伊藤銀月「日本警語史」6
その五 警語の発達とその皮肉味
人の君たるを望んで人の臣たるを願わず 犬公方 我家の桂昌院様がやかましくっ
て困る そうせい将軍、田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様-関白
秀次公の二百年忌で御座んす 六無斎 耳目一新の論と王民の説 御酒が三合に
鯣の足よ
徳川時代は、日本民族の生活の爛熟期 と目 すべく、藤原時代におけるそれの、単に
宮室の範囲に止 まりて、多数人民 はこれに与 らざりしとは異 り、上下押 し並 べての天
下太平気分 に、時代を代表する警語の如きも、已 むを得 ずして自 ら発したる痛切緊密
なるものにあらずして、あくまでも凝 って皮肉 なるものを出 だすことに力 むるの傾向
を生じたり。随 って、徳川時代における警語は、含蓄 深く、余情 多き点において、一
段の発達を為 せるものと認むることを得 べし。
しかも、徳川時代もその初期の頃は、なお戦国時代の余臭余味 を留 むること十分な
るをもって、戦国時代気質 の人物にして、到底 時代の趣味気風 と一致すること能 わざ
るが故に、異常破格 の行動に出 でたる者少なからず。それと同時に、これ等の逆流児
と時代との、舷 々相摩 の間より生れ来りたる警語は、戦国時代
的にもあらず、また徳川時代的にもあらざる、一種拗 ね気味 の反抗的気分 に、何 れの
時代とも異なれる特色を認めざるべからざるなり。
なかんずく、かの群雄 と角逐 して天下を争うに足 るべき、覇王的器度 と、その胆略
とを併有 せる、一代の奇傑山田長政 が、国内すでに治 まって、我が材 を試むる所なく、
空 しく悶 々の情を懐 いて、駿府 の紺屋 に食客 となり、奇矯俗 を驚 かすの言動をもって、
いささか自ら慰 めつつありし時、人あって彼を某大侯 に薦 めんとせしかば、彼の鬱屈
一時に併発 し来って、「いやいや、折角 の御親切では御座 るが、拙者 は人の主君となる
ことを望む者で、決して、人の家来 となることは望 み申さぬ」と、木で鼻括 った挨拶
に刎 ねつけたるを挙 ぐべしとなす。「人の君たることを望んで、人の臣たるを願わず」
とは、秩序 すでに定まりたる太平時代においては、法螺 も程度 も越 して、意味 を為 さ
ざる狂人の言 に儔 しきが如しと雖 も、独 り我が仁左衛門長政 においては、これ大いに
したが ちゆうしゆつ きばつ
有意義なる痛語ならざるにあらず。随ってこれ、時代より抽出したる、奇抜極まれる
警語ならざるにあらざるなり。
靆が・国内においては叢譯すに響ざるを思い、醫黶驪を攀て、遠く騫
蛋の鵬なる蠹国に遊び・蠹の毆蝦を救・つて六羆を征服し、ついに、蠹の大
臣に兼ねるに六騒及び群留の王をもってして、葎国王の隷となり、その廚釜
響の譁に農うに到りたる・すなわξ」れ・蒙対錣の彼が讖をして、騨露
たらずして警語たらしむべく、裏附 けられたる実行にあらずして何 ぞや。
予 は、三十年前初 めて東京に乗 りし時、ある老人の口より、「我家 の桂昌院様 がやか
ましいので困る」と云う語の発せられしを聞き、ほとんど驚倒 に価 するを覚えしこと
あり。これ実に、ある時代に醸 し成 されたる隠微至極 なる警語が、二百余年間社会の
しんてい か のうてきりゆうどうせい うしな しゆつ
この語の出
深底を通じて、なおかつその可能的流動性を失わざるを語るものにして、
所 は、まさに徳川五代の将軍綱吉 が生母桂昌院 に在 るなり。しかも、今日 の権威 ある
医学者が研究して、一種の精神病者 に相違 なかりしと断定するところの綱吉 は、爛熟
中 心人物と目 すべき底抜 けの人
壊頽の間に特殊の気分情調を生じ来れる元禄時代の、
間にして、桂昌院は、ある意味における太平時代の淀君 の如く、子息 将軍の昏迷 に乗
じて、極度 に賢女 ぶりを発揮し、大いに女権拡張の脱線を遣 らかしたる尼様 なり。
この時に当っては、当世才子 の標本柳沢吉保 が、綱吉の狂疾 を利用して、微 々たる
側用人 の地位より、階級制度の厳密 なる太平時代には奇蹟 とも云うべき、十五万石の
大名にまで躍進 するあり。自宅を提供 して一種の娼樓妓閣 に擬 し、もって、昏迷漢 綱
吉が遊蕩 の場に供するなど、滅茶 々々の乱脈 が通りたる世の中なれば、桂昌院の太平
時代的尼将軍 ぶりもまた凄 じきものにて、彼女は、かかる時代のかかる婦人に相応 し
き、仏教惑溺 、むしろ僧侶惑溺 の傾向を示し、この点 においては、むしろ、息子 どん
の狂疾 ぶりにも譲らざる昏迷狂乱 の状態を呈 して、最初は、知足院 の住持恵賢 と、護
国寺 の住持亮賢 とに入 り上 げしが、恵賢病篤 うして、大和長谷寺 の塔中慈心院隆光 な
る者を後住 に迎えるに及 び、この妖僧 巧みに尼様 を催眠術 に掛 け、盤若心経 の「色即
是空空即是色 」を講ずることただ一遍 にして、ころりと参 らせて了 い、続いて、将軍
