伊藤銀月「日本警語史」5
その四
日本史中の精華たる時代と警語の烹練
闇黒時代的なる特殊の警語-軍賊兵賊と士卒が商法を営む余裕ありし戦争-大欠伸
をもって局を結びたる十一年戦争-京都人は袖口の傷るることを恐れて煮豆を食わず
ー⊥二尺入道と赤入道 群雄割拠時代の門扉を開きたる鍵の響 在天の英霊をして
微笑して首肯せしむ 大緩山とは何処の山の名ぞi看を世界の主と為し奉るは臣が
畢生の願いなりー捗を遣らざる小刀利きの武道-天下の英雄は使君と操とのみー
あえて外国に向って日輪の化身なりと公告す1人の一生は重きを負うて遠きに行くが
如しi首を切らるるに臨んでも腹に毒なる物を食わずー1ー一日に二万人を殺して二十
日に四十万人を片附くる勘定i我は弓矢八幡を刺殺すlI百千の厄難を身に下さしめ
給え1城を貸すと女房を貸すと何れぞ1砂の食い方を教えて遣わそうかi摂政関
白と殺生関白
足利 時代は日本の闇黒時代 なり。されど、日本史中の精華 たる群雄割拠 時代に対す
る、日出以 前のそれと思えば、ある期間の闇黒 もまた厭 うところにあらざるなり。い
わんや、闇黒時代にはまた闇黒時代的なる特殊の警語 の拈出 せらるるものあるにおい
てをや。
しかして、その驚くべき混沌 時代が何によって開かれたるかを尋ぬるに、まず、足
たかうじ りゆうほう ηゆうび か. そうそう えんせいがい け う
利氏の始祖尊氏が、劉邦、劉備に兼ぬるに曹操、袁世凱をもってしたる、日本に稀有
の人物にして、胆大 に手柔 に、時代の風潮に乗じて、易 きに就 きつつ天下を取るの手
段に出でたるが故に、すでに最初より紀綱 の振粛 を欠
き、彼の事業を助けし部下の士をして、また彼に倣 って呑噬 の欲を逞 しうせしむるの
余地を存し、我儘勝手 の振舞 を為さざる者は、却って馬鹿 を見るが如き風を起して、
為に天下を闇黒にしたるに起因するを、認めざるべからずと雖 も、さらに、第二原因
の第一よりも顕著 にして、第一原因の効果を保留し助長するに有力なりしを看取 する
を要するなり。弄 は何ぞや、他なし、源氏 の末裔 にして源氏の筆法 を学びたる足利氏
が、退 いて平氏 に化し、末期 の北条氏 に化 したるに在 るなり。むしろ、平氏に化し末
期の北条氏に化しつつ、さらに、平氏だも末期の北条氏だも為 さざりしところに出 で
たるに在るなり。
しかして、これを為 したる者は誰ぞ。曰く、売家 と唐様 に書く三代目の好標本 なる、
甘 やかし坊っちゃん義満 なり。三代の義満 これを始めて、六代の還俗 将軍義教 これを
養い、足利系中第 一の大馬鹿者 たる八代の義政 これを成 したるなり。義満父祖辛労 の
効果を収 めて、生れながらに主権者 の卵たり。長 じて父義詮 の後 を襲うや、将軍とい
う職をもって単に自家 の私欲 を満たすべき機関と做 すの意思 を公表しつつ、毫 も憚 る
ところなきなり。
第百代後小松 天皇の明徳 三年の閏十 月、南帝神器 を北帝に譲りて、南北ここに合一
するに至りたるは、これ機運 の然 らしめしところにして、時局に当 りたる何人 の力に
てもあらざるに、義満 は強 てもって自己の功となし、しかも、武人本来の立場を棄 て
去りて、平氏の顰 に倣 い、同応永 元年十二月二十五日、叨
りに太政大臣 の極位 に上 りて、三宮 に准 せられ、天子 を凌 ぐこと数十等なる豪奢 の生
活を為 し、相国寺 を造り、花御所 を営み、金閣 を起し、賢相細川頼之 を廃黜 して自 ら用い、贅沢 の限りを尽して飽 くことを知らざれ
ば、これがために財用 の欠乏を感ずるは当然の事実にして、彼は、当時支那 を支配せ
る明朝 が、我が海賊 の侵寇 に苦しみ、使 を遣 わして海賊の禁遏 を要請し来 れるを、絶
好の機会となして捉 え、明 に向って金銭を強請 し、若干 の銅銭 の前に尾を掉 り頭 を低
れ、明に対して臣 と称し、明の求めに応じて我が海賊を誅 し、天皇の存在を無視して
日本国王の封冊 を受け、明 の正朔 を奉 じ、金甌無欠 の我が帝国の歴史に拭 うべからざる大汚点 を印 したり。
義満 が保永十年明に贈りたる書信には、明らかに「日本国王源道義表 」と記し、
しかのみならず、彼の正朔 を奉ずるを証すべく、永楽 元年某月某日と書せり。これ、
予 がいわゆる警語 とは全然 反対の意味においてはなはだ奇抜 なるもの、しかも、奇抜
なるだけそれだけ、罪悪の分量の多大なるを認めずんばあらざるなり。
義満の後 四代義持 、五代義量 、共に可 もなく不可 もなくして、六代の還俗 将軍義教
に到るや、驕慢浅慮関 東の支族 を滅 ぼして自 ら手脚 を断 ち、ついには、し実力ある大諸
侯 を侮辱 して却ってこれがために屠 られたる、その一生の伝記の愚劣さ加減 に相応せ
る態度を取りて、またもや足利系特有の乞食根性 を発揮し来り、第百二代後花園 天皇
の永享六 年、明 に哀訴歎願 して、三十万貫 の銅銭 を賜与 せられ、その坊主上 がりなる
をもって、義満 、義持 よりもさらに一層乞食 の功妙なるを表現し得たり。
すでにして、八代の大馬鹿者義政 に到りては、奢侈贅沢 も尋常 の程度に止 まること
能 わず、凝 りに凝 りて茶気満 々たるの範囲に入りたれば、随 って府庫 の空乏 もまた義
満 、義教 時代より一層はなはだしく、ために厚顔無恥 なるこの醜漢 をして、最劣等な
る乞食手段に出でしめ、幾度 か強請 り強請りたる末、わずかに銅銭五万貫を得て、さ
らに十万貫を賜 わらば我が国用すなわち足 りなんなどと、陋劣至極 の哀音 を吐きしも、
「手が塞 がっているよ」と刎 ねつけられて、悄 々と引き下がらざるを得ざりし、何たる
業晒 しの骨頂 そや。されど、これならばまだしもなり。乞食を為 して十分に成功せざ
りし義政 が、一転 して、公然 盗賊的行為を施 すことをあえてするに到りたるには、呆
れて物も云えなくなるなり。
当時将軍も諸侯 も、皆その放縦奢侈 の生活の弊 を受けて、如何 に相率 いて乞食的態
度 を取るも、如何 に富豪に献金を強 ゆる恐喝取財的態度 を取るも、もってその財用 の
不足を補うに足らず。共 に倶 に新奇 なる調金 の便法 を思うこと、渇 する者の水を求む
るよりもはなはだしきものあり。
ここにおいて、大馬鹿者義政 は諸侯の賛同 を得たる上、「徳政 」と名つくる珍無類 の
政令を発布したり。これ、予 め出来得 る限りの借財 を為 したる上、その返済の義務を
免 るるための手段にして、これを行うや、先ず何人 にも知らしむることなくして、突
然全都 の鐘鼓 および鈴鐸 を鳴らし、「徳政 ! 徳政 !」と絶叫せしむ。これと同時に、
一切の貸借関係 における権利義務 は消滅 するなり。借りたる者は返済することを要せ
ず、貸したる者は請求することを得ざるなり。されば、徳政 は得政 にして徳政 にあら
ず。得 の行 く政治にして、徳 を行 う政治にあらず。無暗 に借財 を重ねて馬鹿 を尽す者
に対しては、これ実に有難涙 をこぼすべき得政 なりとも雖 も、脅迫半分 に金品 を借 り
られし富豪 その他生産者より見ては、まことに迷惑千万 、これに過ぎたる損政 あらん
や。「徳政 」とは思い切って名づけたるものかな。またこれ、予 がいわゆる警語 とは全
然 反対の意味においてはなはだ奇抜 なること、「日本国王源道義表 」と揆 を一にす
るものにあらずや。
しかして、この政令を可能ならしむべく、もしこれを奉 ぜざる者あるときは、身首
たちまち所を異 にすべしとの、苛酷 なる罰則 を設けてこれに添加せり。鳴呼 実にこれ、
政 を為 す者自 ら盗賊を行うて、天下にこれを倣 えと強ゆるものにあらずや。盗賊を
為 さざる者をして、法を犯すの罪人として刑罰を受けしむるものにあらずや。天下の
盗賊を行う者に、盗賊をもって正道 となすの口実を与うるものにあらずや。此 の如く
して、なお天下に騒乱 を生ぜずんば、升 は却って不可思議 ならざるべからず。いわん
や、義政の在職二十九年間に、徳政 の行わるること十三回に及 びたりというにおいて
をや。天下いずれの国いずれの世に、此 の如き政治ありや、好 くも出来 たるものと呆
れ果 つるの外 なきのみ。果然 、第百三代後土御門 天皇の応仁 元年五月より始まりて、
同文明 九年十一月に到るまでの十一年間に連 なれる、肥溜 の中に蛆虫 の位置を争うて
蠢動 するが如き、混沌 の極 、醜穢 の極 なる、山名宗全 、細川勝元 の争乱の、尊氏 以来
の足利時代的気風 が造 り成 したる窮極 の産物として、現前 し来 れるを見るなり。
乞う。当時の一逸話 を記 さん。京都粟田口 に旅店 あり。一日突如 として四方に鐘鼓
の鳴るを聞くや、旅客 のこれに宿 せる者、すなわち徳政 のまさに行 わるるものなるを
知り、皆宿料 を弁 ぜずして出 でんとす。店主 これを要求すれば、すなわち口を揃 えて
曰く、「法に触 れんことを恐るるのみ」と。ここにおいて、店主もまた、我が家に現存
せる財物 として、ことごとく旅客の携帯品 を押収し、これを詰責 すれば、すなわち冷
然 として答えて曰く、「法に触 れんことを恐るるのみ」と。警語 をもって警語 に対 えつ
つ、しかも、偶然 に時弊 を痛罵 して骨 に徹 するものと云うべし。
応仁 の乱 という名によって呼ばるるところの、山名宗全 、細川勝元 が、応仁 、文明
十一年間に連 りて、花の如く錦の如き京洛 の大半を焦土 に帰せしめつつ、桓武 天皇草
創 以来ここに累代 の発展を積み、帝王の居 としての十分の規模を備うるに到りたる平
安城 の内外をば、これより後復 び旧観 を呈すること能 わざるべく荒廃 せしめし、惨毒
無比 の市街戦 は、実に、闇黒時代の闇黒戦争と称するに価す
るものなりしなり。
足利氏の支配を受くる武人中の二大頭なる、山名氏、細川氏を両軍の首脳と為 して、
京都を東西より挟 み、細川氏に属する東軍二十三州十六万余人、山名氏に率いらるる
西軍は二十五州十一万六千人と算 せられ、しかしてこれに参加する者、上 は将軍より
中 は大諸侯 、下 は小身微力 の士人 に到るまで、一として、私怨私憤 のために、もしく
