬢という」
「知っちょるとも。細面の髪の毛の黒い、日本人に似ている美人じゃろう。……この頃またベルリンへ来ておるぞ。新聞で見たら、どこかの音楽会に出席しておった」
「そうか、あの美人が児玉閣下に対する様子が、すこぶる不思議でならん。どうも何か意味がありそうじゃよ」
「けしからんな」
 二人は木の間洩る白熱燈(アークとう)の下にたたずんで、気高く白け行く春の夜の花を眺めながら、遥かに朝日に匂う故国の山桜の、雲か霞かと咲き乱れたる風情を眼先に描いた。
「同じ桜のようじゃが、ドイツのはつまらぬなあ」と、大井中尉は物足らぬ顔をしている。
「うんにゃ、同じではない、これは例の桜子(さくらんぼう)のなる実桜じゃよ、日本の桜は日本の特産じゃから、欧州にはないところが尊いのじゃ」
「貴様、学者じゃなあ」
 二人は笑いながら再び歩き始めると、突然花の陰に優しき声が聞こえた。
「日本の紳士にはおわさぬか。……(わらわ)にはべるものを」
 花より出でて花より美しき美人は、(なよ)やかに二人の側へ歩み寄って来る。二人は互いに顔見合せたが、無言のままに立淀んだ。折からそっと吹く一陣の風は梢にささやいで、雪かとのみ誤たるる花は、チラチラと美人の上に流れた。夜の闇は背を包んで、白熱燈(アークとう)が強い光線を投げるので、美人の白き服は、この世の物とも思えぬまでに気高い。
「オウ御身はカチュリア嬢にはおわさぬか」
 浅川中尉は愕然として驚かされた。今噂の主がところも去らずこの公園の花の夜にそぞろ歩きするとは、夢にも思いがけなんだのである。
「浅川中尉。妾は夜目ながら必ず御身と信じまいらせたるもの」
 歌姫はにこりと笑った、その滴るばかりの美しさに、二人はほとんど悩殺されんとした。
「児玉将軍は何地(いずち)におわすか、妾は将軍の宿を捜しまいらせつつ、ベルリンに彷徨(さまよ)いはべりしよ」
 歌姫は悄然として露重げの風情がある。
「将軍は昨夜フランクフルトに向って出発いたされたるを、惜しきこといたせしな」
 浅川中尉は歌姫の様子を見て、そぞろに気の毒に覚えた。
「将軍はもはや出立の後とや」
 美人はひしとわが胸を抱ぎ緊めて、あわや卒倒せんばかりに覚えたが、辛くも婀娜(あだ)たる身躯を花の木の下によせた。
「御身はわが児玉将軍に何の用事がおわすそ、何事にても将軍に通じ申さん。御身のためとしあらば」
(わらわ)はただ将軍に逢いまいらせんとて来りはべる。されどかの君(いま)さずば、今は何をか言いはべらん」
 歌姫は濳然(さんぜん)として紅涙を拭い、身を顫わせてハンカチーフを噛みしめた。
「いかなる仔細のおわすか。苦しからずば語らせたまえ、我々は決して他言する者ならず」
 二人の中尉は好奇心にそそのかされながらも、まこころこめた言葉に、溢るるばかりの力がある。
(わらわ)はイタリアのゼノアに生れはべれど、母なる者は浪路遥けき東洋の日本人とか、(わらわ)(いとけ)なくして別れたれば、慕かしき母の(おもて)は知りはべらず、この頃露国の都にて、児玉将軍を見まいらせて、(わらわ)が亡き兄君に似まいらせたるより、他人ならず慕かしき思いにとらわれはべる。もしも将軍にして厭いたまわずば、将軍に伴われて母の国なる日本に行き、母人の安否を尋ねはべらんものと、(わらわ)は将軍の後をおいてこの国に来りはべるが、かの君おわさずば、(わらわ)の望みは絶えはべるものを」
 歌姫は憮然として寂しくたたずんだ。美しかりし頬の色はいつしか()せて、月はほのかに花林の上を徘徊しつつ、青白き光を投げている。
 二人の将校は歌姫の身の上を聞いて、さながら一部の小説を繙くがごとく、恍乎(うつとり)として頼りなき身の上を思い泛べている。
「かの君おわさずば、妾はもはやこの国に止まる要ははべらず、再び露国へ戻りはべる。もしも君再び将軍に逢いたまう日もあらば、イタリアを父とし、日本を母とする哀れなる少女カチュリアは、将軍の身の上に幸あらんことを、常に祈りはべると伝えたまわれ、……さらば妾の敬愛する日本の紳士よ」
 一代の名妓とうたわるるカチュリア嬢は、玉の眼元に涙をたたえて、名残り惜しげにベンチをはなれた。
「しかし御身よ、かほどに(おほ)したまわば、何時(なんどき)にても日本へ来ませ、児玉将軍は御身のため必ず悪しゅうは計らいたまうまじきに」
「いつかはさる機会を待ち設けはべる。されど日本の紳士よ、数々の浮寝に漂う浪枕、際涯(はて)知られぬ海の上を心許せし友もなくて、いかで一人旅のなるべき、まして母の国とは言え、誰一人の知己(しるべ)さえはべらぬものを」
 美姫愁酔を帯びて、芙蓉の秋に咽ぶいじらしさ。哀れ深き歌姫の話にほだされて、二人の好奇心は、同情の涙に破られた。(たけ)きばかりが武夫(もののふ)ではない。花にたとえらるるその人の、寂しき胸中を思いやって、そぞろに憂いをくむと、夜気沈々と心の底を徹して、氷よりもひややかである。
「御身のために必ず将軍に告げ申さん、心やすくおわせよ」
 浅川中尉はカチュリア嬢と最後の握手を交した。
「母の国の紳士よ、さらば」
 跟々(ろうろう)として立上る美姫は、顧みがちにヒマラヤ杉の一本茂る木の下に行ったが、待たせたる馬車に乗って、万斛(ばんこく)の憂いを運び去った。
 可憐なる歌姫カチュリアの哀れなる身の上は、浅川大井の両中尉を泣かしめた。ましてその人が一代の声楽家として、歌姫の明星と仰がるるカチュリア嬢であるだけ、聞く人の感傷を深くする。この外国(とつくに)の名妓のために、母なる日本人の安否をさぐるのは、自分たちの義務かのように感じられた。
 話はやがて児玉将軍の耳に入ったので、将軍もそぞろにこの名妓のために、故国に照会の労はとるべきものをと、深く同情の念に打たれた。異郷の客となりて、夢は故園の花を辿る時、哀れに優しき話を聞くと、英雄の心緒乱れて糸のごときものがある。
 かくて将軍は再びベルリンに帰って、さらにミュンヘンに行き、ホテルの一室に投じて引続き取調べに余念がなかった。
 イタリア人の典型をもって、いたる所に歓待された将軍は、外交の辞令交換の間さては談笑のうちに、欧州陸軍の制度を比較研究し、一盞の火酒にも兵の強弱を試み、明治二十五年の六月、パリの月を名残りの眺めとして、マルセーユより海にうかび、つつがなく帰朝したのは八月の十八日、金をも(とろ)かす残暑の炎天であった。
 将軍の真使命は果していかなる目的であったろうか。欧州の軍事制度の取調べというのは、表面の理由であった。単に観光のために、賞与的洋行であるとは、将軍が眤近者(じつきんしや)に語ったところであるが、英雄人を欺く将軍の心の奥には、何ごとか琴線に触れて、微妙の響きを発するものがなくてはならない。
 果然帰朝の復命さえ済むか済まぬに、同じ月の二十三日に、陸軍次官を拝命したのである。時の大臣は大山巌であった。彼は海のごとき大度量で、便々たる腹中よく人を容るるので、省内のこと大小となく次官任せであったから、将軍は次官にして大臣の職を行ったのであった。
 この頃からして朝鮮に東学党なる秘密結社が勢力を得て来た。はじめは宗教の団結であったのが、威力を張るにしたがって、政令の行われぬ辺僻に割拠して、時の政府に反抗する。朝鮮政府の力は、彼らを十分に取締ることが出来なかった。鶏林八道の風雲は暗澹として、渦巻立ち、今にもあれ、東洋の禍乱は一時に爆発せんかと思われた。あまつさえ清国が曩年(のうねん)の条約を無視したる挙動は、わが国上下の血を沸かしめたのである。
「日清談判破裂して品川乗出す吾妻艦」の唄は、都鄙(とひ)到るところに、誰伝えるともなく唄われた。溢るるばかりの敵愾心は、怒濤の荒るるがごとくに狂うので、天下の物情は恟々(きようきよう)として、日清両国の衝突は、有無の論ではなく、時日の問題であった。
 三軍の貔貅(ひきゆう)はまなじりを決して、命令の一下を待つばかりに切迫した時である。廟堂の大臣は一夕の小筵を築地の香雪軒で開いた。むしろ袂別(べいべつ)酒宴(うたげ)であったかも知れぬ。
 座には山県を始めとして、伊藤、井上の先輩がいるし、目前に迫る国家の危機を控えているから、いつもと違って、重ねる猪口(ちよく)は理に落ち、話頭はとかくに時局の問題に転じて行く。一粒選りの名妓も、さすがに座が持ちかねて、あちこちに固まり合い、何となく座敷が白けて来る時、突然障子をガラリと明けて、蹣嬲(まんさん)たる千鳥足に、酔った酔ったと手拍子を打って飛び込む小男がある。頭にぱ棕梠(しゆろ)の毛を植えた大森かつらを冠り、黒木綿五紋の羽織りを着ている。
「誰だッ、ばかな真似しおるわ」と、一座の諸公はジロリとにらめつけた。
「おれだおれだ、陸軍少将児玉源太郎閣下じゃ」と、よろけながら座敷の真ん中に大あぐらを組んだ。
「サア女郎(めろう)ども酌をしろ酌をしろ、これから芸尽しを始めるのだぞ。貴様らをお客にして、我々の芸を見せてやるのじゃ」
「マアうれしい、ご前のお心意気を」と、若い芸妓は黄色い声を出して、好いしおと三絃(さみせん)を取り上げる。
「心意気なんぞはあり過ぎて困るわい。オイわしが後で野毛の山を踊って見せるから、あの苦虫たちを引出せよ」
「マァ」と、芸者はあきれて将軍の顔を見た。上席には山県、伊藤の諸先輩が、ニヤリニヤリと笑っている。
「マアも何もあるものか。にぎやかにぶっつけろ」
 将軍は一人ではしゃぎ出した。桂、曾禰の連中は、さすがに先輩をはばかって、猫をかぶっているけれども、将軍は酒席などでは何とも思っていない、一人で騒ぎ回って、しかつめらしい諸公の顎を外させ、勝手な熱を吹き回った。これが目睫の間に国家の隆替を繋けている危急存亡、の(とき)とは夢にも思えない。さすがの諸公たちも、その飄逸なのに呆れ果た。
 騒ぎに騒いだ将軍は、座敷が賑やかになると、いつしか見えなくなってしまった。座中の人々は、定めしどこかに酔い潰れているのであろうと、気にも止めなかったが、神出鬼没の将軍は、この時早く座を立って、例の大森かつらそのまま、ブラリと外へ出てしまった。



最終更新日 2005年09月26日 21時46分01秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三三 御用商人の手先代議士へこまさる」

三三 御用商人の手先代議士へこまさる
 雲か山か、漠々として東亜の天に湧き上る暗雲は、鏡のごとき水面に、一点の油を落としたように、見る見る拡がるかと思うと、一天晦冥(かいめい)となって咫尺(しせき)も分たず、とどろと鳴る雷霆(はたたがみ)は、人の世を微塵に砕かんばかりに鳴りはためいた。
 豊島沖の海戦に敵艦を捕獲し、牙山の陸戦に清兵を微塵に砕きたる皇軍は、連戦連捷の威を振るって、長駆直ちに北京城下の盟をなさしむべく、三軍の士気軒昂として火のごとき時である。
 陸軍次官とし、軍務局長として、一切の軍務を処理して遺算なき将軍は、卓子(てーぶる)によって、切々と執務していたが、給仕は恐る恐る(どあ)をひらいた。
「閣下、ご面会であります」
「ウム、誰か」
 将軍は紹介者の名刺を取り上げ、さらに面会人の名刺を見た。
「よろしい、応接へ通せ」
 給仕の出て行く姿を見て、将軍は思わず微笑を洩した。
 来客というのは、振古(しんこ)未曾有の大戦にあたり、私腹を肥そうとするご用商人の手先で、某衆議院議員であった。
「ヤッ、お待せしました」と、将軍は例によって、にこにこと入って来た。
「閣下、突然公務中をお妨げいたしました」と、客なる代議士は、ふだん議会で獅子奮迅の狂態を演ずるにも似ず、にわかに腰を低うして、慇懃に座を譲った。
「いや、議会では毎々いじめられますな」
 将軍は真綿で首の皮肉を言う。
「何か軍事上についてのご意見でござるかな」と、将軍はどこまでも空とぼける。
「ヤ、恐縮いたします」と、代議士は額の汗を拭いた。
「実は閣下に特別にご配慮を願いたいことがござりまするで」と、モジモジする。
「何かね」
「今回の戦争につきまして、政府でも被服その他につきまして、羅紗(らしや)地のご用が非常に多かろうと存じまして」
「それは必要じゃとも、防寒具もいるしな」
 代議士はたちまち活路を見出したように喜んだ。
「実は手前の関係のある商会で、戦争前から非常に羅紗を買いこんでおりましたが、この際国家のご用にお立て下されば、非常に幸いでございますが」
「それは奇特じゃね」と、将軍は葉巻を輪に吹いてすましている。
 たちまち廊下に(いそが)わしき靴音がして、副官が入って来た。
「閣下、ご用済みでございましたらば、大本営の電報がございますから」
「よろしい、マア君、そこへかけたまえ」
 副官はこそばゆく思いながら、仕方なしに腰を下ろしたが、もしや秘密な用談ではなかったかと、居心地が悪い。
「そこで貴君(あんた)」と、将軍は代議士の方へ向き直った。
「その羅紗(らしや)を全部献納するというのかね」
「エッ」と、代議士はふいを打たれて言句も出ない。
「いえ、お買い上げを願われれば、実に幸福なので」と、冷汗を流す。
「ハハア、ただくれるのじゃないのか。……それは驚いたな」と、将軍は大口開いて笑ったが、驚いたのは将軍よりも代議士である。一攫千金を夢みる矢先に、ただ献納するものと思われては、元も()もあったものではない。傍聴(かたえぎ)きする副官は、代議士の顔色を見て、思わず噴き出そうとしたが、辛くも咳に紛らした。
「陸軍で買ってくれと言われるのじゃな」
「ハイ、どうか特別にご尽力を願いたいので」
「よろしい、骨を折ろう」と、将軍は無雑作に答えてますます澄し込む。
「ご承引下さいまするか。……実に私始め一同光栄といたすところで」
 代議士は案ずるより産むが易いと、早くも心の裡に利潤(もうけ)を暗算している。
「しかし貴君(あんた)、魚心に水心という奴を知っていられるかい」と、将軍は真面目くさる。
「ヘエー」と、代議士は怪訝な顔をした。
「買い上る代りに、わしの方へ手数料(こみつしよん)を何ぽ出すかね」
「ヘエー、それは」と、代議士は意外に打たれて、とみに返事が出ない。副官は呆れて将軍の横顔をマジマジと見つめた。
貴君(あんた)も考えてみるがよい。この国家多事の際に高い値で羅紗を売り込めば、商会の利益は莫大じゃろう、したがって貴君も一山当ろうというものじゃ。自体官省の御用達(ごようたし)をする奴は、火事場泥棒のように、きわどいところで大儲けをやるのじゃからな。わしらも貴君方(あんたがた)の機械になって、素手(すで)で働くことは出来んよ。手数料(こみつしよん)次第じゃなかろうか。……わしらは明日にも出征すれば、的になって死ぬ身体じゃ、ただで御用商人の懐を肥すほど人が善く出来ておらんでな。……そうじゃろう副官」
「ハッ」と、副官は姿勢を正したが、将軍の意を図りかねて返事が出来ない。
「どうじゃ、手数料(こみつしよん)をもろうたら、大盤振舞いをするぞ」
 代議士は肚肝を抜かれて真っ蒼になった。(なり)の小さい木鼠(りす)将軍は、煮てもやいても食えるのではない。
「どうも恐れ入りました。いずれ(とく)と相談の上で申し出でまするで」
 客は尻尾を捲いて、ほうほうのていで逃げ出すように帰って行った。
「ハハア、古狸め驚いて帰りおった。愉快じゃ愉快じゃ」と、将軍はからからと独りで面白がっている。
「閣下、ああいうことをおっしゃってよろしくございますまい。……新聞へでも出ますと」と、忠実なる副官は、将軍の大胆を危ぶんだ。
「いやよろしい。以来頼みに来る者がなくてよいわい。……国家の安危にかかる戦争に、兵士の艱苦も思わず、不正の暴利をむさぼろうとする商人は、実に不都合極まる奴じゃし、その手先になって運動する奴は、なおさら言語道断じゃ」
 将軍は代議士の呆れ顔のおかしさを思いうかべて、笑いながら官房の執務室へと帰った。
 日本帝国の興亡を()したる日清両国の大戦は、大君の稜威(みいず)と、忠勇なる将卒の奮闘とによりて、海に陸に連戦連勝の誇りを示し、全世界の耳目を驚かした。かつて露都のホテルに小さな国の小さな軍人とわらいたる露国男爵や佐官は、今更に目をみはって驚歎したであろう。
 東亜の天地を砕いて、粉のごとくにひしぐかと慄いおののかれた戦争は、清国の屈服によって、ここに平和の曙光に接し、講和使李鴻章の来朝から、馬関の談判となり、伊藤大使の派遣となって、始めて批准交換を得、平和は全く克復した。
 日本の獲得した賠償は、朝鮮境の鴨緑江の右岸から、鳳凰城、海城、営口に亘り、遼河に至る線から南、即ち遼東半島の全部と、台湾澎湖島の全部を引渡すことと、軍費の償金二億(てーる)であった。
 かくと知った独仏露の三力国は、今更目をそばだてて驚いたのである。多年勢力を東亜に張るべく、虎視眈々たりし彼らは、遼東半島を日本の手に収められては、自家将来の立場を失うわけであるから、是非とも日本に強圧を加えて、その領有を放棄させねばならぬ。
 彼らは深く結托して、日本を屈服せしむべき抗議を申し込んだ。抗議とは言いながら、むしろ最後通牒に等しいものであった。ことにドイツ公使のごときは、肩を張り、目をいからして、わが外務当局を叱咤せん勢いであった。
 何が東洋平和のための忠言であろう。林外務次官はあわや拳を握って、ドイツ公使に飛びかからんかとまで憤慨したが、国家の前途を思うて、わずかに熱涙を呑んだ。
 砲門を開いて人を脅す三国軍艦が恐ろしいのではない。百万の欧州兵に一歩も譲るのではない、しかし二年にわたる大戦に、国帑(こくど)疲弊したあげく、三国を敵として闘うには、国の富が余りに哀れであった。
 畏くも悲痛淋漓たる詔勅とともに、一度占領したる遼東半島は清国に返還せねばならぬ運命となって、臥薪嘗胆の語は、深く深く吾人(ごじん)の頭脳に刻まれたのである。怨みを呑み、涙をふるって、出征の兵士は本国に引揚げて来た。
 たとえ不満足の結果とは言いながら、戦勝は立派な戦勝である。しかし戦いに勝っても、万一凱旋兵士が伝染病を持って来るようなことがあっては、戦敗よりなお恐ろしい傷痍である。昔からの例を見ても、大戦後には伝染病の流行するのが常である。中央衛生会は、至急検疫所を創設すべく、陸軍省へ建議したのである。そしてこの事業を終えて鼠髯(そぜん)将軍は、台湾総督に任ぜられた。



最終更新日 2005年09月27日 00時23分56秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三四 俊髦を挙げて検疫の事業を大成す」

三四 俊髦を挙げて検疫の事業を大成す
 藤園将軍が新領土の台湾を統治するにあたって、肝胆相照した一人の俊髦(しゆんもう)がいた。従来しばしば総督の更迭があって、治台の方針はしきりに代ったが、代れば代るほど思うように成績が挙らないので、廟議はついに児玉将軍を起して、台湾の料理を托することにした。ここにおいてか、内助の功ある女房役が最も必要なので、将軍はかれかこれかと、しきりに算当を立ててみたが、この艱難の時局にあたって、着々整理の実を挙げ得る者は、天下ただ一人しかない。すなわち衛生学者の後藤新平であった。
 衛生学者に台政を治めさせるのは、いかに人物払底すればとて、(みぐる)しいほど窮した手段であるが、この衛生学者は、尋常一様の衛生学者ではない。医者は下手でもやりくりは上手の方で、医者としてよりも、政治家として、より多く傑出した大手腕を持っていた。
 かつて白由民権の声が、天下を響応せしめた時、民権の権化、自由の神と謳歌せられた前参議板垣退助が、暴漢のために岐阜で刺された。時の政府からは、反逆者か不倶戴天の敵かのように思われる板垣ではあるが、前参議ではあるし、維新の元勲である。その人が刺客からねらわれたのであるから、それと知って駆けつけた警官たちは、いかなる処置をしてよいか解らぬ、医師などはただ狼狽(うろた)えるばかり、さながら(かなえ)の湧くがごとき有様であった。
 この時官命によって、急いで現場へ馳せつけた年少気鋭の医官があった。彼は立ち騒ぐ人々の間を押し分けて、つと板垣前参議が負傷の床に横たわれる側へ進んだ。見ると応急手当とは言いながら、田舎医者が狼狽(うろた)えたあまり、不完全な処理をしたままであるから、血糊は繃帯ににじみ出て、とこには無残の唐紅を印している。消毒などもあったものではない。
 彼はじっと負傷者の顔をみつめて立ったが、やがてその眼で周囲の人々を見回した。誰も一語を発する者はないが、完全な手術を頼むという心が、誰言わねど顔から顔へとあらわれたのである。
 自若として物に動ぜぬ年少医官は、つと寄って負傷者の上衣をぬがした。続いてチョッキをぬがせようとして、胸ボタンを外そうとする看護者を、無言のままに押し退けた彼は、外療のメスを取り出すや否や、会釈もなくさっとチョッキを切裂いた。
 患者が前の大官ではあるし、チョッキが尊い臘虎(らつこ)の皮から造られているので、他の医師にはこの果断が出来なかったのである。しかしこの年少医官は、手術の前に高官もなければ、臘虎の皮もなかった。医はただその天職を尽しさえすればよいと考えたのであった。今でこそこのくらいのことは珍しとするには足らぬが、当時にあっては、実に果敢な処置であったので、並居る人々は、この年少医官の後世必ずおそるべきものがあろうと思った。この年少医官とは誰あろう、後の台湾民政長官、南満鉄道総裁を歴任し来りて、ついに鉄道院総裁、逓信大臣に昇った、男爵後藤新平という奇骨稜々(りようりよう)たる快男子であった。
 当時板垣白由党総理は、病床に後藤国手を顧みて、
「君を医者にしておくのは惜しい。立派な政治家の資質をそなえている。君は医者よりも政治家として成功したまえ」と、満面にえみを湛えて言った。もとより板垣総理もこの年少医官が、将来多智多策の政治家となって、明治の晩年を飾る俊傑となろうとは予期せなんだかも知れぬが、今日となっては、先輩の予言が的中して、板垣総理をして先見の明あらしめたのは、けだし板後両氏の幸福でなくばならない。
 年少気鋭にして、客気溢れんばかり、功名の心燃えて火のごとき後藤国手は、この先輩の一言に駆られて、ますますその希望を輝やかしたのである。人の病を癒すよりも、国家の病根に向って、外科的手術を施すのが、むしろ男子の面目ではあるまいか、上医は国を治すという心が、烈々として胸に満ちた。
 この功名心に任挾の質を帯びた彼は、海外留学より帰ると、医儒長与専斎の後をついで、内務省の衛生局長となり、大いにその手腕を揮わんとしたが、たまたま相馬家の旧臣錦織剛清のことに坐して、囹圄(れいこ)の人となった。
 錦織剛清は忠か不忠か、古来成敗をもって、人を品隲(ひんひつ)することは出来ぬが、事の善悪に関わらず、旧藩主のために狂奔し、つぶさに困苦をなめ、しばしば危地に陥ったのは事実である。後藤衛生局長の稜々たる任侠の意気は、孤忠よるなき錦織が、幾多の迫害に苦しめらるるを見るに忍びず、米塩の資を給したり、種々の便宜を与えて庇護したことが、青い眼鏡で人を見る刑律の吏のために、錦織の教唆者と見做され、錦織が罪科に触れるとともに、後藤局長も誤って検挙に会ったのである。
 高等官の局長が検挙されたということは、当時にあっては、実に青天の霹靂であった。朝野震駭の(まなこ)をみはって、この事件の成行きを注視したが、もとより俯仰天地に恥ざる局長の、洒々落々たる性行は、天日の雲霧をひらくがごとくに、身に降りかかる嫌疑ははれたのである。しかしそれ以来官を辞して、失脚の人のごとくに蟄伏し、深く自ら韜晦(とうかい)したが、その間に彼は幾多の修養を積んで、百折不撓の心胆を練り来たったのである。しかし蚊竜(こうりゆう)はついに池中の物に非ず、袋の錐は必ず頴脱(えいだつ)せずにはいない。長らく世間から忘れられた天才が、雄図(ゆうと)を示すべき機会は到来した。
 日清戦争が今や惨憺たる血雨の幕を閉じんとする時、戦後検疫の議が中央衛生会に起った。これは外征百万の貔貅(ひきゆう)が凱旋するにあたり、彼らのすべてを完全に検疫して、悪疫の発生伝播を予防するのであったが、言うは易く、行うは難き一大事業である。彼は中央衛生会委員の一員として、選ぼれて検疫の議を具申すべく、時の参謀総長川上将軍に面し、さらに児玉将軍に面会した。これが実に将軍と後藤国手とを結托する第一歩であったので、ただ一夕の会合は、二人の間の意気投合となり、肝胆相照す(なか)となった。将軍は彼の大いに用うべきを知って、ついに百五十万円の巨資を要すべき大事業を、ただ一夕の談合に決してしまった。果断と英俊との両雄の面目は、この一時に覗われるではないか。
「君の意見の通り、検疫事業を執行することとなったが、一切の事務は無論君にやってもらわなにゃならんよ」と、児玉将軍は検疫費が廟議に可決された時に、後藤国手を招いて、さながら宣告するように言った。
「それはいかんです」
 彼は眉をも動かさず、決然(きつばり)と答えた。
「なぜか」
 将軍は葉巻(シガー)をくゆらせながら、紫の煙に霞める眉をひそめた。
「この検疫事業は、すべて軍人に対して行うのですから、金ぴかの軍服を着けていなければ、意気軒昂せる彼らを制馭することは出来ぬです。僕は無官の一浪人、到底その任ではありません。外にいくらも適当な人がありましょう」
「いや、それはいかん、文官が軍人を指揮したり、駕馭することの出来んことはない。もし出来んければ、出来る例を君が示したらよかろう。君の威厳の保てるように、官制はよろしく起草させるから、今度の事業は、君の思う通り決行してみたまえ。男子が自己の意見を、自己の意のままに遂行するのは、会心なことではないか。やりたまえやりたまえ、大いにやるべしだ」
 将軍は哄然として笑った。この知己の言には、熱血の彼は動かざらんと欲しても(あた)わぬのである。
「よろしい、やりましょう、斃れて後已むの決心でやります」
「そうだ。それで取引きは済んだ、手を拍つぞ」
 ただこの無雑作なる数語の会談は、心をもって心に伝え、男児と男児とが、互いに相許したのである。
 果せるかな、臨時検疫条例は明治二十八年の四月一日をもって発布された。
 武夫(もののふ)の命を花と咲き匂う桜の下陰に、英気颯爽たる若武者が、太刀抜きかざすにも似たる後藤国手の面目は、撥溂として胸も透くようである。
 彼は検疫所事務官長として、ただ一人の文官であった、彼の指揮命令を受くべき部下の軍人は、実に一旅団の兵員にも匹敵すべき人員であったが、検疫部長たる児玉将軍の信頼と、自家の信念とによって立てる彼は、天下の張目を一身にあつむる晴れの舞台に立って、神来の辣腕を揮うこととはなった。
 彼は事務官長の命を拝するや、迅雷耳を被うにいとまあらざる態度をもって、着々として万般の施設を命じた。
 検疫事業は諸外国ともに、議論の上の基礎は立派に立てられているが、かかる大仕掛けを事実に試みた先例がないので、外国人はすこぶる興味ある試験問題として、絶えず注意を怠らなかった。事務の成功と否とは、国家の面目に関わるような晴れの場合となったのである。
 しかし官長たる彼は、その精力をここに発揮して、僅々二ヵ月間に、この大演劇(おおしばい)の大道具小道具、表方から楽屋までのすべてを完備させて、鼠木戸の戸締りさえ落さなかった。それでめでたく幕を開けたのが六月一日、四ヵ月間を興行して、十月三十日に千秋楽を打ち出したが、この間に検疫したお客の数は、二十三万二千三百四十六人、船舶が六百八十七隻、物件が九十三万二千七十九点で、費用が百六十万円であるから、一日が一万三千三百三十円余に当るわけで、実に空前の大演劇(おおしばい)であった。
 後年芳賀軍医正が独帝に謁見した時、帝はこの検疫事業は実に無上の大成功である、日本は軍隊が強大なばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるかと、そぞろに驚歎された。国内ではさまでに思わぬ検疫事務が、かえって欧州各国から注視されていたことが、恐ろしいような、後見(うしろみ)らるる気がする。
 血性男児の後藤官長が、この大事業を完了して、気斗牛を呑むの概がある時、児玉将軍は彼に黄金の冠を贈った。彼は何心もなく封を解いて見ると、中から出たのは数百通の文殻(ふみがら)で、いずれも検疫部長たる児玉将軍に宛て、後藤官長を批難した密書である。中には謀叛心のある梟雄(きようゆう)とまでに書き記したのがあった。それがただ漫然たる投書ではなく、官職氏名を明記し、責任を帯びて忠告した者まであったが、それにもかかわらず、将軍が心を動かさなかったのは、将軍の美点で、一度信頼した以上、その人を疑うようなことは断じてしない。
 さすがに意気軒昂たる後藤官長も、この黄金の冠を見た時には、三斗の冷汗(そびら)(うるお)すを禁じえなかった。
 かくのごとき経歴から、後藤国手の人格と手腕とに推服する児玉将軍は、台湾総督就任の一条件として、彼を民政長官に推選した。
 由来瘴煙蛮霧(しようえんばんむ)に立てこめられたる台湾の開拓は、非凡の鬼才でなければ成功せぬのはもちろんであるが、しかし火の玉のような性格を持つ児玉と後藤、この二人者は互いにシテ役者で、ワキの女房役でないとすると、両雄並び立たず、必ず衝突せねばならぬのは、理の当然である。
 口の悪い京童(きようわらんべ)は、馬を壁に突当てるという話はあるが、この二人ならば、恐らく壁を突き破ってしまうだろうと言った。二人の性行を知れる十中の十までは、ひそかに眉をひそめて危ぶんだ。しかし児玉将軍の人を知るの明と、後藤長官の意気に感ずる血性とが、二人の間に堅い楔を打って、異体同心に(つく)ね上げたために、着々治台の実が挙って、今日の発展を見たのである。



