伊藤銀月「日本警語史」4
その三 血に塗れたる武人の鉄腕によって料理せらるる日本史
鴨川の水、双六の采、山法師1-ー武士道の経典における最上無二の鉄律たる警語-叔
父児ー代表的武人の純真なる面目を発揮する警語ー平氏にあらざる者は人にあらず
li水禽の羽音に驚く平氏i驕る平家は久しからずー1二十矢を放って二十人を倒す
者にあらざれば儀衛の任に適せずー天子御謀叛-今日なお悪童を慴伏せしむる権威
を留むる警語-美女の裸体を薄羅に包みたる無礼講ー1-舞動すれば上下四旁ことごと
く白うしてその人を見ず
いよいよ、生白 く肉軟 かなる文人 の手に弄 ばれたる我 が国史 は、後 三条天 皇の一
喝 藤原氏を気死 せしめ給いしと共に巻を閉じられて、血に塗 れたる武人 の鉄腕 によっ
て料理せらるる日本史の頁 は始まれり。かくて、予 の警語史 もまた旧 き一段を終結し
て新 たなる一段を開始せざるべからざるなり。
桓武 天皇時代において、すでに、「額 に立 つ矢 はありとも、背 に立 つ矢 は無 し」の警
語の表現せる如く、特殊 の発達を認められし坂東武人 はその後将門 の乱 を経 、忠常の
変を経 、前 九年、後 三年の役 を経 、満仲 、頼信 、頼義 、義家 等の名将の気呵 を受け、
訓練に訓練を重ねられて、その発達の勢いの盛んなるこど、優 に国家の一大勢力とな
りたるが、藤原氏失権 して、宮室 時代の絵巻物 過去に捲 き去らるるや、ついに、その
実力 をもって天下を支配するに到らんとせり。しかのみならず、盗賊 の猩獗 、僧侶 の
横暴 は、時 を追い代 を逐 うていよいよはなはだしく、しかして、これを抑 うべくただ
武人 の力に依頼するのみなるをもって、力 これ権 なるの事実ますます顕著 となり、何
時 しか、牢乎 として抜くべからざるの根柢 を築き成 すに及 びたり。盗賊 問題は必ずし
も云わず、当時、僧侶の横暴の如何 にはなはだしくして、かつ、如何 に実力のこれに
伴うものありしかは、第七十二代白河 天皇が、天下に意の如くならざるものの三を挙
げたる語 によりて窺 い得 べしと做 す。
自河は後三条天皇の皇太子にして、父皇 に位を譲られて立ち給えるもの、父皇が身
をもって天下を率い給いし克己心 を欠如 して、ただその物に屈 せずして所思 を断行す
るの気力を伝承 し給い、藤原氏のすでに衰頽 して為 す無 きに乗 じ、久しく藤原氏に抑
圧 せられし皇室の鬱屈 を代表して、藤原氏の足跡 を躡 みつつ、さらにほとんど藤原氏
の到 らざるところに進み、あたかも、道長 が、
この世 をば我 が世 とそ思ふ望月 の欠 けたることもなしと思 へば
を歌いしが如く、浮誇豪奢 二世を空 しうして、天下意 の如くならざるものなきを自認
し給うに及 びたりと雖 も、しかもなお、自 ら逞 しうすることに能 わざるの歎声 を発し
給わざるを得 ず。「天下朕 の意 の如くならざるものただ三あり。鴨川 の水、双六 の采 、
および山法師 !」の一警語 すなわちこれなり。
南流 する鴨川の水を倒 まに北流 せしむること能 わざるは、言 を俟 たざるところにし
て、その大雨 ごとに氾濫 するに臨 み、急に水量を減 ぜしむるも、また人力 の能 くする
ところにあらず。さらに双六 の采 をして、あるいは一を出 だし、あるいは六を出 だす
こと人意 の如くならしむるも、全然 不可能の事に属せり。されば元来意 の如くならざ
る性質の物を挙 ぐること一にして止 まらざるも、未 だもって奇 とするに足 らずして、
しかも、これ等を挙 げたること敢 てこの語 の主眼 にあらず。
ただ第三の山法師 ーiすなわち比叡山延暦寺 の僧侶を挙 げて、これ等の根本的 に意
の如くならざる物と同一視し、重くその権能 を認 むるに到り、始めてこの語 の大 いに
振 えるを見るなり。僧侶の跋扈 は元来聖武 の玄肪 に始まりて称徳 の道鏡 に成 れるもの、
ただし、俗界の趨勢 が、最初文権 を握 れる宮室的貴族 の有せし勢力をば、漸次 に武権
を擁 せる地方的貴族 の手に移したると儔 しく、最初君側 に在 りて恩寵 を荷 える僧侶の
特有なりし専姿横暴 の態が、何時 しか転じて、地方山野の間に団結して兵刃 を蓄えた
るそれ等のものとなりたるなり。
しかして、何故 に僧侶が多数集 まりて兵刃を蓄うるに至りたるかと云うに、盗賊 横
行の極 、これを討 ずるに軍隊 を用いざるべからざる事 ほど、爾 くその数の多くその勢
いの大なるを致 せるをもって、比較的富有 にして防禦力 を欠 ける山中野外の寺院の如
き、匪徒 の争うて着目するところとならざるを得ずして、ために、頻 りにその酷烈 な
る劫掠 を蒙 りたる末 は、彼等もまた、自衛上己 むを得 ずして、相応の口実の下 に兵刃
を蓄え武力を養うことを敢 てし、豪猾不逞 の徒の僧侶化したる者、すなわち世俗に云
うところの狼 に法衣 を着せたる者を集めて、盗賊 の憂 いに備うるに至りたるが、すで
にして、元来防禦 の目的より起されたる消極的軍備も、その蓄積せられ訓練せられて、
防禦にあまりあること十二分なるに及 ぶや、ほとんど軍備そのものの特質なるが如く、
自 ら発して他に加えずんば己 むこと能 わず。
ここにおいて、南都 の興福寺 、江州 の園城寺 (三井寺 )、比叡山 の延暦寺 等、寺院の
巨大にして武力に富めるものは、朝命 を軽 んずること芥 の如くして、好んで他と兵刃
眼中また皇
を交え、なかんずく延暦寺最も優勢にして、全然一強独立国の観を為し、
室あるなく・霧の支配をも受けずして・独り意の璽所を.掛,ずんとす。翳無
躍・命,む少しく意に満たざるあれば・ただちに墅の柑興を捌ぎ丗だして、認を横
行し、鸞剛に乱入するを懺びず。ついには、淨謝にして豪放なる白河天皇を
して、なおその手剛さ恐ろしさ身に浸みて、根本的に意の如くならざる性質の物と山
譯とを里視せざる鯲わざらしめ、すなわち、轍鵬の水、藻煮の彩山法師」とい
う、是非 もなき警語 の拈出 せらるるを見るに至りたり。
かかる山法師の恐怖より天皇を保護し奉 る者、ただ武人 あるのみにして、永保 元年
兵を率い
その弟義綱をして、
十月、天皇石清水に行幸し給うや、源義家、および、
て叢を驀せしめ・もって山法師の襲撃に備えたるを、豊なる事実と漸し、その他
この類の例が多き、挙げて数うべからざるなり。外敵を征する事の外 、蝦夷 を服 する
事の鵬、瓣都を討ずる事の螺、盗驟を諞ずる事の姆、これ等の堀朔以上、最も多く武
人をして、勢力を得 せしむるの動機 を作りたるは僧侶 の横暴にして、なかんずく、山
法師が切実に皇室の信頼を武人を与うるの媒介 を為 したるものと云うことを得 べし。
武人と皇室との緊密 なる接近、これやがて政権を武門 に帰せしむる機運の進展を意味
するものならずんばあらざるなり。
此 の如くして、武人 の実力は着 々訓練せられ、一種の武人的趣味 はますます発達
し、文人 および時代の風習 と異 なれる武人気質 なるもの、いよいよその特色を発揮し
て、軍人として世界に特殊なる長所を有せる日本民族は、ようやくその要素を中 に蓄
え来 れるが、白河天皇、位を皇太子善仁親王 (第七十三代堀河 天皇)に譲って、退隠
し給い、しかも院中に天皇の実権を保留して、さらに在位中に過ぎたる濫政 を行い給
うや、かつては、源頼義父子 を悩 ますこと九年に及 びし東北武頑 の徒 は、再 び、こ
の威無 く信無 く道無 く法無 きの時代を好期 と為 して頭 を抬 げ、ために武人の訓練をし
てさらに一段ならしむべき、多くの機会を作りたり。
今その次第 を記 さんに、前 九年の役 、頼義父子を援 けて功ありしをもって、鎮守府
将軍に任ぜられたる清原武則 は、すでに死し、義家 代ってその任に当るべく奥州 に下
りたるに、たまたま、武則 の子武貞 が二子なる、貞衡 、家衡 相争い、武貞 の弟武衡 が、
灘に党して灘を扉むるあり・藁は藻と親戚なるをもって、すなわちこれを撚
け・堀鵬天皇の蹴浴四年より七年に灘びて、燐鞣三年に嵐なり、ついに、武衡および
家衡を出羽仙北郡金沢 の棚 に亡 ぼせり。これを後 三年の役 と云う。
この役 、義家が麾下 の士 に、平景政 なる者あり、鎌倉権五郎 と称す。敵士鳥海 な
る者にその眼を射られしも、毫も屈せず、箭を折って挺身鳥海を殺し、
帰って陣に入り、兜を脱いで仰臥す。三浦為次なる者、彼が為に箭抜かんとし、鏃深
く刃 りて力を要するをもって、足をもってその面 に加う。景政怒 って為次 を斬 らんと
す。曰く、「戦って死するは武士の本望 なり。生きて人に面 を踏まるるこそ恥辱 なれ!」
と・灘すなわち驚いて謝し・摂.ピく響いて攣抜けば、眼球鑽ど共に出でぬ。景
政時 に齢 わずか十六、その雄烈 実に人の胆 を寒うするに足 れり。
後世 武士道の経典 における最上無
宜なり、この死生を一貫せる至剛至硬の警語は、
二の鉄律 となり、権五郎景政 は、これがために神に祀 られて千歳 に廟食 するに到 れる
ことや。当時、武人が相砥礪 してその理想とする所に近
つかんとするの状 、もって想 うべく、武人気質 の発達、もって見るべしと做 す。
かくて、武人の発達すでにある度を超えて、その色彩著 しく鮮明なるを致すや、桓
武 大皇より出 でし平氏 と、清和 天皇より出 でし源氏 との二大別の、顕然 として混同 す
ること能 わざる系統 を作れるを見るなり。しかも、これより後 源氏の統一に到るまで
の間に拈出 せらるる警語 の多くは むしろそのほとんど全部は、源平 二氏の衝突 よ