は私利私欲 のために、自 ら逞 しうせんとして、相結托 し相加担 せる者にあらざるはな
く、しかのみならず、これを横より観 るときは、これ、血縁の分派によりたる陰晦 なる家庭の波瀾 を、幾重 にも累積 して、尨大 ならしめ複雑ならしめたる
ものに他 ならず。応仁の乱の性質、此 の如くそれ下劣 なり。
故に、日本史中の精華 として、絢爛煌耀人目 を眩 するに足 れる、群雄割拠 時代まさ
に来 らんとする前の戦争、しかも、群雄割拠時代を招致 すべき準備的変乱たる性質の
戦争としては、徒 らにだらだらとして十有一年の長きに連り、東西両軍の総帥 勝元、
へだ あいつ ゆ かか よしゆう
宗全の二人者が、ついに一ヵ月を隔てて、相踵いで逝きしにも拘わらず、余衆なお対
陣して四年の久しきに到りつつ、その間に一の義憤 なく、一の清操 なく、奇策 の人を
驚かしたるなく、殊勲 の衆 に抽 んでたるなく、平々凡々、混々沌々、ただ無数の蛆虫
の糞汁裡 に蠢爾 たるを認むるの外、如何 に眼 を拭 うも何物 をも見出だす能 わざりしこ
と、却ってこれ怪謌 に堪えざるが如しと雖 も、細 かに当時の事情を探究し来らば、ま
た此 の如くなるの已 むを得ざりしを首肯 するに吝 ならざらん。
乞 う、予 をして、速 やかに警語史上 の黄金 時代に眸 を移さんことを思うの欲望 を抑
えて、姑 く、闇黒時代の闇黒戦争を警語史的眼孔 に映ぜしめよ。一言にしていえば、
当時の気風 と、大都 を戦場と為 しての市街戦 たるーその戦争の性質とが、相俟 ち相
合 して、この奇怪なる現象を成 したるもののみ。すでに家庭の波瀾 を複雑にし尨大 に
したる、生温 く引締 まらざる性質の戦争なる上、ある一面より観察せし結果の如く、
上 将軍および諸侯 より、下 水呑百姓、商人に到るまで、当時の人間は皆盗賊 にあらざ
れば乞食 と認むべかりしならずや。
しかして、大都を戦場と為 しての市街戦は、将士兵卒 をして、戦争の片手間 に盗賊
と乞食とを行わしむるに便宜 多きをもって、彼等は、むしろ本職たるの戦争よりもこ
の内職に熱心を傾け、戦争を少しく行いて内職を多く行い、戦争の時間を短くして内
職の時間を長くし、戦争には十中二 、三の力を用いて、内職にはその他の七、八を用
いしなり。加うるに、市街戦は危険 多くして残酷 に傾 き易 く、死者傷者の率 高くして、
その種別の度 を定むること能 わず、将帥 必ずしも士卒 より安全なるを保 し難 きを例と
なせば、利 ありて義 なく、名 を軽 んじて利 を重 んずる、当時の武人等は、これを知る
ことはなはだ怜悧 にして、たがいに戦闘を極度 に到らしむることを避 け、常に三、四
分 にして蚤 くも切 り上 ぐるをもって、策 の得 たるものとなせり。これ、応仁 の乱の何
時 までも煮 え切 るに到らずして、ぐずぐずに長引 きたる理由なり。
彼等は、戦争を疾 く鋭 く行うの弾力 を欠 きて、なるべく危からざるようにと、のろ
りのろり遣 り、それも、半日四半日 戦っては、一ヵ月も二ヵ月も、はなはだしきは半
年も一年もその余 も休み、その間の退屈凌 ぎには、何 れも陣中にて面白 き遊びを為 し、
はなはだしきは、戦争の中休みに故郷へ帰省して、父母妻子の顔を見てより、故郷の
土産 などを携 えて、緩 々と出 で来 る者もあり。彼等はまた、洛中洛外 を遊び歩きて、
酒を飲み、女に戯 れ、乞食 を行い、盗賊 を働き、あるいは、乞食し盗賊し得たる金銭
にて、必要および娯楽用 の物品を買いなどするなり。山の中の城攻 めや、何もなき野
の戦いなどとは事変 り、たとえ兵乱のために荒れ果てたる跡 なりとは云え、花の都は
また格別 にて、享楽的 生活の対象少 なからず。しかのみならず、盗賊的臭味 を帯た
る胆太 き商人等は、兵馬 の間を物 ともせずして、売買 の戦争を行い、軍隊を主 なる顧
客 と為 しての市場 は、所 々に開催せられ、遊女辻君 なんどもそれ等の側面を縫 うて出
没 する故、彼等 はむしろこの間 に趣味 を見出だして、自然に軍陣生活 の長きを忘れ、
あるいは却って、軍陣生活のなお長からんことを希 うの事情もなきにあらざりしが如
し。これ決して予 が出鱈目 の言にあらず。
当時、京都を中心と為 しての界隈 において、「軍賊 」あるいは「兵賊 」というはなは
だ奇異 なる通語 の流行したるを記憶せよ。「軍人軍属 」の「属 」の字ならば、別に怪し
むに足らざれども、「盗賊 」の「賊 」の字を「軍 」の字「兵 」の字の下に加えて呼ぶが
故に、奇異ならざるを得ざるなり。しかして、その何を意味するかと問えば、東西両
軍をおしなべたる軍士兵卒 にして、戦争の傍盗 賊を働くの徒 を指さすと云うなり。
かかる奇警なる特殊 の普通名詞 を創造するの必要に迫 られたるほど、軍隊より出ずる
盗賊がはなはだしかりしとは、実に驚倒 に価する話説 にあらずや。されど、歴史が明
らかに、一通りや二通りの驚倒にては、なお足 らざる事実を伝えつつあるを如何 せん。
軍賊兵賊 の如何 に跋扈跳梁 を縦 ままにせしかは、応仁 元年九月十三日に、その徒党
数百が、三宝院 、近衛殿 、鷹司殿 、日野 の屋形 、花山院 、西園寺 、広橋殿 、転法輪 、
三条内大臣実量卿館 を始めとして、武家には、吉良 、大館 、小笠原 、細川下野守 、飯
尾豊前守等 の邸宅に火を放ち、南禅寺 、青連院 、元応寺 、法城寺 等の殿堂伽藍 、その
他有財 の家を焼き払い、飽 まで物を取り尽して、贓品 を積むこと山の如く、奈良 およ
び近江 の坂本 に市 を立てて、盛んにこれを売却 したりと云うに、その一端 を窺 うこと
を得 べし。ただしこの中 には、軍隊に属せる真の兵士にあらざる野武士輩 をも雑 えた
るなるべしと雖 も、真の兵士がその大部分を占めしことは争うべからず。さすが、京
都にて盗賊を行いたる贓品 を、同じ土地に市 を開いて売らざりしは、その徳義 を重ん
ずる態度の殊勝 さ加減 、実に感服敬服 の至りとや申さんなれど、戦争中勝手 に徒党 を
結んで強盗に出ずる自由を認められ、かつ、勝手に奈良や坂本 まで出商 いに行く余裕
ありしとは、その不規律 の度外 れなる、とうてい今日より想像し得るところにあらざ
るなり。いわんや、歴史に留められたるこの軍賊兵賊 の大劫掠 の記録は、応仁 の戦乱
が端緒 を開かれてより、わずかに四ヵ月以後の事実に過ぎずして、これより、十有一
年の長きに連なりたる時日の間には、この種の劫掠 がさらに幾回か繰返 されたるな
るべきを、推測 し得 べきにおいてをや。
初陣 の花武者 として持 て囃 されし少年は、何時 しか鬚食 い反 らしたる壮夫 となり、
壮年 の大将も早鬚 の毛に置く霜 の白きを歎 つ身となりぬ。されど、だらだらとだらし
のなき微温的 戦争は、何時局 を結ぶべしとも見えざるを如何 せん。すでにして、開戦
以来七年の星霜 を閲 し去り、応仁は文明と改まりて、その文明の年号も新 を迎うるこ
と五度 の多きに及びたるが、その三月、廃残 の都にも、また桜開きて、損 われながら
に春の色を成 したる時、西軍の首脳山名右衛門太夫持豊入道宗全 、七十歳の高齢 に堪
うる能 わずして、陣中に病死し、同じく五月には東軍の主帥細川右京太夫勝元 もまた
奇瘡 に悩まされ、享年 四十四にして、五月雨空 の夜半 の時鳥 に誘 われ去りたり。
かくて、東西両軍共に頭 を失いたる蛇の如く、残党 ただちに散 じて、干戈 たちまち
治まるべく思われしに、何 ぞ測 らん、両軍の形勢は毫 も変化を現わさずして、依然 と
して百年も対抗するが如く見ゆる態度を守りつつあるなり。ここにおいて、この争乱
が単に勝元と宗全とのみの葛藤 にあらずして、両軍の将士が、私欲私憤 のために、も
しくは私利私欲 のために、 各自 ら逞 しうせんとし、便宜 に随いて相結托 し相加担 し
たるものなること、ますます明らかなり。両頭共に亡びても、兵結んで解 けざるもの
は、なお両立すべからざる仇敵 の幾対 を存 すればなり。しかして、盗賊を行い乞食を
働くことに味を占め、我儘勝手乱暴無法 に振舞 うことに興 を覚えたる彼等が、容易に
これ等の興味と手を分 つことを欲せざるも、また、宗全、勝元両 つながら亡 きの後 に
戦争を継続せしめたる理由の、一半 ならずんばあらざるなり。
故に、勝元の残徒 は依然 として将軍義政 (両頭共 に亡 びし年、義政 将軍職を九歳の
義尚 に譲りたりとも雖 も、幵 はただ名義のみ)を神輿 に舁 つぎ、宗全の余党 は飽 まで
も義政の弟義視 を本尊 に祭りて、盲蛇 の相闘うが如く、ただ暗雲 にのたうち廻りつつ、
両将没後さらに四年の長きに連りて、この状態を持続したるが畢竟 ずるにこれ、行掛
り上已 むを得 ずして為 すものに過ぎずして、誰も彼 も内実 はあぐみ果てたる事なれば、
いよいよ文明 九年の十一月と云うに、西軍の本尊の義視 が、ついに居堪 たまらず陣中
より逃亡せしを機会 として、両軍一時に、縁日 の見世物小屋 の大地震 に揺 られたるが
如くに解体し、各自その陣営に放火して、もって馬鹿 々々しく長 かりし遊戯 の終結と
為 しつつ、二っ三つずつの大欠伸 を廃残 の京都への置土産 と為 して、その国々に別れ
帰りぬ。
古今世界、我が応仁文明 の役 を除くの外 、豈 家庭の紛擾 に始まって欠伸 に終るの戦
争あらんや。日本人を目 して、一概 に島国根性 の小国民 なりと做 すことなかれ。実に、
此 の如く大国民に失 たる時代もありしなり。口善悪無 きは京童 の常 、彼等は、大風
の過ぎたる如き京の町に、吻 と十一年振 の安心の息を吐 くや、錦様鶯花 の地が、寸
断 々々に引 き裂 かれて火に焦 がされし画幅 の如き無惨 の光景を呈し、折柄 吹き荒 ぶ凩
に一入 物の哀 れを添えたるを見て、そぞろに悲涼 の感を催 しながらも、十一年戦争の
終局の呆気 なきに対し、また、皮肉 極まる一冷語 の引導 を渡さずして已 むこと能 わざ
るなり。弄 は非常に洗錬せられたる警語なり。曰く、「戦争が欠伸 をしたり!」と。
