左手には三浦半島から房総半島の淡い輪廓が海の中に突き出している。
　右手には伊豆半島の東側の海岸線が鋸歯(きよし)状に沖へ伸びている。
　正面には大島が水平線に浮いて見え、遙か手前には、初島がくっきりと見える。
　すぐ眼の下には、熱海駅前の雑踏や、小学校のグラウンドに飛びまわっている子供等の声が、雲雀(ひばり)の囀(さえず)るように聞こえる。
　龍之介(りゆうのすけ)はＭホテルのテラスの籐椅子(とういす)に背をもたせて、身体いっぽいに日を浴びて、眼をつむっていた。すぐそぼで、ホテルのコックがスポンジボールでキャッチボールをしている音が単調に聞こえる。一月の末だったけれど、ぽかぽかと暖かった。
　ぼんやり眼を開いて見ると、すぐそばに山野(やまの)さんが立っていた。彼女は二十二、三の年恰好(かつこう)で、見たところ、お嬢さんとも、奥さんともつかなんだ。ホテルでも、この女が何者かわからないと見えて、あたらず、さわらずに、『山野さん』と呼んでいた。
「今日は暖かいですね」
　龍之介はあわてて言った。
「ほんとに暖かですわ」
　それっきりで会話はおわった。両方ともあまり話ずきではなかったし、別に話をする共通の材料もなかった。それで二人は、顔を合わせれば五度に一度は、きまり文句の挨拶(あいさつ)を交わすだけだった。それでも二人とも、ひどく退屈だったので、一日のうちに五度や六度、パーラーや、玉突き場で顔を合わさぬ日はなかったので、一週間あまり滞在しているうちに、自然に顔馴染(かおなじ)みになってしまった。
「あなた梅園へいらして？」
「いいえ、まだ行きません」
「ちょうど今が見頃だそうですわ」
「そうですか、じゃ見て来るかなあ」
　龍之介は自然に対しては、あまり興味をもっていなかったので、梅園などちっとも見たいと思わなかった。要するに梅の木が沢山生えて、それに花が咲いているに過ぎんのだと思うと、わざわざ見物に行く気は起こらなかった。それにどんなに見に行きたいにしたところで、一人っきりで、一人っきりの女を誘うようなことはできないたちだったので、お座なりに、独り言のような調子でばつを合わせたのだった。
「いらっしゃるのだったら、あたしもおともさせていただぎますわ」
「そうですね」
　彼には相手の返事が意外だった。それでも、ひどく退屈だったので、誘われてみると、パーラーで、新聞を隅から隅まで読み返しているよりも、外へ出た方がいくらかましなような気がした。
「じゃ見て来ましょうか？」

　車の中で、二人はだまっていた。
　車を降りてからも、沈黙がつづいた。
　二人は、二、三歩間隔をおいて、梅林の中を歩いた。
「ちょうど盛(さか)りですね」
　龍之介は話の緒(いとぐち)をきってみた。
「そうですわね」
　答えはそれっきりだった。
　龍之介は不思議な女だと思った。大抵の女なら、別に美しいと思わないでも、こうした場合に、「まあ素敵ですね」とかなんとか仰山な言葉をつかうものだ。それだのに、この女は、何か用事でもあって、東京の場末(ばすえ)の町でも歩いているときのように無感激なのだ。
「ちょっとお休みにならなくって？」
　十分間ほどで、梅林をあらかた一巡してしまってから、山野さんは一つのベンチのそばへたどりついて言った。
「休みましょう、お疲れになったでしょう？」
　龍之介はハンカチを出して、ベンチの塵をはらって、席をすすめた。
「どうもすみません」
　彼女はぐたりと腰をかけた。龍之介も並んで腰をかけた。親子の犬がすぐそばの日向(ひなた)でじゃれついていた。
「ねえ島(しま)さん、あたしたちがこうしているところは何と見えるでしょう？」
　不意に彼女はこんな質問をした。
「そうですね」龍之介はちょっときまりが悪いので口籠(くちこ)もった。
