伊藤銀月「日本警語史」2

葦原(あしはら)のしげこき小屋(をや)菅畳(すげたたみ)いや(さや)しきて()二人寝(ふたりね)
(えい)じて、(おも)いを述べ給いぬ。当時の生活の質朴簡易(しつぼくかんい)にして天真爛漫(てんしんらんまん)なる、人をして
恍然神往(こうぜんかみゆ)かしむるものあるにあらずや。
 しかして、天皇のこの情話(じようわ)胚胎(はいたい)して、これより(のち)()に「歌垣(うたがき)」という事の流行
(きた)し、その風習が雄略天(ゆうりやく)皇時代の前後に到りて最も盛況(せいきよう)(てい)したるに、深き注意を
払わざるべからず。歌垣(うたがき)とは、花の(よい)、月の(ゆうべ)、多数の男女(なんによ)所を定めて野外に集会し、
(たが)いに即詠(そくえい)の和歌を朗吟(ろうぎん)して、情を通じ(まじわり)を結ぶ事なり。大和(やまと)海柘榴市(つばきのいち)摂津(せつつ)の歌
垣山(うたがきやま)肥前(ひぜん)杵島山(きねしまやま)常陸(ひたち)筑波山(つくばやま)等は、各地における歌垣の中心にして、歌垣に会
して女を得ざる男、男を得ざる女は、衆人(しゆうじん)嗤笑(ししよう)せられて、一大恥辱(だいちじよく)(こうむ)らざるべか
らざるが故に、彼等は、(きそ)うて秀歌(しゆうか)(あん)()だして、朗詠の調(ちよう)(こえ)とを(たたか)わし、」男子(だんし)
まず一首を得てこれを高吟(こうぎん)すれば、女子これに応じてただちに一首を(むく)い、男子(ふたた)び一首を(はつ)し、女子さらにこれに答うるの一首を()だし、連綿(れんめん)として()きざる間に、(きよう)
いよいよ加わり、(じよう)ますます()ゆるという次第(しだい)にて、あるいは、中間(ちゆうかん)において想窮(そうきゆう)し、
咄嗟(とつさ)名吟(めいぎん)()でざるが(ゆえ)に、赤面(せきめん)して退(しりぞ)(かく)るるあり。また、歌唱の問答まさに(たけなわ)
なる時、突如(とつじよ)として一(ぐう)より奇警(きけい)の調を発して横槍(よこやり)を入れ、三巴(みつどもえ)混闘(こんとう)を起して、局
面を攪乱(かくらん)し、漁夫(ぎよふ)()を占めんことを(はか)る者あり。歌唱の戦争  すなわち恋愛の戦
争にして、ために、警語(けいこ)を歌謡化するの訓練、(いた)らざるなきの観を(てい)するに(およ)べり。
 聞く、武烈(ぶれつ)天皇のなお太子(たいし)たりしや、菟田首(うだのおびと)(むすめ)海柘榴市(つばさのいち)歌垣(うたがき)相逢(あいあ)わんこと
けんしんへぐりのま(とりしびむすめいさまた)
を約せしが、権臣平群真鳥の子鮪またこの女に意ありて、歌垣の場に太子を妨げたり。
太子すなわち歌を(とな)えて(おも)いを()ぶれば、(しび)もまた歌をもって太子を(そし)り、互いに歌
ひれい(いきどおたおお)
すうばん(しび)
唱を(たたか)わすもの数番、太子ついに鮪の非礼を憤るの情に禁えず、走り帰ってこれを大
とものかなむら  はか            あ     しび  な ら やま  ほふ          じよう   ま とり  やしき およ
                       勢いに乗じて真鳥の邸に及ぼし、
伴金村に謀り、急に兵を挙げて鮪を奈良山に屠り、
一家を燔殺(はんさつ)して(おわ)りぬと。この一(れい)は、如何(いか)に歌垣の会が、歌唱の戦
争  すなわち恋愛の戦争として激烈(げきれつ)なりしかを(しよう)するに()れるものにして、(したが)って、
歌垣の会において闘わさるる歌唱の、如何(いか)警語(けいこ)として訓練を()たるものなりしかを、
想察(そうさつ)するに(かた)からずと()す。
 これは余事(よじ)なれど、万葉集(まんようしゆう)に、
  勝間田(かつまた)(いけ)()れ知る蓮無(はちすな)爾云(しかい)(きみ)鬚無(ひげな)きがごと
