長谷川時雨「江木欣々女史」

江木欣々女史
 大正五年の三月二日、あたしは神田淡路町(かんだあわじちよう)江木家(えぎけ)の古風な黒い門をくぐっていた。
 旧幕の、武家邸(ぷけやしき)の門を、そのままであろうと思われる黒い門は、それより二十年も前からわ
たしは見()れているのだった。わたしは日本橋区の通油町(とおりあぶらちよう)というところから神田小川町(おがわまち)竹柏園(ぢくはくえ ん)稽古(けいこ)に通うのに、この静な通りを歩いて、この黒い門を見て過ぎた。その時分から古い門だと思っていたが、そのころから、江木氏の住居(す まい)かどうかは知らなかった。
 「この古い門のなかに、欣々(きんきん)女史がいるのですかねえ。」
 連立(つれだ)った友達は、度の強い近眼鏡を伏せて、独り()みをしていた。
 「冷灰(れいかい)博士iそっちの方のお名には、そぐわないことはないけれど」
 友達が言うとおりだった『冷灰漫筆』の筆は、風流にことよせて、サッと()りおろす、この()主人(あるじ)の該博な、鋭い斬れ味を示すもの だった。だが、今を時めく、在野(ざいや)の法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者、盛大な 江木(ちゆう)氏の住居の門で、美貌(びぽう)と才気と、芸能と、社交とで東京を背負(しよ)っている感のある、栄子(えいこ)夫人を連想しにくい古 風さだった。しかしまたそれだけ薄っぺらさもなかった。含みのある空気を吸う気もちであった。
 たそがれ時だったが、門内にはいるとすっかり暗くなった。
 梅が(かお)ってくる。もう、玄関だった。
 広い式台は磨かれた板の間で、一段踏んでその上に板戸が押開かれてあり、そこの畳に黒塗りぶちの大きな衝立(ついたて)がたっている。その後は三問 (げん)ばかりの総襖(そうふすま)で、白い、藍紺(あいこん)の、ふとく荒い大形の鞘形(さやがた)ー芝居で見る河内山(こうちやま)ゆすりの場の雲州 (うんしゆう)松江侯お玄関さきより広大だ、襖が左右へひらくと、黒塗金紋蒔絵(まきえ)のぬり駕籠(かご)でも(かつ)ぎだされそうだった。
 「これはどうも1平民は土下座(どげざ)しないと  」
と、平日(いつも)口重(くちおも)な、横浜生れではあるが、お母さんは山谷(さんや)八百善(やおぜん)の娘であるところの、(こと)の名手である友達は、小さな体に目立(めだた)ない渋いつくりでつつましく、クックッと笑った。
 気持ちの()素足(すあし)に、小倉(こくら)(はかま)をはいた、と五分苅(ぶが)りの少年書生が横手の襖の影から飛出して来て広い式台に()けおりて、
 「どうぞ。」
と、招いた客の人相をよく言いきかされて、呑込(のみこ)んでいるように笑顔で先導する。
 次の間には、女の顔が沢山出むかえた。
 「さあ、こちらへ、さあこちらへ。」
 招じられた客間は、ふかふかした絨毯(じゆうたん)、大きな暖炉(スト ブ)に、火が赤々としていた。
 春には寒い  日本の弥生宵節句(やよいよいぜつく)には、すこしドッシリした調子の一幅(いつぶく)の北欧風の名画があったともいえようし、立派な芝居の一場面が展開されるところともいえもしよう形容を、と見
るその室内は()っていた。
 欣々夫人の座臥(ざが)居住の派手さを、婦人雑誌の口絵で新聞で、三日にあかず見聞(みきき)しているわたしたちでも、やや、その仰々しい姿態(ポ ズ)に足を(とど)めた。
 客間(へや)の装飾は、日本、支那、西洋と、とりあつめて、しかも破綻(はたん)のない、好みであった、室の(すみ)には、時代の()紫檀(し たん)の四尺もあろうかと思われる高脚(たかあし)(だい)に、木蓮(もくれん)木瓜(ぼけ)椿(つばき)、福寿草などの(から)めいた盛花 (もりばな)が、枝も豊かに飾られてあった。大きなテーブルなどはおかないで、欣々女史はストーブに近くなかば入口の方へと身をひらいて、腕凭椅子(うで かけいす)のゆったりしたのにゆったりと()りかかっていた。
 彼女は、驚嘆したであろう客の、()つぶの眼の玉を充分に引きよせておいて、やおら身じろぎをした。立上って、挨拶(あいさつ)をしようとするのだ。