最終更新日 2005年09月28日 00時07分48秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三五 台湾統治のためさらに後藤を重用す」1

三五 台湾統治のためさらに後藤を重用す
 藤園総督が台中丸に搭乗して、図南の鵬翼を拡げ、悠揚として基隆(きいるん)に上陸したのは、明治三十一年の三月十八日であった。そよ吹く春風は軍刀の剣禰(けんぱ)を吹いて、胡蝶の夢を誘う長閑(のどか)さ、蓬莢の高砂島は、山青く水(みどり)に、笑って新来の総督を迎えた。花(わら)い鳥唄い、嗜々の声は(しず)苫屋(とまや)にも聞こえ、台湾の民衆は、藤園総督の威名に謳歌した。
 総督は台北に着任してから、まず台湾官庁の制度より官吏の執務振り、平生の動静までに、虚心平気に観察して見ると、驚くべき弊風が、夏の日のやけただれたる雲のごとくに蔓延している。官吏の多くは、阿諛(あゆ)女謁(じよえつ)の蔓を伝わった僥倖の獵官者で、官職を持つ羽織破落漢(ごろつき)のような体たらくであるから、台湾統治の実が挙りようはない。土匪は台湾の名物で、惨害を逞しゆうするが、それよりもさらに恐ろしいのは、官匪の蠧毒(とどく)である。土匪の討伐より先に、官匪を撃滅して、官紀の振粛を謀らねばならぬと、はやくも為政の根本から改革すべく、大方針をたてた。
 この頃の台湾はちょうど軍政を布かれた後であるから、今文治の方針になっても、軍人万能主義は因習となって、軍人に非ずんば人に非ずという有様、軍人の跋扈は非常なものであった。何事にも軍人の気をかね、彼らの鼻息を覗わねぼならぬので、民政部の文官は、常に後ろから肘をひかれて、思うことが行われなかった。
 後藤長官が赴任の当時、旅団長会議が総督府に開催されて、台北に参集した軍人の重なる者は、総督府参謀長少将立見尚文、台北旅団長少将内藤厚之、台中旅団長少将松村務本(むほん)、台南旅団長少将高井敬義(のりよし)、それに各参謀副官らであったが、長官はこの機会をもって、彼らを大稲堤(だいとうてい)の清凉館に招待し、新任披露の宴を張ることにした。
 当日の接伴役は総督副官堀内大尉であったが、招待された客は、案内の時刻を違えず来たのに、主人役の長官はもとより、接伴の堀内大尉さえ影も形も見せない。
 客は狐につままれたような気がして、三々伍々煙草をくゆらしたり、碁を囲みなどして待ったが、時は刻々と過ぎて、まだ何の沙汰もない。
 折から夕陽は淡水河になぐれて、滔々たる水は、()いて沸立(にえた)つばかり、見るも恐ろしき灼熱の光線は、射るように反射して来る。軍服の背は汗に滲んで、(あぶら)も煮ゆるかと思われ、さながら蒸風呂に入っているようなので、客の不平は次第に昂まって来た。
「どうしたのだ、後藤はまだ来おらんじゃないか。……実にけしからん奴じゃ、六時に来いと言うて、早七時を過ぎとるに、主人が顔を出さんことがあるか」
 誰に言うともなく、一人の髯男が、巻煙草の吸口をかみつぶして、邪慳に庭へたたきつけながら言った。さっきから不平で不平で堪らなかった連中は、この導火線を得て、たちまち爆発した。
「そうじゃ、自体我々を愚弄しておるじゃ」
「こないな調子で台湾政治をやられてみい、人民はどうなるか。……本来総督が、あまり後藤の肩を持つからじゃ」
 あから顔の隼人(はやと)(ただむき)をたたいて吠えるように叫び出した。
「自体机の上の畑水練(はたけすいれん)で、実地の治りがつくものでない。文官などを民政長官にしてどうなるか、台湾は剣でなくちゃ治まらんのじゃ」
「そうじゃとも、後藤は元医者じゃというじゃないか。医者を民政長官にするが、第一に解せんわい、長袖に政治がとれるか、……どだいなっちょらんわい。……どうだ帰ろうじゃないか」
 不平満々として、怒気心頭に発するところへ、堀内大尉はようやく駆けつけた。
「閣下どうも、まことに申訳がありません。長官も私も、重要会議が長引きましたので、非常なお待たせをいたしました。どうかお許しを願います。ただ今長官もすぐに参られまするから」
 大尉は流るる汗を拭いもあえず、上官の前に平詫りに詫びた。
「堀内、貴様は藪医者の草履取りになったか、卑屈な奴じゃ、貴様は帝国の軍人じゃないか」
 雷のごとき怒声は、直倒(まつさかしま)に頭上に落ちかかった。
「ハッ」と、大尉は姿勢を正した。軍人の悲しさは、公私の区別もなく、上位の人に反抗するを許さなかった。
「貴様、後藤の使用人になったか。……重要会議で遅れるならば、なぜ断ってよこさんじゃ。我々を何と心得おるかッ」
 「まことに申訳がありません、会議が直ぐ終了すると思いよりましたで、ツイお待たせをいたしました」
 副官が平蜘蛛のように詫びているところへ、後藤長官も大急ぎで駆けつけた。一同は紛々たる怒気を面にうかべて、苦虫をかみつぶしたように黙り返った。
 形勢不穏と見てとった長官は、遅刻の詫がてら、一場の挨拶をなすべく立上った。山海の珍を尽した滋味は、客の前に引かれて、霓裳羽衣(げいしよううい)の美姫は、嫣然たる微笑をたたえてあらわれたので、蕭颯たる枯条寒林に、一脈の春風が渡った心地がする。
 「今夕ご多用のところを、強いてお招きいたしたにかかわらず、かく打揃ってご来臨下されたことは、自分の面目で、畢生の光栄といたすところでありまする。しかるにかかわらず、午後六時のご案内をいたしておきながら、定刻より一時間余りも遅れましたのは、何とも申訳のない失態でござりまして、お詫の申し上げようもありませぬが、実は今日予期せぬ突然な重要会議が開かれましたために、中座いたすこともならず、はなはだお待たせいたしました罪は、幾重にもご寛恕を願いたい。……つきまして今夕は、将来のご懇親を願い、お引立てご援助を得んがために、ご足労を願いました次第で、元より何ら召上がるような物はありますまいが、新任そうそう土地に馴れぬ自分に免じて、不行届きをご不承の上、歓を尽されんことを願いまする」
 長官は簡単な挨拶とともに、眼交ぜに美人に合図をしたので、花のごとき阿嬌は、将軍連の側に寄り添って、満々と酌をしながら、しきりに酔いをすすめた。
 後藤長官の挨拶で、わずかに不満を押えていたのが、酔いの回るにつれて、くどくどとまた燃え始めた。芸妓や副官は、しきりにそれを慰めていたが、慰めれば慰めるほどつけ上るのが生酔いの癖である。
「こりゃ後藤君、吾輩は帝国の軍人じゃ。軍人は規律を重んずる者じゃ。厳格でなくばならん。兵隊どもを見たまえ。門限が一分でも遅れれば罰則じゃ。その時に親が病気だと言っても、許すことは出来んのじゃ。しかるに今晩のごとく、宴会とは言いながら、一時間も二時間も遅れては、吾輩実に不愉快でならんわい。軍人は文官と違って、国家の干城じゃ、規律は厳重じゃからなあ」
「いやまことに失礼でした。悪からずどうか」
 後藤長官は逆に絡む言葉を、風の柳に聞き流した。
「しかしじゃ後藤君、貴君(あんた)に言うとくが、台湾の土民は、規律を厳重にせんと、折角我々陸軍の軍政で土台を築き固めたのが無効になるじゃ。……六時に招待しておいて、七時八時になる流儀は、台湾には向かんよ」
 後藤長官は陸軍を鼻にかけるのが、癪に触ってならなかったが、客として招いた人に対して、主人役たる自分が事を構えるでもないと、強いて苦笑いに紛らしていた。
「アラご前、そんな理屈をおっしゃるもんじゃないことよ、マア一つお酌して下さいな」
 機転の利いた若い芸妓が、銚子を取りあげて、膝頭で歩み寄った。
「やあ貴様、ウンと注げい」
 武官は舌なめずりして、波々と杯に受けたが、ドロンと濁った眼は、もう据っていた。
「この方は民政長官じゃぞ。総督に次いでの台湾の御首(おかしら)じゃ。飛ぶ(とり)おとす方じゃ」
 武官はますます味にからむ。後藤長官の癇癪は今や破裂せんばかりに緊張した。
「アラおよしなさいよ」
 芸姑はハラハラしながら取りさえるように慰めたが、武官の酔いはますます発して、前後の思慮もなくなった。
「えい、貴様黙っておれ、貴様なぞもこれから客に()ばれても、六時の時間が七時八時になって行ってもよいのじゃ、民政長官からそうじゃからな。なあ後藤君」
 後藤長官の負けじ魂は、今までジリジリと拳を握らしたのであったが、堪忍袋の緒は、俄然として断たれた。
「うるさい、黙れッ」
 百雷の震うがごとき大喝一声、驀然と奮い起つや、栄螺(さざえ)のごとき拳を固めて、やにわに旅団長の横顔を食わした。
 不意の一撃に、あっと叫んでたおるるところを、襟首押えて畳にすりつけ、
「帝国の軍人がなんだ。……遅刻したくらいで、いつまでも不平があるなら、サア来い、いつでも決闘するぞ。……軍服が怖くって柳原が歩けるか。……わが輩は地獄の底へ行って、四分六の物相飯(もつそうめし)まで食って来た人間だ、軍刀や肩章にビクつく人間とはわけが違うそ、文官だと思って見損なうな」
 後藤長官の凜々たる声は、怒りに激して、叱咤風生の概がある。事態容易ならずと見てとって、人々は総立ちになって取巻いた。
「こ奴おれを打ちおったな。……軍人の体面を汚したな」
 彼は獅子の怒るがごとくに、目をいからし、牙を鳴して詰め寄った。
「軍人の体面が何だ、貴様なぞは軍人の面汚しだぞッ」
「何をこ奴がッ」
 彼は満面朱をそそぎ、哮り立って後藤長官に打ちかかった。
「ええ、生意気な」
 二人は席を蹴立て打ち合い捻じ合い、死力を尽して争った。皿は砕かれ、膳は踏みこわされて、座上はたちまち落花狼藉の狂態を演出したが、外の客は眉をひそめて見物するばかり、誰一人止めようとする者がない。いずれも同じ不平が胸にあるから、後藤長官が組伏せられなば、かえって自分まで溜飲が下る気がするのである。
女将(おかみ)さん、大変ですようッ」と、金切声に飛び込んで来た芸妓(げいしや)の知らせに、清涼館の内儀は、急いで座敷へ駆けつけたが、殺伐の余風なお去らぬ折から、時折宴会にはこの無風流があるので、女将はさのみ慌てない。
「何ですねえ、ご前方は。……清涼館は柔術の道場じゃないんですよ。……面白そうに見ていらっしゃらないで、止めて下さいよ。……ご覧なさいな、ご前方みんな軍人でいらっしゃるのに、後藤のご前はたった一人、軍人でいらっしゃらないんですよ、それだのに見ていらっしゃるなんて、卑怯じゃありませんか」
 女将が骨を刺すような言葉に、人々は互いに顔を見合わした。当の二人は胸倉を取り合ったまま、互いに激昂の絶頂に達し、切々と息をはずませて睨み合っている。
「マアやめい、つまらんことはよすがよい」と、一人が止めに入ったので、外の将官連も口を添え、ようやく二人を引放したが、余憤なお去りやらで、当の相手の軍人は、畳を蹴立てて帰る、折角の酒席はたちまち白けて、殺風景の死屍(なきがら)を遺したまま、空しく散会してしまった。



最終更新日 2005年09月29日 01時09分20秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三五 台湾統治のためさらに後藤を重用す」2

 軍人の跋扈は知っているが、わずかの遅刻を根に持って、御殿女中の新参虐めのような卑怯な振舞をするとは、実に心外でならぬ。しかもそれが旅団長、三軍を指揮する身でありながらと思うと、憤恨心魂に徹して、後藤長官は寝ても眠られぬほどに残念でならぬ。まして蒸暑き夜の空気は、シットリと湿りを持って、さながら蒸風呂に入ったようなので、(とこ)の上に輾転(てんてん)したまま、マンジリともせずに夜を明した。
 彼を最後まで懲して、自分の面目を立てることは、将来のため軍人の増長を防ぐ手段でもあろうと、気をもって勝つ長官は、がばと寝床より跳ね起きて、卓子(てーぶる)を前に当てながら、昨夜の無礼を詰責する書状を一気にしたためた。一度争いを起す上は、底の底まで追窮して、敵に致命傷を与えねばならぬのである。
 風死して露繁く、相思樹の枝は静かに垂れて、林投の葉に貫く露は、纓絡(ようらく)を飾るよりも美しい。冷涼骨に徹らんとする台北の昧爽(あさまだき)に、長官は愛馬を駆って、道芝の露を踏みしだくが常であった。
 昨夜おちおち眠らなんだのであるから、さらぬだに早起きの長官は、さらに早く仕度を整えて厩へ行って見ると、愛馬はとくに飼糧(かいぱ)を終って、馬具爽やかに粧っている。そして長官の姿を見ると、削竹(そぎだけ)のような耳を立てて、姿勢を正したなり、主人の用をまつがごとくである。
 馬丁が牽き出すままに、長官はヒラリと跨って、鞍壼優に四方(あたり)を見回すと、胸は透き徹るように開けて、昨夜よりの欝悶は、薄絹の幕を撤するがごとくに、晴れがましくなる。
 戞々(かつかつ)たる馬蹄は、坦々たる朝の大道を蹴って、長官は昨夜致死して闘いたる敵の宿舎を尋ねたが、わずかに家の小僮(こもの)が起き出でて、大戸を明けたばかり、寝惚眼(ねほけまなこ)をこすって、馬上の長官を不思議そうに見上げる。
「旅団長は起きていられるか」
「いえ、まだお目覚めになりません」
「そうか、起きたらこの手紙を上げてくれ」
 長官は内から手紙を取り出して、小僮(こもの)に渡したまま、馬の手綱を引回らして、直ちに総督官邸へと向った。
「閣下は庭を散歩していられます」
 副官の答えも待たずに、長官は花園へと入って行った。見ると朝露を含んだ夏草の花が、色さまざまに活き活きと咲き出でた間を、総督は黙想に耽りながら、そこはかとなく歩いていた。
「閣下」と、長官はずかずかとその側に寄った。
「ヤア君、ひどく早いな。……昨夜は盛んじゃったそうな、愉快なことをやられたな」
 総督は欣然として首肯(うなず)く。
「お聞きになったですか」
「聞いた聞いた、実に愉快じゃ、非常によいことじゃったよ。そのくらいのことをやらんじゃいかん、かえって今後のためによかろう」
 総督は激励するように言った。
「しかし君はなかなか腕力家じゃ、陸軍の将官を張り倒すなどは奇抜じゃ。その芸は君でなければ出来ん。奴も驚いたろう。マア拳骨でなぐられたのじゃから、奴も命があったようなものの、君の匙でやられたら、助かりっこはあるまい」
 総督は哄然として笑った。
「一度そのくらいのことはあってもよいと思う。後でわしも彼らにお灸を据えておくから」
 二人はしばらく花の間を逍遥して、長官は欝胸を開いて官舎へ帰った。そして心地よく朝餐(あさげ)をとるところへ、昨夜の軍人は和服の礼装を正して尋ねて来た。
「ヤ、何しに来おったか知らん」
 口の中に呟いた長官は、客を応接間に通した。当の敵に名乗りかけられて、逃げ隠れるような卑怯はしない。
「ヤア後藤さん、昨夜は何ともご無礼をして相済まん、少し頂戴し過ぎたで、どうかご勘弁にあずかりたい。今朝のお手紙も拝見したが、決して深い考えがあって、無礼をしたわけでないから、どうか悪く思わんようにお願いする」
 さすがに軍人は潔よく、自分が悪いと気がつけば、改めるに(はば)からぬのである。
「イヤ、わざわざのこ入来では、かえって僕が恐縮します。……そう事が解ってみれば、昨夜のことはすべて水に流して、将来ご懇親をお願いしますよう。僕の方も実はあまり短気であったです」
 長官も闊然として胸襟を開いた。敵が一言の詫を聞けば、もはや心に(わだかま)りを残すことはない。そして光風霽月の胸に満ちたような心地がして、この朝ばかり清々しいことはなかった。
 花園の散歩に、両雄が会談した翌日である。総督は旅団長や参謀長を官邸に招いて、慰労の宴を張った。いつもならば西洋式の食卓にするのを、この日に限って日本流にしたのは、わざと懇談的の座敷にして、くつろぎやすいように仕向けたのである。
 広々した座敷に、華電燈の光が、漂うばかり鮮やかに照し出されて、花を()めた氷の塊は銀の皿に飾られ、煽風機は夏を払うべく急転している。炎熱蒸すがごとき台北の夜は、涼冷滲みんとするがごとくに爽やかで、吸う息が腹の底まで氷るようである。並いる将士は喘牛(ぜんぎゆう)の水を得たような心地になった。
「サア諸君、何にもないがゆっくりくつろいで、一杯やってくれたまえ。四角ばらんでな」
 総督は赤児(あかご)も懐くばかりの愛嬌で、一座を接待した。
「やあ閣下のお許しじゃ、諸君(かみしも)を取って、酔い潰れようじゃないか」
 一昨夜大稲堤(だいとうてい)の宴会で、後藤長官と格闘した旅団長は、総督の意を迎うるがごとく、膝を崩して大杯を手にした。それをじっと見ていた総督は、
「やあどうも諸君が城壁を撤して、そうくつろいでくれると、主人役たる乃公(わし)は非常に満足じゃ、諸君も快いに違いない。すでに諸君が客として来てくれる以上、区々たる感情の衝突ぐらいは、客の義務としても念頭にかけちゃならんじゃないか」
 客はみな顔を見合した。何のこととも解らぬらしい。
「主人役が乃公であってもじゃ、また外の文官であってもじゃ、客として来る以上、諸君は同一に心得ていねばならんのじゃ。しかるに酒に本性を奪われて、無礼をするようなことがあれば、帝国軍人の面目にもかかわろうじゃないか。いや諸君に言うのは釈迦に説法じゃが、ご同様文官でも武官でも、重大な任務を帯びていることは同じじゃから、文官だと言うて、毛嫌いすることがあっちゃならんよ。……文官の招待でも、乃公の招待と同じように、こう快くくつろいでもらいたいのじゃ」
 笑いを含んで言った総督の言葉は、真綿で首を絞めるばかり、ジリジリと列席者の咽喉(のど)を圧迫した。さては大稲埋の清涼館一件であるなと、さすがの猛者(もさ)も顔をあからめて、穴へも消えたい心地がした。
「自体君」と、総督は例の武官に杯を属しながら、張り(ひじ)の肩を叩いた。
「台湾に軍政を布いて、一時軍人政治をやったのは、当時の事情が、剣でなくては治まらんためじゃったが、今日ではもはや普通の行政になっている。しかるにかかわらず、この軍人が行政に(くちばし)をいれるというのは、よろしいことではない。軍人は軍人の本務さえ尽せばよいのじゃよ。……もしまた軍人が政治に関係して、立派にやってゆければ、行政官は不必要じゃ、何でも軍人にさせるに限る、行政官よし、技術者よし、軍人万能じゃ、苦力(くうりい)の代りに車ひきになってもよいのじゃ。しかし軍人にそれが出来ぬのが明らかであるから、文官を置いてあるのじゃ。この点はよくよく諸君から部下の者に言い聞かして、心得違いのないようにしてくれんきゃいかん。古い言葉じゃが、文武は車の両輪じゃ。これが軋轢したら、車は動くものじゃない」
 笑いながら冗談交りに言った訓戒は、千万言の布令(ふれ)にも増して、列席者の頭脳に滲み渡った。座は何となく白けて、こそばゆいような居心地になって来る。
「さあ諸君、話はそれだけじゃ、大いに飲んでくれたまえ。……説教坊主も役済みじゃ」
 総督は大胡坐(おおあぐら)をかいて、
「こりゃ、酌だ酌だ」と、騒ぎ出した。多勢の来客は、叱言(ここと)を言われに来たのか、ご馳走になりに来たのか、(けむ)に捲かれてしまってわけが解らなかったが、文武官の軋轢は、いつしか緩和され、互いに信頼するようになったのは、この一席の皮肉な馳走が功を奏したのであった。



最終更新日 2005年09月29日 01時21分12秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三六 処士蕃界に入りて柯頭目を招降す」

