伊藤銀月「日本警語史」3
その二 警語の歴史の一進化
その夫すでに命を惜しまずその妻何ぞ輪姦を甘んぜんllあれへ鈴を下げたらどうだろ
うとは猟矢を負える雀の言 日出処天子致書日没天子iI虎を野に放ちたり 天荒
を破りて新たに世界を建設するの概ある警語 日月を貫く至誠より発したる警語
額に立つ矢はありとも、背に立つ矢は無し 警語の粗にして豪なるもの 警語史上
藤原氏のために万丈の気を吐く者この人あり-弓箭の戦争に始まりて警語の戦争に終
る この一段の掉尾として特筆すべき快語
ゆうりゃく しようわ けいこ こうだいてき しきさい き み お
雄略天皇とその皇后との唱和の警語が、やや後代的なる色彩と気味とを帯びて、暗
けいこ しじよう か と き かく のち よ はい そうまい
に警語史上の過渡期を劃せしを見たる後、予輩はまず、草昧の世になかりし歟礑なる斷魔峰歃識を概椰と漸しつつ、献榔における澱漱翫
澱なりしそれに、蔑の黙轡訟轡を加えて進歩せしめたる・戡鰹により・繼
たいぜつめい
体絶命の境遇に処して殉国的精神を発揮したる、痛切深刻の叫びを聞かざるべからず。
これ警語史上における全然斬新 なる題目 にして、警語の歴史のある部分より伸長 した
じゆうぜんだん したが
る系統を、従前断じて経過せざりし範囲にまで進入せしめたるものなれば、随って、
これに払 うに別種の注意をもってせざるべからざるなり。
第二+九代鑠天皇の二+三年正月・我が属国繋、韓半島に謬を揉いて、軅
に ほんふ せ ほろ もんざい いくさ せい
正
の日本府を攻め滅ぼししにより、同六月、我より問罪の師を発す。
しよう きのお ま う かわべのに へ しらぎ か
我軍ひとたび新羅に克ちし
将は紀男麻呂にして、河辺瓊缶これが副将たり。かくて、
ひ
も、また疲弊すること少なからざりしをもって、男麻呂は師を班して百済に入りしに、
に へ かち しき ふせ
瓊缶独り勝に乗じて軍を進め、頻りに新羅の地に転戦す。新羅そのついに防ぐべから
ざるを測 り、白旗 を掲 げて降 を乞 うの急を示すに到る。しかも、我が国人 未だ白旗 の
こうき に へ もうゆうみずか てきじよう さつ ち りよ とぽ
降旗なるを知らず。加うるに、軍将瓊缶が猛勇自ら用いて敵状を察するの智慮に乏し
きをもってす。すなわち、我軍 もまた新羅 に傚 うて白旗 を掲ぐ。新羅 これを見て謂 え
らく、日本軍 また戦闘力尽 くと。よって、勇 を鼓 して戦い、ついに大 いに我軍を破り、
に へ うまし ひめ ぐんし つきのいき な おおば こ とりこ に へ
瓊缶およびその妻甘美姫、軍士調伊企儺、その妻大葉子皆擒にせらる。新羅人瓊缶に
向って曰く、「汝 、妻を惜 しむか、命を惜 しむか?」と、またこれ一警語 たるを失わざ
るなり。しかして、無恥禽獣 の如くにして、いやしくも軍将として国辱 を顧 みざる瓊
缶 が、「命を惜しむ!」と答うるや。新羅人彼が眼然 において甘美姫 を輪姦 す。
すでにして、新羅人は伊企儺 を引き出 だせり。刀をもってその頸 に擬 して曰く、「汝 、
臀 を露 わして東に向け、日本王 我が臀 を啗 えと呼べ!」と、また警語の毒悪 なるもの
なり。伊企儺諾 して曰く、「好 し!」と、すなわち衆人 の手を緩 めたるに乗 じ、褌 を脱
し臀部 を露出 して、敢 てこれを新羅 に向け、声を励 まして叫んで曰く、鹽「新羅王 我が臀
を啗 え!」と、痛快淋漓 、軍将瓊缶 の醜態 を補 うて、さらに日本男児 の価値を九天 の上に高むるもの、その生命掛 けの剴切 なる警語は、千歳 の下 なお
凜々として新 たなる響 を帯 ぶるを覚 ゆ。かくて、この硬骨漢 は、新羅人が激怒 の乱刃
を浴 びて、五体 を膾 の如くに細断 せられたりと雖 も、その壮烈 の事蹟 は、長 にこれを
聞いて懦夫 をして起 たしむるに足 れり。
ただし、伊企儺 の壮烈は事 の終りにあらずして、なお、その妻大葉子 を留 むるあり。
彼女もまた瓊缶 の妻と同 じく、新羅人が獣欲 の犠牲 に供 せらるるの運命に陥 らんとす。
されどその夫すでに瓊缶にあらず、その妻何 ぞ甘美姫 たらん。脱して城上に登り、身
を城壁の下 に投じて死しぬ。しかも、その死に臨 んで朗詠 せし悲壮 の和歌は、伊企儺
が壮烈の事蹟 と相並 んで、長く血性 ある日本人を泣かしむるに足 れるものなり。曰く、
韓国 の城 の辺 に立 ちて大葉子 は領巾振 るらしも日本 へ向 きて
と。愛国の至情 、殉国 の至誠 、一字々々に充溢 し、沈痛熱烈 、人をしてこれを読んで
胸を拊 って慟哭 せしめんとす。日本女子のために気を吐くこと万丈 なるものならずや。
しかのみならず、その胸臆 を撼 えてただちに歌謡 に発せる無彫琢 の辞句は、語浅くし
て意深く、万緒 の感情 その中 に振蘯 して、酌 めども尽 きざるの味 いあり。
別様 の光彩
さらに、
またこれ、神武天皇以来の、歌謡化したる警語の系統を追うて、
を帯 べる一線を延 きたるものと目 し得 べきなり。
去 るほどに、歴史はついに予輩 を指導して、警語の極めて冷 にして毒 なるもの、現
代人と雖 も容易に拈出 すること能 わざる、皮肉極 まるものに逢着 せしめたり。適切な
る意味において、国史上 始めて警語のための警語を見出だしたりと云うことを得 べき、
き ぜつみようぜつ そうくう え び たつ ほう ひん
。第三十代の敏達天皇崩じて群臣殯
奇絶妙絶なる事実に遭遇することを得せしめたり
ぐう
宮に在り。当時、蘇我氏と物部氏と権力を争い、物部氏の武頑なると、蘇我氏の文飾
なると、蘇我氏が新渡 の仏教を尊奉 すると、物部氏が極力 これを排斥 すると、両 々
対比 を為 し、しかも、物部氏の首長なる大連守屋 は、勇決邁往 の好武人 なりと雖 も、
機 に乗じて勢いを制する智術 においては、蘇我氏の棟梁 なる大臣馬子 に一籌 を輸 さざるを得ず。物部氏の勢威 なお蘇我氏を圧 すと雖 も、早晩 その位置を転倒
するに到るべき徴候 は、すでに暗黙 の間に催 しつつありしなり。
かくて、馬子 は臣 の首席 としてまず誄詞 を上 つるべく、恭 しく霊柩 の前に進みしに、
守屋 その小男にして長 き太刀 を佩 けるを見、矇然 として謂 って曰く、
「猟矢 を負 える雀 の如し」と。馬子何 ぞこれを含 まざらん。次に守屋が誄詞 を上 つるに
及 びて、その感傷 して手脚振 い戦 けるを見るや、冷笑 一番、「これに鈴を懸 くべし」
と云えり。両者相罵 ること巧妙を極 め、しかも守屋の言の鋭利 にして、馬子のそれの
婉曲 なる、また両者の性格の差違を窺 うに足 れりと做 すべく、なかんずく、馬子の「あ
れへ鈴を下 げたらどうだろう?」は、予輩今日 においてこの条を読む者をして、なお
その光景を眼前 に描 いて、苦味 と酸味 とを含める一笑を発するを禁ずる能 わざらしむ
るなり。その皮肉 さ加減 、感歎 すべくまた畏怖 すべし。物部氏が、蘇我氏の毒深 き陰
計 に中 って滅亡 するに及 ぶべき運命 は、すでにこの時に当 りて暗示 せられたりと云う
も妨 げざるなり。
共に警語のために発せられたる警語にして、何物 より変形変質したる警語にもあら
ざれば、また何物 に変形変質すべき警語にもあらず。警語の独立は、ここにおいて始
めて日本の史事 に明らかに、警語の日本史は、ここにおいて始 めて全 き形質 を与えら
れたりと云うべし。
次には、警語が国際問題に利用せられて偉功 を奏 したる、さらに一進歩の例証 を見
ることを得 ん。第三十三代推古 天皇の十五年七月二日、我が国史 において特筆大書 す
べき一新事実 は現出したり。韓半島を経由 せずして、直接に大陸支那 の朝廷との交通
を開始したること、すなわちこれなり。当時の支那は隋朝 の盛世 に属し、六百里 の運
河 を鑿 ちて大江 を十字形 に断 じたる、矜驕 千古 を空 しうする煬帝
の第三年に当 れり。
しかして、これを誘発 したる動機如何 と云うに、これより先、隋 の文帝 (煬帝 の前
代 )三十万の大丘 ハを挙 げて高麗 を征 し、高麗をして恐慌出 ずるところを知らず、自 ら
「遼東糞土之臣 」と称して罪を謝し、辛 うじて難を免 るることを得たる事実あり。当時、
