国枝史郎「五右衛門と新左」一

「大分世の中が静かになったな」
こう秀吉(ひでよし)徳善院(とくぜんいん)へ云った。
「殿下のご威光でございます」
徳善院、ゴマを磨り出した。
「ところが俺は退屈でな」
「こまったものでございます」
「趣向は無いか、変った趣向は?」
「美人でもお集めになられては?」
「少々飽きたよ、実のところ」
「それに(よど)殿がおわすので」顔色を見い見いニタリとした。
「うん淀か、可愛い奴さ」釣り込まれて秀吉もニタリとした。
後庭(こうてい)で鶴の声がした。
 色づいた(かえで)病葉(わくらば)が、泉水の中へ散ったらしい。
 素晴らしい上天気の秋日和であった。
「趣向は無いかな、変った趣向は?」
 秀吉は駄々をこね出した。
「さあ」
 と云ったが徳善院、たいして()い智慧も出ないらしい。
 トホンとして坐わり込んでいる。
「ほい」
 と秀吉は手を()った。「あるぞあるぞ珍趣向が!」
「ぜひお聞かせを。なんでございますな?」
「茶ノ湯をやろう、大茶ノ湯を」
「なんだつまらない、そんな事か」心の中では毒吐(どくづ)いたが、どうして表面は大恭悦で、ポンと
額まで叩いたものである。
「いかさま近来のこ趣向で」
「場所は北野(きたの)、百座の茶ノ湯」
「さすがは殿下、大がかりのことで」
 合槌(あいつち)は打ったが徳善院、腹の中では舌を出した。「へへ腹でも下さないがいい」
ふれ(、、)を廻せ! ふれを廻せ!」
 秀吉は例の性急であった。
大供(おおども)悪戯(わるさ)をやり出したわい。さあ(せわ)しいそ忙しいそ!」
 徳善院は退出した。
       ×
 石田治部少輔(いしだじぶしよう)益田右衛門尉(ましたうえもんのじよう)、この二人が奉行となった。
『さる程に両人 (うけたまわり) て人々をえらび、茶ノ湯を心掛けたる方へそ触れられける。大名小名これを承はり給ひてこは珍敷珍敷面白きご興行かな、いかにとしてか殿下様へ、お茶をば申べき、(のぞみ)ても(かなう)べき事ならず、かかる御意こそ有難けれと、右近の馬場の東西南北に、おのおの屋敷割を請取(うけとり)て、数寄屋を立てられける』
 こうその頃の文献にあるが、これはとんでもない(、、、、、、)嘘なのであった。みんなは迷惑をしたのであった。
『さて、和漢の珍器、古今の名匠の墨跡、家々の重宝共この時にあらずばいつを期すべきと、我も我もと底を点じて出されける』
 これはどうやら本当らしい。
 秀吉の御感を(こうむ)って、高値お買上げの栄を得ようか、お目に止まったに付け込んで、献上して知行(ちぎよう)増しを受けようかと、そういうさもしい(、、、、)心から、飾り立て並べたものらしい。
『さる程に時移りて、(すで)に明日にもなりしかば、秀吉公仰せられけるは、一日に百座の会なれば、天あけてはいかがかとて、(とら)の一天よりわたらせ給ふべきよし、仰出されけり。お相伴には、玄以法印(げんいほういん)法橋紹巴(ほつきようじようは)をめされける』
 これもまさしくその通りであった。
『大小名のかこひの前なる蝋燭(ろうそく)は、ただ万燈に異ならず、百座の会なれば、いかにも短座に見えにけり』
 これにも相違は無かったらしい。
『かくて時刻も移りければ、やうやう百座成就し給ひて、還御をよびたまふ。秀吉公西をこらんありければ、すこし引き退きて(かや)(いおり)見えにけり』
「玄以玄以」と秀吉は叫んだ。「ちょっと風流だな。何者か?」
「一興ある茶湯者(すきしや)でございます。(さかい)の住人とか申しますことで」
「おおそうか、寄って見よう」
『竹柱にして、真柴垣(ましばがき)を外に少しかこひて、土間をいかにもいかにも美しく(なら)させ、無双の蘆屋釜(あしやがま)を自在にかけ、雲脚(うんきやく)をばこしらへて、茶椀水差等をば、いかにも下直(げじき)なる荒焼をぞもとめける。その外何にても新きを本意とせり。我身はあらき布かたびらを渋染にかへしたるをば着、ほそ繩を帯にして、云云(うんぬん)
 これが庵の有様であり又亭主の風貌であった。
 亭主は土に額をつけ、かしこまって謹んでいた。