三六 処士蕃界に入りて柯頭目を招降す
 将軍が総督として赴任した当時の台湾は、さながら百鬼夜行の体で、官吏の多くはほとんど誠意というものがない。官職を悪用して、火事場泥棒をしようと言うものや、漫然月給をもらうがために、机に向っている連中が多かった。それで交際という口実を設けて、酒池肉林に豪遊する、花柳界を荒し回る。したがって費用が要って、月給では足りなくなると、収賄という漬職事件が、ここにもかしこにも湧き上って、土民が怨嗟の声は、沙上の偶語となって、往々日本を怨むようになる。台湾は全く暗黒世界となった有様であった。そしていくらか嫉妬を加味した司法官は、その職権によって、不正な行政官を検挙したので、高等官や判任官が、続々として拘引され、勅任官さえも家宅捜索を受けるようなことになって、内地人の移住した者は、戦々兢々として人心に動揺を来す。在来の土民からは、日本官吏の威信を失墜して、清国時代を慕うようになる。その結果は、行政官と司法官との反目となって、手の下しようもない有様であった。
 児玉総督と後藤長官とは、土匪征伐より先に、この官匪を討伐すべく、在来の六県三庁の制度を廃して、台南、台北、台中の三県、宜蘭、台東、澎湖、恒春の四庁に改め、勅任官以下千八十人の冗員を一時に淘汰した。迅雷耳を蔽うにいとまあらず、青天の霹靂にも比すべきこの淘汰は、いかに台湾の官民を驚かしたであろう。淘汰員の中には、満腔の不平に堪えず、時の首相に上書して、その不法を鳴らした者さえあった。かかる大英断には、多少玉石ともに()かるる者のあるのは、是非もない運命である。かくのごとくして、総督府の官紀を振粛したる両雄は、新たに土匪懐柔案を立てたのである。
 土匪は実に台湾統治の患いであった。彼らの存在は、わが版図に帰してからではなく、清国時代より持て余したので、それがわが領土になってから、清国の敗残兵などが加わって、その澄乱の気勢を昂めるし、一方には統治上の方針が朝令暮改の有様なので、彼らはますますその威力を揮い始めた。いく度討伐を行っても、彼らはたちまち四散して良民と化け、わが軍隊が引揚げれば、すぐに剣戟を取る、実に飯の上の蠅のごとき者である。
 当時土匪の巨魁と目されていたのは、宜蘭地方の林火旺、林少花、林朝俊、これを林賊と称して、良民は悪魔のごとくにおそれた。台北付近には簡大獅、陳秋菊、林清秀、徐禄、鄭文流、台中には柯鉄、張路赤、頼福来、黄才、嘉義には黄国鎮、黄茂才、南部阿猴には、驃悍無比と称せられた林少猫がいた。その部下を数えたら、数千人にも及ぶのであるが、彼らは常に良民に伍して、市中に立派な店舗を有しているのもある。現に総督府所在地たる台北市中にも、土匪が散在しているが、巧みに仮面を被るので、容易に露顕しない。彼らが奪掠を行う時は、風のごとく来り、風のごとく去り、瞬く間に一部落を荒してしまう。急報に接して、巡査隊や憲兵隊が駆けつけると、敏捷なる彼らは、たちまち影も形もなく消えてしまう。この調子であるから、土匪討伐は(いたず)らに奔命に(つか)るるばかり、少しも功を奏さぬのであった。
 この時総督府事務官に阿川光祐という人がいた。かつて水沢県権大属(ごんだいさかん)を勤めた頃、給仕として坐右に使用したのが、時の海軍大臣斎藤実と、民政長官後藤新平とであった。人を見るの明ある阿川は、この二人の器大いに用うべしと、しきりに推輓した結果、一人は海軍大臣となり、一人は民政長官として、新領土を統治する偉才となった。
 老傑阿川は土匪掃蕩について、処士白井新太郎という慷慨の士と相議し、一つの招降策を案出した。それは単に威をもって土匪にのぞみ、討伐を事とするよりも、彼らも多少良心のあることだから、その頭領を理解して、投降させることにする。それは白井が三寸不欄の舌をもって蘇張の弁を揮い、単身説客の任を尽す。かくして帰順した者は、総督府で保護を加え、首領から部下全体を撮影して、一々姓名を記しておけぽ、再び背叛した時は、直ちに良民と区別して捜索することが出来よう。つまり写真入りの戸籍簿を作るので、かくして再度叛旗を翻えした者は、容赦なく死刑に処してしまうというのである。
 この案は困難ではあるが、たしかに名案なので、総督も長官も双手を挙げて賛成したが、それには官憲と土民との連絡たる通訳に不良の徒が多いから、まずそれを革新して、彼我の事情がよく疎通するようにした。
 かくのごとく手順をつけて、阿川、白井両氏の発案たる招降策を講じ、ある時は長官自身、土匪の群に投じて遊説することもあったので、彼らはかえって胆を奪われ、続々帰順する者が増して来た。
 ことに三十一年の七月に、巨魁林火旺一派の林を始めとして、陳秋菊、鄭文流、林清秀も投誠し、簡太獅、徐禄も帰順して、陳秋菊のごときは、その後石碇(せきてい)樟脳(しようのう)採取業を営み、巨万の富を積んでいるし、鄭文流も林清秀も、正業に就いて産を起した。
 しかし中部の四大頭目の一人たる柯鉄は、なお討伐の不便に乗じて、所在を奪掠するので、彼の過ぐる所、全村ことごとく空しとまで称された。豪胆なる白井新太郎は、この巨盗を招降すべく、孤剣飄然台中に向った。悲壮なる彼の意気は、壮士一たび去って(また)帰らずの概がある。
 白井処士が台中へ着いた時に、相識の仲なる憲兵隊長林忠夫は、直ちに官署に迎え入れて、柯鉄の所在を捜ることに尽力した。
 巨魁柯鉄の所在地は、ほどなく知れたけれども、それに近づくのは容易の(わざ)ではない。彼は十分の警戒を布いているから、迂闊に進めば、中途で必ず殺されてしまう。
 林憲兵隊長は苦心惨懽のあまり、ようやく柯部下を捕えて、(くら)わすに利欲をもってした上、さらに小頭目を誘い来らせ、百方利害を説いて帰順せしめ、この小頭目を案内として、白井処士を柯の山寨(さんさい)へ送った。
 名にし負う柯鉄頭目が籠れる隠れ家は、山脈起伏の間を縫うて、四十八坂の険がある狼穽鹿柴(ろうせいろくさい)こそはなけれ、要所要所に部下を配置して、(いぬ)の児一匹通っても、怪しと見れば、響きの物に応ずるがごとくに通達する。木も草も口なくしてささやき、岩や石が生あるもののごとく眼を光らしている。
 国家のために一命を賭して、鴻毛(こうもう)より軽しとする処士白井新太郎は、小頭目を案内(しるべ)とし、自若として敵の中へ入って行く、満身みな胆である、銃剣もこの胆を破ることは出来ぬと、彼の自信は鉄よりも堅い。
 地は()けて、土は灰となり、石は溶けんばかりに熱しているが、さすがに力芝は枯々に地を這っている。道とてはないが、所々に牛の踏んだ足跡や、煙草の吸い口などが落ちているので、わずかに人の通行したのを知るくらい、灌木生い茂る所に、甘蔗殻(さとうがら)で葺いた土民の家が見える、その家の棟の下には、獰猛豹より恐ろしき土匪が、血に飢ゆる刀を磨いているのである。
 山また山をようやく越えて、次第に奥深く入ると、茶畑が山の半腹に作られて、いささ小川の音立てて流るる所に、四五軒の人家がある。台中土匪の頭目柯大爺は、ここに巣窟を構えているのであった。
 小頭目は中へ入って、長らく話をしていたが、やがて柯大爺が逢うというので、白井はわが事成れりとうなずきながら、闊歩して進んだ。通訳の土民が顔色は、死せるがごとく青い。
「大人は我らに何事を教えんとて来られしか」
 (だつ)を排して現われたる柯鉄は、大兵肥満の大男で、(あかがね)の額、豺狼の眼、唇堅く引き結んで、すわと言わば擱み殺しもしかねまじき顔色である。
「否、我こそ御身に教えを受けんとて来りしものを」
 白井は空嘯(そらうそ)ぶいて(とう)の上に腰を下した。彼と我との間隙(あわい)三尺、一度躍れば懐の匕首(ひしゆ)は、直ちに彼の咽喉を咬まんのみ。「大王甲兵百万、しかも咫尺(しせき)の間、臣をいかんともするなし」の概がある。
「オウ大人の望まるるは何事なるか」
「我らが御身に問わんとするは、御身は日本の民なるか、はた清国の民なるか、その答を聞きて、我らの存ずる旨をも述べんと思うるにぞ」
 戦国の説客は、おもむろに長広舌を揮い始めた。
「わが身は台湾の民じゃ」
 柯鉄は長羅宇の煙管(きせる)で、泰然として煙草を(くゆ)らした。
「御身台湾の民にありながら、土匪の頭目として、台湾の民を苦しむるはいかなる仔細あるか、願わくば教えを受けん」
 柯鉄は目を光らして白井の顔を(みつ)めたが、声が咽喉に詰って、答うべき言葉がない。白井はここぞと身を揺すって進み出た。
「大爺不世出の才を抱きながら、土匪の頭目として朽ち果て、ついには捕獲されて、空しく刑戮に就くを、わが総督は深く惜まれ、我らをして御身に説かしめんとしたまう。総督は御身を敵とする者にはあらず。御身さえ心を改めて帰順せば、既往はすべて咎めず、安心の地を宛行い、日本の良民たらしめんと思わる。すでに宜蘭の林火旺一族、台北の陳秋菊、林清秀、皆王化に浴して、後ろやすく一生を送りつつあるを、御身は風説に聞かれつらん。我ら総督の意を帯して、遥々(はるばる)御身を勧めんとしてここに来たる。御身は帰順の後、欺むいて伐られんなどと疑うべきも、疑いはわが疑いの心より出づ。仁義の国に偽りはなきものを、欺いて御身を殺すべくんぽ、我らが懐にこの刀あり、この短銃あり、御身の命はここにても断たれん、いかで遠く台北へ御身を導くべきか。されど日本は仁義の国なり、好んで人の命を断つ者にあらず、この刀、この銃は、我らが身に危難の及ばん時の護身の具なるぞ」
 快男児白井はガラリと武器を卓上に投げ出した。信を敵の腹中に推す大胆不敵の有様。に、さすが獰猛の柯大爺も胆を奪われ、日人の恐ろしきを覚るとともに、彼は白井の力説に服して、誠意を(ひら)いて恭順したので、他の三大頭目たる張路赤、頼福来、黄才らも続いて降り、三十三年から三十四年までに、土匪は全く(たいら)いだ。
 わが官憲で捕えた土匪の数は八千三十人、その中で頑強にして到底帰服せぬ徒輩三千四百七十三人を斬ったので、始めて到る所に長閑(のどけ)き春の日足を見ることが出来た。



最終更新日 2005年09月29日 15時36分02秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三七 敗残の勇将総督の仁慈に感泣す」1

三七 敗残の勇将総督の仁慈に感泣す
 土匪招降策の着々として成功しつつある時、清国敗残の勇将劉徳釈が、拔山蓋世(ばつさんがいせい)の勇も朽ちて、ついにわが憲兵隊の手に落ちた。
 勇将劉徳釈、彼は清国の領土たりし台湾の末路を飾る豪傑であった。時事みな非にして、墳墓の地は敵の手に帰し、落日空しく沈んで、孤島外援の一兵なく、四面楚歌の声を聞きながら、祖国のために骨を沙場に埋めんことを期したる彼は、四百余州唯一の真男児である。我を苦しめたがために、彼の忠烈を憎むは、神州男児の潔よしとせざるところである。
 徳釈は清国の上将にして、名将劉銘伝の一族であった。清仏事件の時、銘伝が台湾に拠って、仏国兵を苦しめたごとく、彼は台湾を守って、わが兵を拒んだ。
 彼は台湾鉄道の建設と経営とに従事して、部下の兵士を(ろく)し、工事を監督して、ほとんど完成の域に達せんとする頃、わが(くに)に引渡さねばならなくなったので、彼は天を仰いで、無念の血涙をのんだ。
 倭兵(わへい)何程の事かあるべぎ、彼は決然として、その兵を動かし、阿猴(あこう)の険に拠ってわが乃木師団を邀撃したが、破竹の勢いをなせる日本兵は、ただ一挙に彼を撃退したので、再び卑南に敗残兵を集めて、必死の抵抗を試みたけれども、南風競わず、戦うごとに破れて、部下の兵みな潰え、彼は辛うじて重囲を突破して脱出したのである。
 爾来軍隊として兵を組織する力はなかったが、土匪と気脈を通じて所在に出没し、再挙の企てを怠らなかった。彼は惰弱の兵勇を(ひつさ)げて、日本兵に対抗されぬのを知ってはいるが、一片稜々たる敵愾心は、むざむざ台湾を敵に渡すにしのびない。最後の一人になるまで、悪戦苦闘を続け、刀折れ矢尽きて、潔よく屍を戦場に曝そうと思ったのである。もし逃げて清国へ帰るべくんば、彼はとくに船便を求めたのであるが、忠義の鬼とならなければ、何面目に故国に帰らんやと、(まなじり)を決して彼蒼(ひそう)を睨む時、天日ために光を(つつ)むかと疑われた。
 しかし次第次第に勢いがちぢまって来た。無二の味方と恃む土匪の頭日は、夜明の星の消ゆるように、次第次第に降服し、唇亡びて歯寒ぎ思いに、夜もおちおち眠られぬほど、木にも草にも心を置かねばならぬ身の、哀れはかなき命運は迫った。
 あわれ世にありし時は、台湾防備兵団の上将として、飛ぶ(とり)おとす権威は、よく仰ぎ見る者すらなかったが、今は同じ台湾にありながら、三尺の膝を容るる隠れ家もなく、天に(せき)し、地に(きよく)し、桐の一葉の秋立つにも追手かと驚かされ、臥薪嘗胆の苦楚(くそ)()めつつ、回天の謀を画するうちに、利欲に眼暗みし部下の兵士のために、居所を訴えられて、彼はわが憲兵のために捕われたのである。
 戦いの罪にあらず、天我を亡すなりと、憮然として浩歎した徳釈は、台中の獄舎に囚われて以来、運を天に委し、自若として顔色をも変じなかった。刻々として彼の前に迫り来る者は、ただ死を司どる悪魔の手があるばかり。彼は瓦となって全からんよりは、玉となって砕けんことを期していた。
 誰訪う者もなき獄舎の窓に落入る日光(ひざし)を眺めながら、薄れ行く命を、おぼつかなく数うる鐘の音を聞いて、思いを故国の妻子に馳せると、英雄の心緒乱れて麻のごとく、悶々の情に充ちた眼は、怪しく輝いて、満身の熱血は湯よりも熱くなると同時に、ハッと我にかえった彼は、死を決した覚悟の乱れを恥らうように、黙然と腕を組んで、椅子の上に胡坐した。
「劉大人」
 聞き馴れぬ声が死したような静けさを破ぶるのは、心の迷いであろうか。彼は(かすか)に黙想より覚めて、牢獄(ひとや)の格子から覗うと、支那服を着けてはいるが、眼に鋭い光りある巨漢が、口許に微笑を湛えて立っている。その周囲には憲兵が二人ついていた。楚囚となって、神経過敏の劉徳釈は、この支那服が紛れもなき日本人なることを観破すると同時に、その使命が自分の命を、はかなき世の中から、頼みなき闇の底へおとすものであるなと直覚した。
 憲兵の手によって、ガチリと(じよう)を外された戸口から、客はつと中へ入って、西洋流の握手を求めた。
「劉大人、(それがし)は日本の処士白井新太郎という者じゃが、総督府の允許(いんきよ)を得て、御身を台北へ迎うるために参りしぞ」
「拙者を台北へ伴うと言わるるか」
 覚悟極めし彼の眼にも、不安の光はキラリと輝いたが、その瞬間にたちまち平静に復して、莞爾として笑った。
「しかり。総督閣下が御身を接見せんと言わるるより、(それがし)は御身をかしこへ伴わんがために参ったのじゃ。……案じ給うな、御身に辱しめを与うるがごとき総督にあらねば」
 劉は黙して首肯(うなず)いた。わが運命はここに決したのである。倭の総督は自らわが罪状を鞠問(きくもん)して、断頭台に送るのであろう。
 死はもとより望むところである。我は清国の武官として、なすべき義務をなし尽したる上なれば、俯仰天地に恥ずるところはない。勝敗は数のみ、また誰をか怨みんや、劉徳釈は死によって、双肩の重荷が下りるような心地がするのである。
「劉大人、寛仁大度なる児玉総督は、御身を面縛台北に護送するは、御身の痛苦なるべきを察し、特に某をして迎えに来させられたのじゃ。御身は名誉ある清国の武将、狗盗鼠賊のごとく途中みぐるしき逃走を企つることなきを確信すれば、(それがし)は安んじて御身と同行し得るのじゃ」
 白井処士は洒々落々として、信を敵に推して疑わぬのである。
 敗残の俘虜をも、国士として遇する日本官憲の徳に、自尊心の強い劉徳釈は、心から喜びの浪を漂わした。士人の面目を保って刑につけば、死もまた余栄がある。
 しかしたとえ白井処士が、特に総督の情によって護送すると言っても、畢竟罪人である。
 倭国のために深仇たる自分に、寛大極まりなき取扱いを与えようとは、夢にも期さなかったのに、台北へ着くと、獄舎にはあらで、竜山寺の僧房に、普通の雲水だも遇い難い待遇を受けて、安らけき夢を結ぶことが出来た。
 竜山寺は台北の梵刹(ぽんせつ)として、由緒の深い寺である。かつて世に在りし昔に、しばしばこの付近の勝をさぐって悠遊した時には、前駆後従を付し、輿に乗じて往来したが、いまは囚人となって、この寺に宿泊するをさえ光栄と思うに至った。我ながら衰えたるかなと、徳釈は寂しげに苦笑(にがわら)いして、何心なく■(びかん)を仰ぐと、劉銘伝の書が掲げられてあったので、徳釈は赧然(たんぜん)として正視することも出来ず、(まなこ)をあらぬ方に落して黙然と腕をこまぬいた。銘伝はわが族にして古今の名将、しきりに仏国の艨艟(もうどう)を苦しめ、ついに敵将クールベーを憤死せしめた人である。自分はその一族として同じく台湾を守りながら、百戦百度破れて、形影悄然たる有様は、淋漓(りんり)たるこの墨痕にも恥かしくはないかと、彼は思わず悲憤の涙をのんだ。
 あくれば九月二十九日、彼が白井処士に伴われて、総督官邸に赴いたのは、夜の八時であった。皎々たる月色は、この哀れなる敗将の影を大地に投げて、夜気冷かに衣袂(いべい)に透る時、丈なす紅竹の葉陰より洩れる笛の音は、むせぶがごとくに断続して、万里征人の腸を断つ。
 この清い秋月を仰ぐも、今を限りと思えば、徳釈は満面に隈なき光を浴びて、自若として官邸の玄関に立った。自分を法廷へも立たせず、刑場へも送らずして、夜陰に官邸へ伴い来ったのは、ひそかに刑せられるのであろうと思ったのに、堂々と玄関より迎え入れられたので、彼はますます不審に思った。
 賓客を迎うる応接の間とみえて、中央に楕円形の卓子(てーぶる)を据えた広々とした西洋室、室内は眩きまでに飾られて、装飾燈は白熱の光を放ち、昼よりも明らかに照らしている。



最終更新日 2005年09月29日 21時23分28秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三七 敗残の勇将総督の仁慈に感泣す」2

 荘厳なる室の一隅に、徳釈は屹然として起立していた。彼は死の瞬間に至るまで、清国武人の面目を傷けまいと思うのである。
 水を打ったように静かな室に、コトコトと聞ゆる靴の音は、さすがに徳釈の胸を躍らした。扉は突然開かれ、軍服の胸にただ一個、勲一等の副章を着けたばかり、瀟洒たる風采の総督は、通訳と秘書とを左右に従え、何の警戒もなしに、卒然この室内へあらわれたので、徳釈は事の意外に驚かされ、思わずヒヤリとした。刀槍の林に囲まれても、ビクともせぬ彼ながら、身辺に一兵をも従えずして敵に会する、総督の大胆なる挙動にはかえって気を呑まれたのである。彼は思わず(かしら)を垂れた。
「御身が聞こゆる劉徳釈か、予は台湾総督の児玉じゃ。予ぱ御身の孤忠を哀れに思いおるのじゃ」
 意外に意外を(かさ)ぬる徳釈は、またしても意外の言葉に打たれて、とみに答えが出なかった。
「御身は清国の武官なりと言うが、官職は何を奉ぜられしか」
「貴国の陸軍少将に相当いたすべきか」
 彼はわずかに(おもて)を起した。無量の感慨に打たれた眼は、赤く充血している。
「オゥ御身は少将なるか、予は陸軍中将にして、総督を拝する身じゃ。御身も予も、ともに軍籍にあれば、御身を少将相当官として待遇したきも、わが法規の許さざるを悲しむ」
 腹の底へ滲み渡るような言葉は、徳釈の心の琴線に触れて、鏘然(そうぜん)として声あるごとくに響いた。
「御身の生国はいずくなるか」
安徽省滬台子(あんきしようこだいす)の産」
 彼は問いに答うるほか、多くを語らない。
「定めし本国には妻子もありつらん。その後消息を通じつつあるか、御身の妻子は、御身の安危に心を傷めおらん。……何年の頃より台湾へ渡られたるか」
 涙ある総督の畳みかけたる問に、さしもに猛き徳釈も、思わず胸が張り裂けるばかりになった。英雄は常に涙がある。戦敗ののち世をも人をも忍びて、坎珂流落(かんかりゆうらく)する間に、一念故国に思いを馳せると、最愛の妻と子が、門に()って自分を待つ姿が、彷彿として眼底に泛んで来る。ある時は走って故国へ逃れようかとも思ったけれども、最後の一人になるまでこの台湾に踏み止まって、日本に抵抗するのが、天より受けた使命である、私情に牽かさるるは、大丈夫の行いではない。彼はこう考えて、熱涙を呑んだのが、今総督から妻子のことを問われて、その(はらわた)()じ切られるほど苦しい。
某軍(それがし)職を帯びて渡台せるは七年前、郷里には古稀に(なんな)んたる老母もあり、また妻子
も残し置きたるが、四年以来各地に輾転流浪し、風に櫛けずり、雨に(よく)し、あるいは人跡絶えたる山中に眠り、あるいは身を乞丐(こつじき)の群に投じ、一片報復の丹心を抱く心から、全く音信を絶ち、今は彼らの生死さえ知る便宜も候わず」
 彼の眼は怪しく曇った。そして握り固めた拳は、ワナワナと顫える。
「オウそれは不憫の限りなるぞ。御身の胸中の苦痛は、予も同情の念に堪えぬ。……速やかに書信を発して、故国の家族に御身の無事を知らせられよ」
(それがし)に書信を許したまわるか」
 彼は思わず眼を(みは)って、総督の顔を見つめたが、たちまち俯面(うつむ)いて、(あられ)のような涙をホロリと落した。彼は情に脆い男である。敵の総督よりこの優しき言葉を聞いて、感謝の念が溶けて湯のように筋骨を流れたのである。
「書信を許すのみならず、御身の一身をも許さんと思うぞ」
 さらにさらに意外の福音を聞いて、彼は夢に夢見るごとく(もう)として自他を弁じ得ないほど、唖然としたのである。
「御身の処置については、さまざまの説ありたれども、予は総督の職権をもって、御身を(ゆる)して故国に帰らしめんと思う。御身のごとき忠烈なる義人は、清国四百余州広しといえども稀に見るところである。予は忠義の士を殺すに忍びぬのじゃ、一日も早く国に帰りて、本国のために忠節を尽されい。今わが国と清国とは平和克復したけれども、百年の後再び国交を破ることもあらば、御身は今日までのごとく、干戈(かんか)を取って予に(まみ)えられい」
 徳釈は感極まって、卓子(てーぶる)の上に俯伏した。
「今日以後御身は罪囚にあらず、(たつ)とむべきわが友である。さらばわが友」
 総督は莞爾として、驚く徳釈の手を握った。彼は体戦(たいおの)のき、唇顫えてワナワナと声さえ出ない。
 死を決したる徳釈は、ただに一命を助けられたのみならず、罪を許されて自由の身となった嬉しさに、矢竹心(やたけこころ)も朽ちて、この総督のためならば身命を賭しても怨まずと、深く心に誓った。
 やがて給仕(ぽーい)の持って来た葡萄酒は波々と酌がれ、総督は寛々(かんかん)と打ち解けて、徳釈の経歴を問い、孤忠の苦節を賞した。
 かくのごとくして、総督の武士的仁恵から、彼は青天白日の身となったのみならず、新衣を恵まれ、金品を与えられ、便船に搭じて、対岸厦門(あもい)へ送られた。
 彼は(とし)四十九、驅幹偉大なる美丈夫で、沈毅寡黙の真男児であった。彼の国を挙げて不忠不義の賊多き中に、身を国家に致して忠を天に捧げたのであったが、今や総督の高風に感じて反溌の意気も鎖磨(しよへつま)し、心から総督に帰服したのは、彼の大をもってして、さらに総督の偉なるを想わしめる。
 彼はこの時の恩を深く感じ、総督のために何事をか酬いんと、堅く心に期していたが、その後北部の大討伐の時、巨魁簡大獅を始め、多くの匪徒が、相前後して厦門(あもい)へ逃れた、この時彼は福州にいたが、遥かに書を総督に寄せて、活命の恩を謝すべく、匪徒捕縛の任に当らんことを願って来た。その文意に、「僕さきに閣下のために万死の罪を許され、郷里に帰ることを得たり、幸いなるかな、老母妻子皆健在して、僕の家門に入るを見て、一度は幽鬼の人間にあらわれたるに非ずやと疑い、僕のつぶさに状を告ぐるに及び、泣いて閣下無量の高恩を拝謝したりき。この恩報ずるなくんば、人間の道全く廃せられん、僕居常閣下のために酬いんとして、空しく拱手(きようしゆ)してなすなきを恥たりしが、今や匪徒の討伐に当り、かの輩海に航し、逃れて厦門に入る者多く、再び不軌を謀ると聞く、僕往日の恩に報ずるの(とき)来れり。願くばかの徒輩を一網に打尽して、これを閣下の轅門(えんもん)(もた)らさんとす、幸いに允許(いんきよ)を得ん」と、赤心をこめて(したた)めてあった。
 総督はこれを披見して、彼の尋常支那人的忘恩の徒と、選を異にするのを喜んだが、もとより許諾すべきことではないから、横沢秘書官に命じて、直ちに返簡を認めさせた。
「牒状の意は総督深くその誠意を喜ぶといえども、わが為政のことをもって、これを外邦の臣に托すべきにあらず。卿が報恩の衷情(ちゆうじよう)は、総督よく諒とすれども、不幸にして卿の意を准許する(あた)わず、幸いにこの意を帯せられよ」
と、この書が彼の手に入った時、彼はますます総督の高義に感泣し、日夕総督の写真に礼拝するを怠らなかった。



最終更新日 2005年09月29日 23時35分09秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三八 台湾神社を奉祀し明治橋を架設す」1

三八 台湾神社を奉祀し明治橋を架設す
 台北の北にあたり、乳虎の(ぐう)を負うて(うそ)ぶくがごとく立てるは、音に聞こゆる剣潭山である。これぞ(みん)末の英雄延平郡王朱成功(しゆせいこう)が、台湾を平定した時、剣を懸けてこの山上に憩いたるより、誰言うとなく剣潭山と呼んだ。
 山の上から台北平原を見渡すと、基隆河(きいるんが)は金波銀波を漂わして、錦の帯を洗うがごとくに流れ、淡水河は滔々として林を縫い、(おか)(めぐ)り、欹帆(きはん)を水に浸しながら、緩く流れ去る。水牛の渇を恐れて、緑草(あおくさ)を慕う影に、紅や瑠璃の羽衣麗わしき鳥は、木から木へ飛び交わす。蠻舎の煙は迷うて動かず、胡歌の響は幽かに足下に起る。神代ながらの桃源か、花の奥なる遊仙の窟かと疑われる景色は、絵にも尽せない明媚な眺めである。
 この山の半腹に、檜や樟の葉を交し枝を重ねて、森厳の気したたらんとするところに、台湾神社は宮居浄らけく鎮められる。
 台湾神社は故北白川の宮能久親王殿下を祀れる所で、宮造りの神々(こうごう)しさは、遊子も襟を正して敬虔の念に打たれ、何事の御在(おわし)ますかは知らねど、そぞろに(かたじけ)なさの涙を(とど)めあえない。
 殿下は台湾征討の時、中将をもって近衛の禁軍を()べ、清国の守備隊や土匪を撃破し、しきりに兵を進められたが、敵を台南に圧迫せらるる時に、瘴癘(しようれい)の気に侵されて、金枝玉葉の御身を、土民の茅屋(あばらや)(こう)ぜられたのである。
 古えの小碓命(おうすのみこと)が東征より凱旋せられて、伊勢の能褒野(のぼの)に薨ぜられたるに増して、悲痛限りなき御有様を、永く記念(かたみ)に止むるとともに、英烈なる宮の神霊を、新領土の鎮護と仰ぐべく、台湾神社と崇めたのである。
 始め神社の霊域を定むるために、建設委員が会議を開いて、異口同音に剣潭山を選んだが、この地は樺山総督の時代に、領事館の敷地となすべく、仏国政府に貸与の契約が成立してあったことを発見した。本来ここへ外国の領事館を設け、高塔を建てたならば、駿河台のニコライ会堂が、直下に九重の宮居を瞰下(みおろ)すように、総督府城は絶えず覗われる。体面上としても、不都合の限りながら、その頃の当事者が、将来の観念もなく契約してしまったから、今更変改することが出来ぬので、空しく憤慨を止めながら、他に適当の個所を求めることとなって、現に台北の公園となっている円山とすることとなった。そしてかれこれする間に、児玉総督の入府となって、総督自身景勝を踏査して見ると、誰も異論を唱える者のない剣潭山よりほかに霊地はない。
「なぜ剣潭山を捨ておいたか、かしこに優る場所はほかにあるまい」
 総督は建設委員が揃いも揃って、地形を(ほく)する鑑識がないであろうかと呆れた。
「ハイ、剣潭山は第一の候補地でありましたが、残念ながらかしこへは建築いたされません」
 委員の一人は、鞠躬如(きつきゆうじよ)として答えた。
「なぜ出来ん。土地が汚れておるのか」
「いえさようではありませんが、あすごはもはや仏国領事館に貸してございまするで」
「なぜ無暗に貸与したか、あれを外国に貸したら、一目に台北城内を俯瞰されるではないか」
 総督は少しいきまいて、委員の答えを待ちかけた。
「ハイ、樺山総督時代に契約をされましたので、幸い未だに建物を造りませんようにございますが」
「造られてたまるものか。よろしい、乃公(わし)の方からフランスへ談判して、破談にしてしまう。ほかならばよいが、あすごを外国の治外法権に委せることは出来ぬ」
 総督は不満な心を押えて会議を閉じたが、直ちに仏国領事館に使者を送って、剣潭山を譲り戻されんことを要求した。
 先任者の時代とは言え、一度許した所を、また取り上るというのは、いかにも朝令暮改のきらいがあるので、総督はさすがに命令を発しない。ただ懇談的に解決しようとしたのである。
 総督の旨をもたらした秘書官は、領事が承諾してくれればよいがと思い煩いつつ、仮領事館を訪問して、主客の座が定まった。
「貴官に総督からご依頼の筋があって、私がまかり出ましたが、ご承諾にあずかれば、私の光栄であります」
 改まった言葉に、領事は不審の眉を寄せた。
「何ごとでありますか。私こそ総督閣下からご依頼を受けることを光栄といたします」
 さすがに本場の外交官だけあって、辞令に巧みであるが、今に用向きを聞いたならば、余り光栄ではあるまいと、秘書は心ひそかにおかしく思いながら、自己の任務の困難を連想した。
「突然ですが、台北の北方にある剣潭山です。あすごは貴国の領事館を建設されるはずで、先代の総督の時に、ご用立てのお約束はあったのですが、未だご建築にもならず、かたがた他に適当な替地を差し出すことにいたしまするで、あの土地を一時お譲り下さるわけにはならんでしょうか。……もちろん私は非公式で、貴官にご依頼のためご面会を願ったわけです」
 秘書は領事の顔色いかにと、ひそかに様子を覗った。
 台湾通をもって聞えた温厚な領事は、半白の頭を傾けながら、黙って秘書官の言葉を聞いていた。
「次第によれば……しかしいかなることに剣潭山をお用いになりますか」
 領事がまだその官署を建築しないというのは、一時望んで借り受けたものの、後になってみると、高い山の上で、町から奥へ偏るので、住宅としては適切だが、領事館としては好ましい地形でないために、未だに建築に着手せず、依然仮館で事務をとっているから、ほかに満足な替地さえあれば、こちらから望んでも交換したいのを、彼は(おくび)にも見せないで、まず用途から聞いた。
「貴官も長くこの地に在勤せられるので、あるいはお聞き及びもありましょう。弊邦が台湾を授受した当時、北白川宮が軍旅におわして、不測の病のために、台南で薨去せられました」
「オゥよく知っています。殿下は近衛の師団長として、英邁な皇族におわしたが、空しく天に帰られたのは、外臣たる私まで、ご哀悼申し上るのであります」
「日本人が皇室皇族を尊み、神聖侵すべからざるものとして仰ぐのは、先天的の国粋でありますから、殿下が台湾の陣中に薨ぜられたことは、臣民一同悲痛な歎きを、心の奥へ刻みつけられて、しばしも忘れることが出来ません。せめての心床(こころゆか)せに、日本の宗教における神として祀るべく、台湾に一個の神社を建てるについて、是非剣潭山が適当でありますから、この事情を具して、かの地を貴官から譲り受けることが出来れば、台湾住民はもとより、日本国民の喜びであります」
「神社、神の礼拝堂を建てられるですか」
「そうです。日本人民が皇室を尊ぶ熾烈な感情をお察しの上、お許しは願えますまいか、これは総督が懇談的に、貴官の義侠的な道義心に訴えてお願いするのです。貴官が不賛成ならばそれまでですが、貴官のように、我々日本人の大和魂を知る方は、必ずご承知下さろうと思います。その代り領事館として、便宜な土地を提供しますから、剣潭は是非お譲りを願いたい。日本人民の衷情は、低湿な土地に神霊を祀って、神の威徳を贋すに忍びませぬ。それ故今日まで、神社を建設しなかったのですが、もし剣潭山を貴官から許されれば、日本人民は貴官の高徳に感じて、永久に貴下の義侠を忘れませぬ」
 秘書官は熱心に説き立てたので、領事も少なからず心を動かされた。
「よろしい、かほどまでに言われるならば、私の名誉にかけて、剣潭山をお譲りいたそう。宮殿下の在天の御霊も、景勝の地をご満足あらせられるでござろう」
 領事はたやすく承知したので、台湾神社はいよいよ剣潭の(みね)に奉祀することとなり、台北の官民は双手を挙げて喜んだ。