我 と半島との交通頗 る頻繁 に、半島を経由する大陸の文明を吸収するに汲 々たる際 な
りしかば、高麗 を中心として、新羅 、百済 、その他全半島 に震駭 を伝えたる、「大陸の
天子大兵 三十万を率 いて親征 す」との警語は、また我国にも伝 わらざるを得 ず。ため
に、大陸朝廷の存在は、雲破 れ日出 でたる如く新 たに我が眼前に輝いて、我をして、
不安を帯びたる歎美 の情に禁 えざらしめ、ついに、意を決して当って砕 けろの態度を
とるに及 びたるものに相違 なからんなり。
されば、使臣 の人選 もまた吟味 に吟味を重ねられ、風神高朗 にして儀表 衆に抽 んで
たる、大礼 (冠位 の名)小野妹子 、その栄 を荷 うに到 り、支那より帰化せし者の系統
に属 せる多数の学徒をして、これに随行 して彼地 に游学 せしめたるが、妹子が携 えた
る国書 こそ、実に彼が胆 を破るに足 れるものにして、劈頭 まず堂 々大書 して曰く、「日
出処天子致書日没天子」と、これを訓 ずれば、「日出 ずる処 の天子 、書 を日没 するの天
子 に致 す」と云うなり。これ、「東方 の天子 、書 を西方 の天子 に致 す!」という意味を
故意 に強めたる警語にして、我 と彼 とを対等に見るの立場より、我より彼を低く見る
の立場まで、メートルを上げたるものに外 ならず。
我が政局 に当 れる者に、博学多才 の廐戸皇子 (聖徳太子 )ありて、敢 てこの名句 を
案 じ出 だしたるなり。大抱負 の煬帝 にして、しかも、その前々年には二百万人を役 す
る大土木 を起し、前年にはまた、進士科 を設け、輿服儀衛 を定め、天下の散楽 を徴 し、
さらにこの年においては、まさに官制 を布 き、新律令 を頒 ちて、古 の名君聖主 の己 に
優 れる者を認めざる際 なりしかば、ただ今までも蠅虫 同様に思いて眼中に置かざりし
東海 の一小島夷 が、高飛車 の極 め方 のあまりに目覚 しきに、却 って怪訝 の念を起 さざ
るを得ずして、結局 彼は、日本の無礼を憤 りてこれを斥 くるよりも、姑 く忍 んでこ
れを納 れて、まず日本の国情を探 るを必要と感 じたるものの如く、すなわち使者を礼
遇 して、游学生 を留 め、翌 我が十六年、裴世清 等十二人をして、妹子 の帰朝に伴うて
我 に到 り、国書 および方物 を献ぜしむ。書辞尊大 なりと雖 も、また多少の敬意 を含 め
り。これ、警語の豪 にして硬 なるものの一新例 、問題はなはだ重大にしてしかもその
奏功 の顕著 なるを見よ。もって、警語の価値の決して軽視 すべきにあらざるを会得 す
るに足 らん。
予 は進んで、大化 革新の唱道者および実行者にして、始 めて天皇 対人民 の完全なる
国家を組織し給いし、英俊 なる第三十八代天智 天皇と、その皇弟 にして、秀吉 の事業
を継承 したる家康 の如く、天智 の事業を継承し給いし、深沈 なる天武 天皇との間にお
ける、天智が晩年 の葛藤波瀾 を点検 し、その間より、国史と関係ある顕著 なる警語 を
見出 だし来 らんとす。
天智 天皇は天成 の革新的人物に在 して、しかも、多事多難 なる時代に遭遇 し給う。
すでに皇太子として久しく天皇の実権を握 り給い、まず蘇我入鹿 を斬 って雄族 の専横
を除 くや、大化革新 の施設随 って起り、牢乎 として抜 くべからざりし族長制度を粉砕 し
て、区 々に私有せられし土地人民を天皇の直轄 に回収したるが、しかも革新の施設 未
だ全 からざるに、韓半島において前代未聞 の外患 を生じ、我が水軍 、唐 の水軍と戦っ
て全滅 し、我が保護国百済 もまたこれによって唐に亡 ぼされ、内外多事 、天皇拮据鞅
掌 して席暖 かなるを得 給わず。次 で、英断 なる滋
賀遷都 を実行し給いて、事更 に繁 く、すでにして位に即 き給うに及 び、神憊 れ面痩 せ、
病患 深く心腹 に竄入 せり。
しかのみならず、天皇の革新事業があまりに急激にあまりに峻烈 にして、これを妨
ぐるところの何物 の存在 をも許容 せざりしをもって、陰 にこれを喜 ばざる者多く、却
って、天皇が奮闘 に継 ぐに奮闘 をもってしつつあり給いし間 、代 って内政 の料理に当
りたる、皇弟大海人皇子 (後 の天武 天皇)の、深沈寛宏 にして、人心を収攬 するに巧
なるが、暗黙 の間に天下を左右するの勢力を蓄 え、労せずして、天皇が経営し給いし
ものの効果を収めんとするを見る。これすでに、英邁 なる天皇をして断乎 たる処置 を
取らずして已 む能 わざらしむるものなるに、さらに、ある問題の天皇に忍 ぶことを得
ざる刺激 を与うるあり。
天皇初 め鏡女王 および額田女王 の姉妹を寵 し給い、中臣鎌足 の心を攬 らんがため
に、鏡女王を彼に与え給いしと雖 も、額田女王は、深く愛して離すことを欲 し給わざ
りしが、大海人皇子 は巧 にこれを奪 って己 の物 と為 しだり。天皇これを争 い給うと雖
も、男女 の情事 は、至尊 の権威 ももって如何 ともすること能 わず。
その二 警語の歴史の一進化
香久山 は畝火惜 ししと、耳梨 と相争 ひき、神代 より斯 くなるらかし、
ればこそ、虚蝉 も妻 を争 ふらしき
古 もしかな
と、感傷 の歌を詠 じて自 ら慰 め給いぬ。その他、天皇と鏡女王と相贈答 するの短歌、
鎌足と鏡女王と相贈答するのそれ、大海人皇子 と額田女王とのその等は、皆万葉集 に
在 り。
かくて天皇は、皇弟 に対して二つの平 かならざる感情を重ね給えば、半島の処置の
ために多年滞在 し給いし九州の行宮 より帰りて、即位 の式を挙 げ給うや、一旦 、大海人皇子 を立てて皇太弟 と為 ししと雖 も、この不快の念よりして、翻 って、伊賀釆女宅
子 に生 ましめたる大友皇子 を立て給わんとの内意 あり。ために、天皇と皇太弟とは、
暗 に党派 を作 って相軋轢 するの傾 きを来 したるに、不幸にも、多年の辛労 のために髄
枯 れ精竭 きての天皇の病状は、いよいよ重 きを加え、未だ衰老 の域に入 りたりと云う
べきにもあらぬ四十九の聖算 にて、はやくも頼 み少なく見えさせ給いしかば、急に大
友皇子のために太政大臣 の官職 を設け、また、股肱 の重臣を左右大臣および御史太夫
等に任 じて、皇子 のために羽翼 を作 り、しかして後 、皇太弟 を病牀 に招 いて苦策 を施
さんことを謀 り給う。されど、皇太弟の人心を収攬 するに巧 なる、天皇の周囲にもま
たその腹心 の徒 ありて、謀 すなわち漏 れたれば、大海人皇人は後事 を托 せらるるを固
辞 し、ただちに宮中において髪を削 りて、異心 なきの状を装い、深く吉野 の山中に入
りて僧 となりぬ。天皇大いに喜び給いて、大海人皇子に贈るに法衣 をもってし、その
吉野に赴 くや、大臣 および諸大官 をして送 って菟道 に到 らしめ給いたるは好 けれど、
この時、何者 より出 でしとも確 め難 き警語 が、衆人 の耳より口に伝わりて、「虎 を野 に
放 ちたり!」と云い合 えるを、ただ病牀の天皇のみが聞 き給 わざりしこそ憂 たてけれ。
果然 、天智天皇崩御 の日は、すなわち大海人皇子 が念珠 を擲 ちたる日にして、風致
画 も如 かざる狭 々波 の滋賀 の新都 は、孤峻 にして人和 を得 ざる大友皇子 の滅亡 と共に
廃墟 に帰 し、空 しく、当時の歌聖柿本人麿 のために、不朽 の名吟 を得 せしむるの材料
を留 めぬ。虎 を山に放 ちたる結果の如何 なりしかを窺 うべく、その長歌 をここに録 し
て、英主 にして薄命 なりし天智天皇に対し奉 る予 が追弔 の情を、これに寓 するも、必
ずしも無意味なりとせざるべし。
玉 だすき、畝傍 の山の、橿原 の、ひじりの御世 も、あれましゝ、神 のこと・だ\、
樛 の木 の、いやつぎノだ\に、天 の下 、しろしめしゝを、そらに満 つ、倭 を置 きて、
青丹 よし、奈良山 を越 え、何方 に、おもほしめせか、あまさかる、ひなにはあれ
ど、いはゞしの、淡海 の国 の、さゞ波 は、大津 の宮 に、天 の下 、しろしめしけむ、
すめろぎの、神 のみことの、大宮 は、こゝと聞 けども、大殿 は、こゝと云 へども、
春草 の、茂 く生 ひたる、霞立 つ、春日 の霧 れる、百敷 の、大宮所 、見 れば悲 しも
と。その感傷 の深き、
