林春隆「『野菜百珍』の序」

  序
 本書は約一ヵ年に亘り大阪時事新報紙上に連載したものを読者の希望により一部のものに纏めたのである。食料調味割烹等に関する書物もいろいろあるが本書の如く野菜を主として割烹以外に趣味の方面の研究まで詳記したものは本書以外には未だこれを見ないのである。随って割烹宝典として家庭の参考以外一種興味本位の読物としても必ずや読者に満足を与え得るものだと確信する。茲に其所感を記して本書の序とする。
                          虹衣生

 著者が趣味の研究より終に仕事の上に研究することとなった。精進料理の各材料の取扱いについて得た経験談を基礎としてその食品について、多種の調理法はもとより、その伝来及び考証等を趣味ある佳話として、一般家庭の参考に資したいとおもうのである。
 名は野菜百珍というも、あらゆる精進に属する山海田野の産、果実、海藻、乾物、その他豆腐百珍はいうに及ばず、飯、酒、茶、香の物に至るまで、あまさず食膳に上るべきほどの珍味を、家庭その日の惣菜にもなるよう、いろは順をもって記述することとしたのである。
 また料理界の漫談も加え、食道楽家の逸話も添えて、趣味と実益を併せて、日々おもしろく大阪時事新報紙上に連載したものを、さらに補修して公刊することにしたのである。


最終更新日 2005年11月19日 03時34分37秒

林春隆『野菜百珍』「一 芋の話」

     一 芋の話
 俗に(いも)の子という如く、その繁殖力の旺盛なのと、従ってその種類の多い点においても、優にい()の一番にあげられる重宝の野菜である。正月の雑煮に芋魁(やつがしら)を入れて、一般に食べるのは、昔京都の俗習にて戸主のみが食べたもので、これにも芋の頭領株であることが証拠だてられている。
 さて芋は水旱の二種あって、山地と水田に植える。まず里芋を元として(里芋というのは山の芋に対していう称である)、唐の芋(紫芋)、蓮芋(白芋)、やつがしら芋(芋魁)、簽芋(えくいも)、子芋(側子)、芋梗などである。「本草」に芋六種として、青芋、紫芋、真芋、白芋、連禅芋、野芋とあるがそれである。
 里芋は古名を「いへつ芋」と称し、畑芋、単に芋とのみいう。四月の初旬に種芋を植えると、早生のものは八、九月に採収し得られ、その頃の茎をずいきと称して、これがまた特殊の味をもって、煮て食ったり、()えもの、浸しものなどにすれば結構な季節料理の材料となる。また、ずいきを乾して貯えるもよい、婦人産後の血清にはなくてはならぬものである。干ずいきは水に浸し(たで)を入れて湯煮して用ゆるが常の習いである。また生ずいきは皮を剥ぎ細くさいて塩をふり、塩のまま()で上げ、あついうちに煮酢をかけると和らかで歯ぎれがよい。これを海老酢と称して、露生姜(つゆしようが)をしぼりかけて出すのである。しかしこれは紫芋の茎に限るので、青芋の茎では海老色が出ないのである。
 これら種々の料理は調理のところで説くとして、この芋魁の囲りに多くの新根の小塊を生じ、これをいもの子(小芋)と称して、親芋よりも上品で可愛らしい美味をもって生れる。俗に親に似ぬ小芋といって、秋の月見にはお団子と仲よく並べられてお月様の御供えになるのである。それでこの芋魁の蹲まったのを、雅人は(うずら)の形容として俳味がっている。また昔の商人の詞に、茎芋の元を合羽といい、末を提灯の棒というが、何のことやらちょっと考えがつかない。
 芭蕉の句に、
   種芋や花のさかりを売ありく

        *             *                   *

 この芋はどんな地にもよく育つから、市中でも郊外でも空地さえあれば種芋を下して置くもいい楽しみである。葉末に宿る白露の玉がころこうころがるのが、童謡で聞く芋虫ころころなどをおもい出させて、夏日の寝覚めにはまたなきお慰みである。農家でも麦作の間にこれを栽培するが、この芋は霜害を恐れるから、十一月頃に葉の枯れ始める時に全部掘り取って、親芋と子芋を取り分けずに、そのまま乾燥した納屋の土中に貯うるのである。
 それでやつがしら芋は九面芋ともいって、親芋がすこぶる肥大で美味である。葉の丈は短くてその数が多い。煮て食べるが最もよい。唐芋もまた美味でその葉は(たけ)高く伸びる。簽芋(えぐいも)は親芋も肥大だが、えぐ味が強くて食うに適せない。わずかに軟化した根芋を食うのである。青芋は通常栽培されるもので、俗に京で田芋、東京で豊後芋とも、また団子芋、栗芋などという。主として子芋を貴ぶ。前に述べた単に芋と称するもので、これには赤茎と青茎の二種があって、青茎種には、土垂、今福、早生、九条等がある。もっとも団扇は赤芽茎の方に上がるので、その味からして一枚も二枚も上手である。素人が栽培を試みるには買い入れるとき、その種芋を赤か青かよく吟味して求めねばならない。種売りはよくごまかして、青芋を赤だなどと欺いて売り付けるのである。
 さて、食べる方にまわって、その調理法を述べよう。
 親芋の田楽 芋をよく洗い、皮を()き、程よく輪切り、また大きなものは、いちょう、角切りにでも、これを湯煮するとも、蒸し器で軟らかくなるまで蒸し上げ、椀に盛り、とろりとした胡麻(こま)味噌をたっぷりかけて出す。
 八つ頭の旨煮  これは前の如く皮を剥き、大賽に切り、常の如く味を付けてじか煮にする。
 同じく味噌焼  軽く茹でて煉り味噌をつけて焼く。胡椒をふりかく。
 衣かつぎ  これは東京で茶受けにょくする。やつがしらの子芋をよく洗い、皮のまま塩むしにするとも、素蒸にして塩をつけて食べるもよし。また酒むしにして後、皮を手で剥き客膳に出すもまたよし、山葵(わさび)醤油、七味唐辛子を添えるのである。
 もう二つ三っの酒客のお肴に、
 半月芋 ずいき芋を半月形に切り、丸い小芋とも蒸して、ずいきは糸の如く刻み、酢鍋にて煮つけたるを、合せ味噌の汁としたるに、口胡麻を入れる。これを名月芋ともいう。
 芋でんでん 親芋の皮を去り、四角に切り、それを(せん)に打って強い塩水に一夜浸しおき、翌日水洗いして粘り気を去り、絞り上げてばさぼさにして、甘酢につけおく。しばらくして真白になるを取り出し、猪口に盛り、黒胡麻をかける。甘酢の作り方は、酢一合、砂糖二匁ぐらい入れ、よく煮返し、()して冷ましおくのである。
 芋ころ(子芋) これは俗に鍋田楽である。子芋をよく洗い胡麻の油で煎り、油がなくなるころ少しうす煮汁をさし、火をもう一度通して上げ、山椒味噌をよく煉って、芋を入れ、杓子でまぜ合し、冷めぬうちに食べること、ちょっと乙なものである。
 次は少し甘党をも喜ばせたい。
 芋のお萩 親芋を蒸しくずし、擂鉢(すりばち)に入れてよくこね塩少々入れて、すりこ木にて()きくだき、丁寧にすれば裏漉しにかけて、別に(あん)をこしらえて、いつもの如く丸めて出す。これはさつまいもでもすることで、田舎の御馳走である。
 芋のきんとん、煮くずし(親芋小芋とも) これらは常のこととて、別に説明は遠慮しておく。
 芋団子 親指ぐらいの小芋を円く剥き、米の糠を入れて茹で上げ、水に晒して汁の実とする。
 火取芋 ごく小さい子芋を、丸く剥き、炮烙(ほうろく)にて焦目のつくほど()りて湯煮して、粉山椒をつけて出す。
 ふし汁 芋の茎と赤小豆を入れた汁をふし汁というが、もとは芋の茎と根とを入れて、父子汁といったもので、ずいき汁のことである。また一説に茎の黒と赤小豆の赤の二色が、公卿衆の装束のフシシバ色に似たからともいうが、どちらにしても従弟煮とか、二親肴という類である。
 芋はわが国でも古くから用いられたもので、「延喜式」に正月元日最勝王経斎会供養料芋六合、滑海藻(あらめ)二両三分云々とある。また「徒然草」に、真盛僧都は師の譲られた坊を百貫で売って、芋を喰った好人であることが記されてある。「平家物語」にも、清盛のおさな立ちに「いもが子ははふまでにこそなしにけれ、忠盛とりてやしなひにせよ」という御製がある。
 芋は山城、大和の辺が最も適産地である。古い大和地方の諺に薬六服屁一発というのがある。もっともおさつ(薩摩薯)の来ぬ時代のことである。これを聞いても芋の功能は証明し得られる
のである。



最終更新日 2005年11月19日 11時32分42秒

林春隆『野菜百珍』「二 長薯の話」

     二 長薯の話
 お平の長薯という俗諺は、あられもない姫御前が、色の白いのっぺりとしたお公卿さまを指して言った蔭口であるが、この長薯なかなかもってのっぺりどころではない、精進料理にはなくてはならぬ、やっぽり色事師で、しかも八方美人的に技巧されて、その献立を賑わすのである。
 この薯は、もと薯蕷(とろろ)の栽培種であって、山薬(、、)に対して家山薬(、、、)という。和名はやまついもと称し、わが国でも最も古くより山野に自生したもので、別に自然薯(じねんじよ)というのもある。(ちなき)が天上したような怪談だが、山のいもが鰻に化けるという諺もある。で、この俚言が即ち、薯蕷の栽培種が鰻のような長いものになったという洒落に過ぎないのである。
 も一つ洒落のついでに、この長薯はやまの薯と同じような作用をするようだが、調理の上ではおのおの優劣がある。つまり隔たりがあることは、ちょうど本妻と愛妾のようなもので、薯蕷は粘りとした本味をもって、どこまでも実質本位だが、なが薯の方は、さくさくとして、そのすがたも瀟洒(しようしや)である。が、その折れ易いもろいところにお妾気質が味わわれるのである。などといい加減な囈言を申して済まないが、その味質においても、山のいもの方がお家の御為になること、菓子屋の薯蕷は皆この山のいもを用いて、長いもではつなぎも取れず、味も劣るから、同じとろろ汁でも、長いもより山のいもの方が甘いではないか。またその栄養分も粘液力の多量なのと共に、一層優れている。
 この種のいもは生食いするほどビタミンを完全に吸収することができるが、その消化のよくないことは申すまでもありますまい。また長薯の変種に一年間に巨大の根塊となるものがある、それは駱駝薯(らくだいも)と称するが、あまり佳味でもなければその形も醜い。
 昔、朝鮮から雌雄の駱駝(らくだ)が渡来したときに、長崎から江戸まで道中例の鳴物入りで行列した。それで当時夫婦者が外出をすると、アレ駱駝で行くよなどと冷評した。その後夫婦連れで鉄瓶の鋳かけをして歩くものがあったので、それから夫婦つれをいかけ(、、、)といって、子供を連れると急須(きびしょと訛る)つきだなどといい(はや)した。イヤ山のいもが鰻でのうて、下世話になった。
 さてこの種の薯の精の強いことは、山の薯にも長薯にも、むかご(零余子)といって孫のようなものを生むのを見ても察せられ、これは大いに茶人を悦ばせる珍味である。
        *               *                  *
 さて、薯蕷の属には、前に述べた長薯のほか、仏掌薯(一名いちょう薯)がある。これに対し野生のもので自然薯(自然生とも書く)がある。これは今日では生産が少いから、市価も従って高く、わずかに茶人向きに用いられるに過ぎない。
 まず、長薯の調理に取りかかろう。
 はんぺん 長いもを擦り下し、白豆腐(なるべく水に落さぬ中のものを圧石して水気をよくしぼり用う)をよくすりて、これを等分によく()り混ぜて、頃合の形に丸め、紙でも布でもよし、一個ずっ包みて湯煮して用う。また蒸してもよし。
 しょこ 長いもをむして裏()しにしたものをいう。これは何の材料にも応用するのである。
 胡麻味噌焼 皮つきのままさっと茹で、七、八分の輪切りにして両面を焼く。
 掻きいも 長いもを頃合に切りてよく茹で、皮を剥き、布帛(ふきん)に包みうち潰し、板の上にすりつけて庖丁の背で寄せて掻き、さしみの如くして出す。
 時雨いも 長いもをよく茹でて皮を去り、裏漉しにしてその一部を分けて蜀黍粉と白砂糖と醤油少し混ぜて、蒸籠(せいろ)の中に長方形の深い(わく)を入れ、これに布畠を平に布き、前の長いものを箱の三分の一ばかりに詰め、上を平にしてその上へ蜀黍粉を混じた分を適宜の厚さに平に詰め、次に前のいもを詰め、さらに蜀黍粉の分を詰め、また前のいもを平に詰めて五段にして、蒸し上げて小口切りにする。
 さざれ石  長いもの皮を剥き(おろ)し、これに小麦粉と砂糖及び塩とを入れ、摺鉢にてよく()りまぜ、これに軟らかく煮た大納言赤小豆を加え、さらに擂り混ぜ、前の如く蒸籠の中に枠を入れ、布を敷き、右の材料を詰め込んで蒸し上げる。
 玉州 長いもを茹でて皮を去り裏漉しにかけ、これを二分して一方は山梔子(くちなし)にて色をつけ、他方は炒った黒胡麻を散らし、長い枠に布吊を敷き、これに右の材料を交互に、四、五層にも詰めこみ、蒸籠に入れて蒸し上げる。胡麻は河原の小石に見立てたのである。そのこころして加減すればよい。
 宇治橋  これは玉川と同じ仕方にて、紅、挽茶などにて彩色するのである。いずれも食塩、白砂糖を加え、味加減すること勿論(もちろん)である。米の粉を少し入れると固まりてよし。
 かるかん 白米の挽割を山梔子の水に浸しおき、長薯を(おろ)してこれに前の材料を混ぜ、こね合わせて適宜に白砂糖、食塩を加え、味をととのえ、蒸籠にてむし上げ、冷して後好みの形に切る。
 長薯の料理はいくらでも応用が出来るので、なかなか書き尽されないが、もう少し述べて見よう。
 焙烙焼 常の焼芋の如く、皮つきのまま輪切りにして、両面に刷子で味淋(みりん)を少し塗り、ばらばらと黒胡麻をふりかけるもよし。それを焙烙(ほうろく)にて焼くなり。もっともさっと湯がき置くがよい。
 よりいも また、おぐら薯という。長芋をよく()いて皮を去り、金すいのうにて漉したもの。
 ちぢみ薯 長いも一寸二、三分ぐらいの短冊に薄く切り、金網に竹串をならべ、その上に薯をならべ遠火にかけて焼き、塩をふりかけ焦げぬように焼き上げ、水気を去りてほいうにかけるのである。
 茶巾じめ 長いもを蒸して表漉し、砂糖、食塩少し加え煉り合わせ、小饅頭ほどに丸め、その中へ氷砂糖または干葡萄(ほしぶどう)など包み入れ、布巾に包み、三つほど捻り、ちょっと押して出す。
 薯煎餅 長薯の皮を剥ぎ、細く篠むき小口切りにして、塩と酒を少し()り、しばらく置いてのち水気を去り、日光にて半囗ぐらい乾して焙烙にかけて作る。これは、姑、栗にてもすることである。
 圧しいも 長薯の皮を去り茹でて、これを圧し潰し、適宜に食塩と砂糖を加味し、すし枠に入れて押し固め、好みの形にする。
 白煮 長薯を二、三寸の長さに切り、皮を剥ぎ、適宜に庖丁して薄味に程よく煮上げる。これはお平などに用ゆ。
 結び薯 長薯の皮を剥ぎ、長い短冊形に切り、一夜塩水に浸しおくと、軟らかく自由に結べる。
 この外に、しんじょ、蒲鉾などいろいろあるが、薯蕷の部で述べることとする。
 また長薯は汁の実として、すましにも味喀汁にも、あっさりとしてよい。梅肉で()えてもちょっとした酒口になる。
 長薯は砂地の産が味がよいから、買う時に、ざらざら砂のついた奴を選むとよろしい。
 江州日野の祭に、神前に長薯を持ち寄って競争する風俗がある。その時の長いものは一丈ぐらいもあると「嬉遊笑覧」に書いてある。こんな薯は鰻にならず蛟竜にでもなるのだろう。



最終更新日 2005年11月19日 11時35分38秒

林春隆『野菜百珍』「三 蕃藷の話」1

 蕃藷(ばんしよ)は五穀につぐ、ふだんの食糧品として、また酒精の原料として、世界中到るところの熱帯地方に栽培される。わが国でも北海道を除いて、どんな深山幽谷でも甘藷(かんしよ)(つる)が延び拡がっている。日本の薯栽培反別は三十余万町歩もあって、年々九億七千万貫も収穫される。これがおなら(、、、)の原動力となるのだから、あまり不平もいえぬ。人間が出世をするにもいもつるというから、ちょうど米をヨネ(、、)と訓まして、世の根といえば、甘藷はい()のちをたも()つという意味を約めた、生活の蔓である。ここにもいもつるという世俗に共通した点を見出すではないか。
 この甘藷を一般に薩摩いもと称するが、原産地は米国で、初めて欧州に伝わったのは、コロンブスが新大陸を発見の時にこれを(もたら)して西班牙(スペイン)のイサベラ女王に献した。で、甘藷は婦人の先天的嗜好食となったかどうだか。ともかく日本へ伝来したのは、西班牙(スペイソ)から呂宋(ルソン)へつたえ、葡萄牙(ボルトガル)人が馬来(マレー)群島に広めたと伝えられる。またシナでは万暦年間(わが天正の頃)に、蘭人が呂宋(ルソン)
り得たとある。それを慶長年間に沖縄人が蘭州から将来して、初めてわが国へ見参したという。その間に琉球王が大隅の種子島(かねがしま)に播種させた。ついで宝永の頃薩摩の国に移して、ここに全く帰化して薩摩藷の名をとどめたのである。しかし、その出生を忘れないように、琉球ではこれを(から)いも、薩摩では琉球いも、それが享保の頃内地にころがり込んで薩摩いもとなったので、こんないもでさえ転々くらがえをさせられている。
 ところがこの甘藷先生を、とかく内地人は、むくむくとして毛の生えた化物のように、おっかながって食うものがなかった。時あたかも享保十七年に全国にわたって大飢饉(ききん)が起った時に、餓(かひよう)野に満つという惨状を呈した。
 これより先享保二年に、徳川幕府は儒臣青木文蔵の建白を容れてこの藷種を薩摩より取り寄せ、官の薬苑中(今の小石川植物園)に試植させたり、また林大学頭に命じて甘藷の功能を書かして広く世に知らしめた。この時、青木文蔵(昆陽)も「蕃薯考」一巻を著わして、その栽培法を示しなどしていたので、たちまち全国にいも宣伝は成功して、当畤、の飢饉を救済したのみならず、一般永久の補食として重宝されるに至った。今でも薩摩から女中を雇うと、まず第一に毎日いもを食わしてくれるかと条件づけて来る。事ほどさように薩摩は、いもに先天的執着を持っている土地柄である。
 いもの恩人青木昆陽は、もと江戸の町人から身を起して、後幕府の書物奉行にまでなった篤学の士であるが、今も目黒の竜泉寺に蕃藷先生とした墓碑が遺されてある。当時いも(、、)宣伝の根拠をした江戸の市中は、例の世襲家業を奨励された幕制によって、八百八町到るところに、堂々たる袖蔵つきの甘藷問屋があった。今も東京の本町、石町、馬喰町などの目貫(めぬき)の地に、大きな焼芋屋が、いくつも焼鍋をならべて、番号のついた岡持に、注文のいもを仕込んでいるのを見うけられる。それは各家庭のお八ツ茶にされるのである。
 いもが飢饉のたすけ神であることは、シナでもあったと見えて、「天中記」に、閤■山のある寺僧が、年々つとめて芋を植えて、沢山に収穫しては、それを()いて泥のように固め、塹壕を造って貯蔵してこれを芋塹と称していた。のち、たまたま大飢饉があった時に、独りこの寺の衆僧四十余人は、この芋塹を掘って食事として、遂に凶歳をのがれたということがある。
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 さて、いもの種類は紅藷と白藷とに分って、その品種は、武蔵の川越(かわこえ)を第一として、その付近の産地は皆旨い藷を出す。ついで薩摩や大隅、また日向地方の、ぼけいも、琉球いも、こいとせ、八里芋などは、皆本質のいも味をもったもので、近畿地方の大師いも、寺田いも、宇陀いも、このほか、紀州の熊野いも、九州の三年いも、安芸の唐人いも、天竺(てんじく)いも、薩隅のどんこ、沖縄のクラガー、天草の元気は名の如く数年かこうても元気が衰えぬというくらい。讃岐の小豆島薯、三河の吉田薯、また薩摩の四十日薯とて早熟のものなど、その種類は地方地方によって夥多である。
 甘藷は澱粉に富むので、その利用される方面がすこぶる広い。まず、飴、アルコール、味噌、醤油の原料など、また食用としては、蒸しいも、焼いも、切干いも。焼いもは書生の羊羹といって歓迎される。もっとも、焼いたいもは寒い時に懐炉の代用にもなるから、下層社会では重宝がられるのである。いも屋の看板に十三里と書くのは、九里四里(栗より)旨いという洒落で、八里半というのは栗(九里)に及ばぬというのか。蒸いも屋が馬の画を書いて、その胴中にイの字を赤く入れ「馬い馬いほっこり」と呼び歩く。これは大阪の風俗で、ほっこりは暖かいということで、よく日南ぼこりという訛りであろう。
 まだいもの話で面白いことは、鹿児島の「んまんまら」という、いも菓子である。否、菓子というよりも餅と言った方が適当な代物、芋の粉と黒砂糖で作った蒸しもので、即ち名詮自性、馬に似ているどころか、実物そっくりの色彩を放っている。著者もある時別府に滞在中に、友人から贈られて苦笑しながら、頬張ったことがある。この芋粉は長崎地方でも売っていて、下層民が粥に混ぜて日常食とする。一升が七、八銭であった。薩摩ばかりでない、男根をいもという地方はいくらもある。仏書にも男根を陰馬蔵というから、馬と異名するのも由来のあることである。男色をかげま(、、、)というのも、これから出た詞だ。それをカゲマという美少年だなどといい加減にこじつけたのである。



最終更新日 2005年11月19日 11時41分42秒

林春隆『野菜百珍』「三 蕃藷の話」2

 イヤ、いもの話も下の方に来ては甚だ恐れ入る。これは御婦人方のお目こぼしを願って、いよいよ調理法に移る。
 琉球みかん  さつま藷を茹で、皮を去り、すり潰して蜜柑の形につくね、青海苔(あおのり)粉(ひどりのりを裏漉しして)にまぶし、軸は蜜柑の葉をつけること。
 栂尾煮 さつま藷(白)の皮を剥き、五分ぐらいに小口より切り、ちょっと水に(さら)し、銅鍋にて茹で、八分ぐらいで湯を去り、白砂糖、食塩を加え、水を少し入れて火にかけ、飯杓子にて攪拌(かきま)ぜながら、煉り煮きにして、ジリジリと音のする時を度として鍋を下す。
 艶煮 さつま藷の皮を剥き、五、六分の(さい)形に切り、水に晒して灰汁をぬき、銅鍋に藷を平にならべ、酒しお砂糖食塩を加減して、落しぶたをして中火にかけて煮上げる。煮過ぎるとくずれるから注意して、火から下すこと。因みに甘藷は皮を剥き、庖丁を入れるとすぐ水に晒さぬと、灰汁が出て黒くなるから注意することである。また鉄鍋で煮ることも避けぬと、灰汁のため黒くなることがある。
 いも団子 長崎地方では特にいも粉と称して廉価のものがあるも、都会の地にはあまり見受けぬから、これを製するには、いもの皮を剥ぎ、細かく切って、よく日に乾かし、石臼にて挽き絹こしにて(ふる)い、まずいも粉を製しおき、甘藷粉一升に糯米粉五合をまぜて、湯でこねる。それを適宜にちぎって蒸籠で蒸し上げ、木鉢に取って()きこね、常の団子につくり、豆粉などで食べると割合に淡白でおいしく戴けるのである。
 求肥巻 さつま藷の皮を剥き蒸しあげて、それを摺鉢でよくこねかえし、少し片栗粉を入れ食塩を加えて、よく煉れたらそれを裏漉しにかける。その後求肥(ぎゆうひ)昆布を延ばし、巻鮓(まきずし)の如くして右のいもを平めて紅生姜(べにしようが)などを芯に入れて巻き、小口切りにして出す。
 いも汁 これは白いもを小賽に切り、まず味噌汁を沸上げて、その中へ入れて煮る。煮過せば芋がこわれて汁が濁れば、煮加減を注意すること。盛り出す時にすり胡麻(ごま)を入れる。
 いも膾 腐り気のない赤芋の太いものの皮を剥き、一寸ぐらいに切りたるを竪繊(たてせん)にうって、水につけ、よく水気を去りて(ざる)に移しおき、別に人参にても、南瓜にても同じく、繊にうちたるものと混ぜ合わせ、二杯酢に砂糖蜜を加えたるに()えて盛り出す。また、いも膾ばかりに赤貝の細切りなど入るるもよし.
 白和え 蒟蒻(こんにやく)を小短冊に切り、ざっと茹でて、白いもの皮を剥ぎ、これも小賽に切り、うす塩にてさっと湯がき、擂り鉢にて白胡麻をよく摺り、それによくしぼりたる豆腐と白味噌を加え、砂糖を少し加減して入れ、よく擂り合わせた中へ前の材料を入れて和える。いもがくずれぬようにすること。
 笹巻いも よい甘藷の皮を剥き、生にて(おろ)し、水気をしぼり、すり鉢にて摺り潰し、小麦粉少しと醤油及び鶏卵を加え、よくこね合わせ、これを飴の如くひねりて、笹の葉で巻き、蒸し上ぐ。
 甘藷味噌 甘藷の皮を剥き輪切りにして、蒸しあげて搗きつぶし、これに十分鹹味(からみ)に塩を加え、甘藷一貫目に(こうじ)およそ一斗の割合に混ぜ合わせ、よく搗きて、樽か(こしき)に圧しつけおき、五、六日を経て用う。(なめ)味噌によし。しかし永く貯蔵に堪えねば、そのこころすること。
 葭原いも 甘藷の皮を剥き適宜に切り、これを梅酢の中に浸けおき、よく色つきたる頃、梅酢の紫蘇で巻き砂糖に漬け、これを小口切りにして付合せなどにする。
 甘藷炒り いもを五分ばかりの小角に切り、別に軟らかくうでおきし小豆と、洗米を狐色に沙りたるとを合わせて、これを鍋に入れ、砂糖と食塩にて味をつけ、そろそろと炒り上げること。
 田楽いも 蒸しいもを輪切りにし、竹串に刺して焼き、山椒味噌、柚味噌いずれにてもよし。
 この外、いも餅、甘藷団子、いも柚子餅、軽板いも、鯨いも、含煮、照り煮、餡かけなどである。
 いもの揚物は、さっと茹で上げたる後にころもかけて、胡麻油にて揚げると、ひとしお旨味がある。
 いもの皮を剥けば、すぐ水の中(塩少し入るもよし)に投じ灰汁を去ること。切ってそのまま()くと黒くなるゆえ、必ず何にするにも一度は水にさらすことが肝要である。
      *            *             *
 いもの話もよくつづくが、東京は焼いも、丸やきなどと称し、京大阪ではふかし藷、むし立てのほっこりほっこりが賞味される。昔町家で、草鞋(わらじ)を吊るして焼いもを売る爺が、薄あかりの角行燈に八里半と書いた霜の夜の景物は、昔の江戸情緒である。許六の句に、
   きりぎりす鳴や霜夜の芋俵
 いもは実に大衆的食品の頭領株である。鳥羽僧正の放屁合戦の絵巻物に、いもが高杯(たかつき)にうず高く積んである図が描いてあるが、このいもは甘藷ではなかろう。京の九条辺の茎芋であろうが、いもと放屁との関係がものおかしくもおもい出される。
 いも屁というと自然的だが、同じく豆屁というと何となく不自然的である。大体、屁は自然的でなければならぬ。おならというは不平を鳴らすの意味で、大よそ物平かなるを得ざれば鳴る。昔の物語にならしてけりなどよく書いてある。屁は平であって、ハ(、、)の韻で「ハヒフヘホ」である。で、屁の韻をビイ、ブー、べー、ボーなどの雑音を発するのである。またその鳴る所以のものは、いもや豆のみでない美食の者が多く放屁家であって、平食の人にはこの醜態が少いようである。だから甘菓香餌五辛酒肉の属は、よくこれを鳴らす者也と、後奈良院の頃の書物に記されてある。
 で、この故に過食をもっては夕に鳴り、宿酒をもっては朝に鳴る。その大小、高低、遅速、緩急、皆それ平かならざるものがある。()に放混に人の階級なからんやで、国民の不平に対しても、こうした放屁政策をもって、自然的ならしむるに()くはない。故に放屁を一に転失気と称して、放散転失の義とされてある。
 言わでは腹がふくるると兼好法師もつれづれにいうた。もし、ここにおいて放屍一発が、よく心気を流暢(りゆうちよう)にして支体を安逸ならしめることを得るとすれば、これをもって社会政策の上乗なるものとするに足るであろう。しかも天下泰平なるを得て、ために文武(!!)の道も大いに開けて、尻の埃りの取れてさっぱりとすることでがなあろうとおもうのである。
 いもの話に寄せて屁をもって世に問わんとするのである。


最終更新日 2005年11月19日 11時42分25秒

林春隆『野菜百珍』「四 薯蕷の話」

 薯蕷を元として、つくね薯、宇陀いも、かしゅういも等がある。山のいもは蔓生の宿根草で、根は深く地中に延長して、その長さ五、六尺に達する。古い句に「掘くづすいもが垣根や山のいも」というのがある。その蔓に生ずるものを零余子(むかご)といって、ちょっと珍味なものである。
 このいもはこの地方では、大和、丹波などが佳品を産出する。俗に丸いもと言うのは、仏掌薯などに対して本質の薯を称するのである。近江の扇いもといい、また杵いもというのも、つくね薯に類するものである。
 で、この薯の調理は長いもにも共通してほとんど同じようであるが、さて生食するにとろろ汁としては、その滋味栄養の点は同日の論ではない。従って他の料理に応用してもまた格別の風味が添うのである。ここで少しその調理法を述べよう。
 まず酒媒のほうから始める。
 山咲巻 山のいもを(おろ)して海苔巻(のりまき)にして、山葵(わさび)、三杯酢。
 落しいも 山のいもを摺り鉢に()り下し、それに()り黒胡麻を入れ、適宜に塩湯にて取る。乙な吸物種ができる。
 菖蒲むかご  むかごの大粒を選び、塩水でよく洗い水気を()り、それを鍋に移して白砂糖と醤油にて煮込む。箸でかきまわしながら、ほぼ煮汁の染み込んだ時、再び砂糖を加えて、布巾で鍋の耳を持ち、手早く揺り動かしながら鍋をドし、そのまま器に入れて裏漉しにし、揉み青海苔をかけて出す。これは狂歌師手柄岡持が発明である。
 焼しんじょ  山のいもの皮を剥き、これを擂鉢にすり下し(これに魚肉のすり身を加えると、むっちりとした味が出る。蒲鉾屋にて求めるが便利)、葛粉を少麦入れよく摺り合わせ、これに冷めた煮出汁と、煮切味淋を入れて、また適宜に醤油を加えて味をこしらえ、さらにすり合わせて油を引いた焼鍋に杓子ですくい入れ、平たく押して四分ぐらいの厚さに焼き、うら返して両面を焼いて取り上げ、このまま生姜酢を添えて出すもよし。また椀盛の実とするもよい。
 この外はとろろの部に譲って、少し甘党の好く調理を述べよう。
 御手洗 山の芋の皮を去り、すり鉢にすり下し、メリケン粉を少し加えてよく摺り、金柑ほどの大きさに取り、蒸し上げて五つぐらい青串にさし、砂糖醤油にて付焼きにする。
 薯しんじょ  山のいもの皮を剥ぎ、すり下して、白豆腐の水気をしぼったのを入れ(豆腐は前にすりおき、その上にいもをすり下すがよい)、うどん粉すこし入れよく摺り合わせ、炒り銀杏を入れ、これを頃合に取りて、沸湯に入れて湯煮する。随分手際よくふっくりと和らかくすること。
 薯蒲鉾 山の芋皮を剥き醤油にて煮しめ、すり鉢に入れてすりこ木でよく搗き、うどん粉を少し入れてまたつき混ぜ、かまぼこ板に形の如くこしらえ、唐辛子味噌を薄くして塗り、こんがりと焼目をつけて切る。
 紅葉薯 山のいもの皮を剥き、三分ぐらいの輪切りにして、さっと湯煮し、毛篩に取って水気を去り、温かいうちに皿に盛り、別に白砂糖を薄赤く食紅にて色つけたるを盛った芋の上にかけて出す。
 山薬丸 これは普茶料理につかう、すった山のいもを胡麻油で揚げたもの。おろし大根で食べる。
 山薬糖衣  これはシナ食で出す珍料理で、山のいも、馬鈴薯、さつま藷などを小口切りにして(魚肉も入れる)豆油であげる。別に砂糖を沢山どろどろになるくらい入れた煮汁にて、前の材料を煮き上げ、別に水を鉢に入れて客前に出す。これはそのまま食べると火傷するから、一度水に浸すのである。また寒い時には最もききめのある。
 いも酒 これはとろろのようにして、これに酒を合わせてすりのばし、塩少し加えて、鍋に入れて、燗のよくなるまで掻きまわす。強精剤にアルコールを加えたものだから、その効能は推して知るべしだ。



最終更新日 2005年11月20日 00時21分54秒

林春隆『野菜百珍』「五 とろろ汁の話」

五 とろろ汁の話
 とろろ汁は野趣のあるものである。節分の夜に麦飯にとろろ汁は、往古の素朴の遺風を示したものだが、俗に麦とろろなどと称して特殊の料理屋もある。堀江にすみくだといって、遊冶連(ゆうやれん)(おご)りの後朝(ぎぬぎぬ)に、この麦とろで迎い酒などをひっかける食道楽もあった。傾城(けいせい)買いの糠味噌汁に似て非なものでおかしい。しかし、とろろを麦飯にかけて食うのは、あまりに非衛生的な食い方で、ことに贅沢な食道楽である。いもの成分も失って、また飯の消化も一層よくなかろうとおもう。
 最もとろろの味わうべきは、旨い昆布煮出汁でのばしたとろろ汁に限る。よく味嗜でのばす人もあるが、それはいもの香味も消して、またおもくるしい味になる。それでその薯蕷の利用率は第一このとろろ汁において認められるという理になる。
 また一口にとろろ汁というても、そのいもの種類が多い。朝鮮のトーロン、自然薯、大和いも(宇智薯)、伊勢薯(津田いも)なども用いる。
 さて、このとろろ(、、、)という名は、奥州のとろろという山から出るいもが、一番すり薯に適してよいので名づけたと古書に見えた。
 とろろ汁についての挿話は、いずれも東海道の道中記にのこされているが、例の弥次郎兵衛北八が狂歌に「喧嘩する夫婦は口をとがらして(とんび)とろろにすべりこそすれ」と、茶屋の夫婦がすりこ木を振りまわしての立廻りの滑稽な場面を書いたのを、モダン弥次喜多のお札博士スタール先生は、その憧憬(あこがれ)鞠子(まりこ)のとろろ汁を四、五杯も(あお)ったのち、舌つづみを打ちながら、こんなことを言っている。
「薯蕷汁は芋の一種から造りあげたもので、粘着力が非常に強い。布哇(ハワイ)人の食物に、ポイというのがあるが、私はとろろは大体これと系統を同じくするものであるとおもう」などと十八番の考古学から、勿体(もつたい)もないとろろ礼讃を説いて、さらに、西洋では滑っこいことの譬えに、鰻のようにという詞があるが、日本が世界的になったら、これが薯蕷汁のようにと、変化する時が来るかも知れぬ。
 と、事ほどさように.とろろ汁に陶酔されたものと見える。
        *                     *                     *
 さて、こんな前座のお話のみでは、とろろ汁につなぎ(、、、)がつかない。スタール氏のいわゆるすべッこい味がなくなる。そこで、
 とろろ汁の仕方  は、いもをよく摺ってそれに生栗を二つばかりすり入れ(また鶏卵を二つ位つなぎに入れるもよし)それに煮出汁を冷まして、そろそろつぎ込み、頃合の加減にぶつぶつにならぬように擂り上げる。とろろはまず春先のものとして芭蕉の句に「梅若菜鞠子(まりこ)宿(しゆく)のとろろ汁」とある。とろろ汁を温かくして食べるには、あたためた煮出汁でのばしてすぐ食べるか、また湯煎にしてあたためるのである。
 そこで、とろろいも、即ちすり薯の応用は、俗にいもかけと称して種々のものにつかわれるが、よく東京の藪蕎麦などでやる、月見いもなども手軽な御馳走である。元来とろろいもは酢によく適うものと見えて、淡白な魚類、刺身をいもかけにすることがある。精進ものにも、海藻の三杯酢にいもかけなども、ちょっといける代物である。またこのいも豆腐といって常の湯豆腐にして湯をしたみて、このとろろをかける。いずれも青海苔はつき物、外に薬味もそえること。
 そこで、親いもから子いも、そのまた血族いもの戸籍調べも、ようやく済ましたから、その孫のむかごを殿(しんか)りとして、ちょっと書こう。
 むかご は零余子と書いてしかも、如実に零点以下のものとされているが、なかなかもってさように軽々しく除外したものでない。むかごの性能は虚損を補い、腰膝を強くして腎を益すと医書に裏書がされてあるから、とても、老人のこれを嗜好も(むべ)なる(かな)だ。
 これだけ申せば、調理法などはどうでもよいが、まアお愛想に一つ二つ。
 梅肉和え  煎りむかご、甘煎、むかごは青海苔がつきもの。むかごの皮は焙烙でざっと炒り上げて取れば、青くなる。これを付合せにして茶席の珍とする。酒むし、またはむかご飯もあるが、まずここらで幕とする。



最終更新日 2005年11月20日 10時33分38秒

林春隆『野菜百珍』「六 馬鈴薯の話」

六 馬鈴薯の話
 馬鈴薯はまた爪哇(ジャワ)薯とも書いて、慶長の頃和蘭(オランタ)の商船が、爪哇(ンヤワ)地方よりこれを長崎へ将来したのが初めで、甲州、信州、飛騨などその他の山国に栽培されて、米穀の供給が富裕でない地方の補食料としたものであった。
 それが明治の初年米国から良種を輸入して、広く全国に栽培されたので、今日では作付反別が十二万町歩にも及び、年々二億万貫も収穫するようになった。
 もっともこの薯は独逸(ドイツ)を初め、世界各国の重要食糧として、年々の総産出が三百億万貫にも達するというから、馬鈴薯の力も偉大なものである。それでこの薯は人畜の食料の外、アルコールや味噌の製造にも用いられる。わが国で馬の鈴薯と書いたのも馬の鈴のように連なって生るからである。やっぱり馬に似た形の薯と称したものであろう。昔の人はじゃがたろいもというた。稗史の「浮世風呂」などに、馬だ馬だといいながら石榴口(さくろぐち)に入る話が出ている。とかく、いもは精分の旺盛なものだから、そういう俗談も嘘でもなかろう。つまらない話だが、むかしの人たちの質朴さと洒落な人間味が可笑(おか)しいから、お愛嬌に書き添えたのである。
 さてこの薯の調理方は、あまり総菜向きで数多あるが、その二、三にとどめておこう。
 馬鈴薯の煮付、田麩(てんぶ)、粉吹煮、甘露煮、丸揚、擦し薯、照煮、その外、洋食の付合せにする。
 伊達巻  いもの皮を剥き適宜に庖丁を入れ、軟らかく茹でて摺りつぶし、砂糖食塩で味をつけ、裏漉しにかけ、別に三っ葉、椎茸、紅生姜(べにしようが)、糸湯葉の類を、巻鮓の材料のようにととのえおき、前の芋を求肥昆布か、また玉子焼にのばし、それにて簀巻にする、小口切り。
 これは外のさつまいも、里いもでも、また豆腐(きらず)滓でもすることである。
 揚いも 皮を剥いた薯を縦に八っ切りぐらいにし、しばらく冷水に浸しおき、それを取り出して布巾にて水気を去り、胡麻油であげて洋紙の上でよく油をきって、食塩をふりかけて出す。
 薯サラダ  いもの皮を剥き小賽に切り刻み、また玉葱を微塵に刻み、胡蘿蔔(にんじん)を薄く小さき銀杏に切り、この三品をざっと塩うでにする(塩少し)。それを(ざる)にとりあげ水気をしぼりおき、別にバタまたはヘッド、精進なれば橄欖油を鍋に布き、メリケン粉を分量して入れ、煮出汁にて頃合にのばし、鶏卵一、二個、砂糖ごく少々、酢少量、胡椒粉(また西洋芥子でもよし)少々加え、それを糊を煮くように杓子にてそろそろとこねまわし、ねばねばになった頃に、前の材料を入れて混ぜ合わせて煮き上げ、煮加減をよくして鍋を下して冷して後盛る。
 この外に薯オムレツ、魚入団子、潰し薯、薯羊羹などあるも月並の食品なれば省くこととする。
 馬鈴薯は粒の大きな形のよく整った、芽の浅いのがよい。皮に黒い斑点のあるものや、傷薯の口に白い粉を吹いたものは、病菌に侵されたものである。これも注意して買わぬと味もよくないし、また粘力性も乏しい。
 補遺-甘藷の蔓を取り、頃合に切りよく茹で、ぜんまいのように乾かして貯え、これを和えもの、汁の実、煮ものの付合せにするとちょっと変ったものである。芥子味噌齏(からしみそあえ)がいっち佳い。



最終更新日 2005年11月20日 10時38分44秒

林春隆『野菜百珍』「七 虎杖の話」

七 虎杖の話
 虎杖(いたどり)は深山に生ずるものゆえ、都会の児童らは知らぬものが多い。俗にいたんどりと称し、また山家の子女は、すかんぽうともいっている。
 虎杖は蓼科に属する植物で、酸桶笋、酸筒笋、酸杖などというのは、皆その形を称したものである。古名をたちび(、、、)といって、「日本紀」に「反正天皇、淡路に生れたまふ、井の水を汲みて、太子を洗ひ奉る時、たちびの花落ちて、井の中に在り、故に御名を、多遅比瑞歯別(たちひみつはわけ)天皇と申し奉る」とある。その花は夏の間に穂をなして集まり開く。紅白二種ある。実は三角で薄い(はね)のようなものがある。俗にすかんぽうというのである。
 虎杖を食用にするのは、春の三月頃に、竹笋のような苗が生る、それを摘んで食うので、土御門帝の御製に「野辺に出て誰か家つとに折りつらん春の(わらび)にまじるいたどり」とある。またその芽は割き出て相対するので、一名をさいたづまともいわれて「うら若き弥生の野辺のさいたづま春は葉末になりにける哉」。また「さいたづままだうらわかく三古野の霞がくれに雉子鳴くなり」ともある。
 しかし、さいたづまの名は、あるいは春の若草の称ともいわれてあるから、虎杖の異名であるとは確かに定め難い。
 で、また虎杖と書くのは、その茎に虎の斑点のような斑があるのと、その茎が長じて丈余にもなると、藜のように杖にするからである。「枕草紙」に「いたどりを虎の杖とかく、杖なくとも有ぬべき顔つき云々」とある。
 また一説に虎杖の根は、薬用として血いたみ打撲等の疼痛を治する効があるので、痛み取りを略したものだとも、いわれている。この根は月水を下して血塊によくきくが、血を破るから妊婦は忌むべきである。五淋を治して特に石淋に奇効があるといえば、性病の奇薬として六〇六の向うを張るものである。またその葉も暑気はらいに昔は用いられた。
 著者は壮年の頃よく紀州の熊野から、大和の十津川、大台山、金峰山方面を数度跋渉したが、この虎杖はその地方の常食として、山樵が家苞(いえづと)にしては、渓流に茹でた虎杖が晒してあって、それを鯱や生椎茸と煮合わせて食膳に上された。また虎杖の三杯酢なども、山間では村酒の佳肴として楽しんだこともあった。この近畿にも生ずると見えて、折々八百屋の店にも見えるが、とても深山で食べるような味はしない。ただ酸っぱいのと軟らかくないので、この辺の虎杖を御紹介するには、ちょっと考えさせられる。
 さて、その食べ方をのべる。
○虎杖の幼茎を(まず穗下五、六寸の処を)茎の節の硬いところを切り去って、これをよく茹でて一日ばかり水に浸しおく。後、灰汁のぬけた時に、適宜に切って、
○煮もの、付合せもの、適宜に。
〇二杯酢には、竪一寸ぐらいに切り、それを頃合の繊に打って用う。
○酢味噌には、鹿爪に小口切りして、ち,酬っと薄味をつけてから和えものとする。
○唐辛子味噌をつけて、串さしに焼いてもよい。
○虎杖の酸みは生食すると、胸のすくような味がある。児童が甘蔗を生食するように喜んで食うのである。
 その灰汁を脱くことは、(わらび)の如く、灰をかけて熱湯を注ぐもよいが、よく茹でて、灰汁水につけておくがよろしい。



最終更新日 2005年11月20日 10時45分05秒

林春隆『野菜百珍』「八 いちごの話」

八 いちごの話

 (いちご)は古くより食用されて、この花を歌書では、いちしの花といい、「万葉集」にみちしばのといえるもこれである。
 初夏のころになると、近郊でいちご狩りということが流行して、葡萄(ぶどう)狩り、梨狩り、いも狩りなどまで宣伝される世の中となった。昔は桜狩り、紅葉狩りと、春秋の遊山に興趣をそえた外に、秋の松茸狩りは大衆娯楽として今も盛んである。牧狩りは武家の習いで、妹がりは雲上人のすさみであった。
 この狩りという詞は、妹がりのは(」もと)で、その女の許へ恋しにゆくのである。それも本来は妹駈で、女の許へ駈けつけてゆくという意味なれば、歌にも「思ひかねいもがりゆけば冬の夜の川風さむく千鳥なくなり」とある。
 その外のかりも皆駈で、所々を駈けめぐって獲物を刈取りすることである。ことに、苺がりなどは近代のことながら、なかなかに興味のある郊外遊びで、最も初夏にふさわしい催しごとである。
 そこで、この苺には五つほど種類がある。蓬苺、これを草苺と称して単に苺といえばこれで、この種は冬月に苗葉も(しぼ)まず、また果実も肥大で生食するに適し、西洋菓子の原料、苺酒、苺舎利別、苺ゼリー、などの製造にその用途の多いものである。また「三才図会」に、その薬用を示されたるを見ると「五臓を安んじ、精気を増し、志を強うし、力を倍し、久しく服すれば、身軽うして老いず」とある。食味もまた佳味である。
 覆盆子 これはつるの苺に比して、果実も小さい、また冬に凋む。されど、味また美にして、婦人これを久しく食べると子を(はら)むとある。苺がりの宣伝にはよい材料となる。
 蔗 これは食味をとるのみで、薬餌にはならない。
 樹苺 は懸釣子とも書いて草苺に対する、叢生の小灌木である。果実は食味芳香に富みて、ゼリー、ジャム、舎利別などを製するため、欧米各国では盛んに栽培されるものである。
 蛇苺 は食うことが出来ない。しかし、その汁液を火傷に塗れば、速やかにその痛みを去るという功能がある


最終更新日 2005年11月20日 10時45分48秒

林春隆『野菜百珍』「九 岩茸の話」

九 岩茸の話
 岩茸は、石茸とも、また木耳に対して石耳とも書く。漢名石芝という。深山の峰頭巌上の甚だ嶮しい所に生ずるものゆえ、これを採るには(もつこ)に入って峰頭の大木より綱を下して、その巌壁に添うて採取するのである。石茸の生じたるを遠くより見ると烟のようである。それを便りとして釣り(もつこ)に乗って採る。これは山樵が副業とするもので、よく漁樵問答などの図に画かれてある。形は木耳に似て円く浅く皮のように重なって生る。大きなものは直径二、三寸もある。面は褐色で粉形をなし、背は黒くて毛がある。その中枢に短い茎がある。これを乾燥して食用にするので、最も山海の珍味として、いずれの料理にも珍重して応用される。
 また石茸は、久しく食えば血色を増し、老いに至っても精を減らさず、紅顔美目にして眼を明らかにする効がある。
 さて、石茸は魚類精進のいずれを問わず、平にも、茶碗にも、刺身にも、盛り分にも、坪にも、平皿にも、汁、蒸しものにまで用いられ、木茸に似て、それよりは食味もよければ、応用される範囲も広い。
 まず、石茸はよく洗うて砂気を去り、それを湯煮して、冷めてから、掌中でそろそろと念を入れてよく揉む。俗に青空を仰いで揉むと色がよく出るなどいうが、こうして揉むと紺碧の色が石茸の粘りと共に出る。それを適宜に庖丁を入れて切り放し、いずれのものに用いるにも、酒しおと薄醤油で(少し砂糖を加え)いい加減の味をつけておく。
 石茸の巻煎  前に湯煮した石茸を酒しおとうす醤油で味をつけ、適宜に庖丁を入れて、平湯葉に巻いて(止め口は葛粉を溶いて開かぬようにする)それを胡麻油で揚げて、小口切りにする。
別に巻煎酢を添う(けんちん酢は、酢に醤油と食塩とを少し加え煮冷したもの)。
 石茸粟蒸し  前の如く味をつけた石茸に、粟を混ぜ、それを竹の皮にのせて蒸す。
 石茸和 前の如く煮味をつけたものを、山葵、辛子、芥子、粉山椒、胡麻などにて和える。
 汁もの 茶碗ものには石茸は必ず後から岡入にすること。
 寄せ百合と石茸むし これは百合と共に味つけし石茸を、共に入れて蒸し上ぐ。
 前に述べた種々の付合せには、湯煮して味付けをした石茸に、庖丁を入れて付け合わすのである。



最終更新日 2005年11月20日 10時46分32秒

林春隆『野菜百珍』「一〇 いたびの話」

一〇 いたびの話
 いたびは、木蓮と書いて、和名はいたびかつら、また、つるいちじゅくともいう。蔓草で蔦の如く木石に着いて生ずるものである。葉は互生して花はない。冬凋まず、葉の間に実を結ぶ。その形は大きな枇杷(ひわ)の実のようで、熟すると黒くなって甘味をもつ。俗に木饅頭という。台湾の南部地方に多く野生する。土地の人はこの種子を用いて、愛玉糖というものをこしらえる。



最終更新日 2005年11月20日 10時47分17秒

林春隆『野菜百珍』「一一 無花果の話」

一一 無花果の話
 無花果(いちじく)は桑科に属する果樹である。昔は花なくして実が熟るというところから無花果などと称した。それは浬槃(ねはん)経に仏の出世の難きこと優曇華(うどんげ)の如しという語に因ったので、優曇華はこの無花果のことで、その花の開くことの稀なるに譬えたのである。歌にも「玉椿光をみがく君が代に百回り咲く優曇華の花」とあって、千年に一度花が開くなどいい伝えて、例の仇討の台詞に、ここで逢うたは百年目、実に優曇華の花咲くここちなどというが、これは皆妄誕で、元この果樹は熱帯地から舶来したもので、印度(インド)などでも開花の稀なるを称したものである。
 無花果は春白い花を開き、仲夏に至って実を結び、一月にして熟すから一熟の音をとったのである。
 その実は初め緑、熟すると外は紫、内は紅で、白い子がある。実は丸くいたびの実に似て、漿液に富んで甘味が強い。生食して風味はすこぶる佳なるものである。昔時はこれを薬用として病人にすすめた。今もこの実を乾果とし、貯えて薬用にされる。乾かすと白柿のようになる。
 また無花果の葉を煎じて、痔疾の洗滌剤に用いると奇効がある。
 さて無花果の調理は、
 ジャム よく熟した無花果の皮を剥き、鍋に入れ、ほぼ同量の砂糖と少量の丁子(ちようじ)を加え、とろ火にかけ、絶えず攪拌(かきま)ぜつつ半時間ばかり煮込み、どろどろに煮て鍋を下し、冷して用ゆ。
 シチュ 前の如くして、無花果と同量の砂糖と水すこし入れ、とろ火にかけ、前の如く煮る。
 コンポート 同じく無花果十五個に対し、白砂糖一斤、水五合ぼかりを加え、鍋をとろ火にかけて前の如く煮込み、冷して盛る。この外、乾無花果を焙り、粉末として珈琲の代用にもする。
 天仙果 天仙果とも、いぬ枇杷(びわ)ともいう。
 無花果と同種で「こいちじゅく」ともいう。これは夏秋の交、葉の間に実を結び、形無花果に似て小さく、熟して紫赤となる。内に細い細子が充ちたのを食す。



最終更新日 2005年11月20日 10時47分49秒

林春隆『野菜百珍』「一二 蘓豆の話」

     一二 蘓豆の話
 糒豆は俗に菜豆と称し、また眉児豆、松離豆など書く。原産地は南米であって、わが国でも古くから野生のものもあったが、これを食用にされたのは、承応年間に、唐僧隠元禅師が東渡の際に、その種子を将来して食用に播殖させたので、ここに隠元豆の名が伝わったのである。
 隠元禅師はこの外に、唐菜、芥藍、金紫菜、八外豆等の野菜に、また蓮根も持って来られた。九州地方に隠元蓮というのがある。
 この豆はどこの地でも生するから、素人の自作に裏の空地に春種を()くと、夏の末に紅白紫などの花が咲く。菊の花や朝顔の鉢植に浮身をやつすより、豆の(まがき)でも作って、いささか世帯の足しまえにするのも、自ら新鮮な蔬菜の味と、淡い田園の野趣を楽しむことが出来る。
 それが初秋より晩秋に至るまで、採っても採っても再三熟して、未熟なうちは(さや)と共に煮食したり、また青煮にして料理の付合せにも、和えるものにも用ゆ。豆が肥大になったら、それを乾かして莢を去って、きんとんにも、お汁粉にもなる。さて、その調理は、
 莢扁豆和え  これは胡麻醤油でも、辛子味噌でも、胡麻味噌でも、適宜に和える。まず莢扁豆のすじを丁寧にとって、よく洗い、それを茹でる(塩少し入る)、後、笊に上げ水気を去り、三つぐらいに庖丁を入れて、何なりとも和える。
 青煮 扁豆の青煮は、茹でるに注意すること。まず銅鍋で湯を沸き立たせ、その中へさっと扁豆を入れ、塩少し入れて茹で上げ、それを笊に取って水に浸し、冷してから薄味をつける。もし八百屋から買って痿えた扁豆なら、茹湯の中へ、タンサンを少量投ずれば色青くあがる。これは外の野菜にも応用してよろしい。
 きんとん まず新白扁豆を多量の水と共に鍋に入れ、半時間ばかり煮て湯をすて、さらに湯を入れて煮立たせ、軟らかく煮えたころその全量分の四分の一ぐらいを取り分け、これをすり潰して裏漉しにかけ、他の豆には豆一升として砂糖三百匁、味淋三合ぐらいの割に塩少し加え、とろ火にかけて煮上げる前にうら漉しした分を砂糖と食塩にて味をつけ、これに食紅をうすく混じて色をつけ、とろりとゆるめたのを竹の筒(一端に三つほど穴をあけたるもの)にて、ところてんの如く、突きだして皿盛りにしたきんとんにかけて出す。
 汁粉 秋の新豆を湯煮して摺り潰し、布袋で漉して餡のように砂糖を加えてこね、汁粉あんを作り、餅を和らかく煮てこの餡をかけて出す。
 この外に、煮豆、ばら煮、揚げものなど、莢扁豆は汁の実とするもよい。



最終更新日 2005年11月20日 10時48分40秒

林春隆『野菜百珍』「一三 菠薐草(ほうれんそう)の話」

一三 菠薐草(ほうれんそう){はう}の話
 菠薐草(ほうれんそう)は、蓼科に属する葉菜類である。茎と根が赤くて甘味が多いから、赤菜とも、赤根草ともいう。
 菠薐草は雌雄の異なる株で、種子に稜角のあるものと、円形なのとある。円形の方が味も(まさ)るのである。
 この菜も自園で手軽に作るに適する。霜枯れてゆく野に、ひとり菠薐草の真青な緑葉は、見る目も覚めるようである。
 この菜は鉄含有量が多いから、貧血性の人には絶好の食品である。物故された南条文雄博士は、著者に書を寄せてその嗜好食を示すに、菠薐草を毎日欠かさず食っているとあった。しかしこれを多食すると病を起しやすい。昔の婦人が歯を鉄漿(おはぐろ)で染めて、すぐ菠薐草を食うと、吐血して死すといい伝えた。
 この菜を旨く食うには、うす鍋に魚肉か、鳥肉のソップを沸き立たせて、その中へさっと入れて、まだ青々した一沸したのを食うと、第一その野菜味を完全に味わうことが出来る。シナ人などは、牙筋でつまんだまま鍋で一沸して食う。この菜に限らず、芹、水菜、三つ葉などは、こうして食うにかぎる。
 さて、菠薐草の調理は、
 浸しもの まずこれが 般向きで、(ひた)しものというと菠薐草が連想される。これもよく水で洗い、根株を切って、頃合の束にして(わら)で括り、沸き立った湯に投じて、さっと茹で上げ、すぐ水に落す。(どんな茹菜でも鍋からすぐ水桶に入れるように、煮たき場のそばへ水桶を備えておくこと。)それで冷えたら、水をよくしぼり、庖丁を入れて、
 浸しもの 胡麻和え、辛子あえ、芥子和え、また、
 三杯酢 には独活(うど)(せん)など加える。
 みす目菠薐草  は葉ばかりむしって、湯煮して巻簣で巻いたもの。
 海苔巻 は束にして茹でたのを、よく水をしぼって、これを火取り海苔(また平湯葉でもよし)で巻く。中へ辛子を入れるもよい。一寸ぐらいに切って、二杯酢に少し砂糖を入れ、七味唐辛子を添えて出す。
 このほか、煮もの、汁ものに用いる白魚と菠薐草の二杯酢、また()(あわび)の三杯酢など、手軽で旨い酒の下物である。




最終更新日 2005年11月20日 11時03分44秒

林春隆『野菜百珍』「一四 薑の話」

一四 薑の話
 紫薑は、もと生薑の雅名である。また、生姜とも書く。はじかみという詞は、神武天皇の御製に「垣本に植ゑし波士加味に疼く云々」とある。これはその味辛きゆえ歯(しか)むの義かともいう。すると、薑は後に舶来したものであって、呉の椒、蜀の椒などの名がある。山椒の古名をいたはしかみ(疼の義)ともいう。また、しょうがを生荷と書く。あるいは、茗荷(みようが)に対する生荷で、女と夫との雌雄に比したものかともいわれる。古名「くれのはじかみ」というのも、呉の椒であろうか。
 みょうがは、和名「めか」ともいうて生薑に似て柔らかなれば、蓑荷といって、その剛柔を別つためで、しょうが男、みょうが女という心であろうか。その本名は蓑荷で、覆草ともいう。嘉草と異名すと、為永春水の随筆に記されてある。
 俗に茗荷を食えば痴になるという諺がある。それは「東坡詩林」に「庚申三月十一日、薑の粥を食ふに甚だ美なり。歎して曰く、吾が愚を(あや)しむなかれ、吾れ薑を食ふこと多し云々」という句の、ここにも生姜(しようか)茗荷(みようか)を混同した伝説がある。もっとも薑のことももとより東坡の戯れであろう。また俗に、茗荷を多く食うと物忘れするという諺から、石川雅望の「しみのすみか物語」に、裕福そうな旅人の荷物を忘れさせようとして旅館の主人夫婦が謀って、その客人にたくさん茗荷を食わして、却って宿銭も取らずに客人を出立させたという滑稽談もある。
 さて生薑は宿根の母薑で、その嫩芽を紫薑と称して、これを新生薑とも、はじかみともいう。で、世俗に小薑、ひね薑ともいうのである。
 そこでみょうがは、それと似て非なもので、やはり薑科に属する一種の宿根草で、山谷または竹林に生じ、その花蕾を「みょうがのこ」といい、その嫩芽を「みょうがだけ、蓑荷笋」というのである。
 それで話はまた生薑にかえるが、東京芝の神明祭に、俗にめっかち生姜と称して、これを売る店が多く出る。それは「論語」郷党篇に「不レ撒レ薑食」とある註に、「薑通二神明一去二穢悪一故不レ撒」とあるのを引いて行われるのであろう。
 さて、生姜の調理は、
 新生姜の茶筅  新生姜の軸を一寸ばかり残し、根を茶筅(ちやせん)形に切目を入れ、深鉢に薄口醤油八分、煮出汁二分ぐらいの割合で、その中に生姜をつけ、一時間ほど経て用いる。
 浅漬 筆しょうがをよくそうじして糠味噌に一夜涜ける。
 霰生姜 しょうがを細く賽切りにして、照焼、煮肴、また浸しもの、和えものなどにかける。これをふり生姜ともいう。
 繊生姜 針生姜ともいう、繊に切った生姜を水に晒し、汁の口または鮓、酢肴に添える。
 このほか、筆生姜、揚げもの、粕漬などにする。また乾生姜の砂糖漬、その他製菓にも用いられる。
 はじかみを梅酢につけたり、また煮酢のあつい中に生姜をつけるとよい色が出る。酢に漬けて久しく置くとよくかびが出るが、それはつけ酢の中へ辛子少々を布に包んで底に入れると、年を経ても(かび)が出ない。
 また茗荷も、筆生薑のように煮酢に漬けるか、小刻みにして汁の口、湯煮して二分ぐらいに切って酢味噌で和えるもよし。また、花茗荷とて茗荷の子の花ばかりをゆがきて、葛を引き、青海苔をかけるのもよろしい。
 貞徳の狂歌に、
   あのくたら三百三文儲くらん我たつ袖にめうが売りつつ
とある。茗荷が安くて三百三文にしかならないと言うを、三藐三菩提(さんみやくさんぼたい)といいかけたのである。
 まだおもしろい薑の話もあるが、これも狂歌に、
   はじかみの喰ひも合せぬ歌の口ただからからと笑ひ筆かな
ともある。



最終更新日 2005年11月20日 11時12分33秒

林春隆『野菜百珍』「一五 母子草の話」

一五 母子草の話
 この草は原野に多く、秋苗を生じ、冬枯れずに春夏に丈高くのび、梢に(むら)がりて黄花を開く。その花麹の如く、また葉は鼠の耳に似たれば鼠麹草とも言う。本草に仏耳草とあるは鼠耳草なるべし。この草は春の七種粥にも用い、三月上巳の節句にこの葉で餅を製す。故にもちよもぎの名がある。いまでは(もぐさ)を用いるが、これは歳時記にある。「三月三日鼠麹草の汁を取つて蜜に和し、粉となして餅をつくる、これを竜舌粋といふ、以て時気を圧す」とあるに基いたものであろう。「後拾遺」の実方の歌に「みかのよのもちゐはくはじわづらはじ聞けば浜野にははこつむなり」とある。母子草の名はある僧の母親を慕うて生じたなどというのは妄誕である。
 この草の調理としては、
 茹で浸しもの  若葉のうちに胡麻(あえ)、からし和えなどにする。
 昔はこの花を貯えて、煙草の代りに用いた。また薬用としては痰を去り、中を補い、脾をととのえる。故に餅に和して食べるのである。



最終更新日 2005年11月20日 11時13分36秒

林春隆『野菜百珍』「一六 藜縷の話」

一六 藜縷の話

 はこべら、和名をあさしらげと称す。また鵞腸草ともいう。庭園、路の傍に多く生ずる。四時にあれど、春夏に最も繁茂する。はこべらの名も、よくはびこおるからで、春の初めに白花が(むら)がり咲く。春の七種の一である。この草も五月端午に採って薬用に供される。
   七草は唐土の鳥のすり餌哉
と宗祗が洒落ているが、飼鳥のすり餌にはなくてはならぬ草である。
 はこべ塩とて、歯磨として、古くから用いられる。この草の調理も、浸しものぐらいなもので、よく茹でて水に(さら)さぬと青臭くて好ましからぬ。
 しかし、家庭には必ずこれを用意しておくことである。産後の乳が不足する時これを煎じて()むとよく乳が出る。でも多服すると血を(やぶ)るから注意すること。また小児の瘡毒は、この液汁でたびたび洗うとあとがつかずに治る。農家の人はこれを貯えて腹痛の薬に用いている。



最終更新日 2005年11月20日 11時15分53秒

林春隆『野菜百珍』「一七 防風(ぼうふう)の話」

一七 防風(ぼうふう){ばう}の話
 浜防風(はまぼうふう)は、海辺に生じ、また畑にも作る。古名を浜すかな、浜にがなともいう。苗葉はほぼ(せり)に似て、長ずると芽独活(うど)のようである。初夏に花簇がりて開き、その形傘の如し。
 防風は若葉を膾に添えたり、またその茎をざっと湯がきて、三杯酢、酢味噌、胡麻韲、山葵(わさび)あえなどとする。
 防風には、伊勢防風(石防風)、八百屋防風がある。遠州海岸付近の防風は長けてもなお軟らかくてすこぶる佳味である。
 防風の名は中風症を防ぐが故にこの名がある。で、風邪の薬ともなる、身ぶしの疼むのにもよし、また疲労して盗汗(ねあせ)かくにも、金瘡にもよろしい。



最終更新日 2005年11月20日 11時16分41秒

林春隆『野菜百珍』「一八 胡蘿蔔(にんじん)の話」

一八 胡蘿蔔(にんじん)の話
 にんじんを俗に人参と書くは誤りである。人参は土精、地精、神草などと称し、古来薬用にされて朝鮮産のものを最上とされた。高価なものなれば世諺に人参()んで首(くく)るというくらいで、昔の医者にも人参医者といって、多量に人参を用いたような顔をして薬料を高く食った。それから人参欺しという詞も出て、乾からびた和人参を朝鮮人参だと称して売る商人がある。今も縁日などでも往々見うけるのである。昔から壮健なものが人参を服むと、却って害がある、と言われるほどの滋強剤である。
 その人参はさておき、野菜の胡蘿蔔は、本名を芹にんじん、葉にんじん、菜にんじん、八百屋にんじん等といって、その形が朝鮮人参に似ているので、俗ににんじんと通称したに過ぎない。胡蘿蔔と書くから、いずれ鎌倉時代に舶来したもので、胡の国の蘿蔔をいったのだろう。いつの頃よりわが国でも食用にしたか詳らかでないが、二百余年前の記録に、京の東寺付近の胡蘿蔔は波薐草(はうれんそう)と共に佳良であることが載せてあるくらいだから、一般の食用となったのはあまり古いことではなかろう。
 霜月のころ胡蘿蔔引きと称して句題にもある。「にんじんの冬は畑にも竜田姫」、また貞柳の歌に「にんじんのおもひそめては色に出てつひにこころもふとにとそなる」とあるにんじんの太煮はちょっと好ましいものである。
 まず大阪の金時にんじんを最として、その濃紅を愛する。関東のものは淡紅で味も劣る。近来西洋種の、一寸にんじん三寸にんじんなどが、内地産の乏しい時の間に合せに用いられる。大体、胡蘿蔔は表だった料理にはつかわれず、漸く色に用い、また和えものの汁の実にされるか、たまたま刺身の山葵入れの花形ぐらいにされてお座敷に出される光栄に浴するのである。しかし、正月の煮しめ(じゅう)の物にはなくてはならぬ嘉例の一つである。
 胡蘿蔔を食ったら腎張りだ、という諺をよく聞かされるが、ことそれほどに、このものに滋養素が含まれているのである。
 さて、その調理は、
 煮つけ 甘露煮は常のこと、
 和えものは共葉和え、胡麻醤油、
 白和え は皮を剥いて細く切り、これを鍋に入れ温湯を加えてよく茹で、煮出汁と砂糖、塩などにて味をつけ、白和味噌にてあえる。白和えは白味噌をよくすり、水気をしぼった豆腐を味噌と同じ量に入れ砂糖を加え、またよく摺り混ぜて裏漉(うらご)しにして和える。
 ほろ和え 若い胡蘿蔔の葉と根を分け、根は皮を剥いて短冊形に切り、葉も刻みて別々に湯煮して(ざる)にあけ置き、白胡麻味噌であえる。
 このほか、あちゃら漬に用い、また味噌漬、粕漬ともする。太と煮、酒むし、風呂吹きその他。加役飯または葛溜りなどに入れるには、いずれも後入にしないと、煮崩れて色もわるくなるからちょっと注意すること。因みに、鳥獣の肉に胡蘿蔔を入れると悪臭を除く。



最終更新日 2005年11月20日 11時17分20秒

林春隆『野菜百珍』「一九 蒜韮の話」

一九 蒜韮の話
 犬蒜(葫)は古名をおおびるという。にんにくの語は、忍辱の意にて僧家の隠語に因る。臭い甚だしく五辛中の重なものなれば、かく言うとある。また一説に、()は臭いにてその臭をにくむ(、、、)とも言われるが、いずれにしてもその臭いの強きを忌み嫌うたのである。「本草綱目」の説に、「辛きものを生にて食へば恚を増し、熟して食へば婬を発して性欲を損ず、仏家の五辛を戒むるも是れなり」とある。
 また俗間六月土用に入るの日、蒜一二片に赤小豆一二粒水にて飲むことがある。これは暑気温熱を避ける法とする。ただ赤小豆飯を炊くのも邪気を掃うの意にて、各門戸に蒜をつるして疫癘を除くもまたその能を以てする習いである。「和名抄」に、蒜は比流と訓し、あるいは比留はひらつく(、、、、)の謂にて、辛味を賞するにあるか、またにんにく(、、、、)というは、皮薄く中子白仁にして即ち肉なれば仁肉というかともある。「日本紀」景行天皇の条下に、日本武尊、信濃に進入したまう時、深山白鹿に逢い、蒜を以てこれを弾つに、眼中にあたって鹿死す。後世信濃坂を越すもの、必ず神気を得て瘴臥す、故に山を越ゆる者は、蒜を噛みて人馬に塗りて行く、敦賀の加比留神社これなりとある。「後撰集」に「我をのみおもひ敦賀の越ならば帰る山にも惑はざらなん」と、帰る山は鹿蒜という転語である。
 また、「源氏物語」帚木(ははきぎ)の巻雨夜の会談の条に、左馬頭藤式部が、かねて馴染める女の許へ訪れると、あいにくその女が、重い風邪をひいて、極熱の草薬(蒜)を服したので、口の臭を恥じてそのことを告げて対面を拒った。式部はそれを女がすね(、、)たこととおもい「ささがにの振舞著き夕暮にひるも過せといふがあやなさ」と詠んで、ちょっと男のやきもちをほのめかした。今のモガさんなら「あら嫌よこの人は、それ御覧なさいよッと、男の首ったまにしがみついて、臭い唇を……」。ところが当代の女流はなかなかそんな端たない所作はしない。「逢事の夜をし隔てぬ中ならばひるも何かは(まば)ゆからまじ」といい返して、その真情を見せた、という、上品なおのろけが載せてある。これを句に「疑はる香でなし韮のみだれ髪」とあるが、これは韮と蒜とを混同したのか、また韮をも野蒜というたのか、それはともかく。
 で、この蒜はこうした古代から上臈までが用いた食料であるのを、見も聞きもしたことのないような顔をする現代人は、じつ以て、蒜のための反逆者である。さてこの食用は、
 蒜汁 に限る。それは生姜を入れて、よく茹でて冷しておくと、その臭みがぬける。それを汁の実とする。また、
 酢味噌 にしても食べる。次に、
 韮(葷菜)は、古名美良の転訛で異名を二もじという。大みらは薤である。俗に辣韮と書いてその辛辣な味を示している。しかし、長生韮、翠髪などといって、婦人の毛髪を養い、また強精、長寿の食料とされている。が、それほど猛烈に、飲酒して韮を大食すると遺精するおそれがあるといわれている。野生のものを山みらと称し、寒国では韮粥を造って防寒食とすることもある。もっとも韮は春時において食するとその効が多い。シナ人はこれを常食として、飽かずに滋強料の食用としている。
 この調理は、とてもお座敷に出すべぎものでないから遠慮するとして、もし、蒜、韮、葱、らっきょうの類を食したら、酢を煮て口を(すす)ぐか、また日本紙を噛むか、砂糖を()めて口直しをすると、大抵その臭気が去る。で、源氏の痴話ものがたりも、あえて要することでない。このあまり好かれぬ韮に、シナでは、斉の田横が(ひつき)を送って「蓬上露何晞、明朝更復落」と謡ったり、郭林宗が友人を見て、夜雨をいとわず韮餅をつくったので、杜甫は「夜雨剪二春韮一」などと誦した。俳人野坡は「やぶいしやが藪から出たる野びる哉」といえば、芭蕉も「野びる生ふ黒木の橋も久米路哉」と。また「誰がこひて捨ておいたかにんにくの塀こしにさへ匂ふなりけり」というのもある。



最終更新日 2005年11月20日 11時18分04秒

林春隆『野菜百珍』「二〇 酸漿の話」

二〇 酸漿の話
 ほおずきといえば、片靨(かたえくほ)に愛らしいその乙女姿が偲ばれる。
鬼灯(ほほづき)を男が持てばにらむかな」と。この酸漿を婦女子が吹くことは、「栄花物語」初花の巻に「御色白くうるはしう、ほほづきなどを吹きふくらめて云々」、また「源氏物語」野分の巻に「ほほづきとかいふめるやうにふくらかにて云々」ともあるから。ほおずきを吹き鳴らした風俗は、最も古くよりのことであろう。この酸漿を女子が歯にあてて吹くのは、古来婦人が鉄漿(おはぐろ)をつけるに、ほおずきをふくむと歯の根を堅めて鉄漿がよく着くという習わしからで、これも婦人のたしなみの一つであった。また七夕(たなばた)の笹に金箔など塗った鬼灯(ほおずき)を括りつけるのも女性のこうした習いからである。孟蘭盆(うらぼん)の草市にほおずきを売るのは、鬼灯燈籠草といって、盆踊に用いる赤提灯の形に似たるよりの名で、鬼灯と書くのも施餓鬼に(とも)すからの名である。
 また酸漿の種類はいくらもあって、和名をははづきと言い、本質のものは実が紅赤で甘味であるが、黄色のものはいぬほおずきと称して苦い。これを「爾雅」に黄蔭という一年生である。本質の酸漿は旧根より生じる。またうれほおずき(竜葵)、これは山ほおずきともいう。酸漿に似て房を結ばぬ、その実は裸で茄子のようであるから、俗に小茄子と言う。色は紺黒である。紅に変ずるを竜珠という。山ほおずきは汗瘡、耳瘡などに特効がある。
 また酸漿は腹痛その他胃腸の薬に奇効があると伝え、昔の人は常に貯蔵したものである。句に「鬼灯や医者感じて急ぐ心の臓」というのがある。江戸時代には俳優の紋をつけた編笠を冠った少年が、酸漿を夏の商い初めに売りに歩いた。「ほおずきやンほおずきやン」と呼びあるいた。これが冬には梅干を売らした。こうして少年に商売の道を仕習わせたものである。
 丹波ほおずきは亀岡付近が最も産地で、大井村の田中逸平というが、正徳年中に粟と共に栽培して年々これを仙洞御所に献じた。その光沢と実の大なのをもって名がある。延宝四年版の「類船集」に「山茨菰、昔よりありつらめど、近年江戸酸漿とて美しく赤きあり。青ほほづきの時分に、はやめづらしければ、もてはやす事とそ。丹波より来る青酸漿は吹ぎ散らされぬべし。肴になり、膾にはさまれ云々」とある。丹波ほおずき最も名あれぽ、江戸自慢にかくいったのであろう。
 一茶の句に、
   鬼灯の口つきを姉の指南かな
   弟子尼の鬼灯を植て置にけり
 いまの俗、古えの風を習って、ほおずきを吹く少女あるも、徒らにゴム製のものや海ほおずきを口に含みて、ただ音を楽しむのみである。狂句に、
   酸漿を荷供に嫁は取よせる
とある。また狂歌にも、
   ほほづきはいろあかつきに穴あけてほととぎす山口になく
などもある。
 さて食用には、ほおずきの皮を去り、そのまま白砂糖にまるめて食す。また砂糖湯に入れてもよし。
 膾は、その酸味と甘味を利用して、揉み海苔、三杯酢などがよい。食用のほか薬用とし、また愛玩されるのである。



最終更新日 2005年11月20日 11時18分47秒

林春隆『野菜百珍』「二一 神馬藻の話」

二一 神馬藻の話
 ほだわらは、俗にほんだわらと訛る。その形によって、穂俵といい神馬藻と書くのは、神功皇后、船中にて馬の秣にこの藻を用いしめ給うたよりの名であるといい伝え、古名なのりそ(、、、、)というも、神の馬なれば勿乗(なのりそ)という義であるなどともいう。
 されど、なのりその義は、「日本紀」第十三に、「允恭天皇十一年三月癸卯朔丙午、茅渟宮に幸す。衣通姫の歌に『とこしへにきみもあへやないさなとり、うみのはまものよるときときを』と、時に天皇衣通姫に謂って曰く、是の歌他人に聴すべからず、皇后聞いて必ず大に恨まんと、故に時人浜藻を号けて、奈能利曽と謂ふ云々」とある。この古名、後説のかたがやや取るに足るであろう。
 さて、ほだわらは、丈三、四尺にて茎長く枝多く、細かな葉を互生して、一分余りの円形の実を着け、中空しく魚艀の如し、茎は生なるは黒くして、煮れば緑となる、これを料理のあしらいに用い食するのである。
 冬のうちこれを採取して、乾かして藁の如く束ね、米俵の形に作って正月の春台として、新春の床飾りとする。
   ぼだはらや祝儀表する宿の春
 また神馬藻という名によって、年徳神の馬によそえてこれを飾るともいう。この海藻は、疝気、脚気、腎臓の諸病に奇効がある。また動脈硬化症に最も常食すべしとある。
 さて、食用には、ほだわらの塩気を除き、よく湯煮して、唐辛子味噌に和える。また刺身のつまみなどにも用う。青きがよし、黒きは硬くて味わるし。



最終更新日 2005年11月20日 11時19分17秒

林春隆『野菜百珍』「二二 糒の話」

二二 糒の話
 ほしいい、略してほしい(、、、)という。米飯を干して貯えたもの、また特に糯にて造りて製菓の材料ともする。戦国時代には多く軍糧として用い、また慶長の頃までも、旅人の食糧として必ず携行した。これを旅籠屋に託して湯にふかして食事に充てたもので、宿の看板に糒ほとぼし過ぎ不申候と書いたのも、狡猾な宿主はそれを軟らかくほとばしてその上まえを掠めたからで、こんな断り書を出したものである。
 この製法は河内国の道明寺、彼の菅原道実公の伯母覚寿尼の住寺にて、公が左遷の時ここに一宿せられ、暁の鶏鳴に別れを惜しまれた地である。そこの名産として古来、道明寺糒と称せられる。その創製は、土師氏の祖に乾飯根という人があって、この寺中でこれを製して賽者に販給したのが始まりであると伝えられる。ある人の戯れに、
   尼の択る舎利のほし飯道明寺
と。米の浄白を舎利にいいかけた面白い句である。
 仙台糒は昔江戸で名高かった。その看板がほしいと大師流で書いたので、その字の形が(からす)のようであるから、ついに鴉の画を描いて出した。それについておかしい話は、仙台の殿様と高尾太夫が、誓言の契約をする時、熊野の御符がなかったので、この糒の鴉看板で誓い立てをしたなどと、江戸の昔話がある。
 近ごろ浪花糒と称して、粉状の細粒を布袋に入れて、そのまま湯水に浸けると、すぐ餅のようになるものを(ひさ)いでいる。俗に信楽餅といったようなものである。
 糒は多く菓子屋で用いられ、その他軍糧として尊重せられるのである。



最終更新日 2005年11月20日 11時19分53秒

林春隆『野菜百珍』「二三 糸瓜の話」

二三 糸瓜の話
 へちまというのは蛮語にて、本名は糸瓜、また糸羅、紡線、洗鍋蘿などと異名される、それはその皮肉を去って、筋の海綿の如くなるよりの名で、若きうちは食用とするも、多くは老瓜として種々応用されるのである。また糸瓜の液は清白にして肌膚を美しくするより美人水の名もある。
 布瓜と書くも糸に因みての名で、六、七月頃に黄花開き、秋季に至って長きは三、四尺にも垂れ、太きは杵の如きもある。この瓜のぶらりと棚から下った形の、さまのおかしきより世俗に、よく懶惰者のように唱われ、狂歌に「世の中を何のへちまとおもへどもぶらぶらしては食はれざりけり」また「世の中にぶらりとなつた身の上もなんのへちまののりのかわなり」などとある。
一,ぶらぶらと長うなるのが糸瓜哉Lと、とめどもなく長く、ぶらりと下った形に洒脱味がある。
 さて、調理はその若きもの、
 田楽 長さ二寸ぐらいのものを採り、竹串にさして、表面に胡麻油を塗り、火にかざして焼き、さらに山椒味噌をつけて(あぶ)るのである。
 粕漬 常の如し。
 このほか、汁の実、酢にはじかしてもよし、付合せもの。
 この瓜は血を順らし、乳汁をよく出すゆえ、常に婦人の食用とさる。
 また、近来その一種に錦糸瓜、俗にいと瓜というもの、楕円形にて皮はだ黄色を帯び、真桑瓜に似たるものが青物店にある。それを調理するには、皮を剥き、五、六分の輪切りとして水から茹でる。それを水に晒し、平手にてそろそろ揉みほこすと、錦糸の如くになる、それを三杯酢なり、また切って酢味噌にするとよい。



最終更新日 2005年11月20日 11時20分31秒

林春隆『野菜百珍』「二四 鶏冠菜の話」

二四 鶏冠菜の話
 とさかのりは、古名とりさかのりという。本州中部の沿岸に産する海藻である。十四、五尋の海底の石上に繁茂して、その形鶏冠の如く、その色は赤、白、、黄、緑、紫、黒等があって最も美麗なものである。その調理は、
 刺身 とさかのりを心太(ところてん)の如く煮きて、それに唐麹を入れて赤色をつくり、砂糖少し加えて味をつけ、枠箱に流し込み、よく冷して、刺身の如く切る。それを山葵醤油にも、酢味噌でも、精進のさしみとして用いる。この海藻は眼疾に奇効がある。また便通にも奇効があるといい伝える。



最終更新日 2005年11月20日 11時22分41秒

林春隆『野菜百珍』「二五 心太の話」

二五 心太の話
 ところてんは、石花菜という。暖国の海中に生じ、毎年夏季にこれを採取して、厳寒の頃に乾燥凝固するゆえに寒天という。心太草とも書くは、この海藻は海中の石に茎太く生じて、その枝乱れて糸の如くなるより、心太という義か。またいう、心点なり、凝点をこころてんともある。「倭名類聚鈔」「本朝式」に言う、凝海藻(古留毛波)俗に心太(古々呂布止)の.一字を用ゆとある。「延喜式」にも太凝菜調貢のことを記し、上総凝海菜、安房凝海菜などとある。「太宝賦役令」にも凝海菜一百三十斤云々とある。
 職人歌合の詞に「太凝菜を売る人の、こころていと呼ぶといふ事あり、それより又、ところてんとなれるなり」とある。また歌に「我ながら及ぼぬ恋としりながらおもひもよらぬこころふとさよ」とある。近頃までは三都とも、夏日これを売る者、竹簀などにて涼しげに荷をこしらえ、杉の葉などを挿してつき出し、心太、水飩などを売り歩いたが、今では氷店、水茶屋などで売るようになった。
 ところてんの食いようは、つき出して、砂糖蜜かけるか、また溜り醤油をかけてもよし、酢味噌でも、また山葵酢でも、ちょっとした夏日の酒媒となる。
   あら井戸や小魚と遊ぶ心太
とは一茶の句で、いかにも夏らしい景物である。さて心太を寒天に製することを発明されたことについて逸話がある。ところてんを石花菜から製したのは、シナが最初である。てんぐさの異名を、瓊枝、石花、鹿角、鶏脚、海月、石花菜と称する。
 しかるにわが国で寒天を製し始めたのは、万治元年頃、島津大隅守が参覲の途次、山城の国伏見の本陣に駕籠を駐められた時、膳部にてんぐさを煮つめた料理を出した。その残骰を棄てたところ、折からの厳寒で、たちまち氷結して干物の如くなったのを、宿の主人が発見して、これを機として種々に工風をこらし、瓊脂の干物と名づけた。その後宇治黄檗山(おうばくさん)の開山隠元禅師は、寒中に製するものゆえ、寒天と命名された。明和ころまでは伏見の特産物であったが、その後、摂津の三島郡見山村、丹波の南桑田郡満願寺村でも始め、信州地方からも大量製産するようになって、重要なる輸出品となったのである。
 寒天はところてんのほか、寒天餅とて、寒天を水で煮て、これを漉してその中へ寒晒粉(白玉粉)を適宜に水で溶いて入れ、とろ火にて煮て、蜜柑汁を加え(またレモン水でもよし)、箱型、または花形などに流し込み、冷めて固まるをまって砂糖をかけて出す。
 またところてんを夏に食えば、暑気をはらい、厳寒に食えば、凍るような寒夜に露宿しても堪え得られるという伝説がある。
 また寒天を溶かして紙にひくと、礬膠紙の如くなるので、昔の深草団扇は、これを用いて破れないのを名物とした。



最終更新日 2005年11月20日 11時23分52秒

林春隆『野菜百珍』「二六 野老の話」

二六 野老の話
 ところ(卑廨)は、山野処々に生ずる、仏掌薯に似たる葉の蔓草の根に生ずる細長き薯で、山の薯に似たれど、その味は少し苦い。
 野老と書くのは、正月の蓬莱(ほうらい)に飾る嘉祝のもので、蝦を海老と書き、共に相対して山海の珍羞としたのである。寛政の頃までは、貴賤ともこの野老を多く嗜好して、茶菓子などに用い、また縄にあみて土産ものにした。いまは正月のみの飾りに見るばかりであるが、この野老は、薐羹、土茯苓(山帰来)などと同じ効能ある薬草である。芭蕉の句に、
   此山のかなしさ告げよ野老堀
とあるは、吉野山で詠んだものか。
 卑蘇は関東の山中に産するものを佳品とし、大和、紀伊、伊予、安芸地方に多く出したものである。自然生えのものを鬼野老と称し、苫味甚だしく多く、薬用にされる。



最終更新日 2005年11月20日 15時11分11秒

林春隆『野菜百珍』「二七 橡実の話」

二七 橡実の話
 とちの木は二種あって、赤とちは槭とかきて実を結ばず、実を結ぶのは栩という喬木で、その実を橡の実という。委た略して栃と書く。実は秋熟して椿の実に似て外皮の厚さ二分ばかり、茶褐色で熟すると自ら二つに裂けて落ちる。内に一子がある、扁円で栗色がしている(俗にどんぐりは栃栗の約か)。これを天師葉といって、この実を粉にして米に混じて餅とし、また粥にまぜて栃粥とする。今も米穀の不自由な深山の住民はこれを常食にも用い、貯蔵して凶荒の備えにもする。
 栃を和名つるばみというのは、この樹皮を染料としてつるばみ色を取るからの名である。
 とちの実は累々として生る。西行法師の歌に「川深み岩にせかるる水とめんかつかつ落つるとち拾ふ程」とまた、和歌に「木曽川の流れにおつる橡がらも身を捨ててこそ浮む瀬もあれ」。たしか後水尾天皇の御製と覚える。
 木曽山中また大和吉野地方ではこれを麺として食する。その製法は、とちの粉を熱湯でこねて、うどんの如く棒にまいて温かなるうちに急にこれを伸ばす。冷えると堅くなるから、その手廻しの(せわ)しないことを俗に諺えて、とちめん棒をふるというのである。
   とちの実や一字を落す三大経
 因みに、とちの粉を製するには、その実を熱湯に投じて茹でて、日光に晒し、十分に乾燥したるのち、()いて皮を剥き、再びうでて水に浸し、更に乾燥して挽臼で挽いて粉として貯えるのである。
 著者は大和吉野奥の小栃という所に、深い縁故がある。この辺も今日では峻しい山道を自動車も走るが、二十年前ごろは、そこへ行くとよく栃粥や栃餅を振舞われたが、とても旨いものでない。まず黍団子に似て非なものである。またその嫩葉(おかば)を茶の代用ともする。痢病に奇効があるといわれている。



最終更新日 2005年11月20日 15時12分03秒

林春隆『野菜百珍』「二八 蕃椒の話」

二八 蕃椒の話
 とうがらしは、天文年間に豊臣氏が征韓の時に将来したとも、また慶長の頃煙草と共に葡萄牙(ポルトガル)人が舶載したともいうが、ともかく南蛮というから、いずれ南方より渡来したものである。
 二百年以前に伏見稲荷辺に産するもの佳なりとある。今も伏見蕃椒(とうがらし)の名がある。
 蕃椒(唐辛子)は春の半ばに種を下し、夏の半ばに小白花を開き、初秋に実がなる。初め青く、熟すると赤く、また黄となるもある、その一種に実が多く空を向いているので異名を天上守、空見天覗。また酸漿子、八つ成、鷲の爪(鷹の爪)ともいう。
 唐辛子は、よく人間味を露わにしたる趣があって、
   居酒屋やあいそに植し蕃椒
   人は武士君小粒でも唐辛子
   寒いそよ軒の(ひぐらし)たうがらし
などは例の一茶が人情句である。また芭蕉も、この野趣ある食味をうとうている。
   かくさぬぞ宿は菜汁に蕃椒
   青くてもあるべきものを蕃椒
   大風のあしたも赤し唐辛子
 このほか唐辛子の句は、いずれも民衆的なところにその趣がある。野坡の「石台をついに根こぎや唐辛子」、蓮二の[、鎗持の秋やふけ行くたうがらし」、湖十の「新蕃椒御目見え芸の頬かまへ」、また去来の付句に「てんじやうまもりいつか色つく」などもある。著者の旧作に、
   七草にすねて色よし唐辛子
 こうした唐辛子礼讃ばかりを話していては百珍も薬味が多すぎる。で、その調理談にかかる。
 七味蕃椒は、陳皮、山椒、肉桂、黒胡麻、麻仁を加味したもの、京の清水にその名物屋がある。明治のころ大阪に甘辛屋儀平という洒落た蕃椒の行商があった。
 粉唐辛子にはあまり辛味が強いので、鬼灯花の実を刻みて混和するのである。
 不食無菜の時、たまたま数ならぬ惣菜にも蕃椒をかけて、その食味と色彩を添えるも嬉しい。
 シナ人のこれを用いること、またその強烈なるに驚く。されど奴豆腐に紅葉の色を見せたるは好もしいものの一つである。
 青唐がらしの田楽、竹串にさし、油を塗りて味噌つけて焼く。
 青唐辛子(しし唐辛子)の中子を去り、胡麻味噌を詰め込みて焼くもよし。
 青きうちに葉と共に煮付くるもよし。
 油炒りは鍋に油を引き唐辛子を炒りっけ、それを多量の砂糖にて飴の如く煮たるものにかきまぜる。付合せによし。
 また薬味として欠かしてならぬも蕃椒である。小庭にうえても七草のやくみにもなるべし。この鷹の爪と称するものを乾し上げて、書画衣服などの虫除けともなる。



最終更新日 2005年11月20日 15時12分55秒

林春隆『野菜百珍』「二九 冬瓜の話」

二九 冬瓜の話
 とうぐわは俗にとうがんという。霜を経て冬に熟するを佳としてこの名がある。原産は東印度(インド)で、わが国では九州地方に多産する。関東ではとうがんといい、関西では白瓜という。また氈瓜の名は、皮の上に白粉を塗ったようであるからの称で、世俗にこうもりが驟雨に遭うたという諺がある。
 冬瓜は便通を利し、水腫を治す。また熱するものはこれを食って佳し。冷性のものはこれを食えば痩せる。もし体痩せて軽捷ならんと欲する者は大いにこれを食うべし。しかし肥えんと欲するものは食うべからず。久しく病むもの、陰虚のものは忌むべしと医書にある。
 冬瓜の仁を食すると、容顔を美しくする。
 さて、その調理は、
 吉野煮 冬瓜の皮を()いて中子を去り、皮目の部分を一寸五分ぐらいの賽形に切り、皮の方に亀甲形の庖丁目を入れ、汁多くひたひたにして、煮味を加減して煮付きたる頃、別に溶いた葛粉をそろそろ加え、粘りつきたる時、火より下して器に盛る。露生姜、二、三滴おとす。
 甘煮 冬瓜を(たて)切りに数片に切り中子を去り、皮を剥きて適宜の大きさに切り、水洗いして水気を去りて沸湯に入れ、よく湯煮して目笊に上げ雫をきり、味淋、醤油及び砂糖を加え、鍋に入れ中火にかけ、落し蓋をして煮こむ。煮汁のやや減りたる時おろして、粉山椒をふりかけて出す。
 葛かけ 前の如く湯煮した冬瓜を、薄味に煮上げて、盛ってから葛をかけて出す。
 風呂吹 前の如くし、少し大形に切り、盛ってから胡麻味噌をかけて出す。
 そぼろ 冬瓜を前の如く湯煮にして薄味をつけたものに、鳥肉のぞぼろをかけて出す、粉山椒をふって。
 このほか、味噌煮、味噌漬、汁の実また魚類の煮合せ、黄身かけなどある。
 冬瓜を湯煮する時、出し昆布を入れると甚だ味がよくなる。
 ここでちょっと、風呂吹(ふろふき)の話を挿んでおく。大根やかぶらや冬瓜その他の料理に、風呂吹という名をつけることは、もと伊勢風呂から出たことである。伊勢のから風呂とて宝永の頃までは一つの名物であった。それは風呂に入るものの肩の上に、息を吹きかけて垢をかけば、息を吹いたところがうるおいて垢がよく脱れるゆえ、口にて拍子をとりて吹ぎかけ吹きかけて垢を落すのである。そのものを風呂吹と称し、上手下手があって興あることであると自笑の「内証話」にある。それを料理の熱い蒸したてのものを、ふっふっと吹きながら食うさまが、伊勢の風呂吹きに似たので、ついに風呂吹というようになったのである。



最終更新日 2005年11月20日 15時13分46秒

林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」1

三〇 豆腐の話
 お惣菜に困ったら豆腐と、芝居の芸題がゆきつまったら忠臣蔵とは、昔から言う諺であるが、豆腐と義士は、わが国民性に、事ほどさように深い関係を繋いでいるのである。
 その豆腐がまた芝居道の独人参といわれる忠臣蔵と同様に、豆腐も芸術的食品として、古くから料理界に取り扱われて来たものである。
 例の「豆腐百珍」などの書物を著わし、豆腐の批評に妙品、絶品、奇品、佳品等の類別さえして、ただの八杯豆腐にまで真行草の法式を定めなどしたのは、実に食通もここまで来れば沙汰の限りであるが。
 しかし、これらはいわゆる豆腐の皮を剥いてひとり悦に入ってる茶人や、酢豆腐は乙でゲスなどと通がる好食の輩が、たわいもない邪道の虎の巻として作ったものに過ぎないのであろう。
 この「豆腐百珍」の書は、天明年間に大阪の人で酔狂道人という名で出版されたもので、調理の実用的よりは、料理の変形術を述べた技巧で、ここにも豆腐の芸術観を示してある。昔の祗園豆腐は曲芸をして見せたもので、そんな話はおいおいにする。
 で、豆腐がそれほど千変万化に応用されるのも、畢竟その質が素直なからで、俗に豆腐に(かすがい)という諺どおり、祗園どうふの軟らかく粋にも不粋にも好かれるからである。
 白玉翁の豆腐の記に、
   その形四角四面にして、威儀ただしく生れ、和かにして、人の交はりにきらはれず。その身は精進潔斎なれども、和光同塵の花鰹に交り、諸社の神前にては田楽を奏し、神慮をすずしめ奉り。先春は桜豆腐に、祗園林の花にいさませ、二軒茶屋にかんばしき匂をこめ、あけぼのの朧豆腐に歌人の心をいさめ、雉子焼の妻恋に、珍客の舌鼓をほろほろとうたせ、和歌連俳の席に月花に心をよせ、一興の味に豆腐のいたらぬ所なし(下略)
 至極上品なるも。その実、奴豆(やつこ)腐の名は江戸八百八町に鳴らしてわしが国さの伊達(たて)自慢を偲ばせ、五右衛門ならぬ油煎りの浮目に雷とうふの恐ろしい名を轟かすなど、いくらその形の四角なるも、杓子定規をもって量るべからざる実に百珍中の珍なるものである。さて。豆腐の創始は誰しも准南(わいなん)の劉安侯を挙げて、准南第一の声価を(ほしいまま)にするとも。その後豆腐の名を雅ならずとして、明の孫子は叔乳と改め、また豆乳、豆購、脂酥、方璧などの異名をつけた。
 で、今もシナの寺院では乾豆腐をもって数十種の珍料理をととのえるのである。それは先年、宇治黄檗山(おうばくさん)の隆碕管長一行が福清の黄檗祖山に拝登された時に、二十六種ほどの珍斎を出された。その調理をきくと、大概豆腐を主材としたものであったなどは、豆腐そのものの多技多能なるに驚かされるのである。それをわが国では、お惣菜にこまった時にのみ食うなどは、さても豆腐冥利に尽きるであろう。
 古来、諸書に載せられた豆腐の説は、実に牛に汗するどころか、馬に喰わす豆の数ほどもあるが、大概漢籍の巷談と准南王の自慢話に過ぎない。
 それは何仲黙が豆腐売りをやって、破氏と好学の友であったとか。王信が豆腐を日食して簡易な生活に安んじたので、世人は呼んで豆腐侯と号したなどという説である。わが国でも、豆腐のことを書いたものは連歌の名匠一草庵宗長が[東路の裏」に、豆腐をやきて一盃をすすめしは、都の柳もいかでおよぶべからんとそ、興に入り侍りし云々とある。宗長がこの著は天正六年の初秋、白河の故関に遊んだ時の記であるが。これより先の書に、「運歩色葉集」「撮壌集」「新撰類聚往来」や「下学集」などにも、豆腐の記事は載せられてある。これらの書はいずれも永正、天文の頃に行われた書で、ほとんど五百数十年以前のものである。
 また豆腐を壁ということは、交亀板の「饅頭屋節用」に「豆腐白壁」とある。またそれより前の長享二年の奥書ある「海藻抄」に、飯は供御、酒は九献、餅はかちん、味膾はおむし、塩はしろもの、豆腐はかべ、素麺はほそもの、松蕈はまつ、鯉はこもじ、鮒はふもじ、云々とある。また職人歌合に、豆腐売りの月の歌に、
   古郷はかべを隔ててなら豆腐白きは月のそむけさりけり
 また「上臈名事」の女房詞に、とうふ、しろ物、かべともある。この記は室町時代のもので歌合と同じ頃の書である。
 さて。ぼつぼつ本題に入るが。
 豆腐は元来、水質の良否と、豆の善悪にもよるが、昔は質のよい地豆を用いたのも、今では北海道の豆やらその他の外国ものなどを雑用するので、おのずとその味質が悪くなって来た。かの食通であった幸堂得知翁は、東京下谷の豆腐料理専門のしのぶ川の縁者でもあり、また豆腐については多年研究された人で、わざわざ京の加茂川の水を東京へ持って帰るなどの熱心家であった。翁の話にも、東京では根岸、下谷辺の水が豆腐によく適合するといわれ、笹の雪、上野の揚出し、その向う横町の忍川などは名物である。
 しかし豆腐は京都のもので、その風景といい、豆腐のような碁盤目の市街が、すでに豆腐の都である。ところが近来、祗園豆腐も名ばかり残って、豆腐専門の料理屋はいずれも影をかくした。大阪でも高津の湯豆腐や、北野太融寺の藤波亭など、また天王寺あたりの豆腐専門料理屋は、今はあっても豆腐よりか魚肉の方が主となって、豆腐はただのあしらいにつかわれるだけである。
 昔の人と違って厚味を嗜好する現代人には、単純な豆腐ばかりでは向きが悪いが、せめて、豆腐を主として魚類はそのあしらいにされる程度にしたいものである。主従転倒しては、和製の准
南王でなくとも、いささか豆腐のために一梃鎹をうたざるを得ないのである。
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 鄭声甍(ていせいいらか)を落し、紅燈鴨涯(おうがい)の流れにただよう。蒲団着て寝たる姿の東山は、その祗園林の精舎の暁の鐘にさめて、名物の湯豆腐に迎い酒の味は、東坡も卯酒に詩魂を奪われしに、いかで騒客粋人のたましいも、雪をあざむくこの豆腐肌に蕩けざらんやは、などと豆腐もない上機嫌で、まず春は花の祗園豆腐は祗園社楼門の東西に、中村屋、藤屋と号した二軒の茶屋があった。これが京の水茶屋の初めで、中村屋は今も歴然として古い行燈を掲げているが、藤屋は明治の中頃に廃業した。元この家で製した有名な祗園豆腐は、とうふを薄く切って、串にさし少し焼いて、味噌の稀汁(今いう、たまり醤油)をもって、これを煮て麩粉(京阪でいう、はったい)をその上にかけたものである。この水茶屋は後料理茶屋となって、豆腐田楽を名物とした。そこの仲居に金子一分を与えると、豆腐を種々に曲切りにして見せた、それが呼び物となって祗園豆腐の名は都下にかしましくなった。もっともその頃の豆腐は、今のように水に浸けないとふわふわで潰れるのと違って硬いものであった。
 祗園の隣の南禅寺畔にも、湯豆腐の名物があった。
 田楽 また田楽というのは焼いた豆腐に味噌をつけたものの称で、その名の由来は、春日祭の田楽法師が鷺足(さきあし)に乗った形を称したもので、昔の田楽は串の(さき)を二つに割り豆腐をさしたので、「二本ざしでも軟かう」云々と「京の四季」にあるとおりであった。今は大概一本ざしになって、ほんとうの田楽法師の鷺足である。この鷺足の舞曲が、児童の遊ぶ竹馬に変じたのである。
 また「人倫訓蒙図会」に、焼豆腐師とあるのが田楽屋のことで、昔は法会、祭礼など人の群集するところに店をかまえて炉の中央に火をおこし、その廻りに田楽串を(たて)に立てて()いたもので、餅も団子もこうして焼くのであった。今も山間の人は炉辺に魚串を立てて炙く遺風がある。
 熱壁 これは古来宮中の御煤掃の日に行われたことで、十二月十三日の御煤掃の日、これに奉仕する末々の者に至るまで、この「あつかべ」を下さるので、その日御台所前の庭上に鉄の大きな五徳を据えつけて、大釜をかけて白豆腐を煮き、それに白味噌を摺って旨味のあるとろりとしたのを、上からかけて下さるのである。それにはかねて末々の者へ御役人から切手を下され、この切手をもって土器師出勤の場所で土器を受けとり、この七器をもって豆腐方へゆき、豆腐を入れてもらい、それをまた味噌方に行って、味嗜をかけてもらい、それをめいめいの休息所に持ちゆきて戴くのである。またこの日、主上のきこし召す分は、青竹の串にさし田楽にして奉るのである。
 黄檗の普茶白雲菴(はくうんあん)でも、昨秋の御大典に因んで、この「あつかべ」を賓客に供した。その時の調理は、まず特製の白豆腐を一寸五分角ぐらいに作って、昆布をたくさんに敷いた銅鍋で煮加減よくたいて、別に上白味嗜をすりつぶし、裏ごしにかけた柚味噌、また時には胡麻味噌をとろりと作って、それを皿もりの豆腐にかけて出したので、もっとも土器は焼しめの分を新調したのであった。これを仮りに御所田楽と名づけた、ちょっと旨いものである。



最終更新日 2005年11月20日 15時30分06秒

林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」2

 さて、これから普通の田楽の話にうつるが、豆腐の田楽は月並として、油揚、里芋、蒟蒻(こんにやく)などの田楽は煮込み田楽と称し、茄子(なす)雉子焼(きじやき)、南瓜、いも田楽などは豆腐の田楽領を侵害したもので、茄子と南瓜の喧嘩よりも、この方が地上権でない、火上権で煽り立ててもよい。
 それで昔の田楽は丸く切ったもので、今は角切りとなった。これも丸い玉子も切りようで四角と、豆腐までが洒落たものか、串を灰の中へ立てて炙くには丸い方がよく焼ける。
   高あしだふみそこなへる面目を灰にまぶせる冬のでんがく
という狂歌がある。昔は田楽を冬の食いものとしたと見え、歌俳諧にも狂句などにも冬を詠んだものが多い。
   田楽のあとさびしきぞ冬籠
   田楽は昔は目で見今はくひ
などある。許六は「田楽一串にも仁義は自然にありて、天地をつらぬく風味は持てり」と田楽団扇を豆腐の賛にあげている。
 で、いわゆる邪道の田楽はともかく、豆腐の田楽にはその仕方が二タ通りある。
 その一  豆腐を方の如く切って温湯を切盤に(たた)え、切るにもまた串に刺すにも、その湯の中にてすれば、柔らかな豆腐でも崩れることなく、しごく手際よく出来る。それを湯より引きあげ、すぐ火にかけて焼くのである。
 味噌は木の芽を入るること勿論。「豆腐百珍」には醴のかた入れを二分通り味噌に()りまぜると最も佳しとあるが、それはおもくろしい甘味になるから、入れぬ方がよいとおもう。祗園二軒茶屋の田楽には木の芽の外に、葛餡をかけて出したのが、ことのほか当時賞美された。
 その二  豆腐を幅一寸、長さ二寸、厚さ六分ぐらい、これは普通の田楽の形である。これに竹の平串を縦に刺し、竹簾の上にならべ、上からも竹簾をかけた。平き板をもつて軽くおし石を置きて水気を切り、鉄架二本渡した炭火の上で両面を焼く。味噌は山椒でも、木の芽でも。
 また串刺の豆腐を乾いた布巾の上に置いて水気を去るもよし。
 こうした田楽の仕方のうちにも豆腐の風味を損ぜぬのは、その一の湯から引き上げて、すぐ焼くのが最もよい方法だとおもう。
 蒟蒻の田楽でも、湯から引きあげて、べたべた布巾の上で水気を去って、味噌につけるより、ぽかぽかと湯気の立ったのを、味噌につぎこんで食った方が、こんにゃくの風味をひとしお旨くするのである。
 焼き出し  これは田楽の如くして、横に三つぐらい串にさし、狐色になるほどに炙いて、すぐ皿に盛り、酢味噌をかけて出す。
 うに田楽 麹、味淋、醤油の三品を等分に混ぜ合わせ、唐辛子の粉を加え、しばらくねかし置き、なれたる時、よく摺りて、これを田楽に塗るのである。
        *                     *                     *
 これより豆腐の本調理に移る。さて、前に述べたシナの禅寺が豆腐料理に種々の技巧を弄するその豆腐は、水豆腐、臭豆腐、鹵豆腐の三種で、水豆腐とは日本の普通の豆腐と同じであるが、これを凝固るに石膏を用いる。臭豆腐は多少水を蒸発させて、藁を敷いた箱に入れ、三日間ばかり捨てておき、黴を出して用いるのである。また鹵豆腐は臭豆腐を一週問日に干し瓶に入れて酒と塩とを加え、密封して半年以上も放置きたるものである。
 これらのシナ豆腐は聞いても胸がつかえるようだが、それを料理して食わされると、その何とも知らぬ美味否異味に、大抵の食通も食ってその味にチャームされてしまうのである。しかるに唐僧隠元禅師もわが国へ帰化した後は、やはり日本の豆腐がよかったと見えて、
   世の中は豆で四角で柔らかでまた老弱に憎まれもせず
とお世辞をいわれている。
 隠元のついでに黄檗(おうばく)豆腐と称して、黄檗宗が開宗した寛文ころから、宇治は本山万福寺の門前、江戸は羅漢寺、九州は小倉の聚福寺など、黄檗寺の門前でシナ伝来の製法をもってひさいでいたが、今は宇治の黄檗山のみとなった。それはぎせい豆腐に似て「豆腐羹」また隠元とうふとも言うというのである。しかるに、柳亭種彦の「用捨箱」に、黄檗豆腐汁は「赤大豆汁に醤油を入れて煮たる豆腐汁を黄檗豆腐といふ」とある。当時もの珍しい唐風の伝来から、野菜にも器物にも、南京だ、古渡りだと言い(はや)して、薬鑵(やかん)にまで隠元薬鑵といった風に、精進料理の普茶から採って黄檗()だとか、黄檗湯葉(ゆば)とか、種々の名称をつけたものとおもわれる。 一体、料理名はこうした動機から、一つものに異様な名称をつけたものが多い。古来の料理書などは、これがために素人の参考に往々迷うことが少くない。
 寺のついでに、俳諧に寺鱒という詞がある。それは豆腐の油揚を串に刺して、胡麻醤油で付焼きにしたもので、海鱒、川鱒の響である。またそれを細く切り、畳みながら生醤油に唐辛子をちらす、無造作な禅料理である。
 豆腐の名も、ものの名と同じく伊勢の浜おぎならで、東京の(がん)もどきは京阪のひりゅうす。これは飛竜子(ひりようず)の訛りで、豆腐を丸めて揚げた色が、ちょうど黄褐色の飛竜頭に似たので、例のシナ人が猫を虎といい蛇を竜と名づけて料理名とした遺伝である。北七里の歌に、
   鴈もどき我を見捨て飛び行ぬ豆腐に羽根のなきぞ嬉しき
 また鶴もどきという、鴈より上等がある。これは摺り豆腐の中へ松葉牛蒡(ごぼう)に麻の実を交ぜて(かや)の油で揚げたものである。
 また松山豆腐といって、焼とうふに青海苔をかけたものや、紅葉とうふとて、豆腐に紅葉の形をおしたのは、泉州堺の名物で、これは豆腐をよく買うよう(紅葉)という洒落だそうだ。が、延宝板の「麓の花」に、紅葉という題で重秀の句に、
   朝風や紅葉をさそふ豆腐箱
 その頃、江戸にも紅葉豆腐というのがあった。林間に紅葉を焚いて酒を暖める、そのお肴に湯豆腐ときては呑助さんには耳よりの話だ。紅葉のついでに、酒を暖めることは、この紅葉の頃からで、昔は四季年中暖酒を用いなかった。で、今の銚子は燗鍋の遺風である。
 この四角な豆腐は、天神さんじゃないが、大自在な、福徳円満な相をもって、その氏子に御利益を授けたまう。どういう因縁か、神社の境内には湯豆腐が多くて、仏閣の付近には田楽屋が多い。それもその筈か、神様には神酒を奉るから、上戸の好く湯豆腐で、仏さまは甘党の田楽をきこし召すという理かしら……などと、これも前座の一くさり。
 さらば、お豆腐の調理を小口からかたづけてかかろう。
 岸の柳は芽を吹き、水ぬるむ頃はやがて融けゆく、
 春の雪 雪花菜料理、油を引いた鍋を煮たたせ、から一升、鰹節粉一升、山敬少々、これを醤油常の如くさして煎りつけ、別に刻みたる椎茸、銀杏、()、栗などを味付けおぎ、鍋に入れてか
らと共に煎り上げ、冷して形にておし出す。
 かすみ 鍋の中へ出し昆布を一様にしき、その上に大根おろしを十分入れ、またその上に豆腐を人数だけ入れて、から煮きにする。汁は大根豆腐より出て、よきほどになるから、そのまま煮上った時に杓子で混ぜ、椀に盛って花がつおを上おき、濃い煮出汁をかけて出す。
 また、大根おろし六分、豆腐四分を混ぜ、布に包みよく摺り、摺鉢で摺りつぶし、沸湯に入れれば、よくなるなり。それを前の如くして盛り出す。
 春駒 一丁の豆腐、布目を去り四つ切りにして生醤油で煮しめ、冷して油であげ、煎り酒、山葵で食う。
 煎酒酢の仕方  いろいろむつかしくいえど、上酒二合に梅干大五、六個入れて、一合五勺に煎じ、それを冷して用いるのが、一番軽便である。
 青海 きぬ()し豆腐をうすい葛湯にて煮き、煮加減よきころ椀に盛り、煮返醤油をかけ、その上へうら漉しした青海苔をばっと()る。
 つぶて  これは田楽に属す。豆腐を田楽形に切り、串にさして狐色に炙き、そのまま蓋物に入れて、芥子酢味噌などで食う。
 鞍馬  一丁のとうふを二つ切りぐらいにして、油で揚げた後、皮をむき取りてまるく造り、湯煮して梅肉をかけ、芥子胡麻などふる。また酒しお薄醤油にて煮て、山椒をおくもよい。
 光悦 とうふの布目を去り、大田楽に切り、塩にまぶして後狐色に炙き、酒気なくなるまで長時間沸たてた酒の中に投じ、あたたかいのを食べる。これは備後豆腐に似た妙品である。
 朧夜 これは歌人がつけた名で、豆腐を崩して葛と玉子を加えたもの。
 淡雪 これは俳人の好みで、山の(いも)を摺って銅杓子で(すく)い、豆腐を煮る上で温め、(あわ)だつを合図に豆腐にかけて出すのである。
 祗園 葛田楽に摺柚と唐辛子を散らし、串ながらすすめる。これを祗園どうふとも、また花橘ともいう。
 救 これは京洛南禅寺でする救とうふで、葛ねりに、芥子(からし)を加えたもの、また霊山とも名つく。
 小笠原 四角に切ったとうふに、葛かけの上に花がつおをおいたもの。
 治部 これは牢人どうふともいう。焼立ての豆腐に、生醤油をつけて食う、銷の和訓である。
 苞 つと豆腐は俗に三井寺とうふともいう。よく水をしぼった白豆腐をよく擂り、葛粉、砂糖、塩など味加減に混ぜて、またよく擂りて竹の()に棒の如く巻き簀を立てて釜蒸に入れて蒸し上げて、小口切り。
 雲かけ とうふをよきほどに切り、寒晒しの糯粉(米の粉でもよし)にまぶし、蒸し上げて山葵味喉をかける。山葵味噌は白胡麻か胡椒を白味噌に摺り合せ、これを用いる時おろし山葵を混ぜるとよろしい。
 ひきずり 豆腐をよきほどに切り、葛湯にて煮き、あみ杓子で掬い器に盛り、山葵味噌を少し固いめにして、その椀の蓋の中に付けて出す。これを食べる時、蓋をうらかえして器の豆腐を引きずり出して、味噌をつけて食べるのである。
 たたき 焼とうふを摺り潰し、味唱を七分三分の分量に混ぜて、菜刀でよくたたき、ほどよく切って油であげる。調味好み次第。
 滝川 寒天を煮ぬき、その湯で豆腐を烹きしめ、冷して用う。
 茶礼 茶礼とうふは平鍋の底に笹葉をびっしりと布き並べ、その上へ豆腐一丁を五つ切りぐらいにしたるを、またびっしりとならべ、その上に摺り味嗜を厚くしき、また笹をしき、豆腐を並べ、笹をしき豆腐をならべ、二、三段にして半日余り煮きたる後、笹をしきならべたるまま、平茶椀に盛って山椒味噌をふりかけて供する。
 味噌漬 豆腐を乾いた布の上にならべて水気を去り、一丁ずつ紙に包み、一夜の問田舎味噌に漬け置く。調理はお好み次第。
 色紙 とうふをしぼり芥子の白身をすり混ぜ、板に延ばして蒸し、別に黄味を煮て揉みほこしてとうふの上にかけ、色紙形に切る。
 短冊 常の焼とうふほどの大きさに切り、板の上に布巾をしき、これに透間のないように並べ、また布巾をかけ、上に板を置き圧を強くかけおけば、しぼれて薄くなる。それをよきほどの短冊に切り、焼鍋で両面焼いて用う。
 あられ とうふを(さい)()に切って油であげたもの。汁の実。



最終更新日 2005年11月20日 15時32分41秒

林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」3

 郭公(ほととぎす)さか屋へ三里、豆腐屋へ五里という不便な所にも、夏が来れば奴豆腐を渓川に冷して、電燈の灯影で、河鹿の声をききながら一杯やれる結構な世の中。さて、
 冷奴 は生の豆腐を.一つに割り、これを皿に取って、氷の塊りを二つほど入れ、別に生醤油と薬味に青紫蘇、山葵、すり生姜などを添えて出す。しかし、豆腐は腐敗しやすいから、一ど湯煮にして冷したら安心が出来る。冷やっこを大賽に切ることを、俗に奴に切るというは奴の紋から名づけたものだが、豆腐に庖丁を入れて、それを水に冷したのでは、豆腐の真味がうまくなくなる。
 煮奴 これも一丁を真二つに割り、鍋に移して、味淋一合、だし二合、醤油一合の中に入れ、ぐつぐつ煮たたせて後、皿に盛って、青唐辛子の刻んだのをかけて出す。
 湯奴 とうふを(さい)()か拍子木に切り、葛湯を湯玉の立つほど沸たたした鍋の中へ、豆腐一人分を入れ、蓋をせずに豆腐が火力で動きかけ、まさに浮き上ろうとする時、直ちに(すく)いあげる。浮ぎあがると加減わるし、それを温めておいた器へ盛り、別に猪口に煮出汁葱の白根ざくざく、おろし大根、唐辛子の粉などの薬味を添えて供する。
 これが京都での湯豆腐、大阪の湯やっこ、また東京の煮やっこは鍋で煮ながら箸を入れる。また湯豆腐を米の白水で煮る古い法もあれど、昆布だしに優るものはない。
 また、嵯峨天竜寺の現管長関清拙禅師から著者に寄せられた、豆腐の食べ方がある。私はこれを禅豆腐と名づけた。
 禅豆腐 出し昆布一枚に豆腐一丁、そのままに庖丁を入れず、煮しめ、あたたかきうちに、箸にて少しずつ食う。
 おし豆腐 とうふをそのまま布に包み、板を斜めにして並べる。それにつぶれぬほどの圧石(おしいし)をかけてよく水気をしぼり、生醤油と酒しお等分にて煮染め、小口切りとする。がん石とうふ、しめ豆腐の名もある。
 包豆腐 四角に切り、真ん中を(さじ)でえぐり、摺りごま、くるみ味噌を少し練りまぜ、豆腐の中へ入れ、また豆腐にて蓋をして丸く取り、紙に包みてうで上げ、温かいうちに供する。
 索貊とうふ とうふをよく摺りこして美濃紙を板の上に置き、庖丁で薄く豆腐をむらなくつけて、紙ともに湯煮して、水につけ、それを細く切る。
 巻和布 さがら和布をゆで、とくと酒ぼかりで煮て五寸ほどに切り、豆腐を摺り白胡麻を入れてうら漉しにする。それを薄く和布に延べ、巻いて(竹の皮でくくり)さっと茹で小口切りにする。
 小紋とうふ は紫海苔をひどり細かにして、豆腐をよく摺りこして、その中へかき混ぜ、布で包みて茹でる。
 備後とうふ  さっと浅く焼いて、酒ぼかりでひさしく煮て、出す時に醤油あんばいする花がつおを、おろし大根をおいて出す。
        *  .           *              *
 金風吹き初めて、樹々は黄霞に彩られる頃となれば。天賚の果穀は累々として、人の世に幸多からしめる。またこの頃よりも、豆腐の滋味はいやが上にその食欲を唆るのである。さて、 八杯豆腐 というものほど、お手軽な惣菜でありながら、その調理に異同の説がある。まず一丁の豆腐を八人分に盛り分けるから八杯汁の名があるというもの。また、絹漉しのすくい豆腐を、水六杯、酒一杯をよく煮返したる後、醤油一杯を入れて、また煮返し、即ち八杯調理の出来たるところへ、豆腐を入れる。また太くうどんの如く切るもある。隠し葛(うす葛)を引き、おろし大根を添えるもある。これは「豆腐百珍」にある、すくい豆腐を真の八杯、うどん豆腐を草の八杯というのにあたる。また、水七つ、酒一つ入れて、よく煮返して醤油一つというのがある。
 また、水四杯、酒二杯、醤油二杯の割でつくった汁に、細く切った豆腐を入れたもの、等、等、等、の調子で、八杯豆腐は八方美人のように調理されるが、豆腐屋の詞に、八杯に切るという、それは拍子木の小形のもので、これが一丁で八人分の八杯汁が出来るというのが、すこぶる通俗的で、真の八杯豆腐の名詞だろうとおもう。それを小むつかしく、調味の方で理屈をつけたに過ぎないのである。
 ケンケンとうふ  一丁を十二ほどに切り、油でざっと揚げそれをまた細かに切り、別に栗皮牛蒡(針に打ち)、木耳(せんに打つ)、()も細く切り、芹、または青菜微塵に刻み、銀杏を炒って二つ割りにしたもの、この七品を合せ、およそ一升ほどの分量に、油一合余りの分量にて、油をよく沸せて、まず銀杏、牛蒡、芹を入れて炒りつけ、次に木耳、麩、栗、並びに前の豆腐を入れ、打ちかえし打ちかえしして、さて醤油で味をつけ、鍋を下して冷しおき、別に平湯葉を水に浸し、板にひろげて右の品を巻鮨の如く、巻込みて巻止めを葛煉りでとめ、胡麻油で揚げて小口切り。
 ケンチン酢は酢と醤油を等分にして、絞り生姜(しようが)を入れて漉したもの。また、右の湯葉巻のまま、油に揚げず、煮味を付けても用ゆ。
 雷とうふ 鍋底に油をひいて豆腐を崩して入る、その音で雷の名がつく。次に醤油をさして調和し、葱のこま切り、おろし大根、生姜、または山葵(わさび)を打ち込む、これを南京豆腐という。また豆腐をしぼって青菜など入れ油で炒ったのを黄檗とうふ、またケンボロ豆腐ともいう。
 落鴈とうふ 白豆腐を布に包み、水気を去りて裏漉しにかけ、片栗粉を少々入れ、黒胡麻の炒りたるを入れ、よく混ぜ合せ、落雁の形に握り、湯煮する。



