菊池寛「学者夫婦」

学者夫婦
 上野国(こうずけのくに)大原の里に、鋳物師(いものし)で惣左衛門と云う男が住んでいた。
 今年六十一歳で、家業は数年前長男に譲っていた。次男は、同村で百姓をしていた。三男は、江戸の鋳物師の許に、徒弟に出ている。
 一人の娘は、同国鳥山村の農家に嫁いでいる。小作を七、八人も使っている(ゆた)かな農家である。孫も、長男に二人、次男に一人、娘には三人もある。
 妻は、るいと云って五十六になる。夫婦とも至って息災である。
 こう書いて来ると、いつの世の中にもいる、またいずれの町村にも幾組かはいる、めでたい幸福な夫婦に過ぎないが、この惣左衛門夫婦は他の夫婦とかなり違った特色を持っていた。
 それは、田舎の……しかも江戸からかなり離れた僻遠(へきえん)の地に在りながら、夫婦とも好学の趣味を持っていた。
 二人とも和漢の書を読んだが、殊に国文が得意で、王朝時代の古典は、二人とも(そら)んずるばかりに読んでいた。
 最初は、勿論、惣左衛門が妻のるいを、教育し指導して、同学の友たらしめたのである。
 惣左衛門は、十三から十七の年まで、江戸市ヶ谷大隅町に住んでいた、(はん)静山の家に、奉公していた。
 大隅町と云うのは、後に尾州侯の中に囲い込まれ、それが明治になって陸軍士官学校の用地となったから、町名は湮滅(いんめつ)してしまったのである。
 坂静山は、儒者で国学の道にも優れていた。殊に和歌は烏丸光胤(からすまるみつたね)に学び、宝永から享保前後に於て、江戸歌人中の大家であり、その作歌の中には、今でも教訓的に引用される、
おこたらず行かば千里(ちさと)の果も見ん
   牛のあゆみのよしおそくとも
 などがある。
 惣左衛門は、奉公中静山に、その悧発(りはつ)好学を愛せられ、十五歳の秋からは、用事のない時は、講莚(こうえん)の末座に着くことを許されるようになった。又、静山の蔵書を時々借覧することも許された。
 彼は、漢学よりも国学の方に興味を持ち、徒然草を手はじめに、平家物語、保元物語、平治物語から、落窪、住吉、伊勢と、つぎつぎに読み(ふけ)っていた。字句の分らないところは、門弟の誰彼に訊ねたり、それでも分らない時には、静山自身に訊ねた。
 そう云う学問に対する熱心が、静山の気に入ったので、静山の(はら)の中では、普通の下男でなく、内弟子にしようかと云う考も浮びかけていた。惣左衛 門が十七になった春に、家業を継いでいた惣左衛門の兄が、急死したため、彼は否応なく故郷へ呼び戻されてしまったのである。
 その後、六、七年間は、惣左衛門は家業の鋳物に出精する外はなかった。学問をするのにも、数冊の草双紙や庭訓往来(ていきんおうらい)や節用集の外、蔵書は何もなかった。
 が、二十五の時、父が死に家業もだんく栄えて行くに従って、彼はそろ/丶本を買い集めて行った。一年に一度は、江戸に出て静山の家へ御機嫌伺いに行くと共に、一年中の質疑をした。それと共に江戸の目ぼしい書店を訊ねて、財力のゆるす限り、本を買い(あつ)めた。
 彼は、仕事の合間々々にも、それらの書を(むさぼ)りよんだ。
 国学をやるものの常として、彼は和歌も作り始めた。三十歳前後には、歌名を藤の屋主人と称して、館林や伊勢崎あたりの同好者の中でも、押しも押されぬ位置を占めていた。歌の会などには、遠くからも招聘(しようへい)されて選者の机に着くことさえあった。
 るいと結婚したのは、彼が二十五の時であった。るいは、十八であった。るいは、寺子屋へ通っただけの女であった。
 最初は、惣左衛門の学者生活とは、殆ど無関係に数年を過したが、天性聡明であった彼女は、いつの間にか家蔵の書を読み始め、分らないところは、良人に(ただ)し始めた。
