伊藤銀月「日本警語史」2
葦原のしげこき小屋に菅畳いや清しきて我が二人寝し
と詠じて、懐いを述べ給いぬ。当時の生活の質朴簡易にして天真爛漫なる、人をして
恍然神往かしむるものあるにあらずや。
しかして、天皇のこの情話に胚胎して、これより後の世に「歌垣」という事の流行
を来し、その風習が雄略天皇時代の前後に到りて最も盛況を呈したるに、深き注意を
払わざるべからず。歌垣とは、花の宵、月の夕、多数の男女所を定めて野外に集会し、
互いに即詠の和歌を朗吟して、情を通じ交を結ぶ事なり。大和の海柘榴市、摂津の歌
垣山、肥前の杵島山、常陸の筑波山等は、各地における歌垣の中心にして、歌垣に会
して女を得ざる男、男を得ざる女は、衆人に嗤笑せられて、一大恥辱を蒙らざるべか
らざるが故に、彼等は、競うて秀歌を案じ出だして、朗詠の調と声とを闘わし、」男子
まず一首を得てこれを高吟すれば、女子これに応じてただちに一首を酬い、男子再び一首を発し、女子さらにこれに答うるの一首を出だし、連綿として尽きざる間に、興
いよいよ加わり、情ますます燃ゆるという次第にて、あるいは、中間において想窮し、
咄嗟に名吟の出でざるが故に、赤面して退き匿るるあり。また、歌唱の問答まさに闌
なる時、突如として一隅より奇警の調を発して横槍を入れ、三巴の混闘を起して、局
面を攪乱し、漁夫の利を占めんことを謀る者あり。歌唱の戦争 すなわち恋愛の戦
争にして、ために、警語を歌謡化するの訓練、到らざるなきの観を呈するに及べり。
聞く、武烈天皇のなお太子たりしや、菟田首の女と海柘榴市の歌垣に相逢わんこと
けんしんへぐりのま
を約せしが、権臣平群真鳥の子鮪またこの女に意ありて、歌垣の場に太子を妨げたり。
太子すなわち歌を唱えて懐いを述ぶれば、鮪もまた歌をもって太子を誹り、互いに歌
ひれい
すうばん
唱を闘わすもの数番、太子ついに鮪の非礼を憤るの情に禁えず、走り帰ってこれを大
とものかなむら はか あ しび な ら やま ほふ じよう ま とり やしき およ
勢いに乗じて真鳥の邸に及ぼし、
伴金村に謀り、急に兵を挙げて鮪を奈良山に屠り、
一家を燔殺して了りぬと。この一例は、如何に歌垣の会が、歌唱の戦
争 すなわち恋愛の戦争として激烈なりしかを証するに足れるものにして、随って、
歌垣の会において闘わさるる歌唱の、如何に警語として訓練を経たるものなりしかを、
想察するに難からずと做す。
これは余事なれど、万葉集に、
勝間田の池は我れ知る蓮無し爾云ふ君の鬚無きがごと
という奇異なる一首あり。これ、勝間田の池には蓮無しと云う言を否定して、これあ
るを主張するところの、皮肉なる反語なるが、その奇警して冷たき辛味を有せること、
歌謡の警語化せられたる むしろ警語の歌謡化せられたる、一個の好適例ならずや。
バイロンに兼ぬるにハンニバルをもってせるが如き、詩的英雄にして青年的人物た
る、我が日本武尊の三十年の伝記にも、自発的に他動的に、また鏘々の響を発する多
くの鍛練せられたる警語を挿めり。尊が東西経略の偉業の歴史は、少なからず神話化
せられつつあるだけ、それだけ人倫を超絶せるものなり。史に曰く、景行天皇の二十
七年十月、皇子小碓尊を遣わして熊襲を討ずと。尊は、天皇が九十の老境に入り給い
てよりの御子にして、しかも双生児の一個なるが、他の一個なる兄大碓尊、不肖の故
をもって、父皇の愛情はこの少子の一身に鍾まり、しかも、小碓は英豪なる景行天皇
の愛を専らにするに足れるの麒麟児にして、容貌端麗、
気魄雄大、この時齢わずかに十六にして、身丈一丈、力能く鼎を扛ぐ。
命を奉じてただちに四人の射を善くする者と共に発し、十二月熊襲の境に入り、巨
魁取石鹿文川上梟師が大いにその族を集めて宴するに乗じ、剣を懐にし、女装して婢
