浜尾四郎『博士邸の怪事件』「1」1

 数年以来の厳しい寒さもやっと去って、世はようやく春に向かおうという三月十日の夜、東京中央放送局は近来にない緊張ぶりをもって包まれていた。
 ある意味におけるわが歴史学の権威簑川(みのかわ)文学博士が最近、学界にすさまじい波瀾(はらん)を巻き起こしたその得意の新説を、今夜七時二十五分から三十五分間、通俗講演として放送する予定になっているのである。
 博士が最近、学界に投じた一論文『わが戦国時代と外国の宗教』は従来の通説を裏切ることはなはだしいもので、賛成する者反対する者いずれもおびただしく、ことに論争の中心となったところは、織田信長(おだのぶなが)とポルトガルの宣教師との関係という点であった。
 その『織田信長とポルトガルの宣教師との関係について』という題目を引っ提げて、博士は自己の新説を今夜通俗講演として放送することになっているのだ。いやしくもわが国の歴史に趣味を持つラジオファンはこの時間を全国において、いまかいまかと待っているはずである。その放送の発送地たる中央放送局の人たちが緊張し切っているのも無理はない。局には局員ばかりでない、新聞社の人たちも姿を現している。
 博士の新聞記者嫌いは有名なものである。しかし博士が相手にせぬからといって新聞社の人たちが黙っているはずはない。自宅へ行けば必ず撃退されると知っている新聞記者たちは、数名放送局に張り込んで、是が非でも博士を捕らえてひと言でも何か言わしてやろうと待ち構えているのであった。
 時計はいま六時五十分を指している。
 マイクロホンの前では、沢木(さわき)文学士が英語講座を終わろうとしている。
 六時五十分、英語講座が終わった。
「七時からニュースに移ります」
 というアナウンサーの声がはっきりと局内に響き渡ったとき、さっき簑川博士を迎えに出ていった放送局の自動車は博士を乗せて、静かに放送局の玄関に姿を現した。
 運転手が素早く降りて車のドアを開けるより先に、博士は自分で軽く戸を開けて、いつものとおり苦虫を()(つぶ)したような顔をしながら車から降り立った。
 それ! とばかり数名の新聞記者が博士を取り囲んだが、博士はいつものとおり無愛想にこれを見ながら、もうたびたび来て慣れ切っている様子を見せて、案内の局員と並びつつまっすぐに応接室へと入っていった。
「お忙しいところをどうもありがとうございました」
「いや……ただどうも、迎えがいつもよりちと早過ぎたようだ。だいぶまだ時間がありますな」
「もし遅れてはと思いましたので少々早目に出して申し訳ございません」
 こんな会話が取り交わされているところへ、いま英語講座を終わった沢木文学士が室へ入ってきたので、局員はそれをしおに室外に出ていった。
「おや、簑川先生ですか。失礼しました。今日のご講演はわたしもここでぜひ拝聴させていただきたいと思っております」
「沢木さん、あなたもだいぶご精が出ますね。毎日ではずいぶんご苦労さまですね」
 簑川博士はいままで数回放送局に来たこともあり、専門は違うが同じ文学科の者なので二人は前からかなり親しい間柄でもあった。
 といっても深く人と交際しない博士のことだから、そうたいして胸襟を開いて語り合うというほどの間ではもちろんなかった。
 給仕がお茶を運んでまたドアを締めて去った。
「なにしろ今日の先生の放送は、例の騒ぎを巻き起こしたくらいの大問題なのですから、とても聞き逃しはできませんよ。……ことにそのうちでも、お得意の題目についてやられるのですから大変な人気ですよ。かわいそうにあとの演芸放送なんかの人気もすっかり先生の講演にさらわれた形です」
 こうした一種の世辞が、まったく俗界を離れたように見える簑川博士にとってはまんざらでもないと見え、この時初めて博士の顔に会心の笑みが浮かんだ。
「いやどうも恐縮ですな。しかしうるさいですよ、あとがまた()めるでしょう。だいたいあれは、『史学研究』という専門雑誌に論文として書いたのですが、新聞紙が社会欄で取り扱ってしまったので、大した騒ぎになっちまったんです。今日の放送だって、わたしにこの放送をさせるさせないでだいぶ問題になっていると聞きましたよ。済んでからあとでまたずいぶん投書なんかが来てうるさいでしょう」
「しかし、ああいう専門的なことを通俗にお説きになるのは、ずいぶん難いことでしょうな」
「さあ、そこですよ、本当に苦心のいるのは」
 博士はいつになく雄弁になって学士に答えようと、傍らに置かれた茶をぐっとひと口に飲んだ。
 その時だった。
 ドアをノックする音がすると給仕が慌ただしく戸を開けたが、簑川博士のほうに向かって、
「先生、お電話でございます」
 と呼びかけたのである。
「なに、電話?」
 博士はうるさそうに、腰を上げようともせずに言った。
「いま忙しいんだが急用でなかったらあとにしてくれと言ってください」
 給仕はかしこまって戸を締めていった。
「わたしの講演が八時には済むことが分かっていながら、いまごろ電話を掛ける(やつ)もないもんだ」
 独り言のように言いながら懐中時計を出して眺めていたが、時計はちょうど七時八分を過ぎている。
 ノックに次いで、また給仕が戸口に現れた。
「そう申したんですが、ぜひ先生に出ていただきたいとおっしめ、いますんで……お宅からでございます。奥さんが出ておられるようで……」
 給仕はこう言うと、ちょっと(ずる)そうな顔をして博士を見た。
「家から?……なんだ、いまごろ。そんならそうと早く言ってくださればいいのに。……沢木さんちょっと失礼します」
 博士はこう言うと慌てたような様子で室外に出ていった。
 あとには沢木学士が応接室に一人残された。『エアーシップ』をくゆらしながら、じっとアナウンサーの声を聴いている。いま某新聞のニュースが聞こえる。
「次は府下吾嬬町(あづままち)の一家心中のお話。おかみさんが熟睡中の夫をはじめ子供を殺して自殺を図った事件が起こりました。府下吾嬬町請地(うけち)谷口一郎(たにぐちいちろう)の妻(のぶ)(二十三)はかねてヒステリーでときどきあらぬことを口走っておりましたところ……」
 沢木学士はここまでニュースを聴いてきたとき、思わずにやりと笑みを()らした。そうしてさっき給仕が博士に、
「お宅からでございます。奥さまが出ておいでのようです」
 と言ったとき、妙な狡そうな表情をしたことを思い出した。
「そうか、なるほど、あの博士夫人のヒステリーはこんな所の人たちにまで有名になっているものと見える。博士もなかなか変わっているが、あの夫人では博士もこれからだいぶ悩まされることだろう」
 こう考えているところへ、博士が憂鬱(ゆううつ)な顔をして戻ってきた。
 普通の場合ならば、社交のうまい学士のことだから、
「何かお宅に急なご用でも起こりましたか」
 ぐらいのことを()くことは充分心得ているのだけれども、なにぶん相手の夫人のヒステリーというのが博士の奇人であることぐらい有名になっているので、学士はわざと電話のことには触れまいと決心して、何か自然な題目はないかと心のうちでいろいろと考えていた。



最終更新日 2005年10月23日 16時19分07秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「1」2

 はたして簑川博士は、電話の題目に触れられるのを恐れるように、しいて早く他の話題を(つか)もうとするらしかった。
「どうも失礼しました。なに、つまらぬことでしたので」
「それは結構でした。さっきお話ししていたのは難しい専門のお話を通俗に話すことのこ苦心のように(おぼ)えますが」
「そうそう、それでしたね」
 博士は救われたようにその題目にかじりつこうとした。
「つまりなんですな、相手にぜんぜんその知識がないのですから、それが面倒になるのです。ちょうどご専門の英語でも、初心者に話すほうが中学生に話すより難しいのと同じことでしょう」
 学士はむしろ気の毒に感じた。簑川博士ともあろう者が妻のわがままを隠すために、こうも苦心――それも極めて下手な苦心をしているかと考えたので、そのまま黙って博士に(しやべ)らせることに決め、自分はただ盛んに『エアーシップ』の煙を室に漂わした。
 博士は初めは話題を無理に作って喋りだしたようだったが、途中で相手が巧みに相槌(あいつち)を打ってくれるのにおだてられたか、しまいにはかなり得意になって放送の苦心談を喋りはじめていたのであった。
 七時十五分ごろになった。
 ドアがまた開いて局員が入ってきた。
「先生、ではまだ少々早いようでございますが、ご案内をいたしましょうか」
 博士は、もう一度時計を出して見ながら、
「ではそろそろ行きますかね」
 と(そば)に置いた(かばん)の中から原稿紙らしい紙束を出そうとしていたとたん、またさっきの給仕が戸口に現れた。
「簑川博士、お宅からまたお電話でございます。奥さまが電話口に出ていらっしゃいます」
 今度の伝達は、はなはだ厳然としていた。
 博士はさすがに驚いたようだったが、何も言わずにそそくさとして室から出ていった。
「博士も大変だねえきみ、ここへ来てから二度ずつも呼び出されちゃ」
 学士が笑いながらそこに立っている局員に言った。
 さすがに局員も答えに困ったらしく笑顔をもって答えたが、手持ち無沙汰(ぶさた)そうに懐中時計を出したり入れたりしていた。
 七時二十分、博士は応接室へ戻ってきた。
「や、どうもたびたび失礼しました。いま行きます、分かっていますから先へ行ってください」
 局員にこう言うと、鞄の中から講演の草稿とおぼしき紙束を持ち出して学士のほうにちょっと近づいた。局員は博士の言ったとおり先に出ていった。
「先生、何か起こったのですか。たびたびのお電話は?」
 さすがに学士もこう訊かざるを得なくなった。
「実は、大阪にいる妻の母親が死んだというんですよ。それで妻はこれからすぐわたしに向こうへ行ってくれと言うんです。――これはきみだけに言うんだが、どうも妻はわがままでね。わたしが行かなけりゃ自分がすぐ行くっていうんでいま怒ってやったんですよ。どうも困ります。……では、これから一つやってきますから」
 軽く礼をして室外に去った博士の姿は、たとえようもなく悩ましく見えた。
(いくら興奮しているとはいえ、そんなに親しくもない自分にマダムのことを訴えるとはよほど先生も困っていると見えるわい)
 学士は独り言を言うと、お世辞でなく本当に『織田信長とポルトガルの宣教師との関係について』を(くつろ)いで聴くつもりと見え、パーラーのほうへと出かけていった。
 簑川博士は決して雄弁家ではなかった。否むしろ博士は訥弁家(とっべんか)として知られていた。
 しかし、その夜の講演は期待していたとおり素晴らしいものだった。放送局員もみな熱心に緊張して耳を傾けた。
 ことに、従来の学説を覆し帝大教授連の説をまともに攻撃するあたりに至って、一同は思わず手に汗を握ったくらいであった。帝大の講師をしている沢木学士はこの辺で閉口して、
「こう学校をやっつけられちゃかなわん」
 と言って途中で帰ってしまったくらいであった。
 午後八時一分前、巧みに博士は講演を完了した。
 応接室に戻った博士は、紅茶を(すす)りながら、
「どうもああいうことになると思わず興奮して喋るので、あまり出来はよくなかったでしよう」
 と、相対座した局員に言うのであった。
「結構でした。みなたいへん喜んでおります」
 こう局員の言うのを聞きながら、
「ああきみ、給仕に言ってわたしの家へ電話を掛けさせてくれないか」
 局員はすぐにその旨を給仕に命じ伝えた。
 しばらく博士は何ものか案じるようにしていたが、たまりかねたか、
「いったい電話はどうなったんでしょうね」
 と局員に(たず)ねた。ちょうどその時、さっきの給仕が入ってきて言った。
「何度お呼びしてもお宅でお出になりませんそうです」
「なに、出ない?……そんなわけはないんだが。……ではよろしい。失敬しました。すぐ帰りましょう」
 博士を乗せた放送局の自動車が勢いよく愛宕山(あたごやま)を下っていったのは、八時を過ぎることちょうど十二、三分であった。
 ちょうどそれから約二十分()ったころだった。
 麹町(このつじまち)警察署の公衆電話がけたたましく鳴り響いた。
 急いで受話器を取った一人の刑事は、電線を通じて慌て切っている男の声を聞いた。
「麹町警察署ですか? わたしは麹町区富士見町(ふじみちよう)の簑川文蔵(ぶんぞう)というものです。わたしの家で人殺しが行われました。妻が殺されています。だれかすぐ寄越してください。犯人はいままったく分かりません」
 刑事は事務的に簑川文蔵という男の町名をはっきりと聞いてから、司法主任の楢尾(ならお)警部の所へ告げるべくすぐに電話を切ったのである。



最終更新日 2005年10月23日 17時07分01秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「2」1

 急報はすぐに四方に飛んだ。
 本庁からは腕利きの相良(さがら)警部以下数名が、ただちに現場に駆けつけることになった。
 ただこの事件の報告がいちばん最後に届いたのは地方裁判所検事局の宿直室だった。
 この夜、地方裁判所検事局の宿直部屋には帯広(おびひろ)検事が同じく宿直の古水(ふるみず)予審判事と将棋を戦わせていたところだった。
 九時半ごろ、帯広検事は平手で三番立てつづけにやられたので残念でたまらず、
「こんな日は何も起こりそうにないからもう一丁いこう」
 と、第四回目の勝負をしていた。
「今度こそやっつけたぞ」
 帯広検事は心のうちで(つぶや)いた。
 自分の飛車を成り込ましてこれを切ると、あと六手でたしかに敵の王は詰むと見たのだ。
「おい、さっさとやらないかい」
 と古水判事。
「待てよ、いまここで……こうやる、ああやると。どうも確からしいな、お手のうちは?……そうか、よし」
 検事は敢然として飛車を成り込ませて敵の銀を奪い、ついで敵の金の餌食(えじき)となるべき攻撃に出た。
「おい、確信があるかね、そんなことをして」
「黙ってろよ、まあ、こうやったらどうするんだ」
 この時、宿直部屋の電話のベルがチリチリと鳴り渡った。つづいて書記が受話器の前で話をしているのが聞こえる。
「帯広、何か起こったようだぜ」
「なーに、また水死人だろう。それよりきみのほうはどうなるんだね」
「おい、だめだめ、被害者は? なんてやってるぜ、水死人じゃないよ」
「なに」
 帯広検事は書記の電話を聞いていたが、つと立って、
「ああいいよ、ぼくが出る」
「麹町警察からです」
 書記はこう言って受話器を検事に渡した。
「ああもしもし、ぼく帯広ですよ、麹町警察? 楢尾くんかい。ああ、ふーん、簑川博士ってのは今日放送した人かね、うん、奥さんが殺された? 犯人不明か。ああよろしい、すぐ行きます」
「とうとう起こったかい、今日もこれから夜明かしかね」
「殺人事件だ、絞殺らしいと言うんだがね。……勝負も預けか。しかしうまく犯人が捕まるかどうかためしにいってやろう」
 検事も判事もべつに慌てもせずふたたび盤面に向かうところを見れば、こんな場合、わざと心を落ち着けて心の余裕を示しているのだろう。
 しかし、勝負は検事の見込み違いで、思わぬ抜け道が現れて古水判事の王は巧みに危険を脱出してしまった。
「いかんいかん、またやられたか。この分じゃ今夜の事件は迷宮入りだぜ」
「帯広名検事の見込み違いか、あはははは」
 二人は盤を片づけるとすぐに衣服を改めて書記を促した。
 夜の(やみ)()いて、検事・判事一行を乗せた自動車は疾風(はやて)のごとく簑川博士邸へと向かったのである。
 作者はここで事件に入るに先立ち、一応簑川博士の家庭の有様を記しておこうと思う。
 文学博士簑川文蔵は今年四十五歳の男盛り、さきにちょっと述べたように、ある意味ではわが歴史学研究の第一人者と言っていい人だが、その経歴は決して平凡なものではなかった。
 一言に言えば、博士は苦学力行の立志伝中の人だった。若いころから財力に恵まれなかったため、いまは亡き某大学教授の家に書生となって入り込み、ようやく私立大学の夜学に通ったくらいの学歴しかなかったにもかかわらず、その孜(しし)としての勉強ぶりはついにかれをして文学博士たらしめるに至った。
 ただ、こうした苦学力行の士がえてして持つところの一種の闘争精神が原因をなして、博士には幾多の敵があった。学界にも社会にもたくさんあった。したがって博士はあれだけの学力にもかかわらず、権威ある大学の教授となることができず、小さな私立の学校に講師として教鞭(きようべん)を振るうことしか()し得なかった。こういう境遇はますます博士を片意地者にしてしまった。とかく官立学校の教授の説を攻撃するところから狂犬のごとくに言われ、非人格者のごとくに(ののし)られていた。はなはだしい批難は、先ごろ学界に風波を巻き起こした戦国時代に関する新説について起こった。
 博士はまったく狂犬のように、帝大の教授連に食ってかかった。博士の敵ももちろん黙ってはいなかった。いちばん激しい手酷(てひど)い批難は博士の人格に関するものだった。博士が学位を得たのはまったく当局者をごまかしたのである。博士は恩師が死亡するや否やその机の中から論文をかっぱらって自分の名で出したのである。というような激しい悪口が伝えられた。
 こうした紛(ふんぷん)たる批難に対抗して、簑川文蔵は一歩も譲らなかった。
 この頑固な片意地な、偏屈な奇人の博士は、しからばどんな家庭生活を送っていたか。
 人はだれしも博士の社会的の活躍ぶりを見て、あるいは暴君のような主人をその家庭の人として想像するかもしれない。
 もしそれならば、その想像はまったく事実と正反対なものであることをここに告げなければならぬ。
 博士の夫人すなわち今回の殺人事件の被害者は百合子(ゆりこ)といい今年二十六歳、二人の間に一人も子はなくたった二人きりの家庭で、博士が暴君のごとく振る舞うどころか、妻百合子のわがままは博士を知るほどの者に、はなはだ有名になっていたのである。
 簑川百合子は大阪(おおさか)の生まれで、倉島(くらしま)という家に生まれたけれど、二十歳のとき黒沢(くろさわ)某という人に嫁したが間もなく不縁となり、いったん離婚したのち二十五のときにあらためて簑川文蔵に嫁したのだったが、非常な美人であるけれど大変なモダンマダムとして知られ、また同時にはなはだ人目に立つ行いなどがあってかなり有名な婦人である。
 学界では狂犬のように()え立てる簑川博士も、夫人にだけはどうしてだかいっこう吠え立てないとみえ……否、吠えることができないとみえ、百合子夫人は博士が家にいようがいまいが音楽会に出かけたり芝居に出かけたりして、いっこう平気に振る舞っていた。
 だからさっき放送局へ二度も電話が掛かってきても、またかという風でだれもべつだん不思議には思わない。
 ただ、博士一人が気を()んでしきりと世間から隠そう隠そうと努めているようであった。それゆえとかくいろんな(うわさ)をしたがる一部の人々は、
「博士と夫人とはまるっきり合わないようでいてあれでごく合った夫婦なんだよ。つまり博士は夫人にできるだけわがままをしてもらいたいのだ。まあ変態夫婦ってやつだね」
 などと言ったりしている。
 こういう次第だから、女中も下男もなかなか居つかず、ときどき家政婦などを置いて二人は暮らしていたようであった。
 さて、判検事一行が博士邸へ着いたのは夜の十時ごろであった。
 ひらりと身軽に地に降り立った古水判事・帯広検事はすぐ、玄関の入口に相良警部が一行を待ちかねているのを見た。
「どうだね。何か手掛かりは見つかったかね」
 と検事。
「いやまだはっきり分からんですが、手段は絞殺ですよ。後ろからいきなりハンカチか何かでやっつけたらしい、ただし凶器はまだ見つからんです」
 答えたのは警部だった。
 博士の家は小ちんまりとした洋館で、玄関を開けると帽子や外套(がいとう)を掛ける大きな衝立(ついたて)が置いてあって内を見えぬように遮っているが、すぐ左側が六畳ぐらいの洋室応接間、その反対の右側は夫人の部屋らしく、すぐその先の右側の部屋は博士の書斎とみえ大きな机や書籍がたくさん置いてある.
「ご案内しましょう。博士の書斎ですよ、死体が発見されたのは」
 相良警部はこう言って判検事の前に立って進んだ。



最終更新日 2005年10月24日 00時08分23秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「2」2

 通された所は、廊下の右奥の博士の書斎である。はたしてそこに、美しい百合子夫人の死体が発見されたままの形で置かれてあった。
 その傍らに失神したようになって椅子(いす)に掛けているのが簑川博士であろう。
「わたしが予審判事の古水です。とんだことで、はなはだお気の毒です」
「は、わたしが簑川文蔵です。このたびはお手数を煩わして恐縮で……」
 ふと古水予審判事が()いた。
「あの、奥さんの死体はあなたが発見されたのですか」
「はあ」
「そして少しも手を掛けずにそのままにしてあるわけですね」
「さようです」
「そりゃ偉いですね。法律家でもなかなかそうちゃんとやることはできぬものですよ。ことに妻だの夫などが殺されてる場合など、どうも手をつけて困るもんですが……」
「いや実はわたしも初めどうしようかと思ったんですが、すぐにあの藤枝(ふじえだ)さんへ電話を掛けたら、手をつけずにすぐ警察へ言えと言われたものですから……」
「藤枝ってのは藤枝真太郎(しんたろう)くんのことですか」
「は、そうです」
 古水判事は帯広検事を顧みて言った。
「帯広くん、また藤枝くんと腕競(うでくら)べかね。かれがこの事件をもう知ってるとは思わなかったよ」
「しかし、あの男は競争しないからやりいいよ。共同戦線を張るからな」
 検事はこう言いながら、判事とともに死体のほうに歩み寄った。
 死体はそこに置かれた博士の大きな机を足のほうにして、仰向(あおむ)きに倒れていた。両手を(のと)のほうに向けて握っている。咽喉部(いんこうぶ)には手拭(てぬぐい)も縄も巻かれてはなかったが、皮膚の傷つき具合から見て確かに(くび)られたことは明らかだった。
 格闘のあとなどはなく、まったく後ろから不意にやられたものらしい。
 大きな机の上には卓上電話が置かれてあったが、これにはべつに異状はなかった。
 形のごとく予審判事はただちに書記に命じて、死体についての調書などを取らした。
 その間、検事と相良警部とは廊下に出てひそひそと話をはじめた。
「玄関のすぐ左手の応接間ですが、だれか客が来ていたらしいですよ」
「何かそこから手掛かりになるものが得られるかもしれない」
 検事と相良警部とは小さい応接室へ入っていった。
 博士の書斎からきびきびした古水予審判事の声が聞こえてくる。
「では、今日の事件をあなたが発見されたまでのことを一応順序に従ってお話しを願いましょうか」
「今日のことだけですか」
 と博士の声。
「いや、ご家庭のことなどもむろん承りたいのですが、それはあとで承るとして、先へ今日のことだけを話していただきましょう」
「はい承知いたしました」
 頭の中で順序を立てて考えていたか、簑川博士はちょっと黙ったがやがて語りはじめた。
「今日はご承知かもしれませんが、わたしは放送局で午後七時二十五分から八時まで、講演をすることになっておりました。たびたび方々でやった講演でいまさら稽古(けいこ)をするほどのことではなかったのですが、なにぶん素人に聞かせるのでいつもの場合とちょっと違いますので、昼ごろから多少原稿などを書いて講演の用意をしていたのであります。
 うちでは女中も下男も置きません。家政婦を置きましたが、三日ばかり前にこれも来なくなりましたので妻とわたしと二人暮らしです。昼飯は妻がどこかに電話を掛けて取り寄せました。夕方五時半ごろに夕飯を食べましたが、これは妻がうちで作った簡単なものであります。
 放送局の自動車は七時ごろに来ると思いましたから、夕食はゆっくりと始めました。わたしは酒飲みではありませんが、夕食のときは少量の葡萄酒(ぶどうしゆ)()ることにしています。
 時間はまだあるので、(くつろ)いでゆっくり飯を食べていますと、予期に反して六時半ごろに不意に放送局の迎えが来て、少々驚いたわけでした。
 迎えが早過ぎたのでわたしは急いで洋服を着け、講演の原稿を持って家を出ましたがそれはちょうど七時十五分ぐらい前だったかと思います。
 放送局に着いたのが七時ごろだったでしょう。
 応接室で茶を飲みながら沢木文学士と話していますと、妻から電話が掛かってきました。
 妻はときどき、思い出すとどこへでもわたしの所へ電話を掛けてきますので、大した用事もないと思い、ともかくも電話に出てみると、
『大阪のおっかさんが死去したのだが、すぐこれからわたしはあちらへ()っていいか』
 というのです。なにぶん放送局でもあり、詳しいことを聞いている間はなかったので、ともかくわたしの講演が済んでわたしが帰宅してから万事相談することに決めて、いったん電話を切りました。
 するとそれから約七、八分()って、いよいよわたしが放送しようとするすぐ前に、また百合子から電話が掛かりました。
『どうも大阪のことが気になってたまらないから、どうしても今夜じゅうに出立したい。ついてはあなたも一緒に行ってくれ』
 ということなのです。わたしも少々腹が立っていましたから、
馬鹿(ばか)なことをあまり言うものじゃない。ともかくわしが帰るまで待っていろ』
 ということを言って切ってしまいました。
 それから八時まで講演を放送しまして、八時過ぎ放送局を自動車で出ました。
 途中ちょっと買物をして-ー本屋で旅行案内を買ったのです――帰りました。
 帰りますと、いつもわたしはベルを鳴らしますが、妻が留守らしいときは(かぎ)で玄関の戸を開けることになっているのです。
 今日は留守のはずはありませんから、ベルをたびたび押したのですが(こた)えがありません。腹が立って戸を押しますと自然に開きました。
『おや、百合子はいないのかな』
 と思った。
『百合子、百合子』
 と二、三回呼びましたが応えがありません。
 なんとなく不安に思いながら、わたしの書斎に入るとご覧のとおりの妻の死体にぶつかったのです。さきほども申したとおり前に長く検事をしておられ、いま私立探偵のようなことをしていられる藤枝真太郎氏にはこれまでときどきお世話になったことがありますので、ともかく慌てて電話を掛けますと、そのままにして早く警察に言えということだったのでその命令どおりに取り計らいました。藤枝さんももうじきここへ見えるだろうと思います」
 簑川博士は夫人の死体を発見するまでのその日の出来事を一応、古水判事に述べたのであった。



最終更新日 2005年10月24日 01時10分45秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「3」1

 簑川博士が古川予審判事に対して一応の説明をしているうちに、帯広検事も相良・楢尾両警部も、書斎の中に入ってきた。
「お話の様子でだいたい分かりました」
 古水判事は続けた。
「七時から七時二十分までの間に、奥さんは二回あなたに電話を掛けておられる。八時半ごろにはその奥さんが死体となって発見された、というわけですな。したがって七時二十五分から八時半の間に、何者かが奥さんを殺したと考えなければならない。明日は死体解剖をやりますからその辺も確かに分かると考えますが、ともかくあなたの言われることから考えるとそうなりますね」
「そうです。そうしてわたし自身としてはその時間のうちに、妻が殺されたものと考えております」
 この時、検事が口を挟んだ。
「簑川さん、むろんお間違いはないと思いますが、二度掛かった電話というのは二度とも確かに奥さんが電話口に出ておられたのでしょうね」
「間違いありません」
 博士はきっぱりと言い切った。
「家の中で何か変わったことに気づきませんか」
「いや申し遅れました。手をつけてありませんから、どうか充分お調べをお願いしたいのですが、どうもわたしの留守に客が来ていたらしいのです。客は通常、左手の小さい応接室へ入れることになっているのですが、そこに茶碗(ちやわん)などが出ておりますところから見ますと、どうも来客があったとしか思えません」
 応接室の中でしばらく一行は何か調べているようであったが、やがてまたみな出てきた。
「それでは今夜はわたしたちはこれで引き揚げることにしましょう。いずれあなたにはまた役所に出てきてもらうこともあろうし、あるいは警察署から調べの者がまいるかもしれません」
「かしこまりました」
 博士は丁寧に古水判事に答えた。
 帰りぎわに判事が思い出したように言った。
「ねえ簑川さん、ちょっとこれは()()らしたことだが、大阪のお母さんが死亡されたということはどうして奥さんが知ったのですか」
「――」
「分かりませんか。わたしの質問の意味は、いったい奥さんは大阪から電報でも受け取ったのか、また電話ででも知らされたか。とにかく、あなたに電話を掛けたときには何を言われましたか」
「さきほども申したとおり、ただ大阪の母が死んだというのみで、知った手段については詳しくは訊きませんでした。それにわたしもああいう際ですから詳しく聞いている間もなかったのです」
「そうですか、ではよろしい」
 判事・検事が警部を現場へ残して書記を連れて引き揚げようと、玄関で靴を覆いているところへ、背の高い、()せた男が玄関を入ってきた。
「おや、もうお帰りですかね」
「ああ、藤枝くんか」
 帯広検事は何か思い出したとみえてつと立って、藤枝と呼ばれた男と二人だけで玄関の外に出た。
「きみはここの博士をよく知ってるのかい」
「さああまりよくは知らない。ぼくが在職中、一度ここの博士に関する事件を扱ったことがある。それが縁となったか、退職後、いろいろなことの起こるたびにぼくのところへ相談に来るんだ。今夜もいきなり電話を掛けてきて妻が殺されているがどうしたらいいか、なんて質問さ。どうもちょっとばかばかしいというところもあるよ」
「では、博士がさっき古水くんに言ったことは間違いなかったんだね」
「何さ?」
「死体を見ると、どこも手をつけずに」すぐきみに電話を掛けたと言うんだ」
「電話の掛かったことは確かだ。ぼくが証明するよ。しかしぼくのところに電話を掛ける前に手をつけなかったかどうかは、遺憾ながらぼくには分からないね」
 古水判事も書記ももう自動車に乗り込んで待っている様子なので、検事もちょっと急いだとみえ帽子に手をやりながら、
「ではまた。いずれ……」
「失敬します」
 藤枝はこう言うと、爆音を立てていく自動車を見送りながら玄関からのそりのぞりと上がり込んできた。
 現場には相良・楢尾警部をはじめ刑事連が死体を囲んで、盛んに何事か協議中であった。
「藤枝さんですか。あなたがもうこの事件を知っておられることはさきほどから伺っていました」
 声をかけたのは楢尾警部だった。
 相良警部もちょっと挨拶(あいさつ)したが、どちらかと言えば余計な入物がまた現れたというような表情をした。
 藤枝真太郎はそんなことには委細かまわず、
「いや、もっと早く伺おうと思ったんだが、裁判所のこ連中のお邪魔になってはと思ったのでね。――それにぼくは今日はただ博士にお悔やみを言いに来たんだよ。事件のほうはなにもぼくなんかが口を出す必要はあるまい。なにしろ古水・帯広両くんが来られたし、それに(と言って相良警部のほうを見ながら)こういうお歴々が来ておられるんだからね」
 皮肉ともお世辞ともつかぬことを言いながら、藤枝は書斎の敷居の所に立って、べつだん死体を見ようともしないのである。
「博士は隣の夫人の部屋にいますよ」
 楢尾警部がこう言うと、藤枝はさっさとその室の戸口に立ってノックをした。
 死人のように青褪(あおざ)めた博士が中から戸を開けると、藤枝は軽く挨拶を交わしたまますぐ中に入ってきた。
「どうもとんだことで……」
「藤枝さん、よく来てくださった。ぜひともこの事件についてご尽力が願いたいですが」
「今日はただお悔やみに来たばかりですよ。それにさっき来ていた古水判事も帯広検事もわたしの昔の同僚でよく知っていますが、二人とも立派な腕利きですから充分信頼なさってよろしいと思います。まあぼくが出るほどのこともないでしょう」
「いやそうでないですよ。どうかひとつ骨折ってくださいませんか」
「まあ一応、承るだけは承ってみましょう」
 博士はさっき古水判事に述べた同じ事実を、藤枝の前で語りだしたのであった。
 藤枝は黙って聞いていたが、ふと言った。
「そこで承りたいですが、奥さんはいったい大阪の母親の死亡をどうして知られたのですかねえ、電報でも来たんですか」
「そこが分からんのです、その点はさっき古水判事にも訊かれたんですが」
「おや、古水くんもそこを訊きましたか。で、あなたのお答えは?」
「やはり分からぬと申さねばならんです。百合子はあんたの知っている例の調子で、電話口でただしきりと自分も大阪へ行きたい行きたいと言ったばかりなんですから」
「あなたが帰ってこられてから、電報でも部屋にありませんでしたか」
「それが見いだされぬのです」
「ははあ……」
 藤枝はこのとき何かしばらく一人で考えているようであった。
「危篤とかいうような電報はなかったですか」
「そりゃ、母が悪いということは昨日手紙で知らせてきているのです。なんでも結核で、それにかなりひどいので長くは持つまいというようなことを言ってきました。それともう一つ、これは実は妻にも言わなかったのでしたが、わたしが放送局に出かけようとするちょうどその時、ハハキトクという電報が入ったので、それはここに持っています。なんでしたら見てください」
 博士はポケットから一片の紙を取り出した。
「なるほど。あなたが出かけようとするときこれを受け取ったというのですね。つまり大阪を今日の午後出ていたわけです。午後一時以後でしょうな。……ところで妙な質問をしますが、大阪のこ病人が亡くなられたというのは事実間違いないでしょうな」
「さあ、実はわたしも帰宅早々この騒ぎで気も転倒してしまって、まるでそんな疑問も起こさなかったのですが、ともかく百合子の死を伝えなければならないので、大阪へ電話を掛けるようにさっき申し込んでありますから、もう掛かることと思いますが……」
 ちょうどこう言っている際、書斎の卓上電話がチリチリと鳴る音がした。



最終更新日 2005年10月24日 10時33分36秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「3」2

