馬場恒吾『自伝点描』「自伝」旅に学んだ人生行路

旅に学んだ人生行路

「新聞五十年」という題で書き出したものの、中の二十年はどこの新聞に所属しているというのでなく、いわゆる浪人時代であって、いろいろの新聞や雑誌に寄稿して生活していた。この浪人時代は、大正十二年の関東大震災から太平洋戦争が済んだ後まで続いた。
 震災と戦災の二度とも、私の家は丸焼けになった。初めの震災の時は、私は芝の愛宕山の下に住んでいたが、二階の居間の本棚がうつ伏せに倒れていたために、そして電燈が消えて暗闇であったために、どこに何があるか判らず、持ち出したものは、空の折カバンと前記の枕元に置く時計を入れたのみであった。その時計は、それから三十年の今もなお夜は必ず私の枕元にある。
 二度目の丸焼けは、信州に疎開した留守に起った。昭和二十年五月二十三日、私は東京にいるのが不安で、一時、代議士であった本藤恒松君の所へ疎開すべく、千曲川を隔てて、長野の対岸になる綿内という村に妻子を連れて行った。そこに落着くと決まれば、荷物を取りにまた東京に来るという計画であった。
 信州に着いた夜から、東京は空襲だというラジオを聞いたが、東京から一週間も何の知らせもなかった。けだし、私の家は無事であろうと思って帰って見ると、残っていたのは玄関の踏台の石ばかりで、少しばかりの荷物を入れた防空壕の屋根の真中には、焼夷弾の落ちた大きな穴があいている。これでは東京に帰っても仕方がないので、われわれは信州に戻り、終戦の年の十一月末までそこにおった。東京に帰っても住む所がないので、逗子の親戚の平島二郎君の一室を借りて住んでいた。それから間もなく、「読売新聞」に出ることになってそれが昭和二十六年の一月まで続いたのであるから、新聞五十年ということになる。
 しからば五十年の経験で何を学び得たかと言えば、人間の憧れはいつでも、天地の自然に対してであろうと思う.、新聞社に勤めているときでも、しばしば「ああ! 旅行に行きたい」と考えたのであった。しかし用もないのに、ぶらぶら旅行するということは気が咎めて、そう自由に出掛けられるものでない。
 浪人時代にはその点割合に便利があった。例えばどこからか頼まれて原稿を書くとき、家にいると雑音が多くて書けない。だからどこかへ一日か二日の旅行をして、宿屋で書きものをするといえば、それで良心が慰められるとともに、実際用事もはかどる。しかしそれも余り遠方だとか、骨の折れる旅行では役に立たない。また余り賑やかな所、あるいは友人のいる所では都合が悪い。したがって私は千葉県の寂しい海岸とか、上州の山奥の温泉とかにはしぼしぼ行った。そうしたところで、静かな天地自然を眺めて無念無想でいる間こそ、これが人生の最も有意義な時間だと思った。
 新聞記者としての生涯は大抵人を訪ねて種を取るとか、意見を聞くとかに終始するのであるが、私が最も大切だとする教訓は、旅行によって天地自然の姿を眺めて得られたと確信している。三十代のとぎ「ジャパン・タイムス」にいた頃、アメリカに行き、四十代になってパリ講和会議で、大西洋からインド洋、東シナ海を通ったので、いろいろ天地自然に接することが出来た。その中で、今でも私の頭に沁み込んでいる感懐の一つは、米国横断の汽車でコロラド峡を上った時のことである。今日飛行機で雲の上を飛んで行くことは時間の節約になるが、地上の風物に接する機会を逸する。