綱吉 がただ一人の男子を亡 い、無情 の感じを起しつつある機会に乗じ、桂昌院の糸 を
操 って、旨 々と、神田橋外 の五万余坪という広大もなき地面を占め、護国寺よりは一
倍も雄大 に、その荘厳 なることは東叡山寛永寺 をも凌駕 すべき、護持院 (初めの名は
知足院 )なる大伽藍 を造営せしめたり。ここにおいて、護持院隆光 なる者の袈裟 の光
は、だらしのなき尼御台 を背景として、燦爛人目 を射 るの素晴 らしき勢いを成 すに及
びぬ。
しかも、この腥坊主 が尼後家 を操縦 しての、狂疾将軍籠絡方 は、言語道断 の飛 ん
でもなき方面に発展し、綱吉の生年戌 の年 なれば、犬 を愍 んでこれを養 わば、必ず再
び嗣子 を儲 くることを得 べしなどと、もっともらしく申し出でしかば、たちまち養犬
の制度 を設けて、厳酷 なる殺犬 の禁令 となり、人民過 って禁 を犯して、惨刑 に処 せら
るる者多く、同時に一般生類御憐愍 の御沙汰 なるものが下 りたるにより、江戸城中紅
葉山 のほとりは狐狸 の窟宅 となり了 おせ、狸公狐吉 の連中は、白昼 ゾロゾロと隊伍 を
組みて、大奥 の庖厨 を襲撃 するの横暴 を敢 てするに及 びたり。民怨偏 に狂疾 将軍の一
身に集まりて、「犬公方 」の綽号 は、窃 かに市井 の間に呼び習わさるるに到りたるが、
放埓後家 と腥坊主 との合体 より、かくも天下の事の誤 られたる、実に苦 々しさの限
りにあらずや。されば、憤怨措 く能 わざる多数人民も、御無理御尤 もの極端なる圧制
政治の下においては、また如何 ともすること能 わず。
すなわち「犬公方 」の蔭口 に加うるに、「桂昌院様 」の一語をもってして、あらゆる
婦人の悪徳 の代名詞と為 し、徒 に口舌 に巧 みにして、亭主 を遣 り込 めることを能 とす
る、賢女 ぶりたる女房、我儘放埓 の後家 などを見れば、直 ちに、「何処其処 の桂昌院様
がどうした」とか、「いや、我家 の桂昌院様がこうした」とか云いつつ、表向きには口
にするさえ勿体 なしとせらるるその名をば、嘲笑侮蔑 の極 なる対象 と為 して、もって
纔 に不平 を遣 りたる当時の事情は、現代に及 んでも、なお江戸式古老 の口に上 せらる
るその語によって、明らかに窺 い知るべきにあらずや。二百年余の後に到りても、な
おかつその可能性を失わざる「桂昌院様」の一語が、その当時にては、如何 に感伝力
の強烈なるものにてありしそ。「我家 の桂昌院様 がやかましいので困る」とは、皮肉味
に饒 なる徳川時代式特殊的警語 として、確かに記憶に留むるに価するものならざるべ
からず。
十代将軍家治 は、その痴呆 に斉 しき暗愚 をもって、また時代の民衆の面敬背笑 に価
したる厄介物 なり。この大将 、綽号 を「そうせい将軍 」と云う。「申し上げます。これ
これに御座 りまする故 、これこれに仕 り度 う御座 りまするが、御賢慮如何 に在 らせま
しょうや」。「むむ、そうせい」。何 でもかんでも、「そうせい、そうせい」と云うより
外 の事を知らぬをもって、何時 しか、蔭口 好きの御坊主連 や奥女中達 より、「そうせい
将軍 」と云う目出度 さ極 まる御名 を奉 らるるに及 びたるなり。「そうせい将軍」の一
語、何 ぞそれ徳川時代式皮肉 の極 なる。
しかも、「むむ、そうせい、そうせい」と、何時 もこの大将が頭 を縦 に掉 る対手は、
田沼意次 、意知 の父子なるを記憶せざるべからず。意知 は初 め紀州藩 の小吏 なり。家
重 、家治 の二代に仕 えて寵 あり。小姓隊番頭 より累進 して、五万七千石の大名となり
父を主殿頭 、子を山城守 と云う。要するにこれ、綱吉時代 の柳沢吉保 に匹敵 すべくし
て、その権勢 の濫用 ぶりは、むしろ、吉保 の手加減上手 なるに過 ぐること数等 なるも
のあり。ここにおいて、圧制 に反抗する気力を去勢 せられて、冷笑高踏 の風 を学びつ
つありし徳川時代の子は、その特殊的皮肉味 の警語を鍛練 して、最上無比 の域に入ら
しむるの絶好機会 を与 えられたり。しかも、警語 を俗謡化 して万人 をして内 々に唱咏
せしめ、もっていささか不平を遣 るの業 に供 せしめたる、ますますその皮肉味 の徹底
せるを窺 うべしと為 す。曰く、「田沼様 には及 びもないが、せめてなりたや公方様 」と。
鳴呼 、何 ぞそれ諷刺 の絶妙 なるや。一唱 三歎 に価するものはこれにあらずや。
圧制時代においては、その圧制の度 の高まるに正比例を為 して、諷刺 を発達せしむ
るもの、面争 の自由を束縛 せらるればせらるるほど、その背笑 の要求はますます加わ
り行くものなれば、とうてい怺 え切 れぬ憤 々悶 々の情 を変形せしめて出 だすには、如 何 なる凝 りに凝 りたる冷笑 の語を選ぶべきかと、肝胆 を砕 いて案出 したるが、すなわ
ちこの一俗謡 ならざるべからず。しかもこれを出 だすこと極 めて隠微 にして、何者 が