り発 する火花 の如き性質のものなれば、まずここに源平二氏の由来 の大要 を記 し来 ら
んに、平氏は、将門 亡び貞盛 起りて、同族間 の消長 を閲 して以来、貞盛 の子維衡 、そ
の子正度 、正度 の子正衡 に到 るまでは、未だ大 いに顕 われざりしが、正衡 の子正盛 が、
鎮西 に雄視 して眼中 朝廷なかりし源義親 (義家 の子)を、鳥羽 天皇の嘉承 二年十二
月に討滅 せしより、平氏始 めて頭 を抬 げ、正盛 の子忠盛 が白河法皇に寵遇 せらるるに
到りて、平氏の基礎 ようやく成 りぬ。
しかして、正盛、忠盛の平氏は、伊賀 、伊勢 の間に住みて、皇室の手足 たりしかば、
その境遇と居 る所の地の位置とは、自然に彼等を支配して宮室的気風 の感化 を受けざ
るを得 ざらしめ、その采邑 もまた、播磨 、淡路 、因播 、備前 、安芸 等、近畿
および西南 の温暖なる地に布 かれ、中央部との交通の利便 に富めるをもって、彼等は
何時 しか坂東 に拠 りて帝位を窺 いし将門 が粗擴 の態 を留めざるに到り、武頑 に配する
に貴族的都雅 の風 をもってして、武人中 やや藤原氏に近き者たるその一派の特色を作
り成 したるが、これに反して、源氏は飽 までも純然 たる武頑種族 の面目 を保持しつつ、
「額 に立 つ矢 はありとも、背 に立 つ矢 はあらず」という気風の東国 に基礎を築き来りし
をもって、皇室より分派せし時代は、平氏に比して数世 の後 なりと雖 も、蚤 くもその
血と共にその気 を変じて、全然粗擴 なる者となり了 れり。
すでにして義家 の子義親対馬守 となり、肥前 の土豪高木文貞 と婚 を通 じたるにより
て、源氏 の勢力はまた九州にも扶殖 せられ、東隅西端相応 じて、ますます京畿柔媚 の
俗 に遠ざかりたるが、義親対馬 の掌大天地 に跼蹐 するを屑 しとせずして、擅 ままに鎮西 を経略 するに及 び、朝廷その罪を責め、勅使
を下 してこれを召すや、義親 勅使を殺して憚 らざるの横暴を敢 てしたるも、ついに兵
を発して捉 えられ、隠岐 に流 さるるに到りたり。されど、暴勇野猪 の如き義親 は、た
ちまち隠岐を脱して出雲 に入り、目代 を殺し、官物 を奪いて、勢いはなはだ猖獗 なり
しかば、平正盛 勅を奉じてこれを討滅 し、ために、平氏独り盛んにして、源氏再 び
振 うこと能 わざらんとするの観ありしを、義親 の子為義 、第七十四代鳥羽 天皇の天仁
二年、白河法皇の院宣 を奉じて、その叔父義綱 の叛 せるを討ち、これを佐渡 に流して
より、たちまち朝廷に擢用 せられて、正盛 と肩を駢 ぶるに至り、もって源平 二氏が相
対 して相譲 らざるの勢いを成 すと共に、また長く忘 るべからざる怨恨 のその間 に横 た
ー
わるありて、互いに反目 し排擠 するの素地 を造 りたり。
ここにおいて、半 ば時代化せる武人と、全然 時代の風 に染 まざる武人とが、時勢 の
ために導かれて相接触 したるを見る。形勢何 ぞ不穏 ならざるを得 んや。しかのみなら
ず、為義 の八男為朝 が、驍勇絶倫 の資 をもって九州に下り、祖父義親 に十倍せる勢威
を揮 って功略を縦 ままにするあり。後 招かれて京師 に還りたりと雖 も、源氏の勢力は
確 に筑紫 の土壌 に浸潤 して、後年 平氏を両端 より圧搾 するに到る準備は、すでにこの
時に成 りぬ。鳥羽 天皇の時、しばしば制符 を下 して、諸国の武人の源平二氏に属する
事を禁じたるもの、もって二氏が互いにその派 を大にせんとする暗中 の競争のはなは
だしかりしを見るべしと做 す。かかる形勢に加えて、さらに、二氏の衝突 を激成 すべ
き動機が、宮室の間に醸 し来 られたるを窺 うは、また警語 の歴史が発展するの順序を
見るにおいての重要事ならざるべからず。
鳥羽 天皇の元永 元年、天皇十六歳にして、大納言藤原公実 の女璋子 を納 れて中宮
と為 し給う。しかも、璋子は天皇の祖父白河法皇がその妙齢 の頃より狎 れ給いし愛人
にして、中宮となるの後 も、天皇の年少なるを侮 りて、なおその乱倫 を改めざれば、
天皇これを含 み給いて、同二年璋子顕仁親王 を生むも、これを皇子 と認め給わず、祖
父 の子なるをもって、却って己 れの叔父 なりとし、すなわち、「叔父児 」と綽号 してこ
れを嘲 り給えり。惨酷無比 なる禍乱 の機 は、実 に、この「叔父児 」なる冷絶痛絶 の一
警語 によりて曝露 せられし事実の中 に胚胎 しつつあるなり。
顕仁 親王立ちて第七十五代崇徳 天皇となり給うや、白河 法皇を本院 と号し、鳥羽 上
皇を新院 と称して、政令 三途 に出 で、その弊 ほとんど言語に絶 せり。すでにして、法
皇が近代の天皇に稀有 なる七十七の高齢 をもって崩 じ給うに到り、上皇まったく院中
の政 を専 にし給い、しかも、かの叔父児 一条の悪感 によりて、その皇子たる天皇と
相反目 し給う。果然 、禍乱 の機 はようやく熟 し来 れり。鳥羽 は白河 の放縦 を襲うて、
その気力を欠 き給い、奢侈淫蕩 、宮室を妓閣 にし、侍臣侍女 を幇間娼婦 と為 さざれば
歇 まず。 平忠盛 を従 えて、寵姫 を祗園祠畔 に訪い給いし事実は、長く後世 の話柄 と
なり、藤原氏さえ敢 てせざりし、堂 々たる鬚眉男児 が公然面 に粉黛 を粧 うの風 も、こ
の時代より起れり。鉄漿黒 々と薄化粧 の平家の公達 が、一 の谷 、壇 の浦 に悲惨なる末
路 を示すに及 びたるも、またこの風 に化 せられし結果のみ。
鳥羽 の女御 に得子 あり。中納言藤原長実 の女 にして、美福門院 と号 せらるる者すな
わちこれなるが、崇徳 の保延 五年五月、得子体仁親王 を生む。すなわち天皇の異母弟
にして、実に禍乱 の卵たらざれば已 まざるものなり。されば、これより後 の事は知る
べきのみ。体仁 三歳にして、鳥羽 法皇、強いて天皇に迫 ってこれに譲 らしむ。かくて、
体仁 立ちて、第七十六代近衛 天皇となり給いたりと雖 も、年少わずかに十七歳にして
崩 じ、しかも儲弐 なきをもって崇徳 上皇窃 に喜びを作 して思い給わ
く、もし己 れをして重祚 せしむるにあらずんば、
必ず己 れの子重仁 を立てんと、中外 また望みを重仁 親王に属する者多し。然 れども、
崇徳 を廃 しし謀主美福門院 はなお存 せり。彼女は、その愛子 の早世 を悲しむことはな
はだしきと共に、これ必ず崇徳 の呪咀 に出でたるものなるべしとなせり。
すなわちますます崇徳 を排斥 して、崇徳の同母弟雅仁 親王を立つ。第七十七代後白
河 天皇これなり。しかも、法皇と美福門院とは、同年ただちに天皇の御子守仁 親王を
立てて皇太子と為 し、極力崇徳 の系統 を拒 むの意を示して、噴火 の気すでに地皮 に及
び、人をして足蹠 の熱 きを感ぜしむるに至りたるが、同年十月二日鳥羽法皇崩 じ給い
て、勃発 の機 まったく熟せり。崇徳 上皇その報を聞きて宮に到り給えば、美福門院 、
右衛門権介藤原惟方 に旨 を伝え、法皇の遺詔 と称して、拒 んで入れしめず。ここに
おいて、上皇の積憤はついに破裂せざる能わず、左大臣藤原頼長を延いて謀主と為し、
兵を白河殿 に集む。これ、法皇崩 じて後 わずかに七日にして、実力 すでに充 ちつつ、
変 に乗 じて志 を伸 べんとするの武門武人 は、これを聞いて皆手を拍 って喜べり。歴
史はまさに斬新 なる警語 の作用すべきある焦点 を作らんとして、箭 を射 る如くに進展
しつつあるなり。
次には当然に、上皇と天皇とが、武人を招引 する競争となり、互いに極力 運動し
たる結果は、源氏 の棟梁為義 がその六子を率いて上皇に応じたる代りに、為義 の長子
にして武名 を負 える義朝 が天皇に趨 き、父子兄弟相対 して干戈 を交 えざる
を得 ざるに到れるあり。また、平氏 の首脳清盛 (忠盛 の子)、天皇に来 りて、その叔父
忠正 は上皇に到りたり。
この時、為義 の八男為朝 が時宜 に叶 える夜襲 の献策 も空 しく、頼長 が「両帝堂 々の
対陣に夜襲を用うべからず」という、藤原式腐儒 論の拒 むところとなりて、兵気 いさ
さか銷沈 に傾けるを、却って、義朝に軽兵 を率 いて来襲 せられ、頼長が頼 むところの
南都興福寺 の僧兵 も未 だ到らずして、戦わざるにすでに敗兆 を現わせり。頼長 すなわ
ち手足 を張って狼狽 し、敵を見て急に諸将 の官職を進め、その歓心 を買わんことを勉
む、果然、警語 はこの間 に作用せり。驍勇絶倫 の為朝独 り冷笑して、己 れに宛 てられ
たる蔵人 の職を屏 けて曰く、「敵に臨んですなわち戦うべし、何ぞ官職を要せんや。我
は鎮西八郎 にて足 れり!」と。「両帝堂々の陣」の論者、ここにおいて顔色無 きなり。
「我は鎮西八郎にて足れり!」の一語、特殊の歴史によりて訓練せられたる代表的武人
の、純真なる面目 を発揮して、精采 実に今古 を照破 するに足れり。
戦いは果して崇徳 上皇の零敗 に帰したりと雖 も、為朝 がこの役 における悪戦苦闘振
りの目覚 しさは、ただに時人 の胆 を破りたるに止まらずして、長く後代 に標準的武勇
談 を残しぬ。上皇讃岐 に流 され、頼長 走って道に死し、為義 、忠正 、および為義 の諸
子 、皆降 って斬られたりと雖 も、独 り為朝が筋 を絶 って大島 に流されたるは、その勇
武時代 の珍 とすべきものありて、敵にもまた惜 まれたる結果ならずとせざるなり。た
だこの「鎮西八郎にて足れり」の一語ありて、血をもって血 を洗う溷濁厭 うべき保元
の乱 の中 に、清烈 なる噴泉 の箭 の如く奔注 するを見る。快男児 の壮語 、何ぞそれ奇警
なる!