という奇異(きい)なる一首あり。これ、勝間田(かつまた)(いけ)には蓮無(はちすな)しと云う(げん)否定(ひてい)して、これあ
るを主張するところの、皮肉(ひにく)なる反語(はんこ)なるが、その奇警(さけい)して(つめ)たき辛味(からみ)を有せること、
歌謡の警語化せられたる  むしろ警語の歌謡化せられたる、一個の好適例(こうてきれい)ならずや。
 バイロンに()ぬるにハンニバルをもってせるが如き、詩的英雄にして青年的人物た
る、我が日本武尊(やまとたけるのみこと)の三十年の伝記にも、自発的に他動的に、また(そうそう)々の(ひびき)を発する多
くの鍛練(たんれん)せられたる警語(けいこ)(はさ)めり。(みこと)東西経略(とうざいけいりゃく)の偉業の歴史は、少なからず神話化
せられつつあるだけ、それだけ人倫(じんりん)超絶(ちようぜつ)せるものなり。()に曰く、景行(けいこう)天皇の二十
七年十月、皇子小碓尊(おうすのみこと)(つか)わして熊襲(くまそ)(とう)ずと。(みこと)は、天皇が九十の老境に()り給い
てよりの御子(おんこ)にして、しかも双生児(そうせいじ)の一個なるが、他の一個なる兄大碓尊(おおうすのみこと)不肖(ふしよう)の故
をもって、父皇(ふこう)の愛情はこの少子(しようし)の一身に(あつ)まり、しかも、小碓(おうす)英豪(えいこう)なる景行(けいこう)天皇
の愛を(もつば)らにするに()れるの麒麟児(きりんじ)にして、容貌端麗(ようぽうたんれい)
気魄雄大(きはくゆうだい)、この時(よわい)わずかに十六にして、身丈(みのたけ)一丈、力()(かなえ)()ぐ。
 (めい)(ほう)じてただちに四人の(しや)()くする者と共に発し、十二月熊襲(くまそ)(さかい)に入り、巨
魁取石鹿文川上梟師(きよかいとりしかやかわかみたける)が大いにその族を集めて(えん)するに乗じ、(つるぎ)(ふところ)にし、女装して婢
(ひしよう)(まじわ)り、()(はんべ)る。かくて、夜深く人の(さん)ずるを見るや、(みこと)すなわち進み近づきて、
川上の酔臥(すいが)せるを(とら)え、(つるぎ)を抜いてその胸を刺す。これ実に、一匕深(びふか)鮫鰐(こうがく)(ふち)(さぐ)
るものにして、十六歳の少年の勇胆(ゆうたん)鬼神(きじん)驚倒(きようとう)せしむるに()れり。
 (むべ)なり、当の敵川上梟師(かわかみたける)が、ほとんど奇蹟(きせき)に打たれたるが如き感を(おこ)しつつ、すで
(やいば)に胸を穿(うが)たれて死に(なんな)んとするの痛苦(つうく)より超脱(ちようだつ)し、異常の能力を賛嘆(さんたん)するの至情(しじよう)
に、渾身(こんしん)血液(けつえき)(こと)の如く揺鳴(ようめい)せしめ、「筑紫(つくし)においては(われ)(まさ)れる勇者(ゆうしや)なきに、単身
(たんしんきた)って()(われ)を刺す者は、そも何人(なんびと)なるぞ?」と(うやま)い問いしことや。(みこと)すなわち(こた)
るに(じつ)をもってすれば、梟師(たける)賛嘆(さんたん)(じよう)はますます昂騰(こうとう)せり。粛然(しゆくぜん)として(かたち)を正して
曰く、「幸いに御名(おんな)(たてま)つるの光栄を有せしめよ。日本武尊(やまとたけるのみこと)!」ど。ここにおいて川
上梟師(かわかみたける)は一切恩怨彼我(おんえんひが)差別観(さべつかん)を忘れ、微笑してもって静かに(めい)しぬ。
 (みこと)絶倫超凡(ぜつりんちようぽん)は云うまでもなけれど、川上梟師(かわかみたける)の人物の偉大また(おどろ)くに()えたり。
九州の人物を物色するに、遥かに後代(こうだい)西郷隆盛(さいこうたかもり)(のぞ)いて、()えて取石鹿文川上梟師(とりしかやかわかみたける)
の如く(うつわ)の大なる者を見ざるなり。川上が末期(まつこ)の一句、小碓尊(おうすのみこと)(たてま)つるに「日本武(やまとたける)