これを創製 し、何者 がこれを伝承 せしかの事実を明らかにすること能 わざるに、蚤 く
も翼 なくして千里に走り、江戸全市中より、交通不便なりし時代の全日本に及 ぼしつ
つ、ひとたびこれを耳にしたる者にして、窃 に快哉 を叫 ばざるはなく、しかして、窃
にこれを唱咏 して、ますます痛快 の情 を加えざるはなく、もって、暗 々裡 に田沼氏顛
覆 の機運 を醸成 するに到りたる、警語 の効力もまた偉大 なりとせずや。
すべて、徳川時代式警語は、もしその創製者 の何者 なるかを知らるるに到らば、身
首 所を異 にするもなお及 ばざる最大危険を伴 いつつ、なおかつその恐怖をもってして
創製者の口を篏 すること能 わざるのみか、万人 の間に不言 の約束ありて、自然に創製
者を保護し、かつ奨励 するの、隠微 なる社会制度成 り、その普及伝播 に当っても、冥 々
の間に鬼神 あってこれを為 すが如き、偉大なる効果を奏 しつつ、絶対権能 を抱持 せる
有志の力と雖 も、これを如何 ともすること能 わざるところに、その特殊性 を見るべし
となすなり。支那人 が、時代のまさに変 ぜんとするを窺 うべく重 きを置くところの、
「童謡 」なるものはすなわちこれなるべし。
人心 の傾向 は、なお流水 の如きか。これを防遏 すれば激 して奔騰 し、これを掩蔽 す
れば、地底 を穿 って潜行 す。要するに、「犬公方 」と云い、「桂昌院様 」と云い、「そう
せい将軍 」と云い、「田沼様 には及 びもないが、せめてなりたや公方様 」と云い、徳川
時代式特殊的警語 なるものは、皆これ地底 を潜行 するところの水脈が、堆積 せる落葉
もしくは塵埃 の部分々々に滲出 しつつ、卒然 としてこれを履 む者をして、冷 りと足の
裏に透 る味を覚えしむるものに他 ならざるなり。故に、この見地よりして徳川時代の
歴史を点検 せば、諸君は、以上の僅少 なる数例の外 、さらに多くの同工異曲 なるもの
を見出すを難 しとせざるべし。
田沼が失脚の後、老中の地位に立ちて政弊 を改革したる、かの白河楽翁 の松平定信
が、初 め田沼父子の専権 に際 して、憤懣措 く能 わずと雖 も、またもって如何 ともする
こと能 わず。「非無 頭民之魂 水浜黙然 去河辺 羆登下連武道 非有 頭民之魂
左右瞽唖 退漠頭 羆登下連武道」と、他人容易 に理会 すること能 わざる隠微 の寓言
を留めて、その領地白河 に去りたる。またこれ、「田沼様 には及 びもないが」の俗謡と
共鳴 するものにあらずとせざるなり。
予 はさらに、徳川氏の末世 に近き市井 の間に一事実として、興味ある逸話 を伝えん
ことを思う。文化年間 、大阪市民の女 に三好 お雪 なる者あり。一賤 女子の身 をもって
して、盛んに反徳川 の大気焔 を揚 げ、徳川氏の命運 を咀 うべく、到底何人 も想到 し得
ざる、奇抜極 まれる言動に出でたり。彼女は、年少にして飽 まで武技 を学び、長 じて
禁廷 に奉仕して、宮中の儀礼 を諳 んじ、一生不犯 の童貞 を保 って、まず、徳川氏に頭
の挙 がらざる一代の男性に反抗し、しかして、その築き成 したる立場において、反徳
川の火蓋 を切るべく機会を窺いたり。
すでにして、機会は彼女を祝福したり。もとより財富 を擁 せる彼女は、仏教創始 の
巨刹四天王寺 において、全大阪人 の耳目 を甕動 すべき一大法会 を
挙行 したり。しかも、人その何者 のための追福 なるやを知ること能 わざるなり。すな
わち怪 しんで彼女に問えば、お雪 は待 ち設 けたりとばかりに胸 を反 らして、「関白秀次
公 の二百年忌 で御座 んす!」と遣 って退 けたり。聞く者驚倒 して、呆然 たることこれ
を久しうせざるはなし。ここにおいてお雪 が胸間 三斗 の溜飲 は、一挙 にしてゲーッと
ばかりに下 がりたり。
徳川氏を抑えんとするが故に豊臣氏を揚 げ、しかも、故 に豊臣氏の系統中 より選択
するに、末路 の惨澹 を極 めて、天下一人 としてこれを顧 る者なき、殺生関白秀次 を
もってす。お雪 が時代に反抗する極端 なる拗 ね者なる所以 、ここにおいて、天王寺 の
五重の塔 よりも高しと云うべし。
お雪剃髪 して月江尼 と称し、天王寺 のほとりに月江庵 を営 みつつ、お亀 、お岩 の二
勇婦 と共に棲 む。かつて天王寺の仏儀 に際 し、驟雨 の来 れるあり。お雪咄嗟 に五千本
の傘 を集めて、これを参詣 の群集に施行 す。殺生関白を担 いで徳川氏の対抗する女子
たる者、この段 の活手段 なかるべからざるなり。お雪の名いよいよ高うして、豊臣氏
の末路 の惨澹 はますます新 たに人心を刺戟 し、随 って、ますますお雪が反徳川の言動
に背景を加えざるを得ず。お雪が任侠の名すでに都鄙 に喧伝 せられて、一賤女子の狂
妄なる言行もまた、時代の人心に何等 かの影響を与えざるを得ざるなり。その晩年 、
美麗 なる棺槨 を作りて、これを屋前 に掲 げ、大いに知己故旧 を会 して、盛