最終更新日 2005年10月14日 01時29分20秒

国枝史郎「五右衛門と新左」二

「作意の働き面白いな。手前を見たい。一服立てろ」
 秀吉は端座した。
 亭主、恭しく一揖(いちゆう)し、雲脚を立てて参らせた。
「これは、よく気が付いた。百座の茶、湯で満腹だ。かるがると香煎(こがし)を出したのは、言語道断云うばかりもない。……名は何んというな、そちの名は?」
「無徳道人石川(いしかわ)五右衛門(こえもん)。京師の浪人にございます」
「おおそうか、見覚え置く」
 で、秀吉は帰館した。
       ×
 伏見城内奥御殿。
 秀吉は飽気(あつけ)に取られていた。
 淀君は今にも泣き出しそうであった。
 小供の秀頼(ひでより)()い廻っていた。
 侍女達はウロウロまごついていた。
 」体何事が起こったのであろう?
 太閤殿下の衣裳の襟が小柄(こづか)で縫われていたのであった。
 驚き恐れるのは当然であった。衣裳の襟を縫ったのである。胸を刺そうと思ったら、胸を刺
すことさえ出来たろう。或は胸を刺そうとして、故意(わざ)と襟を縫ったのかも知れない。
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
 表も裏も騒ぎ出した。
 けっきょく石川五右衛門という、京師の浪人に(うたがい)がかかった。
「それ召捕れ」ということになった。
 秀吉の威光で探すことであった。苦もなく五右衛門は召捕られた。
 とりあえず長束正家(なつかまさいえ)が、取調役を命ぜられた。
「衣裳の襟を縫いましたは、いかにも私でございます。あまり縫いよく見えましたので。……別に他意とてはございません」
 これが五右衛門の申状(もうしじよう)であった。
「あまり縫いよく見えたというか? ふん」
 と秀吉は小首をかしげた。
「その者直々俺が調べる」
 秀吉は正家にこう云った。
 そこで五右衛門は破格を(もつ)て秀吉の御前へ引き出された。
「俺の体に(すき)があったと、こうお前は云うのだな?」
「御意の通りにございます」五右衛門は少しも臆せなかった。
「で、どんな時、隙があった?」
「ご退座というその瞬間、お体が(ななめ)になられました時」
「うむ、その時隙が見えたか?」
「はい、左様でございます」
 秀吉はちょっと考えた。
「よく申した、味のある言葉だ。斜? 斜? 側面だな?……いや全く世の中には側面ばかり狙う奴がある。とりわけ徳川内府などはな。……どうだ五右衛門、俺に仕えぬか」
「これはどうも恐れ入ったことで」
「得手は何んだ? お前の得手は?」
「はい、些少(いささか)伊賀(いが)流の忍術(しのび)を……」
「ほほう忍術か、これは面白い。細作(さいさく)として使ってやろう。……これ、この者に屋敷を取らせろ」
 こんな塩梅(あんばい)に五右衛門は、ズルズルと秀吉の家来になった。
       ×
「いるかえ」
 と云いながら這入(はい)って来たのは、お伽衆(とぎしゆう)曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)であった。
「やあ新左、まず這入れ」
 五右衛門はポンポンと座を払った。
 二人は非常な親友なのであった。
 その対照が面白い。
 新左衛門は好男子、水の垂れるような美男であった。
 それに反して五右衛門は、忍術家だけに矮身(わいしん)で、猪首(いくび)の皺だらけの醜男(ぶおとこ)であった。
 新左衛門は町人出、これに反して五右衛門は、北面の武士の後胤(こういん)であった。
 一人は陽気なお伽衆、しかるに、一方は陰険な細作係というのであった。
 が、二人には一致点もあった。
「世の中が莫迦(ばか)に見えて仕方が無い」ーー!と云うのが即ちそれであった。
 そうしてそれが二人の者を、ひどく仲宜(なかよ)くさせたのであった。
「五右衛門」
 と新左はニヤニヤしながら「俺は滅法(もう)けたぜ」
「お前のことだ、儲けもしようさ」五右衛門は茶釜を引き寄せた。
「まあ聞くがいい、耳を嗅いだのさ」
「え、なんだって、耳を嗅いだ? なぜそんなことをしたんだい?」五右衛門もこれには驚いたらしい。
手段()だよ、手段()だよ、金儲けのな」