予 がここに「京の着倒 れ、江戸の食倒 れ」という俚言 を引 き来 りたるを怪 むことな
かれ。「京の着倒れ、江戸の食倒れ」とは、江戸っ子すなわち旧時代の東京人の云うと
ころなるが、大阪にもまたこれと意味を同 うする俚言あり。すなわち、「京の着倒れ、
大阪の食倒れ」というなり。何 れにしても、これ、京都人が食物道楽 にあらずして着
物道楽 なるを意味するもの。すなわち、食物を重んぜずして衣服を重んずるを意味す
るものに他ならず、しかもこの語が、大阪という都府 および江戸という都府 が日本に
在 りてより後 すなわち豊臣時代以後むしろ徳川時代となりてよりの産物 なること
は、云うまでもなきところなるが、いわゆる「京の着倒れ」の語に適当する事実の濫
觴 は、実に足利系中の大馬鹿者義政 の時代に在 り。是れ予 が応仁の乱について警語史
の材料を見出だしたる後、特にこの後代 の警語を挙 げ来 りたる所以 なり。
事実においては、京都人必ずしも食物を軽んじて衣服を重んずるにあらずと雖 も、
この語の本来の意義たる、京都人が眼前に消費せらるる物に重 きを置かずして、長く
保存に堪 うる物を喜ぶことを指 すに在 り。換言 すれば、物を眼前に消費せずして、な
るべくこれを保存することに意を用うるは、京都人一般の風習なりと云うに帰するの
み。京都人は吝 なりと云うも、京都人はしみったれなりと云うも、また、この事実に
対する批評に他 ならざるなり。
然 り、京都人が果して吝 なるかしみったれなるかは知らずと雖 も、その風習が、出
来得 べき限り生活の外観を縮小して、地味 に、目立 ぬを主眼と為 し、代りに、深く蔵
し厚く積んで、基礎を固くし、万一の場合に応ずるの準備を怠 らざること、全然、東
京その他一般の気質と選 を殊 にして、はなはだ日本人的ならず、むしろ、日本におい
てこの一区画のみ色彩を異 にするの現象ある事は、つらつら思えば、また怪底 すべき
事実ならざるにあらざるなり。
しかもこれ、決して桓武草創 以来の京都人の気風なりと断言すること能 わずして、
元来華奢風流 なるが京都人の本色 なりしを、足利時代 殊 に義政 の世 となりて、か
の鐘鼓 を鳴らして貸借関係の権利義務を消滅 せしむる「徳政 」を濫施 し、これを重ぬ
ること実に二十九年間十三度に及 び、人民をして到底 財産の安固を保持すること能 わ
ずして、已 むなく、門戸を狭隘 にし、財産を隠蔽 して、出来得る限り他と物質上の関
係を絶ち、消極的に己 れを守るの態度に傾 かしめしが、今日 に到りてなお変 ぜざる京
都風の、因 って起りたる根源ならずんばあらず。これに加うるに、京都人に対する空
前絶後 の災禍 なる、応仁文明 十一年間の惨毒無比 なる市街戦が、ただちに蹤 を追うて
起り、彼等をして兵賊軍賊 の憂 いに堪 えざらしむるあり。ために京都人をして、いよ
いよ空 しきを示して、内 に蓄 うるの方針を確乎 たらしめざるを得ざるなり。
彼等が、特に常時においても非常の用意を旨 とし為 しつつ、財物ーiなかんずく不
変質と可能性とに富みて、一朝事 ある時、これを帯 びて走るに便 なる金銭に重 きを置
き、貧しきを示して富を作るに専 らなる風習は、実にこの時代に起りたるものにして、
これより後 は、日本の大恐怖期 、大流血期 たる戦国時代来り、いよいよ財布 の口を引
締 めざる能 わざるに到れり。
しかして、戦国時代に継 いで到れるものは徳川時代にして、江戸に幕府を置かるる
と共に、ひとたび京都を去りたる政権の中枢 は、ついに再 び帰り来らず。京都は、時
代に遺 し去られたる骨董品 の如き非実用の都会となりて、ますますその住民の、外を
空 うし内を充 たす必要を加え、もって今日 に及 びたるなり。彼等は、いわゆる食う物
も食わぬ態度をもって富 を作れり。しかして衣服の如きも、実質および外観の久しき
に耐うるものを選 びたる上、これを愛護 して、汚さず破らざるべく意 を用うること、
尋常 一様 にあらず。平常服 にても、少しく立ち働く時には必ず「上 っ張 り」を用い、
「京都人は袖口の傷 るることを恐れて煮豆 を食 わず」と江戸人に嘲笑 せらるるほど、
衣服の保存のために苦心を払うに到りたり。「京の着倒れ」の正当の意義、それ此 の如
くならざるべからずして、元来決して、衣服に贅沢 なるを云うにあらざるなり。
なお一回、闇黒時代より見出だされたる警語史の材料のある残余 を処理 せしめよ。
人に綽号 を附くることは、古今世界一般の通例にて、我が国史中にもまたその事実少
なからず。神代 より上古 に連 り、この人名の如きは、その実名 なるか綽号 なるかを識
別するに苦しむもの多く、むしろ、綽号と実名との区分なかりしにあらずやと想像し
得べきが、なかんずく、国史における綽号問題 の最も顕著なる事実は、また闇黒時代
において見出ださるるこそ面白 けれ。まず、義政 と伯仲 の間に在る大馬鹿者なる、六
代の還俗 将軍義教 が、係蹄 に懸 りたる狐 の如くに屠 られて、非業 の最後 を遂 げしは、
人に綽号を附けたる報酬に他 ならざるを記憶せざるべからず。
当時赤松満祐 なる者あり。摂津 、播磨 、美作 、備前 、因幡 五ヵ国の領主にして、左
京太夫 と称し、かつて尊氏 に父と呼ばれし則村入道円心 の裔 なれば、足利氏の配下
においても屈指 の大諸侯 にして、将軍と雖 もこれに相当の敬意を払わざるべからざる
に、義教 の驕慢 にして浅慮 なる、毫 もこれ等の点に留意せずして、満祐 が身の長 低く
して長刀を帯 する形状を滑稽 なりと做 し、これに「三尺入道 」と綽号 して実名を呼
ばざるなり。また頻 りにこれに戯 れ、はなはだしきは、手飼いの猿を放って満祐 の面
を傷 らしめんとし、彼をして刀を抜いてこれを斬るの己 むを得ざるに出でしめたり。
これ、曷 ぞ大諸侯に対する将軍の態度ならんや。満祐 が心に憤怨 を懐 きつつも、努め
てしばらく恭敬 の色を失わざりしは、むしろ却って同情に価すべしと做 す。しかも、
満祐の忍耐に乗じてますます虐待 の度を加えたる義教は、ついに、満祐の領地を削り
て、その一族赤松貞村 に与えんとするの横暴 を敢 てするに到れり。これにおいて、三
尺入道もついにその勘忍袋 を破らざるを得ざるなり。
第百二代後花園 天皇の嘉吉 元年六月二十四日、満祐 は将軍 をその邸に招き、猿楽 を
催してこれを饗 す。宴酣 にして馬を大庭に放ち、衆人 の驚慌 に乗じて兵を出だす。か
くして将軍は、係蹄 に掛 りたる狐の如く、取って抑 えて捻 じ伏 せられ、腕 く間もなく
首を掻 かれたり。綽号 の名附 け親 としての報酬、また大ならずや。
されど、話はこれにて仕舞 いたるにあらずして、さらにその余談の珍無類 なるもの
なるに着眼することを要するなり。満祐 すでに将軍を弑 して、その根拠地播磨 に退き、
則村 以来名誉の記念 を留めたる白旗城 に拠 りて、足利氏に対し叛旗 を翻 せしも、天下
の大兵三十余万を受けて、久しきを保つこと能 わず、同年九月十二日、城陥 りて満祐
自殺したるは、まず順当の成行 と云うべきが、城陥る時、満祐の嫡子教祐 、および次
子則尚 の窃 に逃れ出でて、伊勢 の北畠氏 に投 じたるあり。
・後義政 の時代に至りて、山名、細川二氏の軋礫 に乗 し、細川勝元 について訴願した
れば、たちまち免されて旧領地 を回復し、すなわち、所々に流落 せる旧臣 を集めて三
千余人を得、同じ天皇の享徳 三年十二月二日京都を発して、意気揚 々として播磨に赴
くの奇観 を呈するに及 び、人をして、足利時代という奇妙 な時代は、将軍を弑 せし逆
臣 の子にても、どうかして生命 を保ちておりさえすれば、何時 かは世に出ずる機会を
これに与 うるものと、つくづく感心の首を傾 けざるを得 ざらしめたり。
されど、話はまだまだこれにて御仕舞 にあらず、またまた飛んだ事に引っくりかえ
るところに、足利時代の堪 らぬ面白味 はあるなり。さてこの享徳 三年は、応仁 の戦乱
の前十三年に当り、山名、細川が相反目 するの状勢ようやく熟しつつある際 にて、し
かも、赤松兄弟 が回復し得たる旧領播磨 は、山名宗全 が白旗城攻撃 の際の首功 により、
新 たに加えられたる領地なれば、将軍および勝元 が、赤松兄弟を援 けて己 れを圧迫せ
んとするを見るや、宗全憤慨措 く能 わず。大柄 の獰猛 なる諸 ら顔に、鬼が坊主に化 け
たる如き円 い頭を有せるより、勝元一派の者より「赤入道 」と呼ばれて、何時 しか一
般に通ずる綽号 となりつつある その赤入道ぶりをば、一入 朱の如く染め上げて、
赤松兄弟を途 に迎え、一戦してこれを粉砕 し、兄弟をしてわずかに身をもって備前の
児島 に遁 れしめぬ。
されど驚 くことなかれ、話はこれにてもまだまったくの御仕舞 にあらざるなり。何
となれば、宗全はこの逆撃 によって罪を得ざるのみか、勢いに乗じて京都に上りたる
に、将軍は却って辟易 して、宗全を引見 し、温顔 もってこれを慰撫 したるにより、山
名氏の武威 盛んなること、むしろ前時 に倍 して、傲然 細川氏を凌轢 し、両家の暗闘為 にますますはなはだしきを加えたるをもってなり。「三尺入
道」を滅ぼすに功ありたる者は「赤入道」にして、「三尺入道」が滅亡したる後 、「赤
入道」の跋扈 するを見る。大新旨義 が実地に施行されたる効力の如何 に大なるかは、
早雲に継いで起りたる群雄 が、各 々その面目と手法とを異にせるに拘 らず、ただこの
点においてのみは、何人 と雖 も必ず早雲に一致せざる能 わざりしによって明らかなり
とす。早雲は実に英雄なり、実に偉人なり。しかして予輩 は、彼の口より、、真に英雄
らしき、真に偉人らー-)き、長く武 をもって天下に立つ者をして服膺 せしむるに足 れる、模範的警語 の発せられたるを聞くことを得 べし。
早雲かつて人をして兵書 を講ぜしめしに、開巻まず、「主将 たるの道は英雄の心を総
攬 するに在 り」と云うを聞くや、すなわちただちに巻を掩 わしめて曰く、「我すでに一
篇の精神を得たり、再 た講ずることを要せず」と。鳴呼 、実にこれ、富岳 を抱擁 し東