宴 を張 ること三日、もってこの世の暇乞 いと称 す。独 り招客 の多数なるのみにあらず
して、遠近来 り観 る者、日 々門前に市 をなせり。皆曰く、「秀次公 の二百年忌 を行いし
侠尼 を見よ」と。民衆の感情の帰趨 するところ、其所 に侮 るべからざる新勢力 の醸 さ
るるものなり。
「関白秀次公の二百年忌で御座 んす!」の一語、またこれ、徳川氏の命運 に暗 々裡 の影響を与うべき皮肉 の極 なる一警語ならずや。否 、その拗 ねて拗 ね抜 きたる思いも寄
らざる奇言狂語 は、警語としての価値においても、断 じて他に匹儔 あるを
許さざるものなり。しかして、お雪の結末もまた、その奇抜 なる一生を竜頭蛇尾 なら
ざらしむべく、頗 る振 ったものなり。彼女は、出 でて大道 に野倒 れ死 したるなり。世
俗 に「奴 の小万 」と云うはこのお雪 の事なり。
幕末時代 となりては、その色彩 全然一変して、衰頽 せる徳川氏の圏外 に、新鋭 なる
気分情調 の漲溢 し来 れるを見るべく、随 って、時代を代表する警語の如きも、全然徳
川時代式皮肉味 を含めるものとは選 を殊 にして、撥溂清新 なるそれを競 うに到りたり。
かの本居宣長 が、大いに尊王愛国 の志気 を鼓舞 したる、
敷島 の大和心 を人間 はゞ朝日 に匂 う山桜花
の和歌の如きも、また時代の傾向を指示 せる一警語ならざるにあらざるべし。しかも、
これに対する他の半面 においてはなおかつ、遠識卓見 高く時代に超越 せる偉人にして、
徳川氏の圧制拘束 のために余儀 なくされ、同じく徳川式皮肉味 を留むるところの、
親 も無 し妻無 し子無 し版木無 し金 も無 けれど死 にたくも無 し
の冷笑的狂歌 を発しつつ、その破天荒 の名著 『海国兵談 』の版木 を没収せられたる不
平を漏らしたる、六無斎主人林子平 の如きを出 ださざるを得 ざりき。またこれ、自 ら
笑殺 しつつ併 せて時代を笑殺したる一警語にあらずや。
「尊王攘夷 」と云い「開国進取 」と云い、もしくは「公武合体 」と云いたる、すべて
皆、時代の帰趣 の上に焦点 を作りたる一標語にして、同時に一警語たるもの。西郷隆
盛 が、「二百余年太平 の旧習 に汚染仕 り候人心 に御座候 えば、ひとたび干戈 を動
かし候方 、反 って天下の耳目 を一新 し、中原 を定められ候盛挙 と可相成候 えば、戦
を決 し候て、死中活 を得 るの御着眼急務 と奉 存 候 」と云いて、必ずしも平和の間
に政権の授受を行うべき希望なきにあらざりしを、強 てひとたび干戈 を動かさんこと
を主張したる、いわゆる「耳目 一新 」の論 は、新旧過度期の骨髄 に透徹 せる一大警語
として、当時の人心を…聳動 したるものなり。
これに対して、幕府の舞台 を一人の背中に背負 って立ちし、海舟先生勝安房 が、山
岡鉄舟 に托 して、駿府 の行営 に在 る南洲先生 に致 したる書 は、二千五百年来稀 に覯 る
雄大熱烈 の文字 、かつ情思痛切 の言辞 なるを見る。劈頭 一揮 して曰く、「無偏無党王道
蕩 々矣 。官軍逼鄙府 といえども、君臣謹 んで恭順 の礼を守る者は、我徳川氏 の士民 と
いえども王民 なるをもっての故 なり。かつ、皇国当今之形勢昔時 に異 なり、兄弟牆 に
せめげども外其侮 りを防 ぐの時 なるを知ればなり」と。これ豈 、時代の真相を道破 し、
時代の真趣 に触着 せる、燭 を秉 って闇 を照すの警語にあらずとせんや。すべて、切迫
せる忙殺急殺 の場合に発する言辞 は、高遠深邃 の意義 を発 するに、一言 もって人の肺
腑 を衝 くの警語をもってせざるべからず。もし、理路 の迂曲 なるを辿 らば、必ず疲馬
をもって電影 を追うの愚 に陥 らん。すなわち、南洲先生 が「耳目 一新 」の論 と、海舟
先生 が「王民 」の説 とは、拇指眼晴 を突 くが如き警語をもって、忙殺急殺 の場合の問
題を徹底的 に解決し得 たる好適例 ならざるにあらざるなり。
予はこの章を終うるに臨 み、慶応明治 の交 に醸 し成 されたる珍無類 の警語 にして、
歴史もこれを伝えず、同時に伝えられずして何時 しか消滅に帰すべきものを挙 げんこ
とを要す。これ徳川時代における口善悪 なき京童 としての江戸市民 語 を換 えて
云えば、「田沼様 には及 びもないが」の俗謡を産出することを能 くせし、皮肉味 の警語
において鍛練 し抜 かれたる江戸 っ子 なる者が、掉尾 の一挙 として、その歴史を終結す
べく発せられたるものなり。曰く、「御酒 が三合 に鯣 の足 よで京都狐 に騙 された」と。
諸君、これは何事 を意味するものと解釈せらるるか。
大政奉還 、天皇親政 の聖代 となりたる時、その祝意 として、宮中より江戸市民全部
に対し、清酒 三合ずつに鯣 の肴 を添 えて賜 わりたり。ここにおいて、市民のすべてが、
天恩 の優渥 なるに感泣 し、恩賜 の酒肴 に酔うて、聖代万 々歳 の
歓呼 を合 わせたるは、申すまでもなきところなるが、中にはそれ、一寸 皮肉な事を云