()をもってしたる、(なん)ぞそれ、奇警(きけい)(きよく)にしてかつ剴切(がいせつ)(きよく)なる。かくて、()を輝
かしてしかも自家(じか)抱負(ほうふ)(はずかし)めず。簡単にして含蓄(がんちく)深く、()めども尽きざるの(あじわ)いあ
り。「()い少年じゃ。可愛い稚児(ちこ)さんじゃ。ようその小腕(こうで)で、川上(かわかみ)ほどの豪傑仕留(こうけつしと)めや
はった。九州じゃ、おんどもほどの猛者(もさ)()かばってん、あんたにゃア(かな)わんば。そ
のおんどもより(きつ)いあんたを、(なん)()ぽうかえ。日本武(やまとたける)じゃ。日本武(やまとたける)じゃ。あんたは
日本武(やまとたける)じゃ。この川上が娑婆(しやば)置土産(おきみやげ)に、あんたに(はく)()けて()げるけん、今から日
本武(やまとたける)御名乗(おなの)りなされまっせ!」との()にして、他を輝かして一段自家(じか)の位置を高く
す。実にこれ、歴史を照破(しようは)するの光焔(こうえん)()べる警語なり。警語の価値(かち)ここにおいて(たか)
めらるること数等(すうとう)ならずや。
 すでにして、(みこと)二十七歳にして、東夷征討(とういせいとう)の任に当り、まず伊勢(いせ)神宮(じんぐう)(いた)りて、
往昔素盞鳴尊(おうせきすさのおのみこと)八岐(やまた)大蛇(おろち)を斬って(たお)せしところの叢雲剣(むらくものつるぎ)を受け、進んで駿河(するが)に到る
や、(あやま)って賊徒(ぞくと)術中(じゆつちゆう)(おちい)り、空原(くうげん)において火攻(かこう)()う。(みこと)すなわちこの(つるぎ)を抜き、
(くさ)()ぎて活路(かつろ)を開き()たるをもって、(あらた)めて草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名づけ、その()(しよう)して焼津(やいつ)
と呼ぶ。
 ()いで、相模(さがみ)より上総(かずさ)(こう)せんとし、今の浦賀海峡(うらがかいきよう)なる(はし)(みず)を過ぐるや、竜神祟(りゆうじんたた)
りを為して(にわか)風濤(ふうとう)を起こし、まさに船を(くつがえ)さんとす。この時、尊の妃弟橘姫(おとたちばなひめ)、軍
(したが)って船中に()り。(ふる)って身を投じて竜神の(にえ)(きよう)す。風濤(るうとう)すなわち()む。尊これ
より蝦夷(えぞ)(せい)して陸奥(むつ)を定め、(かえ)って碓氷(うすい)峠に登って遥かに東南を(のぞ)むに(いた)り、端無(はしな)
く海に投ぜし弟橘姫(おとたちばなひめ)を思い、追慕(ついぼ)の情に()えずして、まさに(はらわた)()たんとす。すな
わち声を放って(たん)じて曰く、「吾嬬今(あずまは)()!」と。如何(いか)に、その情の(せつ)にしてその声の
(かな)しく、三軍をして、ことごとく(よろい)(そで)()らさしむるものありしかは、尊が唇頭(しんとう)
り、(ほとばし)りしこの一短句(たんく)余声(よせい)(とこし)えに(しよう)せずして、後世碓氷(うすい)東南諸国(とうなんしよこく)が「吾妻(あずま)()
()ばるるに(いた)りたるにより、その万一を想像すべしと()す。普通にいわゆる警語(けいご)
は性質を(こと)にすと(いえど)も、「吾嬬今(あずまは)()」の一句の感伝力(かんでんりよく)強烈無比(きようれつむひ)なる。またこれ一
種の警語(けいこ)にして、しかもその上乗(じようじよう)なるものと云うべからずや。
 (かく)の如く、予輩(よはい)日本武尊(やまとたけるのみこと)伝記(でんき)において、警語(けいこ)と実地との関係の別種の例を見
出だすこと一、二にして止まらず。(したが)って、警語の利用せらるる範囲を、比較的拡大(ひかくてきかくだい)
して見ることを()、警語とその歴史とを研究するにおいて、さらに一歩を進むるに(いた)
りたるが、神武天皇の(すえ)なる日本武尊は、また一(めん)において、天皇の系統を追うて、
