馬場恒吾『自伝点描』「自伝」早稲田時代

早稲田時代

 五十年も前に僕は早稲田大学の前身、当時の東京専門学校政治科に入った。入学してから一年くらいたった時だろう、大隈庭園で皆で写真をとるという。大隈伯と綾子夫人が真中の椅子に腰掛け、学生がぐるつと坐ったものだ。そこへ坐る時に、僕の背中が大隈さんの膝にもたれる。もう足をやられた後だから、さわっては痛いだろうと思ったが、とにかくそういう風にして写真をとったのが大隈さんに接近した最初で、大いに名誉だと思ったものである。戦災で写真も焼けてしまったが、真中に僕の顔が出ていて豆くらいの大きさで、大隈さんの顔は少し大きかった。ちょうど一九〇〇年で、今から五十年前だ。僕はすでに相当生意気だった。
 その当時早稲田近辺は一面の田圃で、早稲田中学のあたりがその真中になり、田圃の中を通り向うの早稲田町に僕は下宿していた。
 僕が一番はじめに政治問題に興味を感じたのは、政府が地租増徴案を出して、大隈さんがこれに反対したときである。芝の紅葉館で大隈伯が演説するというので、早稲田のわれわれ学生はその庭に集った。やがて大隈さんが杖をついてこつこついわせながら出て来た。縁側に立って庭にいるわれわれを見ながら、「諸君」といったら、いきなり「中止!」と来た。今までどこにいたのか、紅葉館の垣根の外から巡査が四、五十人入ってくる。それに僕はすっかり憤慨してしまったのである。その頃は誰の内閣であったか忘れたが、政治を年寄や官僚の連中にやらせていてはいかん、大隈さんだって維新当時働いたのは三十代だから、僕らがやるのはかまわない。大いにやろう。政治運動をやりたいが、学生だからまず政治雑誌を出そうということになったのである。
 当時政治雑誌を出すには、東京市内で保証金が二千円いる。無論そんな金はありはしない。ところが郡部で出すと百七十五円ですむというので、穴八幡の上の戸塚村のあたりに友達を下宿させて、そこを発行所にすることになった。そこで五、六人集って、後に代議士になった紫安新九郎などが仲間だったが、誰も百七十五円の金を持っていないのである。相談の結果、それでは大隈伯のところへ行って金をこしらえようということになった。
 僕は早速大隈さんに面会を申込んだところ会ってやるというので、二、三人の仲間と会いに行った。随分無茶な話で、大隈さんに叱られるかも知れんと思ったが、何しろ若い二十四、五の時分だ。大隈さんの応接間は誰でも客を通すというので、僕が行ったときにも成瀬仁蔵といって日本女子大の創立者であった人や、それから紳士らしい人が二、三人いた。そこで話をしょうと思うが、大隈さんは紳士連中とばかり話をして僕らの方に向かない。でひょっとこちらをむいたときに、僕は口を切って、「政治を年寄に委せていたら碌なことはないから、饌ら青年が政治をとるんだ」といったら、「それでどうするか」というから「雑誌を出します」、「用件は」と聞くから、「用件ぱ百七十五円貸して下さい」という。「そうか」といったまま、成瀬さんとか、いろいろな紳士に向って、世界の情勢がどうだとかこうだとか政治上の話をしている。そんな話は聞きたくない。金を出してくれるのか、くれんのかそれを聞きたいのだが、大隈さんは談論風発だから少しも言葉を挟む間がない。黙って聞いていてちょっと話が途切れると、「伯爵」、「話は考えておく」それからまた世界の情勢だ。「考えておく」というのだから、考えておくだろうと思ってそれじゃまた、と僕らは引退った。
 三、四日して僕は幹事の田中唯一郎さんから、「君はけしからん、大隈伯のところへ行って金をねだったんじゃないか」と聞かれた。「ねだったんじゃない、雑誌の保証金を貸してもらいたいと言っただけだ」と答えると、「まあともかく貸すそうだから、明日の朝行け」というのである。これはしめたと思って、翌日二、三人の学生と一緒に行き、応接間に通された。客は誰も来ていなかった。大隈さんが杖をついてこつこつ出て来るのを見ると、片手に金を持っていて僕に渡した。そして「それを落しちゃ駄目だぞ」といった。僕は天下の志士のつもりで行ったが、大隈さんから見ると子供だったのだろう。「落しはしません」といって、もう一ぺん金を入れた帯をおさえて、「ありがとうございました」と礼を言って帰ってぎた。
 そこで「二十世紀」という雑誌を出したのである。ちょうど一九〇〇年だからまだ二十世紀にはなっていなかったが、早手回しにそうつけたのだ。そのとき一月の印刷代が何部かで三十五円かかった。その金が出ない。僕らのときは郷里からおふくろが折角送ってきた着物を袖も通さないですぐ質屋へ持って行くのは平気だった。そういうことをしても印刷代が払えない。そこで今はないが、錦輝館という大きな場所で演説会を開き、大隈さんに出てもらった。その時分演説会は入場料は無料だったが、僕らは五銭とった。それで五十円の金が入る。それをやったところが田中幹事にまた叱られた。「君たちぱ大隈伯をつれてきて、演説会を開いて金をもうけるんだ」、「いや金をもうけるのではない、印刷代を払うんだから悪いことはない」というようなことを言ったものである。
 それから青年会などをつくって学生時代は大分活動したのだが、親父が事業に失敗したため、僕は一年半ばかりで早稲田をよして新聞記者になった。新聞記者を十年もやっていると誰でも生意気になり、人を喰った気になる。今から考えても恥しいわけだ。ちょうど大隈侯が園遊会を開いたので久しぶりに出かけて行った。庭園へ天幕を張って、千人ヌらい集っているところへ、大隈さんがテーブルの真中に立って演説をした。始めはいわゆる天下国家を論じたが、それはどういうことをいったかよく覚えていない。終る頃になって、大隈さんが声を落していわく、「諸君! 早稲田を出た人ばかりが、こういう風に多数集って嬉しい。嬉しいが、諸君に一ついって聞かすことがある。諸君は節を曲げてはいかんが、曲げる危険があるときに曲げなくてすむ秘訣を伝授しよう」というのである。これはつまりこうだ。例えば百円月給をとっているものが百円なければ暮されぬという習慣をつけると、自分の意見を曲げても百円の月給をとっておりたいと思う。ふだんから心がけて百円取っていても四十円、三十円でも暮して見せるという決心になっておれ、それが一番よい方法だというのである。僕はそれを聞いて、大隈さんはわれわれが相当の紳士になっても、やはり子供のように可愛いんだなと思ったのである。
 大隈さんの顔を知っているものはだんだん少くなってきたが、大隈さんという人は強い人に向っても恐れず、弱い人間に対しても高ぶらず、天上天下皆同じように可愛いがってくれた。それが本当の民主主義者だと思う。僕は大隈さんに世話になったし(その借りた百七十五円は後に返したが)、今でも尊敬している。