早川孝太郎『猪・鹿・狸』「鹿」
鹿
鹿
一 淵に逃げこんだ鹿
二 鹿の跡をたずねて
三 引き鹿の群れ
四 鹿の角の話
五 鹿皮のたっつけ
六 鹿の毛まつり
七 山のふしぎ
八 鹿に見えた砥石
九 鹿撃つ狩人
一〇 十二歳の初狩り
一一 一つ家の末路
一二 鹿の玉
一三 浄瑠璃御前と鹿
一四 親鹿の瞳
一五 鹿の胎児
一六 鹿とる罠
一七 大蛇と鹿
一八 木地屋と鹿の頭
一九 鹿の大群
一 淵に逃げこんだ鹿
鹿を撃った狩人はみなそういうた。鹿はいかにまっしぐらに逃げてゆくときでも、矢ごろを測って、ほーっと一声矢声をかけると、ふっと肢をゆるめて、声のほうをふり返ると、そこの呼吸で引き金を引いたそうである。矢声はなるべく短く歯切れのよいのを上乗とした。ぽぽっと、投げつけるようにかけるほど、効力があったという。習性とすれば哀れにもいじらしかったが、狩人の狙いどころにされたのは情けなかった。
も一つ、これも鹿にかぎってのことで、狩人にはつこうのよいことだった。いったん手負いになると、だんだん山を出て、里近い明るみへ姿を現わしてくることである。えらい深山なら知らぬこと、自分らが聞く話はことごとくそうだった。もう三十年も前になるが、旧正月二日のことだそうである。伊那街道すじの
その鹿はそこから二丁ほど下った、村端れのめくら淵に飛びこんで殺されたそうである。その淵は街道からのぞくと、すぐ目の下に蒼く澄んで見えた。淵の主は大きなウシだともいうて、晴れた日には日光のぐあいで、ときおり背中が見えると聞いた。めくら、かいくら、せとが淵などというたなかの一つで、界隈でも名高い伝説の淵だった。竜宮へつづいているともいうた。そして昔からよく鹿の追いこまれる所だったそうである。
その鹿は、まもなくもときた道をかつがれていった。なんでも朝まだ暗いうち、鳳来寺道を五、六町登った所の、
子どものころ、村の入りの山から追い出された鹿が、畑を横ぎって街道へ出て、ふなと(船着場)へつづく坂を下って、最後に飛びこんだ場所もやはり淵だった。
手負い鹿が、淵に飛びこんだ話はほかにも聞いたことがある。
手負い鹿が最後に飛びこんだのは、川沿いの淵ばかりではなかった。山のなにある用水池を目がけた話もあった。自分の家の近くにあった、
よく耳にしたことだったが、鹿は手負いになると、きまって池や川へはいるといった。密林から里近い
二 鹿の跡をたずねて
猪と違って鹿のほうは、界隈ではもうどこにもいなくなった。数年前までは、鳳来寺山にたった一ついたと聞いたが、それもとってしまって、よくよくいなくなったと、狩人もいうていた。
その鹿がここ三、四十年前までは、いまから思うと嘘のようにいたのである。狩人に追われて、人家の軒や畑を走る姿を見ることは珍しくなかった。まだほんの子どものじぶんであった。軒端に筵を敷いて、ぼとう(日なたぼっこ)をしている所へ、狩人に追われた鹿が、前の畑から屋敷へ上る坂路を駆けてぎて、すわっていた筵の端を蹴散らして、背戸の山へ駆け抜けたことがあった。そのとき、傍らに祖母がすわっていた。アッというて、自分をかかえる暇さえなかったと、あとで笑ったことを覚えている。
家の縁側から見ると、南のほう遙かに
鉄道が通じて、大海の村へ長篠駅ができてからもう三十年そこそこになる。それより数年前までは駅から数町離れた墓場つづきの原に、まだ鹿のいた話がある。うっかりはいった狩人の目の前へ、三つ又の角をそろえた雄鹿ばかりが四つ、駆けてきたときは、うっかりしていただけについ、あわくって、逃がしてしまったというた。
大海の南隣、有海の
有海から東へ川を渡ると、舟著山の麓で、麓に沿うてひらけた部落を
三 引き鹿の群れ
前にいうた追分は、二十年前までは鹿の鳴ぎ音が聞かれた。もうそのころは、どこにも聞かれなくなったあとであった。街道すじでこそあったが、どちらを向いても山の陰で家数も五、六しかなかった。前を寒峡川が流れて、流れに臨んで山が押しかぶさるように聳えていた。秋の日の暮れ暮れには、その山の峰で盛んに鳴いたのである。闇をすかしてキョーと鋭く響いたとぎは、慣れぬ客などは、飛び上がるほどびっくりしたそうである。かつて段戸山の山小屋にいた杣が、付近で鳴いた鹿の声を、ヤマイヌがほえたと感違いして、一晩慄えとおした話があった。もっともそれは鹿が
