服部之総「上海由来」

上海由来



 今の「城内」、もとの上海城が、十六世紀日本の倭寇に備えて築かれたものとすれば、模範租界(モデル・セツルメント)と謳われた近代上海は、欧米列強の砲火とシナ内乱の申し子だった。どっちみち穏やかな氏素姓の都市ではない。
 チャールズ・ギュツラフという坊さんは十九世紀列強の極東経略にはおよそどこでも露払いの役を演じたが──というのも彼師は通訳が聖職の副業だったから──一八三二年六月末日、上海城道台府の門扉をぶち壊して面会強要をやった無遠慮な「夷目」の一人はやはりこの坊さんだった。彼はそれから五年のち崋山・長英の獄で有名な「モリソン号」に乗り組んで、浦賀と鹿児島で砲撃されて逃げ帰ったことがあるが、道台府正門の門扉の蝶番(ちょうつがい)が落ちたときは澳門(マカオ)の英国東印度会社から派遣された上海通商交渉使ヒュー・ハミルトン・リンゼイと一緒だった。呉淞(ウースン)のシナ砲台から砲撃されたのを、たった一艘の船でかまわず乗り込んでいったのだから立派な度胸だが、なにせ大英王国をビルマ同然の朝貢国扱いにしていたころのシナのことだ、蝶番くらいで上海を開かせるわけにはゆかなかった。
 それから満十年目の一八四二年、二年前からの阿片戦争にとどめをさすべく、イギリス軍は軍艦二十五隻載砲六百六十八門、汽船十四隻載砲六門、病院船測量船その他九艘、陸兵六千九百七人という武力でまず舟山列島を占領し、鎮江および南京を陥れるため揚子江にさしかかった。
 呉淞は上海城のための備えであり同時に揚子江の守りであったから、シナ軍はここに強大な砲塁を築きあげ、宝山(バオシヤン)から呉淞にいたる三マイル。の間を二十四ポンド砲百数十門をもって固め、ジャンクの艦隊を並べて敵を待った。イギリス艦隊──ほとんど全部帆走軍艦だった──が先頭に立った東印度会社の武装外輪汽船に曳行されながら、雁行して砲台に迫ったのは、六月十六日午前六時のことである。揚子江流域、したがってまた呉淞における最初の近代資本主義戦争の幕が切って落とされた。
 二時間ばかり、相当苦戦の後、一部の陸戦隊を呉淞に上陸させ、正午ごろ陸兵を宝山に揚げ、双方とも激しい白兵戦を演じ(ともかくその日のうちに呉淞一帯を陥落させた。シナ側死者は総司令官をもいれて約百名、傷者不詳、イギリス側死者合計二十七名にのぼった。
 翌十七、十八日両日は黄浦江の偵察戦に費やし、十九日、イギリス軍は呉淞を発して海陸両道から上海城を攻め間もなく占領した。いったいにイギリス人当事者が書き残した六〇年代のシナ戦記をみると、乱暴を働いた軍隊はきっと軍閥の兵と決まっているようだが、このときのイギリス上海侵入軍はけっして後年のフランス軍にひけをとらなかった。
 有名な城隍廟の貴重な彫刻類を平気で焚き木にする、方々の公共建築物を荒らす、質屋に陣取った連中は庫の金銀を盗む、一般に掠奪をやる、そのまた掠奪品を城壁越しに城外のシナ人に売りつける。こうした乱暴のあげく、イギリス全権サー・ヘンリー・ポッティンガーの来着とともに、彼の名において次のような宣言が民衆に向かって発表された──
 「普天の下、率土の浜、国のさまざまなるその数を知らず。されどその一として、至高なる天父のしろしめさざるはなく、ことごとくこれ一家の兄弟ならざるはなし。すでにして一家をなす、しからば一和して兄弟のごとくあい結び、上下を誇ることまたあるべからず。」
 むろん漢文で書いたのである。
 そしてその執筆者は、このときもやはりイギリス軍つき通訳として参戦した、ドイツ生まれの新教牧師チャールズ・ギュツラフ師その人だった。



 ギュツラフ師ついでに書くと、この坊さんはちょっと興味のもてる人物だ。当年のシナ学者としてもモリソンについで有名だが、シナ事情には当時誰よりも通暁していた。
 「山師(ハムバッグ)」と綽名をとっていたというから焼いても食えぬやつかと思うと、どうやらむしろ逆らしい。つねに天才然とかまえていたとあるが、事実天才だった。シナの方言ならどの地方のでももってこいと吹聴しただけでなくやってみせた。モリソン号に乗り組んだのも漂着日本人漁師を相手にして、僅かの問に日本語をともかくあやつれるようになったからだった。朝鮮語も覚えて、たか、『新約聖書』の朝鮮訳は彼の手になったはずだ。