最終更新日 2005年09月30日 08時46分59秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三八 台湾神社を奉祀し明治橋を架設す」2

 神社の造営について、最も必要なるは道路の修築である。剣潭山の下を榮流する基隆(きいるん)河の架橋は、国道に当れる士林街道随一の大工事である。この橋は明治二十九年の大洪水の時に、矢のごとく流れ来る材木のために襲われて、橋杭の半ばより折られ、橋梁はことごとく流失してしまった。それ以来はわずかに旧式の渡船で来往するという不便な有様なので、この架橋工事は久しく総督府の宿題になっていたが、何分にも河床の遊泥が深くて、多額の費用を要するため、かるがるしく着手することが出来なかった。
 しかるに剣潭山が台湾神社建設の敷地となると、今日のような不完全な渡船では、祭祀参拝その他に、非常な失態を生ぜぬとも限らぬし、第一無数の群集のために、不便と危険とが一通りでない。この際是非橋梁を架けたいというので、総督は無雑作に、その経費を台湾神社建造費の予算中に編入させてしまった。
 その予算書が内務省へ回付されて、社寺局や台湾課の調査となると、驚くべし国道の橋梁が、神社費に入っているので、局員は唖然として呆れた。
 おそらくこんな乱暴はない。神社費は神社に要する設備に対する費目であるのに、国道の架橋費を混同させるのは乱暴であると、その説明を総督府へ求めたのは、むしろ否決的の意味を含んでいた。
 通牒に接した総督は、折から上京中であったから、何食わぬ顔で本省へ出頭すると、果して架橋問題が話頭に上った。
「どうも困りましたな、基隆河の架橋費を神社費にお組み込みでは。……調査上少し当惑いたします」
 次官や書記官は、相手が威名隆々たる台湾総督だけに、なおさら持ち扱うらしい。
「ハテ、なぜじゃろうかなあ」
 総督はどこまでも空惚(そらとほ)ける。
「あの橋は国道に架設されますもので、特に神社のためではござりませぬから、どうぞ国費の方でご支弁が願いたいので」
「それはたまたま台湾神社の位置が、国道の橋を渡らねばならぬ所にあるからじゃよ。そのようにケチケチするものではない。君らの今の若さで」
 人の悪い総督は、空嘯ぶいて笑っている。
「自体国道の橋と思うからいかんじゃ。神社の橋を国道に貸してやって、一般の公衆に渡らせると思えばよろしい」
「どうも困りましたな、どうかその辺は何とかなりませんでしょうか。一体三の華表(とりい)以内の物でなければ、神社用と認めぬことになっておりますから」
 事務官らは弱りきっている。
「ウムそうか、それなら早くそう言えばよい。そういうことなら、乃公(わし)の方もかえって都合がよいのじゃ」
 総督がにこにこうなずくので、事務官はもしや勘違いではないかと危ぶんだが、聞きただすこともならぬから、互いに顔を見合した。
「三の華表(とりい)以内ならば、神社費でよろしいのじゃな」と、総督は念を押した。
「そうでございます。……そういうようなことになっておりまするで」と、気の毒そうに言う。
「よろしい。それでは台湾神社は台湾唯一の官幣社で、台湾の守護神じゃから、三の華表(とりい)は、今度基隆の埠頭(はとば)へ建てることになるから、基隆以内の道路の修築や土木工事は、すべて神社費でやってくれ。それで乃公の方も大いに助かるというものじゃ。……いやお世話じゃったな」
 あっと(あき)れて、開いた口の塞がらぬ事務官を見向きもせず、総督はさっさっと帰ってしまった。
 毛を吹いて(きず)を求めた事務官は、基隆埠頭へ三の華表(とりい)を立てられて堪るものではない、大慌てにうろたえたが、うまうま総督に言質を取られたので手も足も出ない。ようやく大臣から頼んでもらって、架橋を神社費に編入することにしてけりがついた。これが今台北より剣潭に通ずる虹霓(こうげい)のごとき鉄橋で、明治橋と命名されたのである。
 この工事が着々として進行する一方に、台南の殿下ご終焉の地も、古跡として保存する必要があるから、南部巡視のついでをもって総督は三十三年の十一月十六日に、殿下のこ遺跡を探った。
 兵者(つわもの)どもが血を湛えた夢の跡は、八千草離々として、狐兎昼走り、山河空しく存して禾黍(かしよ)秀でる漸々の趣きがそぞろに当時を偲ばせるので、英雄の心腸うたた寸断せんとするの情趣は、彷彿として横たわっている。宮御終焉の跡は、昔ながらに残ってはいるが、暗澹とした(むさく)るしい建物の、すでに軒傾き、(ひさし)に草むしてようやく膝をいるるほどの室である。いかに軍旅のうちとはいいながら、竹の園生(そのう)の尊き御身を、はかなくもこの地の露と消えたまいぬることを追懐すると、並いる人々も暗涙のせぐり来るのを禁じ得ない。
 しかしこの記念すべき家屋は民有なので、これを買収させることにし、ここに台湾神社の分社を建て、台南物産陳列所を設け、宮御終焉の家屋は上屋を設けて、雨露に曝されないように、永久の保存法を講じさせた。
 しかるに没趣味なる当事者は、石燈籠の苔を磨き落すと一般の愚を演じ、内部こそ幸いに元のままであったが、外回りを改造し、入口を付け直し、屋根の瓦は本磨(ほんみがき)と葺き替え、壁を塗り直しなどしたので、総督が遺蹟保存の趣旨は、散々に滅却されてしまった。
 しかし昔ながらの狭き室には、亡き宮の召されたる土民用の竹輿、陣中用の粗末な赤毛布(けつと)など、当時宮のこ身辺に着けさせられたる品を陳列したのは、なお当年の(おもかげ)を偲ぶべく、三十四年の十一月、台湾神社鎮座式に参列せられたる妃殿下は、ここに宮のおわしつる跡を弔わせられて、御涙堰きあえず、国風一首をお名残りに止めさせられた。
 かかる間に台北剣潭の台湾神社は着々として工事も進行し、さしもの大工事たる明治橋も出来上ったので、鎮座式の下検分として、総督自身臨検されると、何事ぞ、日清戦役当時に鹵獲した砲を二門まで、二の華表(とりい)内の高地に飾り、砲口を台北に向けて装置してあるのを見て、
「何じゃ、尊き神霊の前に、大砲とは何のことじゃ、台湾を治めるのに、以来武力をもちいることはないのじゃ。このような児戯に類したこけおどしの凶器は、神威を漬すし、また土民統治上にもよろしくない、早速華表(とりい)の外へ出してしまえ」と、総督は眉をひそめて訓戒した。
 以来例祭を月の二十八日に執行することに定め、総督始め官民は、挙って参拝するようになって、神威とこしえに崇高をかさぬるのである。



最終更新日 2005年09月30日 12時09分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「三九 台湾名物禿八百屋の命名親となる」

三九 台湾名物禿八百屋の命名親となる
 明治三十一年の十月、秋とは言えど、燃ゆるばかりの暑さに、花崗石(みかげ)甃石(しきいし)も、鉄の(しがらみ)も、爛れて(とろ)けるような炎熱をおかして、仁済院義金取扱所へ入って来た薄汚ないみなりの男があった。係員を見て、恐る恐る被り物を脱ると、まだそれほどの齢とも思えぬに、頭は赤薬缶(あかやかん)に禿げて、わずかに三四本の毛を後ろの方に残すばかり、ところどころに生毛(うぶげ)のような短い毛があるのは、湯気の立つのかと思われる。
「何だ、おまえは」と、横柄な係員は、難かしい顔つきで見おろした。
「へー、手前は北門街で、小さい混堂(ゆや)をいたしておる者ですが、仁済院の義捐金(きえんきん)のことを伺いまして、どうか手前にも義捐をさせていただきたいと思いますので」
「ああ、おまえが義捐金を出すと言うのか」
 係員は意外な思いで少し(おもて)を和らげた。
「へーさようで、どうかお手数でもよろしく願います」
「イヤそれは感心だ。いくら持って来たのだ」
「エー手前は、十円八十銭寄付いたしたいので」
「十円八十銭」と、係員は妙に端金(はした)をつけるものだと、小首をひねった。
「さようで。……今月から月々三十銭ずつ、向う三年間月賦にいたしたいと存じます」
「月掛けか」
「ヘェ、今度の総督様が、仁済院を再興なさる思召ということで、手前も涙が出るくらい有難いので、ナニ金さえありゃ、百万円も千万円も一手で寄付するんですが、ありそうに見えてないのは金、手前なぞは、なさそうに見えてないんですから、歯切しり噛んでも追っ付きません。そこで三十銭ずつの月掛けをお願いいたすような次第で」
 朴訥で慇懃らしく見えても、人を人とも思わず、煮ても焼いても食えぬ皮肉者らしい。「それは月賦に取り計らわんこともないが、一つ相談して見ねばならん」と、係員は顔見合せて、面倒そうに眉を寄せた。
「手前のは貧者の一燈とか申しまして、これでも汗水垂した金で、小判の耳でございます。長者の万燈よりも、手前の一燈の方が、マア赤心(まこころ)こめたと申すようなもので、どうかよろしくお願いいたします。義捐金は志でございますから、百円千円出したって、おつきあいでいやいや出す老よりは、こっちの方がどのくらい慈善になるか知れません。ヘエ、どうかよろしいように」
 ひとりしゃべり散らして帰って行く。後に係員は顔見合して、不思議な薬缶頭の、テラテラ輝やぎ行くのを見送った。
「妙な奴だな。少し()れているんじゃなかろうか」
「あいつは君、台北名物の大薬缶と言ったら有名な者だよ」
「ウン、混堂(ゆや)で八百屋を兼業にしている変り者だろう。……三十銭ずつの月賦とは皮肉なことを言う奴じゃな。……ああいう奴だぞ、いつか警察で二十銭の科料(かリよう)を、二銭ずつ日掛けで持って来て叱られたのは」
 係員も剽軽者(ひようきんもの)の月賦を、自ままに取りはからうわけに行かないので、発起人会長たる総督に始終の話をすると、
「そいつは面白い奴じゃ。一つ乃公(わし)が逢ってやろう、来るように言いなさい」
 総督になっても、性来いたずら好きの皮肉な凸坊は、いわゆる同気相求むる思いがして、変り者の混堂兼八百屋の大薬缶を引見した。
「これは総督様でいらっしゃいますか。どうもじきじきお目通りが出来るとは、もったい至極もないことで」と、大薬缶は米搗き虫のように頭を下げた。
「コレ、湯がこぼれるからよせ」
 総督の不思議な言葉に、さすがの曲漢(しれもの)も、ケロリとして恐る恐る総督の顔を見た。
「薬缶をさかさにすると、湯がこぼれるではないか」
「ウエッ、へえ」と、大薬缶は不意の一撃を受けて、あっと首をちぢめた。
「おまえの頭は台北の名物なそうじゃが、どうしてそんなに禿げたのか、美事なものじゃな」
「どうも恐れ入ります。これは決してこの頃流行(はやり)の濫伐のためではございません」
「フム、濫伐でないは面白いな。……どうしたのじゃ」
「ヘエ、何でも手前が二歳の時のそうにございます。田舎のことでございますから、大きな囲爐(いろり)がございましたが、それへ落ちまして大火傷をいたしましたので、ただ今この老爺になりますまで、一生神無月になりまして、八百万の神が一つもいなくなりましたような次第で」
「そうか、それは気の毒じゃ。……おまえは八百屋をしておるそうじゃ。これから乃公(わし)の官邸へも出入せよ。八百屋物はおまえから買うことに言いつけておくから」
「誠に有難いことで、これが全く坊主丸儲けでございます」と、平気で秀句を言う。
「乃公が名をつけてやるから、これからそれを通り名とするがよい。誰にも解りやすい名がよかろう」
「ヘエ、有難い仕合せで」
 総督を命名親(なづけおや)に持つ八百屋は、天下広しといえどもほかにあるまい、彼はますます大得意である。
「禿八百屋が通俗でよかろう。台湾名物の禿八百屋で通せよ」
「どうも有難いことで、禿八百屋結構でございます」
「どうだ、気に入ったか」
「至極解りがよろしくって結構に存じます。……ええ、名をつけていただくと、(かたじ)けないことに総督様が命名親で」
「そうじゃ」
「そういたしますると、これから総督様を親分と心得まするから、手前は子分で、どうぞよろしくお引立てを」
 彼は台湾総督と親子の盃をしたつもりでいる。
「どうでもよろしい。……これから常住(しよつちゆう)出入りせよ。面白い奴じゃ」
 総督は彼の横着なところが、ひどく気に入ったのである。
 みすぼらしい混堂の親父で、八百屋をかねた彼は、総督から禿八百屋の命名を受けて、にわかに肩身が広くなった。三十銭の月賦は、命名親の税と思えば損はいかない。
 彼は(あく)る日すぐに店頭(みせさき)へ看板を揚げた。ペンキ屋の太文字は、台湾名物ハゲ八百屋の
九字である。
 この話が新聞へ出ると、禿八百屋はにわかに繁昌した。総督が命名親になった八百屋の禿は、どんな男だろうと物好きがわざわざ買物に来るので、彼の大薬缶はますます光を放った。そして安い品を買い出して来て、高く売るのであるから、彼の懐は大分暖かになった。
 台湾は果物の名所で、世界の果実王と呼ばれる檬果(まんこう)や、甘脆(かんぜい)溶けんとする鳳梨(あななす)や、婆裟(ばさ)たる葉影に累々たる甘蕉(ばなな)や、玉をかむがごとき竜眼(りゆうがん)茘枝(らいちい)[#「らいらい」とあり。]や、柑橘類が到る所に山と積まれるけれども、日本人に適する蔬菜が少ない。ことに台北付近は日一日と移住者が殖えて来て、需用はかさむばかりであるが、栽培者は少しもない。畑地は荒れ、雑草いたずらに茂る有様なので、蔬菜要求の声は、盛んに家々の庖厨(だいどころ)に聞こえる。ことに野菜好きの総督は、この供給不足の声には、同情(おもいやり)の耳を傾むけた。
 どこか手近の所に蔬菜栽培の適地があろうと、散歩がてらに自身で検べて歩いた。供に立つのは秘書官でなければ、お気に入りの禿八百屋、時には単身着流しのままで、どこともなく飄然と出歩くことがある。
 北方士林街道から生薑(しようが)が出るから、にんじん、牛蒡(ごぼう)も出来ぬことはあるまいと、素人考えながらも、目論見をつけて捜して歩く。そうしてポツポッ栽培してある人家の後園などをのぞいて、機会さえあれば、奨励の方法をとった。南の方古亭庄などは、景尾街道や石碇街道が出来たばかりであるから、坦々たる大道帯のごとく通じて、そぞろ歩きには打ってつけであるが、まだ土匪が全く平定せず、時折この方面に出没するという噂がある。台北府南門から一里余り行くと、家屋そのままを銃丸防禦にあてた巡査の派出所がある。そのうしろに日本家屋が二三軒建ち並んで、周囲(まわり)の畑には菜や落花生(なんきんまめ)、芋類が菁々(せいせい)として耕作されている。
「オゥ畑がよく出来ているわい」
 総督は鬼の首でも拾ったように喜んで、うなずきながら見回った。そして一軒の茅屋に入って見ると、日本人の女がただ一人、豆殻を打っていた。
「ご免よ」
 総督はずかずかとそこへ入って行った。女は驚きの眼をみはったが、茶の道服じみた衣服(きもの)を着て、つばのない頭巾のような帽子を被った品位のいい半禿の老紳士を見て、慌ててかぶった手拭いを解いた。
「ヤア、そのままそのまま。……乃公(わし)はあまりこの辺をうろついたで、ひどくくたびれた。邪魔にならなきゃ、少し休息させてもらいたい」
 総督は竹縁の端に腰を下ろすと、女はまめまめしく渋茶を酌んで来る。
「大層畠がよう出来ているが、おまえの所で作るのかね」
「いえ、モウほんの私の片手間仕事で、ろくな物は出来ません」
「この辺の土地は悪くなさそうだね」
 総督は煙草をくゆらしながら、畠ばかり見て喜んでいる。
「ハイ、土目は黒ポカの所も、砂目の所もございますけれど、ご覧の通り肥料(こやし)が足りませんで、お恥かしゅうございますよ」
「そうかね、それにしては見事な出来だ。……内儀(おかみ)さん、おまえが作るのかね。……ご亭主は勤人かい」
「いいえモウとうから遊んでいますので、何か口を見つけたいと、今日も台北へ参りまして、あいにく不在(るす)でございます。……旦那様も台北でいらっしゃいましょう」
「そうだ、台北へこの頃来た者じゃが、マア台北はどうやら安心だが、この辺はあぶないそうではないか、うっかり出来んね」
「いえ、前は出たそうでございます。あすこの派出所なぞへも、度々やって来られたということですが、今はそんな噂もございません。何しろ今度いらしった児玉様という総督様が(えら)い方だそうでしてね。お取締りが厳しいので、彼らは手も足も出ないのでございますよ」
「フム、今度の総督はそんなに豪い人かね」
 総督は例のいたずら気を出して、そ知らぬ振りでとぼけている。
「何でも豪い方だっていうことですよ。それが証拠には、今度の総督さんがいらしってから、何でもキッパリと片がついて行くんだそうでございますよ」
「そうかな」と、あまり褒められてさすがにこそばゆくなる。
亭主(やど)が申しておりましたよ。今度の総督様は、ご自身で士林の方へいらしって、方々へ畠を作らせていらっしゃるが、ちっとこの古亭庄の方も見て下さるといい、士林よりはこっちの方がよく出来るだろうって。……全くそうでございますよ。鍬を入れてみても土目が違いますから」
「そりゃそうだろう、この様子では」と、(ばつ)を合せる。
「総督様は何でもつまらない扮装(なり)をして、秘密(ないしよ)で見てお歩きなさるって、昔の最明寺様のような方でいらっしゃるんですね」
 話はだんだんあぶなくなって来た。うかうかすると化けの皮があらわれそうなので、尻尾を出さぬうちにと、総督はそこそこ逃げ出した。
 しかしこの女房の話によっても、古亭庄付近が有望なので、その後再三見て歩くうちに、総督ということがいつしか知れてしまうと、この家の主人は如才なく礼にやって来た。



最終更新日 2005年10月01日 01時53分59秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四〇 古亭庄に野菜の耕作を奨励す」

四〇 古亭庄に野菜の耕作を奨励す
 逢って見ると農家の者らしくもなく、薄髭をはやした人品の好い男、どうやら新聞記者か僧侶上りという風で、言うこともなかなか(しつか)りした才子肌である。恐らく内地にいた時、今の女房に見込まれて、こっちへ逃走(かけおち)して来たのが、好い仕事も見つからないので、便々と女房の働きで養われているという風である。
「どうだおまえは勤め口を捜しているとかいうが、浪人者がフラリと来ても、そううまい口があるものではない。……それよりもどうじゃ、今いる古亭庄は地味がよいというから、あすごで一つ野菜を作り出してみたら。そういうことなら乃公(わし)も多少の骨は折る。……また売口などは少しも困らんぞ、台北は野菜が少なくて困っているところじゃ。乃公のところへ出入る八百屋がいるから、それに売捌きは任せてよろしい」
「ハイ、蔬菜栽培のことは前にも、計画いたしてみましたが、何分肥料を買入れることが出来ませんので、ツイ中止いたしております」
「肥料の代ぐらいはしれたものだろう、乃公の方で用立ててやるぞ」
「ハイ誠に有難いお言葉でございますが、私は一国者でございまして、人様のご厄介になることが嫌いな性質で」
「それは自主独立、依頼心がなくて至極結構じゃが、それではほかに何か方法があるかな」
 総督はこの男の依頼心のないのに感心した。大抵の者は袖にも袂にも縋ろうというのに、この男は人の世話になるのが嫌いだと言うところに、面白い奇骨がある。皮肉な横着者の禿八百屋と好一対の取組みではないかと愉快に堪えない。
「そこで私はこう考えておりますが、お許し下されば、蔬菜の栽培は必ず発展いたすかと心得まする」
「うまい工夫があるか」
「さようでございます。閣下はご承知でいらっしゃいますかいかがですか。ただ今監獄署の下肥(しもこえ)は、内地と正反対で、官衙(かんが)から賃銀を出して、取り捨てさせているようでございますが、あれはいかにももったいないことで、下肥汲取人は、官から賃銀をもらった上に、またその下肥を農夫たちに高い値段で売りつけておりまする」
「フムなるほどしと、総督はこの男の目のつけどころが面白いと小首を傾むける。
「そこでお許し下されば、私は官から賃銀などは決して戴きませんで、下肥を酌み取りまして、それを疏菜の肥料に用いたいと存じます、これは一挙両得かと心得まするが」
「ウム、おまえは非常に細微な所に着眼した。面白い考案じゃ。乃公は至極賛成するが、高屋という男が典獄じゃから、一応相談をして、おまえの方へ挨拶させるぞ。廃物利用の所が面白い。……しかしそれだけでは畠の収穫(ものなり)があるまで、費用に追われるじゃろうが」
「それでございます。監獄の残飯が出ますが、あれがなかなか大きな物でございます。ただ今はその残飯も、下肥同様廃物として賃銀をかけて廃棄しておられますが、実にもったいないことで、私は下肥とは別に戴きまして、艦舸(まんか)あたりの豚の食糧に売り込みますと、その金で畠の維持が出来るかと存じております」
「ウム、おまえはなかなか財政家じゃ、面白かろう。……そういうようなことにして、野菜の栽培を盛んにしてくれよ」
 一筋縄ではゆかぬこの男は、総督から現金の補助を仰ぐよりも、濡手で粟の財源を手に入れて、一旗挙ぐべく大きな謀叛を企てたのである。総督も、こいつ肌の許せぬ横着者と睨んだけれども、言うことが理にかなっている。廃物を利用して金を儲けるのは、儲ける者の腕で、誰にも損がゆかぬ上に、野菜が出来上るとすると、彼のほこるごとく一挙両得であるから、高屋典獄に命じて、彼に下げ渡すこととした。
 横着者の彼は、残飯を売り、下肥も売って、甘い金儲けの蔓を掘り当てたが、その結果は古亭庄が蔬菜の産出地となって、見る見る人家が櫛比(しつぴ)して来た。総督もしばしばこの地に足を運び、南菜園と称する瀟洒な別荘を建てなどして、今ではこの地が台北の一名所となった。
 総督は議論より実地の人である。野菜物の試作などをするに、わざわざ農事試験所の技師などに托して、始めから陣立てを大きくするよりも、芋や牛蒡(こぼう)は農夫に手作りさせ、実地に証明するという流儀で試みたのであるから、姑息手段と言われても、間に合せの蔬菜は、盛んに市場へ出るようになったのである。いかなる場合にも、(かみしも)を着けた土壌の分析や肥料の試験では、急場の間に合わせることが出来ない。
 総督は実に適材を適所に用いたので、古亭庄の盛んになったのは、この古川某という男が、監獄の下肥や残飯をもらい受けたから発展したのであったが、越えて三十三年の五月二十二日である。総督は例の早起きをして、朝露の庭を散歩する時、突然警部長の磯部亮通の来訪を受けた。
「閣下に伺いまするが、古亭庄の古川と申しまする者は、ご官邸へ常々出入りいたしておりまするが、いかなるお筋合でございましょうか。……内地からあれの身上について、内々依頼が参りましてございますが」
 磯部警部長は、総督恩顧の男に職権を加えることがつらいのである。彼はひそかに膏汗(あぶらあせ)を流した。
乃公(わし)は知らんよ、筋合も何もない。ただ古亭庄で菜葉やだいこんを作らせておくだけじゃ」
「さようでございますか、実は古川の郷里福岡県の警察部から、捕縛方の依頼が参りましたのでございますが、官邸のお出入りでございますから、一応伺いましたのでございます」
「イヤ乃公の方は何にも深い仔細はない。よしあったにしろ、私事で公法はまげられんから、しかるべく処分したがよかろう」
「それではただ一応お含みを」と、磯部警部長はほっと息して退出した。
 それとほとんど引違えに、官邸の勝手口から入って来たのは、例の古川である。郷里から命の瀬戸の令状が来たとも知らずに、籠に入れた大きなだいこんを重たげに下ろして、しきりに汗を拭いている。
 古川が来たというしらせに、横沢秘書官は内玄関の一室に彼を引いた。やがて捕縛さるる身と思うと、他人(ひと)ごとながらも気の毒でならない。
「お陰様でこの度非常に大きなだいこんが穫れましたから、閣下にお目にかけたく持参いたしました。あなたのお邸へも、一籠置いて参りましたが、どうぞお試しを願います」
「それは気の毒でした。早速閣下にもご覧に入れよう。定めしお喜びになるだろう」
「閣下は漬物になさる思召で、練馬をとおっしゃってでございましたが、練馬は思ったほど長くなりません。土がうまくなれませんので、その代り俗に地だいこんと申します、聖護院や方領の方は、内地では見られぬばかり大きく出来ました。中に()などは少しもございませんから、どうかお試しを願います」
 何にも知らぬ彼は大得意である。
 なまじ来るべき運命を知っているだけに、秘書官は寂しい気持がして、彼の心に安心がゆくように、いろいろの世間話をして帰した。気のせいかして、彼の後姿は影が薄く見える。
「横沢、横沢」と、総督は秘書官を呼び立てた。
「ご用でござりますか」
「ウム、古川は帰ったか」
「ハイ、今しがた帰りました。……大きなだいこんが出来たと言って持って参りました」
「そうか、折角野菜が出来るようになったはよいが、古川が令状を執行されては気の毒じゃ」
 総督は知己に篤い。どこの馬の骨とも知らぬ古川ごときでさえ、捨て難い思いがするのである。
「しかし閣下、もはや古亭庄もあれだけになりまして、野菜も村中から出来るようになりましたから、古川などはおらんでも困りはいたしません」
「それはそうじゃが、古亭庄に野菜が出来るようになった基は、古川がいたお陰じゃ。彼は下肥やら何やらで、利益は見ていようが彼がいなくば、今日のように発展はせん。もはや用がないからと言うて、捨てて顧みないというはよろしくない。……あれは旧悪があるにしたところで、家内まで同類ではなかろう、亭主が縛られて困っているじゃろうから、君行って見てやれい」
 秘書官は命をふくんで古亭庄へ行って見ると、案の定女房は、思いもよらぬ良人(おつと)の拘引に、ただ呆気に取られるばかり、当座の振り方をつける方角さえない。
「イヤ今度はとんだことでしたな。総督閣下も非常にあなたがお気の毒じゃとおっしゃって、僕に見舞って来いと言われましたのじゃ。どういうことになさるか、及ばずながらお力になりましょう」
 秘書官の親切な言葉に、女房は涙の顔を上げて、地獄で仏の嬉しさを覚えた。
「誠に不意のことで、よく解りませんが、宿は国で何か悪いことがいたしてありますと見えて、今度はすぐに国へ送られますそうでございます。私は広島の者でございますが、何にも知らずに夫婦(いつしよ)になりましたので、今更どうしてよいか、途方に暮れてしまいました」
「いやそれはごもっともじゃ。この先ここに永住されるならなおよし、自然内地へ帰られるようならば、僕の所まで言っておいでなさい、旅費なそのところも何とか、閣下に申上げて上げようから」
「どうぞ何分よろしいように」
 女房は、人の情に涙を流して喜んだ。しかし今さら先のあてもなく、台湾にいたところで、見込みも立たぬから、一まず帰国することに取り極め、家財道具を売り払い、畠の作物は総督の情にすがり、未収穫のまま八十円で買い上げてもらうことにした。女房は熱き涙を流して、数度(あまたたび)官邸を伏し拝み、総督の無事息災を祈った。
 かくして古川の菜園は、総督の手に流れ込んだが、差当りそれを栽培する者がないので、例の禿八百屋に、作り取りに任せて、惜しげもなくこれを与えたので、禿八百屋は人の骨折をそのままもらい受け、収穫物を台北の市場に出して、如才なく懐を肥した。
 犬骨折って鷹に取られるの譬えではないが、古亭庄の野菜作りから運が向いて来て、巧みに総督に取り入ろうとして蒔きつけた古川某の種子は、芽を萌やし、葉を繁らす時になって、禿八百屋のためにうまい汁を吸われてしまった。
 古川よりは遥かに横着なる禿八百屋は、どこまでも尻尾をあらわさずに、最後の勝利を博した。彼の横着は悪い方の横着ではなく、むしろ善意の横着であった。世をも人をも馬鹿にして、天下を呑んでかかるところに、総督と肝胆相照す剽軽なところがある。
 総督が古亭庄に南菜園を造らるる時、禿八百屋は差向き作事奉行の形で、諸係の宰領を命ぜられた。
 物好きの総督は、この禿八百屋を暇な時の話相手にして、豊太閤の曾呂利のように寵愛せられ、古亭庄に土地を与えて、蔬菜の栽培などをさせて置いたが、そのうちバッタリ来なくなった。総督も多忙に取り紛れて、忘れたようになっていたが、ふと彼のことを思い出して、
「オゥ禿八百屋め久しく来んようだが、どうしおったか」と、近侍の者に尋ねられた。
「ハッ、まだ申し上げんでしたが、あれは突然病気になりまして、両三日前、死にましたそうにござります」
「ナニ禿は死んだ。あいつが死ぬとは不思議じゃ。……なるほど、いくら丈夫な薬缶(やかん)でも、形のある者はついにこわれるわい」
 禅味を帯びた総督の一句は、名僧智識の引導よりも尊く、草木国土悉皆(しつかい)成仏と聞くからは、大薬缶も仏の数に入ったであろう。