最終更新日 2005年10月14日 10時40分17秒

国枝史郎「五右衛門と新左」三

「で、誰の耳を嗅いだんだ?」
「殿下の耳を、云うまでもねえ」
「へえ、それで金儲けか?」
「加藤、黒田、浅野、生駒(いこま)、そいつらの顔を(にら)めながら、殿下の耳を嗅いだやつさ。すると早速賄賂(わいろ)が来た。告口されたと思ったらしい。もっともそいつ(、、、)が付目なのだが」
「アッハハハ成程な。お前らしい遣口だ。人生(ひとのよ)の…機微も(うかか)われる。……それはそうとオイ新左、お前この釜に見覚えはないか?」
「どれ」
 と云って見遣(みや)ったが「アッこいつア楢柴(ならしば)だ!」
「殿下ご秘蔵の楢柴よ」
「どうしてお前持ってるのだ?」新左衛門は仰天した。
「どうするものか、借りて来たのさ。無断拝借というやつよ」
「それじゃお前、泥棒じやアないか」
「なぜ悪い、可いじゃないか。どうせ無駄に遊んでいる釜だ。二、三口借りて立ててから、こつそり返したら、わかりっこはない」
「そんな勝手が出来るものかな」新左衛門は感心した。「つまり何んだ、忍術だな。……忍術って本当に可いものだな」
「そうさ、お前の頓智(とんち)ぐらいな」
「なんだ、莫迦な、面白くもねえ」(いや)な顔をしたものである。
「おい五右衛門」と新左衛門は云った。「秘伝は何んだ、忍術の秘伝は? 思うに隙を狙うのだろう?」
「隙を狙うには相違無いさ。が、尋常の隙では無い。……用心から洩れる隙なのだ。固めから崩れる隙なのだ。開けっ放しの人間には、仲々忍術は応用出来ない」
「ははあそうか、これは驚いた。頓智のコツとそっくり(、、、、)だ。……頓智とは弱点を突くことさ。用心堅固の奴に限って沢山弱点を持っている。その弱点をギシと握り、チョイチョイ周囲(まわり)をつっ(、、)突くのさ。まとも(、、、)に突くと皮肉になる。皮肉になると叱られる。そこで軽くつっ(、、)突くのさ。……そうだある時こんなことがあった。『余の顔は猿に似ているそうだ。どうだ、ほんとかな、似ているかな?』こんなことを殿下が仰せられた。列座の面々一言も無い。こいつアどうにも答えられない筈さ。事実猿には似ているのだが、相手が殿下だ、そうは云えない。で、いつまでも無言の行よ。そこで俺が云ったものさ。『いえいえそうではございません。つまり猿の顔なるものが、殿下に似ているのでございます』とな。すると大将大喜びだ。早速拝領と来たものさ。アッハハハこの呼吸だよ」
「いや面白い、そうなくてはならない」五右衛門は感心したらしい。
 釜の湯がシンシンと音を立てた。
 早咲の桜がサラサラと散った。
 どこかで(うぐいす)の声がした。
 まさに閑室余暇ありであった。
       ×
「お前は飛行出来るかな?」
 ある時秀吉が五右衛門に()いた。
「自由自在でございます」
 これが五右衛門の返辞であった。
「俺を連れて飛べるかな?」
「いと易いことでございます」
「都は祗園会(ぎおんえ)で賑わっているそうだ。ひとつそいつを見せてくれ」
「かしこまりましてございます」
 五右衛門はこう云うと懐中から、(とび)の羽根を取り出した。