るを覚えざるなり。
と ほ くにやぶれてさんが あり しろはるにしてそうもくふかし ぎん
杜甫の「国破山河在 城春草木深」の吟も、
これに過ぎた
警語の歴史はなお警語の如くなるべし。陳腐 を厭 う。重複 を嫌 う。斬新 より出 だす
に、さらに斬新 なるものをもってせざるべからざるなり。この態度 において、予 は仏
を殺し祖 を殺す底 の豪傑的活僧 が、江海 を呑吐 するの大胆略 より、地獄の釜の底を蹴
破 り、閻魔大王 を猫の子同然 に提 げて、毬 よりも軽く殿上 より投げ出し、赤鬼 の手よ
り釘抜 きを奪 って、倒 まにその鬼の舌を抜くが如き、破天荒 の警語を発し、上 は天子
后妃 を始めとして、満朝満野 の貴賤僧俗 、悉 く皆胸を痛め頭を悩ましつつありし至
難至重 の問題をば、わずかに一指頭を竪 つる間に解決したる、英霊 々々活発々々の物
語を試みんと欲す。
第四十五代聖武 天皇、その皇后光明子 と共に、仏法 を尊信 することはなはだ深く、
ほとんど、国家民人 を挙 げて奉仏 の機関に供 し給うの概 あり。これにおいて、僧侶 の
尊貴富栄 その極 に達 し、天下僧 にあらざれば人にあらざるが如く、はなはだしきに到
りては、天武天皇の孫にして高市皇子 の子なる左大臣長屋王 が、己 が勅 を奉 じて司
れる法会 の席において、濫行 して食 を求 むる乞丐沙弥 を懲 らさんがために、笏 をもっ
てこれを撃 ちしにより、たちまち謀叛 の誣告 を受けて死を賜 わりたる怪事 あり。宗室
の大臣にしてなお此 の如し、僧侶 が驕慢横暴 の状、もって想見 すべしと做 す。なかん
ずく、美貌 にして巧慧 なる妖僧玄肪 が、天皇および皇后の無上 の尊信寵幸 を博 し、道
鏡 以前の道鏡たる実 を現 わして、天下に兵乱 を醸 したる事実 の如きは、時弊 の反影 の
顕著 なるものとして記憶するに足れり。
されば、奈良 朝はすなわち仏教の黄金時代 にして、天平 十三年には絶大 なる東大寺
の造営 を始めとし、諸国 に国分寺 の建設あり。さらに同十八年には、天皇の理想残 る
ところなく実現せられて、いわゆる奈良 の大仏 という名において伝 えらるる、金銅大
盧舎那仏 の東大寺に建立 を見るに及 べり。これ実に、天下の人力 と財力 とを集注 した
るものにして、さしも、浮華誇大 の頭脳に充 たすに凝 り固 まりの迷信をもってし給え
る天皇と雖 も、当時の国勢 および民力 に比 して、余 りに過大の事業なるを思い給わざ
る能 わず。かつそれ、仏 を尊奉 し僧 を供養 すること極度 なるにも拘 らず、水旱 、地震、
飢饉 、疫病 等の災頻 りに到 り、これに加うるに叛乱 の患 いをもってし、一年一回以
上の割合をもって大赦 を行い、その他、免租 、救恤等 、あらゆる慈善的 政治を試み
尽しても、なお足らざるが故 に、天皇は、元来 人間以上の力に依頼 し給うことの極端
なる叡慮 よりして、当然、仏 の外 になお祈るべきものあるにあらずやとの疑団 を挿 み
給わざるを得ざるに至れり。ここにおいて、しばらく仏陀 の背後に掩 われし国神 が、
出 でて天皇の夢を魘 う幻像 となるざるを得 ざるなり。
初め天皇が藤原広嗣 の乱 (藤原氏の大頭 にして、玄肪 の讒 に中 り大宰少弐 に貶黜
せられ、兵を挙 げて反 したる者)を避 けて伊勢 に幸 し給
いし時、端無 く天照大神 の稜威 に想到 して、慄然 として冷汗 を流し給
いしにあらざるか。乱幸 いに平 いで都 に還 り給うや、たちまち境遇と共に意思を翻 し
て、これ偏 に仏 の加護 のみと信じ給うに至りたりと雖 も、天照大神の神意如何 を虞 る
るの叡慮 は、深く天皇の胸臆 に鏤刻 せられて消失せざりしにあらざるか。
故に、今や大仏を建立するに臨んで、天皇は再びこの問題に悩まされ給えり。人知
れぬ煩悶 を起し給えり。まさにこれ天皇が心的 生活の一転機会 なり。その現在未来 を
一串 せる快楽主義 の破壊 なり。能 くこれを看破 してこれに投合し得たる者は、すなわ
ち新 たに勢力を得べきなり。しかも、地位境遇 共にその任 に適 せる玄肪 は、徒 に巧
慧 なるのみにして、斯 る大局 を看取 するの活眼 を欠 き、空 しくこの険絶仄絶 の魔機 の
前に晏如 として、雲煙過眼 し去 れるに、却 って意外なる別方面より躍出 したる新人物
ありて、敢 てこの問題 の解決 に当 りぬ。僧行基 すなわちこれなり。
行基は実に我が宗教界に出でたる最初の大人物にして、その胆略 よりするも、その
実行的気魄 よりするも、空海 、親鸞 、日蓮 等と並立 すべき者、純然 たる高僧 としては
大いに議 すべき点無 きにあらずと雖 も、宗教的策士戦士 として、絶倫超凡 なる点にお
いては、まったくこれ等の徒 と型 を同 うせり。もとより、宮室 に阿附
し、婦女子の心を攬 って俗的勢力を養うが如き、玄肪 一輩 の腥坊主 とは選 を異 にせ
るなり。
初め、仏教が皇室および貴族間 の専有物として、狡猾 なる破戒僧 のみが時 を得 、俗
権 に執着して貴族と拮抗 することを努 むるや、行基 、見てもって陋 なりと為 し、慨然
として独 りこの趨勢 と背行 して、一衣 一鉢 、樹下石上 、乾坤到 る所ことごとく我が家
なるの生活を営み、諸国 を周遊して、民を集め法を説 く。ここにおいて、百姓商賈老
幼婦女 もまた、仏法が上流社会の専有物にあらずして、貴族臭 を帯 び宮室味を含める
はその本質にあらざるを悟 り、天下翕然 としてこれに帰
せり。行基の到 る所 、民 皆活仏 を迎うるが如くに渇仰 し、素朴 なる庵室 、清素 なる寺
院は、随所 に建ち、無名 の人物争 うて髪 を削 ってこれに従遊 す。道路はこれがために
開 かれ、橋梁 はこれがために架 せられ、水無 きの所に、奇蹟 の如く清泉 の噴騰 するを
見る。その観 あたかも一新宗教の新たに樹立せられたるが如く、国民生活の根柢より
新たなる源流の湧出 したるに似 たり。
その勢力 の侮 るべかざる、ついには、貴族的腥坊主輩 をして、不安 の念 を懐 かざ
るを得ざらしめ、
強いて行基の徒に蒙らしむるに、朋党を立て、聖道を偽り、山河を
損 じ、煙霞 を乱 すの罪をもってして、あらゆる迫害をこれに加え、聖武の前代元正天
皇の養老 元年行基を流竄 に処 するに到 りぬ。されど行基は豪傑僧 なり、英霊漢 なり。
この一挫折 のために十倍の活力 を振 い起 して弾反 し来 り、聖武天皇が大仏 と大神 との
抵触 、神意 と仏意 との衝突 とを問題として、窮 りなき煩悶 を起 しつつあり給える機に
乗じ、飛躍攀登 して帝座 に近づく。真 にこれ、鬼神驚 き避 くるの気魄 にあらずや。
天皇嬬めて深く鑾の鬣を聞き給い、菷葎撮.軈問題に加えて・その靉多き
ずのう しん せいそう いか え きんいし
頭脳に、真の聖僧とは如何なる者なりやとの新問題を起し給わざるを得ず。錦衣紫袍
にして宮室 に出入し、富貴 を求 め、権勢 を恋 う者、果 して仏意 に叶 うべきか。これ等
の輩 が卑 んで、もって乞食僧 と做 す行基 の徒 は果して仏意 に叶わざるべきか。行基が
頚る所活仏として民に鵬えらるること、その響慰なるが故にあらず・その慰貝な
るが故にあらず、その鐶あるが故にあらずとせば、果して慨の撚なるべきか・俤の
詳くところとこの剛都繕すところとを躍撃るに・棚れが果して俤掌の譲ある
べきか。これ等の各疑問を総合 し来 れば、その結論として、天皇はついにひとたび行
基を見ずして罷 み給うこと能 わざるなり。
すでにして行基の到 るを見給うに、清高鶴 に似て、粗衣 なお光を発するを覚 え、し
かも、藹然 たる和気 の裡 に一味の鋭鋒 を包めり。かの錦衣紫袍 の
徒 を顧 るに、孔雀 の徒 に華美 なるが如くにして、これに比 して俗悪の観 あるを免れ
ず。天皇これがためにまず心を動かし給い、しかも進んで之に胸中 の煩悶 を告げ給う
に及 んでは、行基 の唇頭 わずかに一句を漏 らして、あたかも、天を蔽 うの巨斧須弥山
を真二つに裁断 するが如し。曰く、「大神大仏元 一体 にして二あらず。仏 は本体 にして、
神 はその権化 のみ!」と。ただし、孔雀的僧侶 の中 にも、良弁法師 の如きありて、す