いまでこそ追分の向いの山は、スギ、ヒノキが植林されて、雑木なども、したがって伸び放題であるが、以前は見渡すかぎりの山が、ことごとく近郷の草刈り場で、峰にところどころ形のおもしろいマツがあったほか、木というてはほとんどなかった。冬の夜はそこで盛んにヤマイヌがほえたものという。
入梅が明けて山の色がいちだんと濃くなったころには、朝早くそこを幾組かの引ぎ鹿が通ったそうである。引き鹿とは、夜の間麓近く出て餌を
寒中風のヒューヒュー吹きまくる日に、峰から三つの猟犬に追われて、くずれるようにたわを下ってきて、川のなかへ飛びこんで、イヌと鹿と四つが真っ黒になって、たがいにもつれ合っているのに、あとを追ってきた狩人たちも、鉄砲を向けたまま放すことができなくて、ぼんやり立っていたこともあった。そうかと思うと、まだ日のあるうちに、ヤマイヌに追われて岩の上を走る鹿を、畑に耕作しながら、見たこともあったという。
もう五十年も前になるが、中根某がある日前の寒峡川の川原から、ヤマイヌが食い余して砂原に埋めておいた鹿を拾ってきた。近所隣へも振る舞って、自分も煮て食ったところが、その晩遅くなってから、門口ヘヤマイヌがきて、おそろしくほえたてたそうである。某はそれに驚いて、家のなかからさんざん詫びたそうであるが、その声が軒を隔てた隣家まで聞こえたという。翌朝起ぎる早々に塩を
その家は、街道すじのウシかた相手の宿だった。いまでもウシ宿と呼んで残っている。
四 鹿の角の話
自分の家に、鹿の角の付け根を輪切りにして、それにササにタイかなんぞを彫刻した印籠の根付けがあった。忘れたようなじぶんに、家のどこかしらにころがっていたものである。なんでも祖父が若いころにやったことだというた。仕事からふいと帰ってきたと思ったのに、どこにも姿が見えなんだ。ほうぼう捜すと、土間の向こう座敷を締めぎって、そのなかでコツコツなにかやっていたそうである。なんでも二日か三日、ろくに飯も食わないで、えらい骨をおったというた。いま一つ、これはなんでもない、ただの三つ又の角があった。いつからあったとなしに背戸の庇に吊るしてあった。ときおり
以前はどこの家でも、軒に鹿の角を吊るして、簑掛けにしてあった。そうかと思うと土間の厩の脇の小暗い所に吊るして、作りたての藁草履が引っ掛けてあるのもあった。大黒柱の真っ黒に
こうした角は、いつから吊るしてあったか、忘れてしまったほどだった。家が以前狩人だったためにもっていたり、狩人から手に入れたのもあった。あるいはまた、山仕事にいって、拾ってきたものもあったのである。
ある女は、正月にもや(薪)を刈りにいって、そこで拾ったことがあるというた。最初薪木の枝に引っ掛かっているのを見つけたときは、びっくりしたそうである。その日にかぎって、からだじゅうが溶けるようにだるかったなどというた。またある男は、夏のころ山へふし(五倍子)の実を取りにはいって拾ったというた。山の峰へ出て、一休みして、タバコに火をつけると、足もとに、いましがた誰かが置いてでもいったように、三つ又の角が落ちていたそうである。
某の男は、秋カワタケ(茸)をとりにいって、寒い日陰山の雑木の下で、落ち葉を引っ掻き回すうち、何年か雨にさらされて、骨のようになった、二又角を拾ったことがあるというた。
こうして拾ってきた角は、何本でも軒に吊るして簑掛けにしたのである。一度吊るせば吊り縄の麿らぬかぎり、幾年たってもそこに下がっていた。雨の日など、ぐっしょり濡れた簑を、その枝に掛けて入口の敷居を跨いだのである。
それらの角が、いまはもうどこの家にもなかった。角買い男に売ったのもあった。春秋の大掃除にはずしたまま、子どもが玩具にするうち、いつか見えなくなったのもあった。まだ角に枝の咲かない、若鹿の角の一方に縄を通して、筵織りの仕上げに使ったものなどは、つい昨日まで土間の壁に下げてあったように思ったが、それももう見えなかった。
ときたま鹿の角が座敷に吊るしてあれば、熱さましになるというて、一方の端をひどく削ってしまったようなものだった。こんなものでないかぎり、もうなくなってしまったのである。鹿が滅びるといっしょに、その角もまた、たちまち消えてしまったのである。