最終更新日 2005年10月01日 18時17分32秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四一 刀剣を贈りて新付の富豪を彰表す」

四一 刀剣を贈りて新付の富豪を彰表す
 鳳山の苓雅寮(りようがりよう)に有徳の君子をもって聞こえた陳文遠がいた。文遠は鳳山庁管下唯一の富豪であったために、しばしば土匪にねらわれた。巨魁林少猶のごときは、幾度もこの陳家に襲来したことがあった。しかし陳家も常に土匪に備えていたから、はなはだしい損害はなかったようなものの、その度ごとに血を綾なして、死傷者を生ずるのが恐ろしさと、一つには台湾が日本の版図になったので、いかなる難題を持ち掛けられはせぬかという(おそ)れから、自分は家を離れて、対岸の厦門(あもい)にのみ住まっていた。しかしこういう豪族を日本に心服させることは、台湾統治の上に、非常の効果があるので、総督は彼を手なずくべく、内々思い立ったのである。
 文遠の父というのは、元打狗(高雄(たかお))港内の戎克(ジヤンク)の船頭であったが、見かけた山に当って、とんとん拍子に資産を作り、一代富限の長者となったが、ある時一つの誓を立てた。近辺の貧困者に不幸があった時には、棺を作って寄贈することにした。恐らく自分の罪亡ぼしであったろうが、このために地方の人民から、深く徳とされていた。そのために年々数千円の出費がかさむけれども、今に至るまでこの家憲を廃さない。
 それを聞いた総督は、陳家の陰徳に感じ、一度主人の文遠に逢ってみたならば、必ず日本に心を傾けさせることが出来ようと思った。ちょうど三十三年の十二月初めである。総督は南部巡視のついでに、苓雅寮を尋ねて、陳仲和の家で昼餐をしたためることにした。
 陳仲和は陳家の一族で、文遠の父には少なからぬ恩義を蒙ったので、今では文遠の後見同様になっている。
「ここに陳文遠という豪族がいるそうじゃが、この好機会に一度会っておきたい」と、総督は仲和をさしまねいた。
 総督が陳家の当主に逢うというのは、破格の光栄とは思いながら、一同はなお不安を捨てることが出来なかった。しかし主人(あるじ)の文遠は、折柄上海へ行っていたので、仲和の指揮によって番頭が恐る恐る出て来た。
「そちが陳家の支配人か、主人は清国へ参って不在(るす)じゃということじゃが、乃公(わし)は誠に残念に思う」
 支配人は主人の文遠が、台湾を捨てて、厦門へ遁竄(とんざん)していることを、総督から咎められるのではないかと、内心不安の念に打たれた。
「ハッ、主人(あるじ)文遠は商業上の用向きがございまして、やむなく福建へ参っておりまする。閣下のご光臨を夢にも存じおりますれば、かような失礼は申し上げませぬのに」
 支配人はいかなる咎めにあうかと、安き心もない。
「いやいや、不在(るす)は是非もない。乃公は主人に会うて、常々貧民を憫れむ志を謝したいと思うて、突然立ち寄ったのじゃ」
 支配人は総督の意外の言葉に、かえって空恐ろしくなった。
「主人は先代よりして、慈善の志厚く、常に陰徳を施す趣きじゃが、慈善は人間最上の美徳じゃ。乃公は総督としてはもちろん、個人としても、誠に当家に対して感謝に堪えぬ。ついては当家の善行を表彰するために、この日本刀一振りを贈りたいと思うて、遥かに台北から持って来たのじゃ、そちが主人の代理となって、請け取ってもらいたい」
 総督は美事に装飾した太刀一振りを秘書官から受け取って、手ずから支配人に与えた。
「些細の施行がお耳を汚し奉りて、かように尊き賜物(かずけもの)を拝受仕つるは、陳家の面目にござりまする。永く子々孫々に伝えて、閣下のご厚恩を忘却いたさせませぬ」
「幸いこの日太刀を見る度に、今日の陰徳を忘れぬようにせられい。……この日本刀には日本武士の精神が籠っておるのじゃ、日本人はこの刀をもって身を護り、邦を守る。当家も日本臣民となりたる以上は、この刀をもって国家の護りとなるよう、乃公は希望するぞ」
 温和(おだやか)なれども、厳かなる総督の訓戒は陳家の支配人始め、側聴(かたえぎ)きする陳仲和の心の底に、深い印象を止めたので、従来不安の念に駆られつつあった陳文遠も、始めて心を安んじて厦門より帰り、心から日本に帰服した。そして他に先んじて断髪をなし、和服を身にまとい、内地人を正妻として全く日本化してしまったので、今では苓雅寮の区長となり、区役場も内地風の建築となし、執務方法も、南方台湾の模範とまで進歩した。豪族文遠の悦服は、たちまち南部土民を化して、忠良の臣民としたので、誰一人反抗の心を抱く者はなくなった。文遠が恩賜の太刀を飾りて、その傍えに立てる写真は、彼が謝恩のために送って来たもので、いまなお総督府に保存されている。
 総督は土民を化する上において、よく彼らの心理を解剖し、その機微を察して、巧みに心を()ったのである。
 古来台湾には武勲赫々たる将帥はいたが、文治をもって百姓を徳化した温厚篤実なる経世家はなかった。ただ鳳山の曹公謹のみが、祠を建てて後世から祀られている。鳳山庁誌にある曹公祠は、実にこの曹先生を神に崇めたものである。
 今より百八九十年前に、有名なる鳳山城は築かれた、その築城術は自然に輓近(ばんきん)の学理に(かな)い、道路の修築、衛生法の発達などは、今に比べても、ほとんど間然する所がない。ことに治下数万町歩の田園は、新設用水の灌漑によって、土地は豊饒に、産物は山と積まれる。そして管内一円は、今に至るまで風俗淳樸で、土民に裕福の者多きは、偉人曹先生の賜物である。人民はこの偉人の徳を永遠に追慕するため、城内に曹公祠を建て、年々祭祀を絶たなんだのである。
 総督は鳳山庁誌や、人伝(ひとつて)の話から、この曹公の治績を知っていたので、鳳山庁巡視の時、庁長川田久喜を招いて、曹公碑の所在を尋ねた。
 寝耳に水の川田庁長は、曹公謹がいかなる人物で、いつ頃の人であったかも知らないから、総督の質問には、額に汗して答に苦しんだ。
「君は曹公碑を知らんのか」
「誠に面目次第もありませんが、実は未だ調べてございませんでした」
「それじゃ曹公という者の事蹟は」
「それもツイその」と、庁長は真赤になって言い淀んだ。
「しかし鳳山庁誌は読んでいるじゃろう」
 畳みかけられて、庁長は膏汗を絞って、命も縮まるばかりである。鳳山庁長は実に鳳山庁誌を読んでいなかったのであった。
「それも読まんのか。……鳳山庁長をして、鳳山庁誌を知らんと言うのは、河童が水泳(およぎ)を知らんようなものじゃな」
 川田庁長は穴もあらば消え入りたいように身をすくませた。
「誠に行届きませんことで、実に汗顔の至りでございます。……つきましては、参事か街長でも呼び寄せまして、早速取調べて申し上げることにいたします」
「イヤ、ここへ呼んでもらおう、乃公(わし)直接(じか)に聞いてみる」
 庁長は面目を失いながら、急いで台湾人の参事や故老秀才などを呼び集めて来たので、総督は彼らを一室に集めて、曹公碑の所在を尋ねた。
 思いも設けぬ総督の問を受けた人々は、愕然として眼を(みは)った。曹公謹は自分たちが神として敬う鳳山の恩人、台湾唯一の聖人である。年々祭祀を絶やさなかったのが、日本の版図となってから、その(やしろ)も亡び、(まつ)りも絶えてしまったので、以来はやむなく各部落を持回りにして、祭の型だけを残しているが、やがてはこの大聖の名を語り継ぐ者もなくなろうと、ひそかに悲しんでいたのが、はからず大総督の口から、曹公の名を言い出されたので、彼らは甦生(よみがえ)ったような喜びに充たされ、見交す目と目は、希望の輝きを添えた。
 「お尋ねにあずかりました曹公碑は、曹公書院の中にございまするが、この地が大日本国の領地になりましてから、曹公書院は衛戍(えいじゆ)病院になりましたので、爾来台湾人は、昔のごとく自由に参拝することが許されませぬから、曹公の祭祀(まつり)も絶えることとなりました。よって鳳山の人々は、是非なく曹公の木主(もくぞう)または絵姿を作りまして、年々各部落限りの祭をいたしおりまする」
 故老秀才らは目をしばたたいて、今更のごとく曹公の祠に参拝されぬことを悲しんでいる。
 「そうか、それは近頃気の毒なことじゃった。台湾が日本の版図に帰してそうそうのことじゃで、役員どもが曹公の事蹟を知らなんだことと見える。……早速曹公碑を尋ねるから、案内いたしてくれい」
 総督の言葉に故老は喜色満面に溢れ、言わるるままに扈従(こじゆう)して、衛戍病院の正門を入り、二の門から右へ曲ると、果して軒傾きたる棟に草を戴ぎ、すさまじきまでに荒廃しながらも、昔偲ばるる宏大な建物があった。
「この祠がすなわち曹公書院にござりまする。曹公碑は石の板に彫刻いたしましたもので、この祠の南側の壁に篏め込んでございました」
 庁参事なる台湾仲董(しんとう)の説明に、一同はざヤドヤと指さす方へ回って見ると、建ち腐れ同様に荒れ果てた建物は、壁落ちて骨現われ、えぐられたような穴が、所々にあいて、人は立ちながら出入されるまでにこわれ、凄愴の気骨に迫る有様、碑石などは影も形もない。
「ウーム」と、唇を固く引き結んで、(かすか)な呻きを洩した総督は、顧みて庁参事をさしまねいた。
「石碑は何人(なんびと)かが搬び出したと覚ゆるが、どのくらいの大きさがあったか」
「さようでございまする。石は四枚ござりまして、一枚の幅が二尺、高さは六尺以上と覚えまする」
 故老秀才たちは碑石がなくなったので、気抜けがしたように落胆(がつかり)している。
「よろしい。それならば遠方へ持ち出しはすまい、必ずこの構内にあろう。そのような重量の石を、わざわざ外へ運ぶはずはない。……構内をよく捜索して見い」
 総督の推測は果して誤らなかった。多数の吏員が慌てて捜索した結果、病院の炊事場の大井戸の排水槽(はしりさき)に、立派な甃石(しきいし)があるので、もしやと調べてみると、果して碑文が彫り付けられている。早速鳳山庁誌をひらいて、文字を照合して見ると、紛れもない曹公碑であったが、残念なことには、四枚の中一枚欠けている。しかし外へ持ち出す気遣いはあるまいと極力捜索したが、その日はついに発見されなかった。ほど経て院長宿舎の手水鉢(ちようずばち)の台石になっているのが解って、曹公碑は再び無事に往時のごとく、壁間にはめ込まれることとなった。
 総督は旅舎に引返してから、あらためて庁長以下の日本官吏、並びに台湾人の庁参事、街長、故老秀才を集めて、一片の訓示をした。
「曹謹公は鳳山にとっては、一日も忘るべからざる恩人である。今日台湾が日本の版図となれば、したがって曹謹公は日本の恩人として、徳沢(あまね)く潤す偉人である。特に鳳山のためには神のごとく尊い人であるから、この人の祭祀を絶やすというはよろしくない。官吏たると人民たるとを問わず、当庁に居住する者は、曹公を尊敬せねばなるまい。ついては早速曹公書院を修理し、石碑は洗い浄めて元のごとくに壁にはめ込み、以前よりも一層盛んに祭祀をするがよい。……乃公は修繕費として、とりあえず今五百円だけ寄付しておくぞ」
 総督の意外の恩恵に、故老秀才は天へも昇る喜び、語りつぎ、言い伝えたので、我も我もと応分の寄付をする者が出来て、曹公祠が修理せらるるとともに、土民は総督の徳を慕いて、ただ赤子(せきし)の慈母を仰ぐがごとく、かつては難治と聞こえた鳳山庁管下は、たちまち猫のごとく柔順になって、官庁の命令布達には、一も二もなく服従するようになった。畢竟総督が地方民心を収攬する政略ではあるが、その間に一片の赤誠が籠らなければ、人の心を傾注させることは出来ない。



最終更新日 2005年10月01日 21時01分18秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四二 涙を呑んで図南の鵬翼を収めしむ」

四二 涙を呑んで図南の鵬翼を収めしむ
 北清事変は、一時世界を震駭せしめた暴動であった。東洋の平和も、支那の保全も、この時に滅却されるかと疑われた。
 時は明治三十四年の六月、義和団と称する北清地方の浮浪の徒や、頑冥の儒者や、不平兵士などが、互いに気脈を通じ、不意に起って北京に入り、各国の公使館を包囲した。人民の多くは、たとえ義和団にあらざるも、少なくとも彼に好意を寄せる者である。何どき矛を(さかし)まにして、外国人を襲撃せぬとも限らぬので、各国の兵勇は、急遽公使館の護衛に赴いた。わが海軍の陸戦隊が、先登(せんとう)第一の功名を北京城壁にたてたのもこの時である。
 北京の騒動はわが兵の武勇と、諸外国の兵士の力戦とによって、ほどなく平定したが、擾乱の余波は南清方面に及ぼして、厦門(あもい)に在る本願寺の布教所が焼払われ、続いて潭州に暴徒の蜂起したという飛電が、櫛の歯を引くように危急を報じて来るので、軍艦和泉(いずみ)は水兵を上陸させて、東亜書院に本拠を置き、在留邦人の保護に任じた。
 しかし彼らの勢いはすこぶる猖獗で、わずかの陸戦隊が警戒するぐらいで、果して安全を保たれるとは信じられない。まして清国政府に鎮定の能力がないのみならず、軍隊のうちには、内々彼らに声援を与える者すらある。在留邦人の生命財産は風前の灯火(ともしび)とゆらぐので、国家百年の(はかりごと)を思う総督は、ひそかに後藤長官を厦門へ派して、実情を視察させた。
 覇気余りありて、図南の鵬翼に万里の長風をまつ長官は、直ちに汽船に搭じて対岸に渡った。
 厦門はほとんど無秩序で、鼎の沸くがごとき有様、南清「体の情勢は、わが邦が将来の平和を確保するに最好時期ではないか。
 長官の視察の結果は、総督の報告となって、廟議は南清派兵に決した。時の首相は山県侯で、陸相は桂子爵、海相は山元男であったが、一片の秘密訓電は勇ましく総督府に達した。
「貴官は必要に応じ陸兵を厦門に派遣せよ」
 文は簡単であるが、簡単なるこの十数字のうちに、日本の国威を発揚すべき大使命は含まれているのである。総督と長官とは、この電文を真ん中に置いて、無言のうちに破顔微笑した。
 台湾と厦門とは、一葦(いちい)帯水を隔てて東西に相対している。まして福建省内には、台湾在籍のままで居住している台湾人がいるし、それでなくとも、台湾人民と姻戚の関係ある者が多数にいる。福建省の峰起が一朝勝利をえたならば、その影響は新付の土民にいかなる感覚を与えるであろうか、日本のためにけっして有利ではない。在留民の保護は目前の急なるのみならず、台湾の死活にかかる一大事をひき起こさぬとも限らぬ。さらにこの機会に乗じ、福建沿岸のある地点に立脚点を占めたならば、この狭い台湾海峡を日本の視界からのがれて航行する船はむしろ奇蹟と言われるであろう。東洋の永遠の平和も、支那の保全も、この一事によって、完全に遂行することが出来る。
 総督多年の宿志はここに遂げられた。満を持した弓は、満身の力を(ただむき)に尽して、あわや切って放たれんとするのである。いかなる金城湯池も、砕いて微塵となさずんばやまぬ意気込みであった。
 総督は土屋少将を派遣隊の指揮官に任じ、隊伍整々と宮島丸に搭じて、基隆(きいるん)埠頭を放れたのは、金をもとかす八月二十八日の炎天であった。
 陸より海へ、海より陸へと呼応する万歳の声、波濤の逆巻くがごとき響きを伝えて、山も(ゆる)がんばかり、意気天を衝く将士は、大君のため、み国のため、乾坤一擲の大活劇を試むべく、斗牛を呑むの概がある。今は居留民保護ぐらいの小さな問題ではない。
 狭しといえども渺茫たる蒼海原、潮流は矢よりも急にして、舷側に鞳々(とうとう)の声があり、船中の将士に声援を与うるかと勇ましい。
 万死を期して一生を知らぬ丈夫(ますらお)を載せたる宮島丸は、長鯨の怒って波濤を裂くがごとく、高速力をもって航進し、厦門港外で始めて機関を停止したので、将卒は躍り上って来るべき活躍を想像した、指を染むべき福建の大陸は指呼の間に在りて、呼べば応ゆるのである。
 見渡せば港内に碇泊する日本軍艦は、和泉を先頭にして五六隻の艨艟(もうどう)が、山のごとくに林立している。その勇壮なる光景に打たれて、宮島丸将卒の士気は、さらに奮い立ち、腰間の宝刀血に飢ゆるの概がある。
 宮島丸の入港を見た和泉は、直ちに汽艇(らんち)をはなって、矢を射るごとく飛ばした。汽艇には艦隊参謀が乗組んでいるのであろう。数条の肩章が烈日にひらめいて、勇ましさ限りもない。
 静けき湾内の水に、銀蛇の走るがごとき二条の白線を引いた汽艇は、宮島丸の舷側に横付けされた。
 外国の港へ着いて、自国の人士に迎えられるほど好もしいことはない。まして勇みに勇む矢先に、味方の海軍から迎えられたのであるから、甲板の将士は、天使の降臨を仰ぐがごとく、参謀将校の身体から、光が射すかと覚えた。
 参謀は土屋指揮官に面会して、安着を祝するとともに、一通の書状を呈したが、その顔は何となく曇って見えた。
「この電報でずな」
 指揮官は封中の電文を取り上げたが、その手はふるえを帯び、顔は火のように熱した。彼は前歯に下唇を噛んで、電報用紙も破れんばかりに睨みつめた。
「残念でございますが」
 艦隊参謀はホッと歎声を洩らした。
「フム、この文面によると、乃公(わし)が基隆を出立した翌日、即ち二十九日じゃ、廟議がにわかに一変して、急に出兵を撤回したと見える。実に意外じゃな、この千載一遇の機会を」
「さようです、実に残念と申す外ございません」
 将軍も参謀も、ただ顔を見合すばかりで、抜いた刀の納めどころがないのである。
 外交の軟弱を罵しり、優柔不断を詈る者が、沙上偶語の所在に起ったが、当時の事情は実に余議ない圧迫のために無念の歯をかみ、遺恨の腕をさすって、この天与の機会を逸さねばならなかったので、国力の微弱は、熱涙を呑んで他国の気を兼るの余儀なき場合にはまったのである。
 政府から出兵撤回の訓令を受けた総督は、事情やむを得ずとは言え、日本の将来のために、無上の好機を逸したのみならず、国威を海外におとし、部下に対しては面目を失したので、(ああ)と一声浩歎の声を洩らし、直ちに辞表を提出した。
 嗚呼(ああ)総督を殺す者は誰ぞ。台湾の官民は満腔の誠意をもって、総督の苦衷に同情した。陸軍部内の烈々たる不平も、総督の辞表のためにいく分の緩解を見たが、外交の不振を憤激する声は、鏘然(そうぜん)として海内(かいだい)をゆるがした。
 時の内務大臣西郷伯爵は、総督の胸中を察して、ひそかに慰諭の電報を送るとともに、辞職を思い止まるべく勧告したが、国家の長計を逸した総督の遺憾は、到底治癒すべくもないので、内閣から畏き辺りに奏上した結果、米田侍従が内勅を拝して、遥々(はるばる)台湾へ下られ、総督はようやく留任することとなった。
 流星光底に長蛇を逸した恨は、やがて三十七八年の大戦を現出したのである。



最終更新日 2005年10月02日 13時11分53秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四三 福住の行燈部屋に桂首相と会合す」

四三 福住の行燈部屋に桂首相と会合す
 箱根は玉匣(たまくしげ)の玉をあらう塔の沢の水、早川の瀬を早みて、温泉(いでゆ)の煙に春をこめれば、パラパラと散る桜は、溶けて流れて若鮎と匂う優しさ。早雲山の雲の振舞い、石橋山の霞の景色、石長生(はこねぐさ)の露滴たる岨道(そばみち)を、トボトボと登って来た五十恰好の小男がある。鉄無地糸織の羽織も七ツ下りの折目も立たず、怪しげな鳥打帽に、小倉鼻緒の竦楸(せん)の下駄を、大切(だいじ)そうに蝮蛇指(まむしゆび)にはいている淳撲(こくめい)さは、田舎の村長が用事をかねての一泊客としか見えぬが、これぞ藤園総督が在京の徒然(つれづれ)に、箱根の湯治と扮装(なり)をやつした洒落(しやれ)であった。そして時の首相桂伯爵と、ひそかに落合う約束になっていた。
 総督は巒気(らんき)にしみてシットリした大地を、卜尺(ぼくしやく)とふんで福住楼へと入って行った。
「どこか一泊させておもらい申すだ」
 玄関先へ突っ立って、わざとあたりの様子を物珍らしく見回している。
「いらっしゃいまし」と、女中は笑顔に迎えたものの、余り香ばしくないお客なので、手持ち無沙汰にモジモジする。
「あのまことに何でございますが、今日は総理大臣の桂様がいらっしゃいますはずで、あいにく好いお座敷はみな塞がっていますんですよ」と、さすがに気の毒そうにいう。
「いやどこでも結構。座敷などはどんな所でもよろしいでな、折角この家のことを聞いて来たのじゃ、湯へ入って酒の一杯飲める所があれば結構じゃて」
「それではお狭い所で、まことにすみませんが」と、女中もむげに断りかねたので、是非なく湯殿の側なる一室に通した。
 三畳の狭い座敷は、前に化粧部屋であったのを、この頃まで夜具蒲団の置場にしておいた(むさ)ぐろしさ。茶大津の壁に楽書の痕がありありと印せられ、隅の方は肉落ちて、木舞いの骨が現われている。
「ヤレヤレやっと安心した。ようやく足が伸せるわい」
 総督はそしらぬ振りで、物置部屋同然の座敷に腰を据えたが、渋茶一杯持って来たばかり、ろくろく用事も聞きに来ぬのは、今日に限りて総理大臣がしのびの一泊を布令(ふれ)込まれたので、福住は上を下への大騒ぎに、在郷の村長などはあいた目で見ないのである。
 再三再四催促して、ようやく酒にはなったが、挟むほどの肴もなく、膳の上の貧弱は、日本の財政そのままを、面当(つらあ)てにするのであろうと、総督はひとりおかしさに堪えぬ。
「これこれ、何ぞうまそうな肴はないかな。これではどうも酒にならんでな」
「ハイ、誠に済みませんけれど、あいにく小田原が(しけ)ていまして、お魚が参りませんので」
 女中は普通の挨拶をしている。
鶏卵(たまご)責めにされちゃ、どうもかなわぬな」
 田舎親爺の総督はニヤリニヤリとわらっている。
「それに何でございますよ。桂様がおいで遊ばしますので、料理番(いたまえ)はもうそのお準備(したく)で大騒ぎでございます。……さっきから警察の署長様もおいでで、お粗末のないようにと、詰切っていらっしゃいます」と、女中は総理大臣の投宿を、無上の光栄に感じているらしい。
「ハハァ、警察署長が来る。フム、何、大盗賊(どうぽう)が捕まるのかね」
「アラマァ」と、女中が笑いこけた。見かけどおり通じの悪い田吾作であると、女中はますます見くびってしまった。
盗賊(どうぽう)だなんて。……桂様でいらっしゃいますよ」と、かみ砕くように言ってのける。
「ハテ、聞いたような名前じゃが」
 人の悪い総督は、わざと空とぼけて首をかしげる。
「総理大臣様じゃありませんか。……よっぽどですよ」
「ウムそうそう、そんな名前を聞いたことがあったっけな。……何だろう、東京の新聞によく出ていた、お鯉の旦那だったな」
「アラ、そんな大きな声をなすって、警察の方に聞こえたら大変ですわ。……じき店の次の座敷に詰めていらっしゃるんですから」
 女中は眉に八字を寄せて、睨まえながら押えつけるように止める。
乃公(わし)は悪いことをせぬから、警察の者が見張りをせぬけれども、総理大臣などという者は、いつどんな悪いことをするか解らぬから、それで警察署長などが、行く先々へ来て見張っているのじゃよ。東京へ行ってみなさい、大臣の馬車の後から、巡査が車でついて歩いているのじゃ」
「それは護衛についているんですわ。悪い者がねらったりなんぞすると悪いから」
「それは表面(おもてむき)じゃ、全くは大臣が悪いことをせぬように、巡査がついている。……もし悪事をしたら、すぐに縛るというのじゃ」
「嘘ですよ、そんなことがあるもんですか」と、女中はむきになって腹をたてる。
「嘘なことがあるかな、巡査がついて外を歩くのは、罪人と大臣だけじゃないか」
「知りませんよ。……あなたなんぞ山の中にばかりいらしって、何にも解るもんですか」
「これは恐れ入った、君なぞも箱根山中じゃないか」
「何とでもおっしゃいよ」
 女中は冷かすつもりがとうとう冷かされて、腹のたつままつと立ち上った。
「田舎者の癖に口ばかり達者だよ」
 彼女ぱ口の中につぶやきながら、障子ピッシャリと出て行ってしまう。表座敷の方はしきりに騒ぎ立って、廊下を足早やに行き違う足音、帳場の方に主人の罵しる声なぞしきりに聞こえる。総理大臣の一行は、早や着かれたので、家の中は光栄の輝きに晴れがましくなった。
 首相の桂伯は、政務の(つか)れを、水滑らかな塔の沢の温泉に洗って、生れたままの昔に一日の日曜を遊び暮そうと思ったので、どこまでも微行のつもりであったのが、意外にも郡長、警察署長の出迎えを受け、人払いもしかねまじき有様なのに、少なからず清興をそがれてしまった。まして堅く約束をしておいた児玉将軍が、一足先へ来ているはずなのに、待てど暮せど影が見えないから、首相はますます(あて)が外れてしまう。
 郡長や警察署長は、桂首相の莫逆(ばくぎやく)の友人にして、台湾総督兼陸軍大臣たる児玉将軍が、とくに来函されるはずであると聞いて、万一途中に故障でもありはせなんだかと、電話を八方にかけたり、迎いを国府津に出したり、大騒ぎをしたが、やはり何の音信(たより)もない。
 首相自身東京の児玉邸に電話をかけると、五六時間も前に、箱根へ行くとて、ただ一人飄然出かけたということである。
「児玉はとくに来ておるはずじゃがな。……もしほかの座敷におりわせんかの」
 首相は怪訝(けげん)そうに宿の女将に尋ねた。郡長や署長は次の間に額をあつめて心配している。もしもかかることから首相の不機嫌を招いては、自然自分たちの身の上にもかかわると、ハラハラするのである。
「それでは児玉様のご前はもし宅をお間違い遊ばしてはいらっしゃいますまいか。……宅はみな長逗留のお客方ばかりで、ふりにいらっしゃいましたのは、五十ばかりの田舎の村長さんのような方お一人でございます」
「宿帳はまだつけんか、その客の」と、署長は次の間から心配そうに顔を出した。
「サアいかがでございましたか、ッイまだ、一つ聞かしてみましょう」
「待て待て、それはおかしいそ、その親爺が児玉かも知れんわい」
 首相の顔には、始めて心からの笑いがうかんだ。
「いいえ、小作りの方で、召物もつまらない、下駄なぞはそれはそれは酷いものをはいていらっしゃる方ですから、よもや児玉様のご前では」と、女将(おかみ)は田舎の村長を、大臣総督たる児玉将軍とは信じない。
「ウム、それに違いないわい。全体児玉はちいッぼけな山椒粒のような男じゃ。色の黒い眼のキロッとした掏賊(すり)みたいな奴じゃよ」
「アレご前様お口のお悪い」
「よし、俺がのぞいてやろう。きっとその親爺に相違あるまい。あの男は人をかつぐのが好きじゃから。……しかし内緒で行くのじゃから、ほかの者はついて来てはいかぬぞ。……座敷はどこかい」
「それがお座敷がふさがっておりましたものですから、湯殿の側で」と、女将はモジモジする。
「よろしい。……おまえ案内せえ」
 女将を先に立てて、首相はにこにこしながら下へ行くと、果して湯殿の側の小座敷で、女中相手の声が聞える。
「これ昔から酌は(たぽ)と言ってな、女の酌は悪いものじゃない。……おまえでもがまんするから、遠慮せずに()いでくれよ」
「ほんとに貴君(あなた)お口が悪いんですね」
「口は悪いけれど、気は好いもんだ」
 まぎれもなき総督の声なので、桂首相はガラリと障子をあけた。
「ヤア、ここにいるのか。悪い洒落(しやれ)だぞ。早く二階へ来たまえ。……いくつになっても若い気じゃなあ」
 女中は首相自ら歩をまげたので、ハッと思うと、今まで田舎親爺と安く見たのが、急に気が咎めて、真蒼になってふるえ出した。
乃公(わし)行燈(あんどん)部屋のようなところへ入れおったわい」と、総督は大口開いて笑い出した。
「誠に粗怱をいたしまして、何ともお詫の申し上げようもございません」と、女将は冷汗を流している。
「よいよい、昔は箱屋の真似までした男だ、行燈部屋結構じゃ」
 首相も哄然として笑った。しらけかかった二階の座敷は、この珍客を加えて、にわかに色めき立ち、絃歌湧くがごとき興を催おした。



