直木三十五「関ヶ原」一

「常に奉公人は主君より鞣を拶合せて残すべからず。残すは箏り。されど、つかひすごして借銭(しやくせん)するは愚人(ぐじん)なり」
 三成(みつなり)は居間の前の広庭へ、島左近勝猛(しまさこんかつたけ)と、蒲生郷舎(がもうさといえ)とを連れて出ていた。
 庭には薄ぐらいまでに、亭(ていてい)(そび)えた赤松が繁茂(はんも)していて、その下に潅木(かんぼく)と、雑草とがはびこっていた。それは、この城の築かれない前の山の姿と同じで――というよりも、山地(やまじ)そのままを庭にしたもので、もし、山地以外に手入れした物と云えば、粗末な手洗石(てあらいいし)履脱石(くつぬぎいし)とだけであった。
 その二つの石も、この山の石を、そのまま据えたものであって、履脱石には何の手も入れず、手洗鉢の石の凹みは、自然の凹みを一寸(ちよつと)深くしただけであった。
 油蝉(あぶらぜみ)がうんと止まっているらしく、鳴声が雨のように降っていたが、その松の木の問からは、遠くに琵琶湖が  この城の裾をひたしている入江のような、池のような琵琶湖つづきの入りこみには、百間橋が架っていて、その上を行交(ゆきか)っている人が眺められた。
 百間橋の橋詰からは、すぐ登りになって、松林つづきの中に、米藏、馬屋、侍屋敷などが、梢の中に、屋根をちらちらさせていた。
   「大手のかかりを眺むれば、金の御門に八重の堀、まずは見事なかかりかよ」
   「御門入りて眺むれば、八ツ(むね)造りに七見角(みかど)、まずは見事なかかりかよ」
と、当時佐和城の見物踊に唄われたように、城は要害に、造りは見事であったが、室へ入ると、壁は荒壁か、板張り、庭の造作は一切なく、二十三万石の大名の邸とは、外から眺めなければ、その価値が判らなかった。
 (しか)し、三成は、四万石しか取っていなかった時に、島左近を一万五千石で抱える金使法を知っていた。(もつと)も、島左近と云えば、陪臣中の屈指で、伊達(だて)政宗の片倉小十郎、上杉景勝の直江兼継、黒田長政の後藤又兵衛、徳川家康の四天王、宇喜多秀家の花房助兵衛と併称(へいしよう)されて、筒井順慶の家来としては出来すぎと云われていた男である。
 だが、左近が浪人した時に、抱えたいと云った諸大名が、左近への価は高々五千石であった。それを三成は四万石の身で、一万五千石を割いたのである。  いや、こう説明してはいけない。話はもっと興味がある。
 当時、三成は、他の武将達から、奸者(かんしや)小人(しようにん)として(ののし)られていたが、左近は一万五千石くれるから行ったのではなく、左近自ら、いくらでもいいからと、諸将の召しを拒絶して、三成の許へ申込んだのである。そして、その理由がいい。
「自分の畏敬(いけい)する人物は、太閤と、家康とを除くと二人ある。一人は直江兼継、一人は真田昌幸。所が、この二人が二人とも、貴下(あんた)の事をひどく称めているが、それが又自分の見る所とぴったり一致している。だから、抱えられるならここだと思うが、抱えるか()うだ」
 というのである。抱えた三成も三成、抱えられた左近も左近である。この話を聞いた時多くの人々は
治部(じぶ)め、算盤(そろばん)玉は弾けるが、戦が判らんから、左近を馬鹿値で抱えたのだ」
 と、評し、秀吉は、それを聞いて、微笑していた。だが、三成の抱えたのは、左近一人でなかった。蒲生氏郷の股肱の臣、蒲生郷舎の浪人した時に、又一万五千石で、抱えた、そして、これが又、左近と同じように、抱えられに来たのである。人々は又驚いた。そして、今度評したのは
「三成め、くすねた金が多いから、少しは罪亡しによかろう」
 という言葉であった。だが、直江も、真田も、関ケ原には三成の味方であった。左近も、郷舎も、東軍を八度まで撃破して、関ケ原で戦死した。


