緒方竹虎『人間中野正剛』「東条政府の一敵国──検挙から自刃まで──」

緒方竹虎『人間中野正剛』「東条政府の一敵国──検挙から自刃まで──」


東条政府の一敵国──検挙から自刃まで──
  早暁の一斉弾圧
  母堂への心遣い
  官邸日本間の大評定
  松阪、東条の激論
  東洋的諦観という印象
  いわく不敬罪、いわく造言蜚語
  陰険な独裁者心理
  従容たる中野君の最期
    【中野泰雄氏の手になる部分は掲載せず】


東条政府の一敵国
  ──検挙から自刃まで
 しかし、中野君の存在は何といっても当時の政界において特異なものであった。推薦選挙を否定し、四十八名の候補者を押し立てて、わずかに六人しか当選しなかったことは、中野君自身次の政界に対する一つの狙いを持っていただけ、非常な打撃であったに相違ない。当選した六人の郎党のために、しばらく面縛(めんばく)して翼政会に席を置いたなども、中野君としてはいわば投げた形であった。だが、中野君の存在理由は議席を持つと否と、率いるところの大きいと舎とによらなかった。東条政府が畏怖し、政界が目を瞠ったのは、彼の日比谷または国妓館の演壇に立って大衆を鼓励する弁力、およびその弁力の陰にひそむ不屈不撓の気魄であった。
 彼は初めから演説の名人ではなかった。初めて衆議院議員に当選し、初めて議政壇上で試みた演説はむしろ稚拙なものであった。彼の雄弁は、これもまた彼の読書修養と()くなき勉強の賜であった。彼が日比谷の演壇に立って獅子吼する時、聴衆はあたかも名優の演技に魅せらるるがごとく、彼とともに昂奮し、彼とともに激憤し、彼とともに喜び、彼とともに悲しみ、壇上壇下は全く一体となって、二時間、三時間、黶くことを知らない。雄弁家多しといえども、一人の演説よく国技館に盗れてさらに周囲に蜿蜒する聴衆を集めた者はあまり他に例がないであろう。政府はこの中野の大衆に及ぼす影響力を極度に怖れ、かつ悪んだのである。
 中野君は昭和十七年十二月、日比谷公会堂の演壇に立ち、「天下一人をもって興る」という題下に熱火の長広舌を揮った。この演説は戦局の悪化を警告し、官僚統制の失敗を攻撃したものであったが、待ち構えた政府は、これを機会に言論圧迫法を楯にとって中野君の口を決定的に封じた。これと翌十八年一月一日、 「東京朝日」に載せた「戦時宰相論」の発禁とは、東条政府に中野検挙を決意せしめた二つの事件であったであろう。掴みどころのない後の中野君らのいわゆる重臣工作は、要するに中野逮捕の口実を与えたに過ぎないと思われる。
 中野君に対する東条政府の弾圧は、驕慢の極に達した東条の私情がいかに政治の上に働いたか、及び、太平洋戦争中における東条政府の政治的弾圧がいかに陰険を極めたものであったかを語る、歴史の一断層といえるであろう。そこには同時に、中野君の人間を語る幾多の横顔が見られるであろう。

早暁の一斉弾圧

 昭和十八年十月、一十一目未明、東方会と勤皇まことむすび(天野辰夫氏とその党)に対する一斉弾圧の手がくだされた。
 検挙の前日、警視庁特咼部長永岡文男、関口特高一諌長らは渋谷常盤松の訓練道場に、特高課員百余名に一夜訓練を行うからと非常召集をした。警視庁の全自動車億翌二十一日午前五時、目だたぬように近くの渋谷の大通りで召集命令をうけた。一夜訓練の名目で缶詰にされた特高課員は、つね日頃の訓練と様子が違うので夜がふけるにしたがって一体何のための訓練か疑問を持ち出した。ただ各班の班長となるべき連中が幹部連と鳩首凝議(きゆうしゅぎょうぎ)をつづけ、慌しく往来しているのを不審に見守っているだけであった。朝が来た。自動車が全部揃った時に、各班の班長が、それぞれの車に課員を点呼して乗りこませ、車がすべり出した時に、初めて東方会の一斉検挙であることと、これから担当して検挙に行く先とが発表されたのである。
 間もなくその一班が渋谷代々木本町の中野君の自邸を襲うた。班長は増田警部、彼はつね日頃東方会を担当して、その内部情勢に精通していたし、中野君とも東方会本部や自邸で幾度となく面会して、愚直な性格をよく諒解されていた。
 ようやく明け切った十月の朝、名刺を通じたのに対して応接に出て来た顔見知りの書生──中野君のところには当時八名ぐらいの学生がいた  が、「こんなに早く何んですか」と突嗟にただならぬ気配を察しながら「先生はまだ(やす)んでいます」という。増田警部の後ろには多勢の私服警官が続いた。応接室にあがって待っているうちに、起きて来た中野君が、
「何んだ、どうしたんだい」
と、警部の顔を見ながら問うと、
「今日は上司の命令でご同行願いたくあがりました」
と答えた。中野君は、
「ああ、検束か、それなら令状が要るんでないかなア、持っているか」
「そうなんですが、先生の人格を尊重して、そうしたものを持って来ておりません。()げてお願いしたいと思います」
「そうか、君らを困らしても気の毒だなア、行ってやろう、少し待てよ」
 同警部はこの頃この間の応答の態度を今更ながら述懐していう、
「中野先生は偉かったァ」と。
 警視庁から来た連中の心配したことは、書生は多勢いるし、近くには、中野君の親愛する進藤一馬君の邸やら、その他たくさんあるし、もし抵抗されれば、どんなことになるかもしれぬというので、邸の内外を見張りさせている警官も指揮者も、少なからず気を揉んだが、「君らを困らしても気の毒だなア」と言われた中野君の一言で、職務が完全遂行出来ると思って、胸のなかで大きく感謝したというのである。
 中野君と増田警部がさし合いで話しているところに、書生が、「電話です」と通じて来た。電話口に出た中野君の声がよく聞えて来る。
「令状はないそうだ、僕は政治家だから、小役人をいじめても仕方がない。行くことに決めたよ」
と答えている。「検挙のことだなア」と察しながら、席に戻った中野君に、
「誰れからの電話ですか」
「まことむすびの天野君からだ」
との答え。その朝、同時に天野君のところにも検挙の手がのびたのだが、弁護士である天野君は、令状がなければいかんでもよいと注意して来たものであろう。そこに書生が、応召する東方会員からかねて頼まれていた日の丸の旗と雅仙紙を持って入って来たので、墨を準備させて書き出した。和服の袂を手拭で肩からしばりあげ、雅仙紙に筆をおろして「四時佳興与人同」と書いた。