警語(けいこ)の歌謡化したるものを戦陣の間に利用するの好適例(こうてきれい)を示しつつあり。
 (みこと)川上梟師(かわかみたける)(ほふ)りて九州を平定したる帰途(きと)出雲(いずも)に入りて出雲梟師(いずもたける)()つや、(はかりごと)
を用いて、(あらかじ)梟師(たける)佩剣(はいけん)木刀(ぼくとう)に変え、しかして(のち)、これと闘って容易にその(かしら)
()り、即時(そくじ)血刀(ちがたな)(ふる)いて、
  やつめさす出雲梟師(いずもたける)(おび)ける太刀都豆良佐波麻岐真身無(たちつづらさはまきさみな)しにあはれ
朗吟(ろうぎん)しつつ、喜舞(きぷ)これを久しうせりと云うもの、すなわちこれなり。
 第十六代の聖主仁徳(せいしゆにんとく)天皇が、即位の四年高台(こうだい)に登り、炊煙(すいえん)の起ること少なきを(のぞ)
て、百姓の窮乏(きゆうぽう)せるを知り給い、天下に(みことのり)して、課税(かぜい)(のぞ)くこと三年に(およ)び、その間、
宮室壊敗(きゆうしつかいはい)すれども、(こう)修覆(しゆうふく)を加え給わざりしは、国史上有名の事実なるが、七年(ふたた)
び高台に登りて、炊煙の遠近相連(あいつらな)れるを望み、欣然(きんぜん)として皇后に向
って、「(ちん)すでに富めり!」と告げ(たま)い、皇后がその意を(かい)せずして、窮乏(きゆうぽう)の事実を()
げ、これを反問(はんもん)し給うや、「百姓の富めるはこれ(ちん)の富めるにあらずや」と答え給いし、
これ(ひと)り、盛徳(せいとく)の君主より出でたる金言(きんげん)として尊重すべきものなるのみならず、警語(けいこ)
としてもまた特別に選択(せんたく)せられたる、(きわ)めて奇抜(きばつ)にはなはだ歯切好(はぎれよ)きものと看做(みな)すこ
とを(、つ)べきなり。
 しかも、この語が仁徳(にんとく)天皇の御唇(おんくちびる)より発したるをもって、特に警語としての価値(かち)
りと云う理由は、天皇が、皇弟稚郎子尊(こうていわかいらつこのみこと)の如く、多く儒教の感化を受けて、儒教書籍
中の支那古聖王(しなこせいおう)口吻(こうふん)()するの(かたむ)きある者とは異なり、活眼達識(かつがんたつしき)の政治家にして、
手腕(すこぶ)辛竦(しんらつ)に、海外経略(けいりやく)国是(こくぜ)を定めて、都を海浜(かいひん)難波(なにわ)に移し、(まいまい)々痛烈なる高
圧手段(こうあつしゆだん)を用いて韓半島を処置(しよち)したる、一個の豪傑漢(こうけつかん)にて(おわ)ししが故なり。
 しかのみならず、天皇の伝記には、女事に関する波瀾(はらん)はなはだ多く、添うるに、皇
磐之媛(いわのひめ)妬悍(とかん)無比(むひ)なるもってす。これをもって、天皇の
閨門(けいもん)は決して治まれりと云うこと(あた)わず。はなはだしきは、吉備(きび)黒媛(くろひめ)という美人を
(ひそか)に招きて寵幸(ちようこう)し給いしに、黒媛(くろひめ)たちまち皇后の猛烈(もうれつ)なる嫉視(しつし)()れて、(きよ)(やす)んず
ること(あた)わず、(そうそう)々に本国(ほんごく)(のが)(かえ)りしかば、天皇(じよう)()えずして、高台(こうだい)より(はる)かに
黒媛(くろひめ)(ふね)(のぞ)み、愛慕(あいぼ)の和歌を(えい)じ給いしに、皇后これを聞いて妬心已(としんや)むこと(あた)わず、
(いかり)黒媛(くろひめ)(ふね)(うつ)して、その発航(はつこう)禁止(きんし)し、黒媛(くろひめ)をして陸路(りくろ)を取りて吉備(きび)(かえ)るの(ほか)
なからしめしなどの事件あり。いわんやその高台こそは、
  高き()に登りて見れば(けむり)立つ民の(かまど)(にぎは)ひにけり
御製(ぎよせい)()だし給いて、天皇と皇后との間に古聖王的(こせいおうてき)問答のありたる、神聖の場所な
るにおいてをや。