五 鹿皮のたっつけ
鹿の角がたちまち家々から消えてしまったのも、じつは角買いが盛んに入りこんで、買っていったのが、もっとも大きな原因だった。
ある家では、以前狩人だったにもよるが、主人が昔ふうを改めえない性分も手伝って、もうどこの家にもなくなってから、軒や土間の隅に幾本も吊るしてあった。事実そうしてあれば、なにかにつけてつごうもよかったそうである。
それが近ごろになって、角買いが目をつけ出した。売れ売れとしつこく責めるのに、ついに断わりきれなくなって、若主人が全部引きはずして、まとめて売ってしまった。家じゅうを捜し集めたら、十七、八本もあったそうである。その金で先祖代々の位牌をこしらえたというた。鹿の角がなくなっても、かくべつ不自由はせなんだが、ただ簔などの置き場がなくなって、らちもなくそこいらへ丸めたり載せて置いたりして、しまつが悪くなったそうである。
角とともに、鹿が村へ残していったともいえるものに、鹿の皮のたっつけがあった。秋から冬にかけて村々を歩けば、白い皮のたっつけを
家々をたずねて回ったら、どの家も同じように、以前はあったがもうないという。老人が死んでから、久しく物置に投げこんでおくうち、いつか虫が付いていたのに、あわてて谷へ捨てたのもあった。ぼろといっしょに
以前はたっつけ屋という専門の職人が、ときおり回っできたそうであるが、多くは大鹿をとったごとに狩人自身がこしらえたものである。なんでも以前のたっつけは、鹿が二頭なくては、作れぬともいうた。前にいうた、鳳来寺三禰宜の一人だった平沢某は、作るに妙をえていて、ほうぼうから頼まれたものというた。そのたっつけを、まだたいせつにしまってある家もあった。
いろいろの話を総合すると、鹿皮のたっつけを狩人がつけたのは、あまり古くはなかった。以前は物持ちなどでないかぎり、めったにつけなんだ。狩人が、山で雨にあったとぎなど、あわてて
六 鹿の毛まつり
狩人が鹿を撃ったときは、その場で
狩人としては、一たび傷を負わしたえものは、たとえ二日が三日を費やしても、あとをもとめて倦むことをしらぬのが
同じ男が舟著連山の
そうかと思うと、狩人は一人で、えものばかりが多くて、弱ったこともあった。あるとき出沢の
前の話もそうであるが、こうした出来事をすべて山の神の手心というたのである。
七 山のふしぎ
山の神の手心から、えものを隠.されることは、前の猪の話にもいうた。それとも違って、現在とってそこに置いてあるえものを、ちょっとの間、水を飲みに谷へ下ったりした隙に影もなくなることがあってみれば、ふしぎというよりほかなかった。狩人はそうしたときの用意に、えもののそばを離れるときは、鉄砲と山刀を上に十字に組んでおいた。あるいは半纏などを掛けておくこともあった。鳳来寺山中などで、ときおりそうした目にあった。ヤマイヌの所為ともいうたが、あるいは山男のなす業とも信じられた。
鳳来寺山は、全山九十九谷といい伝えて、地つづきの牧原御料林を合わせて、ほとんど四里四方にわたる一大密林であった。山中の地獄谷と称する所などは、密林中に高く滝が落ちかかって、風景絶佳であるというたが、一たび奥へ入りこめば、出ることはかなわぬとさえいうた。そのため一部の狩人のほか消息を知る者もなかった。たまたまウナギ釣りにはいった者の話では、思いのほかに谷川のさまがきれいで、かつて釣りを試みた者もあるらしいと語った。ずいぶん久しい前の話らしいが、八名郡
鳳来寺山から東にあたって、三輪川を隔てた八名郡大一野町の奥の、山吉田村
山中で紙緒草履を穿く者もなかったと思われるが、じつは別の話がからんでいたのである。狩りとはなんの関係ももたぬよけいなことだったが、話のついでに、ひめん女郎の伝説の結末をつけておく。
前いうた七滝の上に、子抱ぎ石の出る個所があった。子抱き石とは、石のなかにさらに別の小石を孕んだものである。子種のない婦人が、そこへいって、一つを拾って懐にして帰れば、懐妊するという言伝えがあった。女連れなどで出かける者も少なくなかった。そのおり紙緒草履を穿いていれば、かならずひめん女郎に取られたというたのである。現に草履を取られて、いつか裸足になっていたという女もあった。