母堂への心遣い
 出陣する会員に約束の書を書き了えて、これが最後の筆になるとも知らず、おちついた中野君は、警部をかえりみて、
「君は車で来たんですか、そう、ご存知の通り、(うち)のおばあさんに心配かけたくないから、この家を出る時は、僕の車にして欲しい。君も一緒に乗って、途中で、僕の車をかえし、君の車に乗りかえよう」
と。食堂へ戻って、食事をすまし、洋服に着かえた中野君は、不安気に見送る四男泰雄君(当時三男達彦は応召入隊して、宅には泰雄のみいた)や書生君らに「行ってくる」と挨拶して、隻脚をステッキで助けながら玄関を出て、自分の車に乗り込んだ。山谷で警視庁の車に乗りかえ、そのまま警視庁の留置場の独房十号室におりて行った。
 引きかえした警視庁の一行は、家宅捜査をはじめ、所蔵の刀や、書類の多数を押収して引ぎあげて行った。
 中野君の直接取調べにあたったのは、前記の増田警部である。東方会担当の主任であるし、事情は精しいが、この時、特に意を用いたのは、大衆行動をして来た東方会が、極右の「勤皇まことむすび」の天野辰夫君らと提携をはじめて、中野、大野両君がよく会合しては時局を談じ、時には東方会本部に現われて、東方青年隊などに訓話していた事実と、中野君が五・一五事件の一人一殺を指導した井上日召君と某所で会合したことなどから、敗戦体制を見るに見かねて、東方会の青年らを直接行動に方向変換させようとしているのではないか。さらにまた若い地方の会員が上京して本部を訪ねた時など、激烈な中野君が、日本は戦争に負けるぞと言い、いわゆる造言蜚語になることがありはせぬか。あるいはまた公囲演説は禁止されていても、政府の政策を批判する調子で、敗戦思想を中野君がバラ撒いていはせぬか、等々。いずれも今から見ればたわいもないことである。取調官も東方会を毎日覗き、中野君の個人的性格を熟知しているから、取調べようがなく、雑談に時をすごすごとが多かった様子である。中野君から見れば、警部は大局的な政治もわからず、月給とって何人かの家族を養っている善良なる小市民である。それが自分の良心から白熱したのではなくして、上司の命令で取調べる、その心持ちが痛々しく、可憐にさえ思えたことであろう。
「どんなことを調べるんだい、ポイントを言ってくれ給え、よく話してやろうじゃないか」
「君はなかなか忙しいんだろう、取調べる要点を個条書にしてくれれば、僕が書いておいてやるよ」
とも語っていれば、
「僕などは、政治に志して四十年、その間、民政党時代には世間並みに総理官邸に出入りして実際政治も見て来たのだが、もう日本もこれで終りとなろう。これからは、自分などは実際政治に興味がないし、熱情も湧いて来ないと思う。今後は残生を青年教育に捧げて、青年諸君にしっかり頑張ってもらうよう水先案内の役をしよう」
とも感慨ふか気に洩らしたそうである。そしてまた家人や有志の心づくしの大きな弁当の差入れを見ると、箸でご飯にくぎりをつけて、「これから半分はこの通り手をつけていないのだから、ここ(留置場)の小使さんにでもあげて欲しい」と優しい心やりを見せたり、果物が差入れされるや、大きな指をしていた中野君は、指で林檎を二つに割って「君も食べなさい」と取調官にすすめたりした。
 過ぎこし方を回顧すると感慨ふかいものがあったろう。ある時は「若い者たちに苦労かけた、前途をあやまらしたことは済まんだった」と、東方会百余名の青年が検挙されたのを知って沁々述懐したこともあったという。ある時、係官が、「先生のお宅から刀を預って来ましたが、あのなかに六尺ぐらいの長いのがありますね」と語ると、その刀は西郷隆盛の部下の一驍将逸見十郎太という豪傑の刀で、西南戦争の時、ある吊橋を渡るときに手綱を左にもち、右にあの長刀を高く振りあげて、と、手綱をかいぐりながら刀を振りかぶった恰好を示して、逸見十郎太の人となりから刀の由緒を物語ったこともあった。
「明け方の五時頃、暁風を満喫しながら馬を野外に飛ばす時の気持はまことに何とも言えないね、僕には人生この愉快あるが故に生き甲斐がある」今死んでもよいかと問われると、「もう三百鞍も乗らねば娑婆と別れたくないと思う」とよく語った。中野君は、瞬間、逸見十郎太の馬上豊かに長刀を撫して闊達に戦場に赴く姿を瞼に描いたのであろう。
 中野君を留置しても造茜蜚語の何ら反証もあがらない。しかも国会は、二十六日から開会される。検挙は極秘裡に行われたものの、二、三日も過ぎれば、東京の政界では一般周知の事実である。衆議院の大部分は翼賛政治会員で東条のご用に忙しいが、鳩山一郎氏はじめ翼政会に非ざる議員が、代議士を議会間近かに留置しておくことは怪しからぬと、議会事務局及び内務省に掛合いを始める。無法な東条政府も周章しはじめた。