最終更新日 2005年10月02日 14時49分36秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四四 長官を譴責して総督の実権を示す」

四四 長官を譴責して総督の実権を示す
 総督が始めて陸軍大臣を兼摂したのは、三十三年の十一月で、伊藤内閣の時であったが、大蔵大臣渡辺国武の財政方針が、政友会出身の五大臣と確執の基となり、再三調停をかさねて一時は収まったものの、さらに三十五年度財政案で、またしても双方の間に激烈なる議論を起し、渡辺大蔵大臣は辞表を提出したために、内閣は総崩れとなってしまった。
 代って首相の任に就いたのが桂伯爵であったので、児玉総督は依然陸軍大臣として留任したのであった。
 三十五年の三月に、台湾統治上の必要から、将軍は陸軍大臣を辞して総督専任となったが、翌三十六年の七月に、再び入って内務大臣となり、一日越えて文部大臣を兼任した。実に三面六臂の働きである。
 中央政界が多忙のために、台湾の方は一切後藤民政長官に任しておいたので、治台の実は挙るけれども、軍人連の不平は盛んであった。我々は一文官たる民政長官を事実の総督として仰がねばならぬ、総督は後藤のために捲かれている、まるで傀儡(かいらい)になっているのだという陰言が盛んに聞こえるので、総督はこれらの不平の徒に思い当らせるために、総督は決してそういう事実がないことを示して、不平を慰さねばならぬと、その機会の来るのを待っていた。
 折から横浜、台湾間の航路の拡張について、日本郵船会社に引受けさしたらよかろうと、総督は後藤長官と相談して、一切の交渉を委任しておいたので、長官は会社の重役と交渉して諸般の準備を整え、船繰りも出来、命令書さえ出せば、船はすぐに横浜を出帆するまでに進行したので、長官から報告の電報を在京の総督へ発した。
 ところが長官に船便のことを托した後、今まで何の報告もなかったので、総督は始め委任したことを忘れて、自身に大阪商船の重役に相談して、万事を引受けさせることに契約したところへ、長官の報告電報が来たから、総督は始めて思い出したけれども、今更大阪商船を破約することも出来ぬので、すぐに台湾へ向けて、郵船との交渉中止を命じた。
 このわがままな命令には、さすがの長官もびっくりした。郵船会社は航路の取調べから、船繰りから、すべての予備行為を整えて来ているのに、今更中止させるというのは、長官の面目としても出来ない。
 長官は折返して、総督へ返電を発した。
「小官かつて閣下の命をふくみ、郵船会社と交渉成立したる上は、今更変更するは困難なれば、何とぞ商船会社の談示を見合せられたし」
 長官の返電を見た総督は、カッと激怒(おこつ)た。
「後藤は実に不都合だぞ、なるほど以前に郵船のことを命じておいたかも知れんが、今まで何の経過も報告もせず、また改めて稟議もせずに、突然契約をするという法はない。なぜ取極める前に、指揮を乞わぬか」と、怒り出したので、側にいる秘書官ぱ気の毒そうに取りなした。
「後藤閣下も決して悪いつもりでなされたのではありません。閣下が先だって一切ご委任になりましたから、それで契約成立後にご報告なすったことと存じます」
 全くそれにに違いない。平生(ふだん)一切を委任しているので、このことに限って、一々経過を報告するはずはないのである。……それを総督は百も承知しているけれども、今日の場合は、是が非でも腹を立てねばならぬのである。
「全体後藤は自分が総督になった気で、僭越である。……無理であろうと何であろうと、乃公(わし)の気に入らぬことならやめさせる。後藤は台湾総督ではないぞ」
 秘書官は呆れて口の出しようもない。
「乃公の無理が気に入らんければ、すぐに辞表を出せと言え。後藤がなくとも台湾の統治に困りはせん。乃公一人で始末をつける」
 総督の激昂一方ならぬに、秘書官も驚いて長官の方へ沙汰をして、進退伺いを提出せしめた。
 誰に聞かしても総督が無理である。台湾の統治は児玉、後藤両雄が肝胆相照したから実が挙ったので、いずれか一方を欠いては、今日の成功を見ることは出来ないのである。しかるにかかわらず、後藤なくとも一人で始末するというのは、勢いに駆られた大言壮語に過ぎない。
 秘書官は総督の脳に異状があるのではないかと思ったが、しかしそれは英雄の権謀策略で、かくして後藤長官に進退伺いを差し出させ、譴責処分をすれば、不平満々たる軍人連は、始めて総督の真の気持と覚って心から畏服する。したがって、向後後藤長官の仕事も楽になるであろうと思ったのである。
 始め総督の無法に驚いて、火のごとき自尊心を傷つけた後藤長官も、ようやく総督の意中を推して、郵船会社の契約を解き、進退伺いを差し出した。
 総督はすぐに譴責命令を発し、長官を処罰したが、このために単純な頭脳(あたま)の軍人連は、自分たちに命令する者は、民政長官の独り考えにあらずして、すべて総督から発せられるものと信じたので、何ごとも不平なく服従するようになった。
 英雄人を欺むく洒落は、いかなる場合にも総督の性格を見ることが出来る。他日日露の大戦に、百万の甲兵を掌上に弄し、乾坤一擲の大籌策を試みたのは、みなこの洒落のさらに大なるものである。



最終更新日 2005年10月02日 21時34分00秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四五 宣戦前に徒歩出衙して寛裕を示す」

四五 宣戦前に徒歩出衙して寛裕を示す
 総督は三十六年の九月に文部大臣の兼任を解き、翌十月の十二日に、内務大臣をやめて参謀次長となった。
 陸軍中将としての参謀次長は、官制上からも相当であるが、内務大臣をやめて、平然と階級の低い次長の椅子に就いた度量の海のごとく広きには、何人(なんびと)も敬服せぬ者ぱない。
 もちろん参謀次長は重職ではあるが、さらに将軍をここに据える必要のあったのは、何時(なんどき)露国との国交が破れるか知れない。一髪千斤を釣るがごとき危殆に瀕していたので、謀計(はかりごと)帷幕(いばく)のうちにめぐらす大手腕家を要したために、総督をこの椅子に就かしめたので、総督も深く期するところがあって拝命したのである。畢生の大目的を貫徹し、国威を八紘に振うに、官位の高下なぞを論ずべきでないと、総督は地位のことなどは念頭にだも措かなかった。しかし翌十一月播摂の平野に大兵を練り、大元帥の大纛(たいとう)を進めらるるや、総督は次長として扈従(こじゆう)したが、昼餐の際に大臣、大将らの親任官や、自分が育てた師団長などが、玉座近くに席を占めて箸を執るのに、勅任官たる次長は、遥か末席の別卓で食事をせねばならなかった。
 この時総督と莫逆(ばくぎやく)の友たる何某(なにがし)が側を通りかかるのを呼び止めて、
「貴様らに煽り立てられたお陰で、こんな所で飯を食わねばならない身分になったぞ」
と、遥かに上席の元老大臣の方を見て苦笑した。それはこの何某が近き未来の大戦争を洞観して、内輪から次長の椅子に就くことを奨めたためであった。
 もうこの時分は、新聞の二号活字に、日露外交の困難が報ぜられ、竜巌浦(りゆうがんほ)の伐木事件や、満州…撤兵のことが、日本の抗議を全く無視して、依然として解決されない。わが邦の上下は、眼をいからし腕を(やく)して、露国の不法に憤慨した。臥薪嘗胆(がしんしようたん)の辱しめは、ここに耐忍の緒を切るべく、闔国(こサつこく)の人心一時に緊張し、男女老幼となく、国難に殉ぜんことを期した。政党政派の異同も、たちまち呉越同舟の客となって、挙国一致の実は全く挙らんとした時である。
 この偉大なる後援を見て、内閣の列宿も、海陸の将星も、莞爾として期の熟せるを喜んだ。
 栗野公使の露都における談判は、(いたず)らに本国の忿怒を増すばかりで、()の進捗も見ない。しかし今は平和の解決なぞを夢みている時ではない、断乎たる内命は陸海軍に下されて、何時(なんどき)にても不測の変に備うべく、準備は全く成った。矢でも鉄砲でも持って来いという自信は堅く当路者の頭脳に刻まれた。ただ国交断絶の機会を待つのみである。
 参謀次長の卑職を甘受した総督は、次長の椅子に()って総長以上の権威を授けられ、日露戦争の大舞台における台帳より役割に至るまでを完成した。しかし日本に実際戦意あることを敵に知らしむるのは、戦略上策の得たものでないから、国を(こぞ)って主戦論の囂々(ごうごう)たるにもかかわらず、当局はどこを風が吹くかと、そ知らぬふりに納り返っていた。
 次長たる総督は、翌年一月二十日に、部下の将校を(ひつさ)げて、回向院(えこういん)の春場所へ出かけた。目前に迫る国家の興亡を葉巻の煙とくゆらしながら、正面棧敷へと陣取ったのである。
 この時不動山のごとき日の下開山、天下無敵と誇る常陸山(ひたちやま)谷右衛門と、東方の怪力士、宿禰道(すくねどう)の摩利支天と言われた荒岩亀之助との取組が()れられた。
 荒岩の鉄臂(てつぴ)に、虎をうつ怪力ありて、名代の二枚腰は、山を(もた)ぐる(わざ)ありとも、堅剛巌のごとき千古の大力士常陸山を凌ぐべしとは、何人(なんびと)も予想されぬのである。賭の勝負は四分六でなければ、荒岩に張る者はない。
 総督は棧敷の真先に坐を占め、息も継がずにこの一番を待ち設けた。
「どうじゃ、君たちは東か西か」
 総督は莞爾として顧みた。
「無論常陸のものですな、荒岩に勝目はありますまい」
「そうか、なぜだな」
「第一力が違います、体格も違います。荒は相撲上手です。奇襲に巧みですが、常陸のような大力士に遭っては、仕方がありますまい」
 ほかの将校も目に賛同の色を見せた。
乃公(わし)はそうは思わんよ」
 またしても総督の皮肉が始まったと、将校連は苦り切る。
「強い者が勝って弱い者が敗けると極っていれば、相撲は一向つまらんじゃないか」
「それはそうですが」と、将校の返事は煮え切らない。
「常陸は強いに違いないが、荒岩は驃悍(ひようかん)じゃ、第一この勝負にきっと勝とうという意気組がある。常陸は守勢で、荒岩は攻勢じゃ、戦術の原則から言っても、攻勢でなければ勝てぬはずじゃ」
「そうですなあ」と、将校は仕方なしの相槌を打つ。
「是非荒岩に勝たせにゃならんわい」
 総督は角力にことよせて、当面の戦局に対する抱負を洩した。
 と見る四本柱の土俵のただ中に、四股をふむ常陸山は竜の(うそふ)くがごとく、隆々たる筋肉ぱ、生きた金剛神そのままである。荒岩の腰を落して仕切るは、虎の(ぐもつ)を負うて怒るに彷彿として、肉弾相うつ無前の活劇は、今や一瞬時の間に始まらんとして、数万の看客は手に汗を握った。
 荒岩ア、常陸山アと、声々に呼ぶ贔屓(きいき)贔屓の声は、囂然(こうぜん)として耳も(ろう)せんばかり、小屋掛けの菰は、反響の(あお)りを受けて、()きて舞わんず有様である。
 両力士は仕切り直し数回にして、諸声(もろこえ)に立上った。電光石火と突き出す荒岩の左腕を常陸山はヒッ掴んで泉川に撓めた。それと見るより荒岩は飛び上って左を預けたまま右手に常陸山の首を捲き、右足を外掛けに常陸出の左足にからんだ。そのために不思議にも荒岩の左は天下無双の横綱が撓めた泉川が外れて、ズルリと深く入った。この荒岩の左がはいった以上はこれまた天下無双で、角力は瞬間にして五分となった。さすれば右に首を捲き右足をからんだだけが積極的に荒岩の得となって、トウトウ日の下開山の横綱を西溜りに寄り倒して、団扇(うちわ)は荒岩に揚った。小屋は割るばかりの大喝采、天地もために震動せんずばかりである。
「どうじゃ、乃公(わし)の先見は」
 総督は四辺(あたり)を顧みてにっこりと笑った。天下に類のない大力士常陸山を向うに回して、やすやす仕止める者は、荒岩の外にはなかったのである。山椒は小粒でも辛いというは、実に彼の奮闘である。
 黙って見ていた総督が、思わず会心の笑いを洩したのは、胸中深く秘める成竹に照し合せて、幸先を祝したのである。
 時は刻々に迫りて、両国の運命を最後の死角に導ぎ行く二月初旬、台湾総督府の山田権度課長は、公用をもって上京した。そして台湾度量衡の制定について、報告かたがた総督を見舞うべく、牛込薬王寺前の邸宅を訪問せんとし、車を飛ぽして加賀町へかかると、先方(むこう)から剣を()いて、トボトボ歩いて来る小作りの軍人があった。
 定めし後備の将校が臨時召集を受けて、箪笥(たんす)の底から久しぶりに軍服を着けたのであろうと、気にも止めなかったが、車が近づいて双方がひしと顔を合せるに及んで、思いもかけぬ児玉総督であることが解った。
「閣下でいらっしゃいますか」と、山田課長は驚いて車から下りた。
「オウ山田君か、どこへ行く」と、総督はいかなる場合でも愛嬌をこぼす。
「実はお邸へ、ご報告に推参いたすつもりで伺いました」
「オゥそれはわざわざには及ばん。毎度の報告でよく承知している。……お陰で度量衡の方もうまく片づいて、どうもご苦労じゃった」
「ハイ、不十分ではございますが、とにかくも一応纒まりましたので、くわしくお耳に入れたいと存じます」
「イヤよく解っているから、説明には及ばんよ。……サア、君は乃公(わし)らと違って多忙じゃろう、構わず車に乗りたまえ。僕もこれから参謀本部へ出かけてみようかと思って出て来たところじゃ」
 今日を限りに、日露の平和は破れんとする危急存亡の刹那を、総督はそしらぬふりにブラリブラリと徒歩(かち)で来るのは、英雄人を欺むく策略である。
「しかしお徒歩(ひろい)でいらっしゃいますか」
「そうじゃ、この頃はすっかり楽隠居に回ったから、電車で行ったり、ブラブラ歩いたりしているのじゃ。運動になってよいよ。……サア遠慮なく車に乗るがいい、乃公とは道も違うじゃろう」
 こちらが車に乗らぬうちは、総督も立ち正っているので、山田課長はモジモジしながら、
「それではご免を蒙ります」と、ようやく車上の人となった。
「サア、構わず行きたまえ」
 総督は軽く会釈して、またコツコツと歩き出した。
 山田課長はかくして総督に別れたが、越えて二日、日本全土を震撼する仁川沖(じんせんおき)捷報(しようほう)が、号外の鈴の音に鳴りはためいていたのである。
 思えば一昨日(おととい)の朝、加賀町で逢った時には、この乾坤一擲の大決断が、弦を放れた矢のごとく、引いては元へ還らじと切って落された時であった。総督の双肩には、東海日出国の運命がかかった大切(だいじ)の瀬戸際であったのに、ブラブラ徒歩で出勤するのみか、遥々(はるばる)報告に来た課長を、途中素気なく返すを気の毒に思って、「君は忙がしかろう」と巧みに応接して課長の感情を害さなかったのは、些細なことながら、とっさの機鋒の変転自在、往くとして可ならざるなきを示すものである。



最終更新日 2005年10月03日 01時18分42秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四六 総参謀長となりたちまちにして遼陽を占む」1

四六 総参謀長となりたちまちにして遼陽を占む
 雲漠々として天を蔽い、風飆々として地をうち、殺気野に横たわりて、殷雷(いんらい)まさに轟かんとし、使臣旗を撤し、壮丁席をけって起つ時、俄然として飛報は天の一角より落ちた。わが瓜生八代の乗艦は仁川八尾島沖において、露艦コレーツ、ワリヤーグの二隻を撃沈し、あわせて敵の汽船を沈むと、戦いの火蓋はすでに切られたのである。たちまちにしてまた快報が来た。東郷中将の引率する聯合艦隊は、大挙旅順口を襲撃し、敵の艦隊を撃破すと、この捷報を聞いた国民は狂するばかりに歓喜し、手の舞い、足の踏む所も知らざる有様であった。
 外人はみだりにわが邦人を好戦国民であるというが、実は平和を(こいねが)う人種である。しかるにその平和好きの人種が、何故にこの戦争を喜んだかというに、臥薪嘗胆の怨みが始めて酬いられたからである。
 血ある国民は、遼東還付の遺恨を忘れるであろうか。十年の昔忠勇義烈の碧血を流し、辛うじて購い得たる遼東半島を、三国の干渉なるものにより、一朝にしてわが掌中から奪い去られた。
 三国とは何ぞ、露独仏の三強国である。彼らはわが邦が戦勝の結果によって獲たる遼東半島の領有を、東洋永遠の平和に害ありとして、清国に還付することを勧告した。勧告というよりもむしろ圧迫である。露国の東洋艦隊は黒煙を吐いて日本海を遊弋(ゆうよく)し、ドイツの極東艦隊は砲口を擬して我を脅やかすのである。当時大戦の後を受けて、国力疲弊せる折から、三国を敵として戦うべき武力と財力とに乏しかったので、我は怨みを呑んで、彼らの言うがままに、遼東半島を還付したのである。幾多の忠烈なる生霊は、空しく胡沙の異域に祀られぬ鬼と化して、漠々たる曠野に、夜々啾々(しゆうしゆう)の声を聞くも、来って跡を弔らう者さえない。
 (ああ)この怨み何時(なんどき)か報ぜん、建国以来かつて国辱を蒙らぬ日本国民は、(たきぎ)に臥し胆を()めて、一意報復を(こいねが)ったのである。
 しかもわが邦が遼東を保有するを、平和に利あらずとしながら、ドイツは膠州湾を租借して、東亜の策戦根拠地となし、露国は旅順口を獲た。かくのごとき悖徳(はいとく)非義が世の中にあろうか。わが国民はまなじりを決して彼蒼を睨み、唇を噛んで憤激した。しかし傍若無人の露国は、わが邦などを眼中においてはいない。しきりに旅順の軍港設備を修築し、一方には大兵を満州の野に動かして、かつてわが邦が貴き血をもって購いたる地圏を、ことごとく自家の勢力範囲に収めたのみか、次第に兵を朝鮮の国境に集中して、ようやく満々たる野心を現して来た。
 しかしさすがに露国も、無名の師を興すを恥じ、第一期第二期と撤兵の期日を公約したけれども、依然として実行しないので、わが邦においても、彼に対する具体的政策を樹てる必要より、明治三十六年六月二十三日に、始めて御前会議は開かれた。伊藤、山県、松方、井上、大山の五元老に、桂首相、山本海相、寺内陸相、小村外相の合議によって、外交の大方針は決定された。我はもはや因循姑息すべき時ではない、断乎たる決心をもって彼に対し、やむを得ずんば兵火の間に(まみ)ゆるも辞するところにあらずと、覚悟の(ほぞ)を固めたのである。
 わが小村外相は、露国公使朗善男と、互いに樽俎(そんそ)折衝を試みたが、依然として解決しない。雨か風か、ほとんど捕捉すべからずして、三十六年もまさに暮れんとする十二月十一日、露国よりの回答があった。それは彼の意見としては、満州をもって全然自己の勢力範囲となし、他国の容喙(ようかい)を許さず、さらに朝鮮を南北に二分して、北部を彼において領有し、南部を日本の保護権に任せようというのである。
 彼のいうところの無法さは、全く常識を欠いている。彼は濫りに第三国を横領して、その一部をわが邦に与えようというので、全くわが日本を強盗の仲間に引き入れんとするのである。彼の無法は到底度すべからず、彼は人道を知らざる野獣である。野獣に対して百千言の理解を尽すも何の益かあらん、ただ破邪膺懲の日本刀あるのみ。
 日露戦役は実にかくのごとくして発したのである。始めは処女のごとくなりしわが邦は、にわかに脱兎の勢いを示して、兵を動かすことの神速なる、電光石火もただならず、わが陸兵は早くも仁川に上陸し、軍容粛々として平壌さして進軍した。
 (かしこ)くも宣戦の大詔煥発せらるるや、黒木大将の第一軍は鴨緑江を渡りて、九連城を陥いれ、鳳凰城の敵を撃破して、海城に迫り、奥大将の第二軍は、五月五日の端午の節句をもって、塩人澳(えんたいおう)に上陸し、進んで貔子窩(ひしか)、普蘭店、南山、得利寺等の戦争に、一挙にして敵を駆逐し、独立第十師団は、同じ月の十九日に大孤山の三尖角に上陸し、連戦連勝の勢いをもって驀進した。
 参謀次長たる児玉総督が、神来の大手腕を発揮すべき晴れの舞台はここに展開されたのである。
 六月六日中将より大将に陞進(しようしん)したる次長は、満州軍総参謀長に補せられた。
 総司令官は元帥大山侯爵にして、幕僚には少将福島安正、同井口省吾の中老連、大佐松川敏胤、少佐田中義一、同尾野実信、田中国重、小池安之、河合操の少壮有為なる参謀将校があった。
 茫漠として捕捉すべからざる大山元帥を(かしら)に戴いて、児玉総参謀長の剃刀(かみそり)のごとき手腕は、縦横無尽に発揮された。軍機の大小はことごとく総参謀長の裁決に出で、野戦攻城の作戦はもとより、兵站(へいたん)事務の運行、交通運輸の円滑等、およそ戦役に関することは、一として総参謀長の方寸に出でざるはない。
 日清戦役にあたり、参謀総長川上操六の用兵の技能に信頼したる国民は、晏然(あんぜん)として必勝を期したが、日露の戦争にも、児玉将軍が総参謀長たるに及んで、上下挙ってその適任たることを賞えた。敵に対するある種の不安は、全く除去されたのである。児玉将軍出つれば満州のことまた憂うるに足らず、とまで放言された。
 国民の重望を一身に負うた総参謀長は、七月六日に、大山総司令官以下の幕僚とともに新橋を出立した。
 当時見送りの群衆は、幾万ということなく停車場へ詰めかけ、万歳の声は(うしお)の寄するがごとき勢いで、勇ましくその首途(かどで)を祝した。
 総司令部の一行は、ご用船安芸丸に搭じ宇品を出発して、途中長山列島に東郷艦隊を訪問し、十四日にダルニー(大連)に着いて、十五日には全部の上陸をすましたが、一週間休養して、二十三日に行進を起し、三十日に古家子(こかし)に到着して、ここに総司令部を置いた。
 敵の総司令官は前陸軍大臣クロパトキンである。彼は昨年の夏、極東視察の(ついで)をもって、わざわざわが邦を訪問し、上下の歓迎を受けた。彼の渡日は訪問に托して、日本の様子を親しくさぐるためであった。果してその目的を達したるや否やを知らぬが、極東総督アレキシーフ敗竄(はいざん)の後を受けて、全露の軍隊を指揮するに、深謀遠慮に富む名将である。
 彼は深く敵を知り、また己れを知るの明があったので、軽々しく暴虎憑河(ひようが)の猪勇を戒め、遼陽の野に半永久的の防禦を施して、大兵を一処に集め、日本軍と一大決戦を試むべく、現代の戦術における、あらゆる防禦法を講じたのである。まして露兵の頑強なる、由来防禦力にかけては、世界に冠たる聞こえがある。この精鋭なる将卒が、死力を尽して守るのであるから、遼陽の地は全く難攻不落の湯池と化したのであった。
 しかし敵が驍勇(ぽさようゆう)であるだけ、神州男児の意気はますます軒昂し、必ず露兵を撃破して、日東帝国の面目を起さねばならぬ。敵が強ければ強いだけ、武をもちいるに張合いが出るのである。


最終更新日 2005年10月03日 03時24分31秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四六 総参謀長となりたちまちにして遼陽を占む」2