 そこにいた刑事が受話器を取った様子だったが、
「大阪から?……」
 という声が聞こえてきた。
 博士が思わず立ち上がろうとすると、なに思ったか藤枝はそれを制しながら、
「こちらの用件は奥さんのことを伝えればいいのですか、それだけですか」
 と言って、自分で立って電話のほうへ行った。電話ははたして大阪が出たのである。
「はあ、そうです、簑川の者です、簑川文蔵の家です」
 藤枝は相手をちょっと確かめているようだったが、やがてきびきびと事務的な口調で、順序を立ててこちらの惨劇を伝えているようだった。
 今度は向こうの様子を聞いているらしかったが、しばらくして電話は切れたらしく藤枝はふたたび博士の所へ戻ってきた。
「なんだ簑川さん、大阪へさっき電話を掛けて病人の様子を訊いたそうじゃないか?」
「だれが?」
「簑川さん、あなたがさ」
「そりゃけしからん。わたしはいままで大阪へなんか一度も電話を掛けたことはないです。……向こうでそう言うんですか?」
「さっき夕方あなたから訊かれたとき、午後三時過ぎ母倉島はま(、、)が死去したと申し上げたはずだというのですよ」
「そ、そりゃぜんぜん覚えがない」
「ともかく向こうじゃそう言っています。あなたはぜんぜん覚えがないと言うんですね。こりゃ、ここに一つの不思議なことが起こった。……あ、それから奥さんのことを知らせたらおおきに驚いていたようですが、だれかとりあえず上京するそうですよ――電話に出た相手ですか、殺された奥さんの妹さんだそうです、仲井(なかい)さんと言っていましたよ」
 藤枝はこう言って、おもむろに一本の『スリーキャッスル』に火を()けた。
 一方、警部連はみな頭を集めて熟議をしていた。
 相良警部と楢尾警部とが二人で話をしている。
「第一の疑問は何で絞殺したかという点だ。むろんあしたの解剖を待たなくてははっきりしたことが分からないけれども、咽喉部(いんこうぶ)の擦り傷などによって絞殺死体たることは明らかだが、それにしてもその凶器がどこかに行ってしまっているのはおかしい。ね、きみはどう思うかね」
 相良警部は楢尾警部を顧みて言った。
「同じ疑問がやっぱりぼくの頭にあるんだよ。それに、どうも博士自身の言うことがときどき曖昧(あいまい)になるのがおかしいよ。古水判事もあまり博士の言うことを信用してはいないようだったがね」
「なにしろ死体の第一発見者が博士で、その博士以外にはだれもその時を見ていなかったのだからな……それにこの死体の様子は……」
 相良警部はここまで言って急に口を(つぐ)んだ。楢尾警部はこの時の相良警部の言葉の調子に、なにか早くもある決心を見て取ったのである。
 その時、藤枝真太郎が博士と一緒に書斎の所に現れた。
「ちょっと近くから死体を見せていただきたいですが」
 藤枝はこう言うと、死体の所に行ってしばらく前屈(まえかが)みになってじっと見詰めていた。が、急に右手を出して死体に触れてみた。
「こりゃ、ちょっとおかしい」
 と、ひとり口の中で(つぶや)いた。
「じゃ今日は失礼しましょう。簑川さん、ぼくの所にこのごろ井上道夫(いのうえみちお)という探偵志願の若い男がいます。この男をちょいちょい寄越しますから、何かまた新しいことがあったら知らせてください。ではみなさん、失礼します」
 こう言って、藤枝はさっさと玄関のほうへと立ち去った。
 後から追いかけたのは、楢尾警部だった。
「あなたにはだいぶお目にかかりませんね。いつかの牛込(うしごめ)のお寺の殺人事件以来です。いかがです、お見込みは?」
 藤枝は下駄(げた)を突っかけながら警部に言った。
「藤枝さん、こちらからお見込みをお(たず)ねしたいんですよ。あなたの腕前はもうよくこの前の事件で知れています。どんなものでしょう今度の事件は」
「あはははは。ぼくなんかにそうたやすく分かるくらいなら、あなたなんかにはもっと分かっているでしょうな。駄目ですよ、ぼくにはまださっぱり分からんです」
「藤枝さん、あなたあの死体の硬直をはっきり見たでしょうね」
「むろんですよ」
「ではなぜ博士はあんなことを言っているのでしょうね」
「さあ、それを調べるのがあなた方の務めじゃないんですか。……あ、そうそうもう一つ材料があります。さっきぼくが大阪と話をしたでしょう。あの時ね大阪のほうでは、簑川博士が五時ごろに向こうに電話を掛けたと主張していますよ」
「ほんとでしょうか」
「さあ、それもちょっと分からんですね」
「いずれ明日でもあなたの事務所へ上がるかもしれません」
「どうかいつでもお待ちします」
 藤枝はこう言いながら帽子を(かぶ)外套(がいとう)を引っかけて玄関から出ようとしたが、また楢尾警部のほうを見て小声で言った。
「どうしても解かなけりゃならぬ問題がここに二つありますよ。一つは博士の夫人がいかにして母の死を知ったかということです。もう一つは博士がなぜあんな(うそ)を言っているか、ということです」
「ではあなたも博士が……」
「いやわたしはただ、博士が嘘を言っていると言うのですよ」



最終更新日 2005年10月24日 12時44分40秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「4」1

 藤枝真太郎はちょうど古水判事・帯広検事と年配は同じくらい、かつてはこれら二人とともに裁判所に勤めていたこともある人物である。在職中藤枝検事といえば、あの鬼検事かと言われて犯人たちに恐れられたものである。
 それが何を感じたか、いまから五年ほど前に突然辞表を出して退職してしまった。多くの判検事が辞めるとすぐ弁護士と変わるので、世間では藤枝検事からじきに藤枝弁護士が出来上がると思っていたのに反し、いっこうに藤枝は弁護士名簿に登録しようともしない。そのうちに銀座(ぎんざ)の裏通りに小さな洋室を借りて、私立探偵藤枝真太郎という看板を掲げはじめた。これはかれが退職後二年ほど()ってからのことであった。
 もう四十になるというのに独身で、高台の家には老母とたった二人暮らし、用があるとときどき銀座のオフィスに姿を現すのである。
 べつにたいして流行(はや)っている様子もなく、また大事件に飛び込んでしこたま金を(もう)けたという話も聞かないから、まず私立探偵業も半分道楽にやっているといってよろしかろう。
 道楽といえば学生時分から文学・哲学の本を読むこと、音楽の好きなことは有名なもので、この方面におけるかれの知識は相当なものだと言われているが、一度もまだ世の中にその蘊蓄(うんちく)を発表したことはない。
 こんな風だから、あまり自分で宣伝しないけれどもときどき事件が来る。またときどき自分で事件に乗り出していく。手銭(てせん)で事件に飛び込むあたりはかなりこっちの道楽も強いと言ってよろしかろう。
 博士邸の惨劇のあった翌朝、珍しく早く起きたとみえ、藤枝事務所の一室にはすでに二人の男が相対座して話している。
 一人はオフィスの主人藤枝真太郎で、他の一人は私立探偵志願の井上道夫というまだ二十四、五の青年。
 藤枝はシガレットをやけにくゆらしながら井上青年に話しかけている。
「それだからね、きみ、この事件からはまず確かな点だけ取り出してみる必要があるのだ。まさに間違いのない事実というものは、今度の事件のうちでわりに少ないんだよ」
「先生、簑川博士が放送局に七時から八時までいたことは間違いないのでしょうね」
「うん、それは間違いがないらしい。そこで博士の供述によれば、妻百合子が七時から七時二十五分までの間に二度放送局に電話を掛けてきたというのだ。してみると、博士の妻は少なくとも七時二十五分から八時半の間に殺されたことになる。それできみに一つ大事な用を頼みたいのだ。つまり放送局に二度電話が掛かったかどうかという問題なんだ。それが被害者から掛かったものかどうかが分かればなおいいのだけれど、こいつまではちょっと分からないかもしれん。それからもう一つ、迎えに行った自動車の運転手に()(ただ)してきてもらいたいことがある。それは昨日博士を迎えに行ったとき、中からだれが戸を開けたかということ、および博士が自動車に乗ったとき夫人が玄関まで送ってきたのかどうか、ということを調べてきてもらいたいんだ。ぼくはこれから大学へ行って死体の解剖を見せてもらってくるから……」
 藤枝はこう言うと、井上青年を促して一緒に外に飛び出していった。が、かれは二時間ばかり経つと楢尾警部とともに疲れた様子をしながら戻ってきた。
「藤枝さん、やっぱり思ったとおりですね」
「何がさ」
「百合子が殺されたのは午後七時二十五分以後どころではありませんね。少なくとも正午ごろだという医者の診断だったではありませんか」
「そりゃきみもあの時気がついていたろうが、ぼくもあの死体をひと目見るや否や、恐ろしく硬直していることに気がついたんだ。だからぼくには、博士がどうしてああいう(うそ)を言うのかちょっと分からなかったんですよ」
「そりゃ博士が……」
「そうかしら。そう簡単に博士が犯人だと決めていいのかしら。……それにしてももしそうだとすると、博士はどうして大阪の倉島はま(、、)の死を知ったろう」
「そりゃあなたが言われたとおり、昨日博士自身が大阪へ電話を掛けたって言いますから、それで分かるように思いますが……」
「それで確かに説明はつく。しかし絞殺した手拭(てぬぐい)が見えぬのは?」
「むろん博士が隠したと考えるよりほかはない」
「そこだよきみ」
 藤枝が強く言った。
「博士が自分で殺したとする。また博士自身の供述を信じても、手拭を隠す人間は博士以外にはなさそうに思われはする。しかしあの場合、博士がわざわざ凶器を隠すというのははなはだ愚かなことではなかろうかね。ねえ楢尾くん、ここをもう少し考えてみるわけにはいかんでしょうか」
「いや、もちろんわたしとて博士を犯人と決めつけるわけではありません。それどころか、近々有力な嫌疑者を捕らえるつもりではいます」
 藤枝はぷっと煙を吐き出しながら言った。
「なぜ博士がああいう嘘をついているかということ、それから、どうして博士が倉島はまの死を知ったか、この二つの疑問さえ解決すればこの事件はわりに早く解けるはずなんだ」
 藤枝はこう言いながら、何か考えるようにしばらく黙していたが、この時、井上青年が外から入ってきた。
「楢尾さん、これはこのごろぼくの所へ私立探偵の弟子入りに来た青年で井上道夫という者です。どうかこれからもぼく同様お引き立てを。……井上くん、この方が有名な楢尾警部だよ」
 一応の紹介が終わると、藤枝はさっそく用件を訊きはじめた。
「放送局のほうはよく分かりました。博士の言うとおり、確かに自宅からと称する電話が二度掛かったそうです。むろん先生も言われたように、それが確かに夫人から掛かったものかどうかはだれにも分からないってことですが……なお博±は沢木文学士に、電話の内容をちょっと言ったそうで、これは局員が部屋から出がけにちらと聞いたと言っています。なんなら沢木文学士について訊いてみようと思います。それから自動車の運転手について例のことを訊いてみました。玄関でベルを鳴らしてもなかなか人が出てこなかったそうです。たびたび鳴らすと博士自身がだらしのない身形(なり)で出てきたそうですが……」
「ちょっと、だらしのない身形というのは?」
「なんでも寝間着姿のようだったと言うのですが、褞袍(どてら)でも着ていたのでしょう。そうして、なんだ、放送局からか、ばかに早いじゃないか、しばらく待ちたまえ、と言ってまた戻ったそうです」
「夫人はぜんぜん出てこなかったのかね」
「ぜんぜん出てこなかったそうですが、なんでも女の人らしい声は聞こえたそうです。それも泣き声みたようなものが」
「なに、泣き声?」
「そうです。そんなような声が聞こえたそうです。運転手もべつにへんには思わなかったそうですよ。なんでも三ヵ月ばかり前にやっぱり一度博士を迎えに行ったとき、夫人のヒステリーぶりを見たそうですからね」
「そうして送って出てはこなかったのかね」
「送らなかったそうです。ほかの家なら主人が出てくるのに夫人が送ってこないので不思議に思ったかもしれませんが、なにぶん相手が簑川博士の夫人のことですから運転手も少しも驚かなかったそうです」
「ああそうか、ふーん」
 藤枝は何かまたしばらく考えていたようであった。
 この時、楢尾警部もまた何か思い出したような様子で、
「では今日はこれで失礼します。また何かご厄介になるかもしれません」
 と言いながら、急いでオフィスを出ていってしまった。



最終更新日 2005年10月25日 11時43分03秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「4」2

「先生、何か変わったことがまた見つかりましたか」
「いやべつに。ただ死体に不思議なところがあるのだよ」
「では、もっとずっと早くにでも殺されたんでしょうか」
「まあそう思われているんだ。しかしそんなことはいまさら解剖してのちに分かったことではない。ぼくはあの死体をひと目見たときから、これはいまちょっと前に殺されたのではないと分かったんだ。同じことは相良・楢尾両警部も考えているらしい。古水予審判事もちゃんと考えているらしいんだ。警部から聞いたが、古水くんはこの疑問を相手の博士に悟られないようにあっさりと訊問(じんもん)している。さすがは古水判事だよ」
「すると博士が放送局に出かけるときに、夫人はもう死体となっていたということになりますね」
「そうさ」
「では博士は明らかに嘘を言っているのですね」
「そうだ」
「やっぱり博士がやったんでしょうか」
 藤枝はこの時、この愛すべき青年の顔を見ながら優しく言った。
「そう簡単に片づけてはいけない。博士は確かに嘘を言っているらしい。しかしそれだからといって、ただちにかれを犯人だと決めては困るよ。むろん博士に一応の疑いをかけることは仕方がないけれども」
「ではなぜ、博士が嘘を言うのでしょう」
「さあそこだ、ぼくもその点を昨日から考えているのさ。この点さえはっきりと決めてしまえば、この事件は半分分かったようなものだ。ねえ井上くん、きみも考えてみたまえ。博士はなぜあんな嘘を言っているのだろう」
「―― 」
「いいかい、博士自身が犯人だという場合は別だよ。いま博士が真犯人を知っていると仮定する。むろんこれは一つの仮定に過ぎない。それでいて博士はあんな変なことを言っているんだ。しかもそのために、博士ははなはだ不利益な状態に陥っているというわけなのだ。井上くん、これはどういうわけだろう、考えがつかないかね」
「犯人が何か博士と深い関係でも……」
「そう、確かにそれは第一の考え方だ。きみは犯罪学の本を読んでいるかどうか知らないが、もし博士が女の人だったらこの場合、博士は真犯人を(かば)っていると考えるのがいちばん正しい考え方だ。そうしてその犯人と博士との間に、深い愛情の関係があるとしなければならない。ところが博士は女ではない、だからただその方面にばかり真犯人を求めるのは少々手落ちだと思うのだ。ねえ、きみ、そこが分かるかい」
「どうもその他の点はよく分かりませんが……」
「博士が犯人を庇っているのは、必ずしも犯人を愛しているがゆえばかりではない。こういうことは考えられぬだろうか、つまり博士は犯人を庇うことによって自分の家の名誉を保とうとしているのだと、ね」
「というと、どういうことになりますかね」
「分からないかねきみ、たとえばだね、ここにある男があって、この男と博士夫人とが懇意であったとするんだ。いや懇意以上の関係にあったとするのだ。この仮定は博士夫人の平生から考えると必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な想像ではないはずだ。ところが博士は何かの理由でこの二人の間のことを知っている。しかし名誉を重んずる博士のことだからだれにも言うわけにはいかない、一人で悶(もんもん)としていた。すると、夫人と男の間に何か起こって不和になる。まあこの場合、痴情とでもいうんだろう。この結果、夫人が昨日博士邸で殺された。まあ時間はわれわれの考えどおり昼ごろでもよし、あるいは博士の言うとおり夜でもいいんだが、この場合、博士ははたして真犯人の名を軽々しく挙げるだろうか。きみはどう思う?」
「それはまあはっきり言わないかもしれませんね」
「だからぼくは博士が真犯人を知っていて、もしくは推察していて、黙っているのじゃないかと思うのだ。ただぼくの恐れるのは、博士が真犯人と考えるところの人間がほんとに犯人でなく、他に犯人がいる場合、すなわち博士が誤解して犯人を考えていやしないかということだよ」
 この時、卓上電話がチリチリと鳴った。
「先生、楢尾警部からです」
 急いで受話器を取った藤枝は、すぐに楢尾警部と話しはじめた。
「え、相良警部が嫌疑者を捕らえた? なに、身柄はまだ押さえないけれども有力な嫌疑者だって。なに、黒沢、黒沢玄吉(げんきち)? ああ夫人の先の夫ですね。何か有力な証拠があるのでしょうな、わざわざどうもありがとう」
 話を切ってかれはひとり(つぶや)いた。
「ふふん、これは面白くなってきたぞ。どうなっていくか、ひとつ相良くんの腕前を拝見するか。それにしても、相良くんがいきなり博士を疑ってかからないのは妙だ」
「先生」
 藤枝の独り言を聞き(とが)めて井上が言った。
「相良警部はむろん博士を疑っていますよ。放送局へもわたしより先回りして行ってるようですが、まず第一に博士を疑っているようです」
「そうかい、それが当たり前だ。――さてと、もう四時半だね、きみもそろそろ帰っていいよ。またあしたこちらで会おう。ああそうそう、帰る前にちょっと簑川博士の所へ用はないかって電話で訊いてくれたまえ」
「承知しました」
 井上はしきりと簑川博士邸へ電話を掛けていたが、しばらくして藤枝の前に来て言った。
「さっき大阪から電報がまいりましたそうです、なんでも仲井さんって方が今夜東京へお着きになるそうで、博士邸へ見えるそうですから、夜九時ごろ先生にも来ていただきたいっていうことです。――仲井さんってのは死んだ博士夫人の妹さんの嫁いでいる所だそうです」
「いやどうもありがとう。じゃ夜、またぼくは博士の(うち)まで行ってくるよ。楢尾警部を誘っていってみよう」



最終更新日 2005年10月25日 15時16分57秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「5」1

 その夜九時過ぎ、藤枝真太郎は楢尾警部と二人で話をしながら、寒い道を簑川博士の(やしき)のほうに向かって歩いていた。
「ねえ楢尾くん、相良警部はどうして急に黒沢玄吉に疑いをかけるようになったんだろう。話してくれませんか」
「やっぱり相良くんらしい機敏なやり方なのです。ぼくも相良くんの早業には感心してるんですよ。あなたもご承知のとおり、この事件で初めっからなんとなく怪しいのは簑川博士自身です。あなただってそうお考えでしょう。初めからいい加減なことを言ったりして怪しいところがたくさんあります」
「そう、それはまったくぼくも同感だ。ただお互いが博士に手をつけないのは、怪しいという以外に一つもはっきりしたことを(つか)んでいないからなんだ。博士がどうして妻を殺したか、その動機は何か? そんなことがまるで分からないから手を出さないだけで、あの博士が相当の曲者(くせもの)であることはぼくも同感ですよ」
「藤枝さん、相良警部はまず昨日の博士邸の事件を、博士を怪しいと見てそこから出発したのです。われわれが見たときの死体の硬直、さらに大学での医者の診断書等から見て、簑川百合子は昨日正午から午後一時ごろまでの間に殺されたものである、ということが分かりました。われわれが見たときすでに死後八時間ないし九時間を経ていた。さすれば博士が放送局に出かけるときには夫人はもう死んでいたに違いないのです。ところが、あなたがお調べになったときもお分かりのとおり、放送局から迎えが行ったときにだれも送っては出てこなかったが女の声が奥で聞こえたという事実、これは自動車運転手がはっきり言っていますが、こういう事実がある。さらに博士が放送局に行ってから二回も、(うち)からと称して電話が掛かっています。これは給仕が確かに女の声を聞いていますから確かです。……数時間前に死体になった百合子が、簑川博士に電話を掛けるなどということはあり得ないことです。ではこの女は何者でしょう。相良警部の考えは実にここから出発したのでした」
「つまり、それが博士と共犯者で、博士の(ひそ)かな恋人とでもいうんだろう。大方相良警部の考え方はこうだろう」
「そうです。まさにそのとおり」
「ぼくもそこまでは相良くんの考え方に異存はない。相良警部の考え方はなかなかいい。しかしね楢尾さん、あの博士にはそんな女はありませんよ」
「おや、よくご存じですな。もう調べましたか」
「楢尾くん、ぼくにだって相良警部ぐらいの頭はあるよ。すぐ調べてみたんだ。しかし世の中の評判どおり、簑川博士には確かにそんな女はこの世の中に一人もいない。たった一人知っている女といえば、数日前まで来ていた家政婦の大場(おおば)さよ()という二十四になる女だけれども、博士と大場の間に何かあると思うのは当たらない……」
「いやそれまで知っていられちゃ言う必要もないのですが、相良くんはやはり大場さよ子という女を突き止めたらしいです。そうして一方、博士と大場の間を疑いながらも、大場の言葉から何か得るところがあったらしいんです」
「すると黒沢玄吉が疑われるようなことを、大場が相良警部に言ったわけなんですね」
「まあそう考えるよりほかありませんな」
 こんなことを語り合っているうちに、二人はいつの間にか博士邸の前に来ていた。
「大阪からだれか来ているはずだからさっそく行ってみましょう。そうして、訳の分からないあの”博士から大阪への電話”の正体を()いてみようじゃありませんか」
 藤枝はこう言いながら先へ立って案内を()うた。
 昨日からの騒ぎで一睡もしないというような顔をしながら博士は、でも救われたような様子で迎えに出てきた。
「藤枝さんでしたか。おや楢尾さんもご一緒に? ちょうど大阪からいま親戚(しんせき)の者もまいりましたからどうか一度お会いくださいまし」
 昨夜死体の置いてあった書斎はもうすっかり片づけられて、藤枝がそこに入ると三十七、八の男がちょうど挨拶(あいさつ)に出てこようとするところであった。
「わたしの義弟になります。亡くなった百合子の妹の亭主で、仲井長太郎(ちようたろう)と申します。こ
ちらが藤枝真太郎さん、こちらが楢尾警部」
 簑川博士が一応三人を紹介した。
 仲井と呼ばれた男はおとなしい、真面目(まじめ)そうな顔をした紳十だが、紹介されると丁寧に挨拶した。
「これは初めまして。わたし仲井長太郎と申します。大阪で薬物の研究をやっております。なにとぞよろしく」
「わたしが藤枝です。このたびはどうもとんだことで。博士には平生からご懇意に願っております。……今度のことではさぞお驚きになったでしょう」
「ゆうべ電話をお掛けくださったときちょうど妻が出まして、承ってみなひっくり返るばかりに驚いてしまいました。わたしはちょうど一昨日から風邪で大阪の郊外の自宅に引き(こも)っておりましたが、この変事を聞きまして取るものも取りあえず今日の上りの『つばめ号』に乗ってやってまいった次第で……」
「そうですか……ずいぶんお驚きだったでしょうな」
「簑川もすっかり気が転倒しておりますんでさぞ妙なことを申し上げたろうと存じますが、ともかく一刻も早く犯人を捕らえていただきたいと存じまして……」
「その点はわれわれも職業柄必死になってやっていますよ」
 と、楢尾警部が口を出した。
「まったく、楢尾くんなどは必死ですよ。ぼくはまあ簑川さんから万事を任せられたので、むしろ善後策を講ずるほうで、犯人を追いかけるというほうじゃない」
 藤枝がちょっと笑いながら言った。
「どうして、なかなかもってそうでないですよ。わたしなんかこれまでたびたび藤枝さんには出し抜かれているんです」
 楢尾警部が言い終わるのを待って、仲井がシガレットの煙をさかんに吐きながら口を切った。
「いかがでしょう、犯人のお見込みはもうついているのでしょうか。こんなことを伺ってもよろしいのかどうか分かりませんが……」
「さあ……」
 楢尾警部は藤枝を顧みた。
「どうもなかなか難しい事件ですよ、殺された死体にだいぶ怪しいところがあるのでね」
 藤枝はこう言いながら、なにげなく博士のほうを見た。
「へえ? 怪しいと申しますと……何か、殺された時間の点にでも……」
「そうです。推定時間がなかなか難しいばかりではありません。絞殺らしいくせに、何で縊ったかが分からないんですよ。おかしいじゃありませんか」
「なるほど……事件のほうはわれわれにはよく分かりませんからすべてお任せいたしますが、昨日も大阪で相談いたしたんですが、このたび亡くなりました妻の母の倉島はまと申す女は相当の遺産を残しておりますので、できるだけのことはみなでお尽くしするといっております。どうかなにぶんともよろしくお願い申し上げます」
 この時、簑川博士は藤枝に対して小声で何か(ささや)いた。
「では、あちらでお話ししましょう」
 藤枝は先に立って小さな応接室に入った。ここでかれは簑川博士と差し向かいになったのである。



最終更新日 2005年10月25日 19時51分23秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「5」2

「ちょうどいまも二人で話しておりましたんですが、妻の母はちょっとした金持ちでしてね、三、四十万の金を残したんです。後継ぎといってはだれもないのですが、この財産はいったいどういうふうに始末いたせばよろしいのでしょうか」
「ほほう、そんなお金持ちだったのですか。それでぜんぜん後継ぎはないのですか」
「はあ……」
「お母さんが女戸主だったかどうかということで、相続問題は別になってきますね」
「はあ……ともかく遺産はどちらへまいるんでしょう」
「詳しく調べてみないと簡単に、これはこうと言うことはできないですね。しかし亡くなった奥さんとその妹さん、すなわち仲井さんの奥さんの二人の所に遺産が行くと考えていいでしょう。ただ奥さんが不幸にして亡くなられてしまったから、妹さんのほうにその財産は行くわけでしょうね」
「でもいま仲井がわたしに申すところでは、母のほうが先に死んでわたしの妻があとで死んだのですから、夫たるわたしに妻が継いだ財産が来ると申すのですが……」
「奥さんのほうがあと?……」
 藤枝はこの時、ちらと博士の顔を見た。
「奥さんがあとでね……なるほど」
「藤枝さん、むろんわたしはかりに妻の所に来るべき財産がわたしの手に入っても、その権利は放棄するつもりです。こんな不幸のあったがためにわたしが一銭でも得をするのは不愉快です……ただ仲井が一応先生に伺ってみてくれというのでちょっとお(たず)ねしたまでですよ」
 藤枝が何か言おうとしたとき、応接間の戸を外から(たた)く者があって戸はすぐ開かれた。
 現れたのは仲井長太郎である。
義兄(にい)さん、警部というお方があなたとちょっとお話ししたいそうです」
「ではわたしはちょっとあちらへ行ってみましょう」
 藤枝はこう言って部屋から出ていった。入れ違いに相良警部が応接室へ入ってきた。
 書斎では楢尾・藤枝・仲井の三人が、ストーブを囲んで話をしている。
「仲井さん、大阪で亡くなられた倉島さんは大変な財産家だったそうですね」
「おや、簑川はそんなことをもうお話ししたのですか」
「話したばかりではありません、博士はその遺産がどこへ行くか心配していましたよ」
 藤枝はちらりと仲井の顔を見た。
義兄(あに)は欲のない人間です。心配していても自分のためではありますまい。ことに自分のものになるにせよ、一銭ももらわぬと言っています」
「それはわたしもいま承ったばかりです。ただ四十万という財産は人の一人や二人の生命には充分釣り合えるものですよ」
 藤枝はこう言いながら、シガレットの煙を天井に向かってぷーっと吹いた。
「それで、その財産はだれの所へ行くんですかね」
 楢尾警部が真面目腐って藤枝に訊いた。
「詳しく聞かないからよく分からないけれども、遺産相続が起こるらしいんだ。倉島はまには後継ぎがないらしい。ここの死んだ奥さんとこの仲井さんの奥さん二人が娘さんさ。だからこの二人に来るんだろうな」
「そのうち簑川博士の夫人のほうは死んでしまったから……」
「だから問題は……」
 藤枝はこう言って仲井のほうをちょっと見た。
「母が先に死んだか、娘が先に死んだかということだ。大阪のおっかさんが死んだとき、博士夫人が生きていたかどうかということさ」
 この時、博士が突然書斎に現れた。
「相良警部が楢尾さんと藤枝さんにお話ししたいと申しておられますが、ここへお連れして構いませんか」
「どうか」
 仲井は遠慮して部屋を出た。
 やがて相良警部が入ってきた。
「や、ご両くん、ご精が出ますね」
「相良さん、あなたこそ大変でしょう。承ればもう捜査がだいぶ進んだそうじゃありませんか」
 相良警部は急に声を潜めて、二人に語りだした。
「実はわたしにもまだ確信というほどのものはないのですが、ともかく嫌疑者らしい者にやっと目をつけはじめたんですよ」
「嫌疑者といえばまず第一に挙げなければならぬのは、簑川博士自身じゃないですかね」
 藤枝が言った。
「それはむろんそうです。楢尾くんにしろわたしにしろ、まだ博士に手を出さないのは博士の地位がなにぶん相当高いのと、まあ逃走などの憂えがなさそうだからなのです。なにしろ、博士が唯一の死体の発見者でしかも供述がずいぶん変なのですから、まあ普通なら博士をいきなりとっちめるところですがね」
「まったくね、これが探偵小説だったら読者が迷うでしょうよ」
 藤枝が笑いながら言った。
「なにしろ、しょっぱなから博士がなんとなく怪しいくせに、あなたがたこ両名がちっとも手を出さないんだもの、これがすぐ捕らえられるんだと読者も、ははあ、これは犯人じやないなと思うけれどもね」
 相良警部も楢尾警部も思わず苦笑せざるを得なかった。
「まあそれはそうとして、わたしは大場さよ子という女を取り調べたんですが……」
「ああ、家政婦ですね、二、三日前までここにいた」
「そうです。実はこの女が今度この事件に相当関係していやしないかと思ったんでね。ところがどうもあまり怪しいところはないのですよ」
「怪しいというのは、当日大場がここに来ていたか、また二度も放送局へ電話を掛けたりしたかどうかということなのでしょう」
「そうです。ここにいなかったことについては明らかにアリバイがあるのでこれは問題にならん、ただ電話はどこからでも掛けられるものだからこれは疑えば限りがないのですが。それよりここに有力な嫌疑者が現れた。例の夫人の先夫黒沢玄吉という男、これはいままでに一回、詐欺横領でやられたことのある男ですが、これが最近博士夫人にまただいぶ接近していた、いや接近していたばかりではない、何か脅迫らしいことをしていた。そうしてなんでも昨日、すなわち凶行当日いよいよ黒沢と夫人とが最後の会見をするわけになってたらしい。その前に黒沢が博士の留守に来たとき、
『よし、今度言うことを聞かなければほんとに殺してしまうそ、後悔するな』
 と夫人に言いながら帰っていったのを、大場が(そば)で聞いていたというのです。あの時間にだれか来客の様子があったというのは黒沢なんですよ。黒沢はもう一度明日、本庁へ来るように言ってありますが、いままでの自白というものが実に不思議です」
「とはまたどういうわけで」
「博士と同じ(うそ)を言っています。午後七時ごろに夫人がちゃんと生きていてかれと話したというようなことを言っていますよ。わたしは実はこ両くんのお知恵を拝借に来たんです、明日なんでしたら黒沢の言うところを聞きに来てくださいませんか」



最終更新日 2005年10月25日 20時21分19秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「6」1