一の変乱 はさらに他の変乱 を誘発 し来 りぬ。 源義朝 、保元 の乱に当 りて最も功労
あり。しかも、肉親の父および諸弟 と戦 ってこれを破 り、なお、父および諸弟 の己 に
よりて降 れる者を保護つること能 わず。朝廷の迫 るところとなりて、自 らそれ等を斬
首 するの己 むなきに到り、尽 く骨肉 を削 りて孤立するの悲惨を閲 するに及 びたれば、
まさに、十分なる報酬 を得て自 ら慰 めざるべからざるに、事 すでに過ぐるや、宮室的
気風 を帯びて公卿 と結托 する便宜 を有せる平氏は、功労 少なくして却って重賞 を受
け、敵の弱きを撰 びつつ、しかも逡巡能 く戦わざりし清盛 にして、なお、播磨守 に任
ぜられて昇殿 を聴 されたるに、義朝 は僅 かに右馬権頭 を得 たるに過ぎず。嗷訴 してよ
うやく左馬頭 となることを得たりと雖 も、未だ昇殿 を聴 さるるに到らざるなり。
ここにおいて、後白河天皇在位三年にして位を退 き、年少の第七十八代二条天皇代
って立ち給い、平治 と改元 せらるるや、義朝、後白河の寵臣 中納言藤原信頼 なる者(道
長の兄道隆 の後 )と相結託 して、信頼および義朝を排斥 すところの、清盛 と少納言藤
原通憲入道信西 との一党に当り、元年十二月、清盛が熊野 に詣 りし虚 に乗 じて兵を
挙げ、夜三条殿を囲みて上皇と天皇とを擁 するに到る。信西 走って途 に斬 らる。しか
も、天皇が脱して清盛の陣に投じ給いしと、源氏の一党頼政 が反覆 して清盛に与 せし
とは、まず源氏の士気 をして沮喪 せしむるに足れるに、これに加うるに、信頼 の怯懦
にして、未だ戦わざるに守りを棄てて走れるあり。ために、義朝
独り善 く戦うと雖 も、この頽勢 を輓回 するに足らずして、ついに大 いに平氏に敗 られ、
逃 れて尾張 の内海 に到り、旧臣長田忠致 に投じて、却ってこれに殺さる。
されば、武門 の二大派のその一なる源氏の幹部は、保元平治 の二変乱を経過してほ
とんど尽滅 するの悲運に余儀 なくせられ、平氏独り盛んにして、勢威当 る者なく、二
条天皇在位六年にして崩 じ給い、わずかに三歳の第七十九代六条天皇代って立ち給う
に到り、後白河上皇政 を院中に聴 くこと、白河、鳥羽の例により給うと雖 も、平氏
の光彩 すでに皇室を蔽 うて、院宣 何の効力あるなく、六条の仁安二年、清盛太政大臣
に昇りて、武人にして大臣となるの嚆矢 を為 し、ついには、六条天皇を五歳にして位
を退 かせ奉 り、後白河の皇子にして清盛が妻の妹滋子 の出 なる八歳の第八十代高倉 天
皇を代って立たせ奉 り、同時に、後白河上皇は落飾 して法皇となり、さらに、承安
元年清盛の女徳子 (建礼門院 )入って中宮となりて、十一歳の天皇に十五歳の中宮
を配 するの不自然 を敢 てするや、平氏の権勢日月 の如く、一族にして朝臣たる者実に
六十余人、族党 の領有三十余国(当時の日本は六十余州)に連 りて日本の半部を占め、
長子重盛 内大臣にして左近衛大将 を兼ね、次子宗盛 中納言にして右大臣を兼ぬるに至
りぬ。しかもこれ、藤原氏の如き実力によらざる浮萍 と一様 の権勢 にあ
らずして、累代蓄積 し来れる武力の上の効果の現実したるものに外 ならず。
ただし平氏の成功は幾分 か僥倖 を伴 えるの傾 き無 きを得 ずして、これと反対に失落
したる源氏は、やや運命の虐 ぐるところとなりたる観あるが如しと雖 も、これ国家が
必然に、血に塗 れたる武人の鉄腕 すなわち実力ある者によって料理せらるるに至
るべくして、まずその道行 きの順序上、新時代の子なる武人の中 比較的旧時代の臭味
を帯 べる平氏に御鉢 が廻りたるものに過ぎざれば、平氏が果して幸運なるか、源氏が
果して薄命 なるかは、未 だ短日月 の現象によりて軽 々に定むること能 わざるなり。
されど、兎 に角 に平氏は全盛時代に入りたり。清盛の驕慢専横 は、藤原基経 および
道長 にも過ぎ、その一門の実質的栄華は、遥かに藤原氏のそれに超 え、清盛が妻の兄
大納言平時忠 をして、敢 て広言 して、「方今天下 平氏にあらざる者は人にあらず!」と
云わしむるに至れり。鳴呼 、「平氏にあらざる者は人にあらず!」。誇耀 の中 自然に天
来 の規箴 あり、道破 し得てこれ時代の真相に徹するものにあらずや。ま
た当時の一警語 たるを失わずと做 す。
されど、鳴呼 されど、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言 が、果して平氏の全
盛を祝するものなるか、あるいはこれを呪うものなるかも、また未 だ容易に定むべか
らざるを如何 せん。この語の反響 が、何 れの辺 より如何 なる声をもって来るべきかは、
むしろ、如何なる警語によって現実せらるるべきかは、予輩が耳を側てて聞かざるを
得ざるところならずとせざるなり。これより後 、すでに失権 せし藤原氏が、再 び昔日
の夢を繰返 さんとして平氏を謀 り、未 だ発せずして党中 に密告者を生ぜるあり。また、
源氏の一頭頼政 が、後白河の皇子以仁王 を奉じて、兵を起し、敗れて宇治に死せるあ
り。これ等の事実は、たまたま却 って平氏の威力 を加え、その専権 の勢いを助長する
に過ぎざるものなるが如しと雖 も、しかも、為義 、義朝 が失落以後、諸国に潜伏 して
平氏の注目を免れんことを勗 めつつありし、源氏の遺肇 等は、これによって平氏の鼎
のすでに軽きを認め、平氏の暮景 すでに催して、自族の曙光 まさに到らんとするもの
なりとなし、頼政 を陳呉 と為 して、所在 争うて興起 し来れり。
なかんずく其 の大なる者は、伊豆 に起れる義朝 の子頼朝 と、信濃 に起れる義朝 の弟
義賢 の子義仲 となり。義仲 は項羽 の如く、頼朝 は劉邦 に似 たり。共にこれ、累代 その
父祖が勢力を扶植 せし東国武頑 の地に起りて、「額 に立つ矢はありとも、背 に立つ矢は
無 し」という信条 を有せる東人 を率 る者なり。
ここにおいて、景初 よりすでに、宮室的臭味 を帯 びて、しかも、政権を占めて後、
全然 宮室的貴族化するに到りたる平氏は、嫋 々と女性 を男装 せしめたるが如き、鉄漿
黒々と薄化粧 のその弟子 を駆 りて、人は皆虎 の如く馬は皆竜 に似たる源氏 の軍 と戦わ
しめざるべからず。何等 の悲惨 そや。しかして、何等 の滑稽 そや。将門 を屠 りし貞盛
の子、義親 を誅 せし正盛 の孫、今何処 にか在 る。勝敗の数は戦わずしてすでに明らか
なるなり。
果然、高倉 天皇の治承 四年十月、貴公子なる清盛が嫡孫平維盛 を大将軍と為 して、
風流人 なる平忠度 、同じく知教 これが副 となり、五万の兵を発して頼朝 を討ち、源
氏と富士川 を隔 てて対陣したるが、近畿中国 の産にして比較的都雅 なる平氏の軍兵は、
遥 かに東軍 の人剛 に馬健 なるを望んで、まず戦いを難 んずるの色 あり。一夜水禽 の大
いに起 るを聞いて、敵の俄 に到るとなし、周章狼狽 、人馬相踏藉 して、死傷算無 く、相追 うて陣を棄 てて潰走 し、ことごとく西に向って還りぬ。いわゆる風声
鶴唳 に胆 を破るものにして、「水禽 の羽音 に驚く平氏」という、怯懦 なる者を刺戟して
奮起 せしむる力ある警語 が、独 り戦争におけるのみならず、後世 広く日常の人事に応
用せらるるに至りたるもの、その起源実 にここに在るなり。武人平氏が文人藤原氏の
弊 を学びて、さらに藤原氏だも至らざるの所に達せる、ほとんど奇蹟 と云うべきに価
せずや。平氏の亡兆 すでにこの不祥事 によりて暗示 せらる。この現実 をもって、彼 の
時忠 が、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言 と対照し来るに、その変化の倏忽
なる、人をして転 た如露亦如電 の感に堪えざらしめんとす。
乞 う、予をして平家物語の作者に倣 うて、再 び「祗園精舎 の鐘 の音 」と「沙羅双樹
の花の色」とを挙 げ来 らしめよ。すでに、東海 において水禽 に驚きし平氏は、また北
陸において火牛 に愕 かさるる平氏たらざるを得ずして、これより後 三年を経て、第八
十一代安徳 天皇の寿永 二年五月、全力を傾け尽したる十万の大兵をもって、義仲 の五