「やっぱりお友達と見えやしないでしょうか？　夫婦や兄妹にしちゃ、他人行儀すぎるし、恋人同志にしちゃ年をとりすぎているし……」
「でも、これくらい口をきかない夫婦だってあるでしょう？」
「そりゃないこともないですけれど……」
　龍之介は返事に困った。
　彼女は、手を伸して犬の頸(くび)をなでていた。彼女の顔は、しばらくのうちに見違えるように明るくなっていた。
「あなた、あたしお願いがあるんですけれど、きいてくださらない？」
　彼女は躊躇(ちゅうちょ)しながら、下をむいたままで言った。
「僕にできることなら何でもしますよ」
　龍之介は若い婦人から物を頼まれたことに、嬉しさを感じながら言った。
「どんな失礼なお願いでもゆるしてくださる？」
「かまいませんとも、何ですか？」
「あなたまだ当分こちらに御逗留でいらっしゃいますか？」
「ええ、まだ十日ばかりいるつもりです」
「こちらでなくちゃいけないんでしょうか？」
「そんなこともないんです。ただ急ぎの仕事なんで、当分居場所を人に知られたくないんです」
「そうでしたらなおさら都合がいいんですわ。あたし、妙なお願いなんですけれどあなたの奥さんにして、どっかへつれてってくださらない？　ちっともお邪魔にはならないようにしますわ。あたしのことをなんにもきかないで、ただあなたがどこかに御滞在中だけあなたの奥さんという名前にしてくださればよいのですけれど……」

　龍之介は、あまりに意外な、相手の言葉を真面目(まじめ)にとりかねた。どういう風に返事をしていいかわからなかった。だが相手は真面目だった。
「だしぬけにこんなお願いをしてきっとびっくりなすったでしょ。これには深い事情があるんですの。でも今は申し上げられませんわ。ただね、あたし、当分姿を隠してなくちゃならないんですの。いま家であたしのことを一生懸命さがしているんですの。あたし偽名してあのホテルに泊まっているんですけれど、今にも見つかりゃしないかと思ってひやひやしていますのよ。それに女一人であんなところにいますと、いろんな噂をたてられるでしょう。ホテルじゃ、きっとあたしのことを横浜のチャブ屋の女か何かと思ってるでしょう。あなたの奥さんということにしていただければ、ほんとに安心していられるんですけれど……」
　龍之介は、内心、これは面白いアバンチュールだと思った。
　しかし、おいそれとすぐに引き受けられるような性質の願い事でもなかった。
「いずれにしても、もう少し事情を打ち明けてくださらないと」
　彼は少し固くなって答えた。
「それが今申し上げられないんですの、あんまり我(わ)が儘(まま)ですけれど、すっかりあたしを信用して、お願いをきいていただけないでしょうか？」
　龍之介は相手をはじめから、直覚的に信用はしていた。そのために別に迷惑がかかるようなことはなかろうと信じていた。ただ彼の好奇心が、もう少し相手の素性を探ってみたくなったのだ。
「そりゃ、僕はあなたを信用してはいます。見ず知らずの僕に、こんなことを頼むということは今の悪い人間にはできないことですからね。それに、あなたはひどく沈んでいらっしゃるけれど、時々、あなたの顔が青空のように澄み渡って明るくなることがありますよ。あれは本心の素直な人にでなければ見られない顔です。それにあなたが僕を信用してくださったんだから、僕だってあなたを信用しないわけにはゆかないじゃありませんか。だが、僕を信用してくださったついでに、もう一歩すすめて、ほんの少しでも事情をお話しくださるわけにはいきませんか？」
　女は心の中で何か争闘しているかのように、眼を宙にして、しばらくためらっていた。
「あたし、あなたのお職業を存じていますので、やっぱり申し上げられませんわ」
「ああ、僕が新聞記者だからですか、それで信用できないとおっしゃるんですか？」