妾に雑り、座に侍る。かくて、夜深く人の散ずるを見るや、尊すなわち進み近づきて、
川上の酔臥せるを捉え、剣を抜いてその胸を刺す。これ実に、一匕深く鮫鰐の淵を探
るものにして、十六歳の少年の勇胆、鬼神を驚倒せしむるに足れり。
宜なり、当の敵川上梟師が、ほとんど奇蹟に打たれたるが如き感を起しつつ、すで
に刃に胸を穿たれて死に垂んとするの痛苦より超脱し、異常の能力を賛嘆するの至情
に、渾身の血液を琴の如く揺鳴せしめ、「筑紫においては儂に優れる勇者なきに、単身
来って能く儂を刺す者は、そも何人なるぞ?」と敬い問いしことや。尊すなわち答う
るに実をもってすれば、梟師が賛嘆の情はますます昂騰せり。粛然として容を正して
曰く、「幸いに御名を上つるの光栄を有せしめよ。日本武尊!」ど。ここにおいて川
上梟師は一切恩怨彼我の差別観を忘れ、微笑してもって静かに瞑しぬ。
尊の絶倫超凡は云うまでもなけれど、川上梟師の人物の偉大また驚くに堪えたり。
九州の人物を物色するに、遥かに後代の西郷隆盛を除いて、絶えて取石鹿文川上梟師
の如く器の大なる者を見ざるなり。川上が末期の一句、小碓尊に上つるに「日本武」
の名をもってしたる、何ぞそれ、奇警の極にしてかつ剴切の極なる。かくて、他を輝
かしてしかも自家の抱負を辱めず。簡単にして含蓄深く、酌めども尽きざるの味いあ
り。「愛い少年じゃ。可愛い稚児さんじゃ。ようその小腕で、川上ほどの豪傑仕留めや
はった。九州じゃ、おんどもほどの猛者は無かばってん、あんたにゃア叶わんば。そ
のおんどもより強いあんたを、何と呼ぽうかえ。日本武じゃ。日本武じゃ。あんたは
日本武じゃ。この川上が娑婆の置土産に、あんたに箔を附けて上げるけん、今から日
本武と御名乗りなされまっせ!」との意にして、他を輝かして一段自家の位置を高く
す。実にこれ、歴史を照破するの光焔を帯べる警語なり。警語の価値ここにおいて高
めらるること数等ならずや。
すでにして、尊二十七歳にして、東夷征討の任に当り、まず伊勢の神宮に詣りて、
往昔素盞鳴尊が八岐の大蛇を斬って斃せしところの叢雲剣を受け、進んで駿河に到る
や、過って賊徒の術中に陥り、空原において火攻に遭う。尊すなわちこの剣を抜き、
草を薙ぎて活路を開き得たるをもって、改めて草薙剣と名づけ、その地を称して焼津
と呼ぶ。
次いで、相模より上総に航せんとし、今の浦賀海峡なる走り水を過ぐるや、竜神祟
りを為して俄に風濤を起こし、まさに船を覆さんとす。この時、尊の妃弟橘姫、軍
に従って船中に在り。奮って身を投じて竜神の牲に供す。風濤すなわち歇む。尊これ
より蝦夷を征して陸奥を定め、還って碓氷峠に登って遥かに東南を望むに到り、端無
く海に投ぜし弟橘姫を思い、追慕の情に禁えずして、まさに腸を断たんとす。すな
わち声を放って嘆じて曰く、「吾嬬今何在!」と。如何に、その情の切にしてその声の
哀しく、三軍をして、ことごとく鎧の袖を濡らさしむるものありしかは、尊が唇頭よ
り、迸りしこの一短句の余声、永えに消せずして、後世碓氷の東南諸国が「吾妻の地」
と呼ばるるに到りたるにより、その万一を想像すべしと做す。普通にいわゆる警語と
は性質を異にすと雖も、「吾嬬今何在」の一句の感伝力の強烈無比なる。またこれ一
種の警語にして、しかもその上乗なるものと云うべからずや。
此の如く、予輩は日本武尊の伝記において、警語と実地との関係の別種の例を見
出だすこと一、二にして止まらず。随って、警語の利用せらるる範囲を、比較的拡大
して見ることを得、警語とその歴史とを研究するにおいて、さらに一歩を進むるに到
りたるが、神武天皇の裔なる日本武尊は、また一面において、天皇の系統を追うて、
警語の歌謡化したるものを戦陣の間に利用するの好適例を示しつつあり。
