上司小剣「死刑」一

 今日も千日前(せんにちまえ)へ首が七つかかったそうな。……
 昨日(きのう)は十かかった。……
 明日(あした)は幾つかかるやろ。……
 こんな(うわさ)が市中いッぱいに広がって、町々は火の消えたように静かだ。
 西町奉行荒尾但馬守(にしまちぶぎようあらおたじまのかみ)は、高い土塀に囲まれた奉行役宅の一室で、腕組みをしながら、にッと笑った。
乃公(おれ)の腕を見い」
 彼は腕は細かったが、この中には南蛮鉄(なんばんてつ)の筋金が入っていると思うほどの自信がある。その細い手の先に附いている(てのひら)が、ぽんぽんと鳴った。
「お召しでございますか」
 矢がすりの(あわせ)に、赤の帯の竪矢(たてや)の字を背中に負うた侍女が、次の間に手を(つか)えて、キッパリと耳に快い江戸言葉で言った。
玄竹(げんちく)はまだ来ないか」
 但馬守もキッパリと爽かな調子で問うた。
「まだお見えになりません」
 侍女は手を支えたまま、色の浅黒い瓜実顔(うり卸・}ねがお)(もた)げて答えた。(ほお)にも襟にも白粉気(おしろいけ)はなかった。
「おそいのう。玄竹が見えたら、直ぐこれへ連れてまいれ」
 滅多に笑ったこともない但馬守、今日は殊に機嫌のわるい主人が、にッこりと顔を崩したのを、侍女(こつな)は不思議そうに見上げて、「(かしこ)まりました」と、うやうやしく]礼して立ち去ろうとした。その竪矢の字の赤い色が、広い畳廊下から、黒桟腰高の障子の蔭に消えようとした時、
「ああ、これ、待て、待て」と、但馬守は声をかけた。
「御用でございますか」と、紀は振り向いて(ひざまず)いた。但馬守はジッと紀の顔を見詰めていたが、
「そちは江戸に帰りたいか」
 優しい言葉が、やがて一尺もあろうかと思わるるほどに長く大きな(たぶさ)を載せた頭のてッペんから出た。
「はい」
 紀の返事はきわめて簡単であった。
「帰りたいか」
「はい」
「帰りたいだろう。生ぬるい、青んぶくれのような人間どもが、.年中指先までも、眼の中でも算盤(そろばん)を弾いて、下卑(げび)たことばかり考えているこの土地に、まことの人間らしい人間はとてもおられないね。狡猾(こうかつ)で恥知らずで、歯切れがわるくて何一つ取り柄のない人間ばかりの住んでいる土地だ。取り柄と言えば、頭から青痰(あおたん)を吐きかけられても、金さえ握らせたら、ほくほく喜んでるというその徹底した守銭奴(しゅせんど)ぶりだ。こっちから算盤を弾いて、この土地の人間の根性を数えてやると泥棒に乞食を加えて、それを二つに割ったようなものだのう」
 但馬守は、例の額の筋をピクピクと動かしつつ言った。紀はなんとも答えなかったが、(いや)で厭でたまらないこの土地の生ぬるい、歯切れのわるい人間をこッぴどくやっつけてくれた殿様の小気味のよい言葉が、気持ちよく耳の穴へ流れ込んで、すうッと胸の透くのを覚えた。
「ああもういい、行け行け。……江戸はもう山王祭(さんのうまつり)だのう、また(にぎ)やかなことだろう」
 但馬守は懐かしそうに言って、築山のかなたに、少しばかり現われている(あずま)の空を眺めた。紀も身体(からだ)がぞくぞくするほど東の空を慕わしく思った。