最終更新日 2005年11月20日 15時33分13秒

林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」4

 鐘こごる霜夜の食ものとしての豆腐も、また薬食の一つである。
 芋とうふ 常の湯豆腐にして、とろろ芋をかけ、上おき胡椒、青海苔など。
 また、長芋を田楽に切り湯煮て、豆腐と一つにならべ、山葵味噌をかけて供す。
 油ぬき とうふを油で揚げ、鍋よりすぐ水に入れて油をぬき、また水煮きして味噌をかける。また右の豆腐を、沸たちたる葛湯の中へ入れ、湯やっこの加減にして、山葵味喀をかける。これを油揚ながしと名づく。
 雪の下 湯煮のとうふに胡麻味喀をつけ、椀の底に盛り、その上に飯を一杓子ずつよそうて出す。これは夜食にかぎる。
 焼あげ これは油揚を角のまま金網で程よく焼き、生姜醤油を二度ばかりつけ焼きにして炊きたての飯の菜とする。
 霙あげ これも揚とうふをざっと湯煮して、小口に細く切り、三杯酢をかけ、大根おろしを添える。
 たから袋  これも油揚を袋にして、煮込みたるいろいろの品をつめ込み、小口を干瓢(かんびよう)でくくり煮上げて出す。
 このほか、油揚は、ふくめ煮、煮つけ、付焼、田楽などにする。
 煎りとうふ  とうふを頃合に切り、油にて揚げ、二時間ほどして、水一、醤油一、酒三の割で煮上げ、上に、しょこをふる。
 しょこ(、、、)は山の芋をよく湯煮してしばらく置き、水気を取って毛すいのうで漉して用う。
 白菊とうふ  一寸四方の角切りにして、上面に十丈字に細かく切りかけ、器に入れて脇より沸湯を注げば、開いて菊の花のようになる。
 二見とうふ  常の湯とうふを椀に盛り、その蓋に胡麻味噌を添えて出す。ただし蕎麦粉の団子を入れて出すもよし。
 山蔭とうふ 八杯とうふに山の芋をすりかけて出す。山の芋は大根のしぼり汁で芋をのばすがよろし。
 六条豆腐 とうふをよきころに切り、水に塩を多量に入れたるに浸しおき、すのたつ頃に串さしにして日に干して貯える。これは精進の煮出汁に削りて用い、また生干のものは色紙短冊に切って、引肴にするのである。
 なじみ豆腐  上白味噌をよく摺り、酒で中うすにのべ、豆腐をよきほどに切り、一時間余りこの汁に浸しおき、そのまま中火で煮る。葱のざくざく、おろし大根、青山椒、柚味噌、皿などに盛り出す。
 梨子豆腐 干菜を炙り細末にして擂りたる豆腐にかきまぜ、よきほどに取りて布に包み、茹でて食す。調味好み次第。
 墨染とうふ 右の仕方にて、昆布を炙り細末にして混ぜたもの。松重ね水前寺海苔を水にてもどしおき、摺ったとうふ(つなぎを入る)を、海苔の厚さ一倍にのべしき、蒸して後味をつけ、切形好み次第。
 烏羽玉 黒胡麻を多量に摺り、しぼりたる豆腐をまぜ、さらによく摺り、適宜に小麦粉と白砂糖を加えて、程よき加減にかため、板の上にころがして、直径.寸三、四分ぐらいの丸棒となし、蒸籠に入れて蒸し上げ、小口切りにする。
 お惣菜の行きづまりの豆腐にも、これほど種々の調理法があろうとは、誰でもちょっと思いつくまいが、まだ書けばさらに百種ぐらいあるかも知れず。されど、いずれも同巧異曲で、食味はともかく、あまりに管々しいから、ひとまず豆腐の話は切り上げることとする。
 あらがね 豆腐の水をよくしぼり潰して、酒しおと醤油にて炒りつけ、油気を用いず、すり山椒をうち込みて食す。
 霰 とうふをそのまま押ししぼり、小骰に切り(ざる)に入れて振り廻すと、角がとれる。後油でざっと揚げ、調味は好々に。
 飛竜頭 豆腐を布に包み圧をかけて水気を去り、目なし擂鉢でよく摺りつぶし、砂糖、塩を入れて調味し、またつなぎに山の芋を少々すり流し(玉子二っ三つ加えるもよし)、またよく摺り混ぜ、別に人参の細切り、いも、百合根、椎茸のせん、ささがき牛蒡(ごぼう)、青豆(缶詰なら煮ずとそのまま)なぞ、うす味に煮て、これを豆腐にかき混ぜ、頃合に丸めて胡麻油で揚げる、それを煮しめて供す。また揚げたままなればソースまたは白酢、煎り酒におろし山葵などで食す。、
 また飛竜頭を棒の如くして、小口切りにしてもよろしい。
 白酢は芥子を炒り、よく摺り、白豆腐を少しすり入れ、のち酢を入れて加減する。甘きを好む人は砂糖を加えるもよし、また豆腐の代りに葛粉をいれてもよろしい。
 濃醤 とうふ一丁を四つ切りほどにして濃醤で煮しめ、一椀に一切れ、出しさまにすり山椒をおき、その上に花がつおをのせる。
 いちご揚 すり豆腐に黒胡麻を入れ、杓子にすくい、箸の先で小さく切りつつ油で揚げる。これは唐揚ともいい、汁の実。
 小笹とうふ 焼きたての豆腐をつかみ潰し、ちょっと醤油の加減をして、玉子とじにして出す。すり山椒をふること。
 鹿の子とうふ  水気を絞り、よく摺りて後、煮すごさぬくらいに煮て、小豆をまぜ合せ、これをよきほどにとって蒸す。調味形取りはよろしく趣向すること。
 うつし豆腐 鯛の大切身と、大骰の目に切った豆腐を、一つ鍋に湯煮にし、やがて切身をのけて、豆腐ばかりとして、これに生姜醤油をかけ、すり柚をおく。
 石焼 菓子鍋に油を少し入れて、強い火にかけ、豆腐を一寸角厚さ三分ぐらいに切りたるを一個ずつ鍋に投じ、(さじ)でちょっと打ちかえし、すぐ出して大根おろし、生醤油で食す。
 黄金とうふ  高野豆腐をもどき、炭酸少し入れて何度も水をかえ、固く絞り、後布巾で水気を取り、胡麻油を鍋に入れ火にかけ、油のたった時に入れ、狐色になるまで揚げ、洋紙の上に取りあげて油気をぬき、すり鉢でよく摺り、これに椎茸、牛蒡、筍などの刻みて味つけしたるを中味に入れ、うまだしで煮切り、味淋醤油で味付ける、形は好み次第。
 またうまあじを付けず、すったとうふに酢を加減して、求肥昆布で巻鮓の如く巻き、小口切りにして、紅生姜のせんを添う。
 焼高野 高野とうふのついでに、生の高野とうふを金網で両面とも焼いて、別に煮出汁を火にかけおき、その中へやきたてを入れると、ジューと音して大いに膨れる、それを庖丁して青海苔をかけて食う。もどさずに即席に出来る。これは著者が高野山で見聞した珍料理である。
 凍豆腐 とうふを五つ切りぐらいにして沸湯に入れて煮き、平笊に藁を布き、その上に豆腐をならべ、屋上か高い所に一夜寒風に晒して凍らす。紀州高野山で製するゆえ高野豆腐の名がある。大和大峰山麓の洞川で多く製する。また信州辺の凍豆腐も佳味である。
 しめ豆腐 とうふを前の如く湯煮して、美濃紙に包み一夜灰の中に埋めおく。
 丸揚 豆腐を四つ切りにして油で揚げ、一度油を水で抜き酒しおでよく煮きしめ、醤油加減し、大根おろしをたっぷりのせて茶碗盛りにして供す。
 薄焼 布の上で水をよく絞り、薄く切って焼鍋でやき目をつける。
 かるめら 豆腐一丁を四つ切り、油で揚げ、ぐるりの皮を切り、また薄醤油で煮き、辛味大根おろしをかけて供す。
 松前豆腐 よく摺ったとうふに、刻みたる昆布を混ぜ、布巾の上に六、七分に延ばし、そのまま蒸し上げる。また、もずくを短く切って入るるもよし。
 はんぺい 豆腐を中絞りにして摺り、寒晒粉を摺り混ぜ、それを頃合の椀の蓋で取り、沸湯の中に入れて煮き、出す時に煮込み、紫海苔こまかに揉みてかける。
 揚高野 高野豆腐を薄味に煮て三つ切りにし、ころもをかけて油で揚げる。
 胡麻豆腐  これは長崎の盂蘭盆に「胡麻豆腐……片食」と売り歩いたもので、もと黄檗(おうばく)独特料理で門外不出の製法を伝えたものであるが、その後坊間の精進料理屋でつくるに、葛餡をかけたりまた薄だしを用いて坪に入れ、きくらげ、刻み椎茸などをあしらって供するようになったが、黄檗普茶の胡麻豆腐は、葛、味喀などを用いず、胡麻豆腐をそのまま山葵醤油で食べるので、かためる時に酒、砂糖などで加減して味をつける。もっとも豆腐といっても、豆の材料でないから黄檗では麻腐と称するのである。シナ食料の胡麻味噌(薪腐)をすり、胡麻の代用とすれば摺る手間も省かれる。
 青豆豆腐  これは枝豆をすりつぶし、前の製法の如く、胡麻の代用としたもの。
 くるみ豆腐 胡桃を元としたもの。
 五目ぎせい とうふを潰し鍋に入れ、水を加えて火にかけ、一度沸立たせたのち、これを布を敷いた笊にあけ、水気を切って鍋にうつし、鶏卵を潰し込みかき混ぜつつ炒り、砂糖と醤油にて味をつけ、椎茸、蓮根、筍などを細かく刻み下煮しておき、人参、三つ葉の茎などこま切れにしたものと一緒にとうふに混ぜ合せ、さらに鶏卵を割り込み掻きまぜ、これを焼鍋に詰め、下火を弱くし、上火を強くして焼き上げ、適宜に切って出す。
 蓮豆腐 蓮根をおろし、豆腐の水をしぼったのと等分に混ぜ合せ、頃合の大きさに取り、美濃紙に包みて湯煮し、次に白味噌に胡麻を等分にすり混ぜ、砂糖を少し加えて温めたのを敷味噌にして、何か辛味をおきたる上に蓮豆腐をのせて供す。
 ごもく まるの豆腐に切目を十丈字に入れ(切れ放れぬように)、葛湯で丸煮にし、後に鉢に移し、この中へ生の煮返し醤油を汁の如く底に湛え、花かつおを一面にその上にしき、焼のり、唐辛子、ザクザク白葱、おろし大根をまたその上にのせて、席上に持ち出し、その場でごちゃごちゃに混ぜて、小皿へ盛り分ける。
 香魚焼とうふ  は田楽の如く付焼に、やき立ての時蓼酢をかけて食う。
 葛かけ 焼豆腐三つ切り、湯煮して葛あんかけ、山葵、生姜のうわ置き。
 味噌かけ 白豆腐を湯豆腐の如くし、椀に盛り汁のたまらぬようにしたみて、柚か、胡麻か、生姜、胡椒などの味嗜かけ。
 結び豆腐 とうふを細長く切り、酢に浸して好みに切る。これを水に投ずると酢気が去る。
 阿蘭陀飛竜頭  とうふを潰して布にて水気をしぼり、酒と醤油にて炒め、牛蒡、木耳の繊をまぜ、平湯葉二枚で丸巻とし、しばらく圧石をかけ、のちこれを油であげて小口切りにする。
 野干平 豆腐を田楽に切り、酒に浸けておき、餅米を水にふかし、摺鉢ですり、それを豆腐に塗って田楽に焼く。山椒味嗜つけて供す。
 鰌地獄 これは白豆腐の所々へ穴をあけ、煮汁加減した鍋に(どしよう)ととうふを一時に入れ、水から煮きだすと、鰌は湯の沸えるに従い、冷たい豆腐の穴へ首を突きこみ、煮あげて庖丁すると鰌の豆腐詰めが出来る。それを著者は沸えたった時に鰌を入れたら、熱くてすぐ首をつつき込むだろうと、やって見て却ってこちらが大火傷をした失敗談がある。
 さて、この失敗談を最後として豆腐ーの話は終了とする。洛東南禅寺の開山忌に焼豆腐の煮しめは名物であるが、紫野の大徳寺でも正月十五日の古渓忌に豆腐の薄四半に切って煮たものを中菜におく、これを焚竈と書くが、昔俗家に亀を焚いて出したものと見え、それを豆腐にて似せたものかと或書に載せられてある。
 貝原益軒の「養生訓」に、豆腐は毒あり、気をふさぐ、されど新しきを煮て、味を失わざるとき早く取りて食うべし。生大根のおろしを加え食すれば害なしとある。
 で、冷やっこの生食などは虚弱な人はやらぬ方がよい。
 豆腐は前にも述べた如く、昔は藁苞(わらつと)にくるんだくらい固いものであったが、おいおい贅沢になって、絹漉しなどという軟らかい豆腐が出来た。で、豆腐を油で揚げることも徳川幕府の初め頃に長崎に渡来したシナ料理のうちのもので、今も黄檗普茶の飛竜頭は、椎茸、人参、銀杏、牛蒡、百合根などの中味を入れて、円く揚げたり棒に延ばして小口切りにしたりする。これも元は三角に取って揚げたもので、市中の豆腐屋の三角揚はそれを真似したものである。



最終更新日 2005年11月20日 15時33分44秒

林春隆『野菜百珍』「三一 ちょうろぎの話」

三一 ちょうろぎの話
 ちょうろぎは、甘露児、滴露子、地蚕、地瓜児、土蛹、草石蚕、玉環菜などの数称がある。
 春芽を出して秋に至って尺余に長じ、梢頭穂をなして淡紫の花を開く。紫蘇の花に似て大きく、冬に至って根は白色にして連珠の如く、狭く(とか)ったのと蝿の頭に似たのと、貝の形をしたのと蚕に似たいもを生ずる。これを俗にちょろ芋と称して、春から初夏に掘り採って食用とするのである。その調理は、
 蒸して和えもの
 煮て甘味をつけ
 炒って青海苔かけ
 その他、肴の付け合せ、寄せ煮など、生熟とも佳味、その味淡く百合根に似ている。
 黒川道祐の「遠碧軒記」に、「チヨロ木と言ふもの、根は徳利の形をなす。煮て茶うけにしてよし、唐物なり、千代老木と書けり、麦門冬の類なり。薺老といふ説あれど不可也。もと高麗より来るものなり」とある。俗にまたチョロギと称し、正月のあちゃら漬に用う。また黒豆と煮きあわしなどする。



最終更新日 2005年11月20日 15時34分31秒

林春隆『野菜百珍』「三二 萵苣(ちさ)の話」

三二 萵苣(ちさ)の話
 ちさは、苦賈菜、恭菜、著蓬菜等の異名がある。
 萵苣は地中海沿岸温暖地方の原産で、古代希臘羅馬(ギリシヤローマ)の時代にも栽培された。わが国で今日の如く盛んにこれを食用にしたのは、交久年間に西洋料理の流行と共に、一般のお惣菜にまでされるようになった。その前は苜薹(萵笋)を多く食用とした、それは「本草」に、三、四月頃になると、葉毎に茎を抱え相重なって叉を分って、初夏野菊に似た黄花を開き、その子を結ぶこと鶴虱の如し云々とある。
 ちさは春から秋に至る中、毎月栽えて順次に収穫が出来る。また「とうちさ」は四時食するので、不断菜とも称され、赤い根は紡錘の形をして、共に食用とされる。その調理は、
 まず、韲物(あえもの)では、味噌あえ、辛子(からし)あえ、胡麻あえ、白あえ、その他浸しもの、三杯酢に独活(うと)、糸湯葉など入れて。
 汁の実ことによし、落し辛子を加えて。
 生にて酢味冖噌で食うもまた佳し。
 その甘味と香りを悦ばれる。
 また、蓍苣という一年生のものは、秋冬のころ最も賞美される。
 浄瑠璃の千代萩御殿場の文句に可憐児千松が謡う「こちの裏のちさの木に雀が三びきとまつて云々」のちさの木は、この野菜のちさではない。それはちさの木(斉嫩樹)と称し、山野に生ずる丈余の巨木で、雨傘の轆轤(ろくろ)やその他の器物につかわれるもので、俗にろくろ木の名もある。その木の実が柑橘に似て香気がある、その仁の油を小鳥の餌に用いるので、この木に雀のとまるのを謡わせたもので、場面の飯炊きと、千松の境涯が、この小雀さえも餌の木を慕う情趣を巧みにあらわした作者の働きである。
   荳つみて貧なる女機による



最終更新日 2005年11月20日 18時21分14秒

林春隆『野菜百珍』「三三 茶の話」1

三三 茶の話
 まず茶の権輿(けんよ)として宇治茶の話をする。宇治茶は即ち山城茶で、その産地は宇治、久世郡を中心として紀伊、綴喜、相楽の城南各郡にわたって、両丹地方も近来栽培を奨励されつつある。この産地総反別は約千六百余町歩である。それで製茶時期は一箇年二期に分って、一番茶は五月初旬、二番茶は六月下旬より始める。いずれも各二十日間ぐらいが、夜の明けぬうちから忙しい茶摘時である。茶師は大和、丹波地方また近郷より雇い入れる。着手の当時を俗に「かごやぶり」と称し、また最盛時を「なかやま」といって酒肴をもって茶師をねぎらうを例とする。これは旧来の手揉み製法であるが、近来その研究所を設けて電気を応用して製茶及び挽茶までされるが、やはり旧来の手揉み法がその芳香を保つ上において行われている。
 例の(ひな)な茶摘女の手で摘まれる葉茎は一日平均六、七貫目であるが、静岡地方では鋏でかるから二十貫以上も収穫がある。しかし宇治茶の権威がこの手摘みにあることは、その甘苦芳香ともに佳良で緑茶の名を世界に馳せるのもこの故である。それで都人士がその野趣村情にあこがれる茶摘歌も、静岡では茶切り歌と称してチャッキリチャッキリと節を付けている。ここでは昔ながらの宇治本場の茶摘歌をうたうのである。
 一、めでためでたの若松様や、枝も栄えりゃ葉も茂る。
 一、御代もおさまるこもつもつまる、なおも上さま末はんじょ。
 一、宇治の橋には名所がござる、お茶の水汲むこれ名所。
 一、さてもやさしや蛍の虫は、しのぶなわてで火をともす。
 一、歌はこれぎりかしくで留めて、千秋楽とはお芽出度い。
 これは今様の「みぎや節」で、その初めの三節だげは「なげ節」の調べである。古来は「投節」であったが、いつの頃からか自然に(すた)った。また一般にうたう茶摘歌は、
 一、あれに見ゆるは茶摘みじゃないか、赤いたすきに菅の笠、寝たや寝むたや寝た夜はよかろ、摘んで寝た夜はなおよかろ。
 一、宇治の茶山に箒はいらぬ、茶摘女が袖ではく。
 一、摘みやれ、お摘みやれ宇治の里の茶摘、二十あまりは茶の花よ、廿の人にホと書いて、茶という字に読むわいな、伊予簾(いよす)おろして、茶ちゃと摘みやれ。
 一、お茶を摘むなら摘みつけ入れな、可愛い殿御の手が荒れる。
 それからこの宇治茶が盛んになったのは足利時代で、例の義政が茶事に耽った時に、宇治に茶園を設けた、これを宇治の七園と称して今もなお茶圃を存じている。その頃より諸国にも製茶の業が大いに起って、皆宇治の銘茶を濫作して(ひさ)ぐ者が続出したので、将軍義昭は令を下して禁制したことがあった。これを見ても宇治茶が独特の品質を有していることが証されるであろう。その後も織田、豊臣時代に至っても、宇治茶の保護を厚くされた。後陽成天皇の時に御茶壺進献の事が起り、次いで徳川幕府に至って、御物茶師、御袋茶師、御通茶師等を定め、特に茶圃に覆を施すことはこれらの者の特権と定められた。今に諸国に碾茶(ひきちや)の少いのもこれがためである。
 玉露は天保年間に江戸の茶商山本嘉兵衛が宇治に来て発明したもので、また煎茶は元文年間田原村湯屋谷の永谷三之丞が釜熱に代えて蒸甑を用いたに始まったので、ようやく国産の茶が海外に輸出したのは安政六年で、すでに明治初年頃は最も盛んであった。
 また大福茶と称して正月の佳例に用いるが、これは光賢という僧が宇治田原大福谷の地を拓いて栽培した茶種の名称であるそうだが、大和の西大寺にも古来から大福茶の法式がある。また歳時記などに、大服は点茶の名なり、服の字を忌みて元日に用ゆる茶を大福茶と称すとある。
 俳句に「大ふくにまつ霞たつ旦哉」、また狂歌に「春来れは色も花香も別義にて宿の大ふくたつかすみかな」と、史実はともかく、めでたいことで魁春の花の梅干と延寿の昆布を茶に加えて迎春の喜びとする日本の風俗は実に嬉しい。
 また宇治茶について「幸菴対話記」(天正頃の人)に、「丹波の上林峰養という者が、宇治の地面を見て茶の栽培に適したるを考え、都近くもあれば渡世の便りもよしと、自分は栂尾(とがのお)村の某方へ(むご)入りして折々、茶の実を盗みて宇治に播種した。ある春雨の降る日に小作人に茶畑に尿をかけよと言ったのを、間違えて屎肥をかけたのがかえってよい肥料となって、それまで栂尾で柳と称した苦味の強い茶が、その年から甘味を帯びて来た。それでこの茶を挽茶などに用い、初昔、後昔などの名をつけて売り広めたのである」というようなことが載せられてある。これは摂津鴻池の酒桶に雇人が灰を投じたので、図らず酒を澄ますことを発見したのと好一対で、真偽はともかく、茶と酒のおもしろい佳話である。
        *                     *                     *
 さて、こうして製される茶が、古来からお互いさまの客礼として、久濶を叙するにも、朝夕の起居にも、まずもってお茶一つとお愛想に出されるのである。で、茶は社交の食品として、酒よりも何よりも最も広汎に普遍的に活用されるのであるが、その茶は、もと山林の士のみが用いたもので、古く禅門に茶事あるのもこれが習いである。わが国でも古くよりこれを薬湯として用いられたので、日本固有の茶樹はあった。けれども茶を一般に飲むようになったのは、平安朝の初め、比叡山の最澄上人、高野山の空海上人など、その他宋の国にいった高僧たちが、めいめい持って帰ってお土産にしたので、既に延喜の朝にも喫茶のことが行われていた。
 世に京の建仁寺の栄西禅師が宋より将来して栂尾の明恵上人に分与したのが、茶を栽えた初めのように伝えられるが、それは栄西禅師が特に茶の効能あることを察して、在宋中にもその栽培製法までを研究して、茶種を仕込んで帰った上、「喫茶養生記」まで著わして、大いに宣伝に尽されたから、後世の人は栄西禅師や明恵上人を茶祖としたのである。
 それで、シナの茶が、日本に伝播して芳香世界に誇る緑茶となったのは、わが国の沃土がよくこれを育て上げたのである。
        *                     *                     *
 茶は百珍の賓として、芸術的の飲料である。花下の饗宴よりも、月前の煎茗には、その深い味と、淡いしぶみが、人生の真趣を求めるような心境に到らしめる。で、酒が動的なら、茶は静的である。
 しかし、古人もいう如く、酒の毒は身を(そこ)ねるが、茶の害は産を破る。茶が芸術的に、煎茶抹茶に用いられるは、茶を愛飲するのでなくて、その用器を玩弄(がんろう)するがため、その所作の驕奢(きようしや)(にく)むのである。
 茶の真髄は閑寂にある。その佗しさと寂しみである。酒の生命は情緒にある。その温か味と、艶やかさである。で、酒と茶は異性にして同質の働きをするものである。酒に酔うというのも、茶に浮かされるというのも、その心機を一転させる作用についてはすこしも(かわ)りがない。
 ただ用うる人によってその趣をなすものである。
 廬同が茶歌に、「一椀は喉陶を潤い、二椀は孤悶を破る、三椀は枯腸を捜るに、唯だ文字五千巻あり、四椀に及んで軽汗を発し、平生不平の事(ことこと)く毛孔より発す。これ(ようや)く茶飲の酔夢の境に入りしものか、五椀は肌骨清しく、六椀にして仙露に通ず、七椀にいたり喫むことを得ず、唯両腋より習々として清風の生ずるを覚ゆ。蓬莱山何処にあらんや」などあるは、甚だしい茶酔の妄言である。いわゆる多飲するもの暗中人を損するの類である。「茶録」にも「茶を品するものは、一人神を得る、二人趣を得る、三人味を得る、七八人これを施茶と名つく」とある。
 されば茶を喫するもの、客の少ぎをもって貴とし、「独り啜るを神といひ、二客を勝といひ、三四を趣といひ、五六を泛といひ、七八を施茶といふ」に同じく、主客の清雅は多飲にもあらず衆多きにもあらず。ただ独り寡欲を楽しむにある。これ茶中の趣を賞して、文雅を養性するの技事である。
 黄檗の隠元禅師が来朝して、唐茶の鍋煎を製した、これを当時世人は隠元茶と称した。いまのだし茶である。それと同時に首の長い薬鑵を作って、俗に隠元薬鑵と名づけて手ずから汲みて、給仕の小坊主のたすけとされた。その銘に曰く、
()くさます。能くまじはる。能く悟る。能く寂す。能くすすむ。能くへらす」と、茶の六徳を賞賛せられた。俳人波村もその師五老井四絶に「許子五老井を汲んで、この茶を煮る時は、白雲満椀花徘徊す。一たび、これをすする人は、専ら風雅の志しをすすむ。慮同が七椀といふは長過たり」とある如く、茶事は枯淡の風を尚ぶのである。
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 さて漢土の喫茶は古く梁の天監年中に始まったと伝えられるが、まず劉宋の王粛が宋に在る時茗を嗜み、のち魏に走って酪を嗜んで曰く、茗当らず酪を奴と作すべし。この人呼んで茗酪の奴とすとある。またそれより以前、「三国志」の韋曜伝に、曜酒を飲むこと二升に過ぎず、茶蕣を賜うを以て酒に当つ、とあれば、三国の時にも既に茶を飲んだものと見える。しかし、盛時は隋唐以来のことで、陸羽が「茶経」三篇を著わして、大いに喫茶趣味を鼓吹したのに基づく。徳宗
の建中頃(わが延暦年間)に趙賛という者が初めて茶税を徴収して、酒塩等と同じく国用のたすけとした。従ってその製法は唐の時は、重蒸して臼で()麁抹(そまつ)にして是をつくねたり、また臘面とて形に作って、用いる時抹とするには挽うすでひくのでこれを磑といい、また碾といって薬研(やげん)のようなもので粉末にする法をも用いた。林和靖の茶詩に、
  石碾軽飛瑟々塵。乳花烹出迎渓春。人間絶品人難識。閑対茶経懐古人。
とある。その後、茶の製造がいよいよ精しくなって、竜鳳などの団茶が出来た。それより元の末から明の初めに至って、研磨せずに手で揉んで焙炉にかけてあぶることを発明した。これがそもそも葉茶の濫觴である。
 また尚書に茶毒の文字のあるより見ると、殷の代に既に知られたことが明らかである。「詩経」大雅蕩篇に「民之食乱寧為茶毒」の語がある。また「春風堂随筆」に、茶の用は漢に始まり、茶を飲むこと呉の韋曜より始まるとあれど、「晏氏春秋」には、晏氏茗を飲むことが記され、漢の褒武郡に置茶の語もあれば、三国の前に既に茶を用いることの久しかったは明らかである。「茶経」には茶を飲むこと神農に起り、魯の周公より世に聞えたりとあるから、いよいよ茶の起原は深遠なものである。
 さて、わが国の茶史については「経図集」に「太上天皇海公の山に帰るを送る」という御製に、
  道俗相分経数年。今秋唔語亦良縁。香茶酌罷日云暮。稽首傷レ離望二雲烟殉
とある。この集は景雲より天長頃までの記録なれば、陸羽が「茶経」を著わしたより幾ばくの年月も過ぎないこととおもう。
 また、「日本後紀」弘仁六年六月の条に、「壬寅、令三畿内並近江、播磨等国二殖レ茶毎年献凶之」とある。また弘法大師の「性霊集」に洩れたる遺交を綴れる「発揮拾遺篇」に「思レ渇之次忽恵二珍茗一」とある。 一般世に伝えられる建仁寺の栄西禅師や、栂尾の明恵上人を茶祖とするより、既に四百余年も隔たりたる以前に、こうして喫茶の趣味は伝えられたのである。



最終更新日 2005年11月20日 18時32分40秒

林春隆『野菜百珍』「三三 茶の話」2

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 茶の趣は淡く、酒の味は濃く、淡きは久しく、濃きは久しからず。かの柳里恭がいう「人と契らば末とげよ、かの紅葉を見よ、濃きはとく散るものにて候」と、宋の張来が詩に「寒夜客来酒当茶」という句がある。
 酒を飲むとすぐ眠くなるが、茶を飲むと目が()えてなかなか睡られぬ。僧家で茶を用いるのも、大衆たちが学修中の睡眠を防ぐためである。茶頭という役僧があって、茶事を司どる。お寺に木魚や魚板のあるのも、惰眠を(いまし)める梵器である。魚は水中で不眠不休の生活をしている。それに習って衆僧の弁道をはげますための木魚である。不埒(ふらち)な坊主はこんなことも知らず、檀家の娘を木魚にするなどはもってのほかの破戒である。
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 茶が眼をさますことについて、おもしろい話がある。昔シナ人が勉学する時に、いつも睡魔に駆られて眠くなるので、ついに両眼を(えぐ)り取って捨てた。ところがそれから芽が出て、成長したのが茶である。で、茶を飲むと眼が覚めるという俗説を伝えたのである。
 また元和の頃に茶竹子という人が著わした「喫茶雑記」に、「茗茶といへる事は、蘇摩訶童子経に曰く、天竺摩訶陀国、耆婆の墳墓より生出ぬる一株也、ある人ひそかに是れを窺ひ見るに名医の旧蹟より生ぜし事を不審に思ひ、彼の一葉をつみて煎服するに、心すずしく、耳目あきらかにして、暗きよりあかねさす日に出るが如し」などと茶の徳を挙げている。しかるに、「本朝食鑑」を著わした林大学頭は、本来茶きらいで、自ら茶事を亡国視した。それでもって往時茶事を弄して(ほろ)びた足利、豊臣氏等の(てつ)()ましめずしてよく徳川三百年の世襲を保たしめたのも、また(あずか)って羅山の功であった。その「食鑑」に曰く、「古へ所謂茶は手足の厥陰、経に入る虚寒血弱の人、之れを飲むこと既に久しき時は即ち脾胃虚寒し元気暗に損す。或は曰く、空腹の時は最も之を忌む。又曰く、暗中人を損すること少からず。空心茶を飲んで塩を入れば、直ちに腎経に入り旦に脾胃を冷す、乃ち賊を引いて室に入るなり」などと痛罵している。
 されどその結論において「これ好むと好まざると、馴れると馴れざるとに依つて(カく)の如きなり。酒後大に渇して碾茶濃茶一二碗、或は煎茶二三碗を(すす)る時は、即ち宿酒頓(とみ)に醒め、心胸洞爽す、之を飲むこと多からざれば、即ち何ぞ腎を(やぶ)るの害あらん、大抵煩を除き、膩を去り、軽く汗発して、而して肌骨清く、両腋の清風蓬莢(ほうらい)に至らんと欲す、即ち何ものか之に(まさ)らん、ただ()く腎壮に、胃健に、能く虚寒血弱の分を察して、以て之を愛すべし」と終に陸羽の茶説に共鳴されている。この林羅山がある人の饗宴に招かるる挨拶に「最も麦飯蔬羹は甚だ妙、拙も御承知の通り飲食は淡薄を感じ候云々」とある。幕府の大学頭として時めけろ彼にして、かくの如く質素を尚びたるなど、今も権門に(おご)って飽きたらずとする人たちに、一服の清涼剤として喫せしむべき佳話である。
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 前にもちょっと述べたが、世に茶は明恵上人が宋から将来したとか、栄西禅師と共に入宋して、のち齎したなどというが、それは栄西禅師が一人宋より将来されたもので、そののち明恵上人に贈られたのを、上人は栂尾(元は梅の尾といった)に播種し、なお暖地を選んで洛南の宇治に自ら来たって播種せしめた。その遺址は今も黄檗山のほとりに、駒蹄影と称して保存されてある。
 もっとも茶種を宋から伝えたのは、これより以前のことで、聖武天皇の天平元年、百僧供養の第二日目に行茶の儀があった。また同天皇の時に、僧行基に茶の木を植さしめたことも、「東大寺略記」に載せられてある。延暦二十四年、叡山の最澄が帰朝の時にも、茶種を持ち帰り、近江坂本に植えたこともある。この外、空海の「性霊集」や「凌雲集」などにも散見するから、光仁、桓武の朝、既に伝来したことは疑いもない史実である。
 しかし、日本でも野生の山茶は、神代の時にも発見されて用いられたことがある。それでわが国でも古より喫茶は薬湯として用いられた。栄西禅師の「喫茶養生記」にも「茶経」などにも、その主旨を示されてある。シナや日本の叢林でも茶礼をもって盛儀とされている。それが民間に伝わって茶の湯式となり、また煎茶式となって、遊戯の技となったのである。
 こうして茶が社交の重要品となったのは、上は貴人のもの好きから下は茶酌女(お茶屋の初めは伊勢の出茶屋)のたわむれから、世の中になくてならぬ、まあお茶一つとお愛想をいわれるのである。
 で、その茶の宣伝家である古人の逸話などを挙げたら、随分おもしろいことである。茶道の鼻祖には村田珠光(南都称名寺僧)がある。それを足利義政に伝え、のち松本宗悟、宗陳らが武野紹鴎に伝えた。この紹鴎を本系として、細川幽斎や、今井宗久、佐久間信盛などの戦国時代の英雄や時の富豪を縫うて、千利休に至った。利休を中興格にして、道安、宗和、宗旦、宗佐、宗室などの名匠を出して、今日まで千家をもって茶道の権威とされている。
 それと利休が英雄割拠期に、悠々閑雅な茶事をもって狼烟のうちに交わりを訂せしめたなどは、今から見るとすこぶる皮肉な史話である。織田信長も豊臣秀吉も、その系を伝えて、古田織部正、小堀遠江守、細川三斎、三好実休、荒木村重、蒲生氏郷、前田玄以、松永久秀、里村紹巴など、まるで大徳寺の焼香場のような堂々たる名門の茶人が輩出されている。例の曽呂利新左衛門もその流れを汲む人である。また利休門の七哲とも七人衆ともいって、織田有楽、細川三斎、蒲生氏郷、荒木摂津、瀬田掃部、道山監物、高山右近らがある。次いで千家の中興として千宗旦(今日庵)が衣鉢をつたえて、その男の宗佐(不審庵)が千家の表流ウ立てると共に、宗旦の三男宗室(今日庵)が千家裏流を始めた。また宗旦の季子宗守は官休庵と号して千家武者小路流を立てた。
 それで利休門であった古田織部正は別に織部流の祖として、一.代将軍徳川秀忠を初め、妙法院宮、聖護院宮、梶井宮などの親王家に伝え、近衛家熈、信尋らの関白殿下より永井尚政、小堀政正、本阿弥光悦らに伝えた。そのほか、藪内流、石州流などを興した。小堀政一は遠州流の祖として、三代将軍徳川家光や、大徳寺の沢庵、江月、滝本坊昭乗、八幡の信海、狩野探幽、佐川田昌俊など当時を偲ぶ史乗の花形役者を網羅したのであった。その他、京のノ貫や大阪の山中道徳(鴻池)、淀屋个庵(淀辰)、種玉庵宗祗、深草の元政、一糸和尚、石川丈山、岡本半助などと、明智光秀、伊達正宗、前田利家らも茶人系譜の錚々たる人であった。
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 いたずら者を茶目坊というが、物事に凝り性な人を茶人と称する。茶人は茶道を好む人で、世の好事家と一般、趣味の理解者である。またその茶人にへちと称して、とかく目先の変った奇想天外より落ちる底の趣向に、お互いに同好者の腹を抉ろうと、浮身をやつして肝胆を砕く人がある。またこのへちた工風を茶事の身上のように心得違いをしている連中もある。これを呼んでへちな人とかへちてるナなどと悦に入る。
 事それほどへちを尚ぶ所以は、利休門下の曲直瀬道三の茶友に、洛外山科にノ貫と異名する清貧の茶人があった。この人が常に異物を貯えて、その茶の会にも珍趣向を凝らして雅趣を得たりなどと誇っていた。その名のノ貫というのも、自分は人並でないという意味で人の字の一画を削ってノと称した。その実ノの字は、一本立ちで貫くという心で、その人の性癖がこの異称にも露われて、とかくつむじ曲りをやって人を驚かすのであった。ある時利休を山科に招くに露路に壙穴を設けて利休を驚かし、のち浴をすすめ新衣を出して大いに謝した。利休もそれを告げる者があって承知はしていたが、その謀に陥らねばノ貫の好意に背くと、のちに門人に語った。
 このノ貫がかつて人にこういった。「利休は幼にして余と善し、性素と謹厚、今その為す所を見るに、軽薄浮靡、殆ど別人の如し、蓋し人は三十年毎に一変す、吾また四十にして脱塵の志あり、惜しむらくは、利休その盛んなるを知つて、その衰ふるを知らずと」と。果して利休は太閤の意に(さから)ってその一族を氓ぽされた。ノ貫の姓氏は詳らかでないが、当時最も茶事に名ある利休に拮抗したほど、ノ貫も飄逸の士であったに相違ない。また利休はノ貫の茶会に、西瓜に砂糖をかけて出したのを見て、ノ貫の無風流を嘲ったこともある。
 こうした好事をへちと称して、四百年も昔のことを今にへちっているのが茶人気質である。
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 この茶の湯式の起りが僧家から伝わったことについて、少し語ろう。
 叢林開闢の祖である大智禅師が「百丈清規」を著わして、(はじ)めて禅林の律令をたてられたにも、茶礼をもって第一の盛礼とされた。また「禅苑勅修」にもその半ばはこの礼典を示されてあるに見ても、いかに茶式が古くより荘重されたかがうかがわれる。
 それで茶式が禅林から起ったことは『塩尻』に「妙心寺再住開衣の会を見しに、祝詞畢つて饌を設け、のち餅果をすすめ、これを撤して濃茶を出す。数十輩の僧なれば一碗に茶を点じ、五六人にて次第に喫しぬ。しかして立ち、主賓揖し堂を下りてかへる。今濃茶といへば必ず数人して喫ることと思ふは拙し云々」とある。また台子については「俗説贅弁」に「筑前崇福寺の開山南浦紹明が(のち建長寺に住す)正元(足利義政より百余年前)の頃入宋し径山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す、其頃台子かざり、径山寺より将来して崇福寺の什物とす。これ茶式の始めなるにや、のち台子を紫野大徳寺へ送り、又天竜寺の開山夢想へ渡り、夢想この台子にて茶の湯を始め、茶式を始むといへり云々Lとある。これと同時に床に一行の書を懸けることも、その閑寂を旨とするため、禅語を書いて壁に貼ったのが初めである。
 こうして禅苑の茶礼が世俗の茶の湯となるにつれて、それまでは尊前に供するものを清規で茶湯と称したが、俗間の茶湯と混同するゆえ、湯茶というようになった。
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最終更新日 2005年11月20日 20時23分14秒

林春隆『野菜百珍』「三三 茶の話」3

 茶の式も往古は十種香に倣って本非の茶ということが行われた。それは栂尾の茶を本と言い、宇治の茶を非と称して蜊茶をするのである。「太平記」に、佐々木道誉が七夕の会を催し、わが宿所に七所を粧い、七番菜を調え、七百種の課物(懸賞品)を積み、七十服の本非の茶を飲むべし云々、また同書に、道誉百味の珍膳を調え、百服の本非を飲みて懸物山の如く積上げたり、などの記事がある。この懸物というのは懸賞品で、即ち勝負の賭けものである。それがのちに闘茶、茶歌舞伎となったのである。
 また本非の茶のことは、「茶壺」という狂言に「我等が主人は三国一の数奇者にて、非の茶を立てぬこともなし。一族の寄合に、本の茶を立てんと、多くの足をつかひて(中略)、栂の尾に罷りしかば、峰の坊、谷の坊、赤井の坊の帆風(茶銘)を十斤ばかり買ひごんで云々」とある。これは明恵上人が茶を栂尾の深瀬に植えられしをもって、この所の茶を本といい習わしたので、本の茶は式も多く、非の茶は式も少く、今の濃茶、薄茶が本非の遺風といってもよい。
 貞和の頃の書に「祗園社家記録」というのがある。それに、巡立本非茶次第というものを掲げ、会日を毎月五日より十二日までの七日間と定め、茶何種、多きは四十種、それを残らず飲み当てた者を一番とし、それより飲み当てたる数によりて、番を立て七日の会を終りて、勝負を定め、賭を得るとある。「太平記」にも七所をかざりとあり、この会を七日と定められたは廬同が茶歌の七碗を取ったものか、石州流の真の台子に七所飾りのこともある。
 また茶の湯の料理を七番菜というのも、普茶卓子のいく碗菜と称する如く、一番二番と順に出すゆえの名であろう。こうした茶の闘試は鎌倉時代より室町時代に及び、盛んに行われたものと見え、建武元年の落書に「茶香十種の寄合も鎌倉釣に有鹿と都はいとど倍増す」とある。(釣というは仮字で、牛つれ馬つれのつれなりと「嬉遊笑覧」には注してある)。それで試みのない茶をつつみ茶といい、取試したものを貢茶と称する。「尺素往来」に種茶とある。千宗旦はこれを茶歌舞伎と異名した。
 宋の代にも闘茶のことはあった、これを茗戦と称し、水を選びてたがいに好を争い、褒貶(ほうへん)して勝負を決したのである。今も製茶する人の間に闘茶は行われるも、これを茶式として用うることは、既に当時の俗情をにくみ、清雅の遊事にあらずとして、紹鴎は茶術を宗悟、宗陳らに学ぶの傍ら、普通国師に参じて俗弟子となり、大いに禅門の茶礼を斟酌(しんしやく)して遂に茶道を起し、その法を千宗易に伝えたのである。
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 茶の湯の話については、なかなか稿が尽きないが、ここに少し煎茶道のお話をしよう。
 茶を煎じることの史に見えたは「類聚国史」第三十一巻帝王部に「弘仁六年四月癸亥、幸二近江国滋賀韓崎→便過二崇福寺h大僧都永忠自茶煎奉御」とある。また宇多天皇御落飾の日、醍醐天皇は仁和寺に御幸せられて御茶の饗応があったことは「花鳥余情若菜の巻」に出ているが、「日本略記」には、昌泰二年十月、上皇御落飾授戒共に、東寺にてと見え、同三年正月、天皇朝覲、この日菅右相を初め、陪従の人々に詩賦を奉らしめ給うことが載せられてある。「菅家文庫」に「野厨無レ酒、巌谷有レ茶、燕尾之下、遂不レ言レ家」とあるのがこの時の作であるまいか。
 それでこの時代の喫茶は、煎茶であったと見えて、高倉院の承安六年七月、鳥羽上皇の六十の御賀の内儀に、万事を承和の例に准ぜらるべきの下に、煎茶具を鳥羽の宝庫に尋めさせしかど、すでに紛失の由にて、仁和寺の円堂に蔵められしを取り出させ給うたことが「玉海抄」に記されてある。これは前に述べた宇多上皇の御遺物であったのであろうとおもう。それに、茶の湯では大抵和歌などの軸を用いるが、煎茶はどうしても丈人の余技とし詩賦などが(よろこ)ばれる。茶席に禅語の軸を掛けることは、前にも述べた如く、大燈国師から始められたもので、大徳寺歴世の和尚の書いたものを俗に茶掛だなどと観賞している。
 その代りに煎茶の方では、シナ趣味をもって黄檗派の墨蹟などを愛玩する傾きがある。もっともわが国では石川丈山を茶祖として、黄檗僧売茶翁高遊外を中興とする「石山斎茶具図譜」には、
  本邦茶飲之行也久矣、近日所用葉茶、相伝僧隠元将来、未知果然否、至其用風炉急尾焼、烹点飲啜、自遊外高翁始焉
とある。この売茶翁については、黄檗の福山暁菴師が、多年その史蹟を研究せられて、やや正鵠な伝記を著述されたが、煎茶はまず長崎に来船した唐人から、最も早く伝えられたので、それが文人墨客の間に盛んに行われた。
 いま世に伝えられる「煎茶系譜」には、
  元祖石川丈山-平岩仙桂-舫屋一夢-小川信庵ー中興売茶高遊外-八橋売茶翁方巌ー梅樹軒 売茶東牛
で、東牛は明治の初め京洛三条橋畔に住んだ、まず正系に(ひと)しい人であった。
 しかし、売茶翁の衣鉢は誰も直系に受けたものはない。翁が宝暦十三年の夏七月十六日に寂を示した後、世に中興売茶の後を参州の八橋売茶翁がついだと伝えられるが、その時僅かに八橋は五歳であったので、この八橋方巌が売茶の高風を慕うて自らその名を継いだのは、ずっと後年のこととおもわれる。
 それで、売茶翁の遺風を伝えたものには、却って当時親交のあった池野大雅や木村蒹葭堂にその愛玩した遺物を翁自らこれを贈られている。示寂の前年の夏に瓢杓を蒹葭堂に贈った。この人はさきに(宝暦五年九月)久年用い馴れた仙案(せんか)を焼却して、その後茶を売ることを()めた翁の遺風を伝えるため、その仙案を模造し、また翁の茶器図を描写した。のちこの茶器図はその子青木夙夜に改写せしめて、文政六年に上梓した。また翁は大雅堂にも、翁の臨命時に日頃愛用した寄興鑵を贈った。その他の茶具は仙稟を焼いた時に、梅山に与え、梅山はこれを大潮和尚に贈った。これらがわずかに交友の間に伝えられて、その洒落味を煎茶道に遺されたのである。
 また翁の遺風を伝えたものに、ひとり五山の学僧で大典和尚がある、大典はかつて翁と共に洛北糺林で茶を煎じ、翁の茶器に銘を書したりした有名な人で、初め黄檗に入りのち相国寺に転じて僧となった。この大典和尚に二十年来も随侍した聞中という僧が、翁から茶を学んでのち、これを鶴翁に伝えた。今の花月庵流はその伝統である。
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 ここにちょっと売茶翁高遊外の逸事を挿むが、翁の父は肥前蓮池村の柴山杢之進と称し、翁は延宝三年五月十六日に生れた。柴山氏は世々長州毛利侯の臣であったが、のち蓮池藩主鍋島侯に仕えた。十一歳の時に郷の竜津寺に入って化霖の弟子となり、法諱を月海昭と号し、二十二、三歳の頃は諸国を遍参し、遠く東北の地にいたった。二十九歳の時化霖に随うて黄檗に上り、独湛禅師に謁し、しばらく京畿の間に遊び、のち郷里の竜津寺に在って、化霖に侍して寺務を監ること十余年、享保五年十一月、その師化霖が示寂(じじやく)された。翁はその翌年十二月に和泉に在る法弟大潮に亡師遺物の袈裟(けさ)を送り、かつその帰寺を促して、すでに出洛の志をなした。
 そうして翁が僧院生活を脱して京洛に来た頃は、煎茶が大いに流行して、三世舫屋一夢が享保十六年に歿した。その跡を四世小川信菴が継いだが、信菴も寛保三年に歿したので、売茶翁はその中興として立てられたもので、当時藩の国法により、籍を大阪の藩邸に移され、名を高遊外と改めた。彼の東山に通仙亭を構え、いよいよ売茶生活に入って楽託の身となった。翁が一代の洒落はこの時に始まり、仙寞を樹間水辺に移して、渋紙の筵に客を招いて、民衆教化につくして、翁が遊戯と自活の実践を示されたのである。これは享保二十年前後のことで、ここにいることわずかに三年、翁が信施を貪ることを厭うて自活の途に入ったが、とても生くるがための人間苦は翁にも免れず、その後巷閭(こうりよ)に窮して飯銭を乞う偈がある。
  臘尽筒空窮餓煎。 就君乞得百文銭
  可憐憑筒斗升水。 復是残生送旧年
 時に元文四年の冬、翁は六十五歳であった。
 その後翁は京洛三十三間堂の前松下竹蔭の間、また洛西双丘に遊び、ここにも茶舗を移した。その頃黄梅の節に当り、陰雨連月客絶えて(かて)空しくまた困窮した。交友亀田窮楽はこれを聞いて、直ちに米銭を携えて翁を訪うた、その時の翁の()に、
  無茶無飯竹筒空。 恰似波臣車轍躬
  多謝特来親賑済。 箪瓢充得養衰躬
と、こうした清貧に真風流を伝えた翁には、当時の高僧や諸名家に親交せられた人が多かった。翁が宝暦五年の秋に仙寞を焼却した後は、ようやく微疾を覚え、それからの翁は揮毫の礼物をもって活計としたらしく、かの義茶亭を祗園林に設け、神楽岡の僑居に在った金竜道人とも交わった。この人は亀田窮楽と共に奇行をもって知られた士で、窮楽は大の好酒家であったため、酒飲まぬ翁が徳利を提げて酒買いに通うた逸話もある。翁の韻事についても述べたいが、ここに省くこととし、翁は実に宝暦十三年七月十六日、その誕生と日を同じゆうして、世寿八十九歳で寂を示された。
 その後の斯道はやや振わなかったが、近世長崎に村尾万載、水野媚川、木下逸雲ら大いにこれを鼓吹し、田能村竹田はさらに来舶した唐人沈綺川、江芸閣らについて茶道を究めた。
 また茶具については「石山斎茶具図譜」に次の記事がある。
  村瀬栲亭翁嗜茶、語予日、初与無腸老人謀、使清六始造急尾焼及風炉、当時好茶者甚罕、一二十年来、従輦下延至民間田舎、無家不備茶具以待遇客也、甚哉、時人趨風趁流乎、蓋清六善陶所造極佳、爾後名手競興、如木米老人及道八久太諸名家、清雅巧緻、名藉一世、異日当陽羨茗壺系而著一書伝芳悠久也。
と、陶工と煎茶道具の関係はこの頃より盛んになって、わが国日常の接客にもこれを用いることになった。
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 茶のお話もだいぶに長くなって、湯の辞義ではないが水になってしまう。で、このくらいにして少し茶目談でも試みよう。
 わが国の風俗として結婚取持ちの媒介人が使者に来る時、常の茶を出すを忌みて、白湯をすすめる習慣がある。これは諺に、お茶にする、お茶を入れる、など破約を忌むのであるが、昔シナでは婚礼の式に、新婦は茶二包を舅姑親類に呈し、配盃が済むと、新婦みずからこの二包の茶を一つにして煎じて、婿舅に奉るのである。これは合函の意味で古い遺風であった。「白河燕談」に「娶婦以茶」という記事がある。
  客間、嫁娶礼、送レ茶者有レ之、何謂乎。答日、明陳晦伯天中記日、凡種二茶種一、必下レ子、移種則不二復生→故聘レ婦約結時、聘物贈副レ茶、此礼何時起、未レ知。
とある。この風習今は絶えたが、茶樹の移植にたとえて、二夫に見えざる盟約で、すこぶるその意を得たものである。長崎の風土記に、新婦来る時、茶の包を持参することがある、これを茶化すなどというのは、茶を無視した、これが真個(はんとう)の無茶である。
 また今も俗に、余り茶に福があるといい、茶柱が立つと縁起がよい、などというが、昔はあまり茶を呑むと年が寄る、といった。明暦板の「砂金袋」に「大ふくの余り茶のまで若夷」、また貞享板の「南花ばなし」に、
  「昔さる人の曰く、あまり茶を呑めば年がよるものちやといふ事を聞いて、さる者がいふやう、是れはうそであらう、しさいは茶といふ文字ははたち(廿)の十八と書いた程にといふ、されば歌にも、かくこそはかかれけり、
    茶を好きてのまば廿の人なりと、十八ほどの齢にぞ見ゆ」
 また茶は年少者に好まずして、老人にこれを嗜むものが多い。例の川柳に、
   茶が好きになれば頭は薬鑵也
 では、ここらで失敬する。
 茶の和えもの  上煎茶の出しがらをすぐ水に浸し、嫩芽(わかめ)を選びてよく絞りて乾かし、これを煮つけて和物とする。
 番茶の殻は取り置き、よく乾かして枕に入れる。香りもよくて脳のためによし。また出しがらを濡れたまま掃除の時に蒔くと、埃がよく取れて綺麗になる。


最終更新日 2005年11月20日 20時38分26秒

林春隆『野菜百珍』「三四 粽の話」

三四 粽の話
 現代の人は何でも卒爾に聞いてしまうが、この頃洋行の船出に五色のテープを投げて、その鹿島立ちを祝して海路の平安を祈ることが盛んに行われる。それがこのちまき(、、、)から起原をなしている。(ちまき)はただ五月のお節句に食うものとばかりおもってはいけない。
 それは昔、高辛子の悪子が、五月五日に船で渡海した時、暴風に遭って溺歿した。それが水神となって常に航海の人を悩めたので、五色の糸で千巻を作って海中に投じたら、たちまち五彩の竜となって、それから海神は人を悩まさなくなって、海上は平穏となった。また一説に、屈原が汨羅(べきら)に沈み、魚腹に葬られたのを祭った時の供物の一種ともいう。また例の陰陽師安部晴明は、粽は悪鬼に形どったもので、これをちぎって食うのは悪鬼を降伏する義であると説いている、然るに屈原のことを「月令広義」にも書き添えて、
   唐の代に、端午の粽其品多し角粽、錐粽、艾粽、角黍、百素粽、九子粽あり。粽を角の如くにし、又錐のごとくにし、又ひしのごとくにし、又竹の筒の如くにし、夂ははかりのおもりの如くにし、或は五色の糸を縄になうて、じゆずの如くにつなぐもあり、いつれもまこもの葉をもてつゝむ也。これを角粽とも角黍とも言へり、むかし屈原が姉これを作りて屈原を弔ひける也。
とある。
 いずれにしても、五月は不祥月とて人々忌みて、種々の邪気を払うのである。薬草を五色の糸で飾りて薬玉(くすだま)と称するのもこの故事である。長命縷、続命縷(しよくめいる)など漢書にあるはこの薬玉のことである。万楚が続命縷の詞に、
  西施謾道浣二春紗殉碧玉今時闘三麗華刃眉黛奪将萱艸色。紅裾妬殺石榴花。新歌一曲令二人艷刈酔舞双眸斂レ鬢斜。誰道五糸能続命。却令三今日死二君家刈
 わが国でもかなり古くから行われて茅巻と称した。一茶の句に、
   私が引むすんでも粽かな
   笹ちまき手本通りに出来ぬ也
などの句がある。
 粽については諸国に面白い話説もあるが、すべて省略することとした。



最終更新日 2005年11月20日 21時53分43秒

林春隆『野菜百珍』「三五 中毒の話」

三五 中毒の話

 食味と中毒は、児の母乳を求める如きものである。過飲すればあまし、不足すれば泣く。泣くがために乳房を含ませるは、我々が欲せざる食を貪るが如く、酒呑みの梯子酒に似て、これを貪欲の最も下劣なるものとされて、仏者も斎時の外に食うを畜生食と戒められている。
 しかし、中毒には過食と食傷、即ち食い過ぎと食あたりである。で、腹八分目に食っておけばそのうれいも少いが、とかく旨いものはつい止められぬ。俗に炒豆(いめまめ)と何とやらで、悪いと知りつつ欲するのである。
 古人はこれを戒めるに、まず色欲と食欲を先にせられた。然るに色気と食い気は人間の血が通っている限りは、寸時もこれを制することが出来ぬ。色と食は車の両輪の如く、肝臓と腎臓が人体の枢要機関である以上は、これが調節をうまくとらなければならぬ。肝腎(かなめ)という詞もこれを称したものである。
 しかし、仏の顔も三度、そうあこぎに性欲と飲食の不養生がつづいては、夏の氷を(かんな)で削るようなもので、人間が弱くちいさくなるのは当然である。近ごろ按摩の瓶詰めという奇妙な薬があるが、ひとり按摩に限らず、すべて今の人間は瓶詰生活を()りつつあるのである。簡易生活が即ちそれである。著者はこれを常に不性生活、中風生活ともいっている。また悪く言うと(おり)詰生活である、動物園生活である。自ら空気の悪い処を選んで、生命の安定を求めているのである。
 さらぬだに、遠く仏教中毒から端を発して、女悦中毒に伝染した、その遺伝は幕府泰平の惰民中毒に移って、遂に維新このかた洋熱に浮かされ、現代は瓶詰中毒に罹りっつあるのである。
 これらの中毒はお医者さんでも有馬の湯でもなかなか治らない、ただ精神修養と身体鍛錬に(つと)めるより致し方がない。で、これから食物の中毒にっいて述べよう。
 さて焼魚に生姜(しようか)を付けたり、蕎麦やうどんに大根おろしを添えたり、刺身のケンも、汁のツマも、(すし)に生姜、鮎の蓼酢、(まも)のもみ紫蘇などは、いずれも中毒を避けるためである。ただ単に見得体裁に添えたものでない。だからそれらの心得あるものの料理には、それだけ食物をよく理解して取り合わせるのである。これをあしらいともいって、元は心葉から転じたもので、心葉は心を添える意味である。食味を珍重するのは、取りも直さず人命を大切にすることである。日食万銭を()しまなかった昔の先哲はさすがに、真の食通であった。
    中毒の治し方
一、うどんの過食は、大根おろしの絞り汁を多く飲むべし。また山椒(さんしよう)もよし。
二、餅の過食には、同じく大根の絞り汁よし。大根はすべて飽満の時に胃を和らげる。
三、蕎麦(そば)の中毒には萩の葉を煎じて用うべし。また九年母の皮よし。
四、豆腐の中毒にも大根おろしよし。また杏仁を砕いて呑むべし。生豆腐はことに中毒し易し。
五、 (もろもろ)の野菜の中毒には、葛根を水にて煮て汁を呑むべし。また胡麻油、人の乳、小児の尿など、いずれもよし。
六、茶にあたりたるは、砂糖甘草などよし。また梅もよし。酢もよし。
七、 (たけのこ)の中毒は、蕎麦殻を煮てその汁を多く呑むべし。生姜(しようが)胡麻またよし。
八、木の実、瓜の類に中毒したるは肉桂一味濃く煎じて呑むべし。
九、西瓜に(あた)りたるは、蕃椒を水に浸してその汁を呑むべし。甜瓜は塩を湯にかきたてて飲むべし。酒もよし。
一〇、菌蕈の中毒は、地を掘りて水をそそぎ入れ、攪拌してその水の澄みたるを、多く飲むべし。また古壁の土を湯にたててすまして呑むべし。また胡麻の油もよし。山椀を刻みて水にて呑むもよし。苺だしきに至りては、人糞の液を飲むべし。
一一、松茸に中りたるは、豆腐を食うがよし。また茄子もよく毒を解す。
一二、酒毒に中りたるは、虹豆また赤小豆などよし。菘菜の煮汁、生姜の汁もよし。葛の花、九年母の皮、桑椹、砂糖、いずれもよし。また眼子菜(ひるも)を焼いて灰となして服す、煎じて用うるもよし。
一三、焼酎に中りたる人は、冷水を呑ますべからず、たちまち死すことあり。まず温浴して体を温むれば毒おのずから解す。また赤裸になりて輾々ところげ廻れば嘔吐を催し、早く治するなり。また、よき酢を盃に二、三杯飲むもよし。大根の汁、胡瓜、胡瓜のつき汁、葛湯、甘草の粉などいずれもよし。また、おろし大根を腹部に塗抹するもよし。
一四、油揚ものの中毒は、九年母の皮を煎じて用うべし。
一五、諸の魚毒に中りたるは、干鰲(するめ)を水に煎じて服すべし。また冬瓜をすりて汁を呑むべし。また黒大豆の汁、紫蘇の葉の煎じ汁などよし。
一六、鮹魚(たこ)に中りたるは、海羅(ふのり)を湯に入れて呑むべし。これは何魚にもよし。
一七、鰹魚に中りたるは、冷水を呑むべからず、炒りたる豆の粉をたてて多く飲むべし。また、つわぶきの葉を煎じ呑むべし。また桜の葉を煎じて用ゆ。実もよし。
一八、河豚(ふぐ)の中毒は、いそいで干鰲を食うべし。また青砥の磨水を多く呑むべし。また藍の汁を飲むもよし。また樟脳を粉にして白湯で呑むべし。また絵の具の藍蝋にてもよし。また白礬、人糞、茗荷の根の汁、木患子(むくろじ)の黒焼、砂糖、いずれもよし。河豚に中りたる時に、必ず香の高い薬品を服すべからず、大いに害をなすなり。
一九、蟹に中りたるは、蓮根の汁、冬瓜の汁、黒豆の煮汁など妙なり。蒜を水に煎じて多く呑むべし。
二〇、 (すつぼん)の毒に中りたるは、胡椒よし、藍もまたよし。
二一、諸毒を解す薬は、犀角の粉、藍の汁、胡麻の油、人糞、黒大豆、地を掘って入れたる水鑞月の雪水、韮蒜、五倍子(ふしのこ)を酒にたてて呑む、細茶(ちやのみ)、自礬を水にて呑むなど、いずれもよし。
二二、飯の(のど)につまりたる時は、塩を箸の先につけて()むべし。茶漬につまりたれば、酢をすこし飲むがよし。



最終更新日 2005年11月21日 01時08分23秒

林春隆『野菜百珍』「三六 林檎の話」

三六 林檎の話
 りんごは、わが国在来のものを林檎と称し、古名は「りゅうこう」、また「かたなし」ともいった。今西洋から来るのを苹果と称して、多く市場に出るのはこの種である。
 りんごの花は春三月に咲いて、夏の六月に実が熟する。これを頻婆、文林郎果、来会など名づけて「艶和蜂蝶動、香帯管絃聞」などの対句を詠んでシナではこれを賞している。其角の句に、手にとるも林檎は軸で面白し」とある。
 りんごの種類は銘酒の名に似て、産地は東北秋田をもって最上とされる。早熟のものに、紅魁、初笑、小町など、中成に祝、旭、生娘、紅紋、晩成に国光、柳王、満紅、金時、日の出など、皆真紅の色を賞したり、艶麗美人の豊頬に擬した名がある。で、りんごはその味よりも上品な姿と、つややかな色彩において愛される。小町、生娘などはよい形容である。その果実のさくさくとした水分に、惚れ惚れさせられる。水彩に油絵に、この静物は画筆にしたしまれるのである。
 その製法は林檎酒のほか、ジャム、ゼリー、ソース、サラダなど、食味としても、やはり洋画にちかい趣がある。



最終更新日 2005年11月21日 01時16分20秒

林春隆『野菜百珍』「三七 竜眼肉の話」

三七 竜眼肉の話
 りゅうがんは、印度台湾の熱帯地方に産する常緑の喬木である。台湾中部以南の山岳に自生し、また平野に栽培されて多くシナ方面に輸出するのである。その果実は平滑なる球状をなして、福竜眼と、普通竜眼がある。大抵素乾にして舶来するが、たまたま生のものもある。生食すると鯛の眼肉に似たもので、その味は茘枝(れいし)の如く、その肉を竜眼肉というので、乾したものはその外皮を剥いて肉を食うと、固い枇杷(びわ)の核に似たものが一個ある、これを数珠などに作る人もある。また生を砂糖漬、蜜漬にする、この肉にころもをかけて胡麻の油であげる、これは普茶料理の一種である。また竜眼肉酒にも製される。昔から禅寺の点心の一つに加えられたものである。またよく漢方医薬に用いられた。



最終更新日 2005年11月21日 09時38分05秒

林春隆『野菜百珍』「三八 令法の話」

三八 令法の話
 りょうぶ、また料蒲と書く。古え令して葉を饑饉(ききん)に備えしめたよりの名で、その若葉を飯にまぜて食う、これをりょうぶ飯といった。樹は山茶に似て山野に自生する、葉は茶の葉、桜の若葉に似て、秋に小さい白花が開く。また「関秘録」という書に、令法は檜核の音を仮りたるもので、山菜料とも書き、また、ひさかきとも訓す、和名「はたつもり」の名あり、今いう正木の類なりとある。「夫木集」に能因法師の歌に、
   今よりは深山かくれのはたつもり、我打払ふ床の名なれや
と、これは隠棲して浮世にかかわらず、深山に隠れ居る心にて、令法を守り、常に十乗の床を打ち払うというこころである。
 このりょうぶの食用について、山口県の小田常太郎氏から親しく著者に書を寄せられて、令法の調理を示教された、
 一、名称。リョウボウ(周防)。リョウブ(長門)。
 二、用法。春採集し一度湯びき、乾して貯う。これを用うるには、細末して米と一緒に炊ぐ。
   但、御飯出来上りたる時に、食塩少しばかりを加う。
 三、食味。明治二十年頃までは、大抵食用したものであるから、今頃五、六十歳の田舎の人は、令法の食味を知らない人はありませんが、漸次こんな風がすたれて来ました。小生も子供の時には、母に伴われ山林に分け入り、令法の嫩芽(わかめ)を採って来て食うたことがありました。子供の時はとかく麦飯は気に入らぬものでしたが、この令法飯は、子供の時でさえおいしく戴いたことを、今日も記憶しています。
とある。
 こうした古い文献から得た荒救食物が、今も地方に伝えられてあるは誠に嬉しいことである。とかくこうしたものはその実物に接しながら、田舎の人たちも自然に閑却する傾きがあれば、まして都会の人たちには寤寐にも知り得ないのは当然である。しかも栄養上にも効果のある食物にして、なお世人に忘れられたものも甚だ少くなかろうとおもう。なるべく古来国土に生じたもので、古人が採って久しい経験を伝えた、その食物を尊重する気風を馴致して、一般に広くお知らせしたくおもうのである。



最終更新日 2005年11月21日 09時46分17秒

林春隆『野菜百珍』「三九 分葱の話」

三九 分葱の話
 わけぎは、わけねぎの約語で、実を結ぶと根を分けて植えるからの名で、冬葱ともいう。夏の末にうえて十一月頃に採って食するのである。再び植えたものは冬月の寒さにも傷まず佳味である。女詞の葱の一もじに対して、二もじという。調理は酢味噌で和える「ぬた」の外、葱と同じことである。



最終更新日 2005年11月21日 14時11分58秒

林春隆『野菜百珍』「四O 山葵の話」

四O 山葵の話
 わさびは加茂葵に似て、その根の味が生姜に似たるより、山葵、山姜(いぬはじかみ)と称し、また焙菜、山兪菜と書く。伊豆天城山麓の四方、加茂辺に生ずるものを第一とす。これを静岡で山葵漬に製して東海道の一名物とした。また広島、大和の吉野、宇陀にも産する。諸国山中の水近い所に自生するものは最も佳味である。しかし市場に出るのは、皆人家で作られたものが多い。大和吉野奥の自生山葵は、その葉が大きく浸しもの(三杯酢で)にすると佳味である。
 山葵は料理にくっついた調味料で、いくら新しい刺身でも辛子や胡椒では食われない。すると山葵という奴は、鈍い人間の味覚をちょっと刺戟してやろうなどと、保食(うけもち)の神さまが自生させ給うたものであろう。
「そのあした山葵の土産女房ツン」という川柳がある。これは東京の盂蘭盆(うらぼん)に内藤新宿のお閻魔さんへ詣った、その夜そこの女郎屋で遊んだ翌日、のそのそと山葵の土産を持って、今帰ったアで女房がツンとすねたのと山葵がツンと利いたという洒落で、山葵はここの名産であった。
 さて山葵はおろして()け醤油か山葵味噌、また細かく刻んで酢にはじかすもよい。忍び山葵は、わさびをおろしたものを徳利に入れ、わさび十匁に水一合の割で、口を堅くして湯にかけること、十分間ぐらいでその汁を用いるのである。静岡の山葵漬はちょっと醤油を注けて食うと、うまいことは誰も知ること、山葵は葉付の方からおろすとよく利くことも御承知であろう。



最終更新日 2005年11月23日 18時30分35秒

林春隆『野菜百珍』「四一 若菜の話」

四一 若菜の話
 わかなは、一種の菜でない、早春の野辺に萌え出る各種の食菜を総称したものである。
 若菜の供御はわが国でも最も荘重に行われた式事で、応神天皇以来離宮を置せられて、国栖人(くずびと)の朝拝もある吉野に菜摘(なつみ)の里という所がある。「続後撰集」に、
   かすみたち雪も消ぬや御吉野の御垣の原に若菜つみてん
とある。それが宮中の式事として正月初の()の日に行われたのは、寛平二年の四方拝に初めて行われたその時からである。
 李部王(醍醐天皇式部卿重明親王)の記に若菜を十二種供することがある。その種々は、若菜、繁董、苣、芹、蕨、薺、葵、水蓼、木雲、松云々と見える。この松の字を菘と書いてこうほねと読むとの一説もある。もし松なれば十一種に松をうえて奉ったものかとも伝えられている。
 その後、七種になって、薺、はこべら、せり、菁、御形、すずしろ、仏の座の七草となった。寛平三年中の歌に「せり、なづな、こぎやう、はこべら、みみなぐさ、すずな、すずしろ、これや七草」また一首に「せり、なつな、こぎやう、たびらこ、仏のざ、あしな、みみなし、これを七くさ」とある。「(せり)」は水芹、旱芹の二種ある。「なづな」は東風菜と名づけ、歌書には千草といい、俗にぴんぴん草、三味線草というのがそれである。「はこべら」は俗にはこべ、北国ではあさしらげという。「みみな」は巻耳と書き、俗に猫の耳という、「すず菜」は杉菜と畑菜の二種がある。また蕪菜(薹)をいう。世俗、若菜売りと称するものはこの畑菜を称したものである。「すずしろ」は大根、「ごぎょう」は母子草(鼠麹草本草)の仏耳草である。これらの七草を摘み集めて、前夜この菜を爼板(まないた)にのせて、擂木、火箸などで囃したてて「日本の土地へ唐土の鳥が渡らぬさきに七草なつな」と唱うて(はや)すのである。この囃すことは、式事料理の正月七日に鬼車という悪鳥が人家に入って害をする、という伝説からの習慣である。
 また正月七日を人日と称するのは、元日より六日までを六畜の日となして不祥とする、で、七日に至って初めて人の日といって、種々の除厄を行うのである。盧同の詩に「春度春帰無レ限春。今朝方始覚レ成レ人。従レ今克レ己応レ猶レ及。願与二梅花一倶自新」というのがある。
 しかし、正月の七草粥は、或は七種粥と称して、白米、大豆、小豆、粟、稗の五穀に、栗、柿の二果を加えて(かゆ)を調じたものが、秋の七草になぞらえて春の七草と称して、詩歌の韻事が盛んになった時代に誤られたものかともおもわれる。若菜を摘むことはすでに応神天皇より天武天皇に至る、吉野行宮の時に始まったが、七草粥のことはようやく平安朝の後寛平、延喜の頃から定められたのである。()の日の小松引きもその頃に始められたことで、これらのことは「公事根元」に載せられてある。若菜も初めは()の日に摘んだもので、貫之の歌に、
   春日のの若菜摘にや白妙の袖ふりはへて人のゆくらん
と、その他の歌集にも、野辺遊びの意味で詠まれてある。後世になって若菜を取り入れたのが多い。
   七草やあとに浮かるる朝鴉
   おもたくも雪つけて来い若菜売
   芹薺(せりなづな)たたいた跡を牛蒡(ごばう)
   七草もいざまた一つ若菜哉
   春ながらけふを今年の若菜哉
   七草は唐土の鳥の摺餌(すりえ)
   六日八日中に七日の薺哉
 また狂歌に、
   よもすがら叩くは唐土の鳥ならで日本の人のくゐななりけり
 また詩に、
  野外蕪レ菜世事推二之薫心一
  炉中和レ羹俗人属二之繊指一
と。春の野辺でのんきに若菜を摘んで来たのを、宿の妻が優しい手で煮てくれて取膳で一酌する。春風家に満つるという句である。ともかく若菜は優しい主題である。
 若菜の調理、ここには畑菜のことをいう、七草のことはその条下に一々示すこととする。
 若菜の汁は芥子の吸口、あるいは塩くじら、油揚、小魚、煮肴の添え芥子、胡椒あえなどよし。


最終更新日 2005年11月23日 20時49分21秒

林春隆『野菜百珍』「四二 和布の話」

四二 和布の話
 わかめは、わが国到るところに産し、古くより食用にされた。春季にその嫩芽(わかめ)を刈り取り、乾燥して貯えるのである。
 この和布はわが国神事の重典として、今も豊前早靹(はやとも)和布刈(めかり)神社は彦火出見命を祀り、元は隼友社と称した。毎年十二月除夜の深更に、海中に入って和布を刈り採って神前に供する神事が行われる。このことは謡曲「和布刈」にもある、「さる程に和布刈の時到り、虎嘯くや風はやともの、竜吟ずれば雲起り雨となり、潮も光り、鳴動して沖より竜神あらはれたりLと。この竜神がさっと海水を開いて海底に神主を誘いて和布を刈る神事である。今なら潜水器でもってこんな神秘的地囃を入れなくても採取が出来る。しかし事それほどに古典のある和布を、例の狂歌師は「和布を刈りて神へ供へる大みそか醤油で煮たら味からふのに」と。また「辷ふかと親は和布刈の夜の鶴」とこんな洒落である。そこで和布の産地は今も門司を最上として、ここには乾和布のほか「めのくき」と称して、和布の茎を瓶詰にしてひさいでいる。ちょっと酢肴の取合せによい。また、出雲の日岬、伊勢の糸和布、阿波鳴戸の灰干和布なども名物である。
 和布(わかめ)の調理は、
 和布のぬた 五分ぐらいに切り、独活(うど)の短冊切りと共に芥子味噌であえる。木の芽うわ置き。
 巻き和布 和布をうでて疾くと酒ばかりで煮て、五寸ほどに切り、別に豆腐を()り白胡麻を入れて、それを裏漉(うらこ)しにした後、薄く和布を伸ばして小口から巻きわらでくくって、ざっと茹であげ小口切りにして供する。
 そのほか、旨煮、三杯酢、汁の実、筍と煮合せ。
 和布飯 和布を火取って微塵に揉みほこし、それを裏ごしにして、塩仕立ての温飯に混ぜる。
 とろろ 和布の茎をおろし金でおろし、玉子を加え煮出汁でゆるめて飯にかけて食う。



最終更新日 2005年11月24日 00時32分50秒

林春隆『野菜百珍』「四三 蕨の話」

四三 蕨の話
 わらびは、例の首陽山の故事もあるが、「爾雅」にも「野人今歳山を焚いて、来歳蕨菜が繁生する」とある。春旧根から数茎を生じて拳の如く巻回するので、拳蕨の名がある、山野に自生して嫩を食用とする、その丈三四尺に及び老いたるを蕨箸、また籠に製し、根は粉にして蕨粉をつくる。茎はわらび縄に造って園芸家の庭造りに珍とするところである。異名を紫の塵というて、
  紫のちりをすゑ野の蕨かな
   さはらひも若紫のねさしかな
  庚申の足の下からわらびかな
などの句がある、これを美化してその姿の優しきより、幼児の拳に擬しなどする。
   早わらびの笙美しや指の先
  早わらびの何かは握る袖の内
 また、
   ふりあげたにぎりこぶしは取りに来た人にくらはすわらびなるらん
 杜子美の詩に、
   雨足空山少蕨萌。 春深矗々紫金茎。
  但夷不食周家粟。 未必先知此味清。
 さて、蕨の調理は茎の硬いところを除き、穂先をよく洗いそろえて、底の浅い桶に入れ、それに灰をふりかけて沸湯を注いで、軽い()し石をのせて置くこと一昼夜ぐらい、よくあくの去った頃水洗いして、青煮、白()え、吸いもの、辛子和え、煎巻、蕨飯、わらび餅などにする。
 蕨は無毒なれども、多食すると精気を減じ、眼を損う。中風、脚気症の人は忌むがよい。


最終更新日 2005年11月26日 10時47分48秒

林春隆『野菜百珍』「四四 蕪菁の話」

四四 蕪菁の話
 かぶらは、蘿萄と共に、わが国古来より盛んに栽培された主要菜である。持統天皇記に「令天下勧殖蕪菁以助五穀」とある。こうした古い歴史をもつだけに、各地方に優れた名産が多い。
 京名産の一つとせられる、蕪の八枚漬は、聖護院種の晩生のものが、形も肥大で軟らかくて美味である。
 大阪の天王寺蕪も古い名物であったが、今は郊外田辺地方で作るのみで多く産出されない。この品は根身が白く、早生の扁円中形種で美味である。漬物としても、三杯酢、煮食、切干等に用いられる。
 特に蕪の産地としては近江国がある。大津尾花川地方の産が最も優良品とされている。晩生の形大きく扁平で五、六寸に及び、底部の凹むので、すわり蕪の異名がある。肉質が緻密で煮食に適する。風呂吹きとし、千枚漬としても珍重される。
 ちょっとここに御注意しておくが、蕪は肉のよく(しま)ったのが上品とされて、煮ても風呂吹きに蒸してもぐたぐたにならぬ。これに反して大根は肉の軟らかいのがよい。蕪の煮き過したのは不味くて食えない。ここに近江蕪の価値があるのである。
 またここの日野に()かぶらという特産がある。形細長く八、九寸、茎葉と根の地上部は皮肉とも紅色で、地下部は白色である。漬物用として名がある。この蕪は飛鳥井雅親卿の歌に「近江なる絵物の里のさくら漬これや小春のしるしなるらむ」とある。
 この近江の日野蕪は紫色に偏しているが、伊予の雄群村竹原に産する中生小形の蕪は、外皮は暗紫紅色であるが、肉の中皮は鮮紅色を帯びて、すこぶる外観の美なるものがある。しかし、その味質は遠く日野蕪に及ばない。で、薄片として塩蔵し、または酢漬として食用にされるのである。
 大和の今市蕪は風呂吹きにして、ふっふっと吹きながら食うに最も適した白色中形の優良品である。ことに赤味噌田楽、葛かけなどによい。
 長蕪は東京付近の産で、小蕪も関東地方の産が佳味である。これらは春秋の二回、または四季に栽培されて、香気に富めるをもって賞されている。
 春色平蕪に満つという句を、平椀に蕪が一杯にあるなどと履き違えたへち(、、)た茶人もある。利休も蕪に客来の一味と題したほどに、この菜は雅味の饒いものとされている。昔飛騨の蜂加郷という所に、自然生の蕪があった。ここは人里離れたところゆえ、猿などの取り来たれるを発見されたものか、その大きさ盤の如しとある書に記されてある。さて調理は、
 蕪の南蛮漬  小蕪の両端を切り捨て、薄く輪切りにしてよく洗い、(ざる)に上げ水気を去り、酢三杯に醤油一杯の割合で瓶に入れ、赤唐辛子の種を抜き細かく刻みたるを蕪と共に瓶の中へ入れ、よく掻きまぜて蓋をなし、三日ほどで食味の出るころ食膳に上す。
 蕪の松前漬 前の南蛮漬の中へ、菓子昆布を五、六分に切り、共に漬けこむのである。
 渦巻蕪 薄き輪切りを酢押しにして、山葵(わさび)を入れる。
 青竹焼 近江かぶら一個をよく洗い、おろし金でおろし、玉子五個ほどほぐし入れ、塩加減。口径一寸ぐらいの青竹を五六寸に切り、片節を残して、それに前の蕪を入れて立てて炭火の中で焼く。焼頃を見て取り出し、竹を半分に割り、五分ぐらいの輪切りにする。これは吸物種によし。
 青むし きめの細かき蕪を択び、皮を剥きおろし金でこまかくおろし、その中に少々道明寺糒を加え、それに皮を剥いた中ぐらいの茄子を竹の皮にのせ、前のおろし蕪を着せかけ、蒸籠(せいろ)にて蒸しあげ、碗に盛り薄葛をかけ、山葵を添えて出す。よき煮物なり。
 割り蕪 茎のところ少し残し、尻より四ッ庖丁を入れる。
 青葉蕪 茎一寸ぐらい残し、それを濡れ紙で巻き水際より上にして、常の如く煮る。
 むし蕪 上等の蕪の皮を取りむして押しひらめ、葛かけ、味噌かけなど好みにまかす。
 風呂吹 には蒜みそ、生姜味噌など取り合わすべし。大根と違い味淡きため、辛味をよしとす。このほか、汁にして柚の吸口、油揚しきかつおにて平にもすべし。共葉煮も和かにてよし。ちいさき時芥子漬、また、あちゃら、酢蕪、胡麻味噌焼、おろし和え、花かぶら、かぶら茶碗蒸し。
 大根の刻み茎に、蕪の葉を刻みこみて漬けると香味を増す。



最終更新日 2005年11月26日 12時26分33秒

林春隆『野菜百珍』「四五 芥子の話」

四五 芥子の話
 からしが利いたか眼に涙というほどに、芥子(からし)は辛辣な香味料である。
 からしは、名詮自称辛きをもって名とする。その種類は最も多い。青芥、大芥、馬芥、花芥、紫芥、石芥等。これを大約すると白芥と黒芥で、白芥が最も可とされている。そのうち夊春不老というのが佳種である。いずれも八、九月に種を()く。「学寮のいなか坊主や芥子蒔く」という句がある。芥子と罌粟(けし)とよく混同して芥子と書くことがある、けしもこの頃に蒔いて「けしまかば隣の娘雇ふらん」と、からしのいらいら坊主と、けしに繊細な娘を詠んだところがおもしろい。
 近来の芥子は露西亜(ロシヤ)芥子が多く用いられ、芥子の実から油をしぼった(かす)を粉末にしたもので、これがホントに芥子とある。しかし一般に販売されるものは、純真の芥子と変って、大抵は肉桂、肉蒄、砂糖、蕃椒、葡萄糖、小麦粉、食塩などで混製したものである。
 この芥子は調理の加味品としては、一家においても常に貯えておかねばならぬ食味料で、芥子和え、芥子味噌などの菜のほかに、赤痢や脚気衝心の応急療養になくてならぬ薬品ともなるのである。



最終更新日 2005年11月26日 13時06分46秒

林春隆『野菜百珍』「四六 芥菜の話」

四六 芥菜の話
 からしなは、京菜に似て、葉数の少い一種の辛味をもった菜で、また高菜を大芥子とも称して、これらは、幼苗は煮食して普通は漬物とする。最も香気と風味を愛されるのである。またこの種子を採って、からし粉をつくるのである。



最終更新日 2005年11月26日 13時20分51秒

林春隆『野菜百珍』「四七 貝割菜の話」

四七 貝割菜の話
 かいわりなは、また間引菜と称して秋の彼岸ごろに市に呼び売る菜で、その形の二葉が貝の割れるようであるに(なぞ)らえたものであろう。菜の芽生えで大抵は(かぶ)、大根の苗を間引いたもので、これを摘み菜とも、姫菜とも称するが、貝割の名は苗の二葉なるうちをいうのである。
 食用には汁の実、胡麻の浸したもの、また煮食に油揚、小魚と煮合しても軟らかくてよい。
   色鳥は間引の跡に紅葉哉
   菜畑に手斧を入れる間引かな
 また狂歌に「間引菜のねも葉も同じ物なればかぶらかなたねか問うて見たやな」と洒落たのもある。



最終更新日 2005年11月26日 14時22分45秒

林春隆『野菜百珍』「四八 苦竹の話」

四八 苦竹の話
 かわたけは、真竹の名にて、常の竹の他名に対して真竹と称し、筍後れて生じ、大なる皮に紫の斑があるゆえ皮竹ともいう。またその味(えぐ)ければ苦竹ともいい、一名をたけと称する。
 然るに、また川竹と称し、これをも苦竹、河竹、皮菌などと書きて混同されるが、「瓦礫雑考」には、
河竹は菰の根なり、菰の根が年を経て蔓延して水上に浮び出つるを、封田とて田に作るよし、その芽出しを菰筍と言う云々
とある。
 それに苦竹と名づけるも、真竹とは全然別種のものである。古歌に「木枯の園のかはたけかたよりに靡けど色はかはらざりけり」と、これは苦竹を詠んだものである。菰筍のことはなお考うべし。



最終更新日 2005年11月26日 18時09分51秒

林春隆『野菜百珍』「四九 寒天の話」

四九 寒天の話
 かんてんは、石花菜を煮て溶液を冷却したもの、これを凝結して角寒天、糸寒天の二種に製して輸出し、また内地にては製菓用として多く需用される。「和名抄」に大凝菜といい、「本朝式」に凝海藻というもこの寒天を称したので、これらはに委しく述べてある。



最終更新日 2005年11月26日 20時07分01秒

林春隆『野菜百珍』「五〇 かにまめの話」

五〇 かにまめの話
 自豆、俗に雁喰豆という大豆の一種である。その腹に凹みがあって俗説に雁が食った痕だという。煮豆として美味である。



最終更新日 2005年11月26日 21時42分18秒

林春隆『野菜百珍』「五一 からかさだけの話」

五一 からかさだけの話
 夏から秋にかけて雑林の畦に生ずる、茎の長い傘に似た軟らかい菌である。無毒で食用とされる。しかし、これに似た天狗茸(てんぐだけ)は毒菌である。傘茸は淡赤褐色であるが、天狗菌は淡墨褐色であるから注意すべきである。



最終更新日 2005年11月26日 22時33分01秒

林春隆『野菜百珍』「五二 からたちの話」

五二 からたちの話
 枳殻である、この嫩芽を摘んで浸しものに用う。瘡毒を下す奇効がある。



最終更新日 2005年11月26日 23時07分25秒

林春隆『野菜百珍』「五三 かんらんの話」

五三 かんらんの話
 甘藍と書く。俗に、たまな(、、、)はぼたん(、、、、)と称し、洋名のキャベージを訛ってキャベツと俗に称する、重要な西洋蔬菜(そさい)である。その種類に、珠葉、子持、珠花、珠茎、緑葉などがある。肉食になくてならぬ菜で、サラドなどに特有の野菜味を与える。近来は漬物として家庭にも珍重される。なるべく硬葉を剥いて糠味噌漬にするのである。
 これがわが国に輸入されたのは、五、六十年前で、 一般に栽培されたのはごく最近のことである。
 甘藍は滋養分に富み、多量の燐分を含んでいるから、身体の血液を清潔にする作用がある。わが国でもこれを嗜好するものが年々増加する傾きがある。



最終更新日 2005年11月26日 23時42分47秒

林春隆『野菜百珍』「五四 革茸の話」

五四 革茸の話
 かわたけは、香蕈と称し、夏秋の交、山間落葉中に生ずる蓋の如き色黒き茸である。その質軟弱なれば乾燥して用う。芳香上品であるためシナ料理には珍重して用いられる。
 その茸味苦し。灰汁(あく)にて茹でて食用にする。芥子味噌和え、豆の煮交などによろしい。



最終更新日 2005年11月27日 00時31分00秒

林春隆『野菜百珍』「五五 南瓜の話」

五五 南瓜の話
 かぼちゃは、諺にも芝居なんぎんといわれるほどに、婦人の嗜好物とされている。この瓜は尻の重い割に浮気者と見えて、その仇名が幾つもある。東印度(イント)柬蒲塞(カンボジヤ)地方(今の安南)が原産地であるので、カボチャと訛ったのはよいが、ぼうふらという蛮名もある。また、なんきん、とうなす、おかぼなどと称してお台所を賑わすこと(おびたた)しい。
 この南瓜は今から三百年ほど前に渡来したものであるが、その後ようやく享保の頃には、市人が庭園にうえて花実を賞した。ことにその姿が妙なので、当時の人は怪しんで食用にしなかった。これを田圃に栽培するようになったのはその後のことで、宝暦の頃、江戸吉原の茶屋大文字屋の主人は頭が大きくて背が低かったので、自ら加保茶元成と俳名を名乗った狂歌師であった。今も福助のように大頭の小人を大文字と俗にいう。そんなことから風采の上らぬ人を、このかぼちゃ野郎と罵るのである。
 新井白石は、ぼうふらの名は蛮名でない地名であるといわれている。この南瓜にもすこぶる種類が多い。また品種によってそれぞれ味が異なっている。まず優良なのを、縮緬(ちりめん)、菊座の二種として、鹿ヶ谷は西京南瓜ともいってやや味が劣る。また明治の初めに米国から来たハーバート一名まさかり南瓜というのもある。
 南瓜はさつま芋と同じで、東京付近のものが京阪の産よりは味がよい。関西人よりも東京の人に南瓜好きの多いのもそのためであろう。また京都付近に瓢箪南(ひようたん)瓜や、お多福南瓜がある。かぼちゃとお多福はちょうどよい夫婦である。
 南瓜は塵埃場へ種子を捨てても生きるものゆえ、春の末に苗を買って坪庭に這わしておいても収穫がある。それで久しく貯蔵が出来るから、寒い頃に味噌汁の実とするもよい。
 京の吉田付近では節分の日に、この南瓜の切売りを軒ごとにしている。俗に冬至に南瓜を食うと中風のまじないだというから、そんなことかも知れぬ。
 南瓜は一般家庭向きの惣菜にされるが、これを調理してお客様の御馳走にもなる。
 小倉煮 南瓜を大賽(六、七分)に切り、前に人納言小豆を下煮しておき、これに南瓜を入れて煮付け、白砂糖をふりかけて供する。手綺麗にするには、小豆と南瓜を別々に煮て、混ぜ合わすもよい。婦人客の喜ぶ御馳走である。
 なます 南瓜膾は皮を剥き、繊に打って、ざっと塩で揉み、甘酢に浸けて絞り上げ、紫蘇の穂か、生姜のせんを添える。これを刺身のケンに遣うもよし。またこれに独活(うど)を交ぜて酢味噌で食うもよし。
 小丸煮 皮付きのまま上部を切り、中味をくり抜き、蓋物の如くして軽く下煮をし、別に種々の雑品に椎茸、筍、鶏、肉、魚、その他おもいおもいを煮こみおき、それを南瓜の中に仕込み、蓋をして十文字にくくり、蒸器にて蒸す。中へおとし玉子入れるもよし、そぼろ仕立てにして、匙を添えて出す。
 酢取り 短冊に切り、沸湯に入れてさっと二、三度煮たたせ、それを笊にあげ水気を去り甘酢に浸け、薄味のついた頃あげて用う。
 きんとん 皮を()蒸籠(せいろ)でむし、軟らかくして裏漉しにする。
 白煮 南瓜を水ばかりで白煮にして、これを裏ごしにかけて茶碗蒸しの材料、また餡の種とするもよし。南瓜羹にはいろいろの味を工風するよし。
 阿部川 頃合に切った南瓜を塩水で洗い、蒸籠でむし上げ、黄豆粉をまぶして供する。ちょっとしたお茶うけになる。
 きんぴら  南瓜の茎をさっと茹で、(ふき)の皮を剥ぐようにむいて、 一寸ぐらいに切り、ちょっと油でいため、味をつけ、粉唐辛子、粉山椒など加える。花鰹のもみたるを加えて味を添えるも妙。
 そのほか、汁の実、酢もみ、南瓜飯、雑炊(ぞうすい)、田楽、ふろ吹きなど、また油で揚げるもよし、また寒天で寄せものにするもよし。
 南瓜は中を補い血を増すも、多食すると脚気黄疸(かつけおうだん)を起すうれいがある。
 ことしは南瓜の当り年というが、買う時に初生か二番をよく見ぬと、二番はすべて不味いのである。



最終更新日 2005年11月27日 09時34分36秒

林春隆『野菜百珍』「五六  片栗粉の話」

五六  片栗粉の話
 かたくり粉は、日常の栄養食品として、また製茶の原料、料理の加味料として最も珍重される優良な食品である。
 片栗の名は仮り字で、かたこゆり(草藕)を約したもので、「万葉集」にも寺井の上のかたこゆり(堅香子花)とよまれ、昔は初花と称して花道にも珍重された。その頃江戸では、うばゆり、また丈台ゆり、京では初百合、日光辺では「ごんべいる」と称した。その産地は奥羽地方が多く南部をもって最上とし、大和、美濃、信濃、播州等の寒い地方にも産し、今は各地に栽培されるも、近来市場でひさぐものは大抵馬鈴薯を混合されるのが多い。
 片栗は百合科に属する宿根草で、その丈一寸に及び、春葉の間より一茎を抽出して、稍に六弁の紫花を倒まに垂れて開く。姫百合に似て小さく、その根は塊をなして澱粉に富むゆえ、五、六月、根を掘りて片栗粉に製するのである。またその嫩芽は蔬菜として食することもある。片栗を多食すると食気を絶つことがある。病人に用うるはかえって腹中を脹らして食欲を乏しくすることになる、なお考うべし。



最終更新日 2005年11月27日 10時37分43秒

林春隆『野菜百珍』「五七  かち栗の話」

五七  かち栗の話
 搗栗(かちぐり)は栗の実を皮のまま乾して臼に入れて()き、外皮と渋皮を去って製したもので、甘味また掬すべき食品である。古来勝栗の義として、祝賀に用いらる。多く柴栗を以て製するのである。正月の蓬莢に必ずかち栗を用いるも、搗の字勝に通ずるからである。
 料理には、茶碗むし、ケンチンなどの加役にする。「本草綱目」に、栗は腎の果であって、水に属して腎を養う、故に雨水多き年は実らず、旱天の時によく熟す、とある。



最終更新日 2005年11月27日 12時01分44秒

林春隆『野菜百珍』「五八 麹の話」

五八 麹の話
 こうじは、糖化力を有する菌類を米粒、麦粒、(ふすま)などから培養したものの総称である。
 米麹は清酒醸造のほか、甘酒、麹漬、味噌等の原料となる。
 麦麹は多く田舎味噌の原料となる。
 粕麹は麦の麩に麹菌を蕃殖さしたもので、その用途は麦麹に同じことである。
 その起原は甘酒の条で詳述する。



最終更新日 2005年11月27日 12時27分06秒

林春隆『野菜百珍』「五九 榧の話」

五九 榧の話
 かやは、油の原料として麻油に優るもので、大和吉野産最も名がある。紀伊、丹波、近江、三河、奥州地方にも多い。深山の喬木で常緑で冬も凋まず、雄樹は枝立ちて初冬の頃花を開くも実なし。雌樹は横に繁茂して下に垂れ、花なくして実る。その実は(なつめ)の如く、その仁を食い、またそれより油を取るのである。歌に、
   いつはらぬ吉野の雪に榧の花
   山里か榧の花見や霜の朝
 この実を砕き毛篩で漉して胡麻の代りに用う。また料理に山里の鳥と称し、まず(かや)の実を皮のままちょっと焦げ目のつくほど炮烙(ほうろく)(あふ)り、金槌で砕き擂鉢(すわはち)でよく摺り、別に乾柿のよく粉の吹いたものの種を抜き去り、よくつぶして、前の中へ入れてよく摺り合わせ、塩砂糖いずれも少しずつ入れ、片栗粉をつなぎに加え、丸めて湯をなしおく。これは茶料理の吸物種に用う。
 榧の油は虫を駆除するに効がある。またこの実は五痔を治す。



最終更新日 2005年11月27日 15時10分13秒

林春隆『野菜百珍』「六〇 ががいも(蘿摩)の話」

六〇 ががいも(蘿摩)の話
 山野に自生する蔓草で、古名をががみといった。
 春旧根より芽を出し、夏花を開き雌は葉の間に(さや)を結ぶ。この嫩芽と嫩莢を油煮にして食う。この莢、熟すると中に白き絮あり、これを和のパンヤという。茎は甚だ強く、綿弓の弦に用いら
れる。根いもの如く横に生ず。



最終更新日 2005年11月27日 18時25分49秒

林春隆『野菜百珍』「六一  かわらけなの話」

六一  かわらけなの話
 土器菜、春の七草の仏の座、また田平子というのである。



最終更新日 2005年11月27日 19時31分49秒

林春隆『野菜百珍』「六二 かわぢさの話」

六二 かわぢさの話
 川苣は川柳に似て水辺に生じ、また圃に作る。冬になれば紫色に変ず。その葉を酢味噌で食用とする。根も晩秋に食す。



最終更新日 2005年11月27日 21時08分14秒

林春隆『野菜百珍』「六三 かじめの話」

六三 かじめの話
 搗布と書く。褐色藻で太平洋沿岸、房州以南に多く産する。茎の先より数多の葉を生じ、乾燥して刻昆布の如くして食う。



最終更新日 2005年11月27日 21時24分43秒

林春隆『野菜百珍』「六四 かおりゃんの話」

六四 かおりゃんの話
 高粱は満州の特産で(ひろ)く栽培され、一般米の代用ともされる。種実は粉に製して団子を作り、また酒に醸して高梁酒と称する。



最終更新日 2005年11月27日 21時58分11秒

林春隆『野菜百珍』「六五  かしの実の話」

六五  かしの実の話
 樫の果実を俗にどんぐりと称し、これを炒りて児童の嗜好とする。また餅につぎ交ぜて用いる地方もある。近来欧州では焙って粗粉とし、珈琲の代用とされる。また懈の皮を蕎麦と煮ればたちまち蕎麦は悉く消えてしまう。故にそば(、、)の中毒はすべてアク(、、)のある木皮が有効である。
   どんぐりに禰宜の眼さます簀子哉



最終更新日 2005年11月27日 22時18分34秒

林春隆『野菜百珍』「六六 かわらけつめいの話」

六六 かわらけつめいの話
 山扁豆と書く。おわりけつめいともいう。荳科に属する植物で、羽状複葉をなして黄花をつく。その嫩葉を採ってざっと蒸し上げ、炮烙にかけて乾かし、茶の代用とする。俗に弘法茶の称がある。




最終更新日 2005年11月27日 23時43分47秒

林春隆『野菜百珍』「六七 柿の話」

六七 柿の話
 かきは、わが国でも古来重要の果物で、秋深く実る頃は枝も(たわ)わに累々として朱果をつらね、その赤きつややかなるを賞して、赤実果、菱金、霜長者、軋卵、鹿心などの異名を付し、万木荒涼の頃、ひとり一林の霜を凌いで千()の蜜を生物の贄に、ほしいままにせしめ、その渋きは白柿となって串につらねて春の蓬莢に飾られ、めでたきものの数に入って「賀喜」の名にょろこばれ、渋きも酒樽にうまいして醂柿の熟味に老人を楽しましめ、米櫃(こめひつ)にかくまわれ、また釜中に入ったその爛熟の厚味を賞翫されるもの、実に柿は一姿をもって、よく百態の芸能を発揮するものである。
 さらば歌聖に(かき)(もと)人麿あり、俳人に落柿舎(らくししや)の去来もある。この種一つで猿蟹の合戦も始まる。その猿が人真似をして木のうろに猿酒を造るも、またこの柿が主材であるなど、どこまでも柿の種は童話の種の嫩芽である。
それで、
禅寺丸 関東に多し、頂部に黒斑のあるもの、甘味に富む。
富有柿 水御所という、美濃の産で一個百匁もある、肉質緊って上品である。
御所柿 近畿地方の産。
鶴の子 長楕円で甘味に富むもの。
百目柿 雲の上という、越後の産である。
 このほかに、四ツ谷、油壺、擬宝珠、霜丸、丹久鶴、代々丸など浪花節の芸人めいた名もある。また渋柿の中にも、蜂屋、核なし、衣紋などと遊女めいた名に、蜂のさす、種なし、えもんは謎のような滑稽味がある。
 また地方色に称えられた名に、
 哄柿、醂柿、白柿、胡廬柿、樹練柿、木淡柿、似柿、佛羅柿、円座柿、筆柿、田舎柿、君遷柿、樽柿、稗柿等。
 包柿は青いものを器に貯えて、自然に紅熟さすものである。
 醂柿は渋柿を石灰に浸し、または蕎麦がらの灰汁に二、三日浸しおくと甘味くなる。
 其角の句に、
   清滝や渋柿さはす我こころ
 白柿は渋柿をもって枝に連ねて(さら)して乾かす。また藁や糸でつなぎて(さら)し、蕎麦楷、稲藁でつつみ宿しおくと霜が出て甘くなる。これは岐阜の蜂屋柿を最上として、次は広島産のぎおん坊柿、伊予の西条産が上品である。
 柿に俳味あるは洛西嵯蛾の落柿舎に、松尾芭蕉も元禄四年四月の十八日より翌五月五日まで去来の世話で閑居された。それは翁の「嵯峨日記」にある「我貧賤を忘れて、清閑に楽しむ」と、ある時は蚊帳一はりに、翁と去来、凡兆、羽紅夫婦の五人がこぞり臥したが、夜もいねがたくて夜半より起きてかたり明かしたなど、翁が清貧の逸事がのこされてある。また丈草もこの居を訪うて、
   深対峨峰伴鳥魚。就荒喜似野人居。枝頭今欠赤軋印。青葉葉頭堪学書。
と庵の柿の樹を吟じ、また、
   芽出しより二葉に茂る柿の実
 ここの庵主去来の句に、
   柿ぬしや梢は近しあらし山
 柿の一樹にもこうした風流味が伝えられる。
 この野趣に富む柿は、古い句にも「柿の木やとかく自慢の親仁出る」というとおり。秋の旅行に車窓から見る限り、国々の田園には、垂枝累々として紅実を点綴している。まず東海道に柿の王国美濃の大垣、昔は大柿とでも書いたか、今日に至っても御所柿の本場、中にも天神御所、徳田御所などの名品が出る。単に柿羊羹を食いて美濃の柿の味を知るなどは、柿通のもって恥とするところである。後鳥羽院献上以来、蜂屋柿の名は、乾王げ三寸余という巨果として柿中の冠たるものである。
 静岡にも次郎柿がある、それより東も、また名柿を産出し、江戸一柿など最も珍とするに足る。本門寺の会式、目黒不動などの秋の土産は、この柿一天張りである。
 こうして柿づくしを書き始めると六十余州を柿行脚しなければならぬ。で、柿の調理にかかる。
 柿の山葵和え  皮を剥き小角に切り、浅草海苔を火どり微塵にもみ山葵をおろし、淡口醤油で溶き、柿を入れもみ海苔をかける。
 柿の天ぷら 生柿の皮を剥いて種をぬき、頃合に切り、中央に庖丁目を入れ、それに山葵を小楊子で挟み入れ、ころもをかけて胡麻油であげる。
 柿膾 常のとおり、またこれに林檎をおろして入れるもよし。
 干柿の天ぷら  ひっくりかえして種をぬき、ころもかけてあげる。
 柿鰈 渋柿をおろし米の粉に和して餅とするもの。
 黄檗の木菴禅師が未だシナで修業中、十八歳の時、北山の獅頭岩に独坐して日に柿餅三枚を食とされたことがある。今俗に掻餅というものは楠を混じて製したのが初めであったらしい。わが国でも山間僻邑では作ったものか、
   柿餅や世を味うてみやこ人
という句がある。
 秩父山中の猟師は、希に熟柿を酢に浸けて携えている、これは蝮蛇(まむし)()された時に用いると速効がある。
 また遊戯に柿合戦といって、種の数を当て合うのである。
   柿の木であいと答える小僧哉
 小僧でおもい出したが、柿の皮を桂剥にして醤油で煮しめ、日に乾して精進の鰹節に代用する。



最終更新日 2005年11月28日 01時09分53秒

林春隆『野菜百珍』「六八 粥の話」

六八 粥の話
 かゆは、わが国古来の常食であって、「江家次第」解斎の条に、蔵人供二御粥一(堅粥也、高盛之)と見え、また立二御箸粥上輔入御、とある。この時代の粥は今の飯で、昔の飯はこしき(、、、)で蒸した強飯(こわめし)である。
 で、粥は禅家でもシュクと称し、皇室から民家に至るまで、正月の七種粥(ななくさがゆ)や小豆粥を祝う。昔時は新宅の移転、また農家の養蚕の時に粥を四方に撒くことも潔斎の遺風で、凶事を厭うて吉事を祝するという意味に外ならぬのである。
 平安朝以来は宮中にも朝餉は御粥を用いさせられたので、世々の御歌集にも、粥を詠ぜられたものが多い。それで白粥の清らかで純白なのを賞して、「新拾遺」に、
   白雪のふれるあしたの白粥はいとよくにたるものにぞありける
とある。で、京洛の地は昔ながらに朝粥を各家に用いたと見えて、朝粥を(すす)る音をよく江戸ッ児の悪口の材料にされた。この頃でも東山の料理屋で朝がゆの客を招いている。この粥の都は水の名所で、粥は水が多いほど甘味を増すので米から炊き上げた粥は、実に軽い食欲を(そそ)るものであるが、栄養価はやはり飯のようにゆかない。
 それで粥は階級的の食物で、病人にこれを用いるに、よく消化を助ける。また嬰児の発育上にも、これを用いて、おも湯から三分粥、五分粥、全粥と、漸次水の分量をもって固形食の加減が出来る。
 古人も粥の十利を説いて、
 一に血色、二に増力、三に益寿、四に安楽、五に弁説、六に除風(感冒)、七に宿食、八に飢消、九に消渇(医渇)、十に便通(利尿)。
とある。
 禅寺では必ず朝は粥で、大本山の禅房では、雲水たちの詞に天井粥という。それは釜の中に天井がうつるほど水がダブダブある粥を称したものである。京の禅苑の間宮英宗禅師より、かつて著者に寄せられた書に、
  野僧元来不風流にて只空腹を待つて食事候事に致居候間冷茶冷麦飯時には冷えたる汁の鍋の
  底にかりかり砂の音の致候小僧の食後食堂にて一日の食余りを頂戴候事は常の事に候へども
  嗜好として此野風流が一層と存候此一条は小衲一代の幸福と衷心より喜び居候とある。こうした淡い枯木堂裡の生涯から、石上花を咲かす禅味の愉悦が生れるのである。
        *                *                *
 俗に柔もの育ちという。京の人がお粥をよく食べる、イヤ啜るのは、あながち吝嗇(りんしよく)から出た風習でない。古来から伝わる食礼の遺風で、正月の姫初めというのが、そもそもお粥の啜り初めで、粥柱、粥木、粥杖などとお女中のお尻を叩く儀式がある。今のモボがダソサーのお尻にあこがれる曲線美と違って、これは男子を(はら)む呪いにするので、正月の十五日、粥杖をもつて新婦の尻をたたく。望一后千句に、
   正月をまつこそ祝へ花の春
   うららかならす嫁たたくなり
と。長崎の小瀬戸にも正月十四日に尻叩きと称して新婦の尻をたたく風習があった。また北陸地方でも御祝棒と称して新婦の腰を叩く遺風がある。粥柱は粥の中へ餅を入れて、七日の粥にも十五日の小豆粥にも入れる餅を称するのである。
 京の祗園の削り掛けもこの粥木の遺風で、ひめ始(、、、、)というは、火水(、、)の事を始める義で、即ちその年に飲食の初めを称したものであろう。
 元旦に粥を食うことは唐土にもあったと見えて、堯拝粥嘖といい、既に粥の音が祝に同じで目出度義にとれるものか。寺院で粥をシュクというもこの義である。
 七種粥  「拾芥抄」に正月七日、俗に七種菜を以て羹を作りてこれを食う人は万病なし。また「公事根源」に、七種粥、薺、はこべら、芹、菁、御形、すずしろ、仏の座云々。また「九条右府日記」に、白穀、大豆、小豆、粟、栗、柿、ささげ、とある。これは十五日の小豆粥にして寛平の朝に始まったものとある。あるいは古えのヒ種粥は菜でなくて穀果を用いたものか、荻生徂徠は七種の穀を以て正しとせられる。「荊楚歳時記」にも七種の菜を以てするとあれば、いずれともに用いられた習わしであったろう。また鴨長明の「四季物語」に「正月十四日に、つとめて御づしどころの御粥奉れる。七種の御あつものも、けふまでとどめおきて、ひとつ御かまにてとうじなして奉れば、しる11ぼかり御いきふれさぜ給へり此事推古の御世よりあることにて、あかきは湯のいろをからせ給ふ御事にて、あづきの御粥たまはらせ給ふとそ、冬の陰の余気を、陽徳にてけさせ給ふ御心なるべし云々」とある。
 七種菜については、兼明親王の「公事根源」に、延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供すとある。これは宇多帝の御時より始まり、古は内蔵寮より内膳司に供しこれを奉るのであったが、いつの頃よりか、禁中の針医精全という者より毎春献上することで、これを京の洛外紫野、北野、大原野、内野、平野、嵯峨野、蓮台野の七箇所に求めたのであった。その種類は、
 水斬、薺(俗に雀の巾着一)、鼠麹草(ははこ草)、藥簍(はこべ)車前草(おおばこ)(仏の座)、蕪菁(かぶら菜)、蘿蔔(大根)
の七種である。これを調えて十四日の御粥を供することは、前述の長明の説に付合して、今日七日の七種粥(ななくさがゆ)は、十五日の小豆粥と混同して取り違えたものである。
 シナでも黄帝が蚩尤(しゆう)という悪人を(ほろ)ぼしたところ、それが天狗となって国に疫癘が流行したので、正月十五日に赤粥を食して呪としたとか。また高辛氏の女がこの十五日に、巷中で失せた悪霊のたたりを除くために、その女が平常粥を好んだから、赤小豆粥を作って災を避けるなどの俗説から出たことであるが、いずれにしても正月に粥を食うことは、人生に意義あることで、地黄粥、防風粥、紫蘇粥などのことが、かの「千金月令」に載せられてある。
 またこれを祝義に用いるに、
 移捗粥 俗に引越し粥と称して、小豆の入った粥をわたましの夜に食う。これは伊豆三島地方の風習で、伊豆の豆と三島の三を取って、三島明神に吉事を祈る意で、豆三粒を入れて祝するのが、今は一般の風習となったのである。
 源氏粥 は、白粥を常の如く炊いて、蕎麦のしたじ、同じく薬味を入れて上から注けるのである。粥のむれ加減は、なかなか難しいものでよく経験せねばならぬ。
 炒米粥 は、生米を炮烙でざっと炒り、多量の水で煮るのである。香ばしくて味も軽い。
 尾花炒 これは薄の穂を黒焼きにして入れた粥で、良薬として用いられる。七月二十七日信州諏訪の山祭に用いるものであるが、「康富記」に文安五年八月朔日の条に、「尾花の粥の事その由来何事なるや、自然見及ぶかのよし問はしめたまふも、いまだ見及ばず、その仔細をしらず候よし返答し畢る云々」とある。されぽ宮中には八月朔日に小花の粥を供することを載せられてある。
 然るに、粥の製も昔と今は異なっていて、俗に奈良の茶粥など俗に揚げ茶というのは、古来からの水粥で、かゆを漉して下にたまったのを編糅と称したので、その頃粥と称したのは今の飯で、今いう飯は強飯であることは前に述べたが、正月のひめ始めは食事始めと同じで、粥を雑煮の次に食う風習である。
        *                *                *
 お粥の話はあまり景気のいいものでないが、禅寺のお粥はそもそも仏教創始からの食律であって、世に粥正時と称して、四分律云、明相出て初めて粥を食うことを得、余は皆非なりとある。で、黄檗山の斎堂の聯に開山隠元禅師は「法眼円明であれば日に斗金を費しても分外でないが、もし偸心が死せざる時はたとえ滴水を()めてもその罪はまた消し難し」と戒められてある。
 この粥を衆僧に施食した始めは、世尊がまだ舎衛国に在して修行中に、お弟子の難陀の母が、闍梨たちが常に一食であるを憐んで、多水少米の粥を作って、世尊にお願いしてこれを比丘に供した。そこで世尊も粥の十利をお説きなされて行持の僧の栄養のたすけとされたので、食前密語の戒を定め、五観三匙などと食の礼讃を教えられたものである。
 僧家が粥を祝と称するものも、こうした心身修養について円明ならんことをひたすらにねがう意である。古の古仏は後世ようやく法の衰えた頃にも、百丈大智禅師の如き不作不食といって、一日耕さねば一日食わずと、老軈をもって日々耕作に労された。それでお弟子連が心配して農具の鋤鍬(すきくわ)をかくして禅師をいたわったが、却って禅師は耕さねばその日の食を廃されたのであった。この禅師が禅門の宗律を(はじ)められて百丈清規と称し、永久に叢林の典範とされている。また趙州の絶煙も、芙蓉の米湯も、永平の裸腹も、みな行持のために食を貴ばれたのであった。
 で、禅家に臘八粥と称して十二月八日に五味の粥を製することがある。これを温糟粥といって、昆布、串柿、大豆、粉薬などを混じた粥を食うのである。これは釈尊成道の日を祝する意である。
 また粥に、味噌雑炊、葱雑炊などの菜味を混じたものがあるので、ただの粥を白粥という。白米から仕立て炊くのが普通であるけれど、また一旦飯に炊いたのを、湯に入れて炊く、これを入れお粥といって、味は二番である。
 しかし、世俗お粥は病人の食うもののようにされているが、病人で胃腸病などの人には、かえって粥の粘糊性が消化をにぶく(、、、)する傾きがある。で、健康の人や過激な競争でもする場合には、この粥を食っておくと、身体を軽快に働かせる。相撲取が本場所に出る頃は、皆この粥食で栄養を補っている。交通の不便な時代の人力車夫などもこの朝粥を食ったもので、運動の足らぬ今の坊さんたちが、比較的肥満して血色の良いのも、まずお粥のお蔭であろうとおもう。



最終更新日 2005年11月28日 01時29分36秒

林春隆『野菜百珍』「六九 注酢酒の話」

六九 注酢酒の話
 どんな料理でも旨く食べさすには、
この()け酒、()け酢の塩梅一つである。昔塩と梅とで調味
した時代の人々の味覚と、洋の東西、国の南北、そのいずれを問わず、種々雑多の混食に馴らされた近代の人たちには、もっとも刺戟のある食物でなければ、阿房(あほう)になるかも知れぬ。
 そこで、この注酒の造りかたを簡単に述べることとする。
 煎酒 いり酒は、酒一合、味淋三合、鰹節二十匁、梅干三個、これを中火にて半時間ぼかり煮て冷す。また味淋(みりん)を除くもよし。
 煉り酒 ねり酒は、鶏卵二個分の蛋白を取り、これにザラメ砂糖一斤、酒一升を加え、陶製鍋で中火にかけて煉り合す。
 生姜酒 しょうが酒は、生姜をすり(おろ)し、味噌を少し入れ、鍋に塗りつけて焼き、酒を入れる。
 二杯酢 酢九杯に、醤油一杯の割でよし。
 三杯酢 煮切味淋、または酒でも、一杯に、酢二杯、醤油一杯を加える。
 合せ酢 酢に少量の塩を交ぜ、味淋一合を六勺ほどに煮つめたるを加う。
 甘酢 煮切味淋七分、酢三分の割、醤油少し加う。
 蓼酢 たで酢は、葉を細く刻み水気を絞って炮烙に入れ、火に(あふ)り塩をふりかけよく揉みて、酢を添えて出す。
 青酢 ほうれん草、また小松菜の葉を細かに刻み、摺鉢でよくすり潰し、水を加えて毛篩(けふるい)にて湯に漉し入れ、強火にかけて沸騰に先だち、布を敷いた笊にあけて、冷めるを待ち固くしぼり、すり鉢に戻し、煮切味淋と酢を加減して、すり混ぜて裏漉しにかけて用う。
 山葵酢 煮切味淋一杯、酢一杯、食塩少々を加え、これに山葵をすりおろし加える。
 土佐酢 淡口醤油少々、煮切味淋少々、鰹節少々、これに酢ウ加減して煮冷ましたもの。
 木の芽酢 木の芽の葉をすり酢と砂糖少々加え、焼塩にて加減すること。
 乙姫酢 黄身酢に梅肉を少しまだらに混ぜ合したもの。
 黄身酢 玉子五個の黄身に、酢五勺、砂糖大匙一杯、片栗粉小匙一杯、味の素大匙一杯を加え、湯煎にかけて、どろりとまま子にならぬよう煮あげて冷ます。
 万年酢 酢一合、味淋一合、薄口醤油一合、松魚節少々加え、煮冷まして用う。
 このほか、果物酢、胡麻酢、けし酢等。
 煎醤油 いり醤油は、せと引鍋に胡麻の油を引き、よく焼けたる時、土佐醤油を入れて煮冷ます。
 土佐醤油 濃口醤油一合、味淋一勺、酒一勺、松魚節十匁を入れて煮冷まして用う。
 このほか、胡麻、山葵、生姜醤油など常の如し。



最終更新日 2005年11月28日 23時29分34秒

林春隆『野菜百珍』「七〇 香物の話」1

七〇 香物の話
 おこうこばりばり、お茶漬かさかさ、とその味覚と歯触りのよい(こう)(もの)は、とても百珍格外の珍で、いくら飽くほどの御馳走でも、最後の一箸にこの香の物がないと、何だか間の抜けたようにまで習慣づけられた食品である。
 俗に世帯持の上手(じようず)下手(へた)と、女房のよしあしは、この香の物の味にからまる諺もある。糟糠(そうこう)の妻は堂を下らずなどと、糠ばかり食った貞操の婦人は昔のシナにあったが、日本の御婦人はそんな(けち)なことはなさらぬ。お宅のお香の物は美味くございますと褒められて、顔を真赤にするのは何の意味か知らぬが、これは東京地方の風俗であった。
 食道楽の行詰まりが香の物のお茶漬で、昔話にもよくあるが、川柳にも、
   梅干で茶漬が喰て見たうオス
というのがある。これは吉原の遊女が贅沢に飽いて、たまには梅干であっさり茶漬でも掻きこみたいという人間味のある句のうらに、彼女らが梅干の酸いもの好みをするつわり(、、、)でもして、子を(はら)んで見たいという、さすが女性の深刻な告白である。
 香の物といえば漬物一式について話さねばならぬ。漬物のお話は何だか世帯じみて、モダン向きはせぬが、よく萍の官吏生活に馴れた妻君の愚痴に、妾らはお台所に漬物桶を置くようなおちついた暮しをしたことがないと、実によくうがった萍生活の真情である。これをおもうと農家の人々が年々漬越の梅干や香の物で麦飯を食う境涯は、大きな幸福といわねばならぬ。
 さて香の物の名称には区々の説がある。漬干と称して薫物の中へ粗木を薄く()ぎ、三、四分の大きさにして漬浸し、その香気をうつして焚きものとした、それに基いて瓜茄子、大根等を糟糠に漬けて、その香味をうつして茶菓子に用いた。その合せ香に漬けたるより香の物と称し、これは初めて茶の湯の行われた足利時代に起った、いま口取に用いる茶の子(俗に茶うけ)は、これよりうつったものである。
 また一説に味噌を香と称し、味噌漬を香の物といい、上古以来の食用品であると。また香の物は生大根に限るとて、正月軍中の食膳に生大根の輪切り二つを添えた。例の日光責めの強飯にも四、五寸の生大根を斜めに切って添える習いである。畢竟これは香の物を功の者という音便を祝して、無邪気な武士気質から称えたものであろう。沢庵和尚の歌に、
   大かうのものとはきけどぬかみそに打ちつけられてしほしほとなる
とある。で、大根の糠漬はこの禅師の発明のように伝えられるが、これは誤りで、糠漬の法はその以前古くから行われてあったが、たまたま沢庵和尚が品川の東海寺で遷化されたのち、遺言によって墓碑を建てず、丸い石を掩土の上に目印に置けとあった。その石がちょうど漬物の圧石に似ているからついに沢庵漬の名を伝えられ、また前の歌によってその名をなしたものであろう。これも当時の名僧として名高かった禅師の徳化で、この香の物にその名を伝えられたのである。
 概して漬物を香の物というのは香気ある食物の称で、「新猿楽記」に、精進物煮腐(煮くだし)水葱、香疾大根とある。香疾は即ち香の物である。鰻のかば焼きというもこの香疾の意で、形によって蒲焼と称したのは、後世孛義に(なず)んで付会したものと見える。
 まず漬物の名称から話すと、
 浅漬、糟糠漬は普通の漬物として、その他調味の漬物に、
○梅漬、味喀漬、粕漬、麹漬、芥子漬、酢漬、醴漬、納豆漬、印籠漬、亀甲漬、百一漬、白漬、赤漬、千枚漬、あちゃら漬、福神漬、菊桜蘭花の塩漬等に大別が出来る
○それを細別すると、
 蕃椒の日光漬、胡瓜の新漬、茄子の味噌漬、瓜の達磨漬、辣韮の白赤漬、かぶらの辛味漬、すぐき、百味加薬漬
○粕漬としては奈良漬を主として、
 山葵、大根、刀豆、独活、梅干、渋柿、梨、西瓜、土筆、胡瓜その他
○味噌漬には、
 大根、生姜、牛房、冬瓜、南瓜、糸瓜、刀豆、菊の花、ささげ豆、山椒の実、人参、独活、冬蕗、昆布、若布の芽、蓼の花その他木の芽、野菜の芽
○麹漬の類には、
 醍醐漬、茄子漬、蕃椒漬、紫蘇麹漬、三五八漬、べったら漬その他
○芥子漬には、
 茄子、松茸、初夢漬など
○酢漬には、
 玉葱、筍、茄子の万年漬、辣韮、蕪菁、無花果、守口大根、山葵
○溜り漬には、
 山椒の実、元日漬、紫漬、瓜大根の切干
○梅酢漬には、
 梅干、紫蘇、丁子茄子、蓮根、はじかみ生姜、大根、かぶら、瓜の類、ちょろぎ
 このほか料理としての漬物は種々雑多にあるが、ここには食後お茶漬の香の物、即ち普通の漬物とそのほか二、三の珍味を掲げることとする。
 さて。沢庵の漬け方も昔と今は、いささか異なるところもあろう。貝原氏の畑歳時記」にも当時の漬け方を種々載せられ、大根千本、細粃一石、麹三斗、塩二斗五升などあって、それに重石のことも書いてないから久しい貯蔵にならぬ漬け方で、また大根千本塩三升を入れおしをかけ置くなどと浅漬のこともあるが、それらは今日の塩味なりまた大根の性質も大いに変化している。で、その辺は大いに加減せねばならぬ。俗に「春三夏六秋一無冬」ということを性欲の何かに取り違っているが、これは昔の人が魚類の塩加減をいったもので、秋鯖の一塩などと交通不便の時代に、それぞれ運搬の日数を考えて塩加減をしたものである。で、沢庵その他漬物の塩加減も、こうした経験をもって考慮せねば、後日の美味を求めることが難かしいのである。沢庵漬に糠塩の割合を、十二月を元とすれば、塩三升に糠九升と、それを基準に塩の加減次第で糠も増減するのである。
 糠味嗜桶に手を入れることを厭うて、ゴムの手袋で掻きまわすような女房さんでは、顔を真赤にするほどの旨い香の物は出来そうにもない。俗にいう秋茄子で、棚に置くとも、糟につけないほうがよいかも知れぬ。
 沢庵漬の糟糠桶から、宿をかえて粥に麹を入れ交ぜたものに、沢庵漬をつけかえるを菩薩漬と称する。菩薩は飯米の尊称である。これはべったら漬に似かようものである。
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 沢庵漬は何といっても東京に限るようである。宮重大根をもって名のある名古屋でも、この美味ある大根を旨く沢庵漬に用いることが出来ぬ。僅かに守口(もりくち)大根の粕漬ぐらいでお茶を濁している。菜漬でお客を呼ぶ京のぶぶ(、、)漬屋でも、京菜の漬味を広島に奪られ、庇を貸して母家を取られながら、本来の京菜を広島菜などといっている気楽な京の人は、美味い大根の産地でありながら、千枚漬の蕪で事足れりとの満足顔。その癖、大根を蕪と見せて千枚漬の走りものを駅頭で売る、羊頭ならぬ優しい京の人も油断がならぬ。
 で、大根の本場で昔の子供唄にまで唄われた「大根積んだらどこへ行く」と、ついにその天満の宮前大根も郊外の守ロへ、その守口の名が江州へ、それから名古屋で名物呼ばわりをされる。こうした時代の変遷から名産にも足が生えて、調理の上手な人の手に移されて行くのである。
 京阪の人が伊勢沢庵や桃山大根に舌の満足をしているうちは、宇治の銘茶もまだ不幸にして伯楽に会うことが出来ぬ。香の物漬物研究会は、料理の講習よりも、食膳についての先決問題である。傾城買いの糠味噌汁というが、あるだけの伊達(だて)をつくした紙衣の姿の伊左はんは、食道楽にもこの辺の消息は解していたろう。
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最終更新日 2005年11月29日 17時18分24秒