わねば己 の估券 が下 がるもののように心得 たる、極端 なる江戸っ子張
りの手合 いもありて、「己 の戴 いたのは鯣 の脚 ばかりだ。こりゃあどうも、下 っ端 の公
卿達 が中に立って、いい加減 な誤茶魔 かしを遣 ったのらしい」と云うままに、聖代 の
余得 たる酒機嫌 に任 せて、ここ一番と、罪のない皮肉 に云い納 めと試みしが、すなわ
ちこれ「鯣 の足 よ」の俗謡 なりと知るべし。これ以外に、何等 の意味もあるなし。
その六 雛形的警語史の雛形的終結
警語なるものの形式の区分とその効果の種類 緩褌ーー船成金、鉄成金、綿成金
ビリケンー和製ル;ズ 板垣死すとも自由は死せずー硬派軟派i肝胆偏照ー
妥協相撲に客と芸妓との妥協 脱線 野次 新しい女1ー裏書き1裏附ける!
ー警語家としての自己を訓練すべし
警語 を拈出 することを好むは、人類の進歩発達に正比例を為 しつつ、訓練せらるべ
き、人間本来の性癖 の一なり。しかして、社会生活における相互関係 の複雑となるに
随 って、漸次 に多く警語の適用の有効なる場合が認められ、同時に、漸次 に多くその
適用の必要を感ぜられざるを得 ずとなす。予 は、我等の同胞 たる日本人も、また警語
を拈出 するの熱心と、これに伴 う技能 とにおいて、決して他国民他民族 に歩 を譲 る者
にあらざるを信ずるをもって、些 かその例証 の一端 に充 つべく、ここに『日本警語史 』
という新しき試みに着手したり。されど、すでに読者に対して明言 せしが如く、予の
この小著述は、単に建築に対する雛形 に過 ぎざるもののみ。警語史とは此 の如きもの
との、その一例を示したるものに過ぎざるのみ。単に一斑 を挙 げつつ、その全豹 に到
っては、諸君各自 が、詳密精細 なる史乗 および雑纂 の中 より発見するの、労力と趣味
とを領 せらるるに任 せんとするなり。しかもこれ、試験に属 せる雛形的事業 として、
已 むを得 ざる約束に支配せられたる結果なりと雖 も、一にはまた、諸君のために、 一
歩を進めたる自家 の労力を興味とするの、いわゆる後 の楽しみを保留 したるものに他
ならずとなす。
ただし、総括 したる大体 において、賢明 なる諸君は、いわゆる警語 なるものの形式
の区分 と、その内容が齎 し来 るところの効果の種類とを、ほぼ判別 し得 られしなるべ
きを信ずるなり。すなわち、その形式においては、(一)口によって発 せらるるものと、
(二)筆 によって発せらるるものとの区分 あり。しかして、その効果の種類においては、
(一)眼前覿面 に目的を達して、片言隻語 の下 、立ちどころに問題を解決するもの、も
しくは、問題解決の素地を作るものと、(二)ただちに問題を解決せず、また、目的を
遂行 せずと雖 も、ある長き期間、もしくは非常に長き後代 に到るまで、その影響乃至
感化を及 ぼしつつ、直接あるいは間接に、有形 もしくは無形 の効果を、漸次 に奏 し来
るものとを認め得 べし。
これもとより、極 めて粗大 なる概観的分類 に過ぎずして、これを細別 するに及 べば、
なおはなはだ多くの題目 を設 け得 べしと雖 もこれもまた、かかる小著においては、枝
葉 の穿鑿 のために労する者との嘲 りを免 れ得 ざるべし。なお、いわゆる金言 はことこ
とく警語なるにあらず、警語もまた皆金言なるにあらずと雖 も、ある場合においては、
金言が警語にして、警語が金言なることあるを記憶せざるべからざるなり。
さて、明治より大正に連 りての現代においては、歴史的事項は、その細事 と雖 もま
た各人 の記憶 に新 たなるところにして、その間より警語史 の材料を点検 し来 らば、あ
るいは、過去の二千数百年間の総括 したるそれに対して、さらに数倍 せるものを見出
ださるるやも測 り難 し。故に、この小著もまた普通の編史 の法式 に準 じて、現代をも
って題目 の圏外 に放置 せんことを要するなり。されど、現代を現代として別様 に見る
ことなく、これを過去 の歴史の連続として、その末尾 の一片として概観 し去 らば、単
に、読者が参考の助けとして、その中 より多少の材料を見出だしつつ、兎 も角 も諸君
の眼前に提供するは、必ずしも体 を失 したる組織法にあらざるべきを信ずるなり。
すでに緒論 の部 において挙 げたる、「緩褌 」「成金 」等の如き、現代において最も普
遍的効果 を有せる、はなはだ皮肉 なる風刺的警語 の部類にして、殊 に「成金 」の一語
に到っては、その応用性 と耐久性 との豊富なる、今日 に及 んでもなお新 たなるものの
如く、欧州戦争 の影響 として、多くの「船成金 」「鉄成金 」「綿成金 」を出 だし、しか
も、それ等に対する簡単 なる「成金 」の二字が、如何 にも切実妥当 にして、このうち
無量 の意味を含蓄 せるを見るにあらずや。
また、現代の人間は冷笑的にして、好んで人に綽号 を附くると云うて憤慨 する者あ