最終更新日 2005年11月19日 00時55分25秒

直木三十五「関ヶ原」二

 「石田治部少輔(しようゆう)不聞者(きかずもの)(利かん気、意地っ張り、自信の強い)にて候」――北川遺書記

 三成は、広庭の崖端に立って、左近を顧みつ
刑部(ぎようぶ)(大谷吉継)一人来ずとも、よかろう、山城(直江)と、真田とを語らい得ただけで、おれは満足だ」
「左様、石田、直江、真田と、(いず)れ劣らぬ曲者(くせもの)が、三人そろってよくも手を握ったと、後の世の語り草になりましょうよ、あはは」
「そうだとも、利長(前田)でさえ、江戸へ人質を送る世の中だからな――この二人を外にしては、毛利輝元――」
 と、三成は指を折った。
「兵は多いが、智恵が足りない。島津義弘、勇は余るが、将の将ではない――それから、――それっきりか」
「家康」
「それから――」
「まず石田に、島左近、あはは」
 陽がだんだん城の背後(うしろ)へ傾きかけて、落陽(いりひ)を受けた湖は、けたたましく閃いていた。
「家康め、毛利の家督、伊達の私婚、勝手に申合を破って――破るのはいいが、破られて黙っている奴の気持が判らない。清正などという代物(しろもの)は、この申合せを破られて、指をくわえて居るのみか、家康と婚約をして、それで豊臣の忠臣で御座い――。いや、加藤のみでない、福島、蜂須賀と、何うだ、この軍人共は――もう少し、軍人らしく、意地とか、恥とか――。秀頼公に告げずして、婚約してはならぬという事は、故殿下の御遺言でないか? それを正則、清正ともあろうものが、破っておいて忠臣顔は、故殿下を恥かしめ、秀頼公を軽じ、何が豊臣の為だ。前田に至っては、家康へ人質を送って、それで家康の機嫌をとったつもりで、機嫌をとられて喜んで引退るような家康か、馬鹿の盲目も余りひどすぎる。何処まで踏にじられ、はいつくばされたら満足するのか。平生わしをわんさん者(侫人(ねいじん))とか罵っているが、このわんさん者に何の面があるか。そして利口そうに、これも、内府(秀頼)の為だ、その内に家康が死ぬだろうからと、自分が死ぬか、人が死ぬか、明日の命が判るとでも云うのか。所詮は、家康に弓を引いても勝味が無いからというのだろうが、わしは勝つ。郷舎、何うだ。刑部が味方せずとも、わしら三人で、家康に一泡ふかせられる とおもうが、駄目か」
「勝敗は別だ。やる事だけでいい」
「勿論な-llだが、わしは勝つぞ。これで、人の利さえあればな、真田と直江とはいい。心にかかるのは西国方だ」
「左様、徳川の強味は、譜代の臣の多い事、近頃では万石以上のが四十人はあるだろう。これが一生懸命に、狸の守をしているのだが、秀頼公には、清正という笑わせもの、正則という智恵足らず、利家という――どれ一人と云って居ない。皆利さえあれば、誰の方へでもつく人間ばかりだから、故殿下はえらかった。これを器量一つで押えて行ったのだから――」
「その事になると、この三成は十分の一も及ばぬの。一体、郷舎は別として、わしは寺小姓出、この左近は対馬(つしま)の百姓上り、軽蔑したりするのも無理は無い。それを故殿下は、自分があれだから少しも気にとめず、器量に応じて、禄も仕事も下されたが、近頃はまた家柄だ、門閥だ、家康は源氏の嫡流だと1秀頼公までを成上りあつかいにして――成上り者が恩知らずか、代々の武家が頼もしいか。今にみるがいい」
「天下(ことごと)く利に走る時、一人(さかしま)に走るのは男としておもしろい仕事だ」
 廊下に足音がしたので振向くと、白の練絹に、面を深く包んだ大谷吉継が、妻戸の陰から姿を現して、三人をみると
「戻って来たぞ、治部」
 と呼びかけた。
「云出したからには引かぬおのしの事だからの」
 と、云いつつ室へ入って、歩いてくる三人に
「手立を聞こう」
 と、声をかけて、座にあった三成の扇を開きつつ
「急ぐとあついの、いい風だいい風だ」
 と、夕焼雲だけが、湖上に赤く残っているのを眺めつつ、小姓が次々に運んでくる燭台に、眼をしょぼつかせていた。