林春隆『野菜百珍』「七〇 香物の話」2

 おもえば、朝粥の京洛にも、ぶぶ(、、)漬の大阪にも、こうした香の物の旨いのが乏しいのでは、新香のお代りもちょっと出にくい。
「紫の糟漬軒の月すごく」の付句に「いざ哀なき町中の鹿」とあるのは、奈良の奈良漬をよんだものである。酒の名所にふさわしいこの糟漬が、今も奈良漬の名を世界に伝えている。それを浪花漬などと変称して大阪で売る商人の気が知れぬ。京にも大阪にも、この奈良漬をもって名のある製造家はかなり多い。こればかりはただ酒臭い東京の粕漬に対しても、大いに気を吐くことが出来得るのである。
 しかし、茶漬の相手としての香の物は、この奈良漬の味をもってすることは、茶の味を無視した食い方である。やはり浅漬の一味か、ことに茄子、胡瓜、越瓜の淡い塩味を持ったものか、コジコリと音のする歯切れのよい沢庵でなくば、ひね沢庵の田舎臭いやつにいい知れぬ一種の香味がある。
 辛子漬や福神漬やの邪道食味で味覚を胡麻化す茶漬党は、例の蒜や唐辛子や蝦の汁で漬けた、見てもおくびの出る朝鮮漬を、顔をしかめながら食う類の食通である。といって、これらの特色のあるいろいろの漬物をケナスのではない。ただ茶漬の菜として選択するものの上乗味を云為するにおいて、この沢庵万能主義を高調したいとおもうのである。
 朝鮮漬でおもい出したが、先年物故された住吉の貞本医学博士から、著者に故郷の自家で作られた朝鮮沢庵を送られたことがある。これは加藤清正が持ち帰って領地の肥後国に伝えたもので、ちょっと異味であるがこれもひね沢庵に似たものであった。
 また味噌漬は、田舎の農家で自製味喀に漬けたものにすこぶる美味なのがある。味噌は上古の頃にも食用されたもので、その史実には天長年間に奈良の元興寺の護命僧正が製されたことがある。で、味噌はもと寺院で製して朝廷や民家に送ったもので、味噌の話はその条でするが、こうした古い歴史のある味噌を香と称して、野菜物を漬けたのが初めで、手前味噌という詞も出来たのである。また、よく味が悪くなった沢庵を味噌漬にするが、安ものの味嗜漬は大抵これである。ほんとの京味噌に漬けたものはまだ味喀味が脱けぬが、田舎で数年ねかした味噌で漬けたのは、味噌の味噌臭からぬ上味噌の好味があって、糠漬沢庵に拮抗すべき漬物である。
 これらを茶漬の菜とすべきもので、その他たくさん書き上げた漬物に属するものは、ただ加薬料に近いものである。しかし、京阪では茎やと称して、別に刻み茎、小蕪菜や、からし菜、水菜などの一夜漬を売る。東京の漬物屋をこちらで茎屋と呼ぶくらいだから、菜茎を食用にするのもこちらの方が多いのであろう。
 この菜漬も、お茶漬の菜としては夏季に持って来いの淡味がある。
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 さて、お漬物の美味なところを四季に別って書いて見よう。
 春の漬物は暮につけた甘塩の新沢庵、それに切干大根の元日漬。これは中細大根の皮を剥いて細く四ッ割りに庖丁を入れたのを、葉付きのまま軒に半月ばかり乾し、十二月の中頃、まだ乾切れず生身のあるのを、一分ぐらいの乱切りにして、上の濃口醤油にひたひたに漬けておく。水気や砂糖気を入れては不可、ほんの生醤油を注ぎ加えてたっぷりと漬けておくのてある。それを元日に出して食べ頃となるからの名で、こりこりとして大根の甘味もあれば、すこぶるビタミン性も含まれて、食欲を進めるに妙である。
 その外、千枚漬、広島菜、東京沢庵、べったら漬などの練馬大根の味を上方へ搬ぶに頃合の季節である。また正月のあちゃら漬も、時の色彩である。
 夏は新香の塩の利き頃の沢庵、ことに伊勢沢庵でも旨いのになると、渇いた(のと)をお茶漬でさらさらと(うるお)すことが何よりである。また辣韮(らつきよう)漬、生姜(しようが)漬その他の辛味も、食欲をすすめるによい。それから秋へかけては、茄子(なす)、越瓜、胡瓜、夏大根のどぶ漬など、下卑ているが、長茄子の瑠璃色が滴るようなのをぷつりと歯切れして食うなどは、自然の食味の天恵である。
 冬はあまりお茶漬も下さらないから、雑炊やお粥の菜には、奈良漬、味噌漬、舐め味喀の類で、香の物も霜枯れである。
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 古い漬物の製法に、(そま)漬というのがある。これは紀州、泉州辺の山樵が諸国に出稼ぎする糧に製するもので、自ら杣漬と称している。(ゆず)、瓜、茄子、大根、栗などの味噌漬にしたので、その味の(から)さに堪えないほどである。その製法はまず味噌を()いて、そのなれた頃に擂木(すりこぎ)で穿き穴をこしらえ、その穴へ餅粟を(しら)げたままつめ込み、三年ばかりして出すと、粟粘りと味囀の液りが
混じて、一塊の沢庵漬の如き香の物となるのである。
 次に、著者の常にやる木の芽などの味噌漬の仕方を話そう。
 菊の花、(ちさ)(とう)(ふき)のとう、独活(うど)の芽、筍のあまかわ、土筆(つくし)、たらの木の芽など。その他草の芽、花の(つぼみ)などを味噌漬にするには、まず白味噌なり、三河味噌、仙台味嗜その他何味嗜でも、その漬物の種類に合う味喀を、大鉢なり木箱なりに味噌を一面に布き、その上に美濃紙(または寒冷紗)を一枚敷き、その上に漬ける材料を一列べに置き、美濃紙を一枚上に置き、材料を挟んでまた味噌を厚めに詰め込み、またその上に紙をあて、材料を列べ、紙を挟み、味噌を詰め、これを幾重にもして一夜置き、翌日出して用ゆ。これは材料に味噌が付かずそのまま香気を含めて材料の形も損ぜぬのである。普通料理屋で焼魚などに添えて出すものは、この仕方で漬けたものである。味よりもその取合せと形を賞するまでである。
 宮中にて奉る日供の御香のものは、牛蒡と胡蘿を細く切って糠味噌に漬けたものである。それに西洋かぶれのした人たちは、糠味噌は菌の発生したもので、最も不潔の食品として排斥するが、糟糠の食養に有効であることは古来から認められ、何がなくても沢庵漬が一片でもなくては、三度の食事に欠けたような気がする。禅宗の雲水たちはほとんどこの沢庵漬を三度の常食として、修業中は栄養を保っているのである。歌に、
   つとめよや瓜も茄子もなたまめも、みなかうかうの種となるなり
        *               *               *
 百一漬 秋茄子を塩圧しして貯えおぎ、春早々口を開け、沢庵漬の大根の間へ挟みて漬けこむのである。これには茄子から塩が出るから、沢庵を漬ける時一樽につき塩五合ばかり減じておくがよい。大根の風味も加減よくなり、茄子には大根の甘味が移って至って美味となる。
 浅漬 およそ大根五十本につぎ麹一升、塩一升の割でつけこむとよろしい。
 どぶ漬 の糠味噌を作るには糠一斗に塩五升の割で、まず塩五升を五升の水で煮立たせ、これを冷却した後、糠を桶にふるいこみ、右の塩を加えて練り合せ、仕込んだ後毎日手を入れて攪拌し、数日の後よく熟れた時古い糠味囀を一握りほど入力ると早く熟れて糠の臭気をけすから、何時でも漬けこみが出来るのである。
 醍醐漬 麹一枚に味淋三合を加え、そのまま二、三日ねかしおぎ、これに干瓜、塩圧茄子、干大根など刻み込み、紫蘇の実、生姜、蕃椒(とうからし)など少しばかり加え、上より塩を少し撒いて漬け込み、時を経て食するのである。醍醐味(だいごみ)というのがこれである。
 三五八漬  は会津若松の名物である。塩三合、麹五合、糯米八合の割で、初め糯を蒸して、多い時は筵に、少い時は鉢などに移し、少しく熱気を抜いた後、塩と麹とを揉みながらよく交ぜ冷えたる時、瓶の中に入れ、よくおしつけ、これに季節のものを漬けこむのである。
 百漬茄子  黒米一升を蒸し、これに麹一升、塩七合の割に加え、茄子百個を漬けこみ、おもしをかけおく。一年を保ち得る。
 南蛮漬 醤油一升、酢三升、酒五升、塩一升、以上煎じてよく冷まして漬ける。これは魚類にも用いるのである。
 その他種々あるも、あまりくだくだしく、省くこととした。それで、漬物は各地方によってその産物なり、また習慣を異にして、おもいおもい出色のあるものである。



最終更新日 2005年11月29日 17時58分17秒

林春隆『野菜百珍』「七一 嫁菜の話」

七一 嫁菜の話
 よめなは、■児腸(、、、)と書ぎ、和名よめがわきという。野に多く生じ、夏茎を出すこと一、二尺、梢に淡紫色の花を開く。葉に刻みあるを男よめなという。春の嫩苗を食するので、浸しもの、秤えもの、汁の実、上品でことに味もよい。句に「姑もさそはれ出るよめなかな」と、この菜を灰汁で湯をして水に冷し、それを独活の桂剥き(しばらく塩水に浸けたもの)で簣巻にして、酢仕立てにして出す。これを嫁菜鳴戸というのである。
 嫁菜は茹でる時に食塩を少し入れると、色がよく上る。また若布(わかめ)の細刻みと、切干大根の細く切ったのを前日に甘酢に浸けおき、用いる時の二時間ばかり前に、硬ければさっと湯をした嫁菜を二分ぐらいに切って、これに混ぜて出す。これを嫁菜のハリハリ漬という。



最終更新日 2005年11月29日 20時59分04秒

林春隆『野菜百珍』「七二 艾の話」

七二 艾の話
 よもぎは、山野に自生して高さ四、五尺にも及ぶ。葉は分れて五尖をなし、面は深緑にして背に白き毛がある。この毛を採って艾または印肉の原料に製する。春三月頃の嫩芽(わかめ)を採って餅に和して、よもぎ餅と称する。またこれを和えもの、浸しものとして食する。
 世俗にも麻の中の(よもぎ)といって、麻の中に生ずる蓬は(たす)けずして(なお)しと筍子の語にある。蓬門蓬頭などと埒もなく蔓延するよもぎも、麻の中に交わる如く、下劣の人も善人に交わると自然に善行の人となるという譬えにせられたのである。北条時頼の歌に「世の中の麻は跡なく成るもうし心の中の蓬のみして」と、また俊成も「なをしとて麻のよもみぎ何にならず、みだれてもあれ野辺のかるかや」ともある。この艾の嫩芽は上巳(じようし)の優しい草餅にもなるが、長じて繁茂すると蓬々として「かたげたる野太刀の先の艾哉」とむくつけきものとされるも、その嫩芽のころは「ふり袖の頃の匂はよもぎ哉」と好忠の歌にも「あら小田のこぞの古根のふるよもぎ今は春べとひこばへにけり」とある。この字の異名を、冰台、黄草、医草、白蒿といい、また千年艾、くさよもぎ、かわらよもぎ、白艾、角蒿等の種類がある。
 三月上巳の雛祭に、よもぎで作った菱の餅を供えるのと、五月端午にも蓬餅を製することは、古き異邦の風習をつたえて、わが国でも古くより行われて来た。三月の菱の餅は菜の花の形に(なぞら)えたもので、夫婦和合の象微を示したものである。婚姻の宴に蝶形を用いるのと同様、菜の花をもってこの媒介虫の意を表したので、古人が周到な趣味をおもわねばならぬ。また四月の八日に釈尊の降誕会を行い、花御堂に甘茶の供養をする時。俗にはなくそ(、、、、)と称してよもぎあられ(、、、、、、)を供え
る。これも花供養というのを約転して、鼻くそと訛ったのであろう。「渥槃鼻屎や済度方便一攫み」。例の一茶も「子ありてや蓬の門の蓬餅」の句がある。
 江州の伊吹山は艾の産地で、伊吹もぐさの名がある。灸の点数に一壮二壮というのは、人を壮んにする故で、またこの草は生でも乾しても薬用とされて、万病に効がある。
 この草を摘むに、昔は二月三日と五月五日に取るを上とすといい伝える。もぐさはもえぐさ(、、、、)の略である。「かくとだにえやは伊吹のさしもぐさ、さしもしらじなもゆるおもひを」これは百人一首の実方の歌である。



最終更新日 2005年11月29日 21時31分15秒

林春隆『野菜百珍』「七三 大根の話」

七三 大根の話
 だいこんは、古名をおおねと称し、(つづ)めてだいこと呼ぶ。正月に鏡草と称し、七草ではすずしろと名づけられる。莱箙、蘆箙、蘿箙、温菘、土酥、土酥汁など称し、くっきり白いなめらかな肌をあらわに出してお台所で働くこの大根の女房振りは、野菜第一番の立女形である。
 大根の播種は時を択ばず、時なし、二十日(はつか)などもあるが、漬物用とするには八、九月頃より十月までに種を下し、百日ぐらいで成育する。それを翌一月より三月頃までに収穫するのである。
 昔、京阪では農家から市中の屎尿を汲取りに来た、その代償として餅米一人当り幾許(いくら)と定め、また冬の師走に漬大根も山の如く積んでくれる。また年越しの日には豆殻を持って来る。そうしてお正月の餅から、年中の漬物、節分の年まで取らしてくれる。農家の親切はこうして廃物利用をしてくれた。天満与力の大塩平八郎が百姓に左袒した義憤も、至極もっともな話である。江戸のあぶれ者弥次喜多の二人が立小便をして菜っ葉を貰うなどと悪口をいった時節は、こうした屎垂れにまで所得があったものである。
 つまり物々交換が久しく行われた都会も、今ではかえって賃金を仕払って跡かたづけを頼むというような、尻癖の悪い世の中となった。伝票一枚も書かずに、大根の還元法は野から里へ、里から野へと凝滞なく循環されたのであった。
 と、いって今さら垂れずにおくわけにもゆかず。まして食わずにいては(ひも)じくなる。で、やツぱり大根の話をすることにする。
 秋大根は、晩秋から同期に採収するもの、根が太くまた美味。
 練馬大根は、「八犬伝」で名高い武蔵の練馬村の産、早生と晩生がある。長大で、東京沢庵とべったら漬で珍重されるもの。練馬の早生を丸尻またはつまり(、、、)と称して煮物に適する。晩生は尻細または尾長と称して、苦味があるから主として漬物にされる。
 宮重大根は、尾州の宮重村の産、尾張大根または青首などと称する。甘味に富み、煮食、漬物、千切の何でもこいの代物である。
 方領大根は、愛知の甚月寺村方領の特産、肉の緊った甘味のある佳品である。
 聖護院大根は、京都聖護院村の産、肉の軟らかい甘味の多い、肌の美しい京女の権化である。煮て食うがよし。これに似た小形の早生を鞍馬大根という。
 桜島大根は、鹿児島桜島の産、兵児の根拠だけに、根茎の巨大なのは大根中の王である。その大なるは驚くなかれ一個六、七貫目に達するものは珍しくもない。これも煮食に用いる。
 守口大根は、河内の守口で産したものが、今では相州の秦野、岐阜の島村、それでその名も岐阜では秦野大根、大阪では細根大根、京都で長根大根、尾張で守口大根といっている。直径五、六分、長さ三尺にも達し、辛味と苦味がある。丸乾(美濃干し)また粕漬として名古屋の名物である。
 島大根は、岐阜島村の産、宮重に似て早生のもの、浅漬用とする。美濃の早生大根一名秋九日大根というのはこの種である。
 春大根は、晩秋に蒔き冬を越して、春季大根の欠乏する時の補いに採収するもの。
 二年子大根は、東京市外尾久(おぐ)辺の特産である。この辺今は新開地となったが、この大根は越年して三月頃に採収するので、三月大根、青大根、また尾久大根と称し、煮食、糠漬にもする。名古屋の春福大根はこれに似たものである。
 亀戸大根は、東京市外亀戸に産し、俗におたふく大根の名がある。
 このほか、夏大根に本江戸大根(広島三篠産)、時無し大根、細根大根、二十日大根等がある。大根は素人の坪庭でも育ち、連作に害なく、却って連作すると質がよくなる。また大根の前作はまず春大根なれば、萵苣(ちさ)(ねぎ)、小蕪等。夏大根なれば、早生人参、菜類。秋冬なれば玉葱、紫蘇、菜豆、枝豆その他瓜類。次に後作には、春大根なら萵苣、菜豆、甘藍、茄子、里芋、瓜の類。夏大根の後作には、人参、かぶら、ちさ、菠薐草(ほうれんそう)。秋冬大根の後作には、玉葱、京菜、甘藍等がよい。いずれも耕作に手間のいらぬもので、空地を利用して栽培することができるのである。この重要なる大根は、現今わが国でも、全国を通じて五億八千余万貫を産出するのである。
 宮中の御式に歳端餅の上に置く大根を姻かかみ草」と称えられる。歌に、
   さぎ草の中にも早きかかみ草やがてみつきに供へつる哉
とある。
 歌詞に大根の葉を羽衣という。また「徒然草」第六十八段に大根が化身した条がある。
  筑紫に某の押領使などいふ様なる者ありけるが、土大根を、ようつにいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼ぎて食ひけること年久しくなりぬ。ある時、館の中に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて囲み攻めけるに、館の中に兵二人出で来りて、命も惜しまで戦ひて、皆追ひ返してけり。いと不思議に覚えて「日頃ここにものし給ふとも見えぬ人々の戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ「年頃たのみて、朝な夕なめしつる土大根に候」といひて失せにけり。深く信をいたしぬればかかる徳もありけるにこそ。
とある。
 焼大根は薬餌になるとてよくすることである。もっとも冬大根に限る。芭蕉の句に「口上に書落しけり土大根」とある。
 また「淀川両岸一覧」に、
  守口駅京阪官道の第一繁華の地なり。此地の名物に守口醜と号す長菜箙の糠漬あり、此長菜箙生なる時は宮前菜箙と号し、往昔大阪天満天神の宮前未だ田圃たりし時作り出せしを以て名あり、然るに大阪繁栄の地となり、後ち長柄の辺に作りしも尚旧名を用ゐて宮前菜箙と称せり
とある。昔の子守唄に「寝ンねころいち天満の市場、大根積んだらどこへ行く云々』と。この地の産出たるを証するに足るであろう。
        *                *                *
 さて調理は、
 鍋田楽 大根の皮を剥き、四つ割りにした上、乱切りにして茹でぬき、胡麻味喀を煮返し、その中へ右の大根を入れ、そっとかきまぜて、粉唐辛子をかけて出す。
 信田大根 算木(さんぎ)形に切った大根を二枚に剥がした油揚で包み、干瓢で結び、からからに煮上げる。
 切り漬 葉と共に短冊に切り、塩揉みして、ごま醤油を注ける。
 黄昏大根  おろし大根の汁気を絞り、関東醤油を合せ、橙の汁を絞り入れて、よく混ぜる。
 白髪大根、白浪大根 皆ケソに用ゆ。
 風呂吹 常の如くする。多数の時は水煮するか、厚目輪切りにして蒸す方が味よし。またソップ蒸しなどもよし。かけ味噌は、柚、生姜、胡麻など、唐辛子もよし。
 紅葉おろし  大根をおろして水で晒し、小さく摘みあげ、その上へ細かくした鷹の爪をふりかける。
 揚大根 油揚と大根を別々に煮て盛り合すのである。共煮にすると味ひつこくて不味(まず)くなる。
 磯辺煮 大根の皮を剥き、三分角ぐらいの賽の目に切り、水に浸してアクを脱き、煮たちたる湯に投じ、食塩少しぼかり加え、半時間塩(やき)にして(ざる)に上げ、水気を切り、皿に盛り、乾海苔を(あふ)り揉みてかける。
 揚出し 小角に切りごまの油であげる、生姜醤油。
 都の錦 大根を三寸ぼかり輪切りにし、上皮を去り、桂剥きにして板に押し延ばし、これに小麦粉をふり、蕃椒の繊と、湯葉のせんとを散らし、さらに小麦粉を振りかけて、その上に陳皮のせんを散らし、葛粉をふりかけ小口より巻きしめ、上に葛粉を塗り五分ずつに切り、胡麻油で揚げる。皿に盛り醤油を注け、おろし大根をおく。
 雪汁 おろし大根の汁。
 巻大根 皮を剥き一寸ほどに切り、うすく丸く剥きて、うず巻にまきこみ、合せ目はとぎ葛で止め、うま煮にして用ゆ。
 みぞれ煮 大根おろしをたくさんおろし、その中へ二、三分ぐらいの短冊に切った大根を入れ、油揚と煮出汁で味をつけ、冷めぬうちに食うのである。
 甘まい 冬大根の太きを二寸ばかりに切り、炭火で酒煮にし、出す時味をつけ、味噌かけにする。
 和えもの 干大根を薄く切り、湯につけて少し揉み、かたく絞りたるを、辛子、胡麻あえにする。
 そのほか、膾、葛餡かけ、仙波煮など、惣菜向きとして盛んに用いらる。
        *                *                *
 生食には大根に優るものがない
 近来菜食家の中にも生食を試みる人も多いが、季節なら胡瓜(きゆうり)茄子(なす)などもあるが、最も四季を通じて生食するには、この大根とさつま芋である。山林の人は木食も出来るが、市中や田野の仙人は、蕎麦粉(そばこ)や、麦粉のほかに、こうした畑あらしの動物見たいな野菜が必要である。旅順を閉塞されたステツセル将軍が、一本の大根を鉢植にして惜しんだ逸話もある。
 そこで大根の皮も捨ててしまわずに細かく刻んで、油でいため、唐辛子を少し入れ、松魚節(かつおぶし)の粉を入れるとなお美味となる。
 冬の食べものに、大根を(かんな)で薄く切って、醤油と酢と合せたもので煮き、小魚の焼いて細かくしたものを加えて炒りつけ、暖かいうちに供するのである。
 大根は煮るには真土のものがよく、漬けるには砂地のものがさくさくとしてよい。
 薩摩国に、天道大根とて、自然生のものが多くある。細くて小さいというが、まだ見たことはない。
 またこれも見たことのない話だが、鎮州にも大きな大根を生じ、一つの大根を馬が三匹かかって曳くというすばらしいのがある。ただし、この馬の大きさは双眼鏡で見た寸馬であろうかも知れぬ。しかしこの大根を一つ食うに三十人にも余るというのである。もっともこれほどの大根の出来るのを豊年の兆だといい伝えるそうである。
 大根については、おもしろい話もあるが、大抵は省くことにする。長崎の風俗に、年越の日に、紅大根を輪切りにして鬼のテコボシ(手拳)と称し、金柑を鬼の目玉に見立てて料理を調える。また像生花と称して、大根で種々の形を造って婚礼式の床飾りするも、長崎から伝わった風習である。
 ここで大根の効用をのべると限りもないが、火事の場合に煙の中を往来するに、大根を口中に含むとむせる(、、、)ことがない。また人が窒息した時はそのしぼり汁を口中へ(そそ)いでやるとよい。餅が(のど)へつまった時も、酒や焼酎にあてられ(、、、、)た時にも、この大根のしぼり汁がよい。
 衣服に油がついた時も、大根のおろし液を揉みつけ、熱湯で洗えば綺麗に脱けるのである。



最終更新日 2005年11月29日 23時48分50秒

林春隆『野菜百珍』「七四 玉蜀黍の話」

七四 玉蜀黍の話
 とうもろこしは、関西で南蛮きび、関東で唐もろこし、とかく重言を称する関東人が、黍の字を脱して唐唐土といったのはおかしい。
 夏祭りの売物として市に出るもので、「本草綱目」に、とうきびに似て肥えて背低く、苗はすずだまの如/\七月に花咲き、(つと)の上に白い髭を垂れ(いまわが邦のものは多く赤き髯を垂る)、その実は連玉の如きゆえ、たまきびともいう、実を炒りて食す。腹中をととのえ、胃をひらき、根葉を煎じて淋疾によしとする。
 とうきびは、天正の頃渡来したので、最初は生で(あふ)って間食にしたに過ぎなかったが、のち各地山間に栽培して乾粉となし、餅、饅頭または蕎麦切りの如く製して日常の補食とされた。その種類に外国種の多いのは、原産地が阿米利加(アメリカ)であるからで、ことに外国ではこれを澱粉として料理その他工業用とし、またウイスキー及び酒精の醸造用に消費せられるのである。
 近来わが邦でもこれが栽培多額に上り、最近六、七十万石を産するという。その調理は洋食の方によく用いられ、そのほか製菓に応用される。
 この粒の嫩きものをばらばらにして炮烙(ほうろく)でざっと炒り、ころもにまぶして(かや)の油で揚げると、美味しい天ぷらが出来るのである。



最終更新日 2005年12月02日 00時16分53秒

林春隆『野菜百珍』「七五 芥菜の話」

七五 芥菜の話
 たかな(、、、)は異名を春不老と称し、十月上旬に種を下し、十ニ月中に移して、年を越して三月に採収する。霜雪に堪えて成育するから春不老の名がある。また茎が高いからたかな(、、、)と称し、大芥菜というも、古名大葉菜(今も九州地方でいう)というも、その葉の大なるを称するので、これは関西地方で広く栽培される。葉の肉厚く繊維は多いが一種の香味がある、多くは置漬として永く貯蔵し得るものである。



最終更新日 2005年12月02日 06時45分08秒

林春隆『野菜百珍』「七六 蓼の話」

七六 蓼の話
 たで(、、)は、夏季の香辛料として、ことに蓼酢に(はも)の洗い、鮎の塩焼き、魚ちりなどは、とても離れられない相思の恋中である。たで(、、)の名は爛れの意で、口舌に辛きより称したことで、その食用にするものに、水蓼、金糸蓼、陸蓼などある。異種に犬蓼などがあるために真蓼、本蓼の名を呼ぶ。
 世俗に、蓼食う虫もすき、ぶすきという。横井也有の句に「物すきな虫は来てなけ蓼の花」。また一茶の句に「蓼の葉と握つてゆくや酒の銭」とある。
 盛夏の頃となると京大阪の町家では、この蓼の葉を冷水に浸して軒先に出し、行路の人に振舞ったものである。しかし、蓼は多食すると胃を傷る、婦人月水中に食すると淋に変ずるなど、古人の戒めである。また魚類を煮るに蓼の葉を入れるとその毒を消すといい伝える。唐辛子の葉よりも味わいがよい。
 もっとも蓼はその穂を用いるので、穂蓼(ほたで)という。「万葉集」、
   我宿の穂蓼古幹(ふるから)つみはやしみになるまでに君をし待たん
 また蓼は川辺に多く生じ、北山の茸狩に穂蓼を摘む歌もあるから、菌の中毒にも効用のあるものと見える。
   鷺の飛ぶ川辺のほたで紅に夕日淋しき秋の水かな
   みな月の河原に生る青蓼のからしや人にあらぬ心は
 また狂歌に、
   蓼の花食ふ虫ならで時くれば畑すく鋤にたがやされけり
と、蓼は雅趣に富む植物である。



最終更新日 2005年12月02日 23時24分16秒

林春隆『野菜百珍』「七七 蒲公英の話」

七七 蒲公英の話
 たんぽぽは、黄花苗、孛々丁菜、僕公罌、蒲公丁、白鼓丁、金簪草などの異名がある。和名をふじな、つづみぐさという。
   花さへも人やいさめの鼓草苔ふかき世の春をしれとや
 また、
   たゝぽゝや蝶も一さし舞て行
   ふり袖が踏ならしけり鼓ぐさ
 また狂歌に、
   たゝほゝはしたしものとの献立を、見つゝ膾をはやすなり(けり)となど洒落たのがある。『言海』に、たんぽぽの名、古えたなと称したるをたんと称し、ぽぽはその花のほほけて咲きたるさまをいいしなり、とある。
 さて、調理に、
 ひたし物 たんぽぽの硬い軸を去りよく洗い、煮湯に灰汁(あく)を少し加え程よく茹で、清水に落し入れる。三、四度水をかえて半日ばかり水に晒し、のち水気を去り、庖丁を入れてよく絞り、胡
麻芥子などの浸しものとする。
 酢のもの 右の如くしたたんぽぽに、干大根の細切り、土筆など入れて二杯酢にして出す。
 白あえ 前の如くした蒲公英を、白胡麻、豆腐、醤油、砂糖、煮出汁で白和えの地をつくり、前のたんぽぽを細く庖丁して和え混ぜるのである。
 そのほか煮物にしてもよし。
 たんぽぽをすり潰して腫物に塗れば、痛みを去りて治す。
 また食毒を解かし、婦人の乳房の腫れたるにつければ痛みを除くこと妙である。



最終更新日 2005年12月03日 08時04分52秒

林春隆『野菜百珍』「七八 田辛子の話」

七八 田辛子の話
 たがらしは、古名たたらい(、、、、)といい、延喜式にも春菜料に用いさせられた。漢名を石竜菌と称し、俗に突目といいて、眼瞼の腫れるにこの葉を採りてもみただらして、再び()しひろげて、頂の後の風府という穴所へ貼ると、その腫れを治するといい伝える。たたらめ、ふかすみともいうのである。



最終更新日 2005年12月03日 10時03分35秒

林春隆『野菜百珍』「七九 恭菜の話」

七九 恭菜の話
 とうちさは火焔菜と称し、わが邦ではあまり重要野菜とはしないが、欧米諸国では肉食の関係から、サラダとして盛んに用いられている。片を以て箍として竹材の代用とする等、今も深山寒国には竹林少く、従って筍の肥大なるもの稀れである。
「三才図会」に、およそ筍を採るもの早旦に竹林に入って、嫩芽に露の上らぬものを視て掘り取るので、もし露を含みたるものは、後に大竹となるものである。これは常に竹林を守る人のよく知るところである云々。
 まことに竹は親子ともに世益に尽して、また竜孫という名まで伝えられ、親は建築、工芸から、日常品の家具、籠など、上は金殿の玉簾から、下は肥桶の箍となるまで、あるいは花生、茶杓となって高貴の手に愛玩せられ、あるいは簫笛となって佳人の朱唇に接吻され、末はそもじの筆の先などと唱われ、世にうきふしの竹のさまざま。その子は凌霄の気を栴檀(せんだん)の二葉に採られて、鬼一口の賞味にあずかる。
「夫木集」匡衡卿の歌に、
   親のため昔の人はぬきけるを竹の子のため見るは珍らし
 また「古今集」の躬恒卿の歌に、
   今更に何生ひつらん竹の子のうき節しげき世とは知らずや
        *                   *                   *
 さて筍は、笋、竹萌、初篁など書き、本綱の刮腸箆はシナ一流の名詞で、箆の字を用いたのが面白い。その種類は、孟宗(江南竹)、真竹(苦竹)、淡竹の三種を主とし、その他雑竹の筍も食用とする。
 真竹はわが国でも古くより食用にされたが、孟宗竹はわずかに薩摩辺にあっただけで、ようやく明和の頃より珍重し始めたもので、大田南畝の「奴凧」に、
 この菜は四季絶えずに用いるゆえに、不断菜ともいう。赤色と黄色との二種あるが、外皮の濃赤色で、肉は鮮紅色のものが軟らかくて美味である。
 これを煮て食うもよいが、浸しものとして、胡麻醤油で食うのが一番美味であり、また赤い茎と緑の葉が美しく調和して食味を唆るのである。



最終更新日 2005年12月03日 20時41分38秒

林春隆『野菜百珍』「八O 筍の話」

八O 筍の話
 たけのこは、竹林の地下茎より生ずる嫩芽を採って食用とする。わが邦にてこれを食用としたのは、「古事記」に「笋」とある。また「和名類聚鈔」に「音隼」、和名は「太加無奈」とある。
  本綱に筍生じて十六日、母に斎する、故に妬母草といふ、凡そ竹に六十余種あり、其産する所各々同じからず、大抵北土には竹鮮し。秦、蜀、呉、越以南に即ち多くこれあり。竹に雌雄あり但根の上を見るに第一の枝の双生なるものは必ず雌なり、筍あり。竹の根に於て行鞭の時、掘つて嫩なるものを取る、之を鞭筍といふ。冬の月大竹の根の下未だ土を出でざるものを掘る、之を冬筍となって以て珍とする。凡そ筍を食ふこと、薬を治むるが如し、法を得れば人を益し、是れに反する時は則ち損あり。之を採る宜しく風日を避くべし風を見る時は即ち本堅し。水に入るる時は則ち肉硬く、殻を脱して煮る時は則ち味を失ふ。刃を著くれば則ち柔かきを失ふ。之を煮ること久しきを宜とす、生なれば則ち人を損す。味簽きものは人の咽を戟す、まつ灰湯を以て煮て簽を去るべし。ただ苦竹筍を以て最貴しとする。

  わが若かりし頃は孟宗竹至つて少し。大久保外山産屋敷門前腰掛、外繋場といへる石の榜示たちしところの農家に、植ありしを見に行きしことあり、其後麻布六本木植木屋にありしを聞き、初め薩摩より移して吹上の御園に植えられ、其後四つ谷大木戸辺の田安の園に根を分ち給はりしより所々にひろまれりとそ。麻布にて見しは秋月侯の屋敷より出でしなるべし。一とせ秋月侯にて孟宗竹の羹を食ひしに味殊に美なり云々。
 今も目黒に筍飯(たけのこめし)の名物があるのも、こうした伝来で、孟宗竹の賞翫されたのは、嘉永頃から盛んになったのである。その頃より四方竹(博物志に四方笏とある)、大明竹、.寒竹等の園芸的種竹の趣味が流行した。もっともこれは煎茶道が長崎地方より流行し始めたので、共に茶人の嗜好したものである。四方竹は筍を冬の中に生じて、矮小な嫩芽だが美味である。著者も後苑に移植しで試みたことがある。賞観竹としてもその趣が第一にょいようである。
 孟宗竹も一名を雪竹と称し、寒中に笋を生ずる。江南の暖地に生ずるをもうて江南竹の名があって、筍中の第一位に美味を占むるものである。この筍は京都の乙訓(おとくに)郡をもって良産地とされている。孟宗筍だけでも府下の産額三十余万円を算する。概して山城は四周山岳を(めぐ)らし、自ら防風の作用で竹林栽培に恵まれた土地である。竹材の産地としては、大分、千葉、山口、熊本、福岡、三重、兵庫等もあるが、その産額においては京都府下が全国に冠たるもので、その筍の美質においても、秋の松茸と共に天恵の好産地である。実に山の幸の多い洛外ぼかりでない。洛陽の旧都は中世に帝闕を守護するため、洛の内外境目を正すために竹林を設け、それを繁茂さすため伐材を堅く禁ぜられた.、「戴恩記」の中に紹巴が貞徳を誘いたる時、京は御禁制にて笋なきにやいざ寺へ参らむ云々とある。
 筍はお寺の藪につきものの初夏の御馳走である。芭蕉の句に「老僧の筍をかむ涙かな」。また季吟も「笋は皆祖師なれや東玻が画」。一茶も「竹の子も名乗るか唯我独尊」とある。
 ある人が僧に笋を送って、
   新発意と思召れて斎非時に御遣ひあれや竹の子供を
と洒落たのもある。シナでも北人は江南の筍を羨み、簀の子の竹を煮て食うたという滑稽がある。
 黄檗(おうばく)の普茶料理に筍干(じゆんかん)という食単がある.。これを句羹、即ち季旬の羹と誤って伝えることもあるが、これはやはり筍の乾したもので、シナの経山寺(俗に金山寺味喀の名物を出した寺)でも、毎年この筍の季節には、全力を傾けて筍の貯蔵乾に、満山の衆僧が坊主鉢巻で大騒ぎするのである。で、わが国でも筍干はあったと見えて、「親元日記」に寛正六年七月十一日小島向殿(飛騨)筍干一箱進上云々などがある。「嬉遊笑覧」に本草にある酸筍(元目筍)といえるはこれか、筍の皮を剥き煮て乾したるものとある。「料理物語」に、竹の子をよくゆにして色々にきり、あわび、小鳥、かまぼこ、たいらき、玉子ふのやきわらび、さがらめ右の内を入れ、だしたまりにて煮候よし、また竹の子のふしをぬきかまぼこを中へ入煮候て、きり入候も有云々とある。これは今の筍月環である。
 しかし、宮中御式に、旬羹とて時々の羹を臣下に給わることがあるから、旬羹という説もまたあながち捨てるべきものでなかろう。
        *               *                *
 さて調理は、
 筍の茹で方 筍をうでるには、極めて若いものは皮のまま茹で、その他は皮を剥いて、大なるは(たて)二つに庖丁を入れ、十分蔽うほどに水を入れ、米糠少々を入れて柔らかになるまで茹で上げ、直ちに冷水に落して冷ましたる後に用いるのであるρ
 煮しめ  一寸五分ぐらいに竪割りにしたのを、七分ぐらいに切ると扇形になる。それを光沢よく煮上げる。
 田楽 柔らかきところを程よく切り、横串に刺して火の上で焼き、木の芽味噌をつけて葉山椒を置く。
 辛子和 大賽に切りたるを芥子味噌で和える。
 餡かけ 薄味をつけたるに、葛をかけて山葛を置く。
 天ぷら うす味をつけたる筍に、ころもをかけて油であげる。
 揚出し 程よく切りたるを油で素揚げにするか、また油炒りにして、薄醤油、大根おろし添えて出す。
 南蛮揚 生の筍の皮を剥き、小口から輪釖りにしてよく洗い、中味噌汁で半日ほど煮つめて、のち十分乾かして胡麻の油で揚げる。薬味はおろし大根、すり柚子、すり生姜など用ゆ。慈姑(くわい)、蓮根などもこの仕様でするもよし。
 かつら煮 茹でた筍を斜めに小口切り、松露、銀杏など取り合せ、煮汁と共に煮込み、醤油で味をつけ、上りに水溶の葛を引き、焦げつかぬように()きまわして鍋をおろす。椀に盛り、木の芽のうわ置きをして出す。
 糸筍 茹でた筍を小口よりむき、糸の如く切りて、薄醤油、酒しおで味をつけ、このあしらいに青菜の千本切り(千本菜)を小さく切り、筍の煮汁に漬けおき、一寸ほどにそろえ、玉揚げなどに盛り合す。
 伽羅筍 皮を去り短冊に刻み、一日日光に干し、土佐醤油にて煮つめる。
 折筍 ごく小さき筍を四枚に切り、湯煮し(鷹の爪五、六本入れて)少し味淋を加え、甘い加減に煮るのである。
 鳴戸筍 根の堅いところを去り、皮のまま湯煮し、皮を剥きよく水で晒し、竪に庖丁をあてて桂に剥ぎ、味淋、砂糖、醤油にて味をつけおき、豆腐を絞り水気を去り摺鉢でよく擂り、つなぎに片栗粉少々入れ、塩、砂糖にて味をととのえ、それに前の筍ウ板の上にのばし、豆腐のすり身を一面に塗りつけ、小口より巻き、蒸器に入れて二十分間ほど蒸し上げ、取り出して小口切りにする。
 ひごずり 筍を薄く切り、引油でいため、酒と砂糖を適宜に加え、擂りたる味噌を加え、鍋の中でかき混ぜ、しばらく煮て出す。
 月環 茹でたる筍の中をくり抜き、種々のかやくをつめこみ、昆布の煮出汁で十分に煮こみ、うす味をつけて小口切りにする。いこみの材料は、平湯葉に椎茸、独活(うど)、三つ葉などをつめこむか、また魚肉、牛肉などの細切りを卵とじにしていこみ、またケソチソの材料をいこみてもよし、単に蕗のみをつめこみたるもよし。
 くろ和え 柔かき筍を小さく切り、黒胡麻に少し山椒をすり混ぜ、酒でゆるめて和える。
 肉あえ これも前の如く切りたる筍を湯煮し、梅肉または煮梅の肉で和えて出す。肉に白味噌少し加うべし。
 海苔酢みそ  前の如く切りたるを、湯煮し、紫海苔を火取り細かにもみてたくさんに入れ、味噌を少しばかり一緒によく摺りまぜ、酢をほどよく入れて和えて出す。唐辛子をそえるもよし。
 浸し物 筍のがんさきの所にて随分うすく刻み湯煮して、胡麻醤油、山椒醤油などかけて出す。
 末皮 筍の末の白きあま皮ばかりざっと湯煮し、細く刻みて酢と醤油を合し、上よりかけて出す。また、からし酢味噌、山葵酢味噌にてもよし。
 丸焼 筍の太く短く俗にげんのうというのを、皮ともに柴または(わら)で蒸し焼きにし、能よき時分取り出して皮を剥ぎ、湯でよく洗い、好みの切形にして、山椒、胡椒、山葵等の醤油を添えて出すべし。またこの焼筍を味嗜かけ、葛かけにして出すもよし、また蒸し焼きのせつに根の方を切り落し、中をくりぬぎ、その中へ加薬をいこみて、口を大根で栓して前の如く焼きあげたるのち皮を去り、きれいに洗い、輪切りにするもよし。
 つけ焼 頃合に切り串にさして木の芽、山椒醤油のつけ焼きにする。
 いこみ筍 前の月環に同じくいこむに豆腐を絞り摺り合せたる上、人参、椎茸、銀杏、蓮根、その他何なりとも好みに任せて加薬を入れて、薄醤油、酒しおにて煮て、小口切りにする、取肴、組肴等に用いるがよろし。
 吸いもの これは筍のがんさきぼかりを、薄醤油、またみそなどにて青のりまたはこんぶ、若布、太郎梅の類をあしらい、割胡椒、干山椒など吸いくちとして出す。
 味噌煮 よく湯煮したるを、あら味噌を酒でのばして煮き、粉山椒をかけて出す。
 このほか、しの巻、白髪、くるみ味噌焼、木の芽()え、白酢和え、吉野煮、煮合せなど常の如く。また、
 鉄砲焼 筍の皮をそのままに根を切り、内のふしを抜き、酒しお醤油を加えつぎ込み、切口を大根にてふさぎ、藁灰の中へつき込みて蒸し焼きにして、焼き加減を見て取り出し、皮を剥き、よく洗いて切って出す。煮加減また格別の珍味である。
 砂糖漬 なるだけ小さき筍の皮を剥き、よく茹でし後、水一升に灰一合ぐらいをかき交ぜたる汁に一夜浸け置き、翌日取り出して水気を去り、砂糖にて漬けるのである。



最終更新日 2005年12月03日 22時15分31秒

林春隆『野菜百珍』「八一 たらの木の話」

八一 たらの木の話
 たらのぎは惚とも柝とも書して、山野到るところに多く自生する灌木である。幹は直立して枝条なく、大なるは丈余に及ぶものもある、幹に(とけ)多く、故に「鳥止らず」とも称す。春、幹の上部に芽を生ずる(ふき)(とう)の如く、これを採って付焼きにする。浸Lもの、和えものにすると、その味は独活に似て美味である。故に一名「うどもどぎ」また「うどめ」(吩頭)と名つくる所もある。葉が長ずると数条幹の頭に布いて傘の如く、葉は枝を分ち、小葉多く排生する。おうちの葉に似て多く(とげ)がある。夏、葉の間に穂を垂れて小白花を開く。実は小さく円く熟すれば黒し。また木に刺ありて葉大きく刺なし。背に毛あるを雌偬と称し、木中に心あり、欸冬(棣)の心に似て大なり。これを採りて酒中花を製するのである。
 これを食するには、嫩芽の開かざるものそのまま醤油の付焼き(胡椒ふりかけ)。また芽の開きて軟らかきうちに採って、よく爍きて水に(さら)してのち、浸しもの、和えものにするのである。この木は鉄道線路の沿堤などによく生じ、その他深山ならずとも付近の原野にも、よく気をつけると自生のものが多くある。この根は薬種に用い、「たらのね」と称し貴重にさる。



最終更新日 2005年12月03日 23時05分45秒

林春隆『野菜百珍』「八二 橙の話」

八二 橙の話
 だいだいは、和名安倍太知波奈と称し、この果樹、実を結べば七、八年落ちず、代々つづく故、子孫代々などと祝儀に用いらる。回青橙と書く。冬熟すると黄に変じ、春また緑に回りて年々大きくなるのである。その味酸苦くして食うに適せず、皮より橙油を絞りて香料とし、肉はしぼりて酢を製して料理に用う。また砂糖漬となして貯蔵する。
 俗にかぶすという橙は九州辺に産し、一層酸苦きより臭橙の名がある。
 この果実は正月蓬莱(ほうらい)に用い、また門飾の注連縄(しめなわ)につける。洛外の俗習に、正月十五日「お日待ち」と称して徹宵大神宮を祭り、組合の人々が集合して酒食することがある。その夜、各家の子供らは磴とりと称し、一個の橙に数条の籖紐を付けて、各うたって曰く、
  だいだいこつちへ(此方へ)とろとろ(取ろう取ろう)。親に似つかぬ子があらか(あろうな.よつや善兵衛が来るわいな。サアサア引きませう。
といって、めいめい紐を引く。その紐の端に橙の括られたのを引き当てたものが、賭けてある菓子を貰うのである。かくして幾たびも繰り返して夜を更かすのである。
 磴の酢を絞りすてた殻を浴場に入れると、香気を発して、疝気、冷え性の人に効がある。



最終更新日 2005年12月03日 23時29分18秒

林春隆『野菜百珍』「八三 大唐米の話」

八三 大唐米の話
 だいとうまいは、舶来稲の一種で、夏秋の頃に早熟する矮少(わいしよう)の稲である。一名を「とろぼし」、また粒赤きゆえ「あかごめ」ともいう。(うるち)に似て粒小さく、細長く性甚だ淡く、粘り少くして消化し易ければ、多く病人の食用とされるのである。



最終更新日 2005年12月04日 12時06分27秒

林春隆『野菜百珍』「八四 大豆の話」

八四 大豆の話
 だいずは、東洋固有の菽類で、日本、シナ、爪哇(ジヤワ)、東印度地方に盛んに栽培される。わが国でも古来これを米麦についで食用の主要品とされた。「賦役令」に、大豆二斗、「延喜式」に、近江国大豆六十石、丹波国三十石、播磨国二十六石、美作国十石、伊予国十八石を進む等の記録がある。
 大豆は、昔時交通の便今日の如く開けず、僻邑山間の民は魚類の栄養を求めることが自由でなかったので、常にその栄養をこの大豆で補ったから、大豆の利用は最も有効に研究されたのであった。精進を常食とする僧家においても、この大豆の養分をもって厚味のすぐれたものと賞し、「大ず大悲の観世音菩薩」と慈の音をことさらにず()と訓む。米が大菩薩なら、豆にも小菩薩ぐらいの尊称はあっても然るべしである。
 節分の豆などは、人生の第一義である年齢を算するに、この豆をもって数取りとするほど、痴めで、めでたきものとされている。()と豆とは歯車の関係があって、人間の年を重ねることを馬齢を加えるなどというて、馬と人間と一緒くたにされても、まだめでたがっている。それは老年になっても馬の齢のように堅固であろうと、馬にあやかって祝するのである。何といかにも馬鹿馬鹿しい習慣ではないか。
 よく遠望の形容にも、豆人寸馬というほどに、豆と馬と人との繋連がある。
 それほど大豆が蛋白供給の食品として甚だ重要のものであって、俗に馬力というくらいの熱量が非常に多いのである。それで、大豆の用途はというと、まず大豆油、黄粉、豆腐、高野豆腐、納豆、豆乳、湯葉、味噌、醤油から、珈琲の代用にもなれば、間食の炒り豆、豆板その他の駄菓了に用いられる、実にそのまめ(、、)に各多方面に働くことぱ、もってまめ(、、)の名に(そむ)かずというべしである。
 で、その大豆は二種に分って、平豆、丸豆とし、平豆には、雁喰豆、碁石豆、鞍掛豆等。丸豆には、大粒、中粒、小粒の三種に分ち、さらに子粒の色に、黄、白、緑、黒(黒豆)、褐色(茶豆)及び斑色等がある。
 また風流にも豆名月と称して、枝豆(畑豆)がビールのお相手となる。炒った豆をさらに醤油でからからに煮いたのも酒の下物にされる。
 さて大豆の論功行賞はそれぞれその条下で述べることとして、大豆そのままの姿で調理されるものをあげると、
 まず煮豆としては、東京の町々で鴉の啼かぬ日はあっても、煮豆屋の鈴の音のせぬ日はない。それほどに煮豆はお台所の補助食として珍重がられて、朝のお弁当から、夕食の膳に独身者の妻君振りを発揮する。そのほか、豆飯、豆茶、豆粥なども香ばしくて食欲をすすめる。しかし、炒り豆は一番消化が悪いから、多食するといけない。炒り豆と何とやらは始めると止められぬというからナ。
 丸豆の葉も(わか)いうちは浸しものになる。黒豆は甲子に大黒さんへ(ます)で供えて、飯にして食う習慣がある。病気の本復祝いに黒豆の強飯(こわめし)を配るのは、眼の黒いうちという洒落か。その黒豆を牛が食えぽ温め、馬が食うと冷やすといい伝える。「三才図会」に、大豆の生は甘く平、煮れば甚だ寒、炒ると熱、鼓は極めて冷やかとある。またその性水に属し、腎に入りて水を治し、脹を消し、気を下し、風熱を補い、血を活し、毒を解す、塩を入れて常に食すれば、腎を補い、精を強くする、とある。だから、俗に箸豆な人だといわれ、炒り豆に花も咲くのであろう。
 冗談はさておき、曹植という人は兄の魏文帝から、七歩のうちに詩を作れと難題をうけた時、
   煮豆燃豆箕。豆在釜中泣。
   本是同根生。相煮何太急。
と、煮豆屋の広告が即席に出来た、で、川柳に、
   曹植は七歩の足に豆が出来



最終更新日 2005年12月04日 12時38分09秒

林春隆『野菜百珍』「八五 団子の話」

八五 団子の話
 だんごは、わが国でも古くより用いられた季節のもので、春の蓬団子に彼岸だんご、秋の月見団子なども、中華の月餅から移したもので、あちらでは麪粉にて作り、炙きて大中小段々にたたみかさねて、上に五色のかざりを置き、桂の花をさしはさみて月に供したるを、わが国でもこれにならい、団子を積みかさねて月に供するのである。が、団子の起源については古来区々の説が多い。いわゆる団子理窟というもので、 一茶は、
   有やうは我も花より団子哉
と娑婆気でいる。実に有りようは人間も枕団子を供えられて、お迎い団子の御馳走に、瓜の馬に乗って来るようになっては、理窟もへちまもあったものでない。
 さて団子は米の粉を水でこねて、小さく千切って掌でくるくると丸めて、黄粉や小豆餡をつけたもの、あるいは蒸して搗きあげたものを搗き抜き団子といって、その形は月に因んで(きね)の如くもする、俗にしん粉細工、だんご細工と称して、花鳥人物動物植物までも、指先でちょこちょこ出来る子供芸術もある。宇治山へ隠れた喜撰法師も、世辞で丸めて浮気でこねた粋な大内人の果てであった。
 さて坊間に団子を売り始めたのは、粟餅店の曲搗きをした頃、寺の開帳や社の縁日に群集する場所で、飛団子といって、一握りの餅を指の間から四つずつひねり出し、これを六、七尺も隔てた盤中へ投げる、それに豆粉をまぶして客に売るのである。その巧妙な手練を奇として見物は、空中を飛ぶ団子が電光の如きに、驚異の眼を見張ったものである。初めこれを長尾景勝の槍術になぞらえて、景勝団子といったが、豪傑の名を憚って後、ただ飛団子と名づけて、正徳の頃、江戸両国橋東に松屋三左衛門という左官が初めて売り出したので、その後所々で行われ、大阪でも景勝団子と呼んで屋台店を担ぎ回ったことがある。
 また馬琴の「覊旅漫録」に、宇津の山の十団子(とおだんご)のことがある。豆粒ほどの団子を麻糸で十ずつ貫き、五連を一トかけとした。土俗峠の地蔵菩薩の夢想によって製し、小児の万病を治すといい伝えられたのである。
 団子の名物では、東京に言問団子、京都に祗園団子、岡山の吉備団子、その他名物土産に何々団子といったようにたくさんある。が、昔から団子と餅との区別が、その製しようでほとんど分らなくなる。団子といえぽ団子、餅といえば餅で、そこで団子理屈がこねられて、遂にもち(、、)扱いにくくなるのである。
 古書に「糯米にて製したる者を餐といふ、即ち通用のもち。餅は雑穀の粉をこねて蒸擣たるをいふ也。今云ふ団子の類にして麦粉黍稷をもつて製せし也。団子は餌といひて米の粉を以て製するものなり」とある。
        *              *                     *
 だんごについては、ぎごちないほどに諸説が紛々団々とある。で、いくらこねかえしても団子理屈に過ぎないが、これも言わざれば腹ふくるる、とても団子腹では堪らない。古い句に、
   団子をたべて明石の巻を書き
というのがある。紫式部が石山で源氏物語を書いていた時、折からの明月に団子を食べて、明石の月をおもい出した、気の多い女性が風懐を叙べたもので、また「いしいし」という詞にも、こんな説がある。「瓦礫雑考」に、
   いしいしといふは、いしくもといふ詞の転りで美味を褒る言となる也。されば他物をも広くいふべぎ言ならむか。紀伊の人などは、何にまれ宜といふべき処に、必ずおいしといふなり。いしいしとはもと児女子のこと葉なる故、重語丁寧なり。詩経の、蕪々行飛、といへるも、ここにまま(飯)とと(魚)などいふ詞とおなじ程のことなるにや。又美味をいしといふこと、古くも見えたり。
「太平記」土岐頼遠参合御幸致狼藉事の段の狂歌に、
   いしかりし時は夢相に食はれて周済ぼかりぞ皿に残れる。
とある。団子がひとり美味の代名詞のいしいしという株を占めた形である。また粉団は形の円いので名づけたといえぽ、蒲団という字はいかが、四角長形のものに団の字は当らずなどと理窟をいうが、金団という如く団は集と同じ意味であつめる(、、、、)と訓み、まだ木綿の舶来せなかった昔は、盧荻蒲芒の類の穂を集めて臥具を作った。それは永禄以前のことで、東北辺の昔話に、背中に藁の穂がついているを見て、子供がお父さん蒲団を背負っていると言った笑話がある。で、団子も粉を集めたものといえぽ、その形が異なっても、だんごという名に変りはないのである。前にもいったが杵の如き、ちぎり形の如き、捻じ棒の如き、楕円形の串刺しなど、だんごにも種々の形がある。
「開元天宝遺事」に、唐の宮中において端午ごとに粉団角黍を造り云々とある。わが国の菖蒲団子はこれである。「和名抄」に「漢語抄」を引いて、歓喜団は品々の甘き物をもってこれをつくる云々、一名団喜という同じ形の菓子であろう。また団子、円子など書くのもある。お釈迦さんでもお若いうちは、この歓喜団に、性薬をくるめたのを召しあがって、大きなかたまりを后のぽんぽんにこしらえたという話もある。
 また新粳というのも、真に雑もののない米の粉のこねたものの名で、これは理窟ぬきにしてすこぶる真粉の説である。さらに、
「年々随筆」に、
   米の粉を粘つてまるめて蒸したるを世にダンゴといふなる。団子といふ字、唐書に見えて同じさまなるものとみゆれど、音訓にわたれば、これによりたる名にはあらじ。八種の唐菓子といふ中の団喜よりうつれるにやあらむ。今団喜の形をみるに、米の粉に胡麻をまじへ、粘つて丸くしたる物なり、白き黒き相まじりたるが碁に似たれば、団碁といふものなるを、漢音に訓みなして、好字に改めて団喜といふにやあらむ。尺素往来に、碁子麺といふものみえたり、これは伊勢、尾張などにては今も調ずる物にて湯餅に胡麻をいれたり、これらをもておもひよれることなり。さて今の団子には胡麻をいれざれど、そを省けるにて、代をふるままにうつれるなり、此考なほ迂遠なりや云々。
        *                 *                 *
 こうした理窟っぽい団子にも、酒が社交の(なかだ)ちをする如く、団子にも月見の垣越しにたちまち隣好親善を、丸くお取り持ちしてくれるのである。
 また米の粉で製したものに、いただき(、、、、)というのがある。それは決して貰うから頂きというわけでない。小児が五歳の時、正月吉日を選び餅を小児の頭に戴かせて、官位高かれ、命長かれと祝詞をとなえて、三度頭に餅を戴かせる式がある。その餅を草餅で作り、楕円形の木型に葉状や唐草模様を彫刻したものに押して、中に餡を入れて包んだもので、今日でも田舎のお祭りにはこの形の餅をこしらえる風習がある。
 その他、しがらき餅というのも団子の族で、杵で木臼をかちかち叩いて売り歩く、これは糯を蒸し上げて半搗きにしたのを、簀巻きにして小口から糸で切り白砂糖をまぶしたもの。また、みたらし団子俗に御手洗というが、実は蜜垂しの意で、焼団子に砂糖蜜を塗って食うのである。茶団子は宇治の名物、例のカッポレ踊りに、土の団子か米の団子かとすててこを踊ったり、石の地蔵さんに団子供えなどとふざけるのも、団子にあらぬ酒の興である。宇津の山の団子については、弥治さんが阪ですべりころげた歌に、
   降しきる雨やあられの十団子転げて腰をうつの山みち
とある。
 また団子の哀話に老婆が唱う「妾が死んだら誰がなく、家根の(からす)がなくばかり、それも鴉はただなかぬ、枕団子が食いたさに」とお迎い団子と共に、あまり下さらないものである。この盆会の団子を蓮の葉にのせて供することは、北史の芸術伝に李順興という人は常に貧乏で、かつて家で食うべきものもなく、また食器などの備えもないので、いつも付近にある昆明池の荷葉を採って、それに餅食を盛って食った。日本の上古、柏の葉に食物を盛ったのと似ているが、こんなことが風俗となって伝えられたのである。
 余談は餅の条で詳述する。



最終更新日 2005年12月04日 15時59分32秒

林春隆『野菜百珍』「八六  蓮根の話」

八六  蓮根の話
 蓮は、その花房の形が蜂窩(はちのす)に似たるより、約してはちす(、、、)という。また蓮の字は花と実が相連なって出る義で、藕の字は耕すこころで根を称する。泥土をはねかえして生ずるの意である。
 池沼に生ずるものは、春宿根より新葉を出す、これを銭葉といい、次にやや大きく出る葉を水葉という。次に根の節に両対して二つの茎を生ず、その一は葉で立葉という。茎長く水上に出る初めは巻葉と称し、葉開きて円く径尺余に及ぶ、これを荷葉という。
 茎は葉の背の中央について、その中、細孔を通じ折れば糸を()く、これを藕糸という。その一は花茎である。花の形大きく千弁で、その中に黄(しべ)が多い。色は紅白であるが、稀に紫もある。
炎天に開いて甚だ美しく香気を放つ、これを水芙蓉と名つくるのである。
 蕋の中は数穴に実を結ぶ。楕円でその仁は白い。味は淡甘である。シナ人はこの実を談笑の間にも、前歯でくだきながら啖うこと、例の西瓜の実と同様である。これを葯という。根は長く延びて節をなし、中に数細孔を通ずる、これを蓮根と称して蔬菜の主要食に充てらるるのである。
 この蓮根を食用にすることは、最も古くから行われた。仁明天皇の承和五年六月の記に、京中に水田を営むことを禁じ、元来卑湿の地に水葱、芹、蓮の類を植えることを(ゆる)されたこともあり。
「延喜式」にも、「躬恒集」にも、「和名抄」にも、蓮の根のことが載せられてあるから、わが国でも最も古くよりこれを食用に供せられたのである。
 それで、紅花の蓮根は俗になみはす(、、、、)と称して、肥大であるが粘りが少い。白花の根は通常もちはす(、、、、)と称して、矮小であるが粘りが多くて、しかも美味である。
 蓮根は関東地方で栽培されるものが味もよく品質も優れている。ついで名古屋方面、京の洛外など池沼に生ずるもの、九州地方では肥大なものを産するが味はやや劣る。それが唐僧隠元禅師が将来した天茄の根か、天竺蓮というものの種類であろう。また近年舶来した南京蓮は、品質もよく味も優れている。蓮根を澱粉として貯蔵する、これを藕粉と称して、シナ食料店で販売している。
 蓮の伝説は、詩に風露郎とも、歌にはちす花ともいい、また泥中の蓮とて「不レ染二世間法→如二蓮花在レ水こと法華経から索いて、それが仏教の因縁を説く話題となった。遍昭僧正の歌に「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」と。このあざむくは露を愛するこころである。仏説に蓮台に坐すというのは、蓮の葉は胞衣の形をしているから、人間の生が胞衣を離れて、この世に生活して、それが死んで元の胞衣に帰るという道理から説いた象徴である。この還元はいつまでもつづく。あたかも蓮の糸の如くであると付け加えたのであろうが、そんなごとは著者は坊主でないから深くは解らぬ。ただ世俗に、(たらい)からたらいに移る五十年という。オギャーと産声を上げると、産婆さんがいわゆる産湯をさせる、そのたらいでもって、ころりと死んだら湯灌をさせてくれる。これと蓮の台も同じことわりで、妾しゃ死んだら半坐を別けて蓮のうてなで待っているというのが、蓮台の乗合いバスである。「世の中はとまれかくまれ蓮の葉に乗れば蛙の心地こそすれ」という狂歌がある。
        *                *               *
 花の美しきは寝覚めを(よろこ)ぽしめ、その根は食膳の浄斎となる。かほど愛でたきものを、世に蓮葉娘と仇名して、彼の周茂叔が隠君子といいしに、かかる嘲りを招くは、うき川竹の濁り江にも染まで泥中の蓮とたたえられるに似た趣きである。西行法師の歌に「粧ふなる月の御顔をやどす池に、ところを得てもさく蓮かな」とある。
 香藹坐来清とは、座敷から蓮の花を見る姿で、緑水飯香稲とは、ただ蓮の葉を眺めてさえその蓮飯の匂いがすると想到したことで、茶人は日中蓮の花の開いた時に、煎茶を紙に包んでその花弁に入れ置くと、花はこれを包んで翌日また開く時にとり出して煎じると、その香が沁みて珍味であるというて、こうした風流なこともして弄ぶ。
 また蓮味噌とて、若葉に煮た味噌をつつみ置くと、その香りが移って乙だという。狂歌に「君子とも呼ばれし花の蓮の葉に、誰かは味噌をつつみそめしそ」と。また蓮の実が飛ぶといって狂句に「蓮の実とおもひながらに障子明け」といい、その実を詩人は賞して「玻璃盆面水漿底、酔嚼新蓮一百円」と、これは御馳走の汁の底に入れた蓮の実が、酔眼朦朧(もうろう)として百個ほどにも見えたという、例の中華一流の誇大詩である。
        *                 *                  *
 さて、こんな話をつづけていたら、いつまで経っても御馳走のお鉢がまわらぬ。絶景飢を忘れるとか、美人暖手して食を思わずなどというても、景色がよいとてひもじい辛抱もできないし、またいくら惚れた美人の肉肌で手を暖めても、飲まず食わずにもいられないで、閑話はさて措いて……調理にかかろう。
 巻葉の糸切 蓮の巻葉を小口より洗い、細く糸に切り、鍋に湯を沸たせ、少し酢を入れ煮てよく絞りて、三杯酢にて食す。これは牡丹、芍薬(しやくやく)、白木蓮などの花びらにも応用できるが、ただ異味を好む酢豆腐連の悦に入る所作に過ぎない。蓮の実の吸いものは、汁の実とする。また葛粉に合せて、きんとんのようにもする。また蓮の花は、その花びらを(たて)に細かく切り、笊に入れて熱湯を注ぎ、すぐ水に晒しおき、その水気と殻を去ってちょっと炒り、塩仕立てにして出す。 蓮根も精進料理では優に一方の重鎮てある。しかし、蓮根は好き嫌いする人が多い。関東地方ではよく惣菜に用いるが、上方ではそれほどに使わないようである。五目鮓などには、これと三ツ葉がなくては歯切れのするものがない。
 もっとも蓮根は料理に用いても、主食とはされない、大体は付合せものとされてある。まず、和物から始める。
 胡麻味噌 山椒味噌、辛子味喀、砂糖味喰、白和えなど、また梅肉和え、もろみ和え、金山寺味噌和え、その他。
 これらの材料には、まず蓮根の皮を剥きすぐ水に晒した後、太いのなら竪に四つ割りにして、小口切り、乱切りなど適宜にして、うす醤油、砂糖、塩を加減して煮つける。茹でる人もあるが、皮を剥いたらすぐ水にさらすと灰汁のため黒くならず、新しいものなら、なるだけ茹でない方が味がある。煮るときは鍋の蓋をせずに煮くと、灰汁が出ず白く煮上る。
 蓮根煎餅 上等の蓮根の皮を去り、水にてアクをさらし、(おろ)し金で摺り、裏漉しで水気を取り、擂.鉢でよく摺り、メリケン粉を少し入れ、鶏卵の白身、砂糖少々入れて、よく摺り合せ、頃合の形にうすく取って、湯煮しておく。吸物の種にする。また糸切葉をさっと茹で上げ、すぐ水に冷やして笊にあげおき、汁のつま。
 前の如く蓮根を卸し、つなぎに片栗粉を加え、砂糖、塩にて味をつけよく摺りつぶし、焼鍋に油を引き、上下の火加減をして蒸焼にして、焼上りを庖丁にする。またこれに味噌を摺り混ぜ、味噌松風にするのもよろしい。
 蓮飯 蓮の葉は、なるべく巻葉を採って、細かく微塵に刻みて笊に入れ、その上より熱湯を灌ぎかけ、よく水気を絞りおき、飯が焚けたらそれに塩をばらばらと()り、次に蓮の葉を混じその上にひら葉の蓮を蔽せて蓋をして、よくむれたら飯櫃(めしびつ)にうつす。
 また蓮飯をよく絞り汁で炊く人もあるが、青臭くて香味に乏しい。
 蓮の実は()って()いてもよし。うでて吸いものに用う。
 小原木蓮 蓮根を竪に細くへぎ、うす味に煮て、それを何本も束ねて、ざっと煮た干瓢を伸ばして、束ねた蓮根を小口から八幡巻の如く、よく巻締め金串にさして、味淋醤油をつけて焼く。
 煎り蓮 豆腐二丁ばかりを湯煮して(ふるい)に上げて水気をきりおき、蓮根を薄く刻みてうす味にて煮たるを、前のとうふに混ぜて、つき崩しつつ掻きまぜ、鶏卵二つほど入れて煎りつけ、胡椒を添う。
 田楽 蓮根を茹でて三寸ぼかりに切り、竹串にさして焼き、赤味喀を塗って田楽にして、大きく(はす)かいに切る。
 葛煮 蓮根の皮を去り、七、八分に切り、湯煮して酒にて煮き、うす醤油加減して、葛を引き、けしごまかけて出す。
 信田巻 蓮根を竪に細くそぎて五、六本つかね、ざっと湯煮して別に揚豆腐を二っに離して中のとうふをそぎ取りたるものに前の蓮根を巻き込め、干瓢で括り、甘味に煮しめて出す。
 酢蓮 蓮根を輪切り、斜切りなどにして、鍋に入れ、酢、砂糖、塩少々。汁をからからにして煮上げるなり。矢蓮は斜めに切りたるものの真中に庖丁を入れて開くと矢の如くなる。
 焚出し 蓮根を小口より切り、酒しお沢山にうす醤油にて焚き、鉢に盛って青海苔かけて出す。
 煎り出 これも輪切りにして水気をよく去り、胡麻の油であげ、大根おろし、浅草海苔にて出す。
 海苔酢 適宜に切りたる蓮根をさっと湯がき、紫海苔を細末にして酢に合したるをかけ、その上に唐辛子(種を去りて)の小口切りを置く。青海苔でもよし。
 いこみ蓮 蓮根の太いところを三寸ほどに切り、中をくりぬきて、それを生湯葉をよく摺り、豆腐を搾りたると混ぜ合せてよく摺り、それに木耳(ぎくらげ)、三ッ葉、ぎんなんなどを混ぜて、蓮の中に仕込み、胡麻油にて揚げて、小口切り。
 小倉蓮 新蓮根の輪切りに、煮赤小豆を加えて、煮込みたるもの。
 蓮とん 蓮の穴へ煮赤小豆をつめ込み、またあずきを多く入れて煮込みたるもの、越後地方でよくする料理である。
 このほか、種々に応用される。終りに蓮根の薬用を少し述べよう。
 痰咳の妙薬 蓮根の髭根の処をおろしても、また煮ても、そのしぼり汁を()むとよろしい。
○また蓮根は渇を医し、五臓を補い、虫によし、酒毒を醒まして、消化をたすける。
○蓮の実は遺精に効あり、気力を増進する。俗に腫物に蓮根というほど、根に力があるほどなれば、その粘力と強精食たるを知られるであろう。



最終更新日 2005年12月04日 20時57分57秒

林春隆『野菜百珍』「八七 れいし(茘枝)の話」

八七 れいし(茘枝)の話
 熱地の喬木に生ずる果実である。素乾にして舶来する。外形松毬の如く、味は竜眼肉に似て香気を含み養分に富む。



最終更新日 2005年12月04日 21時20分05秒

林春隆『野菜百珍』「八八 料理菊の話」

八八 料理菊の話
 菊の一種で花に苦味なく食用とする。年中に栽培するも秋季最も多く出る。俗に甘菊と称し、酢肴に用いるのである。



最終更新日 2005年12月04日 23時25分37秒

林春隆『野菜百珍』「八九 れもん(檸檬)の話」

八九 れもん(檸檬)の話
 酸味強くて生食に適せず、皮よりレモン油を製し香料として菓子、飲料に重用せられる。夏の食味として寒天または鶏冠苔を溶かし、レモン羹を製するのもよい。



最終更新日 2005年12月05日 00時05分16秒

林春隆『野菜百珍』「九〇 料理の話」1

九〇 料理の話
 料理(りようり)(れうり)は、その字の如く、食物の量を料って、それを整理して人の生活に供給するの名称である。
 太古の生食時代より火食に移って、上古以来玄米を蒸して食うようになってから、すべての生食に調味を加えることが独創せられ、鳥獣、魚貝、疏菜、果実の類を、煮たり、(あふ)ったり、また飴、塩などで味をつけた。また嗜好品としてはすでに濁酒を用いられた。
 その後、奈良朝に至って仏教の渡来より、戒律によって肉食を禁じたるため、自然、穀類、野菜、海藻類の食養を求めるようになった。従ってその調理も各自のおもいつきで、種々変形されて口腹を養うたのである。すでに大宝令に載せられたる食品には、山海の産物もようやく数十種に上り、都を平安に遷されてのち、藤原氏の時代には、精米を用い、汁、膾、羹、煎付、餅、酢、菓子の類も常食されることとなった。
 それが鎌倉の幕政時代となって典雅悠長な情調を去って、武断生活からしばらく簡易なる質素の風尚が行われたが、さらに、足利氏の室町時代には、将軍が常に韻事を好み、茶湯の流行より再び奢侈(しやし)に移り、折から中華丈化の輸入して、建築その他の芸術及び食器の趣味まで一変した。それを織田氏の戦国時代にも伝播し、豊臣氏の如き、ようやく狼姻一たび収まるも、なお兵馬倥偬(こうそう)の間に、風流の豪奢を試み、陣中茶事を(もてあそ)びなどしたのであった。
 すでに足利時代に、四条大草の両家を立てて料理の権輿となして、式目料理を起し、のち茶事のますます流行するより、ついに茶料理の会席風が行われ、のち禅宗の勃興から精進料理が溌燵した。その頃より長崎は、諸国の外船が来舶して異国風俗を移Lて、南蛮料理、シナ料理の卓袱、普茶などが流行した。
 ここにおいてわが国の料理法は各流派を定め、種々の形式について割烹の技巧は、上は宮中より、下は民間に至るまで、礼儀の一つとして伝統されたのである。
 茶事に茶礼のある如く、食事にも食礼があって、丈書に書礼を定め、これを三礼と称した。最も飲食に重きをおいて、食礼をもって人事の第一にされている。
 ここに簡易に示された貝原篤信翁の「食礼」(元禄板)を載せて、のち料理の漫談やら古実の引証を述べることとする。

食礼
 食盤(俗に膳を云)を出す前、座配りのこと。各々まつ左右に一礼Lて後、位の高下を以て序づべし。上客ならぽ、たとひ相伴より位ひくきとも、座上につかしむべし。
 (およ)そ座につくには、位の高下を以て各みつから序をなすべし。辞譲に及ぶべからず。或親戚の会には年の長幼を以てついでとす、時宜によるべし。
 亭主膳をすへば、中にて受取つて一礼すべし。
 上客(はし)を揚げんとする時は、先相伴及び亭主に一礼して箸をあぐべし。
 先づ箸を取らば、しばらくさかさまに取、右の手の無名指と小指との内にはさみ、大指食指中指の三の指を以て飯椀のふたを取つて、左の手に移し、夊羹椀のふたを取つて、飯椀のふたの上にかさねて、右の傍に置くべし。其外釘椀のふたあらぽ、左の手にてひらくべし。引おとしの釘椀のふたは、喰ふ時にひらきてよし。若引落の釘椀の数多き時は、見合せて次第に開きてよし。たとひ喰ふまじきと思ふ物も、釘椀の蓋を取るべし、とらざるは非礼なり。(引落の釘とは、本膳および二三の膳につかずして、ただ席にをく釘をいふ)。
 先飯椀を左の手にてあげて、箸を順に取なをし、一箸、二箸飯を喰ひて下にをき、左の手にて叉羹椀をあげて羹の実を喰ひ、又飯を喰、羹を吸ひ、実を喰ひて、或は云かくのごとくすることすべて三度すべし、本膳の釘二つあらぽ、左の方にある釘より喰ふべし。若香物左にあらぽ、右の酊より喰ふべし。本膳の釘を喰はざるさきには他の釘を喰ふべからず。
 飯、羹、釘、飯、羹、釘を次第に幾度も喰ふべし。飯より釘に移るはあしし。釘より釘に移り、羹より釘にうつるも、みなあしし、本汁より二の汁にうつるもあしし。
 二の膳、三の膳の時は、先本膳の飯、羹、釘を二一二度も喰ひ(おわ)つて後、本膳の飯を食ひ、二の羹を吸ひ、および二の膳の釘を食つて、本膳の飯に帰るべし。三の膳も夊かくの如し。
 凡そ二の羹、三の羹は料理によりて、客食はざる時のためにうす味嚼すましなどにてするなり。又は本汁をかへにつかはしたる間に食ふためなり。
 向ふ詰は食はずしてよし。老人は食つても苦しからず。
 二の膳の羹は右の手にて取り、左の手にうつして食ふべし。置く時も又右の手にうつして置くべし。三の羹は左の手にそのまゝ取りたるがよし。
 凡そ右にある物は、右の手にて取て左の手にうつすべし。右にある物を左の手にて取る事甚だいやしめり。左に有る物は左の手にて取るべし。
 釘椀も取揚て食ふべし。只(なます)ばかりは持あげて食ふべからず、是はわすれても酢を吸ふまじきためなり。
 老人など、もし酢を吸はんと思はば盞にうつして吸ふべし。けん(きおひの事也)などは決して食ふ事なかるべし。
 羹の実および釘の類にても、椀の底にある物を、ゑらび出して食ふ事なかるべし。亭主釘の類をひかぽ蓋を出してうくべし。亭主さいをつぐ間は箸を取直し、膝の上に置て待つべし。亭主さいをつぎて授けぽ、箸を膳に置きて右の手に受取り互に一礼すべし。
貴人釘を引には始より箸を膳に置き椀を出し、両手をつぎて待つべし、あたへ給ふ時両手にてうけとりいただくべし。主人はかさを手にとらず、すぐに出したら其かさに釘を引給ふなり。
 飯を受くる時は、相伴に辞譲してうくべし。相伴も又左右に辞譲して受くべし。汁も又同じ、二次うくるより後は辞譲におよぼず。
 飯羹食ひつくさずしてかふるも苦しからず。
 汁の再進かへに来る通ひの者をまたせて汁をすふべからず。
 飯羹の外再進なかるべし。
 飯に汁をかけて後、汁の実をくふべからず。
 飯を食ひ終らんとする時、二の羹あらぽ、二の汁をかけ、二の汁なき時は本汁をかけて、飯をきよく食ひつくすべし。本羹も食ひつくすべし。
 或云、飯羹(おろし)(おろしは食(あま)しなり)あるも苦しからず。必ず食ひつくさでかなはざるにあらず、其時の腹中の飢飽病気の有無にしたがひて、飲食の多少あるは苦しからず。此時は飯に汁をかけざるなり。夊云。飯羹おろしある時は、かさにておほひたるもよし。
 飯に躬物の汁をかけて食ふ事いやし。
 凡そ飯に汁をかくる事、飯羹をくひつくして、あるじの本意を達せんが為也。故に亭主は飯に汁をかけざるも苦しからず。
 酒出れば、まつ上客にすすむ。上客より相伴に辞譲して受くべし。或は上客の心にまかせて、亭主より試み、下座より試みるも時宜によるべし。世俗かんを試むとて、亭主より飲むは、さだまりたる礼にあらず。
 湯も夊酒と同じ、されども今時は亭主よりまつ飲むなり。
 汁をかへて、いまだ持来らざる内に、飯を食やめて待事、野人の礼なり、必ずかかはるべからず。
 貴人の前にては、盃を右の手に取、左の手を添へて飲むべし。同輩には左の手に取つて飲むべし。
 吸物出すに、かよひの者我右に置かぽ、箸を取ながら、右の手に其蓋を取りて、直に其手にて椀をあげ、左手に移すべし。若左にをかば、左の手にてすぐにふたを取て、わんをあぐべし。
 凡そ吸物は銚子の出るを見合て取あげ食ふべし。
 吸物は先実を食ひ、汁を二口ほど吸ふべし。其以後は心にまかすべし。
 常に吸物ばかり出たる時は、先汁を吸て実を食ふべし。是は口のかはきたるを、先うるほさんためなり。
 引汁は、箸をさかさまに取直し、無名指小指の両指にてにぎり、大指食指中指にて椀をとりあげ、左の手にうつし、先汁を吸ひ、後に箸をもとの如く順に取直して実を食ふべし。下に置くには、又右の手に移して置くなり。
 湯を飲むには、箸をさかさまに取直して膝の上に置き、左手にて椀をあげて飲むべし。
 手塩香の物を出す事あり、是やき塩並に香の物二片一皿に盛り合せ出す。湯の時にあらざれば食ふべからず。
 夊香の物いろいろ盛り合せ、或は一種にても飯の一釘となして出すは、飯の時より食ふべし。
 湯の中へ香物を入れて食ふべからず、(たた)香物を食ひ、湯を飲むべし。
 上客飯に羹をかけぽ、相伴の人も各飯に汁をかくべし。
 凡て再進をうけ、および吸物酒の肴等を食ふには、上客は相伴をかへりみ、相伴は夂上客を見合せてよし。
 飯は大口に食ふ事なかれ、羹は口音高く長くすする事なかれ、凡て舌うちして食ふ事なかれ。
 串にさしたる物は、箸にてはさみあげ、左手にて串を取、箸をそへて食ふべし。
 凡そ椀の内より外を見るべからず。又よそ見して物をはさむべからず。口をさし出して物を食ふべからず。箸にて口によせて食ふべし。
○箸の禁戒
 塩の串ざし、塩を箸の先にてつくを云。
 豆のよこはさみ、豆ははさみやすからず、故に箸をよこたへて、豆のよこよりはさむを云。
 箸なまり、箸を動かして物をはさむをいふ。
 むだぽし、この肴をはさまんとして、彼のさいに移り、彼のさいをはさまんとして、このさいにうつるをいふ。
 箸を舐ること此類也。箸を以て歯をさす事甚だ禁ずべし。箸を膳に置くに、初め勝手より飯羹椀の前に置きて出すこと、食し終りても、又もとの如く飯羹椀の前に落し置くべし。(以下略す)
 このほか、饗応中の挨拶、酒盃の献酬(けんしゆう)、長坐の心得、飯後の茶菓などについての礼式が述べられてあるが、ただ一般的の食礼にとどめて省略する。
 近来婚礼の式なども食礼を面倒がって、本膳を会席に略して神前で立礼の式をすまして、すぐ自動車を割烹店く、飛ばす、こうした結婚披露が流行して、席上で花嫁が独奏もすれば、仕舞の一さしもお目にかける。ある時友人の披露宴で盛んに道頓堀の行進曲をやられたのには、さすがに著老も面喰らったことがある。しかし、食は礼よりも重しというから、礼儀式などは放って愉快にばくつくのが、却って情誼を温めるというものか。と、一概に言ってしもうては書くことがなくなる。では少し余談に移ろう。



最終更新日 2005年12月05日 09時00分44秒

林春隆『野菜百珍』「九〇 料理の話」2

 人生の一大事である結婚にも媒介者が要る、これを涼しそうに月下氷人と書くが、月下は対語で、媒の言は氷語である。ところで、氷の上は陽で、氷の下は陰である。その陰陽が春日に解け合って、水波同体、男性と女性が結合することを水も漏らさぬというので、氷人の名もむすぶの神と(あが)め奉られる。
 それを俗に婚姻の橋渡しといって、他人の世話紹介するのも橋渡しで、口に食物を運搬するものを箸という。はしは鳥の(くちばし)に似たる用をするからの名でなくて、元来箸は日本固有のもので、上古は竹の枝をもって箸としたので、竹の者と書く、大和の国に箸尾村というのが、古名を萱野と称したから萱を箸に用いたよりの名かも知れぬ。貞観の頃、白箸翁という奇人が洛中で白箸を売って歩いた。この翁が禁裏御造営の余り木をもって箸を作って、市中疫病の厄除けに施した。これを神箸と称して、その後も正月の雑煮箸に用いる、丸箸、諸口と称する箸である。
 伊勢の神宮から出る「神路山」の焼印のある角箸も、大廟御造営の余り木で作られた神箸である。
   箸とらば天地御代の御恵み主人や親の恩をわすれな
 シナではこの箸を筋子と称し、象牙で作ったのを牙筋といい、それを銀張りにしたり、また堆朱、鼈甲(べつこう)などで作ったものがある。シナでは古来毒殺が行われて、食事に鳩毒などを混じたため、銀製の箸を用いて試食したものである。西洋人が我々の箸で食べものをっつくのを見て、鳥が(くちばし)で餌を突くようだと笑うが、我々が外国人のホークで肉を割いている風態を眺めると、獣が肉をむさぼっているように見える。しかも四つ手の形がなおさら浅ましく感ぜられる。ナイフを振り廻している食卓にも礼儀はあるが、美しい二本の細箸を操るわが国の食膳には、奥床しい礼儀が行われつつある。
 で、食礼のうちにも箸の持ち方がやかましく言われる。不器用な人は見ててもまずそうな手付で取るが、器用な人が巧みに箸を使っているのがある。
 もぎ食箸、握り箸、ねぶり箸、移り箸、こみ箸、こじ箸、廻し箸、そら箸、膳越し箸、大食箸、涙箸などと、意地の悪い(しゆうとめ)じゃないが、箸のあげおろしにまでも世話の焼けることだ。よく悪たれ輩が、親譲りの箸だなどと無造作に、捕食をする人がある。後漢頃の書に、倭人は海辺に住んで捕食するなどと()かしたが、つまみ食いは食物に限らぬ。そこらの小娘をつまみ食いしたり、後家の空巣をつまみ食いしたがる人もある。シナではこれを対食(、、)といったり、間男を辟陽侯(、、、)と称している。こんな不潔連中は箸にも棒にもかからぬというので、俗に箸まめ(、、、)と称されている。
 古えの鶴の庖丁は、やごとなき御あたりの御式目で、四条大草諸家の故実はさることながら、さまで日常栄養のためにする料理は、ただその材料をよく選択して、割烹の珍しい趣向をえらび、時に応じ機に臨んで賓客を待遇することが第一の饗応である。かりそめにも飲食の事は礼を重んじると共に、生命に繋る大事のものなれば、細心の注意と親切が籠っていなければならぬ。
 それで多い食物の中でも米に越した美食がない。で、米の音は人の心を籠めるという義で、こめるの約転である。飯は命司(、、)で、命の根を略していね(、、)というに同じ(ことわ)りである。この親切ということは何事にもなくてはならぬが、ことに飲食の上には最も親切でなくてはならぬ。食事の不親切は、藪医者が診察料のみを貪って屡次患者を危篤に陥らすようなもので、料理人を食医と称するのも、こうした重大な責任があるからである。鰒料理にばかりびくびくする連中も、他の料理には無頓着だが、折詰が数百人の中毒者を出すことは往々所在にある事実で、戦国時代などにはよく毒殺が行われたので、各ひそかに解毒剤を懐中して招宴に赴いたものである。紀州家の家訓には、たとえ親類縁者たりとも、外出して一切の食事は勿論、湯水等にても無下にうけてはならぬと戒められた。
 今日ではそんな心配もないが、シナ料理が一つ器で混食するのも、主客が安心して会食するためにされた習慣である。これが料理について第一番に心得ねばならぬことで、要は、第一消化をよくするための料理たること。第二、有害物を除去すること。第三、真味を失わず外観を美にすること。第四、触覚を快くすること。第五、心身を安楽に満足せしめること等である。
 それから誰も嫌忌することは、二度焼の肴、ぬくめ汁、器物の不取合、拙劣な盛り方、給仕の不作法、なども折角の美味を損ねるのである。
 酒の燗に至っては、さらに注意を要すること、医者が見脈の如くである。狂句に「出来すぎて酒と女は品が落ち」とある。いくら美婦のお酌でも沸き返った酒を飲まされてはたまらない。真臘の酒とかいって美人が噛みしめて吐きだして(かも)した酒があるというが、不幸にしてまだ飲んだことがない。しかし燗は人肌といって、和らかみのある程度でなくてはならぬ。「林間で酒(あたた)めるより股で燗」といえば雲助のようだが、道に麹車に逢うても(よだれ)を垂らすような好酒家には、酒の燗は、料理の美よりもさらに深い執着をもつものである。
        *                *                     *
 礼に始まって乱に終るというのがいつも饗宴の例である。この例によって却って「やあ先夜はどうも大酩酊で」などと失敗を酒の故にして懇親振りを見せるのである。ただ礼に始まって殊勝らしく礼に終るは、お葬式のよばれ酒である、それでも酔っぱらって手古ずらす人もある。
   お料理によばれますると庖丁のきりめただしき客のあいさつ
という狂歌がある。この切目正しくというのが、調理の親切で、よく料理を山水に形どるという、その心は、主人もその水に似て寛仁であらば、客人もその山に似て悠然たるを得るからである。食味の心境もここに到って得たりというべぎであろう。
 料理に三羹、三真などというのも、海のもの、山のもの、里のものと取り合わせるのも、こうした心境をうつすための趣向である。
 それで料理の趣向は茶会席などにのみ用いられるのではない。日常の料理にもこの趣向を旨として調理を心がけると、美味を調えるにも平凡のものを珍しく研究材料にされる。で、料理を試みるには、何でも各種の魚菜を豊富に応用する考えを持たねばならぬ。饒多の材料によって多種の工風を凝らすのである。どこの料理屋の板場を(のそ)いても、その材料が多種多様に備えられてあるような家の料理は、必ず美味でもあり新鮮である。些少の材料を引っ張り合ってこなす(、、、)ような料理屋で、旨いものを食おうなどとは大きな考え違いである。
   青物の山にさかなの水洗ひ海となりたる料理屋の庭
という狂歌がある。で、家庭料理にもこの心得が肝要で、食養上にも、趣味的にも、こうした努力を主婦たるものが惜しんではいけないのである。これも親切の第一義に属する。
 それから食物も惜しんではいけない。俗にいやしん(、、、、)というのは(いや)が上に()いるので「まあまあそうおっしゃらずに」と無理に飯や汁のお代りを進める。これを再進といって決して卑しむべきことでない、饗応の礼儀の一つである。また客を招いて食事中に、あまり小むずかしい話をせぬことである。客の嗜好でもない趣味談に勝手の熱をあげたり、またもの識り顔に高慢なことをいうものでない。橘千蔭の「うけらの花」に、
   もとめてめづらしきこといふべきものかは、蕎麦切を好みたまふやといふべきを「かろふはいかに」といへぽ。「辛きものこそ好み侍れ」といひしそ。問ひし人笑ひき。知るべき人にはいひもしなん。人をも知らで、かやうの事いふは、くらき心より出つるなりと、人のいひき。「河漏、盆漏とも書く、支那の食品にて我国の蕎麦に似たるより、洒落てかくいひしものなり」
とある。これらは酒宴の興を醒まし、御馳走の美味も蝋を噛む如きものとなる。これでは酒の失敗で「先夜……」の懇親振りもゼロになるであろう。
        *           *            *
 だいぶ待遇談が固くなったから、少し漫談にうつろう。
 俗に鴫焼(しぎやき)という料理名目がある。それは何品に限らず木地のまま焼くからの名で、雉子(きじ)と鴫と混同したものだ。木地焼は魚でも豆腐でも、青竹の串にさしたものをそのまま焼ぎ、また醤油をつけて()くのもそれである。ある書には鴫壺に柿の葉を添えなどと料理法もあるが、それとこれとは別々にして、一般に雉子焼、鴫焼というのは、古い鳥食料理の遺風で木地のまま焼いて食った名目である。
 近頃は親子丼、天どん、鰻丼、木の葉丼、何々丼と、甚だしいのに「なさぬ中丼」という、映画の外題のような丼の尖端を往くのがあって、飯の中へ鳥魚の肉を包んだり上置きにしたものが大いに流行する。すこぶる軽便でもって一杯で腹の虫を堪能させるのである。
 立派な婦人などが食堂で、それを顔一ばいにあてがって、ばくついているのをざらに拝見するが、あまりいい図でないし、また色気のないこと(おびただ)しい。古語にも美人を見て飢渇を忘れるというが、こいつを見てはたちまち満腹するであろう。
 さて、この井飯をシナでは食瓮(しよくおう)と称して、王梅谿の東坡詩註に「山東人以肉埋飯下、謂食瓮」とある。食瓮とはめしかめ(、、、、)という意味で、井の字は俗ながらに通うている。昔はこれをうずみ豆腐などいったもので、シナでは肉をもって飯の下に埋めるとあるが、安直な丼になると飯の上に肉を飾り、もって飯を埋めるのである。料理の真の美味は、簡単にして品多からぬがよい。中古の茶人で有名な細川三斎は、茶菓子に刺鯖の頭を切って、折敷(おしき)に椎の葉を敷きそれにのせ箸を添えて出された。鯖の頭の塩出しや切り様に秘伝があると言い伝えられ、椎の葉は二つぽかりに切り、それに添えて面々に出されたので、その葉ですくうて食う珍無類の茶菓子である。
 またその以前は香の物を鉢へ入れることがなかったが、三斎時代より香の物の鉢は出来たのである。これは千利休が豊公に洗米を茶菓子に出したと好一対の話で、実に客に接する真情が盗れている歓待振りである。
                *              *
 摂待といえば、その初めは小野(たかむら)が続命院というのを一箇所建てて往来の舎宿とした。この摂待ということが形を変えて慈善事業となっているが、昔のように無干渉で行人に施すような施茶や摂待水を、随所の緑蔭に設けられたい。渇いた時には一杯の冷水も醍醐味であり、地獄で仏に逢うた法悦でもある。



最終更新日 2005年12月05日 09時37分47秒

林春隆『野菜百珍』「九〇 料理の話」3

 白馬の「談笑訓」に、「色を好むこと饂飩の如くすべし、そば切の如くすべからず。豆腐は和歌の体あり、蒟蒻は俳諧のさびあり」とある。
 料理の献立もこれに倣い、茶の客は和歌の体を含み、酒の客には俳諧のさびをもたせ、いずれもその食味の上に趣向をこらすことが肝要である。
 昔の人は料理名にさえ佳名をつけて趣向したもので、寛永板の料理物語に、つまみ菜に里芋を入れた汁を「柳に鞠」と称した。その頃の独吟千句に、
  ありありとのべて数そふ鞠の音、ぬきなに芋の汁の再進
ということがある。また貞享板の「女重宝記」に、「小菜に芋の汁は柳に鞠」「干大根によめ菜は山吹」「いもの葉に小豆の汁は藤おつけ」などと、その色のかたちを見立てて付けた名である。
 その後も、豆腐の(かす)に貝の剥身を入れた汁を「雪に千鳥」といったり、蛤の田楽を千鳥焼と称するなど、こうした例は古本の料理書に数多く載せられてあるが、往々その品書のないものは何だか分らないのも多い。地口のように賽目に切った豆腐汁をばくち(、、、)汁と呼んだり、従弟煮、親子井、まま子丼などというに至っては俗も甚だしい。
 そこで趣向も過ぎて及ぼずで、料理はその食品の取合せを第一に注意し、次に喫食の順序と食味の加減をよく心得て客人の方に心を配ることで、酬料理人一つ出しては(のぞ)いて見Lというのが食味家の最も喜ぶところである。
 それから料理のつま(、、)について、大体の人は無用の体裁のようにも考えるが、それは甚だ間違ったことで、さしみのヶ(、、)も、焼肴のッマ(、、)も、汁のクチ(、、)も、あながち香味を添えるばかりでない、食品の消化と解毒に備えられたものである。
 昔から婦人の髪飾りに鼈甲(へつこう)櫛笄(くしこうがい)などを用いたのは、ただ化粧粉飾のためのみでない。鼈甲はよく寒熱を治するからで、俗に茄子(なす)を草鼈甲と称するのも、茄子はよく寒熱を治するからである。瘡疾の児に干茄子を用いるのもこのためで、今の婦人が鼈甲に似たセルロイドの髪飾りを用いるのは、粉飾のため却って危険な代物を頭にのせているので、過度の文化は何事にもこうした矛盾に何の気もつかぬのである。
 京都のわらじ屋の暖簾に「膿」の字が書いてある。あれは 、あつもの」と訓んで、羹に対する料理名である。「和名抄」に「有レ菜日レ羹(阿豆毛乃)」と。また新井氏の説に羹は熱物の義、無レ菜日レ臚(阿豆毛乃)と。「和訓栞」に「あつものは羹とよめり、熱物の義なり。今いふ汁なり」とある。一源氏物語」にも「わかなのあつもの云々」と見えたるが、禁裡御煤掃に、あつものといふは二豆腐を水煮にしてみそをかけたるなり」とあるこれは「あつかべ」と称する。また貞丈雑記に、あつものというは今の吸物のことなり、旧記に吸ものと書きたる本もあり。本名は「あつものなり」とある。要するに羹とは、今いう汁または吸いものの総称であって、ぬるからず熱きを好しとしたものの名で、またある説に菜の入りたるを羹といい、魚肉の入りたるを膰というとある。前にも述べた料理の三羹に羊の羹を用いた例に倣い、羊羹を用うることもその遺風である。京のわらじ屋は有名な料理店で人に知られているが、ただの割烹屋が「朧」という表看板を出したのでは何商売だかちょっと解しかねるが、これも河漏と蕎麦の悪洒落に過ぎないのである。
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 食味は何よりも塩梅が第一である。古え梅醤をもって羹の味を調えたからの名称で、即ち塩加減である。料理場で醤油加減することをカゲをさす(、、)というのも、汁の澄んだのに一滴二滴と味加減に影を落すからのことで、付汁をタレ(、、)というのも垂らしの略である。汁加減は今一滴の増減で辛かろう? 甘かろう? といったところで控え目にする。もし心もち味が足らぬとおもうたら食塩少量を入れておくがよい。鍋の中を(のぞ)きこんでは、()め舐めしても本味が調えられるものでない。いまいう一滴の控え目の加減が衆人の味覚に共鳴する秘訣であろう。
 世俗料理数に古式があると伝えられるも、七五三膳部の外に二汁七菜、一汁五菜、一汁三菜などあるが、七五三は菜数でない膳部の順序を称したもので、陽の奇数を瑞として結婚その他の魚鳥料理に用いられ、陰の偶数は精進料理、ことに普茶料理などは四々の大小菜をもって起数とされてある。
 俗に七五三とは、本膳に菜七っ、二の膳に菜五つ、三の膳に菜三つを付けることとおもうは誤りである。まず七五三の三は式三献で膳三つ、五とは五献で初献は烹雑(皿に盛)二献はまんちゅう肴、三献はあつもの(吸物)、四献は蒸焼添肴、五献は羊羹添菜にて、この膳いずれも組合せである。七とは飯(湯づけでも同じ)、こうして七の膳まで出すのである。
 二汁七菜は本膳に、生盛り、汁坪皿。二の膳に刺身、二の汁。引テ大猪口、平皿、茶碗、吸物、菓子、香の物である。
 一汁五菜は、刺身、大猪口、平皿。茶碗、菓子椀、汁、吸物、香の物。
 二汁三菜は、猪口、平皿、菓子椀、汁、吸もの、香の物。
 その他、茶会席、重詰め、夜食などの料理は、その季節と客人の嗜好をよく考えて饗応することが肝要である。料理を珍しくせんとて名も知れぬ異物を用いることは、客人に対して却って不親切になる。人の知ったものを風流に用いてこそ、料理の妙味も賞され、客人を喜ぽせることとなるので、春秋とにもあたたかきものの中に、冷たきもの、つめたきものの中にあたたかきものなど、ことに濃厚の食品について、淡泊なもの、淡味の後に厚味の品など、魚菜、鳥肉を取り交ぜたうちに生菜を加味するなど、その心尽しが御馳走の最乗である。
 今日では料理屋がいたるところに無数に出来て、饗応や会食はいずれもそこへ行って食うことであるが、元来、賓客を招待するに他人の家に迎えるのが間違っている。それで料理まで他人まかせにするのも大変な間違いである。それ相応に社交上の関係あるものは勿論、親密の間柄である人々が集合する場合しかも密談などのある場合に、人寄りのある料理屋へ招くことは、甚だ不謹慎な所業である。それも礼式または安否の応酬などに際してはすべて設備のととのうている料亭で(えん)を催すのもよいが、なるべくは自家で料理人を招聘して、主人自らが先方客の嗜好にも適うような料理を支度させて、その親しみを食卓の上にも尽すべきが本来である。
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 近来肉食家の増長したことは、洋食につぐシナ料理が、都会の盛り場を軒並に埋めているを見てもすぐに合点がゆくであろう。これが大体、厚味雑食を日常の茶飯事とするようになった、よくない結果である。カフエーやパーの風俗が壮丁を厄弱(おうじやく)にするといって騒ぐよりも、彼らが貧弱な体躯で、この飽食を敢えてする方がよほど害が多い。昔の若い者は女のために鼻を落したが、今の若い者は食物のために命を陥すのが多いようだ。
 ここ百五十年ほど前よりの食物の変遷を見ても、その変化の甚だしいことが分るであろう。天明頃の侈風(しふう)でさえもまだ菓子に移らなかった。鰻頭羊羹を最上として、今は田舎の茶店で見る鶯餅を、一名仕切場と唱え、茶屋でも出し、通人も賞美したものであった。
 寛政の頃から上菓子も出来、料理屋にて飲食するのも天和の頃から始まったのである。
 うんどん蕎麦屋は享保、(すし)屋は天明、屋台店は安永頃に始まった。以来巷閭(こうりよ)で茶を売ったり、抹茶、煎茶、晩茶、施茶等が行われ、飴売り、あま酒売りなど雑多な食もの行商や軒店が追い追いに繁昌して、食傷新道という風な飲食街の一廓をいたるところに築きあげたのである。
 交通不便の頃でさえ、十里十五里と歩行するにも弁当一つで事を欠かなかったのが、僅か一時間か二、三時間も乗る電車汽車の中でも、手提の中から何かしら食物を出して頬張っている人が多い。キャラメルの空箱や蜜柑の皮は、いつも塵溜めのように堆積されている。
 しかしこれらの民衆からこの零細な食道楽を奪うたらそれこそ「殺生でおますやろ」だから、徳川幕府ですら「食わんか船」を特許したのである。これは近い頃まで淀川を伏見に通う三十石船の乗合客に食ものを売る煮売船のことで、この川筋の毛馬と枚方(ひらかた)で、往来の客船に酒飯汁餅などを売ったのである。毛馬には餅に味噌をつけた田楽が名物であハ、た。それでこの食わんか船の商人は、往来客の難船にでも逢えぽ、救助する役目が付けられてあったので、一に水上警察の役もしたものである。狂歌に「食らふ蚊とくらはんかとに起されてぬる間も夏の淀の川船」、今の汽車弁とは趣が違って、風流な食道楽である。
 で、この大衆的食道楽は、以前は参詣人の群集する神社仏閣の境内に、それぞれ特殊の名物屋があったが、今日は所々に大小の食堂が設けられて、随時随所で飲食することが出来るので、これという趣味性のある食道楽を見出すことができない。
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 さて、料理名についてすこし述べよう。
 菜 は野菜のみの名でない、魚鳥も獣肉も菜である。飯に対するさい(、、)で、本字は釘と書く。わが邦では飯を主食とするから、それの副食物の称で即ち、主人と妻君の関係である。刺身のッマ(、、)、汁のつ(、、)まというのも同じ理である。
 上の供御にはおめぐりといい、また、おまわりというは下司の詞である。平日の菜をおかずというも、番菜、惣菜などと称するのも、その食品の数々ある総称で、饗膳に平、つぼ、猪口、茶碗、向付、平鉢、丼、大鉢、硯蓋、焼物、吸物、酢肴、口取、塩肴、乾肴、汁、香の物という工合に、数種の菜品を泛称(はんしよう)して菜というのである。それには飯の菜、酒の肴とそれぞれの調理方はあるが、つまり古えの盛素飯の遺風で、いまも茶人などが縁高に盛りこむ弁当の如く、切飯や、うちぬき飯のぐるりに各種の魚菜を盛り合わすのが、おめぐり、おまわりという詞原をなしたのである。であるから魚のみが肴でなくて、菜も肴なら、肉も肴である。肴と菜は同じ意味に通ずるので、山で猟りして肴を求め、川に漁って菜を得るというのである。
 汁 昔は汁のものと言った。味噌汁、すまし汁、味噌すまし、醤油すまし、塩仕立など、京阪地方ではおつゆ、また、おつけともいうが、東京ではすまし汁をつゆ(、、)といい、味噌汁をおみおつけという。いずれも女詞である。
 この汁が料理の良否を知らす試金石で、俗に座付汁というのが、その調理加減を示す最初の出しものである。食礼にも汁を第一番に試みるも、それを賞する意味で、実にお加減が結構だなどと挨拶するのは、この汁を吸うてからのことで、刺身や口取を突いて、お加減がなどと言っては甚だトンチンカンである。汁に()す醤油をカゲというのもその加減のことで、その過剰が容易でないのを示したものである。
 平 は平椀である。俗にお平の長芋という諺がある。平は多く精進料理に用いられるが、往々魚肉をあしらって、五種三種または七種取り合わせて供することがある。けれども野菜を主としたものである。最もすまし汁仕立である。梅椀、菓子椀というのもこれと同じような料理である。
 菓子椀 東京では椀盛という、多くは葛たまりを専らとする、お平に似てその趣を異にするものである。
 吸物 古は羹といった。味噌吸もの、すまし吸もの、その他さまざまの味加減を調えて、専ら酒を進める食品である。羹は精進の吸物、雁は魚肉の吸物である。
 取肴 とりざかな。「尺素往来」に檜破子取肴云々とある。割子(わりご)は檜の弁当箱である。硯ぶた、または台引、引肴などというのがそれの進化したものである。
 刺身と作り身 さしみは鰕と書く。ある人は、刺身は鮒を本とするという。京阪の鮒のさしみ、鯛のつくり身、鯉の洗い、鯉は生作りという。鰹、鮃、鮪などは作り身である。魚肉の赤白二種を作り合せという。作り身は庖丁甚だ精巧にして切目正しきを良とする。
 刺身は古くからある調理で、「康富記」丈安元年十二月十五日の条に、「二献冷麺、居レ之鯛指身居レ之云々」とある。尾崎紅葉は軒魚とかいて「さしみ」と訓ませた。で、刺身は(いらか)の如くそろえて盛るものである。



最終更新日 2005年12月05日 10時21分30秒

林春隆『野菜百珍』「九〇 料理の話」4

 古語に「大国を治むるものは小鮮を煮る如くす」というのがある。俗に政治を料理するというのがそれで、食物の調理は規矩をもって律することができない。その人の才略と機能に待つものが、練習よりも、材料よりも以上に巧妙な働きをするのである。で、煮物は春の如く暑からず寒からず、和かなる風味を要する。羹は夏の如くからりとした濁りのない熱味をもたせ、醤は秋の如く爽快なるを可とし、「飲料は冬の如く寒冷を以て佳とす」という風趣を尊ぶのである。
 シナの調理原則に、即殺、即烹、即熟、即喫という如く、主客の意気がこうした工合に調和してこそ、真の美味を求め得られるのである。だから人種と趣味性においても、各国それぞれの相違点がある。西洋料理は鼻を主として香味をすすめ、シナ料理は舌を主として味覚をそそらしめると、同時に養分を摂取することに(つと)める。それで日本料理はどうかというと、眼を主としてその色彩の美を喜ぶのである。で、同じ食物を鼻で食うたり、眼で食うたりするが、舌で味わうシナ人が一番悧巧者である。それに食道楽家はまだ耳餐の欲をほしいままにして、初耳のいがものを食うに有頂天になる。
 しかし、食味は人間の飢飽を一片のパンで満足せしむるものでない。空腹の時には人心の激昂を招くことがある。かの(しん)の霊元が熊掌の熟せないために、その料理人を殺したり、呉王闔閭の女が父と膾を争うて遂に自殺したなどの史実があるから、あまり食物のことで他人の恨みを買ったり、自分からも淋しい量見を起してはならない。「食()れ気を接し、味以て心を平にす」とは千古の金言である。
                 *
 料理談のついでに弁当の話を少しばかりのべる。
 俗に信玄弁当というから名将武田信玄が創製したものか、あるいは陣中糧食の器に用いたのか、後世に信玄袋というのが出来て、この弁当を容れた。しかしこの弁当は織田氏の頃から用い、その後大阪の津田長門守が製した捧箱という旅行具の変化したものであろう。
え今でも腰弁当などというが、汽車弁は走りながら食べて、モダソにラソチと改名した。昔の()山物見には提籃というのを提げて、その重詰料理には春秋とも意を凝らしたものだ。
 昔は餌袋といって鷹の餌を入れたものがあって、人間の食物まで入れたものと見え、「落窪物語」に「餌袋二つして、をかしぎさまにして入れたり、今一つの大きやかなるには、さまざまの果物、いろいろの餌、薄き濃き入れて、紙へだてて糯米入れて云々」とある。今の信玄袋は(こんなことをいったらそれはオペラバッグだよと子供が笑うが)この餌袋の遺風で、信玄弁当は、よく料理店などで織部焼の三重弁当と形を変えて、茶料理の簡単なものに用いられる。
 俗に精進落しというが、昔宮中でも「おとしみ」と称して、御精進の後魚肉を用いられた。
 精進落しのついでにまた話がある。西国三十三所霊場巡りの終りに、美濃の国谷汲(やくみ)観音へ札納として参詣する時、同寺に釣るされた魚板を精進落ちといって嘗める習慣がある。これを俗に嘗鯉と称する至極安直な精進落しで、しかもすこぶる要領を得ているのが面白いではないか。この精進という詞も元は梵刹から出た言葉で、句に雑なきが故に精し、間なきが故に進む、というので、つまり衆僧が行持に精進する意である。その菜食は五欲を離れて心気を和らぐるためで、五辛の刺戟を避けるもそのためである。そこで菜食を精進料理と称した。
 精進潔斎は宮廷でも行わせられるが、水戸の西山公も若い時から老後まで、御精進の節は御別間に御すまいなされて、朝夕の御膳も一汁一菜の粗食を召された、それで役人に命じて酒局を封鎖し、たとえ料理塩梅にも酒を禁ぜられたことが「桃原遺事」に載せられてある。
 こうした精進は祖先に報いるのみの志ざしぼかりでなく、 一つは修身の心掛けともなることで、よく児童の遊戯に「中のなかのぼんぼんさん、なぜ背が低い、親の命日に蝦魚を食うて、それで背が低い」というのがある。先亡の忌日を追善するのは人の礼たる大本である。
 曽子の三釜というに「我れ親ありて仕う、三釜にして心楽しみあり、親死して三千錘に至りしが、我心却って悲しみあり」と言われた。一釜は六斗四升で一日に六合三勹の量に当る。一錘は六石四斗である。
 それから料理を味わうということについて、柳里恭の随筆に面白いことが載せてある。
   杉野意仙といふ医師、料理の道にも通じ、大徳寺一休禅師に愛せられしが、或時禅師は常に他より物をもらひたる時、膳部の物を一つ器に打ちまじへて、食したまふを見て、何とて料理の調ひたるものをさやうに無下にはしたまふぞと問へば禅師笑ひて、正邪は一如なり、飲食にも善と悪となし、と。意仙うけがはずして、禅師はさもあるべし。我等は信偽別如心なり、やはり調味のままがよろしきをと申ければ、其後はさもしたまはざりし。
とある。また「本朝食鑑」に、香の物についてこんなことが書いてある。
   香の物は未だ何れの時より始まるを知らず、今旦夕に之を食膳に欠くを得ざるものとす。実に其功挙げて数へ難し。大抵食後湯を飲む時必ず用ゐるものにして、三の宜しきあり。一に曰く、飯湯太だ熱く水を以て之をさます時は、則ち味なし、香の物を以て攪さます時は即ち味ひ美にして口に適す。二に曰く、飯後必ず香して味なきものは、香の物を入れて鹹味を生ずる時は即ち湯余味を生じてよし。三に曰く、水悪くして臭ある時は即ち香の物を以て其臭を除き、毒を解し、湯臭を調和して味を覚えざるも亦よし。加之(しかのみならデ)、膳に一飯→汁にして魚菜の肴なき時は、即ち香の物の佐けとなす。或は餅、粥、強飯、奈良茶等の類を喫する時も茶の助となす。斯の如き類(あげ)(かぞ)ふべからず。
とある。然るに、食礼には食後の香の物は湯に浸すことを忌まれてある。塩のきいた香の物を湯
に浸して食うと胸の透くような気持で、大いに消化をたすけることとなるであろう。
                 *
 明治初年頃の画家で、西田春耕という人が、当時知名の士や故人の嗜好食を書き蒐めて「口嗜小史」と題した。その二、三を拾うと、小野湖山は豆の硬煮、佐藤一斎は蕎麦、それに市川米菴、同じく万菴、細井広沢、芳野金陵等も蕎麦党で、渡辺崋山は三角の焼いた握り飯、同じく小華の焼味噌、鈴木香峰の胡麻味噌、川村雨谷の蓴菜(じゆんさい)。また豆腐連では大沼枕山、大橋陶庵。納豆は菊池容斎。松浦北海は筍の槻芽(ηかめ)の味噌汁。鷲津毅堂は慈嬉(くわも)の苦味。松本楓湖は細切菜の味噌汁。荒木寛畝の風呂吹(ふろふき)大根などが挙げられてある。ついでに曩年著者に寄せられた現代諸家の嗜好物を御披露する。もっとも野菜を主としたものである。
 まず飛行機で震災後の帝都を弔うた芝増上寺の道重信教大僧正は豆腐好きの東の大関、その西の大関は嵯峨天竜寺の関清拙禅師。小川未明の新生姜と紫蘇の実。薄田泣菫の野菜。伊原青々園の氷豆腐。佐藤紅緑はまぜものなしの味噌汁三昧。前の明治神宮宮司の鈴木松太郎大将の大根贔屓(びいき)。画家の島崎柳塢は枝豆好き、この人は香の物の匂いをかぐと身慄いをして、話を聞いても身の毛がよだつというほど香物嫌い。笹川臨風の風呂吹と湯豆腐。近松秋江の野菜。島崎藤村の湯葉。橋本関雪の筍。都路華香も筍と大根。東福寺管長の尾関本孝禅師は蕎麦。平福百穂の大根と茄子(なす)。大泉黒石の豆腐と油揚。故田山花袋の蕎麦と漬菜。小川芋銭子は豆腐と精進揚げ。故南条女雄博士は生涯菠薐草(ほうれんそう)を食いつづけられた。佐藤昌介博士は西洋野菜。与謝野晶子も洋菜とトマトの類。画家奥谷秋石は納豆汁。河東碧梧桐は和布(わかめ)の酢の物。大谷繞石は土筆(つくし)の胡麻(あえ)、蕨の二杯酢、蕁菜の冷味噌汁、その他俳人らしい風味数々。相馬御風の胡瓜。永井荷風の野菜礼讃。野口雨情は洋食嫌いで豆腐と胡瓜の押漬、(らつきよう)など。高安月郊は目食の嗜味でとろろ汁の野趣を愛する。その他数多の嗜好は挙げるに(いとま)がない位で、これらの単なる食道楽にもそれぞれ趣味性が個々にあらわれている。
 次に伝説による獣類の嗜好食を書いて見よう。
 虎は狗を好み、狗は赤小豆を好み、猫は天蓼を好み、狐は焼鼠を好み、狸は桃を好み、鼠は蕎麦を好み、雉子は胡麻を好む。
 それで虎の狗を食うは淫を起すためで、狗の赤小豆を食うは百疾を治するのである。猫の天蓼は虎に類して頻に交換するがためで、狐の焼鼠を見て命を忘れるは白蔵主の戒である。狸は桃を得て空に擲って楽しみ、鼠の蕎麦について去ることを知らぬは、お前のぞぽがよいという洒落か。雉子を寄せるに胡麻をもってすれば毎朝に来る。雉子も鳴かねばうたれまじきに、これも食道楽の罪である。ただ好みの多いことは、さらに酒色をも好む人に在りというべきである。
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 魚鳥の厚味も朝夕食すると味重くして、野菜の淡白なるに及ぽないが、さりとて肉食に遠ざかると自然体力が減退する。で、なるべく魚鳥獣肉の類をかるく(、、、)調理して食することの工風が肝要である。たとえぽ鳥ならぽ水()き、肉ならぽハム、魚類は一度蒸籠(せいろ)でふかして後、ざっと薄味をつけて、柚子(ゆず)、生姜、大根おろしなどを添えて食すると、甚だ軽くて味もよい。上方の鰻は一度蒸して焼くが、東京の鰻は二枚団扇(うちわ)などといって堅炭のかんかんしたので焼き上げるから、身が緊って味が脂濃くて、上方のように軟らかでない。浜焼というのも、昔は鯛に泥を塗って枯木で焼いたもので、桑名の焼蛤も松毬で焼くという風に、それぞれ品によって調理方が異なるものである。
 調理のついでに浜醤油の話をしよう。寛政の頃、肥前の島原で漁人が浜醤油というものを製した。それは毎年四、五月の頃、鯆の子の長さ一寸余のものを取って、他の魚子や芥を去り、よく洗い浄めて、鯆一斗に塩一升、赤麹五、六升を入れて水三升を加え、よく()きまぜて瓶に貯え、その口に蓋をして土にて塗り、あるいは紙で目張りして土蔵の中か静かな処で日の当らぬ場所に、瓶を半分ほど地に埋めこみおき、九、十月の頃にその口を開いて見ると、水は清くすみ魚の香はさらにない。これを外の瓶に汲み置いて用いるので、これで野菜や麺類を煮ると最もよい風味であるといい伝え、何を煮るにも堅魚(かつお)など入れずともよい。ただ汁の色が白いから常の醤油を注して加減すればよい。またこの醤油の底に溜った滓を大醤油と称して、炒り焦がして練りつけ固形にして用いることもある。この製法は今も地方で行われているか後日調べて見たいものである。
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 終りに物の食いようについてちょっと話すが。式作法の外に物を食うに心得おくことがある。俗に早飯早糞ともいうが、また外国では長時間に渉って、ノロノロ食事さすこともある。「道三養生物語」に「四条畷で正行が敵に後を射させながら、しつかに竹葉をつかふたことは天晴なる勇将とおもへり。梅窓曰く、そういやるで思ひ出した。木村が上方勢をおつ立たいきほひより、討死の時大手の前にて、敵の方へ尻をむけ、床几に腰をかけて手の者五六人、まんまるにして大仏餅を手に手に持ち、しつかに食つてゐた、その体ことの外のことじや云々」とある。不断静かに物を食いならわねぽ、忙しき時落ちついて食われぬものである。これら勇士が沈着な態度で死生を余所にして悠々と食事したのは、食物を脾胃へ落ちつかせるためで、慌てて食うと首のまわりに食物が滞って見苦しいからである。何人も常に心がけて饗宴にのぞむにも、こうした落ちついた風格でありたいとおもう。で、ことさらこの話の終りに書き添えたのである。



最終更新日 2005年12月05日 11時09分38秒

林春隆『野菜百珍』「九一 蚕豆の話」

九一 蚕豆の話
 そら豆は、愛嬌のある果菜である。その大粒なるはお多福豆と称して豆類の大なるもので、俗に一寸豆ともいう。小粒なるは空豆と称して児童の間食に喜ばれ、世に書生の金米糖の名がある。この豆の未熟なる時は(さや)ともに食する故、さや(、、)豆ともいう。四、五月頃肥えた大莢のまま市にひさぎ、買う人がこれをばちりぱちりとはじき出す故、またはじき(、、、)豆の名がある。この豆を三個小串の(さぎ)に刺して豆蔵を造るも、みやびた初夏の慰めである。またこの豆の葉を一枚口で含んで舌を巻いて吸うと葉がふくらむ、それを手のひらで叩くとポンと音がする。これも女の子たちの優しい遊びである。この豆は秋の八月に種を下ろし、春二月葉の間に花を開く。大きくして白く黒い斑があって、その形が蛾に似ているより蚕豆(、、)と書く。初夏熟するに及び莢は側立して空に向う故、空豆(、、)と称するのである。摂津尼ヶ崎の産は大粒種で有名である。さて調理は、
 お多福豆  これは京都の名物で松茸料理とその豆を自慢にする、妙な取合せである。これは湯の中に炭酸曹達(ソーダ)を加え、それへ新の豆を入れてよく湯煮して皮の軟らかくなるを頃合に、水をはった桶に(ざる)を浮かし、それへ鍋から豆を移しあける、それから水を二、三度かえると豆のあくが脱けて一層軟らかくなる。それをまた鍋に入れて砂糖(赤ザラ)を多量に入れ、文火で徐々と煮込み、注し汁をして三時間ぼかりも煮れば、皮もつぶれずにごく柔らかに煮あがるのである。乾した豆なら一日水に浸しておくのである。
 蚕豆バタ煮  これは新豆を前の如く湯煮して目笊に移し水気を去り、スチュウ鍋に入れ、豆三合にバタ大匙一杯の割に加え、よく攪きまぜて、さらに塩と胡椒を加え、程よく味をつけて皿に盛る。
 塩煮と甘煮 これも大粒の新豆の頭の皮を爪で二分ぽかり剥き、水煮きにして軟らかくなった頃、塩煮なれば食塩と炭酸曹達(ソーダ)を入れて煮る。甘煮なれば白砂糖と炭酸曹達(ソ ダ)を加えて煮るのである。
 粉吹豆 そら豆を水煮きにして、それに砂糖多量にして炭酸曹達(ソ!ダ)を少々入れ、丈火で久しく煮詰まるのである。
 きんとん 前の如く水煮きした豆を水桶に移し、手でよく揉んでその皮を去り、その三分の二を取って砂糖と食塩で煮こみ、残りの分をさらによく煤で軟らかくして裏漉しにして鍋に入れ、混ぜ合すのである。
 蘭の花 乾した蚕豆を一夜水に浸けて、そののち皮のまま頭のところに十丈字に庖丁を入れ、笊に移してしぽらく乾し、それを胡麻油で素揚げにすると、切目の皮が蘭の花の如く開くのである。乾物の蚕豆は必ず一夜水に浸しておくことを忘れてはならぬ。
 豆の葉 そら豆の葉を洗って渋紙の上で乾し、よくかわいたのを手で揉み、(ふるい)で振いおき、入用の時は篩に入れて沸湯に浸け、蓋をせずに茹でて、飯に混ぜて菜飯とするか、また和えものなどにつかうもよし。
 総じて蚕豆は、臓腑を利する功があるから、誤って針を呑んだ時は、この豆と韮とを煮て多食すると速やかに便通に下すといい伝える。またこの豆は雷を忌むので、その実る時節に雷鳴があると不作だということで、お多福と雷さんは暁斎の画にありそうな滑稽味である。