り。その例証 として、大臣大将 たる伯爵寺内正毅 を「ビリケン」と呼び、大臣たる男
爵後藤新平 を「和製 ルーズベルト」と称するを挙 ぐるなり。されど、これ等の綽号附
けは、独 り現代の人心の浮薄 なるを証 するものなるのみにあらずして、もし綽号を附
くる事が人心浮薄の証拠ならば、人心の浮薄は古今東西押 し並 べての事ならざるべか
らず。
「三尺入道 」「赤入道 」、これ綽号 にあらずして何 ぞや。「猿面冠者 」、またこれ立派 に
綽号にあらずや。「犬公方 」「そうせい将軍 」に到っては如何 。無上絶対 の権力者たる
将軍をさえも綽号に呼びし時代の人心は、今日以上に浮薄なるものと認めざるか。古代希臘 の賢哲 ジオゲネスが「樽犬先生 」と呼ばれしは如何 。クロンウェルが、「赤鼻 」
と称せられしは如何 。青年時代 のナポレオンが、「侏儒の兵士」と云われしが発憤 し、
皮肉 なる批評家 に、「もしナポレオンの身長をして、今二寸 高からしめしならば、彼は
仏蘭西 の帝位に昇ることを得 ざりしならん」と噌 き得 る材料を与えしは如何 。なおま
た、胯 を潜 りし淮陰 の韓信 が、その堂々たる大元帥 に昇 りし後 に及 んでも、「胯夫 々々」
と云うて、当面 敵人に罵詈 せられしは如何 。故に、人に綽号を附くることのそれは、
人心の浮沈厚薄問題 として、まったく成立すべき性質のものにあらず。ただ綽号の附
け方の巧拙如何 語 を換 えて云えば、その風刺味 皮肉味 の多少如何 と云う点 に
おいてのみ、問題を成 すべきものならざるべからざるなり..
ここにおいて吾人 は、現代における「ビリケン」「和製ルーズ」等のそれが、「猿面
冠者」「そうせい将軍」等に比較して、遥 かに巧妙に、遥かに婉曲 に鍛練 せられたるも
のなるを見、警語を拈出 する日本人の手腕 が、確 かに時代と並行しつつ発達せるを知
ることによって、大いに同胞のために祝賀 するの当然なるを覚ゆるなり。
予は、明治十年時代における「自由民権 」という緊縮烹練 せられたる四字を取って、
時代の帰趣 を代表する明確なる標語と認むると共に、なおかつ、
幕末 における「尊王攘夷 」の四字と対峙 すべき、時代の神髄 に透徹 せる警語と見做 さ
んことを要するなり。
岐阜遭難 の板垣退助 が、「板垣 死すとも自由は死せず!」と絶叫 したる、またこれ、
忙殺急殺 の間に迸発 して、その焦点 に触着 し得 たる警語ならずとせず。今日 、板垣翁
の末路 はなはだ振 わずして、家を失い、財 に窮 し、衰残 の老躯 を置くに所なきに及 び、
彼がために、数十万金を費 したる壮大華麗 なる別荘を寄贈 せんとする者を出 だし、あ
るいは数千金を贈 って家政 を補 う者を生 ずるに到りたる、豈 、「板垣死 すとも自由は死
せず」の絶叫の、時 を隔 てたる反響にあらずとせんや。
帝国議会開設 の当初 に成 りたる、政府迫撃派 とその擁護派 とを区別せる、「硬派 、軟
派 」の簡明 なる標語 も、次 いで、社会上のあらゆる事物における、剛柔寛厳 の対比 に
応用せられ、はなはだしきは、新聞記者の政治部に属する者を「硬派」といい、その
社会部に属する者を「軟派」と呼び慣 らすに及 び、またこれ標語にしてかつ警語たる
の事実を成就 せるを見るなり。
日本の政界に流行せし「情意投合 」「肝胆相照 」等の語も、その応用し転用せらるる
場合の諷刺的 なる時において、多く警語たるの性質を賦与 せられ、殊 に、「肝胆相照 」
より脱線 したる「肝胆偏照 」のそれに到っては、純然 たる警語に相違 なきを認むべし
となす。「妥協 」という政界の流行語は、元来妥協好 きなる日本の政界 において、その
生命 の短きを憂 うる要 なかるべく、同時に、社会の有 らゆる事物 に応用 むしろ濫
用 せらるるの流行も、これに代わるべき今一段奇抜 なるそれの見出ださるるまでは、
容易 に衰 うることなかるべしと思う。しかして、この語もまた、その用所 と用法 との
諷刺的 なる場合において、一般に警語 として認識 せらるるものの如し。「妥協相撲 」「客
と芸妓 との妥協 」の如き、その例 の一、二なるのみ。
なお、予 が用いし「脱線 」という語も、またこれ明治時代に拈出 せられし、新味未
だ失われざる警語にして、汽車電車 の脱線頻 々たりし時、人々の目に耳に脱線 という
語が特殊 の印象 を与えしより、ついには問題外に反 れたる言論を聞き、常規 を逸 した
る行為を見るや、「脱線 ! 脱線 !」の評語 を与うるをもって、最も事実に適切なるを
覚えしむるに到りたり。吾人 は、議会の弥次 り手 によって、しばしばこの「脱線 !」
の叫 びを聞くの光栄 に浴 したりき。
なおまた、真面目 にして品格 あるべき帝国議会 における、冷評 、混 ぜっ返 しを意味
して、「弥次 る」と云う事のそれも、その冷笑的内容において警語たるを失 わず。つい
には、野球その他の競技運動 においても、その応援隊 なるものが、何時 しか変 じて、