 コロラド峡というのはデンヴァーからソルト・レークに行く間にあって、鉄道の両側は六千尺という高さの赤茶けた岩壁が直立して、その間を二、三十間幅くらいの真青な河が急湍をなして流れている。汽車はそれに沿って行く。車室の入口に立って見ていると、ここで一寸でも脱線すれば、車体が粉微塵になるのは勿論のこと、われわれの死体だって永久に発見出来ないだろうと思った。汽車は何時間もこの峡谷を上って行く。私はいつまでも河と岩壁を眺めていた。不思議なことには、この恐ろしき景観が恐ろしくなくなり、かえって何か知らざる魅惑の声をもって、われわれに呼び掛けているものがあるかのごとく感ぜられた。浅間の火山口に飛び込む人があるのも、こうした心境からではないかと思われる。
 何故そうした魅惑の声を感じるか。私は近頃外国の雑誌で、このコロラド高原の岩層は何百万年の昔は海底にあった、その証拠には、地球の生物の発生の起源を示すところの(ぜんまい)のごとき植物や、極めて初歩の貝類がこの岩層の中から発見されるという記事を見た。もっとも薇や貝類が人間の霊魂というものに類したものをもっているとは思われぬが、かれらもまた生物であれば、それが死滅したときに、何かの叫びを上げなかったという証拠もない。米国では「荒野が呼ぶ声」という言葉がある。われわれは文化人であると自惚れていても、自から省みれば、心の底には野性にあこがれる何物かを包蔵していることは判る。それもそのはずであろうか。
 われわれが歴史で知っている過去はわずかに数千年のことにしか過ぎない。しかし生物は突然に出来るものでないが故に、数百万年前の微生物から漸次に変化するか、または突変的に奇妙な生物に変化して、こうした生意気な人間という動物が出来たと見るほかはない。そうであれば、そうした事情に対しては無知識であっても、コロラドの六千尺からの赤茶けた岩壁に向うとき、われわれは数百万年前、または数十万年前の古い棲家に対面することになる。われらの浅薄な知識の中には、それの認識はないにしても、それを感じて一種の郷愁に似たる感情をそそる。それが私を車室の入口のデヅキに釘付けにして動かさなかったのであろうと思う。コロラドの峡谷を遡ること何時間かの後、汽車はユタ州の砂漠に出る。それは標高七千尺の砂漠で、矮小な(くさむら)が点々としてあるばかりだ。首都のソルト・レーク・シティは、モルモン教の本拠である。塩水湖というからには海底からもり上って大陸中心の湖水になったのであろう。私が今老人であるから、古い感情にのみふけると思われては困るが、コロラド峡の感激は私自身の意識になくても、人間が生命の故郷に憧れるという普通の人情といえるであろう。
 それとは異った意味で今一つ、私が感慨無量の心をもって見た景色は英国からの船の旅で、スエズ運河を通って紅海に出た時のことであった。パリ講和会議の帰りにロンドンから郵船の三島丸に乗って日本に向つた。スエズ運河にはいる前に、小アジアのポートサイドに数時間上陸した。それまですでに十二日間も船に乗っていたのだから、ちょっと港に入っても直ぐ上陸してみたくなる。回教徒の寺院はどんなものかと入口から覗いて見ると、ガランとした大きな礼拝堂の中で、信者は一人一人壁に向って黙疇をささげていた。神に接近するには独りで黙座しているに限るというわれわれの常識通りだと思った。何分この地方の暑さはアフリカに近いためか、到底形容しようもない苦しいものであった。それは初夏の頃であった。われわれの船はポートサイドを朝出発したが、スエズ運河を通るに、ほとんど一日を費やす。夜八時か九時頃、船側に当る波の音が急に激しくなったので、海に出たのだと分った。甲板に出て見ると、山の手らしき所に点々と電燈の輝くのが見える。それがスエズの町の灯であろうと察したが、夜のことだから陸地の模様は分らなかった。
