菊池寛「心形問答」
今は昔、叡山の
昔、仏教が盛んであった時に、写経と云うことは、たいへんな功徳とされていた。今でも、
が、その時の議論では、いくらありがたい経文を写しても、その写す当人が、斎戒
敏行朝臣は、歌よみとしても高名であったが、手蹟が非常に見事であったので、いろいろな人から法華経の浄写を頼まれた。みな死んだ人々の供養のためであった。永い間には、二百部ばかりも書いたであろう。五十を越した頃に、ふと風邪の心地で、五日ばかり床についた。
そんなに重態と云うのでもなく、まだ死ぬなどとは、われも人も思っていなかったが、ある日、ふと気がつくと、身はひしくとからめられてうすくらがりの荒涼たる道を
「これはどうしたと云うのだ。何のとがで、こんな目に会うのだ。」と、問うた。すると、一人が、
「此方にも、ハッキリ判らない。たゞ、命令でお前を連れて行くのだ。」と、云ったが、他の一人の男が、それにつゞいて「お前は、法華経を書いたことがあるか。」と、云って訊いた。
「あゝ、書いたことがある。」と答えると、
「それは、自分のために書いたのか。」と、云った。
「いや、自分のために書いたのではない。人に頼まれて、二百部ばかり書いた。」と、答えた。
すると、その男は「どうも、その事らしい。お前は、それで訴えられているのだ。その事で、お前は判決を受けるのだろう。」と、云うのだった。
法華経を書いたことが、そんなにとがになるのかと、敏行朝臣は不安を感じながら、黙って曳かれて行っていると、急に後の方から、軍馬の近づく音がするので、振り返ると、
った。それを聞くと、敏行朝臣は、心も凍り身も切られるように思った。「あの人達は、一体自分をどうしようと云うのだろう。」と、訊いて見た。すると、その返事は、「馬鹿な事を訊くものではない。あの連中が、その握っている
敏行朝臣は、恐ろしさに身もだえしながら、「何か助かる法があるか、どうか教えて頂きたい。」と云ったが「可哀そうだが、これは尋常の罪ではないから、どうにもならないのだ。口には述べられず、心にも考えられないほどの罪なのだ。」と、云うのである。今は云うべき事もなくなって、トボ/丶と曳かれて行った。おそろしげな
やがて、庁の前に引き据えられた。判官のような人が、「お前が敏行か。」と、云って訊いた。
「さようで。」と、返事をすると、「お前は、まだ定命が尽きたと云うのではないが、お前が法華経をかいた書き方が、汚わしいので、そのための訴訟で、お前は急に呼びよせられたのだ。訴えた者の願いの通り引き渡すことにするから。」
との判決であった。庁を囲んでいる二百人あまりの人々の間に、ドッと歓声が上った。敏行朝臣は、ふるえながら、抗弁した。
「たしかに、それは悪うございました。ただ、その罪をつぐなおうつもりで、四巻経を書いて供養する願を発しましたが、その事を仕遂げないで、召されたのが残念でございます。」と、云った。すると、判官は驚いて「そんな願を起しているのか。それが、本当とすれば、
すると、判官は、「それは不憫な事である。ともかく今度だけは、許してやろう。その願を遂げさせてから、ともかくも計らう事にしよう。」と、云った。判決がくつがえされると、今まで敏行朝臣にとびかゝろうと、手につばきしていた連中の姿が、ふっと消えた。「ではたしかに娑婆世界に返して願をとげさせよ。」と、云う声がしたかと思うと、ふと眼がさめた。気がつくと、妻子や
「お気がつきましたか、昨タからひどい熱で、うと/丶して居られました。お加減はいかゞですか」
と、云うのであった。さては、夢を見ていたのであると思ったが、地獄にいた有様が、鏡にかけたようにあまりにハッキリしているので、夢ではなく、本当に半分は死んで地獄に行っていたのではないかと考えた。
それから、十日ばかりで病気は
が、折から弥生節の頃で桜が咲き始めていた。敏行朝臣は、自分の本復祝をかね、友達の歌人どもを、十人ばかりも、花見の宴に招待した。そうした催しの準備や、疲れで半月ばかりも、無駄に過した。弥生の
その上、以前法華経を書いた時は、みんな人から頼まれたので、ちゃんとした礼物があった。みんな、何日が命日だから、その前日までにと云うように、期限付であった。やんごとなき人から、頼まれる時の礼物は、砂金の時もあり、絹のときもあり、武家などは見事な馬などを曳いて来た。敏行朝臣は、
が、今度は自分の功徳のために書くのである。自分の罪障消滅のために書くのである。そうなると、礼物どころか、催促してくれる人さえいない。