官邸日本間の大評定

 この検挙に対し検事局は初めから気乗りがしなかった。この検挙ばかりでない。これより先き、三田村代議士が出版法違反で検挙されたが、検事局思想部はこれにも反対であった。そこで敬言視庁特高部では、安藤(紀三郎)内務大臣の名を使って、内相には断乎たる肚がある、検事局が検挙しなければこちらで始末を付けると高言したこともあったりした。そういう経緯もあって、内務省では事面倒と見たか、わざと松阪検事総長の東北出張中をねらって、卜月十八日に、満州から着任したばかりの、したがって国内事情のよく解らぬ検事次長黒川渉に相談して、中野君及び東方会の一斉検挙を決定し、旅行中の検事総長の認可を求めたのである。当時検事局では松阪総長のもとに、事件ごとに検事会議を開いて第一線の検事各人から意見を十二分に発表させた上で決定していたので、旅行先の松阪総長は例の通り全員会議の上で検挙決定をしたことと思って決裁したのであるが、事実は池田刑事局長、一木検事正、大竹次席及び町村警保局長、永松保安課長のみの会同によったものであることを、後で知ったのであった。
 当時検事局の見解では、中野君の東方会は議会活動を行う一方、大衆活動に一つの重点を置く結社であり、文書言論の活動は活撥であるが、直接行動には亘らない、ある意味からは意気地のない政冶団体であるとしていた。そこに検挙決裁に至る手続き上の不満もあって第一線検事が気乗りしない上に、検挙をしたものの証拠らしい証拠は何も出て来ないので、それ見たことかという反感がチラホラ内務省に向って発せられる。政治謀略にかかった黒川次長も引込みがつかず、松阪総長を秋田に追いかけて事件の概要を説明するとともに、事態収拾のため旅程を繰り上げて総長の急遽帰京を求めた。
 二十四日午後、東条総理の首席秘書官赤松大佐から松阪検事総長に電話がかかって来た。総理官邸で、中野事件の善後措置を講ずるから出席されたいというのである。検事総長は事件について総理人臣と面会することは異例であるし、憲法違反になる疑いもあるからと婉曲に欠席を申出でたが、上司の岩村法相も出席するから構わんではないかとのこと。気がすすまんながら夕方、官邸に行くと、日本間に出席しているものは、政務、軍務多忙であるべきはずの東条総理、内相安藤紀三郎、法相岩村通世、警保局長町村金五、警視総監薄田美朝、法制局長官森山鋭市、司法省刑事局長池田克、それに東京憲兵隊長四方諒二という大会議である。
 東条が、みな揃ったところで開口一番、
「中野の日比谷演説といい、戦時宰相論といい、全く怪しからん話だ。議会においては翼政会に入らず、自分の反対派となっており、つねに政府に反対の言論行動をなしている。平時ならとにかく、戦時においては、こうした言動は利敵罪を構成すると思う。検挙して以来、取調べしているが、あのまま令状を出して起訴し、社会から葬るべきである」
と激越な訓示調で神経的にまくしたてて、検事総長の同意を求めて来た。
 松阪総長は、「今までの警視庁からの報告だけでは検事局としては証拠不十分で起訴するわけには行かぬ、内務省なら行政措置として検束は差支えないかもしれぬが、検事局としては憲法違反という重大問題に逢着(ほうちやく)する。地方青年が戦争に敗けるということを中野から聞いたというが、中野はそれを言っていないと否認している。自白しないものを起訴出来ないし、正しい言論なら余り圧迫しないで許しておくことも必要だ。さらにまた現職の代議士を軽々に造言蜚語ぐらいで身柄を拘束して、議会に出席させないでおくわけにも行かぬ」と法律的にも手続き上にも疑義ありとして反対した。内心、内務省の政治検束を面白くなく思っていたことも事実であろう。

