山本禾太郎「探偵小説と犯罪事実小説」

探偵小説と犯罪事実小説 山本禾太郎
 西田政治さんから―山本は犯罪実話の脚色専門家である―と言われたことがある。事実私は犯罪事実に取材した探偵小説を書いたことがあるし、ほんとうを白状すれば、私にはなまなかな探偵小説より犯罪事実の方が面白い。それは探偵小説は作家の空想から生れる智識の遊戯であるが、犯罪事実は心理的に非常に深いものであるし、それを生むものは我々の生活する社会であるだけに、考えさせられる多くのものを持っているからである。しかし現在行われている所謂「犯罪実話」なるものを面白いと思ったことは一度もない。
 そこで私は―犯罪事実(、、)小説―といったようなものが生れないかと、年来考えていたところ週刊朝日で1事実小説1というものを懸賞募集し、ー事実小説とは、一つの新しき報告文学であり、実話と小説の中間、
しかも実話により近き作品である。つきつめて言えば既に小説的である事実から、その事実、事実の系列をぶった切って来たものでよろしい。事実の上に小説的に加増するよりは、むしろ事実中より過剰の部分、夾雑的分子を減じようとする方の制作態度を要求するものであるーと説明している。こうした意味の事実小説なるものが、成りたつものとするならば、そのもっとも興味的なものは犯罪事実小説でなければならない。それは事実に面白
さを求める場合犯罪以上のものはないからである。
 探偵小説では犯罪事実に取材したものは駄目である。それは犯罪事実は探偵小説になりようがなく、探偵小説とはまるっきり別のもので、それ自体独自の興味をもって見らるべきものであるからである。
 ll探偵小説は馬鹿らしくて読めない、書いてあることが、あまりに現実とかけ離れているために、幻覚を生むに足りないからーと、言った人がある。この人は本当に探偵小説の面白さを知らないからこんなことを言ったのであるが、相当年をとった人の言い分としていちがいに笑って終う前に一度ふりかえって見る必要がある。それは探偵小説には、どっかに子供っぽい感じがするためではあるまいか。同じ空想から生れる小説でも、探偵小説以外の小説の場合は、いかに複雑な筋が取扱われていても、それは常識を超越するものでないのだから、子供っぽい感じをうけることが少ないのであるが、探偵小説となる之常識を飛び放れて筋を無理に仕組まなければならない。乱歩氏が昔言われたように不可能を可能と見せなければならない。そこに子供っぽさが生じてくる。本格ものに於て殊に然りで、トリックの十中の八九までは子供っぽさを感じさせる。
 本格ものから、この子供っぽさを避けようとするなれば、勢い犯罪小説のようなかたちにならざるを得なくなる。すでに大家中にも犯罪小説的な作品で成功している人もある。そして、それが純粋な本格ものより面白いことも事実である。
 変格ものが探偵小説かどうかという議論がさかんに出たが、その議論はさて置き、探偵小説の本道が本格ものにあることは、なに人と雖も否定することができない。本格ものなくては探偵小説はなくなるからである。しかし、どちらが面白いかとなると、現在の状態では遺憾ながら変格ものの方が面白い。それは前にも言ったように本格ものとなるとどうしても子供っぽくなることを避け難.く、変格ものになるとよほど大人らしくなるからである。
 犯罪事実の場合では、それがどんなに馬鹿馬鹿しい内容のものであっても、犯罪者は真剣である。そこに心理的な面白さがあり、その犯罪がどんなに空想以上に飛び放れたものであっても、それが事実であると、いうところに面白さがある。
 こう考えて見ると、事実小説というもののもっとも面白いものが、犯罪事実小説であるとするならば、本格ものに比肩し得るほど面白いものができなければならぬ筈である。今日までの所謂犯罪実話が面白くな、いのは、取り上げられた素材即ち事実が、すでに小説的素質に欠けていたり、また書き手が多く実際家で、材料を小説的に活かすことに不得手であったがためではなかろうか。
 例をとれば有名な1小笛事件1である。これなぞ犯罪実話として発表せられたもの二、三にしてとどまらないが、そのいずれを読んでも、事件中もっとも面白い点が捨てられている。例えば小笛の遺書が、三分の一を黒い鉛筆で書き、三分の一が赤鉛筆、終りの三分の一がまた黒鉛筆で書かれている点である。なにがために二色の鉛筆が用いられたか、用いねばならなかったか、その各文字を顕微鏡で覗、いて見れば、その条線に、どのような条紋を現わしたか、その条紋にょって遺書の作成せられた場所がどこであったかを推定する面白さ、或はまた、小笛の死体が懸垂されて、いた状態中、その頭部の頂辺と、鴨居の底辺とは僅かに八寸二分の距離で、その索条が絹の兵児帯で中間に結び目がある。この場合兵児帯が十三貫七百の体重を六十〆時間支えたのであるから、当然兵児帯の伸長が問題とならなければならない。その伸長を差引くと体重のかからぬ以前の罠の長さは僅かに四、五寸に過ぎない、さようなせまい罠に死体となった小笛の首を突っこむことが可能であったか等々である。その他この事件には随所にこうした疑問が残されている。この事件ばかりではない、すべての事件にこうした重要な点が等閑にされたままになって、いる。探偵小説的立場から権威ある刑事裁判の記録を見ると、なんとなく上面だけが調べられ、深いところが忘れられて、いるような気持がする。これは実際問題としては必要のないことだろうが、犯罪実話としての本当の面白さは、事件を織る一節一節の裏にひそむ疑問の探究にある。ただ事件が表面的に扱われているだけでは、徒らに下品なものとなって面白くないのである。
 犯罪実話が小説の形をとって、右に述べたような興味の探究を深めてゆくなれば、事実と、いう強みがあるだけに、なまなかな本格ものなぞ到底及ばぬ面白いものになると思う。



最終更新日 2006年01月28日 12時17分48秒