八 鹿に見えた砥石
姫女郎の仕業かどうかは知らなんだが、丸山某の狩人が明治二十年ごろのこと、瓢来寺山つづぎの、長篠村柿平の山で、仲間二人と追い出して撃った鹿は、確かに右の後肢を傷つけたという。後肢を引きずりながら、山から谷へ、雪の真っ白に降り積もった上を、村の卵塔場を抜けて走り去る姿を明らかに見届けた。それにもかかわらずあとには肢跡こそあれ一滴ののり(血)もこぼれてはいなかった。脂肪の多い猪にはままあることだったが、鹿にはかつてないふしぎであった。さすがに仲間の一人は
同じ男がある年の十二月、八名郡
あえてふしぎでもなんでもなかったが、某の男が鳳来寺村の清沢の谷で般ぢた鹿は、二匹つかまってそれがそろって、みごとな四つ又の角をいただいていたというた。鹿の角は三つ又をかぎりとしてあった。形こそ変わったものはあっても、完全に四つ又に分かれたものは、珍しかったのである。
話はまるで違っていたが、山のふしぎをいちだんと具体化した話が、
本宮山には、以前はたくさんの鹿がおったもので、しかもここに産した鹿は、他に比べてはるかに大きかった。俗に本宮鹿というて、特種だったのである。三つ又の鹿ならふつう十七、八貫はあった。一番といえばまず二十貫どころが標準であった。食物の関係でかく大きかったという。角ぶりといい姿といい、申し分のない鹿だったそうである。
九 鹿撃つ狩人
もう五十年も前に死んだが、東郷村
小助は名のごとくからだはいたって小さかったが、鉄砲は名人であったといって、いまに噂が残っている。猪鹿買いがえもの払底のおりは、かならず小助の家へやってきて上り端へ寝こんだそうである。するとしぶしぶ支度をして出かけたが、出かけばなに、もし鉄砲が鳴ったら、そのほうへ迎いにお出でというのが癖だった。かつて一度もその言葉に誤りはなかったそうである。小助も鉄砲上手にちがいなかったが、えものもまたよけいにいたことも事実だった。
小助が鉄砲上手の話はまだあった。そのころ村の梅の窪という所に、性悪キツネがすんでいて、ときどき村の者を悩ましたそうである。そのキツネが、小助の鉄砲ならちっとも恐ろしくないと嘲ったそうである。そして小助の老母に取り憑いて、どうしても離れなんだ。これにはさすがの小助もよわってしまった。そこであるとき鉄耙に紙弾を詰めて、一発天井に向けて放しておいて、こんどは
一〇 十二歳の初狩り
鳳来寺山
会って話している間にも、昔の狩人はこうもあろうかと思われるほど、一本気の気ままさがあった。そして何ものの力をも信じない冷酷さが、言葉の端々にまで感じられた。話のなかでも、てんでこっちのいうことなど耳に入れていないようすで、いいたい放題を甲高い声でしやべっていた。生まれたのはさらに山奥の、北
生家も代々狩人だったそうである。当人が狩りの最初は、十二の年の秋、焼き畑のそばで撃った鹿だった。初めの弾は尻に当たって惜しくも急所をそれたが、つづいて逃げる鹿を追ってゆくと、遙かのたわでイヌが止めていた。そこでアワブキの大木に身をもたせて、第二発をおくると、鹿は谷に向けてころがり落ちたそうである。すぐあとを捜し求めて、フジ蔓を取って横に背負い上げたが、重いのと谷がけわしくて、上ることができない。仕かたがないので、鹿には上衣を脱いで掛け、自身は谷を上って帰ってきた。そして遙かにわが家を望む所まできて、立ち木に上って枝をたたいて合図をしたという。そのおり家で下男同様に使っていた、乞食とも何ともつかぬ男があって、それが迎えにきてくれて運んだ。十六貫七百目あったそうである。その鹿を、さらに五里隔たった
まだいたいけな十二の年に、十六貫余の鹿を負って歩くほどの者だけに、子どものころから不敵者で、十七のときには、はや家を飛び出した。そして山から山を渡り歩くうち、いまの家へ見こまれて養子になったそうである。若いころからえものを追って、どこともしらぬ山中に、夜を明かしたことは、幾度であったかしれぬ、それでいてさらに疲れることはしらなんだという。鳳来寺山麓の門谷の人々は、この男が山中で、百貫に余る巨大な朽木を負うて歩くのを、ときおり見たというた。会って見た感じでは、痩せ形のもう六十いくつという年輩で、異常な体力を備えているなどとは思えなかった。