松阪、東条の激論

 東条はそこで翼政会幹部で国務大臣だった大麻唯雄氏を自動車で呼びにやった。午後九時ごろ大麻氏がその会台に出席した。大麻氏は、中野君が検挙されているのをその席上で知ったという。安藤内相から縷々(るる)これまで中野君が挙国一致の体制を破る言動をなしたことをあらためて説明した後で、東条が、「いまのところ中野を検事局が起訴出来ないというのだが、行政検束で留置しておいて議会に出席させないようにしても、議会側が騒がないように手配い願えませんか」と言った。政府と翼政会の連絡係をやっている大麻氏に、検事局の強い不起訴理由に辟易してそのまま拘留をつづけても議会の問題とならぬよう諒解工作を豕める算段である。議会人である大麻氏は率直に、
「中野君のこれまでして米たことは自分はよく解らない。検束に値するかどうかも解らない。しかし行政検束によって議会人の議会への出席を阻止することは出来ません。そんなことしたら立法権の独立もなにもなくなってしまう。たとえば議員中、政府反対派が十名多いときに、その者たちを行政検束すれば、政府賛成者だけになってしまうことになる。それは憲法政治に背くもので、議会人の常識として許されぬことである」
と、簡単に東条の意見に反対しはじめると、松阪検事総長が、それをさらに明快に法律語をもって敷衍(ふえん)して、大麻氏に賛成したので、何のために大麻氏の応援を求めたかが分らなくなったが、東条はそれでも執拗に検事総長に向って、
「それなら、とにかく戦争に勝つために、どうしても検事局で起訴して、中野を議会に出せぬようにしてくれ」
と畳みかけて来た。松阪氏は、繰り返し繰り返し、今の取調べでは証拠不十分だから起訴出来ない実情を述べて、
「総理大臣ははなはだ失礼ながら、中野のことになると感情でものを言っておられる」
ときめつけると、怒って真赤になった東条は卓をたたいて、
「総長こそ感情でものを言っている。私が総理大臣だから、権柄(けんぺい)ずくでものを言うと思って感情的に反対するのだろう、怪しからん」
 感情は対立して一座は白け切ってしまった。それを岩村法相、池田刑事局長が、
「あすが二十五日で、議会は二十六日から開かれる。まだ明日という余裕があるので、
明日の取調べによって、また局面も違ってくるでしょう」
と、妥協的なことを言い出したのをつかんで東条が、
「議会は明日召集だが、新しい証拠が出て来て、中野が自白したらどうする」
 そこで検事総長は、
「新しい事実を中野が自白し、拘束するに足る証拠があれば、その時は情勢も異って来てへ拘留の手続きを取ることもある。それにしても明二十五日自白したとしても、検事局が調べ、予審に回して起訴手続きするには時間がかかるから、二卜五日午前いっぽいに、自白しないと間に合わない」
 東条もこの間の応酬により、材料不十分で中野の起訴が不可能なこと、もし二十五日午前いっぱいに自白しなければ釈放せざるを得ないということを認めた気配が感ぜられて、散会したのが二十五凵午前一時頃であった。一同が去ったあとで薄田警視総監と四方東京憲兵隊長を呼んだ東条は、
「おい、警視総監、君の力で二十五日午前中に中野をものにすることは出来ないか」
と押しかぶせて来たが、警視総監は、
「私の方ではいまのところ見込みがありません」
(ことわ)った。さすがに総監は、これまでの取調べ状況と証拠では、ものにならぬことを知っていたのだ。すると、東条の関東軍以来の腹心といわれる四方東京憲兵隊長が、
「総理、私の方でやりましょう」
と申出た。四方憲兵にすれば、東条の反中野の気持が解っているだけに、ここで一功名やるのが東条へのご奉公とも考えたのであろう。
 明くれば十月二十五日、議会召集日である。中野君は、留置場の規則として毎朝五時起床、五分以内に洗面、それから「宮城遥拝」を他の留置人がするように独房のなかでやっていたが、この朝は四時半ごろ警視庁から憲兵隊に身柄を同された。その一身の上に、前夜、いかなる政治的謀議がなされたか、神ならぬ身の知る由もなくして……。
 検事局としては、検事総長が首相官邸の事件に関係ある政治会合に出席したことは異例のことであるし、内務省はじめ政府の事件に加える重圧に対して、検事局としては司法権のために最後の一線を守りたい悩みをもっていた。そこで、松阪総長は登庁するや思想部の検事四、五名を招いて、前夜の会合の模様を話して諒解を求めるとともに、根本方針としては、中野を今日正午までに自白させるというが、おそらく中野君を自白させることは出来ないであろう。そうすれば議会も開会になるから釈放して、今調べている造言蜚語についてぱ問題も小さいから、議会終了後身柄を拘束しないで調べることにしよう、ことに、こんどの検挙には不合理が多いから、もう誤りを繰返さぬようにしようと沁々語ったので、一同は諒承した。思想部長の中村登音夫検事ら若手の検事が松阪氏の意見を支持した半面には、この事件に関する限り政府と対立しても所信は()げまいと決意し、中野君をして東条の弾圧に勝たせたいという感情すら反動的に湧いていたようであった。そこへ、ジリジリと電話が鳴った。憲兵隊からだという。受話機をとって聴いていた検事総長の顔色がさーッと変った。その席にいた検事諸君も、聞き耳たてて見守っている。受話機を置いた松阪総長は溜息ついて、
「中野君が憲兵隊で自白したというのだ。いつ憲兵隊につれて行かれたのだろう。どうする」と、声をのんで、顔を見合すばかりである。いままで協議していたことが全部根底から崩れたわけである。対策を練り直さねばならぬ。
 憲兵隊で自白したという以上は、新局面が展開したわけであるから、検事局でさらに調べてみよう。後世、検事局が政治勢力に圧迫され、左右されたなどいう悪声の残らぬように、これまでの経緯にかかわりなく公正に取調べるより他に道はない。そこで取調べるのは誰にするかという問題が起った。検事総長は、「中村君、君やってくれるか」と言った。思想部長は、つねには直接事件を調べないで部下の検事を指導する側であるが、政治的重要性を考慮して中村思想部長が直接担当することになった。そして、中野から造言蜚語をきいた柏崎の東方会員二名を憲兵隊から引きとって、中村、桃沢検事で調べ、その裏打ちとして憲兵二名で護衛されて来た中野君を、中村検事が取調べ室に通した。憲兵隊で中野君を調べたのは、中尉に昇進したばかりの大西という若い男であった。