海 を呑吐 するの概 ある、大度量 の声にあらずや。馬上に天下を取りつつ、馴 らし易 か
らざる虎狼 の徒 をして、足下 に戯 るる狗児 の如くに悦服 せしむる偉人の面目、この一
語の中 に躍 々たるを覚ゆるなり。この一警語は、群雄割拠時代 の門扉 を開きたる鍵 の
響きなり。しかして、戦国時代を総括 したる封 じ目 に押捺 されたる印章 なり。
早雲に次 で起りて、第二の英雄時代開拓者 となりたる者を、毛利元就 となす。すで
に早雲においてその例を示されし如く、この時代の英雄は、皆、人心 すでに濫政 に苦
しみ、無才無能 にして、徒 に階級の上層 を占 めつつ、多数人を自家の放情縦慾 の犠
牲に供 して、省 みることを知らざる将軍および諸侯が、着々として時代より後方に断
送 せられつつあるを看取 し、もって、機会の乗ずべきを覚 り、手に唾 して起 ちたる者
なれば、すべて、組織的事業を企 て秩序的行動 を取るにおいて、一致せざるを得ず、
民 を本 としつつ、これを慰撫愛護 するの善政 を施 すにおいて、同型ならざる能 わざり
しなり。なかんずく、最も共通なる要点は、英雄何 れも時代の裏面より頭 を抬 げ、ま
ったく赤手空拳 なるか、しからざれば微々たる一城砦 の主管者 なるかに過 ぎざりしを
もって、小をもって大を摧 き、寡 をもって衆 を破るべく、両入道の対照頗 る妙 にして、
両者に対する綽号 のはなはだ奇警なるを覚えずや。かかる滅茶苦茶 に混沌乱脈 なりー-)
時代と、堂 々たる大諸侯を呼ぶに、侮辱 を極めたる綽号をもってするを憚 らざりし事
実との関係、また玩味 に価せり。
かくて、予 が待ち設けたる戦国時代は来 れり。日本史中の精華 たる時代、警語史的
眼孔 に映ずる黄金時代たる、群雄割拠時代 はついに来りたり。ここにおいてまず、凡
人時代 を断送 して英雄時代 を招来したる最初の人物として、北条早雲 に眼 を注 がざる
べからず。単調また単調、単調の外 に何等 の挙 ぐる物なき千里の砂漠 を行くこと、日 々
また日々にして、人をしてほとんど倦殺 に堪 えざらしめんとするの時、たちまち、馬
頭雲 開くところ、奇峰 の突兀 として天腹 を刺して峙 てるを見、覚えず鞍 を拍 って快哉
を叫ばしむるものは、早雲の出現なり。
早雲は元来伊勢平氏 にして、新九郎長氏 と称し、初め足利義視の近侍 たり。応仁の
乱ひとたび起るや、謂 えらく、「天下これより将 に麻 の如く乱れんとす。方 にこれ、英
雄 手に唾 して大業 を成 すの秋 なり」と。すなわち、財を散じて奇傑 の士の志を得ざる
者と結び、六士と共に剣 によって、東の方駿河 に至り、その姉の夫今川義忠 に依 る。
たまたま義忠の病死するに遭 い、叔父の地位よりして幼主氏親 を補翼 し、功をもって
同国八幡山 の城主となれり。
これ、早雲が事業の第一着歩にして、彼は、これより伊豆を取り、相模 を略 し、小
田原 に居 を定めて(後土御門 天皇の明応 四年二月)、関 八州を平定 するの基 を開きたる
が、彼が従前 の武人と全然 行き方を異にしたる点は、戦争においては、出来得る限り
時間を短く度数を少なくして、人命を損じ財貨を費やすこと多からざるよう、一挙 に
偉功 を奏 する投機的奇兵主義 を用い、同時に政治においては、民力を休養して訟獄 を
公平にする着実なる仁愛主義 を施 したるに在 り。この二点は、混沌 たる足利時代をそ
の積弊 と共に葬り去りて、真に人物の実価実力 をもって事 を成 すべき新時代の萌芽 が
抽出 せられたるもの、すなわち全然新義 と新味 とによって充 たされたるものなり。
この二必ず奇兵 を用いて危険を冒 したる記録を有せる一事なり。早雲すでに爾 り、
元就 また爾 らざるを得ず。同時に起れる武田信玄 も、上杉謙信 も、また、継 いで来 り
たる織田信長 も、群雄 が成功の第一要素は、ことごとく、奇兵 の成功に外 ならざるの
み。しかも、元就 において、最も出色 に奇兵の成功が多大なるを見るなり。
元就の系統 は、頼朝 の知嚢大江広元 より出でたり。彼の起れるや、その領する所は、
数代の祖時親 が、足利尊氏より与えられし安芸 の吉田 にして、尼子氏 、大内氏 二大勢
力の間に介在 し、両者の何 れかに隷属するにあらざれば、自ら存 すること能 わざる、
寄生物 に儔 しき愍 むべき境遇なりしなり。されど、元就は境遇に支配せらるる凡人に
あらずして、境遇を支配する非凡人なり。第百五代後奈良 天皇の天文 二十年九月朔日 、
山陰山陽の半部と九州の一角とを併有 して、京都以西における海陸 の主権を占め、従
二位の高位と足利将軍を小なりとする財富とに誇りつつありし大内義隆 が、その老臣
陶晴賢 に弑 せらるるや、元就変に乗じて志を展 べんとし、まず、晴賢誅戮 の勅許 を請
うて、新たに巌島 に城 き、敵を狭窄 の地に誘 い、後奈良 の弘治 元年十月朔日 夜、三千
に過ぎざる寡兵 をもって、風雨に乗じ敵営に決死の夜襲 を試み、能 く十数倍の大軍を
痛破 して晴賢 をして窘迫 して海頭 に自殺せしめたり。毛利氏 が、
山陰山陽の主人として、大内氏 に優 れる勢威と実力とを兼ね、関東に起りし北条氏と、
東西好一対の事業を成 すに至りたるは、要するに、この一回の奇兵 の成功を善用 した
る結果に過ぎざるなり。
かくて、元就 について特に注目すべきは、晴賢 を征討するに臨んで、勅許を請いた
る一事なるが、後鳥羽 天皇北条氏を亡ぼさんことを謀りて「天子御謀叛 !」の一喝の
下に辟易 し給い、後醍醐 天皇足利氏のために吉野 の山中に窮蹙 して、慷慨 剣 を按 じて崩 じ給いてより、皇室振 わざることはなはだしく、武人独 り跋扈
して、天呈はただ虚位 の授受をもって代 を累 ね給いたれど、この
極度 に至って、天下はついに腐敗 せる武人政治の更に腐敗せる文人政治よりも厭 うべ
きに戦慄 すると同時に、皇室の御痛 ましき現状に注意を引かれざる能 わざるに及 び、
ここに祖先以来の民族的精神を覚醒 せしめて、油然 として
皇室中心の思想を湧かし来りたるを、時代の子たる元就 が蚤 くも時代精神の趨向 を看
破 し、率先して時代精神の代表者となりたるものに外ならずと做 す。元就の後 に起 り
て天下を取りたる者は、信長 にでも、秀吉 にても、皆皇室中心の時代思想を代表して、
これに叶 いたる措置 を為 ししが故の成功なるのみ。語を換えて云えば、皆元就の態度
に一致したるが故の成功なるのみ。元就の人物の非凡なるすでに此 の如し。
されば、その七十五年の一生において、名言の伝うべきものを出だしたること、決
して、一、二にして止まらずと雖 も、なかんずく有名なるは、その老死 に臨んで子孫
に与えたる遺訓 なり。第百六代正親町 天皇の元亀 二年六月、元就病んで再び起たざる
を知るや、その諸子を枕頭 に集めて、人をして箭 を持ち来らしめ、諸子の数と斉 しき
矢を束 ねて、これを折らんとするも能 わざる状を示し、しかして後、中 より一枝 ずつ
を抽 いて試むるに、随 って折れざるはなし。元就すなわち誡 めて曰く、「汝等 もまた
かくの如きのみ。兄弟 心を一にせば、外敵これを如何 ともすること能 わずと雖 も、も
し各自に異心 を懐 かば、共に亡んで我が家跡 なきに到らん」と。諸子皆唯 々としてこ
れに服す。独 り、三子隆景 口を挟 んで曰く、「兄弟の相争うは欲を逞 うせんとするに
由 る。欲を捨 てて義を取らば、何の争いかこれあらん」と。元就これを聞いて首肯 し、
「美哉言 や、汝等須 らく仲兄 の云うところに遵 うべし」と云って瞑 せり。
元就の遺訓 は、骨肉兄弟 相争うて国を失い家を亡ぼす者多々なりし、足利時代の流
弊 に鑑 みて発したるもの、またもって、元就が足利時代の汚濁 に衣 の裾 をも垂 れざる
新人 なるを知るに足るべし。
しかして、諸子 中の麒麟児 にして小早川 の家を継 ぎたる隆景 の答弁 は、奇警 にして
剴切 なることその用兵 の法 に似たる乃父 の遺訓に対して、旗鼓 相当るの概 あるものに
あらずや。元就稀有 の人傑 をもってして、その生れたる時少しく早く、その起りたる
地少しく僻 なるにより、空 しく十三州の領主として一生を終えたりと雖 も、幸いにこ
の麒麟児 の在 るあり。後年、その兄吉川元春 と共に、元就 の嫡孫輝元 を輔導 して、大
英雄秀吉の前にその家を辱 めず。洒然 たる胸襟 、快く時勢と人物とに推譲して、大乱
削平 の偉業を翼賛 し、もって祀 を後世に伝え得たる。必ずや、乃父在天 の英霊 をして
微笑して首肯 せしむるに価せしならん。
去 るほどに、予の警語史はまさに英雄時代の中心に向って突き入りたり。早雲 、元
就 の外 、戦国時代の群雄 中に.傑出 したる人物として、武田信玄 、上杉謙信 の両雄 を
見出ださざるべからず。しかして、両雄の口を衝 いて発したるものに警語史の材料を
求むとせば、また決してその少きに憂えずと雖 も、小著元 来紙数の余裕 に乏しきをも
って、忍んでこれを看過 しつつ、ただちに、最初の天下人織田信長 を捉 うることに是
認 を乞 わざるを得ざるなり。
信長 の天下を取りたる基本も、また早雲、元就の系統 を追いたる奇丘 ハの成功 に他 な
らずして、もって、彼が新時代の子たる所以 を明 らかにせり。彼は、足利時代の大諸
侯 の一個 なる斯波家 の重臣にして、主家 の腐朽 に乗 じ尾張 を横領 したる、備後守信秀
の子なり。父没 するや、諸兄弟 の国を争う者を亡 ぼして、少年にしてその家を継ぎた
るが、彼の根拠地尾張は、東国 より起って天下を取らんとする者の要路 に当 り、やや
もすれば、その馬蹄 に蹂躙 せらるるの不安あると共に、また、自 ら進んで大業 を成 さ
んとする者のためには、近きに失 せず遠きに過 ぎざるの好位置を占 めつつあるのみな
らず、彼信長 は、大 ならずと雖 も一地方の首長として、最初より天下に為 すあるべき
資料を所有せり。
ここにおいて、正親町 天皇の永禄 三年五月、今川義元 が駿 、遠 、参 、三国を合して、
四万の大丘ハを率いつつ、上洛 して天下の主となるべく、野火 の枯草 を焼き、疾風 の樹