一代の間にとったえものは、鹿だけでも幾百を数えて、一冬に六十二の鹿をとった年もあったという。もう三十年も前のことで、そのころは猟犬のよいのがいたそうである。たかにてじにふじだと、幾度かイヌの名をくり返して聞かせた。なかでも、てじというイヌは、一冬に九貫目以下ではあったが七つの鹿をとったことがあるという。そして一度手負いにすれば、あとはそれらのイヌが追いかけて肢を噛み切ったそうである。クマも七つとったと語った、あるとぎ大木の高い洞にいるのを、一人で登っていって、山刀で前肢をたたき切ってたおしたというた。そのおりの光景を旅の絵師に描かせたというて、粗末な掛け軸を出してきて見せてくれた。悪いから黙ってなにもいわなんだが、功名談とは似もつかぬ、気の毒なほど貧弱なクマと狩人が描いてあった。
一一 一つ家の末路
丸山某の養家であった行者越の一つ家は、
どうしたわけで代々こんな所に住んで狩人をしていたかは聞かなんだが、家は草葺きの大きな構えであった。明治維新のおり、この辺にも長州兵が幕府がたの者のあとを追って入りこんだことがあった。抜ぎ身をさげた荒くれ武士が十六人、袴の股立ちをとって鳳来寺道をやってきたときは、街道すじの者は全部戸を締めきってや隠れていたという。その連中が行者越の家へかかったとき、軒に吊るしてある草鞋を抜き身で指して、、いくらかと聞いたことから、店にすわっていた又蔵老人と喧嘩になって、あわや十六人が飛びかかるかと思われたとき、老人が落ちつきはらって名を名乗ると、びっくり這いつくばって無礼を詫びたという。別れぎわに老人が、誰やらにも行者の又蔵からよろしくというと、ヘへっと丁寧に挨拶して去ったなどというた。狩人としての逸話はあまり聞かなんだが、剣術使いとしての話はまだあった。
あるとき旅の剣客と術比べをやったが、その武士が座敷に突っ立っていて、やっというと天井を一回蹴っていた。これに反して又蔵のほうはやっという間に、二回ずつ蹴って勝ったという。また近くの者がおおぜい集まった席で、誰でもよいからおれを押えてみよというて、畳の下を潜って歩いたが、それが速くてどうしても押えることができなんだという。しかしそれほどの又蔵でも、たった一度失敗したことがあったそうである。横山の某の物持ちとは懇意にしてよく遊びにいった。そしてそこの下男に、隙があったらいつでもおれを打てと約束したそうである。しかしどうしてもその隙がなかったが、ある日のこと又蔵が主人と畑で立ち話をしていた、下男は知らぬ顔で傍らでムギに肥料を掛けていた。そして肥料を掛けながら畝を歩いていって、又蔵の足元へ柄杓の先がいったとき、肥料のはいったまま、ぱっと脚を打つと、さすがに避ける間がなくて着物の裾を肥料だらけにしたという。そのとぎばかりは、おれに油断があったというて、門口したそうである。
この男の娘が、前いうた養子を迎えたのであるが、女に似げない気丈夫であった。あるとき一人で留守をしていると、深夜に門をたたく者があって、大野からきたが一宿頼みたいという。その言葉に怪しい節があったので、そっと二階に上って外をのぞくと、黒装束の男が九人、手に手に抜ぎ身を持って立っていた。女房は鉄砲を片手に握って、ただいま開けますといいながら、開けると同時にドンと二つ弾を放したそうである。怪しい男たちはそれに驚いて、あわてて前の坂を駆けおりていった。なかに一人腰を抜かした奴があった。あとからまた仲間が引っ返してきて、そ奴を引きずっていったそうである。
その女房は、もうとっくに死んだそうである。たった一人血統を継いだ男の子があった。もう久しい前であるが雑誌「少年世界」の記者が、健気な少年として誌上に紹介したことがあった。小学校を卒業するとまもなく八名郡大野町へ奉公に出て、その翌年かに、主人の子ども.が川に溺れたのを助けに飛びこんで、ともに溺れて死んでしまった。昔を知る老人たちのなかには、ひどく惜しんでいる者もあると聞いた。しかしもうなんともしようがなかった。数年前その一つ家も、引き払ってしまったそうである。
一二 鹿の玉
