馬場恒吾『自伝点描』「自伝」大震災の思い出

大震災の思い出

 大正十二年の関東大震災にも思い出がある。この震災には「国民新聞」にいる時遭ったのだが、僕が社の二階の部屋にいる時グラグラとやってきた。それで僕は上から物が落ちかかっては危いと思って二階の窓の張り出しに飛出していった。下の道路を見ると、よく飲みに行ったカフェー・プランタンのものが往来から、「馬場さん、そんなところにいると危いから早く降りてぎなさい」と叫んでいる。それで僕も下に降りようと思って部屋の中に入ると、部屋の中はモーモーと土煙がたっている。これは大変なことになった。天井でも落ちてきたら危いと思って、部屋の中のテーブルの下にもぐり込んでしばらく様子を見ていた。そのうちに地震も少し鎮まったので、いまのうちに下に降りようと思ってテーブルの下からはい出してみると、部屋の中は電線やなんかがクモの巣のようにぶら下っている。その中をかき分け、ようやく下に降りた。
 火事は十二時ごろから起ぎて、内幸町の「ジャパン・タイムス」や「都新聞」も焼けた。夜の九時ごろになって、「朝日新聞」のある滝山町も焼けたが、「国民新聞」はまだ大丈夫だった。夜になって佐久間町の家に帰って、まず二階にある本箱のところへ行ってみると、本棚がうつぶせに倒れている。何か取り出そうと思ったが、どれがどの本か分らない。それで書物なんか一冊も出せなかった。ただその時持ち出したのは、しょっちゅう枕もとに置いて寝る大福餅くらいもある時計だけだ。これは横田千之助がアメリカみやげといって持ってきてくれた一ドルかニドルくらいの安ものだろうが、非常に便利で、夜でも針にラジウムか何か塗ってあって、よく見えるやつだ。それを一つ革カバンに入れて持出したくらいだ。アメリカに行った時の日記やなんか、僕としては非常に惜しいと思っている書物をことごとく焼いた。
 この震災で「国民新聞」も焼けてしまった。そこでこの新聞を復興するには金が要るというので、「主婦之友」の石川氏が金をもって乗り込むということになった。この石川という人は非常に立派な人だった。はじめは三十五万円くらいつぎこんだが、しまいにはこの石川氏も「主婦之友」という雑誌と「国民新聞」という日刊新聞で、二足のわらじをはくことはどうしてもできない。抱合心中になっては困る、ということになって、石川氏は「国民新聞」から手を引くことになった。僕はその前に「主婦之友」の石川氏が来るといった時に、どうも金主が変るというような時には僕のようなものがおっては邪魔になって話がこわれてはまずいと思った。別に喧嘩なんかはしないけれども、書くことになると勝手なことを書くから具合が悪いだろうと思って、ご免をこうむった。
 この「国民新聞」をよした時から終戦まで約二十年間の僕の浪人生活が始まった。