 それまでに、わたしたちは、充分に見た。長く()いた引き(ずそ)の、二枚重ねの(つま)さきは、柔らかい緑色の上履(スリツパ)(つま) さきにすっとなびいている、紫の被衣(ひふ)のともいろの(ひも)は、小高い胸の上に結ばれて、ゆるやかに長く結びさげられている。
 胸の張りかた、褄の開きかた、それは日本服であって立派な夜会服(イブニング)のかたちだ。肩から流れる袖のひだ(、、)など、実になめらかに美しい。 そして、胸のふくらみから腰から脚へかけての線など、その豊饒(ほうじよう)な肉体の弾力のある充実を、めざましく、ものの美事に示している。
 切子(きりこ)(つぼ)のような女性(ひと)だ、いろんな面を見せてふくざつにキラキラしている。
 気の弱い男だったらあがってしまうだろうな。と、その個性の高い香気を讃美しながら、ひきつける魅力の本尊は何処(どこ)かと、彼女の眼を見た。
 彼女の双眼は、叡智(えいち)のなかに、いたずら()を隠して、(さか)しげにまたたいていた。引き(しま)った白い顔に、黒すぎるほどの眼 だった。もとより黒く墨を入れているのでもなければ睫毛(まつげ)に油をつけているのでもなく、深い大きな眼に、長すぎるほどな睫毛が濃かった。(ま ゆ)がまた、長くはっきりとしていて、表情に富んでいる。
   晴れ曇る、雨夜(あまよ)の、深い(やみ)の底にまたたく星影  そんなふうに、彼女の眼はなんにも、口でいわないうちに何か語りかけている。
 彼女が立ったとき、椅子のふちにかけた手は、(あや)しく光った。指輪にしてはあまりにきらめかしいと見ると、名も知らないような宝石(たま)が両の 手のどの指にも(きら)めいているのだ、袖口がゆれると腕輪の宝石(いし)が目を射る、胸もとからは動くとちらちらと金の鎖がゆれて見える。
 彼女の毛は、解いたならば、昔の物語に書いてある、御簾(みす)の外へもこぼれるほど長いに違いないほどたっぷりと濃いのを、前髪を大きく束髪(そくはつ)も豊かに巻いてある。
 「こうして、ちゃんとしてお目にかかるのははじめてだけれど、あなたはあたくしのことはよく御存じだからーたったひとつあなたには聴いておいて頂きたいことがあるのよ。」
 彼女はあたしの友達の、(こと)の名人の浜子(はまこ)を見てつけたした。
 「折角(せつかく)お招き申してもおさびしいといけないと思って、一番仲のよいお友達と御一緒にと申しあげましたの。」
 一風も二風もある浜子は、その光栄を、軽く頭をさげておいて先刻(さつき)のふくみ笑いをまだつづけている。
 合客(あいきゃく)は、ある画伯の夫人と、婦人雑誌で名の知れた婦人記者磯村(いそむら)女史だった。その人が、欣々さんからの使者にたってて、出ぎらいだったわたしを引出したのだった。
 「美人伝は、こちらがお書きになってらつしゃるから、いけないけれどー」
と、画伯夫人は、列伝体のものを、欣々女史の名で集めて残したらよかろうということを、しきりに勧めた。
 「そういえばi」
と、それが言いたい、今夜の招待(まねき)だとも知れぬように知れるように彼女は言いだした。
 「あたしのように、血縁のものに縁の薄いものがありましょうか、あたくしの母は、十六歳であたくしを生んだといいますが、物心(ものこころ)づいてから は、他人に育てられましたのよ、だから、(うみ)の母にも逢わずに死なせ、その実母(ひと)の父親ーーおじいさんですわねえ、その人は、あたしが見た い、一目逢いたいと、それだけが願望だったというのにこれも隔てがあって逢わずに死なせてしまいましたわ。実父の家とは、父の死後に、義母姉妹(きよう だい)の交わりをするようになりましたけれどil」
 その、哀れなはなしは、わたしの小さな美人伝に書いたことなのでみんな知ってはいたが、いたましい思いに眼を伏せていた。
 悲しい事実も、盛時(さかり)の彼女には悲話は深刻なだけ、より彼女が特異の境遇におかれるので、彼女は以前(もと)から隠そうとはしなかった。ただしんぼうのならないのは、子供があるといわれることだと彼女はいった。