 簑川博士邸を訪問した翌日の朝早く、すなわち三月十二日の早朝、藤枝真太郎はいつものように床の中でまだゆっくり夢を見ているところを、仲井長太郎の訪問を受けた。
「失礼しました、実はいままで寝ていたんでね」
藤枝はしばらく仲井を待たせてから、寝惚(ねぼ)けたような顔でやっと仲井のいる応接間に入ってきた。
「朝早くお訪ねいたして申し訳ございません、昨夜はまた失礼いたしました」
「仲井さん、お風邪のところを押してこ上京なさったというのになかなか大変ですね、あまり無理をなさらないほうがいいですな」
 藤枝はこう言いながらテーブルの上に置いてあった煙草入(たばこいれ)の中から一本の葉巻を取り出して仲井に勧めると、自分も一本取ってさっそく火を()けて()いはじめた。
「実はいろいろ心配なことがございますので、こんなに早くお騒がせいたしたような次第で……」
 仲井はこう言いながら、軽く会釈をしながら勧められたシガーに火を点けた。
「ははあ、何かまた起こりましたか?」
「いや、べつに新しく起こったというわけではありませんが……」
 仲井はちょっと言いにくそうに、黙って煙草の煙を天井へ盛んに吐き出した。
「実は義兄(あに)のことなんですが……どうも義兄がなんとなくみなさんから怪しまれているというのがわたしとしましてはまことに心にかかるのでして……」
「へえ? だれかそんなことを言いましたか、簑川博士が怪しいっていうようなことを相良くんか楢尾くんが申しましたか」
「いえ、べつだん伺ったのではないのです。簑川自身もあるいはべつになんとも思っていないのかもしれません。しかしわたしにはなんとなくそういうように考えられますので」
「ゆうべ九時過ぎに東京にお着きになったばかりでよくみなの気持ちがお分かりですね。あなたはなかなか探偵眼がおありになる」
 藤枝はちょっと冷やかしたような調子で仲井に言った。しかし仲井は少しもそれに驚かず相変わらず真面目(まじめ)に続けた。
「昨夜お目にかかったなかで相良・楢尾両警部はいずれもその筋の方だし、公務を行っておられるわけですからわたしに少しもその捜査の様子を言ってくださいませんが、先生なら私立探偵でいらっしゃるからあるいはご意見をお()らし願えるかと存じまして伺いましたのです」
 仲井の顔には、親戚(しんせき)の不幸を心から憂えている様子がありありと浮かんでいた。
「そうですか。……とおっしゃられてもちょっと困りますね、ぼくにはべつに意見なんていうものはまだないんですからな」
「先生、みなさんはほんとに義兄を怪しいと考えていられるのではないのですか」
「さあ、なんとも言えませんね。しかしともかく、簑川博士のいま言っていることの全部が当局者に信じられているかどうかは疑問でしょう」
「どうでしょう。この際わたしから義兄のために一言申し上げておくのは、何の意味もないでしょうか」
「そんなことはありませんよ。なるべくそういうことはお聞かせくださったほうがいいのです。あなたがおっしゃらないでもわたしから検事局なり警察なりへ伝えておきますから、参考には充分なります。――実はわたしも博士とは前から知合いにはなっていますが、なにぶんあなたのように親戚というわけではなし、まあ何か法律問題が起こったときにばかりちょいちょい会っているに過ぎないのですから、詳しいことはあまり知らないのですよ。どうかお聞かせください」
 藤枝はこう言いながら、仲井にできるだけ気安く話ができるようにひどく(くつろ)いだ様子を見せた。
「では申し上げましょう」
 仲井がぽつぽつ語りはじめた。
「最初に申し上げておかなければならぬのは、義兄簑川文蔵の性格です。ご承知のとおり義兄ははなはだ(かど)のある人間でして、とにかく他人と喧嘩(けんか)をしたがる男ですが決して悪い人間ではありません。それに学者だけあって、物質の欲というものはぜんぜんありませんのです。これは差し出がましいことを申し上げて恐縮ですが、もし今度の事件で義兄がその妻をどうかしたのではないかとのお疑いならば、それはぜんぜんお取消しをお願いしたい。だいいち兄は妻が殺されたときには放送局にいたことは確かなのですから。どんなことがあってもこの点は間違いありません」
「博士が放送局にいた間に夫人が殺されたことが確かだとすればですね」
「おや、確かだとすれば、ですか。確かではないのですか」
 仲井は驚いたように藤枝を見た。
「確かかどうか分かりませんね。なにぶんこういう事件はすべて断言することは危険です。だからわたしは一応確かだとすればと申すのです」
「では確かだとすれば……でもよろしいのです。さすれば博士が妻を殺すということは不可能だったはずです」
「仲井さん、ここにもう一つ仮定が入り用ですよ。すなわち、もし右の事実が確かだったとすればですね。博士はみずから手を下すことは不可能だったと言わなければなりませんが、博士が人に頼んで妻を殺そうとすれば、博士がどこにいたってできた話なんですからね」
「先生、そうお(うたぐ)りでは困りますが……ではわたしは、どんなことがあっても義兄が妻を殺す理由のないことを証明しましょう。第一は先にも申し上げたとおり、義兄は利欲の心が極めて薄い男です。義兄は妻が死んだので損こそしても決して得はしていませんよ」
「それはどういうわけですか」
「わたしは法律のことはよく存じませんが、大阪の倉島はま(、、)ですが、あれは約四十万ばかりの財産を(のこ)して亡くなりましたのです。したがって、その財産は義兄の妻とわたしの妻の二人に遺されるわけだそうです。それゆえ、義兄としては妻を失ってしまうということはたいへんな損失ではないでしょうか」
「それは博士夫人が倉島はまより一分でも先に死んだ場合ですね。しかし博士の説でははまの死後夫人が生きていたことになっていますよ。はまが死んだのが十日の三時ごろ、夫人の死んだのが午後七時半ごろだとすれば、博士は決して損をするとは言えません」
「しかし義兄は、はまが死んだことを知らなかったはずですが」
「それもそうですね」
 藤枝はなにか気のなさそうな返事をした。
「利欲の方面はそうとして、次にその他の理由を考えても、決して義兄は妻に手を出すような人ではありません。これはあまり大っぴらに申すわけにはいかないことですが、殺された百合子というのはなかなかのしたたか者なのです。一言で言えば義兄の手に負えない女でした。ずいぶんいろんな(うわさ)のある女だったのですが、義兄はじっと我慢していままで暮らしてきたわけなのです。もし義兄が憤慨のあまり妻に手をかけるのだったら、もっともっと前に機会はずっと早く来ていたわけだと思うのです。義兄は家庭ではほんとにおとなしい男なんです。ですから、義兄が妻以外の女と関係がまったくないのはもちろんですが、かりに百合子のほうに何か品行のうえに落ち度があったにせよ、怒って百合子をどうこうするようなそんな義兄ではありません。この点は充分義兄のために弁じておく必要があると思います」
「そうですか。いやよく分かりました。わたしも博士が家庭的にたいへん温和な方で、かつ品行のうえでもまったく非難のない方であることは自分でも取り調べてよく分かっています。この点に関しては正直に申しますが仲井さん、わたしもあなたと同感です。博士が婦人関係の問題からして犯罪などを行われる方でないことはよく知っています」
 仲井の顔に初めて安心の色が浮かんだ。
「ご安心なさい。検事にも警部にも、博士の人物については充分話しておきますから……」
 藤枝は慰めるような様子で仲井に語ったのであった。
 藤枝が相良警部に会いに出かけるまで、仲井はなおもいろいろと博士のことについて弁解していた。
「では今日はこれで失礼いたします。どうか、ただいま申し上げましたことはくれぐれもお願いします」
 仲井はこう言って辞していった。



最終更新日 2005年10月26日 00時12分54秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「6」2

 午前九時半ごろである。
 藤枝は本庁へ行って相良警部に会う前に事務所に寄って、井上青年になお調査すべきことを命じようと考えて、表でタクシーを(つか)まえて銀座まで走らせた。
 車の中でかれはときどきにやりとしてひとりなにか(うなず)いているようだったが、やがて銀座に来ると急いで車を乗り捨てて事務所に飛び込んだ。
 ドアを開けたとたん、かれは井上道夫と危うくぶつかるところだった。
「どうしたんだい、ばかに慌てているじゃないか」
「先生、たったいままでここに楢尾警部がいたんですが、そこで会いませんでしたか」
「いや会わない。そして楢尾くんはぼくに用があるんじゃないのか」
「ぼくもそう思いましたから、お宅へ電話を掛けたのです。そしたらもうこちらへ向けてお出かけだとのことでしたので、そう申しましたのですが、今し方まで待ってらしってお出かけになりました」
「変だね。いままでここにいた、そしていま出ていくなんておかしいじゃないか。……それにしてもきみはいま何を慌てて外へ出ようとしていたんだね」
「手紙を書いてあげたんですが、切手を()らなかったのでお渡ししようと思いまして……」
「だれに手紙を書いてやったんだ」
「楢尾さんがね、先生をお待ちになっていらっしゃる間に、ちょっと手紙を書いてくれっておっしゃるんです」
「楢尾くんがどうかしたのか」
「ええなんでも、右の人指し指を包帯しておられましたよ。傷をなされたんだそうです。それでぼくに書いてくれっていうことだったのです」
「そうか、きみはその手紙の内容を(おぼ)えているかね」
「簡単です。商用の手紙で、明日午後三時に下谷(したや)のなんとかいう料理屋へ来てくれという手紙でした」
「へーえ、ますます分からなくなってくるね。相手は憶えているかい」
市村座(いちむらざ)の役者で坂東簑十郎(ばんどうみのじゆうろう)という男ですよ」
「なに、役者?」
 藤枝はここまで聞いて、まるで分からなくなったという顔をした。
「ぜんぜん分からんね。いったいどういうことかね」
 ふと思いついたような調子でかれは井上に言った。
「きみはまさかその手紙をぼくの事務用のレターペーパーに書きはしなかったろうな」
「ええ、楢尾さんがちゃんと自分でレターペーパーをお出しになったのです」
 藤枝はしばらく何か考えていたが、やがて言った。
「まあいい。じゃぼくはこれから相良警部に会ってくるから、用があったら本庁へ知らせてくれたまえ」
 藤枝はこう言ってオフィスを飛び出したが、その時の表情はまったく緊張し切っていた。
 かれは流してきた円タクに乗ったが身動きもしなかった。
(不思議なことがだいぶ起こってきたぞ。第一は仲井がなにゆえあんな弁解をしに今朝早くから来たかということだ。博士に突っつかれてこっちの様子を探りに来たのだろうか。それともあの男の一存で来たことなのかしら。……第二はいまの楢尾くんの話だ。いったいありゃ何のことだろうな)
 本庁に着くとすぐに相良警部を訪問した。
「お待ちしていました。あの楢尾くんは」
 相良警部は藤枝が一人なのを見て不審そうに()(ただ)した。
「なんだ、こっちへ来ていないんですか。ぼくはまたもうとっくに来ていることとばかり思っていましたよ……」
「さては、先生は何か目星をつけたんだな」
 相良警部は確信あるもののように言った。
「ときに黒沢はもう来ていますか」
「ええ待たせてあります。わたしがもう一度訊いてみますから、なんでしたら(そば)で聞いてらしってください。そうしてぜひ知恵を貸していただきたいですね」
「そんなに面倒らしいんですか」
「さあなにぶんひと筋縄でいかぬ男ですからね。ではこちらにおいでください」
 相良警部は先に立ってある一室に案内した。
 続いて後から入った藤枝は、そこに腰かけている男を見てもう少しで、
(なるほどこいつは手強(てごわ)そうだ)
 と叫ぶところだった。
 検事生活数年間の間にも、かつていまここに羽織(はかま)で端然と腰をかけている黒沢という男ぐらい人相の悪い人間に、藤枝はいまだ会ったことがなかったからである。
 二人が室内に入ってあらためて黒沢と話をしようと座を構えたとき、一人の刑事が中に入ってきて一葉の名刺を相良警部に差し出した。
 肩越しに見るともなく藤枝がその名刺を見ると、
『大場さよ子』
と、はっきりと印刷してある。
「しばらく待たせておいてくれたまえ」
相良警部はこう言って、あらためて黒沢のほうに向き直った。



最終更新日 2005年10月26日 00時54分33秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「7」1

「今日はもう一度あらためて種々()くことがあるから間違いないように答えてもらいたい。念のために言っておくが、おまえさんに対してはかなり疑惑がかけられているのだからそのつもりではっきりと答えてくれないと、おまえさん自身に大変な不利益が来るかもしれないよ」
 相良警部がこう口を切り出したのに対して、黒沢は冷笑するように言った。
「何度お調べになったって同じことですよ。ご承知のとおり、わたしには詐欺横領の前科があるのですから、どうせ何を言ったってご信用にはなりますまい」
馬鹿(ばか)なことを言っちゃいけない。前科者だからといっていちいち疑ってかかるわけじやないのだ。今度の簑川百合子の件についてだって必ずしもおまえさんを怪しいと決めつけるわけじゃないのだが、一応参考に訊きたいと思って呼んだのだ」
「じゃまあ、そう思って承っておきましょうよ」
 相良警部はあくまでふてくされた黒沢玄吉の言い方に対していくらかむっとしたようだったが、さすがに職業柄、ぜんぜん耳にかけない様子でどんどん用件に入っていった。
「おまえさんは簑川百合子とかつて結婚したことがあるはずだね」
「それも、この前申し上げたとおりです。いまから約六年前、百合子が二十のとき大阪で結婚しました」
「その当時おまえさんの職業は?」
「いまと同じ金貸業兼土地のブローカーでした。いやいたってお上から信用のない商売でしてな。あはははは」
「百合子と別れるまでの話を簡単に述べてみたまえ」
「簡単にもなにもありませんです。わたしはあんな女と知らずに結婚したんですが、一言で言えばわがままで虚栄心が強くて、とても手に負えない女だったのです。あちらの裁判所をお調べくださればよく分かることですが、わたしがこの前お上へお手数をかけたというのも、まあいわば百合子のためだったのですよ。お上でもその点をお汲み取りくださいましたので、まあ半年の懲役で済んだわけなのです」
「表向きの離婚理由というのは、つまりおまえさんが刑務所へ行ったからというわけだね」
「そうです」
 ここまで語ってきて、黒沢はいままでの人を馬鹿にしたような調子をまったく捨てて、真面目(まじめ)に、そうしてやや興奮の様子を示した。
「百合子って(やつ)はそんな女なんです。わたしがそれまでさんざん奴のために自分の金を使ったあげく、(ろう)にまで入ったのにその気持ちも知らずに、それを理由に別れ話を持ち出したんです。そりゃどんな事情(わけ)があったって、女房のために他人(ひと)さまのお金をごまかすてえのはいいことじゃありません。わたしがむろん馬鹿者だったのです。しかしそれにしても、その当の女房がわたしに感謝しないでそれをとっこ(、、、)に別れようてえんですから、わたしはほんとに怒りましたよ」
 黒沢は過去を思い出したように憤慨して語りつづけた。
「なんでもわたしが刑務所から出てくると、百合子は里へ帰っちまっているんです。そうして間もなく、弁護士を寄越して別れ話を持ってきたんです。どうせそんな薄情な女のことと分かってみれば、こっちにも未練はもうないのですが、いかにもこのまま捨てられるのは残念なので、そこで手切れと下司(げす)張ったわけです。――なにぶん、里のお袋というのが金持ちなのを知っていますし、さきほども申したとおり、わたしの前科だって実は女房が金遣いの荒いところに起こっていたりするので、向こうでも気味が悪かったとみえ、結局二万円の手切れを取るということに決めまして、当時五千円だけは現金で(もら)い、あとの一万五千というものは年賦で三千円ずつ五力年に貰うことになっていました」
「ふむ、それは百合子自身からかね。それとも倉島の家から受け取ることになっていたのかね」
「百合子自身からです。別れたのは同棲(どうせい)三年ののちでしたろう。その後わたしはその金を資本に一時南洋の方面に事業に行っていましたが、うまく当たって昨年まで続いたのでしたが、昨年すっかり事業に失敗して内地に戻りました。百合子はもう簑川博士の夫人になっていますので、昨年内地に戻るとさっそく例の後金の催促を始めたわけです。――ちょっと申し上げておきますが、右に申した手切金の件はちゃんと証書になっておりますのですから、わたしが請求いたしても決して恐喝とかなんとかいうことになるわけはありませんのです。この点ははっきり申し上げておきます」
「なにもわしはおまえさんが百合子を恐喝したかどうか訊いているわけではないのだそれで、まだ一万五千円はぜんぜん受け取っていないのかね」
「いやそのうち一万円だけは昨年中に貰いました。百合子本人はできないというので大阪の里からなんとかしてもらったようでしたが、ともかく金は手に入ったのです。ところがお恥ずかしいことにこれもたちまち使ってしまったので、本年に入ってから盛んに催促したのですが、期日が来ないというので応じなかったのです」
「期日はいつかね」
「ここに証書がありますからお目にかけましょう」
 黒沢はこう言うと懐中から紙入を出して、恭しく一通の紙片を前に出した。眼鏡をかけながら、
「このとおり、毎年五月二十日に支払うということになっているのです」
「ではまだ期日が来ないというんだね」
「それはしかし百合子の言い逃れで、実は奴はもうわたしには一文も払わぬつもりだったのです。それでわたしは執拗(しつよう)に百合子を()けまわして金の催促をしました。ところがかの女はしまいには一文も払わぬとはっきり申すのです。わたしもたびたびかっとしまして、百合子をどうかしてやろうかと考えたことはありました。本年の二月のある夜、博士の留守に上がり込んで二時間余りも談判しましたが、なかなか応じません。実際わたしも腹が立って仕方がなかったのです」
「博士はそのことを知っているのかね」
「さあ、それはよく分かりません。まあうすうすは知っていたでしょう。しかしはっきりとは知らなかったようです。それでわたしも、いざとなったら博士にまでそう言い出せばなんとかなるだろうと考えていたので、二月に会ったときは百合子に、もしいままでのような曖昧(あいまい)な様子をしているのならいっそ博士にぶちまけてしまうそ、と言ったこともありました」
「本月の七日か八日ごろ、そのことでまた百合子を訪問したことがあるかね」
「あります。実は一昨日までにどうしても作らなければならぬ金がありましたので、いくらでもよいから作ってもらうつもりでまいりました。――隠しても仕方がありませんからはっきりと申し上げます」
「その時、おまえさんは、今度言うことを聞かなければほんとに殺してしまうそ、後悔するな――と百合子に言ったそうだね」
「そんな言葉を言ったかどうか(おぽ)えませんが、なにぶん相手がヒステリーで口汚く(ののし)りましたので売り言葉に買い言葉、わたしもそんなことを言ったかもしれません」
「その意味はどういうことかね」
「べつに深い意味はないのです。いくらでもいいから融通しろと言いましたのに、なんとかかんとか言ってごまかしますので、わたしもかっとなって怒鳴ったのです。そうしてちょうどあれが殺された日が約束の日で、その日千円でも二千円でも作ってもらう約束をして、出てきたのでした」
「その日に約束どおりできなければ、百合子を殺す気だったのかね」
 この時、黒沢はしばらく考えていてやがて口を切った。
「ほんとのことを申せば、わたしは百合子を八つ裂きにしても飽き足らないのです。かの女のためにさんざん苦しみ、罪人にまでなったわたしを(ごみ)のように捨てて簑川博士の所へ行ったのですから、憎んでも憎み切れません。しかし殺せば自分も損ですから、ほんとに殺す気はありませんでした」
「三月十日の日のことをはっきり申し立ててみたまえ。ちょっと言っておくが、これは非常に重大な点だから間違いないように述べるんだぜ」
「はい、何もかもはっきり申してしまいます。十日の夜は、それまでの約束では午後七時半ごろに訪問することになっておりました。かねて新聞紙によって博士がその夜、放送するということになっていましたので、博士のいないことは分かっていましたが、わたしは夕方になって考えを変えたのです。
 これは博士のいるところへ飛び込んで、何もかもぶちまけたほうが話が早くつくかもしれない。そうだ、そうしよう。こう思いまして急に急いで出かけたのでした。博士は七時二十五分から放送するということでしたから、七時十分ぐらい前に行けば家にまだいるに違いないと思って急いでタクシーに乗っていったのです。ところが着いてみますと博士はおらず、百合子一人だけしかおりませんでした」
「ちょっと待って」
 相良警部はこの時ちらと傍らの藤枝に目配せをしながら、黒沢玄吉の供述を遮った。
「このところは重大な点だ。――おまえさんが向こうに着いたのは何時ごろだったかね」
「時計をはっきり見ませんでしたが、家をタクシーで出たのが七時十五分ぐらい前でしたから、十五分として七時か七時五分ぐらい過ぎていたでしょう」
「これは参考のために言うのだが、簑川百合子はその時分にはもう死体となっていたはずなんだ」
「な、なんですって?」
 黒沢は意外なことを聞くというような表情をした。
「いや、簑川百合子は十日の午後七時ごろにはもうこの世にはいなかったはずなのだが、そのことは死体の解剖の結果からもよく分かっている。だから、もしおまえさんがその時生きている百合子を見たとすれば、それは(うそ)か思い違いだ」
「冗談じゃありませんよ。わたしはまだ夕方幽霊を見るほど老耄(おいぼれ)てはいないつもりです。確かにその時出てきたのは百合子です。現にわたしは一、二分間百合子と話をしましたからね」
「それ、またそんなくだらぬ嘘をつく。もう一度はっきり言うが、いまの点は非常に重大なところなのだ。おまえさんの答えいかんによっては、殺人の嫌疑を受けるかもしれないのだぜ」
「いやなんとおっしゃっても、その時百合子がいたことは確かです」
「そりゃ嘘か思い違いだ」
「いえ、嘘でも、思い違いでもありません」
 黒沢はここまで語って、ふたたび初めのような冷笑を浮かべて黙ってしまった。



最終更新日 2005年10月26日 11時30分53秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「7」2

 相良警部は相良警部でひどく不機嫌になってしまった。肝心のところで黒沢が嘘をついているので、じりじりとしてきたのであった。
 藤枝が警部の了解を得て口を入れた。
「黒沢さん、十日の午後七時ごろに百合子がまだ生きていたということは非常に重大なことなんですが、ちょっと信用ができないのです」
「信用できなければなさらぬがよろしい。わたしはただ……」
「怒っちゃいけない。わたしはただこう申したいのだ。いかがでしょう黒沢さん、あなた以外にその時百合子が生きていたということを見た人はないでしょうか。百合子が玄関の戸を開けたとすれば、たとえば自動車の運転手とかなんとかが……」
 黒沢はこの時、はたと(ひざ)を打った。
「そうでした、そうでした。その日、先にも申したとおり急に時間を急いだので、わたしはいつも乗りつけの家の付近の大和(やまと)タクシーというのに乗っていったのです。ですから、そこの運転手はあるいはわたしが呼鈴を押している間まだ外にいて、百合子を見たかもしれません」
「大和タクシー? 運転手の名は?」
 相良警部は急いでペンを執って紙に書きつけた。
「大和タクシーの主人で望月(もちつき)という男です。この男をお呼びになればたぶん分かりましょうよ」
「百合子の生死の問題は、では望月を調べることとして、おまえさんはそこで百合子とどんな話をしたかね」
 相良警部が畳みかけて訊いた。
「会ってからは実に簡単でした。わたしが自分のほうの用件を切り出しますと、百合子はこう言うのです。五百円だけはここにあるからこれで一時我慢してくれないか、と。わたしも五百円ぐらいではそのまま帰る気がなかったのですが、ちょうどその時来客らしく玄関のベルが鳴ったので、わたしもあっさりとすぐにそこを引き揚げました」
「応接室で話したのか」
「そうです」
「茶など出されたかね」
「いや、お茶もなにも出されるものですか。だいいち、話をする間もなかったのです。上がってから二分か三分でわたしは金を貰って出たのでした」
 藤枝がこの時、口を出した。
「玄関の所で、来客に会ったでしょうね」
「人がいたようです。しかし暗いうえにその男は襟巻で顔を(うず)めて、そのうえなぜかわたしのほうに後ろを向けて遠くに立っていたのではっきり顔を見ませんでした。わたしもなるべくあそこで人に顔を見られたくなかったので、すぐ外に飛び出してしまったわけです」
「きみは五百円受け取ったとき、受取は書いたろうね」
 と、藤枝が訊く。
「むろん書きました。百合子が確かに帯の間に挟んでいたところを見ました」
「あとから来た客に百合子が玄関で何を言ったかぜんぜん憶えがありませんか」
「さあ、いま申したとおりですから、ぜんぜん記憶がありませんね」
 ここで一応取調べが終わったわけだった。
 相良警部は藤枝を見て、何かこれ以上訊くことはないかというような様子をしたが、藤枝は何も言わなかった。
「ではもうたいていいいんだが、別の室でちょっと待っていてくれたまえ」
 相良警部がベルを押すと刑事が一人入ってきて、黒沢を案内して室外に出ていった。
 二人ともあとで顔を見合わせてほっとした形である。
「藤枝さん、どうです、黒沢の供述は? 黒沢も妙な嘘を言っているでしょう。まるで博士の供述と合わせるように言っているじゃありませんか」
「百合子が七時ごろまで生きていたと主張する者が、博士以外に一人増えたわけですね。で、黒沢の始末はどうします」
「やはりそっとこのまま()っといて様子を見るつもりです。大場さよ子を呼んでありますからあとで一応調べますが、やはりあなたの戦法どおり相手を警戒させぬよう、黒沢も安心さして帰すつもりです」
 この時刑事が突然入ってきて、
「ただいまの黒沢がもう一度、警部どのにお目にかかりたいそうであります」
 と言った。
「ここへ連れてきたまえ」
 間もなく黒沢がまた現れた。そして口早に言った。
「あの、いま思い出しましたのですが、あの日わたしは博士邸に茶色の襟巻を忘れてきたのですが見当たらなかったでしょうか」



最終更新日 2005年10月26日 16時34分30秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「8」1

「茶色の襟巻?」
 相良警部は不審そうに藤枝の顔を眺めた。
「そんなものはなかったようだね。少なくも、わたしは襟巻のことについて聞くのはいまが初めてなのだが」
 藤枝はこう言いながら黒沢のほうを見た。
「ございませんでしたか。ではよそへ忘れたかな――しかしわたしはその襟巻があの簑川の家で発見されたので、わたしがあの日あそこに行ったことがお上へ知れたこととばかり考えておりましたよ。では、あちらでお待ちします」
 黒沢はこう言って室外に去った。
 しばらくして、大場さよ子が呼び入れられた。
 一見、良家のお嬢さんといったような感じの美しい女である。かりに博士はこの女と懇意になって妻を疎んじたとしても、決して人は不思議には思わないだろう。
「もう一度先日のことについて()きます。いま黒沢玄吉をここで調べたのですがね、だいたいあなたが先旦言ったようなことを認めていますよ。ただ夫人に金を請求したのは決して恐喝ではなく、正当な権利だという主張です」
 相良警部はこう言って、それから黒沢玄吉の供述の大体を大場さよ子の前で一応話した。
「だいたいこんなことを言っているのですが、あなたが知っている範囲もこんなものですか」
「はあ、ただわたしはわたしがお暇を取りますちょうどその日、黒沢さんが奥さんに対して、本当に殺してしまう、と言っていられるのを確かに聞いたのでございます」
「なるほど……ついでに訊きますが、あなたは三月十日すなわち藤枝邸に事件が起こったときは浦部(うらべ)子爵の家におられたとのことですね」
「はあ、麹町区の浦部子爵のお(やしき)に九日からまいっておりました」
「博士夫人が死んだことをいつ知りましたか」
「翌日、新聞紙で読みまして驚いたわけでございます。本当にあんな優しい奥さまが人手におかかりになるなんて、まったく想像もつかない話でございますわ」
 大場さよ子はそう言って、いかにも感慨に堪えないという様子をした。
 この時、藤枝が不意に妙な質問をした。
「大場さん、黒沢という男はそれまでたびたび簑川家へ出入りしたんでしょうね」
「はあ」
「近ごろではどんな襟巻をしていましたか」
 この妙な質問には、さよ子もいささか面食らった形だった。
「よく(おぼ)えませんですが、黒かったように思いますが……」
「あ、そうですか……では茶色の襟巻ではありませんね」
「ええっ、茶色の襟巻?」
 大場さよ子はこの時なぜか妙な表情をしたが、一瞬、すぐまたもとの平静さに戻った。
「では帰ってもよろしい」
 相良警部が言った。
 大場の去るのを見ながら、ベルを押して刑事を呼んだ。
「黒沢にももう帰るように言ってくれたまえ。今日はあれ以上調べてもなんにもならんから」
 給仕がこの時、初めて茶を淹れて二人の前へ持って出てきた。
「どうか」
 相良警部は藤枝に勧めながら、自分もぐっと一杯茶を飲み込んだ。
「いかがです、ご感想は?」
「うん、黒沢という人物も相当な人間ですな。しかし言うことがわりに本当らしい。百合子を八つ裂きにしても飽き足りないなどとはっきり言うあたりは面白いですよ」
「たいていの者ならああは悪くは言わない。まかり間違えば自分のほうに殺人の嫌疑がかけられようという際に、ああはっきりと言うのはなかなか大したものですね」
「考え方によればあれがかえって手なのかもしれないな。あのくらいの人間になると、なまじへんに隠し立てをすることは危険だということを充分知っているとみえる」
「ところで藤枝さん、どうです、百合子が夜七時ごろちゃんと生きていて黒沢に会ったという件は」
「さあ、ぼくもちょっとあの点ははっきり分かりかねるが」
「一方に、数時間前に死亡したという医学的証明がある。そうして一方、午後七時過ぎまで百合子が生きていたという人間が二人ある」
「むろん原則としてわれわれはかかる場合に、科学的証明を信じなければならんでしょう。
すなわち簑川博士の言うことと黒沢玄吉の言うことは信ずべからず、ということになる」
「そうすると、博士と黒沢はなぜああ言うのだろうか」
 相良警部はちょっと困ったような顔をしながら藤枝の顔を見た。
「極端に考えれば、博士と黒沢が二人いつか会って相談したのだとも見られぬことはない。二人の供述が矛盾しないようにあらかじめ考えていたとも言えるかもしれない。いやことによると、何か他に原因があって二人で百合子をどうかしたと考えられぬこともないでしょう。藤枝さん、どうお思いになります」
 相良警部は藤枝が黙ったままなので、もどかしそうに問いかけた。
「ねえ、相良さん、さっき黒沢が望月という自動車の運転手のことを言ったでしょう。あれはもちろんでたらめだとは思いますけれども、一応調べる必要がないかしら」
「わたしはまったく無駄だと思う。望月という男がいたにしろ、そんなことは憶えてはいないだろう。それに黒沢の乗りつけの車だとすれば、黒沢に知恵をつけられて何とでも証言を作ってきますからね」
「まあ、そう言えばそんなものだが……」
 藤枝は、ちょっと話の腰を折られたように黙ってしまった。


最終更新日 2005年10月27日 00時47分09秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「8」2

「大場さよ子のほうですが、あのほうはいかがです。まったく信用していいですかね」
「さあ」
 藤枝が急に不愛想に答えた。明らかにかれは何か心の中で考えていることがあるらしい。
「そうそう、ぼくはまだ急用があるんだった」
 かれは不意に立ち上がった。そうして驚く警部のほうを見ながら、
「また来ますよ。ちょっと今日は忙しいので失礼します」
 相良警部も藤枝のこういう性質をよく知っているので、しいては止めようとはしないけれども、多少面食らっている様子で、
「そうですか。じゃあ」
 と立ち上がった。
「そうだ。ひと言きみに言っておかなきゃならないことがある。あの大場さよ子ね、あれが十日の夕方浦部子爵家にいたということはぼくも調べたから確かなんだ。しかし相良くん、大場はあの日、十時ごろに風呂(ふろ)に行くと言って二十分ばかり子爵家を出た事実をきみは知っているかね」
「いいや」
「ぼくは子爵家の女中を一人買収して訊き出してみたのだが、なにしろその間だけは確かに浦部家にはいなかったんだ。浦部家も麹町区にあるしタクシーという剽軽者(ひようきんもの)のある時代だから、二十分という時間にはかなりいろんなことができるわけだぜ。この点をはっきり考えておく必要はないかしら」
「いやありがとう。ところで大場は、一歩も外へ出なかったと言っているよ」
「きみに外出を突っ込まれればきっと、忘れていたといって言い直すに違いない。ところで、かの女が本当に風呂に行ったかどうかを調べるにはごく都合のいいことがある。ぼくは調べてみたんだが、浦部家の女中はあの付近の『柳湯(やなぎゆ)』という湯屋に行くはずなのだ。ちょうどかの女が風呂に行っているころ、あの夜あの付近一帯に停電があったんだ。風呂の中で不意に電気が消えられちゃあちょっと困るだろうから、いやしくも風呂にほんとに行ってたとすれば、停電の件は忘れるはずはない。そこを訊いてみたまえ――いったい今日のきみの取調べを聞いていると、ぼくは黒沢よりも大場のほうを疑いたくなるね。大場の言うことはどうもおかしいよ。たとえば百合子のことを、あんな優しい方がなどとわざと褒めたり、少しも外へ出なかったなんかというのはぼくは気持ちが悪いね」
「そう、ぼくもそう思わぬことはない」
 相良警部が相槌(あいつち)を打った。
「気持ちが悪いといえばもう一つ妙なことがある。相良くん、きみは気がついたろうが、ぼくがほら、あの黒沢の言った茶色の襟巻というやつね、それを言ったときの大場さよ子の顔色さ」
「そう、ぼくもそれはへんに感じたんだが……」
「茶色の襟巻というひと言を言ったら、大場さよ子がなんともいえない変な顔をしたろう。あれはいったい何を意味するのだろう。……この(なぞ)を解くことが一つの仕事さね。いやお邪魔をした」
 こう言うと、藤枝真太郎はまだ相良警部が何か言おうとするのに構わず、さっさと出ていってしまった。
 ちょうど、相良警部が黒沢玄吉・大場さよ子を調べていると同じころだった。すなわち三月十二日の昼前、簑川博士の邸では応接間で、楢尾警部と仲井長太郎が何かひそひそと話をしていた。
「いま申したとおりの次第ですから、仲井さん、あなたからひとつ簑川博士を説得してもらいたいものですがね。むろんわれわれは被疑者なり参考人を取り調べるのが商売なんだから、直接調べてもいいんだが、ともかく相当の地位ある方でもあり、あまりひどくいじめたくはないのです。親戚(しんせきよ)(しみ)で、あなたからでもよく利害を説いて話したら、博士も本当のところを(しやべ)る気になられるだろうと思うのですけれども……いかがですか」
「いやよく分かりました。まったくおっしゃるとおり、このまま簑川が黙ったままでいますとますますかれに対する疑惑は深まるばかりですから、少しも早く真実を述べさせたいとわたしも思っているのですが……」
「あなたから充分言ってくださったらいいでしょう。わたしの考えでは、博士は必ず犯人を知っている。もしくは犯人らしいと思う者を知っているに相違ないのです。ではわたしはちょっと失礼しますが、またあとで来ますからそれまでに博士を充分説得してください。それから一言博士に警告しておいてください。たとい動機が何であろうとも、いやしくも犯人と目せられた者のために証拠物などを隠すということは明らかに刑法上の責任を逃れぬものだということ、これをはっきり言っておいてください。たびたびお話ししたとおり、何で(くび)り殺したかそのものが見えぬというのは実に奇怪千万です。これは博士以外に隠す人はないはずなんですからね」
 楢尾警部はこう言って、博士邸を辞し去ったのであった。
 その午後二時ごろ、楢尾警部の姿はふたたび藤枝真太郎の事務所に現れた。
「やあ、今朝きみちょっと寄ったそうだね。なんだか変な手紙を井上に書かしたそうだが、おかしいじゃないか。いったいどうしたんだい」
「いや、ちょっと考えたことがあったもんだからな。ときに井上くんは、留守ですか」
「ああ、用事があって使いに出した。いまぼく一人だよ。何か新しいことでもあったかね。そうそうぼくは今朝本庁に行って、相良くんの取調べぶりを見てきたが、なかなかかれやるね」
「黒沢玄吉を調べたのかな」
「そう、そのほかに大場さよ子という女も調べていた。いやなかなか二人ともがっちりしているよ。ことに、美しい若い女というものがいかに巧みに平気で(うそ)を言うかということを、いまさら見せつけられてきたよ」
「それで、相良警部の見込んでるところは?」
「さあ、先生もわれわれ同様なかなか意見を言わない男だから、どこを(ねら)っているのかちょっと分からないね。しかし、博士・黒沢・大場、この三人を狙っていることは確かだね。きみも何か探し当てたらしいが、相変わらず意見は言わずかい?」
「ところが、今日はそれをはっきり言いに来たんですよ。とくにそのためにここに来たわけなのです」
「というと、いよいよ犯人の目星はついたんですな」
 藤枝は乗り気になって聞きはじめた。
「そう、少しく怪しむに足るべき人物を見つけたのです。博士もその人物の怪しいことを知っているらしい。いや知っているからこそ、あんな瞹昧(あいまい)な態度を取っているのではないかと思う」
「ぼくにはちょっと話が分からないが。……つまり博士は犯人を知っているが、なんらかの理由で(かば)っているというのですか」
「まあ、つまりそうです」
「これは面白い。そしてその理由は」
「二つの理由からですよ。一つには家庭の名誉を重んずるという点、一つには犯人をすぐに挙げるのは具合が悪いという点」
「ほう、初めのほうはよく分かるが、あとの理由がぼくにはちょっと分からんね。何か犯人と博士とは親しいのですか」
「いや、そうとは限らんのです。――そうですね、なんと言っていいか――さあかりに博士が、相良警部なりまたは藤枝さんあなたなりを疑ったとして、すぐわれわれに言うでしょうか」
「おや、きみはまた変なことを言うじゃないか。まさかきみはこの藤枝真太郎を疑ってるわけじゃないだろうね」
「もちろんですよ」
 楢尾警部は大きく笑いながら言った。
「そりゃ一つの例ですよ。相良警部を疑ってるわけでもないのです。ただ博士は、あなたのあまりよく知っている人を疑っているから隠しているのです」
「なに、ぼくの知っている人? これは驚いた、いったいそりゃだれのことだい、きみ」
 藤枝が()き込んで訊く。
 楢尾警部はいっこう騒ぐ様子もなく続けた。
「ねえ藤枝さん、十日の夜、博士邸に行った男があるのですよ」
「そりゃ分かっている。黒沢玄吉さ」
「黒沢?」
 今度は楢尾警部が驚いて言った。
「黒沢が行ったとは相良くんからも聞いたが、相良くんもあなたもそれを信じているのですか。あの晩、博士邸に行ったのはもっと若い男ですよ。もっとロマンチックな用で夫人に会見に行った男がいるのです。藤枝さん、あなたは本当にそれを知らないんですか」
 楢尾警部は(ずる)そうな顔をして言った。
「知らないさ。いったいそれはだれのことなのですか?」
「しかもその男が博士邸にのっぴきならぬ証拠品を忘れていったのです」