 傲慢で、親切だった。気持をかくす術を知らず、つねに高い自尊心をもち、怒りっぽく、疑い深く、それでいてシナ人に向かっては極端なまで調和的だった。彼は神を信じたごとく心からシナ人を愛し、シナ人からも信頼されたと、ある伝記が記している。が、白人の弟子たちは彼から強い印象を受けとりながら、同時に病的に彼を恐がった。そして「山師」め綽名が示すように、仲間のイギリス人-外交官と軍人と商人──は誰一人彼を心から信用しなかった。
 「普天の下率土の浜」にしても、行なわれた事実とイギリス軍司令官とにとって、いかにそれが一片の声明であり政策であろうと、彼にとっては信念であり真理であったにちがいない。まことに賞むべき真実の牧師さんではないか。と同時にまた、自分で自分を「山師」と承知している牧師たちよりもそれだけもひとつやっかいな牧師ではなかろうか。i一方イギリス人冒険家にとっても、他方また、じつに彼から愛されたというシナ人の多数民衆そのものにとっても!
 ギュツラフ師は上海占領のとき十二、三歳になる利巧そうな少年をしじゅう自分の側から離さず連れていた。非常に愛していた。がやはり彼一流の厳格さでどんな日でもシナ語の勉強をやかましくいってはさせていた。少年の祖父はイングランドの田舎牧師だった。祖母も牧師の娘だった。近ごろ孤児になって従姉の夫にあたるギュツラフ師にはるばる引き取られてめんどうをみてもらっているのだった──この少年が後年の辣腕外交官としてシナことに日本におけるイギリスの地位を確立したパリー・パークス卿その人である。おそらくギュツラフ師がイギリスに与えた最大の贈物はこれであったろう。
 ギュツラフ師はシナの『新約聖書』の翻訳者でもあった。ところがその『新約聖書』はギュツラフ師の思いもうけぬ種子を蒔いた。
 阿片戦争で開国しで後の南支一帯は激しい排外運動と反清運動のるつぼとなった。後者は倒満興明の旗印を掲げたところの、そのじつ一種の農民革命で、太平天国の国号が示すようにシナ古来の農業共産主義的綱領を掲げ、これをキリスト教的思想で鍍金したものだった。その首領洪秀全がこんなふうにシナ思想とキリスト教思想を一つのものにでっちあげたのは、たまたまギュツラフ師所訳の『新約』に親しんだためだった。『聖書』は近代における最初の農民運動の土壌の上で、訳者の意志や教会や資本主義列強やの希望に反しで、革命的に理解されたのである。
 マルクスは一八五一年にシナ問題に触れてこんなふうにからかっているi
 「ギュツラフ氏は、二十年目に文明人のヨーロッパに帰って、社会主義の話を聞ぎ、そもそもそれはいかなるものであるかを問いただした。そして、説明を聞き終わったとき、驚いてこう叫んだ。 『では、私は、この危険きわまる教義から、いったい何処へいったらのがれられるというのか! この教義こそ、すでに以前からシナの衆愚が口にしていたものなのだ』と。」
 それはそれとして、この太平軍は上海の歴史のうえにも重要な役割をもったのである。



 「普天の下率土の浜」の声明後まもなく、三十万ドルの償金を約束してイギリス軍は上海を引き揚げ(六月二十三日)、 全軍を揚子江上流に進めて鎮江を大挙攻略、八月十七日南京条約に調印した。この条約によってはじめて上海は、他の四港とともに一八四三年十一月十七日から、外国貿易のために港を開くこととなった。
 南京からの帰途、イギリス全権サー・ヘンリー・ポッティンガーはさっそく上海に立ち寄って償金を要求すると同時に、租界地域を南は洋■(ヤンキンパン)、東は黄浦江岸、北は現在の北京路、西はほぼデフェンス・クリーク辺までの広さと決定したけれども土地買上規定等がぜんぜんなかったので、いろいろな邪魔が出ていつまでも租界には家一軒建たなかった。
 イギリス領事館は城内に借家し、若干の居留民は城内でなかったら南島の河岸に仮屋を建てた。