　龍之介は速囗に言った。彼は相手が自分の職業を知っていたことを少し驚いた。というのは彼自身、自分の職業を忘れていたからだ。そして、自分の職業を思い出すと、こいつことによると報道価値のある材料じゃないかなという考えが同時に頭に浮かんできた。秘密を売ることは新聞記者にとっては不徳義ではないんだ。そして新聞記者としての自覚をもって秘密を探ろうと思ったら、相手はたかが一婦人だ。どんな秘密だって探れないことはない。だが――と彼は思った。――相手は、自分の職業を知っていて、自分にあんなことを頼んできたんだ。してみると人間として相手の信頼に報いる義務がある。しかし彼の心の中で、職業煮識と人道意識とがはげしく争闘をはじめた。

　女はかすかに笑いながら言った。
「ええ、新聞記者の方は、どんなに御自分では秘密を守ろうと思っていらっしゃっても、つい職業意識にまけてしまうもんですわ。また新聞記者はそうでなくちゃいけないんですもの――」
「じゃ、僕は何もおたずねしないことにしましょう。そして、あなたのおっしゃるとおりにしましょう。しかし、夫婦になるって、一体どんな風にするんですか？」
　龍之介はまだ職業意識を全然放棄したわけではなかった。だが虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ずという一か八かの気持ちで、降って湧いた奇妙なアバンチュールに身をもってあたってみることにした。
「さあどうしたらいいでしょうか？」
　山野さん（当分彼女をこう呼びつづけてゆくより外(ほか)はない）は一向(いつこう)先の成算はないらしかった。
「いずれにしても、あのホテルにいるわけにはいきませんねえ。今まで別々に、ちがった名前で暮していて、今日から突然、実は夫婦だというのも変ですからね。それに、あのホテルじゃ、僕のことはよく知っていますから」
「そうですわね、とにかくあのホテルは住みかえなくちゃ……」
「そしたら、名前はどうしましょうか？　僕の名前にしましょうか、それとも二人ともかえましょうか？」
「偽名がわかるとうるさいんじゃないですか？　あたしそれも心配なんですよ。今、警察からしらべに来たりしやしないかと思って」
「そんなこともないでしょうが、それじゃ僕の名前はそのままにしといて、あなたのお名前だけかえることにしましょう」
「そうしていただければ……」
「何としますかな、名前は……道子(みちこ)というのはどうです、島道子といえばありそうな名前じゃありませんか？」
「ええ、名前はどうでもきめてさえいただけば……」
「そうきまったら、合度は行く先ですね、どこへ行きましょう？」
「そうね――」
「ここのＡホテルじゃどうですか？」
「あそこはあたし知っているんですの」
「じゃ、鎌倉のＫホテルは？」
「あそこもよく知ってるんですよ」
「それでは逗子(ずし)のＮホテルはどうです？」
「あそこへも行ったことがありますわ」
「それでは、いっそ日本の宿屋にしますか？」
「――」
　何故か道子（これから彼女をこう呼ぶことにしよう）は日本の宿屋は気が進まぬらしかった。
「ではいっそ東京へ行きましょうか？」
「あなたさえお差し支えなければ、あたしそれが一番都合がいいんですけれど。隠れているには東京が一番いいように思いますわ。こういう狭い所だと、どうしても眼につきやすいんですもの。ひょっと知った人にあったら、それっきりですから。でも折角(せつかく)暖いところへいらして、東京へ帰るんじゃ、あなたにお気の毒ですわ」
「いいえ、僕の方はどうでもいいですよ。どうせ頭を使う仕事じゃないんですから。それじゃ、少し騒々(そうぞう)しいけれどＭホテルにしましょう。Ｓホテルや、Ｔホテルだとどうしても人目につきやすいですから」
「じゃ、そうお願いいたしますわ。どうもありがとうございました。わたしほんとに救われたような気がしますわ」