その年の夏を過ぎても、まだ一行も書いていなかった。その間に、法華経の浄写を、二、三回頼まれたが、さすがにそれを引き受けなかった。いつか見た夢が、本当だとすれば、さすがにこの上の罪障を重ねる気にはなれなかったのだ。
が、四巻経の方は、相変らず手がつかなかった。その内に、秋が来た。藤原
三月目に、未亡人から歌がとゞけられた。もちろん、恋歌である。敏行は、二日がかりで返歌を考えた。そう云う贈答が、その年中つゞいた。その翌年になって、敏行は初めて、女の許に通ったが、お互いに中年の恋であるだけに、はげしい情熱がもえたぎって、その年一杯は恋愛
敏行は、考え出した。いつか見た夢は、結局一場の夢であり、法華経が貴いお経である以上、それを写すことが、罪障りになるわけではないと考えたのである。
敏行は、いつかの病気が恢復してから、十年位生き延びたが、歌よみと恋愛とで、夢のように暮してしまった。
たゞ、最後の死床に就いた時、さすがに四巻経を書かなかった事が、気になったと見え、友人の紀の友則に、ざんげして、用意して置いた料紙を
敏行朝臣の話は、これで終ったが、それを聴いていた、一人の僧侶が云った。この男は、大和の前司(元の国司)の末子で、七郎小院と云われてまだ十七、八の少年であったが、「敏行朝臣が見た夢は、それは心の迷いである。どんな態度で、写そうとも、法華経を写すことが、罪障になるわけはない。お経は、お経そのものが尊いので、その写し方によるものではない。たとえば、仏像は、仏像そのものが尊いので、それを作った仏師や、それを造らせた願主が、悪鬼であろうと、
その説には、随分反対が多かったが、七郎小院は思い切った顔付になり、「では話す、これは自分の恥になることだが……」と、云って次ぎのような話をした。
「自分の家は、仏法に
山にいるときは、お経などはあまり読まないで、武々しい事を好んで僧兵の一人になっていた。ただ、それだけならば、山を逐われる訳はないのだが、如狸も冒したし、もしかしたら、盗賊もしたのかも知れない。到頭、山を逐われて、故郷の大和へ帰って来て、自分の父に世話をかけていた。父は、国司である手前、さすがに山を逐われて、帰って来たとも云いかねて、一通りの修業は済んだように、世間へは披露した。そして、小さい御堂を造ってやった。が、叔父は、そこでお経をよむどころか、近所のあぶれものを
そのうちに、叔父について悪い評が、いろいろ伝えられた。叔父の一党が、夜追剥ぎをやっているとか、叔父の前に物売りに行った商人が、品物だけ取られて突き出されたとか、よからぬ噂ばかりである。
自分の父は、それを心配して、しば/丶叔父を呼んで注意した。ところが、叔父はとうとうたる雄弁家で、自分についての噂や非難を忽ち煙にまいて、手のつけようがないのである。父も扱いかねた末に考えた。これは、早速に本尊を安置するのがよい、尊い仏像を安置したならば、どんな叔父でも、その前で、ばくちを打つわけもないだろう。悪い仲間は、はゞかって出入をすることが、稀になるだろうと思ったのであろう。それで、仏像を
そして、その頃奈良で一番名高い
仏師は、止むを得ず、うるしを借りて、はくを借りて、仏像を完成した。
いよく、眼も入れて、今日こそ完成の日になって、お礼の
すると、叔父は承知した。が、完成を祝って一度御馳走をしよう。今迄物を食わせなかったのは、本意でなかったのだから、今日こそ思い切って御馳走をしようと思い家にいた二人を召使いにやり、自分も酒をとゝのえて来ると云って家を出て行った。
後に、叔父の妻だけ残ったが、急に馴々しく仏師に、笑みかけて、『永い間の御苦労で、ございましたでしょう。少し、お肩など、もみましょう。』と、云って近寄って来るのである。叔父の妻は、京生れだけに、さすがに美しかったのである。仏師は、恐縮して辞退したが、妻はしつこく寄って来て、肩をもみ腰をもみ、おしまいには前へ廻って二つの腕をとって、さすりなどするのである。
その時であった。何時の間に帰っていたのか、叔父は仏師の前に、立ちはだかると、『人の妻を、まぐとは
それを聴いた父は、叔父を叱ったが、叔父はいつもの雄弁で、仏師が実際自分の妻を犯そうとしたのだと云って、屈しなかった。ただ、自分の父は後で『そんな破戒無残なやり方で、仏を作ったとて、何の功徳になろう。その仏像も、それを作らした男の心が、うつって、今に夜叉のような顔になるだろう。』と嘆じていた。
が、事実は、今奈良で名高い利生院の薬師如来と云うのは、叔父の造らせたこの御像で、参詣の善男善女を、惹きつけると云う点では、奈良で随一である」と、云った。