 「私に、子供があってくれればですが、でも、ないものをあるといわれるのは、(いや)なものねえ。ある時、あなたの子だと、名乗っているものがある、 それが誠に美しい容貌(ようぽう)の男の子なので、誰しもそれを疑わずにその者のいう通り、あなたの隠し()であるのかと信じている。という、便りを きかせてくれたものがあったのです、ええ(こし)らえものですもの、でも、驚きました。」
 さまざまな手配をして、ようやく分明(ぷんみよう)にしたのだといって、
 「美しい人に似ているといわれた心地(ここち)よさから、つい名を(かた)ったというのですの。その子供も、別段わるい心でではなかったが、ふと欣々の子だといったら案外大切にされたので、一度口にした効果がわすれられなかったからだと言う訳なの。」
 けれど、(いや)な思いもしたし、かなり迷惑もした。人をもって警察のカも借りて、後々(のちのち)そういうことのないようにしてもらいはしたがー
 「ほんとの子ならばしかたがないが誤伝て、いやなものねえ。」
 白い袖の振りを、指輪の手でしごきながら話していたが、突然(いきなり)白い襦袢(じゆばん)の袖をひっぱりだして、急いで眼にもっていった。その瞬間、たもちかねたような、大つぶの(しずく)がこぼれるのを見た。
 まあと、深く息をのんで、感動を現わし示したのは合客たちだった。浜子は黙して眼鏡(めがね)をずりあげていた。わたしも気の毒さに(おも)を伏せているよりほかなかった。
 その間に、電話の(ベル)がひびいて取次がれた、彼女は輝く手でまぶたをおさえながら、
 「あ、大臣の、尾崎さんの夫人(おくさま)からなら、どうか明日(みようにち)御覧にお(いで)下さいまして。」
 眼は()れていて、声は華やかだった。
 「折角の(よる)を、こんな話をしてしまって――お(ひな)さまがおむずかりになるわ。」
 用はもう済んだのだ、彼女は立って広間へ案内した。
 広い客間の日本室を、雛段は半分(なかば)ほども占領している。室の幅一ぽいの雛段の緋毛氈(ひもうせん)の上に、ところせく、雛人形と調度類が飾られてあった。
 「御覧あそばせ。まるで養子のように、誰も彼も、これは僕のだこれは私のだと、場所を占領して飾りますの、みんな一(そろ)いずつですもの。いま に、室いっぱいになってしまいますのでしょうよ。あんまり見ごとだって、それをまたいろいろの方が御見物にいらつしゃるのでー明日(あした)は大勢さんを お招き申しましたわ。こんやは、あなたのためにだけよ。」
 お雛さまの前に食卓がつくられてあって、みんな席へついた。
 「あたくしねえ、給仕(きゆうじ)は、年の若い、ちいさい綺麗な男の子がすきです。汚ない、不骨(ぷこつ)な大きな手が、お皿と一緒につきだされると、まずくなる。」
 ほんとに、その通りの少年が、おなじ緑の服を着て、白い帽子を頭において三、四人出て来た。
 キュラソウの高脚杯(グラス)を唇にあてて、彼女はにこやかに談笑する。
 「今晩は、お雛さまも御洋食ですの。わざと、洋食にいたしましたのよ、自慢の料理人でこざいます。軽井沢(かるいざわ)へゆきますのに連れてゆくために、特別に雇ってある人ですの。」
 その、御自慢の料理人が、腕を見せたお皿が運びだされた。
 「明日(あした)は泉鏡花さんも見えるでしょうよ、あの方の(いや)がりそうなものを、だまって食べさせてしまうの、とてもおかしゅうござんすわ。」
 泥鼈(すつぼん)ぎらいな鏡花氏に、泥鼈の料理を食べさせた話に、誰も彼も罪なく笑わせられた。
 あたしは、鏡花さんが水がきらいで私の住んでいた佃島(つくだじま)(うち)が、海瀟(つなみ)に襲われたとき、ほどたってからとても渡舟(わた し)はいけないからと、やっとあの長い相生橋(あいおいばし)を渡って来てくださったことを思出したり、(きら)いとなったら、どんな猛暑にも雷が鳴り 出すと蚊帳(かや)のなかでふとんをかぶっていられるので、ある時、奈良へ行った便次(ついで)に、唐招菩提寺(とうしようぽだいじ)の雷()けを もっていってあげたことを、思出したりしていた。泉さんは、(きら)いといえば、しんから(ヘへ)から厭いな(かた)だったのだ。
