伊藤銀月「日本警語史」4

その三 血に塗れたる武人の鉄腕によって料理せらるる日本史

鴨川の水、双六の采、山法師1-ー武士道の経典における最上無二の鉄律たる警語-叔
父児ー代表的武人の純真なる面目を発揮する警語ー平氏にあらざる者は人にあらず
li水禽の羽音に驚く平氏i驕る平家は久しからずー1二十矢を放って二十人を倒す
者にあらざれば儀衛の任に適せずー天子御謀叛-今日なお悪童を慴伏せしむる権威
を留むる警語-美女の裸体を薄羅に包みたる無礼講ー1-舞動すれば上下四旁ことごと
く白うしてその人を見ず
 いよいよ、生白(なまじろ)く肉(やわら)かなる文人(ぶんじん)の手に(もてあそ)ばれたる()国史(こくし)は、()条天(じよう)皇の一
(かつ)藤原氏を気死(きし)せしめ給いしと共に巻を閉じられて、血に(まみ)れたる武人(ぷじん)鉄腕(てつわん)によっ
て料理せらるる日本史の(ぺ ジ)は始まれり。かくて、()警語史(けいこし)もまた(ふる)き一段を終結し
(あら)たなる一段を開始せざるべからざるなり。
 桓武(かんむ)天皇時代において、すでに、「(ひたい)()()はありとも、(そびら)()()()し」の警
語の表現せる如く、特殊(とくしゆ)の発達を認められし坂東武人(ばんどうぶじん)はその後将門(まさかど)(らん)()、忠常の
変を()(ぜん)九年、()三年の(えき)()満仲(みつなか)頼信(よりのぶ)頼義(よりよし)義家(よしいえ)等の名将の気呵(きか)を受け、
訓練に訓練を重ねられて、その発達の勢いの盛んなるこど、(ゆう)に国家の一大勢力とな
りたるが、藤原氏失権(しつけん)して、宮室(きゆうしつ)時代の絵巻物(えまきもの)過去に()き去らるるや、ついに、その
実力(じつりよく)をもって天下を支配するに到らんとせり。しかのみならず、盗賊(とうそく)猩獗(しようけつ)僧侶(そうりよ)
横暴(おうぽう)は、(とき)を追い(だい)()うていよいよはなはだしく、しかして、これを(おさ)うべくただ
武人(ぶじん)の力に依頼するのみなるをもって、(ちから)これ(けん)なるの事実ますます顕著(けんちよ)となり、何
(いつ)しか、牢乎(ろうこ)として抜くべからざるの根柢(こんてい)を築き()すに(およ)びたり。盗賊(とうそく)問題は必ずし
も云わず、当時、僧侶の横暴の如何(しカ)にはなはだしくして、かつ、如何(レカ)に実力のこれに
伴うものありしかは、第七十二代白河(しらかわ)天皇が、天下に意の如くならざるものの三を()
げたる()によりて(うかが)()べしと()す。
 自河は後三条天皇の皇太子にして、父皇(ふおう)に位を譲られて立ち給えるもの、父皇が身
をもって天下を率い給いし克己心(こつきしん)欠如(けつじよ)して、ただその物に(くつ)せずして所思(しよし)を断行す
るの気力を伝承(でんしよう)し給い、藤原氏のすでに衰頽(すいたい)して()()きに(じよう)じ、久しく藤原氏に(よく)
(あっ)せられし皇室の鬱屈(うっくっ)を代表して、藤原氏の足跡(そくせき)()みつつ、さらにほとんど藤原氏
(いた)らざるところに進み、あたかも、道長(みちなが)が、
  この()をば()()とそ思ふ望月(もちつき)()けたることもなしと(おも)へば
を歌いしが如く、浮誇豪奢(ふこごうしや)二世を(むな)しうして、天下()の如くならざるものなきを自認(じにん)
し給うに(およ)びたりと(いえど)も、しかもなお、(みずか)(たくま)しうすることに(あた)わざるの歎声(たんせい)を発し
給わざるを()ず。「天下(ちん)()の如くならざるものただ三あり。鴨川(かもがわ)の水、双六(すごろく)(さい)
および山法師(やまほうし)!」の一警語(けいこ)すなわちこれなり。
 南流(なんりゆう)する鴨川の水を(さかし)まに北流(ほくりゆう)せしむること(あた)わざるは、(げん)()たざるところにし
て、その大雨(だいう)ごとに氾濫(はんらん)するに(のぞ)み、急に水量を(げん)ぜしむるも、また人力(じんりよく)()くする
ところにあらず。さらに双六(すごろく)(さい)をして、あるいは一を()だし、あるいは六を()だす
こと人意(じんい)の如くならしむるも、全然(ぜんぜん)不可能の事に属せり。されば元来()の如くならざ
る性質の物を()ぐること一にして(とど)まらざるも、(いま)だもって()とするに()らずして、
しかも、これ等を()げたること(あえ)てこの()主眼(しゆがん)にあらず。
 ただ第三の山法師(やまほうし)ーiすなわち比叡山延暦寺(ひえいざんえんりやくじ)の僧侶を()げて、これ等の根本的(こんぽんてき)に意
の如くならざる物と同一視し、重くその権能(けんのう)(みと)むるに到り、始めてこの()(おお)いに
(ふる)えるを見るなり。僧侶の跋扈(ばつこ)は元来聖武(しようむ)玄肪(げんぽう)に始まりて称徳(しようとく)道鏡(どうきよう)()れるもの、
ただし、俗界の趨勢(すうせい)が、最初文権(ぶんけん)(にぎ)れる宮室的貴族(きゆうしつてききぞく)の有せし勢力をば、漸次(ぜんじ)武権(ぷけん)
(よう)せる地方的貴族(ちほうてききぞく)の手に移したると(ひと)しく、最初君側(くんそく)()りて恩寵(おんちよう)(にな)える僧侶の
特有なりし専姿横暴(せんしおうぽう)の態が、何時(いつ)しか転じて、地方山野の間に団結して兵刃(へいじん)を蓄えた
るそれ等のものとなりたるなり。
 しかして、何故(なにゆえ)に僧侶が多数(あつ)まりて兵刃を蓄うるに至りたるかと云うに、盗賊(とうそく)
行の(きよく)、これを(とう)ずるに軍隊(ぐんたい)を用いざるべからざる(こと)ほど、(しか)くその数の多くその勢
いの大なるを(いた)せるをもって、比較的富有(ふゆう)にして防禦力(ぽうぎよりよく)()ける山中野外の寺院の如
き、匪徒(ひと)の争うて着目するところとならざるを得ずして、ために、(しき)りにその酷烈(こくれつ)
劫掠(ごうりやく)(こうむ)りたる(すえ)は、彼等もまた、自衛上己(じえいじようや)むを()ずして、相応の口実の(もと)兵刃(へいじん)
を蓄え武力を養うことを(あえ)てし、豪猾不逞(こうかつふてい)の徒の僧侶化したる者、すなわち世俗に云
うところの(おおかみ)法衣(ころも)を着せたる者を集めて、盗賊(とうそく)(うれ)いに備うるに至りたるが、すで
にして、元来防禦(ぽうぎよ)の目的より起されたる消極的軍備も、その蓄積せられ訓練せられて、
防禦にあまりあること十二分なるに(およ)ぶや、ほとんど軍備そのものの特質なるが如く、
(みずか)ら発して他に加えずんば()むこと(あた)わず。
 ここにおいて、南都(なんと)興福寺(こうふくじ)江州(こうしゆう)園城寺(おんじようじ)三井寺(みいでら))、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりやくじ)等、寺院の
巨大にして武力に富めるものは、朝命(ちようめい)(かろ)んずること(あくた)の如くして、好んで他と兵刃(へいじん)
                                  眼中また皇
を交え、なかんずく延暦寺最も優勢にして、全然一強独立国の観を為し、
室あるなく・霧の支配をも受けずして・独り意の璽所を.掛,ずんとす。翳無
躍・命,む少しく意に満たざるあれば・ただちに墅の柑興を捌ぎ丗だして、認を横
行し、鸞剛に乱入するを懺びず。ついには、淨謝にして豪放なる白河天皇を
して、なおその手剛さ恐ろしさ身に浸みて、根本的に意の如くならざる性質の物と山
譯とを里視せざる鯲わざらしめ、すなわち、轍鵬の水、藻煮の彩山法師」とい
う、是非(ぜひ)もなき警語(けいご)拈出(ねんしゆつ)せらるるを見るに至りたり。
 かかる山法師の恐怖より天皇を保護し(たてまつ)る者、ただ武人(ぶじん)あるのみにして、永保(えいほ)元年
                                   兵を率い
                          その弟義綱をして、
十月、天皇石清水に行幸し給うや、源義家、および、
て叢を驀せしめ・もって山法師の襲撃に備えたるを、豊なる事実と漸し、その他
この類の例が多き、挙げて数うべからざるなり。外敵を征する事の(ほか)蝦夷(えぞ)(ふく)する
事の鵬、瓣都を討ずる事の螺、盗驟を諞ずる事の姆、これ等の堀朔以上、最も多く武
人をして、勢力を()せしむるの動機(どうき)を作りたるは僧侶(そうりよ)の横暴にして、なかんずく、山
法師が切実に皇室の信頼を武人を与うるの媒介(ばいかい)()したるものと云うことを()べし。
武人と皇室との緊密(きんみつ)なる接近、これやがて政権を武門(ぶもん)に帰せしむる機運の進展を意味
するものならずんばあらざるなり。
 (かく)の如くして、武人(ぷじん)の実力は(ちやくちやく)々訓練せられ、一種の武人的趣味(ぷじんてきしゆみ)はますます発達
し、文人(ぶんじん)および時代の風習(ふうしゆう)(こと)なれる武人気質(ぷじんかたぎ)なるもの、いよいよその特色を発揮し
て、軍人として世界に特殊なる長所を有せる日本民族は、ようやくその要素を(、つち)に蓄
(きた)れるが、白河天皇、位を皇太子善仁親王(よしひとしんのう)(第七十三代堀河(ほりかわ)天皇)に譲って、退隠(たいいん)
し給い、しかも院中に天皇の実権を保留して、さらに在位中に過ぎたる濫政(らんせい)を行い給
うや、かつては、源頼義父子(みなもとのよりよしふし)(なや)ますこと九年に(およ)びし東北武頑(とうほくぷがん)()は、(ふたた)び、こ
威無(いな)信無(しんな)道無(みちな)法無(ほうな)きの時代を好期(こうき)()して(かしら)(もた)げ、ために武人の訓練をし
てさらに一段ならしむべき、多くの機会を作りたり。
 今その次第(しだい)(しる)さんに、(ぜん)九年の(えき)、頼義父子を(たす)けて功ありしをもって、鎮守府(ちんじゆふ)
将軍に任ぜられたる清原武則(きよはらのたけのり)は、すでに死し、義家(よしいえ)代ってその任に当るべく奥州(おうしゆう)(くだ)