「じゃぼつぼつ帰りましょうか、やっぱり暖いようでも外は寒いですね」
　二人はべンチを立ち上がった。
　二人で並んで歩いているとぎ、龍之介はなんだかくすぐったいような、妙な感じがした。
　写真屋が、写真をすすめたり、枝つきの密柑(みかん)を売っている物売りが、「奥さん、お土産にいかがです」とすすめたりするのを聞いても、なんとなく甘ったるいような気がした。
　二人は、運転手が扉をあけて待っている車の中へはいった。車の座席へ坐るのは、以前とちがった感覚があった。素性も知らない女に、名ばかりの夫婦になってくれと頼まれるなんてことが、小説でなら知らず、現実の世界にあり得るだろうか？　彼はロマンティックな小説の主人公になったような気がした。そして、これから先、どんな冒険が展開するだろうと考えると、なんとなく心が躍った。
　車が走り出すと、しばらくだまっていた道子が突然言った。
「夫婦ということになると別々の室(へや)じゃおかしいでしょうか？　あたしさっきからそのことばかり心配していたんですけれど」
　龍之介もそのことをまだ気がつかずにいたが、無論夫婦が別々の室をとるということはおかしいにきまっている。それでも、彼はそれは変だとは言えなかった。
「そうですね、おかしいかもしれませんね」
「Ｍホテルの室にはベッドは二つあるでしょうか？」
「そりゃ二人の室なら、ベッドは二つありますが――」
　しかし、夫婦でない二人の男女が、たとえベッドは別になっていても、同じ室に鍵をかけて寝るということは容易なことではなかった。もし道子が誰かの夫人で、二人で同じ室にいるところを夫に発見されたら――龍之介は今更(いまさら)大変なことを承知してしまったと思った。しかし、一たん承知したことを今更、室が同じなら断わるというわけにもいかなかった。
「あたし、夫婦といいながら別々の室にいちゃ、かえってホテルの人たちの注意をひいて、眼をつけられやしないかと思いますわ」
「それもそうですね、では、かまうもんですか、一つ室でいいじゃありませんか」
「あなたさえ承知してくだされば、あたしの方はそれに越したことはありませんけれど。でも厭な気持ちがなさるでしょう。こんなことを女の方からお願いしちゃ」
「お互いに信じあってさえいればなんでもないですよ。心の中は光風霽月(こうふうせいげつ)ですから」
　龍之介はこう言ったものの、彼の心中は決して光風霽月じゃなかった。ほんの顔見知りというだけの男女が、一つの寝室の中でこれから十日間も生活するのだと考えると何か無事ではすみそうにない予感がした。
　車がホテルのポーチに着くと、二人はほとんどすれすれに並んでホールへはいって行った。

　その翌日、道子は黒い天鵞絨(びろうど)の服を着て、龍之介は茶の背広を着て、二人は一つの自動車で駅まで着いた。
　二人を乗せた車が出て行ったあとで、玄関先まで送って来たホテルの若い事務員たちがいまいましそうに言った。
「ちえっ、馬鹿にしてるよ、昨日一日ですっかりできやがって、野郎、しゃあしゃあしてどっかへつれ込む気なんだろう」
「こちらこそいいつらの皮さ、今月一杯御厄介(ごやつかい)になるなんてた奴を、たった六日で、とんびに油揚げをさらわれてしまうなんて」
「おれがはじめに睨(にら)んだとおりさ、きっと高等淫売(いんばい)だよ、ただの女じゃないと思ったさ。なんのことはない女郎蜘蛛(じよろうぐも)が巣を張ってまってたようなもんさ。そこへあの馬鹿な新聞記者がひっかかったってわけさ。今に骨までしゃぶられるだろう」
「そう、やくな、やくな　」
　二人は東京行きの青切符を買って、向かいあった座席を占めた。
　道子は帽子をまぶがにかぶってうつむきがちで、大船(おおふな)辺までほとんど黙っていた。龍之介もシートの背に上体をもたせて、眼をつぶっていた。