 (かく)の如き複雑なる偉人にて()わし、豪傑漢(ごうけつかん)にて(おわ)仁徳(にんとく)天皇の御唇(おんくちびる)より発したるも
のなればこそ、「(ちん)すでに()めり!」と(のたま)いしも、「百姓の富めるは(ちん)の富めるにあら
ずや」と(のたま)いしも、それ等の当然の価値の(ほか)に、警語(けいこ)としての一種洗錬(せんれん)せられたる価
値ありと云うなり。しかもこれ、警語(けいこ)をもって警語の説明(せつめい)()てし一特例なりとす。
 歴史は(あき)らかに、時人(じじん)呼んで大悪天皇(だいあくてんのう)()すと伝う。これ、我が第二十一代雄略(ゆうりゃく)天皇の()いにあらずや。天皇はなはだ剛勇(こうゆう)にしてむしろ狂暴の域に()るを(いと)い給わず、
しかも、青竹を()りし如き洒然(しやぜん)たる襟懐(きんかい)あり。これをもって、
皇兄安康(こうけいあんこう)天皇が、大草香皇子(おおくさかのおうじ)の子なる七歳の眉輪王(まゆわおう)(しい)せらるるや、天皇(いきどお)ることは
なはだしく、多くの疑わしき者を(ほふ)りて(みずか)()らんとし、まず、庶兄黒彦王(しよけいくろひこおう)(もとお)(もむ)
きてその処置(しよち)(はか)り給う。しかも、黒彦冷然(れいぜん)として路傍(ろぼう)の人の如き態度を取りしかば、
天皇激怒自(げきとみずか)(きん)ぜず、ただちに黒彦(くろひこ)(えり)(つか)みて(ひつさ)()で、狗児(いぬころ)の如くにこれを()
(ころ)し給いぬ。
 次に、同じく庶兄(しよけい)の一人なる白彦王(しろひこおう)()い給いしに、これまた冷然(れいぜん)たること黒彦(くろひこ)
(ゆず)らざれば、天皇有無(うむ)(のたま)わず、(れい)によって(えり)(ひつさ)()で、小治田(おはりだ)に穴を掘りて、立
てながらこれを埋殺(うめころ)し給えり。また兵を(おこ)して、眉輪王(まゆわおう)(かく)れたる大臣葛城円(おおおみかつらぎつぶら)の家を
囲み、風に乗じ火を放ちて、眉輪(まゆわ)(つぶら)とを(あわ)せて焼き殺し、さらに勢いに(じよう)じて、安
(あんこう)天皇がこれに宝位(ほうい)を伝うるの内旨(ないし)ありし市辺押磐皇子(いちののべのおしわのおうじ)を殺して、押磐(おしわ)の同母弟な
御馬皇子(みまのおうじ)をもまた(ほふ)り、諸兄近親(しよけいきんしん)をしてことごとく絶滅(ぜつめつ)()せしめて、(おのれ)ただ一人
残存(ざんぞん)し給い、すなわち石上宮(いそのかみのみや)に位に()く。時人呆然(じじんぽうぜん)、手も足も()くること(あた)わずして
ただ座視(ざし)するのみ。大悪天皇(だいあくてんのう)の大悪天皇たる所以(ゆえん)、実にここに()りと見られたり。されば、(いかり)を発し殺すを(たしな)むの性癖(せいへき)は、即位の(のち)(いえど)(あらた)まり給わず。しばしば人をし
(めん)(おお)わしむるの出来事(できごと)あり。
 しかも、洒然(しやぜん)として(いさ)()れて(あやま)ちを(あらた)め給いし佳話(かわ)も、また少なきにあらず。な
かんずく、葛城山(かつらぎやま)遊猟(ゆうりよう)における一条の如きは、独り美談たるに止まらずして、警語
史的眼孔(けいこしてきがんこう)よりこれを見るに(いた)り、さらに一段の価値を認めざるべからざるものなり。
即位の五年、天皇葛城山(かつらぎやま)(かり)し給いし時、突如(とつじよ)として、巨大(きよだい)なる野猪(やちよ)叢間(そうかん)より()
て、御座(ぎよざ)()(いた)るに()う。天皇すなわち舎人(とねり)に命じてこれを()さしめんとし給いし
に、舎人(とねり)野猪(やちよ)猛悪(もうあく)辟易(へきえき)して(めい)(ほう)ずること(あた)わず、急に()()じてこれを()く。
事態切迫(じたいせつばく)して天皇()(おも)んじ給うの(いとま)なく、まさに、至尊(しそん)をもってして赤手(せきしゆ)