最終更新日 2005年10月27日 01時20分03秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「9」1

「楢尾さん、犯人が何か落としていったんだって?」
「そう、少なくも何者かが夫人の生きているうちに博士邸に行き、夫人のすぐ(そば)にいたことは明らかです」
「で、それが黒沢以外の者だと言うんですね、きみは」
「黒沢があそこに行ったというのは、かれ自身の自白以外には何も証拠はないと思います。したがって、わたしはその自白にたいして重きを置かんですよ」
 楢尾警部はいやに落ち着いてしまって、なかなか問題に触れてこなかった。こうした場合、相手を()らしておくのがこの人の癖だった。いや、楢尾警部ばかりではない、藤枝真太郎自身だって、自分だけが知っていると信じたことはなかなか口には出さないのだ。だから藤枝自身にも、楢尾警部が相手をかなり焦らそうとしていることがよく分かっていた。
 こんな時に意地を張って少しも驚かない様子をするよりも、むしろ楢尾警部の考えどおり充分焦らされた振りをしたほうが早く結末に達すると見たので、藤枝はことさら()き込んで(たず)ねた。
「じゃ、あらためて()くが、その時その場にいた(やつ)というのはいったいだれですね、きみはまだそれをはっきり言わないが……」
 待ってましたというような様子で、しかし楢尾警部はすぐにその問いに答えようともせず、おもむろに懐中から一通の西洋封筒を取り出したのであった。
「藤枝さん、実はね、一昨日現場でわたしはこれを拾ったのですよ、しかも百合子夫人の死体の下からね」
「死体の下?」
「そうです。死体を動かしたらその下からこれが出てきたのです。この点は大切なところですよ、もし博士の供述どおり、だれも夫人の死体を動かした者がないとすればですね。われわれはこの手紙が自分で夫人の死体の下に入っていったと考えるか、あるいは夫人がこの手紙の上に倒れて死んだと考えるか、またはだれかが、夫人の死体の下へこの手紙を突っ込んだとするか。この三つの考え方しかできないわけです。そのうちで第一と第三の考え方は、不可能またはありそうもないことです。とすると、夫人はこの手紙の置いてあった所へ倒れたということになる。言い換えれば夫人の生きているうちに、あの室の絨毯(じゆうたん)の上にこの手紙が落ちていたとしなければなりません。ところでこの手紙には切手が()ってない、だから郵送されたと考えるわけにはいかない。ともかくだれかがそこに持っていったとしなければならんです」
「きみの考え方にはいちいち賛成だが、ともかくその手紙を拝見しましょう」
 洋封筒の表には、鉛筆の走り書きで、
『麹町区富士見町』と番地を記し、さらに、
『簑川百合子様』
 と記されてあった。発信者の名は書いてない。
「これがその内容ですよ」
 楢尾警部はそう言いながら、一片の紙切れを藤枝の前に差し出した。内容も鉛筆の走り書きで、次のようなことが記されている。
 先日はいろいろご馳走(ちそう)さまになりました。厚く御礼申し上げます。至急お目にかかってお話ししたいことができました、S子に関してです。
 この手紙着き次第お電話をくださいまし。事務所でないほうがいいのです。あしたは家にいるつもりですから、この間申し上げた所へ掛けて、呼び出してください。その時は山田とか小林とかいういい加減な名を用いてくださいまし。
 右急ぎとりあえず用件まで。
    十日
                                  M・I
  百合子様
「ほほう、この手紙はなかなかいろいろな事実を暗示していますね。――なるほど――してみると、夫人にはやっぱり(ひそ)かに懇意にしていた人がいたとみえる」
「そうですよ、確かに」
 楢尾警部が得意そうに言った。
「こういう事実から考えていくと、博士のあの不思議な供述が説明されるわけです。つまり博士は、夫人が秘密の友人を持っていたことをできるだけ隠したいのだ、いわんやその男に夫人が殺されたことなどはできるだけ秘密にしておきたかったのでしょうね」
「楢尾さん、で、きみはこの手紙を夫人がすでに読んだと思うかね」
「さあ、そこですよ。わたしはどうも夫人が読んだとは思わないですね」
「おや、それじゃきみは自分で封筒を開けたのかい」
「藤枝さん、あなたも知ってのとおりわたしはいかなる場合でもできるだけ合法的な手段を取ることにしています。信書を無闇(むやみ)に開けたりなんかはしませんよ」
「では、いったいだれが封筒を開けたのです」
 藤枝が訊いた。
「開けるも開けないもないのです。ほら、ご覧のとおりこの于紙は初めから封じてはありませんよ」
 楢尾警部があらためて藤枝に示した。なるほど、(のり)は完全に残っていて、貼りつけたあとはない。
「ほう、これはますます妙だ」
 藤枝は何か考えるように、目をつぶった。
「この手紙が死体の下にあったという点、およびぜんぜん封じてなかったという点から、わたしはこの手紙を書いた男があの時夫人の側にいたのだと考えるのです。同時にその人物を第一に怪しいと思うのです」
「とおっしゃるのは」
「これはむろん、死体をだれも動かさなかったという仮定のもとに出発しなければならんのですが、死体の下にこの手紙があったということは、夫人が生きているうちにあそこにこれが落ちていて、その上へ夫人が倒れたということを意味します。しかも十日の午後七時前までは決してあそこにはこんなものはなかったはずです。なぜならば、死体のあった所は博士の書斎ですから。夫人の部屋ならともかく博士が出かけるまでにこんなものが博士の部屋の絨毯の上に落ちていたとは思えない。博士にせよ、夫人にせよ、これをそこで見つければなんとかするに違いありませんからね。そうすれば、結局博士が放送局へ出かけたのち、言い換えれば夫人がたった一人になってから、すなわち午後七時以後にこの手紙があそこに落ちたとしなければならんです」
「では楢尾さん、きみは博士の言うとおり午後七時までは夫人は生きていたと考えるのですか」
「いや必ずしもそうではないのです。例の死体の硬直から考えるとこれはかなり怪しい。それにしても、わたしの考えているセオリーはただ時間だけの点が変わってくるだけです。もし午後一時ごろに殺されたとすれば、その死の直前にこの手紙がやはりあそこにあったと考えなければならない」
「そう、博士を疑わない限りはそうでしょう。ただ、この手紙を博士がどこからか持ってきたのでないとすればね」
「だから、わたしはさっき言ったでしょう、博士の供述を一応信ずるとするのですよ。博士が犯人であるという考えでなく、ただ博士が時間の点だけごまかしているとするのですよ」
「それにしても、この手紙を書いた人間自身が、はたして博士邸に行ったかどうかははっきりしませんからね」
「藤枝さん、あなたにも似合わないじゃありませんか、この手紙を書いた人間が自身であそこに行った証拠が充分ある、この手紙が封じてないということです。これが何よりの証拠じゃありませんか」



最終更新日 2005年10月27日 20時19分21秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「9」2

 楢尾警部はますます得意になって、(しやべ)りつづけた。
「もしこれがいったん封をされていたのに開けられてあったのなら、一応受信者たる百合子夫人が開けたものだと推察すべきでしょう。しかしこれは初めから開けられてあった、しかも内容はご覧のとおり極めて秘密を重んずべきデリケートなものです。この発信者はこれを開けたままほかの人に伝達を頼むでしょうか。――そんなことはあり得ないではないですか」
「ではきみは本人自身がこれを持参したというのですか」
「そうです」
「それはちょっとおかしいな、本人が自分で来ているのに何を好んでか手紙を書いて置く必要があるでしょう。またもし夫人が留守だったとすれば、この手紙は置いて帰るべき性質のものではない」
「わたしは不思議ではないと思いますね。こう考えることは不自然でしょうか。この手紙の筆者がまず、郵便で出すことを考えた。それで急いで鉛筆で走り書きをする。そうしたのち、用件が非常に切迫した。それで急いで自分でやって来た、手紙をポケットか何かに入れたままで来たのです。それを何かの拍子で落としたという考え、それは不自然でしょうか」
「そりゃないことはないでしょう」
「もし博士の供述を信ずるとすれば、この手紙を書いた男はちょうど夜七時二十分ごろから博士が留守なのを知っているはずです。それで思い出して手紙を出さずに自身で来た、と考えることもできます」
「ではいったい、その人間はだれだというのですか」
 楢尾警部はなぜかにやにやとしながら、ポケットからまた一つの封筒を取り出した。
「この中にこういう手紙がありますが、読んでごらんなさい」
 藤枝は黙ってそれを受け取ったが、それは極めて薄い紙に鉛筆で書かれた文章だった。
 拝啓、至急お目にかかりお話ししたき用件あり、明日下谷区仲町(なかまち)の『川又(かわまた)』までご枉
(おうが)くだされたく候。河合(かわい)氏も見えらるるはずにこれあり候。
 例の件百円以下にては難しき由。いずれ拝眉(はいび)の上。草々。
                                  楢 尾
  坂東簑十郎様
「なに、坂東簑十郎?」
「藤枝さん、この筆者がだれだか分かりますか。そこで先の手紙とこの手紙とを比べてこらんなさい。今度の手紙の中に簑川百合(、、、、)という四字がちゃんと入っているはずです。そのほか、同じく”至急お目にかかりたし”という言葉もあります。ところがこれはまったく同じ人の字ですよ。わたしはさっき役所でいつも頼む鑑定家に見てもらってきたのですが、その人の言うのにもまさしく同一人の筆蹟(ひつせき)だそうです。われわれがちょっと見ただけでも、同一人の筆だということはすぐ分かりますよ。ことに簑川の簑という字と坂東簑十郎の簑という字なぞはまったく同じ人の書いたものであること、一見して明らかです」
「きみはさっき井上道夫にこれを書かせたんだね。……じゃあきみは井上を疑ってるんですね」
 藤枝はいまさら驚いたように楢尾警部を眺めた。
「藤枝さん、博士がなぜあんなことを言ってるか、これで分かったでしょう。はっきり言います、博士はあなたの所の書生を疑っているのです。だからそれとは言いかねているわけです。そうして、まことに残念ながら藤枝さん、わたしも井上道夫を疑わないわけにはいきません」
「しかし……しかし、井上に限ってそんなことが……」
「あなたはかつてある事件をわたしと一緒にやったとき、“だれに限って”なんていう言葉は犯罪捜査には禁物だと、自身で言われたではありませんか」
「それはそうかもしれない……」
「ねえ、藤枝さん、あなたの過去の経験といまの位置があなたを疑わせないのですよ。あなたが世話をしている青年に嫌疑がかかっている以上、あなたが一応へんに思われても仕方がないはずです。名探偵の助手実は犯人! ちょっと面白いじゃありませんか」
 勝ち誇った調子で、楢尾警部はここでちょっと息を吐いた。
「いや一言もない。……しかしそれにしても、きみはどうして井上を博士邸の犯人と考えることができたのですか」
「わたしは夫人の死体を見、この手紙を見、さらに博士の怪しい供述を聞いてから、これは何か夫人の恋愛事件が原因じゃないかと考えたのです。あなたも同じお考えらしいが、博士は確かに犯人を知っているらしい、しかし言いにくいのだ、とすればどうしても夫人の名誉に関する話としか思えないじゃありませんか、それでわたしは昨日一日、あらゆる手段を尽くして夫人の品行を調べ上げたのでした。世間の(うわさ)どおりかなり大っぴらに男と出歩く人だから、調査はわりに簡単でした。ところで最近、夫人と音楽会や銀座なんかに行く男があることが分かったのです。それがすなわちあなたの所の井上青年なのです。いったいあなたは、あの男の品行や性質を調べたことがありますか」
「どうもはなはだ恐縮ですね。実は詳しいことは何も知らんのですよ。あの青年はもとわたしの友人のある弁護士の所に書生をしていたんですが、なんでも探偵になりたいのだというので、近ごろわたしの所に来るようになったのです。いたって真面目(まじめ)な男だし、仕事もするから信用していたんですが――それが夫人と懇意とは、案外です」
 嘆ずるように藤枝が言った。
「やはりあなたのような名探偵でも、自分の家の者は疑わないとみえますね。いわゆる飼犬に手を()まれたというやつですな」
「わたしの家にでもいるのだと品行ももっとよく分かるのだけれど、あの男は事務所に来るだけで、寝起きは郊外の自分の家でするのです。父母も健在で、父は飲食店をしているそうです。……いや実に驚いた」
「しかし、夫人とどの程度まで懇意だったかよく分かりません。が、ともかくこうした手紙を書く間柄ではあるのです。それにあれは真面目なことは確かです。けれども、真面目だけに恋をすると危険ですよ。その結果、人を殺したりすることのあるのはあなたもよくご承知のとおりです」
「決して弁解するわけじゃないが、それにしても井上があの日博士の家へ行ったとはどうしても思えない。そりゃ手紙は確かに書いたでしょうがね」
「ところがのっぴきならぬことがあるのです。あなたはあの時、判事と検事が指紋の研究をしていたことを(おぼ)えていらっしゃるでしょう。あの日、書斎の博士のニス塗りの大きな机の上に新しい右の食指と中指の指紋があった。あれだけがだれのか分からなかったのです。ところで、井上に書いてもらったこの手紙ですが、この用紙は極く薄いのですぐ指紋が採れるようになっているのです。さっき井上道夫に書かせたとき、同時にかれの右の指の指紋を採ってしまったのです。遺憾ながら同一指紋です」
 こう言いながら楢尾警部は、机の上にあった指紋の写真と手紙の指紋の写真を出して並べてみせた。機敏な警部はちょっとの間に、もうこんな仕事をしてしまっていたのだ。
 じっとそれを見ていた藤枝は、やがて、
「そうですか。なるほど……」
 と、(あきら)めたように(つぶや)いたのである。



最終更新日 2005年10月27日 21時25分44秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「10」1

 気まずい静けさが、しばらく部屋の中に漂った。いままで雄弁を(ふる)ってきた楢尾警部も相手のなんとも言いようのない困った様子を見ては、さすがにちょっと黙らないわけにはいかなかった。それほど、藤枝真太郎は弱り切っていたのであった。
 実際、この時ぐらいかれが困惑の表情をはっきりと示したことはなかった。いままでどんな難件にぶつかっても、必ず即座に頭を働かせて周囲の者どもを驚かすかれだった。名探偵の名を一度だって恥ずかしめたことのない藤枝だった。そのかれはいま本当のことを言えば、いままでかつて出会ったことのない難局に立っているのである。
 楢尾警部の前でこそあまり弁解はしてはいないけれども、井上道夫という青年をかれは非常に信頼し、かつ愛しているのだ。その真面目(まじめ)さ、その誠実さおよびその聡明(そうめい)さを短時日の間に早くも見抜いたかれは、弟のように思って井上を教育しているのだ。ゆくゆくは第二の藤枝としてこの探偵事務所を渡したい、譲り渡せるような立派な男にしたいと希望しているのである。
 その信頼している井上青年を、この警察官は疑っている! しかも簑川博士夫人に対する殺人の嫌疑をかけているではないか!
 不可能だ、絶対に不可能だ、あの男に限ってそんな馬鹿(ばか)なことがあり得るはずはない。
 かれはこう言って笑おうとした。しかし、笑えなかった。
 一歩退いて静かに考えてみる。……井上道夫に対するかれの信頼と親切との情が、名探偵としてのかれの理性を(くら)ましているのではないか!
 第三者として頭を働かせるときは神のごとき知恵を出す藤枝も、まったく楢尾警部の言うとおり自分の弟子のこととなると、急に理知の働きの鈍くなるのを感じないわけにはいかないのである。
 現にかれは、井上が夫人とあんなに(ひそ)かに懇意になっていることを知らなかったではないか。
(井上だって若いのだ、恋もするだろう。不思議はない。またしたって構わないじゃないか。それが犯罪とどう関係があるのだ)
 かれはしいて心の中でそう思ってみたりした。
 楢尾警部は手持ち無沙汰(ぶさた)そうに二つの手紙を代わるがわる開いて、あらためて読んだり下に置いたりしていた。
 この時、藤枝の頭の中に電光のように(ひらめ)いたものがあった。
 それは昨日、この事務所で初めて井上に事件を知らせ、調査をさせたときに井上が言った言葉だった。
「どうも死体に不思議なところがあるのだよ」
 と藤枝が言ったとき、井上青年がいきなり、
「ではもっとずっと早くにでも殺されたんでしょうか」
 と言ったあのひと言だった。
 いまから考えると妙な質問である。
 死体の様子が変だと聞かされた井上が、すぐに死体の硬直を知っているような質問をしたことである。確かに藤枝は、死体の硬直を井上には言わなかったはずだ。
 では、かれはどうしてそれを知っていたか。
 背中から冷水を浴びせられたような感じがして、藤枝は密かに身震いをした。
「楢尾さん、きみの言われることに対しては差し当たり何も反対すべきことはありません。井上道夫のことについても、わたしは軽率に弁護すべきでもないと思います。仕方がありません。かれを殺人嫌疑者として取り調べてください」
 かれはこう言って、煙草(たばこ)に火を()けた。
 楢尾警部は仔細(しさい)に藤枝の様子に注意していたがこの時、慰めるような調子であらためて口を切った。
「わたしが井上を取り調べるくらいならもうすでに捕まえていますよ。藤枝さん、わたしはあなたのいままでの功績をよく知っています。あなたの力でわれわれがどれくらい(たす)けを受けたかもよく知っています。一言で言えば、わたしはあなたを絶対に信じています。どうでしょう、あなた自身で井上を調べてくださらぬでしょうか。そりゃわたしが井上を引っ張ってきて調べるのはわけはありません。しかし、あなたのあれは弟子です。あなたの助手です。その男をわたしが殺人被疑者として取り調べることはちょっと遠慮したいのです。また井上だって同じことならあなたにいじめられるほうがいいでしょう。わたしはあなたを絶対に信じます。あなたがかれを逃がしたり何かさせぬことを信じます。どうかあなた自身で取り調べてください。そうして今夜にでも自首させていただきたいのです。これがわたしがあなたにいま示し得るせめてもの好意ですよ」
「そうですか。ありがとう。ではわたしからさっそく(たず)ねてみることにしましょう。もう間もなく帰ってくると思いますから……」
「わたしは実は、博士のほうもまだ直接に当たってみないのですよ。仲井から聞かしてあるのです。これからもう一度博士邸に行って、博士の答弁を聞かなければならないのです」
 楢尾警部はこう言って立ち上がった。
「ではいずれまた」
 藤枝は力なくドアを開けて、楢尾警部の出ていくのを見送ったのであった。


最終更新日 2005年10月29日 00時45分41秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「10」2

 楢尾警部はその足ですぐに博士邸に戻ってきた。
「楢尾さん、お待ちしていました。簑川は少々気分が悪いと言ってベッドに入っていますが、お話の趣をあれから充分伝えたのです。まだはっきりしたことは聞きませんが、あなたからもう一度はっきり利害を説いてくださればきっと何か新しいことを言うに違いありませんよ」
 仲井が待ち受けて警部に(ささや)いた。
「そうですか、では失礼してベッドの所にご案内を願いますかな」
 仲井は警部を博士のベッドの所に案内して、自分は遠慮して出ていった。
「どうかなさいましたか」
「いやあれからずっと眠りませんので……」
「さっそくですが、さっき仲井さんにも申しておいたので充分事情は分かっていられると信ずるのですが……」
「事件のことですか。ああ、あんたはわたしが何か(うそ)を言っているように言われたそうですね」
「つまり、知っていることを隠しておられやせんかという意味ですよ」
「知っているとはどういうことですか」
「はっきり言いましょうか。殺人犯人をです。奥さんを殺した人間をです」
「どうしてそれをわたしが隠していると言われるのですか」
「こうなったらすっかり言ってしまいましょう。ここにはあなたとわたしと二人きりだから話しますが、ねえ簑川さん、あなたは奥さんのために犯人を隠していられるのでしょう」
 博士の眉毛(まゆげ)がぴりっと動いた。
「あなたは奥さんの名誉、ご自身の名誉を考えて黙っておられる。その気持ちは充分お察しすることはできます。しかし、それがあなたにとってはいろいろの意味から言って不利益なのです。ここをよく考えてください。簑川さん、場合によってはあなた自身、こうやってベッドの中で暢気(のんき)にわたしと話をしておられなくなるかもしれないのですよ」
 博士は目をつむって何か考えているようだった。楢尾警部はもうひと息だと感じた。
「簑川さん、あなたがせっかく黙っていても、われわれのほうの調べがどんどん進んでいるのです。奥さんがどんな人と交際していたか、どんな人が奥さんの周囲にいたか、よく分かっているのです。つまりあなたが黙っていることは、いまとなってはまったく無意味というべきです。いや、無意味どころではない、たびたび申したとおりあなたのために有害なのです」
 楢尾警部は立てつづけに(しやべ)りながら、博士の表情を油断なく凝視している。
「今夜にももう犯人は捕まります。わたしはとくに申し上げたい。早く犯人の遺留品をお出しになるがよい。これは刑法上の問題ですよ」
「遺留品?」
「そうです。犯人がお宅に残していった品物です。これを隠した人がある。それはあなたにほかならないのです。出すならいまですよ。犯人が捕まってからでは事重大となります。あなたの法律上の責任は逃れられません」
 楢尾警部はきっぱり言い切った。
 博士の顔色には苦悶(くもん)の様子が現れた。
(ふふん、白状しようかどうしようかと迷っているのだな。もうすぐだ)
 警部は心の中でそう思って機を外さず、すかさず最後のひと太刀を入れた。
「犯人はもう捕まります。あの男が自白してからでは……」
「あの男?」
「そうです。あの男が自白してからでは間に合いませんよ」
「あの男とは……いったいだれです?」
 楢尾警部は博士の案外ずうずうしいのに(あき)れたようだったがずばりと言い切った。
「井上道夫ですよ。奥さんが平生かわいがっていた藤枝氏の所の助手ですよ」
「おや、あなたは井上を犯人だと言うのですか?」
「むろんです。さ、早く井上の遺留品をお出しなさい」
 いままで苦しそうにしていた博士は、なぜか急に安心したような様子を見せた。
「さっきからあなたは犯人の遺留品遺留品と言われるが、どうしてその男がわたしの所へ品物を残していったと決めておられるのですか」
「たとえば、奥さんの(のど)を絞めたもの……こんなものがないじゃありませんか」
「そりゃ犯人が自分で持ち去ったに違いありません。わたしが死体を発見したときからないのです。そんなものは犯人が残していかぬほうが当たり前でしょう」
「ふん、それはそうかもしれない。しかしいちばんわたしが疑うのは、あなたが嘘を言っている点です。あなたは犯人がだれだかを知っているのだ。すなわち井上が犯人だということを知っている。それだからこそ、曖味(あいまい)なことを言っているのじゃあないですか。どうしてあなたは犯人を知ったか。犯人にここで会ったか、または犯人が何か残していったからです」
 楢尾警部はいささか気色ばんで詰め寄った。
 しかし今度は博士もおとなしくはしていなかった。
「曖昧とはなんです。わたしは初めから本当のことを言っているのだ。さっきからあんたは嘘を言っているとか曖昧なことを言っているとか言われるけれど、何を根拠にそういうことを言うのですか」
 博士の調子が急に強硬になってきたので、楢尾警部もいささか驚いたようだったが、やがて何事か決心した様子であらためて言いだした。
「簑川さん、それでははっきり言いましょう。念のために言っておきますが、これはわたし一人の考えではないのですよ。判事も検事も、みなこの点ては意見が一致しているのですが、あなたは奥さんの殺された時間をごまかしているのです。簑川さん、あなたは死体が硬直を起こすのは死後何時間ぐらい()ってからだか知っていますか。……われわれの経験するところでは、あれは少なくも死後八時間を経過しなければ起こらないものなのです。法医学の教えるところによれば、死後硬直というものは早くても死んでから八時間、遅い場合は二十時間を経過してから現れるものなのですよ。あなたが警察に電話を掛け、われわれがここに駆けつけたのが十日の夜八時四十五分ごろでした。その時、夫人の死体は明らかに硬直状態に入っていました。それゆえ、奥さんは遅くとも十日の午後一時ごろには死んでいたはずなのです」
「そんなことはない。断じてない」
「お待ちなさい。われわれは現代の科学を信じなければなりません。あなたがなんと言おうともわれわれは科学を信じます。……したがってあなたが放送局に行かれたころには、すでに奥さんは冷たくなっていたはずなのです」
「でも、電話が掛かったではありませんか」
「それはこっちから承りたかったところですよ。簑川さん、あの時放送局に電話を掛けてきた女はいったいだれですか」
「馬鹿なことを問いたもうな! たびたび言っているとおりだ。わたしの妻が二度までも電話を掛けてきたのだ。わたしは科学より何より自分の耳を信用する。あなたの言うとおりだと、放送局にわたしが出かけるときにすでに妻は死んでいたということになるが、わたしはちゃんと妻と喋って別れたのだ。わたしはこの目で妻を見、この耳で妻の言うことを聞いているのだ。ばかばかしいにもほどがあるというものです」
 博士は奮然として言い切った。
「簑川さん、しかし奥さんがその時まで生きていた証拠はありませんか」
「証拠? わたしが自分で見たくらい確かな証拠はないじゃありませんか。いくら耄碌(もうろく)していても、わたしは自分の女房を間違えることはありませんよ」
「いま言うとおり、死体の状態はあなたの言うところとまったく矛盾しているのです。こういう場合に、警察官たるわれわれがどう考えているかお分かりでしょうな」
「そんなことはわたしは知らん。わたしはただ事実を言うだけです」
「放送局から迎えが来たとき、奥さんは出られなかったそうですな。あなた自身が出られた。つまりあのころ、奥さんの生きているのを見たのはあなた以外には一人もいないということになる」
「それはそうかもしれん」
「簑川さん、もう一度はっきり言います。あなたはいままで言ってきたことに、あくまで固執しますか」
「むろんですよ。ほかに言いようがないじゃありませんか」
「そうですか」
 楢尾警部は厳然と言った。
「そうですか、では仕方がありません。わたしは実はあなたの地位を考え、できるだけ好意をもっていままで立ち回ったつもりなのです。しかし、それがあなたに分からなければ()むを得ません」
「あなたの好意が分からんのではないのです。ただ事実以外に言いようがないから、わたしはありのままに言っているのです」
「では、いずれ出るところに出て言っていただきましょう」
 こう言うと、楢尾警部は立ち上がってドアを開けた。
 仲井長太郎が心配そうに立っていたが、警部に、
「いかがでした。やはりはっきり申しませんでしたろうか」
 と()いた。
「どうも困ったものです。博士ぐらいの人に利害が分からんはずはないのですが、仕方がありません。仲井さん、あなたにもだいぶご厄介をかけましたが、これから博士には役所でお目にかかることにしましょう」
 心配顔の仲井をあとに、楢尾警部はさっさと博士邸をあとにしてしまったのである。



最終更新日 2005年10月29日 01時21分21秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「11」1

 楢尾警部が簑川博士邸に行くと言って出ていったあと、藤枝真太郎はたった一人でまるで自棄(やけ)に見えるくらい『エアーシップ』を立てつづけに四、五本()いつづけていた。
 井上道夫が簑川百合子を殺したとは、どうしても信じられない。けれどもかれが簑川百合子と(ひそ)かに懇意の仲になり、凶行当日、かの女を訪問したらしい事実だけはどうしても信じないわけにはいかない。
 懇意とはどの程度の懇意だろう。
 藤枝は百合子が人妻であることを思って、激しい不安に襲われはじめた。
(それにしてもあの手紙の中にあったS子に関してとのS子とはだれのことかしら)
 かれがこう考えてふとある名を思い浮かべたときドアが開いて、井上道夫が元気な健康そうな顔をして入ってきた。
「や、ご苦労ご苦労、まあひと休みしたまえ。お茶でも飲みながら報告を聞こうよ。すまないがぼくにも一つ()いでくれないか」
 元気に働く井上青年の様子をじっと眺めていた。整った体軅(たいく)、男性的な顔、賢明そうな目、なるほど、簑川夫人にかわいがられてもいいような青年だと、かれはいまさらつくづくと感じた。
「ありがとう。きみもやりたまえ。さ、まあそこにかけたまえ」
 こう言いながら藤枝はぐっと一杯茶を飲んだが、それは(のど)の渇きを(いや)すというよりは、何か重大なことを言い出そうとして心をしいて落ち着けているように見えた。
「井上くん、少し真面目(まじめ)にきみと話したいことがあるんだ」
「は、なんです……」
「きみはぼくの所に来てからまだそう長くはない。しかしぼくと付き合っている間に、ぼくの気心もたいてい()み込んでくれたことだと思う。ぼくがどのくらいきみを信じ、愛し、理解しているか、ぼくがどんなに誠実にきみを立派なものに育て上げようとしているか、きみは充分、分かってくれるだろうね」
「はあ、むろん先生のご親切は分かっております」
「ぼくだってきみの真面目さ、利口さはよく知っている。だからこそ将来はこの事務所の主人になってもらいたいとさえ思っているのだ。ぼくがきみを信じ、またきみがぼくを信じていてくれる以上は、かなり立ち入ったことを()いてもいいと考えるが……」
「はあ、なんでもおっしゃってください」
「では訊く、きみは恋をしているんじゃないかね。しかも極めて密かに……」
「―― 」
「むろん、密かに恋をしていたからとてぼくはそれを悪いというのじゃないのだ。きみは若い。若くて美しくて賢明な青年が恋をし、また恋されたからとて少しも不思議はない。しかし、きみは危険な恋をしているのじゃないか。……ねえきみ、ぼくがきみに訊きたいのはその点なんだよ。……むろん分かるだろうが、ぼくは文学者や芸術家でないからぼくが危険な恋というのはごく世俗的な意味で言うのだ。形而下的の意味で言うのだ。ひと言で言えば、法律を犯すような恋をしていやしないかというのだよ」
「法律を犯すですって」
「そうさ。たとえば、夫のある女と恋愛関係に入るというような場合だ」
「先生、では先生はぼくが人妻と……」
「井上くん、はっきり訊くが、きみは簑川博士の奥さんといつから仲がよくなったんだい」
「え? 簑川博士の奥さん? 先生はぼくと奥さんとの間を疑っていられるのですか」
「そうだ。きみが百合子夫人と人知れず懇意になっていたことは、まさか否認はしないだろうね」
「はあ……」
 井上は急に青褪(あおざ)めて下を向いた。
「百合子夫人には立派な夫があるじゃないか。その百合子夫人と恋愛に陥ることがどんなに危ないことかきみは考えたことはないのか。くどくも言うとおり、ぼくはきみのような若い人が恋をすることを悪いとは言わない。しかし、法律を犯すような恋をぼくは許すわけにはいかないんだ」
「先生、しかしぼくは……」
「まあ聞きたまえ。ぼくはきみの性格を信じ切っていたのだ。きみがそんな危ないことをしているとは夢にも知らなかった。それはぼくの誤りだったかもしれない。ぼくは自分の不明を恥じるばかりだ。しかしきみはきみで、相当の覚悟をするところがなければならないはずだ。井上くん、ぼくだって今度の百合子夫人の惨殺事件に関しては、あの博士の口振りから察しても、何か夫人の恋愛事件が中心になっているのじゃないかと実は疑っていたのだ。これは昨日もきみにここで言ったとおりだ。が、まさかきみがこの渦の中に……しかも真ん中にいるとは思いもかけなかったよ。ぼくと同じ疑いを持った楢尾警部は例の機敏な腕前を現して、早くもきみという人間をトレースしてしまっている。かれはいままでここにいたよ。そうしてさんざん大きなことを言って帰ったばかりだ。ぼくも今日という今日は一言もなかった。楢尾警部は、名探偵の助手実は犯人! ちょっと面白いじゃありませんか、と言っていたぜ」
「え? 犯人? ぼくが……ですか?」
「そう、楢尾警部のセオリーはこうなんだ。きみと夫人とが密かに仲がよくなっていた。一昨日(おととい)きみは手紙を出す気で書いたのだが、事情が切迫したかして自身で博士邸に行った。その時間は分からん、そしてその後、夫人が死体となって発見されている。一方、博士がきわめて曖昧(あいまい)な供述をしている。ここで嫌疑はきみにかかっているのだ。ぼくにせよ、弁解するわけにはいかないじゃないか。――もちろん、楢尾くんがトリックを用いてきみに書かせたあの変な手紙をぼくに示す前に、すでに話の間に楢尾くんがだれを疑っているかということはぼくには分かっていた。だから、ぼくはかれがきみの名を出す前に、暗にきみをできるだけ弁解はしておいたのだ。たとえば、きみが夫人の死の直前に博士邸にいたにもせよ、それをもってただちにきみを殺人犯人なりとするわけにはいかないということ、いやぼくはきみがあそこに行ったことすら疑わしいと力説してはおいたのだ。けれども、考えてみると博士夫人と密かに仲よくなっているきみを、ぼくは充分弁解はしにくいのだよ。ね、ぼくの気持ちはきみ充分、分かっていてくれるだろう」
「先生、そりゃあまりです。何もかも言ってしまいます。けれどぼくが犯人だなんてとんでもないことです。いえ、だいいちぼくは百合子夫人と決して恋愛になんか陥っていたのじゃありません」
「だってきみは、変な手紙を夫人に書いたじゃないか」
「は、それは書きました。しかし、決して二人の間には(やま)しいところはないのです。……もうこうなっては何もかも言ってしまいますが、夫人とぼくが知合いになっていたことは確かです。これを早く先生に申しておかなかったのが悪かったのです。前の先生の所にいたとき、簑川博士邸へは法律上の用件で数回まいりました。そのころから顔はよく知っていたのでしたが、二人で話をするようになったのは先々月帝劇で開かれたジャック・ティボーの音楽会の夜からでした。偶然ぼくはその夜、夫人がやはり来ているのに出会ったのですが、夫人はぼくを早くも認めて帰りに銀座でも一緒に散歩しないかって誘われたのでした。いまから思えばその時断ってしまえばよかったのですが、ぼくもべつに用事はなし、正直に申し上げますと、ああいう美しい婦人と銀座を歩くこともいやではなかったので、その夜は遅くまであの辺をふらついて別れたのです。それからのち、ちょいちょい夫人から誘われて一緒に邦楽座で映画を見たり、ホテルのグリルでご飯を食べたりしたことがあります。――こんなことはぼくからは言いにくいのですが、言わなければならないと思いますから申し上げますが、百合子夫人はぼくにかなり好意を持ってくれ、たいへんかわいがってくれたと思います。しかし、誤解のないように明らかにしておきますが、先にも申したとおり、二人の間には絶対に疚しいことはありませんでした。夫人のほうがどうであろうと、ぼくは夫人に恋していたのではありません。のみならずいくら馬鹿(ばか)なぼくでも、夫のある女の人と深い交渉に入ることがどんなに法律的に危険であるかは、充分心得ているのですから……」
「きみはしかし、百合子夫人と懇意になっていたことをたいへん秘密にしていたね」
「は、それが悪かったのです。いまとなっては、それが誤解のもとになってしまったのですが、これは夫人の要求によるものなのです。先生にもだれにも言ってくれるなということでした」
「きみは博士がきみを疑っていたとは考えないかね」
「それはぼくには分かりません。けれど夫人はいつも、なに、分かったところでうちの人はどうすることもできはしないのだから、と言っていました」



