馬場恒吾『自伝点描』「自伝」私の読書

私の読書

 新聞記者の一生は畢竟するに傍観者の一生である。自分が立役者になることはなく、他人が活躍するのを見ているに過ぎない。私はかくして五十年の年月を過ごした。その間にいろいろの書物を読んだが、これと言って専門に深く入るといった例はなく、世間一般の常識以上に出なかった。だけれど、五十年と言えば相当に長い年月であるが故に、私の読書の経験を語ることによって、明治以来の一般日本人がどんな読書の道を歩んだかの一端を示すことになるかもしれない。
 二十歳前後の学生であった頃、私はある夏の暑中休暇で岡山県の郷里に帰るとき、東京で『里見八犬伝』と『水滸伝』を買った。両方とも大冊の書物で、これを読むのにほとんど暑中休暇全部を費やした。今更説明するまでもないが、『八犬伝』は馬琴の大作で、徳川時代の仁義忠孝の道を体得した八人の武士を活躍せしめる物語である。現代の小説に比較して、文学的に批評すれば素朴で幼稚な筋書だと言えるかもしれないが、読者には息づまるような感興を与える。『水滸伝』は百八人の盗賊の話であるが、泥棒しながら、一種の仁義を貫くところに、やはり大陸的の魅力が溢れている。
 その当時私はシェークスピア(冖ル!トレッジ版)の一冊に集めた戯曲全部を読んだ。もとより全部がスラスラと了解されるはずはないが、判らない文句はズンズン飛ばして読めば、話の筋道は判る。それは日本の戯曲の近松の文章だって難解のところがあっても、筋の面白さを味わうに何の差支えないと同じである。学校の冬の休暇で田舎の家に帰っているとき、義太夫を耽読する祖母や母や妹が炬燵の周囲に集まったとき、シェークスピア劇の荒筋を話すと、みんな興味をもって聴いた。ことに祖母は何日でも妙な大きな字で刷ってある義太夫本を手に持っていて、大功記とか新功記とかいう芝居のすじを知っていたから、シェークスピアの筋を聴いて、西洋にもそんな芝居があるのかと言った。
 これは私が二十歳を少し過ぎた時であった。父は県庁の役人として美作津山に住居していた。私は仙台の第二高等学校の工科にいたが、卒業する半年前に、工科なんかつまらないと考え郷里で一年半ブラブラしていたことがある。そこで人生転換の動機になるような書物を読んだのである。毎日これという目的もなく寝転んでいる間に、枕元にあった英訳のユーゴーの『ノートルダム』を取って、書物の中程を開いて読み始めた。一、二ページを読むうちにこれは大変な本だと思って最後まで読み、さらに初めから読み直した。それからユーゴーの『レ・ミゼラブル』の英訳を探し出して、これは津山から一里ばかり東の温泉宿で読んだ。同じ著者の『九十三年』は初めの大半は石ころを噛むようで面白くないが、中頃の一句で今までの石ころ的の文章が生き返って光り輝く。ユーゴーのロマンチックな構想は現代の批評家には高く買われないかもしれないが、私は病的になる程ユーゴーに感動させられた。これはその前から愛読していた英詩のロバート・バーンズとバイロンもやはり英雄的な感傷派であった。このような文章が好きになると本を読むのではなく、本に読まれるという非難を免れない。
 こうして田舎で一年半も暮らした結果、私は耶蘇教の牧師になろうと決心して、京都の同志社神学部に入学した。ところで当時の同志社は校長が後に政友会代議士になった横井時雄氏、牧師が安部磯難民であった。同志社は元来は米国宣教師の後援によって建てられたものであるが、私が入学した当時には米国宣教師はおらず、同志社の神学校は安部氏の新神学によって支配されていた。
 バイブルは神様が書いたものという信仰は最早通用しなかった。安部氏は私が子供であった頃、岡山教会の牧師として非常に有名であった。私も日曜ごとに説教を聞いた。それ故に氏が聖書に科学的な分析を加えられるのを不平に思った。そして氏に抗議を申し込むと、氏は「まあそんなに怒らないで、図書館に行ってドイツ派の新神学の本を読め」と言われた。同志社の図書館は新旧の神学の書物でいく室も占領されていた。私は手当り次第に神学の書物を引出して読んだ。初めは信仰的な旧神学の本をも読んだが、だんだん千篇一律の感じがして面白くない。これに反してヴソトの聖書研究を始め、新神学の方は実地踏査の研究を積んでいて、真実性があるように思われた。そうなると私の聖書は神の言葉であるという信仰が動揺し、牧師になろうという目的の基礎に亀裂が生ずるわけになる。私は半年ばかりで同志社をよして、早稲田の政治科に入学した。しかしそれも一年余り在学したのみで、私は「ジャパン・タイムス」という英字新聞の記者になった。