枝 を靡 かすが如き勢いをもって、まずその経路 の第 一関門 たる尾張 の地を突破 せんこ
とを要するや、二十七歳の青年信長 は、これに一擲 して乾坤 を賭 にするの機会を看取 したり。すなわち、敢然 として義元 の
十分 一に足 らざる寡兵 を提 げて起 ち、目 に余 る大軍を抑留 せんことを試む。また何ぞ
はるかた むか 一と かくさく きばつ
元就が晴賢を邀えしと事情を異にせんや。しかして、信長の画策もまた奇抜にしてか
つ凱鵬なりき。まず、黜瀏、編榔、囓麟、鑑祁、その他の識螺鬆ぱ兵を配して、敵を
己 れ自 ら、五月
釣るの餌に供し、敵の丘バカを各所に分ちてその本営を空虚ならしめ、
十九巳夜の雷雨に乗じて、間道よりただちに義元 の本営桶狭間 を襲 い、一挙 にして義
元を馘 りぬ。かくて、この奇兵の大成功は、信長が一生の運命 を定むるに足れるほど、
爾 くはなはだ有力なりしにて、これより後の彼が事業の進展は、順風 に帆 を張 りて穏
るカ し
波を渡るの概あり。
尾張 に併 するに義元 の旧地 をもってしたる彼は、漸次 に前面を経略 して近畿 に及ぼ
し、初め足利義昭 を助けて征夷大将軍 たらしめしと雖 も、これ一時の権宜 に過 ぎずし
て、彼は長く、腐根 に生じたる蕈 の如き末世の足利将軍を戴 く者にあらず。義昭 が身
の程 をも知らずして彼を除 かんことを謀 るや、待ち設 けたる信長の鉄腕 は、時 こそ来
たれと下 って、ただちに、将軍を追うこと、宿無 き犬を追うが如く、己れ自ら皇室を
戴 いて天下を号令 するに至りたり。これ、同じ天皇の天正元 年七月にして、桶狭間 に
義元 を馘 りてより、僅 々十四年の後 に過ぎざるなり。
しかのみならず、信長が真に新時代の新人物たる所以 は、元就 が時代思想を代表し
て皇室を尊奉 せし歴史を継承 しつつ、さらに大いにそれより歩 を進め、皇居を造営し
てその頽廃 の観を改め、皇室の御料地 を献 じ、公卿 の所領 のすでに売却されたるもの
をば、ことごとく価 を償 うて旧主 に返与 し、もって、皇室および宮廷の規模格式 を応
仁 以前の旧状 に復し、時人 をして真に天子の尊 きを知らしめたる上、進んで、伊勢 の
神宮を改築し、同時に、二十年ごとに改築するの旧制 を復興して、再び祖宗 の威霊
昭 々として輝 くを覚えしめたるにあり。しかして彼は、この元就を出でて大いに歩を
進めたる一面に兼ぬるに、さらに、早雲 を出でて大いに歩を進めつつ、人民を愛撫 す
るに意を用いたるの一面をもってせり。
信長の政治は、元就の尊王主義 に加うるに早雲の愛民 ・干義 をもってしたる、尊王愛
民主義 のそれなり。彼が、容易に天下を平定 して、威令 を四方に及 ぼせる、また偶然
ならずと云うを得 べきか。不幸にして、大事 未だまったく成 らざるに、逆臣 の弑 する
ところとなりたりと雖 も、能 く彼の衣鉢 を伝えて、しかも、出藍 の誉 れある秀吉 が.正当に彼の事業を継承 して、さらにこれを拡大 したる
あり。英雄としての信長は、もって瞑 するを得 ざるにあらざるべきなり。これを要す
るに、信長は時代が産出したる覇者的天才 にして、しかも、その天才の度 の高き、ま
ったく時代の諸英雄より一頭地 を抽 きんでたり。
されど、彼は秀吉の如く身を卑賤 より起して、背中に赤切 れを切らすほど世間の風
に揉 み抜 かれたる訓練を有せず。その生れながらにかなりの武将の子たると、少年時
代より蚤 くも士卒 を指揮 して、毫 も、人の下に屈 しつつ一歩ずつ踏 み登 りし苦 き経験
を有せざるとは、彼の天才をしてある度以上の訓練を受くる便宜 を得ざらしめ、何時
までも野性的に、駄 々っ児 的に、一点の不自然を帯 ばる代りには、余りに直情径行
に失 して、紆余曲折 の間に妙味 を醸 し来 るの余地を欠 けるを遺憾 とせざる能わざりし
なり。これ、彼が容易に天下を取りしにかかわらず、容易に天下を取りし所以 の彼の
長所が、同時に容易にその身を亡ぼす所以 の短所となりて、その臣下の小心局促 たる
者に、窮鼠 かえって猫 を噛 むが如き事情において弑 せられたる理由なり。
ここに、信長の面目 の活躍 するを覚 えしむる一警語 あり。彼の人を罵 るや、大声疾
呼 して「大緩山 !」と云う、蓋 しこれ、「遅鈍 の極 なり」と云うの意味にして、彼の如
く、大局 に通じ大勢 に明 らかにして、如何 なる場合にも、直観的直覚的 に問題の神
髄 に徹底 し、その頭脳に動ける閃 きと、その手腕 に発する冴 えとの間に、分秒 の差違
もなくして、神速明快 に事 を断 ずること、ほとんど人間業 にあらざるの観ある、天才
的英雄より見ては、秀吉を除 くの外 、大概 の人間の思慮 および行動 が、生温 く愚図 々 々
として見え、歯痒 くて堪 らぬより、早速癇癪玉 を破裂させて奴鳴 りつけずに已 まれぬ
場合の少なきにあらざるも当然なり。
ある時、敵と対陣すること数日に及 びたる後、信長ほとんど直覚的に、敵の必ず夜
中に退軍すべきを知り、部下の諸将士 に命じて追撃 の準備を為さしむ。その夜信長櫓
上 に在 り、明目 して敵状 を凝視 するに、果 して、夜半 に到りて敵陣に動揺 を生じたり。
信長すなわち令 して曰く、「疾 く進撃せよ」と。しかも、諸将士すでに信長の予言を聞
きしと雖 も、その必ず当 るべきを信ぜざりしにより、ここに到って、急に狼狽 して兵
を進むること能 わざるなり。信長すなわち大 いに罵 って曰く、「咄 、大緩山 !」と。そ
の眉 を昂 げ足を頓 てて励声 する状態、咄 々として眼前に活現 するを覚えずや。あるい
は曰く、「大緩山」は、尾張 の山の名なりと。されど、実際「大緩山」という山の有無
は問うところにあらず。信長が天才的直情径行の気質が、凡々たる多数の者の、徒 に
罫甥欝争と謙ずる状を見て・難の情に堪えざるの余り、口を衡てこの
諍語を発しつつ・しかも・自らその鰍る醴卿を知らざりしものと催すをもって、実際
に当れりと認むべし。
信長より出でてさらに信長より歩 を進 めたる、日本第一の人物にして、英雄時代中
の大英雄たりし、豊臣秀吉 に到りては、その一生の行動 ことごとく奇 にして、その一
生の言語皆警 なりと云うも、決して溢美 にあらざるなり。しかも、英
雄信長と英雄秀吉との警語の唱和 の、歴史に伝わりたるものをもって、二人者の記録
中に出色 のそれとなすことを得 べし。
てんしよう
秀吉が、天正五年十月信長の命を奉じて、山陰山陽に蟠踞せる毛利氏を征討すべく
出発し、同十年六月信長の横死 により、毛利氏と和 を講 じて兵を解きたるは、史上に
けんちよ なか こう な ちゆうかん かえ あ つち
ひとたび還って信長に安土
顕著の事実なるが、半ば功を成したるその中間において、
に諦し・戦争の経過を報告せし攜諱ありしことを、記憶せざるべからざるなり。秀吉
おびただ
はまず、夥しき中国の土産を献じて、安土城中の諸人に舌を捲かしめ、信長が喜びに
禁 えずして、近く進ましめて秀吉の額を撫 で、「山陰山陽平定 の上は、その全部を挙 げ
なんじ
て汝に与えん」と云いしを秀吉は辞して、「君の近臣にして、功あるも未だ賞を得る能
わざる者に分ち与えよ」と乞い、己 れはさらに進んで、九州を掃蕩 せんとするの意 を
述 ぶ。信長これを壮 なりとし、「然 らば汝に与うるに九州をもってせん」と云えば、秀
吉またこれを辞 して、単に九州における一年の収穫を賜 えと乞うに、信長もついに怪
まざるを得ず。すなわち眉 を顰 めて問うて曰く、「汝の欲 するところ果して何ぞや」と。
し ん
ここにおいて、秀吉は電の如き気を面に浮べたり。毅然として謂って曰く、「臣は進
んで朝鮮を征 せんのみ、願 くば、臣 を封 ずるに朝鮮をもってせよ。しかして、臣 はさ
らに君が先鋒 となりて大明 を取らん。天竺 、紅毛 、その他世界に有 りと有 らゆる国々
を攻 め随 えて、君 を世界の主 と為 し奉 る。これ、臣 が畢生 の願いなり」と。信長これ
を聞いて、「秀吉がまた大言 を吐 くことよ!」と云い、呵 々大笑 これを久 しうし、その
如何 にも心地好 げなる有様 、人の未だ見ざるところなりしと。
実に、当時の形勢事情は、徳川氏が鎖国政策のために愚化 したる明治維新 以前の人
臓の状態とは舞て、外国との交通すこぶる盛んに、殲に・我が激驟鬣卿の鷲蠶
謙つながら用うる活動区域も、時代象うて南方に拡張せられ・爨・蕃騫・駕
ナン シヤム さい かく
南、
暹羅等、
皆その勢力範囲となりたる際なりしかば、信長と秀吉との間に此の如き
馨の交換ありしと云うも、また決して署べき事にあらず・秀吉が礎蕎の慕罫衡
語 は、その平生 の抱負 よりして元 より当然の本音 を吹 きたるもの、奇警 なりと評する
さえ蛇足 なるを覚ゆるほどなるが、信長が、「また大言 を吐 くことよ」と云いて呵 々大
笑 したる。嘲 るが如くにして嘲 るにあらず、これ感服 以上の共鳴 を覚えたる声として、
言外の妙意酌 めども尽 きざるものあるなり。
秀吉 は撥乱反正 の英雄として、その一挙一動専 ら天下平定の目的のためにせざるは
なく、戦争の興味に駆 られて損失を顧 みざる如きは、その最も忌 む所、徒 に眼前の毀
誉 に拘泥 して小さき意地を張りつつ、もって大局 の不利を来すを顧 みざるも、見ては
なはだ陋 なりと做 すところなり。これをもって、彼は自己の為 すところを意味して、
「捗 を遣 る」と云い、自己の為 すところに反する者を冷笑して、「捗 を遣 らざる小刀利
きの武道」と呼べり。しかして、この「捗 を遣 る」方針よりして、多く血を流さずし
て敵を屈する手段を取るを、「位詰 め」と称するなり。
第百七代後陽成 天皇の天正十 八年七月六日、秀吉小田原城 を陥 れて北条氏 を亡 ぼ
しし後 、関東および奥羽 を処理すべく宇都宮 に到りたる時、佐野 の城・王の叔父 にて関
東名題 の老武者 なる天徳寺了伯 を召して、その見聞したる、武功談 を為 さしむ。もっ
て、関東の人心を検 せんとするなり。ここにおいて、了伯盛んに信玄 、謙信 二雄 を説