「あなたどんなお仕事をなすってらっしゃるの？」
　だしぬけに彼女は低い声で訊(たず)ねた。
「つまらない仕事ですよ、二週間社から暇をもらって、議会弥次漫談という記事を書かされちゃったんです。もっとも材料もここへもって来ているんで、ただ書きさえすりゃいいんですがね」
　こう言いながら、彼は網棚の上の鞄(かばん)を指さした。
「あたしお手伝いしますわ、あなたが口で言ってくださりゃ、あたし筆記しますわ、ぼんやりしてちゃ退屈ですから、外へはうっかり出られませんし――」
「手伝っていただくほどの仕事じゃないんですよ、ほんとの与太原稿で、新聞の記事なんて、馬鹿にならなきゃ書けませんよ。与太さえ書いてりゃ読者にも受けるし、読者よりももっと幹部に受けるのですからね。どこでもそうですが、新聞社でも一番頭のないのは幹部ですよ」
「そうでしょうね、今の若い方は大抵頭が進んでますから」
「ところで」と龍之介は不意に思い出して言った。
「僕たちは夫婦というふれこみにすると言葉遣いもいくらか変えなきゃいけませんね。たとえば僕があなたのことを呼ぶ時に、道子さんではあんまり改まりすぎますし、あなたが僕のことを島さんと言っちゃおかしいですからね」
「そうね、なかなかこれで、にわか夫婦の生活にも準備がいりますね。どうすることにしましょうか？」
「とにかくあなたは、僕のことを、ねえとか、あなたとかおっしゃっていただくんですね、そして第三者に向かって言う必要のあるときには、島と呼びすてにしていただくんですね」
「あなたはあたしのことを？」
「そうですね、みいちゃんじゃあんまりやさし過ぎるし、道子とも言えないし、みっちゃんにしますか？」
「大好き、あたしみっちゃんという名前！」
「それでかまいませんか？」
「ええ」
「じゃすっかり打ち合わせはすんだわけですね。僕なんだか妙な気がするんですよ。急にあなたが他人でなくなったような、一種の親しみを感じますね」
　道子は笑いながら冗談に言った。
「それが恋というものじゃないんですの？」
「いいえ、恋とはちがうんです」
　龍之介は相手の冗談をむきになって打ち消したのを後悔した。彼の顔は少し赤くなっていた。

『市外西大久保七六、島龍之介、新聞記者、三十五歳、妻道子二十八歳』
　龍之介はすらすらと一息きにレジスターして、ボーイに案内されて昇降機に乗った。
「八階」
　二人が案内されて通った室は、正面に、ライティング・デスクがあって、中央にテーブルをはさんで粗末な椅子が二脚、室の両側の壁よりに互い違いになって二つのベッドがおいてあった。
　ベッドが並んでいなくて、まあよかったと龍之介は思った。道子もそう思ったらしかった。
　ボーイが道子の大型のスーツケースと、龍之介の鞄とをおいて出てゆくと、道子は一つのベッドの端に腰をかけて言った。
「ベッドが並んでいなくてよかったとお思いになったでしょう？」
「ええ」
　龍之介は笑いながら答えた。
「もし並んでいたらどうなさるつもりだったの？」
　道子は相手の心の中を見すかしたようにつづけて言った。
「そうだったら困っちまったとこでしたね」
「そうしたら、折角並んでいるのをわざわざひきずって、一間もはなすおつもりじゃなかったの？」
「そんなことをしたがも知れませんねえ」
「だって、お互いの気持ちさえ光風霽月ならベッドが並んでたってかまわないじゃないこと？　そうおっしゃったじゃないの昨日」
　龍之介は、相手の心理の動きを一歩一歩先まわりするような、道子のこうした話し方に辟易(へきえき)した。これはかなわんと思った。と同時にその大胆で、知性の閃(ひらめ)きのある、洗練された会話にひそかに魅力をも感じた。この女が独身の自由な身だったら、彼はこんな女に恋しただろうと思った。彼女の彼に対する話しかたは、ほとんど刻々と言ってもいいくらいに親密の度を加えていって、いつのまにかなれなれしいほどになった。