最終更新日 2005年10月16日 16時40分47秒

上司小剣「死刑」二

 暫らくして、紀が再び広縁に現われた時は、竪矢の字の背後に、医師の中田(なかだ)玄竹を伴っている。
「玄竹、見えたか」
 さもさも待ち兼ねたという風にして、但馬守は座蒲団の上から膝を乗り出した。
「見えたから、ここにおりまする」
 玄竹は莞爾(につこり)ともしないで言った。
「また始めたな、玄竹。その洒落(しやれ)は古いそ」と、但馬守は微笑んだ。
「古いも新しいも、愚老は洒落なんぞを申すことは嫌いでございます。江戸っ子のよくやります、洒落とかいう言葉の()れ遊びは、厭でございます。総じて江戸は人問の調子が軽うて、言葉も下にござります。下品な言葉の上へ、無暗に「お」の字を附けまして、上品に見せようと(たくら)んでおります。味噌汁(みそしる)のことをおみおつけ(、、、、、)、風呂のことをおぶう(、、、)、香のもののことをおしんこ(、、、、)……」
「もういい、玄竹。そちの江戸攻撃は聞き飽きた。のう紀」と、但馬守は玄竹のぶッきら棒に言いたいことを言うのが、好きでたまらないのであった。江戸から新しくこの町奉行として来任してから丁度五ヶ月、見るもの、聞くもの、(しやく)に障ることだらけの中に、町医中田玄竹は水道の水で産湯を使わない人間として、珍しい上出来だと思って感心している。
「玄竹さまは、わたくしがお火のことをおし(、、)と言って、()をし()(なま)るのをお笑いになりますが、御目分は、()をひ()と間ちがえて、失礼をひつれい(、、、、)、質屋をひち(、、、)と仰っしゃいます。ほほほほほほ」と、紀は殿様の前をも忘れて、心地よげに笑った。
「紀どのは、質屋のことを御存じかな」と、玄竹の機智は、敵の武器で敵を刺すように、紀の言葉を捉えて、紀の顔の色を(あか)くさせた。
「料理番に申しつけて、玄竹に馳走をして取らせい。余もともに一献酌もう」と、但馬守は、紀を立ち去らせた。
「殿様、度々のお人でございまして、恐れ入りました。三日の間城内へ詰切りでございまして、漸く帰宅いたしますと町方の病家から、見舞の催促が矢を射るようで、そこをどうにか切り抜けてまいりました」
「それは大儀だッた。どうだな能登守(のとのかみ)殿の御病気は」と、但馬守は(かたち)を正して問うた。
「御城代様の御容態は、先ずお変りがないというところでございましょうな。癆症(ろうしよう)というものは(なお)りにくいもので」と、玄竹は眉を(ひそ)めた。
「前御城代山城守(やましろのかみ)殿以来、大塩(おおしお)(たた)りで、当城には(ろく)なことがないな」
猫間川(ねこまカわ)の岸に柳桜を植えたくらいでは、大塩の亡魂は浮ばれますまい。しかし殿様が御勤務役になりましてから、市中の風儀は、見ちがえるほど改まりました。玄竹、弁ちゃらは大嫌いでござりますので、正直なところ、殿様ほどのお奉行様は昔からございません」と言って、玄竹は()り立ての頭を一つ、つるりと撫でた。
「誉められても嬉しくはないそ。玄竹、それより何か面白い話でもせんか」と、但馬守の顔には、どうも(著ご)え切らぬ色があった。
「殿様のお気に召すような話の種は(すくの)うござりましてな。また一つ多田院(ただのいん)参詣の話でもいたしましょうか」
「うん、あの話か。あれは幾度聴いても面白いな」と、言いかけた但馬守は、不図(ふと)玄竹の剃り立の頭、剃刀創(カみそりきず)が二ヶ所ばかりあるのを発見して、「玄竹、だいぶ頭をやられたな。どうした」
と、首を伸ばして、(のぞ)くようにした。
「いやア」と、玄竹、頭を押さえて、「御城内で、御近習に切られました。御城内へ詰め切りまつと、これが一つの災難で……」と、医者仲間では厳格と偏屈とで聞えた玄竹も、矢張り医者全体の空気に浸って、少しは軽佻(けいちよう)な色が附いていた。
「能登守殿の近習が、そちの頭を切るか」と、但馬守は不審そうにして問うた。
「左様でござります。愚老の頭を草紙にして、御城代様のお月代(さしかやざじ)をする稽古をなさいますので、なるたけ頭を動かしてくれということでござりまして。どうも危ないので、思うように動かせませなんだが、それでもだいぶ(きず)が附きましたようで、鏡は見ませんが、血が浸染(にじ)んで居りますか」と、玄竹は無遠慮に、円い頭を但馬守の前に突き出して見せた。畳三枚ほど(へだ)たってはいるが、但馬守の鋭い眼は、玄竹の頭の剃刀創をすっかり数えて、
「創は大小三ヶ所だ。……大名というものは、子供のようなものだのう。月代を剃らせるのに頭を動かして仕様がないとは聞いていたが、医者の坊主の頭を草紙にして、近習が剃刀の稽古をするとは面白い。大名の頭に創を附けては、生命(いのち)がないかも知れないからな」と言いながら、但馬守は「生命がない」の一語を口にするとともに、少し顔の色を変えた。