尊、川上梟師を屠りて九州を平定したる帰途、出雲に入りて出雲梟師を討つや、謀
を用いて、予め梟師の佩剣を木刀に変え、しかして後、これと闘って容易にその頭を
斬り、即時に血刀を揮いて、
やつめさす出雲梟師が佩ける太刀都豆良佐波麻岐真身無しにあはれ
と朗吟しつつ、喜舞これを久しうせりと云うもの、すなわちこれなり。
第十六代の聖主仁徳天皇が、即位の四年高台に登り、炊煙の起ること少なきを望み
て、百姓の窮乏せるを知り給い、天下に詔して、課税を除くこと三年に及び、その間、
宮室壊敗すれども、毫も修覆を加え給わざりしは、国史上有名の事実なるが、七年再
び高台に登りて、炊煙の遠近相連れるを望み、欣然として皇后に向
って、「朕すでに富めり!」と告げ給い、皇后がその意を解せずして、窮乏の事実を挙
げ、これを反問し給うや、「百姓の富めるはこれ朕の富めるにあらずや」と答え給いし、
これ独り、盛徳の君主より出でたる金言として尊重すべきものなるのみならず、警語
としてもまた特別に選択せられたる、極めて奇抜にはなはだ歯切好きものと看做すこ
とを得べきなり。
しかも、この語が仁徳天皇の御唇より発したるをもって、特に警語としての価値あ
りと云う理由は、天皇が、皇弟稚郎子尊の如く、多く儒教の感化を受けて、儒教書籍
中の支那古聖王の口吻を模するの傾きある者とは異なり、活眼達識の政治家にして、
手腕頗る辛竦に、海外経略の国是を定めて、都を海浜の難波に移し、毎々痛烈なる高
圧手段を用いて韓半島を処置したる、一個の豪傑漢にて在ししが故なり。
しかのみならず、天皇の伝記には、女事に関する波瀾はなはだ多く、添うるに、皇
后磐之媛の妬悍無比なるもってす。これをもって、天皇の
閨門は決して治まれりと云うこと能わず。はなはだしきは、吉備の黒媛という美人を
密に招きて寵幸し給いしに、黒媛たちまち皇后の猛烈なる嫉視に触れて、居を安んず
ること能わず、早々に本国に逃れ還りしかば、天皇情に禁えずして、高台より遥かに
黒媛の船を望み、愛慕の和歌を詠じ給いしに、皇后これを聞いて妬心已むこと能わず、
怒を黒媛の船に移して、その発航を禁止し、黒媛をして陸路を取りて吉備に還るの他
なからしめしなどの事件あり。いわんやその高台こそは、
高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈は殷ひにけり
の御製を出だし給いて、天皇と皇后との間に古聖王的問答のありたる、神聖の場所な
るにおいてをや。
此の如き複雑なる偉人にて在わし、豪傑漢にて在す仁徳天皇の御唇より発したるも
のなればこそ、「朕すでに富めり!」と宣いしも、「百姓の富めるは朕の富めるにあら
ずや」と宣いしも、それ等の当然の価値の外に、警語としての一種洗錬せられたる価
値ありと云うなり。しかもこれ、警語をもって警語の説明に充てし一特例なりとす。
歴史は明らかに、時人呼んで大悪天皇と做すと伝う。これ、我が第二十一代雄略天皇の謂いにあらずや。天皇はなはだ剛勇にしてむしろ狂暴の域に入るを厭い給わず、
しかも、青竹を割りし如き洒然たる襟懐あり。これをもって、
皇兄安康天皇が、大草香皇子の子なる七歳の眉輪王に弑せらるるや、天皇憤ることは
なはだしく、多くの疑わしき者を屠りて自ら遣らんとし、まず、庶兄黒彦王の許に赴
きてその処置を協り給う。しかも、黒彦冷然として路傍の人の如き態度を取りしかば、
天皇激怒自ら禁ぜず、ただちに黒彦の衿を攫みて提げ出で、狗児の如くにこれを撲ち
殺し給いぬ。
次に、同じく庶兄の一人なる白彦王を訪い給いしに、これまた冷然たること黒彦に
譲らざれば、天皇有無を宣わず、例によって衿を提げ出で、小治田に穴を掘りて、立