最終更新日 2005年12月05日 12時08分44秒

林春隆『野菜百珍』「九二 蕎麦の話」

九二 蕎麦の話
 俚謡子曰く「信州信濃の新蕎麦よりも、(わたし)や貴郎のそばがよい」と。然り、古語にも美人暖手して飢を忘ると、美い女の雪の肌で手を暖めてうつつをぬかしていると、腹の空ったのも忘れてしまうであろうが、それも時が来れば食わずにいられない。そこで色情をもって食欲に対するは、人生絶対の要件でもあり、また食色は人の本性である。ところが、動物はその生殖期になると食物を摂ることを忘れ、また雌を争う時は往々生命を犠牲にすることもある。すると、お前のそばがよいという詞も、偽りの多い人間の言い草で、やッばり新蕎麦も召しあがっての上のことで、事ほどさように蕎麦は強腎の功があるのである。
 さて、蕎麦は蓼科に属する植物で、原産地は中央亜細亜(アジア)である。シナは唐代に始まり、宋の時には盛んに栽培され、それがわが国に伝来したのは、よほど古いことと見え、既に元正天皇の養老六年七月の詔に「朕叡虚を以て鴻業を紹承す、自らに()ち自ら勉む、未だ天心に達せず、是を以て今夏雨なし苗稼登らず、宜しく天下の国司は百姓を勧課し、晩禾、蕎麦及大小麦を種樹せしめ、蔵に儲積し置き、以て荒年の備となさしむべし」と、その栽培を奨励された。
 その後、仁明天皇の承和六年七月に、また詔して「畿内国司に勧め蕎麦を植ゑしめ、其生する土地は沃瘠を論ぜず、播種収穫、共に秋中に在り、稲粱の外、食となすに足れり」とある。
 いまは各国温帯地方は言うに及ぼず、寒帯地方でも北緯六十度まではこれを栽培し得らるるから、露、独、仏、米、シナに至るいずれもさかんに栽培されるが、その品質と佳味はわが国産の蕎麦に及ぶものがない。信州の更科を初め、江州の伊吹、紀州、山城、遠州、三河、北は会津、南部地方で産出するものがことに良品である。
 蕎麦は稜麦と称し、収麦、烏麦、花麦とも書いて麦と名を同じゅうする。古名をくろむぎといい、稜というはその実が箱の内の稜の如く、角切角の形に似て三稜なるよりの称である。その性霜を畏れるがゆえに、立秋前後に種を下して九月に収穫する、それを新蕎麦と称して殊に賞美するのである。
 さらば「風俗文選」にも、摩詰菴雲鈴は、蕎麦切りを頌して、「信濃の本山宿より出でて普く国々に持て囃さる。伊吹蕎麦は天下に隠れなければ、からみ大根、又此山の極上とさだむ。洒々落々の風流物、誰れか是を崇敬せぬ者はあらじ」と賞している。
 この蕎麦切りは寛丈年間より始まり、初め甲州の天目山へ参詣の多かった頃、不便の地とて旅人に米麦を供すること少く、蕎麦を煉ってうどんの如く切って食膳に供したのがその起りで、その以前は蕎麦がきのみであった。それも蒸籠でむして蕎麦掻餅と称したのである。何といっても蕎麦は仏の都の信濃の名物である、一茶の句によって「おらが蕎麦」という、そば(、、)の天下がある。それは「信濃では月と仏とおらが蕎麦」という句からおもいついたもので、また善光寺の氷曽葉などは珍しいものの一つである。
 *
 その後江戸に、けんどん蕎麦切りというものが出来た。けんどんという詞は、吝嗇(りんしよく)に近い意で、一碗盛り切りで食を()いないからで慳貪(けんどん)と名づけた。このけんどんの名も後には見頓弁当、食見頓、見頓女郎などと、初め蕎麦の名が、飯に、酒に、遂に遊女の異名とまでなった。それが今食器箱をけんどんと称して食物から放れて、家具の蓋や棚戸にけんどんという方式を伝えることとなった。
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 京阪地方では饂飩(うどん)を好む人が多いので、うどん蕎麦と称して「うどん屋」というが、東京では単に「そばや」で通している。名古屋の「きしめん屋」も同じ商売でただ表看板が異なっているばかりだ。しかし、その看板によって土地人の嗜好を代表せられて、東京の人は蕎麦、大阪の人はうどん、名古屋の人はきし麺という工合に食道楽も分野されているだけ、それだけその食品の美味もその土地のもつ特色で、東京人が蕎麦の自慢は、大阪人がうどんの自慢と同一の話で、天王山へ登った蛙の見学に似た滑稽に過ぎない。が、蕎麦は何といっても東京で、昔から下手な料理屋へ行くより、気の利いた蕎麦屋の方が遙かうまいものがあった。それは見頓蕎麦切りといった時代は、下流の人の食いものであったが、追い追い贅沢になって上流の人も食うので大名けんどんというのが出来た。それから手打ちそばと、二八そば、二八そばはもと蕎麦粉二分、小麦粉八分の割で安蕎麦を製した名であったが、その後江戸繁昌に従って物価が騰貴して、(もり)かけとも一杯十六文となった。これを俗に駄そぽと呼んで、手打ちや御膳そばと区別されたもので、この安蕎麦に対して、生蕎麦とわざと看板に書くようになった。今も在る藪そば、更科、蘭めん、無極庵、蓮玉などが、近世名代の蕎麦屋である。
 その後、蕎麦屋大いに流行して種物など仕出し、追い追い高価になって、十六丈の駄そばが二十四丈になったが、それでも三八そばともいわなかった。万延元年に江戸の蕎麦屋は三千七、八百軒もあった。その外に夜鷹そばといって、夜中所々の十妓に売る行商人がある。大阪でぱ夜泣うどんと称したのがそれで、風鈴を鳴らして兜うどんやあーーそはうはう  」と幽霊でも出そうな声で夜半の町を売り歩いたのである。京でも風鈴蕎麦はあったものと見えて、例の銅脈先生が「温鈍麦麪焚火行」の狂詩が「太平楽府」に載っている。また同人の詩に「店家河漏麺。早速振廻陪。何百箇申遣。幾人前直来。能斉殊上手。蒸得好塩梅。清汁添葷臭。惜無浅草苔」というのもある。
  *
 蕎麦を河漏というは、シナに河漏津という湊があって、その地の名物にてかろしんと称して蕎麦を茶店にて多く売った。これを文人墨客が異名して河漏と称したのである。
 それで麺類が常食となるにつれて、いずれの都会でも町内七、八丁の中に一軒または二軒もあって、銭湯、理髪店と共になくてならぬものとなった。俗に移転のときは引越しそぼと称して隣家にこれを配り、月末には晦日そばと呼んで家中の人がこれを食う。昔は鶴の料理の後段に必ず蕎麦式がある。それに倣うて蕎麦振舞いということが行われ、この時は飯を辞して、大いに蕎麦を賞美しながら食うて、主人側を喜ばせるのである。夜食、間炊、僧家の点心にもこの蕎麦は古くから用いられた。
 青蓮院座主宮より蕎麦を妙法院宮へ参らせられるとて「我子とてもたぬ沙門のことなれば、そばこをとりて参らするなり」。妙法院の御かえしに「そばのこをもらへぽすぐに我子なり、ままこにすなと申しつけ候」とある。
 さて、蕎麦の調理は、初めその粉練りの巧拙によって味価を上下する。
 蕎麦掻き そばねりともいう。そば粉五合を水一升で練り、とろ火で掻きまわしつつ煮あげ、熱湯を加えて練り加減を試み、鍋より杓子ですくい取り、椀に盛り分ける。だしは常のすまし汁、薬味におろし大根、山葵(わさび)(ねぎ)など。
 蕎爰切り は粉を水にてよくこね、麺板にのせて麺棒で薄く伸ぽし、これをたたみて小口より細長く切り、それをよくほぐして煮立ちたる湯の中へ入れて()で、手掬いで(ざる)にすくい上げ、笊のまま冷水に浸し、一盛りずつに取り分けしばらく水気を去る。しかし、蕎麦粉だけでは切れ易いから、そのつなぎに小麦粉を混ぜ、また山の芋、鶏卵を加える。練り加減は粉八合に小麦粉二三合が頃合なるも、多くは饂飩を多量に混ずるゆえその味劣り、蕎麦は名のみとなる。盛りそばは清汁を添えて小蒸籠に盛り、かけ蕎麦は鉢に入れてぶっかけ汁である。薬味、海苔など添える。
 茶蕎麦 前の如く練り合わす時挽茶を立ててそれに混ずるのである。また別に蕎麦に上等の煎茶を煎じて、これに浸けて喫う人もある。
 海苔巻蕎麦 それをさっと茹で、徑三分ばかりを海苔で巻き一寸位に切り、別に煮出汁と辛味を添え出す。
 蕎麦焼団子 これは信州白骨温泉の名物で、そば粉ばかりをこねて作った団子で、そば殻の燃えあとへ埋めて焼いたもので、山葵醤油で食うのである。またこの信州の南佐久辺の風俗に梁越団子というて、五郎八茶碗に蕎麦粉を入れ、水でこねて丸め、それを引き伸ばして味噌と生葱を中に包み込み、団子にして手鞠(てまり)のように天井に(ほう)り上げ、落ち来るのをまた抛りあげして団子の引き緊った時に、榾火(ほだひ)で焼いて熱いうちに食う、極寒の時のお馳走である。
 その外に、蕎麦ぽうろ、そば牡丹餅(ぼたもち)、そば饅頭、蕎麦落雁などがある。うどんこの代りに蕎麦粉を衣にして天浮羅(てんぷら)を揚げるのも変った風味がある。
 蕎麦は中風症の人には毒だといい伝えるが、そばは気を下して胃腸を寛くする功がある。しかし多食は忌むことで、もしそばに中毒したら、大根おろし、また荒海布を煎じて服するとたちまち治する。昔は蕎麦振舞いの後には、必ず角切りの豆腐を味膾で煮て出したもので、豆腐は蕎麦の毒を解すといわれている。
 うどんは風引の薬で、すこしじじむさいが、そばは俳味のあるもので、句に面白いものが多い。義士の引揚げにうどんでは(つち)が明かぬ、手打ちそばというところに芝居気も出るのである。
 手製料理は何よりものお馳走である。殿様がお汁粉屋や蕎麦切りをして大いに手古ずられる話は古い落語家のいいふるしたタネだが。蕎麦などは手製でお振舞いした方が、趣味もあり話の種ともなって奥床しい御馳走である。で、ここに素人にでも出来る、蕎麦の調理を補足しておく。
 蕎麦切り 極上のぞぽ粉一升にうどん粉一合五勺を加え、飯のとり湯でこねるか、また、ぬる湯でこねる。よくこねてからざるに包みてからしこしこと踏みつけ、玉を小さくして茹でる。こわくせんと思えばよく茹でるがよし、やわらかにするにはざっと茹でてあげるがよし。茹で上げたら水でょく洗いねぽり気を去り、ざるにひろげて、いかにもあつきをかけ、布をしめし置きて、ふたにしてしばらく水をきりて盛るべし。
 蘭貊 そば粉一升に玉子を十四、五個くだき入れ、よくこねて打つ。この外、豆腐をすって入れるもよし、山の芋を加えるもよし。
 蕎麦掻き 蕎麦がいもちというのがこれで、上等のそば粉を味噌汁にたててこね、固いほどがよく、湯を煮立ててその内に入れ、すこし煮てよきほどに金杓子で切り、椀に盛って出す。ただし味喀汁はうすい方がよろしい。
 山かけ これはそばの出し汁に、山の芋をすり入れてそばを盛り、したじをあつくしてかけ、その上へまたいもをかけるのである。
 ケンチン そばをざっとうで上げ、浅草海苔の上にならべ、その中へ山葵を入れ、口径二分ぐらいに巻いて、胡麻の油で揚げて小口切りにして出す。
 蕎麦団子 そば粉に白玉粉を加えてよくこね合わせて蒸し上げ、それを三っか五つずつ串に刺して、砂糖蜜をつけて焼く。
 その外、普通蕎麦切りの「盛り」「かけ」の外種ものとて、
 天ぷら蕎爰 魚肉の天ぷらを入れたもの。
 玉子とじ 玉子を用いたもの。
 五目蕎麦 かまぼこ、椎茸、小松菜、湯葉、海苔を入れたもの。
 おかめ 前の種に松茸を加えたもの。
 葱南蛮 葱と油揚を入れる。
 鴨南蛮 前のほかに(あひる)の肉を入れたもの。
 月見蕎麦 三つ葉、海苔の上おきに玉子を丸く落したもの。
 泡雪蕎麦 は、とじ玉子を泡だたせたもの。等が通例である。
 蘭麺の美味いものは東海道の浜松にある。
 蕎麦ぼうるは京都の名物、それで、名物に美味いものなしの看板を出している。須磨は三の谷に敦盛(あつもり)蕎麦がある。敦盛と蕎麦がどうした関係かは、蓮生坊にでも聞いて見なければ解らぬが、大かた熱い盛そばという駄洒落が、その古戦場を背景にいい触らしたものであろう。「一の谷そぼ売り口上」に、こんなことを書いてある。
 「蕎麦は敦盛、あんばいは義経、熊谷の大茶碗に鉄拐(てつかい)山盛り、それを知りつついくらも九郎判宮、うどんは白い玉織姫、酒は源平つつじの諸白(もろはく)、熊谷の大盃で一ばい、呑めば顔は弁慶、大喰のお客は茶屋のよしつね、食ひにげしたらぽ跡がむさし坊、お茶はせったい薩摩守ただのみ、座敷は千畳敷、泉水は帆かけ船紀伊の熊野浦までやりつぱなし也」


最終更新日 2005年12月05日 17時34分31秒

林春隆『野菜百珍』「九三 土筆の話」

九三 土筆の話
 つくづくしは、単につくしともいう。春の末杉菜の傍より生ずる杉菜の花である。(土筆(つくし)のたけて葉の出たのを杉菜ともいい、また別に杉菜という草もある)筆頭菜、薑笋とも書く。つくつくしの名はその花が()()くと重なり出るよりの称である。杉菜と土筆とは同種異様のものか。あるいは杉菜の生殖部であろうか。古歌に、
   かた山の(しつ)がこもりに生にけり、すぎなまじりにつくづくしかな
とある。土筆は年まだ立たぬ冬の日、土中にこれを求めて汁の実とするなども、風流な好みである。
 土筆は土際の固い軸と、俗にいう袴茎の(さや)を剥ぎ、よく水洗いしてさっと茹でて、半日ばかり水に(さら)して苦味を脱き、胡麻あえ、味噌()え、芥子あえ、また煮浸しとするも、粕または味膾漬とするもよい。
 土筆は長けたのは食味にならない、まだ(つほみ)のところがよい。小石交りの土地によく生ずる。かつて著者が伊丹在の農家でお馳走になった時、土筆の胡麻和えがあって、それが珍しくて旨いと褒めたら、わざわざ野辺から摘んで来て、また鉢に山盛り出されたことがあった。今時近郊を探しても、こんな贅沢なお馳走はいただけなくなった。そのかわりにここの野原も押しつまった住宅地となって、綺麗な西洋花が咲いているのである。
 炒リ土筆 生のまま炮焙(ほうろく)で煎り、胡麻醤油で食う。
 浸しもの 土筆を浸しものにする時は、茹でて後水気をとり、一度さっと胡麻油でいためるとよろしい。
青物詩選に曰く、
 非生呼筑紫。穀尽我名哉。筆只書空立。莢徒脱道来。
 薺蒿深狎染。杉菜少逢廻。吸物如召使。致間進一盃。



最終更新日 2005年12月05日 20時39分00秒

林春隆『野菜百珍』「九四 仏掌薯の話」

九四 仏掌薯の話
 つくねいもは、その名の如くつくねたる形を称し、長薯の一種である。その調理も用法も同様である。略して、つくいもという(天公薯)。



最終更新日 2005年12月05日 22時37分24秒

林春隆『野菜百珍』「九五 胡鬼子の話」

九五 胡鬼子の話
 つくばねは、諸国深山に多く産する。初夏、枝頭に淡緑の花をつづり購く。その形、羽根に似ているよりの名であるが、筑波山に産するものを名物とする。河内の天野山にもこれを塩漬としてひさいでいる。 一名を、はこのぎ、こきの木ともいう。



最終更新日 2005年12月05日 23時48分11秒

林春隆『野菜百珍』「九六 撮菜の話」

九六 撮菜の話
 つまみ菜、畑菜の芽生えをつまみ取るもの、鶏毛菜と書く。汁の実、天ぷらと煮合わせ、浸しもの、お惣菜向ぎに旨いものである。



最終更新日 2005年12月06日 22時58分55秒

林春隆『野菜百珍』「九七 蕃杏の話」

九七 蕃杏の話
つるな、山野に自生するもの、茹でて浸しものとする。



最終更新日 2005年12月06日 23時51分49秒

林春隆『野菜百珍』「九八 苦瓜の話」

九八 苦瓜の話
 つるれいし、熟したのは生で食うが、末熟なるは、油で炒って食う。これを錦茘枝とも書く。
 狂詩に、
  高伸看結実。 総体大鮫膚。 メ、賞生青苦。 童嬉色熟朱。
  口開染牙血。蔓茂葉蔵躯。硯蓋時占座。油揚麦粉紆。
 この句によると、苦瓜を素揚にして麦粉でまぶすのである。試みてよい珍味であろう。



最終更新日 2005年12月07日 01時04分03秒

林春隆『野菜百珍』「九九 角股の話」

九九 角股の話
 海藻で石花菜に混じて寒天に製するもの。下総銚子辺では、これを蒟蒻(こんにやく)の如く製して食用にする。俗にいう海蒟蒻はこれである。



最終更新日 2005年12月07日 01時33分55秒

林春隆『野菜百珍』「一〇〇 葱の話」

一〇〇 葱の話
 ねぎは、わが国でも最も古くより、畏きあたりでも用いさせられた根菜である。しかもその滋養分の饒なのと、効能の多いことは、かの大根にも譲らないのである。それを卑しめて上品な料理にあまり用いないのは、仏教の盛んな時から五辛を戒めて葷菜(くんさい)と称したために、韮蒜類と共に人の避けるところとなった。しかし近世肉食がさかんに行われるより、葱の需用はますます増進して来たのである。
 葱の本名は葱の音で、よって一文字の名がある。また葱は根を深く地中に下ろして白根多き故、根ぶかともいう。その葱の軟嫩を分けたのを分葱と称し、その刈りたるを刈葱という。その長じて頂きに宝珠形の実を結ぶをもって、葱宝珠の模型とされた。
 それほど葱は上古より重用せられて、親王宣下の時、参内の前に葱の白根を噛み砕いて、四方に息を吹いて参内したまう古実がある。また葱薹の鳳輦、その他葱について種々の胡実がある。
 正月元旦に葱、蒜、蓼、蒿、芥子等の辛嫩を薬とし、和してこれを食うて迎新の義を取る、これを五辛盤とも菜盤ともいう。のち春盤と佳名にかえたのがそれである。和漢ともに葱を吉例に用いられたことが多い。宗教で禁じた葱も、その本尊さまの釈迦牟尼仏は大雪山で行持せられた、その雪山に接する幽谷を葱嶺と称して、葱がたくさんに出来る山である。で、仏典にも葱嶺の苦行という句がある。
 葱のわが国で古く用いられたことは、皇宗神武帝を始め奉り、応神、仁徳の二帝の御製にも、葱韮のことが多く詠ぜられてある。天平九年に疱瘡(ほうそう)が流行した時、これを食することを官禁せられたこともあれば、既に当時盛んに用いられたのであった。
 また染色に浅黄、萌黄などいう黄は、葱のきである。韮の釈名に茎は韮白、根を韮黄と名つくる。葱の和名()は、初生をわけぎという、弱葱である。その次を刈葱といい、根を採らずして刈るからである。細くして小韮(和名、古比流、一に米比流)に似たるものを浅葱という。食物にはっ文字を加えて浅つ葱と呼び別けている。
 さて東西葱の良否は、まず千住葱をもって葱中の王とし、ここに東西葱の名が著わる。根深、太根と称し、白根の長きを賞する。で、東京は緑葉のところを捨てるが、関西は白根が短きためその緑葉と共に食する。近来一本葱と称し、全く分蘗せざるものを産するが、群馬県下仁田町の特産で、上州一本葱というのがそれで、甘味に富み、東京葱に()ぐ優良品である。また埼玉に茎身太く多くは屈曲している岩槻葱(いわつきねぎ)がある。九条葱は京都東九条辺の特産で、茎身長大にして葉葱として風味を賞される。
 夏葱は熊手葱と称し、東京府下に多く栽培される。軟白部短く熊手の如く曲っている。四時いずれも栽培し得られる。その他、秋田葱、(やぐら)葱などの称がある。
 葱はどんなところでも出来るから、空地さえあれば苗を植えておくと、八百屋で高い葱を求めずとも、軟らかくて美味い葱をふんだんに食うことが出来る。わが家庭にて四時欠くべからざる蔬菜で、汁の実、和えもの、薬味、魚肉の共煮など常に台所から放されないものである。
 鴨が文庫を背負うという諺は、背低い女がぶんこ結びに大きな帯をした不恰好な風を笑ったものだが、鶏が葱を背負って来るという洒落は、葱でなくてならぬ肉の調味である。例の銅脈先生の狂詩に、
   作レ時常守レ信。 未レ解二偶逢晨殉
   寧与二根深舶煮。 莫レ飼二博奕人→
とある。葱は葱頭と同じく神経を刺戟し、消化を促し、健胃、健脳、発汗、便通等に効がある。特にリョウマチス性の人は、常食して薬餌とすれば自然治療ができるのである。
 もし背戸の空地へでも葱を植えるとすれば、八月頃に葱苗を求めて植えておくと、冬から春に採収して食膳に上せる。しかし葱は連作を忌むから、この間に豆、瓜、漬菜、ほうれん草、細根大根の類を植えておくとよい。
  *
 さて調理に、
 葱田楽 白根を二寸位に切り、細串二本刺しにして、油を塗り中火にかけて焼いた後、も一度油をつけ、上りに山椒味噌をぬりつく。
 富士和え 葱の白根ばかりをさっと茹でて、胡麻味噌を入れて豆腐の白あえにする。
 葱のぬた、葱味噌 細々に切り、すり鉢でよくあたり、赤味噌をすり合わせて裏漉しにかけ、味淋と砂糖で味をつけ、とろとろにして弱い火で煮かえし、和えものに用いる。少し固いめにするがよし。
 焼葱 白いところを一寸ほどに切り、金串に刺して焼く。醤油でつけ焼きにし、胡椒をふりかけて出す。
 せん葱 白軸のところを二寸位に切り、(たて)に真半分にして、その周囲のうすいところだけを千に切り、水にてよく晒すのである。また白根を一寸五分位に切り、一枚一枚剥ぎ、竪に繊に切り、布巾に包み、よく水中にて揉み晒しおくのである。
 その外、葱南蛮、葱雑炊、葱の卯の花汁、葱飯などがある。
 南畝の雑筆に「下野栃木にしころ葱といふ根葱あり、岩槻葱の如く白み多くして味美なり。上方西国ともに根葱の白みなく、蘿蔔の長きなし。此二つの物江戸にまされるはなしLとある。漢の陸績が故事に「葱を断つこと寸を以て度とす」とある。また葱は斜めに切ること、東京の牛肉屋では葱を五分というから、この位が程度であろう。



最終更新日 2005年12月07日 01時39分49秒

林春隆『野菜百珍』「一〇一 茄子の話」

一〇一 茄子の話
 茄子(なす)はその季節になると、どこの台所にも転がされいる重宝な野菜である。裏の畑でいたずら者の南瓜(かぽちや)と喧嘩をして、まっ黒けになって怒りっぽい奴であるが、その紫紺の色の程のよさには、棚にあげても嫁に食わすなという意地悪の姑がある位に、可愛らしい姿でそのくるくるとした牛の眼のような愛嬌ある形が、食指よりまず野趣をそそらしめるのである。
 茄子はその種類も多く、また異名もすこぶる多い。一名を紫瓜子、崑崙紫瓜、水茄(長茄子)、谷茄(茄の老いて子の堅くなったものを穀子茄と書く)、白茄(銀茄)、新茄、和糸瓜などの異名を称する。
 その種類は、千成、山茄、丸茄、巾着、芹川(京下鴨)、吉田(京の茂子茄子という)、佐土原、丸成、中成等。鶴首茄子は博多で長茄子とも称して、箱崎付近に特産するものである。その長さ一尺余りに至る。近来シナ産の大丸、大長茄もあるが、味は劣る。もう近来では正月頃から土佐の茄子が市場に出れば、台湾からも来る。で、初茄子を賞味した昔の風流も、ことそれほどに持てはやされなくなった。
 さて、これから茄子の漫談とその調理をこったにしてお話をする。それは茄子の調理方が多くて書きつづけるとあきが来るから、座談まざりに姐板(まないた)越しにお話するのである。
 初茄子は早く出るを賞して新茄子という。句に、
   一日に二っ売りけり初茄子
とある。英一(はなぶさ)蝶はこの初茄子と石燈籠を高価で求めて、人名の向うを張って贅沢を尽した奇行家であった。「永代」貞享板に、「京の東寺辺りの里人、茄子の初生を目籠に入て売来るを、七十五日の齢これ楽みの一つは二文、二っは三文に値段を定め云々Lとある。初もの喰えば七十五日長生きするという諺だが、二つ買って一文安くなって百五十日も長命したら、山盛り初茄子を買い込んで、千年も万年も生き延びる工風があろうか。咄、延命地蔵菩薩も御存じあるまい。その昔、役人衆へつかう賄賂を「是式」といった、茄子の句に、
   初なりや先是式のさゝげ物
とある。今なら珍品がそれである。また「懐子集」に、「庄屋さえ焼田楽は食かねて」という付句に、「初茄子とて守護にとらるゝ」とある。寛永の頃、駿河から江戸に出す初茄子は五月頃であった、句に、
   五月雨や酒匂でくさる初茄子
とある。わが国のみでない、シナでも初生を賞すると見えて「東京華夢録」に、「其歳時、果瓜蔬茄新上市、並茄瓠之類、新出毎対可直三五十千、諸閤分争以貴価取之」とある。
 さて、この小さな初茄子の調理は、
 茶筌茄子  の軸を半分切り残し、へたのぐるりを揃えて、丸ながら切目を八方につけ、それをざっと煮湯(焼明礬(みようばん)を少し加えて)してすぐ水に落したるを、味加減して含め煮にして、ちょっと切目をいざらせぽ茶筌の如くなる。
 串田楽 茄子を竪に二っ切り油をぬりて金串で焼き(多い時は鍋に油を引きて焼くべし)、山椒味噌をつけて青串に二っ刺して出す。
 その他、初茄子の小さきものは姿煮にすること、走りものはその形の初々しさを賞するのである。
 洛東南禅寺の大観和尚の歌に、
   都とて茄子らまでもあぢをやるあぶら附たりくしをさしたり
  *
 茄子を二つ切りにしてならべたるを青海原に見立て、「洛陽集」に、「切形や青海水に茄子浮く」の付句に「塩鯨茄子の浪に寄にけり」と塩鯨に茄子の煮合せ、これを青海茄子と称する。茄子の煮合は魚類の煮汁でたくとことに味がよい。
 青海茄子 中茄子を竪二っ切り、横に三っ四っ庖丁目を入れる、湯に焼明礬を入れてざっと茹でる。これは茄子の原色を損せぬよう色をよく出すためである。数が多い時は料理人は焼明礬の水に一日茄子を浸しおいて用いるが、即座の間に合わすは湯煮でよい。それを水に入れ、さらに煮る。茄子の切目立ち紺碧の(さざなみ)のようなるをいう。
 松もどき この切形は松茸に似せて、長茄子のへたと共に竪に三っ切りにすれば(小は二っ切り)それに似た形になる。生醤油を付けて焼いて柚子のしぼり汁をかける。
 蓮花茄子 竪に二っ割りて切目をつけたるを、蓮の花弁に見立てたのである。句に、
   和尚への馳走煮物も蓮花茄子
   伊勢講は料理にも忌む蓮花茄子
 一ロ茄子 小茄子の皮を剥き、よく茹でて含め加減に煮る。
 煎出茄子 小さき茄子を茶筌に切目を入れ、胡麻油で揚げて後、油抜きにする。
 短冊茄子 若い長茄子の種の少いのを選び、塩漬したるを前日より短冊に切り、水にて晒し塩抜きして、吸いものに用いる。
 芥子茄子 秋茄子の小さきもの、へたを去りて強火で丸焼きにして後、水中で焼いた薄皮を剥き、芥子醤油をかけて出す。
 団扇茄子 若茄子を二っ割り((へた)付きのまま)、縦にすじを入れ、茹でて押したるを二枚ずつ青紫蘇のせんと胡麻味噌を添えて出す。
 唐煮茄子 中茄子を皮のまま縦に庖丁目を細く入れ、酒しおで一度煮こぼし、味淋と醤油にて旨煮(うまに)にする。
 蜜煮茄子 塩押しの茄子をよく塩出して、それを砂糖蜜ばかりで煮つめる。初めよく煮出さねぽ茄子のあくで苦みがある。
 蒸し茄子 蒸した茄子に、山椒と砂糖と摺り合わせた味噌をつけて出す。
 付焼茄子 輪切りの茄子を金網で焼き、生姜(しようが)醤油をつけて食う。
 茄子汁 皮を去り二っ割りにして水に晒し、灰汁を抜き、おろし金でおろしてよくしぼり、味嗜汁に入れ、芥子をかけて用う。芥子沢山なるがよし。
 茄子団子  一口茄子の揃いたるを蔕を去りて、五つ串にさし、油を引き、焼味噌をつけてまた焼くのである。
 この外、風呂吹、山かけ、揚げ出し、刺身、胡麻()え、芥子味噌あえ、三杯酢、吸いものなど。
 ゆかりの袖  小さき木みしり茄子を薄く一分ばかりの輪切りして、金網で両面焼き、むしろにひろげてよき天気に乾し、ばりぽりにして貯え置く。汁の実、和えもの、煮合せに用いる。天気あしき時は、乾しかたまらずかび(、、)が生えるから見合わすがよろしい。
 松葉茄子 (へた)を去り、四っ割りにして(しん)を抜き、更に竪に細打にして水に浸しおき、焼獄(やきふ)の細切り、椎茸の小口切りなどと共に、清汁煮込みて椀盛りにする。
 早味淋漬 茄子の色のよいのを四つ割りにしていちょう(、、、、)に切り、塩もみして軽く押したのち、よく絞り、味淋をひたひたに、砂糖を加え、さらに押し漬けておけば、三時間位で食加減となる。
 亀甲茄子 大茄子二つ切り、亀甲形に皮目に庖丁を入れ、胡麻の油を刷毛でぬり、金網で焼く。肉のところへ生姜醤油をつけて二っずつ出す。
 泥亀汁 俗にどん亀汁という。京の東福寺の開山忌に用いられる名物汁で、前の如く大茄子の切形のものを味噌汁の中に入れたものである。
 塩押し これは小振りの秋茄子に限る。色のよい無瑕(むきず)のものを選び、酒の明樽に一杯っけ込み、塩四升を加え、ちょっと呼び水して漬けこむのである。
 茶釜煮 丸茄子を縦に細かく刻み目を入れ、味噌醤油鰹節の出しで煮たもの。
 四方茄子 四角に(へた)を切りたるものを、程よくてり煮にする。
 焼茄子 丸焼きにして皮を去り、八方だしで煮込む。
 八方だしは俗に蕎麦汁ともいう。水三升位に昆布二枚を入れ、あまり煮こまずに、昆布を引き揚げ、鰹節を程よく入れ、薄口醤油を控え目に()し、味加減は食塩でこころみる。すべて吸物地よりも薄くしておく。これを吸いものにも、煮ものにも八方に用いるからの名で八方汁という。その用途によって辛くも甘くも自由に用いられる、たよりない八方美人よりこの方がお台所で重宝がられるのである。
 茄子丸焼 丸のまま熱灰の中へ埋め、程よく焼き、取り出して皮を剥き、生醤油で食う。火にかざして焼いてもよいが、蒸し焼きのほうが一層美味く食べられる。
 鍋鴫焼 短冊または輪切りにしたる茄子を、油で煎りつけ味噌砂糖を加え味をつける。
 鴫焼茄子 よい茄子を選び、京の鞍馬茄子を最上とする。皮をむいて輪切りとなし、竹串にさして両面を煮返し油で塗り、中火にかざして庶がりと焼き・それに醤油をつけてざっと鍵り乾かし、煉味噌を塗り付け、再び炙り串を抜いて皿に盛り、すり柚をかけて出す。
 煉り味噌は三州味膾のうら漉ししたるに、砂糖、味淋を加え玉子を割りて、粘まりと仕立てることQ
   鴫焼は必ず秋の茄子哉
   鴫焼や茄子なれどもとり肴
 鴫焼(しぎやき)を秋茄子というのは、西行法師の鴫立つ沢の秋の夕ぐれから、必ず秋のものと洒落たのであるが、秋茄子は種が少くなるから輪切りにしても、綺麗で味もしまっているからである。昔の人はこんなことにまで意を(もち)いたのである。
 世俗に秋茄子は嫁に食わすなという諺もあるが、それは秋茄子に種がないという迷信からで、「夫木集」に、
   秋初茄子わさゝの粕につきまぜてよめにはくれじ棚におくとも
と嫁にくれないのは、茄子は寒性で腹を冷やすから、生殖のためによくないという、これも世俗の老婆心である。茄子は草鼈甲(くさべつこう)と異名して、婦人の髪飾りに鼈甲の櫛笄(くしこうかい)をさすのも頭部を冷やすためである。その鼈甲に似た能のある茄子を、小児の瘡毒の呪いにするのもそのためである。一茶の句に「初茄子さて大兵の使かな」。また魁芋を鴫に見立てたのは俳諧師であるが、野人は茄子が夢に蝦蠖となると見た説がある。芭蕉の句に「春雨や二葉にもゆる茄子の種」。
 水茄(銀茄)というは「浙西常茄皆皮紫。其皮白者為水茄」による。
 飛騨の高山では永滞在の客人を送り出す時には、必ず茄子の皮を煮て出す風習があるといい伝えるが、今もそんなことをするか、それには何か因縁でもあるか聞きたい。
 この茄子の皮は貯えて煮出汁に用い、また漬物にもするが、消化はよくない。その蔕も糸でつないで糠味噌に入れて食う、始末のよい女房もある。
「南方草木状」に曰く、茄樹交広の草木冬を経て衰えず、故に蔬圃の中茄を樹う。宿根三五年なるものあり、漸く長して枝幹即ち大樹と成る。夏秋毎に盛に熟す即ち樹に梯して之を採る。五年の後樹老いて子稀なり、即ち之を伐り去て、別に嫩きものを栽う、我国にても八丈島の茄樹はまたこれに似たり云々とある。
 茄 子    銅 脈
百姓駿河早。 幼時他国勤。
離枝蔕木切。 聚首籠中群。
胴割称亀汁。 輪切作鶯焼。
秋間違嫁女。 身内有鋤分。



最終更新日 2005年12月07日 08時57分13秒

林春隆『野菜百珍』「一〇二 夏大根の話」

一〇二 夏大根の話
 夏大根は春早く播種して、夏期に採るものである。品質は秋大根青大根より劣るも、大根類が欠乏の時に、甚だ珍重がられる。これも東京付近のがよい。肉が白くて水分が多く、風味も佳良である。煮食、一夜漬(俗にどぶ漬)がよい。



最終更新日 2005年12月07日 22時51分38秒

林春隆『野菜百珍』「一〇三 棗の話」

一〇三 棗の話
 なつめは、夏芽の義である。初夏に芽を生じ、仲夏白く青き花を開き、実が熟すれば赤く、成食しまた曝し乾して薬用とする。また大きなるを棗といい小さきを棘酸棗という。大なるをからなつめ(、、、、、)ともいい、生食はよくない。熟したものを蒸して乾し置き煎薬に用いる。また蒸して核を去り、砂糖漬にする。
 熟した棗は邪気を去り、脾胃を養い、強精、補腎、長生薬として古来より尊重せられ、薬毒を消す効がある。
 なつめの巨木は材堅くして、シナでは、これを板木に用いたのである。また朝鮮棗も著名である。



最終更新日 2005年12月08日 00時03分56秒

林春隆『野菜百珍』「一〇四 鳴子百合の話」

一〇四 鳴子百合の話
 なるこゆりは、山中の陰地に生ずる。初夏花を開く、形、唇を含めるが如く、故に笑草の名がある。花は連なりて咲く。鳴子をかけたるに似たるより名とする、根白く横に生じて節がある。煮て食う。



最終更新日 2005年12月08日 09時29分17秒

林春隆『野菜百珍』「一〇五 梨の話」

一〇五 梨の話
 川柳子に「手を出して梨を戴く下戸肴」とあるが、勿々もって梨は大いに上戸向きの調理にも、乙なので、ありの味と洒落てよろしい、まず、
 胡麻あえ 輪切りに厚く切り、それを繊にうち、しばらく湯煮して皿に盛り、砂糖、味淋及び梨の煮汁を加えて、()りたる胡麻であえる。
 その他、砂糖漬、梅肉和え、酒煮、梨子羹、寒天と三杯酢、天ぷら、などにして酒の下物とする。また梨酒もある。
 梨はすこぶる種類が多い。それに洋種もある。その種類に、真鍮(一名巾着)。赤穂。土用梨。泰平。長十郎(一名満月)。淡雪。明月。赤滝。土佐条(土佐竜)などと諸国に名産がある。
 秋田に犬殺しという梨がある。大きなのは周囲一尺四寸位、北国にもこの梨がある。狗が樹の下にあって梨が落ちると、たちまち殺されてしまうからの名である。
 梨は逆上をさげ、酒毒を解す、梨の花を煎じて呑むと下痢が止まる。



最終更新日 2005年12月08日 15時20分22秒

林春隆『野菜百珍』「一〇六 菜の話」

一〇六 菜の話
 な(菘)は総称して漬菜という。
 その種類は多い。○山東菜(山東白菜)。○白菜(白茎、青茎)。○体菜(杓子菜、さし菜)。〇三河島菜。○小松菜(冬菜、鶯菜)。○京菜(水菜、壬生菜、千筋菜)。○芥子菜、高菜、大芥子漬。この菜は杓子菜と共に、置漬にして永く食用とされる。○恭菜、いんげん菜、とうちさ、不断菜、しゃむ菜。これは四季に栽培される。
 さて調理は煎菜、煮合、漬菜、その他種々の総菜向き、取合せにすること、常の如し。松尾芭蕉が行脚の掟中に「魚鳥の肉を好んで喰ふべからず美味珍食にふける人は、他事にもふれやすきもの也。菜根を咬むで百事を成す語を思ふ可し」とある。



最終更新日 2005年12月08日 16時22分53秒

林春隆『野菜百珍』「一〇七 長芋の話」

一〇七 長芋の話
 ながいも、家山薬。いもの話でおおかた趣味談は書いたから、すぐに調理にうつる。
 はんぺん 長芋の皮を剥いてよくすり、豆腐も()りて等分にすり合わせ、よく混ぜて布か紙に包み、丸く取って湯煮して用う。
 しょこ 長芋を蒸してうら漉しにしたもの、種々の材料にする。
 かき芋 長芋をよく茹でて布に包み、うちつぶし板の上へ摺りつけて、庖丁にてよせて掻き、さしみの如くして出す。
 時雨いも 長芋をよく茹でて皮を去り、うら漉しでその一部を分けて、これに蜀黍粉と白砂糖と溜りとを混ぜ、蒸籠の中に長方形の深き(わく)を入れ、これに布巾を平に布き、漉したる長芋を箱の三分の一ばかり詰め、上を平にしてその上に蜀黍粉をまぜたるものを適宜の厚さに詰め、次に漉したる芋を詰め、さらに蜀黍粉の分を詰め、最後に漉した芋を詰めて、これを蒸し上げて小口切りにする。
 さざれ石 長芋の皮を剥いて(おろ)し、これに小麦粉と白砂糖及び塩とを入れ、擂鉢(すりばち)でよくすりまぜ、さらに柔らかに煮たる大納言赤小豆を加えて混ぜ合わせ、蒸籠の中に長方形の枠を入れ、これに布巾を布きて、右の材料を詰め込み、蒸し上げる。
 いも玉川 長芋をよく茹でて皮を剥き、うら漉し、これを二分して一分は山梔子で色をつけ、一分は炒った黒胡麻を散らし、長方形の枠に布巾を布き、これに右の材料を交互に層々に詰めこみ、蒸籠でむしあげるのである。
 宇治橋芋 長芋をよく茹でうら漉しし、白砂糖をまぜ、紅及び挽茶で色をつけ、米の粉を入れ、さらに少量の食塩を加えて、玉川いもの如くして蒸し上げる。
 芋かるかん  白米の挽割を山梔子の水に浸しおき、長芋を擦してこれに前の材料をまぜてこね合わせ、適宜に白砂糖及び焼塩を加えて味をととのえ、蒸籠に入れて蒸し上げ、冷して後好みの形に切るのである。
 よリ芋 小倉芋ともいう。長芋をよく茹で、皮を去りて金すいのうで漉したもの。
 芋しんじょ 山の芋をおろし、豆腐を入れ、上々のうどん粉を少し入れて、よく擂り、銀杏を炒りて中に入れ、すえがさにてすくい、沸湯に入れて湯煮してあげる。ずいぶんふっくりと和らかくすること。
 ちぢみ芋 長芋を一寸二、三分ばかりに、短冊にうすく切りへぎ、網に竹串をならべ、その上に芋を列べて遠火で焼き、塩をふり、焦げぬように焼く。水気を去って、ほいうにかける。
 その外、長芋の料理は芋の部を参照すること。



最終更新日 2005年12月08日 22時08分48秒

林春隆『野菜百珍』「一〇八 薺の話」

一〇八 薺の話
 なずなは、東風菜と称し、春の初め畦畔に自生し、芽を出して小白花を開き、のち小さき(さや)を結ぶ。形、三味線の(ばち)に似たれば、三味線草の名がある。またこの草の茎を口にくわえて、手で引っ張って弾くと三味線の音がする。それでぴんぴん草ともいう。護生草。春の七種の一つに入れ、冬至後苗を生じ、二、三月頃、茎を起す。その初生を食用にする。
「和名抄」に薺蒿の和名をおはぎとある。「未木集」に、
   けふまでは雪間のおはぎつみまぜて野辺の若菜の数やますらん
とある。また家集に好忠の歌、
   庭の面になつなの花の散ほへて春まで消えぬ雪かとそおもふ
と、また芭蕉の句に、
   よく見ればなつな花咲垣根哉
   一年に一度摘るるなつな哉
   四方に打薺もしどろもどろ哉
 狂歌に、
   ひくといふ三味線草の名なりとて、なつなとこそはっけやしつらん
 この草は七草粥の外、浸しもの、汁の実、酢菜などに用いる。土筆(つくし)と共に()えものともする。
 薺の根は眼疾に効がある。その根を擦りしぼって眼を洗えば、痛み去りて不思議に治す。卯月八日薺を採りて常に用うれば瞳子がよくなるといい伝えられる。



最終更新日 2005年12月08日 23時06分04秒

林春隆『野菜百珍』「一〇九 刀豆の話」

一〇九 刀豆の話
 なたまめは、鉈豆とも書く、春の末に種を下し、蔓生じ、一、二丈に延び、葉はささげに似て大きく、花も大きく、紫色である。(さや)の形、曲りて鉈の如く六、七寸に及ぶ。未熟なるは莢と共に煮て食す。豆の長さ七、八分、淡紅にて光る。
 刀豆には紅白の二種ある。紅刀豆は嫩芽を漬物として食し、また煮食する。白刀豆は成熟ののち豆を煮て食う。調理は照煮、粕漬の類。
   熊谷がふるなた豆の花の雨
 俳人西村宗因はもと武士であったが、隠棲してこの刀豆の垣をつくって、その昔を偲んだ句もある。また、石清水の滝の本坊が許へ、ある在所よりなた豆を送られた、その返事に、
   弁慶が七つ道具のなた豆は日本一のかうのものなり
と、九州ではこれをたちはき(太刀佩)という。この刀豆は血の道を治するが、腎を減らすおそれがある。



最終更新日 2005年12月09日 09時41分12秒

林春隆『野菜百珍』「一一〇 菜種の話」

一一〇 菜種の話
 なたねは、あぶら菜(蕾薹)、菜の花。嫩のうちに煮食、浸しもの、その花は塩漬にして香の
物にする。薹は味噌漬にして酒の下物。
 陽春四月、黄花地を()きて山野を彩り、狂蝶花にたわむれてその生育を媒介する。俗謡にも「行燈の油の素は菜種なり、蝶が焦がれて逢いに来る……」と、結婚の式に女蝶男蝶の銚子もこの媒介虫の象徴である。三月上巳の菱の餅も、この菜の花の形である。
 種油の製法は、京摂の境にある山崎離宮八幡の社司が創見したものと伝えられている。今も種油の需要はますます盛んである。燈用、食用、工業用の各方面に用いらる。



最終更新日 2005年12月09日 10時40分59秒

林春隆『野菜百珍』「一一一 膾の話」

一一一 膾の話
 なますは何の料理にもなくてはならぬ献立の一っである。式膳などでも膾は軽い食品のようだが、これがなくては礼に欠けるものとされている。で、膾は本膳に付けて出すものである。赤飯に尾頭つきの魚をつけても、この膾がついていないと祝儀らしくない。たとえ揉み大根に花鰹をかけたのでも、簡単な柿なますでもよい。
 膾はもと生魚を細く割いて酢につけたもので、沖膾などといったが、今では魚介蔬菜果実の類までを膾に作ることとなった。芭蕉の句に「蝶も来て酢を吸ふ菊の膾かな」というのがある。
 膾の名目は種々ある。まず、
 筏膾  「庖丁家書」に「鯉鮒すずき鮎などをするなり、皮を引くによつて筏膾と云ふなり」と。(いかだ)は川を引くという謎である。また「庖丁聞書」に、鮎の筏膾というは鮎をおろして細かくつくりにして、柳の葉をいかだの如く皿にならべ、そのうえに作りたる身をもりて出すべし。柳の葉さき人の左または向えなるように敷べし。とある。川を引くというも、柳葉を筏に見立てるのも同意義である。また芦の茎を敷くこともある。
 和雑膾 かぞう膾とよむ、夏の料理である。「洛陽集」に「和雑なます蓼の酢たたへて藍の如し」とある。和雑膾(、、、)は次のかんぞう(、、、、、)かじょう(、、、、、)と共に、もとは同名のもので、嘉定の日にこれを用いたものか。その調理は、
 かんぞう膾  きすご、かれい、さより、えび、いかなどをつくりて煮返酢にまぜたものをいう。
けんばかりおく。
 かじょう膾  うずら、ばん、鴫、すずめなどの小鳥を、醤油つけ焼きにして、細くきり、からし酢であえる。また、かぜち(、、、)あおがち(、、、、)など称し、雉子の腸をたたき、味噌をすこし入れ、狐色になるまで煎鍋をすすぎ、さてだしを入れて、煮えたたし鳥を入れ、塩加減して供する調理もある。
 なますの話から図らず野菜の領分を侵害したが、精進落しのついでに、いま少し魚類膾の名目を書いてみよう。
 沖膾 あじ、いな、あゆなどつくりにして、蓼、紫蘇、苣の葉などを粗く切って入れ、花かつおをかける。煮返し酢。
 ひでり膾 あめの魚を三枚におろし、身をすきて作り、両の皮を打合せして皮目より焼きてきざみ入れ、唐芋の茎をささかきて入れたもの、煮返し酢。
 かわ膾 はも、ひらめ、鯛、鮭の類のかわばかり焼きて刻み、おろし大根に粒の黒胡麻を入れ、合わせ酢をかけて出す。
 太郎助膾  一しおの鯛をいかにもうすく作り、鮑をうすくひらひらに切り、三月大根、木くらげ打って煮返し酢に入れまぜる。
 骨膾 鯛、ほうぼうなどの骨をよく火取り、あらくたたきて、おろし大根、木耳、生姜など入れ胡麻めいれるもよし。
 ひず膾 塩引の鮭のあたまを二っに割り、氷頭ぽかり取り、うすくきざみ、おろし大根、独活(うど)などにあえまぜる。
 山葵あえ 雁、鴨の類を酢に漬け、少し塩をふりかけ、その塩を捨て、山葵酢(わさびず)であえる。
 三河あえ 胡瓜を皮とも刻み、塩でもみ、花かつおをたたき味噌酢であえる。黒胡麻入れる時は味噌を加えず。これを水あえという。
 いりこ膾  いりこをよく洗い、湯煮して、だしと溜りで煮て青豆の酢であえる。
        *                   *               *
 俗に(あつもの)にこりて(なます)を吹くというが、膾は酢で持つ、男は気で持っ。で、酢の利かぬのを聾と称して、酢でも蒟蒻でもと人から持て余される厄介者もある。
 その厄介ついでに精進の膾も少し書いて見よう。
 一月 (煎酒)、莓もどき、岩たけ、揚麩、防風、わらび○(煎酒)うど、木耳、椎茸、揚蒟蒻、わさび○(煎酒)、土筆、芹、揚牛蒡、金柑煮しめ、すり生姜○(酢煎酒)、おろし大根、蓮根せん、蒸しかしゅう、くだき栗○(蜜柑酢)、よめ菜、むし栗、揚麩、しょこ。
 二月 (煎酒)、ほうれん草、生椎茸、慈姑色付○(酢煎酒)、かき芋、揚ゆば、五加木、銀杏○(煎酒)、神馬藻、あげ麩、巻昆布、ろくしょう○(胡麻酢)、椎茸せん、雁もどき、花榧かけて。
 三月 (煎酒)、素麺とうふ、松露、岩茸、三ツ葉、くるみ○(煎酒)、長芋短冊、すりうど、揚ゆば、わさび○(煎酒)、結び干瓢、葉生姜、生椎茸○(酢味喀)、うど、あさつき、つまみ麩。
 四、五、六月  (煎酒)、寒天、かえし、むし栗、青豆、岩茸、わさび○(煎酒)、のし瓜、岩茸寄せとうふかけて、わさび○(煎酒)、豆腐せん、もずく、わさび○(煎酒)、漬ぜんまい、くるみ粉○(煎酒)、焼茄子引さき、くるみ、わさび○(酒浸し)、柚べし、竹の子、葛切、くるみの粉○(酢あえ)、白瓜、木耳、もずく、麩、花かや、けし酢○(酒浸し)芋短冊、竹の子せん、つみ獄、すり青豆。
 七月 (煎酒)、丸麩あげ、わさび○(煎酒)、包みゆば、白瓜もみ、椎茸せん○(煎酒)、白瓜、打牛蒡、隠元ささげ○(酢あへ)、人蔘、白瓜、木耳、ずいき、海苔の粉、あえまぜ○(酢あえ)、ずいきけしころも、青豆、くだき栗○(蓼酢)、おろし大根、皮牛蒡、あげ麩。
 八、九月  (煎酒)、芥子ずいき、なた豆せん、むし栗、わさび○(煎酒)、こもとうふ、むかご、あげ麩○(煎酒)、さき松茸、銀杏、みょうが、むきぶどう。
 十月 (煎酒)、あげ麩、煮しめ麩、梨、湯葉○(煎酒)、平茸せん、しょこ、柚子○(煎酒)、結び豆腐、せんかしゅう、くわい○(煎酒)、油あげ、霰とうふ、焼栗、山芋せん○(煎酒)、せんゆば、岩茸、人蔘、むきぶどう。
 十一、十二月  (温膾)、あげ麩、栗、大根、椎茸、ごま酢であえ温めて出す○(蜜柑酢)、おろし大根、もやし土筆、せん柚子、雁もどき○蜜柑酢(しょう麩、長いも、あげ、ゆば)○(太煮)、牛蒡、けしくわい○(芹焼)、くるみ、汁栗随分あつくして○(柚ねりあえ)、牛蒡、栗、人蔘○(煎酒)、焼長芋、せんゆぽ、長芋焼むしり、白酒かけて九年母もどき。
 この外に、
 七色膾 大根、人蔘、椎茸、豆腐、蓮根、油揚、白柿の七種を材料としたものを白和えにする。これと似たものに、
 羅漢酢和  は油揚を二つに切りうらかえして、その揚地の豆腐を掻き取り、油揚の皮をごく細く刻み、それに人蔘、椎茸、大根その他の材料をせんに切り、煮るもの味付、生食のものには塩をして前の揚地のとうふを、胡麻とすり合わせ、酢でゆるめ、砂糖を加え、あえまぜにするのである。
 すべて膾にする材料はうすく切るがよろし。



最終更新日 2005年12月09日 23時34分51秒

林春隆『野菜百珍』「一一二 納豆の話」

一一二 納豆の話
 なっとうの名物は東海道は浜名湖で、浜名納豆と字句からして、浜名と納豆との連絡がついている。
 その納豆の製法は、その近在の大福寺という寺から始めたので、昔は寺納豆といった。山城薪の里の酬恩寺に一休納豆がある。一休禅師の創製されたものだと伝える。どちらの納豆が本家か、登録商標ぐらいではなかなか調査がむつかしい。大体納豆は寺のもので、嵯峨の天竜寺にも、紫野の大徳寺にも、どこの寺でもよく納豆の名物がある。
 昔は冬の朝のみに「納豆売り」の声がしたのを、いまでは年中納豆納豆と、それほど東京人は納豆を常食にするのである。寺の多い上方人が却って、納豆汁などは茶人の食うものとのみ心得ているのがおかしい。
 さて納豆は「桂川地蔵記」という弘治二年の跋のある書に、齟売買之物少々記之」とある内に、坐禅納豆、法論味噌というのがある。この法論味喀は、ほつ味噌と称して南都の興福寺や東大寺で作った名物、例の春日のあすか味噌が唐納豆のことで現に未醤納豆ともいう、坐禅納豆というのは今の坐禅豆と改名したものか。その坐禅納豆が寺納豆に変称して、それが浜名納豆の名にとどめを刺したものか。
 納豆の戸籍調べでもあるまいが、弘治といえば桶狭間や川中島の合戦のあった永禄の前の年号て、真珠庵の一休が創めたという時代は天文年間とすると、二十年前後の差である。
 ここに浜名湖岸三ケ日の納豆の根元大福寺では、「遠江名産浜名納豆由来」というありがたい縁起を発行して盛んに宣伝している。この書によると、文禄年中征韓の時、徳川家康が肥前名護屋に在陣の際、唐納豆を鎧櫃(よろいびつ)の中に蔵し、征韓の役()むに及び祝盃を挙げるにこの唐納豆を酒の下物とされた、その字訓が、からをおさめてまめ(、、、、、、、、、)という語に通ずるをもって吉兆と賞され、それより年々献上することとなった云々と、家康爺も食い辛坊だが、それを戦国時代に唐を納めて豆だなどと、悪い洒落を伝えた納豆坊主も、なかなか麦酒の対手ぽかりでない、大いに話せる代物である。
 梅干茶に朝の(つと)納豆の芥子(からし)が、ツソと鼻を衝くなど、昔ながらの江戸情緒である。
 で、この納豆は物騒な戦国時代に唐土から伝来したのでなくて、径山寺(きんざんじ)味噌の本場からそれより以前にわが国に伝わって、各寺々で種々製作したのがその起りであろう。
 昔は叩き納豆というのもあったが、今では粒納豆のみで、糸引納豆、辛納豆、甘納豆などいうのがお茶菓子にされる。
 納豆の製法は種々あるが、浜名納豆の法は、豆一斗を味噌のように煮あげて、うどん粉一斗入れて、よく合わせて(こも)をふたにして三日ほどねさせ、さてふたを取り少し冷して、上へ下へかえして、またねさせ、よくねたる時、水六、塩三の割でつくり入れ、時々()きまぜる。三十日ほどでよくなれるのである。口伝に、戸板にひろげ戸の桟ほどに盛ってねかす、あつきはあし、とある。
 これを簡単に自家で製するに、麹ふたようの箱に、新藁を敷いてこれに煮た大豆を入れ、その上にまた切り藁を被い、ふたをして炬燵(こたつ)に入れておくと、一夜のうちに納豆は出来るのである。
 納豆汁 は、常の味噌汁へ納豆を粒のまま入れ、煮立て後味噌こしにてすくい、篩にて漉しすりて、すぐその汁にてのべるのである。
 宝暦ごろの泰輔卿東行説話に、浜名納豆は見つきに似ぬ味にて、酒の肴にはえならぬものなりと。
   かささきのはしもとかけし橋杭も朽て浜名のなとふばかりに
 許六の句に、
   腸をさがして見れば納豆汁
 これは禅僧の小むつかしい問答の、その腹をえぐったもの。また狂歌に、
   納豆の汁はしるしの好ぶ好身はあたたまる物かとはしれ
 納豆をからからに乾し、板の上で粉にして、これを貯え、魚鳥などを加えて煮るもよい。



最終更新日 2005年12月10日 00時48分15秒

林春隆『野菜百珍』「一一三 落花生の話」

一一三 落花生の話
 なんきん豆、蕃豆、土露子、滴水生、長生果などの名がある。半蔓生の一年草で、熱帯地方に産する。わが国では、千葉、茨城、静岡、栃木、神奈川、鹿児島及び台湾に多く産す。
 その種類に、大落花生と、赤落花生の二種がある。この豆は油に製し、また味醤にも作り、妙りて食用とし、また燃料に用い、石鹸の材料にもされる。また料理、菓子の材料にも用いられる。
 落花生の炒り方は、莢のまま細砂をまぜて焙烙(ほうろく)か鉄の平鍋で文火にて炒る。焦げつかずに、軟らかく炒れるが、急ぐ時は皮を剥いて炒るもよし。今の甘栗が流行せぬ以前は街頭でこの落花生を売りだした。特に南京豆屋と称して、五色豆や煎り豆屋の向うを張った流行食品であった。
 落花生豆腐、落花生羹などは、胡麻豆腐や羊羹のつくり方と同様に、その項を参照すること。
 落花生を粉にして道明寺糒の代用にもすれば、けし餅の代りにも用いられる。また洋食、洋菓子に応用せられ、ビールの下物にもなる。シナ食料店で売る剥いて塩炒りをしたのは、ことに美味いようである。



最終更新日 2005年12月10日 09時32分43秒

林春隆『野菜百珍』「一一四 滑茸の話」

一一四 滑茸の話
 なめたけは、榎茸、椋茸とも称し、その他、柿、梅、桑、楮、柚、槭等の榾木に生ずる蕈である。
 また、滑煤茎とて、榎の樹より生ずる傘形に叢生する菌がある、その傘の部が滑らかで、茎の色が(すす)黒くあるので、なめすすき(、、、、、)と称したものである。
 その茸はこれらの樹の枯株より自然に生ずるものであるが、さらに人工的に榾木を作ってその発生を促すので、丹波地方で林業の副産物として栽培されている。
 なめたけは、吸いもの、和えもの、平、煮合せなどに用うるも、今は昔ほどに産することなければ、僅かに珍料理として用いられる。俗になめ(、、)と称する、乾したものを乾なめという。
   なめ茸や見合の供の能き器量



最終更新日 2005年12月10日 10時05分22秒

林春隆『野菜百珍』「一一五 薤の話」

一一五 薤の話
 らっきょうは、水晶葱と称し、葉は葱の如く、根は蒜に似てその臭いあまり甚だしからず、故に董草の外として僧家にもこれを食い、俗に行者蒜の名がある。漬けものに用いて口の臭きを消す効がある。
 花らっきょうの二つ三つは、食膳にあって好もしいものの一つである。



最終更新日 2005年12月10日 10時51分01秒

林春隆『野菜百珍』「一一六 零余子の話」

一一六 零余子の話
 むかごは、古名をぬかごと称し、薯蕷、長薯、自然生薯などの蔓の葉腋に生ずる小塊である。その形は長きも、丸くもあって、また、このむかごを播いても生ずる。
 この調理は、煎りむかご、照り煮、白酢あえ、海苔あえ、梅肉あえ、汁の実など、茶人の好むもので、狂歌師手柄岡持は、むかごの砂糖煮に育海苔をかけたものを、菖蒲むかごと名づけた。
 零余子と字でも書いて廃物のようだが、このものなかなか薬用をなして、虚損を補い、腰膝をつよくし、腎を益すというので、老人などがこれを喜ぶのであろう。
 むかごは炮烙でざっと炒り上げ、皮を取れば青くなる。
 また銅脈先生は零余子を賛して曰く、
山芋雖レ尋レ伜。 葉根只黙然。
鉄丸吹恐墜。 欒粒擲擬レ懸。
好味慈姑似。 遠看松露愆。
畑縁二蔓実在 兄弟共召連。



最終更新日 2005年12月10日 13時16分02秒

林春隆『野菜百珍』「一一七 麦の話」

一一七 麦の話
 むぎは、大麦、小麦と二種あって、大麦は米につぐ穀物で、糧食中重要なものである。箕子が麦秀の歌にも「麦秀でて漸々たり、禾黍油々たり、彼の狡童、我と好からず」と殷の廃墟を過ぎて国の(ほろ)びたのを哭した。誰しも人間として稼穀の成熟せんことを祈らぬものはない。祈年祭という大切な神事もそれがためであるρ
 四、五月の頃に麦を収穫するを麦の秋という、夏の季ながらこれを秋というのは、秋はあかりの約で、あかりはあからむという義である、と説かれてある。また、稲は秋に実る故にそれになぞらえて麦のみのるをも秋という説もある。
「野客叢書」の刈麦の詩に「農扈方還夏。官用首告レ秋。注臣謹按レ物。熟謂二之秋叩取二秋斂之義。故謂二四月幻為二麦秋一」とある。「礼月令」にも「孟夏の月麦秋至る」とある。朗詠集にも「五月蝿声送麦秋」の句がある。「夫木集」に、
   おくるてふ蝉のはつ声聞くよりも、今はと麦の秋をしるかな
とある。
 大小麦ともに、九、十月に種を下ろし、皆四月に黄熟して怒髪天を()く如く穂が秀でる。芭蕉の句にも、
   麦の穂を便りにつかむ別れ哉
と、その高く人の背よりも伸び伸びしたところを吟じたのである。
 そんなことはどうでもよいが、麦は立春から百二十日に至るを旬として、諺に「麦は百日の中に蒔き三日の中に刈る」というので、麦秋の頃は農家は眼のまわるほど忙しい。
 それで米は初夏に植えて炎暑に育てられるが、その収穫は霜の降る頃であるから、その性が寒湿でべっとりしている。それに引きかえて麦は、晩秋に種えて厳寒に育てられ、陽春に至って刈り取るから、麦を二年草とも年越草とも称し、その性が温質であるから、からりとしている。これを両性に分けると、米は女性で、麦は男性である。で、裸麦といって、裸で褌を締めているなどは余計ないいぐさだが。米の飯が脚気に毒で、麦飯を食うて養生をすると治るのも、その寒性の米が水腫によくないからである。その麦飯を嫌がって、農家の娘さんが都会へ逃げ出して、白い飯を食いたがるから、遂につまらない淪落の女となるのである。麦の黒いのに対して、白米を猿の牙という俗諺は、「日本記略」花山院寛和元年三月十八日の記に「施以章牙百許」と、また-源平盛衰記」にもそのことが見える。
 大麦には早、中、晩とあって、苗穂は跡麦より大きく多對腔がある。麦は専ら飯とし、また麦こがしとする。麦飯とするは大麦を搗き精げたので、また挽割麦を飯に炊くこともある。和名を太麦という。
 小麦には穂が少く、故にぽうず麦の名がある。芒のあるのを髯長という。また品種も多い。子を()いて麦粉とする。また、からす麦、くろ麦、裸麦、こうぽう麦等がある。
 大麦には普通、大麦と裸麦の二種がある。それを精麦、挽割、平麦等として、飯に炊き、醤油の醸造に用い、また麦芽として飴をつくり、ビールを醸造するなど、また麦麹として田舎味噌の原料となし、さらに粕麹を作る。
 小麦は、味噌、醤油の原料とする外、挽き粉として、饂飩(うとん)索麺(そうめん)麺麭(パン)()等を製し、菓子製造の原料に供する。
 さて、麦粉を原料としての調理を、二、三書くこととする。
 爰切 大麦の粉をうどんの如く、塩加減を大事にして、夏は塩一升に水三升入れ、冬は五升入れてその塩水で、いかほどでも粉を加減よくこね、新しい茣蓙(ござ)に包み、よく踏み伸ばし、うつくしく艶の出るまでにして丸めて、(ひつ)に入れ布を湿してかけおき、取り出して打つのである。風にあててひびいらぬようにすること。うどんは平目打ちなれど、麦切りはほそく打つものである。
 それで冷麦と冷索麺。にゅうめんうどんなどと、異なるようになったことは近世のことで、麦切がその元で、「今昔物語」に、麦縄の蛇となった物語に、「夏の頃麦縄多く出来たるを客人ども多く集って喰ける云々」と。これは冷麦のことであろう。「康当記」に、文安五年八月十五日条、「二献冷麺居之鯛指身居之」とある。「望一后千句」に「世の中はからしと泪こぼれそひなきが手向になせる冷麦」と。またあつむぎというものがあって、「職人尽歌会」に「てうさいのこしきのうへのあつむぎの、むしあけのせとの月わたるみゆ」と、これは索麺(そうめん)売りの歌である。あつ麦は入麺のことである。また「宣胤卿記交亀二年正月廿五日内裏御月次和歌御会云々被召御末賜入麺天酒等」「天酒は甘酒のことにや」とある。
 その他、麦焦がし、麦湯など。大麦の粉を挽いたのを麦焦がしと呼び、上方でははったい(、、、)と称する。はったい粉は、粗挽の麦を焙烙(ほうろく)で炒って、臼で()いて(ふるい)()したもので、これに砂糖を加え湯煉りにして農家の問炊に食う。また湯を注したものを、はったい茶というので「いにかけた飯はつたいが呼びもどし」という川柳は、夏時にすえ(、、)た飯の臭いのを消すために、このはったい粉をかけて茶漬にするのである。
 農家が麦飯を常食として、米を売って生活するのは、わが国の習慣であって、「麦飯の味も忘れた長い公事」という狂句は、訴訟のため永らく滞在して宿屋飯を食っていることをよんだものである。
   麦秋のあてこともない夜寒哉
  麦  銅脈
能久柔焼洗。 重炊二麦飯一成。
最宜二薯蕷掛 或賞醤油清。
百姓尋常事。 此方邂逅情。
只縁二空腹早 大食入レ唇軽。



最終更新日 2005年12月10日 13時01分48秒

林春隆『野菜百珍』「一一八 饂飩の話」

一一八 饂飩の話
 うんどんは略してうどんと称し、最も上方人の嗜好する食品である。古代の風俗に、うどんを小豆にて煮るを「はっとう」と称した。うどんの古名は「あつむぎ」と称して、小麦粉をもって製した。その一種に冷麦というもありて、煮あげたるうどんを水に冷やしたものである。昔、麦縄と称したのもうどんのことで、これらは麦の話で述べてあるが、このうどんも往昔は小麦粉を丸めて団子をつくり、その中に韜を包みて煮たもので饂団(、、)とでも書くべきものを、その形に因って混沌と名づけたのであろう。「庭訓首書」に、「貞丈云、書言字考唐韻を引きて、饂飩の字を出し、その下に『饂飩和俗所用』と見えたり。思ふに混沌を後に食篇に書き更へたるべし、煮て熱湯に浸して進むる故、一名を饂飩ともいひし也」とある。
 元禄の頃には、麺類は菓子屋で製したもので、そこへ(あつら)えて船切にして取り寄せたものだが、その後享保の末けんどん屋というものが開業されて、朱塗りの桶に饂飩を入れ、汁を徳利に入れて添えた。これがうどん屋の濫觴(らんしよう)で、けんどん(、、、、)というのは慳貪の義で、いわゆる現金取引ということである。そば屋の壁に「現金掛値なし」の貼札のあるのも、けんどん屋の遺風である。俗に桶うどんといって、来山の句に「春雨やもらぬ家にもうどん桶」。また「俳諧三疋猿」に「これ程の広き住居に榾のかけどちらもつかすうどん一桶」。これらは人名けんどんなどという贅沢なものが出来た頃のことで、御膳そば、御膳うどんと、善哉しる粉屋にまで御膳の名を呼びなしたのは、仙台侯及び片倉家の膳部に供して賞味せられ、遂に禁裡及び幕府へ恒例の上納品となったからのことである。
 むかしは饂飩に必ず梅干を添えて食ったと見えて、「懐子集」に「うどんものぶる絵筵のうへ」という付句に「梅干のすいさんながらまじはりて」とある。「宗園千句」に「梅干くふた真似は其儘膳くだり扨もうどん屋こぼすらん」、「料理物語」に、うどん胡椒梅とある。文政の頃まで京のうどん屋は、胡椒の粉を包みて添えたので、近松の「大経師昔暦」という院本に「本妻の悋気(りんき)と、うどんに胡椒はお定まり云々」とある。いまはこの風が鰻屋に移って、包み胡椒を添えるようになった。
 それで昔は、うどんを専らにして蕎麦はかたわらに商ったので、そば屋をうどん屋と称えた。いまはうどん屋では幅が利かなくて、東京でも上方でも蕎麦屋という看板を出すようになった。また、ひもかわうどんというのは平うどんのことで、悶東海道名所記Lに、鳴海のあたりに伊も川うどんそば切と見え、「一代男草子」に、「二川といふ所云々」、芋川という里は名物ひらうどんということあり、然らば「ひも皮は芋川なるべし」と「嬉遊笑覧」にある。
 京都北野神社の前に俵屋といううどん屋がある。そこは昔から太打ちうどんの名物で、大阪の北船場にも一軒あった。また江戸の深川浄心寺前に=本うどんLという素敵な太い一本打ちのうどんの名物があった。
 こうしたうどんの名物は、どこの国々にもあったもので、禅宗の寺では祝麺といって、太いうどんを雲水連が自ら製して食う風がある。著者も往年兵庫辺の禅寺で、このうどんを手水盥(ちようずだらい)のような大きな塗桶に盛られて、たたき牛蒡(ごぼう)の太いのを添えて出されて、うどんよりは、喫驚一番うんざりしたことがある。この禅うどんは辛い煮出汁で、湯だめのうどんを食うので、坊間のうどん屋でいう桶うどん、釜揚うどんに類したものである。
 名古屋や伊勢地方の「きしめん」もうまいものである。
 うどんの製法は、麦切の話を見るべし。



最終更新日 2005年12月10日 15時42分35秒

林春隆『野菜百珍』「一一九 鶯菜の話」

一一九 鶯菜の話
 うぐいす菜は、小松菜の一種、また水菜の小さきもの、かぶらの初生(はつなり)二、三寸なるもの、鶯の
啼く頃に生い出るからの名で、黄花菜と称する。
 春の七種草(ななくさ)のすず菜といえば蕪菁菜(かふらな)のことで、これを「くくたち」と称し、豐の字を用い、句に「薑や医者の許して五六町」とあるが、ある書に、くくたちというは誤りで「茎立」であると弁ぜられてある。その文に、
   茎立(くくたちといふは誤也)、うきな、かぶら菜など、冬の寒気にとちられしが、春の陽気を得て生ずる処の茎なり、即ち花の咲くとうの若ばえなり。蕪青菜を食するが正定なれば、くさはわかしといへども、食事に用ゐては時分過ぎたる道理あり、よく味ふ時はいまだ花のかたちなきといへども、自然に花の香あり。和歌によめる若菜といふに七種ありといへども、まつ春の菜のあらたに若やくことなり。本草にいふ若菜は八九十月のまびき菜などのことなり。
とある。この茎立の頃は、珍しく汁の実とし、和えもの、浸しもの、青煮のまま添えて用い、その若やぎし春の気分を味わうのである。
   籠を手にさげつかかへつ名にめでて鶯菜をや摘んで入らん



最終更新日 2005年12月10日 16時40分43秒

林春隆『野菜百珍』「一二〇 五加木の話」

一二〇 五加木の話
 うこぎは、五加(うこぎ)科に属する野生の灌木にて、多く人家に植えて生垣とする。葉は人参の葉に似て深緑である。茎に(とげ)を有し、夏に小白花群がり開く。実は熟すると黒く、異名を交章草、八角茶、五佳と称す。葉の五つあるをもって五加木の名とす。一枝に五葉あるものをよしとするも、三葉、四葉あるも皆用う。薬に用うるは茎葉は五、七月に採り、根は十月に採れども、菜にするには二、三月の(わかば)を賞翫するのである。
   老僧の腰のしてゐる五加木哉
   都でもこはしまつなり五加木飯
   一行のお宿申さむ五加木飯
 うこぎ飯 は、その嫩を採り、よく湯煮して水に浸しおき、それを乾して蓮飯の如く、刻みて塩飯に交ぜるのである。
 うこぎ茶 は、その葉を採り、蒸して乾かしおき、またはほいうにかけて茶の代用にする。その外、浸しもの、三杯酢など、うこぎ茶は元より茶素を含まねば、興奮作用の功はないが、多く利便の効はある。それで五加木は強精剤として、また疝気(せんき)に効があって、百病の薬として古来より用いられたものである。



最終更新日 2005年12月10日 17時13分37秒

林春隆『野菜百珍』「一二一 鶉豆の話」

一二一 鶉豆の話
 うずらまめは、一にちりめん豆と称し(斑大豆)、菜豆の一種である。種実は豊肥し、淡褐色の地に美しき斑紋を有し、その状、鶉の羽の交彩を有するが故にこの名がある。嫩芽、子実ともに味佳にして、煮豆屋の店を賑わす下戸向きの食品である。



最終更新日 2005年12月10日 20時09分33秒

林春隆『野菜百珍』「一二二 鶉茸の話」

一二二 鶉茸の話
 うずら茸は、松茸の一種で、菌傘の上面に、鶉の羽の紋彩に似たるものあるよりの名である。



最終更新日 2005年12月10日 20時51分11秒

林春隆『野菜百珍』「一二三 独活の話」

一二三 独活の話
 うどは、五加科に属する宿根草である。「土当帰」は山野に自生し、五、六月頃にこれを採収したが、今は種子法と挿伏法によって栽培され、冬春の間に採収される。通常種よりも寒独活の方が肥大にして美味である。挿伏するのは多くこの種で行う。本名は「土当帰」と書き「独活」と書くのは風なきに独り動くよりの名で、独揺草とも書く。恙活は独活の子であるが、上古は独活と共に食用にされた。うどの能は、邪気を去り、風熱を冷やす、手足のしびれたのにもよい。
 句に「風ひかぬ人の誉出す芽うど哉」と。芭蕉の句に剛飲明けて花生にせん二升樽」というに、尾張の人淡酒一樽、木曽の独活茶一種送りしを門人にひろむるとてと前書きをされてあるが、独活茶というものが木曽辺に用いられる。五加木茶の如く、うどの芽を蒸して茶に製したものが聞えた。「雪間より薄紫の芽独活哉」の句がある。
 うどは寒地に適し、摂北、丹波の国境辺の寒独活、ことに佳良である。もと北海道より移したもの。節赤うどは山城桃山付近より六地蔵辺を最も適地として優良なものを産する。また近来、丹波南桑田郡にて盛んに栽培さる。うどの嫩芽は一種の香りを有し、すこぶる美味である。それに似た、たらほう(((ヘヘヘへ)味がある、それを木独 珊瑚うど うどの芽けると桃色になる。 松葉うど 葉先を一方をつけるようにすれ》の木)は「庭訓往来」に、醍醐独活芽と称し、その嫩芽を食するに独活の味がある、それを木独活ともいう。さて調理は、
 珊瑚うど うどの芽を約一寸ほどの長さに切り、皮を剥ぎ、ざっと茹で、塩を振り、甘酢に漬けると桃色になる。
 松葉うど 葉先を一寸余り切り、四角になし、薄く打ち、その一枚ずつにまた一方を切り、一方をつけるようにすればちょうど松葉の如くなる、それをよく水に(さら)しおき吸いものなどに用う。
 大原木うど  うどを五寸位に、皮を去り(たて)に細く割り、水に(さら)し、味をつけ一寸ほどに切り、頃合の束にして、三ツ葉の茎で結ぶ。三ツ葉の茎はちょっと湯煮しおくこと。
 木賊うど とくさうどは一寸長に切り、水に入れたびたび水をかえて灰汁(あく)を脱き、目笊(あざる)にあげ水気を去り、塩をふりかけ、しばらくそのままにおき、再び水で洗い、十五分ばかり酢に浸し、それを取り上げ(しずく)をきり、鉢に入れて砂糖をふりかけ、しばらくして浅草海苔を粉末にして、まぶして付合に出す。
 扇面うど は、うどの皮を剥き、一寸余に切り、竪に七枚位に庖丁を入れ、その末をのこして扇の如く広げて用う。うどは酢引にすること。
 味噌掛うど  随分太いうどを一寸ほどに切り、皮を取り、よく湯煮し器に入れ、上よりきのめ味噌、山椒味噌、山葵味噌、唐辛子味噌、胡麻味噌、砂糖もろみ、これらのうち見合わせてつかうべし。
 焚出しうど  これも一寸ほどに切り、皮を去りょく湯煮して、酒しおと醤油にてよく焚き、あたたかきうちに器に入れ、胡椒粉をふりかけて出す。
 味噌煮うど  これも前の如く湯煮して、味噌を酒にのばし、その中にてよく煮あげて、辛味を添えて出す。
 浅漬うど 太き独活を二寸ほどに切り、常の如く糠味噌に漬け一夜おくか、朝つけて夕に出すかして用う。また一寸位に切り丸剥きにして、沸湯をかけて糠味噌に入れ、一時間ばかりで出して即席に用いるもよし。
 その外、吸いもの、和えもの、浸しもの等。
    独活芽                 銅  脈
多産二深渓岸幻 僑居青物場。 茎剛皆見棄。 芽若甚繁昌。
錠切生身淡。 糸制差味香。 無情成二大木殉 世上譬二阿房→



最終更新日 2005年12月10日 23時57分23秒

林春隆『野菜百珍』「一二四 瓜の話」

一二四 瓜の話
 うりは、果菜として種類多く、東洋固有の作物である。まず、越瓜、南瓜、西瓜、冬瓜(とうがん)甜瓜(まくわうり)、胡瓜、扁蒲(ゆうがお)等を主とする。
 瓜の調理はその部門で述べることとして、ただ瓜とのみ呼ぶものについて、どれが歌に詩に瓜とばかり詠まれるか。 一々その句によって判断せねばならぬ。
 世俗瓜を()くに上の方を切りて先くらうを鬼をするという。「礼記」玉藻に、瓜祭二上環一食レ中。棄レ所レ操とある。鬼神を祭る意で、おにのものといったのであろう。また天子諸侯大夫庶人の瓜をさく礼も、「曲礼」に見える。で、この瓜は甜瓜のことで生食するものである。
「五雑爼」に、昔人茶を闘わすことを喜び、故に茗戦と称し、銭氏子弟は書上瓜を取り、各子の的数をいい、之を剖て以て勝負を観る之を瓜戦という、然れども茗は猶お戦うに堪えたり、瓜は即ち俗矣とある。世俗柿の種を的数して勝負するものを種さしという、これ柿戦であるが、瓜の種はちょっと面倒である。これも真桑瓜であろう。歌に「これくうていきよ千歳の松よりも蔓に()るこそ瓜の名物」、また瓜の花と詠むは、胡瓜、越瓜、姫瓜、浅瓜、甜瓜などの花で、
   タベにも朝にもつかず瓜の花
   みのを出て見る人稀に瓜の花
   花と実と一度に瓜の盛り哉
   朝露によごれて涼し瓜の土
 この瓜の花はどのうりか。冷し瓜というのは甜瓜で、一茶の句に、
   人来たら蛙になれや冷し瓜
   初瓜を引とらまへて寝た子哉
   三ヶ月とひとつ列べや冷し瓜
   お座敷や瓜を剥さへむつかしく
などがある。また「詩礎」に「羽扇揺レ風却二珠片殉玉盤貯レ水剖二甘瓜白社可レ容陶令酒。青門堪レ種邵平瓜」と。邵平は秦の東陵侯であったが、秦の(ほろ)びてのち布衣となって、青門という所で瓜田をつくった。その瓜の美を称して五色の瓜とも、邵平瓜ともいって、甜瓜の異名を東門瓜というのである。また「習しの塩茶のみけり瓜の後」といふ其角の句は、西瓜、甜瓜を食った後で塩を舐めると中毒せぬというのである。「水瓶に温公たつや真桑瓜」などは洒落ている。狂歌に「色づきてちぎりに通ふ瓜畠先へ落たは誰が仇まくら」は巧である。
 ある時人々が集まって万法は空也と問答を出した時、寂蓮法師は「何も皆空になるべきものならばいざ(この)瓜に皮も残さじ」と詠まれた。また松山侯の御前にて、瓜の句はあるべし、皮にて発句せよとあった時、其角は畏まって「瓜の皮水も蜘手(くもで)に流れけり」と即吟した。
 白梵天というは、大和より出る白色の瓜で、「梵天の瓜や味ふ舌のさき」また「名をしたひ懇切ぶりの雨露が梵天瓜そよふ育つなれ」と狂歌もある。
 諺に瓜の(つる)には茄子(なすび)がならぬとか。瓜二つ。瓜実顔。破瓜期、また瓜を六つ半に剥くという話などは、それぞれの部門の瓜で述べることとする。「五元集」に岫頭から章魚(たこ)になりけり六皮半」
蛸魚(たこ)の足にはまだ一本半足らぬ句もあった。
        *                     *                     *
 瓜の話のついでに、瓜姫のお伽話を述べよう。
 これは桃太郎によく似た物語で、昔、老爺と老嫗があって、老爺は山へ柴を苅りに行く、老嫗は洗濯に河へ行く。するとその河の上流から一っの瓜が流れて来た。老嫗はそれを拾いあげて家に帰り、大よろこびで、老爺に食わそうとして二っに割ると、不思議にもその中から美しい瓜姫が顕われて出たので、夫婦の驚喜は一方でない。
 そののち一間のうちに置くと、この姫が生いたちて(はた)を織ることをよくするので、常に一問の外に出さずに織機をさせていた。ある時庭の木に鳥の声がして「瓜姫の織ったはたのこしにあまのじゃくが乗りたりけり」と聞えた。夫婦は怪しみながら一問の内に入って見るに、あまのじゃくは瓜姫を縄で縛っているので、夫婦はおどろいて姫を助けて、あまのじゃくを縛り、「彼女(すすき)の葉でひかんとて、すすきの葉でひいて切り殺した。すすきの葉のもとに赤く色づきたるは、その血の痕である」という物語は田舎には今も残されてある。
 これは桃太郎の咄といずれが先か知らねど、もとつくところは竹取の翁などの咄より出たものであろう。瓜姫のことは小児姫瓜とて本草にある「金鵞蜑」で、その味苦くて食えないが、小児がそれに目鼻を描いて衣服を着せなどして(もてあそ)びとするものである。「枕双紙」に「美しきもの瓜にかきたる児の面」とあるも、このことで、句に、
   白粉をぬればや人の小姫瓜
   姫瓜や三千の林檎顔色なし
   姫瓜の畑も見せぬ化粧かな
 また狂歌に、
   姫瓜は人のちぎるをむつかしと葉がくれけりな露の丸貌(まるがほ)
 この瓜に白粉をぬり、目鼻をつけて玩弄とすること、古き物語にも見えて、上臈たちのすさびであった。姫という代名詞は美しく優しいというに用い、姫小松、姫百合、うそ姫などの例がある。
 このお伽噺の筋は、桃太郎、かちかち山などよりも優美に仕組まれてある。瓜姫の機を織るというのも、瓜には糸瓜(へちま)(俗に錦糸瓜)というのもあって、瓜の繊維をもって機に通じ、またそれに(すすき)をからませて、すすぎの糸で絹を織るなどは、どこまでも詩的であり女性美である。
 また、あまのじゃくは、「日本紀」にある、天探女(あまのさぐめ)のことを引いて、ある悪虫の名としたもので、「和名抄」に阿末比古と書く、馬陸という小虫で、京阪では円座むし、関東ではやすでと称し、地中の穴にいると小児らは燈芯にて釣りだす、俗にとうしみ虫というのである。



最終更新日 2005年12月11日 09時41分34秒

林春隆『野菜百珍』「一二五 潮煮の話」

一二五 潮煮の話
 精進のうしお煮は、よき昆布を塩のまま水にて煮出し、たまり少し、酒すこし落して塩梅を試み、その実は、もつく、とさかのり、みるふき、ところてん草、焼いも、焼くり、ぶどう、小梅、さき松茸、松露、むかごなど、その他種々見合わせ、わさびの露を放すもよし。



最終更新日 2005年12月11日 12時21分07秒

林春隆『野菜百珍』「一二六 雪花菜の話」

一二六 雪花菜の話
 うのはなは、名こそ奥床しいが豆腐の(かす)である。俗におから(、、、)きらず(、、、)と称する。
 狂句に「懐中がから汁つらひ二日酔」というのがある。から汁は宿酔の朝に吸うと胸がひらける、で、から汁を食うその前夜の大散財で、懐中がからになったという洒落である。大阪の尻無川の甚平の小家といって、この辺紅葉樹の多い土堤で、名物のから汁を食わした家があった。
 ヒのきらず(、、、)の調理は、比較的多く応用されて、酢蠣の相手に、うの花鮓、普通は魚の煮汁できざみ(ねぎ)を入れて炒りっけるのがある。精進では人蔘、椎茸、ささがき牛蒡(ごぼう)、麻の実などを加えて炒ったのもよい。油揚と葱とだけ炒りつけたのも惣菜向きである。
 鰯を煎りつけた煮汁で、このきらず(、、、)を炒って鰯を添えて出すのもある。また酢に合わせて、鰺や鯖、鰯などのそぎ身をまぜたのも、ちょっとした肴になる。これを筍月環にいこんだり、海苔巻にしたりする。このきらずは豚に食わすか、兎の餌か、春日山の鹿煎餅にも用いられるが、調理の仕様でこうしたお座敷へも出される代物である。
      雪花菜                  銅  脈
   生根成三豆腐司其粕味還濃。漏少二箸先掛→泥多二飯上従→
   塞レ喉呑滓汁。 張レ目只摩レ胸。 若被・吾其罪司切盤所直訴。



最終更新日 2005年12月11日 13時27分39秒

林春隆『野菜百珍』「一二七 海索麪の話」

一二七 海索麪の話
 うみそうめんは、紅藻類に属する海藻で、海底の石の上に簇生するものである。塩に漬け灰を和して乾かし貯えるのである。三杯酢などで食う。



最終更新日 2005年12月11日 17時13分45秒

林春隆『野菜百珍』「一二八 茴香の話」

一二八 茴香の話
 ういきょうは、和名を「くれのおも」という越年草である。夏五、六月に淡黄色の花を開き、秋九月頃に麦に似たる小さな筋稷のある実を結ぶ。大茴香(八角茴香)、小茴香(懐香)の別がある。この子実は香性の揮発油に富み、香料に供せられ、またこれより採る油は、菓子の香料とせらる。わが国にては信州地方に多く産す。山間地方では茴香飯を炊く。香味強く、五加木(うとぎ)飯に比して上品なものである。



最終更新日 2005年12月11日 18時22分23秒

林春隆『野菜百珍』「一二九 梅の話」1

一二九 梅の話
 うめは、魁春花を開くめでたき薔薇(ばら)科に属する核果である。うめ(、、)の音は熟実の義で、うみ(、、)の約転であろう。梅の花は暗香浮動などといって香気高く、その実は酸味強くて生食に適せざるも、梅干、糖蔵蜜漬として佳味であり、また薬効がある。昔は、ふすべうめ(烏梅)と称し、梅の実を乾してこれを(ふす)べて医薬に用いられた。
 梅の実の熟するをつわり(、、、)と称し、婦人の孕みて食好みをするを択食(  )といい、俗にこれをつわり(、、、)と読む。「金葉集」の雑部に、
   葉隠れにつはると見えしほどもなく、こはうみうめになりにけるかな
 この歌の意は、女の択食と梅実の成育とを兼ねて、産と熟するをいい合わしたのである。梅雨をつゆと称し、梅の実が黄熟して落ちる頃で、処女が初めて異性と交わるのを落ちるという。また初めて精気の子宮に入るを「先天」と名づける。先天的遺伝などというのも、こうした自然至妙の原理である。
 梅樹は菅家の愛されたもので、好文木と称し、遂に天満宮の紋所とされた。菅公の歌に、
   梅の湯をすぎ人ならば花も見よこの実の種をわりてすてるな
 昔はわが国で花と称するものはこの梅の花であったが、中世桜の花をもって花と称し、「お花見」というのが陽春の行事となり、宮中にも…観桜会」を催さしめらる。しかし、風流は梅の花にあって、その樹種にも、
 白梅。江梅。野梅。大梅。行幸梅。(やり)梅。豊後梅。軒端梅。鶯宿梅。飛梅。難波梅。養老梅。村洲梅。加賀梅。小梅。紅梅。越中梅。八重梅。座論梅。未開紅。とめこかしの梅。(えびら)の梅。桜梅。
など。またその異名には、
 氷姿。氷肌。玉瑞。瓊枝。玉肌。逸民。雪魂。清容。木母。花魁。三凝紫。花儒者。好文木。綸旨梅。香散見草。此花。春告草。匂草。此の兄。
などの佳名がある。
 また、梅は四徳を具す。「初生の芯は元たり。開花は亨たり。子を結ぶは利たり。成熟すれば貞たり」とある。天満宮の神事に芯木祭と称し、梅の芯を捧げて渡行する神事があったが、近世これを誤って芋茎(ずいき)で神輿を飾って行うようになったのである。また梅の四貴に「稀なるを貴びて繁きを貴ばず。老たるを貴びて、嫩きを貴ばず。痩たるを貴びて肥えたるを貴ばず。(つぼ)みたるを貴びて開きたるを貴ばず」と、およそ梅のことは范成大が「梅譜」その他諸書に詳らかである。
 梅の詩歌はとても挙げつくされぬが、そのおもしろきを掲げると、元政の句に「梅ひとつ莟申といふ字かな」、其角の句に「梅寒くあたごの星の匂ひ哉」、一茶の句に「月に梅酢の蒟蒻のけふも過ぎ」と。これらが句に趣向のある、料理でいえぽあしらいのおかしみである。和歌や詩は省くこととして、梅暦などというと例の色男読本かと早合点するが、山中暦日なしで、この花が咲く頃を春として、梅花暦というのである。酒肆(しゆし)で淡粧素服の美女に逢うて、うち連れて一夜酔臥した趙師雄は、実に羨ましい艶福家で、その相対の美人は羅浮というすてき(、、、)なのであったが、これは盧生の栄華と共に南柯の一夢であった。
 その昔東坡(とうば)山谷(さんこく)が梅の詩を作った。まず東坡は、「和風揺二細柳殉澹月映二梅花一」とやった。ところが、そぽに東坡の妹が見ていて、そいつは不可といった。で、こんどは山谷が「和風舞二
細柳刈澹月隠二梅花一」と吟んだ。妹また見て、少しは成っているという顔つきであった。そこで両詩人は妹に句を求めたので、即時に「和風扶二細柳殉澹月失二梅花こと作ったので、ふたりはぎゃふんとやられてしもうた。
  *
 さて梅の名所は諸国到るところにあるが、山城の国をもって最も著名とし、日野、梅ヶ畑、鞍馬、高雄、伏見及び青谷の梅林、次いで大和の賀名生(あのう)、伊賀の月ヶ瀬、その他近畿地方は概して老樹が多い。東に小田原、甲州、信州、西に豊後、肥後などに好産地がある。
 伏見の桃山は名の如く桃と共に梅を栽培したのが、桃は次第に衰えて梅ばかり(さか)んになって、元禄元年には食料のほか、染料として用いられ、大いに市場に賞用せられた。その後安永の頃より城南青谷にても盛んに梅を栽培した。天保、安政の頃は焼梅として紅粉屋に(さば)き、また梅酢は染料として京染の材料となった。
 これらの梅の種類は、林州、上州、吉郎兵衛、隠居等の名のある梅である。大和賀名生の梅の実は、毎年大阪師団に納入して軍需品の重要食品となっている。
 例の一休禅師が梅干の狂詩に「往昔江南没落時。起二青道心一成二法師司欲ソ聞横斜疎影古。伊勢壷底暗皺レ眉」、また銅脈先生の詩に「自闘二梅天雨一江南没落滋。換二青坊主貌刈成一赤法師姿舶曝レ日空低レ首。泥レ塩暗皺レ眉。毎朝茶煮頃。何罪被レ投レ肌」、司馬江漢の句に「一枝を我物にして梅の花」というのがある。それは奇人伝にある雲州侯の茶道であった峰玄知は、和歌を好む癖があって、ある日郊外へ出でて梅圃の花盛りを見て、その持主に()いて高価で購い、その翌日その梅の樹の下へ酒肴を携えて来て大いに楽しんで酒食をした。で、農夫は明日にも掘り起して持って参ろうというと、玄知はいや左様でない、いつまでもここに置くがよい。さらぽ実が熟したらどうするかと問うと、いや実に用なし、花のみを望むところで、わがものにして見なくてはおもしろからず、といった。その玄知の真風流をよんだものである。
 禅家の茶礼に正月、梅干の肉に楊子を添えて茶を出すことがある。在家でも正月、大福茶と称して梅干茶を用いるが、それは弘仁の頃から行われたもので、茶は百草の(さきがけ)で、梅は百花の魁である。この二魁をもって青陽の神を迎えるのは、まことにめでたいこととして古く行われるのである。また梅は清浄のものとして禅家ではこれを貴び、浄器の模様などにも用いられる。歳旦の梅茶もその心を清しめるという意で用いられるのである。
 上古の食味の素はこの梅と塩であったことは前にも述べたが、この塩と梅の汁を常に貯えて食味をととのえたもので、味噌、醤油などが出来てからは、この汁を貯えることも(すた)れたが、いまも料理詞に塩梅というのである。「西宮記」に「采女一人持二氷魚司一人執二塩梅一度二御前一云々」
とある。
  *
 人の耳目には往々いつわりが多いが、鼻は天心にたとえて一番正直である。で、暗夜に梅が香を探るは目で見るよりも奥床しく、それを詩歌によせられたのである。梅と仲よしの林和靖の句に「疎影横斜水清浅。暗香浮動月黄昏」というのは有名な詩である。
 この月黄昏という句について、当時羅山や惺斎などの諸説もあって、この月黄昏は他の月でない梅の香のみちて月の光りも暗きという心であるといわれている。定家の歌に「大空は梅の匂ひにうつろひてくもりもはてぬ有明の月」と。また宗祗の句に「梅いつくただ春風のにほひ哉」とある。これらよく幽微に暗香の心をいい出したもので、千種有功の歌に「春の夜のやみにすきまはなきものを、いかにごほれて梅かをるらむLと、梅は花よりも香を賞したもので、もとは匂いは色のことで、歌にも「梅の花あたら匂ひをひとりながめて」などとある。後世は香のことをいうようになった。
 梅をただ花と称した貫之の歌に「春ことに咲まさるべき花なれば今年をもまたあかずとも見る」とある。しかるに、「万葉集」に菊の花を詠まれてないのと、汨羅(べきら)に放浪した彼の屈原の「離騒経」に、梅を載せられてないことを詠ませられた、後水尾帝の御歌に、
   ならの葉の古きためしにもれし菊、うめを忘れしうらみやはなき
と。また梅の仮名字を「むめ」「うめ」と両様にいうこと、もとより万葉以下の歌書にも「うめ」と詠まれて、女詞にもうもじ(、、、)と呼びなされている。「和名抄」に、凝華舎をうべつほ(、、、、)と訓してあるも、これは京師の人の訛ってうめをうべと称したもので、まさしく梅の訓みは「うめ」が確かである。
   梅は寒苦を経て清香を発す
というを狂歌に、
   霜の剣氷のつるぎ苦にもせずこたちするどき花の魁
とある。
 梅の逸事や伝説はあまりに多くてとても書きつくされぬ。で、ここらで筆を()く。



最終更新日 2005年12月11日 19時42分52秒

林春隆『野菜百珍』「一二九 梅の話」2

   *
 さて調理は、
 梅茶 新茶を煮出して、醤油を少し()し、梅干を入れて程よく煮上げる。
 煮梅 昔は京の丸山の名物にて丸山梅ともいった。よく料理店の突出しに用うる煮梅は、大粒の梅干をよく水煮して塩をふかし、それに数個所よせ針の先でつつき、それから水をたくさんにして砂糖を多く加え、とろとろ煮きあげるのである。煮加減を過して(しわ)が出来るから、くらくら煮ぬようにするのである。昔の丸山梅は熟した大梅を梅肉に漬けて砂糖煮としたものらしい。
 甘露梅 熟した梅を採りて水と共に鍋に入れ、火にかけて数回茹でこぼし、味淋(みりん)と砂糖にて煮つめたものである。
 青梅 やや熟した梅を取り、硝子の大壕に詰め、これに焼酎と白砂糖を等分に入れ、密封して貯えおき、半年ほゼして用う。
 梅干 梅一升に塩二合の割で漬ける。その初め梅をよく洗い、水を乾かし、塩を合わして三週日ばかり漬けおきて、三日間ほど天日に乾し、一夜露にあてて、また一日乾し貯えおくこと。長く干せぽいよいよ久しく保つものなれど肉減じてわるし。また紫蘇漬にするには、葉をもみて水気を去り、梅をつけたる()に右の梅と同じく入れおき、それに酒を少し入れると味が甘くなる。また紫蘇の葉でたたむ時に、酒ばかりで漬けると大いに甘くなるが粘りて悪し。
 梅酒 生梅のよくつえた(きず)のないものを、(ざる)に入れ上から藁灰をかけて沸湯をそそぎ、水気の乾いた時に一っずっ布巾でふき、深い壷にその梅を入れ、上々の古酒を梅の上にのるほどに入れ、白砂糖を美濃紙に包み、酒より上につるしさげ、蓋をよくし目張りをしておく。砂糖は水になって垂れて落ちる。梅酒は備後靹津(とものつ)の名産である。
 梅ひしお 大きく肉の厚い梅干の種を抜き、肉をよく摺りつぶし、白砂糖たくさんに入れて、すり交ぜ、うら漉しにする。小田原の名産である。
 更紗梅 小さい梅干を打ち割り、その果肉をよくたたき、白砂糖を入れ、それに塩漬の紫蘇の葉を細かくきざみて、たたき交ぜたものである。
 のし梅 よく熟した梅の実を、桶に入れて蓋をしたまま一夜おき、翌日種子を去り、擂鉢(すりばち)でよくすり潰し、これを袋で()し、この梅肉一斗に対し白砂糖一貫二百五十匁、葛粉四十匁の割合で混和し、とろ火にかけてよく攪拌し、トタソを張った箱に流し込み、よく冷したのち板の上にうちあけて適宜に切る。これは秋田の名産である。
 漬甘梅 青の小梅を塩に漬けおき、つかりたる頃取り出しうち割りて、核を去り、そのあとへ朝倉山椒か粒胡椒を入れて割目を合わし、紫蘇の葉でつつみ、砂糖蜜に酒を加えて漬ける。夏より冬まで目張りしておいて食用にする。風がはいるとかびが出るゆえ注意すること。
 梅干の繊 梅干の肉をすりつぶし、うら漉しにして美濃紙に伸ぽし、助炭にて乾し、細くうちて口取りにすること。
 梅衣 これは人梅干の疵なきものをよく塩を出し、元のところへ庖丁を入れて核を取り肉をすこししぼり取りて、さて栗を生焼にして皮も渋皮も()き、右の梅の中へ入れ、口を下にして小蒸籠(せいろう)または鉢などに入れて蒸す。蒸しあげて吸いもの、茶碗、平などに用いる。
 梅ばくたい これも大梅干の肉ばかりを目なし擂鉢(すりばち)で摺りつぶし、それに薩摩薯(皮を剥きざっと蒸して)を入れ、梅肉三分、いも七分の割にして白砂糖を加え、酒で少しゆるめ、よく摺り上げて、板の上に取り、庖丁にて延ばし、すり身の如くほどよく取りて、湯煮してのち好みの形にして、吸物、菓子椀、大平などに用いる。この加減かたくならぬがよし。
 かくし梅  これは梅衣の如くして、その上を生麩(なまぶ)でつつみ、胡麻の油であげたもの。
 花笠漬 梅の花の半開を採り、梅肉の中へ、花びらを上向きにして漬けおく。桜の花漬の如く湯に投じて香気を発する。これは国学者の清水浜臣の創案である。
 漬煮梅 大梅の熟さないのを塩につけ、よく漬かりし頃、熟さない完全なのを取りおき、潰れかかったのを摺り潰して、梅酢を沸らして冷し汁に、潰れて摺った梅をどろどろに合わし、それに取りおいた梅をまぶし入れ、壷に漬け込みておく。よく熟れると梅の香りもよく、風味も格別である。
 そのほか、梅肉、煮梅の調理あるも、同じようなれば略する。



最終更新日 2005年12月11日 21時06分40秒

林春隆『野菜百珍』「一三〇 外郎餅の話」

一三〇 外郎餅の話
 ういろうは、白玉粉で製した蒸餅で、羊羹の一種である。
 これの渡来したのは正平の末南北朝の頃、大元の老臣礼部員外郎陳宗敬という人が、大明のために(ほろ)ぽされ、二君に仕えずとしてわが国に亡命し来たり、筑前博多に住居した。時の将軍義満はその文才博達のよしを聞いてしきりに招聘したが、宗敬これにも仕えず、かつて占相霊方に通じこれを人に伝え、のち崇福寺の無方和尚の室に入って衣鉢をうけ、明照と号し、齢七十七歳で遷化した。その末喬が京都に来て西洞院に住し、「透頂香」というを製し始めた。透頂香は公卿殿上人(てんじようぴと)が冠の中に入れて、髪の臭気を去る香料としたのでこの名がある。またこの透頂香の伝来はこれより以前に、鎌倉建長寺の開山大覚禅師(蘭渓)が来朝の時に、この薬を相州小田原の土人に伝えたともいう説がある。
 外郎餅は透頂香を製した人が売り始めたので、その餅の色が黒色にてややとうちょう香に似たるより、薬名と共に呼ぶようになった。
 その製法は(うるち)米八合、.(もち)米一合半、葛半合を共に一升を細末にして、黒砂糖一升半、水七合をもって煎じ、その精汁にて粉を練り、蒸籠に布をしき材料を平に枠に入れおき、またその上に布をあててよく蒸し上げ、冷して切るに糸を渡して切るのである。白きは白砂糖を用い、きびまたは挽茶、(ゆず)、紫蘇など加味したるもある。例の弥次喜多が、小田原の外郎屋で透頂香を欺されて「ういろうを餅かとうまく欺されて、こは薬じやと苦い顔する」という滑稽がある。
 然るに、この「ういろう」を伝来して京の西洞院に住いを許された陳氏の子孫に外郎右近というが、当時上流で盛んに(もてあそ)ぼれた蹴鞠(けまり)に妙を得て、正保の頃、京、大阪、江戸を徘徊(はいかい)して、おのれが本職を忘れて、その遊戯の秘曲を尽して名を得た。ところが蹴鞠の宗家飛鳥井家より、その横暴を江戸に訴えられたので、遂に外郎右近は伊豆へ遠流せられた。その時も右近は船の舳先にて鞠を蹴って曲を弄んだ。淡水の吟に「すごすごと船の舳板に立上り身は外郎が蹴りし曲鞠」とこの右近が流罪になったのを、菅公謫遷の時の飛梅に擬して、柳に鞠を「右近が時とばざりけりな庭柳」と、これら当時有名であった外郎曲鞠のことは諸書に載せられてある。「卜養狂歌集」にも「楊貴妃のときにはじまりけるものか、そよやげいしやう外郎のきよく」とある。その後も外郎という者、人立ち多き辻々にて鞠を蹴りて売薬をひさぎたるも、一代にて終えたりと、明和板の物語にあれば、外郎餅はその後に売薬より転じて売り始めたものであろうか、後考を俟つ。



最終更新日 2005年12月11日 23時53分00秒

林春隆『野菜百珍』「一三一 海苔の話」

一三一 海苔の話
「のりの庭とは浅草でいひ始め」と川柳子がいうほどに、最も種類の多い海苔(のり)の名も、その香と共にこの浅草海苔をもって第一位とされて、単に「のり」というはこの紫海苔のことである。
 海苔、「紫菜」「苔脯」とも書く。海中の苔で、木石等に付着して生ずる鹹水淡水の産で、種類が多い。
 青海苔 乾海苔と称し、伊勢海に多く産す。
 神化海苔 甘海苔ともいう。色紫で石の上に生ず。
 於期海苔 おごのりという。海中石の上に生ず。その形、乱れた糸の如し。
 浅草海苔 以前は江戸浅草辺に生じたるも、その後変遷して品川大森海岸に産し、ここを浅草
海苔の本場と称する。
 加太海苔  紀州加太浦より生ず。
 舞阪海苔  遠州舞阪海岸に産す。
 十六島海苔  うっぶるい海苔という、雲州より産す。
 桜海苔、松海苔、その他興津(おきつ)海苔は駿河海岸に産し、また「きくのり」「いみ」などの別名がある。この海苔は紅藻にして熱湯を(そそ)ぐと青色に変じ、多く刺身のツマに用いられる。
 紀州に「とおやまのり」という紅色藻で俗に鴨頭といい、往々食用にされる。また「かやものり」というも和歌浦辺で採れる。これを俗に乙女の頭という。そのほか阿波、紀伊にて「むぎわらのり」、志摩の「だんごのり」などは諸国の海岸に産し、乾燥して(あぶ)って食い、また汁の実などに用いらる。
 また肥後国は種々の海苔を産し、「耽奇漫録」にも、二十七種の海苔を図に示している。杉のり。蜈蚣(むかで)のり。松のり。トサカのり(赤瀬)。五分のり(郡浦)。色々のり(佐賀の関)。ヨガマタのり。清水のり。波の花(一名翠雲花)。網津川のり。芝のり(椿浦八幡宮の裏)。寒のり(二丁の沖)。青のり(八代(やつしろ))。矢部のり。八景の浦のり(壺井川水上)。水前寺のり。下タケのり。アマのり(山麓)。甲佐のり。菊池のり等である。
 この水前寺海苔は茶人の嗜好するもので、川のりとしては駿河の芝川のりと共に珍重されるものである。また川のりに、日光の大谷のり、多摩の氷川のり、相模の津久居(つくい)のり、桐生の桐生のケ、京の鴨川のり、宇治の川のりなど、その他の国々にもこの種の海苔を産するのである。しかし水前寺海苔は普通川のりの中でも、その品質と食味は同一でなく、また料理に用いてもその趣が違う。この海苔も昔は水前寺湖の下流、江津湖という湖水に生じたものだが、今では人工的に製し、種々の固形体にして販売している。
 これらの他種はさておき「行水や何にとどまる海苔の味」と、其角の句の如く、海苔の味は浅草海苔にとどまるのである。この浅草海苔は、江戸開府の以前より古く、その辺が入江であって漁家が散在した頃、漁魚のために麁朶(そだ)を海中に施設した。それに付着した海苔が叢生したのを、土人が喰い始めたもので、その後この地の副業となって売り弘めたものである。句にも「海苔すすく水の名にすめ都鳥」と、当時の風物がよくうつされてある。それが江戸の繁華につれてその産地も深川辺に移されたので、信海の狂歌に「武蔵なる浅草海苔は名のみなりお心ざしの深川のもの」とある。その名のみ浅草に残して深川も埋め立てられ、品川、大森へと移ったのである。
        *           *                     *
 海苔の中にも青海苔は、最も古くより食用にせられ、「延喜式」に「伊勢国青海苔五十斤、三河国五十斤、出雲国三十斤、石見国三十斤、紀伊国五十斤を正税を以て交易して進む」とある。その他の雑書にも、青海苔を膳部の料としたことが載せられてある。それで青海苔を料理詞で真盛というのは、真盛僧都が炒豆に青海苔をかけることを創意されたので、それを真盛豆と称し、ついに午房(ごぼう)やいもに青海苔をかけても真盛午房、真盛いもという風に青海苔の異名となった。で、この青海苔は菓子と仲よく、煎餅、かきもち、あられなどにも交えられて味をつける。
 例の奇才子細川幽斎が豊公に茶をさし上げる時、この海苔豆を茶菓子にしたので、豊公はこの菓子の銘を問われた。すると幽斎は「君が代」と申した。豊公は銘のあまり立派すぎるので、何が君が代かと尋ねられた。すると幽斎はイヤまだ名がござります、君が代の下に、「千代に八千代に」という名で……、豊公はそれは長い名だなといわれると、イヤまだその下に「さざれ石の」と申します。豊公は、それで仕舞いか。イヤまだござります「いわおとなりて苔のむす豆」と申すのでござります、という洒落話がある。
 その青海苔でなくてならぬは、とろろ汁の相手、牡丹餅(ぼたもち)にかけても胸がつかえぬので、その香気と共に愛されるものである。
        *           *          *
 さて浅草海苔の調理は、
 もどし海苔  色のよい海苔を火取りて水に浸し、良きように絞りて小さく叩きてあしらう。
 糸海苔 火取って四つ切り、それを細くきる。
 生海苔 は、真個の生海苔よりも、海苔を水に浸して程よく用いる方が料理によし。
   海苔汁の手際見せけり浅黄椀
 海苔巻は鮓に、けんちんに、山葵(わさび)巻き、生鮓、その他かき餅、巻きぬ等の菓子にも用い、また海苔飯は埋め飯として、夜食によろしく、焼海苔、味付海苔、佃煮等も食卓に欠くべからざるものである。
   花さそふ嵐やよする桜海苔
   雨雲や簀に干す海苔の片明り
   箸の先に花咲せけり桜海苔
     浅草海苔              銅 脈
   日本苔天上。 関東親玉辺。 品川雖二製法殉浅草譲二威権殉
   古紫乾無レ味。新青焙可レ憐。平生河漏汁。棄レ繭又何先。



最終更新日 2005年12月12日 11時12分26秒

林春隆『野菜百珍』「一三二 のまめの話」

一三二 のまめの話
 野豆、蔓草にて山野に多く生ずる。春宿根より生じ、夏実をむすぶ。(さや)の長さ五分子黒く、
生で食して(なまぐさ)みなし。一名やぶまめ。尾張辺で野豆というは豌豆(えんどう)の古名であるという


最終更新日 2005年12月13日 00時22分59秒

林春隆『野菜百珍』「一三三 のびるの話」

一三三 のびるの話
 蓉葱、また山葱ともいう。砂に生ずるを砂葱、水沢に生ずるを水葱という。つねの葱よりも葉大きく、茎細し、野生のもの多し。昔はこれを強精に用いたのである。



最終更新日 2005年12月13日 00時48分10秒

林春隆『野菜百珍』「一三四 おこしの話」

一三四 おこしの話
 大阪の名物に(あわ)おこしというのが、大大阪の玄関の向うを張って所在に掲げられてある。これを俗に岩こし(、、、)というて、特にこれのみ製造して売る家に、二つ井戸の津の清は浪花名所にも出ている旧い店だが、あみだ池の大黒も福おこしで名高い。おこしと天神さんはどうした関係か、もしや河内の道明寺の焼米からおもいついたという伝説か。
 おこしの戸籍は随分古いことで、「和名抄」に「粗妝(巨女).一音、和名於古之」、「文選」の註に、「以レ蜜和レ米煮作也」とある。しかし蜜を米に和したのみではおこし(、、、)の名に当らず、「雍州府志」に、おこし米の義を説いて、「是自粘固之中挽興之謂也」とあるから考えると、米を蒸して(こうじ)とするを寝かすというに対し、米を()ってふくらますによって起すと称したものであろう。
「著聞集」に「法性寺殿元三に皇嘉門院へ参らせ給ひけるに、御くだものをまいらせられけるに、おこしこめをとらせ給ひて、まいるよしして御口のほとにあててにぎりくだかせ給ひたりければ、御上のきぬのうへにはらはらとちりかかりけるを打はらはせ給ひたりけるいみじくなん侍りける」とある。おこし米を世俗ちゃんと称し、これを食うときは(さじ)ですくうが、ぼらぼらとこぼれやすいものである。「料理集」におこしは慧苡仁(はとむき)を以て作るよしとあるも、それは後の製にて名に負わずと「嬉遊笑覧」に見ゆ。「後撰夷曲集」に、
   つかみちらす竜の玉にしなりに似て、其名も雲をおこし米哉
 今のおこしは、普通米を炒って製するのと、粟、麦等を用いるのとある。これを製するには、おこし種一升、砂糖百匁、水飴四十匁を用い、まず砂糖に水飴と水少量とを加えて銅鍋で煮詰め、どろどろに糸を引くほどにして鍋を下し、これにあたためたおこし種を入れ杓子でよく()きまぜ、つなぎよく固まるを度として濡手で団子に取るか、枠に押しつめて後、冷して適宜に切るのである。
 その種類に、粟おこし、雷おこし、福おこし、屠蘇おこし、落雁おこし、京おこし、此花おこし等の名をつけてお土産界を賑わしている。



最終更新日 2005年12月13日 01時22分53秒

林春隆『野菜百珍』「一三五 鬼百合の話」

一三五 鬼百合の話
 おにゆり(巻丹)は百合(ゆり)の一種で、人家に培養するものは、鱗茎で澱粉に富みて甘味である。苦味少く専ら食用として賞美される。調理は百合の条で述ぶ。



最終更新日 2005年12月13日 10時30分06秒

林春隆『野菜百珍』「一三六 甜橙の話」

一三六 甜橙の話
 おれんじは、九年母(くねんぼ)(だいだい)などと同種のもので、果はやや大にして甘味が多く、芳香に富むものである。生食のほか種々の調理にも用いらる。



最終更新日 2005年12月13日 14時31分01秒

林春隆『野菜百珍』「一三七 車前草の話」

一三七 車前草の話
 おおばこは、大葉子の義で、児戯に蛙を殺してこの葉を(おお)いて打つと蘇生するというので蛙葉の名がある。俗にオンバコという。これを茹でて浸しものに用いる。



最終更新日 2005年12月13日 16時34分54秒

林春隆『野菜百珍』「一三八 萱草の話」

一三八 萱草の話
 かんぞう(くわんぞう)は、和名を忘れ草と称し摂津住吉の景物として、歌道の詞に三忘とあるその一つである。三忘とは、住吉岸の江の忘れ貝、忘れ水、忘れ草である。「古今集」の忠岑の歌に「住よしと海士(あま)はいふとも長居すな、ひと忘れ草生ふといふ也」と、また「夫木集」に為相の歌に「下紐につけたる草は名のみしてこころにかれぬ人のおもかげ」とある。この草の異名は、忘憂(、、)療愁(、、)丹棘(、、)鹿葱(、、)妓女(、、)鹿剣(、、)宜男草(、、、)などと称する。そのうちに鹿葱、鹿剣などというは、鹿は九種解毒の草を()むという、その草の一がこの萱革である。また宜男草というのは、懐妊の婦人がこの花を()びると男児を生むといい習わしたのである。
 唐の李威用も萱草を賞して、「芳艸比二君子。詩人情有レ由。祗応レ憐二雅態司未三必解二忘憂鱒積雨莎庭小。微風鮮砌柔。莫レ言開太晩。猶勝二菊花秋一」とある。シナでも忘れ草の異名を称せられている。この草は春宿根より長い葉を生じ、夏の末に鬼百合に似た紅黄の花を枝を分ちて開く。句に「忘れ草随分暑き花の色」、「萱艸の花と(ばか)りや忘れ草」などがある。
 この草は春に苗を食い、夏はその花を食用にするのである。いまシナ産の金針菜(金紫菜)また北京菜などと称してシナ料理につかうものが、あるいはこの菅草でなかろうか。いま(にわ)かにおもい出せぬがある書に、住吉に金針菜のあることが載せられてあったのを散見したことがある。
 萱草の種類は、鬼萱草、姫萱草、黄萱草、筋萱草等がある。食用にするは単弁の花が咲くもので、庭に一度栽えておくと毎年苗を生じる、その根のところへ藁などを置くと早く苗を生ずるのである。
「詩経」に緩草というもこの草で、すなわち緩は忘である。一説にはこの葉を食うと酒に酔うた如くなるので、忘れ草というとあるも、それは取るに足らぬ謬説である。
 調理はうでて和えものか、べた煮またはさっと湯煮して平のおか入れにする。さのみ(うま)いものでないが、その名の高い草である。



最終更新日 2005年12月13日 17時08分02秒

林春隆『野菜百珍』「一三九 臭木の話」

一三九 臭木の話
 くさきは、臭梧桐、佳名を常山花とも称し、原野または石垣、土塀などに多く生ずる繁茂性のもので、臭桐の約転である。夏に枝の稍に白花(むらか)り咲く、その実は碧色の豌豆(えんとう)の如く、木と共に手に臭気を染めるものであるが、春の嫩芽(わかめ)は食用として、山間の人たちは惣菜にもすれば、飯にも交ぜて食用とする。
 くさぎはよく茹でて水に久しく(さら)し、大豆と煮るか、汁の実、小魚と煮るなどがよい。浸しもの、胡麻和え、からし味噌もよい。胃の病によいとて常食する人もある。
 くさぎの葉は梓楸に似て(ひら)く甚だ臭し。六月花を開き、七月にはこの虫を取って小児の疳薬として(あぶ)って食さしむ。剛、三才図会」には毒草とあるも、これを食用にすること常のことである。あるいは同種のものあるか。句に「目に見れば常山の花もふるされす」、常山とは苗の名で、根は蜀漆と称するのである。



最終更新日 2005年12月13日 21時52分42秒

林春隆『野菜百珍』「一四〇 枸杞の話」

一四〇 枸杞の話
 くこは、唐枸杞、鬼枸杞の二種がある。茄子(なす)科の灌木性の樹木で、もとは漢国種を移したものである。唐枸杞は、大なるものはその丈八尺に及び、叢生して夏五弁の花を開く。実は円く大なり、熟すると紅になりて味甘し、また鬼くご(一名犬くご)は、春苗を生じ、葉は石榴(ざくろ)の如く軟らかくして薄く、俗に甜菜(てんさい)と呼ぶ。これは野生に多く人家にも植う。葉小さく実は長くして味苦し。枸棘という。
 本草に、枸杞は春は青清子と色づく、夏は枸杞葉と名つく、秋は却老子と呼び、冬は地骨根(地骨皮)という。また枸杞を仙人杖、西王母杖とも称して、虚労を去り、精気を増し、心痛腎病澄中を治し、腎をうるおし、肺を潤すこと忍冬にまさるという。列仙伝に犬を逐うて枸杞叢中に入り、枸杞を服して遂に仙術を得たりとある。山間の人常にこれを服すること茶の如くする。鬼くこの葉は茶素を含み、古来これを製茶の如くして煮て飲用する。その嫩芽は茹でて胡麻和えなどにする。また枸杞の葉を酢味噌で食うと、食熱を去り逆上を散ずる効がある。嫩芽は茹でて、浸しもの、胡麻和えなどにして食す。くご飯、くご茶は古くより用いられ、(しわ)のよるを延ばして延寿の効がある。
 枸杞の根をつきただらし、これを煮て燻べて痔疾を洗えば奇効がある。
 枸杞茶は嫩葉を一連に刻み、蔭干にして貯えおき、焙爐(ほいろ)に乾し、飲用するのである。



最終更新日 2005年12月13日 23時18分19秒

林春隆『野菜百珍』「一四一 榠櫨の話」

一四一 榠櫨の話
 かりん(くわりん)は、薔薇科に属する仁果類である、木李、木梨とも書く、シナ及び日本に多く産す。花は木瓜(ほけ)に似て愛すべく、実は榲悖(まるめう)に似て長く、酸味に富み渋斂(じゆうれん)なれば生食することなく、多く蒸しまたは乾燥して貯う。俗に唐木瓜と称する。
 この実を酒に浸して食すれば痰を治し、その煮汁は霍乱(かくらん)に奇功ありという。また汁を絞り生姜(しようが)を和し、砂糖蜜にて煉りたるを、瓜梨膏と名つく。痰咳の薬となる。以前、大阪名物に痰切り成
田飴というを行商せしものは、このかりんを加味したものである。
   唐木瓜の実も唐めきてふるさるれ
 かりん糖のもとであろうとおもう。



最終更新日 2005年12月14日 00時16分00秒

林春隆『野菜百珍』「一四二 九年母の話」

一四二 九年母の話
 くねんぼう(香磴)。乳橘とも書く。古名は「あべたちぽな」、枸櫞木の音転か、橘に似て(とけ)少く、葉長く、実の形(ゆず)の如く、皮も厚し。熟すること遅く春の初めに皮と共に食う、香気あるも味は甘酸きものなり。句に「九年母やそろそろ甘き風の音」と、また狂詩に「達磨尻腐後。出現九年坊。黒痣元生得。黄衣上化粧。竹籠安寝処。硯蓋坐禅場。精進臻二遊里司施恩見二厥香一」とある。
 九年母は取肴、水物などに遣うほか、いちごもどき、挽茶あえ、しそ巻、みじん大根などの猪口物にもよし。取肴、水物には九年母の上下四方を切り、二つに庖丁して櫛形の小口切りをいざらすか、大きい、小さいに切って盛り合わす。いちごもどきは一袋ずつ裂いて箸にて取る。汁の実に用いる。
 この九年母は柑橘類の中でも、最も古く、わが国にあって、日向の小門(おど)の橘と言い伝え、蜜柑、柑子、金柑、柚、橙、枳殻(からたち)などがつぎつぎ渡来した以前に、この優れた香果が上古既に食用とせられた。垂仁天皇紀、九十年春二月庚子朔、天皇田道間守(たじまもり)に命じて常世(ととよ)の国に遣わし、則ち賚物(らいぶっ)として非時の香果をとり寄ぜ給う、のち九十九年にまたこの果物を求めさせられたので、九年母の名があると伝え、またこの樹を乳柑というより母の字を加え、また九年を久年とかくも、磴を代々というに同じ祝言である。



