伊藤銀月「日本警語史」6

その五 警語の発達とその皮肉味
人の君たるを望んで人の臣たるを願わず  犬公方  我家の桂昌院様がやかましくっ
て困る  そうせい将軍、田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様-関白
秀次公の二百年忌で御座んす  六無斎  耳目一新の論と王民の説  御酒が三合に
鯣の足よ
 徳川時代は、日本民族の生活の爛熟期(らんじゆくき)(もく)すべく、藤原時代におけるそれの、単に
宮室の範囲に(とど)まりて、多数人民(たすうじんみん)はこれに(あずか)らざりしとは(ことな)り、上下押(しようかお)()べての天
下太平気分(てんかたいへいきぶん)に、時代を代表する警語の如きも、()むを()ずして(おのずか)ら発したる痛切緊密(つうせつきんみつ)
なるものにあらずして、あくまでも()って皮肉(ひにく)なるものを()だすことに(つと)むるの傾向
を生じたり。(したが)って、徳川時代における警語は、含蓄(がんちく)深く、余情(よじよう)多き点において、一
段の発達を()せるものと認むることを()べし。
 しかも、徳川時代もその初期の頃は、なお戦国時代の余臭余味(よしゅうよみ)(とど)むること十分な
るをもって、戦国時代気質(かたぎ)の人物にして、到底(とうてい)時代の趣味気風(しゆみきふう)と一致すること(あた)わざ
るが故に、異常破格(いじようはかく)の行動に()でたる者少なからず。それと同時に、これ等の逆流児(ぎやくりゆうじ)
と時代との、(げんげん)相摩(そうま)の間より生れ来りたる警語は、戦国時代
的にもあらず、また徳川時代的にもあらざる、一種()気味(ぎみ)反抗的気分(はんこうてききぷん)に、(いず)れの
時代とも異なれる特色を認めざるべからざるなり。
 なかんずく、かの群雄(ぐんゆう)角逐(かくちく)して天下を争うに()るべき、覇王的器度(はおうてききど)と、その胆略(たんりやく)
とを併有(へいゆう)せる、一代の奇傑山田長政(きけつやまだながまさ)が、国内すでに(おさ)まって、我が(ざい)を試むる所なく、
(むな)しく(もんもん)々の情を(いだ)いて、駿府(すんぶ)紺屋(こんや)食客(しよつかく)となり、奇矯俗(ききようそく)(おどろ)かすの言動をもって、
いささか自ら(なぐさ)めつつありし時、人あって彼を某大侯(ぼうだいこう)(すす)めんとせしかば、彼の鬱屈(うつくつ)
一時に併発(へいはつ)し来って、「いやいや、折角(せつかく)の御親切では御座(ござ)るが、拙者(せつしや)は人の主君となる
ことを望む者で、決して、人の家来(けらい)となることは(のぞ)み申さぬ」と、木で鼻括(はなくく)った挨拶(あいさつ)
()ねつけたるを()ぐべしとなす。「人の君たることを望んで、人の臣たるを願わず」
とは、秩序(ちつじよ)すでに定まりたる太平時代においては、法螺(ほら)程度(ていど)()して、意味(いみ)()
ざる狂人の(げん)(ひど)しきが如しと(いえど)も、(ひと)り我が仁左衛門長政(にざえもんながまさ)においては、これ大いに
                したが             ちゆうしゆつ     きばつ
有意義なる痛語ならざるにあらず。随ってこれ、時代より抽出したる、奇抜極まれる
警語ならざるにあらざるなり。
靆が・国内においては叢譯すに響ざるを思い、醫黶驪を攀て、遠く騫
蛋の鵬なる蠹国に遊び・蠹の毆蝦を救・つて六羆を征服し、ついに、蠹の大
臣に兼ねるに六騒及び群留の王をもってして、葎国王の隷となり、その廚釜
響の譁に農うに到りたる・すなわξ」れ・蒙対錣の彼が讖をして、騨露
たらずして警語たらしむべく、裏附(うらつ)けられたる実行にあらずして(なん)ぞや。
 ()は、三十年前(はじ)めて東京に(きた)りし時、ある老人の口より、「我家(うち)桂昌院様(けいしよういんさま)がやか
ましいので困る」と云う語の発せられしを聞き、ほとんど驚倒(きようとう)(あたい)するを覚えしこと
あり。これ実に、ある時代に(かも)()されたる隠微至極(いんびしごく)なる警語が、二百余年間社会の
しんてい                    か のうてきりゆうどうせい うしな                           しゆつ
                                 この語の出
深底を通じて、なおかつその可能的流動性を失わざるを語るものにして、
(しよ)は、まさに徳川五代の将軍綱吉(つなよし)が生母桂昌院(けいしよういん)()るなり。しかも、今日(こんにち)権威(けんい)ある
医学者が研究して、一種の精神病者(せいしんびようしや)相違(そうい)なかりしと断定するところの綱吉(つなよし)は、爛熟(らんじゆく)
                        (かいたいきぶんじようちよう)心人物と(もく)すべき底抜(そこぬ)けの人
壊頽の間に特殊の気分情調を生じ来れる元禄時代の、
間にして、桂昌院は、ある意味における太平時代の淀君(よどぎみ)の如く、子息(しそく)将軍の昏迷(こんめい)(じよう)
じて、極度(きよくど)賢女(けんじよ)ぶりを発揮し、大いに女権拡張の脱線を()らかしたる尼様(あまさま)なり。
 この時に当っては、当世才子(さいし)の標本柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、綱吉の狂疾(きようしつ)を利用して、(びぴ)々たる
側用人(そばようにん)の地位より、階級制度の厳密(げんみつ)なる太平時代には奇蹟(きせき)とも云うべき、十五万石の
大名にまで躍進(やくしん)するあり。自宅を提供(ていきよう)して一種の娼樓妓閣(しようろうぎかく)()し、もって、昏迷漢(こんめいかん)
吉が遊蕩(ゆうとう)の場に供するなど、滅茶(めつちやめつ)々々の乱脈(ちやらんみやく)が通りたる世の中なれば、桂昌院の太平