最終更新日 2005年11月19日 01時49分26秒

直木三十五「関ヶ原」三

 「治少(三成)御奉行之其随一なる顔に候つる。少も、そむけ候へば忽ち其ま・、さはりを為す(じん)に候間」――木食上人(もくじきしようにん)より、関ケ原役後、家康へあてて、三成との無関係なりし事を陳弁する書の一節。
 慶長五年九月十四日、大垣城において三成、宇喜多秀家、島津義弘、同豊久、大谷吉継と五人ぎりの軍議が開かれていた。
「守って戦うか、退いて戦うか――とにかく、幼君の御出馬を、便々として待つ事が出来なくなった、待たせておく敵でもないし」
 三成はこう囗を切った。大阪城にいる毛利輝元に、秀頼を頂かしめて後詰をさせる約であったが、出馬せんとした時に、増田長盛の裏切説が、流布されて、そのまま中止となったのである。そして、その間に東軍は岐阜まで迫ってきて、ここ大垣城を根拠とせる西軍は、今宵に進退を決する必要があったのである。
「城を守って、幼君を御出馬させるようにするのだな」
 と、秀家が云った。義弘は、それに応じて
合渡(こうど)に破れて、ここへ退いた以上、それが万全の策だ」
 と云った。合渡川の戦に破れた時、義弘は横撃していま一戦と云ったが、三成は無理に入城をすすめたのである。
「城を固くしておいて、後詰を関ケ原一体に布陣させておくなら、十日、二十日、左右無(そうな)くは落とせまい、その内に、御幼君の出馬あらば、東軍に裏切りが出よう――裏切らぬまでも弓引かぬ者が多々出よう」
「それも上策。だが、今度の戦は、地の利、天の時よりも人の和の事だ。人に頼る(はかりニと)は、一切考えてはならぬ。御出馬無くとも、援軍が無くとも、敵を破るという事が肝心だ」
「勿論、破るという法さえあれば」
「それは、関ケ原へ出て、一戦する事だ」
 三成はこう云って、懐中から】枚の地図を取出した。義弘は、それに目もくれず
「敵を知らぬ事をいう。無謀だ。兵を知らぬ。雌雄を野戦に決するなら、何故、合渡でわしが云った時に、一戦せぬ」
「あの時には兵が少なかった」
「味方も少ないが、敵にも、家康はいなかった」
 家康を眼中におくという事は、何故か、三成を快よからず思わせる事であった。義弘がこういうと三成はすぐ
「家康がいるから野戦はできぬというのか」
 この言葉に、義弘の怒ったのは当前(とうぜん)である。
「家康をわしが恐れると云うのか。馬鹿な、長久手(ながくて)では故殿下をさえ破った程の者を対手(あいて)とするに、そうそう無手の戦が挑めるか」
 三成も「不聞者」であったが、義弘も「不聞者」であった。
「無手でない。わしには成算がある。第一このまま籠城して、味方の和はくずれぬと思うか、人の頼みにならぬ事は、輝元の出馬のみでない。秀秋も、安治も、頼めねばこそ、今日の軍議にも加え無いではないか。その頼めぬ者を頼んで、後詰として、もし裏切られたら何うする。城は孤立、味方は同志討」
「裏切りの出る出ないは、野戦にしても同じ事だ」
「いいや、ちがう。野戦は陣地の割り方にて如何ともできる。ここに、この地図が、関ケ原陣地割の絵図がある」
 と、三成は(ひろ)げた。
「家康に対して、日を延せば延すだけ、裏切者を多くする事になる。わしは、何うしてもこの際決戦したい。この陣地割に非分があらば聞こうが――」
 披げた地図に割当てられている陣地は、後世の戦略家をして、この際の布陣としては、これ以上の事が出来ないと、嘆称させたものである。それは、中仙道を挟んで半月形に東軍を迎え、よし秀秋が内通しようとも、あの際右翼が戦いさえすれば西軍の勝になったであろうという、到底刀筆吏(とうひつり)上りの三成の計劃(けいかぐ)とも思えぬ上手なものであった。
 義弘は、三人が覗込んでいる内、一人眼を閉じて頤鬚(あごひげ)を撫でていた。いつも三成が軍略上に囗を出し、それが、いつも一理あって、結局三成に従わなくてはならなくなる事に不快であった。三成には多少の恩こそあれ、戦には一歩も劣らぬ――というよりは、眼中において無いのに、いつも圧迫されるのに不満であった。
 ここまで出て来た以上、戦わずに帰るのは、島津の面目として、故殿下に対する道として出来ぬ事であるが、三成の指揮のままに戦おうとは思わなかった。
「成程、これなら――」
 と云って秀家が顔を上げた。三成は
「去る者は去らしめ、裏切る者は裏切らせよう――よしわしの一手になろうとも」
 というと、義弘は
「わしも、一手で戦ってみせよう」
 と、呟くように云った。
 雨がざんざん降りになってきて、風さえ加ってきた。三成は、その中を、全軍即刻、関ケ原へと命令を下した。