りたるに、たまたま、武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)が二子なる、貞衡(さだひら)家衡(いえひら)相争い、武貞(たけさだ)の弟武衡(たけひら)が、
灘に党して灘を扉むるあり・藁は藻と親戚なるをもって、すなわちこれを撚
け・堀鵬天皇の蹴浴四年より七年に灘びて、燐鞣三年に嵐なり、ついに、武衡および
家衡を出羽仙北郡金沢(でわせんぼくこおりかねざわ)(さく)(ほろ)ぼせり。これを()三年の(えき)と云う。
 この(えき)、義家が麾下(きか)()に、平景政(たいらのかげまさ)なる者あり、鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)と称す。敵士鳥海(とりのうみ)
る者にその眼を射られしも、毫も屈せず、箭を折って挺身鳥海を殺し、
帰って陣に入り、兜を脱いで仰臥す。三浦為次なる者、彼が為に箭抜かんとし、鏃深
()りて力を要するをもって、足をもってその(おもて)に加う。景政怒(かげまさいか)って為次(ためつぐ)()らんと
す。曰く、「戦って死するは武士の本望(ほんもう)なり。生きて人に(おもて)を踏まるるこそ恥辱(ちじよく)なれ!」
と・灘すなわち驚いて謝し・摂.ピく響いて攣抜けば、眼球鑽ど共に出でぬ。景
(とき)(とし)わずか十六、その雄烈(ゆうれつ)実に人の(たん)を寒うするに()れり。
                       後世(こうせい)武士道の経典(きようてん)における最上無
 宜なり、この死生を一貫せる至剛至硬の警語は、
二の鉄律(てつりつ)となり、権五郎景政(ごんごろうかげまさ)は、これがために神に(まつ)られて千歳(せんざい)廟食(びようしよく)するに(いた)れる
ことや。当時、武人が相砥礪(しれい)してその理想とする所に近
つかんとするの(じよう)、もって(おも)うべく、武人気質(ぶじんかたぎ)の発達、もって見るべしと()す。
 かくて、武人の発達すでにある度を超えて、その色彩(いちじる)しく鮮明なるを致すや、(かん)
()大皇より()でし平氏(へいし)と、清和(せいわ)天皇より()でし源氏(げんじ)との二大別の、顕然(けんぜん)として混同(こんどう)
ること(あた)わざる系統(けいとう)を作れるを見るなり。しかも、これより(のち)源氏の統一に到るまで
の間に拈出(ねんしゆつ)せらるる警語(けいこ)の多くは  むしろそのほとんど全部は、源平(げんぺい)二氏の衝突(しようとつ)
(はつ)する火花(ひばな)の如き性質のものなれば、まずここに源平二氏の由来(ゆらい)大要(たいよう)(しる)(きた)
んに、平氏は、将門(まさかど)亡び貞盛(さだもり)起りて、同族間(どうぞくかん)消長(しようちよう)(けみ)して以来、貞盛(さだもり)の子維衡(これひら)、そ
の子正度(まさのり)正度(まさのり)の子正衡(まさひら)(いた)るまでは、未だ(おお)いに(あら)われざりしが、正衡(まさひら)の子正盛(まさもり)が、
鎮西(ちんぜい)雄視(ゆうし)して眼中(がんちゆう)朝廷なかりし源義親(みなもとよしちか)義家(よしいえ)の子)を、鳥羽(とば)天皇の嘉承(かしよう)二年十二
月に討滅(とうめつ)せしより、平氏(はじ)めて(あたま)(もた)げ、正盛(まさもり)の子忠盛(ただもり)が白河法皇に寵遇(ちようぐう)せらるるに
到りて、平氏の基礎(きそ)ようやく()りぬ。
 しかして、正盛、忠盛の平氏は、伊賀(いが)伊勢(いせ)の間に住みて、皇室の手足(しゆそく)たりしかば、
その境遇と()る所の地の位置とは、自然に彼等を支配して宮室的気風(さゆうしつてききふう)感化(かんか)を受けざ
るを()ざらしめ、その采邑(さいゆう)もまた、播磨(はりま)淡路(あわじ)因播(いなば)備前(びぜん)安芸(あき)等、近畿(きんき)
および西南(せいなん)の温暖なる地に()かれ、中央部との交通の利便(りぺん)に富めるをもって、彼等は
何時(いつ)しか坂東(ばんどう)()りて帝位を(うかが)いし将門(まさかど)粗擴(そこう)(たい)を留めざるに到り、武頑(ぶがん)に配する
貴族的都雅(きぞくてきとが)(ふう)をもってして、武人中(ヒぶじんちゆう)やや藤原氏に近き者たるその一派の特色を作
()したるが、これに反して、源氏は(あく)までも純然(じゆんぜん)たる武頑種族(ぶがんしゆぞく)面目(めんもく)を保持しつつ、
(ひたい)()()はありとも、(そびら)()()はあらず」という気風の東国(とうごく)に基礎を築き来りし
をもって、皇室より分派せし時代は、平氏に比して数世(すうせい)(あと)なりと(いえど)も、(はや)くもその
血と共にその()を変じて、全然粗擴(そこう)なる者となり(おわ)れり。
 すでにして義家(よしいえ)の子義親対馬守(よしちかつしまのかみ)となり、肥前(ひぜん)の土豪高木文貞(たかぎふみさだ)(こん)(つう)じたるにより
て、源氏(げんじ)の勢力はまた九州にも扶殖(ふしよく)せられ、東隅西端相応(とうぐうさいたんあいおう)じて、ますます京畿柔媚(けいきじゆうび)
(ぞく)に遠ざかりたるが、義親対馬(つしま)掌大天地(しようだいてんち)跼蹐(きよせき)するを(いさぎよ)しとせずして、(ほしい)ままに鎮西(ちんぜい)経略(けいりやく)するに(およ)び、朝廷その罪を責め、勅使(ちよくし)
(くだ)してこれを召すや、義親(よしちか)勅使を殺して(はばか)らざるの横暴を(あえ)てしたるも、ついに兵
を発して(とら)えられ、隠岐(おき)(なが)さるるに到りたり。されど、暴勇野猪(ぽうゆうやちよ)の如き義親(よしちか)は、た
ちまち隠岐を脱して出雲(いずも)に入り、目代(もくだい)を殺し、官物(かんぷつ)を奪いて、勢いはなはだ猖獗(しようけつ)なり
しかば、 平正盛(たいらのまさもり)勅を奉じてこれを討滅(とうめつ)し、ために、平氏独り盛んにして、源氏(ふたた)
(ふる)うこと(あた)わざらんとするの観ありしを、義親(よしちか)の子為義(ためよし)、第七十四代鳥羽(とば)天皇の天仁(てんにん)
二年、白河法皇の院宣(いんぜん)を奉じて、その叔父義綱(おじよしつな)(はん)せるを討ち、これを佐渡(さと)に流して
より、たちまち朝廷に擢用(てきよう)せられて、正盛(まさもり)と肩を(なら)ぶるに至り、もって源平(げんぺい)二氏が(あい)
(たい)して相譲(あいゆず)らざるの勢いを()すと共に、また長く(わす)るべからざる怨恨(えんこん)のその(かん)(よこ)

  わるありて、互いに反目(はんもく)排擠(はいせい)するの素地(そじ)(っく)りたり。
   ここにおいて、(なか)ば時代化せる武人と、全然(ぜんぜん)時代の(ふう)()まざる武人とが、時勢(じせい)
  ために導かれて相接触(せつしよく)したるを見る。形勢(なん)不穏(ふおん)ならざるを()んや。しかのみなら
  ず、為義(ためよし)の八男為朝(ためとも)が、驍勇絶倫(ぎようゆうぜつりん)()をもって九州に下り、祖父義親(よしちか)に十倍せる勢威(せいい)
  を(ふる)って功略を(ほしい)ままにするあり。(のち)招かれて京師(けいし)に還りたりと(いえど)も、源氏の勢力は
  (たしか)筑紫(つくし)土壌(どじよう)浸潤(しんじゆん)して、後年(こうねん)平氏を両端(りようたん)より圧搾(あつさく)するに到る準備は、すでにこの
  時に()りぬ。鳥羽(とば)天皇の時、しばしば制符(せいふ)(くだ)して、諸国の武人の源平二氏に属する
  事を禁じたるもの、もって二氏が互いにその()を大にせんとする暗中(あんちゆう)の競争のはなは
  だしかりしを見るべしと()す。かかる形勢に加えて、さらに、二氏の衝突(しようとつ)激成(げきせい)すべ
  き動機が、宮室の間に(かも)(きた)られたるを(うかが)うは、また警語(けいこ)の歴史が発展するの順序を
  見るにおいての重要事ならざるべからず。
   鳥羽(とば)天皇の元永(がんえい)元年、天皇十六歳にして、大納言藤原公実(ふじわらみちざね)女璋子(むすめあきこ)()れて中宮(ちゆうぐう)
  と()し給う。しかも、璋子は天皇の祖父白河法皇がその妙齢(みようれい)の頃より()れ給いし愛人
  にして、中宮となるの(のち)も、天皇の年少なるを(あなど)りて、なおその乱倫(らんりん)を改めざれば、
天皇これを(ふく)み給いて、同二年璋子顕仁親王(あきひとしんのう)を生むも、これを皇子(おうじ)と認め給わず、祖
(そふ)の子なるをもって、却って(おの)れの叔父(おじ)なりとし、すなわち、「叔父児(しゆくふじ)」と綽号(あだな)してこ
れを(あざけ)り給えり。惨酷無比(ざんこくむひ)なる禍乱(からん)()は、()に、この「叔父児(しゆくふじ)」なる冷絶痛絶(れいぜつつうぜつ)の一
警語(けいこ)によりて曝露(ばくろ)せられし事実の(うち)胚胎(はいたい)しつつあるなり。
 顕仁(あきひと)親王立ちて第七十五代崇徳(すとく)天皇となり給うや、白河(しらかわ)法皇を本院(ほんいん)と号し、鳥羽(とば)
皇を新院(しんいん)と称して、政令(せいれい)()()で、その(へい)ほとんど言語に(ぜつ)せり。すでにして、法
皇が近代の天皇に稀有(けう)なる七十七の高齢(こうれい)をもって(ほう)じ給うに到り、上皇まったく院中(いんちゆう)
(まつりごと)(もつばら)にし給い、しかも、かの叔父児(しゆくふじ)一条の悪感(あつかん)によりて、その皇子たる天皇と
相反目(あいはんもく)し給う。果然(かぜん)禍乱(からん)()はようやく(じゆく)(きた)れり。鳥羽(とば)白河(しらかわ)放縦(ほうじゆう)を襲うて、
その気力を()き給い、奢侈淫蕩(しやしいんとう)、宮室を妓閣(ぎかく)にし、侍臣侍女(じしんじじよ)幇間娼婦(ほうかんしようふ)()さざれば
()まず。 平忠盛(たいらのただもり)(したが)えて、寵姫(ちようき)祗園祠畔(ぎおんしはん)に訪い給いし事実は、長く後世(こうせい)話柄(わへい)
なり、藤原氏さえ(あえ)てせざりし、(どうどう)々たる鬚眉男児(しゆびだんじ)が公然(おもて)粉黛(ふんたい)(よそお)うの(ふう)も、こ