 振古未曾有の大兵を擁して、胡沙吹く平野に敵と対陣する時、総参謀長の苦心は、鰈(びと)も想像し得られぬほど、辛労の限りであった。今日世の中に用いられる言葉では、その胸中を形容することが出来ない。
 当時こんな噂まであった。総参謀長の令息が父君の滞陣を見舞って、しばらく同宿した時であった。総参謀長が毎朝早く寝台を離れて、姿が見えなくなるのに不審を起し、ある朝そっと跡をつけると、将軍は総司令部の建物の背後に立って、爛々として雲を破る朝日に向い、手を合せてしきりに祈願を籠めていた。
「お父様、何をなすっていらっしゃいますか」
 令息はつと進んで声をかけた。
「オゥ、今祈りを上げていたところじゃよ。……誰にも言うな」と、将軍はにっこり笑った。
 四辺(あたり)に人影のなき朝まだき、露は冷々(ひやひや)高粱(こうりよう)の葉に宿って、二人の影は長く地に(たお)れている。
「何をお祈りになります」
 かつて神いじりをせぬ将軍が、合掌黙疇する殊勝らしさに、令息は少なからず驚かされた。
「何を祈るか自分にも解らん、ただ天に祈るのじゃ。……今度の戦争については、乃公(わし)は人間の能力で出来るだけのことは尽した。この上にもはや方法はない。こういう時こそ、始めて神様の加護を頼むよりほかはあるまい。だから乃公は一心不乱に神様に祈りを上げるのじゃが、人に見られると体裁(きまり)が悪いから、こうして毎朝、秘密(ないしよ)でやっているのじゃ。黙っていろよ」
 総参謀長はあらん限りの智謀を(めぐ)らしながらも、なお神の加護を願って、万一の不安から信仰を得たのである。総参謀長の精力は全くこの戦争に傾注されたのである。
 しかし洒々落々たる将軍は、征戦の間にあって、一人の護衛兵をふすることもなく、単身随時に各陣営を巡回して、万般の指揮注意をなし、帰るとすぐに寝台に横たわって、小唄を鼻の先に(もてあそ)ぶのが常であった。将軍は複雑なる軍務と、重大なる責任とを、暫時(ざんじ)の休養によって忘れようと心懸けたのである。自ら忘るべくつとめなければ、将軍の身体は、一日たりとも保てるものではない。
 かかるうちに戦機ようやく熟して、敵の部署ますます明晰となり、南方軍総指揮官たるスタケルベルグ中将は、シベリア第一第二両軍団、及びサルバエフ中将の第四軍団をもって、わが奥軍及び野津軍に対し、イワノブ中将の第二軍団は、浪子山付近にあるわが近衛師団に当り、驃悍無比なるレネンカンプ中将及びマドリロフ中将の軍団は、別働隊として、太子河の右岸一帯を警戒して、わが側面攻撃に備え、総司令官クロパトキン大将は、総予備隊を控えて、遼陽停車場付近に(たむろ)し、この度こそは日軍を鏖殺(おうさつ)して、連日の恥をそそがんものと、虎視眈々として兵気の充実を計っている。
 彼に搏虎の勇あれば、われに伏竜の威あり、敵の軍容盛んなるを見て、わが士気はますます(あが)り、総司令部は一大快戦を期して、八月二十四日に古家子の陣を撤し、一夜を大石橋に仮寝して、海城に牙営を張ったのは、翌二十五日であった。遼陽攻略の総司令部は、実にこの地に(ぼく)されたのである。
 当時わが軍の兵数は、敵に比して必ずしも超越してはいなかった。少なくとも同数以下であったが、巧みに兵を()いて、敵を包囲圧迫しつつ、運動を開始した。二十五日の夜より二十七日にかけて、右翼黒木軍は壮烈なる大激戦を開始して、順次に敵を撃退し、三十日より三十一日にわたりて、その主力を鎌力湾(けんりよくわん)より太子河右岸に移し、中央野津軍と連絡動作するに及びて、わが兵力ますます(さか)んに、釣瓶(つるべ)かけたる砲声は、天地も震撼せんずばかり、千軍万馬の吶喊(とつかん)の響きは、天柱地維も砕くるばかりである。
 これと前後して左翼奥軍は中央軍と相()って、石橋子蘇馬台(せききようしそばだい)の防禦陣地を陥落させたので、さしもの敵も浮足立ち、ようやく遼陽方面に退却を始めたので、わが軍は直ちに追撃戦に移り、早飯屯、新立屯、首山堡一帯の陣地に敵を圧迫し、戦況は刻一刻と有利の発展をした。
 しかし敵も名に負う強露の鋭兵、天下無敵と自信したる者が、開戦以来わが軍に圧迫せられ、この度こそはと期したる大決戦も、ようやく地歩を失うを覚って、死力を出して踏み堪え、狂瀾を既倒に回らす獅子奮迅の勢いをもって悪戦するのみか、中央軍方面は強大なる新手(あらて)の増援を獲たので、窮鼠猫を噛む必死の奮戦を試み、一時わが軍は防禦の位置に立った。しかし神算鬼謀の総参謀長は、中央における敵の反撃猛烈なりと聞くや、直ちに左右翼の両軍に命じて、旋回運動をなしつつ猛然として進撃せしめたので、敵はついに総崩れとなり、全部遼陽以北に退却し、なお最後の殿戦(しんがりせん)を試みたるも、勢い日々にちぢまり、九月四日をもって全く遼陽を捨てて、沙河方面に退却した。
 遼陽の大戦はかくして終了し、露軍は多大の死傷者を出して敗退したので、総司令部は七日をもって遼陽に入った。
 遼陽の戦争は日露戦役における始めての大決戦で、かくのごとき大兵を動かした戦争は古来その例に乏しい。この激戦によりて、日本の真価はますます宇内に認められ、欧州列強は何らかの奇蹟のように、飛耳張目して、日本の動静に注意した。



最終更新日 2005年10月03日 03時38分10秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四七 二百三高地陥って開城の時機迫る」

四七 二百三高地陥って開城の時機迫る
 旅順の天険は天下の難関、蜀の棧道もただならざる巉巌亢立(ざんがんこつりつ)の険岨に、最新の築城法を応用して防備を完成し、空翅る鳥の翼なき限り、生ある者は蟻一匹といえども、哨兵の眼から免かれることは出来ない。
 見よ要塞の巨砲は、海に陸に寄せ来る敵を睥睨(へいげい)し、分時四百発の機関銃を、雨(あられ)のごとく浴せかけるのである。蜘蛛の巣を懸けた鉄条網、一隊の兵馬を骨灰微塵(こつばいみじん)と消し飛ばす地雷の埋設、鹿柴(ろくさい)狼穽(ろうせい)に、防禦機関は一として備わらざるはない。
 難攻不落と誇称する険難を奪取すべき肉弾戦の重任は、わが乃木軍の上に下された。軍司令官乃木希典(まれすけ)は由来古武士の風ある者、率いるところの兵士はいずれも気を負うて長風に(うそ)ぶき、士気惨として(おご)らず、君国のために殉ぜんことを(こいねが)い、隊伍粛々として金州半島に上陸した。彼らは死の栄を知りて、生の喜びを知らず、再び生きて故国の土を踏むべき念は全くない。親は杯を挙げて子の行を(さか)んにし、妻は笑って夫の出陣を送る。死ねの一語は親戚故旧の口から繰返さるる勇ましき言葉である。十年前に血をもって購いたる地は、再び血をもって洗わざるべからずと、壮烈の意気鬼神を泣かしむるの概がある。敵の守将は近代の名将として聞こゆるステッセルである。約四百門の砲と三万八千の将士を率いて、祖国のために死守し、一歩たりとも、日本兵の足を立てさせじと構えている。
 攻むるも守るも、不撓不屈の武士気質であるから、互いに恥を知り、名を惜しむので、旅順の戦闘は有史以来の激戦であった。
 総参謀長は九月十五日に旅順の戦況を視察すべく、遼陽の本営を出発して、旅順へと向った。この時は背面本防禦線の第二回総攻撃の時であった。
 敵はコンドラチェンコ、スミルノブ、フォーク等の名将が、全力をそそいで防戦するので、強襲に次ぐに強襲をもってしたが、ただ(いたず)らに屍の山を築くばかり、いささかも戦局の発展を見ない。
 総参謀長はつくづく戦況を視察したが、到底尋常の手段では、この堅塁を破ることが出来ぬのを看破し、さらに正攻法によりて、逐次に功を収むべく、乃木司令官と協議して一まず遼陽へ帰還した。
 わが満州の大軍は遼陽を占領して以来、兵員の補充、軍需品の輸送等、次に来るべき会戦の準備に忙殺されつつも、戦機の熟するを待ち、太子河北方に、大々的防禦工事を起したので、露軍は日本軍が早くも疲憊(ひはい)したものと早合点し、ドイツの戦術家は、日本の活動力は全く終熄したとまで揚言した。露国の同盟国たる仏国の新聞は、「畏怖すべき露国の意志は、いままさに行われんとするに至り、日本軍はその(こうべ)を屈して、免かるべからざるところに服するほか、他に道なきに至れり」と、得々と読者に報じて、友邦を祝福した。エコー・ド・パリの通信員マルセ・ウータンは、クロパトキン総帥の電報を発表した。その文中には「予の方針は徐々に進軍するにあり。即ち行動を確固にせんとするにありとす。予は途中の陣地に築塁をなすべし。黒木軍は今や遼陽に退縮せんとするもののごとし、恐らくは遠からずして、同地に戦闘を見るならんか。煙台のごときは、たとえ防禦の築塁を加うとも、よく久しきに堪うるものにあらず」と、当の敵たるクロパトキンさえも、日本軍の静止を、ひたすらに萎縮の結果と誤信したのである。ここにおいて、敵の参謀部は、一挙にして日軍を屠るべく、始めて主動的にその軍を動かしたので、沙河の大戦は即ち起った。
 しかし不幸にして、露軍の算用は全くはずれていた。彼は桁違いの算盤(そろばん)を立てたので、商売(あきない)資本(もと)を食い込むまでの損失をした。日本軍は少しも疲憊していなかったのみか、兵数においても、減少することはなかった。クロパトキンが兵を動かして渾河を渡った時には、日本軍も露軍を掃蕩すべくその運動を起した時で、久しく内に蓄積した英気は、まさに破裂せんとする絶頂に達していた。もしもクロパトキンが、四五日猶予していたなら、わざわざ大兵を動かして南下せずとも、日本兵は(さかし)まに北上して来たであったろう。
 当時日本軍は煙台より起りて、太子河本渓湖に至るまでの線に、北及び西に面して半円形の大陣地を占めていた。そして総予備隊は煙台炭坑の南に位置したので、すべての戦線のいずれの部分にも、直ちに到達すべき極めて便宜なる待機的陣地であった。
 この軍の配置は、すべて総参謀長の計画に成ったので、首尾相応じ左右相(たす)け、敵兵を引き(くる)んで、三方より揉み立つべく、いわゆる鶴翼の備えである。これに対する敵の兵力は、本渓湖方面において三個師団、右翼中央縦隊方面に四個師団、中央軍前面に三個師団、右翼前面の沙河堡、黄花甸(こうかでん)、林盛堡方面に四個師団、全兵員を合する時は実に二十八万八千余人、その勢いさながら大河の決するがごとくに殺到した。
 戦闘は十月九日の朝、太子河左岸の遭遇戦より始まりて、ようやく各方面の大激戦となり、天地も鳴動せんばかりに、連日連夜にわたりて、恐るべき悪戦を開始した。
 この間児玉総参謀長は、総司令官とともに、煙台の総司令部にありて、刻々進捗し行く戦況を見て、自己の投げた骨牌(かるた)が、思い通りの数を表し来たるのに会心の笑みを洩した。
 敵が死力を尽して戦闘しても、到底抗すべからざるを知って退却し始めたのは、十一日夜における黒木軍前面の出来事で、十二日午後には、野津軍前面の敵も、その陣地を放棄するのやむなきに至った。わが軍は数十門の砲を鹵獲(ろかく)し、ようやく進んで敵の全軍を圧迫したので、敵は一万の死屍を戦場に委棄(いき)したまま倉皇として退却した。
 この退却を掩護すべく、沙河における敵軍は、獅子奮迅の勇をもって抵抗したが、奥軍の勇敢なる攻撃は、奉天街道における敵軍の中心を遮断し、十五日に至りて、沙河堡及びリマン屯を略して、ついに敵を総敗軍に終らしめた。この会戦における敵は五万以上の兵員を失い、わが死傷は一万五千八百七十九人であった。
 ここにおいてか、敵は退いて奉天を守るよりほか取るべき方法なく、わが軍は直ちに進んで、これと対峙した。しかし両軍とも、新たに得たる創痍を癒すべく、しばしは損傷の充実を図ったので、戦局はやや小康をえた。
 沙河の大戦に、さしもの敵を掃蕩したる児玉総参謀長の意気は、颯爽(さつそう)として駻馬(かんば)の朔風に長嘯(ちようしよう)する概があった。当時将軍が賦して人に示した一律に、
 鳩公意気大 欲来決雌雄
 沙河秋高処 唯任守与攻
 恃象謀何拙 陸軍山西東
 遼陽軍容静 旭旗翻天風
 暁渡太子河 已見圧露戎
 突破喊声起 南北勢不同
 戦血染山野 総在荒涼中
の文藻がある。文飾の技巧のないところに、卒直なる武人のおもかげの(うか)ぶのが見える。
 かくのごとくして、満州軍の前面は、戦雲未だ動かず、静かなること林のごとくであるが、旅順の戦況容易に進捗せざるを知って、総参謀長は総司令官の名をもって、戦闘を指導すべき権能を委任せられ、増援として第八師団の一個聯隊を率い、十一月二十九日に旅順方面に出張した。
 この時旅順の第三軍は、十月二十六日二百三高地の奪取戦を試みて以来、毎回突撃部隊の全滅に終り、不成功のままになっていたが、総参謀長の来援によりて、再び猛然たる攻撃を開始した。
 二百三高地は旅順背面の最高峰、標高二百三メートルあるので、わが軍より二百三高地と呼んでいた。この高地を占領すれば、旅順の軍港は一(ぽう)の下に展開され、港内深く隠晦(いんかい)したる軍艦の所在のごときは、歴々として(たなごころ)を指すがごとくである。旅順の死命は一にこの山にあるので、ここを日本軍に奪われなば、事実上旅順は陥落するのである。
 十一月二十九日、わが軍より撃出だす榴彈は、殷々として遠雷の轟くがごとく、巌角にあたりて炸裂する響きは、地軸もこの時に砕けるかと恐ろしい。わが兵はかねてひらいたる坑道より、二百三高地に向って突撃し、各隊ほとんど全滅の悲惨に遭遇しながら一歩も退かじと、稀代の悪戦を続けた。両軍入り乱れての白兵戦は互いに擲弾を投じ、瓦石を(なげう)ち、肉は肉と相うち、彼我の鮮血は相混じて、山骨ことごとく紅に、巨弾の炸裂は丘阜(きゆうふ)の形状を一変するまでに激烈を極めたが、十二月四日の午後二時に至り、さしも頑強なる敵もついに堪えずして敗退し、二百三高地は全くわが有に帰した。
 この間攻囲軍の帷幄(いあく)にありて、しきりに軍議に鞅掌(おうしよう)したる総参謀長は、旅順の運命もここに定まれるを見て、乃木司令官と後事を協議した上、十二月十日に旅順を発し、十二日に煙台総司令部に帰陣した。当時得利寺新戦場を過ぐるの詩がある。
 得利寺辺天籟悲 帰鴉去復弔新碑
 十年恨事一朝露 跡在雄心落々時
総参謀長の得意思うべしである。



最終更新日 2005年10月03日 12時00分35秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四八 旅順口陥落の祝宴に苹果水(りんごすい)の乾杯」

四八 旅順口陥落の祝宴に苹果水(りんごすい)の乾杯
 旅順陥落、短かきこの一語は、百千万言の熱烈なる雄弁以上に、いかに意味深くわが邦人の血を湧かしめたることよ。
 時は明治三十八年の一月元旦、朔風飆々(ひようひよう)として二竜山の(いただき)をかすめる所、翩飜(へんぽん)たる白旗の砲台上になびくを見る。
「白旗だ、白旗だ」
 前線の将士は戦いに疲れたる眼をこすって、煙霧引きはえたる敵の陣地を仰いだ。山骨斜めに砕けて、磊塊(らいかい)たる地軸を露出したる一角に、果して一(りゆう)の白旗が動く。続いてそこにもここにも、数旒の白布が、竿の先に掲げられた。(まが)うべくもあらぬ降伏の(しるし)である。わが忠勇義烈なる将士は、言い伝え語り伝え、相顧みて、何かは知らず闇然(ぎんぜん)として熱き涙が腹の底から湧き出でた。
 哀れ東洋第一をもって聞こえ、天下無双をもって称されたる旅順の要塞も、百折不撓の有志の奮闘と、大口径砲の威力と、海上よりの威嚇とに脅かされて、守兵の元気は疲憊(ひはい)し、砲台は砕けて完膚(かんぶ)なく、軍艦はことごとく撃沈せられ、手足は全く断たれた上に、恢復すべからざる内蔵の重傷を受けたのである。枝を断たれ、幹をきられ、縄をもって牽き(たお)されたるによりて、大木は仆れたりと言える諺は、旅順の末路を遺憾なく言い表わしたものである。
 旅順は今となって、陥落を急ぐ必要が減少したが、近くバルチック艦隊の来航が、目前に迫っている時、旅順は目の上の(こぶ)のごとき邪魔物である。ことに旅順陥落の有無は、満州軍の士気と、国民の元気とに関連するところが少なくない。旅順を奪取することが、戦局に最後の致命傷を与えるごとくに考えられる時、この堅塁の陥落は、日本民族の自尊心を満足せしむる好下物(こうかぶつ)である。
 捷報は直ちに煙台の総司令部へ打電され、部下百万の貔貅(ひきゆう)に知れ渡った。将士は戦陣の新春に心ばかりの寿(ことほぎ)を祝うところへ、旅順開城の報をえたので、全軍歓喜して万歳の(しよう)を絶叫した。到る所の山川草木嗜々(きき)として日本の前途を祝福するがごとくに思われる。
 旅順すでに陥落すれば、後顧の憂いは全く絶えたので、全力を前面奉天の敵に向かって集中することが出来る。したがって旅順の第三軍を奉天に送ることは、虎に翼を添ゆるがごとくである。
 総司令部の画策はたちまち熟して、今は戦機の発展を待つばかり、軍容粛々として来るべき何ものかを待ち設けるがごとくに静かであった。
 この少時の閑日月を(ぬす)んで、総司令部に祝賀会が催おされた。主賓としては第一軍付きの観戦侍従武官、外国武官等で、陪賓は各軍司令官以下の幕僚であった。
 新たに大捷を博した将士の意気は虹のごとく、大白を傾けて戦功を論じ、敵の軍略を評し、快談縦横湧くがごとくであったが、やがて戦捷の新春を祝すべく、三鞭酒(しやんぺんしゆ)の満を引いて、陛下の万歳を三唱した。しかしこの三鞭酒は軍隊付酒保の持ち来たったものではなく、実は露軍から鹵獲したものであった。それと知る将士は口々に、
「露軍は実に贅沢じゃな、三鞭酒をこんなに持って来おったかい」と、若い士官は始めて三鞭酒の真味を味わったように舌を鳴らした。
「こいつは非常にうまい、普通の三鞭酒から思うと軽い。アルコオル分がほとんどないくらいじゃな」と、向う卓子から口を出す。
「君は混成酒のような三鞭酒ばかり飲んでいるからだ。上等なやつは色が薄くって、薄い甘味を持っている」
「ハハア、三鞭酒は満州に限るかな」
 側なる上長官は、秋刀魚(さんま)は目黒の落語を思い出して、哄然と笑った。満堂喜色浴れて、心からめでたき新年を祝する時、管理部の川口大尉は、ひそかに総参謀長の側へ来で、小声でささやいた。
「閣下、ただ今の三鞭酒は失策を致しました。実に申し訳ありません」
「何じゃ」
「三鞭酒とばかり思いましたら、苹果水(りんごすい)でありました。……いかがいたしましょうか」
「何、苹果水じゃ」
 総参謀長は思わず噴き出した。
「大方そんなことじゃと思った。人の物を分捕(ぶんど)ったのじゃ、談判(かけあい)も付けられない。……よいよい、もう飲んでしまったのじゃ仕方があるものか。奴らみんな上等の三鞭酒だと思いおるよ。軽くって甘いと喜んでおる。苹果水にアルコオル分があってたまるものか。愉快じゃ愉快じゃ」
 例の凸坊的悪戯(いたずら)が、期せずして出来上ったのであるから、総参謀長は愉快でならない。欧州第一の強兵を、一撃のもとに粉砕する猛将勇士や、(はかりごと)を帷幕に回らして勝ちを千里の外に決する謀将策士も、分捕りの苹果水に一杯食わされたかと思うと、総参謀長はゾクゾクするほど面白くなって来る。
 未曾有の記念たる宴会は果て、総司令部の幕僚は、例の通りに一室に団欒した。
「オイ、君ら今日の三鞭酒を何と思うかい」
 総参謀長は葉巻の煙を紫に吹きながら、一座を見回して笑った。
「非常に結構でした。……実に贅沢な酒です。しかしあまり上等のせいか、さっぱり亢奮いたしません」
「ばかだなあ君ら、あれは三鞭酒じゃない、苹果水だぞ。苹果水に酔ってたまるかい」
「あっ、そうでしたか。驚きましたな。閣下も悪戯(いたずら)をなさいますな」と、一座の将校は苦笑いした。
「いやそうじゃない、実をいえば乃公(わし)も一杯食わされたのじゃ。管理部のやつら三鞭酒だとばかり思って、苹果水を持って来たのじゃ。敵の三鞭酒だから、我々に飲まれるのを残念がって、苹果水に化けたのかも知れんわい。……たしか君らじゃったろう、上等の三鞭酒を飲んだとか、飲まんとか議論しておったのは」
「いや、恐縮します」と、幕僚は頭を抱えて逡巡(しりごみ)する。総参謀長はますます大得意になった。
「しかし待てよ。少し変じゃわい」
 総参謀長は顔をしかめて人々を見回した。
「閣下、どうかなさいましたか」
「うむ、どうも腹がいたんでならん。……君たちはどうもないか」
 左手に下腹を押して、錐で揉み込むような疼さを堪える。
「軍医を招びましょう」
「待て、ちょっと」と、総参謀長は厠へと立ったが、腹痛に加えて激烈なる下痢を催おし、夜に入ってから次第にはげしくなった。医官は驚いて駆けつけたが、その診察によると、全く三鞭酒と思った苹果水を多量に用いたために、腸加答児(ちようかたる)惹起(ひきおこ)したというのである。
「イヤ酷い目を見たぞ」と、総参謀長は寝蓐(ねどこ)に起き上って、力のない苦笑いをした。
「閣下、いかがでありますか」
 幕僚は心配顔にのぞき込む。
乃公(わし)はもうよろしいが、お客様たちはどうじゃろう。君たちが何ともないから、大丈夫じゃろうとは思うけれども、一つ聞き合してくれ。……だがどこまでも三鞭酒で通せよ。真実(ほんと)のことを言うと、何ともない者まで病人になるわい」
 幕僚はおかしさを忍んで、侍従武官や外国将校に聞き合わしたが、いずれも健全で、戦地に見ることを得ぬ鄭重な饗応に満足しているということであった。
「そうか、それでやっと安心したわい。……しかしこれからやつらには三鞭酒を抜くことはよせ、苹果水でもサイダアでも解りはせぬのじゃ」
 総参謀長は力のない下腹を押えながら、減らず口をきいていた。



最終更新日 2005年10月04日 15時36分16秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四九 奉天を破りバルチック艦隊を殲滅す」1

四九 奉天を破りバルチック艦隊を殲滅す
 沙河の会戦と称せられたる煙台付近の快戦以来、両軍戈を収めて軽々しく動かず、互いに機の会するをまって対峙すること五ヵ月余、彼我の士気ようやく横溢して、戦いを思うの念は、まさに脾肉(ひにく)の歎を発せしめんとした。
 一月二十五日、渾河右岸の敵の旗幟は俄然として活気を生じ来り、六万五千の大部隊は潮の寄するがごとくに、沈旦堡及び黒溝台に攻め寄せた。敵はまずわが左翼を撃破してわが後方を脅やかし、全軍皷噪して総攻撃を開始するつもりであったらしく、総指揮官は駻悍無比の猛将と称せらるるミシュチェンコ中将で、大部隊の騎兵を伴っていた。
 総参謀長は直ちに立見第八師団長に命じて、これに当らしめた。立見中将は、維新の政変に桑名の兵を指揮して薩長の軍に抗したる老将、兵をやること鬼神のごとく、伏波(ふくは)将軍の(おもかげ)がある。
 将軍は命を受くるや否や、続いて派遣されたる増援隊と合し、各隊みな全滅を期して雲霞のごとき大勢を邀え撃ったが、敵は数度の敗衄(はいじく)をこの一戦に恢復せんとし、一騎当千の勇士を(すぐ)ったので、射てども突けども(ひる)まぽこそ、戦友の屍を踏み越え踏み越え、ウラアの喊声を挙げで突撃し来たるのだ。味方の苦戦は譬うるにものなく、彼我の屍は累々(るいるい)として山をなし、鮮血流れて河となり、漠々たる硝煙の蔽える以外、草も木も紅ならざるはなき有様であった。
 激戦状態のまま夜に入ったが、敵は最後の勝敗を決するはこの一刻にありと、優勢なる夜襲は各方面に行われたが、勇敢なるわが兵は猛烈に弾雨を浴せて撃退し、一歩も退かじと防戦した。二十八日になって、味方はますます優勢となり、柳条口、李家窩棚(りかかほう)、及び沈旦堡西方約一里の地を恢復し、黒溝台の奪取に全力をそそいだので、敵はようやく防守の勢いとなり、翌二十九日の午前に、全く撃退した。この(えき)敵の指揮官ミシュチエンコ将軍も負傷し、死傷一万数千に達し、わが軍の死傷も七千を数えるに至った。
 しかしこの激戦は、奉天大戦の幕を撤する前の余興に過ぎなかった。クロパトキン音楽団の一員たるミシュチェンコや、グリペンペルグ将軍の演奏は、必ずしも拙劣ではなかったが、楽長の伎倆が、楽手を統一することが出来なかったので、新来の兵士に敗戦の経験をなめしめ、戦争の苦痛を覚らしめたのである。
 しかし無為に過されたる五ヵ月間の静穏は、乱雑なる音律の不調和に破れて、今まで屏息したる殺気はにわかに揮い立った。充実されたる彼我両軍の好戦熱は、その頂点に達したのである。
 日本としては、勝利を確実に収むべき最後の大掃蕩、露国としては、引続きたる会稽の恥をそそいで、主客を顛倒せしむべき大決戦である。戦線は五十里にわたり、彼我の兵員は八十万以上、歴史あって以来、かつてかくのごとき大兵を対抗せしめたことはないから、世界の列強はみな刮目してこの大会戦を観望している。両国の真価これによって定まるべき晴れの大舞台である。
 この振古未曾有の大戦における総参謀長の画策は、野津大将の第四軍を中央軍とし、黒木大将の第一軍を右翼とし、川村大将の後備兵から成る鴨緑江軍を最右翼とし、奥大将の第二軍は左翼となり、乃木大将の旅順より(ひつさ)げ来りたる第三軍を最左翼となし、大迂回をなして、奉天の側背を衝いて敵の退路を絶たしめ、露国の大軍を一挙にして微塵になさんず大計画であった。
 人間の能力をもっては、ほとんど指揮し得べからざる大兵であるが、児玉将軍の神算は、大山総司令官の果断と相まって、さながら手足を動かすがごとく、海嘯(つなみ)の逆捲き寄する猛勢をもって敵を圧迫した。
 奉天の予備戦は二月十九日より川村鴨緑江軍において開始せられ、葦子峪(いしよう)、太子河左岸の地を略し、二十三日をもって本渓湖の東十二里なる清河城を攻撃した。敵は十六個大隊、および二十門の砲をもって防戦したが、わが軍の猛烈なる突撃に打ちしらまされ、ついに狭窄(きようさく)な地域に銃槍擲弾の白兵戦を現出し、空拳をもって格闘するまでの激戦となって、敵はついに鞏固(きようこ)なる防禦陣地より撃攘された。軍はますます追撃して足を溜めさせず、北方に敵を駆逐して、三月一日地塔、馬群林の線に進み、黒木第一軍の東勾山(とうこうざん)の線に連絡し、また乃木軍は二十六日より迂回運動を起して、三月一日には新民庁に出で、長灘(ちようだん)の奥軍の左翼と連絡した。
 予備戦は予期通りの結果を収めたので、直ちに全軍に令して大々的前進運動を起し、全長五十里にわたる大修羅場を現出した。
 敵は大部隊をもって、間断なき逆襲を試みたが、連絡なく秩序なき戦闘は、毎回撃退さるるに止まり、わが軍は着々として地歩を占め、要地を占領して、圧迫はますます加わって行く。敵は次第に退縮せしめられ、三月四日には露軍に対して張られたる網は、三面に拡げられて、今はただ北方を残すのみであるが、これも間断なく徐々に鎖されて来る。
 露軍は三月五日の日曜日において、日本軍の攻撃やや平穏であったのと、白軍の困憊したのとに比較して、日本軍は疲労し尽したりと、露帝に電奏し、南、西、東三面の日軍に対して、間歇性なる逆襲を試みたが、いずくんぞ知らん、この間においてわが軍は敵の側背に向って、包囲運動を完成せんとしつつあった。
 全線到る所、壮烈なる砲戦は開始せられ、殷々轟々たる音は、天地間の森羅万象をして、ことごとく聾者たらしめずんぼやまず、踏む所の地は、すべて屍をもって布きつめられた。
 クロパトキン将軍は、わが軍の攻撃の休止が、何の目的であったかを発見した時、彼は包囲の網を破って脱出するか、しからずんば飢ゆるよりほか道のないのを知った。リネヴィッチ将軍は匆忙(そうぽう)として退却を始め、黒木軍の激烈なる追撃を受けた。
 この退却はやがて露軍の総敗退となる前提であった。三月九日の木曜日の夜をもって、敵は沙河の線を捨てて総退却を始めた。ビルデルリングの率いる露国の第三軍は、決死的勇気をもって、西方よりするわが軍の攻撃を反撃せんとし、南面の防禦線を縮小したが、勝に乗ったるわが軍の総攻撃は、ただこれ烈火の燎原を襲うがごとく、四面の防戦寸功なく、総崩れとなって潰乱した。凄まじき攻城砲弾、恐ろしき榴霰弾は、奉天外廓における露軍の線に雨下し、烈風砂を捲きて天日くらく、濛々冥々として、乾坤一時にくだくるばかり、さしも強勇を誇りし露軍も、軍隊としての価値を失うまでに潰乱した。
 戦闘は十日の長きにわたったが、この間におけるわが軍の死傷は五万をもって註された。敵兵の損害は十六万人にも及び、戦場に遺棄された敵屍すらも、二万六千五百余に上った。わが軍が鹵獲したるは、大砲六十門、小銃六万挺、砲兵弾薬車四百五十輌、小銃弾薬車三百余輌、機関銃十余門、輜重車五百輌、捕虜の数は三万に達した。
 勝利は実に遺憾なき成功をもって飾られた。ただ主将クロパトキンを生擒せなんだのは畢生の恨事であるけれども、秩序なく乱れ走る者は、秩序ある軍隊より速やかなのであるから、やみやみ彼を逸したのは是非もない。
 世界を震駭せしめたる奉天の大捷は、叢爾(さつじ)たる東洋の一孤島をして、九鼎大呂(きゆうていたいりよ)より重からしめ、一躍して一等国の伍班に列せしめたのは、わが皇の稜威(みいず)と、国民の忠烈によることはもとよりであるが、満州軍総司令部の神籌(しんちゆう)鬼謀が、直接に砲煙弾雨の庖丁を揮わなかったら、かくのごとく国威を八紘に輝やかすことは出来なんだのである。ここに至って児玉総参謀長の威名は、大山総司令官の英名と共に、宇内に喧伝せられた。