東洋的諦観という印象

 東条独裁と真正面から対立している中野正剛君と始めて相対した中村検事  彼は従来、職掌柄、東方会及び中野の言動は逐一詳細に知悉(ちしつ)しており、内心では、「中野さん、まだ東条に負けてはいけない」という感情をすら有していた彼が、自分たちの期待にそむいて、憲兵隊の半日の調べで自白したという、その本人に相見(あいまみ)えるのである。この時の感想を中村検事はこう述べている。
「中野さんが、憲兵隊で自白したのは、全く意外だった。その本人に接すると、いかにも淋し気で、戦いを投げたという印象を第一番にうけた。東洋的諦観というか、そんな様子が明らかに見受けられて胸をうたれたものです」
 中野君は、憲兵隊で申述べた通りのことを淡々と陳述している。柏崎の東方会員二名が、中野君の自邸できいたガダルカナル敗戦についての陳述であるから、聴取書も簡単である。それを得た検事局では検事総長をはじめ全検事会同して協議会が開かれた。
 廊下には警視庁特高部の連中がぎっしり固まって、起訴されるように願いながら、時々出て来る検事達を掴えては、どんなふうですかときく有様だった。協議は真剣につづけられ、若手の検事の大部分は、起訴前の強制処分の手続きをとることに反対であったが、政治的考慮をするものもいて反駁するし、会議は沸騰した。
 最後に、予審に回す手続きをとるようにしようと松阪総長が断を下した時、某検事は、総長を見損ったと書類を机上にたたきつけたほど白熱した場面が展開された。
 中村検事は、中野君が憲兵隊から検事局に回されて来た時、中野君の面上明らかに東洋的諦観が認められたと語っているが、それは中野君の傾倒措かない大塩中斎の、乱を起す直前の心境と思い合わされるのである。大塩は眼前に窮民の飢に倒れるのを見て、秘愛の書を売って焦眉の急を救ったが、跡部山城はそれを聴いて大塩の義気を賞するどころか、逆に大塩の養子格之助を招んでこれを罵倒した.、平生ならば、癇癖の強い大塩は怒髪まさに天を衝くのであるが、なぜかこの時は憤らず、格之助と相顧みて微笑した。それはその時大塩父子が暗黙の間すでに意を決したからで、中野君の自裁もおそらく憲兵隊でこの虚構の告白を強いられた時に決したのであろう。中野君の遺書の「決意一瞬、言々無滞、欲得三日閑、陳述無茶、人二迷惑ナシ」というのを思い合わされるのである。
 二十五日午後四時頃、東京刑事地方裁判所上席予審判事、神垣秀六君は、部下の予審判事小林健治君に対して、「君は今夜、宿直であろう、検事正から、今夜、中野正剛を不敬罪で、旧刑事訴訟法二百五十五条によって起訴前の強制処分として拘留状を発出して欲しいとの要求があった。明日が議会の開院式であるから、今夜中に特に拘留状を出してもらいたい」と請求があったが、これをきいた小林判事は、二十五日が議会召集で、明二十亠ハ日が開院式なのに、それに間に合わせるように強行しようとする検事局の意向をきいて少し不審に思い、首をかしげたので、神垣上席判事は、まあよく研究して欲しいといって退庁していった。
 不敬罪で中野正剛に今夜中に拘留状を出せとのことであるが、予審判事は、これまで中野が代議士であることは知っている。彼は中野のいささか奔放すぎる政治遍歴をあまり快く思ってはいなかったが、事件となれば問題は別である。こと裁判官の職域に関するものについては話は違って来る。しかも現職の議員を会期中に拘留するとなれば、憲法問題として重要なことなので、図書館から憲法の書籍を全部とりよせて研究しはじめた。
 旧憲法第五十三条には「両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患二関ル罪ヲ除ク外会期中ソノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ」と規定してあり、伊藤博文の「憲法義解」によれば、「会期中とは召集の後、閉会の前」と明記してある。しかれば今日の議会召集日以後、当然議員は院の許諾なしには逮捕出来ないはずである。しかるに検事局は、今日の召集日を会期と見做さずに起訴前の強制処分に付すべく強気を示している。これは重大な憲法問題である。大津事件同様の護憲の危機さえ感ぜられる。裁判官として深く考えねばならぬ。しかもこうした先例はこれまでないのである。通説では、会期とは開院式の日から数えるというが、議会は召集以後いつ開会されるか判らぬから、議員の身柄を保護するためには、召集日以後を会期中と解釈することが妥当でなければならぬ。
 そこで問題は不敬罪であるが、憲法では内乱及び外患にかかわる罪を除く外とあるから、不敬罪でも会期中に議員を拘束出来ぬことになる。旧刑訴二百五十二条には「検事捜査ヲナスニ行政ノ処分ヲ必要トスルトキハ公訴ノ提起前ト雖モ押収捜査検証及ビ被疑者ノ拘留若クハ証人ノ尋問鑑定ノ処分ニツキ所属地方裁判所」の許可をうけるべしという形式的な規定があって、予審判事は検事の請求ある場合は、書類上の誤りがない限りそれを受理することになっている。しかし、それにしても、憲法の建前は変えるわけに行かぬ。ここでは明らかに中野を釈放すべしという議論が成立つが、これをいかに立証して検事側を駁論(ばくろん)して行くか技術論が必要である。