最終更新日 2005年10月29日 03時29分59秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「11」2

「ではきみは、博士夫人と懇意だったことは認めるが、決してそれ以上の深い交渉はなかったというのだね」
「断じてありません。どうかぼくを信じてください。――それに……それに、断じてなかった理由がまだ一つあるのです。実はぼく――これはいずれ先生にあらためて申し上げるつもりでいたのですが、妻にしようと思っている婦人があるのです」
「それが、きみの手紙のS子という人かい」
「はあ、そうです」
「博士の所にしばらく来ていた家政婦の大場さよ子という女だな」
「はあ」
 井上道夫の青褪めた(ほお)にこの時、さっと紅が散った。
「ふん、それで?」
「大場さよ子を知ったのも、ちょうど夫人を知ったのと同じころでした。たびたび博士邸に行っているうちに、大場さよ子とわたしは実は恋し合うようになってしまったのです。先生、こんなことをいま自分から言うのは恥ずかしいことです。しかし言わなければ、ぼくばかりではない、大恩のある先生にご迷惑がかかると思うから言ってしまいますが、二人の間はわりに早くから進んだのです。そうして、お互い将来は夫婦になる約束までしてしまったのでした」
「すると、きみは一方に妻にしようという女がありながら、一方では博士の夫人と仲よくしていたというわけになるね」
「先生、これはぼくの純なことを言いたいために申すのですが、夫人との間はなんでもないのですよ。ただ夫人が、しきりにぼくを誘ってくれるものですから……」
「しかしきみはそれを断然、断ればよかったじゃないか」
「その点はなんと言ってもぼくの落ち度です。ひと言もありません。……それがため、自分があの恐ろしい人殺しの犯人と思われているばかりでなく、先生にまで迷惑をかけたとは……ああ、実にぼくはどうしたらいいでしょう」
 藤枝はかつて検事局に検事として勤めていたとき、被告人らを調べるときのような様子で、この青年の心に渦巻いている(あらし)に、少しも感情を動かされていない調子で冷静に井上の悩ましい表情を眺めていた。
「では訊く、きみがあの手紙に書いたことは何事なのだ? 急に十日になって夫人に会い、S子のことに関して言いたかったのはいったい何事なのだ?」
 しかし、井上道夫は答えなかった。否、答えられなかったのだ。かれは何を苦しんでいるのか、頬を伝って流れる涙をハンカチでしきりと(ぬぐ)っているがひと言も発しなかった。
「それを明らかにしてくれないと、きみにかかっている嫌疑は晴れないかもしれないぜ。ねえ、そしてきみはあの日、いつごろ夫人に会ったのだね」
 井上は相変わらず黙ったままだった。
「え? はっきり答えてくれたまえ。重大な点だよ。きみはいつごろ百合子夫人と会ったのだ?」
「先生、ぼくは夫人と会いはしないのです」
「だってきみはあの日、博士邸に行ったじゃないか」
「いえ、まいりません――決して行きはしないのです」
「井上くん、よく考えてくれよ、この点をきみが明らかにしてくれないと困るんだ。きみは行かぬと主張している、実はぼくだってそれを信じたい。そうあってほしい。しかし、きみは動かすことのできない証拠を残してきてしまっている。……博士の書斎に机があるだろう。きみはあのニスの上に、はっきりきみの右の指の跡をつけてきてしまってるじやないか」
「―― 」
「こういう証拠があるのに、なおかつきみがあそこにあの日行ったことを否認する以上、きみはどうしても二つのことをはっきりしてくれぬと困るよ。第一は十日の午後から夜まできみがどこにいたかということを明らかにすること、第二は机の上にきみの指紋がついたのは十日でなくてほかのときであるということを明らかにすることだ」
 しかし、井上道夫はもはや何も答えなかった。かれは机の上に面を伏せて、ただ意気地なく涙を流しているばかりだった。
 藤枝の心のうちにいまさら新しい不安が()いてきた。
(こりゃ、ことによると……)
 かれはこう考えながら、哀れなこの青年を黙って眺めていた。
 部屋の中はただ静かだ。藤枝がくゆらすシガレットの煙が雲のように渦を巻いて、その中を漂っている。
 爆発しそうになる感情を、しいて抑えている井上の苦しそうな(むせ)び泣きが、部屋の空気を痛ましく重苦しくしている。
(この男はとうていぼくには白状しないな。してみると、この男は純情のあまり、一時の興奮であの恐ろしいことをやったのかしら)
 しばらくして藤枝が立ち上がった。
「ではぼくは今日は家へ帰るから、きみもよく考えたうえで決心がついたらぼくの所へ来て話をしてくれたまえ。……きみはぼくの立場も考えてくれなくては困るぜ。……では」
 机にうつぶしたままの井上をあとに残して、藤枝は事務所を出た。
 が、二、三町歩いたとき、かれは不意にある不安に襲われた。
(あいつ、思い余ってどうかしやしないか)
 かれはちょっと引き返そうとした。しかし、また思い直して家路にと着いた。そうして心の中で(つぶや)いた。
(殺人犯人として捕まるより、自決したほうがかれのためには幸いかもしれない。これがせめてものおれの心遣(こころや)りだ)



最終更新日 2005年10月29日 04時02分02秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「12」1

 その夜、更けるまで藤枝真太郎は何か井上道夫が言ってくるに違いない、どうか少しも早く真相を知らせてほしいと心に祈り、心に待っていたけれども、それはまったくの空頼みだった。
 井上青年のためによかれと祈る感情と、冷ややかな犯罪の探偵家としての理性とが心の中で入り乱れてかれを襲っていた。
 三月も十二日になったというに、浮気な天候はいつの間にか暗い雲を漂わせ、寒暖計の水銀がにわかに降下したと思う間もなく、粉のような雪が都大路を銀色に飾りはじめた。
 寂しい静かな夜である。
 かれは初めて、こんな苦しい不安な夜を過ごさねばならなかった。
(なぜ井上はほんとを言わないのだろう。まさかかれが人殺しをしたとは思えないけれども、かれが博士邸に行ったことまで否認するのはよくよくのことがなければならぬが。
――明らかにかれは今日おれに(うそ)を言った。なぜだろう)
 井上の純真を信じ切っている藤枝には、楢尾警部のようにただちに、井上が犯人だから嘘をついているのだとは思い切れなかった。
 かれは夜(おそ)くかなり多量の睡眠剤を服して就床した。
 夜通し、いやな夢を見つづけて、でも薬のせいで一応は熟睡したらしく、目が覚めたのは翌朝、すなわち三月十三日の午前十一時ごろだった。
 ようやく雪は()んだけれども、外は一面の銀世界である。
 頭が重いので体温計を(わき)の下に入れてみると、微熱がある。床の中から出る気にもならぬ不安な気持ちで、ついに静養することに決めた。
 しかし、だれからかなんとか便りがありそうなものと、しきりに床の中で(もんもん)々としたけれども、一日どこからの音沙汰(おとさた)もない。
 相良警部はどうしたか、黒沢玄吉はどうなったか――考えてみると黙っているわけにもいかない。
 しかし、かれは昨日楢尾警部に言われた一言が胸に()みていた。
(あなたの従来の経歴および現在の地位があなたを疑わせないのですよ)
 と、警部は言った。それは取りも直さず、
(きみの弟子の井上を疑う以上、一応きみが疑われても仕方がない)
 と言うのと同じことではないか。
 こんな惨めな位置にいる自分が、なまじ積極的に動いたりせぬほうがこの際よかろう、とかれは考えた。そうして、だれかから何か知らせのあるまで自分は動かぬほうがよいと決心した。
 それにしても、簑川博士はどうしたのだ。博士はだいいちに自分にこの事件を頼んだのではなかったか。それが何も言ってこないとは。――かれはこう考えてまたある不安に襲われはじめた。楢尾警部が断言したとおり、博士はやはり井上を怪しいと(にら)んでいるのだろうか。
 日暮れ近くなって、玄関のベルが鳴った。
(だれが来たのだろう?)
 気を紛らすために読みかかっていた英国の探偵小説をぱったり伏せて、藤枝は床の上に起き上がった。刺を通ずるまでもなく元気な声が聞こえて、やがて部屋に現れたのは東京地方裁判所検事局の帯広検事であった。
「おや、どうかしたのかい」
「なに、大したことはないんだが、ちょっと風邪けなのでね」
「そうか、それはいかんね。なにしろこんなときに雪が降るっていう異常天気だからな」
「さっそくだけれど、何か新しいことが起こったのかい」
「うん、いま警察で井上道夫にちょっと当たってきたのでね」
「え?警察で?じゃ、楢尾くんはとうとう井上を引っ張ったのか――無理もない。ぼくから充分問い(ただ)すことになってたんだが、ぼくがうまくやれなかったからな」
「しかし、警察では少なくも表向きは保護するために身柄を押さえてるんだぜ」
「じゃなにかい、かれ思い余ってどうかしたのかい」
「なるほど、きみは何も知らないんだな。それじゃ驚くかもしれん。井上が昨夜晩く自殺を図ったのさ。劇薬を()んで自殺を図ったのだが、さいわいに量が多過ぎて吐いてしまったので生命には別状なしだ。否、もう病院に行く必要もなくすっかり元気回復の(てい)だよ」
 半ば予期しないではなかった。けれど、いまあの青年が自殺をするというのは何を意味するだろう。自殺は自白も同然じゃないか!
 そのくらいなら昨日、なぜおれの前で自白してくれなかったのだ! おれはそんなに信頼できぬ先輩なのだろうか。
 井上道夫からさえ信じられぬおれでは、楢尾警部に信じられぬのも仕方のないことかもしれない。
 それにしても、かつて同じ役所で机を並べた(よしみ)でわざわざ訪ねてくれた帯広検事を、藤枝はいまさら懐かしげに眺めずにはいられなかった。
「そうか、そんなことがあったのか。ぼくは少しも知らなかったよ。きみは楢尾くんから詳しく事情を聞いたろうが……」
「うん、警部から詳細に事情は聞いている。警部は明らかに井上を疑っている。しかして、井上の自白は楢尾警部を満足させるに充分なのだ」
「なんだ。かれ、自殺しそこなって自白したのか?」
「そうだ。殺人犯人だと言い出したのだ。もっとも遺書にそう書いた以上、いまさら翻すこともできまいがね」
「遺書? だれに()てた遺書だね」
「大場さよ子に一通、そうしてきみに一通遺書がある。これで見ると、井上の自殺は狂言ではなかったらしいよ。ほんとにこれを書いて死ぬつもりだったのだ」
帯広検事はそう言いながら、一通の封書を懐中から取り出して藤枝の前に置いた。
「きみへの分は厳封してある。一応きみに宛てられてあるからきみに渡す。しかし、なるべくなら参考にこちらに(もら)いたいのだが……」
「そりゃむろん構わない。ともかく開けてみるぜ」
 藤枝はこう言いつつ、検事の目の前で自分に宛てられた、遺書と書かれた一通の封を切った。
 先生、申し訳ございません。これまでのご恩を(あだ)にしてお返しすること、返すがえすも残念です。死んでお()びを申し上げます。お許しくださいまし。
  十二日                           井上道夫
 藤枝 先生
「非常に簡単だな――犯行のことについては何も触れていない」
藤枝はこう言いながらその手紙を帯広検事に手渡したが、この遺書を(したた)めたときの井上の心中を察して思わず目頭の熱くなるのを感じた。



最終更新日 2005年10月29日 04時09分13秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「12」2

「帯広くん、きみはいまぼくに、きみへの分は厳封してあると言ったねえ。さよ子に宛てた一通は封がしてないのかい」
「そうなんだよ。開封のままになっていた。だれも手をつけた形跡はない。初めから封じてないんだ」
「で、その内容は?」
「これがきわめてかれのために不利益なのさ。なに、これもはなはだ簡単でぼくは(おぼ)えている。こうだ。
  簑川博士夫人殺害の犯人はぼくです。許してください。あなたはどうか幸福に生きてください。
   十二日                          道夫
  さよ子様
 というんだ」
「ふーん、明らかに犯行を認めたね」
「そうだ、明らかに自白している。そうしてかれは、警察でもはっきりと自白を維持しているんだ」
「そうか」
 藤枝は黙った。帯広も黙した。二人は何か互いに触れたいところを触れられずに、探り合いをしているように見えた。
 しかし、とうとうたまりかねたとみえて藤枝が口を切った。
「これはきみの職務に立ち至るからしいては()かないけれども、かれの自白はきみにぴんと来るかい?」
「さあ、そこなのだ。ぼくが今日わざわざきみを訪ねたのは。――ぼくがかれを起訴すれば……」
「おや、きみはまだ起訴しないのか」
「むろんだよ。きみだってぼくのやり方は知っているじゃないか。被疑者が自白したからってそうすぐにおいそれと起訴しやせんよ。――ぼくがこれを起訴すれば、きみだってかれとの従来の関係上、きみ自身法廷に立って弁論をしないまでも、できるだけかれの有利な証拠を(つか)みたがるだろう。つまり、きみは必ず被告人の防御の側に立つだろうと思う」
「まあそうだな。この事件で、もしかれが起訴されればね」
「ぼくはきみとはむかし机を並べていたし、またきみが検事を辞めてからでも多く共同戦線を張って犯人を罰することに努力しつづけていた。ところが今度はきみとは反対の立場に立つことになる。きみは味方にしては頼もしいが、正面衝突の敵としても相手にして恥ずかしい人間ではない。相手にとって不足は少しもない」
「それはお互いにだ。ぼくからも同じことを言いたい」
「さあそこだ。お互いに反対の立場に立っても卑怯(ひきよう)なことはしたくない。フェアプレーでやりたい。ぼくが今日ここに来たのもそのわけなのだーぼくは井上のために有利なところを考えてやって来たのだ」
「かれのために有利?」
「そうさ。いったい世間では、われわれ検事といえばただ無闇(むやみ)に人を罪にする職業だと思っている。しかし検事はそんなものではない。これは充分きみの知っているとおりだ。できるだけ被疑者の利益をも考えるべきだと思う。そこでぼくは井上に有利な疑いをかなり持っている。きみはそこをできるだけ捜査してみたまえ。それでもなおかつかれのために潔白の証拠が挙がらず、ぼくのほうがかれを疑えば断然かれを起訴する。きみと最後の意見が違ったときは潔く、法廷なりどこなりで相まみえようじゃないか」
「うむ、ありがたい、さすがにきみだ。ぼくだって目指すところは正義の二字あるのみだ。無意味な弁解はやらないつもりだ。――で、かれはどうして夫人を殺したというのだ」
「かれの自白をそのまま伝えるから聞いていたまえ。かれが夫人殺害の直接の動機は、一時の激情に駆られたと言うんだよ。これはきみもたぶん聞いたろうけれども、かれは夫人とは、本年一月ごろから仲がよくなっていた。しかし、絶対に忌まわしいことはなかったと言うのだ」
「うん、そりゃぼくにもそう言っている」
「その理由として、井上は大場さよ子という若い女のことを話している。つまりさよ子と井上とが最近、恋愛関係に入っている。そうして夫婦約束までしたとこう言うんだ」
「それもぼくに言っていることと同じだ」
「ところで、井上は一方さよ子とこんな仲になりながら、一方夫人と仲よくしている。この関係がいつまでも続き得るものでないことはだれだって考え得る。井上がさよ子と仲がよくなっていることが夫人に知れ、さよ子にはまた夫人と井上とが懇意になっていることが知れてしまった。そこで事は多少面倒になる。ね、これは多少だ。なぜかって、一方は既婚の夫人であり、井上がどう思ったところで、また夫人がどう思ったところでどうすることもできるわけはない。一方は夫婦約束をした仲で、双方の親さえ許せば立派に夫婦になれる間なのだ。だれが考えたってそうたいして()める話ではない。ただ多少揉めそうな話ではある。井上自身も、大したことにはなるまいと思っていたそうだ。
 ところが、だ。これは博士夫人のような女の心理なのかもしれないが、井上の恋人としてのさよ子の存在がはっきり分かると、夫人は妙に二人の間を邪魔しはじめた。できるだけ二人を近づけないようにする。二人を離してみたところで、自分はどうすることもできないくせに、そういうことをやるのだそうだ」
「そりゃありそうなことだな。井上の言うことはほんとだよ」
「きみ、いまからそう弁護しては困るよ。まあ、終わりまで聞きたまえ。――そこで大場さよ子のほうでも非常に心配して母親にはっきり打ち明けた。きみはもう調べたろうが、さよ子には父はないのだ。万事母が父の代わりになっている。それが、今月の初めなのだそうだ。そこで許しが出そうなので、さよ子が夫人にそれを言うと、さあ大変なんだ。大変なヒステリーを起こして、さよ子は即日博士邸を追い払われたわけよ。一方、井上の所に電話が無闇と掛かって井上は夫人に呼び出されて、さんざん皮肉を言われるということになった」
「そういえば今月の初め、ぼくのオフィスへもだれか分からぬ女からたびたびかれに電話が掛かったよ」
「しかし、井上とさよ子の気持ちは堅かった。九日の日にさよ子と井上は会っている。双方の親も正式に二人の間を許した。そこでかれは固い決心で博士夫人に二人のことをはっきり告げようとした。十日になって例の手紙――ほらかれが博士邸へ置いてきた手紙ね、あれを書いて出ようとするところへ――これが夕方六時ごろだったそうだ、さよ子から電話が掛かって、どうなったかと訊く。あなたが行かぬならわたしが夫人に直接会ってくると言われたので、二人を会わせたら女同十どんなことになるか分からんと思って、さよ子には、ただちに自分が博士邸へ行くからおまえは行くな、と言っておいて、手紙をポケットに入れたまま博士邸に出かけたとこう言うのだ」
「何時ごろ?」
「夜の七時過ぎだと言うのだ。七時半かもっと回っていたろうと言うのだ」
「そしたら夫人がいたと言うのか――生きていたと?」
「そうなんだ。かれのその日の行動を調べると、夕方六時ごろまでは――すなわち、さよ子から電話が掛かるまでは確かに家にいた。夜七時半過ぎに行ってみると、夫人がたった一人でいた。そこで、いよいよさよ子と正式に近く結婚するということを言ったら、夫人が大変な嫉妬(しっと)で、さよ子をさんざんに(ののし)ったあげく、井上のことをひどく罵詈(ばり)したと言うのだ。さよ子のことをあまりひどく言われて、かれはかっとなって夫入を脅かした。ところが夫人は急に井上の態度を見て、悲鳴を上げて、人殺し! と叫んだので、かれは慌てて口を押さえようと夫人に飛びかかったが、気がついてみると夫人の息が絶えていたとこういうのがかれの一応の自白なんだよ」



最終更新日 2005年10月29日 04時29分00秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「13」1

「何で殺したと言うんだ」
「いま言うとおり、夢中に飛びかかったからどうしたかよく分からんと言うけれど、まあ両手で(のど)を絞めたということになるな」
「それで……」
「その時、ポケットからシース(筆記ケース)を落としたそうだが、手紙を落としたことには気がつかず、そのまま逃走したとこう言うんだ」
「きみは夫人と井上がどこで話したか()いたろうね」
「むろん訊いた。通された場所はいきなり博士の書斎。茶など飲む間もない。すぐ争いが始まったとこう言っている。まあこれがかれの自白の全部だよ」
「なるほど、それでよく分かった。きみがさっき言った楢尾警部を満足させるには充分だという言葉がはっきりした。つまり、きみを満足させるには不充分だというわけだね」
 藤枝はこう言ってにやりとした。
「帯広くん、ぼくが昔のとおりの役人でいてきみの立場に立つとすれば、少なくも次の点だけをこの自白については疑うよ……」
「うん、きみの思うところを遠慮なく言ってみてくれたまえ」
「第一に百合子夫人殺害の動機がはっきりしないね。なるほど、井上の自白によれば一応の説明はつく。恋人を(ののし)られたという一時の怒りから、相手をやっつけたということはあり得ない場合ではない。しかし、井上のような位置にいるもの――すなわち、大切な恋人を持っていてそれと近々結婚しようとする男が、そんなことで人を殺すものだろうか」
「藤枝くん、けれど殺人の動機なんていうものは、そうはっきり外に表れるものじゃないよ。きみの疑いにしても、それはいままでの井上の自白を全部信じるからその殺人がおかしくなるのだ。われわれはもっと悪く考えることができる。たとえば、井上と夫人の間をもつと深刻に考えることができないわけではない。そうすれば、あるいはかれが夫人を殺すのが当然だったというような事実が出てこないものでもないからな」
「そりゃきみの言うとおりだ。だからぼくも動機の点についてはしいては争わない。ただ一言言っておくが、かりにさよ子・百合子夫人この二人に関する井上の供述が事実だとすれば、さよ子が夫人を殺すか、夫人がさよ子を殺したほうが自然だと思われる」
「そりゃそうだね」
「第二に妙なのは殺人の方法さ。われわれだけしか知らないことだけれども、あの死体の喉の所には何か(ひも)のようなもので(くび)られた(あと)が明らかについていた。だから決してあれは手で絞められたものではない。この点については、井上の自白は事実と確かに矛盾している」
「そうだ」
「第三に、これは実に奇怪千万だが、井上もまた十日の午後七時半ごろまで夫人が生きていたという(うそ)を言っている。これはたびたびのことだが、きみだって信ずることはできまい。そこでこういうことになった。百合子夫人が十日の午後七時半ごろまでこの世に生存しているという事実を、はっきり主張する人間が三人になった。すなわち簑川博士、黒沢玄吉、そして井上道夫だ。しかもわれわれの経験によれば、死体の硬直は死後八時間()たねば起こるものじゃない。科学の教えるところに矛盾して、三人までがこんな不思議な供述をするのはどういうわけだろう」
「その点が、今度の事件でもっとも奇怪な点らしいよ。この(なぞ)を解けば今度の事件も案外楽に解決できるのかもしれない。藤枝くん、きみはこれについて何か考えはないかね」
 藤枝真太郎はこの時、両眼をつぶって何か物思いに(ふけ)っているようであったが、しきりと右の耳のあたりを(かゆ)そうに()いては考え込んでいる。
 これはかれがいつも何か非常な難問題に出くわして、それをどうかして解こうと努力しているときに限って表れる癖なので、帯広検事はその黙想を邪魔しないように自分もしばらく黙って藤枝の顔を眺めていた。
 しばらくして、藤枝は何か心に思い当たることがあったとみえ、やがて帯広検事のほうを見てにやりと笑った、
「ねえ、ここにこういう不思議な事実がある。発見された死体はどう考えても、死後八時間を経過している。一方に、夫人が死体となって発見される二時間ぐらい前まで夫人が生きていたということを主張する者が三人ある。この一見矛盾していることを矛盾でなく考えることができればいいわけだね」
「しかしきみ、そんなことは考え得ないよ。一方を立てれば片方が立たんじゃないか」
「そこだよ。そこで、この両方を矛盾なく立てることができれば事件は解決されるんだ。事件の初めからの謎ー!どうして夫人は母の死を知ったか、博士の名で掛けられた大阪への電話はだれが掛けたか、これらもただちに解決できるんだ」
 しかし、藤枝はこんな謎みたいなことを言ったきり、そのあとを続けようとはせず、急に話題を他に転じたのである。
「そこでまた元に返るが、井上の自白だ。この自白は本当か嘘か、二つの場合しかあり得ない。本当だと考えるのは楢尾警部だろうし、警部はそれに向かって目下証拠固めをやっているだろうが、かりにこれを嘘だとする。いいか、かりに井上が嘘の自白をしているとする。もしそうだとすれば、なぜかれはそんな虚偽の自白をしたのだろう。ねえ帯広くん」
「さあ、なぜだろう」
 帯広検事はこの時、(ずる)そうな目つきをして答えた。
 しばらく沈黙が続いた。
 二人の間にはまた探り合いが始まった。
「例の遺書ね。――大場に残したあの遺書さ。あれはなぜ開封のまま残されていたのだろう」
「藤枝くん、きみもやはりあれを考えているね」
「そうさ、普通の場合ではあり得ないことだ。ぼくに残した一通でさえ密封されている。それなのに恋人に残す一通の封を閉め忘れる(やつ)もないものだ。帯広くん、なぜかれがあれを封じなかったろう」
「かれがあれを封じるのを忘れたのではないとすればだね」
「そんなことは不可能だよ、いま死ぬという間際に、いちばん大切な恋人に()てる遺書を封じるのを忘れる奴なんかがあるものか」
「そうすると、どういうことになるときみは言うのだ」
「なんだ、きみだってそんなことは分かっているくせに! 帯広検事ともあろう者がそこに気がつかないはずはないじゃないか」
「まあいいからきみの考えを言ってみたまえ」
「じゃ言うが、井上は大場さよ子にあの遺書が読まれるより先に、一般の人に――ことに警察の人たちに真っ先に読まれることを願ったんだよ」
「というと」
「つまり、犯人は自分だということをああなった以上少しも早く言いたかったのだ」
「ではなぜ、昨日の夜になってから慌てだしたのだろう。きみに訊かれたとき、はっきり言ってしまえばいいじゃないか」
「そこがなかなか面白いところだ。ぼくの前にいたときはゆっくり前後を考えている間がなかったのだ。ところがかれが帰宅してからゆっくり考えてみると、意外なところに危険が来ていることに思いついたのだ。あるいは、とんでもないことをぼくに自白してしまったと気がついたのだ。そこで慌てて当局者が犯人に手を出さぬうちに、自分が犯人でございと名乗りを上げたわけなのさ。かわいそうに、いかに知恵を絞っても井上はまだ若いんだね、ぼくの前でも、警察でも、隠そう隠そうとしながら、危険な話をしているじゃないか。――犯人はぼくだ、ということは言い換えれば犯人はぼく以外の者ではない、ほかを探しても無駄ですよ、ということと同じじゃないか。では、かれが心配しているほかの者とはだれだろうね」
「うん、藤枝くん、ぼくの考えもだいたいきみと似たり寄ったりだよ」



最終更新日 2005年10月29日 13時10分02秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「13」2

「そうだろう。かれの遺書はなかなか考えて書いている。開封したまま置いて、まず嫌疑を全部自分にかけると同時に、遺書の形でもって自分が(かば)っている相手に巧みな通信をやっているのだよ。”犯人はぼくです”という言葉だが、これはきわめてデリケートだ。注釈すれば“ぼくが犯人になります、あなたではありません”というのだ。帯広くん、むろんきみもご推察のとおり、井上は大場さよ子の犠牲になろうとしたわけさ。しかしこの反問苦肉の計略も、きみとぼくとの存在を無視した話さね、こんな手で(だま)されるぼくらではない」
「つまり、庇おう庇おうとして、かれは自己の信ずるところを暴露してしまったんだね」
「そうさ。言うまでもなく、明らかに井上は大場さよ子を疑っているのだ。大場さよ子が夫人殺害の犯人ではないかといままでにも多少考えていたのだ。ところが昨日、ぼくの所でさよ子とのことを(しやべ)ってしまったそのあとで、とんでもないことをしたと思ったんだろう。恋する青年の一本気で死ぬ気になり、同時に自分が犠牲になる覚悟だったのだ。志は(よみ)すべしかもしれないが、細工がまだ若いよ」
「井上の心配は相当根拠がある。少なくも大場さよ子を疑っている人はあるのだ」
「相良警部だろう」
「そうだ。かれは十日の日の大場の行動を、かなり突っ込んで調べているからね」
「かりに大場が真犯人だとすれば、井上の遺書を見て黙っているだろうか」
「それはあり得ざる場合だね。かの女が本当に井上を愛しているとすればだ。――恋する女は恋人が真に犯罪を行っても、なおかつ身をもってこれを庇うものだ。いわんやその恋人が無実の罪に苦しんでいるとすれば、どんなことがあったって黙ってはいないよ。そこが女性のいいところでもあり、また恐ろしいところでもあるのだが……」
「そうだ。犯人は井上さんではありません。このわたしでございます。井上さんを許してあげてください。そしてわたしを捕まえてくださいまし、とこうこなくちゃ嘘だよ」
「今日は相良がきっとあの遺書を大場の所へ持っていくが、かの女に読んでみせるだろうから、もうそろそろなんとか事件が進展しそうなものだが……」
「帯広くん、大場さよ子のほうはまず相良くんに任せておいて、一言参考のために申しておくことがある」
「なんだい。井上のことかい」
「そうだ。――ぼくは弁護士ではない、私立探偵だ。まあどちらかと言えば、きみらと同じような方向で犯人に対しているわけだ。さっきから井上のために弁じているのは、決してかれのために無闇(むやみ)と弁護の労を取っているわけじゃない。そりゃ根底には、かれを真犯人と信じられぬ気持ちがある。したがって無実の罪で悩んでいるかれを救うために、かれのために反証を挙げようと努めていることは事実だが、これは被疑者防御というよりは真犯人を捕まえるためなんだよ。つまり、当局者が真犯人でない者にこだわっているうちに当の犯人がずらかってしまうことを恐れるから、ぼくはいま非常に頭を悩ませているんだ」
 こう言いながら、かれは煙草入(たばこいれ)から一本のシガレットを取り出して火を()けた。風邪けで寝ていたかれは、今日はいままで好きな煙草を一本も()っていないのに、いま急にシガレットに手が伸びたのは何かがかれを元気にしたためであろう。
「それで?」
 帯広検事が訊いた。
「それでね、こりゃ事件がどう進展しても、きみに言わないでは済まぬと思っていることだが、井上道夫だね、あの男は百合子夫人の死体の様子を知っているんだよ」
「なに?」
「ぼくが――そう、たしか一昨日(おととい)だった。自分のオフィスで博士邸の事件についてかれに語ったのだ。その時、死体にちょっと妙なことがある、と言ったものだ。いいかね、こう訊かれたら、何も知らん人間ならば、妙とはどう変なのか、とか、その他具体的な質問をするにせよ、なんとか死体の有様について常識的な質問をするわけだろう」
「うん」
「ところがかれは、こう言うといきなり、へえ! じゃ、ずっと早くにでも殺されたんでしょうか? とぴんときたんだ。どうだい、殺された時間にいきなり疑問を持つということは、こういうことに素人の人間にはちょっとできない芸当じゃないか。――昨日、楢尾警部がオフィスへ来て盛んに雄弁を(ふる)っている間にも、ぼくはこのことに想到して実はいやな気持ちになったのだ。――少なくも井上は死人の状況を十一日の朝もう知っていた。このことは何を意味するか。かれが十日に死人が生きているうちに行って死ぬまでいたか――すなわちかれが殺したか、もしくはすでに殺されたあとへかれが飛び込んだか、このいずれかである。ぼくは第一の疑問に対する反証がいままでなかったので、実は閉口していたのだ。ところが、いまきみのひと言でかれが殺したのではなく、事件後、かれが博士邸に行ったことが明らかになったよ」
「どうして?」
「だってかれは午後六時過ぎまで家にいたのだろう」
「そうだ。これはかれの両親ばかりでなく、例の縁談で来合わせた親戚(しんせき)の者も、また近所の者も証明している」
「一方、死体は死後少なくも八時間という状態で、午後八時半過ぎに発見されている。そうするとかれが犯人でないことは確かだ。これはきみの言葉だけで充分分かる。ただぼくが言いたかったのは、井上が午後七時ごろにどうも博士邸に行ったらしいことだ。しかも夫人の死体をはっきり見ているということだ。楢尾警部とこの点は一致する。――ねえ、ぼくの名誉にかけてぼくが保護する。かれを釈放してくれたまえ。真犯人を捜さしてみるから。――なに、かれは自白はすぐ翻すよ。恋する男というものは、そういつまでもセンチメンタリズムで犯罪の犠牲になってるものじゃない。論理で攻められれば訳なく落ちるものだよ」
「ふん、その点は同感だ」
「いったいぼくには――遠慮なく言えば当局の方針が分からないよ。死体の硬直を認めながら、午後七時半ごろに博士邸に行った井上を捕らえるなんていうのは……」
「そりゃさっき言ったさ、あれは保護を加えているのだよ」
 この時、女中が急いで部屋に入ってきた。
「あの、帯広さまにお電話でございます。相良警部という方から」
「そら来た、何か新しいことが始まったんだね」
 帯広検事はしばらく電話に掛かっていたが、やがてにこにこして戻ってきた。
「思ったとおり、大場さよ子が相良警部に面会を求めてきたそうだ」
「ふん、犯人は自分だと言うんだろう」
「ところがそうでない、犯人はほかにあるとこう言うのだそうだ。真剣なんだぜ」
「へえ――自分だと言わずに、人のせいにするとは案外ずうずうしい女だねえ」
「ところが有力な証拠を持ってきてるんだ。例の茶色の襟巻――あれを持参しているそうだよ。ぼくはこれから行くが、きみは……」
「なに風邪なんか大したこたアない、一緒に行こう、――おい、タクシーを一台言ってくれ!」