 租界予定地域はいちめんの田畑で、農家があちこちに散見し、蘇州河にはもちろん、狭い洋徑浜にさえ橋一つ架かってはいなかった。後年の堂々たるバンドのあたりも、わずかに曳船人足が踏みならしていつとはなしにできた径がふちどっていたにすぎなかった。
 外国船は、ジャンクに混じって南島に投錨した。とかくするうち開港後ようやく二年目の一八四五年の暮れになって、地産章程が土地問題を解決したので、翌年から始めて、ぽつぽつと租界に移住する者ができた。
 フランス租界が洋脛浜と城壁以北の間に決定されたのはその後一八四八年のことである。同じ年にアメリカも蘇州河以北の虹口一帯をアメリカ租界として独立に獲得した。イギリス租界の北端も蘇州河岸まで延びた。ともかくこれで英米仏三大国が一様に、くすぶった上海城を見はるかす場所にそれぞれの租界をもったわけである。
 イギリス租界には北京路以下四本の大道ができて、江岸沿いに一八四七年ごろには家数約三十軒、教会も一つ建てられた。だがフランス租界はその後も長い間、ただ領事館とパリの時計屋の出店が一軒という淋しさだった。一八六〇年までの上海──といわずシナ全開港場の──貿易は、ほとんど英米の独占で、フランスは自己の主要輸入品たるシナ絹すら大部分ロンドンで仕入れるといった情けない商況だったからである。
 シナから割譲されたばかりの小ぎたない湿っぽい山だらけの香港に較べると、上海の気候風物はまるで天国だった。商人も外交官もすべて広東、澳門方面から移ってきた者ばかりだったが、単に気候風物がいいばかりでなく上海付近のシナ人の人情も格別だった。広東人は性来気が荒い。それが阿片戦争後はとくに、償金は課せられる、土着手工業は破壊される、旧貿易商人の特権はとりあげられる、物価は高くなる、 「西夷」は傲慢の度を加えるといった事情から、ひどく排外的になっていた。広東では毎年のように外人傷害事件があった。商人はすわといえば逃げ出せるように帳簿類をいつも荷造りしておった。規定で許されていた一日行程の小旅行などはとても危なくてできるものではなかった……そういった南方の人情におびえてきた外人たちにとってみれば、上海のシナ人はまるで別人種のように和やかで、一片の害意もそこには感じられなかった。
 しかし上海は南方貢米の集合地点だったから、貢米輸送期になると以前から広東・福建の舟夫たちが集まってきた。ことに開港後茶の輸出港としての地歩を占めて以来は、福建人の往来や移住がいっそう激しくなって、いつか城内に南方的な秘密結社もいくつか生まれるようになった──これは後年太平軍に呼応して立った関係上、外人に対しては戦術的な友誼関係を保ちはしたけれども。
 一八四八年に、上海開港後はじめて外人殺傷事件が起こった。犯人は福建人の貢米舟夫で、被害者の中にはそのころすでに一人まえの通訳補になって領事アルコックー後の初代駐日イギリス公使──の下にいたパークスの、義兄にあたる青年牧師ロックハートもいた。この事件は、その報復手段として、千四百艘の貢米ジャンク一万三千名の不穏舟夫を相手にしてわずか一隻のイギリス小軍艦が十五日間上海を鎖港したことで有名である。このこと以来上海におけるイギリスの権威はおそろしく熾んになった。



 太平軍に呼応した三合会一派が上海を占領したのは一八五三年──ペルリがはじめて浦賀へやってきた年だが、そのころの上海租界はすでに堂々たる「模範租界」だった。蘇州河以北のアメリカ租界には領事館、ドック、エピスコパル教会その他若干の建築物があるだけだったが、蘇州河口からフランス租界公館馬路の角までの江岸一帯にはぎっしり近代ふうの建築が立ち並んで、北端にイギリス領事館──パブリックガーデンはまだできておらず、領事館は道路を隔ててすぐ江岸に臨んでいた──南端にフランス領事館、中央辺にシナ税関が聳え立っていた。
 繁華なのは当時の上海バンド、三階建のシナふうの建築の税関。その右側には商人王と謳われたデント商会。広東の阿片商売でしこたま儲けてすでに二代目のひどく貴族的な当主が贅を尽くして建てた上海一の建築だった。デント屋敷にとどまらず、いったいに上海の租界建築は南欧の別荘建築の様式をとりいれてシナふうのヴェランダをつけ、 「コンプラドリック・スタイル」と呼ばれて新来の欧米人に評判されたものだった。いずれも手広く屋敷をとって、邸内にキジが鳴いたものだという。