くや、秀吉まず軽 く首肯 いて、しかして大きく頭から浴 せかけて曰く、「左 もあらん、
左 もそうず。左様 に捗 を遣 らざる小刀利 きの武道にては、天下に思い掛 くることは、
なかなか思い寄らざる事たるべきなり。この者なども早く相果 てたれば外聞 をば失い
申さず候 。その故 は、ロハ今 までこれあるにおいては、秀吉が草履取 に使うべきもの
なり」と。
これ、徒 に大言してもって自ら快 なりとなすにあらず、頑擴 なる関東人を威服 する
の必要より、故 らに、関東人が武将の標本として推尊 しつつある二雄 を罵倒 したるも
のに相違無 しと雖 も、這裡 また肯綮 に中 れる意味無 きにあらず。信玄、謙信が、川中
島 に対陣すること数度にして、徒 に、後世 の詩人をして「力争咫尺既双疲 」と歌
わしむるに該当 せる事実ありしに対し、「捗 を遣 らざる小刀利 きの武道」の一評語 は、
これ沈痛 骨に徹するものにあらずや。真実秀吉より見ては、弓矢 の神と称 せらるるこ
の二雄の如きも、単に低級なる戦闘器械に過 ぎざりしなるべし。この語奇警 なるのみ、
肯 えて奇矯 なりと云うべからざるなり。
秀吉が、鎌倉に到りて頼朝 の木像 を撫 せりという逸話 も、また、警語史上看過 する
ことを惜 むべき価値あるものなり。これもまた小田原陥落後 の事実にして、信玄、謙
信を痛罵 せしと同じく、幾分か関東人を威服 するの手段を帯 ばざるにあらざると雖 も、
その云うところはなはだ奇警にして、しかも、秀吉の面目 を極度に発揮したるものな
れば、決して、小説的仮構 に似たりと做 して排斥 すべきにあらず。
伝えて曰く、小田原開城後八日、すなわち七月十四日の事、秀吉朝の涼しさに乗じ
て小田原の陣を発し、鎌倉見物に赴 きしが、まだ日の長き頃にて、路 も左迄 遠からぬ
事なれば、その日の中に見物を了 えて、藤沢 まで引返 し一泊したりと。鎌倉にての物
語少なからぬ中 に、若宮八幡 に立ち寄りたる時、祠官 戸を開きて請 じたれば、秀吉左
の方に頼朝の木像あるを屹 と打ち見て、つかつかと立ち寄り、感じの深き面持 にて、
しばらくは、木像を撫 でさすり居たりしが、ややあって口を開き、「頼朝は天下取りな
れば、秀吉の天下友達 なり。等輩 に取扱 うべきはずなれど、秀吉は関白 にて、貴所 よ
りは位上 にて候間 、あしらいを下 げ申候 。頼朝は天下を取る筋 の人にて候を、清盛白痴 を尽し、伊豆へ流し置き年月立ち候内 、東国 にて親父 義朝の恩情蒙 る侍共 、
昔を思い出で、貴所を取立 て申候 と聞こえ申候。貴所は氏系図 においては多田 の満
仲 の末葉 なり、残る所なき系図なり。秀吉は恥 しくは候 えども、昨今までの草刈 りわ
らべなり。ある時は草履取 りなど仕 り候故 、氏も系図も持ち申さず候えども、秀吉
は心たまらざる目口 かわき故、個様罷成候 。御身
は天下取る筋にて候えば、目口 かわき故とは存 ぜず候。生 れ附果報 ある故なり」と、
生きたる人間に対する如くに申したりとは、すなわちこの一条 の眼目 なるが、曹操 が
青梅酒 を煮 て英雄を論じたる時、劉備 を指 して、「天下 の英雄使君 と操 とのみ」と云い
しと、何ぞそれ意気抱負 の相似 たるや。頼朝が天下を取るべき家筋なりしに対し、己
れ自身が、草刈 り童 の出身にして、草履取 りの賤 しき役を勤めしことあるを自負す。
奇警 の極 にしてまた真実の極にあらずや。「目口 かわき」の俗言 、関白殿下の金箔 を剥
がしたる秀吉の真相を露呈 して、黙笑 して首肯 するを禁ずること能わざらしむ。
さらに、秀吉の大抱負 を表白 して、人をして舌を捲いて驚倒 せしむべき、一大警語
あり。彼、世界を統一するの雄図 を披 かんとして、まず大明 四百余 州を征服すべく、
朝鮮をしてその嚮導 の任 に当 らしめんことを要せり。すなわち、天正十 七年、対島 の
領主宗義智 、その臣柳川調信 、僧玄蘇 等をして、朝鮮王李舩 を説 いて、書信 と方物
を我に致 さしめ、これにたいする返書 において、その企画を朝鮮王に通ずるの手段に
出でたり。文中に曰く、「窃 に予の事跡 を案 ずるに、鄙陋 の小臣なり。然 りと雖 も、予
が託胎 の時に当 り、慈日輪懐中 に入 るを夢 む。相士 曰く、日光の及 ぶ所照臨 せざるは
なし。壮年 にして必ず八表仁風 を開き、四海威名 を蒙 むる者、何 ぞ疑 わんやと」と。
これ、外国に向って敢 えて日輪 の子 なりと吹聴 するものにして、その抱負 の思い切
って絶大なる、ほとんど滑稽 感を起さんとすべく驚歎 に価 するものにあらずや。秀吉
が、正月元日の日の出と共に誕生して、しかも、その母日輪 の懐 に入るを夢みて懐胎
せしものとの伝説も、要するにこれ、大将自身が国威発揚 的高圧手段の大法螺的吹聴
を、根拠 となせるものに相違無 きなり。これ、単純なる秀吉が自家広告 と見るべきに
あらず。実に、日本国および日本民族の代表者たる立場において、国家民族を九鼎大
呂 よりも重 からしむべく、その大抱負大自尊心 を海外に発揮 したるもの
と認 むるを当 れりと做 す。「我は日輪 の子 なり!」「我は日輪 の化身 なり!」と。何ぞ
その語の破天荒 に奇警 なる。
その他、秀吉が一生を通じて、その舌を弾 じ唇 を衝 いて発するところのもの、こと
ごとくこれ警語ならざるにあらずと雖 も、一々これを挙ぐるは不可能事に属 するをも
って、単に以上の極少例 に止 むべきが、秀吉の好敵手 たる家康 に到っては、その性格
および行動、全然秀吉と正反対なるが故 に、予 がいわゆる警語史的眼孔 よりして、彼
の伝記よりあるものを見出だすことは、すこぶる困難を感ずる事業ならざるを得ざる
と共に、はなはだ興味少き労役 たらざる能 わざるなり。むしろ、いわゆる警語的気分
を帯 ばざるところ、すなわち家康 の価値ならずんばあらざるなり。ただ、彼が遺訓 と
称せらるるもの、「人の一生は重 きを負 うて遠きに行くが如し」という、家康の全人格
的頭語 をもって、予がいわゆる警語にあらざる、消極的 警語の代表たらしむるある
のみとすべけんか。
ただし、秀吉死後における家康の勁敵 たる、一代の奇傑石田三成 において
は、彼が一個 の彗星的 人物なるだけそれだけ、またその吐棄 に属せる徹底至極 の警語
を見出だし得ざるにあらざるなり。三成は、失敗の英雄なるをもって、勝利者たる徳
川氏の御用史家 、および、準御用史譚家 の毒筆 に余儀 なくせられ、ほとんど完膚 なき
までの瑕疵 を留 めつつありと雖 も、彼が、江州水口四 万石の小大名たりし時において、
その半 ばなる二万石を割 きつつ、名士島左近 を養いたる、また、同国佐和山 十八万石
の大身 に昇進 して後 も、なお居室 の壁を粗塗 りにし、座上に畳 を用いずして、偏 に、
身を節 し士 を養うに力 めたる、これ等の乏しき例証 によるも、決してその、徳川氏に
誣 いられし如き利巧円滑 の小才子 にあらざるを窺 うに足 るべし。いわんや三成は、傲
慢不遜 という事実を意味する当時の俗語において、「へいかい」と罵 られし事程左様 に
人附 きの好 からぬ すなわち、利巧円滑 ならざりし記録を留むるにおいてをや。三
成は実に徹底せる大野心家なり。しかして彼は、その大野心家に相応せる資格と、こ
れに伴 う修養 とを、十分に具足 しつつありしなり。
最も三成が人物の真価を窺 うべき機会は、その乾坤 一擲 の大賭博 を見事 に失敗して、
空しく身を敵手 に委 ね、面縛 の辱 めを受けたる後 において到来したり。すでに刑 せら
れんとするに臨んで、渇 して白湯 を求めたる囚人の三成は、「白湯 はなけれども、甘干
の柿 ならばあり」と答えられたり。三成頭を掉 って曰く、「否 、甘干 の柿 は腹 に毒なれ
ば……」と。これを聞いて冷笑したる者は、その故朋輩 にして新敵党 たる福島正則 な
り。曰く、「首が胴を離るる間際に、腹を庇 う心ぞ解 し難 けれ」と。この時三成は如何
に応酬 せしか。彼は、その痩 せ衰 えたる双 の肩を傲然 と聳 やかして、正則 のそれに十
倍 する冷笑を唇辺 に浮 べ、「ふふ、天下に志 ある者の胸中は、其方達 に測 り知らるる
ものにあらず」と。さすが横紙破 りの福島太夫も、これには
ギャフンと参 らざるを得 ざりき。「甘干の柿は腹に毒なり!」。これ、徹底せる大野心
家に相応したる徹底せる警語にあらずして何 ぞや。この身首 所を異にするに臨んでの
一警語は、石田三成なる者の人物の光輝 を、千歳 に発揚 すべく、なお余 りあるものに
あらずや。
戦国時代は、日本史中の精華 たる時代なると共に、警語の烹練 においても、また他の時代に卓出 したるそれなる所以 は、すでに説
述 したるところの如し。されば、予は今この一章を終結するに臨んで、無数の好適例
の中 よりその二、三を抜萃 し来 り、読者のために、他の多くのそれ等を見出だすべき
標示 を提供するも、決して無益の業 にあらざるを信ずるなり。
征韓 の役 、加藤清正 孤軍を提 げて深く入り、その絶北 の咸鏡道 に在 り。時に、明 の
援軍 大いに到り、我が軍ことごとく退 く。清正独 り、ますます進んで休 せざるなり。
明将 これを聞いて、弁士馮仲纓 なる者を遣 わし、清正を恫喝 せんことを試む。曰く、
「天兵 四十万、すでに平壌 に迫 り、倭将行長 、一戦を経 ずして逃匿 しぬ。汝速 やかに
退かずんば、斧鉞 たちまちにして一下 して、粉砕遺肇 を留 めざるべし」と。もとより、
清正の胆 落ち気沮 むべきを当 て込 んでの事なり。さて、これに対する清正の答辞 こそ
は、真 に耳の垢 をほじくって聞くに価するものなれ。曰く、「好意多謝 !」と。しかし
て、徐 に曰くと連続す。「咸鏡 の道 、山険 しく、谷窄 し。如何 に法 を講 じ術を究 むる
も、一日に二万人を行進せしめ得 るに過 ぎず。然 らば、日に二万人を殺すとして、明
軍 四十万を鏖殺 しにするには、二十日を要すれば足 れる業 ならずや。重ねて云う、好
意多謝 !」と。馮仲纓先生 、これを聞いて尻尾 を巻いて去る。云うことなかれ、途
方 もなき大言 なりと。