最終更新日 2005年11月19日 01時55分13秒

直木三十五「関ヶ原」四

 「真田左衛門佐(さえもんのすけ)は常に東照公に敵対して身に村正の刀を離さず、これ村正は徳川家に不祥なるものと云はるゝを以てなり、また石田治部少輔は憎からざる者なり、人各々其仕ふる所の為にす。(いやしく)も義に()つて事を行ふ者は敵と(いえど)も憎むべきに非ず」――水戸光圀「西山遺事」
 九月十五日(太陽暦十月二十一日)午前一時。
 秋雨(さみだれ)の降るなかに、篝火(かがりび)が時々、山風に煽られながら赤々と燃えていた。近郊から狩集められた百姓は、堀を掘ったり、矢来を結んだりしていた。三尺ばかり掘られた堀には雨水が流れ込んで、その上に木の葉が一杯浮かんでいた。百姓達は股引一つの裸体(はだか)で、貰ったばかりの青差を大事に腰へ釣って、風が渡ると、篝火の火の粉の乱れ散ってくる堀の中で、土をえっさえっさすくい上げていた。
 蓑をきたり、厚紙をきたりした兵士が、槍をもって、竹束の積上げた所へ立って、百姓の働くのを見ていた。大吉大一大万と、白地に墨で大書した三成の旗は、雨に重く垂れ下って、時々の山風に裾をひらめかすだけであった。
 敵から眺められる陣地にいる人々は、たった一つだけ篝火を()いて、その場所を示しているだけで真っ暗な山の雨の中に、大将は板を枝から枝へ渡した下に、兵は大木の下に、馬は茣蓙(こざ)をきたまま雨の中に一そうして、大荷駄が、こっそり凹地で釜をすえて、谷水で兵糧をつくっていた。
 夜明け近くなる頃、雨が上って、山々にこめていた雨雲が、だんだん吹払われて、時々白い秋空らしい雲がちらっと見えてはすぐかくれた。梢からは時々、思出したように、雨滴が落ちかかって、遠くの山では、風音が渡っていた。
 赭土(あかつち)の土地は十分雨にしみて、落葉が一杯くっついて、その中を、出来立ての走り水が幾筋も流れていた。馬の足跡や、槍の石突の凹みが一面に散って、木の問木の問には、いろいろの色の(よろい)がちらちらと、何の山々にも、白い旗が立陳(たちなら)んでいた。
 槍の穂に、時々太陽がきらつく時分になると、垂井の村から、中仙道へかけて、一面に東軍が満ちてきた。街道は一杯に黒くって、松林の中に一部隊、山裾に沿って一隊と、ゆっくり歩みながら、だんだんと近づいてきた。
 垂井から関ケ原村へ入ると中仙道は、左へ、北国街道は右へと分れる。ここに陣して右を見ると、相川山(あいかわさん)、正面に(そび)える天満山(てんまざん)、両山の問に北国街道。街道に沿って右に石田三成、左に島津豊久、天満山には小西行長、宇喜多秀家。その左に中仙道があって、そこを(やく)しているのが大谷吉継。
 左手を眺めると松尾山に小早川秀秋(裏切)その麓に、脇阪安治以下四将(裏切)。この間の距離が約一里である。
 その左手二里半の後方、南宮山(なんぐうざん)には、毛利秀元、吉川広家(裏切)の二軍、その山麓、垂井村へ通じる街道には、長束正家、長曾我部成親(ちようそかべなりちか)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。(不戦)
 三里半に亘って半月形を為し、中仙道を南宮、相川の両山の間まで進まぬと戦えない東軍をすっかり包囲すると共に、裏切りの恐のある吉川、毛利には押えとして、長束、長曾我部を配し、秀秋には吉継を目付(めつけ)として、主力は、石田自らと、島津、宇喜多、小西の陣であって、総軍十万八千余人。
 裏切りが出ても、長束等がその後方を突けばいいし、裏切らなかったなら、街道を進んで東軍の背後を衝いていい。もし、この戦に長束等が時機を逸さず、吉川を恐れずに戦ったなら、どうなったか判らないのであった。
 この西軍に対して東軍は、福島正則、藤堂高虎、本多忠勝等を左翼に、加藤嘉明、井伊直政、松平忠吉、織田有楽(うらく)、黒田長政等を右翼に、その後方に家康自ら。後詰としては浅野幸長、山内一豊、池田輝政等。この総人数七万五千三百三十。慶長五年九月十五日、午前八時。戦はまず井伊直政が、宇喜多へ挑んだ発砲によって開始された。