の時代より起れり。鉄漿黒(かねくろぐろ)々と薄化粧(うすげしよう)の平家の公達(きんだち)が、(いち)(たに)(だん)(うら)に悲惨なる末
(まつろ)を示すに(およ)びたるも、またこの(ふう)()せられし結果のみ。
 鳥羽(とば)女御(にようご)得子(とくこ)あり。中納言藤原長実(ふじわらのながざね)(むすめ)にして、美福門院(びふくもんいん)(こう)せらるる者すな
わちこれなるが、崇徳(すとく)保延(ほえん)五年五月、得子体仁親王(やすひとしんのう)を生む。すなわち天皇の異母弟(いぼてい)
にして、実に禍乱(からん)の卵たらざれば()まざるものなり。されば、これより(のち)の事は知る
べきのみ。体仁(やすひと)三歳にして、鳥羽(とば)法皇、強いて天皇に(せま)ってこれに(ゆず)らしむ。かくて、
体仁(やすひと)立ちて、第七十六代近衛(このえ)天皇となり給いたりと(いえど)も、年少わずかに十七歳にして
(ほう)じ、しかも儲弐(ちよじ)なきをもって崇徳(すとく)上皇(ひそか)に喜びを()して思い給わ
く、もし(おの)れをして重祚(ちようそ)せしむるにあらずんば、
必ず(おの)れの子重仁(しげひと)を立てんと、中外(ちゆうがい)また望みを重仁(しげひと)親王に属する者多し。(しか)れども、
崇徳(すとく)(はい)しし謀主美福門院(ぼうしゆびふくもんいん)はなお(そん)せり。彼女は、その愛子(あいし)早世(そうせい)を悲しむことはな
はだしきと共に、これ必ず崇徳(すとく)呪咀(じゆそ)に出でたるものなるべしとなせり。
 すなわちますます崇徳(すとく)排斥(はいせき)して、崇徳の同母弟雅仁(まさひと)親王を立つ。第七十七代後白
(こしらかわ)天皇これなり。しかも、法皇と美福門院とは、同年ただちに天皇の御子守仁(もりひと)親王を
立てて皇太子と()し、極力崇徳(すとく)系統(けいとう)(こば)むの意を示して、噴火(ふんか)の気すでに地皮(ちひ)(およ)
び、人をして足蹠(そくしよ)(あつ)きを感ぜしむるに至りたるが、同年十月二日鳥羽法皇(ほう)じ給い
て、勃発(ぼつばつ)()まったく熟せり。崇徳(すとく)上皇その報を聞きて宮に到り給えば、美福門院(びふくもんいん)
右衛門権介藤原惟方(うえもんごんのすけふじわらのこれかた)(むね)を伝え、法皇の遺詔(いしよう)と称して、(こば)んで入れしめず。ここに
おいて、上皇の積憤はついに破裂せざる能わず、左大臣藤原頼長を延いて謀主と為し、
兵を白河殿(しらかわでん)に集む。これ、法皇(ほう)じて(のち)わずかに七日にして、実力(じつりよく)すでに()ちつつ、
(へん)(じよう)じて(こころざし)()べんとするの武門武人(ぶもんぶじん)は、これを聞いて皆手を()って喜べり。歴
史はまさに斬新(ざんしん)なる警語(けいこ)の作用すべきある焦点(しようてん)を作らんとして、()()る如くに進展
しつつあるなり。
 次には当然に、上皇と天皇とが、武人を招引(しよういん)する競争となり、互いに極力(きよくりよく)運動し
たる結果は、源氏(げんじ)棟梁為義(とうりようためよし)がその六子を率いて上皇に応じたる代りに、為義(ためよし)長子(ちようし)
にして武名(ぶめい)()える義朝(よしとも)が天皇に(おもむ)き、父子兄弟相対(ふしけいていあいたい)して干戈(かんか)(まじ)えざる
()ざるに到れるあり。また、平氏(へいし)の首脳清盛(きよもり)忠盛(ただもり)の子)、天皇に(きた)りて、その叔父
忠正(ただまさ)は上皇に到りたり。
 この時、為義(ためよし)の八男為朝(ためとも)時宜(じぎ)(かな)える夜襲(やしゆう)献策(けんさく)(むな)しく、頼長(よりなが)が「両帝(どうどう)々の
対陣に夜襲を用うべからず」という、藤原式腐儒(ふじゆ)論の(こば)むところとなりて、兵気(へいき)いさ
さか銷沈(しようちん)に傾けるを、却って、義朝に軽兵(けいへい)(ひき)いて来襲(らいしゆう)せられ、頼長が(たの)むところの
南都興福寺(なんとこうふくじ)僧兵(そうへい)(いま)だ到らずして、戦わざるにすでに敗兆(はいちよう)を現わせり。頼長(よりなが)すなわ
手足(しゆそく)を張って狼狽(ろうばい)し、敵を見て急に諸将(しよしよう)の官職を進め、その歓心(かんしん)を買わんことを勉
む、果然、警語(けいこ)はこの(かん)に作用せり。驍勇絶倫(ぎようゆうぜつりん)の為朝(ひと)り冷笑して、(おの)れに()てられ
たる蔵人(くらんど)の職を(しりぞ)けて曰く、「敵に臨んですなわち戦うべし、何ぞ官職を要せんや。我
鎮西八郎(ちんぜいはちろう)にて()れり!」と。「両帝堂々の陣」の論者、ここにおいて顔色無(がんしよくな)きなり。
「我は鎮西八郎にて足れり!」の一語、特殊の歴史によりて訓練せられたる代表的武人
の、純真なる面目(めんぼく)を発揮して、精采(せいさい)実に今古(こんこ)照破(しようは)するに足れり。
 戦いは果して崇徳(すとく)上皇の零敗(れいはい)に帰したりと(いえど)も、為朝(ためとも)がこの(えき)における悪戦苦闘振(あくせんくとうぶ)
りの目覚(めざま)しさは、ただに時人(じじん)(たん)を破りたるに止まらずして、長く後代(こうだい)に標準的武勇
(ぶゆうだん)を残しぬ。上皇讃岐(さぬき)(なが)され、頼長(よりなが)走って道に死し、為義(ためよし)忠正(ただまさ)、および為義(ためよし)の諸
(しよし)、皆(くだ)って斬られたりと(いえど)も、(ひと)り為朝が(すじ)()って大島(おおしま)に流されたるは、その勇
武時代(ゆうぷじだい)(ちん)とすべきものありて、敵にもまた(おし)まれたる結果ならずとせざるなり。た
だこの「鎮西八郎にて足れり」の一語ありて、血をもって()を洗う溷濁厭(こんだくいと)うべき保元(ほげん)
(らん)(うち)に、清烈(せいれつ)なる噴泉(ふんせん)()の如く奔注(ほんちゆう)するを見る。快男児(かいだんじ)壮語(そうご)、何ぞそれ奇警(きけい)
なる!
 一の変乱(へんらん)はさらに他の変乱(へんらん)誘発(ゆうはつ)(きた)りぬ。 源義朝(みなもとのよしとも)保元(ほげん)の乱に(あた)りて最も功労(こうろう)
あり。しかも、肉親の父および諸弟(しよてい)(たたか)ってこれを(やぶ)り、なお、父および諸弟(しよてい)(おのれ)
よりて(くだ)れる者を保護つること(あた)わず。朝廷の(せま)るところとなりて、(みずか)らそれ等を斬
(ざんしゆ)するの()むなきに到り、(ことこと)骨肉(こつにく)(けず)りて孤立するの悲惨を(けみ)するに(およ)びたれば、
まさに、十分なる報酬(ほうしゆう)を得て(みずか)(なぐさ)めざるべからざるに、(こと)すでに過ぐるや、宮室的
気風(きゆうしつてききふう)を帯びて公卿(くげ)結托(けつたく)する便宜(べんぎ)を有せる平氏は、功労(こうろう)少なくして却って重賞(じゆうしよう)を受
け、敵の弱きを(えら)びつつ、しかも逡巡能(しゆんじゆんよ)く戦わざりし清盛(きよもり)にして、なお、播磨守(はりまのかみ)に任
ぜられて昇殿(しようでん)(ゆる)されたるに、義朝(よしとも)(わず)かに右馬権頭(うまごんのかみ)()たるに過ぎず。嗷訴(こうそ)してよ
うやく左馬頭(さまのかみ)となることを得たりと(いえど)も、未だ昇殿(しようでん)(ゆる)さるるに到らざるなり。
 ここにおいて、後白河天皇在位三年にして位を退(しりそ)き、年少の第七十八代二条天皇代
って立ち給い、平治(へいじ)改元(かいげん)せらるるや、義朝、後白河の寵臣(ちようしん)中納言藤原信頼(ふじわらののぶより)なる者(道
長の兄道隆(みちたか)(のち))と相結託(あいけつたく)して、信頼および義朝を排斥(はいせき)すところの、清盛(きよもり)と少納言藤
原通憲入道信西(ふじわらのみちのりにゆうどうしんぜい)との一党に当り、元年十二月、清盛が熊野(くまの)(いた)りし(きよ)(じよう)じて兵を
挙げ、夜三条殿を囲みて上皇と天皇とを(よう)するに到る。信西(しんぜい)走って(みち)()らる。しか
も、天皇が脱して清盛の陣に投じ給いしと、源氏の一党頼政(よりまさ)反覆(はんぷく)して清盛に(くみ)せし
とは、まず源氏の士気(しき)をして沮喪(そそう)せしむるに足れるに、これに加うるに、信頼(のぶより)怯懦(きようだ)
にして、未だ戦わざるに守りを棄てて走れるあり。ために、義朝(よしとも)
独り()く戦うと(いえど)も、この頽勢(たいせい)輓回(ばんかい)するに足らずして、ついに(おお)いに平氏に(やぶ)られ、
(のが)れて尾張(おわり)内海(うつみ)に到り、旧臣長田忠致(きゆうしんおさだただむね)に投じて、却ってこれに殺さる。
 されば、武門(ぶもん)の二大派のその一なる源氏の幹部は、保元平治(ほげんへいじ)の二変乱を経過してほ
とんど尽滅(じんめつ)するの悲運に余儀(よぎ)なくせられ、平氏独り盛んにして、勢威当(せいいあた)る者なく、二
条天皇在位六年にして(ほう)じ給い、わずかに三歳の第七十九代六条天皇代って立ち給う
に到り、後白河上皇(まつりごと)を院中に()くこと、白河、鳥羽の例により給うと(いえど)も、平氏
光彩(こうさい)すでに皇室を(おお)うて、院宣(いんぜん)何の効力あるなく、六条の仁安二年、清盛太政大臣(だじようだいじん)
に昇りて、武人にして大臣となるの嚆矢(こうし)()し、ついには、六条天皇を五歳にして位
退( りぞ)かせ(たてまつ)り、後白河の皇子にして清盛が妻の妹滋子(しげこ)(しゆつ)なる八歳の第八十代高倉(たかくら)
皇を代って立たせ(たてまつ)り、同時に、後白河上皇は落飾(らくしよく)して法皇となり、さらに、承安(しようあん)
元年清盛の女徳子(むすめとくこ)建礼門院(けんれいもんいん))入って中宮となりて、十一歳の天皇に十五歳の中宮(ちゆうぐう)
(はい)するの不自然(ふしぜん)(あえ)てするや、平氏の権勢日月(けんせいじつげつ)の如く、一族にして朝臣たる者実に
六十余人、族党(ぞくとう)の領有三十余国(当時の日本は六十余州)に(つらな)りて日本の半部を占め、