行者越の一つ家がつぶれたのも、じつは鳳来寺の蓑運がおおいに関係したのである。山内に薬師と東照宮をまつり、天台、真言の両学頭が並び立って、千三百五十石の寺封を与えられて全盛をきわめた鳳来寺も、明治の改廃と数度の出火にあって、昔の面影はもうなかったのである。
明治維新前、鳳来寺がまだ全盛のころのことである。山内十二坊中の岩本院で正月十四日の田楽祭りに、
名まえを聞くといずれも珍宝ぞろいであった。その後いかになったか消息を知らぬが、そのなかの鹿の玉だけは、岩本院没落の後、ふしぎなわけで取り残されて、付近の家に秘蔵している。ふとした動機から一度見たことがあった。鶏卵大のやや淡紅色を帯んだ玉で、肌のいかにもなめらかな紛れもない鹿の玉であった。この類のものは、まだほかにもひそかに
かかるものが、いかにして鹿の肉体中に生じたかは別問題として、土地の言伝えによると、たくさんの鹿が群れ集まって、その玉を角にいただぎ、角から角に渡しかけて興ずるので、これを鹿の玉遊びというて、鹿が無上の法楽であるという。あんな玉を角から角へ渡すのは、容易であるまいなどのことはいっさい、いわぬことにして、さてその玉を家に秘蔵すれば、金銀財宝がおのずから集まりくるという。自分などが聞いた話でも、旧家で物持ちだなどといえば、あそこには鹿の玉があるげななどというた。
狩りを渡世にした者でも、めったには手にはいらぬ、よくよくの老鹿でないととられないというた。それで一たび手に入れれば、物持ちなどにずいぶん高く売れたそうである。前にいうた行者越の狩人なども、かつて手に入れたことがあると聞いた。
あるいはそれに生玉死玉の区別があって、いかにみごとでも、鹿を殺してえたものではなんのききめもないという。群鹿が玉遊びに興じている、それでなくばだめだというのである。鳳来寺の岩本院にあったのがそれだと、秘蔵していた老人は改めて手の平に取って見せた。そしてこう握りつめていると、おのずと
通例玉を秘蔵している者は、金かなどのように、秘密にして、玉があるなどとは、さらにおくびにも出さなんだのである。そうしてこっそり秘蔵している者が、あんがいそちこちの村にあるらしいのである。
一三 浄瑠璃御前と鹿
鳳来寺の伝説では、光明皇后は鹿の胎内より生まれ給うたとなっている。開祖利修仙人が、かつて西北方にある煙巌山の岩窟に籠もって修法中、一日山上に出でて四方を顧望するうち、たまたま尿を催して、傍らのススキに放したるところ、おりから一匹の雌鹿きたってそのススキを舐め、たちまち孕んだとある。月満ちて玉のごとぎ女子を産んだが、仙人修法中とてその処置に窮し、ひそかにその子を人に託して郷里奈良につかわし、一日あるやんごとなき邸の門前に捨てしむという。その女子成長して後に光明皇后となり給うたが、鹿の胎内に宿り給いしゆえ、生まれながらにして足の指二つに裂け、あたかも鹿の爪のごとくなりしという。皇后これを嘆き給い、宿業滅亡のため鳳来寺に祈願をこめ、兼ねて御染筆の扁額を納め給うというのである。これは「鳳来寺寺記」のなかに載せたことであったが、べつに元祿時代に書いた、同寺所蔵の「掃塵夜話」という写本には、そのこによって、夜々西方山麓の里に一女を設く云々などと、もっともらしく説明してあった。
しかし自分らが耳で聞いた伝説では、これとはやや趣を異にして、浄瑠璃御前の話になっていた。
いまから三、四十年前までは、浄瑠璃御前一代の
いっぽう鹿の話は、それからそれと糸を引いて、妹背山の入鹿の話にまでもっていった。鳳来寺の東方山麓に、東門谷という山に囲まれた小さな部落があるが、村としでは古かった。そこの弥右衛門某の屋敷の背戸に、いるかが池とて形ばかりの赤錆の浮いた池があったという。鹿が入鹿大臣を産んだ所ゆえにかくいうたとは怪しかった。その池の水を笛に湿して吹けば、いかなる鹿でもと.れるなどというたが、はたしていまも跡があるかどうか「知らぬ。あるいは鹿が子を産んだという伝説と、イルカが子を産んだ話と、いずれかを誤り伝えたかとも考えられる。
東門谷から峰一つ越えた、鳳来寺村峰の地内にある
一四 親鹿の瞳
開創の始めから、鹿とは因縁ふかい鳳来寺であったが、明治に改まったと思うと、もうばかばかしい鹿をなぶり殺しにした話がある。