最終更新日 2005年11月19日 01時56分04秒

直木三十五「関ヶ原」五

 杉の大木の下で、(かぶと)をつけず、黄麻の(あわせ)に鎧下だけの三成は、渋る腹をこらえながら、石田三羽烏の一人、舞兵庫(まいひようご)と戦況を語っていた。
 間近い丘の上に据えた二門の大砲は、時々凄まじい轟音を立てて、硝煙の臭と、白煙とを、森一面に漂わせた。銃声と、喚声とが合して、それがもう一つ山々に木魂(こだま)して、凄まじいもよめきで山野を包んでいた。
「戦わなくていい。人は頼まぬ」
 と、三成は吐出すように云った。戦は西軍に勝味があり、今、島津の軍が戦ってくれたなら、敵を駆逐するのに十分であった。然し、島津は再三の使に返事をせず、三成自ら馬をとばすと、豊久は
「勝手に戦う、御指図はうけぬ」
 と、突放したのである。三成も、こう云われて二度と頼む男で無いから
「意地で、豊臣をつぶさるる所存か、よい心掛けだ」
 と云って戻ってきた。舞兵庫は
「島津は島津として、殿までが、勝手に戦うと仰せられては、戦っている友軍に申訳が無い。秀秋が内通するせんに(かかわ)らず、合図は合図として打たせましょう」
 流れ弾丸が、音立てて飛去ったり、弾除けの幕に当って穴をあけたりした。戦は間近かでも行われているらしかった。
「わしに左近程の覚えがあるなら、真先に突いて出るが――」
 と、こう云って俯向いた。腹がだんだん痛んできたのであった。舞兵庫は、三成から、始めて愚痴に似た事を洩らされて、この人にもこういう弱さがあるかしらと思った。そして、頼もしいような、同情したような、同感したような、不吉な前兆のような――そうして又、自分が、島、蒲生と並び称され(なが)ら、武勇という点において無能である事を、三成から云われているような――、三成と同じ器量の種類をもっている兵庫は、参謀として
烽火(のろし)をあげましょう」
 と、再び主張した。
「よいと思うなら打ってくれ。どうも腹が痛んでいけない」
 と、三成は下腹を押えた。
「天気が悪うて、砂煙が立たぬが、(とき)の声から判断するに、敵の後詰はまだ動いておりませぬな。後詰の動かぬのは、秀秋の動静が判らぬ為めで、この烽火一つが、勝敗の分れという事になる」
「兵庫、敗れてもいいそ。海道一の弓取りとここまでの戦をしただけで――百戦煉磨の肥州め、眼を剥こうぞ。あいつは朝鮮で行長に鼻を明かされたが、今日は又、算盤玉の三成が、生れて始めての戦
に、日本、の戦上手と――あはははは、四分六に戦っているのだ。わしも、わしの力がよく判ったよ。敗れてもいい」
「未だ敗れるとは決りませぬ」
「いや、島津があれでは、そうそう味方も踏張れまい」
「殿は、あきらめが早い。とにかく烽火を打ってみよう。その上、あきらめるなら、あきらめると――!」
「そうだ。裏切る奴は裏切るがいい。四面は(かく)皆敵になれ。事々に、陰険、策を弄する人間だとばかり思っている奴輩に、三成が最後に1最後の戦を見せてくれる」
「では、殿、烽火を」
 と云って兵庫は去った。三成は腹を押えたまま
「長政め、一揉みにするつもりでかかったに、馬鹿め、もう一刻の余になるのに、自分の方が揉まれている、あははは」
 と、笑って、兵を顧みた。
「上った」
 と、兵が云った。笹尾山と、天満山の頂から、白い煙がすくすくと、秋空に立って、やがて風に乱れて舞下り、流れなびいて――とまた、すくすくと白煙が高く揚って、南宮山の、吉川、毛利へ
「下撃せよ、時機よし」
 との信号三発。
「人を頼むなと云ったおれが、烽火を頼むなど――!もし、これで金吾が戦わなければ、却って味方の士気を損じるが――それもよい」
 と、思った時、(にわか)(せき)が出てくると同時に、腹が堪えられなくなってきた。三成は、熊笹の中へ、がさがさ入って行って、帯を解いた。その途端に、胸からこみ上げてくる生温かいものがあった。吐出すと、それは真赤な血であった。
 午前八時から、行長、秀家、吉継、三成と、四隊だけで戦って、十二時半になっても、勝色は西軍にあった。