万と越中 の礪並山 に戦い、義仲に火牛を放 たれて大敗したり。しかも平氏の首脳 清盛
は、自家 の女 の腹に出 でし二歳の安徳 天皇を立てたる年なる、養和 元年閏二 月、熱病
のために薨 じて、平氏はすでに頭 を失いたる蛇の如く、その進前 の方向に迷いつつあ
る際 なりしかば、最後の運命を賭 したるこの一挙 の失敗は、これをして、京洛 の間に
留まるに堪 えざらしめ、同月、玉の如き公子 と花の如き姫嬪 と蹄 と轍 とを雑 えて、錦
様 の皇都 を後に、幼冲 の天子を護 り、飲泣 と号泣 と相和 しつつ、紅
紫燎乱 、倉皇 として西に向い、しかも、本州 に居 を安んずること能 わずして、海を越
えて讃岐 に走りたる、いわゆる「平家の都落 」なるものにして、その光景の詩的かつ
画的なるだけ、悲惨 の度は一入 深かりき。
かくて後 、高倉 天皇の第四子立ちて、第八十二代後鳥羽 天皇となり給い、その元暦
元年正月、平氏を都 より追いし義仲 は、頼朝 の弟にして頼朝 に代って兵を率いたる範
頼 、義経 に攻 められて、近江 の粟津 に敗死 し、この間に捲土重来 して摂津 の一の谷 に
拠 りたる平氏も、また範頼 、義経 の陥 るるところとなりて、讃岐 の屋島 に退 き、翌文
治 元年二月、屋島もまた義経に破られ、同三月岸には桜咲いて海には霞棚引 くの時、
長門壇 の浦 の最後の戦いにおいて、八歳の安徳 天皇を始め奉 り、平氏の一族の残存せ
る者ことごとく水に投じ、天皇の生母建礼門院 、平氏の頭領宗盛 父子等は、源氏の擒
にするところとなりて、二代の栄華一朝の夢に帰しつつ、ただ落花の繽紛 たるを留め、
その末路 の凄惨悲涼 なる、後世の豊臣氏 の滅亡と共に、史 を読む者をして、ここに到
りて暗然として巻を掩 わしめずんば已 まざらんとす。
祗園精舎 の鐘 の音 ー3一諸行無常 の響 あり、沙羅双樹 の花の色は盛者必衰 の相を現せり。
平氏の末路の爾 く悲惨 を極めたるは、元来武強 なる者が、変じて文弱 となりたるが故
なり。文弱となりたる後 においても、武強なりし時代の事を行わざるを得ざりしをも
ってなり。かくて、驕奢 なる者の速 やかに亡 びたる例を求めて、独り我が国史に顕著
なるのみならず、東西 の史乗中 、平氏興亡 の顛末 の如く、爾 く明白適切なるものなけ
れば、「驕 る平家は久しからず!」の警語 が、長くその権威 を失わずして、後世 に到る
まで好個 の引例 に供 せられつつあるも、また十分の理由ありと云うべきなり。
源頼朝 武力を用いて平氏を亡ぼすや、深く注意して平氏の轍 に陥 ることを避 け、
武力の淵叢 たる東国 に根拠 を置いて、覇府 を相模 の鎌倉 に定め、質実簡素 にして毫 も
従前 の宮室的臭味を帯ばざる、純武人的政治を創始したり。彼の要するところ、偏 え
に実 に在 りて名 にあらず。彼は、諸国に守護 を置き、荘園 に地頭 を置き、これ等をし
て国土を管理せしむると共に、州郡不逞 の徒 を追捕 せしめて、もって禍乱 の根 を絶た
んことを建議し、しかして己 れ自 ら六十六ヵ国の総地頭 、総追捕使 として、これを統
轄 せんことを奏請 し、朝廷をして、むしろ、その求むるところの低くかつ小なるに驚
かしめ、容易にこれを容 れらるるに到りたり。何 ぞ測 らん、これ頼朝 が大臣関白乃至
摂政を求むるよりも、遥 かに遥かに大なる物を朝廷より得たるにて、地頭 、追捕使 な
んど云う極めて卑 しき名の下 に手脚 を蔵しつつ、その実 天皇の権力も職任 も、根本よ
り自家 の手裡 に奪却 したるなり。
藤原氏かつて皇権 を侵犯 したりと雖 も、ただ天皇の幼弱 あるいは狂疾 に乗じて一時
を私 せしのみ、もとより、全日本をその有 に帰せしめしにあらず。平氏の荘園六 十
六ヵ国の半 を占めたりと雖 も、これまた、弄 を従前 の法式に随って受領せしと云うに
過ぎずして、未 だ国家の組織のこれがために変更せられしにあらざるなり。
然 るに、今や頼朝 根本的に組織を改変して、天皇の有し給いし権力を盗 むが如き屑 々
たる手段を取らず、全然 天皇の地位を変じて、単に尊崇 の主体 と為 し奉 ることを敢 て
せり。これ、表面はなはだ小なるが如くにして、その実 、大化革新 を逆に行きたる空
前 の大変革ならずんばあらざるなり。政権まったく武門に帰し了 りて、これより明治
維新 に到 るまで、また皇室に回 らず。中間 ただ後醍醐 天皇において一時の変 を見しの
み。頼朝 の謀 るところ、何 ぞそれ陰 にして深 なる。されば、この大変革を断行して、
しかもその結果の持続し得 べきを確信せる、頼朝をして深く依頼してもって安心せし
むるものなくんばあらず。然 り、頼朝の依頼 するところは自家 の実力に在り。しかも
彼の実力は、その養成 したる武人 の武力 を最低根拠 と為 しつつあるなり。
乞 う、深沈 にして大度 ある頼朝の口より発したるものとして、特
にその異常に緊縮 せるを覚 えしむる、切実なる警語あるを聞け。曰く、「二十矢 を放 っ
て二十人を倒す者にあらざれば、儀衛 の任に適 せず」と。この語のはなはだ奇警 なる
は、普通に「三矢 を放って三人を倒 す者 」と云 うべく、もし「十矢 を放 って十人を倒
す者」と云 わば、人をしてその選択 の過酷 なるを想 わしむるに足 るべきに、さらにこ
れより抽 んずること十段にして、絶対に意味を強めつつ、必ず特に、「二十矢 を放 って
二十人を倒す者」と云わずんば已 まざるに在 り。
かくして、自己に親近する儀衛 の士 を選 びつつ、自家の武力の基礎を固め、しかし
て、これを周囲に及 ぼして、一般武人を激励 しつつ、さらに、激励を受けて鍛練 の功
を積みたる、すなわち、二十矢 を放って二十人を倒すの域 に入ることを得たる武人を
して、争うて自己に親近 することを求めしむるの風 を起し、それ等のすべての結果よ
りして、自家の周囲は常に鏘 々鏗 々たる武力の精髄 によって、擁護 せらるることを得
るなり。「八州天下に敵し、鎌倉 八州に敵 す!」の警語 もまた、この頼朝 の一語が反響
を酬 われたる結果 としての、事実 を意味 するものに他 ならず、この一語によりて、頼
朝 が天火 を威服 したる所以 の根柢 を窺 うべしと做 す。
平氏の滅亡と共に捲 き了 られたる極彩色 の絵巻物 は、再 び開展 せらるるの機会を得
ずして、実力の上に布 かれたる質実簡素 なる純武人的政治の、儼 として長 えに存 する
を見る。源氏三代にして滅亡 せりと雖 も、その政体 は毫 も変革 せらるることなく、源
氏の長臣 にして源氏を継承したる北条氏 の手により、さらに一段丈 低く根張 り深きも
のとならしめられたり。
後鳥羽 、および、第八十三代土御門 、第八十四代順徳 の三朝 を経て、第八十五代仲
恭 天皇の治世 に到り、後鳥羽上皇多能 にして自 ら用うるの質をもってし、白河法皇が
驕慢専恣 の跡 を踏 みて鎌倉を討滅 し政権を回収せんことを夢み給い、白河に始まりし
院 の北面 の外 、さらに西面 の武士を置き、天下事を好むの徒を集めて、窃 に機を待ち
つつありしが、順徳 天皇の承久 元年正月、鎌倉の主人実朝 が、二代の主人頼家 の子
なる公暁 に殺されたるを見て、これ天下の人心 鎌倉を離れたる徴 なりと速断 し給い、
仲恭 天皇に即 き給いて未 だ前代の年号を改むる暇 なき承久 三年の事、雷霆 一震 鎌倉の執権 という名義 において実際は天下の主 なる北条義時 の官職を褫
ぎ、遍 く全日本の武人に詔 を下 して鎌倉を討たしむ。真にこれ非常の英断 、絶大 の
クーデター、天破 れ石驚 くの概 あるもの。天下まさに震動 すべく、義時 まさに胆 落ち
魂 飛ばざるべからざるなり。
然 れども、事実の予期 に反せるを如何 せん。鎌倉の風色冷 々として水の如く、天下
未 だそよ吹く風をも起さず。すでにして、義時 は坐 したるままに一喝 せり。曰く、「天
子御謀叛 !」と。海内 の武人 すなわち声に応じて雲の如くに起り来 る。義時が発声 の
反響としての「天子御謀叛!」の叫びは、激浪怒濤 の如く全日本を震撼 して、取 る物
も取 り敢 ず鎌倉に馳 せ参 ずる諸国の軍勢は、実に二十万の多きに上 りぬ。「天子御謀