 バンドから北京路、南京路、福州路、広東路が、ゆったり道幅をとって西に延び、畑の中に──今の河南路辺で消えていた。その向こうの郊外に競馬場ができていたが、競馬場に達する道路は南京路一本きりだった。盛り場といっては洋浬浜付近があったが、きわめて清教徒的なもので、犯罪の都、 エロとグロの街などといった空気は租界のどこにも芽生えてはいなかった。
 この行ない澄ました上海租界が、デント屋敷に象徴されているように半ば以上阿片貿易の利益で建設されたのだから皮肉である。むろん阿片以外のシナ貿易も、そのころは半額以上が上海に集中されて、シナ貿易の中心は広東から上海へ移りつつあったけれども、阿片は依然としてますます大量的に密輸入されていた。
 南京条約では阿片問題に一言も言及しなかったから、一八五八年の天津条約で阿片輸入を公認するまでは、表面上一八○○年の阿片禁令は行なわれていたわけだった。だがこの禁令はバンド中央のシナ税関に阿片輸入税がはいらないという結果を残したにすぎない。当時の上海輸出品は絹が第一、茶が第二で、いずれも莫大な額にのぼったが、その帳尻を合わせる輸入額の大部分は阿片だった。
 イギリスはこの世紀の初め以来インド市場の開発に全力をあげていた。インドはイギリス製綿製品のために支払う莫大な金をシナから儲けてくる必要があった。──今日なおシナ人の生活からとり離しては考えられない呪うべき阿片は、こんなふうにして何よりもまず近代シナの発展およびインド経営のための不可欠な条件として歴史が東洋に課したものであった。イギリス本国──それのインド市場I──インド阿片のためのシナ市場──こういう三角関係の下にはじめて、阿片戦争の真実の意味は理解される。むろん、阿片戦争前後からしてシナ自体が直接欧米資本主義の市場として開発されていったことはいうまでもない。
 租界貿易業者で阿片に手をつけない者はほとんどなかったが、その阿片を輸入する帆船はまたすばらしい代物だった。当時シナ茶を輸出するいわゆるティー・クリッパー船も、英米造船技術の粋を尽くした立派なものだったが、オピウム・クリッパーときてはもひとつその上に出た。わずか百ないし三百トンの帆船で百万ドル以上の値打ちの品物を積んだのである、名物の台風を乗り切るだけの構造と、海賊を撃退するにたる充分な武装と、いっさいに処して動じない船長をもっていた。密輸入船の船長というから海賊然たる荒男を想像したら聞違いで、どんな場所に出してもはずかしくない、教養ある英国紳士だったという。
 上海では阿片を陸揚げできないので、この半ば公然たる密輸船のために黄浦江口の呉淞(ウースン)に十二艘ばかり阿片ハルクが常置されていた。イギリスによるシナ侵略の開拓期に活躍した外交官も、牧師も、軍隊も、いってみれば半ば以上この阿片に奉仕したのであったが、その代償とでもいったように、阿片で稼ぎ上げた紳商に高雅なロンドンふうの教養があり、阿片で築かれた模範租界に清教徒的気分があり、いっさいの罪悪は城内シナ人に任せたとでもいった顔で、開拓者たちの手になるたいがいの記録は当年の牧歌的な上海をまずはいい気持で吹聴することができたものだ。
 電信も通じてないし、汽船は「彼阿(ピーオー)」ラインが月一回ヨーロッパと連絡するだけだった。広東や故国からの二漣ユースをもたらすものはのべつに入港する茶クリッパー・や阿片クリッパ──等で、一刻も早くこれを受け取るため呉淞-上海間にシナ少年の騎馬郵便隊が特設されていた。船から郵便物を受け取るなり、しゃれた服装の少年騎馬隊は上海租界に向けてまっしぐらに「競馬」した。予報もなくそれを迎えるときのバンド一帯の商館はどっとわめいたものだという。