「一日に二万人を殺して、四十万の明軍 を片附 くるは二十日の仕事なり」とは、これ
眼中 に大敵無 き清正の面目を発揮 するに、最も奇警なる言辞 を選択 し得たるもの。こ
の肯綮 に中 り、焦点 を刺 せる警語は、日本男児の真価 を発揮するにおいて、最も有効
なるを知らざるべからずとなす。清正が超凡異常 なる所以 、実にここに在 り。かかる
ずば抜 けたる大言 を吐き、他人にはとうてい企て及 ばざる奇絶妙絶 の言辞を、煙草 の
煙 でも吹き出すように無造作 に出だして、しかも、それに相応する実力を裏附 けたる
ところ、これ清正の清正たる所以 にして、死して神と祀 らるる清正の真価 も、まった
くこれ等の点に窺 わるるを覚ゆるなり。
なお、坪内玄蕃 という戦国時代の一武士に、戦国武士気質 の神髄 を結晶せしめたる、
一大模範的警語 あるを語らしめよ。曰く、「人は皆戦いに臨んで、弓矢八幡 我を守らせ
給えと頼めど、我も頼み敵も頼んでは、相頼 みになりてその甲斐 あるべからず。故に、
我は戦いに出 ずるごとに、弓矢八幡を刺し殺す覚悟 にて参 るなり」と。好 し好し、大
いに好し。この気焔 にてこそ、始 めて万人 に傑出 したる武勲 を立て得べきなれ。また、
有名なる山中鹿之介幸盛 は、人々ことごとく幸運を願う中 に、独 り、「有 らゆる百千の
厄難 を身に下さしめ給え」と、三日月 に祈 ることを習わしとなせし由 なり。これ等は
すべて、日々生死の巷 に出入して、不断 に切迫 せる感念 のみを味 いつつあるより来り
たる、ストイックなる戦国武士気質 の産物と云うべく、その語の奇警 にしてかつ痛切
なる、人の骨髄 に貶 せずんば已 まざるものなり。
徳川の名臣にして鬼作左 と呼ばれたる本多重次 が、コ筆啓上 、火の用心、お仙 泣か
すな、馬肥 やせ」の家信 は、簡 にして要 を得たる点において有名なるものなるが、ま
たこれ、煮詰 めてエッキスと為 したる武士気質の代表語と見做 し得ざるにあらざるべ
し。この作左衛門重次 、太閤 の小田原征伐 に際 して、我が主君家康 が、行軍中 の秀吉
のために、駿府 の城を開いて宿営 に充 てしを、怪 しからぬ事と憤慨 の余 り、城門に秀
吉を迎えたる家康の前に立ちはだかり、一期 の破 れ鐘声 を振 り立 てて、「殿 よく、な
どて他人を我 が城 へ入 れ給 うそ。この不所存 にては、一条北 の方 をも貸 させ給わめ!」
と、傍若無人 に喚 き立てしかば、秀吉の手前、家康も大いに面目を失わんとせしを、
さすがに猿面公 の事とて、「聞こゆる鬼作左 よな。駿府殿 には、好 き家来 を持たれて、
羨 ましう候 ぞ」と、笑顔鮮 かに遣 って退 けしとのこと。これ等は、朴訥 にして不屈 な
る、戦国武士気質 の発揮の、好標本 と目 すべきものなるべし。「城を明 けて貸 すくらい
だから、女房を貸せと云われても、厭 とは断 り切 れないだろう」と、当面 り主君を痛
罵 して、それにて済 みたる戦国時代は面白からずや。
これに似たるは、前に記 せし征韓 の役 にて、清正が蔚山籠城 の砌 り、京城 に集まり
たる日本の諸将が、兵粮不 足のために救援 を難 んじ、評定区 々なる折柄 、末席小大
名 の加藤光泰 、目 に角 立てて進み出で、「兵粮不足に事寄 せて、清正を見殺しにする所
存 であろう。兵粮なくば砂を食 え。砂の食 い方 を知らぬとあらば、この光泰 が教えて
遣 わそう。やい市松 、おのれは誰の御蔭 を蒙 って、左様 に大名顔 を致 すのじゃ。中納
言殿 も、今よりは中納言めと呼び棄 つるぞ!」と暴 れ出 だしたり。市松 とは、福島正
則 の幼名 、中納言 は、総大将 の浮田秀家 なり。この末 席の奇警極まる痛語 によって、
清正救援の議に決したる、これまた戦国時代の面白き所以 にあらずや。これ等とは趣
を異 にすれど、関白秀次 が殺戮 を好むを風刺 する時人 の語に、「殺生関白 」と云うて
「摂政関白」に通 わしめたる、また、戦国時代の京童 の皮肉 さ加減 を窺 うべき一材料
にあらずとせじ。
以上、戦国時代の史乗 および雑纂 においては、むしろ警語史 の材料の多きに苦しま
ざるを得ざるなり。予はただその一斑 を挙 げたるのみ。他 の全豹 に至
っては、諸君各自 の看取 に任 せん。
日本史中の精華たる時代と警語の
闇黒時代的なる特殊の警語-軍賊兵賊と士卒が商法を営む余裕ありし戦争-大欠伸
をもって局を結びたる十一年戦争-京都人は袖口の傷るることを恐れて煮豆を食わず
ー⊥二尺入道と赤入道 群雄割拠時代の門扉を開きたる鍵の響 在天の英霊をして
微笑して首肯せしむ 大緩山とは何処の山の名ぞi看を世界の主と為し奉るは臣が
畢生の願いなりー捗を遣らざる小刀利きの武道-天下の英雄は使君と操とのみー
あえて外国に向って日輪の化身なりと公告す1人の一生は重きを負うて遠きに行くが
如しi首を切らるるに臨んでも腹に毒なる物を食わずー1ー一日に二万人を殺して二十
日に四十万人を片附くる勘定i我は弓矢八幡を刺殺すlI百千の厄難を身に下さしめ
給え1城を貸すと女房を貸すと何れぞ1砂の食い方を教えて遣わそうかi摂政関
白と殺生関白
る、
わんや、闇黒時代にはまた闇黒時代的なる特殊の
てをや。
しかして、その驚くべき
たかうじ りゆうほう ηゆうび か. そうそう えんせいがい け う
利氏の始祖尊氏が、劉邦、劉備に兼ぬるに曹操、袁世凱をもってしたる、日本に稀有
の人物にして、
段に出でたるが故に、すでに最初より
き、彼の事業を助けし部下の士をして、また彼に
余地を存し、
為に天下を闇黒にしたるに起因するを、認めざるべからずと
の第一よりも
を要するなり。
が、
期の北条氏に化しつつ、さらに、平氏だも末期の北条氏だも
たるに在るなり。
しかして、これを
養い、
効果を
う職をもって単に
ところなきなり。
第百代
するに至りたるは、これ
てもあらざるに、
去りて、平氏の
りに
活を
ば、これがために
る
好の機会となして
れ、明に対して
日本国王の
しかのみならず、彼の
なるだけそれだけ、罪悪の分量の多大なるを認めずんばあらざるなり。
義満の
に到るや、
る態度を取りて、またもや足利系特有の
の
をもって、
すでにして、八代の大馬鹿者
る乞食手段に出でしめ、
らに十万貫を
「手が
りし
れて物も云えなくなるなり。
当時将軍も
不足を補うに足らず。
るよりもはなはだしきものあり。
ここにおいて、大馬鹿者
政令を発布したり。これ、
然
一切の
ず、貸したる者は請求することを得ざるなり。されば、
ず。
に対しては、これ実に
られし
や。「
るものにあらずや。
しかして、この政令を可能ならしむべく、もしこれを
たちまち所を
盗賊を行う者に、盗賊をもって
して、なお天下に
や、義政の在職二十九年間に、
をや。天下いずれの国いずれの世に、
れ
同
の足利時代的
乞う。当時の一
の鳴るを聞くや、
知り、皆
曰く、「法に
せる
つ、しかも、
十一年間に
るものなりしなり。
足利氏の支配を受くる武人中の二大頭なる、山名氏、細川氏を両軍の首脳と
京都を東西より
西軍は二十五州十一万六千人と
は
く、しかのみならず、これを横より
ものに
故に、日本史中の
に
戦争としては、
へだ あいつ ゆ かか よしゆう
宗全の二人者が、ついに一ヵ月を隔てて、相踵いで逝きしにも拘わらず、余衆なお対
陣して四年の久しきに到りつつ、その間に一の
驚かしたるなく、
の
と、却ってこれ
た
えて、
当時の
したる、
れば
しかして、大都を戦場と
と乞食とを行わしむるに
の内職に熱心を傾け、戦争を少しく行いて内職を多く行い、戦争の時間を短くして内
職の時間を長くし、戦争には十
いしなり。加うるに、市街戦は
その種別の
なせば、
ことはなはだ
彼等は、戦争を
りのろり
年も一年もその
はなはだしきは、戦争の中休みに故郷へ帰省して、父母妻子の顔を見てより、故郷の
酒を飲み、女に
にて、必要および
の戦いなどとは
また
る
あるいは却って、軍陣生活のなお長からんことを
し。これ決して
当時、京都を中心と
だ
むに足らざれども、「
故に、奇異ならざるを得ざるなり。しかして、その何を意味するかと問えば、東西両
軍をおしなべたる
かかる奇警なる
盗賊がはなはだしかりしとは、実に
らかに、一通りや二通りの驚倒にては、なお
数百が、三
三条内大臣
他
び
を
るなるべしと
都にて盗賊を行いたる
ずる態度の
結んで強盗に出ずる自由を認められ、かつ、勝手に奈良や
ありしとは、その
るなり。いわんや、歴史に留められたるこの
が
年の長きに連なりたる時日の間には、この種の
るべきを、
のなき
以来七年の
と五
に春の色を
うる
かくて、東西両軍共に
治まるべく思われしに、
して百年も対抗するが如く見ゆる態度を守りつつあるなり。ここにおいて、この争乱
が単に勝元と宗全とのみの
しくは
たるものなること、ますます明らかなり。両頭共に亡びても、兵結んで
は、なお両立すべからざる
働くことに味を占め、
これ等の興味と手を
戦争を継続せしめたる理由の、一
故に、勝元の
も義政の弟
両将没後さらに四年の長きに連りて、この状態を持続したるが
り上
いよいよ
より逃亡せしを
如くに解体し、各自その陣営に放火して、もって
帰りぬ。
古今世界、我が
争あらんや。日本人を
の過ぎたる如き京の町に、
に
終局の
るなり。
かれ。「京の着倒れ、江戸の食倒れ」とは、江戸っ子すなわち旧時代の東京人の云うと
ころなるが、大阪にもまたこれと意味を
大阪の食倒れ」というなり。
るものに他ならず、しかもこの語が、大阪という
は、云うまでもなきところなるが、いわゆる「京の着倒れ」の語に適当する事実の濫
の材料を見出だしたる後、特にこの
事実においては、京都人必ずしも食物を軽んじて衣服を重んずるにあらずと
この語の本来の意義たる、京都人が眼前に消費せらるる物に
保存に
るべくこれを保存することに意を用うるは、京都人一般の風習なりと云うに帰するの
み。京都人は
対する批評に
し厚く積んで、基礎を固くし、万一の場合に応ずるの準備を
京その他一般の気質と
てこの一区画のみ色彩を