最終更新日 2005年12月15日 00時49分21秒

林春隆『野菜百珍』「一四三 胡桃の話」

一四三 胡桃の話
 くるみは、胡桃(くるみ)科に属する喬木で、東北地方に最も多く、野牛もありまた栽培もする殻果である。兎胡桃、姫胡桃、手打胡桃等の種類がある。くるみの名は、羞桃、核桃と書き、梵書には播羅師とある。「延喜式」に呉桃とあり、和名久留美(、、、)は呉の菓の約語か、「言海」に「円実の義か、或は呉の実の転か、或は手黒む義か」などとある。
 胡桃の栄養価は古くより認められて、栗の四倍もあるという。独逸(ドイソ)の純植物食の僧侶は、常に胡桃を間食して脂肪分を摂取している。光俊卿の歌に「山雀(やまがら)のまはす胡桃のとにかくに持扱ふはこころなりけり」、また知家の歌に「うきふしを嘆き胡桃のそめほねを、あまたつらさの数をかさぬる」とある。
 胡桃の中にも、山胡桃、兎胡桃が上品で美味なるも、姫胡桃は皮薄くして不味である。シナには白胡桃というのがあって、李白の詩に「紅羅袖裏分明見。自玉盤中看郤無。疑見老僧休念誦。腕前推下水晶玉」と。これは色彩のある器に白い胡桃を容れれば鮮明に美しいが、白い器に盛ったのでは一向に目立たぬが、それは老僧が水晶の数珠を爪繰るように、かえって神秘な美しさであると、胡桃の食味を賞した句である。例の銅脈先生も「抉レ皮雖二剥取一り生得奈二顔瘡→炮碌煎二焦体。 枝爬二出腸殉和物時時用。摺刻度度頑。偶成二山雀食4精啄鳥籠狂」とある。
 で、胡桃の外皮は、その果実のとき水に浸して腐らし、のちこれを洗い去って日に乾かして貯えるのである。
 さて調理には、まず胡桃を火に(あふ)り(豆煎りか炮烙(ほうろく)で)、中央の破れ目より割って、中の仁を出して食用に用いるのである。
 胡桃和え 仁を鉢でよくすり、味噌と砂糖を加え、醤油または食塩を入れ、さらによく()りまぜて、何なりとも材料を和える。
 琥珀胡桃  くるみの仁を味淋と塩味に煮たもの。
 胡桃餅 は、すりたる味つけ胡桃を(あん)の代りに用いたもの。
 その他種々の材料として珍味である。胡桃は強腎剤として古くより用いられ、また髪髯をよく黒くするとて、昔は男女ともに珍重して食用とした。
 くるみ練り  は、胡桃と葛を等分に練り合わせて固め、それを小口切りにする。



最終更新日 2005年12月15日 01時36分00秒

林春隆『野菜百珍』「一四四 ぐみの話」

一四四 ぐみの話
 ぐみは胡頽子と称し、多く山野に自生する灌木である。夏ぐみ、秋ぐみ、なわしろぐみ等の種類がある。和名はもろなり(、、、、)という。
   小山田の苗代ぐみの春過ぎて我身の色に出にけるかな
とは為家卿の歌である。果実は甘酢味にてやや渋味を帯び、児童の嗜好するのみである。またこれに似た山茱萸(さんしゆゆ)は、昔より八味丸にこれを用い、強腎剤として陰茎を堅くすといい伝える。小便近きものこれを食すれば治するともいい、肉棗の名がある。



最終更新日 2005年12月15日 23時10分05秒

林春隆『野菜百珍』「一四五 栗の話」

一四五 栗の話
 (ことわざ)に「桃栗三年柿八年、柚は九年に成りかかる」という、この兄弟分みたいな果実のうちにも、栗の美味は、例の(いも)にまであやかられるほどに賞味せられるのである。桃栗三年の諺は、古書「口遊」に「桃三栗四柑六橘七柚八謂二之菓子頌一今按桃樹栽後三年結レ子。他准レ之可レ知」とある。この書は天禄元年の序があるから、千年近い前から伝えた国宝的の諺である。
 栗は、殻斗科に属する喬木で、梅雨中に葉の間に、三、四寸の穂を垂れて黄白色の極めて小さい花が(むらが)って開き、後に実を結ぶのである。毛毬(いが)は密に生じて中に二、三子を包み、秋の末に自ら裂けて落ちる。
「いが栗も花の都へ出たりな」、「大きさや人の拾ひし栗の(いか)」、「あくせくと起せぽ殻よ栗の毬」と、例の一茶が洒脱句である。嵐雪も、「いが栗のにくさをにしる若衆哉」、「”外よりは手のつけられぬ要害も内よりわるる栗の毬かな」と。山猿はこの毬を尻にしいて栗子を採って食うが、猿の尻はそれほど強いものである。毬栗頭の亭主をお尻に敷くような女猿の尻も、また随分強かつ大なる哉である。
 普通は(いが)のまま採って貯えておくと、日数がたつと自然に栗子は(ひび)われて出る。樹から落ちるを落栗というので「落栗の下も板屋の音すなり」と。で、栗の大きなのを板栗という。「(かけひ)にはかちりと栗の秋更けぬ」、「落つる葉もちらりほらりやすがれ栗」、「大栗は猿の薬礼と見えにけり」、「包レ刺如〆防レ患。朱夏滋栄日。双レ肌似レ合レ歓。清秋結レ実時」などの句がある。
 ささ栗または柴栗ともいう。指の頭ほどの小さい栗をいう。その木もまた二、三尺に過ぎず、茅栗、例栗とも書く。「柴栗もひとりはじけて居たりけり」、「芝栗や芝のかつらにやをらつき」と。このほか、(きり)栗、俗にひよひよ栗は形長く錐の(さき)の如きもの、また三度栗というは山栗で四年に三度実るもの、これは上野、下野、紀伊の熊野山中に多い。
      栗子                銅脈
   従レ蒙二親打罪殉鬼国著二針衣司扣出顔皮厚。行先扶気非。
   爛焦堅木炭。刷取剥身肌。節句違二阿菊殉奈二何米飯囲殉
   すてられて木の葉にましるみなし栗、ひろひのこせる秋やへぬらん
   おそ川にわりなく栗の流れ哉
   鼠等も好事するか杓子栗
   跡の人三つ栗三つ拾ひけり
   山風に峰のささ栗はらはらと庭に落ちしく大原の里
        *                 *                 *
 栗の野趣に富むはその色彩よりも味覚にある。宇治の奥田原郷の内名村というに、煎栗焼栗林という古蹟がある。そこは天武天皇が大友皇子と戦いたまいし時、ここを過ぎ給うに、里人ら焼栗またはうで栗などを調じ奉りて捧げしに、天皇人いに(よみ)したまい、この戦捷を占い、片山にその栗を埋めて、わが軍勝利あらばこの栗生い出でぬべしとあり、その後年を経て栗の樹大いに繁茂し四町余の栗林となり、それを御栗栖と称し、爾来、毎年栗を朝廷に奉るを例とした。この城南の地は往昔、栗隈首の古址とて、羽栗、殖栗、栗隈の諸郷に、双栗神社、栗子山、栗栖野などの地名がある。隣接した近江の栗太郷などもこれらの由緒地として、栗に深い歴史を有するのである。
 栗太はもと栗本と称し、景行天皇この地に幸し、一大栗の枯木が空を穿(うが)って山岳に枝を並ぶるを見たまい、これは神代の栗の樹なりとて、この郷名を命じたまいしというのである。
        *                *                *
 いまはシナ栗の都市に跋扈(ばつこ)するも、丹波といえば大きな栗を連想されるほど、丹波の国は栗の名産地である。その産地は、南桑田、船井、何鹿の三郡を主産地として、船井の産をもって最も優良とし鼓打栗の名がある。また柴栗も同地の重産物で、北桑田辺に自生するものが多く、市場に出る。そしてこれら栗の産額は二千余石に達し、三百万円ぐらいの金高を収める。それで栗の品種にも、銀寄、女郎、金田、霜かつぎ、長光寺、盆栗、福西、霜板、和佐、今北の銘品は果粒の大きなのと美味をもって、丹波栗の名は世界に知られている。
 さて栗の調理は、
 揚栗 大きな栗を薄く庖丁して、板にならべて塩をふりかけ、しばらくして胡麻油で狐色になるまで素揚にする。
 栗茶羮 百合根をうら()しにし、寒天のこはく地を煮き、挽茶を加えてよく摺り合わせ、白煮の栗と共に箱枠に流し込む。
 栗ぶかし は、微塵粉を山梔子(くちなし)の水に浸け、これに適宜に白砂糖と塩とを入れ、灰汁(あく)にて程よき硬さにこね、味噌餡を心にして饅頭の如くに造り、蒸籠にならべて蒸しあげる。形は好み次第。味噌餡は上等の白味噌を擂鉢ですり、これに山椒粉を加え、さらによく擂り交ぜて裏漉しにしたものである。
 栗金団 生栗一升、甘藷二百匁、砂糖二百匁、味淋一合半、食塩少量を用い、いもの皮を剥き、小口切りに小さくして水に晒し、煮立て湯に入れ茹で上げ、それをうら漉しにかけおき、栗は渋皮を去り鍋に入れ温湯を加え、煮立ちてはさらに他の鍋に移し、温湯を加えて煮立て、三度ぼかりこうしてから湯を捨て、砂糖と食塩と味淋を加え、とろ火で煮、前の甘藷を加え、さらに煮つめて皿に盛る。
 含め煮 常の如く甘味にて煮て、一夜鍋のまま置き、翌日に用いる。
 その他、栗飯、栗羊羹、茶巾栗、栗和え、栗あんかけ、焼栗、むし栗、栗納豆等。
 常盤栗 これは茶人川上不白の発明で、まず搗栗の大なるを剥いて一夜水に浸けおき、翌日その浸け水に白砂糖と醤油を加え、汁沢山にして文火(とろび)に架けて落ち蓋をなし、ゆるゆる煮込み、汁の減った時に多量の砂糖を加え、砕さぬように箸でかきまわし、少し汁気のあるうちに鍋を下ろし、器に移し、客のあるとき、挽茶にまぶして小皿に三つ位盛って出すと、珍しい茶菓子となる。
 みじん栗 は、渋皮を去り、小角の(あられ)に切り、一寸湯をして吸物の種に用いる。
 栗の皮は腰湯に用いれば薬効がある。



最終更新日 2005年12月16日 10時04分00秒

林春隆『野菜百珍』「一四六 黒豆の話」

一四六 黒豆の話
 京阪の風俗に黒豆の飯を甲子(かつし)に焚くことがある。旧家でよくやることで、一升(ます)に黒豆を入れ、それを大黒天に供えて後、飯に交ぜて家中で頂くのである。大黒天というに因んですることとおもえぽたわいもない話だが、これは家々の習慣として昔の惣菜の日割献立とも見るべき良い風習で、甲子の黒豆、庚申の蒟蒻(こんにやく)、十八日の観世音の命日にめい(、、)(海草)を食うなどの、迷信から出たものでも、食養の上から考えた食味の供給に外ならぬ。この黒豆は毎日少しずつ食うと長寿だなどともいわれる。
「養生訓」に、黒豆は生は平、煎りて熱、煮て寒、納豆にして極て冷、ひしお及びもやしにして平也。一体のうち用いようにより数変すという。「常食にして薬効あり」とある。座禅豆は黒豆をもって煮るから、これも養分を摂る工夫から出たものであろう。
 この黒豆は大豆の一種で粒の長大なもので、食用とするは雌で、粒の小なるは雄で薬用とされるのである。
   から箸を三口程喰う座禅豆



最終更新日 2005年12月16日 21時34分27秒

林春隆『野菜百珍』「一四七 慈姑の話」

一四七 慈姑の話
 くわいは、沢瀉(おもだか)科の根菜である。旧い根塊を水田に耕作して一根より叢生する。冬に至り春塊に側子を生じ、初春より二、三月頃までにこれを採って食用にする。普通くわいと、烏芋(黒慈姑)の二種ある。
 秋稀に花を開き、三弁にして白く沢瀉の花に似ている。
 くわいの名は葉の食い破れた藺の意か、あるいは葉の形鍬に似たる藺という義かとある。俗にくわいを食うと精を()らすという諺があるが、「和名抄」に烏芋をクワイと訓して沢瀉の類なりといえるより、後にはひとえに沢瀉をくわいと心得、かつ沢瀉は水を利するということさえおもい癖めて、かかることを言い習わしたのである。慈姑は「本草」にも、腎経に入り旧水を去り、新水を養い小便を利すといわれ、精を耗すどころか、大いに強精されるのである。例の泥坊上人も「泥中曽曳レ尾。今看一角仙。剪レ根東寺上。知レ味吹田辺。筍子皮形似。牡丹花蟹妍。誰言能削レ腎。増レ勢使強縁」と証明されている。牡丹くわい、蟹くわいは料理の形である。
 また幕末の経世家にして農学の泰斗であった佐藤信淵翁は、常にくわいの湯を携えて歩き、貴顕の面前でも憚らずにがぶがぶ飲んだ。これは当時、栄養的の若返り法を実現したものである。
 くわいは摂津吹田辺の産をもって優とするが、その種を京洛の内外に移したのは、天正十四年に豊臣氏が土居を築く時に、土壌を採って水田が到るところに生じた。それに水藍を栽培させたその裏作として慈姑(くわい)を作らし、初めラクダと称する朝鮮産を輸入したが、のち鳥飼種の吹田慈姑を栽培して東寺慈姑の名が著われるに至った。
 古来、慈姑の訓におもだかと付けたり、また沢瀉にくわいの仮名を施したのもあって、往々詩歌にも混同したのがある。おもだかは面高の義で、葉面の文が隆起するからの名で、葉の形は慈姑に似ているも痩せて小さく、その根も狭小で食に堪えぬもので、これを俗に花くわい(野茨菰)、和名はなまい(、、、)というのである。嵐雪の句に「おもだかの花にくわへの銚子哉」と、また野童の句に「沢瀉や道付替し雨あがり」なども混同した句である。
        *               *               *
 さて調理は、
 かるかん蒸し  大粒のくわいの皮を剥き、軸を残しておろし金ですり、塩をまぜおき、別に同量の山薯をおろし、前のくわいと摺り交ぜ、蒸籠に厚さ一寸ばかりの枠をいれ、それへ材料をつめ込み、ぴったり蓋をして一時間ほど蒸し上げ、蒸し加減を見ておろして切る。
 つくね慈姑  おろした慈姑を布巾で包み、汁気をしぼり、摺り鉢にあけて砂糖、塩を交ぜ、小粒に平めて、濡れ布を敷いた蒸籠に入れて蒸しあげる。
 吸種 皮を剥いたくわいを擂鉢へおろし入れ、片栗粉少々、煮切り味淋少々、食塩で薄味をつけ、折箱に布巾をしき、慈姑を入れて蒸しあげ、適宜の形に切って吸いもの種とする。
 田楽 くわいの皮を剥き塩茹でにし、三つぐらい竹串にさし、山椒味噌をつけて出す。
 鳥擬 くわいの鴨もどきは、すりくわいに片栗粉少し加え、よく摺り合わせて団子に取り、胡麻の油であげる。これに芹、三ツ葉などあしらい、吸物とする。
 焼目 慈姑の尾を切り平め、軟らかくうでて、目笊(めざる)にあげて水気を去り、金網に架けて焼目をつけ、砂糖と醤油にてざっと煮て、さらに二つに輪切りにする。焼肴の添えに用いる。
 甘煮 大慈姑を二つ割り栗の形に庖丁して、落ち蓋で柔らかく茹でたる後、常の如く甘煮に仕上げる。
 蒸し慈姑 前の如く、すりくわいを蒸して形に取り、葛餡(くずあん)をかけて椀盛りにする、クチ山葵(わさび)
 素揚げ くわいを薄くへぎて水気を去り、胡麻油でさっと揚げる。それにばらぽらと塩を()る。揚げ加減よくすること。揚げ過ぎると苦味で食われぬ。
 煎餅 前の如くへいだ慈姑を油であげ、砂糖醤油、また胡麻などかけてからからに乾して食う。
 色付 茹でずに皮を剥き、初めより生醤油で煮る。
 松丹 皮を剥いておろして油で揚げたものの名称である。
 松前 皮を剥きおろして、うどん粉に砂糖を入れ、よく摺り合わせて昆布で巻き、こしきで蒸し上げ、さて小口切りにする。
 たたき慈姑 押しひらめて雷豆腐、茶碗むし、煮込みなどへ入れる。少し味をつけて糸切りにして盛合せにつかうもよし。
 このたたき慈姑のひしぎようは大小に限らず、まず湯煮し皮を取り、酒、醤油、水の加減をよく合わし、ざっと味を付け、それを布巾につつみ、板の上にて手で押し平める。また塩煮してひしぐもよし。
 真丸 小さなものを湯煮して皮を丸く剥き、それを擂鉢に入れて手のひらでくるくるまわすと、綺麗に丸くなる。薄味をつけて、こくしょう、こしあん、吸いものなどに用いる。団子串にさしてもよし。
 寄慈姑 生で皮を去り、すりおろし、布巾で水気をしぼり、胡麻油であげる。うどん粉か寒晒粉を少し加えて寄せると、しまりよく形が取れる。これも汁の実、平椀の取り合せにする。
 焼慈姑 これも大小に限らず、はかまをよく取りて、柴藁などで蒸し焼にして、程よき時分取り出し、よく洗い、あと先を切り、ひしぎて取肴に遣う。山葵、こしょう、さんしょう醤油など注けるがよし。
 黒和え これも小さい慈姑を湯煮して皮をとり、すり鉢にいれて手ですりまわして丸め、黒胡麻味噌で和える。またそれを山椒、わさび、木の芽、柚などの味噌に和えるもよし。もろみ白和えにするもよし。
 慈姑は三月雛の節句に豆慈姑など用いるも、真味は八月頃よりで、料理には秋の部に多く用いられる。
        *               *               *
 慈姑の字義は、根塊年ごとに十二子を生ずるゆえ、慈姑の諸子を乳するが如しというので、慈孤の名もある。
 また「本朝食鑑」に「烏芋(黒久和恵、又久和井)俗に不登井と称する根也、水田湖沢に生ず、其苗三、四月土を出る、一基に枝葉なく燈芯草に似たり、肥大にして二、三尺、これを刈りて蓆を作る、其根白蒻、秋の後顆を結ぶ、大栗の子の如し、臍に聚毛あり、累々として泥の底に生ず、自ら生ずるもの、黒くして小さく食して滓多し、(うゑ)て生ずるものは、紫にして大きく、之を食へぽ毛多し、冬春掘収めて果とす、生食、煮食皆佳なり」とある。また白地栗の名もある。



最終更新日 2005年12月16日 22時01分36秒

林春隆『野菜百珍』「一四八 葛の話」

一四八 葛の話
 くずは、豆科に属する蔓草にして、各地の山野に自生する。その根塊を澱粉として食用するもので、大なるは直径七寸、その根の長さ一丈に及ぶものがある。これを葛根と称し薬用にする。
 くずの名は古来大和国栖(くず)の特産として名あれば、その音便とも伝えられる。これに次いで越前、若狭地方の特産物として著名である。
 葛の根は冬月まだ苗を生ぜぬうちに掘って用ゆ。春苗を用じて秋の初め梢の葉の間に花穂を生ず。三、五寸にして垂れ豆の葉に似て紫赤なり。後に(さや)を結ぶ。豆に似て狭く薄し。実は食うべからず。蔓甚だ強く、ふじかずらとなし、葛布はこの蔓で()として織る。袴、雨衣、襖地等に用い、遠州掛川辺の産である。
 葛は古歌にも多く詠まれ、その葉が(こうぞ)に似て面青く、裏白きゆえ、歌人は葛の葉の裏見と称し人の恨みにたとう。信田(しのだ)の森の故事なども、この歌意に因るものである。
 葛の葉の芽出しの巻いたものを玉巻葛と称し、蓮葉や芭蕉の巻葉と共に賞美される。句に「巻かぬ葉は玉破れ安し葛の露」と。葛は根を食用として重用され、葉は真葛、葛かずらなどと葉を首題にして詠まれる。洛東の真葛(まくず)(はら)も往昔はその産地であったのであろう。「夫木集」に「たまさかにゆきあふ坂の真葛はらまだうらわかしうらみはてしを」、同じく「かの国に葛かるおのこまてしばしうらみんとおもふ折もこそあれ」と。また俳句に、「秋みれは風も落つく葛葉哉」、「さもあれと翁まいりぬ葛の宿」、「葛の葉はしんどい山が恨み也」。また狂歌に「葛の葉はもえぎおどしのようひ著て風にうしろを見せる葉武者よ」などがある。
        *                *               *
 さて食用としては、夏の木影に葛水、葛湯の籏をひるがえして、往来の人の渇をとどめ、不食の病人にはなくてならぬ補食品ともなり、料理に、菓子に、その他種々の食品に応用されること、あたかも千手観音の如く、甘露の慈悲を垂れたもうのである。
 葛溜 葛一杯、醤油一杯、酒一杯、水二杯半。ゆるくする時は水三杯位。但しねりおくときは蕎麦粉を少し入れておくこと。
 葛玉 葛ねりに砂糖を加えて、豆ほどに丸める。
 白葛溜 は、常の葛たまりの醤油を入れぬもの。焼塩、焼酎を入れて練るのである。
 水仙巻 葛を湯煮にかけよく練り、よく手で(なら)して固め、鍋を下し、濡布を敷きたる上にあげ、端から巻き丸めて、庖丁を濡らして程よく小口切りにする。
 葛打ち 上葛を湯でこね、手のひらへよきほどに取り、片手にて平め湯煮をする。
 葛茸 前の如くした葛を松茸の形に作り、湯煮して水に取る吸種。
        *               *               *
「ふりむきし(くず)のうらみの根をきけば花をちらせし風のいたづら」と、こんな狂歌にも葛の葉は女性的で、嫋々しい余情がある。「新古今集」の俊成の女が歌に「葛の葉の恨みに帰る夢の世を忘れかたみの野辺の秋風」というのもある。
 前にちょっと信田(しのだ)の森の葛葉神社のことを書いたが、この森は「枕草紙」にも森というは信田の森のこととあるほど古い史蹟であって、例の安倍晴明の母がこの森に棲む狐であるというを、小説に書いたのを伝えたのであるが、ここの大樹は楠で葛の葉と混同したのである。この辺は衣通姫(そとおりひめ)の故事などある地で、当時上臈の歌あそびの題材となることが多かった。和泉式部が道定に忘れられて、程なく敦道親王が通いたもうと聞いて例のいたずらな赤染衛門が「うつろはでしばししのたの森を見よかへりもぞする葛のうら風」と詠んで遣わした。式部のその返しに「あき風はすこし吹くとも葛の葉のうらみかほには見えじとそおもふ」と。その時代の淫蕩な情操は、いつまでも葛のうら風のように吹きのこされている。信田の楠の証歌は「紀氏六帖」に「いつみなるしのだのもりの楠の木の千枝にわかれてものをこそ思へ」というので明白である。
 狐と葛の葉はどうした関係があるか、これは画題の方で、狸にすすき、猫に牡丹、狗子(いぬ)に竹という工合に、葛のうら葉に女狐などは、ちょっと憎いほどな好画題である。
 で、狐鮓はつまむというが、狸汁にだまされて腕をさすヅても追いつかない。閑話はさておき、葛根湯は漢方医者の傷寒論の表看板で風邪薬だが、「陽明経」に「葛根に其用四あり、一に渇を止め、二に酒を解し、三に邪を発散し、四に瘡疹の出で難きを発す」とある。で、葛根湯は諸薬の毒を解する奇効があるので、昔は薬中の王とされたものである。
 地黄坊樽次のような大酒会を開く時、小豆の花に似た葛の花を酒に浸して飲むと、いくら呑んでも酔わないというのである。
 しかし、葛は何にしても上戸党には不向きで、やはり甘連の領分である。
 葛餅 上葛を砂糖の湯で固く練り、白きこなを木鉢に敷き、その上へ打ちあけ、粉をかけながらこねると自由につまみ切れる。それを程よい形にして、白砂糖と焼塩を加減して上にかけて出す。
 蕨餅(わらびもち)もこの仕様と同じである。つけ合せに沢庵漬、菜漬など最もよろし。
 葛饅頭 葛をへら(、、)(すく)いのせ、水をつけながら手の平へのばし、上餡をこしらえおいて包む。
 葛切リ 葛粉一升に白砂糖半斤入れ、沸湯にてこね、麺棒で伸ぽして蕎麦の如くに打ち、また沸湯に投じて出す。したじは蕎麦より甘きがよし、味淋上砂糖をつかうのである。
 葛索麺 葛を水で溶き、砂糖をよきほどに入れ、毛篩で漉しおき、銅の盃形の器に穴をあけたるに入れ、沸湯の上にすくい入れると、葛水は穴より沸湯に漏れて細く索麺(そうめん)の如くなる。但し下の沸湯へは、玉子の白身と、あくを入れて煮たたすのである。
 葛焼 葛粉を沸湯でこね、砂糖と灰汁を入れ、焼鍋の上に銅の形を置き、この内へ流し金へらで打ち返し、両面を焼く。中にす()の立っほどに焼くのである。これも玉子の白身を葛粉に加えること。
 砧巻 葛粉を水で濃くのべ、白砂糖を入れ、焼鍋に薄くのばし金へらにて起し、すぐ巻いてまた焼鍋にてすこし焼けぽ、しっかりと巻きつく。但し、あくも白身も入れず、黄色はうこん粉、紅色は食紅を用いる。
 葛つづみ 前のきぬた巻の如くして、銀杏、木耳(きくらげ)、かち栗、胡桃など細かにして一と味つけ、これに包み、干瓢で結び、ごまの油であげる。
 巻水仙 は、上葛をよく溶き味をつけ、水煎鍋にうすく流して沸湯につける。葛よくいってぎんの出る頃、小口より巻きつけ、冷して薄く小口切りにする。青は挽茶、紅色っけてもよし。
 その他、葛引き、うす蔦などの調理は常の如し。
 犬に咬まれた時、葛粉をなすりつけ、また飲みおくべし。毒を解すという。



最終更新日 2005年12月16日 23時53分07秒

林春隆『野菜百珍』「一四九 山梔の話」

一四九 山梔の話
 くちなしは、庭園の下草として人家の生籬(いけがき)または花を賞する灌木である。その名は実が熟しても開かぬからの称で、山梔の字はその実の形、梔に似たるより書くか。黄色の染料として用途広く、また食用染料に用いられる。くちなしは、越桃、木丹、巵子、水梔、玉玲瓏などの名がある。
「くちなしの花は心のある世哉」、これはその花が心字形になっているを詠んだものである。「くちなしはいふにいはれぬかをり哉」と、普茶料理の黄飯はこの山梔の実で色をつける。光広卿の狂歌に「つくづくと見てもくはれぬ物なれやくちなし色の瀬戸の染飯」、また「古今集」為忠の歌に「耳なしの山の口なしえてし哉思ひの色の下染にせん」と。
 巵子は、単葉は実を結ぶも、千葉は実を結ばず、これを玉楼春と名つく。花は仏書にも簷蔔と称し、熱を冷し気血を潤し、酒毒を去る効がある。



最終更新日 2005年12月18日 20時49分04秒

林春隆『野菜百珍』「一五〇 桑の話」

一五〇 桑の話
 くわ、桑は、わが国養蚕上に欠くことの出来ぬ重要植物である。くわの音は蚕葉の転語か、また食う葉の約か。春葉に先んじて花を生ず。穂をなして(こうぞ)の穂に似て、小さき実が(むらが)り生じて穂をなす。いちごに似て初め青く、のち赤く熟して黒く味甘く、里人はこれを嗜食する。これを桑いちご(甚)といい、実らぬものを男桑という。
 葉の形、円く(とが)りて刻みあるを真桑、円桑といい、葉厚く汁液多ければ蚕を養うに適する。俗に白桑ともいう。また葉に岐ありて薄きを山桑、薊桑(あざみぐわ)(鶏桑)という。これは多く薬用にするほか、材堅く、その皮をもって紙を製する。
 桑の実は通常生食するも、墺国ではこの実を用いて舎利別を製して薬用とする。
 桑酒は丹波の名産で、船井郡八木村で製する。桑の根から浸出する液で造った酒である。滋養剤として古くより著明で、不老酒の名がある。



最終更新日 2005年12月19日 00時00分55秒

林春隆『野菜百珍』「一五一 口取の話」

一五一 口取の話
 くちとりは、口取肴のことで、酒席の最初に出す下物(さかな)である。俗に突出しものというのに似たものである。果物、甘露煮等の五種、七種、九種など取り合わせて出す。古は硯蓋(すずりぶた)に盛ったもので、これを「硯ぶた」と称した。
 箱の蓋に食物を盛ることは古えの風習で、「源氏物語」の若菜の巻に「つはひもちひなしかうしやうの物ともさまざまに、はこの蓋ともにとりまぜ云々」とある。椿餅(つばきもち)や梨、柑子(こうじ)などの取肴で酒宴を催された当時の素朴さが窺われる。その他「蜻蛉日記」「平家物語」、また種々の歌集などにも硯ぶたのことは載せられてある。もとは硯筥(すずりばこ)の蓋を用いたものが、後には硯ぶたという一種の器ができて、今では口取のほかに硯蓋を引くようになった。後水尾天皇の御代までは皇室も式微であらせられた時、毎年川端道喜から奉る粽餅(ちまき)をこの蓋ようのものに盛って納めたのが例になって、今も蒸菓子の類を木箱に入れて音物(いんもつ)にする習いとなった。陶器のまだあまりできなかった頃は、木製の食器を用いた。これもその遺風である。
 さて、その口取肴の種類を精進ものですると、玉章牛房(たまずさごぼう)、塩ぜんまい、寄せくるみ、栗きんとん、とし牛房、ぎせい豆腐、果物甘露煮、金糸牛房、川茸、松露、焼目慈姑(くわい)、ふきのとう塩焼、長芋せん、初茄子鴫焼(なすしぎやき)、唐納豆、むかご塩煮、外郎(ういろう)、こふき蒟蒻(こんにゃく)、火取り熨斗(のし)芋、うどめ田楽、うち栗、干しぶどう、火取り蜜柑、焼初茸、筍からし煮、くわいきんとん、仏手柑(ぶつしゆかん)柚煮、天門冬紫蘇巻、生椎茸木芽焼、味噌漬防風、花柚唐煮、へちま味喀焼、柚ねり羹、梅肉百合羹、かのこ百合、その他。
 ざっとこんなものであるが、今一般の割烹(かつぼう)店や待合茶屋で出す、例の突出しのぎすけ煮や、花あられ、くさやの乾物などと混同してはならぬ。口取りは口取肴の略したもので、会席なり本膳なりの料理の一種である。



最終更新日 2005年12月19日 11時04分23秒

林春隆『野菜百珍』「一五二 会席の話」

一五二 会席の話
 俗に「会席料理」という名の起ったのは天保の頃からのことで、古の茶の湯の懐石(かいせき)とて簡易なる料理をもてなしたに.始まる。のち諸人の会合する料理店で出す料理の名としたのである。茶の湯の懐石はもと禅寺の薬石を真似たもので、今では寺院までが夕食のことを薬石と呼んでいるが、昔は寺僧は朝と昼の二食で、朝を粥といい、昼を小食と称して、夕食は摂らなかったので、寒気の時は石を焼いて懐中を温めさせた。それを薬石と称し、茶人は懐石ととなえた。もっとも焼石のことは古く用いられたもので、「平家物語」にもその他の書にそれを用いた考証がある。
 喜田川守貞の「近世風俗志」に、「江戸にては近年会席風と(なつ)け、其客の人数に応じ、余り不足これなく、僅に余るべき程に出し、価を減ぜり。(しか)も肴数は減ぜず、唯京阪の如く各肴を多くせず、先づ第一に味喀吸物、次に口取肴、次に二っ物、次に差身、次にすまし吸もの或は茶碗物、以上酒肴備はり、次に一汁一菜の飯、或は一汁二菜の飯なり。是にて極上品の店にて銀十匁ばかり、或は五、六匁なり。然も前後とも上々の煎茶に上製の口取菓子を添く、、又(もと)めに応じて美なる浴室にて浴させ、余肴は笹折に納めて客の携へ帰るに備へ、夜に至れば用ゐすての小田原提灯を出す。是皆一人大略銀十匁以下の費用也。京阪は前後の茶に菓子を出さず、浴事なく、余肴は竹皮に包み、提灯は得意の客に非ざれば貸さず、夊用ゐすてにあらず、次の日取りに返す、而かも一人分価銀二、三十匁也。数人一座にて一人分十二、三匁を下らず、蓋し江戸にも名なき店は上の如くならず、皆其大略をいふのみ」とある。
 この会席料理は著者の若い頃(明治十七、八年)に、大阪では新清水の八百松、船場平野町に松葉楼などというのが出来て、その頃大料理店の向うを張って、一人前金二十五銭で二汁六菜ぐらいの会席料理を始めて大いに流行した。その後、丸万、京与、また牛肉のすき鍋が流行して、この会席料理はもとの名ある割烹店の専有するところとなった。
 料理屋の提灯でおもい出した面白い話がある。それはある大富豪の番頭で、一遍貰うて来た大料理屋の提灯をいつも持ち歩いて、今夜も散財して来たような顔をして人をけなりがらした(、、、、、、、)虚栄爺があった。その提灯に著者等が悪戯して「永代提灯」と落書してやったので、っいにこの提灯のお化けも消えてしまったことがあった。
  *                *                *
 一般俗にいう会席料理は、茶会席と服紗料理との中間料理である。会席料理には、汁と平椀のほかは皆陶器を用い、膳は脚のなき折敷(おしき)を用う。これを会席膳と称する。
 大体は汁、(なます)、付合せ、茶椀盛、大猪口、平皿、香の物、これに重引を出す。
 これは旧式のことで、いまの会席は、汁、向付、煮物、焼物、八寸深皿、羹物(あつもの)、酢肴。
 また、汁、八寸、焚合、刺身、煮物、焼物、強肴(しいさかな)
という風に、簡略にして(うま)く食わせるというのが会席の長所である。で、その量においても、その味においても、腹の虫を満足させると共に、食指がどの食品にでも動くように、調味と趣向とを凝らさなければならぬのである。
 ここに昔、京の大徳寺その他、茶の湯に行われた茶懐石の献立を、二、三示して見よう。
  ○汁、かぶらとたたぎ菜。たたき牛蒡に山椒。
  ○菓子椀、揚獄に(せり)
  ○吸もの、百合に水前寺海苔。菓子、もろこし。
 また、
  ○汁、いもの茎長、切小豆。
  ○坪、瓜漬、煮山椒。
  ○平、大豆腐の油煮、葛煮にして山葵。
  ○重物、牛蒡の太煮、青のり。主客盃なし、酒三献。
  ○菓子、ふち高にて、すはま、やきぐり(うちて)、せんべい。
 また、採籠にて、
  ○向、木皿の小に香物三種。
  ○汁、みそやき。
  ○平、生麩(なまぶ)葛煮、わさび置。
  ○木皿、長いも、さがらめ、みそやき。
  ○吸物、なめ茸、 一色すまし。
  ○汁、焼とうふ、黒豆、うど。
  ○菓子、まんじゅう、こうたけ(にしあ)〆。
 また、
  ○赤楽皿、青あえ筍、うど。
  ○汁、小菜、吸口とうがらし。
   飯引て、大根くき、唐鉢に入。中酒。
  ○平、焼豆腐、わらび。
  ○吸物、しょうろ。
  ○取肴、長いも、片め。
 こうした佗しい淡味をもって貴人のもてなしとせられた。当時の茶会は、最も古風を慕うことが流行したものと見えて、その時の掛物に古織部侯の墨蹟で、
   一座中せぽき時は、客床へあがりても苦しからず、紹鴎の数寄の時見たまふに、四条弁殿御出来、二畳大目ゆへ、六人ありて少しせぼく侍り、弁殿床へあがられたまふと也
    とこやみの夜も明方のともし火にほのぼの見ゆる花のおもかげ
  とよみ侍り人皆感吟せしと、かやうの例も有事也
   *                *                  *
 茶懐石は一汁一菜より一汁三菜までを限りとすることなるも、その場合によって添菜するのである。その器も雅致を旨として華美なるを避けること。料理に心を用い、魚は骨なきように料理して、暁茶、朝の茶の湯には、向付に火取りたものを用い、もし煮物肴なれば焼目を入れて用いる。しつこき魚はこの料理に忌むべし。羹は四季を通じて温かく、ただ味のよきを本意とするのである。
 それで茶懐石の料理の食べ方は、まず膳には鱠、汁、飯と順に出されるのを、汁、飯、鱠と順に食すると、銚子が出て酒をすすめられ、次に煮物、炙物(やきもの)、吸物、八寸、強肴と順に出るのを頂き、酒と飯を充分すすめられてのち、御湯と香の物が出る。それをなるべく食い残さぬように食い、もし嫌いなものは初めより手を付けず、止むを得ず残したものは、用意した懐紙かその他のものに全部入れて、必ず持ち帰ることである。
 茶の懐石も、利休の頃は大方一汁三菜で、酒三献に肴は一種であった。
 この会席料理は、連歌、俳諧の座にも用いられ、昔五山の大詩会を短冊切の会と称し、五山の長老西堂などが会して後に饗応するのもこの会席風であった。尾州の横井也有が、俳席の掟書に、
 一、飯は三石の掟を守るべし。
   茶の花の(ころ)を奈良茶の盛り哉
 一、汁一つ酒の肴も一つを限りて、鰹に精進の咎をのがるべし。夏は必ず茄子を用い、豆腐は三季にわたるべし。香の物は論ずるに足らず。
   音も香もせぬや豆腐の冬籠
 一、酒は膳の前後をすべて三盃を過ぐべからず。さるから、盃は得手道具をゆるすべし。
   いかさまに四たびはくどし村しぐれ
  連衆に酒好きありて、此箇条にはなはだ苦しむ。また了簡の一句をしめす。
   狐さへ五こんとどもる霜夜哉
 一、菓子は其日のあるに任す、まつは煎豆に定むべし。
   煎豆に音こきまぜてあられ哉
 一、燈は行燈にて事たりぬべし。
   蝋燭にたつといふ名の寒さ哉
  右の条々今日よりかたく守るべし、亭主に卑下の辞なければ、客に軽薄の挨拶も古し。此約束を空になして、厚味を求むる輩あらば、後の世に蝿と生れて、風雅に不信第一の人とすべし。
  元文三年
   誓文はたてぬ筈なり神無月
と。この文まことに清楚なる会席の妙趣を示されてある。初めに飯は三石の掟とあるは、芭蕉翁の奈良茶三石を喫して初めて俳諧の道を知るというのを取って、この掟書の基とされたのである。
 いまは一般料理を会席というも、(おご)りに長じては本膳にも過ぎたような料理献立を列べ、会席の名を忘れて食前方丈の贅沢をっくすようになった。
 ことに素人料理は、ひねくって手間を入れるより、手早く小綺麗に調える方が真味が求められるのである。



最終更新日 2005年12月19日 11時39分48秒

林春隆『野菜百珍』「一五三 菓子の話」

一五三 菓子の話
 下戸と妖物は世の中にないという諺はあるが、美い女の化物は古今東西に人を害し、家を破り、国を傾けるためしいまも絶えず。下戸もまた上戸に譲らぬ跳梁振りを見せて、つまみ食いの名は時を択ばず随処に展開される。
 まずもって開闢以来、何が一番に進化したかというに、食いものの中でこの無駄食いや間食にする菓子が、その時代を通じて発展して来た形勢である。
 天は二物を下さずというが、上戸にして甘党あり、下戸にして酒徒あり、これを両刀使いと称するのを見ると、世界の人間は悉く下戸が本の宗旨で、上戸は時の随喜者に過ぎない。菓子はひとしく人類の嗜好食である。菓子の進化は、当然のことで少しも怪しむに足りない。ここにおいて大いに甘党のために気勢をあげざるを得ないのである。
「とはずがたり」安政四年板に、「菓子は文字の如く、木の実のことにて、栗、柿、梨子、桃、柑橘の類なり。これをいにしへは生菓子といひ、饅頭、羊羹の類を干菓子といへり。今は有平糖、金平、落雁の類を干菓子といひ、饅頭、羊羹などを蒸菓子といふ云々」とあるが、これは近世のことで、製菓の法は既に千年も以前に、シナから伝来して元は寒具と称し、清明の祭式に用いたものである。それが後世に至って娯楽食物として製するようになった。
 で、古は菓子を「からくだもの」と称し、寒具の類を学んでつくったものである。寒具は寒食の供物として、冬至より百五日を三月の節とし、即ちこの日を清明の節とて、漢土ではこの日火を焚かず、前日より種々の菓子を調えて供物とし、またこの日あたたかきものを食わぬゆえに寒食と称したのである。「江家次第」また「和名抄」に載せた八種の唐菓子は、梅枝、桃枝、饂餬、桂心、黏臍、鐸鑼、鎚子、団喜等で、これ皆粳粉、麦粉などに甘味を加え、種々の形につくり油で揚げたものである。、このほかに餡蝕、糧餅、結果、捻頭粉、熟饂飩などの名を出し、また索餅、餅腴という物もある。この索餅は今のしんこの如きもので、餅朕は「枕草紙」の「はしたなきもの」の条に「へいたんといふ物二つならぺつつみたる云々」とある。
「東雅」通雅によるに、「鐶飩、捻頭、鐸鑼、饂飩等の如き、かしこにては詳ならざりしと見えたり。我国には猶今もこれらのものの遺制はあるなり。我むかし御厨子所より公にまゐらせしものともを見たりき。それが中に俗間にもその制の如きのこれるもあり。団喜は俗にだんごといふものの形にて餒を包めるなり。粘臍は俗にへそ(、、)といふものの形是なり。饂餬はもと(さそり)といふ虫の形の如くなるをいひけり。俗にささもちともいふものの中に其形なる物あり。蹕鑼はひらなり、俗に花弁といふものに似たり。鎚子は俗に芋の子などいふものの如くなり云々」とある。いまもこれらの遺風は、かえって駄菓子屋に遺されてあるようにおもう。
 下卑た駄菓子の話ばかりであるが、上世の干菓子に四品あって、饂籠、桂心、渾沌、加久縄と称し、いずれも今その形を雑菓子屋に伝えられている。蒸菓子、干菓子ともに上品になったのは、最も茶の湯、煎茶などの流行が華美になるに伴い、種々の技巧を菓子の上に凝らしたのと料理の引菓子に高価なものを用いるようになったからで、菓子は目で食う粉飾品とされる傾向が、今もなお盛んに行われて、昔の薬と併用されるのに正反対の結果である。で、喜ぶものは歯科医と菓子屋、胃病患者の多いのも、濃厚な甘味に中毒されるのである.、
 その甘味の中にも長崎のカステラは、最も風味の点では天下一と称しても浴美でない。かつて阿蘭陀(オラソダ)伝法、不老仙菓、長崎根本製などと自ら誇大の看板を掲げた。そのカステラの広告は長崎市の電柱といわず到るところに掲げられ、あたかもカステラの柱が林立している観がある。下戸でない筆者はそれを見ただけで胃が変になった。そのカステラの語源についてある書に、
  紅毛に、ていら、めいらといへる二人の兄弟ありけるよし、此のものども中睦じく、二人申合せ菓子家業をおもひつきける、兄のていらはいかにも売先を手広く貸出しせんと申せば、弟もしかりと申す、左様ならば砂糖その外も問屋を借りてこそ然るべしと申す、兄はかすにかかり、弟はかるにかかるゆゑ、しぜんと、時の人呼んで、兄をかすていら、弟をかるめいらと呼び、菓子の名と成るもをかしき。
とあるが、これはいささか臆説で、カステラは西班牙(スペイン)国のある一部を占めた古い王国の称で、西班牙(スベイン)人をカステラ人と呼び、これらの菓子は同国人が(もたら)したのである。
 天和三年、京御菓子司桔梗屋の菓子名のうちに、
  なんばん飴、はくせつかう、ちんぴ糖、ぎうひ飴、あるへい糖、かうらい煎餅、丸ぽうろ、かすていら、こまぽうろ、かるめいら、南京あめ、花ぽうろ、唐まんぢう
等の名がある。
 これらはその頃南蛮国より長崎に伝来したもので、こんぺいとうというのも葡萄牙(ポルトガル)語である。これを金平糖、金餅糖、金米糖などと書く。西鶴著の「永代蔵」貞享五年板に「近年下値なる事長崎にて女の手業に仕出し今は上方にも是をならひて弘まりける」とある。また有平糖は毎年節分の日に売られ、明治の中頃まで理髪店に、紅白の立看板にこの有平糖を擬したるものを出した。
 あまり.ハタ臭い話になったから、少し古いところを話すと、「源氏物語」また「うつぼ物語」に「ひきぽし奉れり」などとある。引干とは乾大根かまたは海藻の類で、古く菓子に用いられたと見える。また、みずからと称して昆布に山椒を巻いたものを、不見辛と書いておもわざる外に辛きものという意である。あるいは水から生ずるものという義か。この昆布を菓子に用いることは古き習いである。古の菓子は一位(いちい)の実、(かや)の実、玉章(たまずさ)(烏瓜の核)、氷豆腐、ころ柿その他の果物を用いたもので、それは古き物語に書きのこされてある。
 それから信仰と菓子、神仏への供物は食を祭るという義で、これも食の礼讃である。聖天さまにお団喜という巾着形の油菓子を供える。この菓子は歓喜とも称して、歓喜天というところからおもいついたものであろう。また七色の菓子を東京では庚申さんに供える風習があるが、京阪ではこの七色菓子と、二股大根、みのなど七福神に因みて、これを甲子の大黒天に供える。この七の数について「理斎随筆」に、
  近衛文稿日、陰陽五行合せて則ち七と為す。それ二五の妙用万物を生ず、故に太古より称して天神七代といふ。又土地を分ちて七道とす。これ上古より七の数を用ゐる所以なりと。それ七の数は易の復にて七日来復すとあり。天運自然にして陽道順にかへる卦なり。此故に薬を服するも、温湯に浴するも、七日を以て限りとし、一とまはりといふ。来復の義に依る処なり。
とある。で、いま日曜の安息日も、こうした精気を回復する意味である。
 また七色の菓子を甲子と庚申の祭りに供えるということは、俗にこの日に当って発病すると病が重くなるといい伝える。それは、甲子は干支の(はじめ)で気の(はなは)だしき日、庚申は干支ともに金気にて、粛殺の気を剋し、害をなす気の旺んなる故という理をもって、この二神を祭るので、東西その祭神を異にするも、その意味は同じである。俗に庚申の夜に房事を忌むというのもこのためであろう。
 菓子の話も変なところに脱線したが、その種類や製法については、くだくだしいから省くこととする。その外の話は、饅頭、煎餅、餡、餅、羊羹、また団子の条を参照せられたい。



最終更新日 2005年12月19日 13時11分20秒

林春隆『野菜百珍』「一五四 八ツ茶の話」

一五四 八ツ茶の話
 カレンダーの暦日にある陰暦などということに無関心な児童でも、毎日のお八ツの茶うけを忘れることはない、ほど食の執着は深いのである。
 お八ツは昔の漏刻の八ツ時で、七ツ下りの紋付羽織などといっても、今の子供には分らないが、このお八ツという昔の刻限には、必ずおねだりをするのである。
 農家では間炊、禅寺の点心、シナの菓子屋を点心舗と称して、この間食の名を専らにしている。大和の茶粥などはお八ツを超越した間炊、午前中に一回、午後に一回、夜食に一回の三回で、三度の常食を併すと、日に六回は箸を握るのである。もっとも箸などを用いなくても、(すす)り込む位の水だぶの茶粥で、これがため手明きの婦人は一日中どら猫のように、(かまど)の前にへたばっているありさまである。
 この間炊は、俗家はもとより武家が二食の時代にも、労力する職人等に間炊を与えたもので、奈良春日の絵巻物などにもその図がのこされてある。間炊は常食の間に炊くというから火食のもので、点心は生食または菓子の類を茶のうけとして用いた。
 禅家の茶礼に煎点(今は点心という)は斎前(ときまえ)に用いる請茶にて、茶には茶未とて塩鼓(口取り、煮しめ)の類を出す。また湯(今は小食という)には砂糖、生姜、橘皮、米粉を加う。これが禅家の茶礼にして、最も礼の重きものとされている。それが茶の湯の濫觴(らんしよう)であることは茶の話で述べたが、これは寺僧が日食一食より二食に移った頃の間食で、炊事の労を省いて食事を摂ったもので、これを非時食と称する。俗間のお八ツとはいささか趣きも違うが、乞食をもって生活をする僧家にあっては、こうした行持が修養の第一義であった。
 それに腹がすかないにもかかわらず、三度の飯を小言いいながら食う俗人の生活は、甚だ無意味なものである。で、点心という詞は、仕事に疲れてホッとした時に気を加えて精気を養うたのに、まず一服と煙草を吹かすと同様、茶を飲むので、心に点ずるという意味である。今の俗に僧家に食事を進めるを、添進というている。これも添菜と同じく非時に食を添える意味である。大阪新町遊廓のまんたという娼妓を転進と称する。これは食いものでなくて非時の色慾である。転んで進めるなどはすこぶる行儀が悪い。昔の遊女に天神という名称のあったは、二十五匁という揚代からの称であった。
 さて八ツ茶の話も閑話が多くなったが、このおやつは社会と家庭においても等閑にならぬことで、多人数の雇人を使用したり、工事その他の仕事の上に、この点心は、能率増進のメートルである。無声の号令である。むだ食い決して冗費にならぬのである。点心の意味をよく理解するがよろしい。
 蒸芋、焼芋、パソ、餅、蕎麦、うどんその他一人前五、六銭から十銭内外のもので、労働率の昂進をさすのである。



最終更新日 2005年12月19日 13時52分05秒

林春隆『野菜百珍』「一五五 焼肴の話」

一五五 焼肴の話
 やきさかなは、どの膳部にもなくてはならぬ名目の一っである。
 まず魚肉の焼き方では、
 かすてら焼、伝法焼、ぎせい焼、(ほう)ろく焼、はま焼、まくり焼、あら塩焼、鬼がら焼、つぼ焼、板やき、合せ焼、すき焼、かば焼、田楽焼、木の芽焼、紅毛焼、土蔵焼、てっぽう焼、塩焼、照焼、つけ焼、たまり焼、蠣焼、きみ焼、朝鮮焼。
等の種々の()き方がある。
 また野菜なれば、
(春) あげ豆腐付焼、長芋胡麻味噌焼、あげ昆布短冊、揚牛蒡味噌焼、あげ麩味噌焼、うど味噌焼、巻湯葉みそ焼、蓮根赤味噌田楽、やきめ芋、自然薯青味喀田楽、揚さつま芋、源氏ゆり、松風くわい。
(夏) 筍くるみ味噌焼、南瓜田楽、大蕗(おおふき)味噌焼、揚茄子ごま味噌焼、唐の芋胡麻味噌焼、じく湯葉つけ焼、花揚昆布、長芋塩焼、高野豆腐つけ焼、牛蒡八幡巻、瀬田焼、茄子田楽、同(しぎ)やき、筍鉄砲焼。
(秋)松茸ごま味噌焼、揚こんにゃく胡桃味噌焼、白鳥もどき角に取りみそ焼、刀豆(なたまめ)くるみ味噌焼、豆腐ごま味膾焼、ぎおんぽう田楽、平茸田楽、かすてら豆腐、糸うり田楽、芋団子みたらし。
(冬) 雁もどき山椒味噌焼、かしゅう山椒っけ焼、牛蒡味噌つけてそのまま焼く、天王寺(かぶ)ごま味噌焼、麩田楽、せり焼、ぎおんぽう唐辛子味喀付焼、山の芋胡椒醤油付焼。
 このほか、その季節のものをあしらい用いる。精進の焼ものは大体台引ものとして調理し、または取り肴の盛合せにあしらいてよし。あるいは皿盛りにして酒の合いに出すことである。



最終更新日 2005年12月19日 21時12分21秒

林春隆『野菜百珍』「一五六 楊梅の話」

一五六 楊梅の話
 やまももは、山桃、机子、聖僧などの異名がある。多く暖国に生じ、土佐の国ではこれを単舎利別に製して輸出するが、各地では児童の嗜好として食用にされる。シナではこの果実を賞美して「冬花採二廬橘殉夏菓摘二楊栂こなどといい、唐の李嬌も「折二来鶴頂一紅猶湿。制二破竜睛一血未レ乾。若使三太真知二此味刈茘枝焉得γ到二長安一」と、楊梅の形と色は丹頂の鶴に似ている。また神竜のひとみにもたとえ、楊貴妃がこの楊梅の美味を知るならば、茘枝は長安の都に到ることがあるまいと、やまもも礼讃の詩である。
   やまももに落る音なし(かね)の音
 楊梅の皮を煎じて瘡毒を洗うに用いる。またこの果実を塩漬にして常に貯えて食するもよし。



最終更新日 2005年12月19日 23時36分48秒

林春隆『野菜百珍』「一五七 松華の話」

一五七 松華の話
 松の花は異名を黄化、十かえりの花、若翆に黄なるものあるを松の花というのである。
 一説にこの花は百年目に一度咲く瑞祥であるというが、それは年々歳々に芽を生じる緑の嬲禦である。それと共に松の葉も軟らかいものは食用にされる。近来これらを精製して補生薬として(ひさ)ぐものがある。ことに松は春の(みとり)を賞せられ、歌に「をしなへて木の芽も春の浅みどり、松にぞ千代の色はこもれる」「翠たつ岸の姫松めでたさよ」、また「古今集」にある「常磐なる松のみどりも春来れば今一しほの色増りけり」というのを狂歌によみ代えて「常磐なる松のみどりも春くへば今一しほの菓子のあぢはひ」とある。また中華でも松華を服して長生を得るというので、シナの詩にも「擬レ服二松華一無レ所レ学。嵩陽道士忽相教。今朝試上二高枝一採。不レ覚傾翻仙鶴巣」と。これは松の華を食おうとして思わず仙人に教えられ、松の樹に登ってその華子を採ろうとして、鶴の巣をひっくりかえしたという面白い詩である。
 また松は霊樹として古くより賞味せられ、仏説にも彼の玄弉が西域に経典を求むる時に、霊岩寺の松の樹を撫して、我が本意を達せば汝西方に枝を長ずべしと誓言して去ったのち、この松西に枝を指し、また一年にしてその枝東に向うたので、寺僧は師の(つつか)なく帰ることを知ったという話がある。秦の始皇が太夫に封じたことや、十八公の故事などはともかく、松をもって、めでたいものの象徴とする習慣は東西ともに同一で、その性質の剛健なると、霜雪を凌ぎ四時色をかえぬ、その貞操のすがたを愛するがためである。
 また松葉は常に山林の士の食餌として用いられ、その味苦く温なるも細切りて毎日食前に酒をもって服すると、初めは服し難きも、やや馴れるに従って食欲をすすめ、老を同らし、身を軽くし、気を益し、久しく服すると、遂に穀を断っても飢えず渇することなしといい伝えらるる。松葉仙人の名もここに拠るのであろう。また松の嫩芽は、これを採って水に浸けること三日間ばかり、よく悪汁(あく)を去って後酒をもって蒸すこと七たび、それをよく(さら)して乾し、さらに袋に入れて()ちたたき、これを煙草の代用にする。山間辟邑(へきゆう)の松葉煙草はこれである。また松脂は、湯で煮て滓を除き、水に冷し、また煮ること七回、晒し乾して粉末とし、これを服すれば痰、心痛を治し、熱を除き、歯に指して牙を固め、()を去る効がある。また松の皮を赤竜皮と称し、騰物に効あり、血を止め、肌腐をととのえるの能がある。既に強精長寿剤として「松葉素」と称し発売されている。
 松は、こうした奇効を有つゆえ、万木の長として木公の字を用い、ついで柏を称して木白といい、ここに松柏の名を成したものである。また松葉を児童の翫弄(もてあそ)ぶことは昔よりの習いで、八朔に松毬(まつかさ)をもって鳥の形を作り、互いに贈答し、また蓑姿の農夫、奴などの人形にも作る。古き狂歌に「百姓と奴の着たをよく見れば松ふくりでござりまうする」というのがある。また、松葉相撲、松葉の兵、松葉くさりなどの児戯も、久しい自然の(あそ)びであった。



最終更新日 2005年12月20日 00時57分10秒

林春隆『野菜百珍』「一五八 松茸の話」

一五八 松茸の話
 まつたけは、松蕈、松菰など書きて、秋の半ぽより初冬の頃まで山中雌松の多き地に生ずる(きのこ)の名である。この茸の根に綿の如き一小塊がある、これを茸母と称し、茸母のある処には必ず松茸が生ずる。されど茸母は培養しても発生せぬものとされている。近来、馬糞をもって人工松茸を培養することを発明されたが、未だ広く行われない。
 わが国でもまつ茸は古くより食用にされたものと見えて、「愚昧記」の安元三年九月二十六日の条に「向二光明寺叩為レ狩二松茸一也。山上候二仮屋而勵難事一於二此所・盃酌」とある。光明寺は洛西粟生で、今もこの辺は松茸の産地である。既に松茸狩の行楽は八百年も以前の頃から始まり、後宇多天皇の御時にも行われたと見え、歌集に北山の松茸とりに云々とある。定家の歌に「北山の松茸狩にゆく人はかもの川原の穂蓼(ほたで)をそつむ」とある。当時はこれらの遊山は、殿上人や上臈の間に、紅葉狩、桜がりと共に行われた雅遊の一つであった。句に「茸狩りや被衣(かづき)も時の山莚」。この茸狩の遊山は初めて京洛で行われたため、洛の内外を中心として、丹波、近江、摂北、城南の近畿地方に今もその特産地として、この副業のため赤松は保植されつつ、松茸は年々京都府管内だけでも二百余万斤を産して、その香気と佳味はもって天下の珍とされるところである。
 また早松茸とて四、五月頃に生ずるものがある。句に「風薫る空や秋こそ早松茸」、それで松茸狩は多く歌にも洛北を詠まれているが、その後、洛東稲荷山は京の本場とされたが、近来では需用が激しいので、地回りの松茸は山科、宇治田原、また各地へ送られるものは丹波、摂津の三島郡あたりのものが多く、これらは他地方の松茸と比較にならぬほど香味を持ったもので、鉄道省が特に松茸の輸送を京、大阪の二駅で山のように扱うのを見ても、松茸のために大いに気を吐くべしである。
 で、松茸狩の遊山もこの地方の特有で、いくら狩っても狩り切れないほどに生えるといえばよいが、日々都会の人たちに狩りとられるので、山持ちは宵のうちに他所から松茸を買い込んで植え置いて狩ってもらうのであるから、松茸山はいつも無尽蔵で、つまり松茸の逆輸入である。それでも終日この山で、のんびりと飲んだり食ったりする心持ちは、とても想像以外の愉快さである。
   茸狩や言わけいらぬ衣の破
   松茸や知らぬ木の葉のへばりつく
   猿の子に酒くれるなり茸狩
   五六人ただ一つなり茸狩
   茸狩の女に膝をとられけり
   茸狩りのから手で戻る騒ぎ哉
など皆その実況である。近来馬糞で発生さす茸は、昔もあったもので、一茶の句に、
   大茸馬糞も時を得たりけり
   余所並に面並べけり馬糞茸
   人をとる茸はたして美しき
とある如く、菌のうちにも有毒蕈は百余種もある。それで食用蕈は五十種あるが、それもよく鑑別せずにやっては、海でのふぐは山での松茸である。
 きのこ類の主なる食用菌は、松茸、松露、木耳(きくらけ)、香茸、栗茸、玉蕈、岩茸、箒茸、滑茸、青頭菌、平茸、椎茸、くろ茸(黒八)、雑茸などである。いずれも菌の部で述べることとして、ここには松茸のみのことを書く。
        *                 *                 *
 さて松茸の調理は、山で採りたてのやつを鶏肉とすき焼、そのまま()いてさき、松茸の橙酢。松茸飯雑炊。味噌煮。山焼(ぬれ紙で包みて焚火で焼くこと)などは趣があって嬉しい野外食である。
 御手洗松茸  細き松茸をよく洗い、酒、砂糖、醤油にて煮て、竹串に三つほどさして出す。
 白滝松茸 (つぼみ)の長細いものを択び、軸のみ洗い、桂剥(かつらむ)きにして(たて)にせんに切り、片栗粉にまぶして、湯をしておく。(吸いもの種)
 蓑松茸 松茸の頭径一寸ぐらいのもの、縦一寸五分残して根を切り去り、軸を(みの)の如く庖丁を入れ、味淋、砂糖、醤油で味付け。
 さき松茸 松茸を焼きてうす皮を取り、薄くさいて磴酢をかける。
 煎松茸 松茸の笠、軸とも、よきほどにうすく切り、から鍋に入れていりつけ、醤油をさし、(ゆず)の絞りしるを注けて出す。
 松茸早酢 醤油よき加減に沸たて、それに松茸を切って入れ、さっと煮あげ、外のかやくを入れ、飯にて早漬につげる、その煮汁にて塩をもたすこと。
 松茸押鮓 松茸を縦に平たく切り、ざっと甘酢にっけ、常の如くすし飯に仕立て、その上にのせて竹の皮で固く包み、鯖の押鮓(おしずし)の如くして食する。
 土瓶蒸 素焼の土瓶に入れ、味淋醤油を加え、とろ火にて煮て、出す時(ゆず)をしぼってかける。
 松茸帽子 大松茸の笠のうらへ、玉子とすり豆腐に、椎茸、三っ葉、かき百合根などの具をまぜ、それを胡麻油であげて、ざっと煮きあげる。魚のすり身にてもよし。
 また松茸の笠を仰向けにして金網にのせ、それへとき玉子を落し焼きあげたるも、即座の珍味である。
 そのほか、竜眼松茸(軸を丸く切って衣をかけて油で揚げたもの)。
 そのほか、つけ焼、田楽、焙烙むし、徳利飯、佃煮、白髪松茸、味喀和え、酢あえ、胡麻味囎かけ、隠し松茸、早松茸の吸物、塩焼。
 酢どり松茸  小さいのは丸のまま、大は庖丁して茹であげ、熱いうちに塩をふりかけ、冷めてから甘酢につけると三時間ぐらいで甘くなる。数日貯えるも変味せず。
 松茸に中毒した時は蓼の穂を服すか、茄子を食えば解毒する。また松茸を食うと蛔虫が駆除される。それは茸に含むアガルチソという成分の作用である。
 松茸は塗物の中に久しく置くと腐敗しやすい。虫気あるとおもえば塩水にて洗うべし。
     松  茸                    銅  脈
   松山深狩出。 八百屋棚存。 阿父茲形見。 此娘滅相言。
   蒸焼何本喰。 吸物一杯呑。 勢切能肥太。 慚忘犢鼻褌。
   松茸の出さうな名なり男山
 ところが松茸は女松の山に生ずるもので、しかも若い赤松の山地がよいのである。昔からの松茸の産地は新陳代謝して、松茸もモガの方が流行(はやり)ッ子となるのである。



最終更新日 2005年12月20日 02時01分13秒

林春隆『野菜百珍』「一五九 甜瓜の話」

一五九 甜瓜の話
 まくわうりは、あま瓜、香瓜、真桑瓜、果瓜の名がある。今は瓜といえぽこの甘瓜の総称となった。
   人来たら蛙になれよ冷し瓜
   三日月とひとつ並べや冷し瓜
 この瓜は人に好き嫌いはあるが、夏日、流れ川に冷した掛け茶屋の風情は、また捨てられぬ趣がある。
 この野趣に富む甜瓜は、殿上にも用いられ、わが国では古く推古天皇の二十五年紀に「出雲国言神戸郡有レ瓜大如レ缶」と、また「三代実録」の僧円仁(延暦寺の慈覚大師)遷化の条に、「夢従レ天送レ楽、形如二甜瓜→半片瞰レ之、其味如レ蜜」と。また「大塊秘抄」に蜜瓜の種を鴻盧館に植えさせられたことも掲げられ、かの「宇治拾遺物語」の作者である大納言隆国も、この真桑瓜を丸裸になって食いながら、簾の中から往来を眺めて、社会観察をやったものである。
 また甜瓜の食い法などもあって、瓜を六皮半に剥くということも古い習いで、開,お座敷や瓜をむくさへむつかしき」、「瓜の皮むいた所や蓮たい寺」、「あたまから章魚(たこ)になりけり六皮半」などの見立てた句もある。
 また瓜は土用中は竪に切り、土用後は横に輪切りにする。句に「初真桑四つにわらん輪にやせん」、「われに似な二つにわれし真桑瓜」とある。
 この瓜は元来朝鮮の産にて桑瓜と称し、のち美濃国本巣郡真桑村に播種して良佳の特産となったので、その村里の名を冠して真桑瓜と呼び、戦国時代より瓜献上の事などが行われた。その後、京の東寺、堺の舳松、東国などにも播種されてそれぞれ名産となったのである。
 その種類には、鳴了甜瓜、青皮甜瓜、銀甜瓜、金甜瓜、梨甜瓜。その外、近来種が数品ある。
 昔は大和から出る白甜瓜を梵天瓜というのは、その味蜜の如く、彼の叡山の慈覚大師の夢に食った天外から来た瓜にちなんで称したものであるというが、それは皆甜瓜の皮でない嘘の皮で、本田瓜という肉の肥えた瓜で「ホテタ」瓜というのを本田瓜といい習わしたのである。「類なき佳味の梵天の真瓜哉」の句がある。
 またこの瓜について高僧の逸話がある。妻子の執着を断つために、わが児を鍋で煮て食ったとまでいい伝えられるほどに行持堅固であった、京の紫野大徳寺の開山大燈国師は、性来この甜瓜が大好物であった。ある年、自坊で安逸することを厭われて飄然と行方を(くら)まされたので、衆僧たちは驚いてこれを捜しもとめるうちに、国師が化子の群に交って京の三条橋下に隠れておられることが分ったが、それを捜し出すために衆僧が謀って、一人が国師の甜瓜を好まれるを思い出し、大きな籠に甜瓜を入れて、橋の下の化子の群にいたり、衆に向ってこの甜瓜を手を出さずして取るものあらば悉く得さすべしといった。すると一人の化子が曰く、手を出さずして取らせなぽ我も手を出さずして取らんと答えたので、さらばこれこそ国師ならんと、衆のうちよりえらみ出して寺に迎えたという、橋下の問答がある。国師も食って見て、この甜瓜の公案はうまいといわれたかどうか。
   これくうていきよ千歳の松よりもつるになるこの瓜の名物
 まず、甜瓜もめでたいものである。



最終更新日 2005年12月20日 13時09分55秒

林春隆『野菜百珍』「一六〇 豆の話」

一六〇 豆の話
 まめの話は「大豆」の処でもその概略を述べたが、名詮自性この豆は実にまめ(、、)によく働く珍重な食物である。
 ことに菜食者が多量の蛋白質を摂取するには、この豆をもって第一とし、味噌、豆腐に製して日常欠くことのできぬ食品で、また炒り豆、煮豆、納豆など、お台所の雑作を助ける惣菜としても、豆の忠実健全なること無精な下女よりも、よくまめ(、、)に働いてくれる。
 この豆は人間ばかりでない、大いにその余力を馬匹にまで施して、彼が大きな太鼓腹を打たすのである。「左様なら随分まめでおまめでと豆のすきなる馬のはなむけ」という狂歌がある。手や足にまめが出来るのはよく働く人のことで、まめ(、、)の性来はただまめまめしきをもって本分とする。
 でもって、節分の豆から、年中の吉凶、農作の如何なども、国々によって豆を炒って占いとする習慣がある。小女をマメ(、、)というは未婚の未女という義か、また婦人のかくし所をまめ(、、)というのも、また手の指で豆をこしらえるのも、古い習いでその形よりも、まめに多子を生ずるを祝しての隠語で、摩訶羅大黒天が(つち)を握っている形はマメ(、、)を慎めという戒である。出産には赤小豆を炊いて祝い、それから年々節分の豆を食って、遂に念仏豆を数えるに至るのである。「元亨釈書」に「自大治二年至保延六年、十四年。以二小豆一為レ算、唱二弥陀号→二百八十七斛六斗」とある。また「獪園」に「紫柏禅師置二大豆十石→置二前記一昼夜不二敢輟レ声念仏ことある。昔は大豆に細字で経文を写したり、また様々の図画を描いたものである。人は生れるから死ぬまで、豆との縁はきれないものと見える。
 さて、豆は大豆を叔といい、小豆を莟といい、夏至の十日前に種を蒔き、諺に夏至の鳥脚とて豆の苗生えが鳥の脚の如くなるのをいう。七月に花を開き(さや)を結び、十月に収むるのである。
 その種類は、大豆には、白、黒、青、褐色(茶豆)など。小豆には、赤、白、黒で、赤小豆に大納言、小納言、金時などの称がある。また豆類の主なるものは、大豆、小豆、豌豆、蚕豆、菜豆、虹豆、刀豆(なたまめ)、落花生、鵲豆等で、いずれもその条下で詳出する。
 豆といえば大豆の総称であるが、これを煮豆とすると、豌豆も、そら豆も共に豆と称し、ことに菓子豆としては各地の名物にされ、京の大多福豆に、東京の煮豆。そのほか、五色豆、豆板、甘納豆、温泉豆、正チャソ豆、昆布豆、真盛豆、塩えんどう、蜜まめ、フライピース、豆平糖、豆銀糖、旭豆(北海道)。
 その他、温泉場でその温度を利用して大豆のもやしを作る。もやしは長崎の伊勢町が製造の根本で、各地でつくるものとは比較にならぬ。
 また昔から豆売りは町の風情を添えたもので、安政頃の大阪で「ゆでやのおさやさん、ようこえたの」と呼びて茹でた枝豆を売り歩いた。近来まで東京で「まめ、まめ、おまめさんの身うけは銭しだい」とよび歩いた豆売りもあった。
 黒豆の大鉄砲とか、豆はうまいの皮ばかりなどと、昔は辻占などを添えて洒落た呼売り商人があった。
     大豆                 銅脈
   名雖レ多三豆数刈粗略二三言。 武者称レ盛遠。 唐僧日二隠元
   青磨篩粉色。黒煮坐禅魂。其白煎追ソ鬼。超年彼此飜。
 大豆の製品は、大豆油、大豆粉(黄粉)、豆腐、凍豆腐、豆乳、湯葉、味噌、醤油。大豆コーヒー等である。
 また、とうろくすんというのは、十・六寸で、十個で六寸になるという名で、大莢の朝鮮豆に似たものである。また十・八寸というのもある。豆索麺(そうめん)はシナの食品で、粉条子とも粉干とも称している。近来わが国でも製造して春雨と名づけて販売している。
   似合しや豆の粉飯に桜がり
        *             *             *
 まめの話のついでに例の漫談を述べる。世俗に筆まめ、口まめ、足まめ、手まめなどはよいが、箸まめという奴はちょっと風紀に害がある。
 で、このまめという詞は、六百年も前の古い諺で、「無住雑談集」に、
   昔或る山里にまめ祖、物ぐさ祖というもの隣家に住いした。まめ祖は朝夕に田畑を作り、  大豆小豆粟などまで、まめまめしく作って楽しみにしていた。ある時畑作りにくたびれて居  眠っているのを、そこらの猿どもが見て、ここに仏がおわします、皆々で供養せんとて、山の芋、野老(ところ)「栗、椎など多くを持って来、山塚の前に供え置いて猿どもは去ってしまった。眼をさましたまめ祖は思わぬかつけものに、ほくほくとして背負って帰った。それを隣の物ぐさ祖の姥が聞いて羨ましくてたまらないので、不承不承な物ぐさ祖にせがんで、装束ひたたれを著して、まめ祖の真似をして居眠っていると、前の如く猿たちは来て、此仏は川向へつれて行き供養せんと、皆々手車に乗せて山河の早瀬を渉るに、物ぐさ祖の袴が水にひたって濡れるゆえ、猿どもはやれ袴をかきあげよと尻毛をかいて騒ぐに、祖はおもわず笑い出したので、猿は仏でなくて人であったとて、深い川の中へ棄てて皆が逃げていった。物ぐさ祖は衣裳をずぶ濡れにして水を一腹のみて、死なぬばかりにして帰って来たので、婆はいよいよにくみ腹だった。
というお伽噺がおもしろく書かれてある。また江戸時代の笑話に、豆畠というのがある。
   殿様、用人どもに}内々に申し付けることがあるが、邸では言われぬ。船に乗って品川沖へ出よう」と仰せ出され、早速その用意して品川沖へ漕ぎ出せぽ、殿様仰せには、「さて密談とは余の儀でない、下邸へ豆を蒔こうとおもう」。で、用人衆呆れて「この位のことならば、お邸で仰せ付けられてもよさそうなものと存します」といえぽ、「はて莫迦をいうな、鳩が聞くわえ」。
というのがある。昔の大名気質がおもしろい。


最終更新日 2005年12月20日 21時06分04秒

林春隆『野菜百珍』「一六一 真菰の話」

一六一 真菰の話
まこもは、古名かっみ、はなかつみともいう。本名(こも)()はこの草を賞していう詞である。
  潮来(いたこ)出島の真菰の中で、菖蒲(あやめ)さくとは、しほらしや
 この水郷に花咲く真菰は馬の秣とすれば馬肥ゆといい、春の末、旧根より生ずる、芽は筍の如くこれを菰菜と称して食う、甘くして美味である。またその中心に小児の臂の如きものあり、これを菰手と称し、その小さきものを擘といい、黒く灰墨の如きものがある。これを烏鬱という、人またこれを食う。また秋八月茎を抽いて花を開き、子を結ぶ、飢歳にはこれを採って穀に交ぜて餅として食う。
 菰は和名古毛と称し、上古は食物をこれに載せて食った。それで神前の供物にコモ(、、)を用い、稲藁を用いざる以前は、これを編みて用いたので、いまもこもの名を藁莚にも伝えるのである。また「烏鬱」は灰に焼いて油に和して禿頭に塗ると、毛髪を生ずというのである。
 また菰の芽(菰米)は、飯に加え団子として食用とする。シナの水国の民は多く菰米を食し、元日必ずこれを食う習慣がある。
   まこも苅る淀の沢水雨ふれば常よりことに増る我が恋
   五月雨に浅香の沼の花かつみかつ見るままに隠れ行哉
 この浅香沼は今の磐梯湖で、この沼の花かつみは、菰の一種で、よく実るものは菰の雌である。
 菰米の味は黍粟の如く、いずれも飯に混じて食用とする。(ちまき)はこの葉で包むのである。
   朝日影真菰は水のはやし哉



最終更新日 2005年12月20日 21時38分22秒

林春隆『野菜百珍』「一六二 天蓼の話」

一六二 天蓼の話
 またたびは、木天蓼、藤天蓼、小天蓼の三種ある。わが国のものは小天蓼が多い。これは野獣の食うもので、深山に生ずる木天蓼の春嫩を食用とし、越後地方では花実ともこれを塩漬として貯蔵する。仲夏葉の間に一花を生ず。花の形、梅に似たるより夏梅、また夏椿の名もある。実は(かや)の如く内に細子がある、これを食う。また燭として胡麻の如く明らかである。その味草蓼の如く辛く、丈高きゆえ本天蓼の名がある。世に猫の薬とする。
 調理には、よく湯がきて膾さしみに盛り合す、酢味噌で食う。越後地方では天蓼の塩漬を製してひさいでいる。



最終更新日 2005年12月20日 22時26分05秒

林春隆『野菜百珍』「一六三 榲椁の話」

一六三 榲椁の話
 まるめろは、寛永の頃南蛮より渡来したもので、原語はマルメイラといった。林檎に似た樹で春花を開き、秋に榠櫨に似た実を熟するも、この実生ずる時毛があるも、熟すると毛がなくなり肉質堅く、これを砂糖漬として食う.、俗にカセイタと称し、痰嗽を治す。本邦では東北に多く、諏訪辺にては、まるめろ畑と称しこれを栽培し、カリソと号して缶詰にて販売する。長崎の食卓料理などに必ずこの糖果を用う。芭蕉の句に「鎌倉の釈迦と榲椁みのりけり」。この実を胡桃の如く製して、ジャム、ゼリー、まるめろ酒などを製する。



最終更新日 2005年12月21日 00時26分00秒

林春隆『野菜百珍』「一六四 松菜の話」

一六四 松菜の話
 まつなは、春三月ごろに苗を生じ、高さ五七寸で蔓なくして地を這う。葉は女松に似て、また杉菜の如く、秋黄花を開く。「本綱」に邪蒿というものか、宝永のころ唐僧のもたらしたものといい伝える。
 この菜は春の末より初夏の間にその嫩芽(わかめ)を採り、淪きて酢に和し、または吸いものの実とすれば、その味淡く甘美である。



最終更新日 2005年12月21日 08時39分15秒

林春隆『野菜百珍』「一六五 饅頭の話」

一六五 饅頭の話
 まんじゅうは、その名もと料理の三麺に用いられ、獣肉また蔬菜にて製したものであった。「本草綱目」に蒸餅の付方に饅頭餅と書きて、蒸餅と同じものなれども、中に餡の入れたるを饅頭と称し、餡ももとは肉菜を用いたものである。「七十一番職人尽歌合」に、さたう饅頭、茶まんぢうとある。この書は鎌倉時代のもので、七百年以前である。
   うり尽す大唐餅やまんぢうのこゑほのかなる夕月夜かな
   いかにせんこしきにむせるまんぢうのおひふくれても人のこひしき
と、このさとう饅頭が今の餡入りまんじゅうで、この起因は、京の建仁寺二世竜山禅師が入宋の時、林和靖の末裔にて林浄因という老を帰朝のみぎりに伴い、これが帰化して名を塩瀬と改め、南都に住まい、初めて饅頭を製して売り弘めた。その後また浄因の子が竜山禅師の弟子となった。それは建仁寺塔頭両足院の開山無等以倫禅師で、この和尚の弟が京洛で饅頭屋を(はじ)めた。これが鳥丸塩瀬の祖で、林姓を承け継いでいる。
 然るに、宋の林処士和靖は西湖の孤山に隠棲して「梅を以て妻とし、鶴を以て子とす、朝廷賜ふに粟帛を以てす」とあるより、ある人は林和靖は(めと)らずして子がないと称して、この饅頭を渡来した林浄因の末裔説を塗抹したが、「升庵外集」に「林君また別れを惜み、長く相思の詞云々、君涙()ち、妾も涙盈っ、羅帯同心結んで成らず、江頭潮すでに半なり」などと情緒纏綿たるお安くない情致がのこされてある。よく画題にある林和靖が鶴を伴れているのは、その隠棲の後で、このお鶴嬢を後妻にしたものであろう。何にしても饅頭はめでたいことに多くつかわれるから、鶴の因縁のあるのもよい。
 で、饅頭の上に寿という焼印を押したり、また著者の幼い頃には騾の字を押したのもあった。小笠原流に、饅頭のことを十字というが、これは蒙求にある曹の阿曹という贅沢な男が、蒸餅の上が十字に破れていなければ、蒸し加減がよくないといって食わなかった。しかし、いくらよく蒸しあげても、まんじゅうの頭が十文字に破れることはない。これは十字に切形でも入れて食ったものか、栄耀に餅の皮を剥くといった風の伝説で、これも栄養のために硬い餅の皮を剥くといい直せば、阿曹のまんじゅうを十字に切ったも、例の毒饅頭を食った粗忽(そこつ)ものの加藤清正よりは沈勇の士であると誉められることになる。しかし、今のパンの如き蒸餅の製法によると、十字にも八葉にも裂けるから、この時代にもそうした製法であったかも知れぬ。
 まんじゅうを十字ということは古い習いで、洛西御室の守覚法親王の御記に「親切の興にはまつ十字を出せ」とある。この守覚法親王は後白河院の第二皇子で在しますれば、その御寂年の建仁二年に対すると浄因が饅頭を創始した以前で、この十字という蒸餅は既にそれも古く用いられたものであろう。「東鑑」に閘十字とあるは春粽のことなり蒸餅に准じていふ」とある。
        *              *              *
 つい近年まで、大阪市中の饅頭屋の店先に木馬を出した。これは「あらうま」をあらうまいという心であろうが、その馬の頭にお多福の面を冠せて「あまいうまいまんじゅう」という洒落たのもあった。種彦の「用捨箱」に元禄頃まではこの看板はあったとあるも、著者が幼時にも市中で見うけたことがある。元禄ころの連句に、
   千早ふる木でっくりたる神姿 岩戸ひらけて饅頭の見世
 この饅頭も、砂糖がまだわが国であまり行われなかった時代は、餡は甘茶をもって製した。
「源氏物語」の椿餅というもそれである。またいちび(、、、)(菌菻)という草で作ったものを霖頭といい、いたみ(、、、)(薛茘)という植物で製したのを木饅頭といった。最も黒い砂糖は中古にも渡来したが、 一般的に用いられたのは、徳川中世に甘蔗の栽培を奨励されてからで、白砂糖は例の風来山人平賀鳩渓が発明したといえぽ、まだ二百年にもならぬことで、その後各種の饅頭が出来て、遂に今日に至って甘党界を風靡するわけである。
 饅頭についてはこの大阪に面白い逸話がある。高麗橋三丁目に虎屋という菓子屋のあったことは今も知る人が多かろうが、ここの饅頭は大阪名代のもので、当時この虎屋の勢力は市内数百の菓子屋を圧して「虎屋まんじゅう」の名とともに、その饅頭の切手は、何万となく発行せられて、大阪の近郷到るところの贈答品に用いられるので、もし市中に火災でもあったならば、そのたびごとに虎屋の商品券は焼失して、虎屋の利益となるので、当時そんな噂までいい触らされたのであった。それだけ虎屋が繁昌するため、その信用と家柄の保護といったように、大阪名物の保護政策として、町年寄、行司町人等は、時折り虎屋の饅頭を検査して、目方、風味などを調べた。いまのメートル検査とは違って、これは好意上の干渉であった。
 それほど盛大であった虎屋は、名まで虎屋大和大掾藤原伊織という偉い名乗りで、赤穂義士の快挙のあった元禄十五年に開業したが、遂に天保の末頃から家運衰頽して、その後虎屋切手の取付騒ぎが起って、役人が出張して毎日何枚ずつと限って引き換えたなど、今の銀行取付騒ぎに似たものであった。この時に鴻池家では虎屋の永続を図ろうとして、多く金銭と取り換えたその切手を長持に入れて、ひそかに虎屋を援助したという美談も伝えられた。
 また虎屋の盛んな頃、隣家に苧屋弥三郎(岡氏)という諸侯邸の御用達があって、主人は茶事を好み、毎年正月十三日の初茶の湯を、饅頭会と称し、虎屋むし立ての饅頭を菓子として五個吸物椀に盛り、別に白砂糖、焼塩、大根おろしに醤油をかけたものなど添えて、それぞれ器に盛って出し、主人はしきりにこれを来客に進め、兼ねてこしらえた人名帳に、おのおの食った饅頭の数を書いて、その下に署名することとした。このことが大阪中に噂されて知ると知らぬの別なく、大勢の人が紹介を求めてこの饅頭会に出席して、三十、五十、百も食う人が出来て、年々この饅頭会は盛んになって、天保中に主人弥一郎が老病で歿した後も、その息子がついで催され、虎屋の店が代替りになってからも、明治の始め頃までは続いて催されたのであった。
   *                *               *
 その頃に流行した虎屋饅頭と、安南こんなん飴との狂歌合せに、
      唐人飴
   飴売の陳ぶんかんは通辞さへいらで集る芥子坊主連
      虎屋饅頭
   難波津にすくや虎屋の饅頭を今はお江戸ですくやまんぢう
とある。また銅脈先生の詩に、
   高麗橋筋店。蒸揚虎屋烟。色同如切卵。形小似咬銭。
   杉筥持廻古。竹皮瘴去堅。焙為茶菓子。暦日味猶全。
と、こうして進物に転輾して、またもとの出先へ戻ったという滑稽談は、いまよくある話だが、それほどに虎屋の饅頭は流行したもので、価は一個五文であった。
 この虎屋の向うを張って、大手饅頭というのが一個十文で大判形にこしらえたが、これも名ばかり残って家は廃れてしまった。また当時の饅頭屋では、岸部屋、亀屋、銭屋(今の高岡)、近江屋などが有名であった。この近江屋で饅月というのを売り始めたのが、いま満月という饅頭である。
 昔江戸の金竜山前で米饅頭というのを売った。それは米で製した饅頭で古くからあったものだが、それを吉原に近いところから、女郎まんじゅうと称し、これについて禿饅頭だの野郎饅頭だのが出来た。遂には女陰をおまん、まんじゅうと異名するに至った。饅頭食いという小女郎姿の人形は近ごろまであったようだ。
 さて饅頭の話は餡が酸くなるほどあるが、いい加減に切りあげて、その種類をあげると、 田舎、蕎麦、道明寺、しぐれ、おぼろ、粟、芋、栗、柚、けし、求肥、胡麻、葛、黄檗まんじゆう、など、その他種々ある。
        *                *                *
 それから諸国名物の饅頭で名高いものは、伊勢松坂の福徳まんじゅう、四日市の白玉饅頭、津の梯子饅頭、また杖つき饅頭、次いで名古屋も饅頭の名物が多い。不老、親玉、梅屋、紅屋、海老屋、納屋橋まんじゅうなどは古い店で、浜松の小菊まんじゅうも珍物である。鎌倉の夫婦まんじゅうは、大小くッつけたところにその名がある。それで大きなのは酒味をつけて御亭主気取りで、小さい方は女房役の甘口とは、ちょっと人を馬鹿にしているが、甘く見られたところが高が饅頭だから理窟がない。その近所の片瀬に片瀬饅頭があれば、逗子に浪子まんじゅうというのがある。こうした危険地帯で「ナヅト待った」という表示が饅頭の宣伝になろうとは、変った世の中だ。
 その他、京の虎屋のまんじゅうと、長崎の桃まんじゅうは著名なもの、それで地方色といった饅頭の名物は、お土産の関係から日持ちのよい餅と早替りして、餡入りもちには奇抜なものがある。それは餅の話に譲って、「気の薬」という古本にある饅頭のユーモアを一席お取次する。
   四五人集まっている処へ、がたがた慄えながら駈け込んで来た男が「後から饅頭売りが参りますが、私はあの饅頭が怖ろしくてならぬ、どうぞどこぞへ隠してくれLというので皆は物置へ隠してやって、さて此奴を怖がらしてやろうと、その饅頭を買って盆に積み上げて物置の中へそっと入れた。定めて騒ぐことだとおもって待っていたが、いつまでたっても音沙汰がないので、不思議におもって明けて見ると、その饅頭は皆食ってしまってその男は口なめずりをしていた。【手前はあまり怖がったから驚かしに入れたが、そう食ってしまってどこが怖いのだ」というと、「あい、この上は茶が二、三杯怖うござる」
という下げである。



最終更新日 2005年12月21日 22時52分14秒

林春隆『野菜百珍』「一六六 枳根の話」

一六六 枳根の話
 けんぽ梨は、異名を鶏距という鼠李科に属する喬木性の植物である。その木の高さ三、四丈もあって直立せず、実は枝の端について鶏の足を握りたるようにて、その尖端に実がある。八、九月に熟して霜を経て茶褐色を呈す。その丸い実は食わず、わらびのまだ開かぬ時のようなる先に実がある。その実と茎との間の枝珊瑚珠の平めた如きところを食うのである。その味は酸くして児童の嗜食にする。未熟のものは渋味がある。
 この梨は酒毒を消し、腹のすじ張るに服して効がある。また解熱に用い、よく酒を醒し、その木片を酒中に投ずるとたちまち酒は水の如く味を失うといい伝える。一名を木さんごじゅと称する。



最終更新日 2005年12月21日 23時20分33秒

林春隆『野菜百珍』「一六七 桂心の話」

一六七 桂心の話
 俗に肉桂(につけい)という方が早解りする。昔は多く食品にこれを用い、近頃までも菓子屋の店先に赤い紙で括った桂皮が売られてあった。また各種の菓子にも肉桂を加味して、殺虫剤として児童衛生に心を用いたのであった。今も名古屋の覚王山の付近でこれを売る露店が多くある。
 この桂樹はシナの交趾(コーチ)、嶺南地方(今の錫蘭地方)の高山に生じ、樹種数種あって、その皮厚く辛烈なるものを肉桂と称し、桂心というに同一物である。桂皮はその皮にて、これを細片として桂皮油を製する。また桂根、桂葉も製油の材料となり、この桂皮油は飲料水の香料となる、肉桂水の如きはそれである。また肉桂は強精剤として薬用に多く用いらるのである。



最終更新日 2005年12月22日 00時16分38秒

林春隆『野菜百珍』「一六八 玄米の話」

一六八 玄米の話
 げんまいは、(もみ)摺りをしたままの米を称し、これを精白して糠を去ったものを白米という。
 近ごろ玄米ばんのホヤホヤと市中を売り歩くのと、玄米おこしなどが出来て、玄米の滋養のあることを認められて来た。さらにわが糧秣廠では胚芽米の有効であることを宣伝せられて、主要米食の能率を一層向上せられつつある。
 昔は正月に(もち)の玄米を炒って葩煎(はぜ)と称し、ハゼ売りは市中にこれを売り歩き、各戸元日にこれを家の中に撒く習慣があった。ハゼというのは、糯米の穀を用いてこれを()ると()ぜて脹れるからの名で、農家ではこれを炒ってその爆ぜる音を聞いてその年の米作を占ったもので、それが民家にも伝わって餅花にっけたり、十日戎(とおかえびす)の売物の笹にハゼ袋というのも添えて、吉兆のしるしとされる。また三月上巳の節句には、このハゼと甘納豆を重箱に入れて贈答するなどのことも行われている。年越しの豆撒きも伊豆という名から三島神社の神事に行われたに始まったが、このハゼも同社の池の鮒にやって吉兆をトする(ぼく)慣がある。
 シナの一部ではこの玄米を黒焦げに熬って、それを煎じて飯の上にかけて食うそうだが、わが国の田舎でも玄米の炒ったのを(かゆ)に入れて食うことがある。
 この玄米から去った糠もまた大切なもので、シナではこの糠を食って米は姑舅に供した貧家の貞女があった、それで糟糠(そうこう)の妻は堂を降さずと、出世したその良人がその操行を賞した故事がある。「沢庵法語」にも「もし飢来らばその時において糟糠をもえらぶべからず」といわれている。
 いまの妻君は糟糠を食うどころか、糠味噌桶に手を入れることさえも厭うのみか、糠漬のこしらえ方さえ知らぬ婦人が多かろう。で、沢庵漬が茶漬のさい(、、)なら、亭主の茶漬が旨く食えるように、さい(、、)君たる糟糠の妻はつとめて貰わねばならぬ。玄米パンのほやほやを弁当の代りにするようなモダソ生活には、ちょっと隔たりのある話であろう。



最終更新日 2005年12月22日 11時28分37秒

林春隆『野菜百珍』「一六九 罌粟の話」

一六九 罌粟の話
 けしは、罌粟(けし)科に属する二年草で、罌粟、象穀、御米などの異名がある。秋に種を下し、夏の初め茎高さ三、四尺に及び、葉の(あざみ)に似て、梢と葉の間に花を開く。初め青き(つと)を結びて垂れ、ようやく開くに従って仰向く。色は紅、紫、白など四弁にて二弁ずっ大小がある。八重なるは牡丹の如く、中に罌の形して上に菊の紋したふたがある。(しべ)は罌をめぐりこれを米嚢花という。
 けしの茎も六、七寸の頃は採りて浸しものに食うも、茎葉のようやく長ずるに及び、阿片汁液を含むゆえ有毒なれば用いることができぬ。阿片は落花後十日内外にて搾収するのである。その中にある種実は落花して二十日間ばかり後に刈り取り、これを犀根裏などにつるして乾燥することまた二十日間。その後はたいて種子を採取するのである。その用途は、採油料、料理用、菓子用等に供する。
 けしは、肺を治し腸を温め、風気を行し、邪熱を逐い、瀉利(しやり)を止め、脱肛を固め、遺精を治する効があるも、多く食すと毒がある。
 阿片を簡単に搾取するには、けしの青苞を結ぶとき午後に大きな針をもって、その外の青皮を刺し、裏面の硬い皮を損せぬようにして、次の早朝に汁液の出るのを竹刀でこそげ採って瓶にいれ、これを陰乾しにして用ゆ。最も瀉利の妙薬である。
   けし畑花ちる跡の須弥いくつ
   色はこれ露はかのこの芥子花
   よしや身は申合するけし坊主
   百斤を上る手いつれけしの花
   善尽し美を尽くしても芥子花
   桑の木は坊主にされて芥子花
   芥子提げて群集の中を通けり
   門番のほまちの芥子の咲に鳧
 罌粟     銅脈
幼少人称美。 成浸出二御傍司 
色色花分咲。 追追茎述揚。
品勝二胡麻粒 名崇二芥子坊殉
壁端従釣首。 引導聖僧腸。



最終更新日 2005年12月22日 23時01分25秒

林春隆『野菜百珍』「一七〇 仏手柑の話」

一七〇 仏手柑の話
 ぶっしゅかんは、柑橘中の枸椽類に属する果実である。果の肌あらく、柚に似て長大にして、熟すると黄にして香気多し。本は丸く、半より末は細く別れて指を(つら)ねし如く、数指をかがめ、その形、仏手に似たれば名とする。
 多くは糖蔵して用いる。



最終更新日 2005年12月23日 14時22分07秒

林春隆『野菜百珍』「一七一 緑豆の話」

一七一 緑豆の話
 ぶんどうは、俗にやえなりと称し、もやしに用いる。萌芽は人工にて大豆、豌豆(えんどう)、赤小豆など用うれども、この緑豆のもやしをもって最上とする。
 このもやし豆は、古く行われしものと見え、「拾遺集」物語部に、高丘相如の歌に、そやし(、、、)(、、、)とある、媼の字をそやしと訓み、しいて萌やして食料とした本ので、シナ料理、黄檗(おうばく)普茶にもこのもやしの浸し物、煎菜などは常に用いる。蜀山人が長崎の黄檗宗福済寺にて伊蒲饌の味わい、豆苗を湯皮に包みしを食いてその味今に忘れずと賞しためは、このケソチソである。著者も前年この福済寺に滞在して、同市伊勢町辺に数軒ある豆苗製造家についてその製法を研究したが、それはそれぞれ秘密にしてたやすく習得することが出来なかった。
 これを簡単にすると、豆を水に浸してそれを砂地に播いて(むしろ)を蔽い、湿気を保って暖所に置くと萌芽するのであるが、もやし専門の営業者は、最も清冽の水質を択んで、それを数個の四斗樽に汲みこみ、筵などをもって温気を与えなどして萌芽さすのであるが、それには熟練と秘伝があるらしくて、なかなかうまく出来ない。神戸の南京町にも売っているが、長崎のもやしのように香味のあるものと違う。
 方秋崖の豆苗詩にも、その製法を載せてある。
  江南之筍天下奇。春風勿々催上籬。秦郵之姜肥勝肉。遠莫致之長魚腹。先生一鉢同僧居。
  則有方法供斎蔬。山房掃地布豆粒。不煩勤布烟中銀。手分瀑泉灑作雨。覆以老瓦如穹廬。
  平明発視玉髯磔。 一夜怒長堪氷苴。自親火候淪魚眼。帯生茎入晴雲怨。碧図高圧涎滑蓴。
  脆響平欺辛螫脾。晩菘早韮各一時。非時不到詩人脾。何如此雋咄嗟弁。痩郎処貧未為慣。
 豆苗は汁の実、油煎り、三杯酢、辛子和(からしあ)え、ごま味噌和え、その他種々に応用される。小豆のもやしなども京の九条辺で製するが、味佳ならずで、もやしは水浸の水が最も清冽にして、その萌芽までに十分の経験がないと豆苗の真味が得られない。苦味と臭味を脱した純白の豆苗を得るをもって最上とするのである。



最終更新日 2005年12月23日 15時12分20秒

林春隆『野菜百珍』「一七二 葡萄の話」

一七二 葡萄の話
 ぶどうは、蔓生の果樹で、棚を作りてこれに莚し、春の末穂を出し秋に実を結ぶ。異名を蒲桃、草竜珠、藝茣など称し、葡萄はその実の名に.て、木は紫葛と称し、昔は山ぶどうの汁液をもって袍を染めたるより染色の名とする。普通栽培するは野ぶどうにて、古名を大えびかずらと称し、エビとは酔えるが如き実の色をいうのである。
   照る日をば棚へあげたる葡萄哉
   蓮の実の爰へ生れたぶだう哉
 などの句がある。
 ぶどうはその種類多く、紫、水晶、緑ぶどう、長ぶどう等がある。その他、欧米種などがあって、葡萄酒、シャソ。ヘソ酒を製し、食後の生食には大いに消化を助ける。干ぶどう、ジャム、ジェリー、また料理用、菓子用、薬用、清涼剤にも用いらる。産地の甲州地方はもって葡萄王国であるが、近来、京都山科の葡萄園は優良のものを栽培するに有名である。
 さて調理には、
 干ぶどう よく熟したるぶどうのうち腐ったものを房より摘み去り、焙爐の上に金網を張り、房のままのせて交火(とろび)にて皺になるまで乾燥して貯う。また好晴つづきの気候なれば、房のまま陽乾しにして貯うもある。
 味噌漬 白味噌と味淋を少し入れて漬けおき、七日ほど経て取り出し、皮を剥いて盛り出す。
 時雨 よき粒をえらび、細い竹で中の種を出し、砂糖と食塩を少し加え煮たてたる中へ、ぶどうを入れよく煮染めて皿に盛り、(さら)し餡の薄く煉りたるをかける。
 月の雫 これは甲府の名物にて、白砂糖を煮溶かしたる中へぶどうの粒を浸し、竹簣にひろげて乾したる菓子である。
 吸いもの 大粒の種をぬき、すまし吸いものに入る。
 ぶどう羮 ぶどうの汁をしぼり、また別に小粒の種をぬきおき、その汁をまぜて寒天に葛粉を加え砂糖を加減し、水煎にして枠に流し込み、別の小粒を所々へ入れてよく固め、冷して適宜に切る。
 和えもの 柿あえ、梨子あえ、林檎あえ。ぶどうの小粒の種をぬき、それを柿、または林檎、梨などをおろし金ですりおろし、砂糖を加減して小粒をあえるのである。
 甘露煮 白砂糖を溶かして食塩少し加え、ぶどうの粒をよく煮つめる。最も文火でそろそろ煮上げること。
 その外、ぶどう酒、ぶどうエキスなど。
   雨来枝上清泉沾。露重梢頭紫玉垂。
 ぶどうを(なつめ)の根のかたわらに栽えて春にいたり、その棗の木に穴を一つあけ、、ぶどうの枝をさし通して二、三年を経て、枝ふとり長くなりて棗の穴いっぽいに満ちた時に、ぶどうの根を切り去ると、なつめの木の接木となる。よく生長して実を多くむすび、肉厚く棗の如し。その味甚だ美なりと秘伝せられてある。
    蒲  萄     銅脈
   蔓〆架高垂レ実。 難レ妨二栗鼠覘司
   如レ鈴頭上下。 沈レ鉢水中漸。
   全体生青酢。 総身色紫紺。
   土人心掛善。 有二甲斐一鋒尖。



最終更新日 2005年12月23日 21時06分36秒

林春隆『野菜百珍』「一七三 蕗の話」

一七三 蕗の話
 ふきは、菊科に属する植物にて、古名「ふふき」の約である。畑に栽培し、また自生するものもある。秋田(ふき)最も名高く、その葉の大なるをもって知られ、樺太にも大葉の蕗がある。また、唐ぶき、山ぶき等がある。
 冬春の間に宿根よりまず大指ほどの花茎を生ずる、これをふきの(とう)(欸冬花)と称し、付焼き、煮浸し、味噌和え、三杯酢、汁の実などに用い、初春の野趣を食膳にそえるのである。
   蕗のとうほらけて人の眺め哉
 さて調理は、
 大原木 ふきを煮て一寸余りに切り、四、五本ずつ干瓢(かんびよう)にて(くく)ったもの。
 ふき味噌 ふきの葉の軟らかきものを湯がき、半日ばかり水に浸し、よく水気を去り、炒りごまをよく摺りたるところへ加えて、またよく摺り合わせ、醤油、砂糖を交ぜてさらによくすりて用う。またうら()しの白味喀に和したるもよし。
 ころ和え 蕗の葉を前の如くして摺らぬ焼味噌であえる。
 ふきの薹  は茹でたまま冷して、味噌煮、味噌漬、味喀汁、または吸いもの、浸しもの、和えものに用ゆる。うでて水に下すと香気を失うから、うで上げたままがよろし。
 茹で方 葉の元より切り洗い、沸湯の中へ入れ(塩少し入れ)、ざっと湯煮して冷水に冷してのち、かわ筋を取り去り、揃えて銅鍋で煮れば青く仕上るのである。
 佃煮 前の如くしたるを、生醤油にて煮詰める。
 伽羅ふき  前の如くして茹で上げたるを、 一日蔭乾しにしてそれを生醤油に、粒山椒など入れて煮つめたものである。
 共葉巻 茎と葉と別々にうでて、これを葉巻にして味をつけて小口切りにする。
 その外、甘煮、和えもの、煮〆、煮合せなどがある。
   草の戸の春は来にけり蕗の薹
 この蕗の皮を毛髪にして、古の女児はかつら草、またかもじ草などというつる草と共に弄び、振別け髪の真似して遊ぶことがあった。また山牛蒡、羊蹄の葉を重ねて衣とし、茎の出たる処を人の頭の如くして、これをひな遊びに用いた。元禄ごろの連句に「寝ねばならぬかお袋のそば」というに「かもじぞと揃へあげたる蕗の皮」というのがある。

  欸冬    銅脈
繁昌言富貴   名似以珍重。
隣有二蓑荷被司 株紅二塵芥濃殉
薹生添味苦。 茎暢剥肌供。
出羽秋田里。 噂聞大木容。



最終更新日 2005年12月23日 23時02分35秒

林春隆『野菜百珍』「一七四 風呂吹の話」

一七四 風呂吹の話
 ふろふきは、おもに大根、蕪菁の旬になる冬季の御馳走である。湯煮しまたは蒸して、山椒、柚子、味噌をかけて食う、俳味のある親切な料理である。
   ふろ吹や客ぶり汗の見えに(けり)
 また狂歌に、
   玉はしらずうかむかぶらのあまさには人々よろこびひけたふろ吹
 この風呂吹の名の起りは前にも述べたが、伊勢風呂の話は天文年中の「甲陽軍鑑」にもあり、その後久しく行われた熱い空風呂に入って垢を掻き落すに、息をふッふッとかけて口拍子を取りながら掻く風俗であって、これを伊勢小風呂と称したのである。さて大根の熱く蒸したものに息を吹きかけて食うさまが、この伊勢風呂吹に似たるより、風呂吹の名が一般に伝えられたのである。



最終更新日 2005年12月24日 00時03分44秒

林春隆『野菜百珍』「一七五 普茶の話並びに卓袱料理の話」1

一七五 普茶の話並びに卓袱料理の話
 近ごろ世に行われる普茶(ふちや)料理は、おいおい変化してその様式を失って来た。もとこの普茶ということは中華禅刹の点心から起ったことで、これがわが国に伝来したのは、慶長の頃既に長崎に来船したシナ通商等が、その地に建立した唐寺において普茶を浄斎として饗する風が行われた。その以前に僧家の点心というのは、斎時の外に用うる茶うけで、その食品には「茘枝、竜眼肉、胡桃、榧の実、榛の実、栗子、烏芋、昆布、零余子、野老、筍干、炒米、炒麩、海苔、刺蘚、干茸、干大根、干人参、苔菽、油揚類」などにて、不時の客にも馳走の出来るような貯蔵食品で、これを茶の子と称したものである。
 それでこの普茶料理とか卓子料理というものが伝来すると共に、シナの風俗が一層濃厚にわが国に浸染して、既に元和元年に長崎に興福寺という唐風の大伽藍を創立し、ついで寛永五年に福済寺を開創し、その翌六年に崇福寺を創建した。これを長崎の三福寺と称し、輪奐(りんかん)の美は当時の大偉観を呈して、さらに異国情緒に邦人の好奇心を(そそ)ったのであった。その後、承応三年に隠元禅師がわが国の請来に応じて、東渡し、遂に寛交元年に洛南の勝地に黄檗山(おうぽくさん)万福寺を剏立(そうりゆう)さるるに及び、既に久しく廃頽しつつあった禅風が勃興した。時は偃武の世、各藩の大名諸侯は将軍家の帰依と共に、その領地内に黄檗寺を建立し、あるいは他宗の廃寺を重興してこれに唐僧を請ずるなど、 一般当時の上流にはこの珍しい盛唐文華の移入と、その宗教芸術のあこがれに熱中したのであった。
 もっとも当時来渡した隠元の会下には、即非、木庵、慧林、独湛、高泉、千呆、悦山、大眉、南源などの傑出した唐僧と、これに参じた竜渓、慧極、了翁、鉄眼、鉄牛、百拙などの和僧らの竜象が、東西に勃興してさかんに禅風を鼓吹したため、戦国の余波を収めたようやく泰平の初期に、こうした華美の風潮は大いに諸侯たちの悦楽を唆って、唐製の器具に象牙の箸、金銀の爵(盃)匙などを用いた珍料理は、まず卓袱料理に贅沢を尽し、ついで枯淡なるべき禅門の普茶にまで、料理名を付して、享保の頃よりこれを民間に弄ぶようになって、明和八、九年には「卓袱会席趣向帳」「普茶料理抄」などの出版を見るに至った。
 例の阿蘭陀(オランタ)癖のあった薩藩の島津重豪侯は、明和年間にしばしば唐土式の器物をもって卓袱料理の饗宴を設けて、諸侯文人等を招かれたことがある。また八代将軍に江戸の黄檗寺から普茶を進献した記録などもあって、宇治の黄檗山でも、江戸、長崎の唐寺でも、一般普茶を諸人に饗することとなった。それを擬して坊間に行われ出したのは、例の江戸の割烹(かつほう)八百善の主人が数寄を凝らして、卓袱、普茶の料理本を刊行して、ほとんど日本料理と混同した品数のみの多い、贅沢な献立を作った。それがさらに上方地方に流布して、続々とこの種料理書が出版されて、ここに会席料理とか祗園料理とかいう、異様な略式饗膳の新しい形式が伝えられたのである。その頃にこの料理を珍しくおもい、橘南渓の「西遊記」に、
   近きころ上方にも唐めきたる事を好み喜ぶ人、卓子食といふ料理をして、一っ器に飲食をもりて、主客数人みつからの箸をつけて遠慮なく食する事なり。誠に隔意なく打和し、奔走給仕の煩はしき事もなく、簡略にて酒も献酬のむつかしき事なく、各盞をひかへて心任せに飲み食ひすることとて、風流の宴会にて面白き事なり、寺院にも黄檗宗などの寺には不茶とて精進ながら卓子料理をすることとなり。是日本にてはめづらしきことに思ひて、至つて心易き朋友中ならでは行ひがたき事なるに、唐土にては世間常のことなりとそ。
とあるが、当時士民の階級制度が甚だしかったため、この合同食はある一部において「此事常になつては席序を乱し猥りがはしくなるべし」などと排斥したものもあって、この卓子、普茶は局限されたような形式で、ただ好事家の風流とされたのみで、わが料理上の進展に資すべかりし美味調理もそれに禍されて、大いに阻害されたことである。
 当時こうしたシナ料理と、その他諸外国人が長崎にもたらした異国調味は、わが室町時代にようやくその形成をなした料理も、久しき戦乱の年を閲してその進歩を見ることを得なかったのと、しかも急激に異種の食味に刺戟ぜられ、大いにすべての変化とその進歩を促されたことであろう。試みに当時行われた卓子料理の和風と唐風の二つの菜単を対照して見よう。
 まず享和元年に菱屋半七の「筑紫紀行」に載せられた長崎における和風の卓子料理は、
  茶菓子、状柱、九ぽうる、雪輪、盃、三ツ組。
  吸物(船盛) 鯛びれ、もち、こんぶ。
  同味噌  大かん、肉梅。
  (卓子)
  小 菜   鱠、鯛切身、しそ、白瓜。
  同   香の物、大根、瓜。
  同 かまぼこ、すえび、紫蘇漬大根。
  同 山桃。同 黒豆。
  一、鉢 けんちえん、川たけ、はすいも、いせえび、あわび。
  二、丼 くず、あげ、かまぼこ、竹の子。
  三、鉢 胡椒粉、すずき、みそかけ。
  四、丼 花えび、金ひれ、なすび。(飯)
  五、味噌吸物 ごま豆腐、いりこ。椎茸。
  六 丼 さとう入つくばね。
とある。 これは海老屋という日本人の作った卓子料理で、三宅橘園が「薄遊雅載」にある如く「好啖鶏豚山羊多用卓子」で、唐土風の卓子は、
    大菜(本菜のこと)十色
  燕窩十糸(えんすの糸造豚煮物)
  魚翅蟹円(蟹かまぼこ、鱶鰭と煮物)
  八宝珍鴨(具入鴨の丸煮)
  清湯南腫(豚らかん等のすまし煮)
  口簾珍鶏(鶏丸煮薦蕕葱上置)
  孔肉海参(豚煮海鼠の清し煮)
  綯油紅腫(油入の豚らかん角煮)
  清燉脚魚(すっぽん清し煮)

双品鰤魚(双鮒の清し丸煮)
鶏鬆魚肚(さき鶏にえ入の煮物)
  会干盆(小菜のもの)十六色
南腿(豚らかん)  枇杷
皮蛋(塩灰漬玉子) 青梅
醤鴨(醤油漬の鴨) 青梅
燻鶏(炙り鶏) 合梅(ひしぎ梅)
瓜子(西瓜の核) 石榴
杏子(杏子の核) 水梨
胡桃 蜜橘(みかん)
榛肉(はしばみ) 悖薺(黒くわい)
 点心(口取のこと)  八色
蘋果饅頭(具入まんじゅう)
如意捲蒸(如意形の麦粉菓子)
方辺燕盒(にら豚入の麦粉菓子)
油酥鬆餃(油揚塩砂糖入麦粉菓子)
荷花団子(荷花形の団子)
仏手団子(仏手柑形の団子)
菊花団子(菊花形の団子)
綉毬団子(手鞠花形の団子)
 今のシナ料理に少しも変りのないもので、この大菜小菜を酒席の形勢を見ながら交互に出すので、飯はいずれも最後の大菜前に出すこととする。それで、これは普通の卓子ではあるが、「八儒卓燕式記」にある大菜というのは八品で、豚の頭から足まで用いる豚一色の料理で、これが卓子の大饗の一つである。それに食後に用いる湯は、燕窩湯、鹿筋湯、海参湯、醒酒湯、裂蟹湯、乾醤湯などで、略式にはただ七星湯を用いるのみである。
 次に食器は礫子(皿)、小礫(滓入)、小菜礫(盛分皿)、碗、飯碗、菜碗(丼の類)、盤子(大鉢)、それから筋子(箸)、これを紙に包み福寿などの字を書くこの箸紙を筋包という。また湯匙を添えて茶碗の汁をすくうに用い、歯托(楊子)、歯刷子(歯ぶらし)なども出すのが卓子の例である。
 これはわずかにその概略であるが、この食事法がわが国に伝わって以来、卓子台という食卓が出来たり、これを茶ぶ台というのも、普茶を転倒した洒落詞であるなど、また食名にしても、唐人煮、南蛮煮などといい、珍鴨という名から、チンチン鴨々というような俚謡まで流行した。(がん)もどき、飛竜子(ひりようず)天浮羅(てんぶら)などの食品も、その頃からいまの一般家庭に用いる風習を伝えたのである。
 普茶はこの卓子(卓袱)ともいう料理の影響をうけて、蔬菜の調理にあらぬ名目をつけて進化して来たもので、その頃の普茶はどんな献立であったか、これから話すこととする。




最終更新日 2005年12月24日 12時03分47秒

林春隆『野菜百珍』「一七五 普茶の話並びに卓袱料理の話」2

 これは文政十二年の春、小倉の聖寿山崇福寺で開山即非禅師の百五十回忌の大法要に用いた普茶の献立である。
     招請斎非時献立
  一、浜まつ、白髪大根、つととさか、岩たけ、くろ慈姑(くわい)
  一、蝶こんぶ、かん豆腐、山芋付揚。
  一、衣鉄、寂光寺牛蒡、花大根。
  一、ひたし物。
  一、奈良漬大根。
  一、紅砂糖、莫大貝、大納言、百合。
  一、菊の葉揚、落葉、芽生姜。
  一、青海苔。
  一、鉢     揃柚、せん川茸、錦ごま豆腐、竹の子、から麩。
  二、吸物椀   えんすもどき、絞り湯葉、芽しそ。
  三、唐木海月  すり揚、花生姜。
  四、大坪    薄くず、きびさらし、つぶ椎茸、なつまめ、繊竹の子、おろし山葵。
  五、いり麩、椎たけ、かんぴょう、大こん、とせん、銀杏。
  六、中鉢    からし酢、錦けんちえん、琥珀糖、かいふん。
  七、のしいも、まつ茸、水前寺のり。
  八、砂糖煮   みかん漬、だんご、花生姜。
  右上通り之分但唐客之節は鉢うどん差出候事。
 この外の引菓子は片木にのせて、朧まんじゅう、羊羹、葉付桃、きんとん、大落鴈、大おもだか、まつ風等を見計らいて出したものである。
 普茶はこうした五日間の大法要にも別に特色のある料理を調えなかった。もっともそれは大衆の多い点もあるが、寺院の浄斎としてはこれが本来であった。それに黄檗の大本山でも二十一代の大成禅師まで、開山から七十年間も、唐僧をもって継承して来た、故国で馴れた純粋のシナ風俗の飲食も当時交通が今のように軽便でなかったため、乾した果物か糖製か、唐茶ぐらいを用いた外は、大抵は日本の蔬菜をもって生活して来たのであったため、今に特殊の黄檗料理として伝うべきものがない。たまたまそれがあるとしても、それは後人が日本料理をことさら技巧して唐めいた名目をつけたものに過ぎない。
 ここに文化の頃に本山で用いられた普茶献立を掲げて見る。
 その真前上供といって開山に供えるものは「揚豆腐、蓮根、慈姑、錦麩、独活、糸湯葉」などで、その他一般道俗へ出す普茶は、
小菜 揚物 昆布、さつま薯
   浸物 菠薐草(ほうれんそう)、小芋、大根
   煮豆 豆腐せん、紅生姜
   香物 大根、くき
大菜 唐揚 生姜
   煮込 人参、くわい、里いも、牛蒡、椎茸
   鍋煮 こんにゃく、大根
   菜麩 千柚
またその後の献立に、
 小菜 揚物 昆布、さつま薯、蓮根
    浸物 干大根、三ツ葉
    巻煎 からし酢
    青和 うど、こんにゃく
    香物 奈良漬、沢庵
 大菜 唐揚 生姜
 味噌 わらび、玉子湯葉、うだ芋
 笋羹 長芋、竹の子、飛竜子、ふき、椎茸
 葛煮 干瓢、牛蒡、小芋、くわい、青つと
 澄汁 みよが竹、松茸、芋まき
 この献立は前のより見ると大ぶに贅沢になっている。これが今日にまで行われた黄檗の普茶料理で、いまは普通八品をもって「雲片、付揚、澄汁、香物。笋羹、薦腐、浸物、味噌煮」と定め、雲片は葛煮で、付揚は天ぷら、澄汁は吸いもの、笋羹は生菜煮菜の盛合せもので、藏腐はごま豆腐、味噌煮は味噌汁のことである。
この黄檗の普茶が一般に知られてから、宇治の本山でも参詣者の請うにまかせて、その前日に依頼する、典座寮で特に調理して出されたが、それが追い追い盛んになったので、ある硬骨な管長時代に、信徒の外ただ飲食を貪るためにこの梵境を騒擾さすは、清衆の勤学に妨げがあるといって、大いに普茶食道楽家の頭に三十棒を喫せしめたことがあった。しかし今日でも毎年四月の十八日には、地方信者の布施に報ゆるため、大般若会を執行し、千人余の参詣者を招待して普茶を饗応するのが例である。それは四人一脚と定められ、食卓に次の如き料理を載せて一時に大食堂を開くのであるから、そのすさまじき光景は、さすがに一宗本山の斎筵(さいえん)として年中行事の一つに数えられるのである。
 また、門前白雲庵の普茶平日の献立は次の如きものである。
 菜単
 付揚 いも、牛蒡、椎茸、筍、芹、蓮根、外郎等
 雲片 椎茸、蓮根、百合根、人参、筍、牛蒡、青豆等の葛煮に芥子をかける
 唐揚汁 おろし芋唐揚、せん生姜、海苔
 香物 瓜粕漬、沢庵漬、紅生姜
 笋羹 飛竜子、筍、酢蓮、黄檗湯葉、茄子、ひろは巻、巻煎
 嘛腐 ごま豆腐、山葵
 浸物 菠薐草、胡麻和え
 味噌煮 粟麩、粒椎茸、里芋、百合根、人参、独活、三っ葉、白味噌汁
 以上の二汁六菜であるが、これが平日にでも行われ、黄檗普茶の標準とでもいってよいくらいのものである。
 昨今、各地方で営業的に行われる普茶は大体会席風のものとなって、文政の頃八百善の「料理通」そのほか普茶料理の掲げた雑書は、ただ料理に善美を尽そうとした雑駁なものであるから、ここにその献立は省くことにして、もし強いて中華風の普茶を試みようとする人のために、料理の次第を述べることとする。
煎茶 銘々盆で独服のこと。
口取 太平糖(そのほか見計らい)
小皿 に梅肉一片を盛って小楊子を添う(ごれは禅家の風である)。
二、蒸菓子(見計らい)
三、菜 籠 重箱に似た唐製のもの羊羹(または薯蕷羹)、竜眼肉、茘枝(れいし)、香磴、榲椁等を入る。
 ここで善哉餅を出すことがある。これを点前と称する。
四、この時酒瓶と爵(盃)を出す(爵は雀の異名で、酒盃を雀の飛び回るように一所にとどめず献酬することである。また盃は大杯で、蓋は小杯の名である)。
五、羹菜 蓋をした食器に思案麩、青昆布、白柿等。
六、さらに酒瓶に高杯(コップ)を各自に供する、前の盃は乾盃の意味で、これより饗盤に移る。
饗盤(大菜)
薫 笥  黄飯にして椎の実を細かに割りて入る、糸底のない椀に盛る(黄飯は山梔の
    実で色をつけて糯米を加えた飯である)。
    牛蒡、長薯太煮。氷豆腐に葛餡をかけ。
小菜皿  菊ひしお、寒天、葡萄、栗。
猪 口  阿蘭陀味噌。
羹杯 蓴菜と小豆の砂糖煮。
七、次に蕎麦を出す。
(これを後段と称する)この式ある時は点前善哉餅を出さず。
蕎麦  汁注ぎ
籠母台鉢に葱、大根等を湯びきしたものを入れて添える。
瓶    しぼり汁
香盆  猪口、椀、匙。
    蓋 鉢  油すまし、匙を添う。
    蒸籠 そば、とうふ、つなぎ。
    薬 味  唐辛子、芥子、おろし大根、海苔、柚子、陳皮、黒胡麻、紫蘇の実。
 これにて饗宴を終る。
        *               *               *
 前にあげた菜品の仕方を述べる。
 薯蕷羮 長薯または山のいもの皮を去り、おろして摺り、道明寺糒とうどん粉を入れて、よく捏ね合わし蒸籠でむし上げて、よく冷し胡麻油で揚げ、味をつける。
 まるめろ(また仏手柑でも) の皮と身をよきほどにそぎて葛粉でくるみ、胡麻油で揚げて焼塩をふる。
 竜眼肉(または茘枝でも) の皮を剥ぎ去り、うどん粉を生姜の絞り汁で溶き、焼塩を加えて衣をかけ、榧の油であげる。
 香橙 九年母は皮ばかりを細かく切りて乾したるものを白絞油で揚げる。
 思案獄 生獄と豆腐と薯蕷をよく摺り交ぜ、丸めて湯煮したもの。
 青昆布 は短冊に切る。
 白柿 は蜜したじで()く。蜜したじは味淋、醤油、白砂糖を加減して煮切ったもの。
 菊ひしお 大きな新梅干をよく洗い、黄菊の花と一っ瓶に入れ、上酒をひたひたに入れて白砂糖を絹帛に包みその中へ入れ、よく目張りをしておく。
 阿蘭陀味噌 大豆をよく()りて細かに()き割り、唐辛子、胡麻、陳皮、麻の実、芥子などを上々の赤味噌にまぜ、庖丁にてよく切りまぜて、この味噌を胡麻の油で炒り、晴天に二日ほど乾しつけて、手にてよく揉めぽきりあえの如くなる。
 導菜砂糖煮 白砂糖に味淋、焼塩を少し加え、煮返し絹漉(ぎぬご)しで漉し、これにて蓴菜(じゆんさい)を煮る。
 しぼり汁 これは蕎麦のみに用う。細大根をあつき灰の中へしばらく入れおき、おろして布こしにして、焼みそをすこし大根の汁にて摺り合わせ、また布こしにて用いる。
 油すまし 胡麻の油をよく煮返し、冷して溜りと赤味噌をよく摺り、右の油を入れて、また煮返し、毛篩にて漉し、出す時にあたためて出す。但し葱飯、葱蕎麦の類に限る。
 その他、普茶料理の取合せものに、
  巻煎(ケソチエン)麺筋包(メンキンハウ)煎豆腐(チエンテウフ)山薬巻(サソヨケン)豆腐巻(トウフケン)煎菜(チエンツアイ)砕豆腐(ヅイテウブ)酢菜(ツツツアで)八宝菜(ハツウツアイ)桜韮頭(ノンキウテウ)蒟蒻玉(こんにやくだま))、削牛蒡(シヤウタウハン)麻豆腐(モテウフ)干笋(カンソン)苦瓜菜(ククワツアイ)子菜(ツツアイ)布瓜(へちま))、合菜(ハッアイ)葛粉巻(カヅフンケン)羅漢菜(ロハンツアイ)豆腐干(テウフカン)煎麺(チエンアン)()())、菜尾(ツアイビ)淵明包(ヱンミンハウ)香菰(ビヤウク)養老(ヤアラウ)牛蒡(ごぼう))、豆腐乳(テウフガウ)黄蘿蔔菜(ホウウツアイ)梨甘(リカン)梅甘(ムイカン)柚甘(ユウカン)梅酒(ムイチウ)豆芽菜(チンギヤサイ)菜包(ツアイハウ)片食(ヘソシイ)油餅(イウチン)麻餅(モチン)藕粉(グウフン)素麹(ヌン)饅糖(マンタウ)糖芋(タウウソ)南京蕨(ナンキンフ)唐揚(タウアゲ)菜脯(ツアイバウ)松子(ソウツウ)棗乾(ツアソヵン)筍糟(スィッァゥ)方餅(フワンピン)餡餅(ァンピン)月餅(ユエピン)橘餅(キピン)薹糖(キヤンタン)一口香(イココ)光餅(クワンピン)瓜子(クワンツウ)西瓜(すいか)(さね))、蓑衣樵(ソシイイピン)(一名太史餅(タイユウビン))、雪粉樵(スイフンコウ)(一名百菜糅(ベシコウ))、蓮子(レンツウ)蘆筍乾(ロシユンカン)雪片樵(セッヘンコゥ)
 その他数種があるも、ここには挙げきれないから省いた。
 この普茶にかかわらず、食後の飲料として、七星湯の作り方を話そう。
 七星湯 白の出島砂糖を湯にとかし、人数ほどに合して蓋のある器に入れ、胡椒の粉を放して出す。これに麦藁の節を去り、箸のように付ける。おのおの、このみこにて吸うて呑むのである。
 普茶の菜品の調理と、シナの精進料理については別に詳述することとする。