 学問をする者にとって、学問そのものも一つの楽しみであるが、その獲た知識を、人に教えることも、又更に大きな楽しみであった。惣左衛門に、国学の弟子 が一人殖え二人殖え、遂には数十人に及んだが、その弟子の中でも、妻のるいは出色の弟子であった。惣左衛門は、自分の得た知識を(かめ)(そそ)ぐ が如く、妻には伝えた。
 殊に、子供達が成長して、長男に嫁を迎えたし、下女を二、三人置くようになってからは、るいは家事に煩わされることが少くなったから、るいはます/丶学問に出精し始めた。
 惣左衛門が六十に近く、るいが五十を越えた頃になると、惣左衛門からるいに教えるべきものは、もう何も残っていなかった。
 そればかりでなく惣左衛門の家では、毎月七の日に講莚を開いていたが、惣左衛門に差支えがあって、るいが二、三度代理を務めた事があるが、惣左衛門が、 朴訥(ぼくとつ)で口下手なのに比べて、るいは弁舌さわやかで引例が豊富で、会衆達をアッと云わせてしまった。(お内儀の方が上手(うわて)だ)蔭でそん な噂が立ったばかりでなく、惣左衛門に質して見て、ハッキリしない疑問をそっとるいに質す門弟さえ出来て来た。
 大隅町に、惣左衛門が奉公していた坂静山の弟子で、その頃江戸の六歌仙の一人として名高い内山賀邸が、館林の歌人達に招聘されて、来遊したとき、和歌の会が催され、惣左衛門夫妻にも案内状が来た。
 惣左衛門が静山の家にいた時は、賀邸はまだ入門していなかったので面識はないが、同門のよしみがあるし、惣左衛門の篤学を賀邸も聞き知っていたと見え、その案内状には(賀邸先生も貴殿との対面を楽しみにせられ居り候につきぜひ/丶)と云うような言葉が添えてあった。
 惣左衛門は、るいと携えて出席した。
 賀邸は、惣左衛門を欣び迎えて、師静山のことなどを何くれとなく、語り交わしたので、惣左衛門は面目を施したが、席上披露した歌稿の中では、妻のるいの作った「早春の関」と題した、
 箱根路や春は早くも越え来ても
   まだ雪消えぬ関の杉むら
 と云う歌が、賀邸を初め、会衆の賞讃を博した。
 賀邸は(さすがに、御主人のお仕込みだけあって見事な出来栄じゃ。当時江戸でも、御内儀ほどの女流はござりますまい……)と激賞した。
 が、惣左衛門が五首ばかり披露した歌は何人の注目も惹かなかった。
 もう、よほど前から惣左衛門は、学問上で妻の圧迫をだん/丶感じ始めていた。妻も、自分も、ひもどき得る本は、すっかり同じである。注釈の本も、すっかり同じである。が、それに依って本文を理解する程度が、だんく違っていることを感じていた。
 源氏物語は、今も昔も、読む者にとって難解である。殊に、昔は注釈書など、極めて少い。極端な省筆が駆使されている。一つ/丶の語法や文脈が、ハッキリ しないと、文章は分らなくなってしまう。惣左衛門も、丹精をこらして読むのであったが、二、三丁の中には、どうにも分らないところがある。妻のるいも、初 は惣左衛門の分らないところは、やはり分らないようてあった。
「こゝのところは、どう云うことでございましょうか。」
 と、惣左衛門に訊きに来た。
「されば……」と、惣左衛門は、本を受け七って見るが、それは自分にも分らないところであった。二、三日してるいは、
「この間、お訊ねしたところは、こう云う意味でございませんでしょうか。」と、云って自分の解釈を試みた。それが、なるほどと肯けることが多かった。
「そうかも知れぬ。」
 と、答えながらも、惣左衛門は、云い知れぬ屈辱を感じた。
 学者としての天分は、妻の方がすぐれていることが、ハッキリするにつれ、惣左衛門は、淋しかった。この頃では、妻に学問を教えたことを後悔し始めた。
 が、妻のるいは、賢明な女性であったから、主人の矜持(きようじ)を傷けるようなことは、努めて避けていた。