 そこで私の読書の一転機が来た。それまでも私は英語の新聞、雑誌や書物を読んではいたが、英語で文章を書くことはなかった。しかるに英字新聞の記者となった以上、下手でもそれを試みなければならなかった。ことに「ジャパン・タイムス」のつづきとしてニューヨークで「オリエンタル・レビュー」という英文雑誌を出すようになっては、ますますその必要が増して来た。こうしてついに十五年間も英語の生活をしたのである。
 ここでその経験を言えば、日本人で英文を書く場合には、ただ意味が通ずる文章を書くことを目的とすべきで、決して美文を書こうという野心を起してはならないということである。これは「ジャパン・タイムス」および「オリエンタル・レビュー」社長頭本元貞氏が私に告げた教訓でもあった。
 ところでとにかく、英文を書く仕事に入ってからは、一層本気で英語の新聞、雑誌や書物を読んだ。「ジャパン・タイムス」に入ってから四、五年した頃、日露戦争が始まって、日本は連戦連勝で、われわれのごとき平凡な新聞記者ですら、意気軒昂たることを禁じ得なかった。ことに外国新聞記者が日本を英雄化した通信を見ることが何よりもうれしかった。どこの国民だって外国から讃められてうれしく思わないはずはないが、今まで東洋の後進国だと見られた日本が、世界の強大国と肩を並べるように書かれると、日本人としてうれしくなかろうはずがない。それが自惚れになって後に(わざわい)を残したこともあろうが、国を愛する人情で(ゆる)すべき点があるのではないか。それ故に日露戦争に関する外国の書物は何んでも読んだが、それがどんな本であったか今は大抵忘れた。ロンドンあたりの新聞に出た軍事通信は切抜いて本にして持っていたが、私は大震災と戦災で二度も丸焼けになった故に、それも残っていない。
 その当時から外国人の日本に関する書物は見当り次第読む癖がついた。今更言うまでもないが、ラフカディオ・ハーンの日本に関する著書は、すでに世界的の名著となっていたが、私はハーンの物と言えば片端から愛読して巻を措く能わずという感じであった。ハーンと後には親友でチェンバレンもまた流儀が違っているが、私は非常に好ましく思う。かれの『日本事物』という英文の一冊は辞書の体裁に出来ているが、実は日本のいろいろの事物と風俗に関する随筆集と見てよい。もとよりわれわれ日本人ですら知らない事柄をチェンバレン一流の見方で描写しているので、いつどこを開けて二、三ぺージ読んでも面白い。私の持っているのは戦時中出版されたもので、所々何ページも鋏で切ってあるのが癪である。これは戦時の言論統制の旧跡記念物である。
 私は新聞記者、あるいは新聞寄稿家として五十年の生活をしたのであるから、専門的の学識というものには全く縁がないのは恥かしいわけである。書斎には日本と西洋の百科辞典があって、必要の時はそれを見てお茶を濁すという程度である。それでも私の書くことは大体政治に関連を持ったものであるから、浪人をしていた時に、明治維新前後の政治家(例えば大久保利通とか木戸孝允とかいう連中)の文書を集めたことがある。しかしそれはまた一冊も読まない前に空襲で焼かれてしまった。別に読んで面白いというものでないから、急いで買わねばならぬとは思わない。神田あたりの古本屋を歩いて実際買って来るのは直ぐ読みたいと思う書物か、あるいは小説か随筆物になり易い。
 小説は学生時代からよく読んだ。京都の三高の生徒であった頃、内田魯庵訳のドストエフスキーの『罪と罰』に魅せられた。この訳は小説の半分しか完了していなかった。全部を読みたいと思って学校の第二外国語のドイツ文のものを買ったが読めなかった。二、三十年の後古本で英訳物を買っ.たが、後半は前半ほど面白いとは思わなかった。けだしそれは私自身の気分が若さを失ったためかもしれない。その当時最も深い感銘を受けた小説は、ロシヤのレールモントフ作の『浴泉記』(小金井きみ子訳で鴎外の「しがらみ草紙」に連載されたもの)であった。トルストイやツルゲーネフは英訳物や日本訳で相当読んだが、やはりドストエフスキーほどの真剣味を感じなかった。
 英語の小説で私が最も深く親しんだのはキプリングである。スティーヴンソンの作は大抵みんな読んだのであるが、キプリングほど親しまれない。かれの傑作は『プレーン・テールス・フロム・ヒルス』であろう。キプリングがインドの英字新聞記者をしているとき、短篇を書いて新聞の埋め草に出してもらったものだと言われる。一篇や二篇は五分か十分で読了されるのだから、いつでも気分の重い感じのする時ちょっと開いて読むと、天下を呑んだような軽い気持ちになる。またキプリングの詩で一分か二分で読了されるものの中にも同じ効能のあるものがある。旅行に出るときなどにはたしかに清涼剤とともにポケットに入れる価値がある。