最終更新日 2005年10月29日 13時41分30秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「14」1

 外は一面の銀世界だった。
 人通りの少ない道を、藤枝真太郎と帯広検事を乗せた自動車がかなり速いスピードで走っていった。
「茶色の襟巻を持ってきたとはちょっと面白いね、藤枝くん」
「うん、ぜんたいいままでどこに隠していたんだろう。浦部子爵家の自分の部屋にでも置いてあったのかしら」
「しかし、それをいままで隠していたのはどういうわけかな。だいいち、かの女がどうしてそれを手に入れたかが問題だよ」
「ぼくはいまはっきり思い出したが、警視庁で相良くんが黒沢を調べたときに大場さよ子も調べていた。その時、茶色の襟巻というひと言を言ったら、さよ子はぎょっとしたからね。――面白いそ、こりゃことによると、あの時ぼくが思いついたような事実が行われたのかもしれん」
「ともかくこうなった以上、いよいよ博士をとっちめなきゃいけないよ。だれのためにかれが沈黙しているか――かれ自身のためか、そうでないか、そうでないとすればだれのためか――」
 こんなことを言ってるうちに、自動車は早くも宮城(きゆうじよう)の前に差しかかった。最前から、藤枝は煙草(たばこ)を立てつづけに()って煙を車の中に漂わせている。
 この煙には帯広検事もいささか閉口したように見えた。
「風邪だっていうのに、そんなに煙草を喫ってもいいのかい、きみ」
「ああ平気さ。煙草はぼくの健康のバロメーターなんだ。喫えるときはもう身体(からだ)の具合がいいのだよ」
 どうして藤枝が急に元気になったのだろう。
 井上道夫の嫌疑が薄らぎつつあるからだと帯広検事は考えた。さすがの検事も、藤枝が本当に元気になったわけは察せられなかったものとみえる。
 やがて、車は目指す本庁の玄関に横付けにされた。
 勝手をよく知っている二人は遠慮なく、どんどんと相良警部の部屋を訪ねた。
 ちょうど警部は部屋におらず、調べ室にいるというので二人は給仕に案内されて調べ室へと急いだのである。
 ドアを開けると、そこには相良警部が一人の美しい女と対座していた。むろん大場さよ子である。
「おや、ばかにいい(にお)いがするぞ。シクラメンだな、昨日ここでこの女を見たときもこの匂いがしたが、よほど香水が好きなんだな」
 藤枝はこう思って、警部に一揖(いちゆう)した。
「検事どのですか。藤枝さんもご一緒ですね。いまひととおり調べたところですが……まあおかけください、もう一度言ってもらいますから」
 藤枝はこの時、じっと大場さよ子を見た。
 不意の闖入者(ちんにゆうしや)で、一時はっとしたらしかったが、すぐに落ち着きを取り戻したとみえ、さよ子は机の一角を見詰めたまま、また下を向いてしまった。その様子は美しいとか悩ましいとか言うよりは、むしろ凜然(りんぜん)としていると形容したほうが当たっているようである。
 数年間の検事生活によって、藤枝はこうした凜然とした女性に対するときは、いかなる用意周到さをもって訊問(じんもん)がなさるべきであるかを知っていた。こういう態度で検事なり警察官の前に(すわ)っている女性は、初めからしまいまで一つの間違いもなく事実を物語るか、でなければそれと正反対に徹頭徹尾(うそ)をつき通すものである。
「では、よかったらもう一度話を聞かせてもらいましょうか――順序を立ててね」
「まず初めにあなたの自分で経験したこと、それを述べて、それからあなたがこうだろうと思うところを言ってごらんなさい」
 いたって物馴(ものな)れた調子で、帯広検事がさよ子に言った。
 べつだん恐れた様子もなく、大場さよ子は話をはじめた。かの女が初めて簑川博士邸に家政婦として行ったときの話、初めて井上道夫にあった話、井上道夫と仲がだんだんよくなった話、これらをきわめて要領よく述べ立てた。
 井上との間の話などはさすがに、ちょっと言いにくそうではあったが、でも覚悟をしてきただけあって井上道夫自身などよりよほどはっきり、悪びれもせず物語ったのであった。しかし、博士夫人にそのことが知れて、しまいに(やしき)を追い払われたときの話になると、かなり興奮した調子で(しやべ)りだした。
「わたしあんな恐ろしい顔は初めて見ました。これまでだって奥さまがたびたびヒステリーをお起こしになるところを存じておりましたのですが、あの日、はっきり井上さんのことを()かれて、どういうのでしょうか、のぼせ上がっておしまいになったのでしょうね。どんなことがあったって、おまえと井上を一緒にはしないよ。もし一緒になるなら、井上もおまえも死ぬ覚悟でそうおなり――なんて、しまいにはおっしゃるんですもの。
 しかもそれが旦那(だんな)さまがお宅のときなんですから旦那さまもお困りになって、無理に奥さまを部屋にお連れになったようでした。わたしほんとに、あの奥さまに殺されるかと思いましたんですよ。出ていけとおっしゃられなくたって、とてもとてもいられるものではございません。いえ、旦那さまは少しもお怒りにならないのです。はっきり井上、井上という名を奥さまがおっしゃられても困った顔をなさいますばかりで、お怒りになる様子は少しもありませんでした。そう申してはなんですけれども、日那さまが少々おとなし過ぎるのです。まったく奥さまは()みつくような調子でわたしにおっしゃいました。あの目つきをいまでも忘れませんが、あれこそほんとの人殺しの目つき……」
 ここまで夢中で喋りつづけてきたが、さすがにこの言葉が穏やかでないと考えたか、さよ子はちょっと黙った。
「いえ、女の人が何かの理由(わけ)で人を殺すときにはあんな目つきになるのじゃないか、とさえわたしほんとに考えました。わたしだっていい気持ちはいたしませんので、旦那さまがいろいろ取り成してくださるのを失礼して、とうとうお邸をお(いとま)いたしましたのです」



最終更新日 2005年10月29日 17時36分39秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「14」2

「そこで三月十日の日にあなたがこの襟巻を手に入れるまでの話は?」
 帯広検事はこう言いながら、机の上に置いてあった茶色の襟巻を軽く(たた)いた。
「ただいまも警部さんに申し上げましたのですが、わたしはこの話はどなたにもいたさぬつもりでおりましたのです。ところが、井上さんが自殺をなさる。さいわい助かったと思えば今度は犯人として捕まってしまわれたので、もはやたまりませんからすっかり本当の話を申し上げてしまう決心をいたしましたのです。
 井上さんからも申し上げたことと存じますが、ちょうどあの日、母も兄も親戚(しんせき)の者と相談して井上さんとのことを許してくれましたのです。あの日は午前中だけ浦部さまの所からお暇を頂きました。そうして喜んで、すぐに井上さんにそのことを申しましたのです。井上さんは喜んでくれましたが、ご承知のとおりどちらかと申すとあの方はおとなしい方ですから、奥さんにはっきり言えるかどうか分かりません、それにお恥ずかしいことですけれど、わたしだって井上さんが何を言っていようと、あの奥さまの様子から見て、多少あの二人の間が変だとは思っておりました。ですからいくらかの疑いと嫉妬(しつと)も手伝って、井上さんにまた電話を掛け、今日のうちに奥さんに本当のことを言ってしまってください。そうしてあなたも以後、奥さんと絶交するようにしてください――と申しますと、では今日これから行く、と申します。ちょうどそれが十日の夕方でした。わたしはそのころは浦部さまの所におりまして、お邸から電話を掛けたのです。
 ところで、どうも安心ができませんので、あなたがはっきり言えないならわたしも行きますと申しますと、井上さんは、それには及ばない、ぼく一人で行く。いずれあとで結果は知らせる、とこう申して、電話を切ってしまいました。
 それでわたしも一時安心いたしまして、浦部さまのお邸に働いておりましたのですが、だんだんと心配になってまいりました。ちょうど七時過ぎだと思います。お邸でラジオが聞こえはじめました。その時わたしははっといたしましたのでした。
 あの日午後、奥の方がたがお読み捨てになりました新聞を(そろ)えておりましたとき、なにけなくふと見ますと、簑川の旦那さまのお写真が出ておりました。見ると、今夜放送をなさるということが出ておりました。わたしがラジオが鳴り出したとき、すぐ思い浮かべたのはこのことでございます。
 今夜は簑川博士は放送局に行ってらっしゃる。してみると留守は奥さま一人だ。そこへ井上さんが一人で行ったらどうなるだろう。いえ、嫉妬からばかり心配したわけではありません。せっかく大切な用件で行ってもあの方のことですから、またなんとか奥さんに説き伏せられてしまわぬものでもない。iiそれに二人だけのところに行ってみれば、二人の様子もはっきりする。こう考えますと、もう一刻も居ても立ってもおられません。
 それで夕方のお食事もいただきもせず、その時間にと思いましてお風呂(ふろ)に行くと申して飛び出しました。タクシーを(つか)まえて、簑川博士のお邸から半町ほど手前で降り、そこからそっとまいったのでございました」
「ちょっと、何時ごろかだいたい(おぼ)えていますか。分からないでしょうか」
 帯広検事が口を入れた。
「さあ、はっきり憶えませんのですけれど」
「さっきね、あなたはラジオを聞いたと言っていましたね。そのラジオはなんですか、博士の講演でしたか」
「はい、なにぶん広いお邸なので、遠くで聞きましたのでよく憶えておりませんが――わたしが新聞のことを思い出したのはラジオが鳴りはじめたからで、べつだん博士のお声を聞いたからではございませんでしたが――そうそう、思い出しました。わたしがいろいろ考えて、とうとう決心してお風呂に行くと言ってお邸を出ましたときは、確かに博士のお声がしておりました。それは博士邸の手前半町ほど来て車から降りましたとき、そばのお菓子屋さんでラジオをやっていましたが、確かにそれは博士のお声でした」
「ふん、してみるとあなたが博士邸近くまで行ったとき、午後七時二十五分以後だったということになる」
 大場は不思議そうに帯広検事を見た。
「いや、よろしいのです。お続けなさい」
「そこでお邸にまいりましたが、わたくしはしばらく外に立っておりました。悪いことでしたけれども、外から様子を聞いていたのです。すると奥さまのお部屋からラジオが聞こえておりまして、電気が()いているのです」
「ラジオ?」
 と帯広検事。
「はい、ラジオでちょうど簑川の旦那さまのご講演でございます。しかし人の声はまるで聞こえません。まことにお恥ずかしいわけですが、わたしはラジオの響きを妙に悪く取ってしまったのでございます。つまり二人が話しているのだけれど、だれにも聞こえぬように物語っている。しかも、ラジオの音で話し声を消しているのだ、とこう思い込んでしまったのでございます。それで我慢ができず裏口に回りまして、卑怯(ひきよう)なことですが勝手を知っておりますので台所から上がってまいりました。ご承知のとおり裏口から奥さまのお部屋まで行くには、旦那さまのお部屋を通らねばなりません。その前までまいりますと電気が点いていて、戸が半分ほど開いております。なにげなくのぞきますと、そこにだれか人が倒れております。驚いて戸を開けて中に入ってみますと、机のほうに足を向けて奥さまが倒れておいでになるではありませんか。慌てて駆け寄ってみますと、もう解けて緩んではおりましたが、そこに置いてあります茶色の襟巻が奥さまの首に巻つけてあり、奥さまはこれを取ろうともがいたのか両手を上にあげて握ったまま苦しそうな顔をして死んでいられるのです。わたしは咄嗟(とつさ)の間に、人殺しだ、だれかに殺されたんだ! と思いました。手足がぶるぶる震えます。慌てて声を上げてだれかを一度呼んだように思いますがだれもまいりません。しかしすぐに、これはうっかり人は呼べぬと思いました。だれも見ていないのですもの、わたしが殺したと思われたらどうしましょう。実際わたしは、もし奥さまとまともに会うようなことがあれば相当争わねばならず、井上さんのためなら、あまりひどいことを言われれば本当に奥さまを殺しかねないくらいな決心で入っていったのですから、なおさら自分は危ないわけです。これは黙って逃げ出したほうが安全だと思い、慌てて入口までまいりましたとき、ふと、いったいだれがこんなひどいことをしたのかしら、と考えました。そう考えると、わたしは急に家じゅうがくるくると目の前で回りだしたように感じました。そうだ、井上さんがいままで来ていたはずだ、奥さまといままで話していたのはあの人以外にはない――ではやっぱり――こう思ったとき、わたしはそこに倒れそうになりました。いえ、ほんとに倒れたかもしれません。気がついたときは、わたしは夢中で首に巻きつけてあった襟巻を握り締めておりました。これは残しておいてはいけない。井上さんのためにならない、どうしても隠さねば。こう思ってそれを懐に入れ、夢中で台所から下駄(げた)を突っかけて外に出たのでした。わたしはそれからすぐにも焼き捨ててしまおうかと考えまして、機会を見ておりましたのですが機会がなく、一昨日(おととい)も昨日もこれを自分の荷物の中に入れておきましたのです」
「で、いまになってそれを持ち出してきた理由は?」
「はい、いろいろ自分も考えていたのでございますが、今日、警部さんから見せていただいた井上さんの遺書によりますと、井上さんは自分でも殺したと言っておりますからいまさらこれを隠しても仕方なく、また大切な証拠を隠すのは法律上罪になると聞きましたので、上がったわけでございます。ただわたしは、この襟巻が井上さんのかどうかは存じませんのです。この襟巻の持主が確かにあの人殺しの犯人に違いないと存じます」
 大場さよ子はこう言って、じっと帯広検事を見詰めた。その目の中には何か自分の言葉が相手に与えた影響を探っている様子がはっきりと分かった。
「ではきみは、この襟巻の持主を知らないんだね」
「はい」



最終更新日 2005年10月29日 20時48分15秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「15」1

「そうするとこういうことになるね。もしこの襟巻が井上のものだとすると、きみは今日かれのために非常に不利益なものを持ち込んだというわけになるね」
「はい、井上さんが自白しているいま、致し方がないことと存じます」
 さよ子はきっぱりと答えた。
 なおいろいろと枝葉にわたって検事と警部から質問が繰り返されたが、時間も(おそ)しだいたいの要領も得たというのでまず大場さよ子は帰されることになり、軽く一礼してかの女は室を出ていった。
 あとには帯広検事・相良警部および藤枝真太郎が残された。
 給仕が新しく淹れていった茶に口を潤しながら、まず検事が口を切った。
「藤枝くん、きみの女性心理の研究も怪しいもんだぜ。お聞きのとおりだ。大場さよ子は場合によれば恋人にひどく不利になる証拠を持ち込んできたのだよ」
「じゃきみはいまのあの女の言ったことを信用しているのか。……馬鹿(ばか)言っちゃいけない。あの女はこの襟巻が井上のでないことを知ってるからこそ持ち出してきたんじゃないか。つまり、暗に犯人は黒沢玄吉だと主張していることになるんだ」
「だって……」
「だってもなにもないさ。当今は電話という重宝なものがあるからね。昨日の夜にでも井上の所へ電話を掛けて()くことはできたはずだ。むろん、邸から掛けるのだから詳しいことは訊けない。しかし茶色の襟巻を平生しているかどうかぐらいのことを訊くのはなんでもないわけだ。あの女は今日の昼まではあの襟巻を井上のものだと信じていたらしい。ぼくがここでちょっとそれに触れたとき、ひどく驚いた表情をした。つまり、井上のためにせっかく隠してやったものをぼくがちゃんと知っていたからさ。そこで慌てて昨夜井上と電話で話したのだ。そして井上のものでないと知ると、あいつ利口な女だよ、ここでの周囲の事情からすぐ、ああこれは黒沢のものだったのだな。やっぱり、では黒沢だったのだ、と考えたんだよ。ねえ相良さん、ぼくは茶色の襟巻のことを聞く前にたしか黒沢のことを聞きましたね」
「そう、そうでした」
「そこへもってきて、一方井上の遺書が出て自白してる。さよ子たるもの大いに慌てざるを得ないわけさ。見たまえ、いまに犯人は黒沢だと積極的に言い出すぜ」
「ふん……そうかもしれん」
 帯広検事はあえて争わずに何か考えていたが、やがてまた(しやべ)りだした。
「きみはさっき、夫人の部屋でラジオが鳴っていたという供述を聞いたろう」
「うん、聞いた」
「あれはむろんほんとだろうと思う。あんなことをさよ子が(うそ)を言う必要はないのだから。つまり、夫人がラジオを聴いていたということになるね」
「そこだよ、面白いのは」
「言い換えれば、他人から見るとあの時分まで夫人が生きていたと思われるようになっている。うん、して見ると(やつ)、なかなかの食わせ者だぜ」
「だれが!」
「犯人がさ」
 検事の目が妙に光った。
「じゃなにかい、きみには犯人の目星がついてるのかい」
「さあ・まるでつかんこともないよ。いままでいろいろに考えていたことが、だいぶ分かってきた。問題をこう置いてみよう。夫人が午後一時に死んだか午後七時半に死んだか、まずこの点だが、これによってたいへん得をする人と損をする人とがあるのだ。午後七時半に死んだとすればだれが得をするかね」
 藤枝も警部も黙っている。
「午後一時に殺されたということが決定されれば、井上道夫と大場さよ子はぜんぜん無罪だ。なぜならば、かれらには立派なアリバイが立っている。これに反して博士は家にいたし、黒沢は三越(みつこし)に買物に行ってたというのだが会った人はなく、完全なアリバイは立たないのだ。
 ところが、午後七時半に殺されたとなると利益があるのは博士一人だ。かれは確かに放送局にいた。ほかの三人はいずれも偶然に博士邸に行っている。さらに、午後七時半に夫人が死ぬことによって、博士は巨万の富をかち得るのだ。少なくも博士はそう信じていたのだ。われわれがなまじ法律家だから、いままでこの点がはっきりぴんとしなかったのだよ。われわれはわが国の相続法がいかにがっちり組み立てられているかをよく知っている。たとえば、大阪の母が死んだからってすぐその財産が博士の夫人とその妹に行くとは簡単に考えない。家督相続が起こるのか遺産相続が起こるのかだいいち考えなくてはならんからね。しかしそれはわれわれ法律専門家の言うことで、また法律家の考え方なのだ。藤枝くん、きみはいま民間にいるからよく知っているだろうけれども、ぼくら法律家が素人に訊かれる法律問題はたいてい刑法か親族相続に関する法律だ。これはいかに一般にこの法律の知識が行き渡っていないかということを証明する。……ここに法律を少しも知らぬ学者があった。かれの妻の母は四十万の財産家だ。その母が死ねば少なくもその金は妻とその妹が半分で分けると信ずる。またかれが法律家に訊いたとしよう。ご承知のとおり相続法の事件は詳しいことを訊かなければ訊かれた法律家はそうでも簡単に答えるよりほかあるまい。また妻を殺して得をしようとする人間が、そう詳しく法律家に問題を訊くわけはないからね。そこでかれは次に、いったん妻に帰属した財産は妻が死ねばまた自分に来ると考える。まして自分には子はないのだからそう思う。ところが、妻が母より先に死んでは自分に一文の利益もない。みな妹のほうに金が行ってしまうからね。ま、このくらいの法律知識がある人としよう。まず母が死に、その財産が妻に行き、しかるのち妻が死ねば自分の利益があるとこう考えるのだ。そこで妻の死んだ時間と母の死んだ時間が大問題になるわけさ」
「ではきみは、やっぱり博士を疑うのかい」
「そうさ、そうよりほか思いようがないじゃないか。もっとも夫人の死によって得をする人は博士以外では夫人の妹、したがってあの仲井という男だが、この二人は凶行当日大阪にいたというから問題にならない」
「だけれどちょっと妙な点もあるよ。大阪の母が死んだのはあの日の午後三時ごろだぜ。午後一時にかれが妻を殺しても、母が午後三時に注文どおりに死ぬかどうかは分からんじゃないか」
「藤枝くん、きみにも似合わないね。ぼくは博士が直接利得のために妻を殺したと見るのではないよ。嫉妬(しつと)さ、焼餅(やきもち)さ。あの男は妻を殴ったこともないというが、そういう男がかえって妻を嫉妬から殺すことは珍しくない。井上かだれかのことから十日の午後一時ごろ夫婦の間に争いが起こったのだ。博士がとうとう妻を殺した。そして、どうしようかと思ってそのまましばらく考えていたんだ。ところへ大阪から四時ごろ、電報が来た。四時ごろ博士がまた大阪に電話を掛けている。ここで母が確かに死んだことを知ったわけだ。ここにおいて、博士は嫉妬からの殺人を財産上に有利に展開しようとしたのだ[#入力者注 「嫉妬」以降傍点]。かれ、案外の曲者(くせもの)だよ。惜しいことをした。もう少し生かしておいて殺すのだった、と思ったに違いない。そこで、どうしても妻が午後七時か八時まで生きていたことにしようとする。さいわい七時半から八時まで自分は放送局にいてアリバイが立つ。この時を利用しようというので、わざとラジオを()けっ放しにしたまま出かける。いうまでもなく夫人がまだ生きていることを世間に信じさせるためさ。来客があったように茶など出してあるのはむろん博士のトリックだよ。
 そうして、自分はバーの女でもなんでも、いい加減な女に頼んで放送局へ(うち)からと言って電話を掛けさせたのだ。そうしてあくまでも妻が午後三時以後まで生きていたということを主張するのだ。……さすがの先生も、死体が硬直する時聞だけは知らなかったとみえる。……ぼくは初めから博士を疑っていた。いまでも疑っている。ただ手を下さないのはかれが逃走しないことが確実なのと、証拠湮滅(いんめつ)の恐れがないので充分証拠を固めてからまあじわじわと責め立てて自白させようってわけなんだよ」
 帯広検事は初めて自己の意見を吐いて、どうだというように一座を見回した。



最終更新日 2005年10月30日 00時56分53秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「15」2

「ふん、きみの意見は一応正しいと思う。ぼくだってむろん博士を怪しまなかったわけじゃない。しかし、博士犯人説にはちょっとおかしなところがあるよ。第一に、きみのセオリーによると、博士は夫人を殺してから放送局の迎えが来るまで死体と一緒にいたことになるね。それはよろしい。けれどそれからあとだ。博士は表の(かぎ)も裏の鍵もかけずに出ていったわけかい。自分の殺した死体をそこに()っておいたまま、なんぴとでも自由にその死体のある家の中へ入れるようにしておいたというわけかい。……偶然人が来るとすれば、せっかくのラジオのトリックもなんにもならなくなるわけだな」
「では訊くが、戸を開けっ放しで出たという証拠はどこにあるのだ」
「だって黒沢も井上も大場も、空手で飛び込んでいるぜ.きみはこの三人がみな合鍵を持っていったとまさか言うわけじゃあるまいね」
「あははははは」
 検事が突然笑った。
「きみはこの三人の供述を信ずるのかい。嘘だよ。一人だって中に入ってやしないんだよ。井上の指紋なんかあの日についたとは限らんじゃないか」
「でも、死体の下にあったあの井上の手紙は?」
「午後一時ごろあれを発見して博士と夫人との争いになり、博士が夫人を殺したとすりゃ文句はないじゃないか」
「では、井上の自白はともかくとして、黒沢はどうして午後七時過ぎに夫人に会ったと言っているのだろう。現にかれは夫人から五百円受け取ったと言ってるぜ」
「じゃその受取は」
「むろん書いたということだ、書いて渡したということだ」
「ところが、その受取証が夫人の死体には見当たらないじゃないか。それ見たまえ、それが何より黒沢が嘘をついている証拠だよ」
「なるほど、そう考えればきみの考え方もなかなかいい」
 藤枝は感心したように(つぶや)いた。
「しかしね帯広くん、じゃなぜ黒沢があんな嘘を言ってるのだろう」
「その点さ、この事件がこじれているのは。なぜかれがあんなくだらぬ嘘を言っているのかということと、それに大場があの襟巻を本当はどこから持ってきたかということを明らかにすれば、事件はもっと早く解けるのだ」
「ではきみは博士を引っ張るかい」
「うん、そのつもりだ。しかし聞くところによると、流行性感冒に(かか)って寝ている。大学の石田(いしだ)博士が診断して診断書が来ている。石田博士はどんなことがあったって嘘を書く人じゃなし、それにどっちかといえば、大学の人だから例の件で簑川博士には反感を持っているほうだから診断書は本当だろう。が、面会していいということだから、あしたの朝でも臨床訊問(じんもん)をやってくるつもりだ」
 藤枝はいままで黙って聞いていた相良警部のほうを見たが、これは検事の説に賛成せず反対もしないでただ無表情に黙々としている。
 何か心に期すところがあるらしく、突然藤枝が立ち上がりながら言った。
「じゃぼくは今日は帰ることにする。しかしきみの意見によっても井上は無罪なわけだから、ぜひ明朝釈放するようにしてくれたまえ。いや保護の点はぼくが誓って引き受ける。もつともぼくだってかれがあんな自白をしたまま引き取るのはいやだから、きみ立ち会いのうえで真実を自白させようと思うよ。そのうえで自分のほうに引き取りたいが……」
「ちょつと」
 相良警部が急に口を出した。
「最前の検事どののお話はごもっともではありますが、わたしにはどうも黒沢・井上・大場の三人が怪しいように思えるのです。なるほど推定時間を午後一時にすれば井上・大場は無罪と思いますが、なにぶんその考えがどうもわたしにはぴんと来ませんのでね。まあ藤枝さんのことだからいったん井上を帰すもいいでしょうが、わたしは決して目を離しませんよ」
「だってきみ、死体の有様、解剖の結果も死後八時間とあったじゃないか」
 と検事。
「そりゃそうですが」
「相良さん、あなたもそこに疑いを持ちますか。そうです、その点ですよ。ぼくらはあまり死後硬直に重きを置き過ぎたのではないですかね。……じゃ今日は失敬しますよ」
 こう言いながら、藤枝は戸の外に出た。
「あ、待ちたまえ、途中まで一緒に行こう」
 帯広検事が後を追いかけてきた。
 やがてタクシーに乗った二人は、こんな会話をしていた。
「帯広くん、ぼくらはこういう問題にぶつかってるんだぜ。一方に一つの死体があり、それが現代の科学で証明されたところによると推定死後八時間ということになっている。一方それに矛盾して、午後七時過ぎまで夫人が生きていたという人間がいる。これをどう解決するかというんだ」
「簡単さ。そんなことを言っている人間の言うことを信用しない。われわれはともかく現代の自然科学を疑うわけにはいかん。超自然的現象を信ずるわけにはいかんからな」
「けれどわれわれは、ぼくらの認識を疑うことはできるよ。たとえばここに、太陽が西から出たという証言をする人間が三人出たらきみはどう考えるね」
「分かり切ってるじゃないか。その証言を信じないさ」
「信じない、というのにふたとおりある。かれらが嘘を言っていると解釈するのも一つ、しかしかれらが太陽だと信じたのが太陽でなかったと考えることもできる」
「そりゃそうさ。――じゃきみは黒沢が会ったのも、博士が夜まで喋ったのも実は夫人ではないというのかい」
「それも一つの考え方さ。しかしもう一つの考え方がありはしないかな。夫人の死後硬直ね、あれが真実の、あるいは自然の死後硬直ではなかった。実はわれわれの見誤りだったと思うのも一つの考え方だよ」
「われわれすべての人間が、しかも解剖をした医者までがかい」
「そうだ。本当の死後硬直とまったく同じ状態が人工的にできたのではなかったか。というのさ――おやもう家の近くだ、じゃぼくは失敬するぜ。いずれ明朝!」
 藤枝は慌ててそこで車を止めさせて降りてしまった。
 十四日の朝が来た。藤枝は朝七時ごろ突然の電話で起こされた。それは帯広検事からであった。受話器を通してやや興奮した検事の声。
「あ、藤枝くんかい。簑川博士の家でまた殺人事件が起こったんだよ」
「え? また殺された? だれが?」
「いや殺されないんだ。未遂なんだがね。被害者は仲井長太郎、ほらあの博士夫人の妹の連れ合い。それにその奥さんだ」
「奥さん? 仲井のか」
「うん、仲井早苗(さなえ)というんだ。昨日上京して仲井と一緒に博士の(やしき)に泊まっていたんだ。詳しいことは行ってみないと分からないが、今朝、博士邸に十一日以来きている派出婦が、仲井夫婦の寝ている二階の日本間に行ってみると、仲井が床から半分出たまま倒れている。夫人は床の中で昏睡(こんすい)状態に陥ってるというわけだ。医者を呼んで二人とも意識を回復したというのだが、仲井は夜半にだれかに首を絞められたまま気を失ったと言っている。そのうえ二人とも毒ガスの中毒を起こしているそうだ。よく分からんが、医者の報告では青酸ガスを吸ったときの状態に似ていると言っている。ぼくはこれからすぐ行くが、きみもよかったら行かないか」
「よし、すぐ行く」
 藤枝は電話を切った。



最終更新日 2005年10月30日 10時01分14秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「16」1