長子重盛(しげもり)内大臣にして左近衛大将(さこんえのたいしよう)を兼ね、次子宗盛(むねもり)中納言にして右大臣を兼ぬるに至
りぬ。しかもこれ、藤原氏の如き実力によらざる浮萍(ふひよう)と一(よう)権勢(けんせい)にあ
らずして、累代蓄積(るいだいちくせき)し来れる武力の上の効果の現実したるものに(ほか)ならず。
 ただし平氏の成功は幾分(いくぷん)僥倖(ぎようこう)(ともな)えるの(かたむ)()きを()ずして、これと反対に失落(しつらく)
したる源氏は、やや運命の(しいた)ぐるところとなりたる観あるが如しと(いえど)も、これ国家が
必然に、血に(まみ)れたる武人の鉄腕  すなわち実力ある者によって料理せらるるに至
るべくして、まずその道行(みちゆ)きの順序上、新時代の子なる武人の(うち)比較的旧時代の臭味(しゆうみ)
()べる平氏に御鉢(おはち)が廻りたるものに過ぎざれば、平氏が果して幸運なるか、源氏が
果して薄命(はくめい)なるかは、(いま)短日月(たんじつげつ)の現象によりて(けいけい)々に定むること(あた)わざるなり。
 されど、()(かく)に平氏は全盛時代に入りたり。清盛の驕慢専横(きようまんせんおう)は、藤原基経(ふじわらのもとつね)および
道長(みちなが)にも過ぎ、その一門の実質的栄華は、遥かに藤原氏のそれに()え、清盛が妻の兄
大納言平時忠(だいなごんたいらのときただ)をして、(あえ)広言(こうげん)して、「方今天下(ほうこんてんか)平氏にあらざる者は人にあらず!」と
云わしむるに至れり。鳴呼(ああ)、「平氏にあらざる者は人にあらず!」。誇耀(ごよう)(うち)自然に天
(てんらい)規箴(きしん)あり、道破(どうは)し得てこれ時代の真相に徹するものにあらずや。ま
た当時の一警語(けいこ)たるを失わずと()す。
 されど、鳴呼(ああ)されど、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言(こげん)が、果して平氏の全
盛を祝するものなるか、あるいはこれを呪うものなるかも、また(いま)だ容易に定むべか
らざるを如何(いかん)せん。この語の反響(はんきよう)が、(いず)れの(へん)より如何(いか)なる声をもって来るべきかは、
  むしろ、如何なる警語によって現実せらるるべきかは、予輩が耳を側てて聞かざるを
  得ざるところならずとせざるなり。これより(のち)、すでに失権(しつけん)せし藤原氏が、(ふたた)昔日(せきじつ)
  の夢を繰返(くりかえ)さんとして平氏を(はか)り、(いま)だ発せずして党中(とうちゆう)に密告者を生ぜるあり。また、
  源氏の一頭頼政(とうよりまさ)が、後白河の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じて、兵を起し、敗れて宇治に死せるあ
  り。これ等の事実は、たまたま(かえ)って平氏の威力(いりよく)を加え、その専権(せんけん)の勢いを助長する
  に過ぎざるものなるが如しと(いえど)も、しかも、為義(ためよし)義朝(よしとも)が失落以後、諸国に潜伏(せんぷく)して
  平氏の注目を免れんことを(つと)めつつありし、源氏の遺肇(いげつ)等は、これによって平氏の(かなえ)
  のすでに軽きを認め、平氏の暮景(ぼけい)すでに催して、自族の曙光(しよつこう)まさに到らんとするもの
  なりとなし、頼政(よりまさ)陳呉(ちんこ)()して、所在(しよざい)争うて興起(こうき)し来れり。
   なかんずく()の大なる者は、伊豆(いず)に起れる義朝(よしとも)の子頼朝(よりとも)と、信濃(しなの)に起れる義朝(よしとも)の弟
  義賢(よしかた)の子義仲(よしなか)となり。義仲(よしなか)項羽(こうう)の如く、頼朝(よりとも)劉邦(りゆうほう)()たり。共にこれ、累代(るいだい)その
  父祖が勢力を扶植(ふしよく)せし東国武頑(とうごくぷがん)の地に起りて、「(ひたい)に立つ矢はありとも、(そびら)に立つ矢は
  ()し」という信条(しんじよう)を有せる東人(とんじん)(ひきい)る者なり。
   ここにおいて、景初(けいしよ)よりすでに、宮室的臭味(きゆうしつてきしゆうみ)()びて、しかも、政権を占めて後、
全然(ぜんぜん)宮室的貴族化するに到りたる平氏は、(なよなよ)々と女性(によしよう)男装(だんそう)せしめたるが如き、鉄漿(かね)
黒々と薄化粧(うすげしよう)のその弟子(ていし)()りて、人は皆(とら)の如く馬は皆(りゆう)に似たる源氏(げんじ)(ぐん)と戦わ
しめざるべからず。何等(なんら)悲惨(ひさん)そや。しかして、何等(なんら)滑稽(こつけい)そや。将門(まさかと)(ほふ)りし貞盛(さだもり)
の子、義親(よしちか)(ちゆう)せし正盛(まさもり)の孫、今何処(いずこ)にか()る。勝敗の数は戦わずしてすでに明らか
なるなり。
 果然、高倉(たかくら)天皇の治承(じしよう)四年十月、貴公子なる清盛が嫡孫平維盛(ちやくそんたいらのこれもり)を大将軍と()して、
風流人(ふうりゆうじん)なる平忠度(たいらのただのり)、同じく知教(とものり)これが(ふく)となり、五万の兵を発して頼朝(よりとも)を討ち、源
氏と富士川(ふじがわ)(へだ)てて対陣したるが、近畿中国(きんきちゆうごく)の産にして比較的都雅(とが)なる平氏の軍兵は、
(はる)かに東軍(とうぐん)の人(こう)に馬(けん)なるを望んで、まず戦いを(かた)んずるの(いう)あり。一夜水禽(みずどり)(おお)
いに(おこ)るを聞いて、敵の(にわか)に到るとなし、周章狼狽(しゆうしようろうばい)人馬相踏藉(じんばあいとうぜき)して、死傷算無(さんな)く、相追(あいお)うて陣を()てて潰走(かいそう)し、ことごとく西に向って還りぬ。いわゆる風声
鶴唳(ふうせいかくれい)(きも)を破るものにして、「水禽(みずどり)羽音(はおと)に驚く平氏」という、怯懦(きようだ)なる者を刺戟して
奮起(ふんき)せしむる力ある警語(けいこ)が、(ひと)り戦争におけるのみならず、後世(こうせい)広く日常の人事に応
用せらるるに至りたるもの、その起源実(きげんじつ)にここに在るなり。武人平氏が文人藤原氏の
(へい)を学びて、さらに藤原氏だも至らざるの所に達せる、ほとんど奇蹟(きせき)と云うべきに価
せずや。平氏の亡兆(ぽうちよう)すでにこの不祥事(ふしようじ)によりて暗示(あんじ)せらる。この現実(げんじつ)をもって、()
時忠(ときただ)が、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言(こげん)と対照し来るに、その変化の倏忽(しゆつこつ)
なる、人をして(うた)如露亦如電(にようやくによでん)の感に堪えざらしめんとす。
 ()う、予をして平家物語の作者に(なろ)うて、(ふたた)び「祗園精舎(ぎおんしようじや)(かね)()」と「沙羅双樹(しやらそうじゆ)
の花の色」とを()(きた)らしめよ。すでに、東海(とうかい)において水禽(みずどり)に驚きし平氏は、また北
陸において火牛(かぎゆう)(おどろ)かさるる平氏たらざるを得ずして、これより(のち)三年を経て、第八
十一代安徳(あんとく)天皇の寿永(じゆえい)二年五月、全力を傾け尽したる十万の大兵をもって、義仲(よしなか)の五
万と越中(えつちゆう)礪並山(となみやま)に戦い、義仲に火牛を(はな)たれて大敗したり。しかも平氏の首脳(しゆのう)清盛
は、自家(じか)(むすめ)の腹に()でし二歳の安徳(あんとく)天皇を立てたる年なる、養和(ようわ)元年閏二(うるう)月、熱病
のために(こう)じて、平氏はすでに(かしら)を失いたる蛇の如く、その進前(しんぜん)の方向に迷いつつあ
(さい)なりしかば、最後の運命を()したるこの一(きよ)の失敗は、これをして、京洛(けいらく)の間に
留まるに()えざらしめ、同月、玉の如き公子(こうし)と花の如き姫嬪(きひん)(ひずめ)(わだち)とを(まじ)えて、錦
(きんよう)皇都(こうと)を後に、幼冲(ようちゆう)の天子を(まも)り、飲泣(いんきゆう)号泣(こうきゆう)相和(あいわ)しつつ、紅
紫燎乱(こうしりようらん)倉皇(そうこう)として西に向い、しかも、本州(ほんしゆう)(きよ)を安んずること(あた)わずして、海を越
えて讃岐(さぬき)に走りたる、いわゆる「平家の都落(みやこおち)」なるものにして、その光景の詩的かつ
画的なるだけ、悲惨(ひさん)の度は一入(ひとしお)深かりき。
 かくて(のち)高倉(たかくら)天皇の第四子立ちて、第八十二代後鳥羽(ごとば)天皇となり給い、その元暦(げんりやく)
元年正月、平氏を(みやこ)より追いし義仲(よしなか)は、頼朝(よりとも)の弟にして頼朝(よりとも)に代って兵を率いたる範
(のりより)義経(よしつね)()められて、近江(おうみ)粟津(あわづ)敗死(はいし)し、この間に捲土重来(けんどちようらい)して摂津(せつつ)の一の(たに)
()りたる平氏も、また範頼(のりより)義経(よしつね)(おとしい)るるところとなりて、讃岐(さぬき)屋島(やしま)退(しりぞ)き、翌文
(ぶんじ)元年二月、屋島もまた義経に破られ、同三月岸には桜咲いて海には霞棚引(かすみたなび)くの時、
長門壇(ながとだん)(うら)の最後の戦いにおいて、八歳の安徳(あんとく)天皇を始め(たてまつ)り、平氏の一族の残存せ
る者ことごとく水に投じ、天皇の生母建礼門院(けんれいもんいん)、平氏の頭領宗盛(とうりようむねもり)父子等は、源氏の(とりこ)
にするところとなりて、二代の栄華一朝の夢に帰しつつ、ただ落花の繽紛(ひんぷん)たるを留め、
その末路(まつろ)凄惨悲涼(せいさんひりよう)なる、後世の豊臣氏(とよとみし)の滅亡と共に、()を読む者をして、ここに到
りて暗然として巻を(おお)わしめずんば()まざらんとす。
 祗園精舎(ぎおんしようじや)(かね)()ー3一諸行無常(しよぎようむじよう)(ひびき)あり、沙羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色は盛者必衰(せいじやひつすい)の相を現せり。