でにこれと同説 を唱 えたりと雖 も、理路迂曲 にして、徒 に言辞の修飾多く、未 だ天皇
の心関 を闢 くこと能 わざりしが、この、簡明透徹 にしてしかも犯すべからざる権威 を
含 める一語は、頓 に天皇をして、爽然 として宿醒 を駆 り尽 し給えるが如き感あらしめ
たり。
すなわち、行基 をして伊勢 に詣 りて神託 を聞かしめ給いしに、行基還 り奏 して曰く、
「大神 は日輪 の権化 にして、日輪 はすなわち大日如来 なり。これを神託 となす」と。こ
れにおいて、天照大神 もまた仏 のみ。何 ぞ、金銅盧舎那仏 の建立を懌 び給わざるあら
んや。その神託 の余りに都合 の好 き、むしろ、一驚 を喫 してしかして後 に一笑を発す
るに足れり。もって行基が胆略 の大 なるを見るべし。その豪にしてしかも猾 なるを見
るべし。そのずるくして食 えぬを見るべし。これ行基が、仏 に遭 えば仏 を殺 し、祖 に
遭えば祖 を殺 す活手段 を能 くする所以 に.して、彼が聖僧 にあらず豪傑僧 なる所以 なり。
天皇すなわち意を決して、天照大神-1大日如来 の合像 なる大盧舎那仏 の建立に着
手し給う。同時に、乞丐僧行基 は天皇の無上尊位 をもって大僧正 に昇 り、孔雀的僧侶
の首長なる玄肪 は、たちまち権勢 を失って貶黜 せられ、しかも、回復の時機 を待 つに
及 ばずして、同年夏死 しぬ。行基が聖武 天皇に対し奉 りて発したる二回の警語 、共に、
天荒 を破 りて新たに世界を建設するの概 あり。雄偉非常 にして、裡 に鬼神 を駆使 する
の機能 を蓄 う。また、警語史上特筆 に価するの事実にあらずや。
玄肪 は道鏡 の前の道鏡にして、道鏡は玄肪の後 の玄肪なり。しかも、後の玄肪は前
の道鏡に比して、一段の妖僧素 を有せるだけに、その流毒 さらに前の道鏡よりはなは
だしきこと数等 なるを致 せり。第四十六代孝謙 天皇は、聖武 天皇の皇女 にして、玄肪
と醜声 ありし光明皇后 の出 なり。しかも、この天皇が天皇としての異例 は未婚 の女帝
なる一事なり。これより先、女帝の登極 し給いし例 少なきにあらずと雖 も、これ、先
帝 の皇后にあらざれば、必ずその太后 たり。未 だかつて、孝謙天皇の如く未婚にして
宝祚 を践 み、これがために婚嫁 の運命を奪われ給いしはあらざるなり。
ここにおいて、天皇は必然に嬖臣 を要求し給えり。
最初その選 に当 りし者を藤原仲麻呂 となす。仲麻呂美 にして敏 、天皇彼を見給うや、
喜んで微笑を催 すことを禁 じ給わざるをもって、名を恵美押勝 と賜 う。その関係もっ
て知るべきのみ。されど、押勝独 り長く天皇の寵 を擅 にすること能 わず。 一旦専恣
を極 めて、勢威当 る者 なかりしと雖 も、ひとたび女帝の心移りて、弓削道
鏡 という玄肪 「流の妖僧 に及 ぶや、押勝 たちまち秋扇 の歎 を発 すると共に、失脚して
再 び起 たず、ついに兵刃 の間に徒死 するに到る。
道鏡は河内 の産 にして、その先物部氏 に出 ず。彼は、玄肪の才学 に兼 ぬるに、玄肪
が女性を魅 するの魔力をもってし、しかも、玄肪になきところの胆気 を有せり。玄肪
以上に成功すべき要素は、最初より彼に具 われるなり。かくて、孝謙 天皇ひとたび位
を退 きて重祚 し給い、称徳 天皇となり給うや、道鏡大臣禅師 という称号を得て、僧
侶内閣を組織し、勢威女帝 を蔽 うて、専恣到 らざるなし。いやしくも、道鏡の徳 を頌
してこれに諂 う者は、皆大官高爵 を博 し得 べし。
宇佐 の神主阿曾麻呂 なる者 あり。遥かにこれを聞いて、奇貨居 くべしと為 し、称徳
の五年(神護景雲 三年)、筑紫 より来 りて奏 して曰 く、「宇佐 八幡 の神託 あり。道鏡を
して皇位を継 がしめば、すなわち天下太平ならん」と。天下豈 多く驚くべき事あらん、
驚くべしとはそれかくの如き事を云うなれ。されど、過 ぎたるはなお及 ばざるが如く、
阿曾麻呂が道鏡の意 を迎 うること余 りに過分 なりしをもって、却 って、道鏡を九天の
上より失脚するの危険に推 し進めんとせり。満朝 の臣僚 は、これが刺戟 を受けて、始
めて妖僧 の魔力に中 てられたる昏酔 を醒 まさんとせり。道鏡に惑溺 し給える女帝 と雖 も、またその神託 の余 りに真 しからぬを認めんとし給えり。
かくて女帝は、改めて神託 を確むべく、近侍 の尼法均 なる者(名を和気広虫 と云う)
を筑紫 に遣 わさんとし給いしに、法均 その婦人 の身 にして過 ちあらんことを懼 れ、こ
れがために弟和気清麻呂 を薦 む。道鏡の運命まさに清麻呂が舌頭 三寸に係 れり。すで
に権勢 の絶頂 を極 めし道鏡は、百尺竿頭左無 きだに自己の重量によって危 きに、さら
に阿曾麻呂 のために過大 の重量を加えられて、まさに墜落 の外 に前途 なからんとす。
最も強き者の最も弱きはこの時なり。
しかして、これに対する清麻呂の境遇 もまた危険至極 ならざるにあらず。そのまさ
に京師 を発せんとするや、道鏡 これに募 るに重爵 をもってし、もし非 と云わばすなわ
ち厳罰 を加えんことを暗示 す。金札 か鉄札 か地獄極楽 の境 とは、これを云うなるべし。
しかのみならず、一方 においては道鏡のために木偶 の如く手を束 ねしめられたる藤原
氏が、これを機会と為 して前途 の開拓 を謀 らんとするあり。深く清麻呂に嘱 して、軽
がるしくせざらんことを望む。その他不平鬱屈 の徒 、争うて清麻呂を要して希望を述
ぶ。未 だ発せずして、清麻呂はすでに板挟 みの苦境 に陥 りしなり。されど、清麻呂は
いず
何れに対するもただ温然たる一微笑をもってしたるのみ。曰く、「神託に随うの他無き
のみ」と。
すでにして清麻呂の筑紫 より還 るや、意気軒昂 にしてまったく当初の温顔 と異 なれ
り。景には天皇あり・前には道鏡の励驟を含んで瞰瞰するあり。灘砥の臥艇.粛く姑ど
して水の如く、咳声 だも聞かざるのところ、凛 として霜天 の鶴唳 を発して曰く、「我国
開闢以来 、君臣 の分 定まれり。臣 をもって君 と為 すこと未 だこれあらず。天 つ日嗣 は
必ず皇胤 を立 てよ。無道 の人は宜 しく速やかに除 くべし。これ神託 なり」と、その面
輝 くこと日 の如く、言 々鉄石 を截 りて、ただちに人の肺肝 に透徹 す。
堂上堂下 これを聞いて皆色 を失う。道鏡怒 ることはなはだしうして、円顱 火 を発し、口吃 して言う能 わざること少時、ついに、清麻呂 を穢麻呂 と名 づけ、
あねひろむし せまむし よ りようきやく すじ た おおすみ びんご
姉広虫を狭虫と呼び、
清麻呂が両脚の筋を絶ちて大隅に流し、広虫を備後に流せり。
妖僧 が激怒乱言 の態 、今なお眼前 に見るが如く、「穢麻呂 ! 狭虫 !」の奇語 、人をし
て失笑を禁ずる能 わざらしめんとす。
かんかんがくがく げん かく さいか か え いえど じつげつ つらぬ
清麻呂侃々諤々の言をもって、
此の如く災禍を買い得たりと雖も、その日月を貫い
二うき こ しせい いく ちよだい はんきよう じんごけいうん
て皇基を護するの至誠は、
幾ばくもなくして著大なる反響を呼び来り、翌神護景雲四
年、天皇、道鏡を由義宮 に見、異味 を進められたるによりて病 を得 給い、月 を踰 えて
べつと う
崩じ給うや、光仁天皇代って立ち給いて、ただちに道鏡を下野の薬師寺の別当に貶 し、
清麻呂を召還 して、正 二位大納言 を授け給いぬ。これ、国史上稀有 の重大事件なるの
みならず、清麻呂が神託 に寓 して発したる痛語 の性質、およびその効果は、また、警
語史的眼孔 よりして、その至重 の価値を看過 すべからざるものなり。しかして、これ
と箋がいわゆる天照大神の馨と、驚嘆すべき緯をもって灘惑の対照をなせ
る、また、警語史上 注意を払うに足れるの現象なりとすべし。
すでに齢謠撃の多きに苦しみたり・♂うヂをして・贓を籤の躇に放って鷹
煙莽蒼 の間より新たに生れたる撥剌飛 ばんとするの、素朴真率 、一点の粉飾 を帯 ばざ
る警語 を招手 し来 らしめよ。光仁 より桓武 の朝 に連 りて、北方蝦夷 の勢い俄 に猖獗 となり、桓武 天皇の延暦 七年、紀古佐美 を征討大将軍 に拝 し、