 紅海は誰でも知っているごとく、アラビアとアフリカの問の細長い海のごとく地図には出ているが、船に乗っているものにとっては、太平洋と同じく、滅多に陸地は見えない。しかしその暑さは言語に絶するというほかはない。大抵の乗客は薄いパジャマで、昼でも甲板の長椅子に横になっている。稀に着物を着換える必要があるとき、私は自分の室に到って、洋服を鷲づかみにして甲板に駆け上った。船室の熱気にはとても耐えられなかったからである。
 私が景色に感心したのは、スエズを出て一日か二日目のことである。例のごとく甲板の長椅子でウツラウツうしているとぎ、急にアラビア側の陸地が見え出した。陸地といっても海より少しばかり高い平沙茫々たる砂漠である。所々に突兀とした岩石が海岸に盛り上っている。眼の届く限り、樹木も家も見えない。太陽は灼熱の光りを放っている。地球はかくして焼けて行くのだと思わざるを得なかった。それでもアラビア側の海岸には道路があるらしく、人が馬に乗って、船と同じ方向に向って走っている。いくらアラビア人だって、汽船と競争しているのではあるまいと思った。しかし、精悍なアラビア馬に乗って、海岸を駆けて行く姿は颯爽たるものであった。
 海岸には木がない。赤茶けた岩は珊瑚礁で出来ているという話だが、船から見た所は、ただの岩石としか思われない。その奥は焼けつくような砂漠であることは、世界地理で判っている。この荒涼凄惨な景色に対して、われわれは緑の国、温暖な気候の日本に育って来たことを有難いと思った。
 しかしこの風景を見た後で、私はいく日もいく日も感慨無量の気分になった。日本に育って、天地自然は愛すべきもの、感謝すべきものと思っていたのとば反対に、天地自然は如何に恐ろしきもの、惨酷無慈悲なものであるかに驚かざるを得なかったからである。世界の歴史はアラビア地方の東部に当るバビロンの記録をもって始まるが、それは今から約五千年の昔に溯る。現代になってバビロンを訪問した記事を見ると、そこも今はやはり砂漠の中の畳々たる石材の廃墟が残っているのみだとある。昔はチグリス、ユーフラテスの流域の沃野をもっていたのであろうが、砂漠は生長して漸次地球を人間の住居に適させなくなる。紅海の西岸はアフリカであるが、これもサハラの大砂漠がほとんど大西洋岸まで近づいている。砂漠は人間の棲む所としては海よりも悪い。そこでは渇を癒やすべき水がないために、いくばくの人間が枯木のごとくなって死んだか判らない。コロラド峡では私は人間が発生した起源の貝殻を考えて、いく百万年の過去を考えた。紅海で赤茶けた岩と茫々たる砂の平野を眺めては、かくして人間が死滅して行く未来を考えた。これだから宗教がこの地方から生れたのも無理でないと思った。マホメットはアラビアのメッカから出たのである。それは千三百年も前のことであるが、かれは初めメッカでかれの宗教を説いたが、その町の人々の迫害に堪えかねてメジナに逃げた。それまではかれはただ説法するだけであったが、メジナで心機一転、暴に報ゆるには暴をもってせざるべからずと決心して、武力を備えて自分の宗教を拡めることにした。「なんじら戦慄する奴隷よ、このコーラン(教典)を信ぜよ、厭ならこの剣を喰え」というのが、かれの掛け声であったと伝えられる。こうしてかれの回々(フイフイ)教の勢力は西はアフリカの地中海沿岸を通って欧州のスペインまで延び、東はトルコからインドに及んだ。