平氏の末路の(しか)悲惨(ひさん)を極めたるは、元来武強(ぶきよう)なる者が、変じて文弱(ぶんじやく)となりたるが故
なり。文弱となりたる(のち)においても、武強なりし時代の事を行わざるを得ざりしをも
ってなり。かくて、驕奢(きようしや)なる者の(すみ)やかに(ほろ)びたる例を求めて、独り我が国史に顕著(けんちよ)
なるのみならず、東西(とうざい)史乗中(しじようちゆう)平氏興亡(へいしこうぼう)顛末(てんまつ)の如く、(しか)く明白適切なるものなけ
れば、「(おご)る平家は久しからず!」の警語(けいご)が、長くその権威(けんい)を失わずして、後世(こうせい)に到る
まで好個(こうこ)引例(いんれい)(きよう)せられつつあるも、また十分の理由ありと云うべきなり。
 源頼朝(みなもとのよりとも)武力を用いて平氏を亡ぼすや、深く注意して平氏の(てつ)(おちい)ることを()け、
武力の淵叢(えんそう)たる東国(とうごく)根拠(こんきよ)を置いて、覇府(はふ)相模(さがみ)鎌倉(かまくら)に定め、質実簡素(しつじつかんそ)にして(ごう)
従前(じゆうぜん)の宮室的臭味を帯ばざる、純武人的政治を創始したり。彼の要するところ、(ひと)
(じつ)()りて()にあらず。彼は、諸国に守護(しゆこ)を置き、荘園(しようえん)地頭(じとう)を置き、これ等をし
て国土を管理せしむると共に、州郡不逞(しゆうぐんふそん)()追捕(ついほ)せしめて、もって禍乱(からん)()を絶た
んことを建議し、しかして(おの)(みずか)ら六十六ヵ国の総地頭(そうじとう)総追捕使(そうついぶし)として、これを統
(とうかつ)せんことを奏請(そうせい)し、朝廷をして、むしろ、その求むるところの低くかつ小なるに驚
かしめ、容易にこれを()れらるるに到りたり。(なん)(はか)らん、これ頼朝(よりとも)が大臣関白乃至(ないし)
摂政を求むるよりも、(はる)かに遥かに大なる物を朝廷より得たるにて、地頭(じとう)追捕使(ついぶし)
んど云う極めて(いや)しき名の(もと)手脚(しゆきやく)を蔵しつつ、その(じつ)天皇の権力も職任(しよくにん)も、根本よ
自家(じか)手裡(しゆり)奪却(だつきやく)したるなり。
 藤原氏かつて皇権(こうけん)侵犯(しんぱん)したりと(いえど)も、ただ天皇の幼弱(ようじやく)あるいは狂疾(きようしつ)に乗じて一時
(わたくし)せしのみ、もとより、全日本をその(ゆう)に帰せしめしにあらず。平氏の荘園六(しようえん)
六ヵ国の(なかば)を占めたりと(いえど)も、これまた、()従前(じゆうぜん)の法式に随って受領せしと云うに
過ぎずして、(いま)だ国家の組織のこれがために変更せられしにあらざるなり。
 (しか)るに、今や頼朝(よりとも)根本的に組織を改変して、天皇の有し給いし権力を(ぬす)むが如き(せつせつ)
たる手段を取らず、全然(ぜんぜん)天皇の地位を変じて、単に尊崇(そんすう)主体(しゆたい)()(たてまつ)ることを(あえ)
せり。これ、表面はなはだ小なるが如くにして、その(じつ)大化革新(たいかかくしん)を逆に行きたる空
(くうぜん)の大変革ならずんばあらざるなり。政権まったく武門に帰し(おわ)りて、これより明治
維新(めいじいしん)(いた)るまで、また皇室に(かえ)らず。中間(ちゆうかん)ただ後醍醐(ごだいご)天皇において一時の(へん)を見しの
み。頼朝(よりとも)(はか)るところ、(なん)ぞそれ(いん)にして(しん)なる。されば、この大変革を断行して、
しかもその結果の持続し(、つ)べきを確信せる、頼朝をして深く依頼してもって安心せし
むるものなくんばあらず。(しか)り、頼朝の依頼(いらい)するところは自家(じか)の実力に在り。しかも
彼の実力は、その養成(ようせい)したる武人(ぶじん)武力(ぷりよく)最低根拠(さいていこんきよ)()しつつあるなり。
 ()う、深沈(しんちん)にして大度(たいど)ある頼朝の口より発したるものとして、特
にその異常に緊縮(きんしゆく)せるを(おぼ)えしむる、切実なる警語あるを聞け。曰く、「二十()(はな)
て二十人を倒す者にあらざれば、儀衛(ぎえい)の任に(てき)せず」と。この語のはなはだ奇警(きけい)なる
は、普通に「三()を放って三人を(たお)(もの)」と()うべく、もし「十()(はな)って十人を倒
す者」と()わば、人をしてその選択(せんたく)過酷(かこく)なるを(おも)わしむるに()るべきに、さらにこ
れより(ぬき)んずること十段にして、絶対に意味を強めつつ、必ず特に、「二十()(はな)って
二十人を倒す者」と云わずんば()まざるに()り。
 かくして、自己に親近する儀衛(ぎえい)()(えら)びつつ、自家の武力の基礎を固め、しかし
て、これを周囲に(およ)ぼして、一般武人を激励(げされい)しつつ、さらに、激励を受けて鍛練(たんれん)(こう)
を積みたる、すなわち、二十()を放って二十人を倒すの(いき)に入ることを得たる武人を
して、争うて自己に親近(しんきん)することを求めしむるの(ふう)を起し、それ等のすべての結果よ
りして、自家の周囲は常に(そうそう)(こうこう)々たる武力の精髄(せいずい)によって、擁護(ようご)せらるることを得
るなり。「八州天下に敵し、鎌倉(かまくら)八州に(てき)す!」の警語(けいこ)もまた、この頼朝(よりとも)の一語が反響
(むく)われたる結果(けつか)としての、事実(じじつ)意味(いみ)するものに(ほか)ならず、この一語によりて、頼
(よりとも)天火(てんか)威服(いふく)したる所以(ゆえん)根柢(こんてい)(うかが)うべしと()す。
 平氏の滅亡と共に()(おわ)られたる極彩色(ごくさいしき)絵巻物(えまきもの)は、(ふたた)開展(かいてん)せらるるの機会を得
ずして、実力の上に()かれたる質実簡素(しつじつかんそ)なる純武人的政治の、(げん)として(とこし)えに(そん)する
を見る。源氏三代にして滅亡(めつぼう)せりと(いえど)も、その政体(せいたい)(こう)変革(ヘメロかく)せらるることなく、源
氏の長臣(ちようしん)にして源氏を継承したる北条氏(ほうじようし)の手により、さらに一段(たけ)低く根張(ねば)り深きも
のとならしめられたり。
 後鳥羽(ごとば)、および、第八十三代土御門(つちみかど)、第八十四代順徳(じゆんとく)の三(ちよう)を経て、第八十五代仲
(ちゆうきよう)天皇の治世(ちせい)に到り、後鳥羽上皇多能(たのう)にして(みずか)ら用うるの質をもってし、白河法皇が
驕慢専恣(きようまんせんし)(あと)()みて鎌倉を討滅(とうめつ)し政権を回収せんことを夢み給い、白河に始まりし
(いん)北面(ほくめん)(ほか)、さらに西面(さいめん)の武士を置き、天下事を好むの徒を集めて、(ひそか)に機を待ち
つつありしが、順徳(じゆんとく)天皇の承久(しようきゆう)元年正月、鎌倉の主人実朝(さねとも)が、二代の主人頼家(よりいえ)の子
なる公暁(くざよう)に殺されたるを見て、これ天下の人心(じんしん)鎌倉を離れたる(ちよう)なりと速断(そくだん)し給い、
仲恭(ちゆうきよう)天皇に()き給いて(いま)だ前代の年号を改むる(いとま)なき承久(しようきゆう)三年の事、雷霆(らいてい)(しん)鎌倉の執権(しつけん)という名義(めいぎ)において実際は天下の(しゆ)なる北条義時(ほうじようよしとき)の官職を()
ぎ、(あまね)く全日本の武人に(みことのり)(くだ)して鎌倉を討たしむ。真にこれ非常の英断(えいだん)絶大(ぜつだい)
クーデター、天破(てんやぶ)石驚(い おどろ)くの(がい)あるもの。天下まさに震動(しんどう)すべく、義時(よしとき)まさに(きも)落ち
(こん)飛ばざるべからざるなり。
 (しか)れども、事実の予期(よき)に反せるを如何(いかん)せん。鎌倉の風色冷(ふうしよくれいれい)々として水の如く、天下
(いま)だそよ吹く風をも起さず。すでにして、義時(よしとき)()したるままに一(かつ)せり。曰く、「(てん)
子御謀叛(しごむほん)!」と。海内(かいだい)武人(ぶじん)すなわち声に応じて雲の如くに起り(きた)る。義時が発声(はつせい)
反響としての「天子御謀叛!」の叫びは、激浪怒濤(げきろうどとう)の如く全日本を震撼(しんかん)して、()(もの)
()(あえ)ず鎌倉に()(さん)ずる諸国の軍勢は、実に二十万の多きに(のぼ)りぬ。「天子御謀
(てんしごむほん)!」。(なん)ぞその語の主客(しゆかく)顛倒(てんとう)せるのはなはだしき。(しか)れども、武家政治の(もと)(ところ)
()つつ、実力をもってすべての階級の上に立てる当時の武人は、眼中(がんちゆう)ただ武家ありて
天子あるを知らざるなり。名分(めいぶん)は彼等の知らざるところ、彼等はただ事実を解するの
み。(ゆえ)に、武家に敵対するところの行為は、彼等より見てすバ、て叛逆(はんぎやく)なり。その叛逆
(はんぎやくしや)の天子なるをもって、特に警語(けいこ)を用いて御謀叛(ごむほん)と云う。もって、源氏が如何(いか)に根本
的に皇権(こうけん)奪却(だつきやく)し、北条氏が如何(いか)に源氏を継承(けいしよう)してさらに一歩を進めつつ、天下の人
(じんしん)を一変したるを(うかが)うべきにあらずや。
「天子御謀叛!」。この語実に不臣(ふしん)(きよく)なり。乱臣賊子(らんしんぞくし)(げん)なり。奇怪至極(きかいしごく)なり。不都
合千万(ふつこうせんばん)なり。忠愛なる日本人をして、これを聞いて(きば)()(まなじり)()かしむるに()れり。
これを発したる者の肉を(くしり)わんことを思わしむるに価せり。されど、当時においては
これ剴切(がいせつ)なる一警語たりしことを認めざる(あた)わざるを如何(いかん)せん。見よ、「天子御謀叛!」
の一(かつ)に応じて起ちたる武人はその(すう)ただちに二十万に(のぼ)りて、しかも、訓練あり(せつ)
(せい)ある軍隊ならざるなきに、後鳥羽上皇の霹靂手段(へきれきしゆだん)によって京師(けいし)に集められたる者は、
ついに一万七千五百の少数に過ぎずして、しかのみならず、(なか)盗賊浮浪(とうそくふろう)()(まじ)