叛 !」。何 ぞその語の主客 を顛倒 せるのはなはだしき。然 れども、武家政治の下 に処 を
得 つつ、実力をもってすべての階級の上に立てる当時の武人は、眼中 ただ武家ありて
天子あるを知らざるなり。名分 は彼等の知らざるところ、彼等はただ事実を解するの
み。故 に、武家に敵対するところの行為は、彼等より見てすバ、て叛逆 なり。その叛逆
者 の天子なるをもって、特に警語 を用いて御謀叛 と云う。もって、源氏が如何 に根本
的に皇権 を奪却 し、北条氏が如何 に源氏を継承 してさらに一歩を進めつつ、天下の人
心 を一変したるを窺 うべきにあらずや。
「天子御謀叛!」。この語実に不臣 の極 なり。乱臣賊子 の言 なり。奇怪至極 なり。不都
合千万 なり。忠愛なる日本人をして、これを聞いて牙 を咬 み眥 を裂 かしむるに足 れり。
これを発したる者の肉を瞰 わんことを思わしむるに価せり。されど、当時においては
これ剴切 なる一警語たりしことを認めざる能 わざるを如何 せん。見よ、「天子御謀叛!」
の一喝 に応じて起ちたる武人はその数 ただちに二十万に上 りて、しかも、訓練あり節
制 ある軍隊ならざるなきに、後鳥羽上皇の霹靂手段 によって京師 に集められたる者は、
ついに一万七千五百の少数に過ぎずして、しかのみならず、半 ば盗賊浮浪 の徒 を雑 え
ざる能 わざりしことを。義時 、その子泰時 および弟時房 を将と為 して、進んで京都を
攻めしむるに、形勢すでに明らかなりと雖 も、なお慎重 の用意を欠 かず、その将士 た
る者、必ず、親を遣 わせば子を残し、兄を出 だせば弟を留めて、半途 に心を変じて鎌
倉に背 かんとするの虞 に備 う。されば、計画に寸毫 の遺算 なくして、幕軍 の京師 に対
すること、磐石 をもって累卵 を圧するが如く、上皇事
急にして叡山 の僧兵を招くと雖 も、かつては、鴨川の水、双六 の采 と共に、不可抗力
を有せる者と目 せられし山法師も、当時の武人の勢いに敵すること能 わず、力足 らず
と称して山門 を出 でざれば、京師 はたちまち鎌倉に粉砕 せられ、義時が辣腕 の加わる
ところ、権大納言藤原忠信、権中納言源有惟、参議藤原範義 むよび藤原光親、藤
原宗行 、藤原信能 等の諸卿 は、その首謀 としてただちに斬 に処 せられ、後鳥羽上皇は
隠岐 に、順徳 上皇は佐渡 に流されて、仲恭 天皇もまた位を廃 せられ、代りに、第八
十六代後堀河 天皇は鎌倉の手によって立てられ給えり。
さらに、京軍 の食邑 三千戸を奪って、これを鎌倉の将士 に分与し、しかも義時 は寸
毫 も取らず。人心 いよいよ北条氏に服 して、鎌倉の権勢 ますます盛 んに、その威令 山
よりも重し。「天子御謀叛 !」の一喝 、長 えに雷 の如き余響 を留めて、北条氏九代の久
しきに到るまで、これに対する悪反響を喚 び起 さざりしもの、偏 に純武人的政治の、
在来 の何 れの政治にも優 りて多数人を心服せしむるに足れるものありしが故なり。
しかして、北条氏を亡 ぼしたるものもまた、純武人的政治より出でたる弊害 のため
にあらずして、八代の貞時 が年少にして自 ら恣 にし、九代の高時 が狗 を尊 び人を賤
しみ宴 を重んじて政 を軽 んじ、この二代の暴虐 をもって七代の事業を破壊し尽した
るが故なるのみ。語を換 て云えば、北条氏が北条氏より退歩 して、源氏 をも後様 に飛
び越 え、端的 に平氏となり藤原氏となりたるが故なるのみ。
今日 東北の僻陬 に到り見よ。諸君は、婦人が腕白 なる小児を嚇 し
賺 す目的のために、「モウコが来た! モウコが来た!」と云うを聞くことを得べし。
ひとたび、「そらモウコが来たぞ!」と呼べば、如何 に拗 ねつむずかりつの態 を尽しつ
つある悪童 と雖 も、たちまち頭 を抱 えて屏息 せざるはなきなり。然 らば、「モウコ」と
は果して如何 なる性質の畏怖 すべきものを意味するかと問えば、彼等は唖然 として答
辞 に窮 せざるを得ず。曰く、ただ因習 によってこの語を発するのみにして、未 だその
何なるかを考えしことなしと雖 も、恐らくは、妖魔 の人を食 うものを意味するならん
と。
されど、「モウコ」の意味決して解し難 きにあらず。これ必ず鎌倉時代の中世に起り
て、一時は全日本を風靡 したる警語 なるべく、しかも、これに含 まれたる至強至烈 の
権威 が、時代を経 るに随 って、銷磨 すると共に、その語 もまた多く国人 の口に上 らざ
るに到り、比較的旧習旧慣 を保存なしつつある東北僻陬 の地 においてのみ、今日 な
お消 えなんとしてわずかに痕跡 を留むるを認むるものなるべし。「モウコ」はすなわち
「蒙古 」にして、鎌倉時代における蒙古の来寇 の、如何 に我 に対して恐慌 を与えしかは、
今日なおこの語が人を威嚇 する権威 のまったく失われざるによりて、想像し得べから
ずや。実に、蒙古の来寇こそは我が国有史 以来の恐怖なりしなれ。
これより先 、我が土御門 天皇の時代、支那 においては宋 の寧宗 の治世 に当りて、蒙
古の酋長 に鉄木真 なる者あり。不世出 の英資 をもってして四方を攻略し、ついには、
諸酋長 を外蒙古 の北部オノン河の上 に会して、絶大なる皇帝を意味する成吉思汗 の尊
号 を受く。これより世界を統 一するの策 を定め、まず進んで燕京 (今の北京 )に都 し、
西向 して印度 を席捲 し、波斯 、シリヤを蹂躙 し、南は黒海よ
り北はバルチック海に到るまでの間を横行 して、ついに匈牙利 に及 びし、成吉思汗 が
馬蹄 の過 ぐる所、草再 び生 ぜずと云わしめ、その侵略 を被 りたる欧亜 数千里の区域は、
成吉思汗 が五年間の劫掠殺戮 のために、爾後 五百年の間故態 に復 すること能 わざり
しだけそれだけ、残虐 の限 りを尽 し、世界において、最も広き範囲に最も大なる恐怖
を与えたる者の、空前絶後 と称 せらるるに到 りたり。
その孫忽必烈 また雄烈 祖父に譲らず。我が第八十九代後深草 天皇の正嘉 二年には、
すでに高麗 を併呑 して、半島より来 るの腥風 、我が辺
境 の草木 をして色を変ぜしめんとす。支那 もまた頻 りにその大挙侵寇 を受 けて、宋 朝
の運命 まさに破竹 の中 に在 り。されば、我 に豪傑僧日蓮 ありて、活眼蚤 くも、全日本
の民に先だちて形勢の趨 くところを看破 し、その佐渡 に流さるるの前、すでに国難 を
絶叫 したりと雖 も、時人 夢なお濃 かにして、夜未 だ半 ばならざるに鶏鳴 を聞きたるも
のとなし、却って悪声 としてこれを屏 けたるが、すでにして、第九十代亀山 天皇の文
永 五年、稀有 の英霊漢 、無双 の豪快児 たる北条時宗 が、十八歳の年少をもって起 って
鎌倉の執権 となるや、果然眼中 に東海の一小島国なき忽必烈 は、一恫喝 の下 に我 を威
服 せんことを試み、その臣黒的 なる者をして図書を持せしめ、高麗 を先導 と為 して、
傲然 として我に臨 ましめぬ。京師震駭 、人心恟 々たり 。
然 れども、乞 う憂 うることを休 めよ、我に相模太郎 の胆甕 の如きあり矣 。時宗 彼が
書辞 の無礼なるを憤 り、我が朝廷の返牒 の体 を失 して自 ら屈するを非なりとなし、使
者を責罵 してこれを追う。これよりして、蒙古 は極力 我を屈せんとし、あるいは使
者を送りて威嚇 を重ね、あるいは軍兵を発して我が辺境 に残刻無比 なる侵寇 を試む。
ために、壱岐 、対馬 二島の生民 はまったく屠 り尽され、その婦女は、ことごとく犯さ
れて後、その掌 に縄を貫 きて縛 され、我が武人の戦死したる者は、皆腹 を割 いて、腸
を食 わる。国人 これを聞いて戦慄 せざるはなく、あるいはもって日本滅亡の期到ると
做 せり。
ただ時宗 の儼 として動かざるあり、第九十一代後宇多 天皇の建治 元年九月、彼の使
杜世忠 等を竜 の口 に斬るの勇断 を敢 てす。かくて弘安 二年、忽必烈南宋 を亡 ぼして支
那 を統一 し、国号 を元 と改むるや、その使再 び我 に到りたるをもって、時宗断 一層 、重
ねて日本刀を揮 って虜使 の頭足 を分 ちぬ。
弘安 四年五月二十一日、元軍の先鋒 十余万艨艟 海を蔽 うて来