当時においては傾国 の大兵 なる五万二千八百余人の歩騎 を発 して、陸奥 に向わしめし
かど、毫 も膺懲 の功 を奏 せず、却 って大いに蝦夷の撃破 する
ところとなる。これ支那 の北方韃靼人 が、我に向って呑噬 の欲 を逞 しうせんとし、まず蝦夷を使嗾 して内部 を動揺 せし
むるものにして、事態 決して軽易 ならざるなり。
ここにおいて、山城 に平安城 を起 して万世 の帝都 の基礎を定め、貴族と僧侶との専
横 を抑制 して、人材を擢用 することを旨 とし給いし、神武以来 の英雄皇帝第五十代桓
武 天皇は、主力を北方の経営に傾 け給い、最後 に、模範的名将坂上田村麻呂 に重任 を
委 ねて、征戦 の度 を重 ね、久しきに弥 りて、当初の目的を遂 げ給いたるが、この桓武
時代の大征戦 は、かつて天武 天皇を助けて近江朝廷 を亡 ぼししより、武力をもって天
下に重視 せられ来 りたる、東人 すなわち東海東山 の武人 、なかんずく坂東 八州のそれ
等を、さらに十分に訓練 して、精鋭当 るべからざるものと為 したることを記憶 せざる
べからず。孝謙 の朝 、大宰少弐藤原広嗣 が叛 を起 しし時、その天下無敵 を標榜 して統
率 し来りし慓悍 なる隼人属 をば、苦 もなく撃破 して盛名 を失わしめたるも、これ等坂
東武人 に他 ならざるなり。しかして坂東武人の組織たる、土地を領有 せる豪族 を心核
として、累代 その家に隷属 せる私民 すなわち奴隷 の進化したる者を周囲 と為 せり。
彼等の体中 には、古来上国 より移殖 せられし人民 の血液を基礎と為 して、これに、
蝦夷の熟化 したる者の血液、および、支那大陸、朝鮮半島の帰化民 の血液を加え、さ
らに、上国より遣 わされし鎮守 の武人 、並 びに治民 の文官 のそれを混 じ、また、変乱
の都度京師 より下 りし征討将軍 、および、その部下 の将士 の血液も、その間に作用せ
ざるにあらずして、複雑に混淆 せるものが流動しつつあり、彼等は、上国 および西南
諸国 の民の如く文学芸術 の文明を有せずと雖 も、またそれ等の如く浮華温柔 の空気に
浸染 せず。
日本第一の平原にして、箱庭的日本 の中 唯一の大陸的風景を有し、しかも土地の肥
沃遺憾 なき、八州の地を縦横 しつつ、眼中 ただ自己を頼む者と頼まざる者との別あり。
頼む者のためにはすなわち屍 を馬革 に包むを厭 わず、頼まざる者に向っては、矢竭 き
刀折れて赤手相搏 つに到 るまでも、なお反抗して己 まざるなり。かくて彼等は、日本
民族中の新民族として、別様 の面目 を呈 し、別種 の頭角 を抬 げ来 り、武人 を爪牙 とし
てその勢力を作らんとする権門貴族 をして、必要上これ等の土豪 の粗擴 を厭 うこと能 わずして、争うて婚 を通じてその心を攬 らしむるに及 べり。
後年源氏 が天下を取り、北条氏継 いで政権を握りたるも、この東方武人 の実力を利
用しての成功に他 ならず。日本民族が武人として世界に特殊なる発達を為 すに到るべ
き殖機 は、実に桓武 天皇時代に胚胎 せるな吟。事実すでに此 の如し、果して然 らば、
予 が、この桓武時代における新興武人 の意気抱負 を表現するに足るべき標準的警語あ.
りて、緊張せる音調 と剴切 なる意味とにおいて、事 に当 るごとに彼等の口癖 の如く発
せられしなるべきを想うは、必ずしも空漠 たる推測 にあらざるを得 べし。しかり、升
は確 に当 れり。絶 えて前代 に類例 なき勁健卓抜 なる一警語ありて、新たに、関東平野
の空気を波動 せしめつつあり。曰く、「額 に立 つ矢 はありとも、背 に立 つ矢 は無 し!」
と。これ、「額 に立たすとも、背 には立たせじ!」との覚悟 、すなわち、敵 に向って面
を向くとも、決してそれに背 を向けまじ 敵強ければ戦死すべきのみにして、断 じ
て敵前 よりは退却 せまじとの、予定 の意味をば、緊切 にして奇警 なる断定的意味 の客
観的言語 に変化せしめたるもの、我が国武士道 の淵源 実にこの一語に在り。語を換え
て云えば、この一句こそ、実に我が国武士道の精神を結晶せしめ、武士道の歴史を還
元 したるものなれ。此 の如く力強く鋒鋭 き警語は、我が国史においてもまた空前絶
後 なるものなり。
陰姦深毒 なる藤原氏政権を私 して、天皇を自家 の傀儡 と為 し、宮室 を自家遊蕩 の娼
楼妓閣 に擬 し、政治を自家の娯楽機関 に供 したる結果、宮室の内外、男女皆神経衰弱
性 の病的徴候 を帯 ばざるはなく、男はヒポコンデリーにして女はヒステリi、三十、
四十にして蚤 くも老衰 の境 に入り、東家西舎南殿北閣相 望んで、続 々枯渇 して死する
者を出 だし、死せざる者もまた、皆驚 き易 く、恐 れ易 く、怒 り易 く、泣 き易 き神経病
患者 たらざるはなきの、惨澹 たる光景を呈 するに及 べり。
なかんずく、第六十代醍醐 天皇の世においては、菅原道実 を讒誣 せし藤原時平 一派の徒 が、あるいは病に犯され、あるいは雷に打たれ、
あるいは偶然の過失 に余儀 なくせられて、奇蹟 の如く相率 いて死せしに加うるに、洪
水 、烈風 、大火 、大旱 、疫病 、飢饉 、盗賊横行 等の災厄 の頻 々として起れるをもって
せるにより、道実の祟 りを信ずるの念 は上下 一般の心に醸 されたれば、左無 きだに病
的にして迷信深き時代の男女は、これによって、一層 神経を悩まし、死霊 、生霊 、変
化 、物 の化 等を脳裡 に描き、眼前 に現わし、盗賊出没 して日暮るれば人行 を絶する京
都の市街の物凄 さも、陰森 たる宮殿楼閣 の、時々気象 の変動に随 って嘲軋 たる鳴響 を発するも、一として彼等の疑心 に暗鬼 を与うるものにあらざるはな
く、これより二代以前なる光孝 天皇の仁和二年八月に、宮中怪事 多くして、妖言 の行
わるるもの三十六種に上 りたりと云うも、この時代より顧 れば、むしろその少なきを
認めざるべからざるの状 を来 し、ついには、天皇もまた神経病 を起して病褥 を出 で給
わざるに到り、延喜 二十二年の翌年を延長 と改元 して、道真の本官 を追復 し、その霊
を慰 め給い、同年降誕 したる皇太子の如きは、これがために日光に触るるを得 ざるこ
と三年、日夜帳内 に灯火 を置いて、衛士 の守護 に依頼せしめられたり。
かくて、寒夜衣 を薄 くして民の疾苦 を思うと称し給いし、外観的聖主 の醍醐 天皇は、
四十を過ぐること幾何 もなき壮齢 にして、宮室的 生活の弊 に毒 せられ、枯衰 して崩御
し給うや、生れて三年間日光 を見せしめられざりし皇太子は、わずかに九歳にして宝
位 を襲 ぎ給えり。これ、第六十一代朱雀 天皇なり。されば、宮室的生活の弊竇 の外 に立てる豪猾 なる武人 が、かかる馬鹿 々々しき光 景を座視 す
るの歯痒 さに堪 えずして、暗 にその蛮骨 を動かしつつ、京師 を覬覦 し来 るも、時代の風潮の然 らしむるところにして、また如何 とも
すること能 わざるものと云うべきが如し。
ここに、桓武 天皇の曾孫高望王 が、宇多 天皇の寛平 元年新たに平姓 を賜わりて、坂
東武頑 の地に封邑 を得しより、平氏は東国 の一勢力となりたるが、高望王 の次子良将
の子に平将門 なる者あり。最もこの地方的貴族の色彩 濃き粗豪 の人物にして、初め検
非違使 たらんことを望み、京に入りて摂政藤原忠平 の門を敲 く。されど、忠平は眼中
天皇なきの権臣 なり。いわんや、皇族の宮室を離るること数代 にして、土豪 の血液 を
混 ずること多く、粗野にして礼節 に嫻 わざる田舎青年 をや。驕慢 なる彼は、此 の如き
田舎の兄 いが、濫 りにその先皇室より出 でたるを名 として自己を干 すを、無礼至極 の
態度と認めざるを得ざるなり。すなわち、はなはだしくこれを冷遇 してその乞 いを拒
みぬ。ここにおいて、皇族の尊大 に加うるに東人 の不屈 をもってせるの将門 は、眦 を
決 して憤 らざるを得ず。鼓舌 一番して曰く、「彼藤原氏何者 ぞ!」と、蛮骨勃 々とし
て動く。由 って、党を求めて藤原純友 を得たり。
この者また全盛 の藤原氏に属すと雖 も、元来藤原良房 の兄長良 の曾孫 なれば、政権
独り良房 の猶子基経 の系統に帰 して、我が家の毫 も振 わざるを見、憤懣措 くことを能