最終更新日 2005年11月19日 01時56分50秒

直木三十五「関ヶ原」六

 三成は、また笹の中へしゃがまないと辛抱できにくくなってきた。行長破れ、秀家走り、東軍の全部は、三成一人と、泥濘(でいねい)に滑り、(どぶ)に陥り、落葉に転び、木根につまずきつつ、槍を揃えて突入してきた。
 矢来は半ば倒れて、倒れた上、その下に積重って死骸が転がっていた。太刀打、取っ組が、矢来の倒れた上で始まった。半倒れの矢来の所では、槍、刀より、双方の兵が、ただ矢来を倒そう、倒されまいと、手をかけて押合っていた。
 後方からくる兵は、その隙から槍で、突合っていたが、矢来へ押しつけられると、同じように槍をすてて矢来を押合った。
 島左近は、太閤から拝領した銀造りの薙刀(なぎなた)をとって、時々五十人程の兵と共に、矢来を破って入ってくるのを見ると、突立てて退けた。左近が馬上で、薙刀を振りつつ馬を進めると、敵は泥に滑りつつ、矢来に踏込んで脚をとられつつ、すぐ逃出した。そして、堀へ陥ったり、死体に(つま)ずいたりして半町位は退却した。
暇乞(いとまこい)だ」
 と、呟いた左近は一騎で、後方(うしろ)へ去った。丁度その時、三成は又熊笹の中へしゃがんでいた。戦馴れない三成は、昨夜来の雨に打たれて肌衣にまで水を透した上に、秋の山気の冷たさと、半焚き飯と、谷の水とで、すっかり腹をこわしたのであった。そして、痛むと同時に、発熱して、咳まで出てきた。
「おお」
 と、三成は熊笹の中から顔をあげる。勝猛は
「まだおわりいか」
 と云つて笑いつつ
「昌幸にも、山城にも称められよう。上出来の戦で、勝敗は末の事だ。ここまで、狸対手に戦えば武士としては本望だ。武田、上杉とてもこうは戦えまい。随分御健固に、大阪で再挙をすぐにの。すぐ落ちられい。二三里が程は左近一人でも食止め申そうから――永々と御世話――lI」
 と云った時、三成は笹の中から出てきた。
「左近」
 と云って、手を延して
「わしこそ世話になった。故殿下に、よろしく申伝えてくれ」
「心得た.くれぐれも大阪の再挙を――それに身体を大切に――」
「左近、吐血したぞ」
「いよいよ――では、思いざま働いて、もう御互に惜しくもない命だ」
 と、手を握ったかと思うと
「せかず、周章(あわ)てず、二三里が程は心安くにのう」
 と云って手を離すと、ずかずか歩いて行った。そして、馬の側まで行くと、三成の方へ馬首を向けて、鞍を叩いた。三成が頷くと、微笑して小走りに、自分の馬へ行って躍顧と
「さらば」
 と叫んで駆去った。
右手に低く見える北国街道には、一人の影も無かった。島津の隊が戦っているなと三成は思った。
「わしの落ちて行く間、義弘よ、戦っていろ。わし程の者を落す為めに戦うという事は名誉だぞ」
と、こう思いつつ鎧下を脱いだ。
「郷舎は」
と、兵に聞くと
「さあ」
と、兵は顔を見合せた。そして
「殿、心置きなく落ちられませ」
と、云うと、兵はつぎつぎ叩頭(おじぎ)をした。
「死んでくれるのもよいが、わしは腹を痛めているし、道案内がこう二三人ついてきて(くれ)ぬか」
と、云った三成は、短刀一本も懐にせずすっかり姿を変えていた。
「兵庫」
と、大声を出すと、兵が
「舞殿は、わしも戦うと、さき程出て行かれました」
と答えた。三成は、三人とも、そして、こんな小者までが、敗軍と知りつつ、平然として留まっているのに涙が出てきた。
「故殿下は、見ていて下さるぞ、地下で、皆そうだろう。きっと見ていて下さるぞ」
と、三成は、何を云っているか自分でも判らぬ位に、大声で叫んだ。