れるは、すなわちこの結果なり。しかも日本男児善 く戦い、なかんずく、文永 年間蒙 古 我が辺境 を劫掠 し、風濤 の漂 わすところとなりて俄 に去りし時、「蒙古 もし十年の
間に再 び来 らずんば、我自 ら進んで必ず蒙古を討たん」との、痛快無比 なる警語 を吐
いて神に誓い、誓紙 を焼いてその灰を呑 みし奇矯 の一男児、伊予国 の住人河野通有 が、
勇敢 の士 十余人と共に決死隊 を組織し、軽舸 を飛ばして敵の艦隊の中間を突破し、檣
を倒して一大艦 に上 り、ことごとく艦上 の敵人を斬殺 して、その将を擒 にし、凱歌 を
唱 えて還 りたる、また、草野次郎 、大友貞親 等が、選兵 を率いて敵艦 に夜襲 を試み、
しばしば奇功 を奏し如き、独り当時の敵胆 を破り得たるに止まらずして、また長く日
本流海戦術 のために模範 を垂 れたり。
これによって、敵軍軽 々しく上陸すること能 わず、まず退 いて肥前 の鷹 の島 に拠 り
つつある間に、六月三十一日の夜半 、颶風 にわかに起りて、波濤 山を為 し、蛟竜魚鼈
皆飛騰 して天に昇り、蒙古の戦艦 大半覆没 して、溺死 する者無数、敵将范文虎 、忻都 、
洪荼丘 の徒 、辛 うじて堅艦 を撰 んで高麗 に逃 る。少弐景資 等、機 に乗 じ風を犯して進
撃 し、殺戮 はなはだ多く降 を乞 う者一千余人もまた殺され、多 々良浜 i玄界洋 の底
の藻屑 となりたる者、実に蒙古軍 十万余人に加うるに高麗軍 七千余人をもってし、海
面為 に陸に変じ、紅波溢 れて陸を呑 むに至る。命を全 うせる余衆 三万三千人に過ぎず、
皆高麗 に向って去りぬ。
しかして、この外 なお、鷹 の島 に在 りて進退 を失 いたる敵 数千あり。張 百戸 なる者
これが将 として、木を伐 り、船を修 しつつ帰計 を講 じ、糧 を絶 つことすでに三日に及
ぶ。七月四日、我が軍諜 してこれを知り、急に襲 うてこれを鏖 にし、わずかに、于
閭 、莫青 、呉万五 の三人を赦 して元 に還らしめ、もって我が威武 を告 げしめたり。さ
しも国民をして、日本滅亡の期到れりと悲観せしめし元寇 も、かくて案外 容易に退散
し、彼をして再び我に加うること能 わざらしめしもの、これ単に人力 のみにあらずと
雖 も、また単に天力 のみにあらず。人力 と天力 と相俟 ち、日本男児の勇武 と颶風 と相
合期 したる結果なるのみ。一歩を進めて云えば、これ文人政治の賜 にあらずして、武
人政治の賜 なり。最も武人政治の神髄 を会得 したる北条氏の全盛時代にして、その中
心人物に時宗 の如き英霊漢 ありしが故 に、能 く此 の如くなるを得たるなり。実にこれ、
末代 に至るまでの日本人の誇りなり。
されど、元寇 の日本に与えたる損害 もまた非常にして、表面の計数 以上幾 十倍なる
を知るべからざるを如何 せん。時宗 十八歳以来、蒙古 に対するに全力を尽 して、三十
一歳にして彼 の大軍を鏖殺 し、始 めて、夢寐 だにも忘れざ
りし深憂 を脱 し得 たりと雖 も、これがために精 を尽し髄 を枯 らし報酬 として、稀有 の
英霊漢 もその内部の損傷 に打ち勝つこと能 わず、弘安 七年四月、空 しく三十四歳の壮
齢 をもって、その青年的人物としての伝記 を閉じ、北条氏滅亡の機を早 むべく天 より
下 されたるかの如き怪少年貞時 が、父に代って執権 となりたる。これ元寇 のための損
害のはなはだ大なるものと認 めざるを得 ず。
しかのみならず、十四年の長きに連 りたる頻 々の警報は、闔国 の生民 をし
てその業に安 んずること能 わざらしめ、殊 に文永 十一年と弘安 四年とには、遑 々とし
てほとんどまったく業を廃し、生産機関 の運転 一時休止の状態なりしに、外患 に備 う
るために国民の負担 せしところもまた莫大 にして、人民の疲弊疾苦 は、むしろ外寇 の
蹂躙 を受けたるに近きものあり。またこれ、元寇 のための損害 の主 なものならざるに
あらざるなり。故 に外寇 を恐怖 し厭忌 するの念 が、如何 ばかり深く当時の日本人の骨
髄 に鏤刻 されしかは、必ず今日 の想像以上ならざるべからずして「蒙古 !」とさえ云
えば、何人 も身を震 わせ色を変 じて、眼前 に腸 を食 う獰悪 の敵人が現れ出 でたる心地
し、如何 なる歓楽 の席にても、過 って「蒙古」の二字を口より漏らす者ある時は、た
ちまち妖魔 の襲 い到りたるが如く、興 も酒 も醒 めて果 てしなるべきを思う。然 らずん
ばたとえ東北の僻陬 にもせよ、六百年以後の今日 において、なお「蒙古 が来た!」の
一語 に悪童 を慴伏 せしむるの権威 を留 むるを得 ざるべきなり。
宴飲 の際 、上下尊卑 の階級を撤 し、親疎生熟 の差別 を忘れて、礼法の覊絆 を脱しつ
つ、ひたすら歓楽 を尽 すを、一般 に「無礼講 」と呼ぶは、今日 なお予輩 の便宜 として
用うるところなるが、その無礼講 なる文字 の、かかる場合に用い始められたる根源 を
探 り来 れば、また特殊の意味を含蓄 せる一種の警語 なるを認 めずんばあらざるなり。
第九十六代後醍醐 天皇、英邁豪華 の資 をもってして、高時 が人心 を失 えるに乗 じ、
北条氏を亡 ぼさんことを謀 り給うや、美濃 の武人土岐頼員 、多治見国長 等、皇権 回復
の陳勝呉広 としてその議 に与 れり。ここにおいて、北条氏の耳目 を避 くると共に、武
人の歓心 を買うべく、天皇は公卿武士 および宮女 を混淆振蕩 しての、雑然 たる宴席 を
宮中 に開き給えり。時恰 も元弘 元年の夏、花の如き後宮 の美女は、皆裸体 を生絹 の帷
子 に包みて、その雪白 の肉を透 かし視 るべく、もって宴 に侍 し酒を行 り、座間 を翩翔
す。優美なる公卿 と、俊爽 なる武士と、酒と、歌と、管 と、絃 と、半裸体の幾多 の美
人と、それ等の対照何 ぞ非時代的なる。肉 の香 と酒 の臭 とは、鉄石 の人をもまた爛酔
せしめずんば已 まず。その自由にして新味 あること、宛然西欧 の歓楽郷 なり。かくて、
天皇は寵姫 の膝 に凭 りつつ簾 を隔 ててこの光景を賞観 し給う。これ天皇の創意 に出 で
たるものにして、名 づけて「無礼講 」と云い給いしもまた天皇なり。誰 かこの間 に、
時代を顛覆 すべき秘策 の寓 せられつつあるを知らんや。
無礼講 なる文字 の濫觴 此 の如くにして、その内容此 の如く複雑 に、
その意味此 の如く奇抜 なり。ただ、天皇の態度余りに浮華 に失 するの嫌 いなき能 わざ
りしが、果然 、密謀 速やかに漏れて、頼貝 、国長 は容易にその元 を失い、天皇逃 れて
笠置 に入 り給うの悲惨 を招 き来 りぬ。
予 はすでに、武人 の発達 が一歩々々にその特殊 の色彩を顕著 ならしめつつ、ついに
前例なき純武人的政治を創始して、十分なる効果を示 せるを認め、しかして、その間
より幾多警語史 の材料を発見し来 りたるが、この小著 においては余りに多くを語るこ
と能 わざるをもって、予 の警語史 をして、ただちに大踏歩 の一転進 を為 して、日本歴
史中の精華 なる群雄割拠 時代に入 らしむる前、ここに、蒙古 の来寇 を動機 と為 して別
方面に進路を開きつつ、南北朝 時代より足利 時代に連 り、海賊 の名において支那朝鮮
に雄飛 を試み、多くの痛快なる記録 を留めたる、我 が波濤 の健児 中国 、南海 、西
海 の好武人 の事蹟 を点検 して、大陸半島の人士 よりこれ等の者に与えたる讃美 の警語
を拾集し、もってこの一段の局 を結ばんとす。
我 が海賊的健児 、すなわち支那人および朝鮮人のいわゆる倭寇 は、実に、「蒙古 もし
十年の間に再 び来 らずんば、我自 ら進んで必ず蒙古を討たん」と神に誓 い、誓紙 を焼
いてその灰を呑 みし、かの河野通有 一流の快男児 が、蒙古 の来寇 に報復 せんことを思
いて海を渡りたるをもって、その嚆矢 と為 すなり。しかも、通有 の後 なる伊予 の河野
氏 は、日本海賊 の大問屋総元締 にして、自 ら波濤 の支配者をもっており、その家門 の
繁栄富饒 時代に冠絶 し、門葉 の多きこと河野 の十八
家 と称 せらるるを致 したるが、すでにして後醍醐 天皇の延元 三年五月、南朝のために
摂津国安倍野 に戦死せし、中納言鎮守府将軍北畠顕家 の遺子山城守師房 なる者、豪