時代的尼将軍(あましようぐん)ぶりもまた(すさま)じきものにて、彼女は、かかる時代のかかる婦人に相応(ふさわ)
き、仏教惑溺(ぶつきようわくでき)、むしろ僧侶惑溺(そうりよわくでき)の傾向を示し、この(てん)においては、むしろ、息子(むすご)どん
狂疾(きようしつ)ぶりにも譲らざる昏迷狂乱(こんめいきようらん)の状態を(てい)して、最初は、知足院(ちそくいん)住持恵賢(じゆうじえけん)と、護
国寺(ここくじ)の住持亮賢(りようけん)とに()()げしが、恵賢病篤(えけんやまいあつ)うして、大和長谷寺(やまとはせでら)塔中慈心院隆光(とうちゆうじしんいんりゆうこう)
る者を後住(こうじゆう)に迎えるに(およ)び、この妖僧(ようそう)巧みに尼様(あまさま)催眠術(さいみんじゆっ)()け、盤若心経(はんにやしんきよう)の「色即
是空空即是色(しきそくぜくうくうそくぜしき)」を講ずることただ一(べん)にして、ころりと(まい)らせて(しま)い、続いて、将軍
綱吉(つなよし)がただ一人の男子を(うしな)い、無情(むじよう)の感じを起しつつある機会に乗じ、桂昌院の(いと)
(あやつ)って、(うまうま)々と、神田橋外(かんだぱしそと)の五万余坪という広大もなき地面を占め、護国寺よりは一
倍も雄大(ゆうだい)に、その荘厳(しようごん)なることは東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)をも凌駕(りようが)すべき、護持院(ごじいん)(初めの名は
知足院(ちそくいん))なる大伽藍(だいがらん)を造営せしめたり。ここにおいて、護持院隆光(ごじいんりゆうこう)なる者の袈裟(けさひ)(かり)
は、だらしのなき尼御台(あまみだい)を背景として、燦爛人目(さんらんじんもく)()るの素晴(すぼ)らしき勢いを()すに(およ)
びぬ。
 しかも、この腥坊主(なまぐさぼうず)尼後家(あまごけ)操縦(そうじゆう)しての、狂疾将軍籠絡方(きようしつしようぐんろうらくかた)は、言語道断(こんごどうだん)()
でもなき方面に発展し、綱吉の生年(いぬ)(とし)なれば、(いぬ)(あわれ)んでこれを(やしな)わば、必ず(ふたた)
嗣子(しし)(もう)くることを()べしなどと、もっともらしく申し出でしかば、たちまち養犬(ようけん)
制度(せいど)を設けて、厳酷(げんこく)なる殺犬(さつけん)禁令(きんれい)となり、人民(あやま)って(きん)を犯して、惨刑(ざんけい)(しよ)せら
るる者多く、同時に一般生類御憐愍(しようるいこれんみん)御沙汰(ごさた)なるものが(くだ)りたるにより、江戸城中紅
葉山(もみじやま)のほとりは狐狸(こり)窟宅(くつたく)となり()おせ、狸公狐吉(たぬこうこんきち)の連中は、白昼(はくちゆう)ゾロゾロと隊伍(たいご)
組みて、大奥(おおおく)庖厨(ほうちゆう)襲撃(しゆうげき)するの横暴(おうぽう)(あえ)てするに(およ)びたり。民怨偏(みんえんひとえ)狂疾(きようしつ)将軍の一
身に集まりて、「犬公方(いぬくぼう)」の綽号(あだな)は、(ひそ)かに市井(しせい)の間に呼び習わさるるに到りたるが、
放埓後家(ほうらつごけ)腥坊主(なまぐさぼうず)との合体(がつたい)より、かくも天下の事の(あやま)られたる、実に(にがにが)々しさの限
りにあらずや。されば、憤怨措(ふんえんお)(あた)わざる多数人民も、御無理御尤(ごむりこもつと)もの極端なる圧制
政治の下においては、また如何(いかん)ともすること(あた)わず。
 すなわち「犬公方(いぬくぼう)」の蔭口(かげぐち)に加うるに、「桂昌院様(けいしよういんさま)」の一語をもってして、あらゆる
婦人の悪徳(あくとく)の代名詞と()し、(いたずら)口舌(こうぜつ)(たく)みにして、亭主(ていしゆ)()()めることを(のう)とす
る、賢女(けんじよ)ぶりたる女房、我儘放埓(わがままほうらつ)後家(ごけ)などを見れば、(ただ)ちに、「何処其処(どこそこ)の桂昌院様
がどうした」とか、「いや、我家(うち)の桂昌院様がこうした」とか云いつつ、表向きには口
にするさえ勿体(もつたい)なしとせらるるその名をば、嘲笑侮蔑(ちようしようぶべつ)(きよく)なる対象(たいしよう)()して、もって
(わずか)不平(ふへい)()りたる当時の事情は、現代に(およ)んでも、なお江戸式古老(えどしきころう)の口に(のぼ)せらる
るその語によって、明らかに(うかが)い知るべきにあらずや。二百年余の後に到りても、な
おかつその可能性を失わざる「桂昌院様」の一語が、その当時にては、如何(いか)感伝力(かんでんりよく)
の強烈なるものにてありしそ。「我家(うち)桂昌院様(けいしよういんさま)がやかましいので困る」とは、皮肉味(ひにくみ)
(ゆたか)なる徳川時代式特殊的警語(とくがわじだいしきとくしゆてきけいこ)として、確かに記憶に留むるに価するものならざるべ
からず。
 十代将軍家治(いえはる)は、その痴呆(ちほう)(ひと)しき暗愚(あんぐ)をもって、また時代の民衆の面敬背笑(めんけいはいしよう)に価
したる厄介物(やつかいもの)なり。この大将(たいしよう)綽号(あだな)を「そうせい将軍(しようぐん)」と云う。「申し上げます。これ
これに御座(ござ)りまする(ゆえ)、これこれに(つかまつ)()御座(ござ)りまするが、御賢慮如何(ごけんりよいかが)()らせま
しょうや」。「むむ、そうせい」。(なん)でもかんでも、「そうせい、そうせい」と云うより
(ほか)の事を知らぬをもって、何時(いつ)しか、蔭口(かげぐち)好きの御坊主連(おぽうずれん)奥女中達(おくじよちゆうたち)より、「そうせい
将軍(しようぐん)」と云う目出度(めでた)(きわ)まる御名(おんな)(たてまつ)らるるに(およ)びたるなり。「そうせい将軍」の一
語、(なん)ぞそれ徳川時代式皮肉(とくがわじだいしきひにく)(きよく)なる。