最終更新日 2005年10月16日 18時55分57秒

上司小剣「死刑」三

 玄竹は病家廻りの忙しい時間を割いて、日の暮れるまで、但馬守の相手をしていた。酒肴(しゆこう)が出て、酒の不調法な玄竹も、無理から相手をさせられた(さかずき)の二つばかりに、ほんのりと顔を染めていた。一合ほどを量とした但馬守は、珍しく一二二度も銚子を代えたが、一向に酔うということを知らなかった。飲めば飲むほど顔色の蒼ざめて行くのが、燭台の火のさらさらする中に、(すご)いような感じを玄竹に与えた。
 玄竹は今日の奉行役宅が、いつもよりは更に静かで、寂しいのに気が付いた。夜に入ると共に、静寂の度が加わって川中の古寺の書院にでもいるような心持ちになった。いつも気に入りの玄竹が来ると、但馬守は大抵差し向いで話をして障子には、大きな『穢多(えた)金槌(かなづち)』と下世話に悪評される武士(まげ)と、固い頭とが映るだけで、給仕はお気に入りの紀が一人で引受けて弁ずるのであるが、それにしても、今宵はなんだか寂し過ぎて、百物語の夜というような気がしてならなかった。
「玄竹、そちに逢ったのは、いつが初対面だッたかのう」と、但馬守は空の盃を玄竹の前に突き出して、銚子の口を受けながら言った。お気に入りの紀さえ席を遠ざけられて、何か知ら込み入った話のありそうなのを、玄竹は気がかりに思いつつ、落ち着かぬ腰を無理から落ち着けて、天王寺屋(てんのうじや)米屋(よねや)千種屋(ちぐさや)と出入りの大町人に揃いも揃って出来た病人のことを、さまざまに考えていた。
御勤役(ごきんやく)間もない頃のことでござりました。岡部(おかベ)様の一件から、しょう(、、、)もないことが、殿様のお気に召しまして……」と、玄竹は円い頭を振り振り言った。そうして物覚えのよい但馬守がまだ半年にもならぬことを、むざむざ忘れてしまおうとは思われないので、何か理由(わナ)があってこんなことを問うのであろうと、玄竹は心で頷いた。
「ああア、そうだったなア。美濃守(みののかみ)殿のことから、そちの潔白を聞いて、ひどく感心したのだったな。全くそちはこの卑劣な、強欲な、恥知らずの人間ばかり多い土地で、珍しく潔白な高尚な入間だ。余は面前でその人間を誉めるのを好まんが、今夜は一許してくれ」と、但馬守はまた盃を上げた。
「黒い物ばかりの中では、鼠色も白く見えまするもので……」と、玄竹は得意気に言った。
「しかし、美濃守殿も、不慮のことでのう。江戸表参覲(さんきん)の出がけに、乗り物の中で頓死するというのは椿事(ちんじ)中の椿事だ」と、但馬守の言葉は、死ということになると、語気が強くかつ沈痛の響きを帯びた。
「あの時は愚老も不審に思いました。岸和田(きしわだ )藩のお武士が夜分内々で見えまして、主人美濃守急病で悩んでいるによって診てくれとのお話。これから直ぐお見舞申そうと申しますと、いや明日でよい。当方から迎えをよこすと、辻褄(つじつま)の合わぬことを言うて、さッさと帰って行かれるのでござります。(あく)る日も(ようよ)()下刻(げこく)になって、ちゃんと共揃いをした武士が改めて愚老を迎えに見えましたが、美濃守様はもう前の日の八つ頃に御臨終(ごりんじゆう)でござりまして……」と、玄竹は天下の一大事を語るように、声を(ひそ)めて言った。
「この土地で病み(わずら)いをしたのは、そちの見立て書きがないと、江戸表へ通らないことは、かねがね聞いていた。その特権を利用して、その方は不当の袖の下を取るのだろうと、実は当地へ勤役の初めに(にら)んでおいた。ところが美濃守殿の一件で、言わば五万三千石の家が立つか(つぶ)れるかを、そちの(てのひら)に握ったも同様、どんな言いがかりでも付けられるところだと、内々で注意していると、潔白のぞちは、ほんの僅かな薬礼を受けて、見立て書きを(したた)めたと聞き、実に感心したのだ」と、但馬守は今もなお感心をつづけているという風であった。
「医道の表から申しますれば、死んだものを生きているとして、白々しく見立て書きで、(かみ)を偽るのは、重い罪に当りましょうが、これもまア、五万三千石の一家中を助けると思っていたしました」と、玄竹はまた得意気な顔をした。
「天下の役人が、皆そちのように潔白だと、何も言うことがないのだが……」と、但馬守は、感慨に堪えぬという様子をした。
しょう(、、、)もないことが、お気に召したとは存じておりましたが、しかし殿様にあの時のことをすッかり愚老の口から申し上げますのは、今日が初めでござります」
「余もそちの面前で、この事を誉めるのは、今夜が初めだ。そちとは何かにつけて、気が合うのう」
「愚老も殿様が守口(もりぐち)で、与力衆の胆玉をお取り(ひし)ぎになったことを、今もって小気味よく存じております」
 話がよく合うので二人は夜の更けるのを忘れて語りつづけた。