 藤枝真太郎が簑川博士邸の玄関を入ろうとすると、ちょうど帯広検事が自動車でいま着いたところだった。
「昨日は失礼。今朝はきみに井上の釈放方を願いに行こうと思っていたんだが、こちらの事件で驚いてやって来たよ」
 藤枝はこう言いながら検事のあとからついていった。
 博士は発熱で奥の部屋で臥床(がしよう)しているというので、二人はそのまま事件の起こったという二階の日本座敷へ案内された。
 そこには、寝床が昨夜泊まったまま二つ敷かれてその一つに仲井長太郎が寝ており、他の一つにはその妻で昨日上京してきた早苗という婦人が寝ている。(そば)に警視庁の岩下医師が付き添って様子を見ているが、早苗夫人のほうはまだ昏睡(こんすい)状態からまったく覚め切らぬらしい。
 相良警部が一応仲井長太郎から事情を()き取ったあとらしく、仲井の枕辺(まくらべ)(すわ)っている。仲井はもう元気を回復したらしく、検事と藤枝を見て軽く挨拶(あいさリ)をした。
 検事と仲井との間にこんな話が交わされはじめた。
「仲井さん、もう(しやべ)ってよいのですか。気分はどうです」
「ありがとうございます。お陰さまで――どうもひどい目に遭ってしまいました」
「そのひどい目に遭った話をしてごらんなさい」
「はあ、実は昨日ここにおります妻がやっと上京いたしたのです。なにぶん姉の事件で、すぐにも来なければならなかったのですが、ご承知のとおり母が亡くなってその後始末もできていなかったので遅れたわけです。昨日やっと着きまして、あちらのことなどいろいろ話し、さよう、ここに寝ましたのがたぶん午後十一時ごろだったかと思います。わたしも妻も床に就くとすぐに眠るたちなので、それからすぐ眠ってしまいました。するといつごろか存じませんが、夜中に急に息苦しいので目が覚めました。電気を消して寝ましたので、何者ですかまったく分かりませぬが、手か何かでわたしの首を絞めている者があるのです。わたしは驚いて声を立てようといたしましたが、相手が強くて声を立てることもできず、そのまま気を失ってしまいました。今朝になりましてみなさんに介抱され初めて気がついたわけですけれども、なんだか頭が痛く吐き気がありまして、どうも苦しくてたまりません」
「よほどもがきましたか」
「はい、死力を出して争ったのですが、(かな)いませんでした」
 なに思ったか検事はここで話を打ち切って、いきなり警部に向かって、
「最初の発見者は? え? 派出婦? いますか? じゃ下でちょっと会いましょう」
 と言いながら、藤枝に目配せして下に降りた。そうして、夫人の部屋で派出婦佐藤(さとう)よし子を呼び入れたのである。
「ほんとに今日は驚いてしまいました。昨夜、七時ごろには起こしてくれと仲井の旦那(だんな)さまから言いつかっておりますので、ちょうどその時分上にまいりますと、(ふすま)が開け放しになっております。見ると仲井の旦那さまが床から半分身体(からだ)を出して倒れておいでになる。それで驚きましていろいろご介抱いたしましたが、お目覚めになりませんので奥さまをお起こしいたそうと思いそちらにまいりますと、奥さまも青い顔をして眠っていらっしゃり、いくらお起こししてもお目覚めになりませんです。わたし驚きまして下の旦那さまの所にまいりこのお話をいたしますと、すぐいつもかかりつけの杉島(すぎしま)さんというお医者さまを呼べと言われますのですぐ来ていただきました。杉島さんはすぐ来てくださいましたが、ご両人の様子を見て、こりゃガスの中毒だ、とおっしゃいました。でもやっと仲井の旦那さまのほうは意識を回復なさったのですが、恐ろしい話をなさいました。夜半にだれか来て首を絞めたとおっしゃるのです。それで杉島さんと旦那さまとご相談のうえで、とりあえず警察にお知らせしたようなわけでございます」
 次に来合わせている杉島医師が呼び入れられた。
「わたしが駆けつけましたときは、二人とも意識を失っていました。その症状がどうも何か有毒なガスを吸入したらしいのです。本庁の岩下さんともお話ししたのですが、まあこんな状態はハイドロ・シヤニックアシッドガス、すなわち青酸ガスを吸い込んだときに起こる状態です」
「あなたがおいでになったときは何か(にお)いがありましたか」
「いや、ところがわたしが来たときは少しも臭いはありませんでした。それでわたしは、青酸ガスだとは思いません。何かそれに似寄りのものと考えます。青酸ガスには特有の香りがありますから……」
「ではそのガスは、あの夫婦の部屋で発生したのでしょうか」
「さあ、わたしには分かりませんが、二人が共にああいう状態でいる以上、いま申した有毒の気体があの部屋の中に充満していたと考えていいかと思いますが」
「仲井の(のど)をご覧になりましたか。何か絞められた跡は?」
「はあ見ましたが、そんな跡はぜんぜんありません。あるいは仲井さん自身の錯覚ではないかと思います」
「いやありがとう。よく分かりました」
 杉島医師はこれで部屋を出た。
「藤枝くん。おかしな話じゃないか、だれがあんなガスをあの部屋に送ったろう。そうしてだれが仲井の首を絞めたんだろうね」
「ぼくはガス中毒の話を聞いていたから、さっき部屋の中に入ったとき一応は見回してみたけれども、変なところはなかったがね。もう一度ともかく上がってみようよ」
 二人はまた上に上がってきた。
 枕もとには小さな目覚まし時計が一個置かれ、そのすぐ側に机がある。その上には仲井のものらしい折鞄(おりかばん)があり、部屋の片隅には仲井とその妻のらしい旅行用トランクがあるばかり、部屋の中にはこれといって怪しむべきものも見当たらない。
「どのみちこの部屋は調べなけりゃならんよ。天井なども見なくちゃならんがね」
「そうだ。帯広くん、部屋ばかりじゃないよ、この辺にあるものも全部一応調べる必要があるだろう」
 なぜか藤枝が大きな声で言った。
「岩下くん、病人は大丈夫ですか」
「とりあえず注射をしておきます、もうすぐ回復すると思います。()っておいても大丈夫ですよ」
「では一応、みな下へ降りて相談しましょう」
 こう言って帯広検事が真っ先に立って下に降りた。藤枝も岩下医師も続いて降りてきた。しかしそのとき、故意か偶然か藤枝のポケットからハンカチが落ちたのである。



最終更新日 2005年10月31日 00時23分51秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「16」2

 一同はまた夫人の居間に集まった。
「藤枝くん、いよいよ放っておけないね。こんな事件が続いて起こっては、もう放っておくわけにはいかぬよ」
「じゃどうするんだ」
「どうって博士を訊問(じんもん)するのさ」
「どうもこうなっては、やはり博士を疑わないわけにはいきませんね」
 相良警部がはっきり言う。
「しかしきみ、仲井夫婦をどうかすれば博士が何か得をするかしら」
 と藤枝。
「だから昨日も言ったとおりだ。われわれ法律家の考え方で考えては駄目だよ。博士の頭の中にある法律知識で考えなくちゃ」
「そうかな」
「そうかなってきみ、相良くんが詳しく調べてあるが、昨夜この家にはだれも外から人が入った形跡はなかったのだぜ。夜半に仲井を襲い得る人間は、博士か派出婦か仲井の妻だけだよ。きみはそのうちでだれが怪しいと思うかね」
「仲井を襲い得るものは博士か派出婦か、かれの妻か――ねえ帯広くん、それだけかしら――おや、ぼくはハンカチを二階に忘れてきた。ちょっと取ってくるよ」
 藤枝はこう言って慌てて部屋を出ていったが、やがて間もなく戻ってきた。
「帯広くん、きみはさっきぼくらが二階に上がったとき、目覚まし時計があったことを知っているだろうね。このことはよく(おぼ)えておいてくれたまえ」
「うん、そんなことはどうでもいい。いま杉島氏に聞いたら、博士の病気は訊問には堪え得るそうだから、ぼくはこれからすぐ博士を調べてくる」
 検事は決然として博士の部屋へと入っていった。
「相良さん、黒沢はどうなりました」
「相変わらずです。昨日もまたいろいろ調べたのでしたが、同じことを繰り返すのみなのですね」
「あの茶色の襟巻はどうしました」
「まだ見せる間がなかったので、今朝本人を呼び出して刑事に調べさせてありますが、さっき電話で聞いてみると、確かにあの男のものだそうです、ここに忘れてきたと言っています。――自分で、突っ込まれないうちにここに忘れてきたというあたりは、考え方によればなかなかの曲者(くせもの)ですよ。実を言うとわたしはいまだにかれを怪しいと思っているのです。今回の事件は別に考えるほうが正しいのじゃないでしょうか。帯広検事は同一犯人と思っておられるようですがね」
「さあそれですよ。百合子夫人殺害の犯人と、今回の仲井夫婦殺害未遂の犯人がはたして同一人だかどうかは問題ですね。変な言い方だが、百合子夫人は殺される理由がある。黒沢にも大場にも、あるいはまた博士にもね。しかし、仲井夫婦を殺すことはちょっといまのところ動機が分からんです。――おや、博士がだいぶ興奮しているな、大きな声が聞こえる。帯広くんなかなかやってるね。どら、検事の訊問ぶりを一つ拝聴に行くかな」
 藤枝は相良警部を促して、博士の寝ている部屋へと入っていった。
 博士はこざっぱりしたベッドの中に横になっていたが、いま帯広検事に向かって盛んに弁じているところだった。
「いや、あなたそう興奮しないでもいいですよ。落ち着いて、ゆっくりお話しになったらいいです」
「いいえ、興奮せずにはいられんです。だいたいあなた方はこの簑川文蔵をなんだと思っているのです。初めからわたしを人殺しか何かだと思って、怪しんでいるんじゃないのですか。実に心外に堪えん。ーもうこうなっては名誉も何も言っておられん。自分が人殺しだと思われてはたまらないから、何もかも言ってしまいましょう。ねえ、あの犯人は女ですよ。大場さよ子というあの家政婦ですよ」
「大場さよ子? ではあなたはあの女を奥さんの殺害者と認めるのですか」
「そうです。まさにそのとおりです。しかし、あの日のわたしの態度などがだいぶ怪しまれているようですから、まずそれから詳しくあの日のことをお話ししましょう。
 まことにお恥ずかしい話ですが、わたしの妻の百合子というのはいたってわがままでそのうえどうも男と交際などして実に困るのです。わたしなどはずいぶん小言を言ったのですがなかなか聞きません。それでいろいろな男と交際をする有様なのです。いや単なる交際とは信じています。それ以上のことはなかったようです。ともかく親しい男がだいぶあるのですが、その中に一人とくに最近目立って付き合っている男がありました。こう申したらさぞお驚きなさるだろうが、それはいま藤枝さんの所にいる井上道夫という男なんですよ」
 博士はこう言って、ちょっと黙って藤枝の顔を見た。
「わたしの忠告なども少しも聞かず、妻はこの男と盛んに出歩くらしいのです。わたしも知ってはいましたが、あまりやかましくは言いませんでした。というのは、一つはわたしは安心していたことがあるのです。それはこの男は、家政婦だった大場さよ子という女と実は仲がよいらしかったのです。わたしはこの辺の事情もだいたい悟っていましたから、井上は必ず大場と一緒になる人間だから、妻がどんなに付き合っていても大したことはあるまいと思っておりました。
 ところが、あの事件の二、三日前にとんだことが起こりました。なんでも大場が妻に井上とのことをはっきり言い出したらしいのです。そうすると――これはまったく申すも恥ずかしい話ですけれど、妻が例のヒステリーを起こしまして、井上と大場を決して一緒にはさせん、一緒になるなら殺してしまうと(わめ)き立てましたので、わたしも閉口して妻をたしなめ、一方大場にもよく事情(わけ)を話していったんここを出ていってもらったのですけれど、大場さよ子は若くもあるし妻の性質もよく知らんのですから、あの時の妻の様子を見ては実際二人の間を邪魔されると信じたのも無理もありません。したがってそのために妻を殺したとしても、わたしは妻に充分責任があることを自分で感じています。いまさら大場さよ子を妻の(かたき)と責める気はしないのです。しかもこんな話は、すればするだけわが身の恥ですからできるならばだれにも言わずにおいておきたかったのです」
 博士はこう言って、しばらくまた黙り込んだ。
「しかしいまや黙ってはおられぬことになりました。――その後、妻は妻で大場と(にら)み合ってからいっそうヒステリカルになり、わたし、さよ子にきっと殺されるんだわ、などとつまらんことを口走っておりました。するとちょうど十日の日です、わたしは放送局に行くはずになっていたのですが、五時半ごろ早い夕食を()っていました。ところがなにかの拍子で妻が懐から百円札を五枚ほど落としたのです。五百円といえばそうとうに大金です。わたしは妻にさっそくその理由を(たず)ねましたが、妻はなぜそんな大金を持っているかはっきり説明ができないのです。
 それでわたしも、かの女と井上の間を少し真面目(まじめ)に疑ったのでした。さよ子と争ったのは一時のヒステリーにもせよ、こんな大金を持っているのはことによると井上にでもやる気じゃないのか――年甲斐(としがい)もなくかっとして思わず語気荒く妻を責めますと、いつも強気の妻がこの時は妙に弱々しく泣き出してしまいました。ちょうどその時、予期よりは早くベルがなったので、妻は泣き顔で出られぬのでわたしが玄関に出てみますと、放送局からの迎えが来ているのです。それでわたしは、だらしのないなりをしたまま放送局の運転手に会ったわけです。それからあとはたびたび申したとおりです。
 ところが、放送を終わって帰ってきてベルを押すと妻が出てきません。妙だと思って押すと戸が開きます。そのまま中に入ると妻の部屋からラジオの演芸放送が聞こえる。行ってみると妻はいないのです。それから書斎に入ると、驚いたことに妻が冷たくなって死んでいたという次第です。しかしこの時部屋の中に、いい(にお)いがしました。シクラメンの匂いなのです。これは大場さよ子がいつも好んでつけている香水なので、わたしはさてはと思いました。それでいろいろ調べてみますと、はたしてかの女の来たことが分かりました。台所の所で慌てて下駄(げた)を突っかけたとみえ、片足だけわたしの妻の下駄を履いていったらしく、片方は確かに見憶えのある大場の下駄が置いてありました。これはたいへん鼻緒が似ているのでちょっと間違えやすいものですが、確かに大場のです。わたしは右のような事情で、自分の家の不始末を現すようなものゆえ、どうか大場が犯人として捕まらなければいいと思っていました。うちの下駄箱を見てください。大場の置いていった下駄があるはずです。大場はわたしの留守にやって来て妻とひどく井上のことで争ったすえ、妻を殺したに違いありません。これでもうすっかり話してしまいました。何も隠すところはありません」
 博士はこう言って三人を見渡した。



最終更新日 2005年10月31日 01時00分40秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「17」1

 何もかも(あきら)めてすっかり打ち明けてしまったらしい博士の供述を、三人は何も言わずに聞いていた。博士が言い終わると相良警部はさっそく台所のほうに行って何かごとごとやっていたが、やがて三つばかり下駄(げた)を持ってきた。
「それです。その真ん中の下駄。それが大場のです」
「ではこれを持って、あとで大場に問い(ただ)してみましょうか」
 相良警部の問いに、検事は軽く(うなず)いた。
 検事と藤枝とはふたたび夫人の部屋に戻った。二人の医師はまた仲井夫婦の様子を見に行ったらしく、もうその部屋にはいなかった。
「帯広くん、博士のいまの供述によればやっぱり大場はあの夜ここに来ているね。おまけに下駄まで置いていったとすれば間違いはないよ。きみはやっぱり大場や黒沢がここに入ってきたことを信じないのかい」
「さあー」
「信じるとすれば、昨日も言ったとおり博士犯人説は少しおかしくなるよ。家を開けっ放しで死体を置いていったことになるからな」
 ちょうどこんな話をしているところへ、楢尾警部がやって来た。
「帯広検事どののお話もありましたので、藤枝さん、とくにあなたを信じて井上をいったんあなたにお引き渡しすることにしました。どうかあなた自身で、警察に行って引き取ってください。ちゃんと分かるようにしてきましたから」
「や、そりゃどうもありがとう。で、かれ、ほんとの自白をしましたか」
「実は、大場の話や黒沢の話をひととおり聞かせてみたのですが、その結果従来の自白を翻しはじめたのです」
「そりゃそうだろう。して何か変わったことでも」
「そうなんです。ちょっと面白いことがあるんですよ。井上の自白によると、こういうことになるんです。
 十日の夜、はっきり時間は(おぼ)えないが、七時半ごろ非常な決心で夫人を訪問した。非常な決心とはつまり大場とのことを告げて、夫人と絶交するつもりだったそうです。わたしの考えたように手紙をあらかじめ書いたけれども、気が()くのでそれをポケットに入れたまんま出かけたそうです。玄関でベルを押したが何の答えもない。留守かと思ったが念のために戸を押してみると開いた。ここでちょっと妙なのですが――もっともこれは井上自身でも錯覚かもしれぬと言っているのですが、そこに下駄が置いてあったように思うというんですがね」
「下駄? 男のですか女のですか」
「男のです。しかし井上自身もはっきり憶えぬと言っているし、この家では今日でも廊下から玄関の戸を開けに行くために庭下駄が置いてあるから、あるいはそれと間違ったかもしれん。そこで井上は、ご免くださいご免ください、と二、三度呼んだそうですが、だれも出てこないので靴を脱いで上がり込んだのです。右手の夫人の部屋をノックしたけれどもだれもいないらしい。ひょいと向こうを見ると奥の博士の部屋の戸が開けっ放しになっている。行ってみると、夫人が襟巻を首に固く巻かれて殺されているという有様です。慌てて(そば)に寄り、襟巻をゆるめて介抱しょうとして抱き上げ、いろいろに呼びかけたがいっこう役に立たない。――そのうち気がついてみると自分は大変な立場にいる。うっかりすると自分が疑われないかと考えついたのです。そう思うと一刻もそこにいられなくなって、慌ててまた玄関から逃げ出したというのです。ところが道の四、五町も行ったとき、ふと気がつくとポケットに入れたシースがない。さてはさっき夫人を介抱したとき取り落としたか、あれを残してきては大変というのでまた引き返した。慌てて玄関から入り込んだのです。ところがです、この点がちょっと面白いのですが、入るとだれもいないはずの夫人の部屋からラジオが聞こえている。しかもそれが博士の講演です。井上はそっと夫人の部屋を開けてみると、だれもおらずにラウドスピーカーから博士の声が聞こえている。かれはその時博士が、次に信長と南蛮寺の関係についてお話ししますーと言ったのを聞いたそうです。それからかれはまた死体の側に行った。するとはたして自分のシースが落ちており、名刺なんかが散らばっている。慌ててこれを拾ったわけです。しかしこの時死体が――」
「楢尾さん、二、三分前に見たときと死体の様子がまるで違っていたというんだろう」
「へえ? 藤枝さん、よく知っていますね」
「初めはむろん死体がどんな状態だったか憶えていない。井上は殺人死体なんかを見たのは初めてだから、はっきりは分からなかったでしょう。しかし、抱き起こして介抱してみたくらいだから、まだ死体にいくらかぬくもりがあったと思わなければならない。いくら慌てていたって、硬直して冷え切っている死体に抱きつけばだれだって介抱どころか震えて振り払うに決まっています。つまり二度目に入ったときに、かれはそういう死体にぶつかったのだ」
「いや藤枝さん実に驚いた。まったく井上が言うのはいまあなたがおっしゃるとおりですが――じゃあなたは前に井上から聞いたんですね」
「断じて! 断じてそんなことはありません。井上を自白させることは楢尾さん、あなたには(かな)いませんよ。井上は少しもそんな話をぼくにはしないのです」
「それにしてはあなたが知っているのは不思議だな」
「知っているのではない、考えたのです」
「まあそりゃいいが、で、楢尾くん、井上はそれからどうしたのだい」
 帯広検事はもどかしそうに警部を促した。



最終更新日 2005年10月31日 11時57分23秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「17」2

「井上は驚いて、ひょろひょろした。その時机の上に手を突いたというのです。で不思議に思いながらも、急いでシースをポケットに入れ名刺を拾った。死体の様子があまり気味が悪いのでそれを動かさなかったため、つまり先の手紙だけをその下に残してきたのだろう、とこういうわけです。かれが(うそ)の自白をしたのは、やっぱり大場さよ子がやって来て夫人を殺したと信じていたからです。だいたいこんな供述ですが、いまも申すとおりこの話の中に面白い点が二つある。それは第一は、ラジオが初めかれが入ったときに鳴っていなかったのにあとで鳴っていた。これはわたしが放送局について調べたところですが、あの夜博士が、”次に信長と南蛮寺の関係についてお話しします”と言ってその話に移ったのは博士の講演開始後約十分、すなわち七時三十五分ごろに当たるそうです。ですから井上が初めに入ったときにはすでにもうその講演は始まっていたはずである。それが聞こえなかったのですから、スイッチが消してあったとみるよりほかはない。ところで二、三分のあとにはこれが鳴っていた、とすると、だれがそのスイッチを開けたかという問題です。第二に、いま申した二、三分の間に死体が変化したのはなぜかという問題です」
 藤枝はこの時、きっぱりと言い放った。
「よし、犯人は必ずぼくが捕らえてみせる。しかし三日間の猶予をください。それから井上道夫はご好意に甘えてぼくが連れていきます。かれについてはぼくは全責任を負いますから、かりに二日ばかりかれの姿が見えなくなっても決して心配しないでください。こういううちにも心が急く。じゃすぐこれから警察に行ってきます」
 呆気(あつけ)に取られているみなを残して、藤枝は慌てて玄関へと出ていった。しかし玄関を出ると、かれはすぐに門のほうへは行かず建物について右手に回ったが、何かそこで拾ったとみえ、やがてハンカチに何か包んで小脇(こわき)に抱えながらみなに挨拶(あいさつ)して出ていった。
「いよいよ藤枝くんのお株が始まったよ。かれ、ああ言い出したら必ず犯人を捕らえるから恐るべきだよ。しかしいったいだれをかれは(ねら)っているのかね。聞いたって言う男じやなし、まあかれの言うとおり二、三口待つかね。――しかしこっちはああいう暢気(のんき)な身の上じゃないのだから、ああいう風にいかんよ。相良くん、きみは相変わらず黒沢に目をつけているようだから、どうかその方針で充分やってくれたまえ。大場さよ子だってむろんきみの考えどおりにちょいちょい調べてみてくれたまえ。楢尾くんは井上を藤枝くんに引き渡してちょっと力抜けの形だが、なお充分きみの所信に向かって進んでほしいね。ぼくは実は昨夜、古水予審判事と話したんだが、古水判事は初めから博士をやはり疑っているようだ。博士といえばどうも身体(からだ)の具合が悪いらしいのだが、早く治ってくれんとどうにも手のつけようがないので困るよ」
 帯広検事は二人の警部にしきりと話をしていた。
 この時、岩下・杉島両医師がノックをしながら入ってきた。
「二階の二人はもう大丈夫です。仲井早苗のほうももうはっきりしました。しかし、(のど)の渇きを盛んに訴えており、また吐き気のあることを訴えていますが、あのままですぐ元気になりましょう。むろんゆうべのことは何も知らんと言っております。――それから簑川博士のほうですが、いま杉島くんと立ち会いでもう一度診断したのですが、だいぶ興奮しているのでまた熱が上がったようです。できるならば今明日はこのまま静養させたほうがよいと思いますが……」
「岩下くん、きみがそういうご意見ならむろんそれに従いましょう。では今日はこれで一応引き揚げることにしますが、ここの警戒は管轄署の楢尾くんに手配をお願いします。なお念のために承っておきますが、二階の夫婦はいつごろ起きられるようになりますかな」
「さあ今日一日はなんといっても静養する必要があるでしょうな。本人の希望もありますので、杉島くんに頼んで博士と両方へ看護婦をつけることにしておきました」
 これで帯広検事は博士邸を辞して、ただちに検事局に出かけたのである。
 検事局に行くとかれは机の上に一葉の名刺の置いてあるのを見いだした。
(大場さよ子か、やっぱり黒沢を訴えて出てきたのだな)
 こう思ってかれは大場を呼び出した。はたして大場さよ子は、襟巻の所有者である黒沢玄吉が確かに怪しいということを縷(るる)として説明したのであった。
 しかし、事実の点については前回に調べられたときといっこう違った点もなく、したがって検事のほうからいえばなんら得るところはなかったわけである。
 その日退庁時刻過ぎてから、帯広検事は古水判事と宿直室でまた将棋を戦わしていた。
「十日の夜の殺人事件はいったいどうしたんだい」
 占水判事が歩を突きながら言い出した。
「うん、ちょっと迷宮入りの形だね。どうも分からんよ。しかし例の藤枝一流の断定が下りたぜ。二、三日待ってくれ、必ず犯人を捕らえてみせるって言うんだ。――おや、ここはちょっと待ってくれ。ーこう銀を繰り上げよう」
「藤枝くんはだれを狙ってるんだい」
「それが先生一流の得意時代に入ってきたらしいのでね。なかなか言わないんだ」
「しかし恐ろしいそ、かれ、ああ言い出したら必ず引っ張るからな」
 ちょうど同じころ、藤枝はひとり自分の部屋に、部屋じゅういっぱい煙にしてやたらに『エアーシップ』を吹かしながら何か黙想に(ふけ)っていた。手焙(てあぶ)りの中に沢山の煙草(たばこ)の吸殻があるが、机の上に別に二、三本の煙草の吸殻が置いてある。
 机の上には一冊の旅行案内が置いてあり、中にところどころ赤いアンダーラインが引いてあるのが目につく。
「黒沢が置いていったという五百円の受取だな。さしずめ分からないのはあれはいったいどこへ行ってしまったのかしら。これが問題だな。あとは井上が調べてくるから分かるだろうが。調べるといえば、さっき黒田理学士に頼んだ件はどうなったかしら。もうなんとか返事がありそうなものだが」
 こう独り言を言っているところへ、電話のベルの音がして、やがて女中が、
「大学の黒田さまから……」
 と言って取り次いできた。
 急いで受話器を取った藤枝の元気そうな声が聞こえる。
「さっきはどうも失礼。え? やっぱりガスの発生器ですか。はあ、はあ、なに、よく分からない? そうですか。自動的にね。時計の発条(ぜんまい)に引っかかってある時間が来ると自然にガスが出るようになっている? はあ、ハイドロシヤニック? え、なんですってアシッド? え、医者もそんなことを言っていましたよ。しかしそれとは違う? 絶対に死なない? ひどく吸うと意識を失うが生命に危険はないのですか。ははあ、そうですか。――いやありがとう、お陰さまでたいへん助かりました。では失礼します」
 受話器をガチャリとかける音がした。


最終更新日 2005年10月31日 12時49分58秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「18」1

 その翌日の夜――三月十五日の夜、藤枝の家では主人と帯広検事がなにかしらしきりと話し込んでいる。
「じゃ帯広くん、博士訊問(じんもん)は今日はやらずか」
「うん、どうも病状が思わしくないので、医師からの注意もあったしするから、今日はやらなかった。警戒はさせてあるがね。あしたも休まなければならないかもしれない」
「黒沢.大場のほうはどうしたろう」
「あれはあれで警部がやっているよ。――ときにきみのほうはどうなったんだ。着々と進行しているかい」
「うん、まあね。いまのところ着々だ。しかしまだ充分とはいかない。明日一日待ってくれるといいんだが」
「犯人が逃走することはないか?」
「まず明日いっぱいだろう。ときに話は違うが、きみは探偵小説を読んだことはあるかい」
「いや、あまりないね。そりゃぼくだってシャーロック・ホームズの名くらいは知っているけれど」
「それを知ってりゃいいんだ。探偵小説の論理なんてものはきみも知っているとおり実際にはなかなか役には立たない。しかし、あれでなかなかいいことを教えてくれることもあるものだよ。たとえばだね、シャーロック・ホームズが煙草(たばこ)の灰を研究する話がある。ぼくもあれに倣ってちょっと研究してみたことがあるんだ」
「きみがか。煙草の灰をかい」
「ぼくのは煙草の灰でなくて吸殻なんだがね。これでなかなか面白いんだ。例を挙げるとまずこれだ。これは『朝日』の吸殻で、いまきみが吹かしたあとなんだが、吸口が完全でしかもわりによく()ってある。こういう風に喫う人はきみのように穏やかで頭がよい」
「おいおいおだてちゃいかんよ」
「まあ頭のところはじゃ分からんとしてだね、こういう風に喫う人はあまり煙草好きじゃないんだ。これに反してこっちを見たまえ。これはぼくの喫った『エアーシップ』の吸殻だ。こういう喫い方は神経質で非常に煙草好きで、そのうえそのために胃の弱い(やつ)の喫い方なんだ」
「吸口で性質が分かるかね」
「性質の点はまあともかくとして、ただ動かし難い点が一つある。それは十人十色で、各人必ず喫い方に特色があるということなんだ。見たまえ、ぼくのはどれを見てもすぐ分かるだろう。これなにも意識してやっていることではないが、一つは煙草の()み方と、それから歯並びでの具合によってできる特色なのだ。ところでここにきみに一つ見せたいものがある。これ――これはご覧のとおり『敷島』の吸殻だ。これをどこから持ってきたと思う? 十日の夜博士邸の小さい応接室ね、あそこに来客のあとがあった。あそこの煙草盆の中にあった吸殻なのだ。よほど面白い喫い方だから注意してみたまえ。ここにひどく(くぼ)んだ跡がある。これは噛み締めたうえに、ひどく犬歯に特色があると見えて不思議な跡がついている。この事実をきみはとくに(おぽ)えていてくれたまえ。あとで思い当たることがあろうから。――そうだ明後日、十七日には必ず犯人を捕らえてきみに渡すから安心したまえ」
「その言葉をきみはいままでちゃんと実行してきたから、ぼくは今度もあらかじめ礼を言っておく。じゃそれまできみの手並みを拝見していることにしよう。いや長くお邪魔をした。失礼」
 二人はかくて別れた。
 十六日は無事に明け無事に暮れた。
 いよいよ十七日の朝が来た。
 八時ごろ、帯広検事が出ようとしていたところへ藤枝から電話。
「約束の朝だ。今日こそ犯人を引き渡そう。しかしその前に話がある。ぼくの所じゃちょっと具合が悪いんだが、簑川博士の(やしき)に行ってみようじわ、ないか。あそこで万事お話ししよう。きみも今日あたり博士の訊問をやるんだろうから」
 かねて藤枝の腕前を知っている帯広検事は異議なく承諾し、相良・楢尾警部には行く先を告げてさっそく博士邸へ駆けつけた。
 玄関に出てきたのは仲井長太郎だった。
「帯広検事どのですか、どうぞ。簑川もだいぶよろしいようでございます。わたしどもももうすっかりよくなりまして」
 検事が上がろうとしているところへ、藤枝が自動車で駆けつけた。
「や、仲井さんももうすっかりいいんですか」
「おや藤枝さんも。お陰さまでもうすっかりよろしいのでございます。どうかお二人ともこちらへ」
 仲井は二人を夫人の部屋へ通して、紅茶などを運んできた。
「仲井さん、もう本当にいいんですか」
 藤枝が()く。
「はい、お陰さまで」
「あの、奥さんは?」
「ただいま上で髪を結っております。もうほどなくご挨拶(あいさつ)にまいるはずでございます。わたしもこんな事件で突然やってまいりまして、し残してきた用もあり、妻の母の死後もまだ始末がどうなっているか分からず困っておりますので、ひとまず今夜大阪に戻ろうと思っております」
「え? 今夜帰るんですか」
「はあ、犯人が捕まらないで帰るのも気にかかりますけれども、どうも致し方がございません。どうか少しも早く犯人を捕らえて、姉の(かたき)を討っていただきたいものと思っております。それにわたしもあんなひどい目に遭ったのですから、どうか……」
 こう言いながら、ちょうど『エアーシップ』を出して喫おうとしている藤枝の前にマッチを擦って差し出し、自分も(そば)の『敷島』を一本取り上げた。
「いやどうもありがとう。――仲井さん、犯人は捕まりますよ。あなたが帰る前に!」
「えっ、犯人が?」
「そうです。簑川百合子殺害の犯人も、あなたをひどい目に遭わせた犯人も、あなたが東京を去る前に必ず捕まります」
「ではあなたは、もう犯人をお捕まえになりましたので……」
「いや、まだです。しかしあなたが帰るまでには必ず捕まえてみせますよ」
「ではいま追いかけてでもおられるのですか」
「いや、まだなにもしてはおりません。けれど捕まえられることは確実です」
 帯広検事がこの時口を挟んだ。
「仲井さん、藤枝くんの言うことは信用なさって大丈夫ですよ。必ずああ言えば捕らえる男です」
「それでは一刻も早く捕らえていただきたい。わたしも帰るまでにせめてひと目そいつの顔を見たいものですから。……しかしはたして捕まりますかしら……」
「仲井さん、あなたがその男の顔を見られるかどうかは疑問ですが、ともかく必ず捕らえてみせます。そうです。いまから五分以内に!」
「五分?」
 これは帯広検事と仲井長太郎が同時に発した驚きの声だった。



最終更新日 2005年10月31日 15時02分49秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「18」2