「いざお召し下さいますよう」
 それから後の光景は、こう古文書に記されてある。
『……雲の原へとそ上りける。遥の下を見給へば、蒼海まんまんとして、魂をひやせり。我にもあらぬ心地にて、なにと成りゆくやらんと覚しにける。かくて尽きぬとおもふ時に、目をおきて見給へば、ほどなく大山に(たて)りける杉の上にぞ落着ける。殿下ここはいつくの国、いかなる所ぞと宣まへば、これこそ都の西山、愛宕山(あたごやま)と申処にて候、祗園会もいまだ始まらず候間、いま暫(ここ)におはしまして、ご休息有べし、さりながら、何にても食事の望に候はんまま、これにしばしまたせ給へ、ととのへてきたり候はんとて、つゐ立ちけるとおもへば、くれに(、、、)見えざりけり。とかくする中に、五右衛門はや帰りて、いざいざ殿下まゐり候へとて、いかにもきらびやかなる器物に、好味をつくしける美膳をぞすゑにける。殿下御覧(ごろう)じて、これは早速にととのふものかなとて、かたのごとく食したまひける。そのうち珍酒を振舞候はんとて、とりどりの名酒あまたよせて、すすめにける。とかくして時も移る程に、はや祗園会も初まる時分に候、いざいざ御供仕らんとて、又件(くだん)の鳶の羽に打乗て、虚空をさして飛けるが、刹那(せつな)がうちに、祗園の廊門のうへにぞ落着ける、まこと神事の最中なれば、都鄙(とひ)の貴賤上下、東西南北は充満して、人のたちこむこと家々に限りなくそ見えにけり。五右衛門申されけるは、むかふへ来る武士どもを見給へ、身長に及ぶ大太刀をさして、張肘(はりひじ)にて、大路せばしと多勢ありく事の面憎さよ、殿下もつれづれにおはしまさんに、ちと喧嘩(けんか)をさせて、(にぎやか)にひらめかせ、見物せんとて、棟の上へ生ひたる(こけ)を、すこしつつ摘み、ばりばりと投ければ、御辺は卒爾(そつじ)を、人にしかけるものかなといふ中に、又飛礫(つぶて)を雨のごとくに打ければ、総見物ども入乱て、このうちに馬鹿者こそ有(にが)すまじとて、太刀かたな引ぬきて、爰に一村かしこに一むすび、五人三人つつ渡しあひて、しのぎを削り、うち物よりも火焔を出す。女童(めわらべ)これを見て、四方へばつと逃まどふ。あれあれ殿下御覧ぜよ。なによりも面白き慰にて候はぬかと云ひければ、殿下のたまひけるは、さのみは人を苦めて、罪造りて何かせん、はやはややめ候へと宣へば、さあらば喧嘩をやむべしとて、西の方を二三度まねきければ、見物の人々も、喧嘩をいたす(やから)も、八方へむらむらとぞ逃たりけり。かくて時刻も移りて、祗園会の山鉾(やまぼこ)、はやしたてて渡しけり。五右衛門ここは、所間遠にて、おもしろからず、よき所にて見せ参らせ候はんとて、四条の町の華麗なる家にともなひけり。さて何処(いずこ)よりとりて来たりけん。杉重角折、すはまの台など、あまた殿下にすすめけり。かくて山鉾もことごとく通り過ければ、今は見るべきものの無ければ、いざいざ故郷へ帰らんとて、また鳶の羽にうちのせて、その日の六つはじめに、伏見にぞ帰りける。帰館して後にぞ、殿下は夢のさめたる心地はしつれとそ、宣ひけると語り給へば、五右衛門首尾を施ける』