最終更新日 2005年12月24日 15時27分32秒

林春隆『野菜百珍』「一七六 麩の話」

一七六 麩の話
 ふ(麪筋)は、小麦粉をこねて、()(めん)を水中でもみ合わせ、その中にある粘質物を採って製するものである。精進料理はもとより各種の料理には必ずこれを用い、その形も菓子の如く、花卉(かき)、果実『鶴亀その他像生花の如く技工を凝らして用いる食品である。また食味も餡入りまたは笹巻などに製し、蒸菓子に擬するもあって、揚麩、酒麩その他生麩を用いて種々の味付にして食用とする。
 さてその調理は、
 揚獄 湯煮してしばらくおき、油でよく揚げる。細く切り、膾などに用う。
 丸獄揚 平麩を小角に切って久しく油で揚げると腫れて丸くなる。
 酒獄 生麩に上々のうどん粉を加えてよく摺り合わせ、鍋に竹の皮を敷きてその上に入れ、鍋一杯に酒を入れ、煮え減るまで煮固め、醤油にて味をつけ冷して切る。また(そば)()もこれと同じように用いる。
 金柑薮 これは汁の実にする白玉のようなもので、また素麺(そうめん)に菜の茎とあしらうもよい。
 焼麩 やきふは常に貯え置いて、不時の客来に間に合うものである。これを三杯酢にしてもみ海苔をかけて酒の(さかな)にする。また汁の実、鍋ものの相手、煮ひたしなどによい。
 この麪はいつの頃から製し始めたものか、たしかな記録がないが、あまり古い時代のものでなかろう。京都の産を最も佳味とされ、特に丸山麩の名がある。それは丸山に僧房の盛んであった頃に用いられた名残りで、また建仁寺薮、大徳寺麩、黄檗麩など巨刹の名をつけたのも禅料理の特色を現わしたもので、その種類もすこぶる多いのは料理の色彩に応用されたもので、京洛に麩屋町というのがあるくらい、寺院の多い土地だけにその発達を促したものであろう。
 いまその名目を挙げると、
 色紙ふ、養老ふ、渦巻ふ、さがらふ、手鞠ふ、だんごふ、もろこしふ、いわみふ、饅頭ふ、ちりめんふ、巻ふ、せんべいふ、松前ふ、羊羹ふ、にしきふ、梅干ふ、小倉ふ、雪輪ふ、もみじふ、さくらふ、梅花ふ、梅干ふ、金柑ふ、いりこふ、かやくふ、はんへいふ、とさふ、扇ふ、つとふ、すだれふ、ちくわふ、そばふ、その他。
 こうした細工麩は注文に応じて麩屋で拵えるが、常に多く用いられるは、紅葉麩、建仁寺麩(ごま入りの麩)、粟獄(平麩)、うず巻麩、すだれ獄、金柑麩、まんじゅう麩などである。出羽の庄内麩や加賀のちくわ麩は焼麩の類で、いつも乾物屋にあるが、生麩はその時に応じて使用するもので、ちょっと田舎などでは常の食用にすることが出来ぬ。
 生麩は消化がよくないから胃弱者は多く食えないが、歯切りのしてシコシコと(うま)いもので、松茸のすき焼、なべ物などに用いると、変った風味を持たせるものである。また獄は粘質の強いもので、経師屋、表具師はこれを用いる。
 銅脈先生の詩に、
   一従レ生二小麦鱒 分散麩家臻。
   水責揉揚劇。 酒煎煮瀾頻。
   名施土佐字。 味憶丸山身。
   維昔京都住。 踏レ塩田舎巡。



最終更新日 2005年12月24日 16時23分46秒

林春隆『野菜百珍』「一七七 牛蒡の話」

一七七 牛蒡の話
 ごぼうは、菊科に属する根菜で、最も滋養の多いものとして、これを異名して悪実というのはその形の醜いからである。俗謡にはこれを弁明して「船の船頭衆と金びら牛蒡は、色の黒いのが味がよい」と、また備後の女は「靹の女と牛蒡の煮付け、色が黒いが味がよい」と自家宣伝をこの無心の野菜に寄せて唱えている。
 この色の黒いのが味は佳いということは、昔シナの戦国時代に、その夫が俘虜となって斬殺されようとしたので、その妻がその身代りに「夫の(からだ)は疲れて肉も少く味もよくないから、(わたし)の肥満した脂肪ぎって色の黒い方が召しあがるのに味がよろしい」と言い出した。それはもっともの話で、鳥獣の肉でも牝の方が美味いにきまっている、といった風にこんなことを言い伝えたのが、黒色美の諺をなしたものである。しかし、牛蒡の(かたち)が酷いとて芝居の役者のような悪実という名をつけても、その外面は悪人であるが、その内心は忠実なものであるという風に、この牛蒡もその真味の実のあるところを称したもので、その種を大力子と称して、婦人の血の道をめぐらし、経水の滞りを治し、産婦の乳汁を益するなど、実にその忠実振りを発揮しているばかりか、強精剤としても腎気を(さか)んにするので、菜食する人はとても大根、人参にも増してこれを嗜好するのである。
 ごぼうの和名は「きたきぬ」「うまふぶき」とも称し、牛菜、彭翁菜とも言い、わが国でも古くより栽培された重要野菜の一つである。
 春種を下しその年生えたものは実らず、、一年目の初夏に淡紫の花が(むらが)り咲く、それが種子となるので、根の長きは三尺余に及び、また六、七寸のものもある。産地は近畿では八幡、堀川、大和、三島など、関東では砂川、大浦、梅田、滝の川等が良産地である。
 また一種菊牛蒡と称し、外観は波羅門参に似たもので、これは胡羅蔔(にんじん)と等しく強壮剤として刺戟の効があって薬用にもされる。また山ごぼう(商陸)は古名を「いぬすき」と称し、陰地に自生するものは主に薬用とし、唐ごぼう、犬ごぼうの名がある、これも利水の効があるものである。
        *               *               *
 さて調理は、
 短冊 ごぼうの幅四分長さ一寸二分のもの薄くへいで、塩()でにして用いる。
 小原木 新ごぼうの細いものを、米糠を入れてよく茹で、水で洗い、それを煮出汁にてよく煮こみ、五本ずつ互い違いに合し、湯葉で巻き串を刺して付醤油にて焼く。
 丸剥 径五、六分の牛蒡を米糠で茹で、五分ぐらいの丸剥き長さ一寸二分に切り、八方汁で煮る。
 おろし 水の中に少し酢を入れ、牛蒡を生にておろし、汁の実にする。
 打牛蒡 ごぼうを細かにたたき、つながるようにして切って用いる。
 金糸 ごぼうを細長せんに打ち、白水でよく(さら)し水気を去り、(かや)の油で揚げる。
 玉ずさ ごぼうの芯を去り皮をよくさらして、ざっと煮て三枚合せ、焼鍋にうどん粉をうすく味付けて延ばし、右の牛蒡をきぬ巻にして小口切りにする。
 削牛蒡 せんに切り油でいため、からりと煮て、炒り芥子をふりかけるか、また太なりに切って酒で煮詰めたるも、胡麻煮もよし。ごぼうは山椒によく出合うものである。
 ふくさ和え ごぼうをよきほどに切り、鍋にそのまま茹でたる湯に浸しおき、半日ばかりしてその湯をすて、胡麻味噌(ごまみそ)であえる。
 その他、八幡巻、たたき牛蒡、甘酢、味噌和え、胡麻酢和え、きんぴら黒和え、末広ごぼう、旨煮などは常の如くする。
 煎巻 けんちん牛蒡は、ごぼうの外皮を庖丁の背でょくこそげ、四、五寸に切ってざっと湯煮して、(たて)に庖丁を入れて皮を取り真を去り、たてに切りはなれぬように幾つも切り込み、平におし延ばし、うどん粉を少し醤油でゆるめ、それをごぼうの上にのべて、その上へひしぎ銀杏、椎茸、三ツ葉の茎などならべ、端から巻いて油で揚げて小口切りにする。
 笹がき寄せ 常の如く薄くきれいにささがきに削り、沸湯にさっと通し、生の玉子湯葉二つばかり摺鉢ですり、うどん粉と寒晒粉を等分に合わせ、一しょにすり交ぜ、水にてゆるめ、右のささがきを掻きまぜ、程よく取りて榧の油であげる。
 甘煮 にしたるものへ青海苔をかけたるを、真盛ごぼうという。
 銭煮 ごぼうの上皮をこそげ落し、一分ぐらいずつ切込みを十ずつ続けて切り放し、これを飯の取り湯と水でよく煮て、その後取り出し牛蒡の中心を楊枝で通し、糸湯葉をさし込み、あと先を結び、さて味淋五分、醤油三分、水二分ほどの加減にてよく煮詰める。これは賤しき調理であるが、昔の銭さしを模した酒席の興である。その他、紫蘇巻(しそまき)海苔(のり)巻など、また生牛蒡を生醤油(きじようゆ)で焼くもよし、味噌をつけて田楽にするもよし。金びら牛蒡に花鰹の粉を加えるとひとしお佳味である。山城八幡辺では正月の煮しめに太い牛蒡の昆布巻を出す。とても口に頬張り切れないほどなのを自慢にする。で、八幡牛蒡の名が高かったが、この太牛蒡は肥土の地へ杭を打ち込んで、その穴へ人糞を一杯入れ、その上に土を置き種子を()くときは、その杭の如きものが生ずるというが、それは中にす()ができて美味いものでなかろう。芋くらべなどと称して農家のいたずらにする自慢作である。京の大徳寺の開山大燈国師は生牛蒡(なまごぼう)の付焼を嗜好された。いまも同寺の開山忌に名物として用いられている。
  牛  蒡    銅  脈
編出牛蒡筏。 掛廻歳暮忙。
付揚衣二麦粉司 著換製二苔蒼
上品煎二皮軟→ 功能起二腎張叩
聖僧看二切口殉 頻喚二小男郎鱒



最終更新日 2005年12月24日 23時55分15秒

林春隆『野菜百珍』「一七八 胡麻の話」

一七八 胡麻の話
 ごまは、調味料として食品を美味するになくてならぬものである。世俗ごま()り坊主というが、それほど胡麻が庫裡(くり)を賑わすもので、また滋養食としても巨勝子の名がある。多く薬品にも用いられて巨勝円という妙薬もある。
 胡麻は一年草で、春種を蒔き夏花を開き角を結ぶ。長さ八、九分、熟すれば黒く、二稜四稜なるは白胡麻、四稜八稜なるは黒胡麻。また色の黄なるを油胡麻(黄麻子、褐胡麻)というのである。そのうち黒胡麻が一番有効で、「本綱」には「気力を益し、肌肉を長し髄脳を填し、筋骨を堅くし、耳目を明らかにし、肺気を補い、心驚を止め、大小腸を利し、久しく服すれば老いず」とある。また胡麻の葉を湯に浸してその液で婦人の髪を()いたのは、毛髪をよくするためで、その花は禿げた頭に毛を生やすと言い伝えられている。胡麻の食用としては、まず胡麻の油をもって重要なものとされる。
 その他、ごま塩、ごま酢、ごま汁、ごま味噌、ごま豆腐などの応用は、その条下で述べることとする。
  胡  麻     銅  脈
竈辺朝夕走。 諸事受持多。
炮烙煎飛出。 雷盆摺潰腔。
因レ香忙二会合叩 増レ味喜二調和刈
油亦関二重宝幻 悉難レ演二厥科殉



最終更新日 2005年12月25日 00時39分17秒

林春隆『野菜百珍』「一七九 鼠麹草の話」

一七九 鼠麹草の話
 ごぎょうは、一名を母子草と称し、正月七草粥(ななくさがゆ)に用いらるる一っである。原野に多く生じ、二月頃その茎葉を摘んで食用とする。葉の先に白い茸があるそれが鼠の耳の如く、その小さい黄花が、麹に似たるよりの名である。また仏耳草ともいう。
「荊楚歳時記」に「三月三日鼠麹草を採つて蜜に和して絆とす、これを竜舌粋といふ、以て時気を圧す」とある。絆は米の餅で、わが邦でも三月上巳(じようし)に草餅をこしらえるが、昔はこの鼠麹草の汁を用いて黄色餅とし、(よもぎ)をもって青餅とした。いまは皆、蓬餅を製することとなったのである。ごぎょうの花を採って煙草の代用とすれば咳を治すという。三奇散という咳嗽剤は、主としてこれを用いたものである。
  三日(みか)のよのもちゐはくはじわづらはじ、きけば浜野にははこつむなり



最終更新日 2005年12月25日 00時52分55秒

林春隆『野菜百珍』「一八〇 胡椒の話」

一八〇 胡椒の話
 こしょうは、印度(インド)爪哇(ジヤワ)等の熱帯地方に産する蔓生の植物である。百余年前より舶来し、皆蒸乾しにして来る。これも調味料として、ことに肉類に用い、昔は麺類に用いたものが、今は鰻の蒲焼に添えることとなった。
 よく落語家がいう胡叡を薫して困らす話があるが、胡椒に()せて悶死した人の、口から油を流して蘇生さしたる話もある。虫歯の痛むにはその穴へ入れると治るともいう、これも強精刺戟剤として、肉食家が多く用いるのである。



最終更新日 2005年12月25日 08時04分07秒

林春隆『野菜百珍』「一八一 金針菜の話」

一八一 金針菜の話
 こんしんさいは、シナ安徽省地方に多く産す。花の未開に採って蒸乾しにしたるものである。滋味にして強壮の効があるとて多くシナ料理に用う。香気の強いもので、味噌()え、汁の実、けんちん、油煎り、甘煮などにする。わが国の甘草によく似たものである。



最終更新日 2005年12月25日 09時27分21秒

林春隆『野菜百珍』「一八二 小松菜の話」

一八二 小松菜の話
 こまつなは、東京市外小松川の産で、よく寒に堪える畑菜の若葉である。これを俗に冬菜、また春に採るを鶯菜(うぐいすな)とも称する。煮食、浸しものなど最も滋味のある野菜である。
 それで小松菜は盛夏を除いて、四季ともに園中に栽培して、食用に供されること、(ねぎ)と共に重宝なものである。



最終更新日 2005年12月25日 10時13分55秒

林春隆『野菜百珍』「一八三 菰角の話」

一八三 菰角の話
 こもつのは、また「こもふくろ」ともいう。秋真菰(まこも)の根の上に生ずる(たけのこ)の如きもので、一名「かんつる」(菰首)という。熟すると内黒く灰の如きものが充つ、これを「まこもずみ」、「はたちかずら」の名がある。頭の禿に塗る若やぎ法の美容術で二十歳(はたち)かずらというので、昔の人も洒落たものである。また油、蟻を黒くするに(まじ)うる。烏鬱ともいう。
 真菰の異名は菱草、蒋草ともいい、シナでは真菰を菰米、また簓菰といい、既に杜牧の詩に、菰角を粥に煮て食したことが作られてある。「礼記」にも「雕胡枚乗作二安胡之飯一」と。またわが国でも、真菰の根を煮食すると腸胃の熱を去り、老を養うといい伝えている。



最終更新日 2005年12月25日 10時44分48秒

林春隆『野菜百珍』「一八四 越橘の話」

一八四 越橘の話
 こけももは、石楠科に属する小灌木で、高山に自生する。その果実は豆大にして、熟すると紫色を呈し、甘酸生食し、また砂糖漬ともする。



最終更新日 2005年12月25日 14時05分12秒

林春隆『野菜百珍』「一八五 氷の話」

一八五 氷の話
 いまはあたかも氷の天下であって、花卉(かき)を結氷した柱を左右において、また煽風器と、美人の絹団扇(うちわ)であおがしている贅沢な人もあるが、昔も氷室から奉る氷を食用にしたかとおもうと、そうでない大いに(もて)あそびにもしたらしく、「源氏物語」かげろうの巻に明石中宮御八講の処に、
  ひをもののふたに置いてわるとてもてさわぐ云々。心つよくわりて手ごとにもて、かしらにうちおき、むねにさしあてなどさまあしうする人も有べし。この人は(小宰相)紙につつみて御まへ(女一宮)にもかくてまゐらせなば、いとうつくしき御手をさしやり給ひてのこはせ給ふ、いなもたらししつくむつかしとのたまふ云々
とある。また延喜主水司式に、およそ供御の氷は四月一日に起って、九月三十日に尽く云々と、古もいたく氷を()でられたことと見える。然るに、「東鑑」に、「当炎暑節所富士山雪備珍物、{[建長三年六月厭庶民労止之]肖もいたく氷を珍()でられたことと見える。然るに、「東鑑」に、「当炎暑節所富士山雪備珍物、庸」とある。徳川時代にも、駿河から江戸へ献上する氷は四尺ばかりのものを掘り出して、江戸に着くと二、三寸四方になったという話もある。



最終更新日 2005年12月25日 14時23分39秒

林春隆『野菜百珍』「一八六 蒟蒻の話」

一八六 蒟蒻の話
 こんにゃくは、古名を「こにやく」と称し、蒟頭、鬼芋、鬼頭などの名がある。凍褐腐は「しみこん」と称す。褐腐は蒟蒻玉(こんにやくたま)にて直に製し、または粉製にしたもので、これをもって蒟蒻を製するのである。
 俗に蒟蒻は田舎が美味という如く、茨城県の久慈郡より出つるを良品とし、大和吉野地方も特産地である。多く畑に植え、老根なるは初夏に花苞を生じ、二、三重包みて竹の皮の如く後頭開き中心に一桂あり、外色紫黒にして、根塊を玉という。大なるは三、四寸、芋塊の如く円扁である。この根塊は簽味強く煮食するに堪えず、いずれも製して食用とするものである。
 蒟蒻は古くよりあったが、これを食用にするは、元禄のころから世人に知られ、安永、天明の頃、常陸の久慈郡富野村で蒟蒻粉の製造を発明したと伝えられる。こんにゃくは俗にして野趣あるもので、句にも、
   蒟蒻に箔のつきたる御影講
   蒟蒻にけふは売りか つ若菜哉
   蒟蒻のさしみもすこし梅の花
 また百花菴の蒟蒻の記に、
  知白守黒は老子のをしへになん、世にごんにやくといふなる物のその色黒く、はだへいやしきが豆腐の白皙のやはらかなるをもうらやまず。かれは准南王の系図自慢に白もみちの風流あり、これはさくらの名にも匂はず、ただ拾遺にものの名とせられしを、身のおもひ出とおもふなるべし。こほりては煮豆の一役をつとめ、むすびては重詰のにしめに、此人なくばあるべからずともてなさるるも、不器量ものの名に立て花のもと毛氈の紅にけおさるるこそほいなきわざなれ。田楽とされても、唐がらしの辛みに、やうやう恥ることなき人の額に汗するのみ。師走の月夜、女の化粧とやいふなるやうに、しらあへに身をかざりては、斎非時のむしろに、猪口の一方を守りて、人参の場をあらそふもをかし。そのはじめものあらふ女のはぎの白きにはあらで、毛がちなる男のすねあらはにふまるるも、後にいかなる誉れやあらんと、韓信がむかしもおもひ出られずしもあらず。実にごんにやくとかよびて、なにがし僧都の好物にるゐしたるかたちながら、つひに器にもりたるを見ず、俵よりうちあけて土間にならべおきたるいとくちをし。されどそのかみは芭蕉翁のこのまれしより、さしみは梅の花の清香になぞられしこそ、豆腐の粕の子孫をくれ給へるに日を同じうしてかたるべからず。ふるき句に「こんにやくもなくてかなはぬ娑婆世界」といひすてたる、此もの字こそをかしけれ。
と、こんにゃくの自叙伝が載せられてあるが、蒟蒻は多く精進料理につかわれ、それも糸こんにやくぐらいが茶碗、取肴、吸ものに添えられるのみである。しかし、こんにゃくは大衆的食品としては、関東煮、おでん鍋には幅を利してこっぷで(あお)る上燗屋の花形役者で、とても串刺しに人気をそそるのである。また味噌田楽もこのものの歯ぎりのよい、ほやほやとしたところに民衆味楽が発揮される。
 ぶるぶると慄いながらに反撥力をもって、ぴちりと切れ味を見せるなどは、田舎武士には惜しい腕前である。いざやこんにゃくの切れ味を語ろう。
        *                  *                *
 さて蒟蒻(こんにやく)は庖丁を入れたら、すぐ(ざる)に移して塩でょく揉み、水をそそいで水気を去っておくこと。それから調理にかかるのである。
 雁もどき 小口切りの蒟蒻を片々と庖丁をねさせて薄く作り、塩もみして醤油味をつけ、それを布巾にて汁気をひたし取り、胡麻油で揚げてすぐ水に下ろして油気を抜く。それに削り牛蒡(ごぼう)、白瓜、冬瓜、わり葱、蓮芋の類をあしらい、吸口は露生姜(しようが)
 そぼろ 蒟蒻を四、五枚にへぎおろし、小口より刻みて塩でもみ、水気を去り油で揚げ、また水に移して油ぬきしたる後、味つけ葛引きにして、山葵(わさび)、すり生姜。
 氷柱 つらら蒟蒻は薄く四、五枚にへぎ、湯煮してもつれなきょうに、手にてそぐり(さば)き、うらこししたる葛にまぶして沸湯に入れ、葛の程よく糸切りに凍りつく加減にして、すぐ水に移す。
これは湯加減と葛の溶き工合で湯の中で糸切りに凍りつかぬから、よほど手際よくやらねばならぬ。鍋の側に水鉢を置いて少しずつ湯上りを冷水に移すのである。これは(すま)し吸ものの()また辛子味噌を添えて皿盛りにするもよし。
 味噌煮 こんにゃくを指でむしり塩もみして笊で水気を去り、胡麻油で煎りつけ、醤油少し入る。葱の白根を細切りにして摺鉢でょく摺り、白味噌少し摺り合わせ、酒しおでよきほどにのぼし混ぜる。また白味喀あえにして、葱の小口切りを上に置くもよし。また胡麻味噌、木の芽味噌、辛子味噌、山椒味噌などに()えるもよし。
 刺身 (さら)しこんにゃくの片面を、油を引いた鍋で(いた)めて焼き目をつけ、その焦げ目のある方を上にして、刺身に作り、酢味噌を添える。
 凍蒟蒻 薄く切りて寒夜に凍らしたもので、これを一日白水に浸し、布に包みてよく水気を去り、酒、砂糖、醤油、酢を少し加え、文火で久しく煮込みて、取合せに出す。これを「しみこん」と称する。
 その外、田楽、煮しめ、炒りこんにゃく、あべ川、鯨こんにゃく、ちりなど普通の家庭でするもの、あべ川、おでんなどは、お茶うけにもなり、惣菜の外に取肴の用意にもなる。
 また、かやく飯、粕汁、白和え、肉鍋の糸こんにゃくなども、これがないともの足らぬ気がする。
 また、二、三、惣菜向きに、
 紅毛和え  これはむしり蒟蒻を塩もみして水気を去り、胡麻油でこかし置き、さて黒ごまの煎立てをたくさんに摺鉢でよくすり、赤味噌を入れてまた摺り合わせ、酒しおで延ばし、それに前の蒟蒻と岩茸、銀杏を加えて鍋に入れて煮和えて出す。刻み唐辛子、粉山椒、すり生姜などを添える。
 同煮和え これも前の如くしたる蒟蒻を油を引いた鍋でこかし、それに椎茸、三ツ葉、()、ささがき牛蒡、栗など、細く切りたるを入れ、かきまぜつつそこへたたき味噌を程よく入れ、酒醤油、酢少しにて味をつけ、そのまま鍋にて煮和えにする。
 煎出し 前の如く、むしり蒟蒻を湯煮して水気を去り、油にてさっと揚げ、蓋のある器に入れて、おろし大根、刻み葱を添えて出す。
 霰汁 蒟蒻を小さくあられに切り、塩でもみ水あらいしてすぐ湯煮し水気を去り、鍋に油を塗りその中に入れてよく煎りつけ、別の鍋に、きらず、たたき菜、右のこんにゃくとを一しょに入れ、一ふきさして吸物に用う。きらずの代りに、おろし大根を入れるもよし。
 霙汁 右の汁と同じく蒟蒻の小切りをたたきつぶし、油で揚げたるを水におとして油をぬき、それを昆布の煮出汁におろし大根を加えたるに、いささか醤油をおとし煮たるに、吸口、こしょう、輪唐辛子、山葵、山椒など添えて出す。
 こうした武骨な田舎蒟蒻にも種々の調理がある。世の中に、酢のこんにゃくのと食物の小言をいう人を詬食(こうしよく)といって戒め、狂句にも「仲人は酢と蒟蒻に()えられる」というのがある。
  蒟  蒻    銅  脈
諺言田舎好。 味好色夫玄。
茶漬辛煎夕。 膳先白和天。
下レ沙功最有。 避毒忌頻伝。
味噌加二番椒→ 開帳待寺門。



最終更新日 2005年12月25日 15時09分55秒

林春隆『野菜百珍』「一八七 米の話」1

一八七 米の話
   世の中はいつも月夜に米の飯さて又申し金の欲しさよ
と蜀山人は洒落(しやれ)ているが、さてまた、この米のありがた味を忘れて、日食万金だなどと大胡坐(おおあぐら)をかいて済ましている訳にゆかぬ。食糧問題の主要品であるからたまらない。人間は生きるが目的とすれば、食わねばその目的にも、その上の欲望をも達することが無論出来よう筈がない。で、句に、
   朝夕に食へばこそあれ米の飯
 いくら天の美禄でも酒ばかりガブガブ飲んでも、肉ばかりムシャムシャ()ぶっても、このライスが日に三度ずつは咽喉を通らないと、たちまち病的生活に陥ってしまう。世の中に仕事をせぬ人間は、松葉でも木果(とのみ)でもかじっていればよいが、この激しい生存競争の中をあくそくと奔走する者には、一日もこの米の飯は欠かすことが出来ない。市街の交通整理も必要だが、この口腹の交通は必要というより、むしろ絶対的のものである。無分別の浮浪人はおてんとう様と米の飯はいつも伴いて廻るというが、米の飯ばかりは飛行機で空中運搬でもしなければ、自然に循環して来はしないのである。水と沃土に恵まれた我々の国は、建国の初めから千足(ちたる)瑞穂の水中にも稲の{[実]()らぬところはない。米の成る木をまだ知らぬなどと不届き千万のことをいうのも、畢竟(ひつきよう)この五穀豊饒なる国の豊かさを謳歌したものである。
「日本書紀」に「天照大神は粟、稗、麦、豆を以て陸田種子となし、稲を以て水田種子となし、因つて天の邑君を定め、即ちその稲種を以て狭田及び長田に植しむ。その秋埀顆八握に莫莫然として甚だ怪なり」とある。で、古来よりわが国の盛衰はこの米の収穫増減によって表徴せられ、農業をもって国本と定められたのである。
 今は米をもって「めし」というが、古昔は食物の一切をも「めし」と称したもので、米の大切なることは、山中で米なき地の病人にはこの米をもって薬とし訃のであった。一茶の句に「今年米親といふ字も拝みけり」と。神前に洗米を供え、仏壇に浄飯を供えるのも食に対する謝恩の一っである。畏くも新嘗祭の御儀式は最もわが国体を表わしたもので、かつて世界にもその例のない誇りとするところである。
 仏の食を解すれば上乗味を解す、口舌の味覚にあらず、心を以て解すればなりと米を菩薩(ぽさつ)といい、僧家に五観三匙の密咒あるはこれがためである。で、米は自然の味、味感の上にては、上乗のものである。これを変すれば(こうじ)()、酒となり、また他物を和すると酢に用いて酸く、茶を注けて苦く、塩に辛く、餅に甘くして、おのおの五味に和する。さらにその変化を見れば、米は同じ米なれど水を入れて炊く時は飯となり、(かゆ)となり、炊いてこれを(かも)す時は酢となり、酒となり、むなしく倉廩(そうりん)の下におけぽ、虫となり、土となる。かくの如く醸して酢酒となり、捨てて虫土となるものを見て、米にあらずというも人は信ずるであろうか。
 その同じところの米も、一たび酒屋の手に入って酒となる時は、その性熱して血脈を通じ、憂を忘れ、興を催す。またその糟を醸して焼酎とすれば強烈にして、火を点ずれば猛火が燃え出るほどの熱力をもって往々人を傷つけることがある。酢となっては性温にしてよく収斂(しゆうれん)し、(あまざけ)となるときは下戸の唇を(うるお)し、ときに脾胃(ひい)の気をたすける、これ皆その本を尋ねるとただ一つの米の変化である。
 わが国の精白米は上古より皇室においてのみ用いさせられたものであって、仁徳天皇の十三年に春米部(つきよねべ)を定められ、また持統天皇の元年に特に精米を供御とすとある。それが庶民一般に食うようになったは、戦国時代より後のことで、肥後の大守加藤清正も藩中に玄米を食うことを命じた。それでこの白米を猿の牙という俗諺のあるのは、【日本紀略」の花山院寛和元年の記に麋牙の文字がある。それで白米を白い牙に擬したもので、「盛衰記」にもそのことが載せられてある。
 そこで、この米の価がいかに国家人民に影響を与えるか、それを歴史的に因って見るに、顕宗天皇二年冬十月に朝廷は群臣に宴をたまい、この時天下安平にして民に侈役なく、歳比しきりに豊稔にて、百姓はだんだん富を重ね、米は一斛銀銭一文という記事がある。また「続日本紀」に、元明天皇和銅四年、銭一文に米六升とある。また「三代実録」に、清和天皇貞観八年二月、太政官処分を定め、左右京、白米一升直銭四十文、前二十六文、今十四文を加う。黒米三十文、前十八文、同十二文加う、是歳穀価騰踊す。東西津頭白米一斛七貫二百文、黒米四貫百文、是に由りて京邑の沾価と定むとある。また「百錬抄」に、後堀河天皇寛喜二年六月、米価を定め斛銭一貫文と。また「太平記」に、元亨元年の夏大旱魃(かんはつ)、この年銭三百文をもって粟一斗を買うとある。また「重篇応仁記」に、弘治三年五月下旬より八月上旬まで天下大旱魃(かんばつ)、この年金一両をもって米五斗を交易し、前代未聞のことと記されてある。また「室町殿の記」に、御房衆、半下衆切米十二石売払い申すべき由仰越され、この頃兵庫の売買一石六匁ゴ、分のよし、スイタヤ新左衛門申候云々とある、これは天文九年のことで、その後慶長四年の古文書に、米一石に付十匁替というのがある。慶安四年、伊勢にて金十両に米四十二、三俵(四斗入り)、承応三年の春金十両に米四十俵、秋四十六、七俵という記録もある。また太平記の評に、楠氏が米を山門に寄付し、軍餉にも備うるため、米一千二百余石を黄金百両にて買得られたことなど載せられてある。
 こうして米の相場は古い昔から重要視せられたもので、今日では飢饉というような惨苦に遭うこともないが、昔時は凶歳うち続いて餓孚(がふ)みちに横たわるという、この世ながらの修羅道を現じたものである。この救荒策としては種々の方法が講ぜられた。ことに東北地方においてはこの凶作に遭うことが多い。この場合に食糧としては草根木皮、甚だしい時は土の粥なども食し、人畜の類を食うような惨酷なこともあった。
 俗謡に怠け者が「おこめ欲しとて天道さまを拝め、おこめ天から降りゃしない」というが、その米が天から降ったことが、続日本後紀第七、承和五年九月の条に、七月より今月に至る、河内、三河、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛騨、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊等十六国、一々相つづいて、物あり灰の如く天よりして雨の如く降ること、日をかさねて止まず、但し怪異に似たるも損害あることなく、このとし畿内七道ともに豊稔で、五穀の価ひくし、老農はこの物を米の華と名づけたとある。


最終更新日 2005年12月25日 16時35分09秒

林春隆『野菜百珍』「一八七 米の話」2


   *
 また「中陵漫録」に、米奇ということが載せられてある。
  琉球の異食を問尋るに、米奇といふものあり、是れは貴客にあらざれば漫に製することなし、七、八歳の鮮麗なる小女の口にて嚼乱して、盆上に吐出して、是にて製す。多く製するには、数人の口にて嚼乱す。故に平日製し難しといふ。按ずるに、偃曝談余に曰く、『琉球造レ酒則以レ水漬レ米越宿、令二婦人口噛→手槎取レ汁為レ之宀名口二米方“』是なり。このもの唐山にあらず、独り琉球の食物たることを知るべし、又問尋るに、山野に在つて皆食するものは山米なりといふ、山野皆白両金尤も多し。此実の熟して赤きを取来りて水に浸し赤皮を去りて、飯に雑ぜて炊き糧とす、土人名付けて山米と云ふ」
ということが載せてある。嚼乱(しやくらん)して(かも)す酒を、美人真臘の酒というのも、中華から伝えたものであろう。
 また「兎園小説」に、「松前の大福米とて寛永十七年二月二十二日天然湧出して今(交政八年十一月)に至るも腐敗せず」という奇蹟的なものもある。奈良春日神社の年中行事に、八月の撒米は新米を用いるのが恒例であるが、その時もし米穀未だ成熟せぬ場合は、米を青く染めて用いたということがある。
 米を貴ぶこと神の如く、また武備の第一も兵糧であって、腹が減っては戦争が出来ぬと、なるほど。昔の武士も平日は一日五合の扶持米も、いざ戦時となると、倍増しに一人一升と定められた。で、もし一万の人数が十日問陣を張れば千石の米を要し、五十日に五千石、百日に一万石である。いかに百万石の大名でもこうなっては百日も戦うと、支払停止となってさんざんの敗軍を余儀なくさせられる。
 またこの兵糧の運搬がなかなか困難であって、これを給与することも非常な訓練を要することは、この間大阪で行われた総動員を実見した人は悉知されたであろう。それには、自糧を食う法と、敵糧を食う法がある。
 その敵糧を食う法は、例の奇世の豪傑豊臣秀吉は、常にこの策略を用いて奇勝を博するに自策の妙を得ていた。大垣から(しず)(たけ)へ進軍の時にも、路次へ触れさせて、何にても食に()つべきものを皆往還に出しおき、価は心次第に申すべしとあった。この付近の民家ではわれもわれもと、飯、酒、餅、団子などたくさんに持ち出して売った。行軍の兵士はおもいおもいにこれを取り、その代は紙に書いて渡しおくと、跡から払方の役人が廻って来て価を支払った。こうして軍旅を壮にしたので、全軍の士気はいやが上にも昂奮した。
 九州陣の時も、九州の常価より三升増、四升増に買収したから、二百余日の長陣も中国の米を運ばなかった。また小田原陣の時にも、箱根より西の米は一升格上げ、箱根より東の米は二升上げ、二升五合上げ、処によって三升格上げに買収した。その時の古交書に、
   合米拾七石五斗
    此代二升五合格上
   二拾一石八斗七升五合
    金二拾一匁七分
  右之通請取申候処無相違候
   天正十八年寅四月十一日
      上野碓氷郡後閑村
        米主 増田作助團
  北国御大将
    羽柴肥前守様御米買方
とある。これは戦略上に運搬の便不便よりも敵地の糧食を買収して、一つは土地の人気を引きしめ、一っは敵糧を減殺する一挙両得の好策略である。
  *
 さて何がうまいといっても米にまさる美食はない。すべての百味を超越したものは米である。
で、コメ(、、)の訓は心を籠める義で、ヨネ(、、)は世の根と称する。宋の聶夷仲の詩に「鋤禾日当午。汗滴禾下土。誰知盤中餐。粒々皆辛苦」と、また僧家食時の密呪五観に、第一に工の多少を(はか)り、第二に彼の来処を(はか)ると、その初めにおいて米の礼讃を唱うるのである。
 食の謝恩は世界各国でも讃美されることで、シナの風俗にも除夜万糧と唱えて、米を洗い籠二つに米と飯とを盛り、上に松柏の枝をさし、橘子菁を置き、元日より三日まで内室に飾りおく。これは家に余糧があって食に乏しくないことを表する意で、日本の喰積に似たものであるが、それを客に出すことはない。麦の話でもちょっと米麦陰陽のことはしたが、米は陰で麦は陽である。即ち米は炎日灼々たる夏日に播種して、湿潤至る日の初冬に収穫する故に、その性は冷である。それと反対に麦は、降霜ようやく寒気を帯ぶる時に種を下し、草木発生の春陽を経て、これを初夏に収める故にその性は温である。その穀の形状においても、米の凸形なると、麦の凹形なると共に明らかに陰陽の理を示している。米食の水腫に害多く、麦食の脚気を治するもまたこれがためである。
 また世の中に何事を忍んでも、空腹ばかりは堪え忍び難いものである。これ食の身を保つ命であるからである。ここにおもしろい話がある。昔、備前国に一人の(うば)(そく)があった。彼は穀を断って食わず、その名遠近に聞えたので、時の帝はこれを召して神泉苑に置かしめられた。その後、洛中洛外の貴賤の参拝する者、門前(いち)をなした。また諸国よりも群集して、祈禧成就(じようじゆ)顕著なることが天下に伝えられ、ことに婦人の信仰する者が多かった。然るにある人、夜更にこの上人が水をもって米穀数升を飲むと沙汰したので、諸人はこれを疑い、密かにその厠を疑い見るに、米糞がうずたかく積まれてあった。さてこそとて大笑いになったが、それでも婦人等は米糞上人と称して信仰をつづけたが、遂にこの行者も跡を晦ました。ということが「交徳実録」にも「宇治拾遺」にも載せられている。
 この空腹の話のついでに、米麦その他の穀物を我々蒼生(そうせい)のために降したもうた大宜津比売神(おおげっひめのかみ)の詰をする。この神様は日本食物の祖として、その神孫豊宇気比売(とようけひめ)神は食物調理の神さまと伝えられている。前にも話した稲荷はこの大宜津比売神を祭り奉り、神代記にも保食(うけもち)の神の腹中より稲を生じたもうより稲生の義というのである。
 それを俗説に須佐之男命(すさのおのみこと)が、この女神の鼻や、口や、お尻やらから出た種々の味物を見て、汚らわしいと怒って女神を斬ったが不思議にも、その遺骸の頭に蚕、両の眼に稲、二っの耳に粟、鼻に小豆、御陰には麦、お尻からは大豆といった風に続々と生じて来た。これが五穀の初めだと伝えられたのである。
   大高に君しろしめせ今年米
  *
 さて米の調理は、飯、粥、糒、餅、鮓、酒、醴、酢などの話の条で述べることとするが、西洋でもこの米の料理には数百種も調理法があるといわれている。自米そのままの応用を二っ三っ話そう。
 霰米 白米を一つまみほど、米粒を半分に砕き、狐色によく炮烙(ほうろく)()り、それを吸物のツマに用いる。
 焼米 白米を炮烙で黒焦げに焙り、それを茶袋に入れて土瓶にて沸かして、塩と醤油少し加減し、(かゆ)または飯に注けて食う。
焦湯 茶会席ののち飯の焦湯を出すことがある。それはこの焼米を湯にして出す。一茶の句に、
   焼米を粉にしてすする果報者
 はぜ(、、)の話は焼米の条に書いた。また飯の条で米料理も詳述する。
 この米の力がどれほどあるかを示すに、悉皆屋が衣類の湯のしをするに、その釜の中へ米粒を入れるとその熱量を増す秘伝がある。
  米      銅脈
村村秋作後。 年貢納二公儀刈
入レ俵量揚正。 積レ舟運送滋。
肥前新穀早。 大阪相場按。
願価無二高下司 因レ之諸式随。



最終更新日 2005年12月25日 19時48分25秒

林春隆『野菜百珍』「一八八 昆布の話」

一八八 昆布の話
 こんぶは、古名をひろめ(、、、)またえびすめ(、、、、)といい、略してこぶ(、、)と称す。ひろめの名に寄せて多く祝賀に用い、また、よろこぶという音便によってめでたき宴席に用いられる。シナではこれを海帯と称するもわが国産ほどの見事なる佳品でなく、細くして不味のものである。文政九年版の「中陵漫録」に、
   昆布の唐土にわたりしこと久しからず上古は高麗より中国に入ると見えたり。先年隠元の来りし時、長崎より昆布を勧む。隠元、これを見て甚だ貴重す、是より唐に渡りし始め也。今に至って、過半載せ帰る、是を問尋ぬるに、蜀の如き北海に遠き国にては、冬月、昆布を三度ほど食すと言ふ。冬中に食せざれば、春に至つて皆隔噎の病を発すと云ふ、此故に上品の昆布は、皆此地方に送る、其余の下品は煮て糊として繻子、純子の類に用ゐれば、古きものも皆新に光沢出る云々。先年程赤城、安南に渡り、安南の市中を見物に徘徊すれば、大勢群れて環列して見る人あり、程赤城も何事とて立寄り見れば、日本の昆布三寸四方一枚にて、其価銀銭にて二十四匁、三角に切て一寸三分位一枚にて銀銭十六匁也と云ふ。其人皆求めて口に入れて味うて見る。これ近頃菓子売の仕出しなりとて、甚だ珍しくはやる様子也といへり。此の如き者も異邦に入りては珍重す。彼の地方の燕巣も、日本にて貴重するが如し。其隔唖を治すると言ふこと、然るべし。余が家伝の奇法あり、隔噎にて食して直ちに吐く時は、青昆布を細に切り淡く醤油にて鰹節を入てよく煮、是を以て飯にかけて食すれば、吐くことなし。其病の軽きは此一味にて食の納まるやうになる也。病老しては其効なしがたし、これ此方蜀中の説と打合す、若し病む者あらば必ず用ふべきなり。
とある。
 さて昆布は、北海道に産するものを最良とし、径一尺余、長さ数丈、短きものでも四、五尺に及ぶ。その濃緑なるを上品として、黄色褐なるを下品とする。その種類も二十余種もあり、中に最も名あるものは、真昆布、三石昆布、長昆布、鬼昆布、細目昆布(一名、盆目昆布)、黒昆布、俗に出し昆布等である。
        *                *               *
 昆布を食用にされた起源は、「続日本紀」に、元正天皇霊魯ニハ年の条に「冬十月丑、鰕夷須賀沼古麻比留等言、先祖以来貢二献昆布常採此地哺年時不闕云々」とあるを見ても、昆布はその以前より食用とされしもので、松前(今の函館)より宇賀昆布と称し、本州へ送り来りしは元弘の頃からである。
 それで昆布は中古に菓子として用いられたもので、今も菓子昆布と称する糖分に富んだ真昆布は、酢をもって求肥昆布に製し、また、ほいろ昆布、結び昆布、細工昆布等にする。その他普通昆布は、昆布巻、昆布しめ、昆布茶、昆布羊羹、塩昆布、佃煮、揚昆布、などにする。またそのままに元揃、花折、刻み、おぼろ、初霜、とろろなど、白、黒の昆布をもって製する。また青昆布といも三の幾分か人工で青色に染めたものもある。青を青板、白を白板、黒を黒板と称するのである。
 さて昆布で簡単な調理は、
 結び昆布 求肥昆布を三分長さ六分に切り、一っ結びとして溜り醤油と味淋、砂糖にて辛い目に煮る。
 砂糖漬 板昆布を細く切り、鍋で煮溶かしたる白砂糖の中へ入れ、からからになるまでとろ火にて煮つめ、焙爐で乾かす。
 塩昆布 小角に切った昆布を醤油のみにて煮っめ、塩を多く加え、またとろとろと煮こむ。
 竹巻 青板昆布を水に浸し、柔らかになった時、これを小口より巻き、斜に切って味を付ける。
 昆布巻 鮒、鯡、もろこなどの外、精進なれば(たけのこ)牛蒡(ごぼう)生麩(なまぶ)、焼豆腐などを味つけ、これを白板昆布に小さく巻き、汁をひたひたにして煮る。
 昆布〆 こぶしめは魚肉、またはすり芋などを求肥昆布で巻く。
 その他、酢昆布、揚昆布、佃煮は粒山椒、または紫蘇の実、木の芽など入れる。
 興行場の中売にみずからと呼びて売る板こんぶ、花見時の揚昆布売りは今は(すた)ったが、この頃電車や汽車の中で菓子昆布を舐ぶる人を見うける。北海道の昆布は京阪の名産にも数えられる。東京を素通りして上方で食い倒れるのもおかしい。
 この昆布は婦人の毛髪を増し、根気を強くするに効があるといい伝え、また宵のこぶは見逃せぬなどという諺もある。もっとも昆布は防寒温補にも効があり、また梅毒性の人にもよい。また石灰中毒を銷解するに効がある。
 蕪村の句に、
   昆布で葺く軒の雫や五月雨
    昆  布     銅  脈
抑産二松前国殉  京都菓子誉。
祝吾先ニ吉事刈 称レ自入二芝居司
包レ紙珍重表。 垂レ台御慶舒。
無レ妨二諸病者鱒 功能不レ遑レ書。


最終更新日 2005年12月25日 21時57分44秒

林春隆『野菜百珍』「一八九 献立の話」1

一八九 献立の話
 こんだては、料理の脚本として食膳に上すべき食品の種目を定めるもので、すこぶる重要なることに属するのである。それには平日の惣菜献立と、饗膳に供する献立との二っがある。家庭平日の食品は朝昼夕の三度に按配して、少くとも一週間ぐらいの献立はあらかじめ製作しておく必要がある。これは主婦の労煩を省くばかりでない、経済的に保健食料を購求して、その季節に応じて家族の嗜好と慰安に資するように、考慮して作られた献立によって、毎日食味の変化に耳目を(よろこ)ばすのみでない、その日その日の味覚を楽しましめるということが、いかに一家の幸福をもたらすことであろうか。賓客の饗膳または式日の献立にも、平日こうした料理の変化を献立によって考究して、仕事の上に趣味づけられると、自然に熟練もし、また臨機応変に調理の手腕も向上して来るのである。
 献立とは食檄のことで、馳走は奔走の意味である。主婦の奔走によって思わぬ御馳走が出来るのである。坐ながら電話で取り寄せたものや、下女を叱り飛ばしてこしらえた御馳走は、誰しもありがたく頂けない。そこは甲斐甲斐しく立ち働いて吟味された料理に、その親切ぶりと、蜜のような慈愛が籠っているだけに、深刻な味が含まれるわけである。
 すべて客人を饗するの要は、
  一、器席の清潔
  二、菜肉の新鮮
  三、割切の方正
  四、塩梅の和協
の四つで、また慎むことは、
  一、茶酒の淡濃
  二、侍児の不才
  三、主人の怒罵
の三つである。歌に、
   振舞は酢皿屏風に味噌のこと亭主きげんで天気よい酒
と、酢皿は鱠のことである。いかなる料理にもこの鱠が美味くあれば客人は喜ぶ、ついで味噌汁の旨いもの、濃し淡11一で、諺に味噌の味噌臭きは上味噌にあらずというから、なかなか加減がむずかしい。これらが亭主の骨の折れるところで、親切というのもここにあるのである。西洋食やシナ料理は、むやみに芳香をもって刺戟を求めるが、それは正食でない。また色彩においてもトマトと赤大根などのサラドは、見る目にもあくどい(、、、、)じがする。その点は日本料理の特色で、眺めただけでも目の保養になる。昔から日本料理は山水の形に盛り合わしたもので、調味よりも重きを形式に置いた傾きがあった。しかし、これがために世界(ぬえ)式の混食を幾分避けたので、ようやく日本固有の料理として、今にその(おもかげ)をのこしているのである。
 そこで、専門的料理の献立よりも、家庭実用の献立といえぽ、今の学校割烹(かつぼう)の献立、または婦人雑誌などによる献立は、往々料理本位の考案から出たものが多くて、実際惣菜として少しあきたらない(、、、、、、)ものがある。それは著者の経験上に、まず兵営週間の献立、つぎに寄宿舎及び下宿屋の献立などが、その経済的立場から見ても兵卒の保健上についても、少からぬ考慮を費された成績があるから、これを直ちに家庭に移して実行するも、決して差支えなく応用されるとおもう。
 何人も経験せらるるであろうが、旅館などにしばらく滞在するときに、ただ困るのは三度の食事のことである。変化の乏しい膳部を繰りかえして供せられるのには、ほとんど生活に異状を発すばかりである。それは食膳の価値を見得にして体裁のみをつくろうためで、つまり栄養を無視した営利的手段の悪弊である。
 しかし、表看板である献立ばかりが立派でも、その実質がこれに伴わなければ、羊頭をかかげて狗肉(くにく)を売るということになる。友人の宅などでちょっとした手料理の御馳走になっても、意外においしくいただけることがある。それは不時の客に対する主婦が平日の心がけにもよるが、そこの主人にもそうした趣味を持って来客を待遇されるに、よい理解をもつからである。主婦の手料理の上手下手(じようずへた)よりも、第一に親切となつかしみをもって饗応されることが、その食味に融和して、心身ともにその食欲を満足せしめるからである。これらの食味がいわゆる身につくというのであろう。ただ薄っぺらな形式的に陳列した料理から、滋味を求めようとするのは、甚だ間違った量見で、自分の嗜好と体質にも適合しないものを(なら)べられて、それで満足するようなお粗末な味覚の持主が、常に胃腸を苦しめる無慈悲な悪食家で、つまり栄養上に不忠実極まる人である。
 で、時たまに食う料理はともかく、生育全体の要素となる毎日の食事は、その栄養、滋味についても、その体の強弱と、労働の多少にしたがって、また寒暖の時節に応じ、その日の(よろ)しきに適するように供給せねぽならぬ。ここにおいて献立というものが必要になって、献立は医者の処方箋の如きもので、藪医者が常にさぐり(、、、)薬を病人に与えるのと、食事に無頓着な主婦がゆきあたりばったり(、、、、、、、、、、)の惣菜で、家庭の栄養などは、猫の耳にラジオを聞かすほどに、とんと痛痒(つうよう)を感じないのも大いに困るのである。
        *               *               *
 さて、献立に重きを置くことは、まず朝食はその味簡単にして軽いものを供し、昼は専ら滋味にして養分多きものを選み、夕はまた淡味にして消化よきものを()らしむるような方法で、 一週間ぐらいの献立をあらかじめ作りおき、それを基調として臨機応変に目に触れたもの、到来の食品などを応用して、食味の変化をもって家人を喜ばしめることが肝要である。
 もっとも夏期は野菜七分肉食三分ぐらいのこと、冬期は肉食七分、野菜三分ぐらいの比例で、
のべつに同一種類のものを連続させるのもよくないが、さりとてあまりに変化し過ぐるのもよく
ない。雑食の結果は脾胃(ひい)(やぶ)り、偏食に過ぎては痼疾を起す憂いがある。これらは専門家によっ
て学ぶべきことであるが、日々の飲食から知らず知らず馴致される人の強弱、性質、習慣なども、
決して軽々しく看過してはならぬのである。
 ここに標準献立を試みると、まず、
 第一日
朝 味噌汁(茄子(なす)、すり胡麻かけ)、黒豆と凍豆腐煮合。沢庵
昼 (ぶり)葛餡(くずあん)かけ、おろし生姜(しようが)。つまみ菜辛子和え。菜漬
夕 まぐろ刺身、山葵(わさび)、茶椀盛(親芋、菜、椎茸、クチ柚)、漬もの、花らっきょう、浅漬
 第二日
朝 すまし汁(焼麩、松茸)、佃煮。かぶら漬
昼 焼豆腐と天ぷら煮合せ。鰺と葱ぬた。茶漬
夕 鰻巻玉子、へぎ生姜。いなに蓮芋、汁(一口茄子、焼はえ)
 第三日
朝 赤だし(貝の身、葱)、金びら牛蒡(ごぼう)。沢庵漬
昼 鯖と大根仙波。人参共葉あえ、ごま。奈良漬
夕鰕のフライ。蒲鉾、じゃがいも、朝鮮豆煮合、汁(くずし豆腐、小蛤)
 第四日
朝 白味噌汁(蕪菁、椎茸)、炒り蒟蒻(こんにやく)、浅漬
昼 豚の角切と蓮根煮合せ。ちさ胡麻浸し。汁(さきえび、しめじ茸)
夕 あわび含煮わた共、やきとうふ、新牛蒡。吸もの(鳥たたき、芹)、味噌漬
 第五日
朝 すまし(小芋、ちくわ、三つ葉)、軸湯葉含煮、筍、蕗。辛子漬
昼 小鯛塩焼。けんちん汁。沢庵漬
夕 かやく飯。とうふ汁。茶漬
  第六日
 朝 味噌汁(銀杏大根、鳥肉、露生姜)、切干大根と大豆の煮合せ。福神漬
 昼 牛肉、ささかき牛蒡、玉葱煮込み。きゃべっ胡麻和え、沢庵漬
 夕 塩鮭酢びき。鳥そぼろ。汁(雁もどき、生椎茸)
  第七日
 朝 すまし汁(焼鮎、鯊でも、葱白根)、小芋煮ころがし。千枚漬
 昼 さくら飯、海苔と唐揚汁。間引菜漬物
 夕 鮪味噌煮、おろし大根。茶碗、玉子豆腐。酢肴(鰻ざく)、べったら漬
 これはほんの参考にまで述べたので、なるだけ手数のかからぬものを選び、その変化をもって味覚に刺戟を与えるのである。



最終更新日 2005年12月25日 21時58分19秒

林春隆『野菜百珍』「一八九 献立の話」2

        *                *              *
 素人(しろうと)料理は酢の蒟蒻(こんにゃく)のともったい(、、、、)をつけるよりも、手取り早く小綺麗にするに限る。材料の選択も大切であるが、玄人(くろうと)のようにその善悪が解らぬから、まず新鮮なものを購めることに念を入れるがよい。もっとも安かれ好かれとおもうのが間違いで、食物と衣類ばかりは少々高くてもよいものを買っておく方が後のためにもなれば、身の養生にも(かな)うのである。
 前に述べた献立の補足として、『百珍』本文中に重複するものもあるが、素人料理の参考に少し惣菜の用い方を書き添えて見る。まず野菜から始める。
 若菜 辛子(からし)吸口にて汁にし○あるいは塩鯨、油揚げなど合わせ平に用い○雑煮の上おき○うでて辛子()え○ごまをふりて浸しものなど。
 水菜 汁の実に、辛子、(ゆず)などを口に入れ○また鰹節をかけて、身鯨を入れて平に用い○油で炙って醤油を加えたるもよい○浸しもの○浅漬○ばりぽり煮など香味があってよし。
 嫁菜 ひたし物○汁の実○芽うどの吸くち。
 蒲公英 浸しもの○干大根の薄くへぎたるを入れて酢醤油を()けまた土筆(つくし)を入れるもよし。
 とう菜 花のさきかけた菜のことである(薹菜)。当座漬○からし和えなどよし。
 ちさ この菜はいつも永くあるゆえに重宝である。汁の実○ひたしもの○ことに魚肉にまぜて
煮て平に用いる。
 蕗 汁の実○川魚と煮合せ○煮しめもの○竹の子、豆腐の相手によし○葉をすらぬ焼味噌で和
えるをほろあえというのである。
 分葱 わけぎは酢味噌和えに、貝の身、飯蛸、鯨のせん、鮭、(あじ)のそぎ身○精進ならぽ油揚げ、
生麩などとあえるのである。
 わらび 汁の実○油揚げと煮合せ○魚の共煮○ひたしものなど。
 若牛蒡 煮しめ○酢ごぼう○その葉もともに煮て食う。
 葉人参 ひたしもの、ごまけしなどをかけて○共葉あえもよし。
 貝割菜 大根の嫩が小貝の割れたようなもの、汁の実○油揚げと煮る○浸しものにもよし○の
び過ぎると漬菜に用いる。
 平豆 ごまあえ○白あえ○平の取合せ○実の入り過ぎたものは天ぷら○いもと煮合せにするが
よし。
 さや豆 (わか)いそら豆を(さや)のまま煮て用う○あえもの○煮しめ○()が入りたるをはじき豆といい
○塩煮○甘煮○大多福豆など。
 えんどう 白い花のものは莢にすじがない。竹の子と煮合せ○実が入らぽ飯にまぜ○小ふき豆
○煮ひたし○塩えんどうなど。
 竹の子 調理は本文を見るべし。
 菠薐草 浸しもの○汁○すき焼のあしらいなど。
 春菊 香気ありてよし、酢ひたし○汁の吸囗○ひたしもの○鳥獣の肉にあしらいて悪臭を去る。
雅味あるものである。
 茄子 その条で見るべし。
 胡瓜 ざくに(はも)の皮を(なます)にしてもよし。鮭、鰺、白魚の子、ざこ、うなぎ、あなごなどのざくざく○また精進の揉瓜には、椎茸、うど、根芋、油揚げ、紫蘇漬など○ころもをかけてあげたるもよし。
 越瓜 しろうり胡瓜に同じ、味はおとるも奈良漬にしては第一である。
 冬瓜 味噌田楽○のっぺい○葛引き○汁の実○暑中の風呂吹を冷して食うも妙である。
 南瓜 その部を見るべし。
 ささげ豆 うでて山椒醤油みそ和え○ごま和えが通例である。
 隠元豆 白あえ○辛子あえ○煮しめ○天ぷら○浸しもの。
 芋 さつま芋、唐の芋、里芋、山の芋など、いの部その他を見るべし。
 その他、松茸、大根、かぶら、胡蘿蔔(にんじん)、牛蒡、くわい、葱、芹等はいずれもその部を見るべし。
        *               *                *
 これは畑違いであるが、献立のついでに魚類のことを少し加える。
 鮪 江戸のまぐろ、西国で大魚、紀州でしび、名古屋でかじき、京阪でははつと称する。しかし、いずれもその種類を異にして、本鮪をシビといい、それの小さいものをメジ、大きいのをキワダ、と称する。カジキは鮪の特異種で本カジキは美味の優れたるも、バチやヒレナガという安ものは蒲鉾の材料にされる。このはつは下品な魚であるが、冬日に食うねぎまの味は江戸っ児でなくても食欲をそそる。刺身の赤いのもこの魚の特徴で、握り鮓でも一方の名題役者である。普通にさしみの(、、、)作りにおろし大根○(ねぎ)の煮合せ○骨身のあらは(、、)豆腐の相手○刺し身を酢に浸してきらずにまぶして(、、、)うのも乙なり○小角に切って葱味噌と合わすなども妙である○また塩焼にしておろし醤油を注けるもよし○塩をしたるは(かす)いりにする○田舎味噌に漬けるもまたよし。
 あかえ 汁には白味噌仕立て、茄子(なす)、葱など入れて吸口に柚、山椒など香気強いものを用う。あかえはちょっと臭い匂いがするから煮付けるにも山椒醤油を用い○生身はゆがぎて辛子酢味噌をつける○また油でいため、葱など多く具を入れて醤油汁で煮、すり生姜(しようが)の吸口、これをすっぽん煮というのである。但し、これは酒しおを多く入れて醤油はあとから注すこと。
 鰹 生かつおは昔江戸で賞美したもので、これはさしみ○酢びきなど(なま)なるがよし○いりつけOつけ焼などは味が劣る○また生ぶしと称してかつおの浜で蒸したのは上方の惣菜によくするのである○煮つけ○おろし大根のなます○豆腐の取合せ○そぼろ煮などにする○生ぶし飯もちょっと変った御馳走になる。
 鰤 ぶりは冬期に入って味がのる○いり付け○塩焼○山椒付焼○煮付に芥子かける○さしみ○止月の雑煮に入れ○(かす)いりの実によろしい。
 烏賊 いかは木の芽和え○作り身二杯酢をかけて、三ツ葉、ちさなどあしらい○あるいはちさをあしらいて鱠にするもよろし○大根、茄子、(ふき)、じゃがいもなどと煮付けるもよし○但し、いかは醤油の浸まぬものゆえ、身に庖丁目を入れて、先に煮ること。
 蛸 夏の頃は作り身に三杯酢○さくら煮は醤油で煮て生姜おろしを入れる○また酒しおで煎りつけるもよし○芋蛸汁(たこじる)も下品なれど味よきものなり。焼豆腐などを入れて柚の吸口である。またうでて瓜なますにするもよし。俗に蛸と三味線は血を狂わすというから、逆上(のぼせ)性の人は多食無用。蛸をうでる時、白豆少々入れると軟らかくなる。
 生海鼠 なまこは正月肴に用いる。これは米俵に似たるとて、たわら子と称し、旧正月に当る年越の夜に「とらご殿のお見舞じゃうごろもちは宅か」と(たば)(わら)で児童が大地を叩いて廻る風俗がある。これはたわら子殿(、、、、、)という訛りで、土鼠(もぐら)は作物の田を荒すから、米俵でうごろもちの害を除くための呪咀である。
 なまこは作りて二杯酢、木耳うどなど取合せ、おろし生姜○ふくら煮すまし汁にもする○なまこは藁を少し入れると、軟らかくなる。また沸湯(にえゆ)をかけて酢に入れると、いつまでも味がかわらぬ。
 太刀魚 たちうおは骨切りにして、塩焼○味噌漬などよし○煮つけたるは下品である。塩焼の方味よし。
 鰯 いわしは下品な魚なれど厚味のあるもので、紫式部が「いわしみづまいらぬものは」と歌うた好物から、鰯の異名をおむらというが、それはこの(、、、)の色から名づけたものである○塩焼○酢いりにしてきらずと(、、、)に盛りたるなど珍し○天ぷら○煮つけ○ぬたなどまたよし。臭味あれば山椒、生姜などにて煮つけるがよし。干鰯を目刺しと称し、よく乾きたるを焼きて食うも(うま)し。その他、鯛、(さわら)、すずきの如き上品なもの、(しじみ)、あさり、(はまぐり)田螺(たにし)(ふな)、はえ、もろこ、(なまず)などの川魚に至るも時たまに用い、また塩魚にも、鯖、ぶり、鰯、鮭、さんま、鰺、そのほか、(にしん)、数の子、ごまめ、ぽう(だら)、いりから、さくら(えひ)、するめなどの干物も惣菜献立の役廻りに加えられるもので、その調理も種々ある。
     *                   *                   *
 前にも述べた如く、献立は脚本で芝居の俳優に役割をつけると同じく、その仕組や作意よりも、その材料の役者である、魚なり野菜なり、その食品を選択して一々活躍せしめ、おのおのその天然味を発揮することが第一義である。名人の劇作家が、その俳優の伎倆によく(はま)るように役廻りをつけるのと、料理の献立にも、その材料を適所に応用することが最も肝要である。
 その食品となるものの発生期や、(しゆん)のものを用いるにも、ただ新鮮(あたら)しいのみが美味をもつものではない。それには煮て食うと焼いて食うとにも、煮食、生食の味の変化はもとより、栄養上にも大変な差異がある。この辺にもよく注意して献立を作らぬと、おもしろい芝居も見せられないのみか、かえって無理が出来て、料理なら蝋を噛むような不味(まず)いものが出来上るのである。
 さてお賄の献立が一週間ずっ変化してゆく、その中にお菜に困ったらというように、行き詰まるようなことは往々ある。芝居にも行き詰まると忠臣蔵を出すが、お惣菜は見ただけで腹がふくれぬから、何なりと趣向をつけて、台所政策の新機軸を出さねばならぬ。
 そこでこうした場合は、色飯の丼でもまた、ちらしでもよい。鰻の二百目も買えぽ一円五十銭ぐらいで十人前のうな(、、、)が出来る。料理屋から取り寄せる三分の一の緊縮。これに準じて天ぷら丼、親子丼、きんし丼、木の葉丼、牛丼、ライスカレーなど、何々食堂で他人と顔見合わせて食わずとも、気楽に児童を喜ばせて安値に家庭食堂の建設が出来るのである。
 またこんな時はお惣菜はいらぬ、何か(うま)いお漬物、福神漬、菜漬などに、よいお茶を入れて食事をする方が、簡単でもあり、賢明でもあり、また気もちもよい。
 それから、散らし飯は、松茸めし、五目飯、鰯飯、豆飯、菜飯、さくら飯、茶飯、うずみ豆腐、海苔(のり)飯、大根飯、こんにゃく飯、竹の子飯、栗めし、鯛めし、その他ちらし鮓などいくらもある。これにはすまし(、、、、)を一っ添えさえすれば、ほかの副食物は一切入らぬこととなる。月に七、八度これを献立の中へ割り込むと、一週間に二回ぐらいは臨時食堂が開けて、おさんどんまでが大喜びをする。
 昔は京、大阪でも一日、十五日は焼物の尾頭つきで、その間はいつもきまり切った粗末な副食物で済ましたものである。著者の子供の頃は船場辺の大家では、日に一度だけの惣菜を出入りの賄屋から取り寄せた、それが一人分金一銭五厘ぐらいであったとおもう。それでその日の食事がすませたものであるが。今日の如く生活が向上して来て、精神的労力を費される人々には、そんなお粗末のカロリーでは生煮えの人間が出来る。で、栄養問題だけは現代緊縮の除外例として貰わなくては、かえってこちらが恐縮する。
 徳川家康も駿府へ引っ込んでから、江戸将軍に書を発して華美を戒め、美味厚味は月に二度の朔望に用い、平日は素食に甘んずべしとあった、それが民間にも一日、十五日の赤飯で(さかな)つき食事をする習慣となったものである。
 しかし今の人と昔の人とは体育も労働のしかたも違うから、こうしたドカ(、、、、)い、ドカ(ヘヘヘへ)みが栄養上に、よいか悪いか、これも一時腹の考えでは十分の研究が出来ない。



最終更新日 2005年12月25日 23時22分31秒

林春隆『野菜百珍』「一九〇 枝豆の話」

一九〇 枝豆の話
 えだ豆は、大豆を(さや)のまま()でて食する。京阪地方では夏の夜、細民の夜の業として湯出菽豆売るものが多く、小枝に残したる莢のままに塩()でしたるに辻占(つじうら)など添えて、錫杖(しやくじよう)ようのものを鳴らして「さや豆うでさやさや」と市中より遊廓に至り売り歩く。東京でも貧婦が背負って「枝豆」といと憐れに売り歩くは、多く朝の納豆売りに似たものである。この枝豆は九月十三日の後の名月に、栗や柿と共に供え、八月十五日の(いも)名月に対して、豆名月また栗名月の名がある。これを二夜月、名残の月ともいう。
 この夜の月を賞することは延喜朝のころより行われ、民間に今夜豆をうでて食い、また栗をも食することは古い習慣で諸説が多い。
 芭蕉の句に「木曽の痩もまたなをらぬに後の月」、鬼貫の句にコ豆を食ひ豆の花とも詠めぽや」、頓阿の歌に「あきらけき御代のはしめの秋よりや、月も名におふごよひなるらん」、後の名月は秋も末となりて碧空すみわたりて、月光さらに冴えまさるより林春信の詩にも「季秋逢遇十三天、明月無雲自粲然、今夜似星残菊色、蟾光相映一欄前」「名月によう似た月の顔つきは二つちかひのをとと草月」。
 さて枝豆の調理は、
 塩漬 (さや)ごとさっと()で、水気をよく切り、辛過ぎぬほどに塩をふりかけ、焼明礬(やきみようばん)を少し加え、軽く押しをして貯う。
 求肥巻 莢ごと煤でてから豆を出し、別にさつま(いも)の皮を剥き、頃合に切ってよく蒸したると共に、豆三分、藷七分ぐらいの割合にして、すり鉢でょく摺り合せ、砂糖、塩、片栗粉少々加え、よく練ってから裏漉しにかけ、求肥昆布で巻き小口切りにする。
 そのほか、煮しめ、塩豆、豆羊羹など、枝豆のうで方は前に塩をふりかけて沸湯に入れる。あげてまた塩をぱらぱらとふるのである。
 シナでは青い枝豆の豆を取り出し、塩うでにして一たん乾し上げ、しこしこするのを食することがある。



最終更新日 2005年12月26日 01時43分33秒

林春隆『野菜百珍』「一九一 荏の話」

一九一 荏の話
 えごまは、紫蘇に似た一年草で、その種実は油分に富むゆえ、搾油して食用に供する。



最終更新日 2005年12月26日 01時55分33秒

林春隆『野菜百珍』「一九二 燕窩の話」

一九二 燕窩の話
 えんすは、燕菜、燕窩菜とも称し、熱帯地の燕に似たる鳥の巣である。水に沿いたる巌窟内に白藻を含み来たりて造るものであるという。色の白くて透明なものと、処々に黒き羽のついたものもある。
 これを獲るには舟に乗って、常に猿を用いて採らするというので、シナ人はこれを珍味として大饗に用いる。鯨のかぶら骨を刻みたるに似たものである。



最終更新日 2005年12月26日 07時36分16秒

林春隆『野菜百珍』「一九三 豌豆の話」

一九三 豌豆の話
 豌豆(えんどう)は、白い花の咲くものは(さや)に筋がなくて、味も甘く上品である。実のいらぬほどは酒の肴にもし、()えものに用い、竹の子、(ふき)などに取り合せてよし。



最終更新日 2005年12月26日 22時15分11秒

林春隆『野菜百珍』「一九四 榎の実の話」

一九四 榎の実の話
 大きさ胡椒の如く、熟すると黒色を帯び甘味多し。好んで児童の嗜食するもの、群鳥集まりて食う。
  落つ榎の実にはたらさる秋落葉



最終更新日 2005年12月26日 22時50分45秒

林春隆『野菜百珍』「一九五 田楽の話」

一九五 田楽の話
 でんがくは、昔奈良法師の田楽舞(でんがくまい)の曲に鷺足(さぎあし)とて、竹馬の如きものを一本立てて乗ることがある、その形に似て(くし)にさして焼くものを田楽と称した。今は豆腐蒟蒻(こんにやく)に限らず、魚菜とも味噌をっけて焼くものを何々の田楽と称するようになった。
 昔、宮中の御煤掃いに「熱かべ」と称し、白豆腐に味噌をつけて下々へ賜わるものがあった。おかべというのは宮中の女詞で、熱い豆腐というのをつづめて「あつかべ」と称し、下々へは土器で賜わるのであるが、畏きあたりへは青串にさして奉るのである。それでこの豆腐田楽は、比叡山などの(ちこ)たちが夜の非時(ひじ)として食したもので、今は春秋とも用いるが、昔は冬の夜食であった。句にも「田楽のあとさびしきぞ冬籠」「寒き夜にあぶりくふべき岡部哉」。狂歌に纈たかあしをふみそこなへる面目を、灰にまふせる冬のでんがくLともある。
 田楽の串も昔は一本で、その央まで二っに()いたものに、豆腐を貫いて灰の中へ(たて)に突きさして焼いたものが、のち祗園の二軒茶屋で流行した田楽の曲切などと称して、京の四季にもある「二本さしでも軟かう」などと二本串にさすようになった。宗長卿の旅日記(天正六年)に「夜もふけたるにひさをならべ田楽たうふの盃たびかさなりて云々」とあるから、田楽豆腐という名は、それよりも古く称されたものであろう。ある物語本に「ちこ法師寄り合ひ田楽をあぶり、なににても三っはねたることを言ひて、賞翫せんといひて、うんりんゐんの南蛮陳、せんさんひんの神泉苑など、といひて皆一串取られける云々。また或夜でんがくをして、秀句にて賞翫するに、大ちこは清盛の長刀なんぞいつくしま(五串)、新発意は仏のつむりなぞなぞみくし(三串)、小ちこは医者の本尊なぞなぞやくし(八串)など」の洒落が載せられてある。
 この田楽は今も花見時に、葭簾張(よしずばり)の茶屋に「木の芽でんがく」のびらが、春風に翩(へんべん)としているのは、なかなかに遊山気分をそそらすものである。
 黄檗(おうばく)三十九代の管長であった霖竜禅師が、まだ長門国一の宮の万松院に住した頃に、長府侯毛利元敏がしばしば参問して、同寺の幽邃(ゆうすい)を愛し、侍臣を(らつ)して時々来遊して、同寺名物豆腐田楽を嗜好された。ある日元敏は狩猟に出かけたが、途中驟雨(しゆうう)に逢い、そのまま寺門を叩いて大いに飢えを告げられた。そこで和尚は例の田楽を作って馳走されたが、公は空腹で貪り食って、覚えず三十串に至った。その時公も自ら大食に驚き、一詩を賦した。
   田獵挾弓向遠村。 山雲醸雨昼如昏。 熊羆無獲亦何恨。 敲破霖竜窟裡門。
   世塵洗尽雨余峰。 禅味山羹話最濃。 堪咲淮南三十串。 腹中今日別添封。
とある。これより同寺の名物は一層喧伝せられて、今もなお(のぞ)みによって饗せられるそうである。




最終更新日 2005年12月26日 23時16分58秒

林春隆『野菜百珍』「一九六 天門冬の話」

一九六 天門冬の話
 てんもんとうは、古名「すまろくさ」と称し、また「くさすざかずら」ともいい、万年松、金花、商棘の異名がある。海辺砂地に多い。
 春、宿根より叢生し、蔓は甚だ繁茂し、葉は杉の如く長く柔らかにして光る。夏の小白花を開き、のち円い実をむすぶ。根に細長い塊が多く着く、それを薬用とし、また砂糖漬となす。
 天門冬と杏仁(きようにん)を粉末にして蜜で煉ったものを、仙人粮と称して、長生の秘薬とされる。句に、
   天門冬うき世を杉の長々と



最終更新日 2005年12月27日 00時20分42秒

林春隆『野菜百珍』「一九七 天浮羅の話」

一九七 天浮羅の話
 てんぷらは、胡麻(ごま)(かや)、その他の油で魚類、野菜そのほかの食品に、うどん粉をまぶして揚げたるを付け揚げと称し、それに対してそのまま揚げたるを素あげという。単に天ぷらといえぽ魚類の揚げたるもので、野菜などは精進揚げと称している。
 この天ぷらの始めは、慶長年間より以前に長崎へ来舶した外国人によって伝えられたもので、テンプラの語原は葡萄牙(ポルトガル)語と日本語の混和したようなもので、その当時何にても油で揚げたものをテンプラ料理と称したものらしく、それゆえに今日でも何々の天ぷらということになっている。然るに、戯作者(げさくしや)京伝が、上方の某がぶらりと江戸に来て始めた商業だとて、天竺(てんじく)浪人のふらりという意味で「天ぷら」と名づけてやったと、その舎弟京山が説いている。また蜀山人(しよくさんじん)が越後の人のために、同じようの意味で名づけたのが、その始めだなどといい伝えているが、これらは、皆無稽の説で、天ぷらは既に慶長の頃江戸でも行われたし、その以後に近松巣林子作の「国性爺合戦」の文句にもテンプラの語があるから、その語原は長崎から伝えて来たものである。
 そののち漢字で「天浮羅」と書いて、ころもを羅に見立て油で浮きあがるところを天浮といい、羅浮の姿を転倒して「天浮羅」と書いたのは、なかなか気の利いた奇才である。
 元来油濃いものを好む関東人に、この天ぷらが嗜好にかない、鮪のトロと共に賞美されたので、天ぷらは江戸の名物となって、今も東京天ぷらの名を誇っている。その代りに精進揚げの天ぷらは、五色揚げなどと称して、上方らしい色彩を放っている。
 しかし、天ぷらは調理のうちでも、材料の選択と久しい経験によらなければ、からりとした碧空の天気のような天ぷらは揚らぬ。火加減、油の沸加減がいずれ過不及でも、美味いものは出来ぬ。
 油は胡麻油に(かや)の油を交ぜたものがよいが、胡麻の油のみでも、白絞(しらし)めのみでもよい。胡桃油とか、他の油で揚げることもあるが、その油のために異味を調えるというわけでない。またメリケン粉に酒を加えて揚げると、からからに揚って俗に金ぷらというものになるが、そのからからのうちにも香ぽしい味を含むには、酒やパン粉を混じたころも(、、、)をかけては、材料の魚肉や野菜をだいなしにしてしまうのである。また蕎麦粉(そばこ)をまぶして揚げるとへちたものが(、、)来るが、その味は、素人(しろうと)のこしらえたコロヅヶ見たようなもので、むらむらして団子の天ぷらを食うようである。
 こう小言ばかりいうと、どうして揚げたらよいかと、たちまち逆襲されるが、それは前にも述べたように、
  第一 火加減
  第二 油をよく熱すこと
  第三 ()え加減に材料を入れること
 この沸え加減が正宗の銘刀でないが、大火傷を何度もして見なければ、斬れ味でない、食味の上乗を味わわす域に至らないのである。
 さて精進揚げの材料は、
 椎茸、牛蒡、人参、芋、蓮根、筍、松茸、三つ葉、菊の葉、雪の下、紫蘇の実、蕗の薹、もみじ、隠元豆、朝鮮豆、高野豆腐、蒟蒻、湯葉、干瓢、胡瓜、茄子、南瓜、昆布、かき餅、そら豆、南京豆、栗、柿、林檎、百合根、羊羹、饅頭、団子、獄、バナナ、竜眼肉、海苔、芹、菊菜。
 その他何でも試みに揚げるもよい。天ぷらを揚げる時、油鍋に火がよく入り易いから、青菜を傍に置いて、もし火が鍋に移ったら、静かに青菜を鍋に入れると燃え上らずにおさまる。(あわ)てると大怪我(けが)をしたり、大事を惹き起すことがある。天ぷらの衣に色つけをするに、食用紅や青粉を用いてはならぬ、量が過ぎると中毒することがある。それで青は挽茶(ひきちや)青海苔(あおのり)、また紅は唐麹、黄は山梔などを粉に混じて色づけするがよいのである。



最終更新日 2005年12月27日 01時15分02秒

林春隆『野菜百珍』「一九八 餡の話」

一九八 餡の話
 あんは、料理に葛餡(くずあん)、蒸しものに小豆餡と、共にその加減と製し方に巧拙がある。まず料理用の葛餡の作り方から始める。
 並餡 葛二合に水三合をよく交ぜ、しぼらく置いて、上水を捨ててのち餡に用いる。これは葛のあくを取るのである。
 まず小鍋に八方汁を入れ、水にかけて一度沸し、砂糖、塩、醤油を少し加え、味をつけて、それに葛を少々ずつ入れて、薄く、濃く頃合にして煮あげる。即時に用いぬ時は別の鍋に湯を沸し、それに鍋ともいれて湯煮にしておくこと。
 青餡 前の如くして煮上る前に、青海苔(あおのり)粉をうら()しにして頃合に加える。
 わらび餡  これもわらび粉を煮上に加える。
 海苔餾 浅草海苔を粉にして前の如くする。
 黄味餡 玉子の黄身を前の如くに加える。
 白餡 長薯(ながいも)を加える。
 その他これに準じて作ること。
 また小豆餡の作り方は、
 上餡 新小豆をよく煮きてすり潰し、水に掻き立て、漉して皮を去り、布の袋に入れてしぼり切り、黒砂糖の極上を一斤に水二合ほどの加減にして煮返し、あくを取りすて、また太白の砂糖蜜を交ぜて、右の小豆粉に合わせて煮つめるのである。
 つぶし餡  これは小豆を煮て、煮汁をうちあけ、すり鉢ですり、黒砂糖と白砂糖を等分に入れて、よくすり合わす。
 白餡 上餡の如くして、白砂糖を多く加えて煮つめる。
 青餡 青豆を茹で、皮とあま皮を去り、白砂糖を交ぜて煮つめる。
 塩餡 食塩を加えて味をつける。
 飴餡 水あめを加えたもの。
 小倉餡  大納言小豆を潰れぬほどに()で、そのまま蜜に漬けて煉り合わす。
 栗餡 ゆでくりを刻み、蜜漬にして煉り合わす。
そのほか、味噌あん、胡麻あん、何々あんでも、前の如くして煉り合わせるのである。



最終更新日 2005年12月27日 01時54分18秒

林春隆『野菜百珍』「一九九 塩梅の話」

一九九 塩梅の話
 食味の塩梅(あんばい)は、皆人の病気の時にあんぽいが悪いという如く、食味の加減が不調であると同じく、(のど)のひりつくような辛いものや、おくびの出るような苦いものや、胸につかえるような甘いものや、唾の湧くような酸いものや、口をしがめるような渋いものを、何らの変化もなく食膳に上して、これを人に進めると、誰でも(ひも)じい時に不味(まず)いものなしというが、こうした五味の調のないものは決して食えるものでない。それを()いて食うと料理の塩梅が、遂に人体のあんばいに及ぼして病気をなすのである。往昔シナが料理人を食医の官に進めたのも、よく飲食を理解した賢明な政策であるといわねばならぬ。
 塩梅の語は上古、塩と梅肉をもって調味の料としたのであるが、今日の如く、人類の飲食品が複雑して来た時代は、ことさらにこの調味の加減を厳密に研究しなけれぽならぬ。
 食通国の仏蘭西(フランス)では料理の味を()く専門家があって、宴会に出て一々その御馳走を失敬してお毒味をやって批評する。いわば舌を資本として世を渡る職業者がある。シナの食味国人が、一器混食して、その味覚を均一に働かそうとするのも、畢竟、調味の向上した料理の発達にもとつくものである。例えぽ一つの汁や吸ものにも、甲は甘いといい、乙は辛いというような日本料理のあやふや(、、、、)な塩梅では、味楽の得るところは何であろう。
 そこで諺にも、人間もしお踏みといえば、料理の美味も不味も塩加減にある。塩、醤油、味噌の三加減が最も大切な要素であるが、そのほか、酢、砂糖、酒、味淋(みりん)、辛味、香味、浸し加減、煮加減、()き加減、()で加減なども、この塩梅を支配する料理の骨子である。



最終更新日 2005年12月27日 10時13分44秒

林春隆『野菜百珍』「二〇〇 朝草の話」

二〇〇 朝草の話
 あしたぐさは、鹹草、一名「あしたば」、海辺に生じ、根は牛蒡(ごぼう)に類し、葉はししうどに似て大きく、厚く光って淡緑である。茎より黄液出づ。仲夏、枝の梢に白花を開き、細くして傘の如く、この草は植えてのち二、三年を経て根の長大となるを待ちて食用にする。
 古来八丈島の住民これを常食として糧の補いとするよし諸書に見ゆるも、またある書に「八丈島に朝草あり、今日種を蒔いて明旦萌生す、故に名く。根は蘿箙の如く、葉は前胡(みつば草)に似たり、香気水芹に類せり、島人常に之を食して疱痘を患はずといへり、本草に曰く、扶桑の東、女国あり、鹹草を産すと之れなり」とある。また一書に、「さきくさ(蕩)の名あり、数茎土際より生出て各三葉に分るるものなり、防風に似たり」とある。
 また「文献通考」に「女国在二扶桑東千里一食二鹹草ことあるを合わせ見るに、宿根草とすればあしたくさ(、、、、、)の名に通ぜず、この説の如くなれば、豆もやしの如きものにて、暖地の海辺に播くものと見られる。この草伝えて補食ともならば、地方識者の慈教を俟って再記するであろう。



最終更新日 2005年12月27日 13時45分42秒

林春隆『野菜百珍』「二〇一 小豆の話」

二〇一 小豆の話
 あずきは、実の大豆より小さきもの、しょうず。赤小豆、白小豆、黒小豆、緑豆(やえなり、ふんどう)など、専ら赤小豆の称である。
 豆菽類に属する穀物の一。夏種を下し、秋に収める。高さ尺余、枝葉ささげに似て小さく、実赤くして黒味あり、赤小豆に二種あって、小さきは早熟して夏あずき(麻熟)といい、大なるは秋熟して秋あずきという。また蔓生のものに蟹眼豆というのがある。赤色小豆には、大粒、西京、薄色、大納言、剣先などの種類がある。
 その用途は、赤飯、餡、晒餡、甘納豆、菓子の材料として最も必要なものとし、夏季の氷金時、亀山善哉、蜜まめなどにして間食に用いられる。
 あずき料理に土佐鰹(、、、)というのがある。まず小豆一合をよく洗い、水三合ほどに湯煮し、その煮汁を取り置き、次に葛十匁、小豆一合を入れ、食紅を少々鍋に入れて火にかけ、白砂糖少々味をつけ、かたく練りあげ平皿に取り置き、練りのこりを鍋に少し残し、さらに食紅を加えて血合を作り、それを手早く平皿の小豆の中に血合になるように入れ、よく冷してのち血合のまん中より切り、刺身の如くするのである。その他各条に調理出づ。
 蕪村の句に「藪入の夢や小豆の煮えるうち」と、粟飯の一炊の夢に対しておもしろい作である。
     小  豆     銅  脈
   民間雖二久下幻 大小納言名。
   餅著称二篩粉司 汁焼日二従兄司
   食時喚二狐飯鱒 菓子作二羊羹司
   貧乏公家癖。 尋常赤裸威。



最終更新日 2005年12月27日 14時48分36秒

林春隆『野菜百珍』「二〇二 甘葛の話」

二〇二 甘葛の話
 あまずらは、「和名抄」に千歳藥、阿末都良とある。蔓草にて深山に生じ、(つる)の根より細き根を出し、他の樹にっく、梢の小さき花集まり開きて傘の状をなす。色白しり
 古はこの蔓から液汁をしぼって砂糖の代用としたものである。その味あまざけの如し。また葉を煽じて、煉って餡の如くして食物に和して甘味をつけたものである。四月の灌仏会に用いる甘茶は木あまちゃ(土常山)の葉である。一茶の句に、
   永日にかはく間もなし誕生仏
   雀子もおなじく浴る甘茶かな
   水ざぶり仏なりやこそ天窓から
 この時の甘茶を、庭園その他不浄の場所へ撒布すると除虫になるといい伝える。またこの日、左の歌を便所に貼る習慣もある。
   としことに卯月八日は吉日よかみさけむしのせいばいをする



最終更新日 2005年12月27日 16時37分17秒

林春隆『野菜百珍』「二〇三 粟の話」

二〇三 粟の話
 あわ(粟)は、インドが原産地でわが邦にても神代の頃より栽培せられた、五穀の一として最も尊重される食糧である。粟は苗も葉もきびに似て、一根一茎にして一穂を出す。大粟、小粟等の種類多く、早、晩、粳、糯の品がある。大粟は穂大きく長き毛あるをもって毛粟と称し、毛に赤と黒との別あり、粒は粗く小粟と共に黒白赤の三種で、白きは餅とし、黄なるは飯とする、これを粱という。小粟は穂やや少く粒も細かく、これを粟といい、もち粟は粘りあるもので秣という。
 粟は粟飯のほか、菓子及び醸酒の原料となし、もち粟は粘り強く赤飯に混じ、また餅に()きて佳味あり、餡の原料とする。今も山間の僻地において常食とし、米飯に比して不消化なるも、滋養分は(まさ)る。粟の飯を年久しく食えば生命を延ぽし、(かゆ)にして食えば体を温め、腎気を補うとて老人は嗜好する穀食である。粟の洗い汁、またその粉末で瘡毒を洗滌すると熱去り、ことにひぜん(、、、)その他の黴菌(ばいきん)を減殺する効がある。
 それで粟は二度収穫ができるもので、夏粟は三月より五月まで()き、秋粟は六月下旬より七月上旬までに蒔く。
 丹波地方に粟の一種で、あおやぎというものは、狗尾草より改良したものかといい伝えるが、この草は原野に多く生じ、苗葉ともに粟に似て穂も粟の如く、その穂が(いぬ)の尾に似たるより犬子草の名がある。児童はこれで蛙を釣りて戯れとする。「ゑのこ草おのれと種のあるものを、あはのなるとは誰かいひけん」と、この歌は阿波の鳴門が鳴動した時、和泉式部が詠じてそれを止めたといい伝えるのである。
 俗に欲張ったことをするを、濡れ手で粟の(つか)み取りというが、例の銅脈先生の詩に、
   生来雖小粒。 五穀例同看。
   飯色黄金熟。 餅光淡味恢。
   風情粟切麗。 名物岩興讙。
   世上人強欲。 手乾掴取難。
 粟の調理は粟むし、粟羊羹、粟切など淡味なものがある。


最終更新日 2005年12月27日 22時58分54秒

林春隆『野菜百珍』「二〇四 甘蓴蘇の話」

二〇四 甘蓴蘇の話
 あまどころは、一名えみぐさ(萎雛)。宿根草にして春山に生ず。茎高さ尺より五尺に至る。形、鳴子百合(ゆり)に似て、ただ茎粗大にして三稜ある。
 本は紫、末は青く、節は紫黒、葉は互生して楕長、細き縦道あり、質強く光らずして白みあり、実の形も鳴子百合に似て、根白く横に這う。長さ尺余に及ぶ。味甘く、生にて食うのである。



最終更新日 2005年12月28日 00時30分55秒

林春隆『野菜百珍』「二〇五 亜麻の話」

二〇五 亜麻の話
 あまは、一年生の草で、茎は直立して高さ三、四尺に至る。葉は互生し、夏花を開き、紫碧色で房を垂れ美しき花である。
 房の中に数十子を包み、茶色の薄き扁く一分ぽかりのものにて、これを薬用とし、また油をしぼる。茎の皮は績ぎて糸とし、また布どする。一名ぬめごま。



最終更新日 2005年12月28日 01時44分37秒

林春隆『野菜百珍』「二〇六 藜の話」

二〇六 藜の話
 あかざは、野生の一年草にして若葉の赤きよりの名とする。葉は後に緑となり、茎の高さ四尺、秋に穂をなして粒の如き花を開く。色緑なり。
 その種類に「まるばあかざ」、「あおあかざ」、「かわらあかざ」などがある。皆嫩のうち和えもの、汁の実、浸しものとして食す。あかざは乾して杖とする。
 芭蕉の句に、
   やどりせん藜の杖になる日まで



最終更新日 2005年12月28日 13時45分31秒

林春隆『野菜百珍』「二〇七 杏の話」

二〇七 杏の話
 あんずは、宋音にてあるいは杏仁ともいう。古名「からもも」、甜梅の異名がある。
 幹枝葉ともに梅に似て肥ゆ。花は紅梅についで開く。形やや小さく淡紅、花の後に葉を生じ、梅に似て大きく花の八重なるに実なく、花杏という。花の一重なるは実を結ぶ。梅に似て大きく、味甘酸く、熟して黄なり、これを金杏という。また実の形大きく、黄白色なるを白杏という。上品である。花の八重なるを俗に六代と名つく、それは平重盛の孫六代君が年長じて斬られしよりの名で、この杏も長ずれば伐るゆえに六代と称したのである。また別種に杏梅というのがある。花一重にして淡紅、杏花に似て、実も酸味少くして(あんず)の如きものである。
 杏は桃に接ぐと味甘く、梅に接ぐと酸く、根のあさきものゆえ、株根の土に石を置くと実が多く生るといい伝える。
「新撰六帖」に、
   いかにして匂ひそめけん日の本の我国ならぬからももの花
 貞徳の句に、
   しをるるは何かあんずの花の色
 シナではこの杏の花を雪に擬し、妓女にくらべ、常に桃源に比して多くの韻事を伝える。また斐晋公が午橋に別業を営み、杏百株を植えて砕錦坊と名づけたなどの故事もある。
 さて調理は、杏仁水、ジャム、杏糖、杏饅頭、乾杏など。



最終更新日 2005年12月28日 14時42分02秒

林春隆『野菜百珍』「二〇八 甘菜の話」

二〇八 甘菜の話
あまなは、葉は水仙の如く、高さ三、四寸、両葉の中より茎を出し、稍に白花を開く。また一、二尺に長ずる異種がある。根は水仙の如く、山慈姑(やまくわい)の名がある。



最終更新日 2005年12月28日 15時24分42秒

林春隆『野菜百珍』「二〇九 甘海苔の話」

二〇九 甘海苔の話
 あまのり、一名紫海苔。冬、海中の石につきて生ず。生なるは緑黒にして、乾くと紫黒になる。あるいは生にして乾けぽ紫となるものもあって下品である。この種にあさくさのりの如き、最上のものも生ず。



最終更新日 2005年12月28日 16時08分32秒

林春隆『野菜百珍』「二一〇 巴旦杏の話」

二一〇 巴旦杏の話
 あめんどうは、一名寿星桃の異名がある。
 印度(インド)地方より舶来した杏桃の類で、核の状は杏より大きく黄である。その仁を薬とし、果の味は栗に似ている。



最終更新日 2005年12月28日 17時14分15秒

林春隆『野菜百珍』「二一一 あおさの話」

二一一 あおさの話
 またあめのから(、、、、、)という。緑色藻類に属する海藻で、八、九月の交に繁茂す。青海苔に交ぜて緑
苔を製して食用に供せられる。味は可ならず、生のまま刺身のつま(、、)に用う。またかわあおのり(、、、、、、)の一名で、石蓴という。



最終更新日 2005年12月28日 23時29分14秒

林春隆『野菜百珍』「二一二 ありのみの話」

二一二 ありのみの話
梨の異名で、なしに通うを忌みて(あり)という。即ちあり(、、)の実である。また山梨の一種ともいう。



最終更新日 2005年12月29日 00時32分43秒

林春隆『野菜百珍』「二一三 あおうりの話」

二一三 あおうりの話
 しろうりの皮の青いもの、光りて青色ある瓜の名、越瓜より後れて出る。もみうり(田鶏瓜)またまるづけうり(、、、、、、)の名もある。



最終更新日 2005年12月29日 01時11分54秒

林春隆『野菜百珍』「二一四 藍茸の話」

二一四 藍茸の話
 あい色の(きのこ)で、上野(こうずけ)の山中に生ず。はつ茸の一種、備前、備中にも産す。



最終更新日 2005年12月30日 00時25分17秒

林春隆『野菜百珍』「二一五 青豆の話」

二一五 青豆の話
 大豆の一種、粒大きく色淡緑なるもの、多くはきな(、、)粉とする。あおはだ、あおばたの名がある。



最終更新日 2005年12月30日 01時17分19秒

林春隆『野菜百珍』「二一六 和物の話」

二一六 和物の話
 あえものは、酒の肴にも、飯の菜にも、また茶うけにもなる、ちょっと気の利いた食品である。ことに日本料理においてのみこの()えものの特色を認められるのである。
 その調理は一般家庭でも知られるところであるから、ここにはその種類の一班を述べる。
 胡桃あえ くるみを()りて(たね)の口を開き、これを割って仁を出し摺鉢(すりばち)で摺りつぶし、醤油、味噌、砂糖を加え、よく摺りまぜて材料を和える。
 胡麻あえ 胡麻を炒り熱いうちにすりつぶし、醤油、砂糖を加えて和える。また胡麻味嗜は、醤油なしで、砂糖と白味噌また赤味噌を加えてすり合わす。
 蓼あえ たでの葉をしごき飯を少し入れ、すりつぶし、白味噌、味淋を加え、出汁(だし)でのぼして和える。
 辛子あえ からしを練ってすり鉢に移し、よくすりて砂糖、醤油を加えてまたすり合わし和える。辛子味噌は白味噌を加える。
 山葵あえ わさびをおろし、前の如くする。
 黒あえ 黒ごま、焼昆布、赤味噌すり合せ。
 白和え 白味噌、焼どうふ少々、白ごまをすり合わせ、一度()したるを鍋に入れ、出汁を加えて煮つめて用いる。
 青あえ ほうれん草をゆでて摺りて漉し、白味噌と等分に合わせ、葛少々入れて出汁でのばす。
白砂糖を加えて和える。また挽茶、からし菜なども用う。
 梅肉あえ 売店で求めるがよし。
 木の芽あえ  たでの如し。
 海苔あえ 海苔(のり)を火取り、うらこしにして白味噌にすり合わせ、砂糖を加えて和える。
 鉄砲あえ とうがらしを味噌に入れたるもの。
 そのほか南京豆あえ、山椒味噌あえ、雲丹(うに)あえ、ぬたなどは常の如くする。



最終更新日 2005年12月30日 14時36分28秒

林春隆『野菜百珍』「二一七 醴の話」

二一七 醴の話
 あまざけは、「和名抄」にござけ(、、、)と称し、応神天皇の時より始まる。彼の摂津伊丹に酒部を置かせられし造酒と共に、この製法は伝えられたもので、秋季各地の神事に甘酒祭を行うは、古来伊勢神宮にて新嘗(にいなめ)の御祭の時、南勢地方の民家はいずれも(ヘヘ)かえとて、()日の火を新たに(あらた)めるため一日火を焚かず、家中に塩を撒いて清浄にし、その後飯を炊いて醴を作り、翌日これを大神
に供え奉るより始まる。この古風を諸国に伝えたもので、一夜酒と称し、句に、
   呑め遊べこの世は仮の一夜酒
 昔は六月朔日より七月晦日まで、毎日これを奉ること、また忌火の供御は宮中でも行わせられることで、歌にも、
   幾千代もたへずそなへん六月のけふのこざけも君のまにまに
とある。一茶の句に、
   甘露ふる世もそつちのけ一夜酒
   神代にもあらじ一夜にこんな酒
   神風の吹や一夜に酒となる
などの句は皆、神事と醴のことがよく表現されている。蕪村の句には、
   御仏に昼備へけり一夜酒
と釈尊に酒を供えることを皮肉っている。
 甘酒とお多福はどうした縁か、きっと甘酒屋の看板に、お多福の顔が書いてある。それは交化の頃、大阪の難波橋南詰に美しい女が甘酒店を出した。この女は元桜木という太夫であったから、その(なまめ)かしい姿が人目をひいて、市中の評判となって遂に絵姿を板行した。その賛に「花はむかし名は桜木の一夜酒」とある。それが後に甘酒の看板にお多福を書く風俗となったのである。



最終更新日 2005年12月30日 17時29分08秒

林春隆『野菜百珍』「二一八 荒布の話」

二一八 荒布の話
 あらめは、褐色藻類に属する海藻にして黒菜と称する。海底の石に付着して生じ、一根より叢生して長さ四、五尺に至る。毎年春秋に採収し、乾燥して貯うのである。
 この荒海(あらめ)布を正月元旦の料に用いることは古い風習にて、土佐日記にも元旦に荒布(あらめ)を得ざることを載せ、奈良の民俗に、元日の喰積(くいつみ)にあらめと牛蒡とをひとつに煮て、め牛蒡と名づけ、戸ごとにこれを設くるのも昔の遺風であろう。すべて海藻は草木に先だちて芽を出すより、芽出という詞をもって目出度とも愛度とも称し、いずれも草木の芽を出すに因って、一陽来復して甦生したる如き正月のこころを祝するので、屠蘇の仮字と同じ意義である。
 国常立尊(くにとこたちのみこと)を祭る豊前隼部の社で行う()(かり)の神事も、元朝の寅の刻に海底より和布を刈って神饌に供するのである。正月、大福茶に昆布と梅干を入れて服するのもこの遺風である。世に襤襖(ぼろ)を着た貧しい人をあらめの行列だなどと嘲るが、あらめはこうしためでたい瑞藻である。
 さてこの調理は、野菜と煮合せ、三杯酢、辛子和え、汁の実、甘露煮などにするのである。



最終更新日 2005年12月30日 18時55分27秒

林春隆『野菜百珍』「二一九 薊の話」

二一九 薊の話
 あざみは、野生の草にて春の初め、葉は地に就きて生じ、(とげ)多し。春の末三、四尺の茎を出し、
また刺あり、のち花を開く。(がく)も刺ありて花の色紫にて美し。
 人家に植うるものは花薊、眉刷薊(まゆはきあざみ)などいいて、花は紅、白、紫、黄なるもの種々ある。その花の形、婦人の用いる眉作りの如きより、眉作の花とも称すゐ句に、
   遠山も二つ揃うてまゆ作り
 また(とげ)多きゆえ千針草の異名がある。野生のものは、(わかば)を摘みて浸しもの、(さい)、汁の実などにして食す。
 また朝鮮あざみと称する野薊の一種は、その蕾球、蕚片(がくへん)の一部または蕚心を食用とし、生食ま
たは瓣で・種々に用う。美味である。また葉骨を食うに牛蒡(ごぼう)の如き香味がある。しかし、薊に胡
椒は忌む、といい伝えている。
 また薊に、鬼あざみ、野あざみ、狐あざみ等がある。



最終更新日 2005年12月30日 20時38分15秒

林春隆『野菜百珍』「二二〇 近江蕪の話」

二二〇 近江蕪の話
 おうみかぶら(九英蔓菁)、滋賀大津辺に産す。根円く扁、径七、八寸、根の先に三尾ありて(かなえ)の如し。故に、すわり蕪の名がある。()



最終更新日 2005年12月31日 00時00分59秒

林春隆『野菜百珍』「二二一 油菜の話」

二二一 油菜の話
 あぶらな(芸薹)、単に菜とのみいう。秋分に種を下す。春の末黄花を開く。菜の花。夏、実熟す。菜油、油をしぼる(種油)。(とう)()けざるうちに食用とする。(前出)

(「前出」はであろうか)



最終更新日 2005年12月31日 09時58分02秒

林春隆『野菜百珍』「二二二 あかかがちの話」

二二二 あかかがちの話
(に同じ)



最終更新日 2006年01月03日 01時04分43秒

林春隆『野菜百珍』「二二三 赤大根の話」

二二三 赤大根の話
(紅蘿蔔。葉、根、花とも紅のもの)



最終更新日 2006年01月03日 01時22分43秒

林春隆『野菜百珍』「二二四 赤菜の話」

二二四 赤菜の話
(紫菘、近江日野の産。赤蕪に似たもの)



最終更新日 2006年01月03日 17時40分15秒

林春隆『野菜百珍』「二二五 豆赤土の話」

二二五 豆赤土の話
(常陸太田に産する。烟草の一種)



最終更新日 2006年01月04日 11時59分09秒

林春隆『野菜百珍』「二二六 秋ぐみの話」

二二六 秋ぐみの話
(野桜花の一種。児童の嗜食するもの)



最終更新日 2006年01月04日 15時58分04秒

林春隆『野菜百珍』「二二七 秋田蕗の話」

二二七 秋田蕗の話
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最終更新日 2006年01月05日 01時59分04秒

林春隆『野菜百珍』「二二八 秋桃の話」

二二八 秋桃の話
(秋に熟する桃の実。味ことに美なり)



最終更新日 2006年01月05日 02時18分21秒

林春隆『野菜百珍』「二二九 あんざんじゅの話」

二二九 あんざんじゅの話
(含生草と称し、熱帯地の産。安産に効ありという)



最終更新日 2006年01月05日 02時51分27秒

林春隆『野菜百珍』「二三〇 飴の話」

二三〇 飴の話
 あめは、甘いものを代表して、人を甘く見ては飴を(しやぶ)らすといい、子に甘い親は宮詣りのお土産に必ず、千歳飴(ちとせあめ)を買って帰る。この千歳飴は江戸の風俗から移ったことで、元禄の頃浅草に千年の七兵衛という飴売りが三千歳飴、寿命糖と称して、小うたを唱いながら江戸の市中を売り歩いた。その文句に、
 「千年千年、三千年、これはめでたき寿命糖、松に花さく、春はいつきた事ぞと七つ子が、里のおきなに東方朔、また浦島が長命も、このあぢはひの徳とかや、いざめせめせ、長命糖」
と、この歌は土佐節の浄瑠璃にもうたわれ当時流行したもので、この飴やは、その日の売りだめを皆酒に代えて飲んだという奇人であった。そののち神社の境内に千歳飴と称し、長い袋に入れて売り弘められ、また飴売りが笛を吹いたり、太鼓や鐘を叩くこともその後に流行したものである。
 今は諸国の名物にこの飴は、饅頭、煎餅、何々餅、羊羹などと肩をならべて売り弘められるが、飴の名をつけて名高いのは熊本の朝鮮飴と越後の笹飴ぐらいのもので、朝鮮飴は例の清正が凱旋の時に、重二貫という銭勘定のような名の朝鮮人を連れて帰って、この飴を製造させたのが始まりで、この朝鮮飴の名も、地黄煎飴から移したことで、清正もちょっと甘く見られて、地方土産の商標に失敬されたのである。
 この飴売りの笛や太鼓は古くよりある風俗と見えて、「鄭箋」に「簫編二小竹管一如二今売鯣者所レ吹一也、管レ箴而吹レ之」とある。また飴売りの傘も、「後撰夷曲集」に「笠さいて出せる箱におくあめの白きを見れば粉ぞふりにける」とある。また飴はわが国でも上古より用いられ、「日本書紀」神武天皇東征の御時、神を祈りたまう御詞に「われ今当(まさ)八十平瓷(やそひらか)を以て水なく飴を造らん、飴ならば則ち我必ず鋒刀の威を仮らずして()ながら天下を平げんと、則ち飴を造り給ふに即ち自ら成る」とある。今も水なし飴の名物がある。もっとも飴は、わが国上古より調味料として甘葛(あまずら)の液汁と共に用いられたもので、いまに節分の日に神社詣でに飴をひさぐも古い習慣である。
 さて飴は通常、糯米(もちこめ)麦芽(ばくが)とにて造ったもので、多量の麦芽糖を含みて甘味が多い。糯米と粟等で製するものを粟飴と称し、水飴は多く粟製のもので、粳飴にも水飴はあるが、粘質が過ぎて病人などによくない。そのほか、求肥飴(米粉)、翁飴(寒天)、朝鮮飴(白玉粉)などがある。薬飴は地黄煎を混じたるもので、飴のしるが地黄煎に似たるより、遂にじょうせん飴という名になった。
 俗に飴は歯のためにょくないというが、金門歳節に「膠牙鯣取膠固之儀」とあって、餝を歯固めに用いたもので、宮詣りの飴の土産もこういうところから行われた風俗であろう。また鹿肉も歯の毒というが、これは古えは御歯固めに用いられて、奈良の鹿の土産も小児の歯固めのために求めるので、京阪の人が奈良を楢と書いたり奈良の字を名とするのも、その長寿を祝うこころである。
 日蓮宗の日親上人は懐妊中にその母が死亡して、埋葬ののちに生れたので、母の幽霊が京の飴屋で飴を求めて育てたという伝説から京の洛東松原通りに、今でも幽霊飴という名物がある。それと桂飴というのも京の名物で、その飴を禁裏へ(たてまつ)った由緒あるもので、珍しい笠を着て往来し、代々の家の主人を孫夜叉という話もある。
 その他、飴には珍談もあるが、あまり食味にもならぬから省くこととする。



最終更新日 2006年01月05日 17時34分57秒

林春隆『野菜百珍』「二三一 油揚げの話」

二三一 油揚げの話
 お豆腐屋さんの連子に、あぶらげというのがある。この子つれ子のわりに、重宝なもので、その形は三角、四角、長方形などで、見得も容子(ようす)もないが、煮ても焼いても、生でも素直に食味をそそらしめる。その皮を二っに放しても、袋にしても、刻んでも、多方面に変化してよく働くのは、やはり百珍芸のある豆腐の連子であると感心させられる。
 これを俗にあげと単簡に呼ぶが、そのお惣菜の補となること、親豆腐よりも、使い方によると巧妙な働きをする。世間の間抜け者を(とんび)が油揚げをさらったと(たと)えるが、それほど油揚げにも羽根が生えて、飛行機と競争する世の中だ。
 この油揚げはおいなりさんが好物で、赤飯のおそなえものとなって、春の初午から年のくれの鞴祭(みいごまつり)までの御馳走にされる。それで狐に因んで狐ずし、信田(しのだ)ずし、ただおいなりさんといっただけでも、この鮓の名と共通している。ケソケソさんといっても子供は喜ぶ。大阪の(てんま)満の亀の池のいなり鮓は古い名物で、一っ二厘から売り始めたものだが、今では東京、京阪の名代の鮓屋でも、(えび)や鮪のトロと肩を並べて、このおいなりさんは大きな顔をしている。平民宰相といった風に……また大和は油揚げの美味いところで、信貴山(しぎさん)の名物に三角揚げがある。
 さて調理は、
 焼あげ 角のまま金網にて程よく焼き、生姜醤油を二度ばかりっけ焼きにして、炊き立ての飯の菜とする。
 霙あげ 油揚げにざっと湯を通し、小口に細切にして、三杯酢を注け、大根おろしを添えて出す。
 宝袋 油揚げの真中を二つに切り、破れぬように袋にひろげ、それに煮込みたるいろいろの具を入れ、口を干瓢(かんびよう)でくくり、煮汁で煮きあげる。
 含煮 沸湯(にえゆ)で油揚げの油を抜き適宜に切りて鍋に入れ、煮出汁に味淋、醤油を加え、落蓋をして中火にかけ、汁の煮えつまるまで煮しめる。
 付焼 適宜に切りて金あみにのせて中火で焼き、醤油をつけ、さらにあぶりて乾かし、大根おろし、酢と醤油を少し添えて出す。
 田楽 油揚げに沸湯(にえゆ)を注ぎ、ざっと油をぬき、横に二っ切り、裏かえして袋を作り、中に豆腐を湯煮したるを詰め、味噌をつけて焼く。
 春の雪 油揚げ一丁を二っに剥ぎ、裏の地とうふを綺麗に庖丁の背でこそげおとし、油揚げは長さ一寸ぐらいの細く金糸に刻み、こそげ落した豆腐と共にして、別に白豆腐二丁をつぶしてこれに交ぜあわし、醤油、砂糖、塩加減してざっと油で炒りあげ、これに椎茸、銀杏(ぎんなん)()、栗などの小切りにしたるを味付け、交ぜて一度煮きこみ、冷して枠に入れて、好みの形に切る。
 求肥巻 前の具を求肥昆布で巻き、小口切りにする。
 そのほか、もみ瓜、ぬた、おろし大根の相手、野菜の煮あわせ、干菜から煎り、あげめし、あげ丼、信田巻、野干平など、油揚げの姿のままに応用するのである。
   油揚に昆布は村の大法事
     炒豆乳                  銅脈
   胴切成二三四司攻同二五衛門司箱懸生藁透。鍋煮脹顔存。
   上置平松茸。和交刻大根。尋常巡逮夜。坐レ膳仏前蹲。



最終更新日 2006年01月06日 01時54分53秒

林春隆『野菜百珍』「二三二 砂糖の話」

二三二 砂糖の話
 さとうは、一日も日本人から放れたことのないほど、今日では日用の重要品とされて、上戸(しようご)の建てる酒屋の蔵と共に、また下戸(げこ)が建てる砂糖屋の蔵もある。事それほどに菓子王国である日本の砂糖は、台湾という甘庶の豊富な産地がわが領土となったから、下戸党大いに意を強うして可なりだが、この砂糖が内地で栽培されて一般に行きわたるまでは、随分滑稽な話もあった。
「梅翁随筆」寛政板に、
  「砂糖は日本にて植れども黒ざたうのみ出来て白ざたうを製する事、法くはしからず近比(ちかごろ)によりその法を伝授して作るものありといへども多からず、(あまね)く持渡りを通用せし所に寛政七、八年の頃長崎将来の砂糖少く其頃までは一斤三四匁位せしを寛政九年十年のころは値段次第にあがりて、一斤十匁の前後にて売買せり。これより諸国ともに砂糖を多く植る事となつたり、庚申のとし紀州より白砂糖おびただしく出て是より価下直と成。此頃迄江戸に生れたる者が砂糖の葉を見たる人はすくなし」
とある。その頃の落首に、
   砂糖作るなら(とも)から作れ砂糖枯れたらこも(かぶ)
と、当時未だ栽培の法を知らず、農民等はこれを亡国植物の如くおもい、かくは暴言を吐いて顧みなかった。しかるにその前の享保年間に八代将軍吉宗は琉球よりその種を取りよせ、江戸浜御殿の苑内に甘蔗を作らしめて、黒砂糖十四貫五百目を製したという記録もあれば、幕府は国内にその模範を示して大いに奨励したものであった。
 この砂糖の由来を遠くたずぬると、まだ人智の開けない時は、いずれの国でも砂糖の製法を知らず、飴、蜂蜜、木甘茶、蔓甘茶などの液をしぼって甘味を調えたものであったが、そののち印度(インド)よりその製法が伝わり、シナでは漢の時代に知られ、大康年間に印度(インド)より蔗を得たることがある。唐の大暦年間に僧鄒和尚が、初めてその製法を印度(インド)より伝えたものとされている。
 わが国では孝謙天皇の天平勝宝五年に、唐土楊州の鑑真和上が来朝の時将来したといい伝え、「東大寺献物帳」に蔗糖二斤二両三分とある。これ砂糖の旧記に見えた初めであろう。その後また絶えて砂糖の舶載を見ず、ようやく足利氏の中葉に至り盛唐文化の移入し来るより、(しやし)侈の風に長じ、砂糖、蜜糖の類をもって菓子を製したるも、まだ一般庶民の食用としては、甘茶の煎じ汁、乾柿の粉、熟柿、飴、蜂蜜をもって甘味料とした。それより元亀、天正の頃より砂糖の輸入も多くなって、遂に甘蔗の栽培を行い、今日に至ったのである。しかし近世までも山間辟邑(へぎゆう)では蜜蜂を養成して糖料を求め、田舎祭りの餡餅にも柿の皮をもって甘みを添えるなど、古えの風を(まな)びて質素を守るものがあった。
 さて砂糖は甘蔗と称し、蜀黍(もろこし)に似て葉はやや狭く、苗の高さ丈余にして葉互生し、茎太く、竹
の如く、内()ちて皮堅く、(わら)柔らかくとうきびの如し。熱帯地では穂をなして花あれど内地にては花なく、冬根を去り茎を土中に貯えて、春茎を切りて植うれぽ、芽を生じ、専ら茎を採って砂糖を製する。
 冬期に至り熟したる茎より取る砂の如きものを、砂糖と称し、味甚だ甘く、その茎は生にても食う。茎よりしぼりたる液汁に蠣灰を加えて煎煉したるを白下と称し、さらにこれを圧ししぼり、精を取りて再び製煉したるものは、固まらずして色赭黄なるを白糖と称し、その粗製にして色の紫黒なるを黒砂糖と称するのである。
 シナにも砂糖に四品がある、曰く糖霜、糖氷、赤糖、米糖である。糖霜は俗にいう出島で、糖氷は氷砂糖、赤糖は黒砂糖、米糖は白砂糖である。その他、砂糖の副原料に甘藷、玉蜀黍(とうもろこし)、椰子、槭樹(かえで)、甜菜、蘆、粟等がある。



最終更新日 2006年01月06日 02時33分53秒

林春隆『野菜百珍』「二三三 山椒の話」

二三三 山椒の話
 小粒でもひりりと(から)山椒(さんしよう)は、古名を「はじかみ」、また「いたはじかみ」と称し、香辛料として、また春の(わかば)を木の芽と称して愛用せられるものである。雄を花山椒といい、花のみである。雌を実山椒といい、実のみである。実は甚だ小さく円く、嫩と共に採りて食味を助く。熟すると赤く香あり、また皮も刻みて食用とする。秦椒、蜀椒の異名がある。
 シナでは婦人の閨室を椒房と称して、障壁に山椒の粉を塗りこめる習慣がある。これは山椒は湿を除いて温むる故に、婦人の衛生にもというのと、また山椒は実が多いから婦人の多産にかなうという謎で、俗に山檄の粉にむせたら、灰を舐めるか、畳をねぶる(、、、)か、男なら女のふたの女なら男のふんどし(、、、、)を除れぽたちまち治するなどという猥談もあるから、山椒と女性は小粒でも見かけによらぬ、辛辣さがひそんでいるということであろう。
   山里や猫も木の芽もほけいでぬ
 朝倉山椒は但馬の朝倉に産するひさんしょうのことにて、丹波、丹後の隣国にも産す。奥州津軽の産は実大きくして気味優れりという。
   朝倉や木の丸つぶの青山椒
 そのほか、柚山椒、崖山椒などがあれど味美ならず。
 さて、山椒は煮さんしょう、葉と共煮したるを鞍馬漬といい、塩昆布に加えなどしたるは茶清の菜とし、吸くちには必ず輪切りにすること。山椒餅、切山椒などは正月の食傷期に食うべきもの。木の芽和え、木の芽田楽、みな春の景物である。



最終更新日 2006年01月06日 03時12分10秒

林春隆『野菜百珍』「二三四 香藥の話」

二三四 香藥の話
 さぼんは、暖地に産する柑橘の属である。樹葉共に文旦に似て、実の大きさ真桑瓜の如く、形、榠櫨(かりん)に似て、木狭く末ひろく、色は黄白にて、肌粗きこと(ゆず)の如し。皮の厚さ六、七分、なかごも白く皮と共に苦し。沙瓢は十四、五個、各四、五粒の核を有す、味甘酸く、やや苦味がある、砂糖を加えて菓とする。
 京では「じゃがたらみかん」、九州で槲さばん」、伊予で「さんぽう」、土佐で「じゃぽ」、日向で「唐九年母」、四国九州の暖地に多く、紫なるは上品にて甘く朱藥といい、白きは下品にして酸く香藥という。文旦に似たるも味は劣れり。



最終更新日 2006年01月06日 10時24分56秒

林春隆『野菜百珍』「二三五 山帰来の話」

二三五 山帰来の話
 さんきらいは、土茯苓の根である。蔓草にて、春宿根より葉蔓を生じ、葉は竹の葉に似て冬も(しぽ)まず、葉ごとに三鬚あり、葉の間より一蓙を出して二、三十花(むらが)り開く。紫黄の花にて、実はさるとり(和の山帰来と呼ぶ)に似て小さく、実熟すると黒く、根を薬用とするのである。
 さんきらいの異名を禹除粮と称し、昔、禹王、山中に行きて食に採りて粮とし、その余りを棄てし故の名とする。また仙遺粮、硬飯などいいて皆粮に代えて食したるものである。昔はわが国ではこれを健忘剤と称して用いなかったが、近来強精剤として大いに世に行われる。これを服する時は酒及び茶を忌むべしといわれている。



最終更新日 2006年01月06日 12時11分08秒

林春隆『野菜百珍』「二三六 核太棗の話」

二三六 核太棗の話
 シナ種を移植せしゆえ、からなつめという。実の形円く味酸く、秋熟すれぽ食す。仁を薬用とする。




最終更新日 2006年01月06日 13時04分12秒

林春隆『野菜百珍』「二三七 山査子の話」

二三七 山査子の話
 さんざしという。果実は(ぼけ)瓜に似て味また渋酸く、往時はこれを収斂剤(しゆうれんざい)として医薬に供した。



最終更新日 2006年01月06日 22時16分47秒

林春隆『野菜百珍』「二三八 瀰猴桃の話」

二三八 瀰猴桃の話
 さるなしという。その実は食うべし。深山に生じ、その色桃に似て、猿好みて食う。甘味あって生食のほか、乾かして果とする。



最終更新日 2006年01月06日 22時39分01秒

林春隆『野菜百珍』「二三九 珊瑚珠菜の話」

二三九 珊瑚珠菜の話
 (ちさ)の一種にて、茎と葉脈とは紅紫で、花もとうちさに似て、根は細き大根の如し。輪に切ると紅白の渦がある。故に渦大根ともいう。食用とし、また肉類に生のまま添える。



最終更新日 2006年01月07日 00時50分58秒

林春隆『野菜百珍』「二四〇 桜桃の話」

二四〇 桜桃の話
 さくらももは、みざくら、またその果実をさくらんぼという。原産は亜細亜(アジヤ)なるも、現時盛んに産出するものは、欧米諸国の改良種にて、その種類はすこぶる多い。内地でも奥羽地方にて多く栽培されている。その果実美しく芳香甘味にして、多く生食するも、また桜酒を醸して飲料とする。
 桜桃の元木を、山桜、吉野桜、彼岸桜などの砧木に芽接(めつぎ)して栽培するも、また元木のままに栽培することもある。普通一重桜の実を、熟すれば生食し、また塩漬にすることもある。



最終更新日 2006年01月07日 01時18分48秒

林春隆『野菜百珍』「二四一 石榴の話」

二四一 石榴の話
 ざくろは、また、じゃくろと称し、古来漢方の医薬に用い、その皮を焼いて久瀉久痢に時効あるものとされた。
 その果実を食用にすることも最も古く、往々旧記録にも載せられてある。石榴は枝葉繁茂するゆえに、本紅千葉、白千葉、黄千葉などと称し、花の一重なるに実を生じ、その実に甘きと酸きがある。甘きもの歯を損じ、肺疾の人は忌むべく、酸きものは薬用となる。これを果石榴という。実の色の白きを水晶石榴といい、花の八重なるは実なし、花ざくろと称する。
 句に、
   実のいらぬ文や言葉の花石榴
   眉黛奪将萱草色。 紅裙妬殺石榴花。
などと石榴は妖艶なものとされて、菅公が石榴を食って火を吐いた説などがある。
 で、火石榴というのもあって、その中子が三十八子あるので異名を三十八と称し、その実の割れ裂けた形が火焔を吐く如きより、鬼子母神にもこれを供える。それは石榴の味が人肉の味に似たというので、人の児を取って食う鬼神に、この石榴を与えるという仏説から出たことで、一茶の句に「我味の石榴へ()はす虱哉(しらみかな)」というのがある。