 しかも、「むむ、そうせい、そうせい」と、何時(いつ)もこの大将が(かしら)(たて)()る対手は、
田沼意次(たぬまおきつぐ)意知(おきとも)の父子なるを記憶せざるべからず。意知(おきとも)(はじ)紀州藩(きしゆうはん)小吏(しようり)なり。家
(いえしげ)家治(いえはる)の二代に(つか)えて(ちよう)あり。小姓隊番頭(こしようたいばんがしら)より累進(るいしん)して、五万七千石の大名となり
父を主殿頭(とのものかみ)、子を山城守(やましろのかみ)と云う。要するにこれ、綱吉時代(つなよしじだい)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)匹敵(ひつてき)すべくし
て、その権勢(けんせい)濫用(らんよう)ぶりは、むしろ、吉保(よしやす)手加減上手(てかげんじようず)なるに()ぐること数等(すうとう)なるも
のあり。ここにおいて、圧制(あつせい)に反抗する気力を去勢(きよせい)せられて、冷笑高踏(れいしようこうとう)(ふう)を学びつ
つありし徳川時代の子は、その特殊的皮肉味(とくしゆてきひにくみ)の警語を鍛練(たんれん)して、最上無比(さいじようむひ)の域に入ら
しむるの絶好機会(ぜつこうきかい)(あた)えられたり。しかも、警語(けいこ)俗謡化(ぞくようか)して万人(ばんじん)をして(ないない)々に唱咏(しようえい)
せしめ、もっていささか不平を()るの(わざ)(きよう)せしめたる、ますますその皮肉味(ひにくみ)徹底(てつてい)
せるを(うかが)うべしと()す。曰く、「田沼様(たぬまさま)には(およ)びもないが、せめてなりたや公方様(くぼうさま)」と。
鳴呼(ああ)(なん)ぞそれ諷刺(ふうし)絶妙(ぜつみよう)なるや。一(しよう)(たん)に価するものはこれにあらずや。
 圧制時代においては、その圧制の()の高まるに正比例を()して、諷刺(ふうし)を発達せしむ
るもの、面争(めんそう)の自由を束縛(そくばく)せらるればせらるるほど、その背笑(はいしよう)の要求はますます加わ
り行くものなれば、とうてい(こら)()れぬ(ふんふん)(もんもん)々の(じよう)を変形せしめて()だすには、()()なる()りに()りたる冷笑(れいしよう)の語を選ぶべきかと、肝胆(かんたん)(くだ)いて案出(あんしゆつ)したるが、すなわ
ちこの一俗謡(ぞくよう)ならざるべからず。しかもこれを()だすこと(きわ)めて隠微(いんび)にして、何者(なにもの)
これを創製(そうせい)し、何者(なにもの)がこれを伝承(でんしよう)せしかの事実を明らかにすること(あた)わざるに、(はや)
(つばさ)なくして千里に走り、江戸全市中より、交通不便なりし時代の全日本に(およ)ぼしつ
つ、ひとたびこれを耳にしたる者にして、(ひそか)快哉(かいさい)(さけ)ばざるはなく、しかして、(ひそか)
にこれを唱咏(しようえい)して、ますます痛快(つうかい)(じよう)を加えざるはなく、もって、(あんあん)()に田沼氏顛
(てんぷげモ)機運(きうん)醸成(じようせい)するに到りたる、警語(けいこ)の効力もまた偉大(いだい)なりとせずや。
 すべて、徳川時代式警語は、もしその創製者(そうせいしや)何者(なにもの)なるかを知らるるに到らば、身
(しんしゆ)所を(こと)にするもなお(およ)ばざる最大危険を(ともな)いつつ、なおかつその恐怖をもってして
創製者の口を(かん)すること(あた)わざるのみか、万人(ぱんじん)の間に不言(ふごん)の約束ありて、自然に創製
者を保護し、かつ奨励(しようれい)するの、隠微(いんび)なる社会制度()り、その普及伝播(ふきゆうでんぱ)に当っても、(めいめい)
の間に鬼神(きじん)あってこれを()すが如き、偉大なる効果を(そう)しつつ、絶対権能(ぜつたいけんのう)抱持(ほうじ)せる
有志の力と(いえど)も、これを如何(いかん)ともすること(あた)わざるところに、その特殊性(とくしゆせい)を見るべし
となすなり。支那人(しなじん)が、時代のまさに(へん)ぜんとするを(うかが)うべく(おも)きを置くところの、
童謡(どうよう)」なるものはすなわちこれなるべし。
 人心(じんしん)傾向(けいこう)は、なお流水(りゆうすい)の如きか。これを防遏(ぼうあつ)すれば(げき)して奔騰(ほんとう)し、これを掩蔽(えんぺい)
れば、地底(ちてい)穿(うが)って潜行(せんこう)す。要するに、「犬公方(いぬくぼう)」と云い、「桂昌院様(けいしよういんさま)」と云い、「そう
せい将軍(しようぐん)」と云い、「田沼様(たぬまさま)には(およ)びもないが、せめてなりたや公方様(くぼうさま)」と云い、徳川
時代式特殊的警語(とくがわじだいしきとくしゆてきけいこ)なるものは、皆これ地底(ちてい)潜行(せんこう)するところの水脈が、堆積(たいせき)せる落葉(らくよう)
もしくは塵埃(じんあい)の部分々々に滲出(さんしゆつ)しつつ、卒然(そつぜん)としてこれを()む者をして、(ひや)りと足の
裏に(とお)る味を覚えしむるものに(ほか)ならざるなり。故に、この見地よりして徳川時代の
歴史を点検(てんけん)せば、諸君は、以上の僅少(きんしよう)なる数例の(ほか)、さらに多くの同工異曲(どうこういきよく)なるもの
を見出すを(かた)しとせざるべし。
 田沼が失脚の後、老中の地位に立ちて政弊(せいへい)を改革したる、かの白河楽翁(しらかわらくおう)松平定信(まつだいらさだのぶ)
が、(はじ)め田沼父子の専権(せんけん)(さい)して、憤懣措(ふんまんお)(あた)わずと(いえど)も、またもって如何(いかん)ともする
こと(あた)わず。「非無 頭民之魂 水浜黙然 去河辺 羆登下連武道 非有 頭民之魂
左右瞽唖 退漠頭 羆登下連武道」と、他人容易(ようい)理会(りかい)すること(あた)わざる隠微(いんび)寓言(ぐうげん)
を留めて、その領地白河(しらかわ)に去りたる。またこれ、「田沼様(たぬまさま)には(およ)びもないが」の俗謡と