てながらこれを埋殺し給えり。また兵を起して、眉輪王が匿れたる大臣葛城円の家を
囲み、風に乗じ火を放ちて、眉輪と円とを併せて焼き殺し、さらに勢いに乗じて、安
康天皇がこれに宝位を伝うるの内旨ありし市辺押磐皇子を殺して、押磐の同母弟な
る御馬皇子をもまた屠り、諸兄近親をしてことごとく絶滅に帰せしめて、己ただ一人
残存し給い、すなわち石上宮に位に即く。時人呆然、手も足も着くること能わずして
ただ座視するのみ。大悪天皇の大悪天皇たる所以、実にここに在りと見られたり。されば、怒を発し殺すを嗜むの性癖は、即位の後と雖も改まり給わず。しばしば人をし
て面を掩わしむるの出来事あり。
しかも、洒然として諫め納れて過ちを改め給いし佳話も、また少なきにあらず。な
かんずく、葛城山の遊猟における一条の如きは、独り美談たるに止まらずして、警語
史的眼孔よりこれを見るに到り、さらに一段の価値を認めざるべからざるものなり。
即位の五年、天皇葛城山に猟し給いし時、突如として、巨大なる野猪の叢間より出で
て、御座に衝き到るに遭う。天皇すなわち舎人に命じてこれを射さしめんとし給いし
に、舎人は野猪の猛悪に辟易して命を奉ずること能わず、急に樹を攀じてこれを避く。
事態切迫して天皇身を重んじ給うの暇なく、まさに、至尊をもってして赤手
す で かくとう さいだいつうさんじ うれ
されど憂うるこ
最大痛惨事を現出せんとす。
野獣と格闘せざるべからざるの、
とを休めよ。これ、剛勇無比の雄略天皇にて在しまさずや。伝えて曰く、天皇平生の
神力を発揮して、ただ一腸に野猪を腸殺し給いぬと。
事はこれにて了りぬ。ただ了らざるは、不忠怯懦なる舎人の処分のみ。しかも、こ
れまた容易に解決せず。天皇ただちにこれを殺さんとし給えばなり。この時、皇后幡
梭皇女、猟に随って天皇に侍し給えり。諌めて宣わく、「獣の故をもって人を殺し給わ
ば、いかで、豺狼に儔しとの誹を免れ給うべき!」
と。.天皇これを聞き給いて、竜顔たちまち喜色を浮べ、「善い哉言や。人は猟して禽獣
を獲、朕は猟して善言を得たり」との優詔あり。すなわち舎人を赦し、歓笑して還御
あらせられぬ。共にこれ警語の上乗なるものにして、皇后が警語を発して面を犯し給
える、その鋒鋩の犀利、利鏃をもって胸を穿たんとするの概あり。これ、警語史上の
一新事実にして、後の警語を発せんとする者のために生面を開きたるものと云うべく、
しかも、警語と警語との葛藤が変形して、警語と警語との和協に帰着し、雲湧き風起
らんとする険悪の天候より、忽然として、花笑い鳥歌う和暢の風日を産み出だしたる
事、また、警語が実際に作用せし一新特例と称し得べきなり。
これを要するに、以上神代より上古に連りての我が警語史は、大半変形的神話と綯
い交ぜになりて、その形影の散漫糢糊たるを遺憾とせざる能わざる部分多く、あるい
は、その一部分にのみ光彩ありても、全体における明確の度はこれに伴わずして、人
をして切実の感を起すを得ざらしむるを如何ともすること能わずと雖も、なお、仔細
に点検すれば、後代に到りて十分に発達すべき、奇の極なるもの、矯の極なるもの、
苦の極なるもの、毒の極なるもの、痛の極なるもの、切の極なるもの、徹の極なるも
の、深の極なるものの萌芽が、それ等の間に胚胎しつつあるを看取し得ざるにあらず。
もしそれ、最後に挙げたる、雄略天皇とその皇后との唱和に到りては、比較的多く
後代的色彩気味を帯びて、朧気ながら警語史のために過渡期を劃するものと、云うこ
とを得るべきなり。ただし、上古の歴史は事簡にして、天皇および皇室を離れては、
記述すべき現著なる問題少なく、ために、警語史の内容また比較的単調なるを免れず
と雖も、この過渡期を限りとして、これより以降はやや佳境に入ることを得べけん。