内藤湖南「トンコイズム」

 京都人学の文学部の一部の教授たちが燉煌派(トンコイズム)の異名をもって呼ばれたことがあった。事の起りはこうなんだ。明治四十二年だった。北京の羅振玉氏からペリオ氏の発見した燉煌出土の文書類を見たという通知があった。それと同時に東京の文求堂書店主からその写真を多数に送ってきた。それをわれわれは京都の府立図書館の楼上で展観し、講演会も開いた。そのときは木下〔広次〕前総長も見てたいへん喜んで、いろいろ口添えもしたものだった。次に翌四十三年の春、また羅振玉氏から、燉煌に残っていたものをみな北京政府が取り寄せたが、たぶん六月ごろには北京に来るだろう、見られると思うが来ないかという通知が来た。当時の総長菊地〔大麓〕氏も案外これに同情があって、われわれの出張に大いに努力してくれた。その年の九月、狩野(直喜)・小川(琢治)、それに富岡(謙蔵)・浜田(耕作)の四君と私と五人で北京へ出掛けていった。いまだ整理が全部できていなかったので、そのうちの整理された分の七百巻(主に仏教に関するもの)だけを見、その他個人の私有のものもあったのでこれも見て、ついでに他の調査もした。そのころ滝精一君も国華社から来ていたがわれわれといっしょに古画などを見たものだった。小川・浜田の両君はそれから洛陽の竜門に行かれ、帰りには殷墟のある彰徳府にも立ち寄られた。帰ってから吾々は写真の展覧を大学で開き、講演会もしたが、一般のうけはよかったようだった。
 ちょうどそのころ大谷光瑞氏の西域発掘品も到着したが、その発掘に行った橘〔瑞超〕氏に大学での講演を依頼した。これらの発掘品は研究しなければならないというので、大谷光瑞氏は、大学の諸教授を本願寺の黒書院に招待して、これを依託された。これに関係したのが東洋史のほうでは桑原(隲蔵(じつぞう))君と私、支那学では狩野君、印度学では松本(文三郎)君と榊(亮三郎)君、および富岡、浜田、羽田の諸君、それにこれを国華社から出版するというのでこのほうのことも兼ねて滝君も加わった。植田寿蔵君も当時学生のころから吾々に加勢したものだった。しかるに発掘品は六甲の二楽荘に置いてあったので、われわれはそこまで出掛けて直接実物を取り扱い、写真を取ることについては植田君がもっぱらその任に当たった。かく大勢の人が取りかかったのですこぶる景気のいいものだった。そうしてこんな人々が研究の必要上からよく会合するので、ついに一種の学問上の団体が形成された形だった。それを見て、当時新しい学問をしている桑木(厳翼)君や上田(敏)君が、このわれわれ一派を目してトンコイストと称し、その学問をトンコイズムと呼んだのだった。これには多少の反感が含まれていた。桑木君自身が、「学問とは君らのやってるようなものだとは承知してるが、あまり古いものを振りまわされるとちっと(しやく)にさわるからなア」といっていた。こうして、この団体は『西域考古図譜』(国華社出版)ができるころまではなはだ盛大だった。まアこんなことが「トンコイズム」の起りだったんだ。(談)
                                 (大正十五年七月発行『新生』)





最終更新日 2005年10月26日 20時45分55秒