弥次 の「弥 」の字を「野 」に換 えつつ、「野次隊 」もしくは「野次軍 」と称せらるるに
及 び、中には「吉岡野次将軍 」と云う、ど傑 い将軍を産出 するの騒 ぎにまで到達 した
り。ついでに記 せば、得意 になりて盛 んに気焔 を吐 く事を、「メートルを上 げる」と云
うも、また時代の一警語と見做 すことを得 べし。
望月小太郎 、松本君平 、竹越与三郎 なんどの、いわゆる高襟 党より発せし、「ハイカ
ラ」もしくは「灰殻 」の語も、今日 においては、すでに時代後 れの感 なきにあらずと
雖 も、なお、洋服 の襟 を高くする事の直接の意味より転化 したる、種々の「新 しがり」
に応用するところのそれらにおいては、その諷刺 もしくは冷笑の極 めて皮肉 なる場合
に限って、辛 うじて警語 たるを失 わざることなきにあらず。
文芸界思想界 の産物 なる「新しい人」、ことに「新しい女」という標語 も、実際にお
いては、諷刺的 むしろ冷笑的意味において適用せらるる場合多きをもって、その範囲
に限りては、同じく警語の部類のものたることを得べきなり。「裏書 する」「裏書 され
る」という語、およびその過去に属する語も、約束手形 のそれより出 でて、多くの場
合に応用せられ転用せられつつあり。しかも、その転用応用の奇抜斬新 なる場合にお
いて、また警語の範囲に属 しむることを厭 い得 ずとなす。この語ひとたび出 でて、「折
紙附 き」という語の転用応用は、警語としてすでに過去に葬 られ去りぬ。また文芸界思
想界における「裏附 けらるる」という語も、その応用転用の場合と方法とによりては、
警語ならずと云うて排斥 すること能 わざるなり。堀紫山 が報知新聞記者 として創製 せ
し、「轢死 」「色魔 」なんど云う語も、その新味 の失 われざる間は、確 かに証語 の部類
なりき。
以上は、単に手に任 せて眼前 の材料を取り来りたるに過ぎざるもののみ。現代の警
語史は、諸君と予とが時々刻々に事実的編纂 を為 し来 りつつありて、しかも、時々刻々
に事実的編纂 を為 し行 かざるべからざるものならずや。何 ぞ、この雛形的編史事業 に
おいて、さらに多くを語ることを要せん。故 に予 は、ここに現代のそれを語ることを
終結 すると共に、この雛形的 『日本警語史 』を雛形的に終結することをもって、予と
しての不相応 ならざる態度 と信ずるなり。
されど、終りに臨 んでただ一言を添 えしめよ。曰く、警語史 を研究 することのそれ
は、同時に、警語家 としての自己を訓練 するの利益を成 すべきが故に、東洋における
警語種族 の一分子 としての諸君 は、宜 しくこの甚深 なる趣味 に指を染 むべきなりと。
然 らばすなわち、予がこの小著の如きも、多少の程度において諸君が研究の友とせら
るるの栄 を得 べけん。口のそれにおいても! 筆のそれにおいても!
人の君たるを望んで人の臣たるを願わず 犬公方 我家の桂昌院様がやかましくっ
て困る そうせい将軍、田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様-関白
秀次公の二百年忌で御座んす 六無斎 耳目一新の論と王民の説 御酒が三合に
鯣の足よ
徳川時代は、日本民族の生活の
宮室の範囲に
なるものにあらずして、あくまでも
を生じたり。
段の発達を
しかも、徳川時代もその初期の頃は、なお戦国時代の
るをもって、戦国時代
るが故に、
と時代との、
的にもあらず、また徳川時代的にもあらざる、一種
時代とも異なれる特色を認めざるべからざるなり。
なかんずく、かの
とを
いささか自ら
一時に
ことを望む者で、決して、人の
に
とは、
ざる狂人の
したが ちゆうしゆつ きばつ
有意義なる痛語ならざるにあらず。随ってこれ、時代より抽出したる、奇抜極まれる
警語ならざるにあらざるなり。
靆が・国内においては叢譯すに響ざるを思い、醫黶驪を攀て、遠く騫
蛋の鵬なる蠹国に遊び・蠹の毆蝦を救・つて六羆を征服し、ついに、蠹の大
臣に兼ねるに六騒及び群留の王をもってして、葎国王の隷となり、その廚釜
響の譁に農うに到りたる・すなわξ」れ・蒙対錣の彼が讖をして、騨露
たらずして警語たらしむべく、
ましいので困る」と云う語の発せられしを聞き、ほとんど
あり。これ実に、ある時代に
しんてい か のうてきりゆうどうせい うしな しゆつ
この語の出
深底を通じて、なおかつその可能的流動性を失わざるを語るものにして、
医学者が研究して、一種の
壊頽の間に特殊の気分情調を生じ来れる元禄時代の、
間にして、桂昌院は、ある意味における太平時代の
じて、
この時に当っては、当世
大名にまで
吉が
時代的
き、
の
る者を
倍も
は、だらしのなき
びぬ。
しかも、この
でもなき方面に発展し、綱吉の生年
び
の
るる者多く、同時に一般
組みて、
身に集まりて、「
りにあらずや。されば、
政治の下においては、また