 基督教はアラビアの北につづくユダヤから起った。仏教はインドから起った。アジア大陸の南部にある焦熱地獄の境地は人間をして宗教的冥想に耽けらしめるものではないか。私も紅海を通る一週間前後は昼も夜も甲板の籐の長椅子に横たわってウツラウツうしているよりほかに方法がなかった。エジプトに奴隷になったユダヤ人がエジプトから逃げ出す時、紅海の水が壁を立てたごとく二つに別れて、その間を通って逃げ出し得たという伝説も、こうした灼熱の空気が生み出す幻想ではなかったかとさえ思われる。アラビアまたはコロラド峡のごとき偉大な景観は小さい島国の日本に見出されない。しかし他所にはたくさんなくして、日本が有する特種の自然現象は火山であろう。それは地球の表面から地殻の中心に通ずる唯一の通路だと言える。
 前に言ったごとく、「国民新聞」を罷めて「読売」に入るまで、私は二十年間浪人生活をしていた。初めの三年間は「国民新聞」からもらった退職資金で食っていたが、それが尽きると、いろいろの新聞、雑誌に原稿を書いて生活した。
 それは不規則な仕事であるが故に、閑を(こしら)えては主に関東、北陸に目的のない旅行をした。そのきっかけを言えば、浪人した当初、私は四谷の塩町に近く住んでいたために、明治神宮の外苑を日課のように散歩していた。夜は四谷の通りに出て、夜店の連珠を眺めて時間を潰すこともあった。ある朝散歩の出がけに本屋に立って本棚を見ているとき、若山牧水の『紀行文集』(改造文庫で四十銭)を買い、それを外苑を散歩する途中から、家に帰っても読み続けた私は、牧水の旅行癖に共鳴するとともに、和歌を作ることにも興味を覚えた。後に牧水が足跡を辿って諸方に旅行した。その中でもっとも興味をそそられたのは、奥上州の湯槽曾、谷川温泉、吾妻峡の川原湯から六里が原に行く牧水にとって苦難を極めた旅であった。私は牧水のごとく健脚でないから、多くは電車もしくはバスの厄介になったのである。軽井沢には学生の時五十日から滞留して、浅間の噴煙は朝夕に見ながら山には遂に登らなかった。外国人の男女の避暑客が隊を組んで行く鬼押し出しもその当時は見なかった。
「中央公論」の嶋中雄作氏が健在であった当時、二七会と称して、文士評論家十数人の会を作った。それが毎月集り、春秋二季には旅行した。この会で一緒に旅行した連中が今は故人になったのが多いのが遺憾である。その中には清沢洌、上司小剣、徳田秋声、近松秋江、千葉亀雄、稲原勝治、水野広徳、杉山平助などが数えられる。しかし長谷川如是閑、正宗白鳥、芦田均、小汀利得などがまだ健在であるのが意を強くする。
 この会はある年の秋、川原湯に行った。また別の時の旅行で草津にも行った。帰京の途は六里が原を横切り、鬼押し出しを見て、軽井沢から汽車に乗るのであった。鬼押し出しに立寄ったとき、偶然軽井沢に来ていた近衛文麿公に会った。鬼押し出しは浅間から噴き出した岩塊が一里四方もあるかと思われる広さに積み重っている。岩といっても小さな家ほどの尖がつた岩が一面に積みかさなっているのだから、一度その中に迷い込むと、生きては還られぬという。これだけのものを噴き出す火山の脅威は大したものだと、実感に訴えられる。
 草津の上にも白根火山がある。草津温泉それ自身の背後に湯烟を見ると、井戸くらいの大きさをもついくつもの泥の畑から、ブクブクと熱湯と硫黄を噴き出している。地球の表面は固い地殻になっているが、噴火山や温泉が、地球の内部がまだドロドロの溶岩であることを証明する。だからわれわれの意識は常にわれわれの足の下の危険を感得する。
 私は一度、上信国境の鳥居峠の麓の新鹿沢に行った。ここは右に浅間、左に白根の噴火山を見つつ、六里が原の広野に面している所であった。浅間の噴煙が悪鬼のごとく誓え、それに日光が赤くまたは黄色に照り反えしている時は荘厳であると同時に、地球の呻きを聞くという感がした。人生は地球に釘付けにされているからには、火山こそわれわれの将来を語る唯一の指標であろう。私は噴火の煙をむしろ愛着の眼をもって眺めた。