 一八五三年三月破竹の勢いの太平軍が南京を占領し続いて上海を攻略するという噂とともに、租界の商業も城内のシナ官界も大混乱に陥った。だが、商業上の打撃にもかかわらず列強勢力は一致してひそかに叛軍を支持した、というのも清朝政府が依然として久しき排外政策を廃棄しなかったからだ。租界外人はイギリス領事のアルコック首唱のもとに共同自衛隊を組織して三国租界区域を防禦することにした。今の競馬場の東側にあるが旧競馬場からいえぽ西側に当たる「デフェンス・クリーク」は、そのときの租界防禦線としてこの名がある。
 南京の叛軍政府を認めようという意見が外人間には盛んに行なわれたが、結局中立を宣言して、そのじつ武器は官賊双方に向かってしきりに密売した。一方南京の太平軍は天津攻撃に軍を集中して、上海はわざと顧みなかった。ところがそのうち上海城そのものの内部に叛軍に呼応する秘密結社三合会、小刀会等が起こって九月七日突如北門を占領するとともに苦もなく城内を手に収め、さらに租界内バンドの中央にあったシナ税関を襲撃したが、外人とは事を構えず、爾後三年間上海城を占拠した。
 叛軍は広東福建出の民衆を主部隊としたけれども首領劉某以下、おもに外国貿易に関係したことのある人物だったから、一つは官軍に対する戦術の意味もあって、租界外人に対しては終始好関係を持していた。彼らは太平軍同様倒満興明を宣言し、長髪を蓄え、赤襦子の制服を用いた。外国船から脱走した外人傭兵も多数混じっていた。
 叛軍の上海占領と同時に㌦城内人口は二十七万から四十万──叛軍をもいれて──に激減したといわれている。逃げ出した連中は道台呉健章以下ことごとく租界に避難した。上海の避難民だけでなく南京辺からさえ富商豪紳の避難者が絶えなかった。そうした富豪シナ人のために洋■浜一帯が提供されたが、そのうち租界のあらゆる方面にいろいろな種類のシナ人が流れ込んで、盗賊、博徒、売春婦といった手合いが横行したから、特殊の租界警察権がそれを機会に発生したのである。
 だが、差し当たって列国は軍事的に協力しなければならなかった。叛軍との間では一、二の小事件が起こったにすぎなかったが、大きな衝突はかえって叛軍討伐のため水陸二道から上海城に迫った官軍との問に生じた。すなわち一八五四年の四月初め、官軍は戦略上の必要から租界を通過せんとして租界防備軍に撃退され、ついでフェンス・クリークにおける戦闘となった。このとき戦闘は理由はいかようにあれ、結果において、英米が軍を撃退したのである。
 このとき官軍は租界内も中国の土だから撤退の要なしといって抗議したけれども、国際法上の議論は別として、ともかくシナの内乱に際して租界を中立地帯として防禦する事例はこのときに発している。だがまた租界内政のうえからみても、この事変を通じて上海は単なる「租界」以上のものに転化したi工部局の発生がそれである。
 官軍の敗退後まもなく、租界内に逃亡中の上海道台と英仏米三国領事の間に租界章程が協定されたが、これによって従来三国まちまちの租界にすぎなかった新上海地帯がはじめて統一的な存在となり、独自の立法、司法および行政権をもつこととなった。すなわち一八五四年七月イギリス領事館で公会が開かれ、道路委員および棧橋委員を選んでこれを英米仏三国領事監督下におき、さらに七名の調査委員をあげて租界法規および財政に関して立案させ、翌年公民会を開き、市参事会員を選挙し、警察権および行政権をもつところの租界政庁-現在の工部局iを設置した。
 これはけっして単なる自治体としのて統一ではなかった──第一、自治警察行政権というようなものは普通の自治体には見られないものだが、しかもこれが国外列強の支配下におかれているとはいえ、どの一国のものでもなく一個のインタナシ・ナルな一種の国家で、一八六三年になって──このときもけっしてあたりまえにではなく、長髪賊の戦乱を契機として──英米租界が合併して今日の共同租界をつくり、自治軍をもつ権能を獲得した点を見ればいっそう明らかであろう。だが、法理論上からいえばどんなにしちめんどうな理屈となるものであろうとも、本質についてみれば、シナ侵略の第一段階における資本主義列強協働部面の所産であり、植民地シナに対する××××××の申し子であるにすぎない。