最終更新日 2005年10月14日 22時34分27秒

国枝史郎「五右衛門と新左」四

 だがこの事あって以来、秀吉は五右衛門をうとうとしく(、、、、、、)した.
「恐ろしい奴だ」と思ったからであった。
 自然それが五右衛門にも解り、五右衛門も秀吉を疎むようになった。
 とうとうある日飄然(ひようぜん)と、伏見の城を立ち去った。
 剽盗(ひようとう)になったのはそれからである。
 五右衛門が伏見から去ったのを、誰にもまして失望したのは、親友の曽呂利新左衛門であった。
 彼は怏(おうおう)として楽しまなかった。
「面白くないな、全く面白くない。殿下も腹が小さ過ぎる。五右衛門ぐらいを使え無いとは。……俺もお暇しようかしら。考えて見れば俺なんてものは、(てい)のいい貴顕の幇間(ほうかん)というものだ。男子生れて幇間となる! どうも威張れた義理じゃ無い」
 こういう考えが浮かんで以来(から)、軽妙な頓智が出なくなった。
「俺は決して幇間では無い。俺はこれでも諷刺家(ふうしか)なのだ。世のいわゆる成上者が、金力と権力を真向にかざし、わがまま三昧(ざんまい)をやらかすのを、俺は俺の舌の先で、嘲弄(ちようろう)揶揄(やゆ)するのだ。例えば或る時こんなことがあった。そうだ聚楽第(じゆらくだい)の落成した時だ、饗応の(みぎり)、忌言葉として、火という言葉を云わぬよう、殿下からの命令だった。が俺は考えた。言葉を忌んで何んになる。油断から火事は起こるのだ。言葉から火事は起こりはしない。土台俺にはこの聚楽が、不愉快に見えて仕方が無い。構うものか逆手を使って、あべこべに殿下をとっちめ(、、、、)てやれ、で、俺は殿下へ云った。『殿下、私には(けやき)細工の、見事の釜がございます』『槻の釜だと、馬鹿を云え。火に掛けたら燃えるだろうに』『殿下、罰金でございます! 忌言葉を仰有(おつしや)ったではございませんか』『おっ成程、火と云ったな』『それぞれ二度まで申されました』ー で、俺は罰金を取り、京大阪伏見の住民へ、米を施してやったものだ。……俺は断じて幇間では無い。俺は俺の舌三寸で、成上者のわがままを、抑え付けている警世家だ! と実は今日まで信じて来たのだが、どうも今ではその自信が土台下から崩れて来た。一体全体俺の頓智が、どの位い世の為めになってるか? これが第一疑わしい。せいぜい殿下の臍繰(へそくり)(さら)って、施米するぐらいがオチでは無いか。そうして殿下のわがままは、そのため(こう)も抑えられはしない。次に俺に就いて考えて見るに、警世家で候、諷刺家で候と、よく口癖には云うけれど、態度たるやそうでは無い。軽口頓智を申上げ、それで殿下がお笑いになれば、ただ無性と嬉しくなる。こういう心持はどう弁解しても、傭人(やといにん)の卑窟心だ。操っている操っていると思いながら、いつか人形に操られている、可哀そうな馬鹿な人形師! どうやらそいつが俺らしい。成程なあ、こうなって見れば、浪人した五右衛門は利口だわえ」
 彼は怏々として楽しまなかった。



