馬場恒吾『自伝点描』「自伝」「ジャパン・タイムス」記者の頃

「ジャパン・タイムス」記者の頃

 日露戦争

 私は今まで五十年間新聞記者または寄稿家として生活して来た。ほかに何の芸もないが故に、今後も筆を捨てるという意志はない。とにかく今まで筆を持って世渡りが出来たことには、私に新聞記者としての心得を教えてくれた一人の恩人がある。それに関して、英語の雑誌でちょっと触れたこともあるが、新聞回顧を書くからにはそれを言わないわけにはいかない。
 私が新聞記者になったのは、日比谷公園の南側にあった英字新聞「ジャパン・タイムス」に入ったからである。そこで初め九年働いた。ところで新聞記者を九年もすると大抵の人間は生意気になる。いくら平凡な記者でも世間を小馬鹿にする気持ちになるのは、あるいはやむを得ないと言える。新聞そのものは天下の公器という役目をもっているが、何分実際に記事を書くのは記者であるから、世間に新聞記者を何か権力を有するものであるかのごとく取扱う。そのために若い新聞記者がいい気になるとも言える。
 ことに私を思い上がらしめた一つの原因は日露戦争であった。一九〇四年、日本の海軍が旅順港外におったロシヤ艦隊を撃破し、陸軍が満州に進撃したことは世界を驚かしたのみならず、われわれも狂喜感激にたえなかった。何分ロシヤは世界の強国で、欧州の諸国からも畏れられていた。それを東洋の島国である日本が真正面から挑戦してかかり、そして海軍の戦争で花々しい戦果を上げたということは、列国を驚かさずには措かなかった。もっともその当時日本は英国と同盟条約を結んでいたのだが、ロシヤとの戦争は始めから終りまで、日本単独でやったことであった。こうした大戦争が勃発したために米国から、欧州から多数の新聞記者が東京に乗り込んで来た。もとよりロシヤにも在ったであろうが、ロシヤの当局者が外国通信員をどう取り扱ったかはわれわれは知らなかった。
 ところで日本の参謀本部は、東京に来た外国の新聞記者が戦地に行くことを許さなかつた。もっとも日本の軍人の考えからすれば、ここは日本が浮くか沈むかの瀬戸際である。戦争は外国の新聞記者に見せるために始めたのではない。軍の…機密を守るために外国新聞記者を内地に缶詰めにするのは当然だというのである。その代り、日本の当局は外国の記者をせいぜいご馳走したり、面白い処に案内しようというのである。だが、通信員を派遣した新聞社にとっては、費用ばかり出して原稿が来ないことが何より不満であった。出るばかりで入るものはない()という電報が来る。一方、日本の新聞も初めは特派員を出せなかったが、戦地から還って来る負傷兵や人夫などをつかまえていろいろな話を聞く。私がおった「ジャパン・タイムス」は別に特派員は出さなかったが、こうした戦場逸話を英語に翻訳しては新聞に出した。東京にいる外国通信員は、日本の新聞が読めないから自然「ジャパン・タイムス」一つをたよりにして、新聞社に来ては何か面白いことはないかと聞く。
 それを太平洋戦争が終ってからの今日と比較すると、まるで地位顛倒で、われわれが種の供給者で、かれらがそれを通信として本国に送るのであった。こうした状勢がわれわれ若い新聞記者をしてますます生意気にならしめた。
 もっとも当時の「ジャパン・タイムス」編集室は、今の新聞社とは全然比較にならぬ程の少数の人で仕事をしていた。編集長は英和や和英の辞書の著者として有名な武信由太郎氏、主事は慶応の先生であった高橋一知氏、それに英国人が一人われわれの英文を直す役をしていた。ほかに雑報記者が五人か六人おった。私もその中の一人であった。日露戦争当時は、重大ニュースといえば陸軍または海軍から出る公報以外にないのだから、われわれはそれを急いで翻訳し、西洋人が文章を直して工場に出す。その間に戦場の地図を置いて凸版に回す。校正が来ればそれを読む。私は最後に大組をして新聞が刷り出される一枚を見て家に帰る。それが大抵夜の十二時過ぎであった。しかし勝ち戦さの時であったから、夜おそくなっても少しもいやな気持ちはしなかった。だから戦争が勝利に終り、ポーツマス条約で日露講和条約が成立し、そしてその講和条件がわれわれが期待した程よくないというので、東京では交番焼打ちが始まった。
 私は焼打ちを手伝わなかったが、日比谷公園の前の今の帝国ホテルの所が内務大臣官邸であって、そこを群衆が焼打ちするのを公園の中から見物していた。
 私は日露戦争を終らしめたポーツマス条約が悪いという意見ではなかった。ただ官憲と群衆が争う時になると、自然に群衆に味方をする気持ちになった。警官の一隊が官邸から突貫して出ると、公園の中の群衆が石を投げて撃退する。それを幾度も繰り返していた。その時は真昼間であったが、夜になると市中の交番の焼打ちになったのである。私は日比谷公園から新聞社に還って、今見た光景を興奮して話をすると、社長の頭本元良民が聞いていて、ちょっといやな顔をされたことを覚えている。けだし私に軽挙盲動してはいけないということであろうと思った。