いわく不敬罪、いわく造言蜚語

 午後八時三十分、検事局から中村信敏、平松、桃沢、山本、伊尾検事が、小林予審判事の許に来訪して、中野を予審調室まで連れて来ているから拘留状を発出してくれ、請求書類はいま作っているとのこと。事件は何だと聞ぎかえせば造言蜚語だという。上席は不敬罪といっていたが、今度は造言蜚語で、まるで話が違う。請求書類を見ないうちは駄目だと、すったもんだしているうちに午後九時半、検事局から請求書類と聴取書が回付された。それを中心にしてそれらの数名の検事が、予審判事に拘留許可書を談判するわけである。
 惜しいことに戦災で、この憲兵隊及び検事局における中野君の聴取書は全部焼けてしまい、わずかに当時の関係者の記憶を辿る以外に道はないのであるが、予審判事に回付された書類のうち、検事局の中村登音夫検事の聴取書は、中野君が同十八年二月、代々木の自邸で地方会員二名に対して、ガダルカナル敗戦は、東条の乱暴なやり方に島田海相が心にもなく賛成したため、陸海軍の作戦不一致を来した結果であると談話したのを、陸海軍刑法中の造言蜚語として自白しているという至極簡単なものである。しかるに憲兵隊の聴取書は、二、三十枚におよぶ分厚なもので、そのなかに不敬罪として憲兵隊が強調している点は、ある宮様の前で近衛文麿と中野が一緒に会談した際に、中野が口をきわめて東条の施政を痛篤非難したので、さすがの宮様も、「中野、お前そんなことを言っていいのか」とたしなめられたことがあるという馬鹿げた「不敬罪」である。
 これらの書類を精査しているうちに、検事連はすでに調室に中野が来ているのだから早く許可して拘留状を出せと請求する。しかし、小林判事は、「これは事件にならない。憲法違反にもなるー・)、予審請求の形式的手続きからいっても欠点だらけだから却下しよう」と断々乎たる肚をきめ、検事に引揚げてもらった。そして、まず第一番に衆議院に電話した。「そちらに中野正剛という代議士が実在するか」を聞いた。そして実在すると確めるや、さらに今度は、「いつ国会は開会されるか」と聞くと、明二十六日午前十時より開院式が行われるとの返答があった。それを記録にとり、拘留を請求して来た検事局の中村登音夫部長検事に電話で通告する。この夜、司法省、検事局、内務省にぱ常にも増して電灯が煌々とし、中野をめぐって目に見えざる火花が散らされた。
 国会議員を拘留逮捕するには、議会の許諾を求めねばならぬが、検事局はそれをやったかと小林予審判事が訊ねると、中村検事ぱ、こちらでは議会の許諾を得ていない、裁判所のやることではないかと逆襲して来た。法文解釈をめぐって冷徹な闘争が展開されている。新憲法下になってからは国会議員が裁判にかけられることが多いが、旧憲法下では開会中にやった先例がなく、院の許諾を得るのは検事局であるか、拘留状の請求をうけた裁判所がやるのか明瞭にされていなかった。中野君の場合、裁判所は拘留状を請求して来た検事がやるべきだと解釈して、その手続きを()んでいない違法を指摘し、事務的に却下する方針を決めたのである。予審判事は宿直室にただ一人である。上司に相談すれば、判断が誤った場合その人に累の及ぶことをおそれて独断でやろうとした。おそらく悲痛な決意であったろう。
 午後十一時に再び中村信敏、平松勇両検事が小林予審判事を訪ねて来た。検事局もこんどは憲法の文献をたくさんもちこんで来て、召集日は会期に含まれていないから、拘留状を出せと強談判である。検事側も立場上、ここで却下されれば面目を失うと思ったのであろう。検事連の前で予審判事は断乎として、「君たちの政治知識にも困ったものだ。憲法によれば造言蜚語で代議士は拘留出来ないのだ。ことに議会の許諾も求めていないではないか。のみならず、召集日を会期中と認定すれば当然今夜、即刻中野を釈放すべきだ」と言い放った。時刻はまさに十一時三十分。すると、言い渡された両検事は予審判事に却下されて勝負が敗けたにかかわらず、意外にもわーッと歓声をあげ、喜びの表情をいっぱいに示して裁判所を引上げたものである。
 これまで旧刑訴二百五十五条の請求を裁判所が蹴った例がなく、議員の身柄についてこんな事件もないので、判事と事務官とは裁判所の一先例を作るとあって入念に文書を作製し、検事局思想部長中村検事に、正式に却下の通知書を手交した。これで裁判所は国会議員を開院式に臨ませなかったという責任をとらずに済んだのであるが、悪質無比の東条政府は、すでに国民兵に編入されていた四十三歳の中村部長検事に再度の召集をかけて、犬糞的に報いることを忘れなかった。
 後掲の書類は最高裁判所その他に公式に残っている中野君の事件に対する唯一の書類で、この先例が基礎となり、新憲法下においても国会議員の逮捕拘留については、院の許諾は裁判所が請求することになっている。
  強制処分請求書
                               中野正剛
右者二対スル陸軍刑法並海軍刑法違反二付左記処分相成度及請求候也
      昭和十八年十月二十五日
                  東京刑事地方裁判所検事局
                             検事中村登音夫
東京刑事地方裁判所 御中
        被疑事項
被疑者ハ大東亜戦下ナル昭和十八年二月上旬東京市渋谷区代々木本町八百八番地被疑者居宅ニ於テ洲崎義郎及泉三郎両名二対シ何等確実ナル根拠ナクシテ大東亜戦争ニ於ケル陸軍及海軍ノ作戦二不一致アリ右不一致ノ為、ガダルカナルノ会戦ハ作戦二失敗シ其ノ為数万ノ犠牲者ヲ出シタルモノナル趣旨ノ言説ヲ為シ以テ陸軍及海軍ノ軍事ニ関シ造言蜚語ヲ為シタルモノナリ