最終更新日 2005年11月19日 01時57分49秒

直木三十五「関ヶ原」七

 「また島左近、小幡信世(おばたのぶよ)、与次郎太夫等をその部下に有するを以て三成の智と徳とを見るべし」三上参次(みがみさんじ)
 「小幡助六郎信世といふ者あり、三成に仕へ二千石を()む。関ケ原にてその行方を失ひ、その跡を
 尋ねつ丶石山に到れり、郷民捕へて、家康の陣に送る。家康即ち、三成の所在を()ふ。信世答て(いわ)く、主の所在は吾れよくこれを知れり、されども今これを告ぐるは士道に反す。身は拷問に遇ひ、骨をひしがるともこれを明かすこと(あた)はずと。家康その志を(よみ)し(中略)(ゆる)したり。信世既に主に離れ、(中略)遂に自殺せりとそ」―― 「稿本石田三成」
 十六日の夜、いくらか腹がよくなったので、三成は、渡辺勘平、磯野平三郎、塩野清助の三人の従士と別れた。
 山にばかり寝ていた三成は、黄麻の袷をすっかり泥まみれにして、跣足(はだし)であった。熱はまだ下らなかったから頭が痛んで、手拭で鉢巻をしていた。
 三人と別れると、すぐ食物に困った。激しい下痢と、疲労と、空腹で、赤い眼をして、頬は削げ、髪は、(わら)でしばったまま、木の枝を突きつつ、夜に入ると山道をたどって、伊香郡古橋村の与次郎を(あて)に歩いていた。
 秋の山であったが、杉の多いこの辺では、栗のような木の実が無かったから、苅入り前の稲穂をつんでは、もみのままで腹をみたしていた。道傍に倒れた三成は
「殿下、御覧じませ」
 と云って微笑した。
「主も、御覧じませ」
 と云って俯いた。
「三成は殿下に酬いんが為め、盗みまでしております。主よ、教に従って、三成は自害をしませぬ、何処までも生きます」
 三成は眼をとじて、手を合せた。
「何一つ功の無いこの三成を、佐和山の城主にまで――その志に酬いぬうちに御外界(りこのたかい)なされ――いやその外にわしには、わしの意地張りもあった。わしの武略を見せよう為めの戦でもあった。然し矢張り、殿下に酬いようとする気は一番強い。それは、確かだ」
 暫く、横になっていた三成は、月がやや西へ傾くと、とぼとぼと歩出した。
「家康よ、関ケ原で勝ったとて、わしを倒し終えたと思うな。首をみるまで思うな。こうなっても、乞食より劣っても三成は、まだ負けたと思っていないそ。大阪城へ立籠った日を見るがいい。何うせ不治の病で倒れる三成だ。家も、妻も、名も、財もすてたわしだ。御前を倒しさえすればいいおれだ。こういう男子が世の中で一番怖いと云う事を知っているか」
 十七日の、月夜の明るい時、三成は与太夫の家へついた。戸を叩くと
「殿」
 と、すぐ与太夫の声がした。それは、三成が今つくと、誰かが、知らせておいたもののようであった。
「作っておきました」
 と云って、山の中の岩穴へ連れて行った。穴の入囗には薪が山のようになっていた。穴の中は板敷の二畳足らずであった。
「与太、ここは田兵(たひよう)(田中兵部大輔吉政)の領分だの。あれならいい、御前に迷惑はかけぬぞ」
 と云うと、与太夫は、水渇(みずつばな)と涙とを一所にして
「勿体ない、何を殿――何を殿」
 と、始めて泣いた。穴の中に座っていると
「三成は二度とここを出たくないような気がした」
「爺、韮雑炊(にらぞうすい)をくれぬか、わしは腹を痛めていて――」
 と、云うと同時に、咳上げた。与太夫は、はっとして、三成を押えた。
「見つかったら、その時の事だ」
 と、咳乍ら三成は呟いた。二十一日になると、三成はすっかり歩けなくなってしまった。与太夫が訴人したものがある、逃げてくれと、云ってきた時、三成は
「無駄だ、わしは歩けぬから――」
 と、淋しく云った。
「田兵に、乗物をもって来いと云ってくれ」
 と云って、寝てしまったまま、動こうともしなかった。