共鳴(きようめい)するものにあらずとせざるなり。
 ()はさらに、徳川氏の末世(まつせ)に近き市井(しせい)の間に一事実として、興味ある逸話(いつわ)を伝えん
ことを思う。文化年間(ぶんかねんかん)、大阪市民の(むすめ)三好(みよし)(ゆき)なる者あり。一(せん)女子の()をもって
  して、盛んに反徳川(はんとくがわ)大気焔(だいきえん)()げ、徳川氏の命運(めいうん)(のろ)うべく、到底何人(とうていなんぴと)想到(そうとう)し得
  ざる、奇抜極(きばつきわ)まれる言動に出でたり。彼女は、年少にして(あく)まで武技(ぷぎ)を学び、(ちよう)じて
  禁廷(きんてい)に奉仕して、宮中の儀礼(ぎれい)(そら)んじ、一生不犯(しようふぽん)童貞(どうてい)(たも)って、まず、徳川氏に頭
  の()がらざる一代の男性に反抗し、しかして、その築き()したる立場において、反徳
  川の火蓋(ひぶた)を切るべく機会を窺いたり。
   すでにして、機会は彼女を祝福したり。もとより財富(ざいふ)(よう)せる彼女は、仏教創始(ぶつきようそうし)
  巨刹四天王寺(きよせつしてんのうじ)において、全大阪人(ぜんおおさかじん)耳目(じもく)甕動(しようどう)すべき一大法会(だいほうえ)
  挙行(きよこう)したり。しかも、人その何者(なにもの)のための追福(ついふく)なるやを知ること(あた)わざるなり。すな
  わち(あや)しんで彼女に問えば、お(ヒゆき)()(もう)けたりとばかりに(むね)()らして、「関白秀次(ひでつぐ)
  (,」、つ.)の二百年忌(ねんき)御座(ござ)んす!」と()って退()けたり。聞く者驚倒(きようとう)して、呆然(ぽうぜん)たることこれ
  を久しうせざるはなし。ここにおいてお(ゆき)胸間(きようかん)()溜飲(りゆういん)は、一(きよ)にしてゲーッと
  ばかりに()がりたり。
   徳川氏を抑えんとするが故に豊臣氏を()げ、しかも、(ことさら)に豊臣氏の系統中(けいとうちゆう)より選択(せんたく)
  するに、末路(まつろ)惨澹(さんたん)(きわ)めて、天下一人(ひとり)としてこれを(かえりみ)る者なき、殺生関白秀次(せつしようかんばくひでつぐ)
もってす。お(ゆき)が時代に反抗する極端(きよくたん)なる()ね者なる所以(ゆえん)、ここにおいて、天王寺(てんのうじ)
五重の(と、つ)よりも高しと云うべし。
 お雪剃髪(ていはつ)して月江尼(げつこうに)と称し、天王寺(てんのうじ)のほとりに月江庵(げつこうあん)(いとな)みつつ、お(かめ)、お(いわ)の二
勇婦(ゆうふ)と共に()む。かつて天王寺の仏儀(ぶつぎ)(さい)し、驟雨(しゆうう)(きた)れるあり。お雪咄嗟(とつさ)に五千本
(からかさ)を集めて、これを参詣(さんけい)の群集に施行(せぎよう)す。殺生関白を(かつ)いで徳川氏の対抗する女子
たる者、この(だん)活手段(かつしゆだん)なかるべからざるなり。お雪の名いよいよ高うして、豊臣氏
末路(まつろ)惨澹(さんたん)はますます(あら)たに人心を刺戟(しげき)し、(したが)って、ますますお雪が反徳川の言動
に背景を加えざるを得ず。お雪が任侠の名すでに都鄙(とひ)喧伝(けんでん)せられて、一賤女子の狂
妄なる言行もまた、時代の人心に何等(なんら)かの影響を与えざるを得ざるなり。その晩年(ばんねん)
美麗(びれい)なる棺槨(かんかく)を作りて、これを屋前(おくぜん)(かか)げ、大いに知己故旧(ちきこきゆう)(かい)して、盛
(せいえん)()ること三日、もってこの世の暇乞(いとまこ)いと(しよう)す。(ひと)招客(しようかく)の多数なるのみにあらず
して、遠近来(えんきんきた)()る者、(ひび)々門前に(いち)をなせり。皆曰く、「秀次公(ひでつぐこう)の二百年忌(ねんき)を行いし
侠尼(きように)を見よ」と。民衆の感情の帰趨(きすう)するところ、其所(そこ)(あなど)るべからざる新勢力(しんせいりよく)(かも)
るるものなり。
「関白秀次公の二百年忌で御座(ござ)んす!」の一語、またこれ、徳川氏の命運(めいうん)(あんあん)()の影響を与うべき皮肉(ひにく)(きよく)なる一警語ならずや。(いな)、その()ねて()()きたる思いも()
らざる奇言狂語(きげんきようご)は、警語としての価値においても、(だん)じて他に匹儔(ひつちゆう)あるを
許さざるものなり。しかして、お雪の結末もまた、その奇抜(きばつ)なる一生を竜頭蛇尾(りゆうとうだび)なら
ざらしむべく、(すこぶ)(ふる)ったものなり。彼女は、()でて大道(だいどう)野倒(のた)(じに)したるなり。世
(せぞく)に「(やつこ)小万(こまん)」と云うはこのお(ゆき)の事なり。
 幕末時代(ばくまつじだい)となりては、その色彩(しきさい)全然一変して、衰頽(すいたい)せる徳川氏の圏外(けんがい)に、新鋭(しんえい)なる
気分情調(きぷんじようちよう)漲溢(ちよういつ)(きた)れるを見るべく、(したが)って、時代を代表する警語の如きも、全然徳
川時代式皮肉味(とくがわじだいしきひにくみ)を含めるものとは(せん)(こと)にして、撥溂清新(はつらつせいしん)なるそれを(きそ)うに到りたり。
かの本居宣長(もとおりのりなが)が、大いに尊王愛国(そんのうあいこく)志気(しき)鼓舞(こぶ)したる、
  敷島(しきしま)大和心(やまとこエろ)人間(ひとと)はゞ朝日(あさひ)(にほ)山桜花(やまさくらばな)
の和歌の如きも、また時代の傾向を指示(しじ)せる一警語ならざるにあらざるべし。しかも、
これに対する他の半面(はんめん)においてはなおかつ、遠識卓見(えんしきたつけん)高く時代に超越(ちようえつ)せる偉人にして、
徳川氏の圧制拘束(あつせいこうそく)のために余儀(よぎ)なくされ、同じく徳川式皮肉味(とくがわしきひにくみ)を留むるところの、
(おや)()妻無(つまな)子無(こな)版木無(はんぎな)(かね)()けれど()にたくも()