すなわち「
婦人の
る、
がどうした」とか、「いや、
にするさえ
るその語によって、明らかに
おかつその可能性を失わざる「桂昌院様」の一語が、その当時にては、
の強烈なるものにてありしそ。「
に
からず。
十代将軍
したる
これに
しょうや」。「むむ、そうせい」。
語、
しかも、「むむ、そうせい、そうせい」と、
父を
て、その
のあり。ここにおいて、
つありし徳川時代の子は、その
しむるの
せしめ、もっていささか不平を
せるを
圧制時代においては、その圧制の
るもの、
り行くものなれば、とうてい
ちこの一
これを
も
つ、ひとたびこれを耳にしたる者にして、
にこれを
すべて、徳川時代式警語は、もしその
創製者の口を
者を保護し、かつ
の間に
有志の力と
となすなり。
「
れば、
せい
もしくは
裏に
歴史を
を見出すを
田沼が失脚の後、老中の地位に立ちて
が、
こと
左右瞽唖 退漠頭 羆登下連武道」と、他人
を留めて、その領地
ことを思う。
して、盛んに
ざる、
の
川の
すでにして、機会は彼女を祝福したり。もとより
わち
を久しうせざるはなし。ここにおいてお
ばかりに
徳川氏を抑えんとするが故に豊臣氏を
するに、
もってす。お
五重の
お雪
の
たる者、この
の
に背景を加えざるを得ず。お雪が任侠の名すでに
妄なる言行もまた、時代の人心に
して、
るるものなり。
「関白秀次公の二百年忌で
らざる
許さざるものなり。しかして、お雪の結末もまた、その
ざらしむべく、
かの
の和歌の如きも、また時代の傾向を
これに対する他の
徳川氏の
の冷笑的
平を漏らしたる、
「
皆、時代の
かし
を
に政権の授受を行うべき希望なきにあらざりしを、
を主張したる、いわゆる「
として、当時の人心を…
これに対して、幕府の
いえども
せめげども
時代の
せる
をもって
題を
予はこの章を終うるに
歴史もこれを伝えず、同時に伝えられずして
とを要す。これ徳川時代における
云えば、「
において
べく発せられたるものなり。曰く、「
諸君、これは
に対し、
わねば
りの
ちこれ「
その六 雛形的警語史の雛形的終結
警語なるものの形式の区分とその効果の種類 緩褌ーー船成金、鉄成金、綿成金
ビリケンー和製ル;ズ 板垣死すとも自由は死せずー硬派軟派i肝胆偏照ー
妥協相撲に客と芸妓との妥協 脱線 野次 新しい女1ー裏書き1裏附ける!
ー警語家としての自己を訓練すべし
き、人間本来の
適用の必要を感ぜられざるを
を
にあらざるを信ずるをもって、
という新しき試みに着手したり。されど、すでに読者に対して
この小著述は、単に建築に対する
との、その一例を示したるものに過ぎざるのみ。単に一
っては、諸君
とを
歩を進めたる
ならずとなす。
ただし、
の
きを信ずるなり。すなわち、その形式においては、(一)口によって
(二)
(一)
しくは、問題解決の素地を作るものと、(二)ただちに問題を解決せず、また、目的を
感化を
るものとを認め
これもとより、
なおはなはだ多くの
とく警語なるにあらず、警語もまた皆金言なるにあらずと
金言が警語にして、警語が金言なることあるを記憶せざるべからざるなり。
さて、明治より大正に
た
るいは、過去の二千数百年間の
ださるるやも
って
ことなく、これを
に、読者が参考の助けとして、その
の眼前に提供するは、必ずしも
すでに
に到っては、その
如く、
も、それ等に対する
また、現代の人間は冷笑的にして、好んで人に
り。その
けは、
くる事が人心浮薄の証拠ならば、人心の浮薄は古今東西
らず。
「三
綽号にあらずや。「
将軍をさえも綽号に呼びし時代の人心は、今日以上に浮薄なるものと認めざるか。古代
と称せられしは
た、
と云うて、
人心の
け方の
おいてのみ、問題を
ここにおいて
冠者」「そうせい将軍」等に比較して、
のなるを見、警語を
ることによって、大いに同胞のために
予は、明治十年時代における「
時代の
んことを要するなり。
の
彼がために、数十万金を
るいは数千金を
せず」の絶叫の、
応用せられ、はなはだしきは、新聞記者の政治部に属する者を「硬派」といい、その
社会部に属する者を「軟派」と呼び
の事実を
日本の政界に流行せし「
場合の
より
となす。「
と
なお、
だ失われざる警語にして、
語が
る行為を見るや、「
覚えしむるに到りたり。
の
なおまた、
して、「
には、野球その他の
り。ついでに
うも、また時代の一警語と
ラ」もしくは「
に応用するところのそれらにおいては、その
に限って、
いては、
に限りては、同じく警語の部類のものたることを得べきなり。「
る」という語、およびその過去に属する語も、
合に応用せられ転用せられつつあり。しかも、その転用応用の
いて、また警語の範囲に
想界における「
警語ならずと云うて
し、「
なりき。
以上は、単に手に
語史は、諸君と予とが時々刻々に
に
おいて、さらに多くを語ることを要せん。
しての
されど、終りに
は、同時に、
るるの