        請求事項
右被疑事実二関シ被疑者ノ訊問並勾留
追而 被疑者ト他人トノ接見及文書ノ授受禁止決定相成度
        電話聴取
昭和十八年十月二十五日午後十時
東京刑事地方裁判所予審判事小林健治衆議院事務局ヨリ電話聴取
一、中野正剛ハ現在衆議院議員デアル
一、臨時議会ハ木日召集セラレ明日開院式ヲ行フコトニナッテヰル
        通知書
本日午後九時三十分、中野正剛二対シ陸軍刑法並海軍刑法違反被疑事件二付訊問、勾留ノ強制処分ノ請求有之候トコロ、右中野ハ衆議院議員ニシテ帝国議会ノ会期中ナル現在、右被疑事項二付キ同人勾留スルニ付テハ其ノ院ノ許諾ヲ要スルモノト思料仕リ候
然ルニ之力許諾ヲ求メタル事跡ナキ本件強制処分ノ請求ハ憲法第五十三条二違背シ、刑事訴訟法第二百五十五条ノ形式的要件ヲ欠如スル不適法ノモノト思考セラレ候条此ノ請求ニハ応シ難ク、此ノ段御通知申上候
      昭和十八年十月二十五日
                   東京刑事地方裁判所
                           予審判事小林健治
 同庁検事局検事 中村登音夫殿