　彼もそれに応じた言葉遣いをしようと思ったが、どうもぎごちなくなりがちだった。
「僕、あなたを好きになったらどうします？」
　龍之介は、道子の、ほとんど高圧的な言葉に対抗しようと思って、相手の度胆(どぎも)をぬくつもりで言った。
「今だって好いてらっしゃるじゃないの、ちがうかしら？」
「それじゃ、もしあたたを恋するようになったら？」
「結構ですわ、あたし愛されること大好きですわ、愛してちょうだいね、どうぞ」
「そうしたらあなたも僕を愛してくださる？」
「そりゃわからないわ、神様でなくちゃ、恋愛というものはインスピレーションでしょう、不意に、自分でも気のつかないうちに愛しているものなんでしょう。そうなったら、愛しちゃいけないと思ったって防ぎきれるもんじゃないでしょう」
　龍之介はつまらないことを言ったのを恥じた。そしてこういう女は愛しないことにしようと、ひそかに決心した。
「あなた、あたしをこわくなったでしょう？　きっとそれにちがいないわ。でもあたしそんなにこわい女じゃなくってよ」
　龍之介は図星をさされて、ほんとうにこの女が気味わるくなった。そして素性も名前も知れない女と、奇妙な一時的な同棲(どうせい)生活を送ろうとしている自分を顧(かえり)みて狐につままれたような気がした。

　その夜、龍之介はワイシャツ一枚になってベッドに寝ころんだまま新聞を読んでいた。なんとなく気が落ち着かないで仕事が手につかなかった。
　下の街路ではたえず、電車や自動車の騒音がしていた。東京駅つづきの高架線には、列車がしょっちゅう行ったり来たりしていた。
　室内の温度は華氏八十度に近く、龍之介は毛糸のシャツを着ていたので、肌がじっとり汗ばんだ。
「僕浴衣(ゆかた)に着替えてもいいですか、貴女もお着替えになったら？」
　龍之介は新聞を投げ出して、起き上がって言った。
「どうぞ」
　道子は坐ったまま煙草(タバコ)をふかしていた。彼女はこのホテルに着いてからつづけざまに、大びらで煙草をふかしていた。
「あなたもお着替えになって、お休みになったら？　もう十一時過ぎましたよ」
「ええどうぞお先へ」
　龍之介は洋服をぬぎっぱなしにして椅子の上へ丸めておいて、ホテルの浴衣を着た。室内の温度は、ちょうどいい加減だった。
「あなた、ゼントルマンは、毎朝プレスしたパンツ（注・ズボンのこと）だけは、お召しになっていただきたいわ」
　道子は龍之介の脱ぎ捨てた衣類を畳みかかった。
「いいですよ、そのままにしといてくだされば」
「よかありませんよ、あなたはよくたって、妻のあたしはよかありませんよ」
　妻という言葉をきいたとき、龍之介は、柔かいもので身体をつつまれるような気がした。実際、彼女が、彼の脱ぎすてたくしゃくしゃの衣類を整理しているところは、どう見ても家婦だった。
　道子は、龍之介の洋服を片付けてしまうと、今度は自分のローブを脱ぎはじめた。彼女が脱いだローブをみだれ箱の中へ畳んで入れて、コンビネーションとシュミーズだけになって、ベッドの端に腰をかけてシルクの靴下を脱いでいるところを、彼は眼を細くあけて見ていた。
　それから彼女は、素足にスリッパをはいて化粧鏡の前に立った。それから彼女は軽快に眉(まゆ)をひいたり、ルージュをつけたりした。龍之介は、時々その方を細眼で見ないではいられなかった。うすいシュミーズの下にふっくらした肉の輪廓が生き生きと動いているのが感じられた。
　龍之介は悩ましくなって眼をつぶった。しかし、眼の底に残像がはっきりと残っていた。なんだか、ぬらぬらしたものが、彼の皮膚の上に匍(は)いまわるような気がした。
（未完）
続編が冬木荒之介（井上靖）によって書かれた。『怪奇探偵小説集』ハルキ文庫をお読みください。