最終更新日 2006年01月07日 02時14分17秒

林春隆『野菜百珍』「二四二 虹豆の話」

二四二 虹豆の話
 ささげは、大角豆と書く、俗にささぎというは訛りである。その(さや)が上に向い捧ぐる如きをもって名とする。またこの豆は必ず並びて生ずるゆえ虹豆といい、虹はならうの訓である。また鋒蠖とも書く。
 小豆に属するもので、菜としても果としても、穀中上品なものである。原産地は東印度のもので、立夏前に種を蒔く。花に紅白がある。夏の末、莢の若きものを食う。子実は飯に交え、また餡につくりなどする。虹豆に二種ありて、莢虹豆は莢の長さ一尺二、三寸にもなり、莢のまま食するに適し、これを十六虹豆、裾帯豆ともまた不老ともいう。歌書に不老草の名がある。
   虹豆こそひげ髪黒く皺をのぶ不老草とも是をいふらめ
とあれば、毛髪をやしなう効があるものと見える。また畑虹豆(実取ささげ)は莢短く豊満にして、子実は赤色となるを金時ささげ、斑色なるを奴ささげ、白色を白ささげというのである。
 その調理は、青煮、煮ひたし、浸しもの、和えもの、ささげ飯、餡などにするのである。



最終更新日 2006年01月07日 02時51分36秒

林春隆『野菜百珍』「二四三 笹茸の話」

二四三 笹茸の話
 ささだけ、竹林に生ずるもの、食用にする。



最終更新日 2006年01月07日 03時33分30秒

林春隆『野菜百珍』「二四四 ささぐりの話」

二四四 ささぐりの話
 小さき栗、しば栗に同じ(茅栗)。



最終更新日 2006年01月07日 14時08分08秒

林春隆『野菜百珍』「二四五 三度栗の話」

二四五 三度栗の話
 柴栗に類して年に三度(みの)るもの。



最終更新日 2006年01月07日 15時19分49秒

林春隆『野菜百珍』「二四六 さんやくの話」

二四六 さんやくの話
 山薬は(やま)(いも)の異名。



最終更新日 2006年01月07日 16時06分11秒

林春隆『野菜百珍』「二四七 さももの話」

二四七 さももの話
 麦の生ずる頃に熟する李(麦李)、また夏の半ばに熟する桃(五月早桃)。



最終更新日 2006年01月07日 16時37分40秒

林春隆『野菜百珍』「二四八 西条柿の話」

二四八 西条柿の話
 さいじょうかきは伊予西条の産、つるし柿として最も甘味である。



最終更新日 2006年01月08日 17時26分03秒

林春隆『野菜百珍』「二四九 猿柿の話」

二四九 猿柿の話
 渋柿の一種、形小にして(むらが)り生ずるもの、ころがき、千成柿、山柿、猿棗、しなのがき(“’一名、いぬびわの一名である。



最終更新日 2006年01月08日 17時57分01秒

林春隆『野菜百珍』「二五〇 ざろんの話」

二五〇 ざろんの話
 梅の一種、座論梅という。一朶(いちだ)に数花を開くものを花座論という。鴛鴦梅。一花に数実を結ぶものを実座論という。品字梅共に一重八重、紅白の数種がある。その名は花実ともに群がりて、人のこぞりて座を争うに似たるよりの名である。



最終更新日 2006年01月09日 01時12分43秒

林春隆『野菜百珍』「二五一 さいかちの話」

二五一 さいかちの話
 皇角子の訛りで、皀莢樹の子である。この実と樹の(とげ)を薬用とし、その(さや)は物を洗い汚れを去る用とする。その莢の(わか)きうちに採りてよく茹でて、小口切りとし食するのである。



最終更新日 2006年01月09日 01時48分05秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」1

二五二 酒の話
   世の中に、酒と女が、なかりせば、人の心は、虚気なるらむ。
 さらば、世界の酒神バッカスにもマイナットという女性崇拝者が付属である如く、わが国でも木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が、狭名田(さなだ)をして天甜酒を醸さしめ、その後神功皇后もこの酒を造って凱旋を祝された。その時皇子と武内大臣が歌うたのを酒楽(さかほがい)の歌と称して、既にこうした飲酒享楽が女性の手によって表現されている。で、女と酒の悦楽は永久に尽きせぬ人間無上の極楽郷である。
 天に酒星あり、地に酒泉ありで、本草すでに酒の名を載せて、黄帝の時にも冠婚燕郷いずれか
酒ならざるはなしで、出雲の国神が、その子八人の少女を七人まで八岐(やまた)大蛇(おろち)生贄(いけにえ)にされて、八人目の稲田姫もすでに(にえ)に取られる時に、幸い罪を得て天降っていられた素蓋鳴尊(すさのおのみこと)に頼んで、その大蛇を退治してもろうた。その時も(みこと)は八饂の酒を八甕に盛って大蛇を呑み潰して尾の剣を得た。それが天叢雲(あめのむらくも)の剣で、後世酒の銘に剣菱というものが俗に鬼殺しと称された。そこで稲田姫は「お酒のむ神真から可愛お酒(あが)らぬ神はない」てなことをうたって、あっさりと握手されたので、遂ににこにこした大黒さまの大己貴神(おおなむちのかみ)を生せたもうた。そのまた大己貴神が三輪大神で、後に造酒の権輿に杉酒屋の浮名を流したもうたのである。
 だから酒は神代からの深遠な歴史をつたえて、王代に至っても皇祖神武天皇は英邁の酒豪にあらせられて、常に東征の時にも、弟猾(おとうかし)をして酒を献ぜしめ、大いに皇軍をねぎらいたもうた。これよりして酒の力は士気を振うものとして、狂歌に、
   望みなら百万騎でも寄せて来い酒の味方のはかりごとあり
 また、
   かもしたる酒の力はもろもろの神のちからもかなふものかは
と遂に超神的な威力を示したが、これは後世呑んだくれの酒の管で、酒は神酒という如く、やはり神祗の古典に因るもので、「日本書紀」に崇神天皇の御世に、国内に悪疫が流行して病死する者が多いので、天皇はこれを憂いたまい、諸神にトって(うらな)田根子(たねこ)をしてその父大物主神(大己貴神)を祭らしめた。七年十一月、大国魂神(大黒天)を祭る始め。ようやく平静になったので、活目(いくめ)という者に酒を(つかさど)らしめて、大神に奉り、また天皇にも献ぜしめた。その時活目は、
   このみきは、わがみきならず、椰磨等(やまと)なす大物主のかみしみき、いくひさいくひさ
と歌ったが、その歌意は、「この酒は、自分で醸した酒でない、大物主の神がつくられた酒である」というので、当時の酒は玄米に果実などを交えて醗酵させたもので、玄米を噛んで壷に貯えるより噛酒(かみざけ)といい、のちに神酒というのもこの遺風であると説かれている。
 このことについて国学者鈴木真年翁は考証して、「この時酒を醸せし所に三輪大神を祭り、日向の神を祀る、その社傍に老杉あり、故に後世酒屋の店頭に杉団を掲げて招牌に用う」とある。この酒帑(さかばやし)という看板については後段に述べるが、大和三輪の酒が最も古い歴史を持つことは、「万葉集」にも、
   うま酒を三輪の(はふり)のいはふ杉てふりし罪か君にあひかたき
とある。この古歌を妹背山の浄瑠璃に仕組み、お三輪が求女を慕う条がある。もっとも三輪の御神体は三輪山で、別に御本殿はないといい伝えられ、あるいは一.一本の杉をもって三木を神酒と称するなどの説も伝えられるが、何をいうても酒の上だから、酔いが醒めたら忘れてしまうようなことが多い。また同歌集に、
   うま酒の三輪の祝の山てらす秋のもみちは散りまくをしも
 今も三輪は酒と素麺(そうめん)を名物としているが、酒はそののち奈良朝の盛事に、その地に移って古く奈良酒の名を成したものである。
 しかし、その頃の酒は、前にも述べたが玄米や果実などを口中にて噛みくだいて、桶の中へ吐きだして醸酵せしめたもので・鋸妨覦妊縁のある例のあ醸けの類に過ぎなかった。美人の真脳酒というのも、こうした製法で古風を遺したものである。
 その後、造酒の法がわが国に伝えられたのは、応神天皇の御時に百済より仁番またの名須々許理(すすこり)(一書に兄曽々保利、弟曽々保利とある)というものが来朝して、大御酒を醸して天皇に奉った。天皇これを聞し召して爽快に御うたいたもう。「すすくりが、かみしみき、われゑひにけり」とある。ここにもかみしみきとあるが、これは(、、、、、)中で噛みし酒ではない加味した酒で、のち転訛して醸すという字を用いたものと見る方が正しかろうとおもう。天皇が韓人の口中に触れたものを聞し召すということは、恐らくあるべき筈のものでない。前にも述べた三輪の話にも活目が大神に奉る酒にも「自分が醸したものでない、これは大神がかみした酒である云々」と恐懼のこころを表している。その頃はまだ韓人よりの製法も伝わっていない時であったのである。
 この造酒の初めて行われた地は摂津の伊丹で、今もその付近に坂部と称する郷名を存している。坂部は酒部で、その韓人に酒看の姓を賜うた故蹤(こしよう)である。またその近郷に多田という地は、大物主大神の御子大田田根子の祖廟地である。多田に満願寺酒と並び称して伊丹酒のあったのは、こうした上古の歴史があるためで、後、(なだ)五郷が酒造の淵源地となったのも、その根拠地に接近したるより発達したものである。
 しかし古昔、灘と称したのは、和泉堺港を中心として、兵庫、淡路島を擁してこれを和泉灘(いずみなだ)泛称(はんしよう)したもので、堺港の酒造は最も古いものであったが、三好、松永の徒が戦乱の巷となって屡次兵燹(へいせん)に罹ったために、ことごとく水質が悪くなった。近来までも堺の酒造家は海上用水を搬入して醸造したものである。で、酒と水質の良否は最も適切を要するもので、池田、伊丹酒等の発達しなかった時は、遠く地方に銘酒を求めた。奈良の天野酒、吉野の柳酒、加賀の菊酒、美濃の滝の水といった風に、今で言えば田舎酒であるが、これを珍重して求めた。それで天野、柳、滝の水という名が、即ち酒の異名となった。近松巣林子の「酒呑童子枕言葉」の大江山の段に、
  「加賀に菊酒、南都に春日井、湯殿の山のつまがくれ、羽黒山の隣しらず、熊野山のほいほい酒、あまた名酒はたべ申したが、かやうの酒はけふはじめ云々」
とある。これらもその辟邑に醸した水質の良い酒を称揚したもので、伊丹のこぼれ梅という味淋粕があるが、この名も「この花」という酒の名で、梅花は星に似て「七つ星」の酒名もあり、また星影の映るほどの名水で醸する意で、その水質の優れた土地の名をもってしたのである。
 この中にも天野酒は、室町時代にも著名であった。加賀の菊酒は、金沢在浅野の庄より産するもので、同地に白菊の淵とて菊花の(おびたた)しく生ずる地の水をもって製したので、この酒を()むと盃の底に菊の文がのこるというのである。謡曲の「安宅」の後段に、「山路の菊の酒をのまふよ云々、なるは滝の水、(たべ)酔うて候云々」とある。それがこの菊酒を称したもので、大和の柳も吉野竜門の山麓で、彼の国栖(くず)の醴に縁のある地方である。今も同地に酒造の旧家もある。
 また吉野山麓の上市(かみいち)という所も造酒家がある。同じ下流の五条にも古い酒家があって、かなり(タノま)い酒が出来る。また伊勢も、南勢北勢ともに酒造家が多く、東京地方へ灘酒と共に過多に輸送される。その他、山間僻地(へきち)では、酒屋という家号を今に存している旧家がある。交通不便の時代に自家醸造をしたものである。
   *          *          *
 古人は酒を解して、
  「此もの、もと祭祀のぞなへとし、地に灌ぎ神を降して、其馨杏の下に達するを取る、これ陰を求むるの儀也。後によく陽を養ふを以て、故に親に奉じ、老を養ふ、また歓びを合するを以ての故に、これを冠婚の礼、賓客の会に用う」
とある。奈良の浅茅酒の製またこの古法に因るものか。それは後段に説くこととして、さて、この神祗に供した酒が漸次竟宴(ぎようえん)に用いられ、雄略天皇の十五年には大蔵を置き、秦造酒を長官としこれを司らしめた。その十五年の後、顕宗天皇の御即位の年三月上巳に、初めて曲水(きよくすい)の宴を催し、めぐり水と称し酒盃をして遊興のたすけとされた。孝徳天皇の大化五年の正月に、元旦朝賀の礼を行い、百官に賜酒の事が始まり、以来民俗に飲酒の風を移したが、これより前、既に飲酒の風教を(みだ)すをもって、大化建元の初めに、革新の政を布かるると共に、禁酒令をも発布された。そののち仏教の盛時、その禁律の故をもって飲酒のことはやや衰えたが、それに代って哀音淫声を導くという(たと)えに洩れず、女悦の風が大いに行われて、上流の淫靡は日を逐うて熾烈(しれつ)となった。藤原氏が擅権(せんけん)百五十年の久しき淫蕩史をのこしたのも、ほとんど酒と女の裏面を描いた絵巻物であった。
 天平の歌人大伴旅人が、
   酒の名をひじりといひしいにしへの、おほきひじりのことのよろしき
 また、
   夜ひかる玉といふとも酒のみて心をやるにあにしかめやは
とまでに、沈湎(ちんめん)(てい)たらくである。しかも光仁天皇は大酒豪で(おわ)しましたから、天下は酒徳をたたえて謳歌したであろうが、その後庶民の奢侈(しやし)を戒めるため、大同元年九月に令を発して京中の集宴を官禁した。しかし親戚一、二の飲楽は許したので、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の歌に、
   つかさにもゆるしたまへるこよひのみ、のまんさけかもちりこすなゆめ
などと不景気なキンシュクぶりを歌うたが、鎌倉に巨頭将軍頼朝が覇をなした時代は、陣中に遊女を入れて、遊君別当などの役人を設け、武士の交わりある中の酒宴かなと大いにヘベれけぶりを発揮したので、曽我の兄弟に寝込を討たれて、褌ひとつで逃げ出すような醜態が演ぜられた。
 当時、泰時の杯、和田の酒盛などといって、酒豪連が日暮し酒戦に興じた。そこで例の緊縮宗の最明寺入道が、延久四年の九月に造酒を禁じ、民家の酒壺一万七千余に封印をして、さらに翌十月にはその酒甕(さかがめ)を破壊させた。その後、弘安四年五月の元寇(げんこう)の役があって、挙国一致民風作興の政策として売酒禁令が行われた。といっても、この酒と女の活動素を人生から取り放すことが出来ないので、北条の末になって田楽で味噌をつけた高時が、九献九骰(こう)という驕奢(きようしや)を極めたのを、楠正成が聞いて北条氏の久しからざるを看破したことがある。
 その後、戦国時代に移っても、甲越の豪傑、上杉謙信も景勝も大の上戸であった。直江山城、石坂検校(けんぎよう)も上戸で、不断相手として酒盛を陣中で始めた。もっとも梅干ぐらいで呑んだことで、その亜流に馬場信勝がある。いずれもこれがほんとの飲道楽家であった。その好敵手の武田信玄もこれに劣らぬ好酒家で、その辞世に、
   四十九年夢中酔、一期栄華一盃酒
と坊主の泣き言のような遺偈(いげ)よりも、あっさりしたすこぶる立派な辞世を残している。



最終更新日 2006年01月09日 02時30分16秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」2

 永禄、天正の頃に、酒を戒める盃と称して「なまきのはこつくり」と盃中に漆で書いたものがあった。生木で作った箱は、いくら巧みにこしらえても木がかれて来ると(ふた)と口が合わなくなるから、いくら心の正しい人でも酒を過すと口が違うて禍を招くという謎で、盃に意見をしられながら酒を飲むための戒めであった。当時の人情の律義さがいかにもおかしいではないか。また一書に「なま木のはこさいく」とあるが、いずれ意味は同じことである。
 酒は百礼これに始まり、千失もまたこれより起る、ただ酒は酔うべくして乱るまじく、楽しむべくして溺れまじきものだといっても、飲んだ酒なら酔わずぽならぬ、酔うた酒なら醒めずぽならぬ、醒めての後の御分別とは、茶屋場で由良之助への意見だが、伴蒿蹊(ばんこうけい)も、
   一つぎの酒におもひをやりてまたなすべきわざによくつとめてよ
とある。
 邵康の節酒の詩に、
   性喜飲レ酒。  飲喜二微酷殉
   飲未二微配殉  口先吟哦。
   吟哦不レ足。  遂及二浩歌殉
   浩歌不レ足。  無レ可二奈何の
とある。また北条時頼の判,百首抄Lに、
   ひが事もなにも酒よりおこるぞと思ひしりつつしん(、、、)をせよ
とある。斟酌の二字はよい戒めである。これは酒のみに限らず、人の礼譲にも、社交の上にも、言語行動にも(もち)うべきことである。晋子其角が「十五から酒を飲みけり今日の月」は三五夜中という字をきかして己が青春情事を解してより、酒興に乗じ、花柳にたわむれしも、その晩年の零落を一句に吟じ得て甚だ妙である。
 花は半開を賞し、酒は微醺(びくん)を程とする。この程がちょっとむずかしいので、たしか備前の岡山に程婆という老女があって、食うことも、仕事も程々にして、葬金を村人に託して、ころりと程のよいところに歿()くなったという話がある。この程というのが、最も酒の上にも用いられると、医は酒の名で、人を養う百薬の長ともいわれるのである。いくら斗酒を辞さなかった李白でも、年中酔っぱらっていたわけではない。その文集に、
   今日北窓下、自而何所為、欣然得三友、三友者為誰、琴罷輙挙酒、酒罷輙吟詩、
   三友逓相引、循環無止時、一弾恆中心、一詠暢四支、猶恐中有聞、以酔弥継之。
と誦して程々に酒楽の興を催していたのであった。俗謡にも、
   酒をたうべつ、五さくのさけを一合たうべて、ゑひいやましぬ
と、酔うて陶然とした気持が目に見えるようである。「書紀」の雄略天皇の巻にも「堅石避酔人」ということがあるから、嗜酒の風俗は古くよりあって、シナの俗語にもこんな泥酔者を、瓶盞病と称して病人扱いにしている。
 さて酒の管もいい加減にして、この酒が今日民間で多く売り始めたのは、ようやく文禄の頃からで、摂津伊丹の酒を諸白(もろはく)と称し、鴻池村(こうのいけ)酒屋勝菴(山中氏)、多田村の満願寺屋、伊丹の猪名寺屋、升屋(坂上氏)など続いて起った。その後、鴻池が雇人の所業から灰を酒桶に投じたのが、今の清酒を醸す動機となって、灰分を混和して清澄することを発見したので、この酒を江戸に売り始めた。その頃までは清酒を諸白と称し、濁酒を片白といい、中汲というのも濁酒の一種であった。シナでも酒を浮白と称して、透明の酒はなかったのである。わが国でも各地に酒造家も出来て、その他自家で造りなどしたが、いずれも濁酒であった。
 この灰分を混合する酒は他にもあって、肥後の熊本に赤酒という銘酒がある。これは加藤清正が飴と一緒に朝鮮から伝えたというので、(けやき)、槇、(まき)、梅などの諸木の灰を混合して清澄した、味淋と清酒の中間の味のもので、今も販売されている。
 この熊本では昔藩主が倹徳であって、華美を戒められて諸太夫にも自国の酒を用いさせて、一切他国の酒を国内へ入らしめなかった。それがため、別に法令も布かないが、自然と美風を移して国内の庶民も土地の酒より飲まなかったという美談がある。俗に酒と煙草は上品を用いるほど付上りをするというから、これは程のよい緊縮ぶりで、また国産奨励のよい模範である。
        *              *                    *
 その昔、伊丹に袋洗いということがあって、酒袋を流れ川で洗うた。鬼貫(おにつら)に「(しづ)の女や袋あらひの水の汁」という句がある。その伊丹の鬼貫を蕪村はまた句にして「鬼貫や新酒の中の貧に処す」と。蕪村はもっとも下戸であったから酒の句はすくない。ただ「あき風や酒肆に詩うたふ漁者樵者」「漁家寒し酒に頭の雪を焼く」など、たまたま自分の描いた画のような句がある。
 この伊丹は好酒家の頼山陽が曽遊の地で、戯れに摂州の歌に作って、
   兵可用、酒可飲、海内何州当此品、屠販豪侠堕地異、貯腹五州水捻々、阿吉不肯捐与人、
   阿藤営宅城加錦、竜顛虎倒両逝波、戦血満地化嘉禾、伊丹剣菱美如何、各酪一杯能飲麼。
とある。
 そのまた山陽が酒家坂上氏のために伊丹酒を讃して、その醇の最なるものを坂上氏の醸造剣菱(けんびし)として、天下の酒価を低昂し、この剣菱に準ずると。当時この地に醸造家が七十余戸あって、江戸に舶載する酒量は、年におおむね三十余万斛であると書かれてある。
 当時酒の伊丹の殷盛(いんせい)であったことを、西村宗因も一夏伊丹の愛宕火を見て「天も灯し火に酔り伊丹の大燈籠」と吟じている。
 この名酒剣菱の向うを張って、享保の頃西宮の山邑氏が正宗と称する酒を売り始めた。これまでは、ただ池田酒、伊丹酒などと称したものが、いずれも星の井、この花、などと銘を打って(こも)をかぶって出るようになった。それで満願寺屋が船積輸送を始めたに対し、鴻池村の酒屋勝菴は自ら例の灰分で澄ました四斗の美酒を肩にして、江戸に下って大名屋舗へ売り込んだ。当時上酒といっても諸白であったが、それが透明な水晶のように芳醇味をもった美酒を持ち込んだものゆえ、下り酒の名は江戸上流にもてはやされて、一升の価を銭二百文という高価で売った。その頃の上酒の値段は一升銭四、五十文ぐらいのものであったから、この酒はただ上流大名たちの飲料にされたが、のち売り弘まるに従って、馬の背に四斗樽二っ乗せて一駄と称して、数十駄輸送することとなった。その後、上方酒として諸方から江戸へ積み込むので、特に樽船回漕問屋が出来て、新堀、新川に酒問屋が数十の軒を並べて、江戸の繁昌をひとしお賑わした。それで天保頃までは江戸でも伊丹酒を最上とされたが、その後、灘目の酒をもって最上とされて、今日に至るも灘五郷が酒の王国となったのである。
 また酒の運上(うんしよう)(課銭)は元禄十一年に始められ、宝永六年にこれを中止されたが、慶応元年に復古して一樽銀六匁ずつを徴された。それが今日、全国の酒造高が五百万石にも及ぶので、その課税は国庫の一大財源となっている。
 ついでに諸白という酒の名は、(こうじ)におおかたに()いた米を用い、飯には最もよく(しら)げた米を用いるのが、常の醸造法であって、麹も、飯も、共に白く春いた米を用いるから、双方が白くて諸白と称したもので、その一方が白く精げてないのを片白(かたはく)と称した。それは酒の品質と気味を分って、価の高下を計ったものである。
 さて次からは、酒を年中行事として、元日の屠蘇(とそ)から大晦日の年越酒まで、笑っては飲み、泣いては飲み、怒っては飲み飲みする、人世酒の世の中の話をつづけることとする。



最終更新日 2006年01月09日 02時53分18秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」3

 一月の巻
   三陽候レ節金為レ勝。  百福迎レ祥玉作レ杯。
 さておめでとうの鉢合せをするお正月は、何といっても酒から始まる。元日の節会(せちえ)には百官に酒を賜い、
   いつしかと袖につらぬる百敷(ももしき)に万代めぐれはるのさかづき
とある。聖上には薬子をして銀器で屠蘇を奉る。このことは嵯峨天皇の弘仁年中に始まり、四方拝ののち御歯固めの御式があって、典薬頭より屠蘇と白散とを献ずるを習いとした。古は除夜にこれを井戸に吊し置いて、元旦これを取り出して用い、その薬滓は井戸に投じたものであつた。そうしてこの屠蘇は文字の如く悪習を(ほふ)って、新しく蘇るという意味である。屠蘇の製法は味淋酒に生薬を配合したもので、山椒、防風、肉桂、細辛(さいしん)桔梗(ききよう)白朮(びやくじゆつ)を各五分ずつ配剤したもので、香りの高い揮発性の薬種であるから、強健養生のために服用する。例の雑煮餅も保臓と称して、足利時代から始まった保健食養である。これを併せ飲食して身心に快感を与える先哲が周到の遺訓である。
 この配合薬の効用を示すと、山椒は解毒駆虫に、防風は感冒を去り、肉桂は健胃強壮都としで古来菓子などの風味香料として珍重される。細辛は頭痛を去り胸を開き、桔梗は怯痰作用がある。白朮は胃の虚弱を補い治するというので、これをアルコール性に溶いて用いるのも、水に溶けない有効成分を溶出して効力を加えるのである。俗に風邪に罹った時に速効散を酒で飲むのもこの理である。
 正月早々から薬の講釈でもないが、酒の飲み始めが、こうした薬効のある屠蘇酒であるから、年中に飲みつづける酒も、この意味で薬になる程度でいただけば、延命長生は疑いないのである。それで屠蘇の袋は俗に(もみ)の絹を三角に縫うが、それは間違いであって、(あかね)の絹を四角に縫うて、大白の糸で結ぶのが故実である。また屠蘇を年少より飲み始めるは、若やぐという心で、老人が生い先の長い年少の盃をうけてあやかる(、、、、)味である。椒酒(しようしゆ)椒觴(しようしよう)栢酒(はくしゆ)も屠蘇酒の一種である。
   数の子に屠蘇の末座を寿(ことほ)がれ
   慇懃(いんぎん)に夫婦辞儀する屠蘇の酒
 昔ながらに夫婦別ある礼儀も、この元日の屠蘇を汲み交して一家は和気に満つ。
 二月の巻
「花のさく木はいそがしき二月哉」と支考の句にもある。この月は中和月とて、シナでも百官群臣を集めて中和の酒宴を催し、わが国でも承和の御時に梅花宴というを行い、天皇紫辰殿に臨御したまい、侍臣に酒を賜い、殿前の梅花を折って、皇太子及び侍臣等はこれを頭に挿して宴を成すのであった。
 梅と酒は詩趣野情に(しんしん)々たるものがある。一夜酒肆(しゆし)でうたた寝をして羅浮(らふ)美人を妻としたなどは、盧生(うせい)が粟飯一炊(いつすい)よりも色気があって洒落ている。
   土器の土性ならば屠蘇の酒ひとつはすごせやまとたましひ
と、そのお屠蘇がすむと、年賀廻りで、往く先々で年酒の御馳走になって、
   生酔の礼者をみれば大道を横筋かへに春は来にけり
と礼服の泥酔者も正月の景物である。
 正月にひめ始めというのも、火水の始めで食うことをまた一年中くり返してやる始めである。来年から禁酒をやろうの節酒しようのといっても、春が来てこの屠蘇を飲み始めたら、からりと量見が違ってしまう。それで人生を有意義にならしめるのである。酒は甦生(そせい)(さきがけ)である。酒は裂けるとも訓して、意気の切裂なるものである。また栄えるともいえば幸福を招くも酒の力である。
   同じことまたくり返すひめ始め
と、一瓢(いつぴよう)を携えて郊外散策も、またよい保養である。
   飲めぬ酒のんで寒がる梅見(かな)
 香りは尽きずして酒はじめて薫る、梅も香を愛し、酒も芳醇(ほうじゆん)の香気が鼻を衝いて来るところに、ひたすら上戸を悦ぽするのである。また酒を久之(くし)というも香の通音である。俗に酒を()くというのも香をきくと同じ詞である。昔、酒造家が新酒の口切に、客を招じて喇酒(ききざけ)の会を催したもので、その時必ず(たこ)を酒の肴に出した。それはよく吸いつくという縁喜を祝したものである。
 また酒樽に杉の(くれ)を用うるのも、木の香を酒に移すためで、昔酒屋の看板に杉の葉を束ね(まり)の如くして釣り下げたのである。これは初めて三輪の大神を祭る時に、酒を醸して供えた故事より、三輪山の杉をもって象徴したものと伝えられるが、醸酒は元この地方より起って、その酒瓶をみわ(、、)と称し、漸次進化して杉材をもって酒桶を製した。杉の灰質が酒を清澄にするより、今も吉野杉をもって瀰榑の最上たるものとされ寂いる。「古今集」にも、
     わが菴は三輪の山もと恋しくば訪らひきませ杉立てるかど
とある歌に証しても、杉と醸酒の関係が、古くこの土地に伝わることが察せられる。また例の一休和尚が、
     極楽を何国のほどと思ひしに杉葉つるせし又六がかど
と人口に膾炙(かいしや)する歌がある。で、酒屋の杉看板は古い習俗であろう。またこれを酒ばやしと称し、酒帑(、、)の字を用いるが、()はさかばたと訓まし、シナでも酒旆という字句が雑書に載せられてある。
 「下学集」に、掃愁帚は酒の異名とあって、酒は愁の玉箒などといい、東坡の洞庭春色の詩に「応呼釣詩鉤、亦号掃愁箒」、注に字後主中酒詩に「莫言滋味悪、一箒掃閑愁」とある。酒旆がしまいに酒箒(さかぼろき)になって、長っ尻の酒客を去らす(まじな)いに、箒を逆さに立てる風俗までが出来たのであろう。
 この尻長酒のついでに酒呑みの癖を一つ話すと、酒のむ人に限って、子供が甘いもの食う嬉しそうな顔をする人は少く、多くは顔をしかめ、眉に(しわ)をよせて、一口飲んで下に置くのが例である。これは狂薬佳味にあらずと戒めた古言の如く、こんな酒呑みに限って悪酔したり、囗論を始めたりして他人を手古ずらす連中である。兼好法師もこれを戒めて、「徒然草」にも「下部に酒飲ますることは、心すべきことなり」といわれたのである。しかし、シナでは昔酒を飲まぬ友を悪友と称し、わが国では酒色に誘う友を悪友というが、そうすると昔のシナ人はよく酒に理解をもって、酒を善用したものと見える。
 三月の巻
 三月はさの字を始めに桜の花見で、酒飲み月である。
 まず月の初めの三日を重三と称し、昔は上の巳の日を上巳(じようし)と称し、この日曲水(ぎよくすい)の宴を催される。これは雄略天皇が初めて造酒の官を置かれて十五年の後、顕宗天皇の元年三月上巳に、後苑に行幸して「めぐり水のとよのあかりきこしめす」と「日本紀」にある。これが曲水の宴の初めで、この宴は、臣下の才をこころみるため、羽觴とて鳥の形したる貝盃((おうむ)鵡盃という)を水に流し、次々に詩歌を作り、その盃の流れて来る間に、吟詠するのである、これを流觴(りゆうしよう)の宴とも称した。
 つぎは桃の節会(せちえ)もわが国ぶりの古い習わしである。雛祭(ひなまっ)りの白酒と共に、桃の酒をととのえる。宮中にてはこの酒に入れられる桃を御酒古(みぎこ)草といい、歌に、
   のむ人や千代をおくらんみきこくさ、かなふごよひの心なりせは
とある。「千金方」に、三月三日桃花一斗一升を採り、井花水(正月の若水)一升、麹六升、米六斗、これをもってよく炊き酒を醸し、これを飲めば(はなは)だよし、とあるが、これはちょっと真似が出来ない。俗に桃花を酒に浸して飲めば、百疾を治し容色を麗しくするというが、桃の花は決して薬にならぬのみか、逆上したり、吐瀉などを催すから、桃の酒はその花を瓶子に添えてかざるのが風流であろう。
   盃に桃の(しつく)や苔清水
   人は十たび酔なは我やももの酒
 また酒飲みの癖にモウモウといいながら呑む人の、
   酌人のこぼるる(ばかり)もるにこそ、はやおきたまへもも桃の酒
   水上の桃の花にや酔ひぬらん波にちらつくさかづきの影
などは面白い狂歌である。また、「夫木集」に、
   天の川きしべの桃や咲ぬらん、空さへ花の色にゑひぬる
 また曲水の日が雛祭りと同じなれば、
   雛酒もただくるくると巴の字哉
   雛の酒皆んな飲まれて泣いてゐる
というのもある。
 さて白酒は東京では山川白酒というが、京阪ではあずま白酒というので、白酒の本家は閉萱かとおもうと、京都が元祖で、例の「重衡」という名の酒を売り出して、奈良の酒より強くて柔味という謎にした京の一条に酒屋があった。これは平重衡が奈良法師を攻めたという、洒落でもない、真面目な歴史を酒の看板にしたもので、当時武を尚びた世の中であって、団子屋の名にも・京勝団子というのもあった。それは曲搗(きよくづ)きだんごの初の名である。
 この白酒の山川というのはちょっとおもい出せぬが、古いこともなければ、例の赤穂義士奉訊の夜討の合詞を取って、雪白の酒というのであるか。今の白酒は味淋酒で糯を磨り潰したものであるが、古く醸された白酒は醴の進化したものか、これを内裏雛(だいりびな)に用いるのも、上古の白酒黒漉に(なう)うたものであろう。
   白酒を汲むや三月三日(みか)の原わきて流るる山川の水



最終更新日 2006年01月09日 15時27分17秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」4

 四月の巻
 濃厚とした白酒の酔もまだ醒めぬうちに、花見の酒宴、今は上巳(じようし)曲水の宴はなくなったが、観桜会は列国の使臣を(へい)して御盛宴を張らせられる。
 昔は花見といえぽ梅花のことであったが、今は爛漫(らんまん)たる桜花をもってわが邦の誇りの花とし、風流豪傑豊臣秀吉も、嵐山の桜を吉野に移して日本花の名称を遺した。また吉野の桜を山城の醍醐(だいご)に移して、山の名も深雪山と改めた。それは花の吹雪を賞したものであるが、一つは太閤がこの花見の大饗を催して、家康、利家等その他の幕僚の胆をひしぐためで、己が威勢に誇る例の狡猾な作略であった。そのため醍醐の山号を深雪と改めたのも、自ら尊上を犯して行幸の音便を()ったもので、彼が久しからずして亡びたのも、こうした慢心の兆であったろう。しかし、足利氏によって建てられた巨刹醍醐を再興して、また軍書に悲しと歌われる花の吉野に、今の景勝を遺したのも彼、風流漢秀吉であった。英雄元より酒色を好むといえぽ、
   酒なくてなんのおのれが桜哉
で、秀吉ならずとも、
   酒を妻つまをてかけの花見哉
と、このくらいの逆上(のぼ)せかたは一年一度の春の遊びに、一日の酒宴に百日の労を忘れる、この自然の享楽すらもようやらない人間は、生き甲斐のない緊縮野良(やろう)である。花より団子と酒飲まぬ下戸でさえも浮かれるこの陽気に、一休も「一盃飲んで寝るが極楽」と悟り、西行も花の下で往生がしたいという、むずかし屋の日蓮も常に聖人(酒の異名)一筒を放さなかった。
 俳人其角の酒に意地きたなかったのは、芭蕉の戒めにもあるが、その芭蕉も、
   飲明けて花生にせん二升樽
   花にうき世我酒白し飯黒し
   月花もなくて酒のむひとり哉
などと、かなり酒に執着はもっていたのである。一茶の句にも、
   鶯の上きげんなり上戸村
   下戸村やしんかんとして梅の花
とある。この上戸、下戸ということについては、種々の説もあるが、秦の阿房宮は極めて高い楼閣であって、この楼上の戸の開閉をする役人は、常に寒気を凌ぐために酒を飲んで昇降した。それで酒を飲むものをこの役人に擬して上戸(しようこ)と称し、飲まぬ者を下戸(げこ)とした。また朝鮮の結婚風俗にも貧富によって酒量を別ちて、上中下の戸ということがある。わが国古代の制にも百姓の上下戸という家屋制度もあれば、こうした嗜欲も衣食住の縁に因んだものであろう。「白氏文集」に「猶言小戸長先酔」という語がある。これを解して飲酒多きものを大戸となし、小なる者を小戸と称し始めたものというのである。
 好酒家の国勢調査でもないが、未丁年者の禁酒法令は、昔も自発的に行われたものと見えて、「海人藻介」に「二十初袴著元服、移徙以下祝の酒肴は必ず三献云々」とある。それが中世から数献を(すす)めることになった。「吉野殿雑事記」にも軍立の九献などとあって、延元帝の無礼講も史上に伝えられる。また後光厳天皇は至って御愛酒であらせたので、常に御酒宴があってその頃、より、五献、七献、九献という数になったのである。

 五月の巻
 この月は祭り月に入ってまた端午の節句である。月の五と日の五をもって重五の節供とも称し、昔は菖蒲を内裏に献じ、また南殿の階段に菖蒲輿をつくる。この日を薬日と称し、薬草を採って調合し、また薬草(よもぎの類)を彩糸で(まり)の如くつくり、これに五彩の(ふさ)を垂らして御柱に懸ける、これを薬玉(くすだま)といい、上臈たちはめいめいこれを作って、その巧拙を闘わすのである。
 これは薬草をたたかわし、その年の悪疾を除くという意味で、これを長命縷(ちようめいる)続命縷(しよくめいる)と称して、呉の美人の西施や、春秋の時の美婦の碧玉等に(たと)えて、その麗華を闘わすに「眉黛奪レ将萱草色、紅裾妬殺石榴花」などと、その薬玉の美しいより美人の裳の紅がちらついて、続命縷も、かえって好色漢の魂を奪って艶殺されるであろうという詩がある。「夫木集」に、
   あたにをくよもきが露もけふあへば、くすりの玉とぬきてとめける
とある。このほかに、蘭湯、菖蒲酒などを飲用する。歌詞に菖蒲は永根と称し、その形が太刀に似たるより、武事に(なぞ)らえて、菖蒲太刀に(のぼり)、武者人形などを飾るも尚武の風俗である。これは最も江戸時代の遺風で、
   十軒は公卿武士の仮りの宿
   菖蒲ふく人形町の軒っづき
などはその頃の句である。
 端午に武事を習いとするは、平安奠都(てんと)に伏見藤の森社に軍旗を納めて武運を祈られたるより始まり、今も六月五日に武者行列の神事を行うのである。(のぽり)鍾馗(しようき)を画くのは薬草の日と混同した俗習で、
   疱瘡の跡をはるかに幟かな
   女の子いひ込めらるる幟哉
などある。菖蒲湯をするために、前夜菖蒲と(おうち)(俗にせんだん)とを屋根に()いて、翌暁これを湯に入れて浴する。
   湯にしても人にひかるる菖蒲哉
 さて、菖蒲酒は石菖を切って酒に浸し、これに雄黄を少し加えて飲用すると、邪気を払うといい伝えるのである。
   盃や箸の下なる菖蒲酒
 昔は五日の節会(せちえ)とて武徳殿に出御あり、群臣に酒を賜わったのである。京の葵祭を始め、各地に競馬、騎射の式が行われるのもこの遺風である。俗に六日の菖蒲というからこの五日に限っての行事は、昔から重き節供として行われ来たもので、
   いかにせん今は六日のあやめ草ひく人もなき我身なりけり
   六日には塵の部に入る菖蒲哉
ともある。
 この月は、藤の花も紫白をきそうて咲きみだれ、「山酒酔藤花」という句もあって、藤の花は酒が好きと見えて、その花の下に酒を置くと花が久しく保つともいう。また花下で酒を飲むといくら飲んでも酔わぬという。其角の句に、
   白藤を酢味噌に伝ふ雫哉
 また藤のついでに牡丹と酒の詩を、
   今日花前飲。 甘心酔二数杯幻 但愁花有語。 不レ為二老人一開。
と、これは宴会に招かれて、馴染のない芸妓や酌女で、いっこう盃のすすめ手がないので、甚だ不興の体である。昔は、この月コ扇拝Lとて酒と扇を賜うたのである。
 さて更衣ともなれば、いよいよ酒味の好季に入るのである。
   大酒におきてものうき袷哉
 この月、また煮酒の祝ということを行う。これは俗に冷下ろしと称し、酒に火を入れるのである。昔は京洛の酒屋で酒振舞いとて、この火入酒を無償で客人に飲まして、これを酒煮の祝いと

 六月の巻
 昔はこの月の朔日より(あまざけ)を醸して月の晦日まで供御したもので、伊勢大廟の地でも忌火と称えて、清浄な火に改めて一夜酒を作って供えるのである。あま酒の条で述べたからここに略して、さて京の祗園祭は今は七月に行うが、この祭礼について、京洛の人は古酒を祗園祭りと称え、新酒を御霊(ごりよう)祭りと称する。それは祗園祭は京洛の上京も下京も賑わうように、酒の味がよく体の上下とも温まるというので、御霊祭りは悪い新酒のように上京ばかりが賑おうて、頭ががんがんするが、下の方は寂しいという謎である。
 この京洛に文政の頃、町々の家の門冂に「上酒あり」と書いた紙を貼ることが流行した。それは酒婆という奇怪な老女が酒を売りに来る家には、必ずもがさ(、、、)という悪疾に罹るといい伝えたので、このことは大阪でも赤紙に書いて貼った。その頃、蜀山人が京に遊び、戯れに「有酒如池、有肉如坡、謹謝妖婆、勿過我家」と書いて貼らしたという話がある。
 また京の話がつづくが、夏の酒は山水の景に富む京で飲むのがひとしおである。この月の季寄せに座頭の涼というのがあって、(たたす)の森の清聚菴というに検校(けんきよう)が集まって酒宴を張る狂歌に、
   座頭衆涼となれば酒もりの、てうしをうけて平家語れり
というのがある。この頃の納涼と酒味は、炎暑の苦を一掃する真の玉箒である。
   酒ほかす舟を羨む涼み哉
 昔シナでも暑を避けるに、蓮の葉を杯として酒宴を開いた。これを飲碧筒と名づけた。今は麦酒や種々の清涼酒があるけれども、昔は名を涼しくつけて柳影と称して、焼酎に味淋を加えたものを嗜好したのであった。古くは土用酒、茅酒と称え、また浅茅酒(麻地酒とも書く)ともいい、豊後、美濃、大和(奈良)にこれを造るとある。
 この酒の製法は、糯米(もちこめ)粳米(うるちまい)を等分に合して、冬月寒の水をもってこれを醸し、土中に埋めて草茅の類をもって、これを(おお)い、冬春を経て夏の土用に至って土中より出せば、既に熟して酒味をあじわうのである。これを土かぶりともいう。
   酔て管を蒔べき種か浅茅酒
 また蜜酒と称して、蜜蜂が蜜を採って酒に和する、これは山中の人家でよく貯えてある。著者も吉野の奥でこの酒の馳走にあって大変に酔ったことがある。蜜蜂は人間の米を食わず、露をとって酒として、花を食とする。蜜に百花の香りがあるもこのためで、蜜酒の香味は人工の遠く及ぶべきでない天然味である。詩に、
   蜜蜂不食人間倉一、玉露為酒花為糧。作蜜不忙採花忙。蜜成猶帯百花香。
とある。葛仙翁が客と対食する時、翁が口中より飯を吐くと蜂となり、これをまた久しく口中に()れると飯となるという故事がある。お伽話の猿蟹(さるかに)合戦に蜂と飯と猿、蟹などのことが書かれてあるも、飯を種とした酒に因み、柿の実に猿酒などと昔の人の深い注意と親切な作意が、こうした童話にもうかがわれるのである。「十訓抄」にも京極太政大臣宗輔を蜂飼の大臣といい、蜂に何々丸と名づけた。
 蜂の話のついでに慶安の頃、江戸の大塚住人地黄坊樽次という大酒豪があった。本名は茨木春朔という医者である。本姓からして茨木というから、酒顛(しゆてん)童子に縁のある医者の不養生家であったと見える。その大酒豪の好敵に、川崎に大蛇丸底深という酒友があった。これらと酒戦をいどむ時の盃に「蜂竜盃」と称えた七合入りの大盃がある。その盃に蒔絵で蜂と竜と蟹が書いてある。その謎は、させ、のもう、肴をはさむというのである。
 この樽次のことは、「水鳥記」「酒戦」「続さるみの」などの書に詳しく載せられてあるが、また門人も多く、任口、常赤、升見などいう高弟がある。小石川柳町の祥雲寺に樽次の碑がある、「酒徳院酔翁樽枕居士」と。その辞世に、
   南無三ぽうあまたの樽を呑ほして、身はあき樽にかへるふるさと
        *              *                 *
 夏の酒は味が変りやすい。(しきみ)の葉をよく洗い、一升に十五枚ずつ入れておけぽ、味少しも変らぬという。



最終更新日 2006年01月09日 16時18分35秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」5

 七月の巻
 陰暦なれば初秋の七夕、中元、盂蘭盆会(うらぼんえ)など、はや草の市に露をおく頃である。地蔵祭りに盆踊りなどは昔ながらに、今も都鄙(とひ)にその風俗を遺して、和やかな人情味が偲ばれる。
 この月七日を節供(せつく)と称え、宮中でも内膳司より当日の節の供御(くこ)を献ずるのである。節供の名はいずれも内裏詞(だいりことば)で、毎日奉る供御に対し、その節日に献ずるゆえ節供というのである。七日は乞巧奠(きつこうでん)とて、男七夕の牽牛星と、女七夕の織女星の二星が逢い合うというので、この日を星合と称え、天上の列宿をして(みだ)りがましく雑説をなすも、この風習は和漢ともに古くより、詩歌連俳にも用いられたものである。
 また二星を祭ることは、婦女子の手業の巧みならんことを願う故に乞巧奠(きつこうでん)とも称して、わが国でも天平勝宝七年に、宮中において立琴を奏し瓜菓を供え、竿のはしに五色の糸を懸けつらね、水盤に水を湛えて二星の影をうつし、香華を供えて祭られたることは「江家次第」にも載せられてある。唐土にてもこの夕は婦人が集まりて五彩の糸をもって星の影に向い、七つの針のみみずを通して、庭に瓜菓を供えて巧を乞い祈り、もしその供物の上に蜘蛛(くも)がさがると、願いが叶うたしるしとする風習であった。今の俗に、笹に五色の色紙蘊冊(たんざく)をつけて和歌を手向けるも、糸をかけて裁縫の器用なることを祈ると同じく、和歌の巧みならんことを願うのである。また梶の葉七まいに手向けの歌を書き、五彩の糸に巻いて屋の上にあげることも、中院通茂卿の説である。
  梶の葉や露につまつく筆走り
 一説には梶でなく紙をつくる(こうぞ)の葉ともいうが、歌書には梶の葉と定められてある。
 また七夕七姫とて、朝香姫、梶の葉姫、百子姫、薫物姫、ささがに姫、秋霧姫、糸織姫等に、琴寄姫、ともし姫というのもある。これは七夕の名数で、「ともし姫」はともし妻とも称し、逢うことの乏しさゆえの名で、人丸の歌に、
  やちとせの神の御代より乏儷(ともしづま)、人しりにけり告げんとおもへば
というのがある。
 ささがに姫は蜘蛛の知恵をあやかる名で、その巧を賞し、百子姫は百箇池といい、七つの水盤に星影をうつすことをいうのである。その他、乞巧針、くもの占い、願の糸、星の手向、庭の立琴、水かけ草、星契り、星迎い、年の渡り、妻迎、つまこし船、七種の舟などと、天河にちなんだ詞がある。
  七つ子に問ひ詰められつ天の河
という昔のメンタルテストがある。狂歌に、
  けふとへばささ浪かはす天の河、玉のさかづきほし合の空
 酒の話が歌の七夕になって、酔興がなくなる。で、
  七夕や野良も願の糸芒(いとすすき)
  及ばぬは古歌で済けり星祭
 朝顔が参りて星の別れかな
という句でくぎりをつけて。さて。

 中元と霊祭
 嵐雪の句に「喰物も皆水臭し霊祭(たままつり)」とあるが、この水臭いものでも、盆暮の贈答は、一年中の無沙汰の言いわけになる。砂糖、素麺(そうめん)、たとい麦酒(ビ ル)の半(ダ ス)でも、その志はある珍品の贈賄で大疑獄を捲き起すよりも真情はあふれる。この礼譲をすてて贈答を廃止にするなどは、繁文をさけてかえって礼儀を(みだ)すもとである。まして霊祭りの如きは、祖先崇拝のわが国粋的美風で、この末の子孫にもよろしく伝えて遵守(じゆんしゆ)させたいものである。神棚も仏壇もない文化住宅とやらの家庭の寂びしさは、御燈明の消えた姿である。祖先を祀ることを忘れて、その子弟に己れが後を守らしめようとするは、酒飲みの親が、子に禁酒を強いて酒飲みにならぬように戒めるのと同じ愚痴で、松平楽翁公もこのことを戒められてある。
  父さまやあの燈籠は母さまか
  あぢきなや蚊屋の裾ふむ霊祭
  かたみ子や母が来るとて手をたたき
  家はみな杖に白髪の墓詣
などの句を見ても、切々たる哀情に迫られるものがある。
 盂蘭盆(うらぽん)は梵語で倒懸救鬼ということで、釈迦世尊が目連(もくれん)尊者の母を救うたという仏説によるが、わが国の霊祭りは、斉明天皇の三年に始められたが、ただ仏説に(なず)むのみでない、祖先崇拝の精神をもって、この秋の盛時に五穀成熟して、国家の安泰を祖先に報告するための供養で、春秋の皇霊祭も、彼岸の中日に行わせられるのである。それで昔は亡人を祭ると共に生身魂(いきみたま)と称えて、生存さるる父母を饗応したもので、
  (はひ)出たる主たのもしや生身魂
などの句もある。この月の地蔵祭り、盆踊りは、それぞれ地方色のある、美しい風俗である。

 八月の巻
  今朝みれぽ稲にも露の穂をたれて、おのれもたのむ節句なるならん
と、この和歌にも豊饒なる季節の供を献じて、おのれ等にも供え食うべき、喜びを分とうとする真実の意味である。またこの月の望月は、心も空なる月を観賞するので、上戸党は「酒呑みてぬれはこそあれ今宵をも、いざよひとしはいふべかりけり」と我田引水でない飲酒なことを吐いている。東坡の赤壁の句に、
  清風徐来水波不興。 挙酒属客誦明月詩。
などはすこぶる酒の趣を得たものである。既にこれ盃中の人で、盃が月か、月が盃か、月の側面を見ては酒のしたたりを酌み、満つる月は盃に波うつここちがする。「詩談」に「飲酒酣肴浪」とは大杯には浪をうっというので、なみなみと()ぐ盃の酒という詞もある。盃のっいでに、少し盃の話を重ねる。杯は初め瓦器であって酒土器と称え、坏の字を書き、神武天皇が天香久山の埴土(はにつち)を取り、平瓮(ひらか)を作りたまい、神祗を祭らせられたのが初めで、古代の盃は糸底のない土器に倣うたもので、その後木盃を用いて杯の字を書き、後世陶器を用い、小盃を作り、これを織部と称したのは、古田重能の点茶趣味より出たことで、以来盃の字を用うるのである。
 それから盃については種々の雑談もあるが、酒宴の(たけなわ)な時に来賓の側から「これでもう武蔵野にしてお収め下さい」という挨拶をすることがある。これは昔、武蔵野と称する大盃があって、盃中に蒔絵で(すすき)を一面に描き、これを武蔵野の広く果てなきを寓して野見尽さず(飲み尽さず)という謎である。また可盃というのがあって盃の底に穴をあけ、指でこの穴を押えて飲み尽さねぽ、下へ置かれぬというので、これも酒を薦めるための工風である。可の字は可仕可申という意味で、下に置かぬという洒落である。この盃を夏菊とも称し、しも(霜)に置かれぬなどともいった。
 また前の武蔵野の盃について、
  むさし野をけふはな出しそ大酒に、つまもこまれりわれもこまれり
という詫び言をいうた人もあった。
 古代の土器から、平安のころは黒塗り朱塗りの杯を用いたが、黒塗りは賤しとて、多く朱塗りのものを用いられた。室町時代に小原女と銘のある杯があったというが、これは盃の異名を匝羅(はら)というので、その小さい盃を小巨羅と称したのであろうという説もある。
 さて、盃は酒興のたすけとてさまざまの形を作り、江戸時代に浅草に五十三次という盃があって、その数の盃に宿場駅路の情況によって、大小種々の趣を擬したものである。また大阪の浮瀬(うかむせ)という新清水下の料亭に、貝盃を蔵し、幾瀬、君が為、滝の音、吾がせこ、春風、梅枝、鳴戸、七人猩々(六升五合入り糸底一升入り)などの名あるもので、この貝盃の袋は長曽我部元親の陣羽織の(きれ)で製したなどの数奇を凝らし、また三輪の於喜寿恵という土器をも蔵した。それは古代、この器に醴を盛りて土中に埋めて、その土神を祭った器である。浪花名所の一つであった、この雪の浮瀬も明治の中葉に廃れて、今は礎のみが遺されている。貞柳の歌に、
  ひとつなる人に見せばや津の国の、難波あたりの浮瀬の月
 うかむ瀬の名も貝盃に因んで呼ばれたもので、著者も往時春秋この楼に遊び、酔いざめの水を金水、銀水に汲んだ、おぼろげのおもいでもある。
 また新吉原に遊女高尾の杯、初音の三っ盃(三味線と(ばち)(かんざし)を描く)など、遊女の盃に升見というのもある。また京の島原の薄雲太夫の蔵した蟹盃などは、ゼンマイを仕組んで座中を蟹が盃を捧げてかけめぐるのであった。
 盃の話はなかなか酌み尽せぬが、中秋の名月も、浮び出た盃のために雲かくれになったが、名月と酒、お月に団子はつきものなれど、酒がなくて何のおのれが名月哉で、座頭の妻がひとり泣くばかりでない。芭蕉も、
  川舟やよい茶よい酒よい月夜
と吟じ、わが国で中秋月を賞することは、遠く孝元天皇の御時より始まり、村上天皇(天暦の頃)の御製に、
  月ごとに見る月なれどこの月のこよひの月に似る月ぞなき
とある。



最終更新日 2006年01月09日 21時54分42秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」6

 九月の巻
 秋もやや()けて、樹々の紅葉は林間で酒を暖める寝覚月となった。家隆卿の歌に、
   いくたびかおなじ枕の寝覚月、秋にはたへぬ長き夜すがら
とある。この月九日、重陽(重九)の節と称え、この日より式事の酒を暖めて用うるのである。昔はすべて冷酒を賞したもので、極寒の時にのみ鍋で暖め、それで燗鍋(かんなべ)を用い、「延喜式」内膳司に土熬鍋の名がある。今の銚子というものは後世燗鍋に口をつけ、それから瓶子徳利というように、次第に繁雑な酒器を用うるようになった。
   徳利は徳にも利にもならぬもの
という狂句があるが、これほど無意味なものはない。第一酒の味を悪くし、温度も冷め易く熱し易く、いまの硝子壜(ガラスぴん)の如きは愚もまた甚だしく、俗に至っては言語道断である。今もおでん燗酒という下卑た詞がある。その田楽で紅葉を焚いて林間で燗鍋の酒を酌み交す古い図を見ても、野趣満々その自然味になつかしむので、白楽天もうまいことを考えたものである。花はその色を愛し、酒はその香を賞することは皆人の知るところであるが、盃洗の水に盃をざぶりとつけてまだ水の(しずく)がしたたるのへ酒を()ぐなどは、あまりに無作法である。この盃洗に盃を(そそ)ぐのは、魚道と称して、盃中の酒の飲囗をちょっと水で清むればよいので、茶の湯に茶碗の呑口を懐紙でふいて戻すのと同じ礼儀である。ビールの泡立ったコップをざぶざぶ洗うのとは趣が違うのである。
 さて盃の小言より、この月は、菊見月とて酒にも菊の酒と称して、菊の茎葉ともに黍の米を交えて酒をつくる。これを飲めば長命するというので、宮中にも重陽の宴を開き、群臣に酒饌を賜い、昔はこの日茱萸(ぐみ)の実を頭に挿して悪気を祓うといい伝えたので、ぐみ袋、佩萸(はいゆ)などということもあって、この日を菊花節とも、萸節(ゆせつ)ともいう。
 今は観菊の御宴とて列国の使臣をも召して饗宴を開かせられるが、昔から、上巳、端午、七夕、重陽の四節は、陽月陽日にて、これは陽を貴びて陰を抑うる祝意である。またこの月は後の雛、後の名月とも称し、栗の節句、栗名月などと栗を祝うのである。重陽の歌に、
   きく紅葉折しく日をもとりそへて、けふ給ふなる御酒のさかつき
   行すゑの秋をかさねて九重に、千代までめくれきくのさかづき
   竹の葉に猶汲添(なほくみそ)へん菊の花
   かはらけの手ぎは見せばや菊の花
   いにしへの奈良の土産の菊の酒けふ九重にいはひにぞ飲む
 さて、菊花はわが皇室の御紋章としても貴ぶべきもので、唐土でも周の穆王(ぼくおう)の愛した慈童という者が、罪を得て謫処にあって、毎日菊の露を呑んで八百歳も生命を保ち、()の文帝の時に世に出て彭祖(ほうそ)と名を更えて、文帝にこの術を授けたその故事によって菊の酒を汲み、長寿を保つので、舞延年の菊の酒という文句もその故事である。六日の菖蒲と共に、十日の菊という諺もある。それは何事も時機を失うては興がなくなるからで、
   この菊に十日の酒を亭主哉
というのもある。また菊の香を惜しみて十月に残菊の宴というを、延喜の御時に催されたことがある。貫之の歌に、
   秋さける菊にはあれど神無月、時雨に花の色はそめける
 また嵐雪の句に、
   呑んで置る残るよはひや菊の宴
 また狂歌に、
   歌をよみ詩をつくるやらごてごてとむっかしさうに残菊の宴

十月の巻
 この月は、はや新酒の初走りも出る。これをあらおりと称えて、古酒の芳醇(ほうじゆん)な温味に反して辛辣(しんらつ)な粗味である。そのため早く醒めるから、
   松風に新酒を醒す山路哉
   喧嘩して早うあやまる新酒哉
などの句がある、これを洒落て庭さめというのも、御馳走になって帰るときは、既にその庭先で酔いが醒めるからの名である。
 浩はこの新酒の熟してまだ()さぬもので、中汲はこの浩を漉して澄まさぬうちのもので、清酒と浩の間ゆえに中汲の名がある。また浩を「どぶろく」というは餘触花(とろくか)という白茎の花で、俗に「菊いばら」という花の色に似たるよりの名で、シナではこの花黄色なれば黄色の酒をどぶろくと称える。どぶろくはつまり汁滓の酒である。
 昔の酒を諸白(もろはく)と称したように、酒は白きをもって美とし紅をもって悪となすもので、紅い酒は濁り、白い酒は()む。今流行する五色の酒などは、最も濁り易い放蕩酒で、濁り江のさすらえ人たちの嗜好するもので、酒を聖人とか賢人とかいう人が口にすべきものでない。で、白い酒を薄酒といい、濁り酒を紅友となす。酒の異名に玉液、玉体、瓊漿(けいしよう)等の名も白きを賞したもので、梁武帝の詩に「金杯盛二白酒一正言二白酒之美一云々」とある。純白の糯と精白の粳と潔白の水をもって造った酒を、三白の酒というので、酒を霞というのも、紅雲が朝暾(ちようとん)にかすむ如く、透明に清澄したものを称するのである。歌に、
   酔う時は心あらたにすみ酒の、世のにごりをばさましこそすれ
とある。蕪村も、
   酒を煮る家の女房ちと()れた
と初心を詠んだ。芭蕉も、
   たのむそや宿酒なき夜の紙衾(かみぶすま)
と酒を佗しがる。 一茶の、
   八兵衛が破顔微笑や今年酒
などは、いかに酒味が人の心を調和するか、風俗は実に政治の田地であることを、つくづくおもわせるのである。
 さて、酒を山家で霜消(しもけし)と呼ぶが、歌に、
   木のもとにつもる落葉をかきつめて、露あたたむる秋のさかづき
とある。初冬の頃の紅葉狩と酒は、維盛ならずとも鬼ころしの名にふさわしい。
   山守に月待つ程の紅葉狩、般若湯(はんにやたう)でもちと出でょかし
 また、
   山々の笑ふ春よりもみち狩、酒はゑふほどをかしきはなし
などがある。炉辺に酒を(あたた)めて親しき友と酌むもこの頃である。
 この月は恵美須(えびす)講とて、商家でも酒宴を開いて繁栄を祝する。「えびす講上戸も下戸も動き得ず」とたらふく食って動くことも出来ないなどは行儀が悪い話である。酒はとかく礼に始まって乱に終るというの例である。昔の飲酒についてある書に、
  ひと(つき)の酒をのむを一度といひ、三度のむを一献といひき。なみゐたる座にて、さかづきを一度めぐらしむるを一巡といへり。さてもものの儀式に、うるはしくのむは三度と三献にぞありける。西宮記一の巻に、薬子嘗レ之、次供御第三度と見え、大鏡六の巻に、御加茂詣の日、社頭にて三度の御かはらけ空にてまゐらするわざなるを、その御時には禰宜(ねぎ)神主も心えて、大かはらけをぞまゐらせしに云々とあるなどを見れば、三度は酒のむさまになん。西宮記一の巻、臣下大饗のくだりには、三献の間、客人不二動座一、四献以後、諸卿起レ座、献レ盃と見えたり。又同書五の巻、定考のくだりに、三献後居二粉熟飯一、数巡後居二餅餤一と見え、北山抄一の巻に、二宮大饗のくだりには、三献後有二音楽→数献之後云々。とあるを見れば、三献うるはしくのみをはりてのち、度々さかづきめぐらすこともありしなり、されどこれも大かたのさだまりありとはしられたり。北山抄に節会酒巡不レ過二七許巡→而今日及二十一巡哨王公唱歌撃レ笏、公宴酒興延長云々。
と見えたり。この記によると、当時既に無礼講の酒宴が行われて、藤原時代より盛んになった飲酒の興味が、次第に世と共に降って来たのである。また擬盃大饗などと称して、その献酬の列席にむずかしい法式をとったものもあった。こうした遺風はかえって僻遠(へきえん)の地にのこされて、蝦夷の里人が松前藩に年貢を納める時に、彼らが祝宴にも妙な献酬の式が伝えられていた。




最終更新日 2006年01月10日 00時50分02秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」7

 十一月の巻
 この月を霜月とも雪見月とも称えて、初雪が降る。歌に、
   霜月ときけども又は雪見月ゆきしもどりにちがふ月かな
と理屈をいったり、また、
   霜月の月は嘘をばつきもせず
と洒落たのもある。
 昔はこの月中の丑の日に、五節帳台試という御式が行われて、五節(こせち)の舞姫が天津風に(もすそ)ひるが
えして、仙女の姿を(みそな)わすのである。その翌日の寅の日を殿上淵酔と称えて、この五節が果てて
のちに、公卿たちが朗詠今様(いまよう)などをうたい、その後乱舞して次第に(くつ)を履いて北の陣を廻り、五節所にいたり、また所々に推参するので、このことは正月二日三日にもあって、淵酔とは酒に酔うことである。季吟の句にコ眉脱(かたぬぎ)の袖に蜘蛛(くも)追ふ殿上人Lというのがあるから、常には戸締りの
御殿へも参りて、乱舞するものと見える。
 またこの月の新嘗会という大切な式事も行わせられる。
   釘でひく琴の音古し新嘗会
 またこの月、鞴祭(ふいごまつり)とて鍛冶職のものが伏見の稲荷社を祀る風習がある。
   御酒とくり吹革(ふいご)祭の白さ哉
 それから冬至の賀とて、聖武天皇の御代よりこの月を復月と称し、正月にひとしく一陽来復する月として、宮中でも賀辞を受けさせられ、武家、民間、僧家でもこの冬至の日を祝する習いであった。冬至は日の永い頂上だというので、
   一すぢに君がよはひの千代こめて、いと長き日のかぎりはからん
   老医者の浄るり御前冬至哉
   下手な詩も馳走に換る冬至哉
 この日は無病を祝して医者を招いて御馳走するのである。お馳走のついでに、造酒正長持が酒飯論の文句を、酒の管の代りに列べると、
  上戸の好きものは、高きいやしき膝を組み、その杯の取かはし、三度も五度も過ぎぬれば、あはび小深き大茶碗、黒塗り白塗り、朱うるし、わだとづくりの大合子、おもひおもひに始めつつ、しめ呑み、あら呑み一囗呑み、初春はまつ匂ふなる梅の花呑いと優し、秋も嵯峨野に草かれて露なし、うちふり、一文字、凝濁なしのふりかつぎ、そばさし、ひらざし、ちかへざし。ゑひ数かけてとのおもひざし、(中略)まして祝のある時は、賀酒とてまつさけをのむ、上戸は酒にまどひつつ、世ざまわびしとまうせどもうまれつきた貧福は、下戸のたてたる蔵もなし。など見得にしてつじさかづき、すてさかづき、十たびのみ、まはり酌、とがおとしの盃、うぐひす呑、ひと露、一文字、やまもも呑、みつぼしの盃。(下略)
 これは酒の献酬の詞で、酒宴の座興にしたことである。また酒を竹葉と異名することもあるが、本草の諸薬酒の中に、竹葉酒は淡竹(はちく)の葉の煎汁をもって、常の如く酒を醸すとある。すると梅酒、菊酒の如く別に一種の酒であろう。白楽天の詩にも「甕頭竹葉経レ春熟」とある。
 また酒をみき(、、)というは、酒を呑む人の身には、寒気も三寸避けてあたらずというので三寸と書いてみき(、、)と訓すと。「伊勢物語」にも御三寸進める云々などと、勝手のよいことを書いたものもある。

 十二月の巻
 酒の話も正月の元日から、師走の果てまで、三百六十五日ぶっ通しでつづけて来た。著者の座右には故富岡鉄斎翁が手作りの土の火鉢に、自ら「三万六千日々酔」と書いてくれたのがある。これに手をかざして、こんなことを書いていたら百年までも酔いつづけねぽならぬ。この緊縮の世に避風肉陣などと、肥えた美人の肉屏風(びようぶ)に取りまかれて薬喰でもあるまい。この頃は生姜(しようが)酒、玉子酒、名も霰酒(あられざけ)霙酒(みぞれざけ)、忍冬酒、枸杞(くこ)酒などが冬期にふさわLいものである。
   身をしぼりかせげどなんと生姜酒、からくも酔へる世にこそありけり
などはよく下流の生活をうつしている。
 前に書き洩らしたが、昔は酒の器に竹筒を用い、またさざえ(、、、)と称する木製の器も用いたが、寛永以後の句集に、
   酒入て竹やもちひて一夜酒
   花見酒くめや大筒太平寺
   あられ酒ふる大竹のさざえ哉
などとある。それから酒樽は指樽、結び樽と称し、指樽は指ほどの木口がある故の名で、結び樽は竹の輪をかけたものである。これは室町時代より用い、のち角樽、一升徳利俗に貧乏どくりなどが出来た。江戸時代に白薬をひいた徳利酒を称して白馬と呼び、後には安居酒屋をしろうま屋とも称した。また(かぶと)の看板を出した家もあった、これは酒をかぶるという意味であろう。前に酷の話のうちに書きもらしたが、もろみをわささ(、、、)と訓み、例の「秋茄子(あきなすび)わささのかすにつきまぜて云々」の歌にある、わささは、()は早稲で、ささ(、、)は酒の名である。で、早酒の意味で、酒の未漉を称したものである。
 この月に寒酒を造る。
   酒蔵や鶏にはまけぬ寒造り
   あたためた酒ははつたり寒つくり、これぞ君子の酒にぞ有りける
 この月八日を臘八と称し、釈尊成道の日なれば、禅家では温糟粥をっくり、一山酒宴を催すのである。しかし、葷酒(くんしゆ)を禁ぜられているので、酒を般若湯(はんにやとう)、また他宗では護摩酢などの隠語を用いる。般若湯は恃酒という語から出て、般若(はんにや)智慧(ちえ)()るという意味で、恃酒は酒の力を借るのである。護摩酢は戒壇で護摩を焚く時に、火焔を防ぐため酢を火中に撒くゆえ、酒を酢に擬して称したもので、あるいは神酒の如く、祈薦のために供えた酒をいうのである。
 昔この月十九日に、御仏名ということを宮中で行われ、導師の僧たちに被綿を賜わり、地獄八相を画いた屏風(びようぶ)をたてて、仏名を唱えるのである。この夜また栢梨の勧盃とて、摂津栢梨の官領に得た利分をもって酒を造り、それを仏名の夜に飲宴するのであった。
   地獄の絵かいておどした仏名も申さぬほどの極楽はなし
 また民家でも除夜に至って酔司命と称し、僧を請じて看経(かんきん)し、酒菓を備えて神を送り、合家簪を焼いて紙銭に代え、竈馬をかまどの上に貼り、酒の糟をもって竈の門を塗る。これはシナの風俗を移して行うたものである。
 除夜は一年の大団円で大切な日である。昔は追儺(ついな)、節分の豆まき、厄払いもこの日に行われたものであるが、今は二月の立春にすることとなった。
 さて酒の一年も百八煩悩の鐘に、()き出される除夜に至った。
   宝船くつがへしたり酒の酔
 忙人は走る、閑人は時を得顔に、炉辺で酒を煖むるであろう。



最終更新日 2006年01月10日 01時55分40秒

林春隆『野菜百珍』「二五二 酒の話」8

 銘酒の巻
 酒に銘酒とつけたり、茶に銘茶と冠することは、昔それぞれ自家で酒も茶も製した時代に、専門の酒造家が酒に銘を打って売り出し、地酒と区別をしたもので、茶も山城宇治の産をもって銘茶と称したのである。
 それも江戸幕府中世からのことで、江戸時代の古い酒屋の値段付にも、諸白、上酒、伊丹などと書いたのみであったが、その後伊丹に剣菱と銘を打って売り出したのを始めに、七つ梅、紙屋のきく、三っ鱗、米喜のよね、灘の正宗などが出来て、江戸でも寿海、猿若などと、流行芝居の名を用いるなどの風習をつくった。それが今日に及び、種々雑多の名称を付して、等級こそあれいずれも銘酒と冠して、近畿では灘、伊丹、堺、伏見といったように、本場の酒を盛んに醸造するのである。その土地の由来や、酒の名称について書きつづけると面白い挿話もあるが、それは省くこととして、現今行われる酒の種類を挙げる。
 さて、穀製では、清酒、濁酒、麦酒、また穀製火酒では、味淋、焼酎、ウイスキー、葡萄酒には、ポートワイソ、生葡萄酒。果酒には林檎酒、梨子酒、苺酒、桜実酒、火酒には、ブラソデー、ラム酒、芋焼酎、馬鈴薯シュナップス等である。また婦人用としての酒類は、三月雛祭の白酒の古典なところを始め、モダソ的五色の酒などがある。白酒、梅酒、生杏酒、枇杷(びわ)酒、かりん酒、紫蘇酒、桑酒、忍冬酒、霰酒、枸杞酒、保命酒、養老酒、キュラソー、ベルモット、ペパーミント等で、地方の名産とする酒類は多く味淋製で婦人向きのものが多い。またシナの酒名は、包酒、醗醜、紹興酒、瀦安酒(山西産甜く酔易し)、老酒、味淋酎、福珍酒、汾酒、酒、焼酎その他、珍陀酒がある。
 さて、変り酒の話に移る。
 鶏鳴酒 これは「食経」にある夏日つくる酒で、秕米二升を(かゆ)に炊き、麹三升、水五升をこれに加えて攪拌して、今日造りて明日鶏鳴に熟するものゆえの名で、一夜酒の類である。
 麻地酒 この酒は前にも述べたが、肥後の名産に麻地酒と称え、はじめ元酒を造り地に埋め、その上に麻子を蒔き、秋に至りその麻の茂れるを刈り、刈株の後に掘り出して飲用するもので、酒味最も佳なりとある。
 灰持酒 これも肥後熊本の名産で俗に赤酒と称え、醸熟して後酒をしぼり出す際に、椿(つばき)(けやき)(さかき)、梅などの木灰を調合したもので、加藤清正が朝鮮役に伝来したといい伝えるのである。鴻池勝庵が火鉢の灰を酒桶に投げ入れられて清酒を発見したという話も、これと似て、夏日酒の濁りを防ぐに(しきみ)を入れるなども同じ理である。よく田舎酒に唐辛子を入れるが、それは辛辣(から)すぎて味を失うおそれがある。
 あられ酒  これは奈良の名物であるが、慶長の頃奈良の町医で宗仙という人が、冬の日猿沢の池水に、飜騨浮きつ沈みつ浮動しているのを見て、常の味淋酎に彬ガ浮べて工風したものだと伝えられる。冬の日に酌む酒の名にふさわしく、貞柳の狂歌に、
   あられふる時にはささの一夜さも、飲んで板屋の音をきかぽや
 柿ひたし酒  これは加茂の松下家の秘法で、常の酒に柿を漬けておいて飲むのである。濃くな
れぽ水をうめて用い、昔蹴鞠(けまり)の時に息合いによきとて殿上人(てんじようびと)は用いたのであった。また上古鞠の時に夏は冬の雪を貯えおいて、これを茶碗に盛って出したのである。
 豆淋酒 黒豆を焦げるほど炒りて火のとおらぬかとおるほどの頃よく冷し、酒一升に黒豆三合あるいは五合ほどいれ、一夜置いて飲むと中風産後の古血を下し、冷え性の人にょいといわれている。
 このほか、種々の変り酒もある。
 余瀝の巻
 酒に量なしとて、酒の話もあまり長くなると(ほうき)を立てられる。
 すべて酒は小盃で長く呑むと量を過して病を生ずる。で、大盃か茶碗でぐいぐいやると、酒の力が一時に発して鬱気を散じるから、その害も少いのである。「彷園酒訓八則」にも、雅謔を尽して杯を(ふく)むを清酒といい、紅燈絃歌の(うち)に珍羞を羅列して飲むを濃酒といい、雅俗同席して喧噪なるを濁酒といい、残樽を擁して侍坐を困らせて長飲するを淡酒といい、わざとらしく虚偽をつくろうて献酬するを苦酒といい、浅酌低唱して猥飲するを舐酒といい、主客共に悪く()うるを酸酒といい、一坐互いに窮屈に呑むを辣酒というとある。
 この八則のうち好まんと欲するものは、その相対にまたねぽならぬ。酒は呑み相手によって一層酒味を感ずるのである。で、上戸は多く独酌を喜び、陶淵明、杜子美、王敦等の酒家も独酌を楽しんだのであった。ひとり梅聖兪が俗客と酌まんよりは、老婆と対酌するに()かずだなど、滑稽なことをいうのである。しかし、酒は正宗、酌は美婦という通り相場もあるから、何もすねて独酌をもって酒楽とすべきでない。
 沢庵禅師は酒に趣味をもたれ、その著書に多く酒と人生観というようなことが書かれてある。その中に、
   同じ炉火にて温むる酒も、清酒はとく温まり、濁酒は遅くあたたまるが如く、人の利鈍もこれに似たり。利根は清酒の如く、鈍根は濁酒の如し。
とある。李白が酒に賢人愚人と称したのと同じ話である。また同禅師の「玲瓏随筆」に、
   書をよく読む人の道徳なきは、只下戸の酒といふ字をかき、文字をよみとするが如し。酒といふ字は書けども、酒徳にふれざるなり。書は目に触れることなけれども、道義のぞなへある人は、上戸なれども酒といふ字を知らざる如し。酒の字知らねども酒徳にふれるなり。
とある。また酔生夢死ということについても、
   生々の間は、我等もかかる身と成りつらん。生を隔てて即忘の小根なれぽいざ知らず顔なり。酒の酔の昨日狂ひ、乱走して人にうたれ罵られしも、酒毒のために(しん)をくだき、魂を散ぜられて昨日を(おぼ)へずただ今日とのみ思ふが如し。生死のみぎりは、钁湯炉炭のせめに、旧有の身のくるしみを忘失せること彼の酒の酔の如し。
といわれている。
 これは話が違うが、酒宴中に飯を食うことを遠慮したり、飯を食ってから酒を飲むと不味などというが、飯前酒後は食礼の示すところである。また中酒とて食事中に酒を呑むこともある。「酒茶論」に「飯後飲謂之中酒」、古語に「不酔不醒謂之中」とある。茶の湯の会席にこの風をなすは、よくものの味を知る賢明な嗜好であるとおもう。
 潯陽の江の猩(しようじよう)ならねど、酌んでも尽きぬ酒の話も、あまり乱に及ぽぬうちにひとまず終局とする。



最終更新日 2006年01月10日 02時06分00秒

林春隆『野菜百珍』「二五三 雑煮の話」

二五三 雑煮の話
 ぞうには、旧冬に製した餅に、種々の魚菜を加えて、正月元旦より三箇日の間これを祝と称して食うものである。
 雑煮(ざふに)というはもと烹雑の名で、汁に種々の豆粟菜の類を加えて炊いたもので、俗に雑炊(ぞうすい)というものが、室町時代に保臓と称え、下部などが寒気を凌ぐために食したのである。しかし餅を煮て正月に食うことは、上古よりの風俗であって、これを雑煮餅と称して国々家々の例をつくり、正月の祝儀としたのは後世のことである。
 宮中でも御衰微の時は、正月の雑煮も、菱の餅を焼いて、味噌煮の牛蒡の焼いたのと、その上に雉子焼(きじやき)と称して豆腐に塩をつけて焼いたものを、二、三、茶碗に入れて、それに酒の燗をして八分ほど注いで、吸ものにも御肴にもされたものである。
 元日食う雑煮餅は陽を(たす)ける術として古くシナでも用いられ、また喰積(くいつみ)とて、米、昆布、菜の三種を用い、山海田のものを集め、これを天地人の三才に表し、調いやすい自然の産物をもって、人工を費やさないところに、人生の質素を示し、年の(はしめ)に不易の料を種々集める習いである。
 然るに、おめでたい正月というので、雑煮や組肴が贅沢になって、その雑煮の種類も所かわれば品かわるで、芋頭、大根、人参、菜、焼豆腐、かち栗、乾あわびぐらいが一般の風習であるが、また煎海鼠(いりなまこ)、鳥肉、魚肉、蒲鉾、玉子厚焼その他種々のものを加える所がある。
 それで雑煮の小餅の数を三箇日に食い上げると一年中好運だといって、強いて大食する習慣がある。横井也有が例の餅の辞にも、
   まつは一とせの初空、松や竹もあらたまる朝に、飯はもとより常住にして、おら茶麺類もしどけなけれぽ、雑煮と趣向を定めたるぞ、神代の骨折り所なるべし。
とある。また蕪村も、
  三椀の雑煮かゆるや長者振
 狂歌にも、
  臓太に雑煮をくらふ人はただ腹のはるにや春をしるらん
とある。
   それでこの雑煮に焼豆腐を入れるのは、豆腐は餅の消化をたすけて、また餅が(のど)へつまらぬためである。また芋頭を入れるのは京都の風習で、昔は一家の戸主にのみ入れて食わしたものである。その他、すまし雑煮、味噌雑煮など、その国の習いと家風で種々かわった雑煮がある。
 また東北地方には、男はすまし雑煮で、女はしるこ雑煮など別々に食う習慣もある。北海道の昆布雑煮、その他いろいろ風変りの雑煮もある。大阪の鴻池(こうのいけ)家で昔倹約を守って、蕪菁(かぶら)の雑煮を汐 食ったという話もある。これは今の緊縮雑煮とでも命名したらよかろう。この鴻池家の家訓は、例の貝原益軒先生が起草されたものと伝えられてある。



最終更新日 2006年01月10日 03時10分58秒

林春隆『野菜百珍』「二五四 胡瓜の話」

二五四 胡瓜の話
 きゅうりは、初夏のものなれど、いまは温室ものや(はやと)人瓜、また暖地から来るものなどで、いつでも市場で求められる。
 きゅうりは胡瓜と書く如く、もと東印度(インド)の産であるが、わが国には古く伝来して、「和名類聚抄」に稜瓜また俗に木瓜とある。この果菜は茄子(なす)とともに、夏季の野菜中において最も調法なもので、漬物とし、また酢もみ、味噌和(みそあ)え、煮て食うこともある。それで僅かな坪庭でも野菜自給に手軽く栽培が出来る。
 三、四月に種を()くのと、六月に()いて秋に採るものもあるが、茄子苗と共に胡瓜苗を、春の末に売りに来るのを求めて植えればよい。(つる)が伸びると竹の垣に(わら)で手をしてやれぽ、面白いほど伸びて黄花が咲く。熟れる頃は採るほどに後から出来て、朝の浅漬、タベのもみ瓜と、飽かず食卓を(にぎ)わしてくれる。その種類には、節成、早生、白青、三尺などの名称がある。
 さて調理は、
 印籠漬 直なるきゅうりの両端を切り、塩にまうめおき、芯を抜いて干瓢(かんびよう)青紫(あおじそ)蘇の細切をつめ込み、甘酢に漬けて小口切り。
 味付瓜 きゅうりは薄塩にてしばらく圧石を置き、後ざっと洗い上げて、酒、酢、砂糖、塩をよき味に合せ、胡瓜の水気を去って漬け込むのである。
 花丸胡瓜 きゅうりを一寸ぐらいの細かい(せん)に切り、求肥昆布にて巻く。但し切りたる後しばらく塩水に漬け置き、昆布酢で洗うこと。
 竜皮和え きゅうりを刻み、塩でもみ、また胡瓜をおろし金でおろして白味噌の煮たのを少し入れて和えるのである。上おき、輪唐辛子、しらが独活(うど)よろし。
 花付胡瓜 花付のまま塩を当て、五分間おき、熱湯の中へ入れて色を出し(水におろしたもの)但し花の損ぜぬように、紙にて花びらを包みて湯気を避けること。それを鍋の中で湯煮するのである。
 真砂胡瓜 きゅうりを二っに割り、実を去りて()(ばち)にておろし、二杯酢に混ぜる。
 挽茶もどき  胡瓜をおろし金でおろし、熱き湯に一度通し、水にてよく洗い、吸物地の中に入れ、薄葛をしく。汁の実見はからい。
 末広胡瓜 花丸胡瓜のごく若きものを一寸五分ぐらいに切り、平に四、五枚ぐらいにして、ちょっと塩水に入れおき、引きあげて清水で洗い、末広の如く片方を広げて開く。
 紫蘇込 径一寸ぐらいの胡瓜の両端を切り、そのまま中子をぬき取り、その中へ紫蘇の葉を塩で揉みつめ込み、美濃紙に巻き、中味噌に漬けて味のつきたる頃取り出し、二分ぐらいに小口切りにする。
 その他、もみ瓜、油であげるなど、またへぽ胡瓜とて末成(うらなり)の、人の指か、鷹の爪のように反りかえりたるものを、漬けものにすると歯切れがよくて、雅味のあるものである。
 胡瓜   銅脈
最初専賞翫。 風味謂天晴。
毎毎雖懸目。 追追不問名。
種皆蛩食物。 形本馬陰茎。
揉酢和今昔。 擲投塩漬情。
胡瓜の汁液で肌膚を洗うと、色を白くして美しくなる。またふき出ものを治する効がある。



最終更新日 2006年01月10日 20時37分50秒

林春隆『野菜百珍』「二五五 銀杏の話」

二五五 銀杏の話
 ぎんなんは公孫樹(いちょう)鴨脚樹(、、、)また銀杏とも書く)の果実にてすこぶる脂肪油に富むもので、多食すると中毒する。常に乾して焼き、また煮て食う。公孫樹には雌雄があって、三角の実は雄木の果で、二角のものは雌木の実ともいう。貞室の狂歌に、
   秋来れぽ葉には金の色ありて実は玉かとも見ゆる銀杏(ぎんなん)
   古家や卞和(べんくわ)はしらめ銀杏の実
 さて調理は、
 焼目 銀杏の皮を剥き、(あぶ)り上げ、塩水に漬けたるもの。
 よぱし 銀杏の皮を去り、湯煮し、煮出汁にて半日ぼかりもどき、薄味をつける。
 御手洗 銀杏の荒皮を剥き、油で揚げ、洋紙の上に取り、もみて渋皮を去り、少量の食塩をふりかけ、小楊子にさして出す。
 よせ銀杏 皮のままゆがき、のち皮を剥き、また昆布だしにてよく煮こみ、色が変れぽ少し青粉を入れる。別に道明寺(ほしい)二合をもどし、少々砂糖を合し、(やわ)らかくなりたる銀杏を四つぐらいに切り、道明寺糒とよく混ぜ合せ、これを箱に入れ圧をかけ、薄く小口切りとなし、汁の実に用う。
 帆立銀杏 味付けた銀杏を、松葉に交互に刺して帆の如くする。
 その他、よせ銀杏、茶碗蒸し、吹き寄せなどに用う。
 銀  杏 銅  脈
枝熟秋初落。二重黄白衣。
扶皮沙入剥。中肉火弾飛。
如玉青猶湿。入唇苦却非。
不唯童子哮。葛烹得其依。



最終更新日 2006年01月11日 03時35分14秒

林春隆『野菜百珍』「二五六 木耳の話」

二五六 木耳の話
 きくらげは、桑、(えんドゆ)、柳、にわとこ、ぐみ、(こうぞ)等の枯木に寄生する菌蕈類である。その形が人の耳に似たるより、きのみみといい、(、、)中のくらげに似たるより、木海月と称するのである。
 この菌蕈は発生する樹種によって有毒なるものもある。前の樹種のほか、(くぬぎ)(なら)、樫、椎、梨、(にれ)等に生ずるものは食用となる。シナ人は最もこれを嗜好し、白木耳を特に珍重する。
 その調理は水に浸して後、細く切り、すり豆腐、ケンケソ、茶碗蒸し、煮しめ、葛かけ、浸しもの、鮓その他、加工の色彩に用いる。
莫欲全枯   銅  脈
言食若株木 含湿雨中生。
隹口猫将 頗同海月名。
処無児朽耳 当咬歯有声。
少味耳日 調菜厘蒙評。


最終更新日 2006年01月12日 01時38分07秒

林春隆『野菜百珍』「二五七 菊菜の話」

二五七 菊菜の話
 きくなは、春菊の葉茎をいう。春秋二季に播種して食用とする。浸しもの、煮て、和えて、ことに胡麻浸しなど香味ありて佳である。
 また菊苣(きくちさ)とて、一年生の蔬菜で、きくなと共に生菜として、秋冬のころ最も賞用せらるるものがある。



最終更新日 2006年01月13日 01時48分53秒

林春隆『野菜百珍』「二五八 菊牛蒡の話」

二五八 菊牛蒡の話
 きくごぼうは、菊科に属する根菜で、外観は波羅門参に酷似したもので、用途は牛蒡または胡蘿蔔(にんじん)と同じく、強壮剤として刺戟の効能を有すると称せられる。



最終更新日 2006年01月15日 09時07分41秒

林春隆『野菜百珍』「二五九 金柑の話」

二五九 金柑の話
 きんかんは、古名「ひめたちぽな」と称し、夏の半ぽに花を開き、実は冬熟して春に至る。皮は芳香あり、実は酸味を帯ぶるも、皮と共に生食し、また煮て食うほか、糖蔵して貯うる。その種類に、丸金柑、長金柑、唐金柑等がある。
 砂糖漬 金柑の砂糖漬は、丸金柑が最もよく、金柑に小刀で縦に切目を入れ、湯に投じて火にかけ充分()で、核を抜き水気を去り、鍋に移し砂糖を加えて、烈火にかけて煮たる後、砂糖につけ込むのである。
 甘露煮 金柑の甘露煮は、これも丸金柑を寄せ針で八方突つきまわし、それを水に一伺浸して渋味を抜き、中火で湯煮して水気を去り、さらに多量の水と、砂糖たくさんに入れて、ひたひたの水加減にして、そろそろ注水しながら文火(とろぴ)で煮るのである。
 黄金玉 「黄金の玉」とて、未熟の金柑を選び軸を去り、よく水洗いして目笊(めざる)に上げ、充分に水気を断りて、多量の水と共に小鍋に入れ、中火にてしぼらく煮込み、ほぼ軟らかに煮えたる頃、湯をすてさらに微温湯を注し、十分間も煮た上、湯を去って銅鍋に移し、ほどよく醤溏を注して焦げっかぬようにからりと煮つけ、鍋を下し際に白砂糖をふりかける。これは五代目市川団十郎、白猿が創意の調理法である。
 金柑はよく女児の酸漿(ほおずき)にも用いられ、多くは料理焼物などに添えられたもので、
   金柑やそのまま戻る上り膳
という句もある。賀茂真淵の説には小柑子を金柑といい、大柑子を蜜柑とあるが、契沖は小柑子を蜜柑とし、大柑子を九年母(くねんぼ)との説をなしている。しかし、謡曲「通小町」の文にも、大小柑子、金柑とあれば、金柑は一種別のものであろうとおもう。
 金柑   銅脈
小分杏類例。 賞美用天時。
美味何中坐。 禿頭老仮名。
時時飛一口。 毎毎見丸煮。
竟没庖丁削。 何辺大面行。


最終更新日 2006年01月15日 15時23分27秒

林春隆『野菜百珍』「二六〇 きな粉の話」

二六〇 きな粉の話
 きなこは、大豆を()りて石臼で(あら)()いたものを、皮を去りてさらに細かく挽き、篩にかけたもので、また青粉とて青豆にて製したのと、これに青海苔の粉を混じて製したものなどである。
 これは牡丹餅、お萩、安倍川餅、団子などにまぶして用い、俗にきなこ餅の名がある。また米飯にまぶして食い、あるいは葛餅(くずもち)蕨餅(わらびもち)などに用い、その用途の多い滋養分のある加味食である。



最終更新日 2006年01月15日 15時27分41秒

林春隆『野菜百珍』「二六一 木の実の話」

二六一 木の実の話
 このみは、俗に椿の実の名とされているが、総じて喬木、果実の類をこのみ(、、、)と称するのである。謡曲「通小町」のこのみ(、、、)数々を語る文に、嵐にもろき落しゐ(椎)、人丸のかきほの柿、山のへのささ栗、窓の梅、薗の桃、花の名にある桜、あさの生のうらなし、いちゐ(アララギ)、かしい(樫)、まてはしゐ、大小柑子、金柑云み、とある。
 いずれもその条下に述べたが、それに洩れたると、食用になるものをここに拾うこととする。
 昔飢饉の時は草木の根も葉も食したが、その時また木の実で養用にし,たものは、無漏子(むろうじ)(蘇鉄)、(かし)の実、(いちい)の実、(くちなし)の実、くま笹の実、篠竹の実、ずずだま等である。
 枳殻の実 人家の生垣にするきこくと似たるものなれど、枸橘(臭橘子)と称する同種の物が生垣に用いられ、これにも小さき実はあるも食用にもならぬのである。よくこの葉を煮食すると疥癬(かいせん)に効があるといい伝える。枳殻(からたち)の実は熟すると皮薄く味は苦酸く、食して薬効の多いものである。
 楮実 こうぞの実は、雌木にのみ楊梅(やまもも)に似た実を結ぶ。その半熟の時に採って、水に浸して子を去り、糖蜜にて煎じて食すれば、肌膚を美しくして強精剤となる。一名を楮桃という。楮の皮は紙に製し、布に織ることは人の知るところである。
 榛実 はしぼみの実は、儲の実に似て、栗の如く生食されるもので、一名を秦栗といい、葉に(しわ)多きゆえ、葉しわみの名がある。この実を常に食えば飢えをたすけ、気力を増進するという。
 櫟実 いちいのみは、かしの実と酷似し、尖頭に毛あるものがいちいの実である。これは炒りて食し、また粉にして常に貯う。
   ぼつたりと小屋に櫟の雫哉(しつく)
 椎実 しいは殻斗に属する常緑濶葉樹で、その実が澱粉に富み、救荒の補食として木の実中に重要のものである。初冬この実を拾い、炒って児童が嗜食する。
   足もとの椎見た謙り山路哉
 このほか、(むく)(とち)、栗子、桑、まるめろ、かりん、胡桃(くるみ)(かや)などの話は前に述べてある。
 一茶の句。
   夕暮や木の実が笠をうつの山
   団栗(どんぐり)のねんねんごろりころり哉



最終更新日 2006年01月15日 15時29分42秒

林春隆『野菜百珍』「二六二 木の芽の話」

二六二 木の芽の話
 古歌に「やかずとも草はもえなん春日野を、ただ春の日にまかせたらなん」と、春の陽気に下萌えの草と共に樹々の嫩芽(わかめ)は、木の芽もやしと称えて草花の下もえに同じこころである。この頃より食用にされる木の芽は、まず山椒の芽が田楽や木の芽和えで、その名を占めているが、枸杞(くこ)、たらの木、くさぎ、藤の若葉、楪葉、五加木(うこぎ)、茶の芽などと数えあげたら、大体の嫩芽は食えるものである。
 そのほか花卉(かき)の芽では、芍薬、けし、茴香(ういきよう)車前(おおばこ)、大蘚、(あかざ)商陸(しようりく)、苦菜、つわぶき、(もぐさ)、山蒜、酸漿(ほおずき)などのくさぐさはあげて算え難いほどある。これらの異味食はこの『百珍』を通じて、随所に述べてあるものを参考にせられたい。
 さて木の芽の用法は、
 木の芽酢 木の芽の葉ぼかりを摺りて、酢と砂糖を少し加え、食塩にて加減して青酢に用う。木の芽和え 木の芽を擂鉢(すりぽち)でよく摺り潰し、白砂糖、白味噌を加えて材料をあえる。
 木の芽佃煮 木の芽の葉ばかりを採り、うす塩水にて洗い湯煮し、水に(さら)して水気を去りかたく絞り、鍋に白砂糖、醤油を入れ、汁のなくなるまで煮こむのである。これに昆布、筍、松茸などを刻みて煮込むもよし。
 木の芽飯 前の如く湯煮したる木の芽をよく絞り、細かく切りて炮烙(ほうろく)で炒り、飯のうつし際に
混ぜる。最も塩味にすること、茶の芽、枸杞(くこ)などことによし。木の芽漬は京の名物。
   塩売りのくらま詣や木の芽漬



最終更新日 2006年01月15日 15時30分43秒

林春隆『野菜百珍』「二六三 黍の話」

二六三 黍の話
 きびは、黄実の意か。シナでは古昔これを五穀の長として貴び、わが国でも神代の頃より食用とせられた。不毛の山地にもよく生じ、これを救荒作物として栽培されたもので、その茎を(ほうき)に用うるを見ても、農家が多く栽培して貯蔵したことが察せられる。
 (きび)は立夏に種を下し、初秋に至りて収むもので、粟に似て低く小さく毛がある。子を結び枝をなしてことに散ず。白く淡黄を帯び、粒は粟よりも光りがある。(うるち)きびは飯に炊き、もちきびは団子にする。
 ただきびというは稷(うるきび)と書き、粘り気が少く、昔は山間で飯に炊いたもので、黍(もちきび)は粘り気が多く養分にも富んでいるから、常に多く栽培されたものである。
 例の桃太郎が鬼ガ島征伐の兵糧となったこの黍団子が、米の成る木を知らぬという岡山の名物となって、吉備団子(きびだんご)の名は世界に知られている。この吉備団子は安政の頃から売り始めたものである。
 また、もちきびに、赤黍、黒黍の二種あって、赤黍は酒に製することがある。その茎が黍箒になって日常の用器とされる。
「三才図会」に、赤黍の葉を乾してこれを服すると、酒を飲んでも酔わぬと載せてある。嵐雪の句に、
   我門のさびしさを引く黍畑
 また赤黍と慧苡仁(よくいにん)を等分に丸薬として、婦人に服さしめると妬まずなどと書いてある。焼餅家の妻君を持った人は、大いに試むべしだ。



最終更新日 2006年01月15日 15時31分34秒

林春隆『野菜百珍』「二六四 求肥の話」

二六四 求肥の話
 ぎゅうひは、白玉粉をこね丸め、蒸し上げて多量の砂糖を加え、さらに銅鍋にて煉り煮つめたもので、その形が牛の皮に似たるより、もとは牛皮と称えたるを、佳字に改めて求肥と書いたのである。京洛五山の僧はこれを犬皮と呼んだとある。
 この求肥に、海苔(のり)入り、胡麻(ごま)生姜(しようが)紫蘇(しそ)などを混じたものを製し、また求肥飴、求肥餅、求肥饅頭がある。



最終更新日 2006年01月15日 15時32分32秒

林春隆『野菜百珍』「二六五 金団の話」

二六五 金団の話
 きんとんは、もと橘飩と称し、長崎の南蛮料理に用いたもので、初めは小麦粉に色彩して果実で味をつけた舗詢で、今の如く煮潰したのではなかった。俗に今きんとんというは、栗を最上として、菜豆、蚕豆、くわい、十六虹(じゅうろくささげ)、いもなどを材料として砂糖を加えて煉ったもので、多く口取肴に用いられるのである。



最終更新日 2006年01月15日 15時34分43秒

林春隆『野菜百珍』「二六六 菊の話」

二六六 菊の話
 きくは、シナと日本とのみで食用にされるもので、この菊は奈良朝の末にシナより移りしものにや、延暦の頃の歌書には菊の歌を載せ、山上憶良が秋野花にも藤袴とて菊を詠み、そののち菊の節会に菊花を挿すことも行われた。菊をふじはかまというは、古え袴にも香を焚きしめたるより、菊の香に寄せて称したものである。
 さて、花の小さき黄菊または白菊の一種は食用に供し、これを料理菊と称するのである。
 菊花漬 黄菊の花弁を摘み、塩一升水一升の割に煮立てた汁を一夜冷しおき、その中へ菊の花をひたひたに漬け込み、軽く圧石(おもし)をして貯う。
 淵明包 唐淵明の名に因み、菊の葉に衣をかけて、胡麻の油で揚げるのである。
 霜の菊 これも菊の葉におぼろに衣をかけて、油で揚げ、その上に食塩をふりかけたのである。
 菊の花をさしみのツマにするは、花をさっと()でて数時間水に(さら)し、よくしぼって食塩を加えた酢に浸して用いるのである。



最終更新日 2006年01月15日 15時35分16秒

林春隆『野菜百珍』「二六七 黄烏瓜の話」

二六七 黄烏瓜の話
 きからすうり(括楼)は春、旧根より生じ、(つる)甚だ長く、葉は互生して円く、五七尖にしてきゆうりに似て毛がなく、光がある。葉ごとに(ひげ)ありて物に絡む。夏の半ばに葉の間に白い花を開く。形、烏瓜の花の如く、瓜を結ぶこと烏瓜より大きく短し。熟すると黄色となり、生食して佳味である。
 子を薬用とし、根は葛根の如く、あるいは連珠して瓜の如し。これで天瓜粉を製するのである。



最終更新日 2006年01月15日 15時35分52秒

林春隆『野菜百珍』「二六八 木苺の話」

二六八 木苺の話
 きいちごは、山野に自生し、高さ三、四尺に叢生する。茎に(とげ)多く、初夏梅の花に似た小花を開き、実は草苺(くさいちご)に似て、黄にして大きさ五分ばかり、甘味芳香に富み、食用とする。懸鉤子の名がある。



最終更新日 2006年01月15日 15時39分48秒

林春隆『野菜百珍』「二六九 きんまの話」

二六九 きんまの話
 蒟醤は、安南地方の植物で、樹に縁って生じ、その実は桑の実に似て、熟して青く長さ二、三寸、これを蜜漬とする。



最終更新日 2006年01月15日 15時40分54秒

林春隆『野菜百珍』「二七〇 柚の話」

二七〇 柚の話
 ゆずは柚の実をいい、訛ってゆうと俗称する。柚は初夏に小さき白花を開き、初冬に実を結ぶ。味極めて酸く、皮(こうば)し。汁液を酢とする。また花柚は樹小さく、皮にいぼが多い。樹にあって久しく落ちず、故に常柚の名がある。
 色の青い時、皮を剥きて酒食の香気をたすく。また花を用いて花柚とも、皮を松葉に作って吸口に用う。
 さて調理は、
 柚の貝割 柚の種をざっと洗い、小さな箱に濡れ砂を入れ、それに種を蒔き、上にも軽く砂をかぶせ、その上を(むしろ)で蔽い、時々水を注ぐと日ならず青い貝割の芽が生ずる。それを吸物、酢の物の上置きに用う。
 煮染柚 柚の皮をそのまま煮て(醤油にて煮る)、さて内皮をすき取るのである。
 柚ひしお 柚の肉を去り、皮ぼかり六個、砂糖(四、五十匁)とたまり少々によく煮こみ、最後に胡桃(くるみ)(十五個ぐらい)、葛粉一合を入れて、ざっと煮上げる。
 柚餅子 ゆべしは、柚の皮と核を去り、実ばかり細かに刻み、擂鉢で十分摺り、胡麻少々と味噌と古酒少量を加え、さらにょく摺り交ぜ、裏漉しにかけてのち米の粉を加えて適宜にこね合せ、蒸籠(せいろ)で蒸し上げ、冷して好みの形に切る。また、くりぬきたる皮の内皮を剥ぎ、それにこねた材料を詰め込み、皮のまま蒸し上げるもよし。
 柚味噌 柚の皮を細かく刻みて、よく擂鉢で摺り潰し、白味噌、砂糖にて味付け、またよく摺りまぜて、文火(とろび)にてよく煮しめ、冷して、くりぬきたる柚につめ込み、葉付のまま蓋をして出す。味噌に松茸、銀杏などを入れるもよし。柚味噌をゆるめて(八方汁で)、田楽、風呂吹きに用いるも妙である。
 備後産の粳煉(うるちね)()べしは、薄く切りて吸物種にするもよし。柚味噌を小さく丸めて白砂糖にまぶし、茶菓子にするも妙である。
 そのほか、柚煉り、柚羊羹、柚まんじゅう、柚入りおこしは、冬月のふいご祭りのもの。
 菊柚子、松葉柚子、車柚子 これはいずれも苦味と肉種をぬき、その形にして砂糖煮としたものである。
 その他、柚の香味を応用して製菓に応用される。柚は正月の祝儀に(だいたい)と同じく、しめ飾り、蓬莱(ほうらい)にも用い、めでたきものの一つとされている。
    柚子     銅脈
  不病疱痘跡。 真黄面色均。
  酢酒松茸絞。 空籠味噌洵。
  毎度多成線。 尋常有功輪。
  只将香気好。 捨実用皮頻。



最終更新日 2006年01月15日 15時45分33秒

林春隆『野菜百珍』「二七一 柚柑の話」

二七一 柚柑の話
 ゆこう、花実とも柚に異ならず。ただしその実は甚だ太く香り高く、柑子に似たものである。



最終更新日 2006年01月15日 15時46分07秒

林春隆『野菜百珍』「二七二 雪の下の話」

二七二 雪の下の話
 ゆきのした、虎耳草と書き、また石荷葉と称し、青苔の生ずるところに、初冬湿潤冷かに小花を開き、その葉の斑紋が虎の耳の如くなるより虎耳草の名がある。
 この葉に衣をかけて胡麻の油で揚げる。また小児のひきつけたるに、そのしぼり汁を飲ますこともある。



最終更新日 2006年01月15日 15時50分17秒

林春隆『野菜百珍』「二七三 百合の話」

二七三 百合の話
 ゆりは、古名を佐韋と称し、花弁大きく茎細く、風に揺れる故その名ありという。山野に自生し、また園圃に栽培するもの、その種類多し。山百合(やまゆり)、作百合、透百合、黒百合、姫百合、唐百合、鹿()()百合、博多百合、糸百合、平受百合、車百合、鉄炮(てつぼう)百合、鬼百合、児百合、笹百合、袂百合、北海百合等にて、その鱗茎の食用とすべきは山丹、巻丹の二種に属するものにて、黄色を帯びたるを貴び、紅色これに()ぐのである。
 その名の多きは花の形または斑紋等によって名づけたるもの多く、中にも姫百合(山丹)は、花も葉も小さく、葉は柳に似て花赤し、古歌に、
   庭の面の土さへさくる夏の日にひとり露けき姫百合の花
 また狂歌に、
   深草に咲まじりたる姫ゆりは、小野の小町のおとし子であろ
 この姫百合の優しさにかえて、鬼百合(巻丹)は、花赤く六弁で黒点がある。山丹よりは大きく鬼の名に似ず、この百合をもって佳味最上とする。狂歌に、
   結句そちに人臭いとやかぎぬらん香をかぎよりし鬼百合の花
 また立圃の句に、
   鬼ゆりの名も忘らるる色香哉
 さて百合は上品なるものにて、精進料理にも、牡丹(ぼたん)百合、花百合などとその美しい姿のまま用いられる。またその鱗茎を離して蓮花の如く散らして応用するもよし。出雲の産に大塊の百合あるも、近来北海道の産をもって普通上品とされる。東北地方は数年地中に鱗茎を養いその年数を経たるほど佳味なりとし、ことに越後の百合の名最も著わる。
 さて調理は、
 花百合 百合根の上皮を剥き、よく洗いて白き処の、鱗状の(さき)に庖丁を入れ、蓮花または牡丹の如く刮りて、形のくずれぬように蒸籠にならべて蒸しあげ、そののち八方汁にて煮味して出す。
 源氏百合 頃合の百合根をそのままよく洗い、薄味にて煮る。それに薄紅の衣をっけ胡麻油で揚げ、横に二っ切りにして中身の花紋を仰向けて出す。
 茶巾百合 これは味つけ煮くずしたる百合根をしばらく蒸らしおき、それに挽茶を加えてまぜ合せ、濡れ布巾で包み、軽く(ひね)りて茶巾形にする。
 百合羮  これも前の如くしたる百合根を、裏漉しして砂糖、塩で味をつけ、鍋に入れてよく煉りおき、別に寒天を溶かしてこれに加え、中火でとろとろに煮上げて枠箱に移す。この中へ、銀杏、栗、乾ぶどう、納豆など入れるもよし。またシナ食料の「藕粉」を用いて煉り合すれぽ軽便に出来る。
 黒和 これも前の如くして、黒胡麻たくさんに味噌を摺り交ぜ()えて出す。
 酢和 前の如く、わさび味噌で和える。
 酢漬 これは生酢、二杯酢、三杯酢に漬けて、取肴につかう。
 砂糖掛 よく湯煮したかき百合根を器にもりて、上より白砂糖をふりかける。
 醤かけ  これももろみに砂糖を合せてかける。
 葛溜掛 これも葛たまりを上よりかけ、また味喀をかけて、上に山葵(わさび)を置く。
 寄百合 かき百合を生にて数枚かぶせて、うどん粉または寒晒粉でとじ、胡麻の油であげる。
 そのほか、煮付、焚出しなどいずれに用いてもよし。百合根はよく苦味あるものが多い。求める時よく注意すること。
    巻丹根    銅  脈
  花尽遣全盛。 其中又一拳。
  牡丹苟薬後。 桔梗苅萱前。
  堀土疑埋蕾。 離根訝散蓮。
  銀匙従折柄。 硯蓋見塩懸。



最終更新日 2006年01月15日 15時53分20秒

林春隆『野菜百珍』「二七四 湯葉の話」

二七四 湯葉の話
 ゆばは、うばともいい、湯波とも書く。大豆をもって製し、自粥の如くしたる煮沸の上面の膜皮を取ったもので、湯の波という方があたる。しかし、乾燥して薄葉となったところは湯の葉である。どちらにしてもたよりない食品であるが、これがなかなか滋養分に富んで、精進料理の役割になくてならぬものである。
 湯葉の種類は、糸湯葉、かせゆば、小巻ゆば、島田ゆば、平湯葉、軸ゆば、生湯葉、その他の細工湯葉がある。
 さて調理は、
 蒲焼 摺り豆腐に味をつけ、これを平湯葉に伸ばし、片面に浅草海苔を二条にのせ、またその上に湯葉を一枚置き、幅一寸五分ぐらいにし、その両端は湯葉で巻き、これを(くし)にさして胡麻油であげ、さらに煮て味付け、粉山椒を添えて頃合に切って出す。これは精進の鰻の蒲焼でちょっと美味いものである。その他、かせ湯葉の付焼、生湯葉の煮付、巻湯葉の味噌焼、糸湯葉、平湯葉などは、月環、包み湯葉、いこみ瓜などに用い、軸ゆばは油であげるなど、いずれ巻いたり包んだりする料理にこれを用いるのである。また湯葉の細切りを酢味噌で食ったり、糸湯葉と胡瓜うどなどの二杯酢もよい下物(さかな)になる。湯葉はなるべく生湯葉を求めてつかえば美味な調理が出来る。また湯葉製のぎせい豆腐もある。
 湯波   銅脈
本雖成豆汁。 湯沸釜黄波。
角畳真平紋。 丸伸細永摩。
生時柔恐裂。 乾又皺如磨。
箱底経年久。 水浸若旧和。


最終更新日 2006年01月15日 16時18分23秒

林春隆『野菜百珍』「二七五 扁蒲の話」

二七五 扁蒲の話
 ゆうがおは、俗に夕顔と書き、俗謡にも「夕顔棚の下涼み」といい、春種を下ろして夏月に雪白の花を開き、炎天の日覆いにもなれば、朝の(あさがお)に対して夕のゆうがおは、終日の疲労を行水に流すとともに、情味ある夏の景物である。
 扁蒲は長夕顔、長ふくべ(瓠)とも多くその肉を乾瓢(かんびよう)に製するが、九州地方では、これを「ゆ
うご」と称し、胡瓜、越瓜の如く調理して食用にする。また煮食すると冬瓜(とうがん)に似た味にて、その調理も冬瓜と同じく用いられる。
「夫木集」に、
   夕顔のみさへむなしき戸ほそこそ、さして浮世のこともしらるれ
 また支考の句に、
   酒呑にいひ(なづ)けあり生瓢
     千壺盧     銅脈
   疇昔夕顔面。 誰知遇日干。
   切輪測薄刃。 垂尾掛横竿。
   烹出尋蹤少。 煮占結帯寛。
   芝居花見節。 併在便当看。



最終更新日 2006年01月15日 16時21分50秒

林春隆『野菜百珍』「二七六 朱桜の話」

二七六 朱桜の話
 ゆすらうめは、初夏の頃実を熟して児童を喜ばすものである。桜桃に似て小さく、味もまた淡泊である。
 その種類多く、紅色を朱桜、紫に細黄点あるを紫桜といい、この実がもっとも美味である。黄なるを臘桜、薄紅を桜珠という。庭木としても花を賞するものである。



最終更新日 2006年01月15日 16時22分42秒

林春隆『野菜百珍』「二七七 飯の話」1

二七七 飯の話
 例の蜀山人が、
   世の中はいつも月夜に米の飯、さて其うへに金のほしさよ
と。この米の飯がお月様と一緒にどこへでもついて回るような、気楽な世界じゃない。芭蕉も、
   花に浮世我酒白く飯黒し
と処世難を吟じている。
 さらぽ飯は百味のヒ乗味で、いくら百珍千羞を列ねても、この飯が欠けては食道楽の去勢である。また善美を尽した膳部でも、この飯がなければ空気の抜けたゴム(まり)と同様である。で、飯を御膳というもこの理で、膳といえぽ必ず食物の調うたもので、ただ器具のみを称したものでない。俗に膳だて、膳こしらえなどという如く、その料理のととのうたものを御膳と称し、古えはこれを御台ととなえた、台盤所を今も台所というのもその遺風である。また単に御膳と呼び御飯というも、その主食たる飯を貴ぶ習わしであろう。
 米の飯はわが国建設の時代よりも常食とされた。米の話は前の条に述べたが、農業をもって国の本と定めさせられた仁徳天皇の朝にも、すでに春米部を置かせられた記録がある。大国主大神が俵をふまえているのも、千足瑞穂(ちたるみずほ)のわが国の表徴である。僧家でもまた心ある人が、食前に飯を少し取りのけるは、これを産飯を取ると称し、その労耕に報ゆる謝恩である。(からす)にも反圃の孝があるから、まして人間として三匙(さんぴ)の礼がなくてはならぬのである。
 また飯という音を命司という義だなどと説かれているが、飯はみをし(、、、)の転語で、神代巻にもこの訓がある。昔鷹に餌を与えるをおし(、、)すると称えたもこの意である。
 さて飯の沿革については、往古は貴賤ともに朝は(かゆ)を食し、昼はかれい(乾飯)とて、焚干の飯を食したのである。源氏その他の古い物語などにも、朝のところにはかゆまいらせ、昼以後のところにはかれいまいる云々とある。「九条殿遺誠」にも朝のところに「服粥次梳頭」という記文がある。また古えは食後に水を飲みしものと見え、大織冠鎌足が入鹿(いるか)を討った時、食後に水を送くとある。それより三百五十年ほど後の一条天皇の御時には、人の気力も薄くなって、食後に湯を用いることとなった。しかし夏日水飯などを食うことは近世までも行われた。
 また飯の器も、古えは中下の人はあかめ(がしわ)の葉、あるいは(ほお)の木の葉にのせて食した。その後鎌倉幕府の時、ある人が楮の葉に盛って食するところを藤九郎盛長が見て眉をひそめ、世もすでに文華に(おもむ)けり、この後いかように驕奢(きようしや)に至らむと歎息したことがある。
 いまも膳の和訓にかしわでというもその(、、、、)風で、のち土器曲物(かわらけまげもの)を用い、土器の小を「こちゅう」、俗にいうへそかわらけ(、、、、、、)。大を「三度」、いまの三つ組盃の初めである。それより五度、九度、十一度、十三度、十五度と、土器は十五度入りで止む、即ち十五重の食器である。また「そくび」「あいのもの」「へいこう」(平高)等の名がある。これらが今の平、壷、椀、向付、猪口の類に変化したものである。
 中世以来、漆椀があって、「延喜式」に漆椀、陶椀のことが載せられ、堂上には朱塗り黒塗りの椀、また饗宴の時は、朱の大盤、黒の大盤ということもあった。それを民俗にも(なろ)うて椀飯(おうばん)振舞いと称した。しかしその頃中輩の者でも漆器を用いず、因幡亢子と称し、いなぽの国から出る木地椀を用いた。古歌に「奥山のしら木のかうしそのままにうるしつけねばはげ色もなし」とある。
        *                   *                 *
 古来、常食は強飯を本とし、瓶にかけて蒸したもので、今も祝日におこわ(、、、)と称して赤飯を用い、盂蘭盆に白むしと称えて精霊に供えるも、皆この遺風である。往古、平食の強飯はうるし(粳)を用い、もちこめ(糯)は式日に用いたものである。天子の供御もこの蒸し飯を奉り、鎌倉時代までもこの風であった。
「海人藻芥」に「毎日の供御は御めぐり七種御汁二種なり、御飯はわりたる強飯を聞召す也」とある。また同書に、公家御飯は強飯也、「執柄家姫飯如此全分略義也、但人々依好悪用之云々」とある。また「資益王日記」に、明応十年正月条、諸国の遙拝の後三献あり、次にオコワ、次に比目云々とある。比目は、「和名抄」に「編糠和名比女或説云、非米粥而非粥之義也」と、またその次に粥のことを「。和名之留加由薄糜也」とある。
 で、比目はただ粥でなく編糠(、、)の字によって考えるに、編はやきこめ、糠はむぎなわと訓めば、諸説には常の飯とあるもむぎなわの名によって考えると、冷麦の如く粳米をもって(こしら)えたる、俗に牡丹餅のようのものでなかろうかとおもう。あるいは古き餅の如きもので正月に姫初めと称するものが、この餅を食い始めるの義でなかろうかともおもう。強飯につづいて常の飯を食うということもいかがである。またその頃、酒の下物に牡丹餅を出したということが載せられた書もある。しかしひそかに考えるに、姫飯は強飯に対する軟らかい飯の意味で、鬼百合、姫ゆりという類かともおもう。もっとも粥でないことはたしかであるが、常の飯とは(うけ)がわれない。
 これは他日の攻究にまわして、さてこの飯の分量は、昔は武家では朝夕の二食で、一人二合半ずっ一日五合を給した。僧家でも台密の二宗はその昔は一食であって、叡山の衆僧が坂本へ事を食いに下ったということもある。事とは世事に(なら)うという意味であった。その後禅宗でも朝粥午食の二食で、夕食は摂らないかわりに薬石とて、寒気の頃は石を焼いて腹を温めたもので、それが今薬石を食事の名と心得ている。茶事にも薬石とて茶会席を供するなどのこととなった。
 僧家の食数は、仏教で四時食と称し、一に天食時、二に法食事、三に畜食事、四に鬼神食事となして、午後は一切食事を摂ることがなかった。それで夜飯、点心、一日三飽、食力無数は、修行するものの堅く戒められたことである。この武家    室町時代に農人などの三食から移って、町人らがこれに倣うたものであろう。
 しかし、力役する下賤、農夫、工人等は三度の食事も間炊(ーんずい)も食したが、武門在家では朝夕二食が、徳川幕府の初期の頃まで行われた。寛永頃におあんという老女が物語にも、ひる飯を食うことなどは夢にもない云々とある。それで今もひる(、、、)を中食と称している。またその頃の旅行にも概を袋に入れて携え、旅籠宿でよぽして食事したものである。それが三百年も続いた江戸の繁昌から、大名の贅沢は一粒撰の白米を炊かせて食うようになった。その頃の料理書にも、長い箸で米粒を撰っている図がある。
 飯粒をこぼしてさえ眼が潰れるというに、その飯粒のために将門も秀郷に愛想をっかされた。しかし、酒でさえ量なしというから、況んや飯においてをやで、三度のほかに小中食も夜食もやって、それだけ食いこなすほどよく働けば、百丈禅師の耕して食う主義にもかのうて、一茶のいう大飯を食う御代の春である。
 飯は人の機であるがら、生きんとするにも、伸びんとするにも、この肥料をよく選択して施さねぽならぬ。で、天子様に食を供するを進御と称し、おすすめするのである。
 古来、賓客に飯を専らしいることを礼儀とした風習は、いまも遠国辺土の民間では行われている。下野の日光に「強飯(こうはん)」ということが行われて、これを日光責めといい、山伏僧などが棍棒をもって食膳の前に進み、これを食う人に対して強いて大食をさせる儀式がある。これは深山開闢(カいぴやく)の当時より、幽谷の鬼神を祀る遺風でもあろうが、唐書「南朝平攘録」というに、日本の記事中「奉客飯、大木椀、尖盛食、将半、又添其尖、為敬」とある。いまも客人にてんこ(、、、)盛りに飯を出す風習がある。また婚礼の時に鼻突飯とて大椀に山盛りの飯を食う。葬式にも出たち飯とて一杯限り食う飯もある。何事にも食うことが先である人の世の中だ。
 ただ飯というのも、強飯、麦飯などに対して、米の飯を白飯といい、単に飯というのである
(米の話参照)。
 田舎や僧家で麦飯を食うのは、穀類を倹約するためであるが、都会の人が麦飯を食うのは奢侈(しやし)のためである。汁をかけたり、とろろ(いも)などの好みは、常の食よりも費えが多くなるのである。世俗節分の夜に恒例として麦飯を食うは、常に米食をする者の倹を忘れぬためである。
 握り飯は古えは屯食(とんじき)と称し、またむすびは(ヘヘへ)飯の意で、女詞である。これは旅行の携帯に、諸事混雑のみぎり、または非常の時などに、膳部をととのう暇なきより飯を握り、菜を添えて振舞うのである。観劇などにもこれを出して幕の内と称する。
 また飯を煉ったものを続飯(そくいい)と書き、糊の代用にされるが、これも古く用いられたので「宇治拾遺」にもこの文がある。前に姫飯のことがあるが、糊を俗にひめ糊というのも、このぞくいに対して軟らかい糊という意であろう。狂歌に、
   とき得たる菩薩(ぼさつ)ののりの力にてしやうしの明りはらす嬉しさ
というのがある。飯を菩薩というからその糊の力で生死(障子)の明るく張り(晴らす)かえられたという障子張りの洒落である。
 飯の釜底(かまそこ)で焦げたものを俗におこげというが、これは(ヘヘへ)味いもので、茶事の時にこの湯を湯桶と称して出すが、これは焦湯と称し、徳川初期の名医曲直瀬(まなせ)道三が創意したもので、釜底の焦げに湯を濫して・胃熱を去る漢方の治療に用いたのであった。シナでもこれを「鍋巴」と称し、飯を焦がしたところへ汁を()けて食う、これも胃の悪い時に食うて治すのである。また「白雲片」とて、シナの点心(間食)に米飯を鍋底で炒り焦げたるを油炒りにして砂糖をかけて食う。俗にまるめろ、また、ちゃんなどと称し、蜜砂糖で煉り固めたものは、これから変化したものであろう。
「説文」に鑚以美澆飯也(、、、、、、)とあるは、汁かけ飯のことである。今の俗に、飯に汁をかけると卑しいというが、昔は貴人の席でも汁をかけて食うたものである。武者物語に、北条氏康の前で、嫡子氏政が相伴(しようばん)の時、氏政が一飯に汁を二度かけたのを見て、氏康はその子の量を知ることの明のないのを察して、北条氏の行く末を歎息したことがある。いまもよく、お菜ばかり食って不足いう駄々ッ子がある。これらも食の量を忘れるとともに、その遠大の目的にたてずに、資産を食い潰してしまうのである。
        *                     *                     *
   三度炊く飯さへ硬し軟かし、思ふままにはならぬ世の中
とあるが、この米の炊き加減はいつもお(さん)や権助が小言の的となるが、もとより水田に育った米であれば、水加減と火加減さえ適宜にすればよい。初めちょろちょろ中ぽっぽなどと(はや)し立てて炊かずとも、一合炊くにも、一斗炊くにも、その水加減にあることで、大寺などでの大法会には一釜に三斗ぐらいは炊くこともある。
「積徳…叢談」という書に「飯を早く炊くには、竹筒に水を一杯、白米を八分ばかり入れて、口を固くふさぎ、その竹を火の上にてぐるぐる回しつつ炙ると、やがて飯となる」とある。著者も松茸飯を一升徳利で炊いたり、筍の筒に米をつめて炊いたりしたことがあるが、そんな芸当はせずとも、三度の飯をうまく炊いて食わすは、実に一家の幸福である。