の冷笑的狂歌(きようか)を発しつつ、その破天荒(はてんこう)名著(めいちよ)海国兵談(かいこくへいだん)』の版木(はんぎ)を没収せられたる不
平を漏らしたる、六無斎主人林子平(ろくむさいしゆじんはやししへい)の如きを()ださざるを()ざりき。またこれ、(みずか)
笑殺(しようさつ)しつつ(あわ)せて時代を笑殺したる一警語にあらずや。
尊王攘夷(そんのうじようい)」と云い「開国進取(かいこくしんしゆ)」と云い、もしくは「公武合体(こうぶがつたい)」と云いたる、すべて
皆、時代の帰趣(きしゆ)の上に焦点(しようてん)を作りたる一標語にして、同時に一警語たるもの。西郷隆
(さいこうたかもり)が、「二百余年太平(たいへい)旧習(きゆうしゆう)汚染仕(おせんつかまつ)候人心(そうろうじんしん)御座候(ござそうら)えば、ひとたび干戈(かんか)を動
かし候方(そうろうほう)(かえ)って天下の耳目(じもく)を一(しん)し、中原(ちゆうげん)を定められ候盛挙(せいきよ)可相成候(あいなるべくそうら)えば、(たたかい)
(けつ)し候て、死中活(しちゆうかつ)()るの御着眼急務(こちやくがんきゆうむぞ)(んじたて) (まつりそ) (うろう)」と云いて、必ずしも平和の間
に政権の授受を行うべき希望なきにあらざりしを、(しい)てひとたび干戈(かんか)を動かさんこと
を主張したる、いわゆる「耳目(じもく)(しん)」の(うん)は、新旧過度期の骨髄(こつずい)透徹(とうてつ)せる一大警語
として、当時の人心を…聳動(しようどう)したるものなり。
 これに対して、幕府の舞台(ぶたい)を一人の背中に背負(せお)って立ちし、海舟先生勝安房(かいしゆうせんせいかつあわ)が、山
岡鉄舟(やまおかてつしゆう)(たく)して、駿府(すんぶ)行営(あんえい)()南洲先生(なんしゆうせんせい)(いた)したる(しよ)は、二千五百年来(まれ)()
雄大熱烈(ゆうだいねつれつ)文字(もんじ)、かつ情思痛切(じようしつうせつ)言辞(げんじ)なるを見る。劈頭(へきとう)()して曰く、「無偏無党王道
(むへんむとうおうどうとうとう)(たり)官軍逼鄙府(かんぐんひふにせまる)といえども、君臣(つつし)んで恭順(きようじゆん)の礼を守る者は、我徳川氏(とくがわし)士民(しみん)
いえども王民(おうみん)なるをもっての(ゆえ)なり。かつ、皇国当今之形勢昔時(こうこくとうこんのけいせいせきじ)(こと)なり、兄弟牆(けいていかき)
せめげども外其侮(ほかそのあなど)りを(ふせ)ぐの(とき)なるを知ればなり」と。これ(あに)、時代の真相を道破(どうは)し、
時代の真趣(しんしゆ)触着(しよくちやく)せる、(しよく)()って(やみ)を照すの警語にあらずとせんや。すべて、切迫(せつばく)
せる忙殺急殺(ぽうさつきゆうさつ)の場合に発する言辞(げんじ)は、高遠深邃(こうえんしんすい)意義(いぎ)(はつ)するに、一(ごん)もって人の肺
(はいふ)()くの警語をもってせざるべからず。もし、理路(りろ)迂曲(うきよく)なるを辿(たと)らば、必ず疲馬(ひば)
をもって電影(でんえい)を追うの()(おちい)らん。すなわち、南洲先生(なんしゆうせんせい)が「耳目(じもく)(しん)」の(うん)と、海舟
先生(かいしゆうせんせい)が「王民(おうみん)」の(せつ)とは、拇指眼晴(ぼしがんせい)()くが如き警語をもって、忙殺急殺(ぼうさつきゆうさつ)の場合の問
題を徹底的(てつていてき)に解決し()たる好適例(こうてきれい)ならざるにあらざるなり。
 予はこの章を終うるに(のぞ)み、慶応明治(けいおうめいじ)(こう)(かも)()されたる珍無類(ちんむるい)警語(けいこ)にして、
歴史もこれを伝えず、同時に伝えられずして何時(いつ)しか消滅に帰すべきものを()げんこ
とを要す。これ徳川時代における口善悪(くちさが)なき京童(きようわらんべ)としての江戸市民  (ことば)()えて
云えば、「田沼様(たぬまさま)には(およ)びもないが」の俗謡を産出することを()くせし、皮肉味(ひにくみ)の警語
において鍛練(たんれん)()かれたる江戸(えど)()なる者が、掉尾(とうび)の一(きよ)として、その歴史を終結す
べく発せられたるものなり。曰く、「御酒(おさけ)が三(こう)(するめ)(あん)よで京都狐(きようとぎつね)(だま)された」と。
諸君、これは何事(なにごと)を意味するものと解釈せらるるか。
 大政奉還(たいせいほうかん)天皇親政(てんのうしんせい)聖代(せいだい)となりたる時、その祝意(しゆうい)として、宮中より江戸市民全部
に対し、清酒(せいしゆ)三合ずつに(するめ)(さかな)()えて(たま)わりたり。ここにおいて、市民のすべてが、
天恩(てんおん)優渥(ゆうあく)なるに感泣(かんきゆう)し、恩賜(おんし)酒肴(しゆこう)に酔うて、聖代万(せいだいばんばん)(ざい)
歓呼(かんこ)()わせたるは、申すまでもなきところなるが、中にはそれ、一寸(ちよつと)皮肉な事を云
わねば(おのれ)估券(こけん)()がるもののように心得(こころえ)たる、極端(きよくたん)なる江戸っ子()
りの手合(てあ)いもありて、「(おれ)(いただ)いたのは(するめ)(あし)ばかりだ。こりゃあどうも、(した)()の公
卿達(くげたち)が中に立って、いい加減(かげん)誤茶魔(こちやま)かしを()ったのらしい」と云うままに、聖代(せいだい)
余得(よとく)たる酒機嫌(さかきげん)(まか)せて、ここ一番と、罪のない皮肉(ひにく)に云い(おさ)めと試みしが、すなわ
ちこれ「(するめ)(あん)よ」の俗謡(ぞくよう)なりと知るべし。これ以外に、何等(なんら)の意味もあるなし。

その六 雛形的警語史の雛形的終結

警語なるものの形式の区分とその効果の種類  緩褌ーー船成金、鉄成金、綿成金
ビリケンー和製ル;ズ  板垣死すとも自由は死せずー硬派軟派i肝胆偏照ー
妥協相撲に客と芸妓との妥協  脱線  野次  新しい女1ー裏書き1裏附ける!