す で       かくとう                 さいだいつうさんじ                    うれ
                               されど憂うるこ
                  最大痛惨事を現出せんとす。
野獣と格闘せざるべからざるの、
とを()めよ。これ、剛勇無比(こうゆうむひ)雄略(ゆうりやく)天皇にて(おわ)しまさずや。伝えて曰く、天皇平生(へいぜい)
神力(しんりき)発揮(はつき)して、ただ一腸(ひとけ)野猪(やちよ)腸殺(けころ)し給いぬと。
 (こと)はこれにて(おわ)りぬ。ただ(おわ)らざるは、不忠怯懦(ふちゆうきようだ)なる舎人(とねり)処分(しよぶん)のみ。しかも、こ
れまた容易に解決せず。天皇ただちにこれを(ころ)さんとし給えばなり。この時、皇后幡
梭皇女(はたひのこうじよ)(かり)(したが)って天皇に()し給えり。(いさ)めて(のたま)わく、「(けもの)の故をもって人を殺し給わ
ば、いかで、豺狼(さいろう)(ひと)しとの(そしり)(まぬか)れ給うべき!」
と。.天皇これを聞き給いて、竜顔(りゆうがん)たちまち喜色(きしよく)(うか)べ、「()哉言(かなげん)や。人は(かり)して禽獣(きんじゆう)
()(ちん)(かり)して善言(ぜんげん)()たり」との優詔(ゆうしよう)あり。すなわち舎人(こねり)(ゆる)し、歓笑(かんしよう)して還御(かんぎよ)
あらせられぬ。共にこれ警語(けいこ)上乗(じようじよう)なるものにして、皇后が警語を発して(おもて)(おか)(たま)
える、その鋒鋩(ほうぼう)犀利(さいり)利鏃(りぞく)をもって胸を穿(うが)たんとするの(がい)あり。これ、警語史上の
新事実(しんじじつ)にして、(のち)の警語を発せんとする者のために生面(せいめん)(ひら)きたるものと云うべく、
しかも、警語と警語との葛藤(かつとう)が変形して、警語と警語との和協に帰着し、雲()き風起
らんとする険悪(けんあく)の天候より、忽然(こつぜん)として、花(わら)い鳥(うた)和暢(わちよう)風日(ふうじつ)()()だしたる
事、また、警語が実際に作用せし一新特例(しんとくれい)(しよう)()べきなり。
 これを(よう)するに、以上神代(じんだい)より上古(じようこ)(つらな)りての我が警語史は、大半変形的神話(へんけいてきしんわ)()
()ぜになりて、その形影(けいえい)散漫糢糊(さんまんもこ)たるを遺憾(いかん)とせざる(あた)わざる部分多く、あるい
は、その一部分にのみ光彩(こうさい)ありても、全体(ぜんたい)における明確の度はこれに(ともな)わずして、人
をして切実の感を起すを()ざらしむるを如何(いかん)ともすること(あた)わずと(いえど)も、なお、仔細(しさい)
点検(てんけん)すれば、後代(こうだい)(いた)りて十分に発達すべき、()(きよく)なるもの、(きよう)の極なるもの、
()の極なるもの、(どく)の極なるもの、(つう)の極なるもの、(せつ)の極なるもの、(てっ)の極なるも
の、(しん)の極なるものの萌芽(ほうが)が、それ等の間に胚胎(はいたい)しつつあるを看取(かんしゆ)し得ざるにあらず。
 もしそれ、最後に()げたる、雄略(ゆうりゃく)天皇とその皇后との唱和(しようわ)(いた)りては、比較的(ひかくてき)多く
後代的色彩気味(こうだいてきしきさいきみ)()びて、朧気(おぼろげ)ながら警語史(けいこし)のために過渡期を(かく)するものと、云うこ
とを()るべきなり。ただし、上古(じようこ)の歴史は事(かん)にして、天皇および皇室を離れては、
記述すべき現著(げんちよ)なる問題少なく、ために、警語史の内容また比較的単調(たんちよう)なるを(まぬか)れず
(いえど)も、この過渡期(かとき)を限りとして、これより以降はやや佳境(かきよう)()ることを()べけん。