最終更新日 2005年10月14日 23時37分31秒

国枝史郎「五右衛門と新左」五

 剽盗になってからの五右衛門は、文字通り自由の人間であった。
 本能によって振舞った。快不快によって振舞った。
 いわゆる徹底した功利主義者として、天空海濶に振舞った。
「その結果が愉快でさえあれば、動機なんかどうだって構うものか」
 これが五右衛門の心持であった。
 だが、賊としての五右衛門の、その凶悪の事蹟に就いては、既に大分の読者諸君は、講談乃至(ないし)は草双紙によって、先刻承知のことと思う。で、詳しくは語るまい。
 関白秀次(ひでつぐ)に仕えたのは、秀次の執事木村常陸介(きむらひたちのすけ)と、同門の(よしみ)があったからであった。
「おい仕えろ」「うん、よかろう」
 こんな塩梅(あんばい)に簡単に、常陸介の周旋で、五右衛門は秀次へ仕えたのであった。
 当時秀次は聚楽第にいて、日夜淫酒(いんしゆ)(ふけ)っていた。
「天下はどうせ秀頼のものだ。俺は廃嫡されるだろう。どうも浮世が面白くない。面白くない浮世なら、面白くしたら可いじゃ無いか」
 で、淫酒に耽るのであった。
 快楽主義者の五右衛門に執っては、秀次は格好な主君であった。
 素敵に愉快な日がつづいた。
 ある時常陸がこんなことを云った。
「五右衛門、一働き働いてくれ」
「よかろう、何んでも云い付けるがいい」
「伏見の城へ忍んでくれ」
「……」
 さすがに五右衛門も黙って(しま)った。
 よくその意味がわかったのであった。「ははあ常陸()この俺を、刺客(せつかく)にしようというのだな」
 ややありて五右衛門は「(うん)」と云った。「俺はいつぞや秀吉の襟へ、小柄を縫い付けたことがある。つまり、なんだ、その小柄を、今度は深目に刺すばかりだ」
       ×
 五右衛門が秀次に仕えたと聞くと、ひどく秀吉は恐怖した。
 そこで諸国へ令を出し、名誉の忍術家を召し寄せた。
 その中から十人を選抜し、「忍術(しのび)十人衆」と命名し、大奥の警護に()てることにした。
 一条弥平、一色鬼童、これは琢磨(たくま)流の忍術家であった。
 茣座(ござ)小次郎、伊賀三郎、黄楊(つげ)四郎の三人は、甲賀流忍術の達人であった。
 敷島松兵衛、運運八、この二人は八擒(はちきん)流であった。
 小笠原民部(おがさわらみんぶ)は民部流開祖で、十人衆の頭であった。
 (むらじ)武彦、霧小文吾、これは霧派の忍術家であった。
 由来忍術というものは、武芸十八般のその中には、這入ることの出来ないものであった。外道を以って目されていた。何時(いつ)の時代に始まったものか、それもハッキリとは解っていない。日本神代史を調べて見ると、神々はすべて忍術家であって、国土を産んだり火焔を産んだり、海を干したり山を移したり、死の国へ平気で行ったりしている。
 忍術がいわゆる「術」として、日本の芸界へ現われたのは、藤原時代だということである。
 戦国時代に至っては、もつとも軍陣に用いられた。特に信玄が重用した、「蜈蚣衆(むかでしゆう)」と称された物見武士は、大方優秀なる忍術家であった。
 信長はそれほど重用せず、秀吉も重用しなかった。家康に至って(やや)用いたが、しかし次第に衰微した。
 化学、物理、変装術、早走り、度胸、小太刀使い、機械体操式軽身術、機智の八種を学ぶことによって、大体その道に達することが出来た。
 彼等の日常の携帯品といえば、鍔無柄巻(つばなしつかまき)の小刀一本(一尺足らずのものである)金属製の小喞筒(ぽんぷ)(これで硫酸や硝酸を、敵の面部へ注ぎかけた)精巧無比の発火用具(燧石(ひうちいヒ)の類である)折畳式の鉄梯子、捕繩、龕燈(がんどう)、各種の楽器(これである時は虫の音を聞かせ、又ある時には鳥の音をきかせ、その他川の音風の音、蛙の音などを聞かせたものである)そうして些少(いささか)の催眠剤など。……
 そうして詳細の地図を持ち、目欲(めぽ)しい城の繩張絵図、こういうものを持っていた。
「平法術」も必要であった。(即ち平日喧嘩の場合に、特に用いる術として、伊藤伴右衛門高豊が編み出した所の武術である)
 立合抜打と称された「抜刀術」も必要であった。
「小具足腰の廻り」も必要であり、「捕手」「柔術(やわら)」も大切であった。「強法術」は更に大事、「手裏剣」の術も要ありとされた。
「八方分身須臾(しゆゆ)転化」これが忍術家の標語であった。「居附」ということを(ひど)く嫌った。
「欲在前忽然而在後」これでなければならなかった。
「澄む月は一つなれども更科や田毎の月は見る人のまま」
 こうでなければならないのであった。