 シーメンス事件
 僕はその頃芝の南佐久間町に住んでいたから、内幸町にあった社から十分間くらいで帰れるんだから大して苦にもならなかったが、いつも十二時間労働だった。そのころの外国通信といえばルーターの電報一本で、東京の各紙もこのルーター電を使っていた。ルーターは「赤電」といって赤い紙に鉛筆で記事が書いてあって配達されてくる。それを僕らが翻訳して「ジャパン・タイムス」の小使に渡すと、小使はそれを謄写版にして十枚ばかり刷って各新聞社に「ルーターの電報が来ましたから取りに来て下さい」と各紙に知らせると、各社から小僧が取りに来たものだ。
 それからあの有名な「シーメンス事件」が起きた。その事件に火をつけたのは「ジャパン・タイムス」ということになっているけれども、実はルーターの電報で来たのだ。この事件にはルーターの通信員のプーレーという人も関係しているらしかったので、ルーターでもプーレーのことが問題になって、ついにプーレーは日本から帰されることになり、撲はプーレーのことを社説に書いた。ちょうどその社説のゲラが編集室のテープルの上にのっかっている時.当人のプーレーがだまって入って来た。編集室といっても五、六人しかいない。ほかのものが「プーレーが来た」という。僕も「困った」と思ったが、どうすることもできない。とっさにそのゲラの上にどっかと腰をおろして何食わぬ顔をしていた。プーレーはどうもおれのことを書いたらしいということを知っていたのかも知れないが、しきりに「おれのことを書いたら、こんなちっぽけな新聞なんかルーターの財力でもってすれば、十や二十は買い潰してしまうそ! どうだおれのごとを書いたろう」とみんなをにらみつけながらしきりに部屋の中をウロウロ歩き回っていた。僕が何食わぬ顔で、「まだ書かないが、これからどんな原稿が出るか判らない」と言って動かないものだから、仕方なしに出ていったが、あの時は本当に困った。
 この「シーメンス事件」というのは、ドイツのシーメンス商会から機械を輸入するときにコミッションを取ったというのだが、このほかに文書偽造というものがあって、日本の大きな商社がそれで訴えられている。この文書偽造ということは、英語には「フォゼリー」と訳されるが、その商社の人が僕のところへ「フォゼリーといえば、ほんとうに泥棒かなんぞみたいに西洋じゃ考えている。われわれみたいな大きな商社がフォゼリーをしたと書かれては世界的に信用を失うことになる。何とかできないか」といってきた。それで僕は「文書を作りかえることはフォゼリーだ。偽造はフォゼリ!以外にない」というと、その人は「それはそうだろうが、これは日本の名誉に関することだから何とかもっと軟らかい言葉はないか」としきりに頼むのだ。僕は「ほかに適当な言葉があればもちろんそれにしたいが、偽造ということはフォゼリー以外にはないから何とも仕方がない」といってやった。どうも僕は新聞記者になったとはいっても英字の新聞記者だから、他の記者のように普通の商売人と交渉をもつようなことはほとんどなかったので、突っ張ることはどこまでも突っ張ったものだ。
 僕を「ジャパン・タイムス」に入れたのは前述の頭本氏であった。日露戦争後、かれは「ソウル・プレス」という英字新聞を創刊するために朝鮮の京城に行った。それから三年ほどして、一九〇九年頭本氏がニューヨークで「オリエンタル・レビュー」という英文雑誌を出すとき、饌も一緒にニューヨークに行くことになったのである。船はたしか郵船の信濃丸であったと思う。
 僕が新聞記者としての教訓を受けたということは、この船に乗ってからである。