陰険な独裁者心理

 裁判所からの却下指令で中村検事は、正式に中野君に対して釈放する旨を言い渡した。中野君は警視庁のものが付添って雨中をステッキをつきながら警視庁まで歩いて帰った。
 しかるに、執拗にして陰険な東条政府は、裁判所の裁断があったにかかわらず、なお中野の肉を啖わんとするのである。この点、東条政府もソ連の共産政権も独裁者の心理は常に一なるを考えざるを得ない。彼らは失敗した後の反撃を惧るる怯懦(きようだ)の心理に駆られるのである。すべての不正非理を死によって抹殺せんとするのである。
 中野君の留守宅にはその夜代々木署から、「今夜どんなに遅くとも帰宅するから」との電話があり、家人も愁眉を開いて、風呂を沸かし、終夜門を鎖さずにいたのであるが、待つ人は遂に帰って来なかった。
 それはそのはずである。政府は中野の釈放を聞いて地団駄を踏んだ。それに考えると二十六日は議会開会である。政界人はおそらく中野の検挙を知っている。身柄を憲法で保護された中野が登院したらどうなるか。傷ついた猪が議会に姿を見せたとしたら、ただでは済むまい。政治的検挙失敗は暴露されるであろうし、これが収拾は決して容易でない。そこで一策を案じた彼らは、中野に絶対に議会に出席させぬようにしようと思い、巧みに担当の増田警部に旨を含めた。
「先生、あすから議会でナが、ご出席なさらぬように願えませんか」
 中野君の心境はすでに議会出席など考えていなかった。したがって素直に承諾した。
「小役人を虐めぬ」といった逮捕の時の心持はどこまでもついて回った。すると誓約書を書いてくれという。それも、「よろしい」と書く段になって、警視総監の名は何というかと聞き返せば「薄田朝美」と答えたので、その通り書いて渡した。するとそれを受取った警視庁上層部は、名前が違うとて改めて「薄田美朝」と書き直させた。
 ところが、誓約書を書いても警視庁はなお心配である。そこで増田警部は再び「代々木署からお宅に電話がかかりませんから、先生、こん夜はおそくなったから泊っていただけませんか」と、ごまかし、その夜だけ特別に宿直室にベッドを入れて中野君を泊めた。すぐそばには警部が寝て監視していた。
 あくれば二十六日である。朝、増田警部が義肢の入った風呂敷をかかえて中野君を警視庁の玄関まで見送りに出ると、東京憲兵隊の自動車が横づけにされて待っていた。車の中には私服を着た四方隊長が「やあ、中野さん、しばらくでした。さあお乗りなさい」とドアさえあけて愛想よく挨拶する。誰か解らないので怪訝な表情をうかべながら中野君はその車に乗りこんだ。若干の荷物を警視庁のものが入れる。そのまま車は動き出した。憲兵隊に行ったのであろう。そしてその午後二時ごろ憲兵付添いで、中野君は六日ぶりで代々木の自邸に帰った。
 話変って、議会開院式の二十六日の朝五時ごろ、赤松秘書官から「総理の自動車を回すから首相官邸に出向いてもらいたい」と大麻国務相に電話があった。大麻氏は中野君を政府が行政検束のまま拘留しておく強行策に出たから、翼政会のまとめ役を仰せつかるのではあるまいかと懸念しながら出かけると、官邸には東条の他、星野書記官長、四方憲兵隊長、坂警視庁官房主事らがすでにそろっていた。そして東条は口を開くなり、「起訴は間に合いませんでした。私がこの場で裁断します。中野を出します、私が中野に負けました」とて、星野、坂、四方らに軍隊調に腕をさし出した。しかるに、その東条の敗戦宣言の後、何事が議せられたかを知らないが、時刻を合せると、その直後、四方憲兵隊長は中野君を警視庁玄関に要して、再度憲兵隊に拉致したのである。
 一方、検事局には二十七日憲兵が押しかけ、憲兵隊で聴取った中野の調書を是非憲兵隊に返してもらいたいと申入れ、それが出来ないと責任者は腹を切って死ななければならぬと、真実腹も切りかねまじき態度で検事局に強談判している。検事局もこれには降参して、一件書類は裁判所にあるから裁判所に交渉してやるが、一体どうするかと訊ねると、憲兵隊は、「中野をものにせねばこちらの顔が潰れるから、議会がすんでから、再びあの聴取書を基礎にして中野を取調べる」というのであった。
 検事局の中村信敏検事も困じ果てて、裁判所に行き、その事情を述べて憲兵隊の書類を返すように頼んだが、いくら友人の検事といえども証拠書類は返すわけには行かぬと断られ、「それでは二時間貸してほしい、その間にコピーをとって憲兵隊に渡してやらぬと、使いの憲兵は自殺する模様だ」との強談判中、中野君が自殺したという報道が裁判所に入って、この調書奪還の一幕はとじた。この話と四方憲兵隊長の中野拉致と中野君の自裁の間には、言うまでもなく関連があり、中野君の自裁の決意を摸索(もさく)せしむるものがあるではないか.、
 中野君が自裁した二十ヒ日は、閣議の定例日であった。東条は、大麻氏をつかまえて、「中野が自殺しましたよ、出しておいてよかったです。もし憲兵隊か警視庁で自殺されたんだったら大変でした。内閣がいくつあっても足りませんでした。やっぱり法律にしたがって帰宅させてよかったです」と。その日の東条をめぐる人々の周章狼狽が目に見えるようである。

従容たる中野君の最期

 中野君の一家は、三男達彦君が世田ヶ谷の野砲に応召入営していたため、母堂の他は四男泰雄君一人があるのみであった。その泰雄君の「父中野正剛の死」なる一文は、中野君が自裁した前後の心事と光景を、さながら見るがごとくに書いている。

【以下、著作権法上の「引用」と見るには、あまりに長く、この部分は中野泰雄氏の著作権を考え、掲載しない。】