傑 の風 をもってして、来 って十八家 の一なる村上氏 を継ぐや、河野の一族皆これを仰
いで首脳 と為 し、ついには、師房 全日本の海賊的健児を統一して、日本における海賊
の最上主権者となり、海賊大王中 の大々王となり、海賊をして組織的行動 を為 し得 べ
く進化せしめ、同時に、後醍醐の皇子にして、第九十七代南朝後村上 天皇の時代に太
宰府 を鎮護 せし、征西将軍懐良親王 と好 みを通じ、九州の海岸に碇泊地 を置いて、盛
んに支那朝鮮 に遠征を試むるに到りたり。
師房 死して、その子義顕継 ぎ、義顕 の子雅房 またその後 を襲 い、累代山城守 と称 し
て、共に海賊大王 たり、ヒーローたり、一指を動かして大陸半島を震憾 せしむる巨人
たり。南北両朝対立して、国家の紀綱弛漫 を極 めたるに乗 じ、小島国日本の内部にお
ける得失興廃 を見て、一笑にだも価せずと做 し、支那、朝鮮より、安南 、暹羅 、呂宋 、
馬剌加 、印度 の大範囲に及 ぼして、八幡大菩薩 の軍旗 を翻 えしたる船舶 を浮 べ、半面
は侵略的 に、半面 は通商的 に、機宜 に応じて適当の挙措 に出 でつつ、到 る所に満足な
る解決 を与 えられざるはなく、予輩 をして、正史 以外に見出だされたる祖先の活動の
記録が、実に特筆大書 に価するものあるを見て、ひとたびはまず驚愕 を禁ずる能 わざ
らしめ、しかして後 、欣喜 に堪 えざるものあらしめんとす。
かくて、第九十八代南朝長慶天 皇の天授 三年(高麗王辛禍 の三年)五月には、我が
海賊軍 の半島に加えたる打撃 の酷烈 なる、国都 まさに危 からんとして、高麗王をして
遷都 を議 せしむるの極 に及 び、降 って、第百五代後奈良 天皇の天文年間 には、明 の亡
命客王直 なる者、覇王的器度 を有して、来 って我が肥前平戸島 に住 み、自 ら徽王 と称
して、日本支那 両国の海賊 を結合するの任に当 り、同時に海賊 の大資本主 となり、深
く日本人の勇武 に信頼して、常に「日本人一万あらば、必ず明朝 を滅 ぼして支那 を取ることを得 べし」と云いつつありしが、ついにはこの声言 を事実に現すべく、天文 二
十二年五月(明 の嘉靖 三十二年)、空前 の大倭寇 を起して、これより三年を経たる弘治
二年に到るまで、大陸の各地を縦横 せしめ、ただ日本人の数一万に満たずして、しか
も彼地 に上陸するや、無数の小部隊に分裂 しつつ、火 の粉 の如く八方に分散 したるを
もって、王直 の予期 せしが如き偉功 を奏 すること能 わざりしと雖 も、到 る所、都府 を
焚 き、州郡 を陥 れ、官軍 を敗 り、富豪 を掠 めて、大国の朝廷をしてその処置に窮 せし
めたる事実 あり。
その他支那朝鮮 における我が海賊的健児 の驚歎すべき活動の実例は、彼国 の史乗 に収められたる記録より、著大 なるそれのみを抜萃 し来 るも、なお十指 を
屈 するに余 りあるなり。これにおいて予輩 は、彼国 の史家が苦心洗錬 の余 りに成 りた
る警語 を列 ねて、日本人の勇武絶倫 なるを嘆美 するに、筆端 の到 らざる所あらんかを
恐るるの状 あるを見、国史中に見出だされたる警語に対すると、まったく別様 の興味
を感ぜずんばあらず。
曰 く、「刀 長さ五尺 。双刀 を用うれば丈余 の地に及 ぶ。また手を加えて舞う。鋒 を
開 けばおよそ一丈 八尺 。舞動 すれば上下 四旁 ことごとく白 うしてその人を見ず」と、
これ彼の眼 に映 ずる日本刀にあらずや。何 ぞその造語 の奇警 にして、その形容の歎美
を極 めたる。曰く、「倭 の竹弓 長さ八尺。足をもってその誚 を踏 み、立ちながら矢を
発す。矢は海蘆 をもって幹 となし、鉄をもって鏃 となす。鏃 の濶 さ二寸 、燕尾 をなす。
重さ二、三両 。身に近づいてすなわち発す。中 らざることなし。中 ればすなわち人立
ちどころに倒る」と、これ彼の眼 に映 ずる日本の弓箭 にして、極力讃歎 を払うこと、
また日本刀に対するに譲らざるを見 るべし。
曰く、「衆 皆刀を舞 わして起 ち、空 に向って揮霍 す。我が兵倉皇 として首を仰げば、
すなわち下より斫 り来 る」と。また曰く、「衆奴 刀を揮 うこと神の若 し」と。さらに日
く、「島夷 出没飛隼 の如し」と。これ、彼の眼 に映 ずる日本人なり。我が戦士 なり。桓
武 時代以来訓練を重ねられて、まったく理想的に発達したる我が武人の、戦場におけ
る馳突飛躍 の状態は、生温 き大陸人よりこれを見て、人間以上の者に対する感を起 し
たるに相違 なし。
しかして、彼等は日本人の勇武 なるを驚異 するのあまり、ついには、「その国の西南
に鬼国 あり。利鏃 を出 だす。しかして人闘 いを好む。倭人人寇 するや、多くその人を
募 る。白番鬼 あり、黒番鬼 あり、すなわち古 の崑崙奴 なり。面深黒 にして、善 く闘い
妄 に死す。倭 の勝 を取る、大率 これを前矛 と為 す」などと、極力臆測 を逞 しうして、
人を驚殺 しつつ併 せて己 れ自身を驚殺 するの解説を下 さざれば、已 むこと能 わざるに
到 れり。これ、我が薩摩 あるいは土佐辺 より出 でたる、色黒く形 恐ろしき勇士 を見て、
これを神秘化したるものなるべく「善 く闘い妄 に死す」の一語、実に、彼の眼 に映ず
る我が武人の面目 を描 き出 だして剴切 を極めたり。明史 に明記して曰く、「寇舶 到ればすなわち風 を望んで逃匿 す。しかして、上 またこれを統御 する者あるなし。故 をもって、賊帆 の指 す所残破 せざるはなし」と、我が威力の彼を風靡 する状勢を道破 し得て、またこれ一警語 たるを失わずと做 す。区 々たる我が辺海 の私兵にして、しかも彼の憂 いたりしこと此 の如し。
豊臣秀吉 の外征 にして、天もし秀吉に仮 すになお十年の齢 をもってせば、すでに三百余年前において、支那 および朝鮮 の地図をして色彩 を変ぜしむることを得たりしならんとは、我も人も正当に推測 し得るところなるが、此 の如く可能性に富みし秀吉の外征もまた、海賊を草分 と為 し、海賊を先達 と為 し、海賊が雄飛 の物語に功名心を刺戟せられしために、起されたるものとすれば、予輩 は、彼国 の史家文士 が日本人の勇武 を讃歎 すべく発せし警語の、これがためにさらに一段の光輝 を加うるを覚ゆるなり。
鴨川の水、双六の采、山法師1-ー武士道の経典における最上無二の鉄律たる警語-叔
父児ー代表的武人の純真なる面目を発揮する警語ー平氏にあらざる者は人にあらず
li水禽の羽音に驚く平氏i驕る平家は久しからずー1二十矢を放って二十人を倒す
者にあらざれば儀衛の任に適せずー天子御謀叛-今日なお悪童を慴伏せしむる権威
を留むる警語-美女の裸体を薄羅に包みたる無礼講ー1-舞動すれば上下四旁ことごと
く白うしてその人を見ず
いよいよ、
て料理せらるる日本史の
て
語の表現せる如く、
変を
訓練に訓練を重ねられて、その発達の勢いの盛んなるこど、
りたるが、藤原氏
も云わず、当時、僧侶の横暴の
伴うものありしかは、第七十二代
げたる
自河は後三条天皇の皇太子にして、
をもって天下を率い給いし
るの気力を
の
この
を歌いしが如く、
し給うに
給わざるを
および
て、その
ところにあらず。さらに
こと
る性質の物を
しかも、これ等を
ただ第三の
の如くならざる物と同一視し、重くその
ただし、俗界の
を
特有なりし
るそれ等のものとなりたるなり。
しかして、
行の
いの大なるを
き、
る
を蓄え武力を養うことを
うところの
にして、元来
防禦にあまりあること十二分なるに
ここにおいて、
巨大にして武力に富めるものは、
眼中また皇
を交え、なかんずく延暦寺最も優勢にして、全然一強独立国の観を為し、
室あるなく・霧の支配をも受けずして・独り意の璽所を.掛,ずんとす。翳無
躍・命,む少しく意に満たざるあれば・ただちに墅の柑興を捌ぎ丗だして、認を横
行し、鸞剛に乱入するを懺びず。ついには、淨謝にして豪放なる白河天皇を
して、なおその手剛さ恐ろしさ身に浸みて、根本的に意の如くならざる性質の物と山
譯とを里視せざる鯲わざらしめ、すなわち、轍鵬の水、藻煮の彩山法師」とい
う、
かかる山法師の恐怖より天皇を保護し
兵を率い
その弟義綱をして、
十月、天皇石清水に行幸し給うや、源義家、および、