わざるものあり。かつ、久しく地方に出 でて浮華軟弱 の風に染 まず、粗豪 にして蛮骨
を包めること、また将門 に譲らざるなり。将門を地方的皇族の代表者とすれば、純友
は実に地方的貴族の代表者なり。しかして、時勢はこの両代表者を推 し進めて接近せ
しめたり。火と爆発物と相 近づきたる結果は、如何 で長く無事なるを得 べき。
果して二人者は、その大いに逞 うせんするの前提として、相携 えて比叡山 に登れり。
四明 の峰頭 、虎体熊腰 の二壮士 あり、爛 々たる四顆 の豺目 を張りて、皇居を俯瞰 する
こと多時 、すでにして将門長大息 を発して曰く、「偉なるかな竜蟠虎踞 の地、山河襟帯 、真に帝王城
なり。我は皇族、もって天子 たるべし。卿 は相門 、何 ぞ関白 た
らざるPこと。純友首肯 して快 を叫ぶ。
将門、純友が、東西に呼応 して天下を震撼 したる、天慶 の乱の動機は、実に此 の如、
くして醸 されたるなり。あえてその正 なるものと云うにあらず、されど、またもって
警語 の粗 にして豪 なるものと做 すことを得 べきか。ただし、史家 あるいは天慶 の乱を
論じて、将門、純友相約 して兵を起ししにあらず、各別 に事 を挙 げて、偶然に時 を同
じうせるものと為 すが如しと雖 も、それ等の異説の是認 するに足れりや否 やは、軽 々
に定むべきにあらずして、しばらく、比叡山 上の劇的 かつ画的 なる一齣 を保留するも、
また何 ぞ国史の体系 を紊 すものと為 すに足らん。
すでに藤原氏の陰姦深毒 なるを説 きぬ。然 れども、藤原氏系中また彗星的人物 なき
にあらず。秋霜烈日 の硬骨漢 を見ること一にして止まらざるなり。第六十八代後一条
天皇の朝 、勇断 もって刀夷 の入冦 を撃退せし、大宰帥藤原隆家 はその一個にして、し
かも隆家の功勲 も、その未だ勅符 を俟 たずして丘ハを発せしを理由として、却って罪に
擬 せられんとしたるを、朝議 の席上、独 り、藤原公任 、藤原行成 等一輩 の幇間的公卿
の腐儒論 を排 して、これが爵 を進むるに決せしめたる、右大臣藤原実資 こそは、実に
鉄中 の鏘 々たるものとして珍重 すべき、藤原氏の幹部中唯一 の活 きたる人間なれ。
彼は関白実頼 の孫にして、その養子たり、小野宮 と称せらる。門地元 より高きも、
あえてこれに誇らず。遠く時代の風潮の外 に離れて、時弊 を救 い時病 を医 するに意を
用う。時代の迷信に投じて譎詐 を弄 する者、皆実資 の折 くところとなり
て面皮 を失わざるはなし。藤原道長 、権威朝 を傾け、人能 くその面 を仰 ぎ視 るを得 ざ
るの時、独 り実資 のこれを畏 れざるあり。
道長の女彰子 が上東門院 に入内 するや、道長俳歌屏風 を作り、一代の才入名流を網
羅 してこれに揮毫 せしめ、華山 法皇の尊きも、また喜んで需 めに応じ給いしに、実資
独 り却 けて曰く、「廟堂 の大臣、何ぞ女御 の装いを助くるあらんや」と。一語凛然 、時
人 をしてこれを聞いて胆 を破らしめ、道長と雖 も、また瞿然 としてこれに加うる能 わ
ざりき。実にこれ痛語 、実にこれ快語 、警語史上藤原氏のために万丈 の光焔 を留 むる
者、ただこの人ありと云うべし。
しかも、藤原氏系中にこの全然藤原臭を脱したる人物を出 だしたるは、藤原氏の専
横 あまりに極端に傾きて、その陰柔深姦 実に厭 うべくまた憎 むべきより、たまたまこ
れを恥じて反動する者を出だしたるに他 ならずとなす。されど、柔眉淫蕩 なる宮室的
空気の中 より、かくの如き骨硬 の人物を出だしたること、ほとんど奇蹟 と云うべきに
似たり。かつ、その薨 じたる時九十の高齢なりしも、また時代の人の早老早死 を無言
にして痛罵 するものなり。その著 すところの『小右記 』は貴重の史料と称せらる。
藤原時代の終結はすなわち宮室時代 の終結なり。生白 く肉軟 かなる文人 の手によっ
て弄 ばれたる我が国史は、これより一転して、まさに血塗 れなる武人 の鉄腕 の料理す
るところとならんとす。ここにおいて、予 の警語史 もまた一段落を結びて、さらに新
たなる題目 を起さざるべからず。しかも、藤原氏の末期 に対して、一喝 の引導 を授く
るが如き、極 めて痛烈 なる一大警語の作用したるを見る。また、この一段の掉尾 として特筆すべきものなり。
予 は、第六十八代後一条天皇の皇太子敦良親王 が、長元 七年、その妃碵子内親王 に
皇子尊仁 を生ましめ給いしや、恐らくは、神母泣 き五星 集まるのそれに譲らざる奇瑞
ありしものなるべきを思わざるを
得 ず。何 となれば、この尊仁 親王こそは、後 に至りて、さしも権勢 皇室を掩 うこと久
しかりし藤原氏を一喝 の下 に気死 せしめ給うべき、英明剛果 なる第七十一代後三条天
皇の前身 にて在 せばなり。しかも、後三条天皇の事を叙 する前、予 はしばらくその前
代後冷泉 天皇の朝 に歩 を停 めて、桓武 天皇以来長足 の進歩を為 し来 りし武人の歴史よ
り見出だしたる、床 しき挿話 に心を牽 かれざるを得ず。
永承 六年、陸奥 の安倍頼時叛 す。勢い猖獗 なり。頼時 は阿部比羅夫 の裔 にして、深
く北人 の心を得、その子貞任 、宗任 の勇敢 にして善 く戦うあり。しかして、これが党
与 たる戦士、多くは旧来の土人に上国人 の血 を混 じたる者、また坂上田村麻呂 時代の
蝦夷 の如き蛮族にあらざるなり。朝廷すなわち源頼義 を鎮守府 将軍に任 じてこれを
討 ぜしむ。頼義は、清和 天皇の孫にして源氏の鼻祖 なる六王孫経基 の曾孫 なり。父頼
信 と名を儔 うして、将帥 の器 あり。その子義家 、八幡太郎 と称し、驍勇 絶倫 、騎射神 の如し。将門の失脚以来、東人 多くは源氏に趣 き、なかんずく最も
頼義父子に心服 せり。しかも、頼義父子の北人 を征するや、天喜 四年より康平 七年に
到るまでの九年を費し、後 の、義家 が清原武衡 、家衡 を出羽 に征したるを後 三年の役
と呼ぶに対して、これを前 九年の役 と称せり。もって、
しを見るべしと做 す。
この役頗 る戦話の伝うべきものに富 み、なかんずく、
の土豪清原武則 を招 いて戦いに加わらしめたるにより、
がわ さく おとしい むねとう に い
安倍氏 の頑強 にして善 く戦い
頼義 が終りに臨 み、出羽仙北
賊を痛撃して、小松 の棚 、衣
ころ
川の棚を陥るるや、義家、宗任の北ぐるを追い、射てこれを殺さんとし、弓に矢を加
えて、卒然 「衣 のたては綻 びにけり」と口占 みしに、宗任北 げながら顧 みて、「年 を経
し糸 の乱 れの苦しさに」と、これに上 の句を附けたれば、義家、その北人 にして風流
の心を有し、しかも、運命切迫 の際、なお従容乱 れざるの余裕 を存 せるを奇 とし、こ
れを赦 して馬を還 せりと伝えらるる。その事実 多少小説化せられたる嫌 いなきにあら
ずと雖 も、その警語 をもって警語に答え、弓箭 の戦争に始まりて警語の戦争に終りた
る、また、神武 の遺風 を追いたる戦場の一佳話 にして、日本武人 の特色を発揮し、範
を後代 に垂 るるものならざるにあらざるなり。
されば、いよいよ藤原氏を気死 せしめたる後三条天皇の一喝 を聞くべき機会は来 れ
り。しかして、これをしてこの一段の掉尾 たらしむべき機会は来りたり。後三条天皇
の立ち給うや、まず時人 を驚かしたる特殊の点 三あり。一はその以前十数代の天皇、
皆藤原氏の女 の腹に出 で給いしに、後三条独 り、三条天皇の皇女にして後朱雀 天皇の
中宮 なる碵子内親王 に出 で給えり。二は、近代の天皇皆幼弱にあらざれば狂疾 にして、
初 めより藤原氏の器玩 に供 せられ、しからざれば、老衰 にして、単に位に在 ることを
喜ぶの外 、何の主張もなく、藤原氏が一時の便宜 によりて立てられ給いし人に過ぎざ
りしに、後三条独 り、三十七歳にして位に即き給い、しかも、宮室 的生活の毒に染 ま
ずして、冷眼 藤原氏の専横 を睨視 し来 り給いし御身 をもってせり。三は、近代の天皇
皆藤原氏の手によりて立てられ給いしに、後三条独 り、先帝崩 ずる日、親しくその病
床の上より禅 りを受け給い、藤原氏をして、詔 を矯 わむるの余地 あらざらしめたり。
然 るに、これに譲り給いし先帝後冷泉 は、藤原氏の出 にして、先帝の遺詔 を速やかに