 このときの事変にあわせて関税の事を記す必要があろう。叛軍の上海城占領と同時に上海は事実上自由港となってしまった。道台の依頼もあって英米仏三国領事は関税支払を履行すべくいろいろとやってみたが、有力な商人たちは同時にデンマルクだのスペインだのといった諸小国の領事を兼ねていたから、かりにイギリス領事が関税支払を命じてみても何の効果もあがらなかった。そこで租界章程と前後して外人税務司の手に関税事務の処麗を委ねることとなって、後一八五八年の天津条約でこの制度がシナの全開港場に適用されることとなった。
 ついでながら以上はまったくシナ一国の問題ではなかった。一八五八年に日本が通商条約を締結するという場合、列国はひとしくシナにおけるこれらの所産を、その他のものとともに、一個の規準として機会あらば日本に強要せんとしたものであったのだから。
 さて新しく誕生した上海租界権力の最初の仕事は、一八五五年正月早々に、事変以来租界内いたるところに巣を張ったシナ人を追い払い、小汚ない仮小屋を叩ぎ壊すことだった。ただし洋脛浜方面の富裕シナ人はその限りでなかった。この清掃事業にとりかかるまえ、租界内の欧米人人口は約三百家族、これに対してシナ人人口は事変以前五百家族だったのが約二千家族にふえていたという。
 清掃は行なわれたけれども──もはやそのあとには数年前までの牧歌的な、清教徒的な上海租界もまた消えてなくなっていた。
 一八五五年の二月になって城内の賊軍はフランス軍の応援をえた官軍の手で、占領後三年目にはじめて撃退された。英米はそのとき中立を保ったが、フランス軍の官兵援助は、旧教国のフランスがかねて新教と因縁のある太平軍に好感をもたなかったという点もいくらかあるにはあったかもしれないが、本質的にはシナに対するナポレオン三世の独自の思惑的政策のあらわれであった。
 その後五年目-一八六〇年の八月、上海は再び太平軍に、しかも今度は太平軍きっての闘将忠王の率いる主力軍に襲撃された。
 だがそのときまでにシナは第二の阿片戦争を終えていた。一八五六年以後英仏連合軍は両度にわたって北京を攻め、一八五八年の天津条約、六〇年の北京協約を通じてはじめて充分に清朝を屈服させ、今では逆にその清朝を維持させることが、砲火によって獲得した既得権のためにも、またようやく開拓されきたったシナ大市場の安定のためにも、列国の必要事となったとたんのことである。
 八月十七日の夜、忠王の大軍は徐家涯に駐営し、官軍を城内に追い込んだ。ところが五年前賊軍を援けたはずの西軍外国軍隊は今度は城内にはいって官軍を援けた。二十日には太平軍は租界に攻め入ったが、場所も前と同じ競馬場付近で、官西連合軍のため撃退されてしまった。
 忠王は一力年間の税関を免除するという条件で、西軍との提携を図ったが、太平乱旗揚げ以来十年間の外国勢力の好意はどこかへけし飛んで、いかんともできず、旗を巻いて南京に引き揚げた。
 そのころからワード、バーゲウィン、後になってゴルドンの常勝軍の武勇伝が始まる。かくて一八六三年、さしもの太平乱もあとかたもなく亡びてしまった。
 その功績(?)によって共同租界の権限がさらに拡張されたことは前に触れたが、現行章程は一八九八年にも一度改訂されて成ったものである。フランス租界の現行居留地規則は一八六六年に制定された。
 日清戦争後の日本の侵略行為を別とすれば、以上辿ってきた時期における上海建設に、日本が何ほどの功労者としても、いわんや加害者としても、登場しなかったことはいうまでもあるまい。日本は日本で、一八五三年のペルリ来航以来、場合によってはそのままシナの二の舞を踏みかねない、危ない瀬戸際を経験しつつあったのだから。そして結果においても一八五八年の安政条約と、同じ年、それまで数度の砲火を経て戦いとられたところの天津条約とは、当年の資本主義的侵略条項を規定した本質点においては、それほど大きな差異はなかったのだから。
 しかし、当時における上海と日本との間には、出来事め上のエピソード的なさまざまの因縁が数多く見出される。しかしそれを拾いあげることは本文の趣旨でもなかつたから別の機会にゆずる。