鏡花愛読者が鏡花会をつくって作者に声援していたころだった。欣々女史も鏡花会にはいって、仲間入りの記念(しるし)にと、帯地(おびじ)とおなじに()らせた裂地(きれじ)でネクタイを造られた贈りものがあったのを、幹事の一人が嬉しがって、
 「此品(これ)、欣々女史の帯とおなじ()れだそうです。」
とネクタイをひっぱって見せたのを、微笑(ほほえ)ましくこれも思出していた。
 すると彼女はこういっていた。
 「ええ、ええ、たいへんでしたわ。おいしいおいしいって(たべ)てしまってから、たねを(あか)すと、(うが)いをなさるやらなにやらーー己
介添(かいそえ)えに出ている、年増(としま)の気のきいた女中が、その時の様子を思い浮べさせるように、たまらなくおかしそうにふうッといって、(たもと)で口をおさえた。
 食後はもうひとつの広間へ移った。そこはばかに広かった。琴が、生田(いくた)流のも山田流のも、幾面も緋毛氈(ひもうせん)の上にならべてあった。三味線(しやみせん)も出ている。
 「こちらに、近衛家(このえけ)からか出た大層お古い、名箏(めいそう)があるようにうかがっておりましたがi」
と、はじめて浜子が声を出した。
 「ああ、あれ御承知?・すぐ出させましょう。」
 パチパチと手を打った。女中たちが顔を出した。浜子はちいさな声で、
 「その(こと)でなんか()いて見ましょうか、真っ黒になってて、鰹節(かつぶし)みたいな古い箏だけれど、それは結構な()を出すの。」
 虫の()い話で、浜子は他人(ひと)さまの名器でよき曲を、わたしの耳に残してくれようというのだ。
わたしも横道(おうどう)にも、
 「やってよ、箏爪(ことづめ)はなくたって()い。」
 「いえ、それはあるにはある。」
 浜子は、何処(どこ)からか、たしなみの箏爪の袋を出した。なるほど鰹節のように黒く幅のやや細い(そう)の琴が持ち出されると、(ひざ)に乗せて 愛撫(あいぶ)した。毛氈の上では華やかに、もうはじまりだした。お対手(あいて)弾手(ひきて)や三味線の方の(ひと)も現れて来て、琴の会のよう な(にぎわ)しいことになっている。
 (つづみ)の箱も運び出されて来た。鼓と(うたい)は堂に()っているといわれている彼女(ひと)だった。
 「おやおや、この分では、仕舞(しまい)まで拝見するのかもしれない。」
 浜子は、むずとして、軽く古い(こと)(いと)に指を触れながら、そんなしゃれを言った。



 その名箏(めいそう)も、あの大正十二年の大震災に灰燼(かいじん)になってしまった。そればかりではないあの黒い門もなにもかも、一切合切(いつさい がつさい)燃えてしまったのだ。軽井沢の別荘から沓掛(くつかけ)の別荘まで夏草を馬の足掻(あが)きにふみしかせ、山の初秋の風に吹かれて、彼女が颯爽 (さつそう)(むち)をふっていたとき、みな灰になってしまった。
 「(ちゆう)が、あなたならお目にかかるというから、私の部屋に寄ってよ。」
と、あの時、大囲炉裡(おおいろり)に、大茶釜(おおちやがま)をかけた前に待っていたむつむつしたような重い口の博士は諧謔(かいぎやく)家だったが、その人も震災後の十四年に(なく)なられた。
 時代ははっきりと変ってしまった。欣々女史の栄華がなくなってしまったからとて、彼女の才能は決してにせもの(、、、、)ではない。だが、激しい世相の転回があった。世界的な思潮の動揺にも押しゆさぶられていた。
 せわしさに、昨日(きのう)の人を思出していられないというふうな、世の中の目まぐるしさだった。
 ある日、浜子が来て、
 「そこまで、江木(えぎ)さんが来たのだけれど、急がしいといけないから、また来ますって。」
 「あら、帰ったの。」
 あたしは(おし)がった、それはいつぞや、帰りぎわに、淡路町の(やしき)で、静な室を二室抜いて、彼女の篆刻(てんこく)が飾ってあったのを見せ られた時、どれか上げたいといったのを、またの時にと急いで帰ったばっかりに彼女の篆刻は、あすごに並べてあっただけは、一個(ひとつ)も残らず焼失した ことの(おし)さを、なぐさめてあげたい思いで一ぱいだったからであった。