最終更新日 2005年10月16日 19時11分00秒

上司小剣「死刑」四

 西町奉行荒尾但馬守が、江戸表から着任するというので、三十騎の与力は、非番の同心を連れて、先例の通り守口まで出迎えた。師走(しわす)の中頃で、淀川堤(よどがわつつみ)には冬枯れの草が羊の毛のようでところどころに円く焼いた(あと)が黒く見えていた。
 戯れに枯草へ火を移した子供等は、遥かに見える大勢の武士の姿に恐れて、周章(あわ)てながら火を消そうと、青松葉の枝で叩くやら、燃えている草の上へ転がるやらして、(しき)りに騒いでいた。青い水の上には、三十石船がゆったりと浮んで、晴れた冬空の弱い日光を、(とも)から(みよし)へいッぱいに受けていた。
 伏見(ふしみ)から京街道を駕籠(かご)で下って来た但馬守が、守口で駕籠をとどめ、静かに出迎えの与力等の前に現われたのを見ると真岡木綿(もおかもめん)の紋付きに小倉(こくら)(はかま)穿()いていた。どこの田舎武士かと言つたような、その粗末な姿を見て、羽二重(はふたえ)ずくめの与力どもは、あっと驚いた。
 与力の中でも、盗賊(がた)地方(じかた)とは、実入りが多いということを、公然の秘密にしているだけあって、その装いでもまた一際目立って美々しかった。羽二重の小袖羽織に茶宇(ちやう)の袴。それはまた驚くに足りないとして、細身の大小は、(こ レら)えだけに四百両からもかけたのを()していた。(こじり)()めた分の厚い黄金(きん)燦然(さんぜん)として、冬の日に輝いた。それを但馬守に見られるのが心苦しさに地方の与力何某(なにがし)は、猫に紙袋(かんぶくろ)(かぶ)せた如く後退(あとずさ)りして、脇差しの目貫(めぬき)の上り竜下り竜の野金(やきん)は、扇子を(かざ)して(おお)い隠した。
「遠方までわざわざ出迎えを受けて、大儀であった。何分新役のことだから、万事宜しく頼む。しかしこうして、奉行となって見れば、各々与力同心は、余の子のように思う。子だから可愛いが、いけないことがあると叱りもすれば勘当もする。事によったら殺すかも知れない。各々も知っているだろう、御城与力や同心は、御城代へ勤役中預けおく、という上意だが、町奉行へは与力同心を勤役中下されおくという上意になっている。御城与力は、御城代の預り物だが町奉行は与力同心を貰ったのだ。詰まり各々は今日から、この但馬の貰い物だ。貰い物だから、活かそうと殺そうと但馬の勝手だ。そこをよく(わきま)えて、正しく働いて貰いたい。(つめ)(あカ)ほどでも、不正があったら、この但馬は決して黙っていない」
 堤の枯草の上に立って、但馬守は大きな声で新任の挨拶を兼ねて一場の訓示演説をした。その演説に少しく耳を痛めないで聴くことの出来た者は多くの与力同心中で殆んど一人もなかった。
「こっちの与力は皆贅沢(ぜいたく)だと、かねがね聞いていたが、しかしこれほどだとは思わなかった。お蔭で但馬、歌舞伎役者の座頭にでもなったような気がする」と、ひどい厭味(いやみ)を言った時は、与力どもが皆冷汗に仕立ておろしの襦袢(じゆばん)の胴を濡らした。
 こうして、但馬守は敵地にでも乗り込むようにして、奉行役宅に入ったのであった。
 天満(てんま)与力はそれから急に木綿ものの衣類を仕立てさせるやら、大小の拵えを変えるやら、ごたこたと大騒ぎをしたが、但馬守の眼は、キラキラと常に彼等の上に光って、彼等は(まぶ)しさに尻込みばかりしていた。
 但馬守は先ず与力どもを(おど)かし付けて置いて、それから町家の上に眼を配った。するとそこには、あらゆる腐敗が、鼻持ちもならぬまでにどろどろと、濃汁(うみじる)のような臭気を八方に流していた。その中で、内安堂寺町(うちあんどうじまち)に住む町医の中田玄竹だけが、ひどく気に入って、但馬守の心は玄竹の円い頭を見なければ、決して動くことがなくなった。
 但馬守が玄竹を愛したのは、玄竹が岡部美濃守の頓死を披露するに最も必要な診断書を、何の求むるところもなく、淡泊に書き与えたという心の潔白を知ったのが第譜の原因である。それから、但馬守が着任して間もなく、或るところで変死人があった時、その土地の関係で、但馬守の配下の与力と、近衛関白家(このえかんばくけ)の役人ともう一ヶ所どこかの代官の何かの組下と、こう三人揃わなければ、検死は行われない事情があって、死体は(こも)包みのまま十日近くも転がしてあった.それでその一丁四方は昼間も戸を締めたというほど、ひどい臭気が、その頃の腐った人間の心のように、風に吹かれて飛び散った。
 (よつや)く三組の役人の顔が揃って、いざ検死という時、医師として中田玄竹が出張することになった。さすがに職掌柄とて玄竹は少しも死体の臭気を感じない風で、菰の下の腐肉を細かに検案した。
「もういい加減でよいではないか」
 近衛家の(みやこ)武士は、綺麗な扇で、のッペりした顔を(おお)いつつ、片手で鼻を摘まんで、三問も離れたところから、鼻声を出した。
「もうよい分った」と、但馬守配下の与力も言った。
「ひどい(うじ)だなア」と、一番近く寄った某家の武士の(そば)からでも、死体まではまだ一間半ばかりの距離があった。
「もっと近うお寄りなさい。それで検死の役目は済みますか」と言い言い、玄竹は腐った死体を右に左に、幾度もひっくりかえした。皮が破れ、肉が(ただ)れて、濃汁のようなものが、どうどうしていた。内臓はまるで松魚(かつお)酒盗(しおから)の如く、()き廻されて、ぽかんと開いた脇腹の創口(きずぐち)から流れ出していた。死体が玄竹の手で動かさるる度に、臭気は一層強く、人々の鼻を襲った。
「やアたまらん」と、京武士は更に一二間も後退(あとずさ)りした。
「もッと側へ寄って、ほんとうに検死をなさらんと、玄竹、検案書を(したた)めませんぞ」と、玄竹は大きな声を出した。その声は遠くから、鼻を摘まみつつ検死の模様を見たがっている群衆の耳まで響くほど高かった。
 三人の武士は仕かたなしに、左右を顧みつつ、少しずつ死体の側に近寄って来た。玄竹は町医であるけれども、(つと)に京都の方へ手を廻して、嵯峨御所(さがこしよ)御抱えの資格を取り、医道修業の為にその地に遣わすという書付に、御所の(しるし)の据わったのを持っているから、平生(へいぜい)は一本きり()していないけれども、二本帯して歩く資格を()っていて、与力や京武士の後へ廻らなくてもいいだけの地位になった。
「まるで、今の世の中を見るように上も下も、すっかり腐っておりますそ。臭いもの身知らずとやら、その死骸よりは今の世の中全体の方が臭気はひどい。この死骸の腐り加減ぐらいは今の世の中の腐りかたに比べるとなんでもござらん」
 玄竹は当てこすりのようなことを言って、更らに(はげ)しく死体を動かした。三人の武士は、
「ひゃア」と叫んで、また逃げ出した。
 この話を但馬守が、与力から聞いて、一層玄竹が好きになったのであった。それからもう一つ、玄竹が但馬守を喜ばせた逸話がある。