ざる(あた)わざりしことを。義時(よしとき)、その子泰時(やすとき)および弟時房(ときふさ)を将と()して、進んで京都を
攻めしむるに、形勢すでに明らかなりと(いえど)も、なお慎重(しんちよう)の用意を()かず、その将士(しょうし)
る者、必ず、親を(つか)わせば子を残し、兄を()だせば弟を留めて、半途(はんと)に心を変じて鎌
倉に(そむ)かんとするの()(そな)う。されば、計画に寸毫(すんこう)遺算(いさん)なくして、幕軍(ばくぐん)京師(けいし)に対
すること、磐石(ばんじやく) をもって累卵(るいらん)を圧するが如く、上皇(こと)
急にして叡山(えいざん)の僧兵を招くと(いえど)も、かつては、鴨川の水、双六(すごろく)(さい)と共に、不可抗力(ふかこうりよく)
を有せる者と(もく)せられし山法師も、当時の武人の勢いに敵すること(あた)わず、力()らず
と称して山門(さんもん)()でざれば、京師(けいし)はたちまち鎌倉に粉砕(ふんさい)せられ、義時が辣腕(らつわん)の加わる
ところ、権大納言藤原忠信、権中納言源有惟、参議藤原範義(さんぎふじわらののりよし)むよび藤原光親、藤
宗行(むねゆき)、藤原信能(のぶよし)等の諸卿(しよけい)は、その首謀(しゆぽう)としてただちに(ざん)(しよ)せられ、後鳥羽上皇は
隠岐(さぬき)に、順徳(じゆんとく)上皇は佐渡(さど)に流されて、仲恭(ちゆうきよう)天皇もまた位を(はい)せられ、代りに、第八
十六代後堀河(ごほりかわ)天皇は鎌倉の手によって立てられ給えり。
 さらに、京軍(けいぐん)食邑(しよくゆう)三千戸を奪って、これを鎌倉の将士(しようし)に分与し、しかも義時(よしとき)(すん)
(こう)も取らず。人心(じんしん)いよいよ北条氏に(ふく)して、鎌倉の権勢(けんせい)ますます(さか)んに、その威令(いれい)
よりも重し。「天子御謀叛(てんしごむほん)!」の一(かつ)(とこし)えに(らい)の如き余響(よきよう)を留めて、北条氏九代の久
しきに到るまで、これに対する悪反響を()(おこ)さざりしもの、(ひとえ)に純武人的政治の、
在来(ざいらい)(いず)れの政治にも(まさ)りて多数人を心服せしむるに足れるものありしが故なり。
 しかして、北条氏を(ほろ)ぼしたるものもまた、純武人的政治より出でたる弊害(へいがい)のため
にあらずして、八代の貞時(さだとき)が年少にして(みずか)(ほしいままま)にし、九代の高時(たかとき)(いぬ)(たつと)び人を(いや)
しみ(えん)を重んじて(まつりごと)(かろ)んじ、この二代の暴虐(ぽうぎやく)をもって七代の事業を破壊し尽した
るが故なるのみ。語を(かえ)て云えば、北条氏が北条氏より退歩(たいほ)して、源氏(げんじ)をも後様(うしろざま)()
()え、端的(たんてき)に平氏となり藤原氏となりたるが故なるのみ。
 今日(こんにち)東北の僻陬(へきすう)に到り見よ。諸君は、婦人が腕白(わんぱく)なる小児を(おど)
(すか)す目的のために、「モウコが来た! モウコが来た!」と云うを聞くことを得べし。
ひとたび、「そらモウコが来たぞ!」と呼べば、如何(いか)()ねつむずかりつの(たい)を尽しつ
つある悪童(あくどう)(いえと)も、たちまち(かしら)(かか)えて屏息(へいそく)せざるはなきなり。(しか)らば、「モウコ」と
は果して如何(いか)なる性質の畏怖(いふ)すべきものを意味するかと問えば、彼等は唖然(あぜん)として答
(とうじ)(きゆう)せざるを得ず。曰く、ただ因習(いんしゆう)によってこの語を発するのみにして、(いま)だその
何なるかを考えしことなしと(いえど)も、恐らくは、妖魔(ようま)の人を(くら)うものを意味するならん
と。
 されど、「モウコ」の意味決して解し(がた)きにあらず。これ必ず鎌倉時代の中世に起り
て、一時は全日本を風靡(ふうぴ)したる警語(けいこ)なるべく、しかも、これに(ふく)まれたる至強至烈(しきようしれつ)
権威(けんい)が、時代を()るに(したが)って、銷磨(しようま)すると共に、その()もまた多く国人(こくじん)の口に(のぼ)らざ
るに到り、比較的旧習旧慣(きゆうしゆうきゆうかん)を保存なしつつある東北僻陬(へきすう)()においてのみ、今日(こんにち)
()えなんとしてわずかに痕跡(こんせき)を留むるを認むるものなるべし。「モウコ」はすなわち
蒙古(もうこ)」にして、鎌倉時代における蒙古の来寇(らいこう)の、如何(いか)(われ)に対して恐慌(きようこう)を与えしかは、
今日なおこの語が人を威嚇(いかく)する権威(けんい)のまったく失われざるによりて、想像し得べから
ずや。実に、蒙古の来寇こそは我が国有史(くにゆうし)以来の恐怖なりしなれ。
 これより(さき)、我が土御門(つちみかど)天皇の時代、支那(しな)においては(そう)寧宗(ねいそう)治世(ちせい)に当りて、蒙
古の酋長(しゆうちよう)鉄木真(テムジン)なる者あり。不世出(ふせいしゆつ)英資(えいし)をもってして四方を攻略し、ついには、
諸酋長(しよしゆうちよう)外蒙古(そともうこ)の北部オノン河の(ほとリ)に会して、絶大なる皇帝を意味する成吉思汗(ジンギスカン)の尊
(そんこう)を受く。これより世界を()一するの(さく)を定め、まず進んで燕京(えんきよう)(今の北京(ペキン))に(みやこ)し、
西向(さいこう)して印度(インド)席捲(せつけん)し、波斯(ペルシヤ)、シリヤを蹂躙(じゆうりん)し、南は黒海よ
り北はバルチック海に到るまでの間を横行(おうこう)して、ついに匈牙利(ハンガリ )(およ)びし、成吉思汗(ジンギスカン)
馬蹄(ばてい)()ぐる所、草再(くさふたた)(しよう)ぜずと云わしめ、その侵略(しんりやく)(こうむ)りたる欧亜(おうあ)数千里の区域は、
成吉思汗(ジンギスカン)が五年間の劫掠殺戮(きようりやくさつりく)のために、爾後(じこ)五百年の間故態(こたい)(ふく)すること(あた)わざり
しだけそれだけ、残虐(ざんぎやく)(かぎ)りを(つく)し、世界において、最も広き範囲に最も大なる恐怖
を与えたる者の、空前絶後(くうぜんぜつこ)(しよう)せらるるに(いた)りたり。
 その孫忽必烈(クブライ)また雄烈(ゆうれつ)祖父に譲らず。我が第八十九代後深草(ごふかくさ)天皇の正嘉(しようか)二年には、
すでに高麗(こま)併呑(へいどん)して、半島より(きた)るの腥風(せいふう)、我が辺
(へんきよう)草木(そうもく)をして色を変ぜしめんとす。支那(しな)もまた(しき)りにその大挙侵寇(たいきよしんこう)()けて、(そう)
運命(うんめい)まさに破竹(はちく)(うち)()り。されば、(われ)豪傑僧日蓮(こうけつそうにちれん)ありて、活眼蚤(かつがんはや)くも、全日本
の民に先だちて形勢の(おもむ)くところを看破(かんぱ)し、その佐渡(さど)に流さるるの前、すでに国難(こくなん)
絶叫(ぜつきよう)したりと(いえど)も、時人(じじん)夢なお(こまや)かにして、夜(いま)(なか)ばならざるに鶏鳴(けいめい)を聞きたるも
のとなし、却って悪声(あくせい)としてこれを(しりぞ)けたるが、すでにして、第九十代亀山(かめやま)天皇の文
(ぶんえい)五年、稀有(けう)英霊漢(えいれいかん)無双(むそう)豪快児(ごうかいじ)たる北条時宗(ほうじようときむね)が、十八歳の年少をもって()って
鎌倉の執権(しつけん)となるや、果然眼中(かぜんがんちゆう)に東海の一小島国なき忽必烈(クプライ)は、一恫喝(とうかつ)(もと)(われ)を威
(いふく)せんことを試み、その臣黒的(しんこくてき)なる者をして図書を持せしめ、高麗(こま)先導(せんどう)()して、
傲然(こうぜん)として我に(のぞ)ましめぬ。京師震駭(けいししんがい)人心恟(じんしんきようきよ)たり()
 (しか)れども、()(うれ)うることを()めよ、我に相模太郎(さがみたろう)胆甕(たんかめ)の如きあり()時宗(ときむね)彼が
書辞(しよじ)の無礼なるを(いきどお)り、我が朝廷の返牒(へんちよう)(たい)(しつ)して(みずか)ら屈するを非なりとなし、使
者を責罵(せきば)してこれを追う。これよりして、蒙古(もうこ)極力(きよくロノよく)我を屈せんとし、あるいは使
者を送りて威嚇(いかく)を重ね、あるいは軍兵を発して我が辺境(へんきよう)残刻無比(ざんこくむひ)なる侵寇(しんこう)を試む。
ために、壱岐(いき)対馬(つしま)二島の生民(せいみん)はまったく(ほふ)り尽され、その婦女は、ことごとく犯さ
れて後、その(てのひら)に縄を(つらぬ)きて(ばくア)され、我が武人の戦死したる者は、皆(はら)()いて、(はらわた)
(くら)わる。国人(こくじん)これを聞いて戦慄(せんりつ)せざるはなく、あるいはもって日本滅亡の期到ると
()せり。
 ただ時宗(ときむね)(げん)として動かざるあり、第九十一代後宇多(こうだ)天皇の建治(けんじ)元年九月、彼の使
杜世忠(つかいとせいちゆう)等を(たつ)(くち)に斬るの勇断(ゆうだん)(あえ)てす。かくて弘安(こうあん)二年、忽必烈南宋(クプライなんそう)(ほろ)ぼして支
(しな)統一(とういつ)し、国号(こくこう)(げん)と改むるや、その使再(つかい)(われ)に到りたるをもって、時宗(だん)(そう)、重
ねて日本刀を(ふる)って虜使(りよし)頭足(とうそく)(わか)ちぬ。
 弘安(こうあん)四年五月二十一日、元軍の先鋒(せんぽう)十余万艨艟(もうどう)海を(おお)うて(きた)
れるは、すなわちこの結果なり。しかも日本男児善(にほんだんじよ)く戦い、なかんずく、文永(ぶんえい)年間(もう)()我が辺境(へんきよう)劫掠(きようりやく)し、風濤(ふうとう)(ただよ)わすところとなりて(にわか)に去りし時、「蒙古(もうこ)もし十年の
間に(ふたた)(きた)らずんば、我自(われみずか)ら進んで必ず蒙古を討たん」との、痛快無比(むひ)なる警語(けいこ)を吐
いて神に誓い、誓紙(せいし)を焼いてその灰を()みし奇矯(ききよう)の一男児、伊予国(いよのくに)の住人河野通有(こうのみちあり)が、
勇敢(ゆうかん)()十余人と共に決死隊(けつしたい)を組織し、軽舸(けいか)を飛ばして敵の艦隊の中間を突破し、(ほばしら)