前にもいうた岩本院は、本堂の西方寄り、俗に大難房と呼んだ高い岩壁の下にあって白木造りのりっぱな建物だったそうである。その岩壁の上を、毎朝きまって通る、五、六匹の引き鹿があった。寺男の一人が、とうからそれを知っていたが、なにぶん山内のことで、どうすることもできぬ。そこで生けどりにして山内を引き出せばよいと、かってな理窟を考えた。それである日麓の門谷へおりて、若者たちを語らって、青タケを籠目に組んで、鹿が踏みこんだら動きの取れぬような
まるきりなぶりものではなかったが、狩人のなかには、生まれてまもない小鹿を
よけいなことだが、子鹿のことをやはりごぼうまたはこんぼうというた。そして二歳鹿の角にまだ枝のないものを、そろまたはそろっぼうというたのである。
一五 鹿の胎児
鹿の
明治初年ごろ、普通の鹿一頭が五十銭か七十銭程度のとぎに、さご一つが七十五銭から一円にも売れたというから、狩人がなにを捨てても孕み鹿に目をつけたのはむりもなかった。そのため一年に一つしかふえぬ鹿の命数を、ちぢめることなど考える余裕はなかったのである。
さごは春三月、親鹿が肢に
べつに、さごのもっとも効験ある時期を、親鹿の腹を割いて取り出したとき、手の平に載せて眺める程度がよいともいうた。
晩春花が散り尽くしたころは、さごははやネコほどに成長して、もう生まれるにまもなかった。そうなると効験がうすいというて高くは売れなかった。そこでずるい狩人などは、いま一度皮を剥いで形を小さくした。真っ赤な肉の塊のようなものを、さすがに気がとがめるか、遠い見知らぬ土地へ持ち出して売ったそうである。
鹿の肉もまた血の道の薬だというたが、角もまた熱さましになるというて、すこしずつ削って用いる者があった。
一六 鹿とる罠
冬の終りから春先へかけて、鹿が人家の小便壷に付いた。鳳来寺山麓の門谷などでも、以前は夜遅く用足しに出ると、二つ三つぐらいそろって、暗がりへこそこそ影を消す姿を見ることはけっして珍しくなかった。ヤマイヌなどもそうであるが、鹿はことにこの時期に塩分の不足を感じたのである。山中などでも、人が用足したあとを求めて遠くから集まってくるという。
狩人がはねわという罠で、鹿をとったのはその時期であった。はねわはすなわち跳ね輪で焼き畑近くなどの、だいたい鹿の寄りそうな地を選んで設けたのである。その方法は、まず鹿を吊るし上げるに十分な立ち木を基にして、その前にご(落ち葉)をうず高く掻き集め、落ち葉のめぐりに枯れ枝の類で柵を作った。そして一方口をあけておいて、そこに跳ねを仕掛けたのである。最初に選んだ立ち木を曲げてきて、それにフジ縄で輪をこしらえて罠の口に置き、一方、別のフジ縄をばね仕掛けにして、曲げ木を押えておいたのである。すなわち囲いのなかの落ち葉へ小便をしておく。鹿がきてなかの落ち葉を
一人がはねわで鹿を捕えると、われもわれもとそのそばへ仕掛けたそうである。一個所に同じような罠が、三つ四つぐらい並ぶことは珍しくなかったという。しかしあとから真似たものへはふしぎに掛からなんだ。三つも四つも並んだなかで、同じ罠にばかり、三日もつづけて掛かったことがあったという。ふしぎなことに、はねわに掛かったのは雌鹿ばかりで、雄鹿はかつて掛からぬというた。あるいは雄鹿だと角が邪魔になって、うまく輪が首に掛からぬかとも思うが、狩人の一人はそうはいわなんだ。雌鹿のことに子持ち鹿が小便をすいて掛かるというのである。してみれば人の尿に付いたのは、ひとり伝説の雌鹿ばかりではなかった。
また狩人の話では、そのころの鹿は朝、枯れ草に置いた霜を舐めているという。
鹿をとる方法には、はねわのほかにやとがあった。やとのことはすでに猪の話に説明したとおりである。それを焼き畑などのわちの陰に置いて、なかに飛び入る鹿を捕ったのである。夏ぶんソバの種ヘナタネを混ぜて播くと、ソバを刈り取った後に、青々と伸びていた。山が冬枯れるに従って、鹿が付いたのである。高く結ったわちに前肢をかけて、なかへ飛び越すとそこにやとの先が鋭く光っていた。朝早く見回りにいくと胸や腹を深く貫かれて、死んでいる鹿を見出すことは珍しくなかった。
一冬にひとつ畑で、七つもとったなどと、名もないヘぼくた狩人の、手がら話の種にもなったのである。
一七 大蛇と鹿
大蛇が鹿を追ったという話がいろいろあった。滝川の村から