最終更新日 2005年11月19日 01時58分43秒

直木三十五「関ヶ原」八(終)


「一人位は――いくらなんでも」
 と、大阪の町を引廻されつつ、三成は考えた。
「大阪で無いか、一人位は太閤の御恩を」
 と、考えつつ、車に乗せられて町々を連れ廻られた。戻ってくると、室の中で
「人心悉く大阪を去ったか? いや、わし一人はとにかくいる。大阪で逢おうと約束した家来はもう来ている筈だ。それがわしを見ぬという事はない。いや、然し、今日は一人も見えなかった。わしはそればかり注意していたが――皆捕えられたかな。広い大阪に、一人や二人、わしの志を知ってくれる者がいようが――きっといる。いつかわしを救出しにくるだろう――いや、こんな事を考えるのでは無い、愚痴だ、自分の忘恩を胡魔化す為に、わしを罵り合う世の中だ」
 三成は、繰返し繰返し、愚痴だと思い乍ら、そういう事を取とめなく考えていた。
「こんなに人心は頼みがたいものかな――わしはキリシタンの教を聞いたが、自殺は罪悪であって天国へ生れ返れないと云った。今はっきりそれが判る。太閤に尽そうというわしの志は、志さえあれば、勝敗は天の時だ。この志を、事が成っても成らなくっても、(いき)ているかぎり続けているという事が大事なのだ。万全を尽したが、その志の無い奴に破れたので、わしの落度でない。そして、戦は破れたが、志は破られない。戦が破れた以上、せめて志だけでも長くつづかせて、生命のあらん限り、人々にわしを見せて、誰かにこの志を知らせるのだ。そして、天に(おわ)す太閤殿下に、こうしている三成を見せるのだ」
 十月一日(陽暦十一月六日)京都所司代奥平信昌は、堀川出水の邸から、三成を乗せた牛車を引出した。一条の辻から室町を下り、寺町へ来た時
「湯を乞いたい」
 と、三成が云った。警固は頷いて、信昌に耳打して、どっかへ行ったが、暫くして、干柿をもって戻った。
咽喉(のど)が渇きますなら、これを――」
「あまぼしか? それは(たん)の毒だから」
 と、云って、三成はこみ上げる咳をすると
「はは、今首を()ねられますに毒断ちとは」
「そちらに判る事でない」
 と、云った三成は、眼底(めのそこ)に浮ぶ太閤に
「殿下よ、わたしは、志を続けられるだけ続けます」
 と、語った。六条河原の刑場は、矢来の中、河原の上にあった。よく晴れた秋空で、砂の上へ座ると、正午の太陽が、三成の影をはっきり砂の上へ落した。
 七条の道場の僧がきて、三成の前へ払子(ほつす)をもって立ち乍ら
「我執、悪念をそのままにして彼の世へ参られては成仏成り難い。阿弥陀経に以願――」
 と云いかけると、三成は大声で
「貴僧達は(さむらい)の道を知らぬ。引導は受けぬ、引かれい。我執、悪念――はは、故殿下へ尽そうという我執、家康への悪念――」
 と、声を低くして
()はただ、主に酬いんとするのみだ」
 と云った時、太閤と、勝猛と、郷舎と、家来の顔が、思出された。僧が退くと、太刀取が嘗し衡へ廻った。
「龍之口では太刀が断々になった。こういう時に矢鳴りがして、助けに来んものでも無い。いや、これはつまらぬ考えだ」
「治部殿」
 と、太刀取が声をかけた。
「御辞世など――」
「辞世?――何も無い」
 刀の影が地へうつった。三成は心持うつむいた。
「わしを非難しないと、自分達の忘恩、不義、臆病が胡魔化せないから――」
 と、矢来で何か云っている人々に、云いかけた。
「御用意」
 と、声がかかった。三成は、急に胸がせき上げてきて、生温かいものが、かっと、囗一杯になった。
「殿下」
 と、思った時
「えいっ」
 と叫ぶ声がして、薄い灼熱が、首へ入ると覚えると、蒼白い光が眼の中一杯になって、すぐ真赤に変ると、すーっと紫暗色に消えた。
(終)


最終更新日 2005年11月19日 01時59分41秒