 欣々女史の書画-篆刻の(わざ)は、素人(しろうと)のいきをぬけて、斯道(しどう)の人にも認められていたのだ。
 丁度、私は牛込左内町(うしごめさないちよう)の坂の上にいて、『女人芸術(によにんげいじゆつ)』という雑誌のことをしている時だった。二階の裏窓か ら眺めると、谷であった低地(ひくち)を越して向うの高台(たかみ)の角の(やしき)に、彼女は()して来ていた。浜子もあまり遠くないところに 移って来ていた。
 「もう(じき)に、練馬(ねりま)の、豊島園(としまえん)の裏へつくった(うち)へ越すので『女人芸術』のと、あなたのとの(はん)をこしらえてあげたいって。」
 そういった浜子は、何処かさびしげだった。自分も、横浜のとても()住居(すまい)も若い時から造らせた好い(こと)も、なにもかも震災の難にあって、命だけたすかった、身に覚えのある痛手(いたで)なので、
 「江木さんもさびしいでしょうよ。」
と、たった一人の孤独なので、此処まで来るにも、手提(てさ)げをニッ、(かぎ)やら銀行の帳面やら入れてさげてこれは大切だといったと語った。あの女 (ひと)がーーと、聴くものも、いうものも、ただ顔を見合った。また、その次だった。もうその時分には、練馬の新築に越していたのだが、
 「江木さんところから今朝(けさ)、真新らしい萌黄(もえぎ)から(くさ)大風呂敷包(おおぶろしきつつみ)がとどいたから、何がこんなに重いのかと思ったらば、土のついた薩摩芋(おいも)で。」
と、浜子はおかしがりながら、何か気にかかるふうでもあった。
 それから間もなく、彼女は自殺したのだ。昭和五年の二月二十日、京都の宿で、紋服を着て紫ちりめんの定紋(じようもん)のついた風呂敷で顔を(おお)って、二階の(はり)に首を()っていた。
 彼女は、愛媛(えひめ)県令(せき)氏のおとしだねで、十六歳の女中の子に生れた。明治十年の出生であったが、もの心づいた時は、京橋区木挽町 (こびきちよう)現今(いま)の歌舞伎座の裏にあたるところの、小さな古道具屋が養家だった。(のち)に、 養母(やしないおや)は、江木家へ引きと られていたが、養家では、生みの男の子には錺職(かざりしよく)ぐらいしか(おぼ)えさせなかったが、勝気な栄子(えいこ)には諸芸を習わせた。
 新橋に半玉(おしやく)に出たが、美貌(びぽう)と才能は、じきに目について、九州の分限者(ぶげんしゃ)に根引きされその人に(しに)別れて下谷講 武所(したやこうぶしよ)からまた芸妓(げいしや)となって出たのが縁で、江木衷博士夫人となったのだ。関家が東京に住み、令嬢のませ子さんが第一女学校 に通学していた十五の時、江木衷氏の夫人はあなたの姉さんだといってると知らせてくれた友達があって、それが逢うきっかけとなった。けれど、もう父の関氏 はこの世の人ではなかった。
 今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相州片瀬(そうしゆうかたせ)の閑居に、ませ子さんの(へや)にわたしは坐った。
 ませ子さんも、清方(きよかた)画伯が「築地河岸(つきじがし)の女」として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった 時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と(まゆ)がことに美しく、髪が重げだった。この(ひと)が、大学出の子息が二人もあって、一人は出征 もしていられるときくと、(うそ)のような気のするほど、古代紫の半襟(はんえり)と、やや赤みの底にある唐繻子(とうじゆす)の帯と、おなじ紫系統の 紺ぽいお(めし)の羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
 「姉は(おし)い人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河原操(かわはらみさお)さんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