最終更新日 2005年10月16日 19時32分36秒

上司小剣「死刑」五-1

 その春、摂州(せつしゆう)多田院に開帳があって、玄竹は病家の(すき)を見た上、一日その参詣に行きたいと思っていた。ところが丁度玄竹に取って幸いなことには、多出院別当英堂(えいどう)和尚が病気になって、開帳中のことだから、早く本復(ほんぷく)させないと困るというので、玄竹のところへ見舞を求むる別入が来た。その前年の八月、英堂和尚が南都酊だ孝から多田院への帰りがけに・疵知に悩んで、玄竹の診察を受けたことがあるので、一度きりではあるが、玄竹は英堂和尚と相識の中であった。それで直ぐ準備をして、下男に薬箱を担がせ、多田院からの迎えの者を先に立てて、玄竹はぶらぶらと北野(きたの)から能勢(のせ)街道を池田(いけだ)の方へ歩いた。
 駕籠に乗って行こうかと思ったけれど、それも大層だし、長閑(のどか)な春日和を、麦畑のトに舞う雲雀(ひばり)の唄を聴きつつ、久し振りで旅人らしい脚絆(きやはん)の足を運ぶのも面白かろう。なんの六里ぐらいの佃舎路を、長袖(ちようしゆう)の足にも肉刺(まめ)の出来ることはあるまいと思って、玄竹は殆んど二十年振りで草鞋(オらじ)穿()いたのであった。
 北野を出はずれると、麦畑の青い中に、菜の花の黄色いのと、蓮華草(れんげそう)の花の紅いのとが、野面を三色の染め分けにしてその美しさは(・え)も言われなかった。始終人間の作った都会の中ばかりを駕籠で往来していた玄竹が、神の作った囗舎の気を心ゆくまで吸った時は、ほんとうの人間とかうものがこれであるかと考えた。駕籠なんぞに窮屈な思いをして乗っているよりは、軽い塵埃(しんあい)の立つ野路をば、薄墨に霞んだ五月山(さつきやま)の麓を目当てに歩いていた方が、どんなに楽しみか知れなかった。
左の方には、華靆山硲い春の光り掻いて、馳にうどころ赤みげた姿は、そんなに霞んでもいなかった。十三、三国と川を二つ越して、服部の天神を参詣し、鳥居前の茶店に息んだ上、またぽつぽつと出かけた。
 玄竹の薬箱は可なり重いものであった。これは玉造(たまつくり)稲荷(いなり)の祭礼に御輿(みこし)担いだ町の若い衆がひどい怪我(けが)をした時、玄竹が療治をしてやったお礼に貰ったものであった。療治の報酬が薬箱の進物というのは、少し変だが、本道のほかに外療(げりよう)も巧者の玄竹は、若い者の怪我を十針ほども縫って、糸に(から)んだ血醜(ちぎたな)いものを、自分の口で()め取るというような苦労までして、漸く(なお)してやったその礼が、たった五両であったのには、一寸一両の規定にして、余りに軽少だと、さすが淡泊な玄竹も少し怒って、その五両を突き返した。すると、先方では大いに恐縮して、いろいろ相談の末、或る名高い針医が亡くなって、その薬箱の不用になっていたのを買い取り、それを療法の礼として贈って来たのが、この薬箱で、見事な彫刻がしてあって、銀金具の厚いのが打ってあった。
 五月山の木が一本一本数えられるようになると、池田の町は直ぐ長い坂の下に見おろされた。ここからはもう多田院へ一里、開帳の(にぎわ)いは、この小都会をもざわつかしていた。朝六つ半に立ってから、老人の足だから、池田へ着いた時はもう八つであった。おくれた中食をして、またぽつぽつと、馬も通いにくい路を、川に添って山奥へと進んで行った。今まで前面に見ていた五月山の裏を、これからは後方に振りかえるようになった。美しい瀬音を立てて、玉の様な(こいし)をおもしに、獣の皮の白く(さら)されたのが浸してある山川に沿って行くと、山の奥にまた山があった。権山(ごんざん)という峠は、低いながらも、老人にはだいぶ(あえ)いで越さねばならなかった。峠の頂上からは、多田院の開帳の太鼓の音が聞えて、大幟(おおのぼり)が松並木の奥に、白く上の方だけ見せていた。峠を下ると『多田御社道(ただおんしやみち)』の石標が麦畑の(あぜ)に立って、そこを曲れば、路はまた山川の美しい水に石崖(せきがい)の裾を洗われていた。川に附いて路はまた曲った。小さな土橋が一つ、小川が山川へ注ぐところに(かか)っていた。山川には橋がなくて、香魚(あゆ)の棲みそうな水が、京の鴨川(かもがわ)のように、あれと同じくらいの幅で、浅くちょろちょろと流れていた。正面にはもう多田院の馬場先の松並木が枝を重ねて、ずうっと奥へ深くつづいているのが見えた。松並木の入口のところに川を背にして、殺生禁断の碑が立っていた。松並木の路はさすがに広くって、松も可なりに太く老いていた。