ー警語家としての自己を訓練すべし
 警語(けいご)拈出(ねんしゆつ)することを好むは、人類の進歩発達に正比例を()しつつ、訓練せらるべ
き、人間本来の性癖(せいへき)の一なり。しかして、社会生活における相互関係(そうごかんけい)の複雑となるに
(したが)って、漸次(ぜんじ)に多く警語の適用の有効なる場合が認められ、同時に、漸次(ぜんじ)に多くその
適用の必要を感ぜられざるを()ずとなす。()は、我等の同胞(どうほう)たる日本人も、また警語
拈出(ねんしゆつ)するの熱心と、これに(ともな)技能(ぎのう)とにおいて、決して他国民他民族(わこくみんたみんぞく)()(ゆず)る者
にあらざるを信ずるをもって、(いささ)かその例証(れいしよう)の一(たん)()つべく、ここに『日本警語史(にほんけいこし)
という新しき試みに着手したり。されど、すでに読者に対して明言(めいげん)せしが如く、予の
この小著述は、単に建築に対する雛形(ひながた)()ぎざるもののみ。警語史とは(かく)の如きもの
との、その一例を示したるものに過ぎざるのみ。単に一(ばん)()げつつ、その全豹(ぜんぴよう)(いた)
っては、諸君各自(かくじ)が、詳密精細(しようみつせいさい)なる史乗(しじよう)および雑纂(ざつさん)(うち)より発見するの、労力と趣味
とを(りよう)せらるるに(まか)せんとするなり。しかもこれ、試験に(ぞく)せる雛形的事業(ひながたてきじぎよう)として、
()むを()ざる約束に支配せられたる結果なりと(いえど)も、一にはまた、諸君のために、 一
歩を進めたる自家(じか)の労力を興味とするの、いわゆる(のち)の楽しみを保留(ほりゆう)したるものに(ほか)
ならずとなす。
 ただし、総括(そうかつ)したる大体(だいたい)において、賢明(けんめい)なる諸君は、いわゆる警語(けいこ)なるものの形式
区分(くぶん)と、その内容が(もたら)(きた)るところの効果の種類とを、ほぼ判別(はんべつ)()られしなるべ
きを信ずるなり。すなわち、その形式においては、(一)口によって(はつ)せらるるものと、
(二)(ふで)によって発せらるるものとの区分(くぶん)あり。しかして、その効果の種類においては、
(一)眼前覿面(がんぜんてきめん)に目的を達して、片言隻語(へんげんせきこ)(もと)、立ちどころに問題を解決するもの、も
しくは、問題解決の素地を作るものと、(二)ただちに問題を解決せず、また、目的を
遂行(すいこう)せずと(いえど)も、ある長き期間、もしくは非常に長き後代(こうだい)に到るまで、その影響乃至(ないし)
感化を(およ)ぼしつつ、直接あるいは間接に、有形(ゆうけい)もしくは無形(むけい)の効果を、漸次(ぜんじ)(そう)(きた)
るものとを認め(、つ)べし。
 これもとより、(きわ)めて粗大(そだい)なる概観的分類(がいかんてきぷんるい)に過ぎずして、これを細別(さいべつ)するに(およ)べば、
なおはなはだ多くの題目(だいもく)(もう)()べしと(いえど)もこれもまた、かかる小著においては、枝
(しよう)穿鑿(せんさく)のために労する者との(あざけ)りを(まぬが)()ざるべし。なお、いわゆる金言(きんげん)はことこ
とく警語なるにあらず、警語もまた皆金言なるにあらずと(いえど)も、ある場合においては、
金言が警語にして、警語が金言なることあるを記憶せざるべからざるなり。
 さて、明治より大正に(つらな)りての現代においては、歴史的事項は、その細事(さいじ)(いえど)もま
各人(かくじん)記憶(きおく)(あら)たなるところにして、その間より警語史(けいこし)の材料を点検(てんけん)(きた)らば、あ
るいは、過去の二千数百年間の総括(そうかつ)したるそれに対して、さらに数倍(すうばい)せるものを見出
ださるるやも(はか)(がた)し。故に、この小著もまた普通の編史(へんし)法式(ほうしき)(じゆん)じて、現代をも
って題目(だいもく)圏外(けんがい)放置(ほうち)せんことを要するなり。されど、現代を現代として別様(ぺつよう)に見る
ことなく、これを過去(かこ)の歴史の連続として、その末尾(まつぴ)の一片として概観(がいかん)()らば、単
に、読者が参考の助けとして、その(うち)より多少の材料を見出だしつつ、()(かく)も諸君
の眼前に提供するは、必ずしも(たい)(しつ)したる組織法にあらざるべきを信ずるなり。
 すでに緒論(ちようん)()において()げたる、「緩褌(ゆるふん)」「成金(なりきん)」等の如き、現代において最も普
遍的効果(ふへんてきこうか)を有せる、はなはだ皮肉(ひにく)なる風刺的警語(ふうしてきけいこ)の部類にして、(こと)に「成金(なりきん)」の一語
に到っては、その応用性(おうようせい)耐久性(たいきゆうせい)との豊富なる、今日(こんにち)(およ)んでもなお(あら)たなるものの
如く、欧州戦争(おうしゆうせんそう)影響(えいきよう)として、多くの「船成金(ふねなりきん)」「鉄成金(てつなりきん)」「綿成金(わたなりきん)」を()だし、しか
も、それ等に対する簡単(かんたん)なる「成金(なりきん)」の二字が、如何(いか)にも切実妥当(せつじつだとう)にして、このうち
無量(むりよう)の意味を含蓄(がんちく)せるを見るにあらずや。
 また、現代の人間は冷笑的にして、好んで人に綽号(あだな)を附くると云うて憤慨(ふんがい)する者あ