を倒して一大艦(だいかん)(のぼ)り、ことごとく艦上(かんじよう)の敵人を斬殺(ざんさつ)して、その将を(とりこ)にし、凱歌(がいか)
(とな)えて(かえ)りたる、また、草野次郎(くさのじろう)大友貞親(おおともさだちか)等が、選兵(せんべい)を率いて敵艦(てきかん)夜襲(やしゆう)を試み、
しばしば奇功(きこう)を奏し如き、独り当時の敵胆(てきたん)を破り得たるに止まらずして、また長く日
本流海戦術(かいせんじゆつ)のために模範(もはん)()れたり。
 これによって、敵軍(かるがる)々しく上陸すること(あた)わず、まず退(しりぞ)いて肥前(ひぜん)(たか)(しま)()
つつある間に、六月三十一日の夜半(やはん)颶風(ぐふう)にわかに起りて、波濤(はとう)山を()し、蛟竜魚鼈(こうりようぎよべつ)
飛騰(ひとう)して天に昇り、蒙古の戦艦(せんかん)大半覆没(ふくぼつ)して、溺死(できし)する者無数、敵将范文虎(はんぶんこ)忻都(きんと)
洪荼丘(こうときゆう)()(かろ)うじて堅艦(けんかん)(えら)んで高麗(こま)(のが)る。少弐景資(しようにかげすけ)等、()(じよう)じ風を犯して進
(しんげき)し、殺戮(さつりく)はなはだ多く(こう)()う者一千余人もまた殺され、(たた)良浜(らはま)玄界洋(げんかいなだ)の底
藻屑(もくず)となりたる者、実に蒙古軍(もうこぐん)十万余人に加うるに高麗軍(こまぐん)七千余人をもってし、海
(ため)に陸に変じ、紅波溢(こうはあふ)れて陸を()むに至る。命を(まつと)うせる余衆(よしゆう)三万三千人に過ぎず、
高麗(こま)に向って去りぬ。
 しかして、この(ほか)なお、(たか)(しま)()りて進退(しんたい)(うしな)いたる(てき)数千あり。(ちよう)()なる者
これが(しよう)として、木を()り、船を(しゆう)しつつ帰計(きけい)(こう)じ、(りよう)()つことすでに三日に(およ)
ぶ。七月四日、我が軍(ちよう)してこれを知り、急に(おそ)うてこれを(みなごろし)にし、わずかに、于
(うりよ)莫青(ばくせい)呉万五(ごまんご)の三人を(ゆる)して(げん)に還らしめ、もって我が威武(いぶ)()げしめたり。さ
しも国民をして、日本滅亡の期到れりと悲観せしめし元寇(げんこう)も、かくて案外(あんがい)容易に退散(たいさん)
し、彼をして再び我に加うること(あた)わざらしめしもの、これ単に人力(じんりよく)のみにあらずと
(いえど)も、また単に天力(てんりよく)のみにあらず。人力(じんりよく)天力(てんりよく)相俟(あいま)ち、日本男児の勇武(ゆうぶ)颶風(ぐふう)と相
合期(あいがつき)したる結果なるのみ。一歩を進めて云えば、これ文人政治の(たまもの)にあらずして、武
人政治の(たまもの)なり。最も武人政治の神髄(しんずい)会得(えとく)したる北条氏の全盛時代にして、その中
心人物に時宗(ときむね)の如き英霊漢(えいれいかん)ありしが(ゆえ)に、()(かく)の如くなるを得たるなり。実にこれ、
末代(まつだい)に至るまでの日本人の誇りなり。
 されど、元寇(げんこう)の日本に与えたる損害(そんがい)もまた非常にして、表面の計数(けいすう)以上(いく)十倍なる
を知るべからざるを如何(いかん)せん。時宗(ときむね)十八歳以来、蒙古(もうこ)に対するに全力を(つく)して、三十
一歳にして(かれ)の大軍を鏖殺(おうさつ)し、(はじ)めて、夢寐(むび)だにも忘れざ
りし深憂(しんゆう)(だつ)()たりと(いえど)も、これがために(せい)を尽し(ずい)()らし報酬(ほうしゆう)として、稀有(けう)
英霊漢(えいれいかん)もその内部の損傷(そんしよう)に打ち勝つこと(あた)わず、弘安(こうあん)七年四月、(むな)しく三十四歳の壮
(そうれい)をもって、その青年的人物としての伝記(でんき)を閉じ、北条氏滅亡の機を(はや)むべく(てん)より
(くだ)されたるかの如き怪少年貞時(さだとき)が、父に代って執権(しつけん)となりたる。これ元寇(げんこう)のための損
害のはなはだ大なるものと(みと)めざるを()ず。
 しかのみならず、十四年の長きに(つらな)りたる(ひんびん)々の警報は、闔国(こうこく)生民(せいみん)をし
てその業に(やす)んずること(あた)わざらしめ、(こと)文永(ぷんえい)十一年と弘安(こうあん)四年とには、(こうこう)々とし
てほとんどまったく業を廃し、生産機関(せいさんきかん)運転(うんてん)一時休止の状態なりしに、外患(がいかん)(そな)
るために国民の負担(ふたん)せしところもまた莫大(ぱくだい)にして、人民の疲弊疾苦(ひへいしつく)は、むしろ外寇(がいこう)
蹂躙(じゆうりん)を受けたるに近きものあり。またこれ、元寇(げんこう)のための損害(そんがい)(おも)なものならざるに
あらざるなり。(ゆえ)外寇(がいこう)恐怖(きようふ)厭忌(えんき)するの(ねん)が、如何(いか)ばかり深く当時の日本人の骨
(こつずい)鏤刻(ろうこく)されしかは、必ず今日(こんにち)の想像以上ならざるべからずして「蒙古(もうこ)!」とさえ云
えば、何人(なんびと)も身を(ふる)わせ色を(へん)じて、眼前(がんぜん)(はらわた)(くら)獰悪(どうあく)の敵人が現れ()でたる心地(ここち)
し、如何(いか)なる歓楽(かんらく)の席にても、(あやま)って「蒙古」の二字を口より漏らす者ある時は、た
ちまち妖魔(ようま)(おそ)い到りたるが如く、(きよう)(さけ)()めて()てしなるべきを思う。(しか)らずん
ばたとえ東北の僻陬(へきすう)にもせよ、六百年以後の今日(こんにち)において、なお「蒙古(もうこ)が来た!」の
()悪童(あくどう)慴伏(しようふく) せしむるの権威(けんい)(とど)むるを()ざるべきなり。
 宴飲(えんいん)(さい)上下尊卑(じようげそんぴ)の階級を(てつ)し、親疎生熟(しんそせいじゆく)差別(さべつ)を忘れて、礼法の覊絆(きはん)を脱しつ
つ、ひたすら歓楽(かんらく)(つく)すを、一(ばん)に「無礼講(ぶれいこう)」と呼ぶは、今日(こんにち)なお予輩(よはい)便宜(べんぎ)として
用うるところなるが、その無礼講(ぶれいこう)なる文字(もんじ)の、かかる場合に用い始められたる根源(こんげん)
(さぐ)(きた)れば、また特殊の意味を含蓄(がんちく)せる一種の警語(けいご)なるを(みと)めずんばあらざるなり。
 第九十六代後醍醐(ごだいこ)天皇、英邁豪華(えいまいこうか)()をもってして、高時(たかとき)人心(じんしん)(うしな)えるに(じよう)じ、
北条氏を(ほろ)ぼさんことを(はか)り給うや、美濃(みの)の武人土岐頼員(ときよりかず)多治見国長(たじみくになが)等、皇権(こうけん)回復
陳勝呉広(ちんしようここう)としてその()(あずか)れり。ここにおいて、北条氏の耳目(じもく)()くると共に、武
人の歓心(かんしん)を買うべく、天皇は公卿武士(くげぶし)および宮女(きゆうじよ)混淆振蕩(こんこうしんとう)しての、雑然(ざつぜん)たる宴席(えんせき)
宮中(きゆうちゆう)に開き給えり。時(あたか)元弘(げんこう)元年の夏、花の如き後宮(こうきゆう)の美女は、皆裸体(らたい)生絹(すすし)の帷
(かたびら)に包みて、その雪白(せつばく)の肉を()かし()るべく、もって(えん)()し酒を()り、座間(ざかん)翩翔(こうしよう)
す。優美なる公卿(くげ)と、俊爽(しゆんそう)なる武士と、酒と、歌と、(かん)と、(げん)と、半裸体の幾多(いくた)の美
人と、それ等の対照(なん)ぞ非時代的なる。(にく)()(さけ)(におい)とは、鉄石(てつせき)の人をもまた爛酔(らんすい)
せしめずんば()まず。その自由にして新味(しんみ)あること、宛然西欧(えんぜんせいおう)歓楽郷(かんらくきよう)なり。かくて、
天皇は寵姫(ちようき)(ひざ)()りつつ(すだれ)(へだ)ててこの光景を賞観(しようかん)し給う。これ天皇の創意(そうい)()
たるものにして、()づけて「無礼講(ぶれいこう)」と云い給いしもまた天皇なり。(たれ)かこの(かん)に、
時代を顛覆(てんぷく)すべき秘策(ひさく)(ぐう)せられつつあるを知らんや。
 無礼講(ぶれいこう)なる文字(もんじ)濫觴(らんしよう) (かく)の如くにして、その内容(かく)の如く複雑(ふくざつ)に、
その意味(かく)の如く奇抜(きばつ)なり。ただ、天皇の態度余りに浮華(ふか)(しつ)するの(きら)いなき(あた)わざ
りしが、果然(かぜん)密謀(みつぼう)速やかに漏れて、頼貝(よりかず)国長(くになが)は容易にその(こうべ)を失い、天皇(のが)れて
笠置(かさぎ)()り給うの悲惨(ひさん)(まね)(きた)りぬ。
 ()はすでに、武人(ぷじん)発達(はつたつ)が一歩々々にその特殊(とくしゆ)の色彩を顕著(けんちよ)ならしめつつ、ついに
前例なき純武人的政治を創始して、十分なる効果を(しめ)せるを認め、しかして、その間
より幾多警語史(けいこし)の材料を発見し(きた)りたるが、この小著(しようちよ)においては余りに多くを語るこ
(あた)わざるをもって、()警語史(けいこし)をして、ただちに大踏歩(だいとうほ)の一転進(てんしん)()して、日本歴
史中の精華(せいか)なる群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)時代に()らしむる前、ここに、蒙古(もうこ)来寇(らいこう)動機(どうき)()して別
方面に進路を開きつつ、南北朝(なんぼくちよう)時代より足利(あしかが)時代に(つらな)り、海賊(かいそく)の名において支那朝鮮(しなちようせん)
雄飛(ゆうひ)を試み、多くの痛快なる記録(きろく)を留めたる、()波濤(はとう)健児(けんじ)  中国(ちゆうごく)南海(なんかい)、西
(さいかい)好武人(こうぶじん)事蹟(じせき)点検(てんけん)して、大陸半島の人士(じんし)よりこれ等の者に与えたる讃美(さんび)警語(けいこ)
を拾集し、もってこの一段の(きよく)を結ばんとす。