 参詣の老若男女は、ぞろぞろと、織るように松並木の路を往来して、袋に入った飴や、紙で拵えた旗のようなものが、子供の手にも大人の手にもあった。太鼓の音に混って、ひゅうひゅうと笛の音らしいものも、だんだん間近に聞えて来た。
 松並木が尽きると、石だたみのだらだら坂があって、その辺から両側に茶店が並んでいた。
君勇(きみゆう)』とか『秀香(ひでか)』とか、都の歌姫の名を染めた茶色の短い暖簾(のれん)が、軒に懸け渡されて、緋毛氈(ひもうをん)床几(しようぎ)を背後に、赤前垂れの女が、甲高い声を絞っていた。
「お掛けやす、お入りやす、(やす)んでおいでやす」
「御門内はお腰の物が()りません。お腰の物をお預りいたします」
 おちょぼ口にお鉄漿(かね)の黒い女は、玄竹の脇差しを見て、こう言いながら、赤い(たすき)がけのままで、白い手を出した。「えらい権式(けんしき)じゃなア」と思いながら、玄竹は腰差しを預けようとすると、多田院から来た迎えの男が手を振って、「よろしいよろしい」と言った。
「ああ、御寺内のお客さんだっかいな。孫右衛門(まこえもん)さん、御苦労はん」と、茶店の女は愛嬌(あいきよう)を振り撒いた。
 東の門から入って、露店と参詣人との雑沓(ざつとう)する中を、(あおい)の紋の幕に威勢を見せた八足門(はつそくもん)の前まで行くと、向うから群衆を押し分けて、背の高い武士がやって来た。物を言ったことはないが、顔だけは覚えている天満与力の何某(なにがし)であることを玄竹は知っていた。この天満与力は町人から袖の下を取るのに妙を得ている形だけの偉丈夫であった。新任の奉行の眼が光るので、膝元では綿服しか着られない不平を(まぎ)らしに、こんなところへ、黒羽二重に茶宇の袴というりゅうとした姿で在所のものを(おど)かしに来たのだと思われたが、多田院は日光に次ぐ徳川家の(れい)(びよう)で、源氏の祖先が(まつ)ってあるから、僅か五百石の御朱印地でも、大名に勝る威勢があるから天満与力も幅が()かなかった。
 黄金(こがね)作りの大小を門前の茶店で取り上げられて、丸腰になったのを不平に思う風で、人を突き退()けながらやって来たその天満与力は、玄竹が脇差しを()しているのを見て、()しからんという風で、一層ひどく人を突き退けながら南の門の方へ出て行った。
「馬鹿ッ」と、玄竹は与力の後姿を振りかえって独言(ひとりごと)をした。
 鷹尾山法華三昧寺多田院(たかおざんほつけさんまいじただいん)と言っても、本殿と拝殿とは神社風で、両部になっていた。玄竹は本殿に昇って、開帳中の満仲(みつなか)公の馬上姿の武装した木像を拝し、これから別当所へ行って、英堂和尚の老体を診察した。病気は矢張り疝癪(せんしやく)の重ったのであった。早速薬を調合し、土地の医者に方剤を授けたが、その夜玄竹は、塔頭(たつちゆう)(うめ)(ぼう)というのへ案内されて、精進料理の饗応(きようおう)を受け、下男とともに一泊して、翌朝帰ることになった。五百石でも別当はこの土地の領主で、御前と呼ばれていた。その下に代官があって、領所三ヶ村の政治を執っていた。
 その夜、天満与力の何某が、門前の旅籠屋に泊り、大酔して乱暴し、抜刀で戸障子を切り破ったが、多田院の寺武士(てらざむらい)は剣術を知らないので、取り押えに行くことも出来なかったという話を、玄竹は翌朝聞いて歯痒(はがゆ)く思った。