事実ならざるにあらざるなり。
しかもこれ、決して桓武
元来
の
ること実に二十九年間十三度に
ずして、
係を絶ち、消極的に
都風の、
起り、彼等をして
いよ
彼等が、特に常時においても非常の用意を
変質と可能性とに富みて、一
き、貧しきを示して富を作るに
これより
しかして、戦国時代に
と共に、ひとたび京都を去りたる政権の
代に
も食わぬ態度をもって
に耐うるものを
「京都人は袖口の
衣服の保存のために苦心を払うに到りたり。「京の着倒れ」の正当の意義、それ
くならざるべからずして、元来決して、衣服に
なお一回、闇黒時代より見出だされたる警語史の材料のある
人に
なからず。
別するに苦しむもの多く、むしろ、綽号と実名との区分なかりしにあらずやと想像し
得べきが、なかんずく、国史における
において見出ださるるこそ
代の
人に綽号を附けたる報酬に
当時
においても
に、
して長刀を
ばざるなり。また
を
これ、
てしばらく
満祐の忍耐に乗じてますます
て、その一族
尺入道もついにその
第百二代
催してこれを
くして将軍は、
首を
されど、話はこれにて
なるに着眼することを要するなり。
の大兵三十余万を受けて、久しきを保つこと
自殺したるは、まず順当の
・後
れば、たちまち免されて
千余人を得、同じ天皇の
くの
これに
されど、話はまだまだこれにて
るところに、足利時代の
の前十三年に当り、山名、細川が
かも、
んとするを見るや、宗全
たる如き
般に通ずる
赤松兄弟を
されど
となれば、宗全はこの
に、将軍は却って
名氏の
道」を滅ぼすに功ありたる者は「赤入道」にして、「三尺入道」が滅亡したる
入道」の
早雲に継いで起りたる
点においてのみは、
とす。早雲は実に英雄なり、実に偉人なり。しかして
らしき、真に偉人らー-)き、長く
早雲かつて人をして
篇の精神を得たり、
らざる
語の
響きなり。しかして、戦国時代を
早雲に
に早雲においてその例を示されし如く、この時代の英雄は、皆、
しみ、
牲に
なれば、すべて、組織的事業を
しなり。なかんずく、最も共通なる要点は、英雄
ったく
もって、小をもって大を
両者に対する
時代と、
実との関係、また
かくて、
べからず。単調また単調、単調の
また日々にして、人をしてほとんど
を叫ばしむるものは、早雲の出現なり。
早雲は元来
乱ひとたび起るや、
者と結び、六士と共に
たまたま義忠の病死するに
同国
これ、早雲が事業の第一着歩にして、彼は、これより伊豆を取り、
が、彼が
時間を短く度数を少なくして、人命を損じ財貨を費やすこと多からざるよう、一
公平にする着実なる
の
この二必ず
たる
み。しかも、
元就の
数代の祖
力の間に
あらずして、境遇を支配する非凡人なり。第百五代
山陰山陽の半部と九州の一角とを
二位の高位と足利将軍を小なりとする財富とに誇りつつありし
うて、新たに
に過ぎざる
山陰山陽の主人として、
東西好一対の事業を
る結果に過ぎざるなり。
かくて、
る一事なるが、
下に
して、天呈はただ
きに
ここに祖先以来の民族的精神を
皇室中心の思想を湧かし来りたるを、時代の子たる
て天下を取りたる者は、
これに
に一致したるが故の成功なるのみ。元就の人物の非凡なるすでに
されば、その七十五年の一生において、名言の伝うべきものを出だしたること、決
して、一、二にして止まらずと
に与えたる
を知るや、その諸子を
矢を
を
かくの如きのみ。
し各自に
れに服す。
「
元就の
しかして、
あらずや。元就
地少しく
の
英雄秀吉の前にその家を
微笑して
見出ださざるべからず。しかして、両雄の口を
求むとせば、また決してその少きに憂えずと
って、忍んでこれを
らずして、もって、彼が新時代の子たる
の子なり。父
るが、彼の根拠地尾張は、
もすれば、その
んとする者のためには、近きに
らず、彼
資料を所有せり。
ここにおいて、
四万の大丘ハを率いつつ、
とを要するや、二十七歳の青年
十
はるかた むか 一と かくさく きばつ
元就が晴賢を邀えしと事情を異にせんや。しかして、信長の画策もまた奇抜にしてか
つ凱鵬なりき。まず、黜瀏、編榔、囓麟、鑑祁、その他の識螺鬆ぱ兵を配して、敵を
釣るの餌に供し、敵の丘バカを各所に分ちてその本営を空虚ならしめ、
十九巳夜の雷雨に乗じて、間道よりただちに
元を
る
波を渡るの概あり。
し、初め
て、彼は長く、
の
たれと
しかのみならず、信長が真に新時代の新人物たる
て皇室を
てその
をば、ことごとく
神宮を改築し、同時に、二十年ごとに改築するの
進めたる一面に兼ぬるに、さらに、
るに意を用いたるの一面をもってせり。
信長の政治は、元就の
ならずと云うを
ところとなりたりと
あり。英雄としての信長は、もって
るに、信長は時代が産出したる
ったく時代の諸英雄より一
されど、彼は秀吉の如く身を
に
代より
を有せざるとは、彼の天才をしてある度以上の訓練を受くる
までも野性的に、
に
なり。これ、彼が容易に天下を取りしにかかわらず、容易に天下を取りし
長所が、同時に容易にその身を亡ぼす
者に、
ここに、信長の
く、
もなくして、
的英雄より見ては、秀吉を
として見え、
場合の少なきにあらざるも当然なり。
ある時、敵と対陣すること数日に
中に退軍すべきを知り、部下の
信長すなわち
きしと
を進むること
の
は曰く、「大緩山」は、
は問うところにあらず。信長が天才的直情径行の気質が、凡々たる多数の者の、
罫甥欝争と謙ずる状を見て・難の情に堪えざるの余り、口を衡てこの
諍語を発しつつ・しかも・自らその鰍る醴卿を知らざりしものと催すをもって、実際
に当れりと認むべし。
信長より出でてさらに信長より
の大英雄たりし、
生の言語皆
雄信長と英雄秀吉との警語の
中に
秀吉が、天正五年十月信長の命を奉じて、山陰山陽に蟠踞せる毛利氏を征討すべく
出発し、同十年六月信長の
けんちよ なか こう な ちゆうかん かえ あ つち
ひとたび還って信長に安土
顕著の事実なるが、半ば功を成したるその中間において、
に諦し・戦争の経過を報告せし攜諱ありしことを、記憶せざるべからざるなり。秀吉
はまず、夥しき中国の土産を献じて、安土城中の諸人に舌を捲かしめ、信長が喜びに
て汝に与えん」と云いしを秀吉は辞して、「君の近臣にして、功あるも未だ賞を得る能
わざる者に分ち与えよ」と乞い、
吉またこれを
まざるを得ず。すなわち
ここにおいて、秀吉は電の如き気を面に浮べたり。毅然として謂って曰く、「臣は進
んで朝鮮を
らに君が
を
を聞いて、「秀吉がまた
実に、当時の形勢事情は、徳川氏が鎖国政策のために
臓の状態とは舞て、外国との交通すこぶる盛んに、殲に・我が激驟鬣卿の鷲蠶
謙つながら用うる活動区域も、時代象うて南方に拡張せられ・爨・蕃騫・駕
ナン シヤム さい かく
南、
暹羅等、
皆その勢力範囲となりたる際なりしかば、信長と秀吉との間に此の如き
馨の交換ありしと云うも、また決して署べき事にあらず・秀吉が礎蕎の慕罫衡
さえ
言外の妙意
なく、戦争の興味に
なはだ
「
きの武道」と呼べり。しかして、この「
て敵を屈する手段を取るを、「
第百七代
しし
東
て、関東の人心を
くや、秀吉まず
なかなか思い寄らざる事たるべきなり。この者なども早く
申さず
なり」と。
これ、
の必要より、
のに
わしむるに
これ
の二雄の如きも、単に低級なる戦闘器械に
秀吉が、鎌倉に到りて
ことを
信を
その云うところはなはだ奇警にして、しかも、秀吉の
れば、決して、小説的
伝えて曰く、小田原開城後八日、すなわち七月十四日の事、秀吉朝の涼しさに乗じ
て小田原の陣を発し、鎌倉見物に
事なれば、その日の中に見物を
語少なからぬ
の方に頼朝の木像あるを
しばらくは、木像を
れば、秀吉の
りは
昔を思い出で、貴所を
らべなり。ある時は
は心たまらざる
は天下取る筋にて候えば、
生きたる人間に対する如くに申したりとは、すなわちこの一
しと、何ぞそれ
れ自身が、
がしたる秀吉の真相を
さらに、秀吉の
あり。彼、世界を統一するの
朝鮮をしてその
を我に
出でたり。文中に曰く、「
が
なし。
これ、外国に向って
って絶大なる、ほとんど
が、正月元日の日の出と共に誕生して、しかも、その母
せしものとの伝説も、要するにこれ、大将自身が
を、
あらず。実に、日本国および日本民族の代表者たる立場において、国家民族を九鼎大
と
その語の
その他、秀吉が一生を通じて、その舌を
ごとくこれ警語ならざるにあらずと
って、単に以上の
および行動、全然秀吉と正反対なるが
の伝記よりあるものを見出だすことは、すこぶる困難を感ずる事業ならざるを得ざる
と共に、はなはだ興味少き
を
称せらるるもの、「人の一生は
のみとすべけんか。
ただし、秀吉死後における家康の
は、彼が一
を見出だし得ざるにあらざるなり。三成は、失敗の英雄なるをもって、勝利者たる徳
川氏の
までの
その
の
身を
成は実に徹底せる大野心家なり。しかして彼は、その大野心家に相応せる資格と、こ
れに
最も三成が人物の真価を
空しく身を
れんとするに臨んで、
の
ば……」と。これを聞いて冷笑したる者は、その
り。曰く、「首が胴を離るる間際に、腹を
に
ものにあらず」と。さすが
ギャフンと
家に相応したる徹底せる警語にあらずして
一警語は、石田三成なる者の人物の
あらずや。
戦国時代は、日本史中の
の
「
退かずんば、
清正の
は、
て、
も、一日に二万人を行進せしめ
「一日に二万人を殺して、四十万の
の
なるを知らざるべからずとなす。清正が
ずば
ところ、これ清正の清正たる
くこれ等の点に
なお、
一大
給えと頼めど、我も頼み敵も頼んでは、
我は戦いに
いに好し。この
有名なる
すべて、日々生死の
たる、ストイックなる戦国武士
なる、人の
徳川の名臣にして
すな、
たこれ、
し。この
のために、
吉を迎えたる家康の前に立ちはだかり、一
どて他人を
と、
さすがに
る、
だから、女房を貸せと云われても、
これに似たるは、前に
たる日本の諸将が、
清正救援の議に決したる、これまた戦国時代の面白き
を
「摂政関白」に
にあらずとせじ。
以上、戦国時代の
ざるを得ざるなり。予はただその
っては、諸君