最終更新日 2005年10月14日 23時58分17秒

国枝史郎「五右衛門と新左」六

 ある夜秀吉はお伽衆を集め、天狗(てんぐ)俳諧をやっていた。
   刀売おどろいて見し刄傷沙汰(にんじようざた)
   木魚打つ南無阿弥陀仏新左殿
   南無三宝夜はふけまさる浪士なり
   京つくし野を馬曳きて吠える犬
   天が下はるばるかかる鯨売
   蚊遣立って静かに伝ふ闇夜かな
   蚊柱の物狂ふなり伏見城
   京伏見経机ありあはれなり
   辻斬の細きもとでや念仏僧
   鬼瓦長し短し具足櫃(ぐそくびつ)
   忍術の袈裟(けさ)かぶり行くほととぎす
 こんな名吟が続出した。
 で、みんなドッと笑い、ひどく陽気で可い気持であった。
 と、秀吉がふと見ると、細川幽斎(ほそかわゆうさい)と新左衛門との問に、見慣れない人間が坐わっていた。
 黒小袖を着、黒頭巾を(かぶ)り、伊賀袴(いがばかま)穿()き、草鞋(わらじ)をつけた、身真黒の人間であった。いつ来たものとも解らなかった。誰一人気が付いた者がなかった。
 ギョッとして秀吉は声をかけた。
「貴様は誰だ! 何者だ!」
 するとその男は一礼したが、
「小笠原民部でございます」
 それは「忍術十人衆」の、小笠原民部一念斎(いちねんさい)であった。
「おお民部か、これはこれは」苦笑せざるを得なかった。
「いつどこから這入って来たな? いやいやお前は忍術の達人、これは訊くだけ野暮かもしれない。……で、何か用事かな?」
「今夜、先刻より、石川五右衛門、忍び込みましてございます」
 これを聞くと一座の者は、(さつ)とばかりに顔色を変えた。
「うむ、そうか、(から)め取れ!」
 秀吉は(はげ)しく命令した。
「只今苦戦中でございます」
「ナニ苦戦? なんのことだ?」
「我等十人十方に分れ、厳重に固めておりますものの、五右衛門は本邦無雙(むそう)の術者、ジリジリ攻め込んで参ります」
「うむ」と秀吉は渋面を作った。
「そこで御注意致し度く、参上致しましてございます。……如何様(いかよう)な不思議がございましても、決してお声を立てませぬよう」
「声を上げては不可(いけ)ないのか?」
「決して決してなりませぬ。どなた様にも申し上げます。決してお声を立てませぬよう。おおそれからもう一つ、是非とも何か一つの事を、熱心にお考え下さいますよう。他へお心を移しませぬよう。……では、ごめん下さいますよう」
 襖を開けると退出した。
 後は一座寂然(しん)となった。
       ×
 しかし私は忍術に就いては深い研究をしていない。で、五右衛門と十人衆とが、どんな塩梅(あんばい)に戦ったものか、どうも遺憾ながら記すことが出来ない。いずれ素晴らしい術比べが、闇中(あんちゆう)で行われたことだろう。
 とまれその結果、伏見城方では、十人の人間が殺された。そうして太閤秀吉は、曽呂利新左衛門の頓智によって、あやうく命を助かった。
 小笠原民部一人を抜かし、後の九人の忍術家達は、二時間ばかりのその間に、五右衛門の精妙な法術のため、屈伏されて了ったのであった。そこで五右衛門は城中大奥、秀吉のいる隣室まで、堂々と入り込んで来たそうである。
 忽然その時秀吉の耳へ小供の泣声が聞えて来た。火の付いたような泣声であった。しかも秀頼の声であった。
「や、若が泣いている」
 ハッと思った一刹那、秀吉の体はズルズルと、一尺ばかり前へ出た。何者かの力が引き出したのであった。「うむ、しまった!」と気が付くと共に、小供の泣声がハタと()んだ。
 陰々滅々静かであった。
 と、呼ぶ声が聞えて来た。
「殿下! 殿下! (おわ)しませぬかな!」
「応」と我知らず答えようとした途端、
「……世に盗賊の種は尽きまじ」と、曽呂利新左衛門が大声で呼んだ。「五右衛門、上の句を付けてくれ!」
 すると隣室から笑う声がした。
「うむ、新左か、新左がいたのか! アッハハハ、そうであったか。……石川や浜の真砂は尽くるとも。……沙阿弥(しやあみ)! 沙阿弥! 沙阿弥はいぬか!」
 お坊主沙阿弥は迂濶(うつか)りと、「へーイ」と大きな返辞をした。と、スルスルと沙阿弥の体は、隣の部屋まで引き出されて行った。
 が、その後は何事も無かった。沙阿弥の死骸はその翌日、泉水の(ほとり)で見出された。