最終更新日 2006年01月16日 18時29分52秒

林春隆『野菜百珍』「二七七 飯の話」2

 それでは、四季に分けて飯の料理に取りかかることとする。
     春  の  巻
 海苔飯 飯を少し(こわ)い目に炊き、ひどり海苔をうら漉しにしてむれた後、塩少し加えてまぜる。
 枸杷飯 常の菜飯の如く、くこを細かく切り刻み、沸湯を注けてよく絞り、焼塩少々加減してまぜる。
 五加木飯 うこぎ飯も前に同じ。
   西行にお宿申さむうこぎ飯
 紫蘇飯 しそ飯も同じ、塩を加えず。
 土筆飯  つくしの茎の袴をよく去りて、()でて細かく刻み、ざっと味をつけ、その煮汁とともに前の如くまぜる。
 桜飯 普通の飯の水加減にして、米一升に酒五勺、醤油一合の割に加えて炊く。これを蛇飯ともいう。また(たこ)を軟らかくうでて足を薄く輪切りにし、むれ際にまぜるのを桜飯ともいう。
 小豆飯 小豆を煮てその赤色の汁を取り、これによく磨いだ米を浸し、水加減して小豆を加え、塩少々入れる。
 椎茸飯 生椎茸(しいたけ)の軸を去り、細かに切りおき、米は常の如く水加減して、飯の煮立っ時、椎茸を入れまぜ、味淋と醤油を()す。分量は桜飯の如くすること。
 菜飯 小松菜その他たんぽぽ、嫁菜などをよく洗い、細かく刻みて布巾に包み、沸湯にくぐらせて手早く水気を去り、これを拡げて塩をふりかけ、飯をうつす時にまぜる。
   春雨や菜飯にさます蝶の夢
 このほか、春は鯛めし、鯛茶、長崎のカピタン飯、白魚、(はまぐり)(ししみ)、かき飯などの魚類に属するものがあるが、ここでは野菜だけに遠慮しておく。
   花嫁は数へるやうに飯をくひ
        *                  *                  *
 また春寒の頃には水雑炊(みずぞうすい)がある。
 水雑炊 これは飯を冷水にて洗い粘りをとり、青菜をこまかく切りたたき、湯たくさんによく煮て出す。焼塩をあんぽいすること、また豆腐を細かに切り、等分に入れて、湯たくさん焼味噌少し加え、出すまえに海苔をはなす。
 例の銅脈先生の詩に、
     鴨川水雑炊
   頗著同人日。 寛焼叩菜青。
   寒腸深夜暖。 酔気暫時醒。
   天上移湯夥。 鼻先香葉腥。
   昔従餐九太。 読本六行銘。
 これは院本忠臣蔵の茶屋場で、由良之助が九太夫に、加茂川で水雑炊を食わせ云々という文句を取ったもので、その頃流行した食道楽であろう。人日に同じ如くとは、正月の七種粥(ななくさがゆ)に似たものである。
        ○
   山寺の春の夕飯はやければ入相の鐘にはらぞへりける

     夏の巻
 筍飯(たけのこ)の皮を()き、よく()でて、細かく切り、米は普通の水加減にして、米一升に醤油一合、酒五勺の割で、よくかきまわして水より煮きあげる。
 崖ぱ飯 虹豆(ささけ)嫩芽(わかめ)を五分ばかりに切り、酒と醤油と等分に合せ、少し酢を入れてさっと青煮にしあげ、飯を移す時、ささげを汁とともにまきまぜる。
 蓮葉飯 蓮の巻葉か嫩葉の軟らかいものを採り、細かく刻み水気を去り、塩をふりかけおき、飯のむれる前に釜の中でまぜ、しぼらく蓋をしておく。その時、蓮の葉を飯の上に蔽い、蓋をしておけば、香気がよく染まるのである。
 蓼飯 これも(たて)を細かく刻み、青汁を絞りおき、常の如き飯に塩を加え、むれた時に蓼をまぜて移す。
 魏豆飯 えんどうの実を剥き、塩加減したる飯の煮立つ時に入れ、よくかきまぜて炊きあぐ。また始めから豆を入れて仕かけるもよし。
 青豆飯 枝豆の実を前の如くして炊く。米一升に豆五合の割。
 茶飯 普通の茶飯は、番茶を煮出したる湯で水加減して炊き、これに米一升に、酒盃に一杯半、醤油少々を加える。また玉露の粉末にしたるを炮焙(ほうろく)で炒り、食塩を加味して飯のむれ際にまぜる。
 奈良茶飯 これは茶飯に大豆を炒りてくだきしものを加える。また焼栗を入れることもある。
 茶黄枯飯 茶きから飯は、茶を用いず、酒醤で色味をつけたもの。
 このほか、初夏に鰹飯、えび飯などがあるも、この頃は「飯櫃(めしひつ)へ顔をつつこむきつい暑気」という狂句がある如く、加役飯(かやくめし)は腐敗しやすいから、このぐらいにしておく。
     秋の巻
 松茸飯 松茸を短冊(たんざく)形に切り、米は常の如くより水を控え目にし、米一升に醤油一合、酒五勺を加え、水より炊きあげる方が香りがよく染みる。
 初茸、しめじ飯 もこれに同じ。
 栗飯 生栗の皮を剥き、米にまぜて常の如く炊く。また栗を下煮にして飯の移し際にまぜてもよし。
 黄飯 山梔子(くちなし)を水に浸けておき、その水で米を仕かけて炊く。米は糯米と半々にすれば強飯になる。これは普茶料理に用いることがある。
 蕎爰飯 新蕎麦、引きぬきのよいものを麦の加減にえまして、よく洗い、(ざる)に入れて水を()りおき、さて飯を強くほろほろとする加減に炊き、右の蕎麦をまぜて、こしきで蒸しあげるのである。
 豆腐飯 とうふを崩してよく絞り、薄醤油であま加減に味をつけ、飯は常の如く炊き、よく蒸れた後とうふをまぜるのである。
 ういきょう飯  常の飯のうえに茴香(ういきよう)の粉をかける。
 胡麻飯 前に同じ。
 そのほか、秋は日脚の短いが、腹は世俗にも、北山時雨(しぐれ)というからよく空腹を訴えるのである。されば、芋飯、五目飯、粟飯、とうもろこし飯、魚鳥類では鰯飯(いわしあし)鮪飯(まぐろめし)雉子飯(きじめし)、平目飯、鶏肉飯などの御馳走をするとよろしい。この魚飯は魚をおろしてすり身にして、よく湯がきて後金篩でこし、常の飯のむれ立ちて後にまぜる。もっとも、加役、かけ汁など添う。
   冬の巻
 信濃飯 大根を白髪にうち、飯は常の如く炊き、ふき上る頃に上に置き、蓋をしてよく蒸らし、うつす時にまぜる。大根たくさんなるがよし。
 雪消飯 豆腐を八杯の如く煮たる後、茶碗の底に盛り、おろし大根を上におき、その上に湯取り飯をよそいて出す。湯とり飯は、上米にて飯を炊き、のち沸湯に入れてかきまわし、笊へあげてまた元の釜に入れ、火の気わずかなる(かまど)にかけて、よくうますのである。
 焼飯 小さきむすび飯を、こんがりと焼き、茶碗に二つほど入れ、焼みそを冷して一っ入れ、よき出花をかけて、茶碗にふたをして出すのである。
 葱飯 ねぎの白根ばかりを細せんに打ち、よくうでこぼし、水をきりおき、飯を常の如く炊き、ふき上る頃、右の(ねぎ)を上に置きて蒸しあげる。また初めより米にまぜてもよし。
 その他、人参(にんじん)飯、辛味飯と、種々あるが略する。
 注意 さて、米は五味に共通して変化自在であることは、米の話でも述べたが、その変化力があるため、もし飯を焚きそこなった時に、片煮したら酒を少し入れ、杓子(しやくし)にてならしておけばよい飯になる。また火の人った時もシソが出来た時も、酒を少し入れるとよい。焦げ臭い時は焚火の炭を入れるか、(わら)のたわしを飯の上に置いて蓋をしておくか、また水を桶に入れて蓋の上に置くもよい。
 また冷飯を煖かく蒸すには、米櫃(こめびつ)に飯のはいったまま蓋の代りに、その上に布巾を冠せて紐でくくり、それを逆さまにして、釜に湯を沸かし、その上にふきんの口をあてがって蒸すと、蒸器に移して蒸したるよりは、飯の味が変らずに、簡単に出来る。
        *                     *                     *
 さて、飯の話もこのぐらいにして、初めに書いたお月様と米の飯でおもい出したが、茶祖の明慧上人の歌に、
   すつる身も柴の菴に田三反従者ひとりに味噌や塩まで
というのがある。耆山人も酒の通い路なくてかなわじといわれた如く、年に三両の一人扶持(ぶち)で三ピンと罵られた武士の端くれでも、無職では禄盗人とうたわれる。百万石の知行も一人の遊女に見かえたような馬鹿大名もあったが、上人の歌の如くに、人はその終りを計らねばならぬ。世の中の役に立たぬものを(ごく)つぶしといい、禅家でも糞袋子などと罵倒される。貞室が麦飯の狂歌に、
   貴からずして高位にももてなさん、麦の褌は御免あれかし
 またその麦粉に、
   粒々の汗をいただく麦粉哉
 また昔は夏日、殯飯とて水に浸けた飯を食った。これを水飯とも書くが、暑熱で飯の()ゆるを水に洗うて食うたもので、其角の句に、
   水飯にかはらぬ瓜の雫かな
 また引飯とて道明寺糒を水に浸して食ったのである。
 俗に食い延ばしというが、正月の喰積(くいつ)みはそれで、一年中の食物を積んでおく義である。何事をするにも食うに逐われていては成就(じようじゆ)することがない。で、飯の話は緊縮の第一義として蛇足をそえたのである。



最終更新日 2006年01月16日 20時48分42秒

林春隆『野菜百珍』「二七八 蜜柑の話」

二七八 蜜柑の話
 みかんは、芸香(うんこう)科に属する果樹で、果物中の重要なるものである。生食を主として、酒類飲料水あるいは料理に用い、初冬より春に至る、俗に赤ものの果実に乏しい時、ひとり柑橘(かんきつ)類が色彩を放つのである。その種類には、蜜柑、金柑、夏蜜柑、九年母(くねんほ)朱欒(ザボン)柚子(ゆず)、仏掌柑、オレンジ(ネーブル)、レモソ、クエソ等がある。
 その主産地としては、古い歴史のある紀州有田に大平、円、本蜜柑などの名品を出し、長州の温州(うんしゆう)は舶来種で甘味に富む種なしで、肥後には八代(やつしろ)、山吹、伊豆の紅蜜柑、伊予の絹皮、大隅の桜島蜜柑、山口、岡山の夏蜜柑、その他、駿河、伊勢、伊賀、大和、河内、和泉の各暖地、いたるところに産するのである。
 柑子(こうじ)の史に見えたるは、「続日本紀」に、聖武天皇の神亀二年の条に「初めて柑子唐国より来る。中務少丞佐味虫麻呂、先ずその種を殖て子を結ぶ」とあるを始めとして、空海の「性霊集」にも大柑子小柑子とあるは今の蜜柑のことで、「延喜式」には内膳寮園地に小柑子四十株と載せ、「三代実録」仁和二年に太宰府の例貢に小柑子のことがあり、また「江家次第」「明月記」「宇治拾遺」などの諸書にも大柑子の名が見え、蜜柑の名は「永享日記」に「永享七年十一月、霊光院に蜜柑を献ず」とある..しかしこの記によれば、蜜柑は大柑子の別種にて当時シナより舶載したものか。紀州有田蜜柑については、「元亨釈書」の高弁(栂尾(とがのお)の明恵上人)伝に「高弁は姓を平氏、紀州在田郷の人、二親仏祠に詣でて子を求む、母夢に異人の柑子を授くるを見て、尋いで孕む」とあれば、当時すでにこの地方に柑子の栽培あることが証される。
 また「紀伊名所図絵」に「相伝ふ天正中肥後八代より乳柑を得、糸鹿荘にうゑたりしに、勝れて気味甘味なれば、近郷の村々にも相競ひて接樹せしとそ、今は在田郡中延袤数里の間に数万珠の乳柑茂林をなして最大の産物となりぬ。初の頃は籠数も多く、京阪等へ小船にて積送せり。寛永十一年、四百籠ばかり大船に積んで初めて江戸へ送りたりしに、かの所にて大に之を賞翫す。それより年々盛になり明暦三年、鎌倉河岸にて商売の地を賜ひ、今に至りては在田郡より百万籠余、海士郡加茂谷より十万籠余、年々諸国へ送り下すといへり、皆北湊地島にて海舶へ積入れるなり云々Lとある。この地、今も林産海産物の饒多なるは名藩キ南竜公の遺業によるものにて、僅かに蜜柑の如きものをもって江戸に市場を特設されしは、当時公が威勢の致すところであった。その機に乗じて暗夜の狂濤を蹴って、かの紀文が一幗千金の利をこの蜜柑で得たのである。この有田蜜柑の記にもある肥後の八代(やつしろ)は、今も朱欒(サボン)の名産地で、この八代の高田という在所に景行天皇が種子を栽えしめられたと伝える巨木の蜜柑がある。これを八代蜜柑の祖木と称している。また文旦(ぶんたん)の名産地である山口県も蜜柑の産地で、屋代地方は佳品を出す。また長崎の生木力蜜柑も名がある。総じて箱根以西より九州方面へかけて太平洋に面した暖地は、いずれも蜜柑王国である。
 蜜柑について古い恋物語は、かの和泉式部が、まだうない髪かき上げぬ十三の年に、保昌というたわれ男と深く契って、ついに男の児をもうけた。その浮世の子を京洛五条の橋に捨てたのを、さる人が拾い養うて後、比叡山にのぼせた。その児が成長して道命阿闍梨(あじやり)という名僧になったが、その十八の歳に内裏八講会に請ぜられた時に、いかがしてか道命、ふと或る(ろう)たけた女房を見染めた。その後彼は柑子売りの姿にやつして、その女房を垣間(かいま)見ようと内裏に入り、柑子によそえて二十首の恋歌を詠んで、その心をほのめかしたので、禁中の取沙汰となって、ついにその女房は道命と契りを交した。ところが道命の肌の守り刀から、式部が昔五条の橋に捨てた私生子であることがわかったので、大いに驚き、道命はこれを菩提の種に、その夜播磨の書写山に上り、性空上人のお弟子となったという、和泉式部が恋懺悔の一節に、こうした甘い蜜柑がふくまれてあった。
 甘い蜜柑の恋物語にっいで、この蜜柑は優しい女性の玩弄(もてあそ)びにされて、みかん猿などとその袋の一片を糸でくくり、縫いくるみの猿に見立てる。
   向歯や蜜柑の猿の腸をたつ
がそれで、「一代男」に、「みかん一つ黒髪をぬかせられ猿などして遊びし夜云々」とある。
 また蜜柑の中子を海老(えび)に見立て、
   煎り海老はげに上臈の箸休め
   うら白や海老上臈のしたかさね
などがある。
 前に八代蜜柑のことを述べたが、この地の発達も細川三斎が奨励して、十五町ほどの蜜柑畑を栽培させたに始まるから、全国に蜜柑の播殖したのは天正の頃から後のことである。
 しかし、大柑子小柑子という蜜柑の属が古くわが国で栽培されたことは、橘、九年母の話で述べたが、日向にも小門(おど)(たちばな)とて古語に遺されてある。掖庭(えきてい)にもそれを移されて、中世姓氏にその名を加えられたも由緒あることである。
 こうした柑橘の属が効果をもたらしたことは、近世までも村人が蜜柑の皮拾いをした、それほどに蜜柑の皮は、漢方の薬料に用いられて、陳皮の功が藪医者に内助を与えたことであろう。この貧しいものが、虚栄の色彩となる香水の原料となるベルモット油に、一種の蜜柑の皮が御用だてられているということが、いかに皮肉に感じられるであろうか。病人のビタミソを補給するに、この蜜柑が何よりであるということも否み難い事実である。また種のない手品ではないが、ここに種のない蜜柑がある。それは李婦人と称して、豊後柳川の産にそれがあるといわれている。
 さて、蜜柑の話もここらで切りあげるが、例の大阪の奇人蒹葭堂(けんかどう)が蜜柑酒を作って、当時長崎にいた程赤城に贈った。何がさて珍味を()うたその頃のことで、彼ら唐人は名を連ねて蒹葭堂に蜜柑酒の讃美を呈した。そのみかん酒は、一顆(いつか)の蜜柑でも児童の指先で醸造の速成が出来るほどに、醸酵性に富んだ果物である。さて、その蜜柑の調理は、
 みかん膾は、前にも述べたが、これに胡蘿蔔(にんじん)をすり下すと、たちまち同和して蜜柑の甘味に統一される。これを見ても蜜柑の醗酵力がいかに迅速であるかが解るのである。
 また蜜柑の皮(その他柑橘類を応用してもよし)の白い部分を小刀で截り取り、短冊形に切り、日光に(さら)して、からからになれば小鍋に入れ、醤油と味淋を等分に加え、中火にかけて、箸で大きくまわしながら煮付け、鍋を下ろし際に白砂糖をふりかけて器にとり、口取りか茶漬の菜にする。昔、書肆(しよし)須原屋市兵衛が発明だという。名づけて「春霞」と称した。
     蜜  柑     銅  脈
   流行歌古臭。 沖暗白帆看。
   紀国舟荷重。 在田枝折丹。
   酒肴関取合。 菓子遇除残。
   皮拾芝居果。 干乾薬種劍。
 さてこの蜜柑を酒の下物(さかな)にするには、皮を剥いて蜜嚢を一つずつ放し、中の肉を出し、山葵酢
を添えて出す。そのほか、照り煮、砂糖漬、甘露煮、天ぷらなどにも用う。



最終更新日 2006年01月17日 02時03分52秒

林春隆『野菜百珍』「二七九 味噌の話」

二七九 味噌の話
 みそは、大豆、(こうじ)、塩の三要素をもって製される。大豆の栄養価が最も大部分を占めて、俗に味噌豆の名をなす所以(ゆえん)である。往古は味噌は()めるものとして用いられたが、中世に至って味噌漬、味噌汁にして食用とされ、上下貴賤の別なく日常主要の副食物とされるに至った。ことに下層労働者の活動素として、この安価にして滋養価値の優れた味噌汁が、いかに救世の食料であるかは、例の杭州の人一日三十丈の擂木(すりこき)を食うというシナの(たと)えにでも知られる。
 味噌の種類も漸次多くなって、田舎味噌、赤味噌、白味噌、玉味噌、(じんだ)粃味噌(房州)、関東味噌、仙台味噌、三州味噌(岡崎八丁)、尾張味噌、大阪味噌などのほか、てっか、金山寺、魚味噌、(ゆず)味噌などの()め味噌がある。
 それで味噌は近世まで自家で製造したもので、俗に手前味噌という称がある如く、その国の習慣や家々の我流でこしらえた味噌に、種々の変った調味があった。お寺の納所(なつしよ)でこしらえた鼓を納豆というとおり、在家の手前味噌もそれぞれ自慢の代名詞ともなったのである。
 さて味噌の名は、南都の僧が初めて味噌をなめて「これは未曽有」といいしを約して「みそ」と称したなどは、あまり早合点であるが、「和名抄」には未醤と載せ、また高麗醤美蘇云々、俗に味醤の二字を用ゆ、宜しく末に作るべし、何となれば通俗文に「末楡莢醤」とあり、末は搗末するの義なりと注されてある。高麗醤を「ミソ」というはその方言である。「末楡莢醤」は、その頃高麗国では(にれ)(さや)をもって醤を作ったものと見え、この楡の樹は(けやき)に似て、寒地に産して春花を開き実を結び、その嫩芽は浸しものなどにして食い、その内皮を薬用にもされる。「延喜式」にも「楡皮年中雑御菜並羹等料」とある。この遺風が後世に至って、雑穀、木の実などで作る醤となったもので、かの糖味噌(古えは糂駄と称し軍陣に用いたもの)などに変化したものであろう。
 まず味噌の沿革はこのぐらいにして、前にも述べた手前味噌という詞は、往古(慶長の頃まで)上方では諸国の人が集まり来て、饗応するに料理屋の設備がまだなかった頃、おのおの家にて客人に馳走をしたもので、従って常に料理の心得あるものを雇いおき、味噌醤油に至るまでことごとく自らこしらえたのであった。で、手前方の味噌でという挨拶が、かえって自慢らしく聞えて、よく味噌をつけたという諺も、味噌の味噌臭きは上味噌にあらずなどという食通家も出来た。それに下駄に焼味噌というのも、その来客の時に料理場が忙しくて、慌てて下駄に田楽味噌を間違えてつけたなどと形容したものである。しかし、これは板に塗って焼くのを下駄の形におもい付いたものであろう。
 また味噌を女詞でおむしというのも大豆を蒸してつくるからで、年の暮には、この味噌豆を大釜で蒸して一年中の味噌をつくることは、昔の年中行事で、大根の沢庵漬とともに大きな台所の所作であった。この日は家内中が味噌豆のお番菜で、この蒸し豆に辛子(からし)をかけて食うと美味いものである。また内裡詞に、味噌を(ひぐらし)というのは、名香の伽羅(きやら)に蜩という名がある。この香を薫くとしみ入るような匂いがするので、味噌が物に移ると香が染みるという意で名づけたのである。句に、
  焼味噌を伽羅に詫る夜杜宇(ほととぎす)
  *
 黄檗(おうばく)の道本禅師は能筆に名高い僧であるが、それが長崎にいたころに味噌の詩がある。
  不弁殊方語、山童在指揮、那知郷思疲、但説味噌肥、
  (割注、風俗以豆為之、土語米梭食能肥人)
  力疾酬人事、孤吟羨鳥飛、悲哉愁瑟々、長憶旧柴扉。
とある。こうした大悟の和尚でも古郷は慕わしいものと見えて、ホームシックを起している。俗に気の弱い奴を弱味噌と雛味噌ともいう。味噌とべそとは(みぞれ)のようにジメつくものである。その味噌をシナ人は東坡と洒落た名をつけている。それは三蘇というこころであろう。
 さて、これから味噌の種あかしにかかることとする。まず古いところで、
 法論味噌 これを俗にほろ味噌と称し、ほろ味噌の夕立という洒落がある。それは母衣(ほろ)武者の夕立であろう。これは南都(奈良)の興福寺で年の十月に、維摩会を開いて日を渉って法論を講ずる。それでこの輪講中に小水(小便)のために座を退くことを厭うて、黒豆鼓を食うたので、これを法論味噌と名づけた。いまも(ふき)の葉でゆでるほろあえという物の名も、この法論味噌から転じたものである。
 この味噌は春夏に作らず、秋より製して奈良の町でも売ったものと見えて、歌に、
  夏まではさし出ざりしほうろみそ、それさへ月の秋をしる哉
とある。
 さてその製法は、赤味噌七十匁に味淋一合加えよく摺り、芥子三勺炒りて粉にして加え、粉山椒少々加え、煉り合わせて板に薄く塗りつけ、遠火でばらばらになるまで焚き、次に胡桃(くるみ)の実を砂糖と水で煮て細かく刻み、前の味噌にまぜて用う。また一法に、味噌五十匁をよくたたき、平鍋に胡麻油か(かや)の油を三勺ばかり入れ、火にかけて沸えたぎる時に味噌を加えてよく炒り、胡麻、芥子、杏仁(きようにん)、胡桃を入れて、またよく炒りあげる。
 あすか味噌 これは法論味噌の別名で、一夜作りの味噌というからの名である。「著聞集」に「式部太夫光敦朝臣の(もと)へ、奈良なりける僧のあすか味噌といふものをもて来りけり。いつのぼりたるぞと聞けば、僧かくなん『きのふ出てけふもて来つるあすか味噌』」と。
 玉味噌 これは大豆の代りに蚕豆(そらまめ)を用いて製し、(わら)に包んで団子の如くして、(かまど)の辺に置いて乾かしあげたもので、これは東北地方の風習であまり美味のものでない。
 交趾味噌 これは漬味噌で、赤味噌五十匁、肉桂、丁子(ちようじ)の細末半両ずつまぜて、茄子(なす)生姜(しようか)の類を漬ける時に、白砂糖五、六匁入れ、一週間目ぐらいに用いる。
 酸漿味噌 これは赤味噌をうら()しにかけ、味の素を加えて固く煮こみ、ほおずきの如く丸め、片栗粉にまぶし、ほんのしばらく籠に入れて蒸し、冷めたる時に取り出して吸ものに用う。食する前に丸味噌を箸でつぶすと、破れて赤だしになるので、ちょっと座興にされる。
 嘗味噌のうちでも金山寺と鉄火味噌は、昔から名が通っている。
 金山寺味噌 これはもとシナ姑蘇の径山寺の製を伝えたもので、今もこの径山寺は名刹で(たけのこ)の名産地である。これを和歌山の金山寺の名物だとか、大和の達磨寺の名物だとか、名物を失敬して江戸に広めたのは享保ころからで、各地の禅寺が納豆のほかに、手製の嘗味噌を檀中へ年暮に贈ったのも、この金山寺味噌を真似したものである。この味噌には必ず麻の実が入れてあるから、古い江戸名物金山寺味噌という句に、
  麻の実の音面白し四十雀
とある。
 この製法は、大豆一升を炒りて皮を去り、臼で粗挽きして同量の大麦とともに蒸籠(せいろ)に入れて蒸し、むうに入れて麹となしおき、別に茄子(なす)、越瓜を細かに切りたるもの、一升につき塩四合の割に桶に漬けこみ、圧石(おしいし)をおいて一昼夜そのままに置き、上水を少し去り、他はこれを前に造りおぎたる麹にまぜ、三箇月間ばかりそのままおき、紫蘇、生姜(しようが)等を細かに刻みたるを加えるのである。また一法に大麦を黒くならぬほどに炒りて一斗、大豆を同じく炒りて一斗、これを一緒にまぜて蒸籠で蒸し、(こうじ)にねさせて花のつく時分に、塩二升を合わせ、茄子五十個入れ、すしの如く圧しをかけ、七日目毎に上下にこねかえし、四十日間に山椒の辛皮を入れ、また七日ほど過ぎて上へ水があがる。もし和かなれば水を外へ取りおき、乾けば右の水を入れて混合してよし。瓜は水気をよく去って入れること。多く入れるとしるくなる。
 この径山寺味噌は塩鼓と称し、東坡が同寺の宝覚長老に贈る詩に「誰能斗酒博西涼、但愛斎厨法鼓香、又寄園寄所寄云、天下第一金山寺塩鼓」とある。
 鉄火味噌 てっか味噌は博奕の異名で、ばくち汁という意味に同じである。
 鉄砲酢味噌 唐辛子の種をよく摺りつぶし、上等の白味噌に砂糖を摺り合せ、うら漉しにかけ、酢でのぼすのである。
 蓼酢味噌 たでの葉を採り水洗いして水気を去り、摺り鉢でよく摺りつぶし、白味噌を中に入れて味をつけ、うら漉しにかけ、酢でゆるめる。
 芥子味噌 けし五勺を(ふるい)にかけ、煎りて摺り鉢でょく摺りっぶし、赤味噌七十匁、白味噌三十匁を合わせて摺りまぜ、煮出汁でゆるめ、鍋にこし込むのである。
 柚釜味噌 白味噌をうら漉しにかけ、柚の皮をおろし入れ、砂糖を加え、酒で延ばしてよく煮つめ、葉付の柚釜に入れて用う。合わせ方は、白味噌一貫目、白砂糖四百目、柚二十個ぐらいである。
 山葵味噌 味噌に白ごま、くるみを入れ、よくすり、水で延ばし出す時に山葵(わさび)を入れる。
 煉味噌 味噌二、葛四分の一、豆腐半分、すりまぜて随分こく煉ること。
 柚味噌 ごま、くるみ、柚の袋よく摺り、砂糖少し入れ、柚の釜に入れて蒸す。針くりをそのまま添える。
 五斗味噌 米の糠五斗、大豆一斗、米麹三斗、塩五升を()き合わせて、一箇月過ぎて用う。
 糂継味噌 これは昔時陣中に用いた糠味噌汁のことで、俗に陣立味噌と称し、安房国の土俗に糂粃瓶とて味噌を製する器を称している。それは陣立瓶の転訛である。耆上人の歌に、
  世を捨てて山に入るとも糂駄がめ、酒の通ひ路なくて叶はじ
  *
 味噌の話もだいぶ続いた。で、これから味噌汁の話にうつる。
 東京ではただの澄汁をおつゆといい、味喀汁をおみおつけという習慣がある。味噌は京大阪のものより、伊勢、名古屋以東のものが美味、四国の徳島にも味噌の名物もあるが概して日常の食物として、東京ほどこの味噌汁を食う土地は少い。それだけその調味加減にも経験されて美味を成すわけである。もっともこの味噌汁は室町時代に、料理法が発達してからのことで、それゆえに儀式の御膳には味噌汁を用いなかった。しかし味噌をそのまま用いたことは古いことで、香の物の名も味噌漬から起ったことも前に述べた。鼓は納豆のことで、塩鼓は今の味噌といった風に用いられたのである。
 さて味噌汁は、汁の条でも述べるが、まず、
 伊勢味噌汁 赤味噌。
 田舎味噌汁 白味噌、麦味噌等分、葛少し加う。
 胡汁 だし五合に白味噌二十五匁、赤十匁を摺り加え、大豆を一夜水につけて一合五勺、これもよく摺りて煮て用う。
 焼味噌汁 赤五十匁、白三十匁、生姜少しおろし入れ、小葱少し刻み、酒で頃合に煉り合わせ、爼板(まないた)の上で叩き、それを鉄板で一分ぐらいの厚さに焼き、また摺り直して用う。
 青味噌汁 ほうれん草、白味嗜、白ごま、葛を入る。
 納豆汁 納豆、赤味噌、醤油少し加う。
 胡麻汁 赤、白七三に入れて、黒ごま。
 合せ味噌汁 赤白等分、味淋少し入る。
 その他は略する。
 それで味噌を応用される方面も広いもので、魚味嗜、魚菜の味噌漬、みそ松風、みそ煎餅、みそ餅、味噌飴などがある。
 また味噌汁は、とろ火で長く煮る方が味がよくなる。しかし八丁味噌は一ふきというところに味が出るのである。
 味噌の味が変った時は、生松の皮を剥いて、大小により二つ二つに木を割って味噌の中へ幾つも打ち込んでおくと、七、八日して味がよくなる。すべて味噌桶は、肥った松を底ふたにすると味がよく保つといい伝えられている。
 味噌をすくう具を「せっかい」といい、またその形の似たるより、女詞で「うぐいす」という。よく俗言におせっかいだというが、また味噌摺り坊主ともいうて、あまり人さまに可愛がられない人の代名詞である。田舎宿屋の狂歌に、
  この宿の傀儡もさぞと汁椀を手に取るからにゆらく玉みそ
 一茶の句に、
  味噌汁を喰わぬ娘の夏書哉

 味噌 銅脈
歴旬如不啜。 力無腹易疲。
自瞞揚去醜。 麁相付来思。
成酸凶事告。 添菜老人宜。
聴浄瑠璃悪。 皆言桶蓋為。



最終更新日 2006年01月17日 02時17分27秒

林春隆『野菜百珍』「二八〇 水の話」

二八〇 水の話
 味の源は水である。
 物の味の淡きは水より淡きはない、だから冷淡な人物を水臭いという。また水の味を知らないものは、いまだ飲食の味を弁ずべからずというが、酒飲みはよく酔いざめに水の美味を知るのである。
 で、水は味の源どころか、人の命の淵である。これが一滴もなくなったら人間の乾物が出来る。のみならず、人の気に合う水に合うと宇治の茶でさえ唱うている..水魚の交わりは人間の常道である。魚心に水心、どちらがなかってもどうもならぬ。水よく舟を(うか)ぶ、これがうかべてくれなくては、島帝国の民たる我々は、ほんまに浮かむ瀬がないというもの。
「茶記」にも、茶を()るは水の功十の六に有りといい、「茶譜」にも「茶は水の神、水は茶の体なり、その水に非ざればその神を顕わすことなし」とあるが、この水は茶ばかりでない。酒にも星影が映るほど清冽の水でないと、灘の生一本という奴が出来ない。
 今はいたるところに水道が敷設されて、昔水道の水で育ったなどと威張った江戸っ子も、いまはざらに水道の水でなくては育てられない。その水道がなかった頃の大阪では、淀川、桜の宮辺の川水を船に汲み込んで、市中の橋下に繋いで、桶に入れて売り歩いた。入用の家々には表に「水入用」と書いて木札を出して、一荷五斗ぐらいある水を七、八銭の価で買うたのである。もっともこれは飲料にだけ用いたものであった。また江戸の市中でも夏は冷水を売る行商人があって、白砂糖寒晒粉の団子を添えて、一椀四文ぐらいで売り歩いた。それは「ひゃっこいひゃっこい」と呼んで、砂糖の量次第で八文十二文にも売った。その頃箱根の峠でも、自然の泉井がある傍に、小皿に砂糖を入れて一杯何銭とかの札を添えて行人の自由に任せた。
 こうして大切にされた水も、茶事に凝っては豊臣太閤が宇治の三の間の水を汲ませたり、一俳人の淡々菴が京の水を大阪へ運ばしたりした。それに煎茶の流行が、この水質をやかましくいって、古来わが国の飲水には、肥前温泉嶽温泉寺の水、甲州笹子峠の岩清水を第一とし、茶には、西京堀川堤の水、紫野大徳寺の水、酒には西宮の井水をもって名水とするなどと称えたが、今の堀川は友禅屋が五色の水を流している。西宮よりも各地によい水源地が出来ている。人の行く末よりも激しい水の流れに、いくら茶人でも、養老、(さめ)()、石清水と駆け回ったところで、天下の名水にはめぐり合うまい。
 しかし、土質と水質がその国土を支配して、土地の人物に対してその性質に関係を及ぼすことが少からぬであろう。人類学者でない著者などのあずかり知るところでないが。「本朝食鑑」に「東北の水は性重く気剛く、西南の水は性軽く気柔かく、中央の水は性気倶(とも)に剛ならず、柔かならず、重からず、軽からず、色清く、味美なり、故に西京の水第一たり。就中(なかんつく)鴨川の神流潔白甘美なり」と。この著書の寛永年間は、京の水もまだ白粉も流さずに清冽であったであろうが、今はその鴨川の流れも、脂粉の香りが塵埃と菜っ葉と、こっちゃになって流れている。
        *           *                    *
 さてこそ飯にも水加減、お風呂も水加減、人の話に水を注したり、水も洩らさぬ恋仲に邪魔するものでない。昔は水振舞だなどと、婚礼の邪魔をした馬鹿野良(やろう)もあったが、犬の交尾したのに水をかけるなどは阿房(あほう)の骨頂である。
「五雑爼」の養生篇に、二月路を行く人、陰地の流れを飲むべからず、人をして(おこり)を発するとある。高野の玉川の水などがそれであろう。
 井戸水の濁った時は、大豆五十粒、杏仁五十、すりつぶして井戸へ入れると水が澄むということである。また瓶に汲みおく水が濁った時は、生姜(しようが)を三つ四つ沈めておくときれいに澄む、といい伝える。
 ついでに上々の水は一合のかけ目が三十匁だという。で、水は軽いほどよいものとされている。ある書に載せられた飲料などの軽重を書き添えておく。
 水一斗が四貫七百目。海水一斗が四貫八百目。油一斗が三貫九百目。酒一斗が四貫三百目。玄米一斗が三貫六百五十目。白米一斗が三貫七百二十匁。大豆一斗が三貫三百八十匁。芥子一斗が三貫三百目。胡麻一斗が二貫九百十匁。上白飯二合半が二百七十六匁。下白飯二合半が二百三十二匁であるとあった。これは百五十年も昔の話だ。
        *              *                     *
 水は方円の器に従う、人の性も善なりといえぽ、国民思想の善導も、この水を治める如くすれば、いずれへも氾濫せずに洋々として(たた)うのである。国語にも「民の口を防ぐは川を防ぐより甚だし。大決して犯すところ、人を傷つくること必ず多し」とある。畏くも昭憲皇太后の御歌にこの心をよませたもうて、
   あさしとてせけぽあふるる川水のこころや民の心なるらむ
とある。また伊勢大廟の五十鈴川の御歌に、
   天つ日のてらさむかぎり神風やみもすそ川の末はにごらし
      社 頭 水
   ちはやぶる神の心もうつるらむさやかにすめる御手洗の水
      山 家 水
   山かげの水のながれは清けれど洗ひかぬるは心なりけり
      苗 代 水
   せきいれし苗代水のたることも知らで蛙の雨をこふらむ
と、いずれを拝し奉っても、世にありがたき極みである。()の治水を(しよう)するまでもない、かく御つれづれの御歌にも、民の心を(しろ)しめされし国恩の(かたじけな)さは、手に(むす)ぶ水の如く、全身に沁みわたるここちである。
 実に水に恵まれたわが国は、千足瑞穂の秀でたる幸多き国土である。民は国土の水の如く、自他ともに随順しなければならぬ。海の水を辞せざるをもって、水(あつま)って海となるのである。
 水の礼讃で話が硬くなったが、わが国は年中行事にも、水をもって神を清しめて祭る国風である。まず一月の若水を汲むより、二月は奈良の水取りの法会、三月は曲水汐干、この月を穀雨と称して百穀を生ずる。四月は主水司が氷を奉り、また灌仏会(かんぶつえ)花祭りに五香水。五月は端午の神水。六月の河社の大祓、井戸(さら)え。七月の水灯会、八月九月は祭り月、これを神明好雨ともいう。十月に水が凍り始めて、十一月に雪を降らす。十二月の寒水は食品をっくり、寒天、寒晒粉、寒餅、寒酒、氷豆腐と、種々の貯蔵食料をつくらしめる。
 こうして水は年中一日も欠く時がない。長家中に水かけ論が起るのも、我田引水で生存を争うのも皆この水を中心としてである。
 本草学者の佐藤中陵が、その漫録に「天下一水」と称して載せている一節がある。
  大雨の時、器に承けて取り、茶を煮て妙なり。しかれども久うして腐り易し。夂京師の鴨川の水にて晒したるもの、他処にて遠く及ぶ事なし。只此雨水にて晒す時は、鴨川に相等し。白粉類、又薬物画具の類は、雨水を用ゐてよし。余が天下一水と名けて甚だ秘法なり雪は悪あつて宜しからず。しかれども、糸の類、紙など染て、雪水にて晒し、又染て晒し、五七度も雪水にて晒して置く時は、百年を経ても、その色の変化する事なし、永久に貯ふるものは雪晒にすべし、また雪水は刀剣の類を磨すべし、銹出ることなし。
とある。シナ人が椰子の水器を用いるのは、毒水を消解するためである。その中を漆で塗りたるは何の効もなくなると、これも同書にあった。



最終更新日 2006年01月17日 03時00分54秒

林春隆『野菜百珍』「二八一 水菜の話」

二八一 水菜の話
 みずなは、俗に京菜また千筋菜と称し、葉は油菜に似て細く、昔は肥料を用いず、水のみで栽培せしより水入菜といい、また京都九条辺の水田に生じ、昔はこの辺の水田冬は温かく、夏は冷たく氷の如し、この水のみで育ちたる故の名でまた、うき菜ともいう。この菜は()でて後も青く、T菜としても青ぐ、また漬ものにしても、濃き緑色をもって愛用されたものである。また一種壬生(みぶ)辺に生ずるを壬生菜と称し、これは水菜の葉緑に欠刻あるに反して、欠刻なきゆえ、俗に丸葉水菜とも称し、京菜の美味あるに劣るものである。
 今の壬生菜の産地は、京都葛野郡朱雀野、大内村付近で、その栽培反別百五十町歩に及び、例の名物千枚漬とともに、東京地方へ多額に搬出されている。
 さて水菜は浸しもの、煮食、漬物として重宝され、この菜は消化がよくて、胃腸をととのえ便通をよくする効がある。菜雑炊にしても葱雑炊とともに、最もおいしく頂けるものである。
 それでこの菜の花は眼疾にょく、この花を細末にして常服すると虚眼を治すといわれている。



最終更新日 2006年01月17日 20時41分53秒

林春隆『野菜百珍』「二八二 三つ葉芹の話」

二八二 三つ葉芹の話
 みつばせりは、略して三つ葉という。水田に生じ、また水田に培養する。苗は春の半ばに叢生して、茎葉ともに食用とする。初夏に細い黄花を開く。子の大きさ豆の如し。京都ではうしのひたい、鴨児芹、野蜀葵。
 みつばは年中需要のもので、香気のある菜品である。



最終更新日 2006年01月18日 09時28分45秒

林春隆『野菜百珍』「二八三 水松の話」

二八三 水松の話
 みるは、また、みるめと称し、海藻である。みるめ、ながみる、たまみるなどの三種ある。これを調理して食用とし、また生のまま刺身のツマとする。



最終更新日 2006年01月18日 09時45分16秒

林春隆『野菜百珍』「二八五 椎の話」

二八五 椎の話
 しいは、喬木にて山中に多く、この実を拾うて()りて食うに、(かし)の実よりも小さけれど甘味があってよい。博多の町でこの椎の実を売る店がある、それは壱岐が島の産でこの地方の人は嗜食すると見える。「万葉集」に、孝徳天皇の皇子有間皇子の歌に、
   家にあらば()に盛る飯も草枕旅にしあらば椎の葉に盛る
と。往古、食ものを木の葉に盛って食したのである。しかしこの椎の葉は細小のもので食物を盛るにふさわしくないとて、椎は(なら)の葉のことであろうという説もある。歌詞にこの手かしわの云々とあるに証しても、楢か儲の葉の方が勝手がよい。「北史倭国伝」に「世に盤爼なく、藉りに(かしわ)の葉をもって、食うに手を用いて之れ鋪く云々」と載せなどしている。
 今も食物を竹の皮に包むのはこれらの遺風で、昔は肥前の魚屋は八ツ手の葉で包み、羽州の米沢でも(ほお)の木の葉を用い、薩摩の人は会席に青木の葉、または葉蘭の葉などの大きな木の葉を四角に()って、肴をその上に載せたものである。この古風なところに日本趣味がうたわれるのである。
 椎拾ふ横川の児のいとま哉



最終更新日 2006年01月20日 01時19分59秒

林春隆『野菜百珍』「二八六 椎茸の話」

二八六 椎茸の話
 しいたけは、椎に生ずる菌で、これを食用に供することは、上古既に仲哀天皇の熊襲征伐の御時、香椎の宮に行在(あんざい)したもうに、土民はこの椎の菌を天皇に奉りしなどのこともあれば、最も古き食物としてことに香椎の名に因っても、香菰が食用とされた証とすべく、その後人工を加え、(かし)(かしわ)(くぬぎ)、そろ、しで、楢などの諸木にも生ずるをすべて椎茸と称した。今日にては日向、静岡、紀伊、長野地方などを産地として、主としてシナに輸出され、内地にても精進料理の主要品として珍重するのである。
 椎茸を人造するには、前に述べた種類の樹木を伐り、これを湿潤の地に倒して朽ちたるに滑水をたびたび(そそ)ぎ、(むしろ)(おお)い、秋雨の候(っち)にて打てば多く生ず。生なるは香淡く、日に乾しまたは炉に乾して貯うのである。
 またこれを朽木に播種するには、椎茸の傘の如き条に、ごく微かな胞子を生ずるを培養して、これを物体に移殖(もっとも寒暖の温度をよく考量し)すると、いずれの種子も発生する。されども松茸のみは発生せず。
 さて調理には、塩焼、付焼、煮付、白和え、味噌漬、その他種々に用い、精進の煮出とし、また(すし)、椎茸飯など芳香佳味なものである。
 わが国にては産後の婦人に椎茸を忌むが、朝鮮の俗に産後これを与えて養生せしむることがある。


椎茸 銅脈
風味生時軟 香高干物仍
遠州江戸下 日向浪華登
粒汁筌召仕 大平皿役承
方由模様好 調菜引揚弘



最終更新日 2006年01月20日 02時04分10秒

林春隆『野菜百珍』「二八七 松露の話」

二八七 松露の話
 しょうろは、四、五月頃に海浜松林の砂地に産する。近畿にては播州高砂(たかさご)、舞子地方に産するものが有名である。純白にして柔らかなるものを上品とする。また季春より初夏に盛んに生ずるゆえに麦菌、麦茸の名がある。
 さて調理は、吸もの、うま煮、焼松露、田楽その他さまざまに用いる。
 松露はざるに入れて、よく摺りて薄皮をむく。またこれを貯えるには、肌の柔らかで固い新しいものを択び、塩水で洗い粒を揃えてよく()であげ、塩水の中に入れて貯える。この際、松脂(まつやに)を混ずると香味をよく保つという。
   五つ四つ都に近き松露哉
   高砂に風まつ老の松露哉
     松  露
   松林逢暖雨。 一夜自然生。
   触帚将跳出。  隠沙欲探争。
   取肴全没繕。 吸物大勤晴。
  善悪分其色。 仮呼麦米名。
また狂歌に、
  蓮葉は露をば玉とあざむれど松の松露のみさほには似ず



最終更新日 2006年01月20日 02時53分33秒

林春隆『野菜百珍』「二八八 汁の話」1

二八八 汁の話
 しるは、調味の素である。この汁加減一っで料理の良否が判断されるほどに、味覚を刺戟するものである。一匙、一滴の加減が、その味を保つか失うかなのであるから、これはいくら料理人が庖丁の技巧を凝らしても、その上乗味を得ることができない。ただ(しんし)摯な態度と深い経験と厚い親切とが融合して、その真味が得られるのである。
 で、汁は知るの訓で味の知覚である。座付汁に始まってその料理の真味を予知させるところに、饗膳の意義が全くそなわるのである。
 この汁が料理に多く用いられるようになったのは、室町時代より後のことで、料理の発達とともに菜品と器物が多くなるに伴って、菜の数に対して二汁三汁という風になって、またその上に汁浸しの平椀、壺椀などと、さらに鉢肴や葛かけなどを添えるようになった。鎌倉時代には一汁二菜ぐらいを常の饗膳として二汁以上を用うることが少かった。味膾の話でも述べた通り、味噌汁も応仁以後のもので、嘗めさかなとして用いた味噌を、汁にまで応用されたのである。
 古い汁の名にお事汁というのがある。これは元僧家より起ったことで、「無住雑談集」に、「昔は寺々ただ一食にて、朝食一度しけり。次第に器量弱くして、非時と名づけて日中に食し、後には山(叡山)も奈良も三度食す。タベのをば事と山にていへり。未申の刻ばかりに非時して、法師原坂本へ下りぬれば、夕方寄り合ひて事と名づけて、我々世事して食すと言へり」とある。昔は僧家の習わしに、日の短き十二月八日を限り、お事納と称してこの日より二食とし。またようやく永春の二月八日よりお事始めといいて三度食することとする。あたかも臘八と降誕日を用いること、仏家の行事である。この汁の調理は、牛蒡、人蔘などに赤大豆を入れる。あずきをもって味をととのうのも僧家の食物で、これを俗に従弟汁と称し、おいおいに入るという謎であるが、それはお事汁の転訛したもので、民家でも年中行事に事始め、事納めのことあるはこの風習を移したものであろう。
 然るに「嬉遊笑覧」に、「出雲国にては十二月十三日に煤とりなどやうのことしそめて、芋、蒟蒻(こんにやく)、赤小豆等の汁をいふ、これを事始と云ふ。さて年神を祭りて正月廿日にかがみ餅を撒布し飯を供す、これを飯くらべと云ふ。二月一日鱠を供す、是をなますくらべと云ふ。鱠くらべ七日ありて、八日に年の棚を取る、これを事納めといふ。十二月と同じ汁を喰ふといふ云々」とある。これらいずれも国々の風習にて、僧家が臘月に事納めというに反し、社家または民家で正月の吉例を旧臘にする故、これを事始めと称し、十二月十三日は、一般に親戚師父の間に祝餅を贈るも、それらの習慣が郷土の風俗に移して行われたものであろう。しかし、事始めの旧習は甚だ喜ばしい美風である。
 また、いとこ煮と称して、赤小豆を煮てそのつゆで味噌を延ばし、すぐにあずきを入れるゆえに従弟煮というが、これは豆と赤小豆の似たものからの洒落名であろう。また、この汁をむじつ汁というは、無実の難を免れるという意で、小豆を用うるゆえの名であろうとおもう。このいとこ煮の材料は、焼豆腐を(さい)()に切り、山の薯、焼栗、牛蒡、くわいなどをよく煮そろえて品々別に煮て合わすのである。
 また、ざくざく汁という寺料理がある。「世話尽」(承応三年撰)に予正月七日或る天台宗の寺へ参り侍りて、菜汁をふるまわれて云々、「寺でくふくふじやくざくの菜汁かな」とある。これは菜を粗末に切ることをざくざくという、世人の詞にざっくばらんなどというに同じ俗言であるが、この句は天台宗の根本空々寂々の法を取って、汁の名と両意をのべたものである。寛永版の料理物語にも、(よもき)をざくざくに切るなどとあり、一っは菜を切る音にも通うからで、胡瓜のざくざく、それに鰻を入れて俗にうざく(、、、)などというのもこの類である。
 また、みせん汁というのがある。これは須弥山汁という略で、契沖はただ味噌汁のことと説いているが、この汁は青菜と豆腐の二色を細かに切って入れたばかりの味噌汁で、よく葬式などの場合にこしらえる汁である。それで仏縁を取ってみせん(、、、)と称したものか。しかるに例の好事詮鑿(こうずせんさく)家は和泉式部の須弥山の歌意を取って、南は青という意で汁の実は「みなみは青」というのだなどと付会している。すべて料理の名などは、こうした無邪気な趣向から出たものが多い。
 このついでに名目汁のことを述べておく。
 むじつ汁 精進物のみでつくる、何にても厭わずに入れて煮るのである。しかし、あつめ汁(五月汁)は魚類を加えたものである。博奕汁豆腐を騰の目に切りて入れる。何にても謙盆に切ったものゆえ・この名がある・
望一后の千句に、
   あつまるは同じばくちの類にして瓜やなすびや夕顔の汁
 右衛門五郎  えもんごろうというので、青菜を長くも短くも切って入れ、もみかっおをかける。ただし、味噌に糠少し入れること。
 柳に鞠  つまみ菜に里いも、またもみ大根に団子汁をもいう。
 源平汁 大根と人蔘との汁。
 からげ汁 常味噌にだしを加えて仕立て、茄子(なす)を二っわりにして中を少しくぼめ、山椒芥子など入れ、紫蘇の葉でつつみ、干瓢(かんぴよう)にて中をくくり煮て、葛を溶いてはなすのである。
 じんふ汁 茄子二っ割りにして庖丁目を細かに、切りかけたもの。
 観世汁 常味噌にて、豆腐をうすくそぎて入れ、あげきわに葛を薄くといて放すのである。
 墨豆汁 黒豆を水に浸して砂地に蒔き、その芽と豆を取って汁の実にするのである。
 柿浸汁 かきひたし汁は、干柿を酒に浸して汁の実とする。「栄花物語」にある柿浸しということを趣向したのである。
 庖丁汁 これは賻飩汁と称したものの転訛である。小麦粉を平うどんの如くし、または蕎麦掻きの如くちぎりて、味噌仕立ての汁に菜豆、馬鈴薯、茄子などの野菜を多く入れたもので、もと日向地方の風習で、蚌腸汁(ぼうちよう)とて(はまくり)の腸を用いたのが、昔この辺を大友宗鱗が領した時、菊地肥後守がにわかに来臨した。その一行が大勢のため珍物の蛤の腸がととのい難く、そこで利発な男が小麦粉をこねて代用した。俗に雀が海中に入って蛤と化すが、小麦粉が汁の中に入って蛤となった。それで汁の名までが化けたわけである。
 雪汁 これは皮を剥いた大根をおろし、沸湯に入れてちょっと煮上げ、それを布切に包みて絞って水気を去り、擂鉢で葛と右の大根おろしとを入れてよく摺りまぜ、少し出汁を入れて柔らかに仕立て置き(とろろぐらいに)、他の鍋に汁を製し、薄口醤油にて味をつけ、よく沸騰したる時に、右の大根を金杓子ですくい入れて、煮あがりたる時に椀に取り入れて出す。吸くち刻み(ねぎ)、浅草海苔などがよい。
 名目汁はこのくらいにして、さて汁の加減を述べる。
 常の汁 よい白味噌を四分、常の遣い味噌六分の割、よく()りまぜて濃加減にして煮かえし、すいのうで漉す。
 赤味噌汁 上の赤味噌八分に上の白味噌二分の割、赤ばかりでは味わるし。
 田舎味噌汁  麦(こうじ)の味噌六分、白味噌四分を前の如く擂り合わす。糀味噌には、葛少し入るること。
 白味噌汁 上々の白味噌ぼかり酒にて延べて、水加減よくして煮たてて(ふるい)でこす。
 伊勢味噌汁 名古屋味噌も同じ、これは擂らずに水でほだてて煮かえし、篩でこし、よき醤油を加え塩梅する。
 五斗味噌汁  これは常の味噌汁の如く仕立て、煮あげてかげ(、、)を落して漉す。かげとは溜りを少しさすことである。
 もみ立汁 常のみそを板の上で庖丁にてよくたたき、湯にほだて煮かえしたるまま漉さずに用う。
 煮ぬき汁 常の味噌を擂らずして、出汁と酒とを加えて煮上げ、漉して少しかげをおとす。
 納豆汁 常のみそ汁へ納豆を粒のまま入れて、煮たてて後、みそ漉しにてすくい上げ、納豆をすりてすぐにその汁にてのべる。こうすると納豆の味よく香り加減もよい。納豆は味噌の四ツ一また納豆の四つ一ぐらいに豆腐を入れて、すりまぜるのである。
 ごじる 青豆をよく水に浸けおき、すり鉢にて摺り、白味噌の汁で延ばして布袋にて漉し、再び煮たてる。かげを少し落してよし。
 糠味噌汁 ごく古い糠みそをすり潰し、出汁でのべ、煮あげ漉し、どぶをさして塩梅する。どぶは酒の粕を水でどろどろに摺りかえして漉して遣うのである。
 こくしょう 豆腐の水をしぼり、よく擂り、白みそ、赤みそ等分に入れてすりまぜ、煮かえして漉す。濃きほどがよし。
 そのほか、青汁、ごま汁、紫蘇汁、干菜汁、和布(わかめ)味などは、赤味噌と常味噌を等分にして、だしにて常の本汁の如くして煮かえして漉す。汁の実はいずれもべた煮にして盛り出し、上より本汁をかけること。味噌汁は味噌の話で述べたものと重複しているかも知れぬ。
 さらに変り汁を少し述べる。
 挽茶もどき 胡瓜をおろして摺り、沸湯に一度通し、水にてよく洗い、八方汁にて吸もの地をつくり、その中へきゅうりを入れ、薄葛しいて出す。八方汁は俗にそぼ汁とも称し、煮出しにて煮物一切に応用するからの名である。
 宇治仕立汁  玉露を煎じるか、また番茶を焦げぬ加減に(ほう)じ、吸もの出汁の煮立ちたる時に茶を入れ、出し漉しでこして用う。
 菜汁 青菜を薄味噌汁で煮返し(色の変らぬように蓋を取り本汁にうつすのである)。
 茄子おろし汁  茄子の皮を去り、二っ割りにして水に浸し、あくを抜き、おろして絞り、味噌汁に入れ、辛子を加う。茄子多きほどよし。
 おろし汁  大根、(かぶ)牛蒡(ごぼう)、大根は水の中へすりおろし水気をしぼり、それを湯煮してまたよくしぼり、味噌汁に入れ、牛蒡、かぶらはそのままおろし、湯煮して汁へ入れる。牛蒡には少し酢をさすこと。取り合せは魚類がよし。精進なれば、しめじ茸、生獄など見合わすべし。
 冷し汁 常のみそを丸めて焼き、いろいろの薬味をすりまぜ、水にてのべ、煮かえして漉し、冷して用う。暑中なれば徳利に入れて井戸にて冷すがよし。
   冷汁の筵引かする木蔭哉



最終更新日 2006年01月20日 13時54分05秒

林春隆『野菜百珍』「二八八 汁の話」2

 精進の吸もの、汁の類は大菜に属して、魚肉料理の加減よりも一層に難しいものとされている。ここに春秋に分って汁の見立てを述べて参考に供する。
     春の汁(すまし、赤だし味噌仕立とも)
〇三っ葉、揚げ麩○湯葉と土筆(っくし)○よめ菜ざくざくごま豆腐○根芋と茗荷(みようが)竹○揚干瓢(かんびよう)とおこ○塩松茸とちょろぎ○椎茸と三月大根千六本○干ずいきと葉山椒○よめ菜と摘み()○松露と結び豆腐○こも麩とたんぽぽ○むすび芋と枸杞(~・ り」)○ちしゃと針生姜○雁もどきと茗荷竹○生椎茸とかさい海苔○(ふき)、松露干大根○芽うど、岩たけ○蓮根せんと松露○和布、松露、こも豆腐、筍小(たけのこ)口切と岩たけ○生椎茸とかいわり菜○(わらひ)葛玉(くずだま)○干菜、ひどり栗、松露○生わらび、芽うど、芋のさいの目○帯、ひりょうず○ほたわらと揚湯葉○砕きいも・山椒粉・のり○根いも・岩た戦すり懈○(あられ)とうふ、蓴菜(じゆんさい)○榎茸、よめ菜、割蕪○生海苔と焼豆腐○みるとひどり栗○干大根にいと牛莠○包とうふと水菜○岩たけと割かぶら、白ごま○集め汁には、焼とうふ、よめ菜、干大根、生椎茸のせん○とろろ汁、青のり、垂れみそ。
     夏 の 汁
○小茄子(なす)、松もどき○あげ茄子とうこぎ○葛焼、紫蘇の葉○竹の子と菊の葉せん○榎茸と花柚○尢めじ茸と鶏冠(とさか)草の葉○百合根と松菜○ぎばざくざく○片栗と紫蘇の(せん)○芋ふりふりのおろし冬
(がん)とくだきいも○夕顔すり山椒○すりいも紫蘇の葉○雪海苔、栗さいの目○もやし豆と白瓜せん○茄子せんと岩たけ○根芋せんととさか海苔○つまみ麩と伊予素麺(そうめん)○夏大根と春きく(ふき)蕗のぜんとさか○青豆すり流し、紫蘇ざくざく○筍の千ろふ辛子○松露、かけ菜、青山椒○冬瓜、岩たけ、すり山椒。
     秋 の 汁
○岩茸と寒天○結び蓮根と刀豆(なたまめ)○里いも、貝割菜、唐からし○糸白瓜に岩たけ○雁もどき、三ツ葉○蓮の実、くわい平めて○菜、とうふざく、粒椎茸、あさ瓜丸切り、紫蘇の葉こまかにちらし○早松茸、蓮の若葉○夕顔、のり○よせ豆腐、貝割菜○またたびといと牛蒡○さき松茸と葛玉○白根芋といちご○初茸、くずし豆腐○小かしゅうの輪切りと紫蘇せん○杏仁せんと鳥もどき○すり冬瓜に初茸○初茸と(あられ)とうふ
     冬 の 汁
○平茸せん○(せり)と大むかご○輪切り大根、岩たけ○蕪、岩たけ○ちょろぎ干大根○小慈姑(くわい)と湯葉○ときのり火どり栗○くわいざくざく柚子○もみ湯葉、揚牛蒡のつまみ蒟蒻(こんにやく)と岩たけ○銀杏(いちよう)大根、岩たけ○むすび芋と(ふき)(とう)○おろし大根としめじ茸○葱のせん()皮○揚蒟蒻(こんにやく)と糸牛勞○蓮根せん黄菊こまこま。
 ざっとしたところで、これに要するクチはそれぞれ(、、)計らい。また、葛引き、けんちん仕立て、ソップ仕立てなど、適宜なるがよし。
 また狸汁のことは「海人藻芥」に後村上天皇は四足をも憚らせ給わず聞召けるとか、四足のうちにも狸汁は賞翫のものと見えて、「親元日記」に、寛正六年十二月朔日、御被官広戸但馬入道進上と有云々とある。「大草家料理書」にも狸汁のことを載せられ、また「寛永料理書」に、狸汁、野走りは皮をはぐみ、たぬきは焼はぎよし、味噌にて仕立候。ッマは牛蒡そのほかいろいろ、古法は味噌汁にあらず、酒の粕塩を用いたりとある。貞徳の狂歌に、
   (ふぐ)までもまた入たらずうましとて、舌つづみうつ狸汁かな
 さて、昔の汁講は郷土民の懇親を結び、(やみ)汁には朋友のよしみをつなぎ、しるもしらぬも一椀の汁は、寒暖の挨拶よりも情ふかく、貧しき時の珍味は、これに増したる物なしで、歌に、
   冬ぞとはけさしる鍋の中にさへちりて浮かめる銀杏大こん
 また諸国名物に変った汁も多いが、秋田の塩汁は漬物用で、北海道の三平汁に似て非なもの。薩摩の煮汁も出汁の種であるから除外例として、汁の家台店は大阪が名物で、粕汁、鯨汁その他、とても美味い汁を大衆食通に提供している。
 また、赤だし、鯉こくといった風のものも京阪の特徴である。鹿児島の豚肉汁は長崎のお株を奪って鹿児島汁として名高く、鰌汁(どじようじる)は柳川鍋と共に関東のもので、信州諏訪の蜆汁(しじみじる)は、列車の和食堂のように年中にある名物。また信州の南瓜の砂子汁も珍なもので、上州のこ汁と共に野菜汁の古い習慣である。
 それで汁の話もだいぶ延ばしたが、初めにも述べた如く、汁の加減のむずかしいことは、夫婦の和合すると同様に、汁は主人であれば、その実は女房である。で、汁の実をツマとも称する。大体汁は汁のみに美味があって、ちょっとした吸口ぐらいで頂けるようなところに、妙味があるものであるが、飯の菜としては中味のあるのも必要である。で、その実に入れるものは、なるべく本汁の真味を害わない程度に調和したいもので、汁はうまいが実が悪いというのも、実はすてきに美味いが汁がなっていないというのも、いずれにしてもあまり仲のよい夫婦でない。それで汁よく実を養い、実よく汁を助けるという風に、この二っがぴったりと調和しないと、美味い汁も吸えないということになる。



最終更新日 2006年01月20日 23時27分51秒

林春隆『野菜百珍』「二八九 塩の話」

二八九 塩の話
 しおは、人生と離れがたい因縁のあるもので、人はあげ潮時に生れて引汐に死ぬというほどに、この塩が人間の生命を支配するのである。で、辛い世の中だとも、修業することを塩踏みするともいう。
 ことにわが神国では、この塩をもって清むることは、「大神宮儀式帳」にも「御調櫃入琢塩湯琢持清琢御調倉進納畢」とある。今も塩水でものを清めるが、往古は塩を湯に沸かして用いたもので、湯と水とは塩気の満つることが異なるので、昔はこうしたことにも(しんし)摯な手段を()ったものである。「延喜式」にも、宮主御祓を供奉する条に「御麻並塩湯案一前、解除調度如常」と見え、また同式に「東宮下駕、神祗官迎、供神麻、灌塩湯、訖入就次」とあるは平野祭の条である。また「江家次第」の伊勢大神宮へ勅使の条に「内人二人(一人、持大麻、一人、持塩湯、著衣冠)灑塩湯、献大麻」と、いずれも塩湯をもって神を清めたことが載せられてある。今の御湯立というのもこの遺風であろう。
 これは遠き神代に、伊弉諾命(いざなぎのみとと)がうなしお(海潮)を浴みたまいて、よみのけがれを潔めたもうた習わしで、わが国の塩の起原は、この(みこと)の御子塩土老翁(しおつちのおじ)が海水を煮て、塩を(つく)り始めたのでこれを塩の神と申すと、神代巻に載せられてある。シナでも黄帝の時に宿沙氏が初めて海水を煮たとある。
 この塩は今は自由に運搬もされて、政府の官営で専売となったが、昔未開の山国である飛騨、信濃、甲斐、または日向の米良(めら)五箇(こか)、那須などでは、塩を紙に包み、地炉の自在竹にかけてこれを目に見て塩なりと知りつつ、自ら塩気を催して食事をした。で、これを塩見と称すると古書にある。京阪の風俗に正月の(にら)(だい)というのもあるが、塩の袋を眺めてお茶漬さらさらも、なかなか洒落た緊縮振りである。
 その頃では少し海浜を離れた土地の人は、一村一郷でもただ金で求めるものはこの塩のみで、衣食住の三つともその所在で自由にととのうたもので、綿もつくれば手織もする。米麦野菜に事も欠かず、住居土蔵は己が山林で伐木するという風に、ただ他方から来るものはこの塩のみであった。で、塩の大切なことはひとしお田舎の人たちが感じるのである。もっとも湖沼などでも塩を得ることもあるが、それはほとんど稀なことで、奥州黄塩峠の塩井などは、昔製塩して販売するほどに産出したと見えて、西行の歌に、
   海女もなくうらならずして路奥の山かつの汲む大塩の里
とある。塩は世上一日も欠くことのならぬ食品であると共に、よろずの調味、味噌、醤油の原料または貯蔵料としてこの塩がなければ、魚肉類はおろか、第一に漬物という日常品にも困る。青菜に塩というほど、人間もしおたれてこの塩分が欠けてはならぬ。この諺も青菜に霜で、降霜の季節になると野菜類が一層美味になるという譬えである。
「日本紀」にも彦火々出見命(ひごほほでみのみこと)の海神より授かりたもうた潮満珠(しおみったま)は、神功皇后が新羅遠征に偉功を奏したことは歴史に伝えられる。また「塩くみ車、わつかなる浮世にめぐるはかなさよ」と彼の松風、村雨が須磨の浦で、モボ行平との濡れ事もしほしむ(、、、、)という詞の如く、塩はよく何物にもなるるものである。
 また塩と女性について、常に婦人の信仰する加太の淡島神社は、住吉の御厨(みくりや)で、この辺の海女(あま)の祭るところで、それに因みて安産を祈る。また塩竈(しおがま)神社の守護を願うて産婦にお守りを戴かす風習がある。これは出産が潮時にあるので、その平産を祈るためで、いずれにしても自己の安全を求める信仰である。この塩竈神社は仙台の有名な社である。それは上古、塩土老翁がこの地に降りたもうて、製塩の業を民に教えられたという口碑である。この所を塩竈の浦とも千賀の塩竈ともいい、古歌に、
   みちのくの、いつくはあれど、塩がまの、浦こぐ船のつなでかなしも
 また播磨は古名「巌潮浜」と称して、明石、赤穂などは古い塩の生産地である。この国にも塩屋という土地があるが、紀州の塩屋津は古歌にも名高い所である。
   おもふことくみてかなふる神なればしほやに跡をたるるなりけり
と。また、和泉の堺浦湊村の壷塩屋藤太郎という者は、もとは京の上鴨畠枝村の産で、天文の頃にここに移り、紀州雑賀の塩を土壺に入れて焼きかえし、それを諸国へ出したのが焼塩の始めで、承応三年に女院御所より「天下一」の号を賜わり、延宝七年に鷹司家より折紙状を添えられたという、立派な歴史がある。この壼塩屋伊織は猿丸太夫の裔であると伝えられた。
 さて、塩の調理は、
 胡麻塩 白でも黒胡麻でも一合、水で洗い小砂を除き、日光にさらし、炒りて摺り、それを灰引塩一合を加え、よくすり合わせて用う。
 灰引塩 これは銅鍋の中へ塩一升と玉子白味一個を加え、よく摺り、水一升一合ぐらい入れ、まぜながら火に架け、二、三回煮立てて一度漉し、元の鍋に入れてまたよく煮詰めて後、日光に干し、それをよく摺りて瓶に入れおくのである。これは吸もの及び汁などの加減に用うる料理塩である。
 南京豆塩 豆一合五勺をよく摺り、うら漉しし、その中へ灰引塩を一合加えて混合する。
 山椒塩 朝倉干山椒を日光にて二、三日干し、ちょっと炒りて冷し、摺鉢でよく摺り、一度篩にて漉し、それを三勺ぐらいと灰引塩を一合よくまぜ合わして用う。
 昆布塩 白のとろろ昆布の粉を日光に一日よく干し、一度摺りて昆布一合に、灰引塩一合を加えてよく混合する。
 紫蘇塩 梅漬の中の紫蘇を固くしぼり、日光に七日間ぐらい干したるものを、よく摺りて一度漉し、それを五勺ぐらいと灰引塩一合加える。
 木芽塩 三、四月頃の木の芽を二百目ぐらいと、塩五勺及び焼明礬(やきみようばん)小盃一杯入れ、よく揉みて一日漬けおき、取り出してよく洗い、水気をしぼり、日光にて二、三日干し、よく摺りて粉となし、それを三合と灰引塩一合を混合する。
 そのほか、はこべ塩などは歯磨きに用いられ、また種々鹹蔵などのことはここに省く。
 塩     銅 脈
占竈将軍坐。 其鹹正未存。
高綱師計略。 村雨恋争論。
神様仙台在。 功名赤穂尊。
懲人唯暫蹈。 追付直生根。


最終更新日 2006年01月22日 00時30分50秒

林春隆『野菜百珍』「二九〇 醤油の話」

二九〇 醤油の話
 しょうゆは、塩についで重要な日常用品である。都会の人が砂糖をよく嘗めるのと、田舎(いなか)の人が塩を用いることの多い中にも、またこの醤油も田舎人の口に(かな)うもので、俗に醤油味の濃いのを田舎口というほどである。
 この醤油も文武天皇の時代には、ひしお(、、、)(とな)えて一種の醪味(もろみ)のようなものを用いられ、そののち室町時代にシナの製法を伝えしも、これは垂れ味噌の如く豆油と称した。ようやく元禄の頃に今の醤油が醸造されたくらいで、その特産地は下総(しもうさ)の野田、銚子、播州の竜野、湯浅、備前、讃岐の小豆島、その他各地で製造される。ことに三尾地方で製造される「溜り」は、大豆、塩でまた時々は豌豆(えんどう)、菜豆を用いるが、麦類を用いない特種のもので濃厚の味を賞する。もっとも溜りの名は味噌の上面に(ざる)を埋めて、それに溜った醤のことである。一般の製造は大豆と食塩と小麦または大麦などである。
 この醤油の良否が料理に直接の関係あることはいうまでもないが、今日では種々の加味料なり補味品があるから、ただ醤油の善悪に嫁して調理の巧拙を論ずることは許されないのである。
 日本の俗謡に「油買いに()買いに云々」というのがある。その起りは漢籍の「笑林広記」というに、祖父が孫に銭二文を付けて醤油と酢を買いにやると、孫は途中から帰って問うに、いずれの銭で醤油を買い、いずれの銭で酢を買うやと尋ねた。祖父は、一個の銭で醤油、一個の銭で酢と、二っに分けて買えよ、なんでそんなことで閑をつぶすやと。孫はまたしばらくして帰って問うに、それではどちらの椀に醤油を盛り、どちらの椀に()を盛るかと。祖父は怒ってこの痴呆め云々とある。これは作り話であろうが、醤油や()を小買いする風俗がうつされている、その趣がおもしろいのである。
 またシナの雑記に、旅行に携える食品に、醤菜、紫菜、蕈菜などとあるは、醤油で煮染めた菜のことで、紫菜は今の海苔の佃煮(つくだに)、蕈菜は椎茸の煮しめで、これら醤を含んだものを旅行に携えた、つまり懐中醤油の代用にしたのであろう。
 また「中陵漫録」に、浜醤油という記事がある。今も行われるが参考に抄出して見よう。
   浜醤油は近来(寛政の頃)肥前の島原の漁人始めて製す。今は皆家々に製し用ゐるなり。毎
  年四五月頃、(このしろ)の子の長さ一寸余なるを取りて、他の魚の子及芥を去りて洗ひ浄め、鱸二
  斗に塩一升、赤麹五六升を入れて、水三升を加へよくかきまぜ、瓶の口に蓋をして土にて塗
  り、或は紙にて張り、蔵の中など静かにして囗当りなき処に瓶を半分程地に埋め置き、九十
  月の頃に其口を開き見れば、水清く澄みてあり、これをものにてくみて、外の瓶に出して用
  うべし。之れにて大根を煮る至極味よし。麺類にも最も佳なり。何物を煮るにも鰹節を入れ
  るに及ばず、鯆の香更になし。ただ其色白し、常の醤油を入れて色付けてよし。又常の醤油
  の滓を、醤油の実といふ。これを炒り焦して黒くして醤油を入れて、一二日も煉つめる時は
  凝つて固くなるなり。これを入る時は悉く醤油の色となるなり。是を火醤油といふ秘伝なり
  云々。
とある。これは東北地方の塩汁に似た魚醤の一法である。
 さて、醤油のいろいろは、
 注け醤油 味淋(みりん)一合、溜り醤油一合を合わせて、一合五勺に煮つめたもの。
 煎り醤油 せと引きの鍋に胡麻油をひき、よく焼いて土佐醤油を入れて、煮冷したもの。
 土佐醤油 濃口醤油一合、味淋一勺、酒一勺、松魚(かつお)二十匁を一度沸かして、冷まし後に用う。
 吾妻醤油 醤油一合、味淋一勺、鰹出し三勺の割に合わせ、火にかけて冷して用う。
 煮返し 味淋に鰹を入れ煮返し、ふしの濁らぬように漉して、醤油味をつけて、煮返す。
 刺身醤油 土鍋に醤油二合、鰹節を削りて十匁、水五合、全部を二合に煮つめ、一度漉してよく冷しおく。土佐醤油と同じ。
 胡麻醤油 土鍋の中へ醤油二合を、出し昆布十匁ぐらいと、白または黒ごま三勺ぐらい、よく炒りてちょっと冷し、摺り入れて、五分間ばかり煮て、昆布を取り去りて用う。
 胡桃醤油 鍋へ醤油三合、胡桃のすりたるもの十匁ぐらい、酒五合、味淋三勺を加え、全部を二合三勺ぐらいに煮つめ、一度漉して用う。
 葱醤油 鍋へ醤油一合、古酒五勺、(ねき)白根十匁ぐらいを刻みてよく摺りおき、前の醤油と酒を一割ぐらいに煮こみ、その中へ葱を入れて摺り混ぜて用う。湯豆腐などにかける。
 山葵(わさひ)醤油  土佐醤油一合に、山葵一本葉付より()りおろし、叩きて一度擂りて加え、よくまぜ合わす。
 辛子醤油 鍋の中へ醤油二合と大根の汁五勺、古酒五勺及び出し昆布五匁、日本(からし)子盃に一杯を水にて固い目によく煉り、それを加えて全部を二合五勺ぐらいに煮つめ、一度漉して用う。浸しもの、漬物用とする。
 芥子醤油 土佐醤油一合に芥子(からし)小盃に一杯を、よく炒りてちょっと擂りまぜ合わせて用う。浸しもの、(やつこ)豆腐、湯とうふなどに用う。
 精進醤油 鍋の中へ醤油五合と焼昆布十匁、椎茸十匁、水二合半ほどを入れ、六合ぐらいに煮つめ、一度漉して用う。
 南京豆醤油  鍋の中へ醤油二合と南京豆三十匁を程よく摺りまぜ、白砂糖小盃二杯と、古酒五勺を加え、全部を二合に煮っめ、よく冷して用う。菜の浸しものに用いてよし。
 吸もの用 土鍋の中へ淡口醤油三合と、炒り塩小盃一杯、鰹節上等十匁(かめぶしがよし)、水一合を加えて三合に煮つめ、一度漉して用う。吸もの、すまし汁に用う。
     醤  油    銅  脈
   思出三年許。 鼻褌煮ト時。
   于今竜野賞。 自昔備前宜。
縁使調和好。 無兼食事離。
近年湯浅浦。 諸国積舟之。



最終更新日 2006年01月22日 02時27分26秒

林春隆『野菜百珍』「二九一 越瓜の話」

二九一 越瓜の話
 しろうりは、夏秋の間きゅうりに次ぎて熟し、京にては、あさうり、また、っけ瓜と称す。奈良漬用として最も賞美せられ、早生、大越瓜、青瓜、菜瓜の種類があり。大越瓜は多く東京付近に産し、京の桂瓜、摂津の三島瓜は奈良漬に用いられ、また縞瓜(しまうり)とて、胡瓜(きゆうり)によく似たものがある。
 さて調理は、
錣瓜 うりの(へた)を取りて中ごをぬき、切り放さぬように薄く切りて煮たもの。
たぐり瓜 皮を去り、一分ぼかりの厚さの桂剥にして、長さ三寸、幅二分ぐらいに切り、ちょっと湯煮して、薄味をつける。
押瓜 細い瓜の中ごを抜き、半時間ほど薄塩して水に浸けおき、平昆布に巻き簀巻(すまき)にして、よく()しをかけ、のち三杯酢に漬け、一分ぐらいに切ってあしらいに用う。
 のし瓜 白瓜を塩にてもみ、布巾でのし、重石(おもし)をかけて水気を取る。 このほか、(うり)の話を参照のこと。



最終更新日 2006年01月22日 11時58分19秒

林春隆『野菜百珍』「二九二 白藻の話」

二九二 白藻の話
 しらもは、海藻にて石上に生ず。形、髪の如く枝ありて、一、二尺に至る。生にては淡紫色にて、(さら)すと白くなる。竜鬚菜、繪菜。生食するに酢に浸し、また肉と煮るもよし。



最終更新日 2006年01月22日 19時30分55秒

林春隆『野菜百珍』「二九三 白豆の話」

二九三 白豆の話
 しろまめは、大豆の一種。白くして黄を帯ぶるもの、単にまめ、または大豆とのみ呼ぶ。黄大豆。
 夏熟するを夏豆といい、粒小さくして下品である。多く豆腐に製す。故にとうふ豆の名がある。梅豆ともいう。また秋熟するを秋豆といい、粒大きくして上品なり。味噌に醸すゆえ味噌豆の名がある。報秋豆と称する。調理は豆の話を参照すること。



最終更新日 2006年01月22日 19時46分06秒

林春隆『野菜百珍』「二九四 十六■(ささげ)の話」

二九四 十六■の話
 じゅうろくささげは、■(ささげ)の一種。(さや)の長さ一尺余に至るもの、豆肥えたるは十六ないし十八粒もある。故に十八ささげの名もある。未熟なるは莢のまま食用にする。豆の色淡紅なるゆえ、東京の俗に赤小豆飯に用う。それは腹が割けぬという封建時代の遺風である。
  長かれと露もささげの垣根哉
  ささげ垣大原にかかる玉簾
 また大角豆、小角豆、青ささげ、裾帯豆、紫更豆の名がある。
大角豆    銅脈
若壮真佳味 誰人是欲肇。
二筋頸懊訣 幾粒子妊生。
最早難居畝 悲敷又出棚。
皺成唯十八 此彼売行声。



最終更新日 2006年01月23日 14時56分02秒

林春隆『野菜百珍』「二九五 信濃梅の話」

二九五 信濃梅の話
 しなのうめは、梅の一種。花一重にして白く、下を向いて開く。実の形、正しく固く、金柑の如く、二、三十粒一枝に(むらが)り垂る。梅雨中に早く熟し、核と共に食す。正月、大福茶に昆布と共にこの梅干を用う。甲州梅、こうめ、消梅の名がある。



最終更新日 2006年01月23日 01時47分49秒

林春隆『野菜百珍』「二九六 信濃柿の話」

二九六 信濃柿の話
 しなのがきは、常の柿に同じ。実の大きさ金柑の如く、長きあり、円きあり。色黄にして味甘し。皮を去らず乾して食う。核は胡麻の如し。君遷子と称する。冬の初めに熟す。



最終更新日 2006年01月23日 08時40分40秒

林春隆『野菜百珍』「二九七 自然■(じねんこ)の話」

二九七 自然■の話
 じねんこは、竹の実にして数十年を経て生ず。形、穀の如く、味、粳の如し。飯として食す。ささみどり、竹米、竹実の名がある。



最終更新日 2006年01月23日 11時22分10秒

林春隆『野菜百珍』「二九八 芍薬の話」

二九八 芍薬の話
 しゃくやくは、古名をえびすくすり、また、ぬみくすりともいう。俗に佳人を形容して、立てば芍薬(しやくやく)、坐れば牡丹、歩く姿が百合の花と、ちと古い形容だがこの花を顔好草と称し、綽約の訓とあるから、その姿の優れたのを濫美の称である。
 のみならず芍薬百草の薬効を兼ねて、一に脾経を安んじ、二に腹痛を治し、三に胃気を収め、四に瀉痢を止め、五に血脈を和し、六に縢理を固くすとあって、白朮、川有、人参、当帰、甘草、黄蓮、防風、薑、棗などの薬効を兼備するというくらいで、名医松岡玄達が、薬を荻生徂徠に贈る詩に「調合進申苟薬湯。生姜一片煎如常。平生食物肝要事。唯許午蒡与大根」と。
 この詩は、薬法、煎法、食忌までも一絶の中に含み、さすがのむずかし家の物茂卿も破顔微笑したであろう。
 この芍薬は、牡丹の花と共にその花弁を三杯酢などにして用い、また根も酒で炒って食う。根の長い塊を薬用とするのである。



最終更新日 2006年01月24日 01時44分19秒

林春隆『野菜百珍』「二九九 馬鈴薯の話」

二九九 馬鈴薯の話
 じゃがいもは、いもの話で述べたが、この原産地の南亜米利加(アメリカ)より爪哇(ジヤワ)島を経て長崎に伝来したのでその名がある。その根塊が馬の鈴の如く生るので馬鈴薯と書く。俗に訛ってジャガタライモという。
 この薯の応用は、いも属中でも今日では王様である。調理は前に出ている。



最終更新日 2006年01月24日 02時07分54秒

林春隆『野菜百珍』「三〇〇 玉蕈の話」

三〇〇 玉蕈の話
 しめじは、形、松茸に似て小さく、秋の頃山野の湿地に生ずるゆえ、しめしの名がある。俗にしめじだけという。その形、種々ありて、千本しめじ、大黒しめじなどにて「匂い松茸、味しめじ」というほど、しめじは淡泊の美味と、一種の風味をもつもので、吸もの、田楽、辛()和え、二杯酢。また、しめじ飯など、ことに風流なご馳走である。標茅蕈と書く。
   一つかみつつに在所も玉蕈哉
   兄弟はみな女なりしめちかな
また狂歌に、
  一本に百程できる物なればしめちが原のしめちなるらん
 卜治   銅脈
香高松蕈様。 味好我身知。
同所馴棲者。 離居料理為。
色黄只独立。 染薄何程比。
終擲投清汁。 一盃呑意宜。



最終更新日 2006年01月24日 11時00分41秒

林春隆『野菜百珍』「三〇一 春菊の話」

三〇一 春菊の話
しゅんぎくは、筒蒿、秋に種を下して春の間に、これの茎葉を食う。俗に菊菜と称し、浸しもの、煮食、天ぷらなどに用い、多く日本、シナにて需要する野菜である。
 無尽草   銅 脈
菜苑従芽出。 常為火急浸。
糞増蔓畝色。 種下不時心。
茎暢終無用。 花開又有搖。
隠居頻折去。 懇献仏前深。



最終更新日 2006年01月24日 21時23分53秒

林春隆『野菜百珍』「三〇二 蓴菜の話」

三〇二 蓴菜の話
じゅんさいは、古名ぬまなと称し、また「あささ」といい、古き池沢に生じ、春夏の間に採りて食う。晩夏に紅紫の花を開く。函館の大沼はこれの名産で、生のまま採って酢肴にして、百二十六島の水に映じる霊峰を眺めんなどは、ことに得がたい北海の味楽である。
 さて蓴菜(じゆんさい)の調理は、吸物の種。辛子和え。また若い巻葉の軸を去り、小猪口に盛りて三杯酢をかけて、辛子を上置きにする。またこれに白砂糖をかけて出すもよし。
   採蓴を誠ふ彦根の愴夫哉
   ぬなは採る小舟に歌はなかりけり



最終更新日 2006年01月24日 22時03分50秒

林春隆『野菜百珍』「三〇三 豌豆の話」

三〇三 豌豆の話
 えんどうは、古名「のらまめ」と称し、秋種を下して夏熟す。春に紫花を開く。白花は豆丸くして白く、(さや)を併せ食うので、さや豌豆(えんどう)という。また烏豆、雀豆、野豆、浜豆などの名がある。一名を胡豆、胡戒、また翹揺というは、その花の形が蛾に似たるよりの名である。
 豆の話参照のこと。



最終更新日 2006年01月24日 22時33分17秒

林春隆『野菜百珍』「三〇四 稗の話」

三〇四 稗の話
 ひえは、印度(インド)を原産地として、わが国でも古くより山間部に栽培せられ、これを補食品とする久しい習慣がある。天保より天明にわたる奥羽の凶歳に、かの二宮尊徳翁がその配下の農民にこれを作らしめて、その災厄を免れしめたことは有名な話である。
 稗には水陸の二種があって、田稗は水田に植えて痩せ地にも育ち、穂は粟の如く小さく、枝多くして(のき)のあると、なきものがある。食用とするはその実である、これを穆という。野稗、草稗などは倹用にならぬ。水に生ずるを水稗、陸にあるを犬稗(旱稗)というのである。



最終更新日 2006年01月24日 23時06分18秒

林春隆『野菜百珍』「三〇五 檳榔の話」

三〇五 檳榔の話
 びんろうは、その実を食い、和名「あけまさ」と称し、味勝(まさ)るの義なりという。この樹は馬来(マレユ)諸島の中に産し、ビンロウはその音訳であると伝えられ、多く熱帯地方に産す。上代にもわが国においてこの子を茶の代用とされしものの如く、子は生食すれば味渋く、やや甘し。かの地の風俗として、貴賓来る時に必ずこれを饗するより、檳榔の名を貴客の称として取れるなりという。この実は酒に和して効あるものと伝えられる。



最終更新日 2006年01月25日 00時24分26秒

林春隆『野菜百珍』「三〇六 白芋の話」

三〇六 白芋の話
 ひごずいきは、白芋の茎を乾して貯えたのである。肥後の産が名あるため、俗に、ひごずいきと称し、色白く長く太く美しければ、近世花柳の妓女等はこれを元結の代りにして、髪飾りに用いることが流行し、またあられもない猥談にまで言いはやされた。食用としては味(もろ)く美味であり、煮食、酢のもの、和えものなどに用いる。



最終更新日 2006年01月25日 00時47分47秒

林春隆『野菜百珍』「三〇七 菱の話」

三〇七 菱の話
 ひしは、池沼に育ち、根は水底にありて、夏小花を開き、秋熟すると黒く、仁は白く、未熟のものは蒸してこれを食う。ひしのみ(菱実)。
 熟したものは乾して澱粉に製し、また乾果のまま食用に供する。
   船ばたをたたくも淋し宵の間に菱とる船や江にかへるらん



最終更新日 2006年01月25日 01時23分41秒

林春隆『野菜百珍』「三〇八 鹿尾菜の話」

三〇八 鹿尾菜の話
 ひじきは、古名「ひずきも」と称し、海中の石に生じ、春二、三月に新芽を生じ、越年したるものは長さ二、三尺にも達するが、普通は二、三寸の時に採りて鼠の尾の如く蒼黒く、煮れば黒く、(もろ)くして味淡し。その細きものに、ふくろひじき、ひめひじきと称し、鹿の袋角に似たるより鹿角菜の名もある。また羊栖菜と称し、六味菜ともいう。業平の歌に、
   思ひあらば(むぐら)の宿にねもしなんひしきものには袖をしつつも
と。これは「伊勢物語」にある歌で、伊勢、志摩地方は産地である。其角の句にも、
   春雨やひしきものにはかれつつじ
という句がある。こうひじきも振られては情なくなる。
 さて、そのひじきの調味は、揚豆腐と煮付は惣菜のお定まりで、白和え、辛子和えは田舎の法事にもあまり下さらないといわれているが、用いようによって変った料理にもつかえるものである。



最終更新日 2006年01月25日 01時49分30秒

林春隆『野菜百珍』「三〇九 枇杷の話」

三〇九 枇杷の話
 びわは、初夏諸果物に先だって成熟するゆえに、ことに愛玩せられる。その葉の琵琶(びわ)に似たるよりの名という。冬に枝の梢に二、三寸の穂を出し、白花が(むらが)り開く。実は初夏より熟し始めて、樹久しきを()ざれば実を結ばぬものである。その種類は、唐びは、あかがね、真鍮びわなどと、金物屋のような名称がある。それは子の色を称したもので、緑葉中にこの鮮やかな色彩を含むところに野趣のある果物である。
   颯々の鈴なりすずし枇杷の花
とは烏丸光広卿の吟である。中華でもこの佳果を賞して、
   楊柳枝々弱。 嫋々碧海風。
   枇杷樹々香。 濛々緑枝香。
 さて、枇杷の葉を煎じて茶の代りに飲むと、咳のくすりとなる。夏季に烏丸枇杷葉湯と売りに来る暑気払いがある。
 枇杷   銅 脈
全体多人死。 其辺結子箴。
外身喰処少。 中核沢山妊。
樹頭熟金色。 枝産不鈴音。
酔時成水物。 酒席亦来臨。
世俗に枇杷を栽えると不幸がつづくなどというが、長崎の茂木や南無谷の枇杷は、甘美と大粒で名がある。



最終更新日 2006年01月26日 01時01分32秒

林春隆『野菜百珍』「三一〇 醤の話」

三一〇 醤の話
 ひしおは、鸛卿呼の一種である。これを製るには、大麦五升、小麦五合、糯米三升五合の割に
て、各蒸籠にて蒸し、ほかに大豆三升五合を粉にしたるをこれにまぜ、(むしろ)に拡げて(むろ)に入れるか、または温かい部屋に運び、ふとんなどを(かふ)せて醗酵(はつこう)させて(こうじ)として、これを(かめ)に移し、塩一升をおよそ水三升に溶かして煮たものを加え、しばしばかきまわして熟らし、数日を経て食用とするのである。
 また一法に、小麦一斗を水に浸け、よく蒸して手に握りて固まる時間に、豆の粉と合す(豆の粉は大豆五升を割り、皮を去り挽き割りて用う)。それに塩二升五合、水八升五合、以上を合わせ、よく煮き出して冷しおき、前の小麦と豆をこれに混じて、日影に置いて毎日かきまわしてのち数日おいて食用にする。
 また丸山ひしおは、小麦四合、黒大豆六合、いずれも炒りて挽き割り、蒸して糀室(こうじむう)に入れ、花をつけて三合塩に合わせて、常の麹を水にて洗い、その洗い汁にて固くこねて熟すべし。
 急に味をつけるには仕込みたる桶に蒲団をかけ、昼は日当りへ出して、屡次(るじ)かきまぜると五、六日にてよく味わいつく。
 また大豆の粉を右の大豆にふりかけて室に入れると、花がよくつきて、ひとしお味をよくするのである。



最終更新日 2006年01月26日 01時01分48秒

林春隆『野菜百珍』「三一一 海蘊の話」

三一一 海蘊の話
 もずくは、俗に「もぞく」とも称し、水雲とも書く。藻について生ずるゆえの名か。形、極めて細く乱糸の如く、線状をなして分枝し、水面に浮かびて長さ数尺に至る。多くは静穏なる江湾のうちに生じ、冬春に採収して食用とする。遠参地方にてはこれを塩水に漬け込み、樽詰めとして諸国に販売する。泉州、紀州の産はやや肥大なれば、太もずくと称す。昔は対馬の産を佳良としたのである。
 さて、もずくは塩したるものも、生なるものも、これを食用にする場合は、もずくに灰を加え、そろそろと掌で揉みほぐして、その滑りを去り、数回水をかえて洗い、さらによく水気を去って、三杯酢、山葵酢、生姜酢などに陳皮のせん、または柚、橙の細繊を入れて食する。吸物、汁の実にするには、 一度もずくを湯煮すること。とろろかけにするも妙である。
 海 蘊   銅 脈
如毛生海石。 入海佳人芟。
別水無離汐。 出塩不好鹹。
酒肴浸酢啜。 汗子作筌梁。
味未経年損。 壷中真黒滔。



最終更新日 2006年01月26日 01時30分47秒

林春隆『野菜百珍』「三一二 唐黍の話」

三一二 唐黍の話
 もろこしきびは、略してもろこし、また京都ではとうきびと称す。高黍とも称し、かの有名なる満州の高梁(コウリヤン)はこの一種である。多く畑に植えて、その用途は餅、団子、またこれをもって酒を醸し、製菓の材料とする。



最終更新日 2006年01月26日 01時48分09秒

林春隆『野菜百珍』「三一三 桃の話」

三一三 桃の話
 ももは、シナの原産で、かの国民が桃を尊ぶこと古来よりの習慣で、長寿延命の兆として西王母や東方朔の爺媼を引き出して、桃太郎の話まで日本へ伝えた。しかしこの桃太郎のお伽噺(とぎぱなし)は、純粋の日本の武勇談で、例の鎮西八郎為朝が鬼ケ島(大島)を征服した事実を仮作したものである。三馬の歌に、
   その桃の根とひ葉とひのそれからは、後も話の種ぞ残れる
というのがある。
 桃は早く長じて早く老ゆもので、十年と保ち難い。で、桃栗三年といって三年目に花実がある。三つ児の魂百までというが、桃の方がまだ気が早いのである。
 桃についての挿話は多いが、昔シナでは十二月と二月の八日に、鬼門の桃の枝を伐って、門戸に立てて除呪とする習慣がある。これを桃符と称するのを、常陸の水戸ではとうふ(、、、)という音を間違えて、(にら)と豆腐を串に挟んで門戸に立てる風俗を伝えられた。これも(ひいらき)や鰯の頭と同様で、迷信よりも家内安全にすることで、とかく近所に事勿(ことなか)れである。
 狂歌に、
   家と子を守り袋があらたなる、氏神よりもうちのかみさま
という方がおもしろい。
 さて、桃も今日では日本種よりシナ種の方が、佳味をもつようで、上海、天津の水蜜桃に、米国産のものが鬼ケ島でない市場の桃太郎中で幅を利かしている。で、またその調理も西洋料理向けに用いられ、缶詰にまでなって勇躍している。
 それで桃の異名は、仙果、蟠実、三偸、洛陽路などと称し、いずれもシナ情調の故事付けのもので、その種類も、碧桃(白桃)、早桃(五月の子)、毛桃(山中の桃)、冬桃(十月に実る)、霜桃(同上)等は皆中華種で、昔シナに一抱えもあった桃がある。福清の黄檗山も、宇治の黄檗山も、門扉や寺の紋章に、大きな桃太郎でも生まれそうな桃の印をつけている。
 それほどシナでは桃を果物の王として、果実多品唯桃を佳とすべし、夭(ようよう)たるその色、灼(しやくしやく)たるその華などと激賞して、嫦娥(じようが)が月に入るを仙となし、東方朔がこれを失敬して寿を益したことを吹聴している。また女の徳をこの桃に比して、あるいはその美、后妃の徳としたり、あるいは瓊瑤の華に報ゆと、桃を代え玉にまでっかっている。
 で、この桃がよろずの邪気を去るというので、シナの寺院が桃の紋を符に用いる習慣で、日本の寺院でも、禅宗は梅の花、日蓮宗が橘、真宗が藤の花といった風に、これも植物の紋をつける風習がある。
 もっともこれは開祖が姓氏の関係からでもあるが、もとは西王母の桃が三千年に一ど実を結ぶのを、東方朔が三つとも(ぬす)んだので、積り九千年も長寿を保つという縁起からである。
 貞柳の狂歌に、
   桃尻になりて聞きたる長はなし三千年のここちこそすれ
 また、句に、
   桃つくる桃の老父やたた老父
 また千代成の歌に、
   十日あまり伏見の里に旅寝してももよももよとかよふ花園
 さて前に述べた桃太郎の話については、馬琴の「燕石雑志」に和漢の引書によって解説されてある。
 この桃を夏日の酒の下物にするは、随分堅い桃を剥き、薄く千に切りて軽く塩でもみ、水にさらして橙酢(だいだいす)などかけてあしらうとよい景物になる。
 桃 子   銅 脈
買辻君喰桃。 干桃核産毛。
頭丸紅付染。 形小色増褒。
割身其別好。 浸水只浮敖。
夫昔一花盛。 而成果未労。
古歌にも、
  春霞梅と桜のたえまよりこぼれてにほふ桃の花かな



最終更新日 2006年01月26日 02時37分29秒

林春隆『野菜百珍』「三一四 餅の話」

三一四 餅の話
 正月の小餅をさして若餅というのも、若水、若菜、若夷(えびす)となんでも若くして、小の字を忌む。これも若やぎ法の人間欲である。
  若餅は都に早くつきにけり
 さて、お鏡餅の次は、年中行事の三月節供の(ひし)の餅の話。
 菱の餅 は、もと菱葩と称して、鏡餅の上に置いたもので、新嘗会などの時に、神前に供えたもう餅を葩といい、この餅は丸くして幅の薄い紅白のこしらえである。また宮中では雑煮というものはなくて烹雑と称し、生の餅に煮た小豆を置き、向うに小角に鰊、(かずのこ)と菜の茎とを置き、また菱葩餅とて、牛蒡を切餅で包み、上を少し()いたものを土器(かわらけ)に盛って奉るのである。
 これが内裡雛に供える菱の餅の起りで、草の餅は前にも述べたが「文徳実録」、これは今から千年余の前の元慶三年に、例の阿衡の任で手古ずらした藤原基経が勅を奉じて撰んだもので、これにも母子草がなかったので草餅を廃めたとある。
 この母子草というのは鼠麹草のことで、その頃摂津国豊島郡母子村の永沢寺というに、通幼上人が住いした時、この草が寺の庭に生じたので、母子が恩愛の兆しとして、亡母の命日にこれを造り始めた、というようなローマンスで、後に(よもぎ)を母子草と称し、遂に蓬餅とも草餅ともいうようになった。それから草餅を撮んで鶯の形にたとえて、鶯餅とも名づけ、後には黄粉(きなこ)をかけて鶯の色に見立てたりした。
   鶯の来てぞめづらん草の餅
は嵐雪の吟で、
   おらが世やそこらの草も餅になる
は一茶の句。また、
   草餅や砂糖の霜は置き次第
は素丸の洒落である。この草餅はシナでも鼠麹草の汁を蜜に和して(だんご)とし、これを竜舌拌と称して時気を圧する風俗がある。
 菱の餅の狂歌に、
   かがみともあるべき品を雛さまの、菱のもちゐはねちたもの好
 また、
   臼に粉も蓬も入れて(きね)をとりつく音もちんがたひしのもち
などと滑稽なのもある。
 宮中に椿餅ど称し、最も古いものがある。「延喜式」につばい(、、、、)とあるがそれで、その製、上古は砂糖なきゆえ、米の粉をこねて桂皮の細末せしを少し入れ、甘茶を煎じた汁で練り丸めたものを、椿の葉を両面よりおしあてて蒸した、すこぶる古風なものである。
 黄金餅 楕円形の餅を小判形に擬して黄金餅と称し、それを年の始めにっくり、(かまど)の神に供える風習がある。それは往古くわがた餅と称して竈神を祭るに用いた遺風で、文明年間にこの名が残されているが、その起りは判明しないのである。
 亥子餅 これは応神天皇の御時より始まり、十月上の亥の日に餅を()いて、内蔵寮より朝餉(あさがれい)に奉ることは古く行われて、「延喜式」にも載せられてある。
 これを御玄猪と称し、あるいは厳祥ともいい、禁裏より群臣に賜わるが例で、その式例は「女中御下頭伊予局餅蒼文木臼並びに木杵を調進して・今日これを智くを幸著という・倭俺幸を得る、幸著く、福著く、幸著の著と餅を()くの搗くと倭俗相近し。故に相混じて、この餅を搗く祥著と称す。そのこれを春く人、裳を日下に敷き時に口誦するところの歌あり。およそ今日を祝するものは、猪の性多く子を産す、故に亥月亥日にこれを祝す。而して子孫の繁栄を祈る。女子あるもの、特にこれを祝う。この月三旬の間、亥日三つあり。即ち始めは小団餅並びに鴨麗・忍草を用い、第二箇度は小団餅並びに菊花忍草を用い、第三箇度は小団餅並びに楓葉忍草を用う(忍草とは餅に添う心葉の.」とである。今も赤飯に南天、饅頭に檜葉を添う類である)。また餅に各色(おのおの)あり。典侍方に賜うところのものは黒色を用い、内侍方には白色餅を用う。それ以下、赤色餅を用う。諸家に賜うところのものにも、またその差あるなり。団餅並びに忍葉、相共に白紙をもってこれを(つつ)み、黒白の水引をもってこれを結ぶ。小倍木に載せ、また別に鴨脚葉一枝、領賜するところの諸家の交名を記して、而して結ぶところの水引の間に挿す。女中より始め諸家に到る。各これを拝戴す云々Lとある。
 またこの月初めの亥の日に、摂津国能勢郡の木代、切畑の両村にて、加土太夫という者より、餅を破子(わりご)に盛って菊、楓の葉を敷き、禁裏院中へ奉ることがある。これを能勢餅と称して、餅の色はうす赤く猪の肉の如く表したるものである。こうした風習は、皆厄癘(ロやくれい)を除くために行われたもので、亥の子餅に関する諸国の俗謡も多くある。()()は毎年十二の子を生み、閏年には十三の子を生むというので婦人の多産を祝し、童謡にも「亥の子の餅は、親うめ子うめ云々」とある。「蜻蛉日記」にも、
   万代をいはふ山辺のゐのこより君がっかふるよはひなるべし
 また句に、
   神さまの留守事につく亥の子餅
   今朝あけた火燵(こたつ)の上のもちゐ哉
   何となく形も寒し亥の子もち
 また狂歌に、
   餅喰と早うよばれに来りしがさうもいのこの腹のゑごゑご
        *             *                 *
「餅ついた音は夢かよ朝鴉」とは支考の句である。鯛屋貞柳も、
   湯気のたつ雪のやうなる餅つきよいつまでちらぬ花の咲なり
と。
 景気のよい餅の話もこのくらいにして、名目餅と牡丹餅の話に移ろう。
 善哉餅 善哉善哉とは仏語から出た法悦の意である。で、古は年の初めに祝うたもので、東北地方では今もこの風習が行われる。
   大納言小豆に似たるものなればぜんざい餅はくぎやうに喰へ
という歌の「くぎやう」は(あな)のない三方(さんぽう)である。これを祝儀に食することの証である。
 出雲ではこれを神在餅と称する。汁粉でも善哉でも、神在餅でもよい。十二箇月善哉などという洒落たものもある。甘党の至極善哉がるところの、その名の(しか)らしむるところの舌の幸である。
 姥ケ餅 これは走り餅より一走り東の東海道は草津の名物で、昔織田信長に(ほろ)ぽされた六角義賢の子孫がここの代官となったが、のち故あって誅せられた。その幼児の乳母が養育のために餅をこしらえて、この街道で売り始めたのが(うば)(もち)の名を伝えたのである。
 園女の句に、
   長生に徳あり姥がすはり餅
 鹿子餅 これは宝暦の頃に俳優嵐音八が発明したもので、米の粉をこねて小豆餡(あずきあん)をくるみ、それを焼いて銀つばと称し、のち図に乗って金つぼと改めたが、幕府のお目玉をくらったので、鹿()()餅と()びかえたが、今の鹿の子餅の名の起りである。もっとも金っばの名は帯刀もせぬ世の中で、(つば)が金だろうが銀だろうが、そんなつばらぬことはお(ヘへ)いなしで、菓子屋では下戸を喜ばせている。
 粟餅 これは曲搗きで売り出した大衆芸術餅で、今は餡入り、のし餅として淡くて甘いものである。
 阿部川餅  これは弥次北八のおなじみで、駿河の名物。切餅を焼いて、黄粉(きなこ)でまぶすので、その焼餅を湯につけて軟らかくするところが、阿部川餅の創作ぶりである。
蕨餅 これは奈良春日山の名物、大仏の鐘を一つ()いて、この餅を一つ頬ばる赤毛布(あかげつと)の春の旅に、また一つの景物である。
   焼かずとも草はもえなん蕨餅
 このほか、住吉の福餅は土の団子の初めだが、大福餅は名に似ぬ貧乏人に可愛がられ、雪餅、氷餅などと冷たい名の餅もある。また、(とち)もち、(なら)もち、牛蒡(ごぼう)もち、枸杞(くこ)もち、うこぎ餅など、挙げれば際限がない。
 田楽(でんがく)餅は大阪毛馬の名物で、()いた白餅に味噌をつけて、これを食わんかえと呼び売ったものである。
 芥子をすり潰して味噌煮にした餅を食うておくと、いつまで長座しても小便を耐えられると、昔の大宮人はこんな工風まで凝らした。
 さて、終りにぼた(、、、)の話で、餅の話も搗き上げるとしよう。
 ぼた餅はまだ餅に搗かぬ飯の(まる)めたもので、飯団餅から出た音で、これを盆に盛った形が牡丹の花に似たので牡丹餅と称するといえば、いや、萩の花によく似たので萩の餅、お萩というのだなどと、もちゃり(、、、、)した議論もあるが。これを夜船と異名したのは、いつつくやら知れぬというので、ちょっと洒落ている。
 萩の花というのは、飯を円めずに盆にのせて黄粉などかけたもので、下総辺ではこれをかい(、、、)と称する。これは粥餅(かゆもち)の訛りで、やわらかい餅という意味であるというが、伊勢貞丈はこれについて「かかひ餅をぼた餅といふことは、牡丹餅といふことなりと思ひしに、さにてはなくて、萩をぽたといへば、(、、)の餅といふことにて、おはぎ萩花と云ふと同じことなりと上達部(かんだちめ)の老女が語られしとあり云々Lとある。シナにもこれに似たことがあって、放翁の詩に、新蝶餝枝綴二紅穆一と、油であげた餅を「蓼花」と称するためである。
 で、牡丹餅の本性はお萩であると相場が定った。歌枕にも浪花(なにわ)の芦は伊勢の浜荻(はまおぎ)で、この優しいお萩の方にうちわ(、、、)を上げることとする。また餅をふくだというのも、よくふくらむからの(ヘヘへ)で、福餅のめでたい名にも通うのである。
 餅の挿話を一つ述べよう。
 例の西行法師が行脚の時、折から八月十五日、山里の人家に托鉢を乞うと、主の女は亡父の命日とて下女に大きな餅をもたせてやったところ、この下女はその餅を二つに割って、西行に与えた。歌人の法師、何じょう一句なかるべからずと、
   十五夜に片われ月はなきものを
と口吟んだ。下女は微笑みて、失敬した餅を取り出して、
   雲にかくれてここにこそあれ
と下の句をつけた。この下女も江口の君のように、菩薩の再生であったろうか。
 むだ話の末に。
 餅のかびを防ぐには、搗く時に餅米一斗の中へ氷砂糖一斤ほどを、取り水に溶かして入れると、いつまでもかびが出ぬという。
 餅が(のど)につまった時は、大根おろしの絞り汁を呑むとすぐ通る。老人などにょくあることである。
 このほか餅の風俗は他日に譲る。
 餅     銅 脈
家家年暮搗。 御慶雑烹開。
痰障依人在。 腹持親我来。
祝言逢吉礼。 法事問年回。
為鏡神前坐。 仏称日善哉。



最終更新日 2006年01月26日 03時20分40秒

林春隆『野菜百珍』「三一五 薇の話」

三一五 薇の話
 ぜんまいは、「字鏡」に「万可古」とあり、その芽が銭の大きさの如く巻くゆえ銭巻の意か、またその芽が銭の形に巻くより銭舞の音便かともある。(わらび)の属にて薇蕨の略である。山野に自生し、春芽を採りて食す。乾かして貯え惣菜に用う。俗に犬わらび、狗背などと書くは、その根が犬の背の如きゆえである。
   狗背はわらびの上の一こぶし
 この調理は蕨に同じ。
 紫 箕   銅 脈
同蕨深谷出。 竟少賞生時。
名列高干物。 形枯若細芝。
水浸柔漸暢。 茎切洗初炊。
白和兼煮卜。 成還上置宜。



最終更新日 2006年01月26日 10時46分40秒

林春隆『野菜百珍』「三一六 芹の話」

三一六 芹の話
 せりは、一処にせり生うて出つるゆえの名か。根白草、水英、苦新、女英の異名がある。しかし、女英は(せり)に類するも根に小さき塊芋を有し、味少しえぐし。黒くわいに似たものである。
 芹は水中に生じ、冬を経て枯れず、夏季に繁茂し、一名川芹、田に植えるを田芹。根の賞すべきを根芹、その陸に生ずるを畑芹、野芹(早芹)の類がある。水田にあるは茎葉とも赤みを帯び、これを赤芹と称し、茎の白きを白芹という。白芹は赤芹に比して香味も劣り、形も小さし。多く愛用されるは赤芹(田芹)にて、その芳香刺戟は野菜中に稀なれば、芹焼、すき焼などに用い、蠣の如き淡味の香を添えて一層食味をそそらしめるのである。
 春の七種粥(ななくさがゆ)にも加え、
   芹薺(ぜりなつな)たたいた跡を牛蒡哉(ごはうかな)
の句がある。
   春雨のふりはへてゆく人よりは我まつつまんやせ川の芹
        □
   賤の女がゑぐのわかなははへぬとて、鳥羽田の面に畔ったひっつ
   しつが女が山田のゑぐのわかなつむ、鶯袖をぬらしつる哉
        □
   芹っむとこけて酒なき瓢哉
   摘むよりはとるにひまとる根芹哉
   浮ぶ鷺芹(くしけづ)るなかれ哉
   うぐひすや(このしろ)に咲る芹の花
   我ために鶴()み残す芹の食
   悲しまんや墨子芹焼を見ても猶
   若菜の日つむも白髪の根芹哉
 この芹は和歌俳句などに詠まれ、また詩に多く、献芹の故事などもある。
 さて調理は、芹焼(醤油にて煎りしもの)、芹漬(菜の如く塩漬にする)、味噌漬(これは根芹の横に這いたるが最も味よし)、芹のぬた、ごま和え、酢和え、味噌煮(土手焼)など。せりは煮加減を注意せぬと苦味を生じ、香気を失うことがある。
    水英     銅脈
  水結泥溝上。 摘時手足寒。
  葉青香本在。 根白味倶完。
  僧与梅干食。 俗同鳧肉餐。
  疥瘡休近寄。 生痒奈何難。



最終更新日 2006年01月27日 00時28分20秒

林春隆『野菜百珍』「三一七 煎餅の話」

三一七 煎餅の話
 せんべいは、初め半熟の糯粉に豆粉を和して、これを膠飴(みずあめ)でこねたものを雀の卵の如き形にし、それに竹の管を刺して日に乾し、食する時に、火に(あぶ)って脹らしたものである。その後、唐松、松風などという風に技巧を凝らして、菓子の発達と共に、江戸開府の初期より漸次その工風が出来て、鬼煎餅、軽焼、片焼、塩煎餅などと、種々雑多の煎餅が発明された。
 今は鉄器で焼形などを造るが、その頃は麺棒の如き竹の筒で押しひらめたもので、昔の煎餅屋の看板を詠んだ句に、
   看板に月こそ出つれ煎餅屋
というのがある。それが追々発達して各地に名物が売り出され、その地方色をお土産煎餅に広告して、時には名勝の写真絵にも代るものが発売される。いずれ風俗談のついでに述べることとする。



最終更新日 2006年01月27日 11時31分47秒

林春隆『野菜百珍』「三一八 酸茎の話」

三一八 酸茎の話
 すぐきは、(かふ)の一種にて京都の名産である。上加茂にて製するものを根本とし、大根の形したる蕪である。これを他所に栽培するとその酸味を失い、またこれを他にて漬けてもその味を変ずるという加茂独特の名物である。冬より春にかけて酒の下物、お茶漬の菜としても、そぞろに京洛の気分を味わうことが出来る。加茂の季鷹が、江戸の蜀山人に、すぐきを贈られた返事、南畝の狂歌に、
   都よりすいなおんなを給はりて吾妻男のさいにこそすれ



最終更新日 2006年01月27日 22時26分31秒

林春隆『野菜百珍』「三一九 芋茎の話」

三一九 芋茎の話
 ずいきは、かしら芋の茎を乾したもので、婦人の産後に食用として悪血を下すというので名高い乾物である。これも調理次第でお座へ出される。
 干ずいきは水に浸して、たてに庖丁を入れて湯煮して用うるが習いである。
 また、ずいきを細く切り、塩をふって塩のまま茹で上げ、あつい中に酢をかけると、ごく軟らかくなって歯切れがよろしい。
 和えもの、煮合せ、酢のもの、ケンチン、信田巻など。



最終更新日 2006年01月27日 22時46分37秒

林春隆『野菜百珍』「三二〇 清汁の話」

三二〇 清汁の話
 すまし汁は、料理のうちで一番に加減がしにくいので、いくら舌うちしても、首をかしげて試みても、ここという味の壷にはまらぬものである。これはその経験と年功によるもので、自分の舌を疑うような塩梅(あんばい)しきでは、お客の味覚をそそることができない。仮りにその加減を述べて見よう。
 常のすまし 出しに酒と溜りを加え、塩梅して平などにはしょうゆを少し辛目にする。
 生すまし  これは酒席に用うる吸物なれば、水と醤油ばかりで加減すること。
 味噌すまし  常の味噌汁に立てて深い鉢に入れおき、冷ますと味噌は溶けて沈むゆえ、その上澄みを汲んで用うる。
 塩すまし たまりに焼塩を加え、水をよきほどに入れて煮返し、鉢に入れてよどませて澄みたる時に汲むのである。
 塩仕立 焼塩ばかりにてするなり。但し、よき梅干の肉を入れて煮出すもよし。すこし酢の気あるがよろし。
 搾リすまし  生すましに仕たて、あげる際に大根おろしのしぼり汁を入れる。また塩仕立にもする。
 山葵すまし  前に同じ。
 糀すまし 糀を味噌に摺りまぜ、薄い味噌汁に仕立て、冷しよどませて、澄みしを用う。
 すましの下地をする時、だし、酒、塩をっかうにも、また生すましにて吸い合わせて見る時、ことによれば酢味があることがある。この時に醤油をさせば辛くなり、水をさせばあまくなる故に、この場合は焼塩をすこし入れて加減すると、酢味なおりて誠の味が出るのである。



最終更新日 2006年01月27日 23時13分11秒

林春隆『野菜百珍』「三二一 吸口の話」

三二一 吸口の話
 すいくちは、その用い方で汁の味をよくもし、悪くもするもので、これは庖丁の気転である。その種類は、
 (たいだい)の花、花柚子(はなゆず)、芽うど、柚皮、輪唐辛子、割胡椒(こしよう)、梅の花、柚子の貝割、結び葱、木の芽、胡椒の粉、生姜(しようか)汁、すり生姜、紫蘇の実、青唐辛子、菊の葉、茶の花、山葵(わさび)の葉、小菊、レモソの皮、漬山椒、花山椒、青山椒、割紫蘇、丁子(ちようじ)陳皮(ちんび)(たで)の葉、茗荷、(ふき)(とう)、その他。



最終更新日 2006年01月27日 23時34分03秒

林春隆『野菜百珍』「三二二 西瓜の話」

三二二 西瓜の話
 すいかは、黄檗(おうばく)の隠元禅師が渡来の時に将来したものと伝え、隠元西瓜と称えられるが、その以前戦国時代にもわが国で栽培されたものであるが、これを嗜食するようになったのは、寛永頃よりで、伊勢の人が長崎でこの種を求めてその地に播種したがよく成育したことがある。その後諸国に伝播したもので、僧義堂の詩に、
   西瓜今見生東海。剖破猶含玉露濃。種性不同江北枳。益人強似麦門冬
とある。
 また茶人飛喜百翁が利休を招いて西瓜を振舞うたことがある。利休、その西瓜に砂糖をかけてあったので、百翁の無雅を嘲ったという話を、柳里恭の「雲萍雑志」に載せてあるから、その頃の西瓜も珍物なら、それにまだ砂糖の珍重の時代に、これを用いたのは随分(おこ)った茶会である。
 この西瓜ばかりは、人の心と同様で割って見なければ、赤か白かが分らない。そこで、
   晴明につくらせたきは西瓜哉
という西山宗因の句がある。また、(きの)海音の狂歌に、
   真赤いなうそとは知らで真白な西瓜身を喰ふならひなりけり
とある。昔西瓜を食う人を見て、鬼の口が裂けたのかと驚いた話がある。
   出女の口紅おしむ西瓜哉
 この西瓜は腎臓病に奇効があるというので、西瓜糖などが発明された。シナ料理に西瓜醤というのは糀と西瓜を煮たものである。
 もし西瓜に食傷したら、蕃椒一(とうがらし)味を煎じて服するとよい。また西瓜の水一升を一合に煎じつめ
ておくと、火傷の妙薬となる。
 西 瓜   銅 脈
叩識其能熟。 釣縄井戸囚。
暑中冷継息。 道側渇霑喉。
実若公家歯。 形同坊様頭。
味甘多水気。 疑肉切身羞。
 この西瓜が市に出ると夏の涼み床が賑い、昔は西瓜の曲切りが流行して、輪ちがい、香の図、木魚などの形に切るなど、また西瓜燈籠などを造ったものである。
 その頃西瓜が流行して奢り者とて、奥様の御用とて西瓜の代三百六十五匁を、新小判で八百屋が請取り云々などの笑話がある。
   猪の顔くすつかす西瓜哉



最終更新日 2006年01月28日 00時20分22秒

林春隆『野菜百珍』「三二三 鮓の話」

三二三 鮓の話
 すしの欝ば、百本紀Lに景行天皇の御時審蔚という獲似た鳥が・水辺の魚を撚めて沙石の間に貯え、それで自然鹹蔵されて(すし)となった。これを(みさご)すしと称すというから、日本というところはよく何でも鳥に教えられる国で、あの何とやらも鶺鴒(せきれい)がお師匠なら、お鮓までこの鳥におしえられた。なるほどこう書いている文字も鳥の足跡とやらだから、こんな金釘流でさえ物が通じる結構な世の中である。
 鮓は最も贅沢な食品であって、この鮓の発達したのは延宝の頃で、江戸幕府の医者で松本善甫という人が江戸鮓の元祖で、世に松本鮓と称し、その頃は彦根の(ふな)のすし、尾州の(あゆ)のすしは、魚と飯をまぜて五、六日もしてから食うもので、また吉野の粟の飯で造る鮓も、二、三箇月もかこうてから後に食うものであったが。こんな鮓は右から左へ出来かねるから、気の短い江戸ッ子には商いするにも(あつら)えるにも、今日より幾日目と、定期預金でもする気で注文せねばならぬ。で、これをおじゃれずし(、、、、、、)と称し、いつ取りにおじゃれと洒落たものだが。これを松本のお医者さんは病人の脈を取るよりも、当時の食通家であったから、早鮓の調理を考えて、こんどはまちゃれ(、、、、、)ずいという客を待たしてこしらえる早鮓を売り始めさせた。それが今の屋台店で売る握り鮓の起原で、トロの鮪をつまますように進化したものである。
 しかし、押鮓は古くより行われ、その後京阪の箱ずし、または梯鮓は、それに笹巻、巻鮓、散らし鮓、蒸し鮓、いなり鮓などと雑多の鮓が出来た。いまも握りずしは東京の名物である。
 また大阪で幕の内と称し、握り飯の中へ魚肉を包みこんだものが、芝居を見物する客のため発明されて、長い幕のしまった問に食うので幕の内と称したのを、今ではただの弁当を幕の内と称している。
   なかなかに精進鮓のかるみ哉
と一茶の句があるが、精進鮓はまた乙なものである。



最終更新日 2006年01月28日 01時45分27秒

林春隆『野菜百珍』「三二四 酢の話」

三二四 酢の話
 すは、日常に使用する清涼的調味料として、よく人の嗜好に適する香味品である。世俗に酸いも甘いもよく知る人はあっても、さて酢の真味を解する人はなかろう。
 酢吸の三聖という老子や孔子、釈迦でさえこの酢を()めて鼻をしかめたというが、それは画そらごとで、この三聖は東坡と黄魯画立と仏印という変り者三人のことで、仏印が「我れ桃花に醋を得たり、甚だ美なり」とほらを吹いたので、東坡は魯公を誘うて、その醋壷(すつぼ)(のぞ)きに来て、三人ともいやしん坊にも、その醋を()めて眉と鼻を一しょくたにしたという滑稽談であった。
 昔、酢屋の看板に(ふるい)の底の抜けたものを出した。それは酢には菌がよく発生するゆえ、よくよく篩漉したという謎である。その看板を月に見たてて、
   月を見る酢屋の軒端や宵の雨
   すげなきは酢の看板と冬の月
   酢屋の輪を抜る気もなく抜る蝶
というのがある。
 酢の製法は醋酸菌の発育とその存在を要するものゆえ、米の酢はすべて変化作用を尊ばれるが、食用としては木酢をもって第一とする。かの三聖の酸吸も桃の酢を嘗めたので、わが国でも梅の酢をもって最上のものとされる。塩梅(あんばい)ということもこの梅の酢をいうのである。しかし、魚類には木酢は毒をなすことがある。梅干と肉の食合せなどもそれをいうのである。
 さて、料理用としての合せ酢は、煮返し、挽茶酢、黄身酢、蓼酢(たです)、胡麻酢、吉野酢、青酢、甘露酢、蜜柑酢、黒酢、白酢、焼酢、その他種々の合せ酢がある。それらは前の調理中にそれぞれ述べたのでここには省くこととする。



最終更新日 2006年01月28日 01時56分00秒

林春隆『野菜百珍』(終)

 野菜百珍も存外に、未熟の庖丁を永らくひねくり回し、読者諸君も定めし、しびれが京へ上りたまうらんと、仮名もそのすえ酢の話でひとまず筆を()くこととして、さて顧みると芋のいの字より、八十の手習いも、四十八音を尽してただかきつらねた野菜の数々、生煮もあり、煮え過ぎたるもあろう。中に少しでもお台所のたしゃく(、、、、)になれば、著者の幸福。久しい筆耕の労を忘るることと、自ら慰めてこの稿を(おわ)るのである。
(終)


最終更新日 2006年01月28日 09時15分44秒