り。その例証(れいしよう)として、大臣大将(だいじんたいしよう)たる伯爵寺内正毅(はくしやくてらうちせいき)を「ビリケン」と呼び、大臣たる男
爵後藤新平(だんしやくごとうしんぺい)を「和製(わせい)ルーズベルト」と称するを()ぐるなり。されど、これ等の綽号附(あだなつ)
けは、(ひと)り現代の人心の浮薄(ふはく)なるを(しよう)するものなるのみにあらずして、もし綽号を附
くる事が人心浮薄の証拠ならば、人心の浮薄は古今東西()()べての事ならざるべか
らず。
「三尺入道(じやくにゆうどう)」「赤入道(あかにゆうどう)」、これ綽号(あだな)にあらずして(なん)ぞや。「猿面冠者(さるめんかんじや)」、またこれ立派(りつば)
綽号にあらずや。「犬公方(いぬくぼう)」「そうせい将軍(しようぐん)」に到っては如何(いかん)無上絶対(むじようぜつたい)の権力者たる
将軍をさえも綽号に呼びし時代の人心は、今日以上に浮薄なるものと認めざるか。古代希臘(ギリシヤ)賢哲(けんてつ)ジオゲネスが「樽犬先生(たるいぬせんせい)」と呼ばれしは如何(いかん)。クロンウェルが、「赤鼻(あかはな)
と称せられしは如何(いかん)青年時代(せいねんじだい)のナポレオンが、「侏儒の兵士」と云われしが発憤(はつぶん)し、
皮肉(ひにく)なる批評家(ひひようか)に、「もしナポレオンの身長をして、今二(すん)高からしめしならば、彼は
仏蘭西(フランス)の帝位に昇ることを()ざりしならん」と(ほざ)()る材料を与えしは如何(いかん)。なおま
た、(また)(くぐ)りし淮陰(わいいん)韓信(かんしん)が、その堂々たる大元帥(だいげんすい)(のぼ)りし(のち)(およ)んでも、「胯夫(こふ)々々」
と云うて、当面(まのあたり)敵人に罵詈(ばり)せられしは如何(いかん)。故に、人に綽号を附くることのそれは、
人心の浮沈厚薄問題(ふちんこうはくもんだい)として、まったく成立すべき性質のものにあらず。ただ綽号の附
け方の巧拙如何(こうせついかん)  ()()えて云えば、その風刺味(ふうしみ)  皮肉味(ひにくみ)の多少如何(いかん)と云う(てん)
おいてのみ、問題を()すべきものならざるべからざるなり..
 ここにおいて吾人(ごじん)は、現代における「ビリケン」「和製ルーズ」等のそれが、「猿面
冠者」「そうせい将軍」等に比較して、(はる)かに巧妙に、遥かに婉曲(えんきよく)鍛練(たんれん)せられたるも
のなるを見、警語を拈出(ねんしゆつ)する日本人の手腕(しゆわん)が、(たし)かに時代と並行しつつ発達せるを知
ることによって、大いに同胞のために祝賀(しゆくが)するの当然なるを覚ゆるなり。
 予は、明治十年時代における「自由民権(じゆうみんけん)」という緊縮烹練(ほうれん)せられたる四字を取って、
時代の帰趣(きしゆ)を代表する明確なる標語と認むると共に、なおかつ、
幕末(ばくまつ)における「尊王攘夷(そんのうじようい)」の四字と対峙(たいじ)すべき、時代の神髄(しんずい)透徹(とうてつ)せる警語と見做(みな)
んことを要するなり。
 岐阜遭難(ぎふそうなん)板垣退助(いたがきたいすけ)が、「板垣(いたがき)死すとも自由は死せず!」と絶叫(ぜつきよう)したる、またこれ、
忙殺急殺(ぽうさつきゆうさつ)の間に迸発(へいはつ)して、その焦点(しようてん)触着(しよくちやく)()たる警語ならずとせず。今日(こんにち)板垣翁(いたがきおう)
末路(まつろ)はなはだ(ふる)わずして、家を失い、(ざい)(きゆう)し、衰残(すいざん)老躯(ろうく)を置くに所なきに(およ)び、
彼がために、数十万金を(ついや)したる壮大華麗(そうだいかれい)なる別荘を寄贈(きそう)せんとする者を()だし、あ
るいは数千金を(おく)って家政(かせい)(おぎな)う者を(しよう)ずるに到りたる、(あに)、「板垣死(いたがきし)すとも自由は死
せず」の絶叫の、(とき)(へだ)てたる反響にあらずとせんや。
 帝国議会開設(ていこくぎかいかいせつ)当初(とうしよ)()りたる、政府迫撃派(せいふはくげきは)とその擁護派(ようごは)とを区別せる、「硬派(こうは)、軟
(なんば)」の簡明(かんめい)なる標語(ひようご)も、()いで、社会上のあらゆる事物における、剛柔寛厳(こうじゆうかんげん)対比(たいひ)
応用せられ、はなはだしきは、新聞記者の政治部に属する者を「硬派」といい、その
社会部に属する者を「軟派」と呼び()らすに(およ)び、またこれ標語にしてかつ警語たる
の事実を成就(じようじゆ)せるを見るなり。
 日本の政界に流行せし「情意投合(じよういとうこう)」「肝胆相照(かんたんそうしよう)」等の語も、その応用し転用せらるる
場合の諷刺的(ふうしてき)なる時において、多く警語たるの性質を賦与(ふよ)せられ、(こと)に、「肝胆相照(かんたんそうしよう)
より脱線(だつせん)したる「肝胆偏照(かんたんへんしよう)」のそれに到っては、純然(じゆんぜん)たる警語に相違(そうい)なきを認むべし
となす。「妥協(だきよう)」という政界の流行語は、元来妥協好(だきようず)きなる日本の政界(せいかい)において、その
生命(せいめい)の短きを(うれ)うる(よう)なかるべく、同時に、社会の()らゆる事物(じぶつ)応用(おうよう)  むしろ濫
(らんよう)せらるるの流行も、これに代わるべき今一段奇抜(きばつ)なるそれの見出ださるるまでは、