最終更新日 2005年10月16日 19時41分45秒

上司小剣「死刑」五-2

 翌日は別当の好意で、玄竹は薬箱を葵の紋の附いた両掛けに納め、『多田院御用』の札を、両掛けの前の方の蓋に立てて貰った・そうして下男には・菱形の四角へ『多』の字の合印(あいじるし)の附いた法被(はつぴ)を着せてくれた。両掛けの一方には薬箱を納め、他の一方には土産物が入っていた。少し重いけれど、こうして歩けば途中が威張れて安全だというので、下男は勇み立って歩き出した。成るほど葵の紋と『多田院御用』の木札は、行き逢う人々に皆々路を譲らせた。大名の行列が来ても、五分五分に通れるというほどの権威のあるものに、玄竹の薬箱は出世した.
 岡町(おカまち)で中食をして、三国から十三の渡しに差しかかった時は、もう七つ頃であった。渡船が込み合っているので、玄竹は路の片脇へ寄って、待っていた。この次には舟が()くだろう。どうせ日いっぱいには帰れまいから、ゆっくり行こうと、下男にそう言って、煙草をくゆらしていると、いっぱい人を乗せて、もう岸から二間ほども出かかった渡船をば、「こら待て、待て」
と、呼び留めながら、駈けて来たのは、昨日(きのう)多田院で見た天満与力の、形だけは偉丈夫然とした何某であった。
 武士に呼び留められたので、船頭は不承不承に舟を漕ぎ戻した。こぼれるほどに乗った客は行商の町人、野ら帰りの百姓、乳呑兒(ちのみこ)を抱えた町家の女房、幼い弟の手を引いた町娘なぞで、一度出かかった舟が、大きな武士の為に後戻りさせられたのを、不平に思う顔色は、舟いっぱいに(あふ)れていた。
 天満与力は、渡船を呼び戻してみたけれど、殆んど片足を踏み込む余地もないので、腹立たし()に舌打ちして、(みぎわ)に突っ立っていたが、やがて高く虎が()えるように声を張り上げると、「(あが)れ、上れ。百姓町人、同船ならん」と、居丈高(いたけだか)になった。
 そう言われると、弱い者どもは強い者の命に服従するよりほかはなかった。腹立たし気な顔をしたものや、ベソを掻いたものや、怖そうにおどおどしたものなぞが、前後してぞろぞろと舟から(おか)へ上った。母に抱かれた嬰児(えいじ)の泣く声は、殊に哀れな響きを川風に伝えた。
 空になった渡船へ、天満与力は肩をいからして乗った。六甲山に沈もうとする西日が、きらきらと彼の両刀の目貫を光らしていた。
 船頭は憎々しそうに、武士の後姿を見詰めながら、舟を漕ぎ出した。
 舟がまた一間半ばかり岸を離れた時、玄竹は下男を(うなが)して両掛けを担がせ、大急ぎで岸に駈け付けて、
「待て、待て。その舟待て」と、高く叫んだ。
 墨黒々と書かれた『多田院御用』の木札を立てて来られると、船頭はまた舟を返さないわけに行かなかった。天満与力は(つら)を膨らしつつ、矢張り『多田院御用』の五文字に膨れた面を射られて、うんともすっとも言わずに、雪駄穿(せつたば)きの足を、舟から岸へ(また)がないではいられなかった。…:・そうして葵の紋の附いた両掛けに目礼して、片脇へ寄っていなければならなかった。
 玄竹は意気揚々と、舟の真ん中へ『多田院御用』の両掛けを据えて、下男と二人それを守護する位置に(ひざまず)いた。船頭が(さお)を取りなおして舟を出そうとするのを、玄竹は、「ああ、こら、待てまて」と止めて、
「同船許す、みんな乗れ」と、天満与力に舟から引きおろされた百姓町人の群に向って声をかけた。いずれも嬉しそうにして、舟へ近付いて来るのを、突き退けるようにして、天満与力は真っ先に舟へ、雪駄の足を蹶ぎ込んだ。その途端、玄竹はいつにない歡のように高声で・蹌した。
「武士、同船ならん」
 天満与力は、太い棒か何かで胸でも突かれたように、よろよろとしながら、無念気に玄竹の坊主頭を睨み付けたが、『多田院御用』の五文字は、悪魔除けの御符の如く、彼を()し付けて動かさなかった。玄竹の高い声に驚いて、百姓町人の群までが、後退(あとずさ)りするのを、玄竹は優しく見やって、
「百姓乗れ、町人乗れ、同船許す」と、手招きした。天満与力がすごすごと船から出るのに、ざまア見うと言わんばかりの様子で擦れちがって、百姓町人はどやどやと舟に乗って来た。
 鏘躯りに人を乗せた舟が、対岸に着くまで、陣愉しそうにして突っ立った天満与力の、大きな赤い顔が、西日に映って一層赤くかなたの岸に見えていた。――
 この与力は間もなく、但馬守から閉門を命ぜられた揚句に、切腹してしまった。その(とが)の箇条の中には、多田院御用の立札に無礼があったという(くだ)りもあった。


最終更新日 2005年10月16日 19時44分22秒

上司小剣「死刑」六

 但馬守は新任の初めから、この腐った大きな都会に大清潔法を執行するつもりでいた。彼はかねがね書物を読んで、磔獄(はりつけ)、獄門、打首、それらの死刑が決して、刑罰でないということを考えていた。彼は刑罰というものが本人の悔悟(かいこ)を基礎としなければならぬと考える方の一人であった。殺されてしまえば、悔ゆることも改めることも出来ない。従って、死刑は刑でないという風に考えた。
 ところが彼は、町奉行という重い役目を承って、多くの人々の生殺与奪の権を、その細い手の(たなそこ)に握るようになると(たちま)ち一転して、彼の思想は、死刑をば十分に利用しなければならぬという議論を組み立てさせ、着々それを実行しようとした。
 死刑は理想として廃すべきものだけれど、それが保存されてある以上、なるだけ多く利用しなければならぬ。曲った社会の正当防衛、腐った世の中の大清潔法、それらを完全に近く執行するには、死刑を多く利用するよりほかにないと考えた。
 往来で煙草を吸ったもの、込み合う中で人を押し退けて進もうとしたもの、そんなのまでを直ぐ引っ捕えて、打首にするならば、火事は半分に減ずるし、世の中の風儀は忽ち改まるであろうと思った。
 しかし但馬守もさすがに、そんな些事(さじ)に対して、一々死刑を用いることは出来なかったが、掏摸(すリ)なぞは従来三犯以上でなければ死刑にしなかったのを、彼は二犯あるいは事によると初犯から斬り捨てて、その首を梟木(きようぼく)にかけた。十両以上の盗賊でなくても、首は(つな)がらなかった。死刑は連日行われた。彼が月番の時は、江戸なら浅右衛門(あさえもん)ともいうべき首斬り役の(やいば)に、血を塗らぬ日とてはなかった。
「今日は千日前に首が七つかかった」
昨日(きのう)は十かかった」
明日(あした)は幾つかかるやろ。……」
 こんな言葉が、相逢う人々の挨拶のように、また天気を占うように、子供の口にまで上るとともに、市中は忽ち静まりかえって、ひっそりとなった。
 但馬守は莞爾(かんじ)と笑って、百の宗教、千の道徳も、一つの死刑というものには(かな)わない、これほど効果の多いものは他に求むることが出来ないと思った。
 配下の与力同心は(ふる)えあがるし、人民は皆往来を歩くにも小さくなって、足音さえ立てぬようにした。
 芝居の土間で煙草を吸って、他人の(たもと)を焦がしたものも、打ち首になるという噂が伝わった時は、皆々蒼くなった。それはもとより噂だけにとどまったが、それ以来、当分は芝居を観ながら煙草を吸うものが殆んどなくなった。
 噂だけでも、死刑というものには、覿面(てきめん)の効力があると思って、但馬守は微笑した。