中外 に知らしめたる者は、藤原氏の門族能信 なり。天皇の人物すでに時代の風潮の外
に立ち給い、これに加うるに、藤原氏の出 、なお藤原氏を喜ばずして、藤原氏の門族
また藤原氏の出 にあらざるを擁立 するをもってす。藤原氏の腐敗 は、果して、その血
族門葉 にもまた疎 んぜらるるのはなはだしきに到 りたるか。
いわんや、後三条天皇は以上の三特点 の外 、さらに剛毅果断 の一大特点 を有し給い
て、これに三十七年間の訓練を加え給えるあるをや。天皇の立ち給えるは、運命が、
粉 を塗 り錦 を着 けて高壇 に座 しつつある藤原氏の、その実すでに呼吸を通ぜざる死骸
なるを、天下に知らしめんとするものなり。
その即位に当って、天皇身 に烏紗 を着 け給う。内大臣藤原師房 これを見て、前例赤
紗 なりと云うや、天皇却 けて宣 わく、「汝等 何をか知らん。朕 は、長元御記 によって即
位式 を行うものなり」と。また、前例によれば、天皇御座 に在 るの間は、これを脱 す
るを可 とすと、云う者あり。天皇すなわち頭 を掉 って宣 わく、「汝等何をか識 らん。朕
自 ら拠 る所あり」と。ことごとく、「汝等何をか知 り識 らん!」の高飛車 をもってこれ
を撃退 し給う。しかして、宣命 を読ませ給うに及 びて、臣下再拝 の旧式を改めて三拝
と為 す。藤原氏の諸大頭唯 々としてこれを拒 むこと能 わざるなり。蓋 し天皇の旨 とし
給うところ、歴代失墜 したる皇権 を提 げて、一挙 に九地 の底より九天 の上に挙 げんと
するに在 り。その痛烈手段 、史 を読む者をして困眼 を一洗 せしむ。孤身独力 をもって、
牢乎 抜 くべからざるの積弊 に当 り給う。天智再生 、桓武
未 だ崩 せずと云うべし。
これをもって、その即位式を了 えて還 り給うや、乗輿 の駕丁 、人に打 たれて奔 り散
じ、すでにして宮に入り給うや、蔵人 、天皇の命 を奉 ぜずして、燭 を秉 る者なく、暗
黒にして物 を弁 ぜず。此 の如き迫害 は、最初より雨 の如く天皇に下 りたりと雖 も、そ
の剛気健胆 は能 くこれを凌 ぎ給うに足 り、いよいよ激励発憤 して、弊政 を改革し給い、
初めて記録所 を置いて、天皇親 しく訟獄 を断 じ給う。一切 の政権 、ことごとく天皇の
直轄 に帰して、藤原氏をして手を束 ねて成 を仰 ぐの已 むを得 ざらしめたり。
しかも、天皇の留意 し給うところ、最も奢侈遊惰 の弊 を改むるに在り。実践躬行 、故 らに寒素 の生活を取りて、藤原氏を窮 せしめ給い、食膳
には、青魚 の頭 を炙 りて胡椒 を点 じたるものを供し、御扇 は藍紙 を貼 りたるものを用
う。街上金飾 の車馬を見れば、命じてこれを剥 ぎ去らしめ給う。その改革者的面目 、
咄 々として人に迫 るを覚えずや。
かくて、事 ごとに藤原氏と反対して、もってこれを抑圧 せんことを要し給う天皇は、
関白藤原教通 が、その門葉 のために大和国司 の再任 を請 うや、好機到 れりと為 して、
厳然 として却 けて宣 わく、「国司 の再任 は法の禁ずるところ、しかも、汝 関白の権を
もって国法を枉 げんとす。歴代の天皇外威 をもって藤原氏に屈せしが故に、朕もまた
斯 くの如しとなすか?」と。一喝雷霆 の如く、すでに腐朽 してわずかに形態を存しつ
つある藤原氏は、この絶大 の震響 に堪 えずして、いわゆる朽木倒 しに撞 と倒れたり。
教通 なお積勢 を恃 み、怫然袂 を払 って、励声同族 の諸公卿 を麾 き、相率 いて朝廷を退
くの暴慢 を敢 てしたりと雖 も、要するに、これ朽木 の倒るる物音に過ぎざるのみ。さ
しも十数代に連 りて、天皇を蔽 うて威福 を擅 にせし藤原氏も、あわれ後三条天皇の
一喝の下 に気死 して、復 た起つこと能 わざるに到りぬ。
「朕 もまた斯 くの如しとなすか」の一句、勁抜無比 、沈痛骨 を徹 す。実にこれ警語 な
らずや。しかして、この間になお一警語の記録 に留 むべきあり。これ、後三条天皇の
正言 に対する奇語 にして、皮肉 なる藤原氏の側より出でたるもの、その陰 にして毒 な
ること、はなはだ藤原氏的なるものなり。むしろ、藤原氏がその十数代の陰姦深毒 の
惣仕舞 としての最後 っ屁 とも称すべきものなり。
彼等は天皇を称して「辛 し!」と云えり。「主上 は辛くて在 すが故に……!」と云い
て口を噤 み、一種奇妙 なる苦笑いを含 むなり。然 らば、辛しとは何の意味ぞ、これ天皇が青魚 の頭 に胡椒 を点 じて御膳 に供 し給うを指 すものにして、辛 しとはすなわち倹
なるを意味するなり。むしろ、強 いて吝 なるを意味せしむるなり。同時に天皇が藤原
氏に対する辛竦 の処置 をも、すべて冷笑的 に、強 いて青魚の頭の胡椒と同一性質に看
做 さんとするものなり。あるいは日く、後世吝 なる者を称 して「辛 い!」と云うは、
この時の藤原氏の皮肉評 に始まると。それ然 り、豈 それ然 らんや。
その夫すでに命を惜しまずその妻何ぞ輪姦を甘んぜんllあれへ鈴を下げたらどうだろ
うとは猟矢を負える雀の言 日出処天子致書日没天子iI虎を野に放ちたり 天荒
を破りて新たに世界を建設するの概ある警語 日月を貫く至誠より発したる警語
額に立つ矢はありとも、背に立つ矢は無し 警語の粗にして豪なるもの 警語史上
藤原氏のために万丈の気を吐く者この人あり-弓箭の戦争に始まりて警語の戦争に終
る この一段の掉尾として特筆すべき快語
ゆうりゃく しようわ けいこ こうだいてき しきさい き み お
雄略天皇とその皇后との唱和の警語が、やや後代的なる色彩と気味とを帯びて、
けいこ しじよう か と き かく のち よ はい そうまい
に警語史上の過渡期を劃せしを見たる後、予輩はまず、草昧の世になかりし歟礑なる斷魔峰歃識を概椰と漸しつつ、献榔における澱漱翫
澱なりしそれに、蔑の黙轡訟轡を加えて進歩せしめたる・戡鰹により・繼
体絶命の境遇に処して殉国的精神を発揮したる、痛切深刻の叫びを聞かざるべからず。
これ警語史上における
じゆうぜんだん したが
る系統を、従前断じて経過せざりし範囲にまで進入せしめたるものなれば、随って、
これに
第二+九代鑠天皇の二+三年正月・我が属国繋、韓半島に謬を揉いて、軅
に ほんふ せ ほろ もんざい いくさ せい
正
の日本府を攻め滅ぼししにより、同六月、我より問罪の師を発す。
しよう きのお ま う かわべのに へ しらぎ か
我軍ひとたび新羅に克ちし
将は紀男麻呂にして、河辺瓊缶これが副将たり。かくて、
も、また疲弊すること少なからざりしをもって、男麻呂は師を班して百済に入りしに、
に へ かち しき ふせ
瓊缶独り勝に乗じて軍を進め、頻りに新羅の地に転戦す。新羅そのついに防ぐべから
ざるを
こうき に へ もうゆうみずか てきじよう さつ ち りよ とぽ
降旗なるを知らず。加うるに、軍将瓊缶が猛勇自ら用いて敵状を察するの智慮に乏し
きをもってす。すなわち、
らく、
に へ うまし ひめ ぐんし つきのいき な おおば こ とりこ に へ
瓊缶およびその妻甘美姫、軍士調伊企儺、その妻大葉子皆擒にせらる。新羅人瓊缶に
向って曰く、「
るなり。しかして、
すでにして、新羅人は
なり。
し
を
凜々として
を
聞いて
ただし、
彼女もまた
されどその夫すでに瓊缶にあらず、その妻
を城壁の
が壮烈の
と。愛国の
胸を
しかのみならず、その
て意深く、
さらに、
またこれ、神武天皇以来の、歌謡化したる警語の系統を追うて、
を
代人と
る意味において、
き ぜつみようぜつ そうくう え び たつ ほう ひん
。第三十代の敏達天皇崩じて群臣殯
奇絶妙絶なる事実に遭遇することを得せしめたり
宮に在り。当時、蘇我氏と物部氏と権力を争い、物部氏の武頑なると、蘇我氏の文飾
なると、蘇我氏が
するに到るべき
かくて、
「
と云えり。
れへ鈴を
その光景を
るなり。その
も
共に警語のために発せられたる警語にして、
ざれば、また
めて日本の
れたりと云うべし。
次には、警語が国際問題に利用せられて
ることを
べき一
を開始したること、すなわちこれなり。当時の支那は
の第三年に
しかして、これを
「
りしかば、
天子
に、大陸朝廷の存在は、
不安を帯びたる
とるに
されば、