最終更新日 2005年10月15日 00時04分32秒

国枝史郎「五右衛門と新左」七(終)

 秀吉暗殺の壮図破れ、面目を失った五右衛門は、秀次の(もと)を浪人! ふたたび剽盗の群へ這入った。
 秀次が高野山で自尽した後、しばらくあって五右衛門も、新左衛門の手で捕えられた。
 千鳥の香爐(こうろ)啼音(なきね)に驚き、仙石権兵衛の足を踏み、法術破れて捕えられたのでは無い。
 瓜一つのために捕えられたのであった。
 京師警備の任にあった、徳善院前田玄以法師が、ある日数人の従者を連れ、大原野を散歩した。その中には曽呂利新左衛門もいた。
 それは中夏三伏(ちゆうかさんぷく)の頃で、熱い日光がさしていた。
 と、一つの辻堂があった。縁下から二本の人間の足が、ヌッと外へ()み出していた。そうしてその側に一つの瓜が、二つに割られて置いてあった。
 一行はそのまま通り過ぎようとした。
 機智縦横の新左衛門だけが、それに不審の眼を止めた。
「徳善院様徳善院様」
 彼はそっと(ささや)いた。「誰か人が寝ております」
「附近の百姓が労働に疲労(つか)れ、辻堂で昼寝をしているのさ」
 徳善院は事も無げに云った。
「足をごらんなさりませ」
「人間の足だ、異ったこともない」
「白くて滑らかで細うございます。百姓の足ではございません」
「そう云えば百姓の足では無いな」
「瓜が傍に置いてあります」
「さようさ、瓜が置いてあるな」
(はえ)が真黒にたかっております」
「蠅や(あぶ)がたかっている」
「あれは賊でございます」新左衛門は自信を以って云った。
「夜働きに疲労れた盗賊が、瓜の二つ割で毒虫を避け、昼寝をしているのでございます」
「うん、成程、そうかも知れない。それ者共召捕って(しま)え!」
素晴らしい格闘が行われ、その結果賊は捕縛された。
それが石川五右衛門であった。
(終)


最終更新日 2005年10月15日 00時09分19秒