最終更新日 2005年10月16日 20時54分08秒

上司小剣「死刑」七(終)

 気に入りの玄竹を相手に、夜の更けるのを忘れていた但馬守は、幾ら飲んでも酔わぬ酒に、便所へばかり立っていたが、座敷へ戻る度に、その顔の色の蒼みが増してくるのを、玄竹は気がかりな風で見ていた。夜はもう()下刻(げこく)であった。
「玄竹、多田院参詣の話は面白いのう。もう一度やって聴かさんか」と、但馬守は盃をあげた。
「何遍いたしましても、同じことでござります」と、玄竹はこの潔癖な殿様の相手をしているのが、少し迷惑になって来た。しかし、今からもう病家廻りでもあるまいし、白宅へ方々から、火のつくように迎えの使の来たことを想像して、腰をもじもじさしていた。
「玄竹。今夜は折り入ってそちに相談したいことがある。怜悧(りこう)なぞちの智慧(ちえ)を借りたいのじゃ。……まあ一(さん)傾けよ。盃取(さかずき)らせよう」と言って、但馬守は持っていた盃を突き出した。
「有り難うはござりますが、不調法でござりますし、それに空腹を催しましたので。……」と、玄竹はペコペコになった腹を十徳の上から押さえた。
「ははははは。腹が空いたか。すっかり忘れていた。今に飯を取らせるが、まあそれまでに、この盃だけ一つ受けてくれ」と、但馬守は強いて玄竹に盃を与えた。
「愚老にお話とは、どういう儀でござりますか」と、玄竹は盃を(かたわら)に置いて、但馬守の気色を(うかか)った。
「玄竹、返盃(へんぱい)せい」と、但馬守は細い手を差し伸べた。
「恐れ入ります」と、玄竹は盃を盃洗(はいせん)の水で洗い、懐紙を出して、丁寧に拭いた上、但馬守に捧げた。それを受けて、波々と注がせたのを、ぐつと飲み乾した但馬守は、
「玄竹。酒を辛いと感ずるようになっては、人間も駄目だのう。幾ら飲んでも可味(へつま)くはないそ」
御酒(こしゆ)は辛いものでござります。辛いものを辛いと思し召しますのは、結構で、……失礼ながらもう御納盃になりましては……」
「そちと盃を取り交わしたから、もう()めてもいい」
 但馬守は悵然(ちようぜん)として天井を仰いだ。
「愚老へお話とは」と、玄竹はまた催促するように言った。
「ほかでもない、そちの智慧を借りたいのじゃ。……」
「おろかものの愚老、碌な智慧も持ち合わせませんが、どういう儀でござりましょうか」と、玄竹はまた但馬守の気色を窺った。
「玄竹、……三日の道中で江戸へ帰る工夫はないか」
 但馬守は、決心したという風で、キッパリと言った。
「はア」と、玄竹は溜め息を()いた。
「工夫はないか」と、但馬守は無理から笑いを含みながら言った。
韋駄天(いだてん)の力でも借りませんでは。……どんなお早駕(まや)籠でも四日はかかりましょうで。……」
と、玄竹は面をあげることが出来なかった。但馬守は(きつ)(かたち)を正して、「今日、江戸表御老中から、御奉書が到着いたした。一日の支度、三日の道中で、出府いたせとの御沙汰(こさた)じゃ」と、厳かに言った。
「恐れ入りましてござります」と、玄竹は畳に平伏した。老眼からは、ハラハラと涙がこぼれた。
「玄竹、今のは別盃じゃぞ、但馬守の生命(いのち)も今夜限りじゃ。死骸の手当てはそちに頼む」
(かしこ)まりましてござりまする」
 玄竹は涙に濡れた顔をあげて、但馬守を見た。奉行と医者とは、暫く眼と眼とを見合わせていた。
「玄竹。……だいぶ殺したからのう」
 但馬守の沈み切った顔には、凄い微笑(ほほえみ)があった。

 昔、大阪の町奉行には荒尾但馬守という人があったそうです。それとほぼ時代を同じゆうして、安田玄筑という医者もあったそうです。しかし、本編の奉行荒尾但馬守と、医師中田玄竹とは、それらの人々と全く無関係であります。

(終)


最終更新日 2005年10月16日 22時32分32秒