たる、
に
る
出処天子致書日没天子」と、これを
の立場まで、メートルを上げたるものに
我が
る
さらにこの年においては、まさに
るを得ずして、
れを
り。これ、警語の
るに
国家を組織し給いし、
を
ける、天智が
すでに皇太子として久しく天皇の実権を
を
て、
だ
て
しかのみならず、天皇の革新事業があまりに急激にあまりに
ぐるところの
って、天皇が
りたる、
なるが、
ものの効果を収めんとするを見る。これすでに、
取らずして
ざる
天皇
に、鏡女王を彼に与え給いしと
りしが、
も、
その二 警語の歴史の一進化
ればこそ、
と、
鎌足と鏡女王と相贈答するのそれ、
かくて天皇は、
ために多年
べきにもあらぬ四十九の
友皇子のために
等に
さんことを
たその
りて
吉野に
この時、
を
て、
ずしも無意味なりとせざるべし。
ど、いはゞしの、
すめろぎの、
と。その
るを覚えざるなり。
と ほ くにやぶれてさんが あり しろはるにしてそうもくふかし ぎん
杜甫の「国破山河在 城春草木深」の吟も、
これに過ぎた
警語の歴史はなお警語の如くなるべし。
に、さらに
を殺し
り
語を試みんと欲す。
第四十五代
ほとんど、
りては、天武天皇の孫にして
れる
てこれを
の大臣にしてなお
ずく、
されば、
の
ところなく実現せられて、いわゆる
るものにして、さしも、
る天皇と
る
上の割合をもって
尽しても、なお足らざるが
なる
給わざるを得ざるに至れり。ここにおいて、しばらく
初め天皇が
せられ、兵を
いし時、
いしにあらざるか。乱
て、これ
るの
故に、今や大仏を建立するに臨んで、天皇は再びこの問題に悩まされ給えり。人知
れぬ
一
ち
前に
ありて、
行基は実に我が宗教界に出でたる最初の大人物にして、その
大いに
いては、まったくこれ等の
し、婦女子の心を
るなり。
初め、仏教が皇室および
として
なるの生活を営み、
はその本質にあらざるを
せり。行基の
院は、
見る。その
新たなる源流の
その
るを得ざらしめ
強いて行基の徒に蒙らしむるに、朋党を立て、聖道を偽り、山河を
皇の
この一
乗じ、
天皇嬬めて深く鑾の鬣を聞き給い、菷葎撮.軈問題に加えて・その靉多き
ずのう しん せいそう いか え きんいし
頭脳に、真の聖僧とは如何なる者なりやとの新問題を起し給わざるを得ず。錦衣紫
にして
の
頚る所活仏として民に鵬えらるること、その響慰なるが故にあらず・その慰貝な
るが故にあらず、その鐶あるが故にあらずとせば、果して慨の撚なるべきか・俤の
詳くところとこの剛都繕すところとを躍撃るに・棚れが果して俤掌の譲ある
べきか。これ等の各疑問を
基を見ずして
すでにして行基の
かも、
ず。天皇これがためにまず心を動かし給い、しかも進んで之に
に
を真二つに
でにこれと
の
たり。
すなわち、
「
れにおいて、
んや。その
るに足れり。もって行基が
るべし。そのずるくして
遭えば
天皇すなわち意を決して、天照大神-1
手し給う。同時に、
の首長なる
の
の道鏡に比して、一段の
だしきこと
と
なる一事なり。これより先、女帝の
ここにおいて、天皇は必然に
最初その
喜んで微笑を
て知るべきのみ。されど、押勝
を
道鏡は
が女性を
以上に成功すべき要素は、最初より彼に
を
侶内閣を組織し、
してこれに
の五年(
して皇位を
驚くべしとはそれかくの如き事を云うなれ。されど、
阿曾麻呂が道鏡の
上より失脚するの危険に
めて
かくて女帝は、改めて
を
れがために弟
に
に
最も強き者の最も弱きはこの時なり。
しかして、これに対する清麻呂の
に
ち
しかのみならず、一
氏が、これを機会と
がるしくせざらんことを望む。その他
ぶ。
何れに対するもただ温然たる一微笑をもってしたるのみ。曰く、「神託に随うの他無き
のみ」と。
すでにして清麻呂の
り。景には天皇あり・前には道鏡の励驟を含んで瞰瞰するあり。灘砥の臥艇.粛く姑ど
して水の如く、
必ず
あねひろむし せまむし よ りようきやく すじ た おおすみ びんご
姉広虫を狭虫と呼び、
清麻呂が両脚の筋を絶ちて大隅に流し、広虫を備後に流せり。
て失笑を禁ずる
かんかんがくがく げん かく さいか か え いえど じつげつ つらぬ
清麻呂侃々諤々の言をもって、
此の如く災禍を買い得たりと雖も、その日月を貫い
二うき こ しせい いく ちよだい はんきよう じんごけいうん
て皇基を護するの至誠は、
幾ばくもなくして著大なる反響を呼び来り、翌神護景雲四
年、天皇、道鏡を
崩じ給うや、光仁天皇代って立ち給いて、ただちに道鏡を下野の薬師寺の別当に
清麻呂を
みならず、清麻呂が
と箋がいわゆる天照大神の馨と、驚嘆すべき緯をもって灘惑の対照をなせ
る、また、
すでに齢謠撃の多きに苦しみたり・♂うヂをして・贓を籤の躇に放って鷹
る
当時においては
かど、
ところとなる。これ
むるものにして、
ここにおいて、
時代の
下に
等を、さらに十分に
べからず。
として、
彼等の
蝦夷の
らに、上国より
の
ざるにあらずして、複雑に
日本第一の平原にして、
頼む者のためにはすなわち
刀折れて
民族中の新民族として、
てその勢力を作らんとする
後年
用しての成功に
き
りて、緊張せる
せられしなるべきを想うは、必ずしも
は
の空気を
と。これ、「
を向くとも、決してそれに
て
て云えば、この一句こそ、実に我が国武士道の精神を結晶せしめ、武士道の歴史を還
四十にして
者を
なかんずく、第六十代
あるいは偶然の
せるにより、道実の
的にして迷信深き時代の男女は、これによって、
都の市街の
く、これより二代以前なる
わるるもの三十六種に
認めざるべからざるの
わざるに到り、
を
と三年、日夜
かくて、
四十を過ぐること
し給うや、生れて三年間
るの
すること
ここに、
の子に
天皇なきの
田舎の
態度と認めざるを得ざるなり。すなわち、はなはだしくこれを
みぬ。ここにおいて、皇族の
て動く。
この者また
独り
わざるものあり。かつ、久しく地方に
を包めること、また
は実に地方的貴族の代表者なり。しかして、時勢はこの両代表者を
しめたり。火と爆発物と
果して二人者は、その大いに
こと
なり。我は皇族、もって
らざるPこと。純友
将門、純友が、東西に
くして
論じて、将門、純友
じうせるものと
に定むべきにあらずして、しばらく、
また
すでに藤原氏の
にあらず。
天皇の
かも隆家の
の
彼は関白
あえてこれに誇らず。遠く時代の風潮の
用う。時代の迷信に投じて
て
るの時、
道長の
ざりき。実にこれ
者、ただこの人ありと云うべし。
しかも、藤原氏系中にこの全然藤原臭を脱したる人物を
れを恥じて反動する者を出だしたるに
空気の
似たり。かつ、その
にして
藤原時代の終結はすなわち
て
るところとならんとす。ここにおいて、
たなる
るが如き、
ありしものなるべきを思わざるを
しかりし藤原氏を一
皇の
代
り見出だしたる、
く
頼義父子に
到るまでの九年を費し、
と呼ぶに対して、これを
しを見るべしと
この
の
がわ さく おとしい むねとう に い
賊を痛撃して、
ころ
川の棚を陥るるや、義家、宗任の北ぐるを追い、射てこれを殺さんとし、弓に矢を加
えて、
し
の心を有し、しかも、運命
れを
ずと
る、また、
を
されば、いよいよ藤原氏を
り。しかして、これをしてこの一段の
の立ち給うや、まず
皆藤原氏の
喜ぶの
りしに、後三条
ずして、
皆藤原氏の手によりて立てられ給いしに、後三条
床の上より
に立ち給い、これに加うるに、藤原氏の
また藤原氏の
いわんや、後三条天皇は以上の三
て、これに三十七年間の訓練を加え給えるあるをや。天皇の立ち給えるは、運命が、
なるを、天下に知らしめんとするものなり。
その即位に当って、天皇
るを
を
と
給うところ、歴代
するに
これをもって、その即位式を
じ、すでにして宮に入り給うや、
黒にして
の
初めて
しかも、天皇の
には、
う。
かくて、
関白
もって国法を
つある藤原氏は、この
くの
しも十数代に
一喝の
「
らずや。しかして、この間になお一警語の
ること、はなはだ藤原氏的なるものなり。むしろ、藤原氏がその十数代の
彼等は天皇を称して「
て口を
なるを意味するなり。むしろ、
氏に対する
この時の藤原氏の