容易(ようい)(おとろ)うることなかるべしと思う。しかして、この語もまた、その用所(ようしよ)用法(ようほう)との
諷刺的(ふうしてき)なる場合において、一般に警語(けいこ)として認識(にんしき)せらるるものの如し。「妥協相撲(だきようずもう)」「(きやく)
芸妓(げいしや)との妥協(だきよう)」の如き、その(れい)の一、二なるのみ。
 なお、()が用いし「脱線(だつせん)」という語も、またこれ明治時代に拈出(ねんしゆつ)せられし、新味未(しんみいま)
だ失われざる警語にして、汽車電車(きしやでんしや)脱線頻(だつせんひんびん)々たりし時、人々の目に耳に脱線(だつせん)という
語が特殊(とくしゆ)印象(いんしよう)を与えしより、ついには問題外に()れたる言論を聞き、常規(じようき)(いつ)した
る行為を見るや、「脱線(だつせん)! 脱線(だつせん)!」の評語(ひようご)を与うるをもって、最も事実に適切なるを
覚えしむるに到りたり。吾人(ごじん)は、議会の弥次(やじ)()によって、しばしばこの「脱線(だつせん)!」
(さけ)びを聞くの光栄(こうえい)(よく)したりき。
 なおまた、真面目(まじめ)にして品格(ひんかく)あるべき帝国議会(ていこくぎかい)における、冷評(れいひよう)()ぜっ(かえ)しを意味
して、「弥次(やじ)る」と云う事のそれも、その冷笑的内容において警語たるを(うしな)わず。つい
には、野球その他の競技運動(きようぎうんどう)においても、その応援隊(おうえんたい)なるものが、何時(いつ)しか(へん)じて、
弥次(やじ)の「()」の字を「()」に()えつつ、「野次隊(やじたい)」もしくは「野次軍(やじぐん)」と称せらるるに
(およ)び、中には「吉岡野次将軍(よしおかやじしようぐん)」と云う、ど(えら)い将軍を産出(さんしゆつ)するの(さわ)ぎにまで到達(とうたつ)した
り。ついでに()せば、得意(とくい)になりて(さか)んに気焔(きえん)()く事を、「メートルを()げる」と云
うも、また時代の一警語と見做(みな)すことを()べし。
 望月小太郎(もちつきこたろう)松本君平(まつもとくんぺい)竹越与三郎(たけこしよさぶろう)なんどの、いわゆる高襟(ハイカラ)党より発せし、「ハイカ
ラ」もしくは「灰殻(はいから)」の語も、今日(こんにち)においては、すでに時代後(じだいおく)れの(かん)なきにあらずと
(いえど)も、なお、洋服(ようふく)(えり)を高くする事の直接の意味より転化(てんか)したる、種々の「(あたら)しがり」
に応用するところのそれらにおいては、その諷刺(ふうし)もしくは冷笑の(きわ)めて皮肉(ひにく)なる場合
に限って、(かろ)うじて警語(けいこ)たるを(うしな)わざることなきにあらず。
 文芸界思想界(ぶんげいかいしそうかい)産物(さんぷつ)なる「新しい人」、ことに「新しい女」という標語(ひようご)も、実際にお
いては、諷刺的(ふうしてき)むしろ冷笑的意味において適用せらるる場合多きをもって、その範囲(はんい)
に限りては、同じく警語の部類のものたることを得べきなり。「裏書(うらがき)する」「裏書(うらがき)され
る」という語、およびその過去に属する語も、約束手形(やくそくてがた)のそれより()でて、多くの場
合に応用せられ転用せられつつあり。しかも、その転用応用の奇抜斬新(きばつざんしん)なる場合にお
いて、また警語の範囲に(ぞく)しむることを(いと)()ずとなす。この語ひとたび()でて、「折
紙附(おりがみつ)き」という語の転用応用は、警語としてすでに過去に(ほうむ)られ去りぬ。また文芸界思
想界における「裏附(うらづ)けらるる」という語も、その応用転用の場合と方法とによりては、
警語ならずと云うて排斥(はいせき)すること(あた)わざるなり。堀紫山(ほりしざん)報知新聞記者(ほうちしんぶんきしゃ)として創製(そうせいノ)
し、「轢死(れきし)」「色魔(しきま)」なんど云う語も、その新味(しんみ)(うしな)われざる間は、(たし)かに証語(しようこ)の部類
なりき。
 以上は、単に手に(まか)せて眼前(がんぜん)の材料を取り来りたるに過ぎざるもののみ。現代の警
語史は、諸君と予とが時々刻々に事実的編纂(じじつてきへんさん)()(きた)りつつありて、しかも、時々刻々
事実的編纂(じじつてきへんさん)()()かざるべからざるものならずや。(なん)ぞ、この雛形的編史事業(ひながたてきへんしじぎよう)
おいて、さらに多くを語ることを要せん。(ゆえ)()は、ここに現代のそれを語ることを
終結(しゆうけつ)すると共に、この雛形的(ひながたてき)日本警語史(にほんけいこし)』を雛形的に終結することをもって、予と
しての不相応(ふそうおう)ならざる態度(たいど)と信ずるなり。
 されど、終りに(のぞ)んでただ一言を()えしめよ。曰く、警語史(けいこし)研究(けんきゆう)することのそれ
は、同時に、警語家(けいこか)としての自己を訓練(くんれん)するの利益を()すべきが故に、東洋における
警語種族(けいこしゆぞく)の一分子(ぷんし)としての諸君(しよくん)は、(よう)しくこの甚深(じんしん)なる趣味(しゆみ)に指を()むべきなりと。
(しか)らばすなわち、予がこの小著の如きも、多少の程度において諸君が研究の友とせら
るるの(えい)()べけん。口のそれにおいても! 筆のそれにおいても!