「それできみ、犯人はどこにいるんだ?」
 これは帯広検事の声である。
「この家の中。簑川博士の邸の中にいまいるよ」
 藤枝は落ち着いてこう答えた。
 帯広検事はちょっと驚いたようだったが、すぐ博士の寝ている部屋のほうに目をやった。そうして何か心の中で(うなず)いているもののようだった。仲井は初めしばらくぼんやりしているようだったが、やがてこれも博士の部屋のほうに目をやると急に口を切った。
「ああ、気の毒な兄です。わたしは絶対にそんなことはないと信じているので、先日もあんなに申し上げたつもりなのですけれど、お上ではどうしてもご信用にならんでしょうか」
「犯人がこの家にいることは確実です。帯広くん、ぼくは来る前に相良くんと楢尾くんにそう言ってはきたが、もう刑事が来ると思う。用意をしたまえ」
「では仕方がありませんね。わたしから一応覚悟をさせますから、ちょっとお待ちくださいませんか」
「仲井さん、きみはどこへ行くんだね」
 と藤枝。
「簑川にそう申すのです。わたしから一応そう言って覚悟をさせるつもりで…:・」
「覚悟? 博士に? きみは何か勘違いしているのじゃないか。ぼくは博士のことなど言ってはいないよ」
「え?」
 今度は検事が驚いて言った。
「だってきみはいま犯人はこの家にいると言ったじゃないか」
「そうさ。しかし博士の部屋にいるとは言わなかったはずだ」
「ではどこにいるんだ」
「この家。もっと詳しく言えばこの部屋の中!」
「なに、この部屋の中」
 検事は驚いて藤枝の顔を見た。藤枝の顔にこの時(ずる)そうな表情が表れた。
 仲井はふたたび椅子(いす)に腰を下ろしかかっていたが、このひと言に驚いて藤枝の顔を見た。
「帯広くん、ぼくはこの仲井長太郎を簑川百合子に対する殺人犯人として告発する!」
 圧するような藤枝の声が部屋に響いた。
 瞬間、仲井の顔はさっと青く変わって椅子から立ち上がろうとした。
 その時、帯広検事は側の火鉢の中を見て思わずあっと叫ぶところだった。
 かれは一昨日、藤枝の家で示された特色のある煙草の吸殻を、ふたたびそこで見いだしたのであった。それはいましがた、仲井が喫い差しを灰の中に突き刺したばかりのものではないか。
「仲井さん。きみはガス自動発生器の中に何を入れたんだい。あれはきみに似合わしからぬ小細工だったね。あのお陰で、きみは四十万の財産を得る代わりに死刑台に上がらなくてはならないんだよ」
 この時の仲井の有様こそ世にもまったく見ものであった。かれはまた立ち上がろうとした。しかし腰に力がもうなかった。そのまま崩れるように椅子にまた()したが、倒れそうになってその背に(すが)っている。顔色はまったく青褪(あおざ)めてしまって何か言おうとするが口が利けぬらしい。
「ただあの注射は素晴らしいものだった。さすがの判事も検事も、否、ぼくも一時はまったくごまかされてしまったんだからね。どうせ訊いたってきみは言うまいが、素晴らしい思いつきだった。同時にまた実にあくどく、世にも恐るべき奸悪(かんあく)さだ。これがために危うく無実の罪を博士は着ようとしていたんだからな。なるべくなら参考のために伺いたいものだね。きみは黒沢の忘れていった襟巻で夫人を絞めるときに、何の注射をしたんだ。×××××××か×××××××に類似のものだろうけれど、ああ見事に身体(からだ)強張(こわば)ってしかも冷たくなるとは驚いたよ。きみの何か発明にかかるものだろうけれど、ああいうあくどい真似(まね)はしないものだね」
 この時、ドアが開いて相良・楢尾の両警部が入ってきたが、この有様を見て二人ともまったく驚いたようだった。
「きみは黙っていてはいかん。きみ一人の問題ではないそ。きみの妻のことを考えたまえ。え? きみがはっきり言わない限り、妻も殺人の共犯または幇助(ほうじよ)として疑われるかもしれんからね。少なくともきみの妻がきみのためにアリバイを作ったことは、善意か悪意かを明らかにする必要がある」
 この言葉は意外な効果をもたらした。
「妻は!ー妻は何も知らない。わたし一人の仕事です。妻にはただ家にいると言えと言ったばかりです。ああかわいそうな妻……」
 仲井はこう言って(うな)るような声を出したが、懐中からハンカチを出して(しき)りと涙を(ぬぐ)っていた。
「うん、妻は知らんと言うのか。きみはきみ一人の仕事だと言うのだね。それならそれでよし。いいから犯罪事実を全部ここで語ってみたまえ」
 しかし、仲井はただ苦しそうな声を出してハンカチで青褪めた顔を()いているばかりで一言も発しなかった。否、発し得なかったのである。
「きみが言えないならぼくがきみの犯罪を語って聞かせよう。語って聞かせるから、間違っているところがあったら直してくれたまえ。うん、さきにちょっと疑問の点があるから訊いておこう。
 きみがここで十日の夜、百合子夫人を殺して例の注射をしようとしたかまたは注射をしたのち殺したかいずれにしても、きみが夫人を殺した直後、不意に人が入ってきたはずだが」
 仲井は何も言わない。
「きみはその時どこへ隠れたんだ」
 仲井がやっと言った。
「二階です」
「それからもう一つ、夫人は黒沢という男から受取証を(もら)っているはずだが、きみはそれに憶えがないかね」
「いま思い出しました。わたしは注射液を下へこぼしたので、あとで慌てて拭き取ったのです。その時、その側に紙が落ちていたのでそれで拭きましたが、あとでそれを見ると、それが受取証だったのです」
「そうか。ふん、それでひととおり分かった。ではこれからぼくがきみにきみの犯行を物語ろう」
 藤枝は(あき)れて見ている検事と両警部を前にして語り出したのである。
「今年の三月初めから、きみの母倉島はま(、、)がとうてい助からぬという病気に(かか)った。きみはそのころ岡本(おかもと)某とともに製薬に関する発明発見をしておおいに事業を発展させようとしていたが、手違いで大変な負債を背負い込むようになった。少しでも金が欲しいというときだったのだ。ところで、いま言った倉島はまは四十万という財産を持っている。この遺産が今度の犯罪の動機となったわけなんだ。
 どんな法律家に聞いたか知らないがきみはその時、はまが死ねばその四十万の財産は二人の娘、百合子・早苗に等分に来ると信じたのだ。しかも切迫しているとき、欲には限りがない。できるならば四十万全部を手に入れたいと願った。ところでどうすればできるか。いうまでもなく、姉の百合子が母よりも先に死ぬことだ。もし姉が母よりも遅れて死ぬと半分は姉に行き、したがってそれは博士のものになる。これに反して百合子が先に死んでしまえば四十万は全部きみのものとなる。そうすればきみは自分のもの同様に使えると考えたのだ。
 ところで、百合子が母より先にどうしたら死ぬか。百合子は病気ではない。とすればこれを殺す以外には道がない。しかし自分で殺してはたちまち疑われる。そこできみは世にも(まれ)奸知(かんち)を働かせたのだ。
 一言で言えば母よりも遅れて死んでもよい。その死体によって推定時間を母よりも先に死んだこととなる方法、しかして同時に、これによって姉の夫に殺人犯人という嫌疑を(こうむ)らせようという恐ろしい仕組みなのだ。実際こんな奸悪な犯罪は、犯罪史上にもめったに見られるものではない」



最終更新日 2005年10月31日 15時45分48秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「19」1

「そこできみはお手のもののある薬品を用いることにした。これはたぶんきみの発見になる薬だろうと思うが、これを死体か生きているものに注射するとたちまち硬直を起こすような薬を用いることにする。
 さてこう決心する一方で、母は刻々と病勢が悪くなってくる。都合のよいことには九日あたりにはひどく悪くなってきて、医者ももう時間の問題だというくらいのところになってしまった。
 折もおり、十日の夜、簑川博士がラジオの放送をするということが新聞に出た。言い換えれば、その時間には博士が家にいないということが明らかになる。万一だれもいなければその留守に夫人をやっつけるつもりになった。それで九日あたりから、自分のアリバイを作るために大阪の郊外の家に引き(こも)って風邪だと妻には言わせておく。
 夫婦二人暮らしの家だから、女房さえ言い含めておけばなんとでも言える。妻の母が危篤なのでどうせ妻は家にはいないし、その妻に、きみは風邪です、と言わしておけばめったにこの(うそ)がばれるものではないのだ。
 そこでぼくの想像するところでは、きみは十日の朝早く、そう、たぶん上りの『さくら』か『富士』で大阪を(ひそ)かに()った。あの汽車は大阪を朝七時半ごろに出るからちょうど具合がいい。
 夕方四時四十分ごろに東京駅に着いて、まず大阪に電話を掛けて母の様子を()く。これにきみは簑川博士の名を用いた。この際大阪で母が死んでいなくても、きみ自身の財産関係はそれでいいのだが、それでは博士に嫌疑をかけるほうがうまくいかないので、一応訊いてみると思う(つぽ)で、母は三時ごろに死んだということが分かった。
 そこで、放送時刻までどこかぶらぶらして、いよいよ博士が出かけたというころを見計らってきみは簑川博士邸へ出かけた。
 ここできみが予期しなかったこと、きみの知らないことがだいぶ起こっているからそれを説明しながら話していこう。
 きみが簑川博士邸に着いたのはたぶん七時過ぎだったと思う。ベルを押すと同時に、夫人が一人の男を送って出てきた。きみは見られては困るというので横を向いたろうが、向こうでも実は見られては困るというので避けて出ていった。
 これは黒沢玄吉といって百合子夫人の先夫で、なんでもちょうどその時夫人に金を強請(ゆすり)に来たのだ。これはきみはあるいは知るまいからつけ加えておく。
 そこで今度はきみだが、これは知っている仲だからたちまち迎え入れられて小さい応接間に通され、そこでお茶などを出された。
 その時きみは、そこにあった『敷島』を六本と葉巻を一本さかんに()っている。これはこれから行おうとする犯罪のために興奮している心を落ち着けるためだろうけれども、風邪で寝ていた男にしてはちと喫い過ぎた形だね。
 ここで初めてきみは夫人に、倉島はまの死を告げた。夫人はもとより驚く。これをきみは巧みに利用したのだ。今度の犯罪はトリックが初めからあくどいけれども、同時にきわめて素晴らしい。仲井くん、ここでぼくはきみにあらためて敬意を表したくなるのだが、きみは巧みに夫人のあのわがままな心理を捕らえたのだ。
 あのわがままな夫人のことだから、母の死と聞けば主人がどこにいようとすぐにも大阪へ飛び出すのは知れている。しかもいつもそんな時は主人を引っ張り出す女だ。そこできみはうまく話をもっていって、放送局に電話を掛けさせる。ただしきみがいま来たということを言われては大変だから、なんとか理由を言ってそれだけは知らせないように言う。それがうまくいったので夫人は二度も電話を掛けているけれども、きみの来たことを決して博士には言っていない。
 おそらくきみが来たことを言えば博士は、じゃ仲井と一緒に行ったらいいだろうくらいのことを言う人だから、夫人もそれを恐れて言わなかったのかもしれない。
 ここで利口なのは、印象を深からしめるために二度まで電話を夫人に掛けさせている。これは言うまでもなくあとで博士に嫌疑のかかったとき、博士がわざわざ夫人の身代わりを使ったのじゃないかと疑わせるつもりなのだ。
 実際、水も漏らさぬきみの計略には、敬服のほかはない。
 そこへもってきて、人知に計るべからざる偶然が起こった。そうして事件は博士のためにいっそう不利益に展開したのだ。きみは知るまいが博士はちょうど出かける前に、夫人が黒沢のために用意した五百円という金を誤解して夫人と争っていた。
 ところへ偶然にも、放送局からの自動車が少し早く博士邸に着いた。それで夫人が出ることができず博士が褞袍(どてら)かなんか着たまま飛び出したわけなんだ。
 夫人は泣き顔をしていたので、博士を送りに玄関に出ることができなかった。
 それで、夜七時ごろまで夫人が生きていたと立証するものが博士よりほかにない。ますます博士には不利になったんだ。
 もっともいま言った黒沢という男だね、ほら、きみが来たときに一度会ったはずのあの男が夫人の生きていたことを立証してはいるが、皮肉にもこの男がまたやはり夫人殺害の嫌疑を受ける立場にいるので事件はますます紛糾してしまったんだよ」
 ここまで語ると、藤枝はひと休みという形でぷっぷっと紫の煙を吐き出しはじめた。
「それで殺人の模様は」
 検事が今度は()き込んで(たず)ねた。
「帯広くん、きみに説明しようか。この仲井は博士邸に来るまでどうやって夫人を殺そうと考えていたか、ここまでは分からない。しかしかれは、夫人が放送局に電話を掛けに行ったとき必ず一緒に書斎までついていったに違いないのだ。
 それはさっき言ったとおり、万一、仲井が出てきた、と夫人が言いはしないかということを恐れたのだ。するとこの部屋の外に、茶色の襟巻がかかっていたのが目についた。言うまでもなくこれは黒沢が忘れていったものなのだが、これが目についたので、仲井はこれを利用する気になった。
 二度目に夫人が電話を掛けに書斎に入っていったとき、仲井は襟巻を細く絞りながらそっと後ろから忍び寄った。これは七時二十分前後の話だぜ。
 夫人は卓上電話を掛けて受話器を下ろした。犯行はおそらくこの瞬間だったろうと思う。ねえ、仲井くん、そうだろう……」
 仲井はハンカチで顔を覆ったまま、(うなず)いた。
「受話器を下ろすや否や、かれはいきなり襟巻を首に巻きつけて後ろに引き倒した。
 これは死体の位置から見てきわめて論理的な推断だと考える。そうしてことは一瞬に決した。ぼくの想像ではその直後だろうと思うが、仲井はかねて用意の薬液を取り出して注射をしようとした。その瞬間にベルが鳴ったんだ」
「え? ベルが鳴った?」
 と帯広検事。



最終更新日 2005年11月01日 00時03分48秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「19」2

「そうさ。玄関のベルが鳴ったんだ。驚いて仲井は二階に逃げた。これはいまお聞きのとおり仲井本人の自白によって分かったが、たぶん慌ててその時に薬液をこぼし、(そば)にあった例の五百円の受取で()いてそのまま二階に逃げ上がったのだ。
 そのあとへ飛び込んだのがきみ、井上道夫だよ。かれ、例の件で夫人と談判するつもりで入ってきた。見ると夫人が殺されてるっていうわけさ。
 そこで、井上は驚いて夫人を抱き起こしていろいろと介抱したけれども、息を吹き返さない。この時慌てて井上はシースと例の手紙を落としたのだ。そしてその手紙の上に夫人の死体をまた寝かしてしまったというわけさ。
 井上は立場の危険にすぐ気がついた。
 同時に、こりゃことによると大場さよ子の仕事じゃないかと思って、慄然(りつぜん)とする。
 一刻も早く逃げ出そうというので、いったんそのまま飛び出してしまった。
 一方、二階にいたこの仲井先生はいまの間にというのですぐ下に降り、手早く注射をして逃げ出す。ただしこの時、あくどいトリックをまた一つ用いた。それは夫人の部屋に入って、ラジオのスイッチを()けっ放しにしたということだ。
 夫人がその時まで生きていたという立証がつけば、遺産相続では仲井のほうが損をする。
 ところが例の注射の一件で、推定時間が必ず正午か一時ごろになる。とすれば、ラジオのトリックはかえって博士に疑いを増すという仕掛け。――たびたび言うが、実にこの先生の頭のよさには驚くほかはない。
 ところがこれからあとが面白いんだ。舞台が二つに分かれる。
 犯人仲井のほうはその足ですぐに東京駅に駆けつける。かれは八時十分に出る下関行きの急行か、遅くも八時二十五分に出る第五列車には間に合ったはずだ。
 それに乗って何食わぬ顔をしていったん大阪に戻った。大阪に着いたのは十一日の早朝だと思えばよいのだ。
 一方、犯人が逃げていってしまった博士邸ではまた妙なことが起こりつつあった。
 第一は井上道夫が慌てて戻ってきたという事実だ。
 いったん慌てて逃げ出したけれども、気がついてみるとシースがない。しまった、というので取り戻しに引き返す。その時、ラジオを聞いて妙に思ったかもしれないが、もっと驚いたのは注射によって硬直した死体の急激な変化さ。シースを引き戻したが気味が悪いので死体を動かすことができず、したがってその下になった手紙に気がつかなかったわけなんだ。この時、机に指紋をつけたことはかれの言うとおりだ。
 井上はそれから慌てて逃げ去ったが、どうしても犯人は大場さよ子よりほか思いようがない。それでほんとのことは死んでも言うまいと決心した。きみも知ってのとおりいよいよ危うくなって、かれは恋愛中毒患者の例に()れず恋人の犠牲になろうとさえした。
 しかし、事件はまだ終わりではない。
 井上が行ってしまってしばらく()ってから、大場さよ子は裏口から入ってきた。
 かの女がこの時ラジオを聞いたのは、当然の話だ。
 入っていくといきなりかの女は夫人の死体を見た。そこで夫人の死体にぶつかって、やがて井上同様自分の立場の危ういことにすぐ気がついた。同時に、犯人は井上だと思い込んだ。
”恋人互いに相手を疑う”という場面さ。井上は大場を疑い、大場は井上を疑った。そしてお互いに相手のために隠してやろうと努力していたんだ。しかしこの恋愛美談のお陰で捜査がだいぶ狂ったのさ。
 大場はそこにあった襟巻を井上のものだと信じたから、これを取って慌てて台所から帰ったが、その時片方下駄(げた)を間違えたんだ。下駄を片方残すと同時に、いつもぷんぷん(にお)わせているシクラメンの匂いを残していったわけだ。
 八時半に博士が帰ってきた。
 鋭い鼻を持った博士はすぐシクラメンの匂いを()ぎ分けた。だんだん調べると大場の下駄がある。さては井上を中心にして大場と妻が争い、その結果妻が殺された、と信じる。
 こうなっては博士でなくても、ちょっと犯人の名は言いにくいね。自分の妻が若い男と恋をして、その男の若い恋人と争ったあげく殺された、とはとうてい言えないんだ。
 そのうえ、死体の硬直の理屈というものは、『織田信長とポルトガルの宣教師』の研究なんかしている文学博士にはちょっと分からないから、まさか自分には疑いはかからないだろうというので大場のことを黙ってきてしまったのさ。
 十四日の日になって、きみに調べられてたまりかねてその点を白状してしまったっていう次第だ。
 ところで、犯人仲井先生のほうの活動がまた素晴らしい。かれは十一日の早朝大阪に着くとすぐ女房から、東京から電話があって百合子夫人の殺されたという報知を受け取る。
 そこで今度は堂々と、親戚(しんせき)の者などに送られて、大阪から東京に立つ。これは本人の言うとおり、『つばめ号』に乗ったんだ。
 そうして、十一日の夜九時半ごろに上京して慌ててここにやって来た。
 どうです。犯人仲井先生、これでぼくの考えはひととおり述べたわけだが、間違いがあるかね」
 しかし、仲井は一言も答えなかった。
「次に、犯人仲井の予期したところを話してみよう。
 この事件が自分の思いどおりにいけば、まず疑われるのは博士なんだ。仲井は博士をいっそう疑わせようとして、あの夜すぐ法律問題の質問をさせるようにけしかけた。
 死体は確かに、十日の昼ごろ殺されたものなることは明らかになっている。しかるに博士は夜まで夫人が生きていたと言う。なぜそういう嘘を言うか。時間違いでなぜ博士が得をするか。
 答えはきわめて簡単だ。夜七時過ぎに死んだことにすれば博士には第一アリバイがある、第二に、四十万の半分二十万の財産は博士に行くことになる。
 この二つの理由から博士が嘘を言ってるんだ、とみなが思う。こうなれば仲井はしめたもんなんだよ。その結果博士が起訴される。夫人は昼ごろ死んだとなる。待ってましただ。はま(、、)の残した四十万の財産はみな女房の早苗のところに転がり込むという次第さ。仲井くん、ぼくばかりに(しやべ)らせないで、きみもなんとか言いたまえな」



最終更新日 2005年11月01日 00時51分50秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「20」1

 流れるような藤枝の雄弁に一座しんとして、だれも一語も発する者がなかった。かれが口を(つぐ)んでも、みながみなただ圧せられたように一語を発しようとする者もない。
 仲井長太郎は青褪(あおざ)めた顔をハンカチで覆って、ときどき(すす)り泣きのように(うめ)き声を上げていたけれども、これも一語も発しなかった。
 しかし、藤枝が雄弁を(ふる)い終わって口を閉じ一座をじろりと見渡したとき、仲井は何か決するところあるもののようにつと立ち上がった。
「藤枝さん、わたしはいまとなっては何も言いません。未練がましいことは言いますまい。さあ警察でも検事局へでも連れていってください。しかし藤枝さん、わたしひと言言っておきます、わたしは決して死刑台には上がりませんよ。わたしはあなたの手に負える男ではないのです」
「ふん、きみを死刑台に載せるか載せないかはむろんぼくの手に負えるところじゃないよ。ぼくはただきみを検事に引き渡せばいいのだ。きみを死刑にするか無罪にするかは、判事・検事・弁護士の腕にあるのさ。きみに遺産相続の知恵を授けた弁護士にでも頼んで弁護してもらうんだね。あるいは無罪になるかもしれないからな」
 藤枝の顔にも仲井の顔にも、極度の憎悪と(さげす)みの表情がはっきりと表れていた。
 しかし、この表情は二人ともすぐに取り消さなければならなかった。仲井が侮蔑(ぶべつ)と憎悪に満ちた顔色で相良警部に伴われて部屋を出ようとするとたん、戸に何かぶつかる音がして人の倒れるような気配がした。
 つづいて女の叫び声が聞こえた。戸を開けてみるとそこには仲井早苗が倒れている。
 (そば)にはちょうど博士付き添いの看護婦が駆けつけたところであった。
「や、じゃ、いまの話を聞いてたんだな」
 藤枝が叫んだ。
「大したことはございません。脳貧血です。すぐ杉島先生をお呼びいたしますが、じきお治りになるでしょう」
 看護婦と楢尾警部が早苗の身体(からだ)を抱き上げて、二階に連れていった。
 相良警部と二人の刑事に守られて仲井は出ていこうとした。
「ねえ、妻は何も知らないんです。どうかお願いです。それだけは信じてください」
「うんよし、それはぼくも信用しよう。その点は安心したまえ」
 やがて自動車の爆音が聞こえて、一同は警視庁目指して遠く走っていったらしい。
 楢尾警部が降りてきた。
「なに大したことはありません。夫の犯罪を知って驚いて脳貧血を起こしたんです。もう治りかかっていますよ」
「いや、驚いたよどうも。病人のほうも驚いたが、それにしても、相変わらず藤枝くんの素晴らしい腕前にはこの帯広、いまさらながら敬服の至りだ。いまのきみの話で、仲井長太郎の犯罪はきわめて明瞭(めいりょう)になった。実際きみの言うとおり、古今(まれ)に見る奸知(かんち)邪悪だね。しかしそれにしても、どうしてああいうことをきみは看破したんだね。一服やりながら話してくれたまえ」
「なに、実は半分はまぐれ当たりさ。そうお褒めに(あずか)るほどのことでもないがね。じゃ一応お話し申すかね」
 藤枝は相変わらずぷかりぷかりとシガレットの煙を吐き出しながら話し出した。
「ぼくが仲井を疑ったのはやっと十二日ごろになってからなんだ。それまではやはりきみら同様まず第一に博士、次に黒沢を疑ったんだ。十日の夜、現場に来たときに、あの死体の有様と博士のあの供述だろう。ぼくだって一杯食ったよ。解剖した専門家をごまかすくらいの薬品なんだから、なんだか分からんがぼくもすっかりごまかされて、こりゃ博士が怪しいわいと考えたのだ。
 で、とりあえず応接間の煙草盆(たばこぼん)を調べて吸殻をあるったけ取り出してみると、『敷島』が六本、それに葉巻が一本残っていたが、この葉巻は五分ぐらいになってしかもまだ煙が出ている。()い方を見るといずれも同じような特色のある喫い方なのだ。葉巻の()み方もやはり同一人のものらしい。するとこの葉巻を喫った人間はだれだろう、火がまだ消えないところをみると、この人は五、六本『敷島』を喫って最後に葉巻に火をつけた。そうして少なくも一時間ぐらい前までここにいた人になる。博士のトリックにしては出来過ぎている。ぼくはすぐ博士の吸殻を調べたがまったく喫い方が違う。博士にはあんな同一な歯形をわざわざ作ることはできるはずはない。とすると変なことが起こるのだ。博士は昼ごろ殺した死体をそのままにし、戸にも錠をかけずに開けっ放しにして出ていったということになる。これはまずおかしい。博士を犯人とすれば説明のよくつくところもあるが、どうも変なところも出てくる。
 そこでやはり五里夢中の(てい)さ。むろん、ぼくも動機の点を調べた。まず夫人の交際関係を調べたんだが、これは大失敗。ぼくは井上をまったく信用していたために、かれに十一日の日調査させたものだから、かれ自身のことは少しも分からずさ。楢尾さんの前だがまったく一言もないんだ。そこでぼくは、博士が犯人を知っていて何か理由があって隠しているのじゃないかと思った。十一日に仲井が上京して博士は初めて法律問題について質問した。今度はその点について考えてみたのだ。夫人が死ねばだれに利益があるか。これは夫人の死んだ時間が問題だ。どうしても博士か仲井夫婦だ。ところが仲井夫婦はあの日大阪にいたというから、やはり怪しいのは博士だということになった。それで十一日いっぱいぼくは博士犯人説を一応立ててはみた。前に言ったように疑問はあったがね。
 すると、十二日の朝早く仲井がぼくを訪ねてきた。この時ちょっとへんに思ったというのは、仲井がしきりと博士の弁解をするのだ。ぼくも初めは、博士が自分で仲井を使ってぼくの腹を探りに来たのかと感じていた。なぜなら仲井自身は、われわれが博士を疑っていることを知りようはずはないからね。すると同じ日に、黒沢の供述を警視庁で聞いたところが、かれもまた夫人が夜まで生きていたと主張する。これはどういうわけだろう。ここでぼくは、従来の考え方を改めてみたのだ。
 かりに博士の言うことを信じる。また黒沢の言うことも信じる。一方には硬直した死体がある。これを矛盾なく解決する方法はないかしら。こう思っていろいろ考えているところへ、楢尾さんが井上のことを突っ込んできた。その時、前にも言ったように井上が不注意に()らした一語を思い出した。するとだ、同時にぼくはその時、十一日の夜仲井がぼくに初めて会ったときの言葉を思い起こしたんだよ。きみは(おぽ)えているだろうが、仲井に初めて会ったとき、かれはしきりと当局の方針を聞きたがっていたろう。おまけにぼくが、死体に怪しいところがあるのでね、と言ったら、へえ、何か殺された時間の点でも? という質問をしたことを思い出すだろう。これは井上のところでも言ったとおり、きわめて奇怪な一語と言わなければならない。
 この時ぼくは、はっと思ったのだ。これはことによると(やつ)かな、と考え、帰宅したのち調べてみると、どうだい『敷島』の吸殻が例の煙草とまったく同じなんだ。さてはかれ十日に東京にいたな、考えてみると風邪を押して出てきた男にしては煙草を平気でちと喫い過ぎるのだ。こう考えてまた思い出してみると、その朝の博士のための仲井の弁解が奇妙なんだ。なるほど一応博士のために弁解しているようには思えるけれど、よく考えてみるとあれは弁解ではなくてますます博士を疑わせるような言い方なんだ、財産のためにいかにも博士が何かやったらしいように考えられる。法律問題のほうを調べてみると、どうしてもかれは百合子夫人の死によって得をする立場にいる。しかも夫人が母より先に死んだとすればなおさらなんだ。
 もっとも、これはいまになってからあとを辿(たど)って言うので、あの日十二日はほんとはぼくは井上のことを怪しんでいたのだ。十二日じゅう、実は井上のために煩悶(はんもん)していたんだ。ただ仲井に対しては漠然たる疑いを持っていたに過ぎず、まだはっきりしたセオリーは何もなかったのだ。
 ところが十三日になって、風邪けで床の中にいる間に一つのセオリーを思いついた。仲井は大阪で薬物の研究をしている、ことによるとかれ、死体に何か細工をしたんじゃないか。十日の夜かれが東京に来たことは間違いない。こう考えているところへ、井上が自白したという話。その遺書の一件からぼくは実は、井上無罪の確信を得たのだ。いよいよこれは仲井が怪しい。こいつア一つ調べてみる必要がある、と(ひそ)かに感じたんだ。十三日にさよ子の自白があり、ますます確信を得た。一刻も早く大阪へ行って調べたいがいま自分が行くわけにはいかない、どうしても井上をやりたいけれども、井上はあの始末で捕まっている。
 そこで窮余の一策、表向き午後一時説を主張してきみを口説いたんだよ。そうして井上を許してもらうように骨を折ったのさ。実は心ではぼくは夜の七時半説だったのだ。だんだん博士の様子を見ていると、博士は死体の有様から自分が疑われていることには気がついていないらしい。とすると十二日の朝、仲井が来て弁解したのは仲井一存なのだ。何も知らぬはずの仲井がこんなことを()くのはいよいよおかしいじゃないか。つまり一刻も早く注射の効き目を知りたがっていたので、うっかりと、殺された時間でも? などという発言をし、また自分は死体の様子を知っているので当局は当然博士を疑っていると信じて、博士の嫌疑を知りたがってぼくの所へやって来たわけなんだ。ひどい奴だよ。そこで少しも早く大阪へ井上をやって、はたして仲井が薬物の知識をどのくらい持っているかを調べさせる必要を感じたんだ。



最終更新日 2005年11月01日 01時35分59秒

浜尾四郎『博士邸の怪事件』「20」2(終)

 すると、十四日に仲井が襲われたという事件が起こった。これはまったくかれ一期(いちご)の大失敗さ。少し慌て過ぎたよ。
 きみはどう思ったか知らないが、ぼくは十四日に仲井夫婦が襲われたと聞いていよいよ確信を強めたのだ。仲井の奴、いよいよ慌てだしたな、かれの予期に反して、井上だの黒沢だの大場なんていう連中が飛び出してきたので博士のほうの嫌疑が薄らぎはしないか、早く博士を疑わせようというのであんなことをやってみたのだ。むろん夜半に(のど)を絞められたなんていうのは大嘘(おおうそ)だよ。ただしガス中毒だけは事実なんだ。ぼくはそう思って現場を注意してみると、どこにもガスを発生させる装置がない。さてはかれ、天才的の例の発明の頭を利用してどこかに小道具を置いたなと見たから、わざと大きな声できみに、ここにあるもの全部を調べなけりゃならん、と言って下に降りてきた。わざとハンカチを忘れて適当なころを見計らって上がっていくと、どうだ、ちゃんと置き時計がなくなっている。奴、慌ててどこかへ隠したかなとちょっとわきを見ると、窓の障子が一寸ほど開いているじゃないか。てっきりここから捨てたとみたから、帰りがけに窓の下に行ってみると時計がある。さっそくこれを頂戴(ちようだい)に及んで大学の理学部助教授の黒田理学士に調べてもらうと、これが怪しいガス自動発生器で、なんでも時計が一時を指すと中から何かガス体が出るようになっている。ガス体そのものは例の注射液同様よく分からないんだが、ただ一つ確かなことは、黒田学士の鑑定によると、あのガスはたくさん吸うと意識を失うそうだが、決して生命には危険はないということが分かったんだ。どうだい、仲井の奴、こんな安全なガスを吸い、妻にも疑わせて、だれかに――すなわち博士に嫌疑をかけさせようとしたんだよ。しかしこれはまったく慌て過ぎた小細工さね。あんな頭のいい冷静な男でも、こういう馬鹿(ばか)なことをするものとみえるよ。
 いっぽう十四日には、井上を大阪に急行させた。
 ところが着々として種は上がってくるんだ。仲井という男は化学方面にかけては天才でいろんな発見や発明があるそうだが、近ごろ岡本(おかもと)某という男と一緒に事業を始め、特許を取ったり何かして仕事をやってるんだが、ごく近くに山師に引っかかってひどい失敗をした。それで二十万からの負債を岡本と二人で背負わなくてはならなくなったんだ。
 このままいけば薬品の製造もできずますます損をしなければならんというので、(やつこ)さん大慌てに慌てたんだよ。そこでいよいよさっき言ったとおりの筋書きを運んだのだ。
 ところが、さすがの仲井に思いがけぬことが起こっている。十日の夕方、岡本某がかれは十一日まで名古屋に行ってるわけだったんだが一日早く帰ってきて、すぐ仲井の家を訪ねた。すると、奥さんは母が死んだと言って市内に行っている。親しい仲なのでどんどん上がり込んでみたがだれもいない。むろん仲井の床などとっていない。それで岡本は、仲井もまた倉島の家に行ってると信じて帰ったそうだ。井上が訪ねたときもまだそう信じていたそうだよ。いっぽう倉島一家では早苗が、夫は風邪で寝た切り出られないと言っている。どうだい、径しくはないかね。
 これで仲井のアリバイは完全に(たた)き壊された。百合子が早く死んだとすれば、得をするのは仲井一人だ。平仄(ひようそく)はちゃんと合っている。
 博士も怪しい。黒沢も怪しい。大場も疑えないことはない。
 しかし、東京に出てきながら大阪にいたと称し、死体に変な仕掛けをやり、毒ガスを自ら吸って他人に嫌疑をかけ、その結果、四十万からの金の転がり込む奴がまずいちばん怪しいと思わなければならないからね。そこで高飛車にご覧のとおりのひと芝居。案外(もろ)く落ちたので、ぼくも実はやっと安心した」
「ふーん。それにしても、死体に注射をしたとはどうして分かったんだい。あれも実は当てずっぽうか」
「いや、そうでもないんだ。これは井上の腕前に感謝しなくちゃならないが、井上はよほどうまく岡本という男をおだてたとみえて、うまいことを聞いてきた。岡本が極秘と称して(しやべ)ったそうだが、なんでも仲井がこのごろひどくまた薬の発明に凝っている。だれにも言わないが、岡本の考えでは大儲(おおもう)けのできることらしい。いつも秘密でやっているが、岡本が密かに探ったところでは注射液らしく、近ごろ仲井はしきりとモルモットを買ってきて注射をしていたっていうんだ。むろん岡本はこれを商売物と考えたらしい。井上は巧みに仲井の試験場からモルモットの死体を持ち出してきたが、立派にみなこちこちになってるんだ。種はそこだよ。しかしこれはだれが聞いても分かるとおり、まるで当てずっぽうではないにしろ少々まぐれ当たりの気味はあったね」
 この時、けたたましく電話のベルが廊下で鳴ったので、楢尾警部は急いで出ていった。
 しかし、しばらくすると興奮した様子で急いで戻ってきた。
「検事どの、ただいま相良警部から報告がありました。犯人は本庁に着いてから急に卒倒したそうです。ただちに医師に見せたところ、何か毒を飲んだらしくもはや脈がないと言うのです。死ぬ少し前、犯人は確かにおれだ、妻は知らない……、と言って息を引き取ったそうです」
「しまった!」
 と、藤枝が叫んだ。
 帯広検事はすっくと立ち上がって、
「すぐこれから行ってみる」
 と出かけようとした。藤枝はその腕を押さえて言った。
「しまった。ぼくは功名に(くら)まされていちばん大切なことを忘れていた。仲井が化学の大家だということを! おい、さっきのハンカチだよ。ぼくが喋っている間かれはハンカチで顔を隠していたろう。あの間に何か毒薬を飲みやがったんだ。畜生! しまったことをした。なるほど、死刑台には上らんと言ったわけだ。しかしね――きみ、死者をして死者を葬らしめよ、だ。ねえきみ、ぼくは結婚の媒酌を頼まれているんだ。双方の親も大乗り気さ。今月末にはいよいよ井上道夫と大場さよ子と結婚するはずなんだ。ぜひきみも出てくれたまえ、ね。それからここの博士にも列席の光栄を与えてもらいたいものだと、いまからその日を楽しみにして待ってるんだよ」

(終)


最終更新日 2005年11月01日 02時07分29秒