 死ぬのなら、もっと早く()なせたかった.、あの通りの華美(はで)な気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけていました。私がは じめて淡路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらいがしてあってー江木の権力(ちから)と自分の美貌からだと思っていた から。だから顔が汚なくなるということが一番(こわ)い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震災で財産を(なく)したのと(あに)に死な れたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰も(たず)ねて来なくなったのが(たま)らなかったらしいのです。よく私に、夫に死なれて(のち)誰 も来なくなったかと聞きました。お姉さまの周囲(まわり)の人と、私の方の人とは違うから、私の方は今まで通りですというと、変に考え込んでしまって―― 財産がすくなくなったっていつでも(ほか)のものなら結構立派に暮してゆけるだけはあったのですし、今思えば、京都の方へ旅行するから一緒に来てくれな いかといいました。そんなこと言ったことのない人でしたが、よっぽどさびしくなったのだと見えて、練馬(ねりま)(うち)には離れもニツあるから、一 緒に住まないかとも言いました。二男を子にくれないかともいいました。けれどあんな気象の人ですからどこまで本気なのかわからないので誰も本気で聞かな かったので、あとでは強い人があれだけいったのには、いうに言えないさびしさがあったとは思いましたけれどー
 そうそう、よく死ぬのは何が一番苦しくないだろう。縊死(くびくくり)が楽だというけれどというので、いやですわ、(はな)を出すのがあるといいます もの、水へはいるのが形骸(かたち)を残さないで一番()いと思うと言いますと、そうかしら、薬を()むのは苦しいそうだね。と溜息(ためい き)をついたりして、変だと思った事もあったのですが、大阪へいっても死ぬ日に、たった一人で住吉(すみよし)へお参詣(まいり)に行くといって、それを ()めたり、お(とも)がついていったりしたら大変機嫌がわるかったのですって、それから帰って死んだのですが、あとで聞くと、住吉は海が近いので すってねえ。」
 わたしは静にきいていた。故(ちゆう)博士がこの姉妹(はらから)ふたりを並べて、ませ子は部屋で見る女、栄子は舞台で見る女といったというが、わたしは、老年の衷氏の前にいる欣々女史は孫、もしくは娘のような態度で無邪気そうに甘えていたことを言って見た。
 ませ子さんは言う。
 「姉は利口でしたものね、気むずかしい(かた)に、実によく勤めていました。」
 衷氏が歿()くなった時のお通夜(つや)や、仏事の日などは、ありとある部屋に、幾組といってよいかわからぬほどのお客をして接待した欣々女史、その 新盆(にいぽん)には、おびただしい数の盆燈籠(ぽんどうろう)を諸方から手向(たむ)けられたのを家中の軒さきから廊下から室内(へやのなか)の天井へ ずっとかけつらねさせたという、豪華なことのすきな彼女が、練馬の新築の家では、夜になるとピンピン、キシキシと、木材のひわれる音に神経を悩まして、い やだというように弱くなってしまったとは、美貌の誇りと、栄華の夢のさめぎわの、どんなにさびしいものかという底に、それよりほかの根はなんにもないであ ろうか? あたしは(いいえ)といいたい。
 それは派手な気質もあったであろうが、あれだけの珍しい才能の人に(にぎ)やかしにばかり()れていった一面も見なければならない。あたしははじめてあったあの宵節句(よいぜつく)の晩の感想を、こんなふうに書きつけてある。
 ーまだ春寒い夜更(よふ)けの風に吹かれて門を出ながら、しみじみと、この華やかな人の心のかげに潜む、どうしても払うことの出来ない、人世の果敢(はかな)さというものについて考えさせられた。
 そしてまた(おも)って見た。真の幸福をつかむものには寂しさがあろうかと――。