て叢を驀せしめ・もって山法師の襲撃に備えたるを、豊なる事実と漸し、その他
この類の例が多き、挙げて数うべからざるなり。外敵を征する事の
事の鵬、瓣都を討ずる事の螺、盗驟を諞ずる事の姆、これ等の堀朔以上、最も多く武
人をして、勢力を
法師が切実に皇室の信頼を武人を与うるの
武人と皇室との
するものならずんばあらざるなり。
し、
て、軍人として世界に特殊なる長所を有せる日本民族は、ようやくその要素を
え
し給い、しかも院中に天皇の実権を保留して、さらに在位中に過ぎたる
うや、かつては、
の
てさらに一段ならしむべき、多くの機会を作りたり。
今その
将軍に任ぜられたる
りたるに、たまたま、
灘に党して灘を扉むるあり・藁は藻と親戚なるをもって、すなわちこれを撚
け・堀鵬天皇の蹴浴四年より七年に灘びて、燐鞣三年に嵐なり、ついに、武衡および
家衡を
この
る者にその眼を射られしも、毫も屈せず、箭を折って挺身鳥海を殺し、
帰って陣に入り、兜を脱いで仰臥す。三浦為次なる者、彼が為に箭抜かんとし、鏃深
く
す。曰く、「戦って死するは武士の
と・灘すなわち驚いて謝し・摂.ピく響いて攣抜けば、眼球鑽ど共に出でぬ。景
政
宜なり、この死生を一貫せる至剛至硬の警語は、
二の
ことや。当時、武人が相
つかんとするの
かくて、武人の発達すでにある度を超えて、その色彩
ること
の間に
り
んに、平氏は、
の子
月に
到りて、平氏の
しかして、正盛、忠盛の平氏は、
その境遇と
るを
および
に
り
「
をもって、皇室より分派せし時代は、平氏に比して
血と共にその
すでにして
て、
を
を発して
ちまち隠岐を脱して
しかば、
二年、白河法皇の
より、たちまち朝廷に
ー
わるありて、互いに
ここにおいて、
ために導かれて相
ず、
を
時に
事を禁じたるもの、もって二氏が互いにその
だしかりしを見るべしと
き動機が、宮室の間に
見るにおいての重要事ならざるべからず。
と
にして、中宮となるの
天皇これを
れを
皇を
皇が近代の天皇に
の
その気力を
なり、藤原氏さえ
の時代より起れり。
わちこれなるが、
にして、実に
べきのみ。
く、もし
必ず
はだしきと共に、これ必ず
すなわちますます
立てて皇太子と
び、人をして
て、
おいて、上皇の積憤はついに破裂せざる能わず、左大臣藤原頼長を延いて謀主と為し、
兵を
史はまさに
しつつあるなり。
次には当然に、上皇と天皇とが、武人を
たる結果は、
にして
を
この時、
対陣に夜襲を用うべからず」という、藤原式
さか
ち
む、果然、
たる
は
「我は鎮西八郎にて足れり!」の一語、特殊の歴史によりて訓練せられたる代表的武人
の、純真なる
戦いは果して
りの
だこの「鎮西八郎にて足れり」の一語ありて、血をもって
の
なる!
一の
あり。しかも、肉親の父および
よりて
まさに、十分なる
け、敵の弱きを
ぜられて
うやく
ここにおいて、後白河天皇在位三年にして位を
って立ち給い、
長の兄
挙げ、夜三条殿を囲みて上皇と天皇とを
も、天皇が脱して清盛の陣に投じ給いしと、源氏の一党
とは、まず源氏の
にして、未だ戦わざるに守りを棄てて走れるあり。ために、
独り
されば、
とんど
条天皇在位六年にして
に到り、後白河上皇
の
に昇りて、武人にして大臣となるの
を
皇を代って立たせ
元年清盛の
を
六十余人、
長子
りぬ。しかもこれ、藤原氏の如き実力によらざる
らずして、
ただし平氏の成功は
したる源氏は、やや運命の
必然に、血に
るべくして、まずその
を
果して
されど、
云わしむるに至れり。
た当時の一
されど、
盛を祝するものなるか、あるいはこれを呪うものなるかも、また
らざるを
むしろ、如何なる警語によって現実せらるるべきかは、予輩が耳を側てて聞かざるを
得ざるところならずとせざるなり。これより
の夢を
源氏の一
り。これ等の事実は、たまたま
に過ぎざるものなるが如しと
平氏の注目を免れんことを
のすでに軽きを認め、平氏の
なりとなし、
なかんずく
父祖が勢力を
ここにおいて、
黒々と
しめざるべからず。
の子、
なるなり。
果然、
氏と
いに
用せらるるに至りたるもの、その
せずや。平氏の
なる、人をして
の花の色」とを
陸において
十一代
万と
は、
のために
る
留まるに
えて
画的なるだけ、
かくて
元年正月、平氏を
る者ことごとく水に投じ、天皇の生母
にするところとなりて、二代の栄華一朝の夢に帰しつつ、ただ落花の
その
りて暗然として巻を
平氏の末路の
なり。文弱となりたる
ってなり。かくて、
なるのみならず、
れば、「
まで
武力の
に
て国土を管理せしむると共に、
んことを建議し、しかして
かしめ、容易にこれを
摂政を求むるよりも、
んど云う極めて
り
藤原氏かつて
を
六ヵ国の
過ぎずして、
たる手段を取らず、
せり。これ、表面はなはだ小なるが如くにして、その
み。
しかもその結果の持続し
むるものなくんばあらず。
彼の実力は、その
にその異常に
て二十人を倒す者にあらざれば、
は、普通に「三
す者」と
れより
二十人を倒す者」と云わずんば
かくして、自己に親近する
て、これを周囲に
を積みたる、すなわち、二十
して、争うて自己に
りして、自家の周囲は常に
るなり。「八州天下に敵し、
を
平氏の滅亡と共に
ずして、実力の上に
を見る。源氏三代にして
氏の
のとならしめられたり。
つつありしが、
なる
ぎ、
クーデター、
反響としての「天子御謀叛!」の叫びは、
も
天子あるを知らざるなり。
み。
的に
「天子御謀叛!」。この語実に
これを発したる者の肉を
これ
の一
ついに一万七千五百の少数に過ぎずして、しかのみならず、
ざる
攻めしむるに、形勢すでに明らかなりと
る者、必ず、親を
倉に
すること、
急にして
を有せる者と
と称して
ところ、権大納言藤原忠信、権中納言源有惟、
原
十六代
さらに、
よりも重し。「
しきに到るまで、これに対する悪反響を
しかして、北条氏を
にあらずして、八代の
しみ
るが故なるのみ。語を
び
ひとたび、「そらモウコが来たぞ!」と呼べば、
つある
は果して
何なるかを考えしことなしと
と。
されど、「モウコ」の意味決して解し
て、一時は全日本を
るに到り、比較的
お
「
今日なおこの語が人を
ずや。実に、蒙古の来寇こそは我が
これより
古の
り北はバルチック海に到るまでの間を
しだけそれだけ、
を与えたる者の、
その孫
すでに
の
の民に先だちて形勢の
のとなし、却って
鎌倉の
者を
者を送りて
ために、
れて後、その
を
ただ
ねて日本刀を
れるは、すなわちこの結果なり。しかも
間に
いて神に誓い、
を倒して一
しばしば
本流
これによって、敵軍
つつある間に、六月三十一日の
皆
の
面
皆
しかして、この
これが
ぶ。七月四日、我が軍
しも国民をして、日本滅亡の期到れりと悲観せしめし
し、彼をして再び我に加うること
人政治の
心人物に
されど、
を知るべからざるを
一歳にして
りし
害のはなはだ大なるものと
しかのみならず、十四年の長きに
てその業に
てほとんどまったく業を廃し、
るために国民の
あらざるなり。
えば、
し、
ちまち
ばたとえ東北の
一
つ、ひたすら
用うるところなるが、その
第九十六代
北条氏を
の
人の
す。優美なる
人と、それ等の対照
せしめずんば
天皇は
たるものにして、
時代を
その意味
りしが、
前例なき純武人的政治を創始して、十分なる効果を
より幾多
と
史中の
方面に進路を開きつつ、
に
を拾集し、もってこの一段の
十年の間に
いてその灰を
いて海を渡りたるをもって、その
いで
の最上主権者となり、
く進化せしめ、同時に、後醍醐の皇子にして、第九十七代南朝
んに
て、共に
たり。南北両朝対立して、国家の
ける
は
る
記録が、実に
らしめ、しかして
かくて、第九十八代南朝
して、
く日本人の
十二年五月(
二年に到るまで、大陸の各地を
も
もって、
めたる
その他
る
恐るるの
を感ぜずんばあらず。
これ彼の
を
発す。矢は
重さ二、三
ちどころに倒る」と、これ彼の
また日本刀に対するに譲らざるを
曰く、「
すなわち下より
く、「
る
たるに
しかして、彼等は日本人の
に
人を
これを神秘化したるものなるべく「
る我が武人の