 ()海賊的健児(かいそくてきけんじ)、すなわち支那人および朝鮮人のいわゆる倭寇(わこう)は、実に、「蒙古(もうこ)もし
十年の間に(ふたた)(きた)らずんば、我自(われみずか)ら進んで必ず蒙古を討たん」と神に(ちか)い、誓紙(せいし)()
いてその灰を()みし、かの河野通有(こうのみちあり)一流の快男児(かいだんじ)が、蒙古(もうこ)来寇(らいこう)報復(ほうふく)せんことを思
いて海を渡りたるをもって、その嚆矢(こうし)()すなり。しかも、通有(みちあり)(のち)なる伊予(いよ)の河野
(こうのし)は、日本海賊(にほんかいそく)大問屋総元締(おおどいやそうもとじめ)にして、(みずかコ)波濤(はとう)の支配者をもっており、その家門(かもん)
繁栄富饒(はんえいふじよう)時代に冠絶(かんぜつ)し、門葉(もんよう)の多きこと河野(こうの)の十八
()(しよう)せらるるを(いた)したるが、すでにして後醍醐(こだいこ)天皇の延元(えんげん)三年五月、南朝のために
摂津国安倍野(せつつのくにあべの)に戦死せし、中納言鎮守府将軍北畠顕家(ちんじゆふしようぐんきたばたけあきいえ)遺子山城守師房(いしやましろのかみもろふさ)なる者、豪
(ごうけつ)(ふう)をもってして、(きた)って十八()の一なる村上氏(むらかみし)を継ぐや、河野の一族皆これを(あお)
いで首脳(しゆのう)()し、ついには、師房(もろふさ)全日本の海賊的健児を統一して、日本における海賊(かいそく)
の最上主権者となり、海賊大王中(かいそくだいおうちゆう)の大々王となり、海賊をして組織的行動(そしきてきこうどう)()()
く進化せしめ、同時に、後醍醐の皇子にして、第九十七代南朝後村上(ごむらかみ)天皇の時代に太
宰府(だざいふ)鎮護(ちんこ)せし、征西将軍懐良親王(せいせいしようぐんかねながしんのう)(よし)みを通じ、九州の海岸に碇泊地(ていはくち)を置いて、盛
んに支那朝鮮(しなちようせん)に遠征を試むるに到りたり。
 師房(もろふさ)死して、その子義顕継(よしあきつ)ぎ、義顕(よしあき)の子雅房(まさふさ)またその(のち)(おそ)い、累代山城守(るいだいやましろのかみ)(しよう)
て、共に海賊大王(かいそくたいおう)たり、ヒーローたり、一指を動かして大陸半島を震憾(しんかん)せしむる巨人
たり。南北両朝対立して、国家の紀綱弛漫(きこうちまん)(きわ)めたるに(じよう)じ、小島国日本の内部にお
ける得失興廃(とくしつこうはい)を見て、一笑にだも価せずと()し、支那、朝鮮より、安南(アンナン)暹羅(シヤム)呂宋(ルスン)
馬剌加(マラツカ)印度(インド)の大範囲に(およ)ぼして、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)軍旗(ぐんき)(ひるが)えしたる船舶(せんばく)(うか)べ、半面(はんめん)
侵略的(しんりやくてき)に、半面(はんめん)通商的(つうしようてき)に、機宜(きぎ)に応じて適当の挙措(きよそ)()でつつ、(いた)る所に満足な
解決(かいけつ)(あた)えられざるはなく、予輩(よはい)をして、正史(せいし)以外に見出だされたる祖先の活動の
記録が、実に特筆大書(とくひつたいしよ)に価するものあるを見て、ひとたびはまず驚愕(きようがく)を禁ずる(あた)わざ
らしめ、しかして(のち)欣喜(きんき)()えざるものあらしめんとす。
 かくて、第九十八代南朝長慶天(ちようけい)皇の天授(てんじゆ)三年(高麗王辛禍(こまおうしんぐう)の三年)五月には、我が
海賊軍(かいそくぐん)の半島に加えたる打撃(だげき)酷烈(こくれつ)なる、国都(こくと)まさに(あやう)からんとして、高麗王をして
遷都(せんと)()せしむるの(きよく)(およ)び、(くだ)って、第百五代後奈良(こなら)天皇の天文年間(てんもんねんかん)には、(みん)の亡
命客王直(ぽうめいかくおうちよく)なる者、覇王的器度(はおうてききど)を有して、(きた)って我が肥前平戸島(ひぜんひらとじま)()み、(みずか)徽王(きおうし)(よう)
して、日本支那(にほんしな)両国の海賊(かいそく)を結合するの任に(あた)り、同時に海賊(かいそく)大資本主(だいしほんしゆ)となり、深
く日本人の勇武(ゆうぶ)に信頼して、常に「日本人一万あらば、必ず明朝(みんちよう)(ほろ)ぼして支那(しな)を取ることを()べし」と云いつつありしが、ついにはこの声言(せいげん)を事実に現すべく、天文(てんもん)
十二年五月((みん)嘉靖(かせい)三十二年)、空前(くうぜん)大倭寇(だいわこう)を起して、これより三年を経たる弘治(こうじ)
二年に到るまで、大陸の各地を縦横(じゆうおう)せしめ、ただ日本人の数一万に満たずして、しか
彼地(かのち)に上陸するや、無数の小部隊に分裂(ぶんれつ)しつつ、()()の如く八方に分散(ぶんさん)したるを
もって、王直(おうちよく)予期(よき)せしが如き偉功(いこう)(そう)すること(あた)わざりしと(いえど)も、(いた)る所、都府(とふ)
()き、州郡(しゆうぐん)(おとしい)れ、官軍(かんぐん)(やぶ)り、富豪(ふごう)(かす)めて、大国の朝廷をしてその処置に(きゆう)せし
めたる事実(じじつ)あり。
 その他支那朝鮮(しなちようせん)における我が海賊的健児(かいそくてきけんじ)の驚歎すべき活動の実例は、彼国(かのくに)史乗(しじよう)に収められたる記録より、著大(ちよだい)なるそれのみを抜萃(ばつすい)(きた)るも、なお十()
(くつ)するに(あま)りあるなり。これにおいて予輩(よはい)は、彼国(かのくに)の史家が苦心洗錬(くしんせんれん)(あま)りに()りた
警語(けいご)(つら)ねて、日本人の勇武絶倫(ゆうぶぜつりん)なるを嘆美(たんび)するに、筆端(ひつたん)(いた)らざる所あらんかを
恐るるの(じよう)あるを見、国史中に見出だされたる警語に対すると、まったく別様(べつよう)の興味
を感ぜずんばあらず。
 (いわ)く、「(かたな)長さ五(しやく)双刀(そうとう)を用うれば丈余(じようよ)の地に(およ)ぶ。また手を加えて舞う。(ほう)
(ひら)けばおよそ一(じよう)(しやく)舞動(ぶどう)すれば上下(しようか)(ほう)ことごとく(しろ)うしてその人を見ず」と、
これ彼の(まなこ)(えい)ずる日本刀にあらずや。(なん)ぞその造語(ぞうご)奇警(きけい)にして、その形容の歎美(たんぴ)
(きわ)めたる。曰く、「()竹弓(ちくきゆう)長さ八尺。足をもってその(しよう)()み、立ちながら矢を
発す。矢は海蘆(かいう)をもって(みき)となし、鉄をもって(やじり)となす。(やじり)(ひろ)さ二(すん)燕尾(えんび)をなす。
重さ二、三(りよう)。身に近づいてすなわち発す。(あた)らざることなし。(あた)ればすなわち人()
ちどころに倒る」と、これ彼の(まなこ)(えい)ずる日本の弓箭(きゆうぜん)にして、極力讃歎(きよくりよくさんたん)を払うこと、
また日本刀に対するに譲らざるを()るべし。
 曰く、「(しゆう)皆刀を()わして()ち、(くう)に向って揮霍(きかく)す。我が兵倉皇(そうこう)として首を仰げば、
すなわち下より()(きた)る」と。また曰く、「衆奴(しゆうと)刀を(ふる)うこと神の(ごと)し」と。さらに日
く、「島夷(とうい)出没飛隼(ひじゆん)の如し」と。これ、彼の(まなこ)(えい)ずる日本人なり。我が戦士(せんし)なり。桓
(かんむ)時代以来訓練を重ねられて、まったく理想的に発達したる我が武人の、戦場におけ
馳突飛躍(ちとつひやく)の状態は、生温(なまぬる)き大陸人よりこれを見て、人間以上の者に対する感を(おこ)
たるに相違(そうい)なし。
 しかして、彼等は日本人の勇武(ゆうぶ)なるを驚異(きようい)するのあまり、ついには、「その国の西南(せいなん)
鬼国(きこく)あり。利鏃(りぞく)()だす。しかして人(たたか)いを好む。倭人人寇(わじんにゆうこう)するや、多くその人を
(つの)る。白番鬼(はくばんき)あり、黒番鬼(こくばんき)あり、すなわち(いにしえ)崑崙奴(こんろんと)なり。面深黒(おもてしんこく)にして、()く闘い
(みだり)に死す。()(かち)を取る、大率(おおむね)これを前矛(ぜんぽう)()す」などと、極力臆測(おくそく)(たくま)しうして、
人を驚殺(きようさつ)しつつ(あわ)せて(おの)れ自身を驚殺(きようさつ)するの解説を(くだ)さざれば、()むこと(あた)わざるに
(いた)れり。これ、我が薩摩(さつま)あるいは土佐辺(とさへん)より()でたる、色黒く(かたち)恐ろしき勇士(ゆうし)を見て、
これを神秘化したるものなるべく「()く闘い(みだつ)に死す」の一語、実に、彼の(まなこ)に映ず
る我が武人の面目(めんもく)(えが)()だして剴切(がいせつ)を極めたり。明史(みんし)に明記して曰く、「寇舶(こうはく)到ればすなわち(ふう)を望んで逃匿(とぬつとく)す。しかして、(かみ)またこれを統御(とうぎよ)する者あるなし。(ゆえ)をもって、賊帆(ぞくはん)(ゆびさ)す所残破(ざんば)せざるはなし」と、我が威力の彼を風靡(ふうび)する状勢を道破(どうは)し得て、またこれ一警語(けいこ)たるを失わずと()す。(くく)々たる我が辺海(へんかい)の私兵にして、しかも彼の(うれ)いたりしこと(かく)の如し。
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)外征(がいせい)にして、天もし秀吉に()すになお十年の(よわい)をもってせば、すでに三百余年前において、支那(しな)および朝鮮(ちようせん)の地図をして色彩(しきさい)を変ぜしむることを得たりしならんとは、我も人も正当に推測(すいそく)し得るところなるが、(かく)の如く可能性に富みし秀吉の外征もまた、海賊を草分(くさわけ)()し、海賊を先達(せんだつ)()し、海賊が雄飛(ゆうひ)の物語に功名心を刺戟せられしために、起されたるものとすれば、予輩(よはい)は、彼国(かのくに)史家文士(しかぶんし)が日本人の勇武(ゆうぷ)讃歎(さんたん)すべく発せし警語の、これがためにさらに一段の光輝(こうき)を加うるを覚ゆるなり。