内藤湖南「犬養首相のことども」

犬養首相のことども

 犬養氏は政友会総裁となってからは、いわゆる政治家らしい行き方だったが、だいたい一般の政治家とはよほど肌が(ちが)っていた。趣味の広い人だったから、国民党時代などは趣味のほうが過ぎて、地方を旅行しても学者や書家などと話し込む時間が多く、党員たちが押し掛けて政治の話を持ち出しても、乗り気にならないといって、あっちこっちから苦情を受けたほどだったが、しかしそんなふうだったから政権に執着せずに清廉な政治家としての一生を終わったのではあろうが、もう廿(にじゅう)年も前に仁和寺を訪問したとき聞いた氏の述懐だったが、あれで若いときは軍人になるつもりだったそうである。西南の役に従軍記者として谷干城(たてき)将軍と近づきになったりして軍人になろうと思い込んだとのことで、谷将軍にそのことを相談したところ、どうした事情だったか、将軍から軍人になることは思いとどまれといわれて政治家の畑へ入ってしまったので、「そんなことだから俺はほんとは政治家には向かんよ」といっていた。今の政治家にしては古い学問をやり過ぎていた。近年はあまりやらなかったが詩も立派なものだし、漢文も大学の先生よりも上手だった。書は世間で知ってのとおりである。それで東洋文化のことでは西園寺さんと話が合ったらしいが、思想的には西園寺さんとは少し異っていて、保守的というほどではないが、国家主義に基礎を置いて、若いときは保護関税主義を強調したものである。近ごろは絵をかき始めて、蘭の花だけかくが、葉をかくのが面倒だといっていた。書は面で書くものだなどと皮肉をいってはいたが、実はなかなかのこり性で、自分が納得するところまで行かないと人前には出したくないと思っていたらしい。それで蘭の葉をなかなかかかなかったのだろうが、ともかく真の東洋を知り、東洋文化の素養ある犬養氏のような政治家がなくなっていくのは、日本のために惜しみてもあまりあることである。先々月氏が正木直彦氏と協力して、硯・墨の譜を作りたいからと相談を受けたが、それも果たしえずに氏は倒れた。まったく残念のことである。
                            (昭和七年五月十七日『大阪毎日新聞』)



最終更新日 2005年10月25日 22時57分10秒