 が、妻が意識して避けようとすればするほど、それが、わざとらしくなり、却って惣左衛門の気持を暗くすることが多かった。
 館林藩のお姫様が、和歌修業のお相手としてるいに対し破格のお呼び出しがあった時にも、るいは病気を口実に固辞してしまった。お姫様なので女性のるいがお呼び出しになったわけであるが、良人をさし置いてそうした栄誉を受けることを、るいは避けたのである。
 その頃から、惣左衛門は、長年つゞけて来た国学の講義を廃してしまった。門弟たちが、いろ/\言葉をつくして頼んだが(うなず)かなかった。それでは、奥さんにと云うことであったが、るいも良人の気持を考えて、固辞してしまった。
 国文の解釈に於て、到底るいに及ばないことを自覚した惣左衛門は、るいの聴いている前で、いなるいの聴くかも知れないところで、講義をすることが、嫌になってしまったのである。
 学者として、妻に圧倒されてしまった惣左衛門に、たゞ一つ誇りがあった。それは、彼の博覧強記であった。彼が読んだ本の内容は、大抵記憶していることで あった。るいも、その点では主人に及ばなかった。だから出典(この事は、どの本のどこにある)については、常に良人に質していた。そう云う時には、惣左衛 門は、機嫌がよく、妻の質問に答えていた。
 学者同士としては、そう云う危機にあったが、家庭的には普通の妻であり良人であった。
 その夫婦が、その秋に夫婦別れをし、惣左衛門は長女の嫁入先の鳥山村の豪農作兵衛の家に行ったまゝ、一生自分の家に帰らなかった。
 その原因は、大原の里人達には分らなかった。むかしの門弟達にも理解せられなかった。その原因が、あまりに普通の夫婦喧嘩と違っていたからである。
 たゞ、学者仲間には、それとなく伝わったらしい。夫婦とも文通をしていた江戸の内山賀邸は、惣左衛門の消息から、妻のるいの手紙から、その原因が分ったらしい。むろん、賀邸も夫婦を和解させるために、いろく尽力したが無駄であった。
 この夫婦喧嘩の真因については、賀邸には弟子に当る蜀山人が、賀邸から聞き伝えたと見えて、「仮名世説(かなせせつ)」に次ぎのように書いている。
 上州大原に、鋳物師惣左衛門といへるものあり、わかき時より書を好みてよく記憶せしが、ある時、俄に雨降り来りて、道ゆく人も急げる中に、(こも)を かぶりて、頭ばかりすこし出して、走り行く者を見て、惣左衛門の妻の云ひけるは、「枕の草子」に(簑虫(みのむし)のやうなる童)と、かけるもかゝる様に やと、云ひしに惣左衛門これを聞きて、それは覚え違ひなり、「源氏物語」須磨の巻に(肘笠(ひじかさ)雨とか降り来て)と云ふ所に見えたる事にて、「枕の 草子」にはあらず、と二人これを云ひ争ひ、遂に二つの書を出し見れば「枕の草子」に、一条院の御乳母に御ふみ給はる所にありて、須磨の巻にはなし。是に於 て、惣左衛門は、かの書を妻にうちつけて、其儘(そのまま)家を出で、同国鳥山村の(むこ)の方へ行きて帰らず。それより妻は度々、鳥山村に来りて、い ろいろにいひ詫ぶれども、一言の答もなく、顔を(そむ)けて顧みる事なし。聟の方にても、たゞ一、二日の滞留と思ひゐたるに、年を重ぬれど帰るべき気色 も見えず、皆々の心づかひに預る事よと云ふことだにせず、自若として、おのが家にあるが如し。日毎に、黄昏(たそがれ)(くわ)を持ちて裏へ出て、畑 の際へいくつとなく穴を掘りておけり。夜あけに至りて、又これを埋む。かくのごとくすること、日々かはることなし。この穴夏は少く冬は多し、その故を問へ ば、夜中に起き用便する穴なりと答へしとなん。わつかの間と覚えしに、二十四年こゝにありて、寛政元年十二月の初、八十五歳にて終れり。
 惣左衛門の痛念の情は察せられるが、こうした高級の夫婦喧嘩をする夫婦は、現代にも稀有であろう。