最終更新日 2005年10月04日 15時51分16秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「四九 奉天を破りバルチック艦隊を殲滅す」2

 奉天役の善後処分が、着々として進行しつつある三月二十二日、総参謀長は田中中佐、東大尉を従えて、帰朝の途に上った。それは大本営からの召命で、奉天の戦況を、巨細に奏上するためであった。
 御用船讃岐丸は、総参謀長の一行を載せて、二十三日にダルニー(大連)を解纜し、二十六日宇品に着いて、直ちに汽車に搭じ、二十八日に帝都に入った。
 総参謀長の入京はもとより秘密であったが、新橋駅頭の歓迎は、人の山を築かんばかり、やがて宮中に参内して、逐一奉天会戦の顛末を奏上し、敵の軍旗一(りゆう)を献じた。
 総参謀長は五月四日まで滞在していたが、その間に大本営と協議して、占領地域の兵站事務を処理するため、総兵站監部を置くこととして、その職は、総参謀長の兼任とし、また関東州に民政を布くべく、民政長官を設け、満州軍の前進計画に伴う鉄道を改修し、輸送力を増加する計画を立てた。
 五月五日の端午の節句を後に、総参謀長は再び征途に上って、様子嶺を過ぎた。麦の秋は来たれども、戦塵にまみれて一()穣らず、蒔捨ての高粱(こうりよう)に風騒いで、啼鳥(ていちよう)(はらわた)を断つ茫漠たる詩趣は、いかに多情多恨の英雄を泣かしめたであろう。
 将軍は突亢(とつこつ)たる赭山(しやざん)に傾き行く落暉を受けて、駒の(たてがみ)を寂しき夕風に吹かせつつ、悲風惨雨の荒れに荒れた新戦場を下瞰し、一絶を賦して英魂を弔った。
様子嶺頭雲影微。江流千里入残暉。青風隔樹鳥空語。墓下香消不堪帰。
 このときの将軍は、満州の野に三軍を叱咤する総参謀長に非ずして、布衣の遊子児玉藤園であった。
 かつてこの地点は日露両軍の致死して戦いたる所、萋々(せいせい)たる草は、勇士の流血を浴びて萌え出でたもので、夜々啾々の鬼哭を聞く。この血なまぐさき新戦場を見渡した総参謀長は、戦いの罪を思うて、磅(ぽうはく)たる英魂を追弔し、寂寞たる感に打たれた。しかし様子嶺頭の一絶は、名僧智識の回向にも勝りて、幽魂を弔うの引導となったであろう。
 総参謀長が奉天の本営に帰着したのは五月二十日の夜であったが、わずか一週日の後に、曠古の大戦争の終局を速やかならしむる日本海の大戦が行われた。
 陸軍の大軍が、連戦連勝の勢いをもって、敵を駆逐するとも、制海権にして一朝敵の手に収められんか、わが遠征軍は本国との連絡を断たれ、たちまち兵站の供給を失い、釜中の魚とならねばならぬ。わが百万の常勝軍を活殺するは、一に制海権のいかんにあるので、わが大本営にても、外征の総司令部にても、その勝敗を憂うること一通りではない。
 露国においても万一の奇蹟を祈って、バルチック艦隊が、日本艦隊に発見さるることなくして浦潮(うらじお)に入るか、あるいは日本艦隊を一撃の下に撃破するか、しからざるもせめて艦隊の半数だけでも、浦潮に入ることが出来れば、日本の海陸連絡線を脅かすことが出来ると考えた。そして少なくとも最後の希望は、必ず実現さるるものと信じていた。
 とても成功すべからずと信じたバ艦隊の、着々回航し来たるによりて、全世界の耳目は、刻々として迫れる両艦隊の会戦を予期し、バ艦隊の最後の捷利(しようり)を疑わなかった。
 しかし不動山のごとくに自若たる聯合艦隊は、東郷提督の下に整然として動かず、好個の敵たるバ艦隊が、千里の波濤をつんざき来たるを待ち設けた。今や日本帝国の運命は、存廃興亡の両極を、個々別々に彼の双肩に繋けているのである。右肩の存興が昂れば、わが帝国は世界の列強を凌ぐ大勢力を発揮する代りに、左肩に載せたる廃亡が重ければ、わが邦は悲運の底に沈淪し、差し当っては常勝の満州軍を見殺しにせねばならぬ。
 「敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は出動直ちにこれを撃滅せんとす。本日天候晴朗なれども波高し」
 日本海海戦の劈頭第一に打たれたるこの電報は、いかに意気の壮烈を示せるか、直ちにこれを撃滅せんの一語は、すでに敵艦隊を呑むの概がある。
 敵艦隊は旗艦スーヴァロフを先頭に、戦艦八隻、海防艦三隻、装甲戦艦三隻、保護巡洋艦六隻、駆逐艦十三隻、補助巡洋艦六隻、義勇艦隊五隻、ほかに運送船十隻、タンク船一隻、工作船一隻、病院船二隻を伴いたる大艦隊、舳艫(じくろ)相ふくんで台湾海東を北上し来たる雄姿は、いかなる天魔波旬も近寄り難き勢いを示している。
 敵艦隊は最初わが仮装軍艦信濃丸によって発見せられ、続いて軍艦和泉のために、大胆なる追跡を受けた。和泉は午前七時より十一時にわたりて、敵艦隊と駢行しつつ航進したのであるから、敵の艦隊配置より、平均速力に至るまで、最も正確に算定し、無線電信によりてこれを根拠地にある東郷提督に報じたので、わが艦隊が敵を撃滅せんとして結束したのは、実にこの時であった。
 両艦隊の遭遇したのは、対馬の東南、沖の島付近で、日中の戦闘において、敵艦四隻を撃沈し、残余の諸艦に多大の損害を与えたが、夜に入りては、満を持して放たざる水雷艇をもって、沈衰せる敵の勢力を衝動し、翌朝に至りてニコライ一世以下の四艦を拿捕し、ロジェストウィンスキー提督、ネボカトフ提督以下の主脳を生擒し、敵艦隊のほとんど全部を、日本海の底の藻屑(もくず)と化せしめた。
 必勝を期しつつも、なお心の底に多少の不安を抱かせた大海戦が、理想以上の勝利を博したので、満州軍は全く後顧の憂いを一掃するに反し、敵は胆落ち気()え、絶望の嘆声を発するに及んで、米国大統領の調停となり、彼我全権のポーツマス会議となり、幾回かの折衝を経て、めでたく平和克復の曙光を見ることになった。
 平和談判に伴う休戦、平和克復後の撤兵手続き、鉄道の引渡し等、諸般の解決を遂げて、満州軍総司令部の凱旋したるは十二月七日であった。



最終更新日 2005年10月04日 15時52分45秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「五〇 凱旋して新たに参謀総長の職を襲う」

五〇 凱旋して新たに参謀総長の職を襲う
 熱狂したる市民は、雲霞のごとく停車場付近に麕集(きんしゆう)し、幾百千の団体は、歓迎旗を押し立て、停車場より宮城に至る道路は、堵列兵と歓迎団体とのために、立錐の余地なきばかりにうずめられた。
 儀仗兵指揮官は佐久間大将、参謀は菊地中佐で、停車場内に司令部を置ぎ、構内ホームには、親任官、勅任官、奏任官、外国武官、陸海軍人、新聞記者、市区名誉職等、さしもに広き停車場内に、一条の通路もなきまでに充たされた。
 午前十時三十九分、この名誉ある総司令部を載せたる汽車は、前頭に日章旗を交叉し、室内に緑滴る氷室杉の装飾を施し、徐々としてホームに入った。この荘厳なる光景に打たれて、満場(しわぶき)の音さえなく、息をためて(どあ)の開くのを待った。
 やがて駅長の開扉によりて陸軍省より出迎えたる宇佐川中将は、第一に下車し、続いて副官の先導にて、総司令官大出元帥、次いで総参謀長児玉大将は、黒羅紗(らしや)の戦時服そのままに下車した。
 今まで鳴りを静めた出迎えの貴紳や群衆は、何者か絶大の威力に指揮せられたように、万歳の歓声を絶叫し、しばしは鳴りを止めなかった。
 かくて総司令官総参謀長以下は、歓迎の縉紳(しんしん)に送られて、車寄せから参内の順序正しく馬車に搭乗した。第一に、天皇陛下の御使たる鷹司侍従武官、次に大山元帥は尾野中佐と同乗、次に児玉大将は渡辺少佐と同乗、次に井口少将と古川少佐、次に松川少将と高柳少佐の順にて、前後に儀仗隊を付せられ、どよめき渡る民衆の万歳を浴びつつ、二重橋正門より参内、南車寄せにて下車し、式場たる千種の間に進んだ。
 玉座の左右には山県参謀総長、桂総理大臣、松方・井上の二元老、山本海相、寺内陸相、伊東軍令部長、伊集院次長、石本大本営軍事部長、長岡参謀次長以下の将星、綺羅星のごとくに整列する。
 陛下には岡沢侍従武官長の奏請により、大元帥の御軍服を召され、皇太子殿下、貞愛(さだなる)親王、威仁(たけひと)親王、載仁(ことひと)親王、菊麿王の各殿下を従えさせられ、式場に出御あるや、大山総司令官の陸戦経過の奏上を聞こし召され、優渥(ゆうあく)なる勅語を賜わった。次いで、皇后陛下にも拝謁仰せ付けられ、おわって東溜りの間で午餐を賜ったが、席上山県元帥は大山元帥、児玉大将以下の勲功を称える演説を試み、両陛下の万歳を三唱したが、かくのことき破格のことは、実に空前であった。読者よ、これが往年徳山の鎮守の森で漂落(ひようらく)に泣いたる百合若なることを記憶せられよ。
 征戦二年、始めて家門に入りたる大将は、一家団欒のめでたき宴に、楽しき一夜を明し、始めて家庭の主人(あるじ)となったのである。
 東京市の凱旋軍大歓迎は、同じ月の十七日に、上野公園において開催された。市民がこの日を晴れと装飾した市中の美観は、時ならぬに百花欄漫の美を競い、老若男女()をなし、幾百万の人出であったが、朝来天候険悪にして寒威は骨を刺すばかり、まして霏々(ひひ)たる細雨は煙のごとくに降りそそいで、戎衣の袖は絞るばかりにしおたれ、群衆は濡れ鼠となりながら、忠勇義烈なる諸隊を歓迎した。
 めでたき凱旋軍は、越えて二十日に復員令を下され、児玉大将は満州軍総参謀長の職を解かれたが、当時媾和談判の結果が、国民の予期に反したので、政界動揺の兆が現われたのみか、議会の開期を眼前に控えているので、桂首相は政権を何人(なんびと)かに譲ろうという下心があった。世間では早くも児玉内閣ということを口にするようになって、揣摩(しま)臆測の下馬評が盛んなので、機敏なる大将は、早くも風雲の渦中を脱すべく、翌三十九年の一月二十四日、台湾に帰任して、世間の耳目を避けた。
 しかしこの有為なる人傑を、長く辺土に置くことは事情が許さぬので、四月十一日に台湾総督を免ぜられ、参謀総長に任ぜられた。大将のこの任官は、実に適材を適所に置いたもので、朝野一人の反対者なく、戦後の軍国は、この明智なる謀将によりて、一段の光彩を放つべく期待せられた。
 四月三十日には凱旋大観兵式が行われて、大山元帥は当日の諸兵指揮官を命ぜられ、大将は参謀長に任ぜられた。これに参加する将士はみな歴戦の勇将猛卒で、死生の(ちまた)を跋渉し来たりたる武夫(もののふ)である。その赫々たる武勲を後世に止むべき未曾有の観兵式は、一糸乱れず整然として行われ、軍紀大いに振いて、さすがに常勝軍の名を恥かしめぬものであった。式終るや、さらに凱旋大行軍は行われ、青山の集合地より三宅坂へ出で、半蔵門より竹橋を過ぎて、和田倉門前より馬場先の凱旋道路を二重橋に至り、遥かに皇居を拝して、府立第一中学校前にて解散したが、行軍の始まりは零時五十分にて、最終部隊が最終地点に着したのは、実に午後六時であったのを見ても、その兵員のいかに多数なりしかが推知される。
 大将は軍人として現に参謀総長の任にあるが、往く所として可ならざるなき大手腕は、大将を労して、南満州鉄道株式会社の設立委員長たらしめた。
 南満州鉄道はポウツマス条約によりて、露国よりえたる東清(とうしん)鉄道の一部、長春より奉天、大石橋を経て、大連に通ずる線である。この鉄道を政府は半官半民の経営にして、大いに殖産興業を図るべく画策したので、一方には軍事上の関係もあり、設立委員長として大将を推した。大将も鋭意熱心、全力を挙げてこれに当らんことを期したが、就任後わずかに一週日にして、忽焉(こつえん)として将星()ち、絶代の人傑は空しく白玉楼中の客と化し去った。国家のため偉大なる損失たるやもとより論なけれど、私情よりしても、日本の誇りたる名将にして、大政治家の質を備えたる将軍を失った遺憾は筆舌の尽すところではない。けたたましき号外は都大路に馳せ違いて、人々は驚愕と不安との目をみはった。



最終更新日 2005年10月05日 00時21分43秒

杉山茂丸『児玉大将伝』「五一 絶代の偉人、溘焉白玉楼中の人となる」(終)

五一 絶代の偉人、溘焉白玉楼中の人となる
 戦勝の日東帝国を飾れる偉大なる第一人、児玉大将の薨去は全く夢のようで、何人(なんぴと)もそれを信ずる者がないほどである。恐らく大将の永き眠りにつきたる尊き遺骸を、眼のあたり見たる人といえども、退いて黙考する時は、大将はなお健在するかと疑うくらいであろう。大将の薨去は実に突然であった。
 涼風(たもと)に入りて、羅衣(らい)霞よりも軽き七月二十一日の朝、大将は心地(つね)ならずとて、日頃伺候する多納主治医を招いたので、国手は直ちに参邸して診察すると、体温やや高しといえども、わずかに三十七度六分、咳嗽(がいそう)もなく、頭痛もなく、食欲も平生に異ならぬので、かえって発熱の原因が疑われた。恐らくは軽微なる感冒であろうと、大将に勧めて一日の静養をとることにしたので、大将はその夜大島大将の送別会にも出席せず、室内に閉じ籠って書見に耽っていた。
 翌二十二日の朝、多納国手は再び伺候して診察すると、熱度は依然として三十七度五分、昨日よりはわずかに一分下がったばかりである。
「ご気分はいかがでいらせられますか」
「いや、お陰で非常に快くなった。……やはり餅屋は餅屋じゃ」
 大将は例の通り気軽く笑って、多納国手を帰してから朝餐(あさげ)を摂り、長椅子を窓の下に運ばせて、青葉をくぐる清風に胸を吹かせ、新聞を読みなどして、極めて心地よげに見えた。やがて昼餐にはパレージに牛乳を注いだのを喫している所へ、台湾から上京した後藤民政長官が来訪したので、直ちに居間に請じ入れ、台湾の近状やら、南満鉄道のことなど、うちくつろいで物語り、刎頸(ふんけい)の友垣の話は、いつ尽きるとも覚えぬまでに倦まず飽かず長時間会談して、長官が辞して帰ると、また長椅子に横臥する間もなく、点灯頃(ひともしごろ)になったので、晩餐には淡白なものをと望まれ、日本料理を喫して、夜に入ってからも令嬢や令孫を集めて、愉快げに物語をなし、九時頃二階の寝室へ退いた。
 大将就寝の後も、奥座敷は片付け物などにしばし賑ったが、九時半頃一通の電報が届いたので、侍女(こまつかい)は寝室に伺候してそれをすすめると、早やうとうとと華胥(かしよ)に入った大将は、わずかに眼を開いて一読したまま、またすやすやと眠ったので、侍女は音せぬように(どあ)を閉め、そのまま退出した。
 夜はようやくふけて、風さわさわと葉末に渡り、静けき常闇の底に森羅万象を引包みて、活動せる人の世が全く休息に落ちたる時、何人(なんぴと)も眠りの外の出来事を知る者はなかった。
 翌二十三日の早朝、朝涼に車を駆って、多納主治医は診察にと伺候した。夫人松子の方は国手を引いて席が定まると、
「閣下はいかがでいらっしゃいますか」と、国手は最早全快したことであろうと信じた。
「はあ、お陰で大分よろしくなりました。……今日はあの夙起(はやお)きの人が、まだ眠っています」
「ハア、それは熱のために、多少ご疲労なすったでしょう」
 侍女(こまつかい)のすすめる茶を手にする途端、二階に当って、(きぬ)を破るかとけたたましき侍女の声。
「奥様、大変でございます。……ご前様がア」
 驚き叫ぶ声は調子を外れて、キンキン声に鳴り渡った。
 多納国手は覚えず立ち上った。夫人も続いて立って急いで二階へ上ると、何事ぞ、昏々として意識なき大将を、臥床の上に見んとは。多納国手は我と心を静めて、直ちに聴診器をとったが、人事すでに遅れて万事窮す。夜をつかさどる魔神は、脳溢血の病魔を使嗾(しそう)して、絶代の人傑を奪い去ったのである。東を枕に寝床の上に横たわりて、顔面に()の苦悩の(さま)だもなく、眠れるがままに大将は神に帰したのである。五尺の残骸ここに止まれども、英魂去って那辺にか飛ぶ。人中(じんちゆう)麒麟(きりん)はかくして永き眠りに就いた。
 悲報は足ありて駆けるがごとくに四方に伝わり、人々はただ甚大の驚愕に打たれて不安の眼をみはるばかり、口乾き舌硬ばりて声さえ出ない。
 大将の先輩たる山県、大山二元帥を始め、同僚たり知友たりとして親善なる寺内陸相、石黒軍医総監、後藤民政長官、宇佐川中将らの諸星は、変を聞いて取る物も取り敢ずに駆けつけ、内閣大臣、諸侯伯、朝野の縉紳は相前後して大将邸を訪問する者引きも切らず、ただ突然の凶変に呆れ惑うばかりである。折から首相西園寺公望侯は、かかることとは夢にも知らず、朝早く所用の使者を大将邸に送ったが、不時の大変に使者は宙を飛ばして引返し、この由を報告したので、首相も驚いて来会し、直ちに参内して、大将危篤の趣きを奏上したので、即刻病気御尋ねとして、陛下よりお菓子一折、皇太子殿下よりも同様の下賜品(くだされもの)あり、午後五時になって、左の叙勲の御沙汰があった。
              陸軍大将正三位勲一等功三級
                 子爵 児玉源太郎
明治三十七八年戦役の功に依り功一級に叙し金鵄勲章並に年金千五百円及桐花大綬賞を授け賜ふ。
  明治三十九年四月一日
 なお特旨をもって正二位に陞叙せられた。(また明治四十年十月に至り、父源太郎の功により秀雄氏に対し伯爵陞叙(しようじよ)の恩命を下された)
 二十四日始めて喪を発し、悲しみの中に納棺式を行った。導師は曹洞の森田悟由、北野元峰の両禅師で、遺族の拝訣に次いで、葬儀委員たる寺内、石黒、後藤、石塚の諸氏、山県、野津、伊東の三元帥、乃木、岡沢、大島の各大将、相次いで焼香し、式を終りて柩の中に安らけく納められた。悲しいかな、今よりは児玉大将にあらずして、大観院殿藤園玄機大居士たらんとは。
 (ああ)、身を周防徳山の一小藩、二十五石の中小姓から起して、兵部省雇陸軍権曹長より出身し、大臣大将に(のぼ)りて、満州の野に天下の強兵を粉韲(ふんさい)したる名将は、今や溘焉(こうえん)として幽冥の人となった。天憂い地悲しみ、夏ながら令風颯々(さつさつ)として、人の心の秋を覚らしめ、闔国(こうこく)憂愁の欝雲に鎖された。
 雋邁(しゆうまい)剛毅にLて多智多策なる大将が、棺を蓋うた日は実に五十五歳であった。国家多事の時、大将の前途はすこぶる期待さるるものがあった。むしろ千百年も大将の健在を祈ったのであるが、死はなお盗賊の夜来たるがごとしと言える諺のごとく、大将の薨去は夢にも予期せられざる訃報となり、国を挙げて青天の霹靂に驚かさるるの感があった。
 葬送は二十八日に青山練兵場において行なわれ、統監府書記官たる大将の嗣子秀雄は、急変を聞いて京城より帰朝し、喪主の(いみ)に服することとなった。
 葬送の前日、陛下は大将生前の勲功を思召され、日野西侍従を薬王寺町の邸に差遣わされて、人臣の栄を極めたる御沙汰書(おさたがき)を賜わった。
       御沙汰書
(つと)ニ身ヲ軍務ニ委ネ久シク力ヲ要職ニ(つく)シ新附ノ地ニ(のぞ)ミテハ治績大ニ挙リ帷幄(いあく)ノ謀ニ参シテハ武勲()レ隆シ今ヤ溘亡(こうぽう)(いずくん)悼惜(とうせき)()ヘム宜シク特ニ祭粢(さいし)ヲ賜ヒ以テ弔慰スベキ旨御沙汰候事
 この光栄ある御沙汰書に添えて、両陛下より祭粢(さいし)料五千円、白絹二(ひき)、供物一台を下賜せられたのみか、特賜金として五万円を下し賜った。
 悲しみの中にも、死後の光栄に充されて、葬儀の準備は着々として進行したが、折柄の微雨は蕭々として、人傑の溘亡(こうぽう)を悲しむがごとく、密雲低く垂れて、天地冥濛たる中に、二十八日の午前七時、儀仗兵指揮官大庭中佐の気をつけの号令は、この尊き遺骸をこの世よりあの世へ送る悲しみを含んで響き渡った。
 定めの出棺用意は成り、葬送者一同予定の位置につくや、午前八時、前への号令とともに、銃を(さかしま)にしたる前駆儀仗隊は、徐々として行進を開始し、哀しみの譜は地の底に滲み入るように悲しく響きわたる。
 畏くも御賜(ぎよし)の榊に次いで、各宮殿下ご寄贈の造花、朝野の縉紳より供えたる生造花三百五十対、禁軍の歩兵これを担い、次いで副導師佐藤鉄巌、導師北野元峰馬車にて先導し、銘旗は蕭々たる惨雨にぬれそぼちつつ、音もなく進み行く後より、勲章を捧持したる佐藤、東、曾田の各少佐は、歩調正しく跟随(こんずい)し、常雄、友雄の両令息は、香炉、位牌を捧げて、深き愁いに面も得上げず歩を運ぶ。
 故大将の遺骸を載せたる柩車は、近衛歩兵の一隊によって牽引され、棺側は岡沢、大島、乃木、黒木の四大将、宇佐川中将、松川少将、田中松石両中佐、渡辺少佐、藤崎大尉、吉富中尉、大島少尉らの各階級代表者に守られつつ、(わだち)を埋むる泥濘の中を、静かに進み行くのである。大将の愛馬舞鶴は、悄然として(たてがみ)を垂れ、馬蹄の響きも消ゆるばかりに牽かれた。
 喪主は素服に藁靴をうがち、青竹の杖をつきて、四途路に踏み荒されたる泥濘の中を、悲しみに(とざ)されて、重き歩みを運ぶ時、絹のごとき小糠雨は時に篠突く雨脚を誘いて、衣袂(いべ)も絞るばかり、長柄の傘に滂沱(ぽうだ)として降りそそぐ。喪主に次いでは、近親寺内陸相、石黒総監、後藤長官、それより遺族親戚の馬車、順をおうて従い、葬列二千余人の多きに及んだ。
 葬儀の式場は青山練兵場の北隅で、かつて故大将が幾度か武を(けみ)したる所、雨をかこつ一葉(ひとつば)タゴの名木は、葉末の露を玉と貫き、しとしとと枝垂(しだ)れたるは、非情の草木も愁いを分つかと憐れである。
 尊き霊柩を迎うべく、定刻に先立って参集したのは、閑院、久邇、梨本、竹田の四殿下を始め奉り、山県、井上、松方の三元老、西園寺首相、各大臣、外国大公使、駐剳(ちゆうさつ)武官その他各階級のあらゆる縉紳一万余人、三十余間に余れる控席に、立錐の余地なきまでに詰めかけた。
 式は午前九時三十分に始まり、式場正面に整列せる儀仗兵が十時を期して発射せる三回の弔銃の音は、怪鳥の叫ぶがごとくに響き渡り、白き煙は灰色の雲に低迷して、降りしきる雨脚を鮮やかに描き出した。
 十一時すべての式を終りて、霊柩は再び粛々として運ぼれ、青山墓地なる故川上大将の墳墓に隣りたる塋域(えいいき)に納められ、(とこし)えに安らけき冥土(よみ)の国へと界を(こと)にした。
 あわれ機鋒端睨(たんげい)すべからざる一代の英雄は、五十五年の波瀾ある生涯を、君国に捧げ尽して、一基の石碣(せきかつ)にありし世の名を止むるのみ。墓畔の春秋雨また風、依稀(いさ)として当年の名残りを止むる所、香煙(とこし)なえに絶えず、暮夜来たり弔う者は誰ぞ。

(終)


最終更新日 2005年10月05日 10時05分30秒