伊那街道すじの、
ごく新しいことだというて、その者の名まえまで聞いたがもう忘れてしまった。某の狩人が朝暗いうちに起きて、石巻山に鹿撃ちに出かけて、山の中腹の崖の下にいって夜明けを待っていたという。その崖というのはいわゆる懸崖で、高い岩が屋根のように差し出して、崖の上は遙かに峰つづきになっている。あぎとともいって、さらに上には登ることのできぬような地形である。その岩の頭へ姿を見せる鹿を打つためだった。すると夜の明けがたに、思いがけなく、岩の上から、一匹の大鹿がころがり落ちてきた。驚いて崖を見上げると、高い岩の上から、二間もある鎌首を差し出して、恐ろしい大蛇が下をのぞきこんでいた。びっくりしてすぐ鉄砲を取り直して、ヘビを目がけて放したという。すると恐ろしい音をたててヘビは
なんだかまだ欠けた点があるようである。この話を聞いたのは小学校へ通っているころで、学校へゆく途中だったと思う。自分より四つ五つ年上の子どもが、昨夜中村(宝飯村中村)の伯父が泊まって父に話したのを、脇から聞いたと語ったものである。いまでは子どももその父も死んでしまって、もう詳しいことを聞ぎただすあてもない。同じ八名郡の鳥原は、昔から大きなヘビがたくさんいた所というた。あるとき鹿をくわえた大蛇が、山の裾を、草を押し分けて走ってゆくところを見たという話もあった。
一八 木地屋と鹿の頭
かつて長篠駅から
某の杣が山中の小屋に働いていたときのこと、一日ひどく雪が積もって、仕事ができぬところからぼんやり小屋の前に立っていると、向いの日陰山に、鹿が二匹遊んでいた。そこで退屈凌ぎに仲間を誘い合って、その鹿を遠巻きにして追いたてた。すると鹿は一気に峰を越して逃げてしまったので、みんなして笑いながら小屋へ引っ返してくると、途中の一
また自分の村の山口某は、山中の杣小屋へ、村から飛脚に立ったとき、途中の
夜遅く目的の山小屋へ着いたが、そこへゆくまでの間、高原を出離れてからも、五つ六つぐらい群れになったのには、数えきれぬほどあったというた。明治二十年ごろで、山口某はそのころ二十五、六の青年であった。
一九 鹿の大群
いまから五十年ばかり前、段戸山中の、
この話は、そのなかの川原付近が、もう嘘のように木を切り尽くしてしまった後のことで、さらに三里ほど奥へはいった所のことだった。
明治三十年の冬だそうである。いつになく寒い年で、この模様では、もう長く山にはおられぬなどというほどだった。某の杣のいた小屋には、仲間が八人いたそうである。前の日までに予定の仕事が終わったので、その朝は早く起きて、新しく持ち場を決めるために、山割りの相談をしたそうである。みんな小屋の前に並んで下の窪を見ながら話をしていた。山の朝はまだ暗かった。しかもその朝にかぎって、窪の底一面に霧が立ちこめている。某の男は他の連中とは一人離れた所から見ていた。じっと見ているうち、霧がもこもこと動くようで、上へ上へとひろがってくる。そしてだんだん近づくに従って、色が薄紅いように変わってくる。じっと見ているうち、アッと声をあげんばかりに驚いたそうである。いままで霧とばかり思っていたのが、何千何百と数かぎりなくつづいた鹿の群れだった。つぎからつぎへ湧いてでもくるように、先登が脇の峰へ向けて、走っていたそうである。そのときはもうみんな気がついていた。そうして誰一人声をたてる者もなかった。じっと立ったまま、その群れが全部通りすぎるまで、見ていたそうである。
それから急に山が恐ろしくなって、あと一日働いて、全部小屋を引き払ってしまったというた。某はそのとき、二十一か二だったそうである。
断片的な、とりとめのない話のつづきがついながくなった。きわめて狭い、東三河の一小部分、わずか五方里にたりない間でも、そこに棲息した鹿はおのずから区別があった。北から南へ、鍵形に線を引いた寒峡川、豊川の右岸地方に繁殖した鹿は、川の左岸遠江へかけていた=ものよりはるかに長大であった。前にいうた本宮鹿がそれである。これに反して遠江の山地に近づくに従って、だんだん小さくなって、俗に遠州鹿と称したものは、雄鹿の三つ又でも七、八貫がとまりであった。山に岩石多く食物が十分でないためともいうた。鹿の生活にもまた尸地の利が影響したのである。