渡辺源三「書画贋作物語」

渡辺源三「書画贋作物語」

 書画の贋作は今に始まつた事ではなく古くから盛んに行はれて居る事敢てこゝに断るまでもない、その起りといふのも妙だが最初の贋作といふものは、今日の 如き売買を目的とした贋作ではなく崇敬して居る先人の筆の運びを研究の為めその儘臨模した、これは今日でも行はれ殊に洋画方面に於ては模写といつて盛んに 行はれて居る、日本画に於ける所謂扮本研究が夫れである、斯うして美しく臨模されたものを、模写物として壁間に掲げて賞玩して居たのを、何時か狡猾なる商 人連によつて売買目的の為めに製作される事となつたものである事いふまでもない、その結果、最初有り合せの紙や絹に描いて只その構図の妙や著彩の美、運筆 の建を賞するに留つて居たものが、終にはその作者の時代に合つたやうな紙や絹を用ゐたり、又はその時代の絵の具を使用したりして所謂迫真の味を深めたのを 利に敏なる商人連が発見、好餌逸すべからずとして茲に贋作偽作が一つの商品と化せられるに至つたのでその起りはヤハリ支那辺にあるらしい、扨て一口に偽作 といつてもいろ/\ある、例へば画用紙中の俗にせいろつぴきと呼ぶのは二重層に漉かれてある紙で是を水に浸すと二枚に離れて了ふ夫れで此せいろつぴきに描 いたものを表具師などが奸手段で二枚に剥がし、剥がし取つたものを更に一つの作品として扱つたもの、即ち一枚の書画を二枚に剥がしたのでこれは偽作でも何 でもないが、併し作者としては全く関知しないものなのである。又光筆画的に真物を写真で原物と同寸法に撮影しこれを更に描き起したもの、又は巧妙な技術を 有つた作人が原物若くばその写真等を手本にしてこれを臨模したもの、或は又ある作者がその門下に命じて代作せしめたもの但しこれなどは偽作といつても全く 原作者御免の偽作である、以上の外画学生などが研究の為に応挙風、若くは雪舟風などに描いた無落欸物へ、新らしく応挙とか雪舟とかの落欸を入れたもの、又 は円山派なら円山派であつても余り名の知られて居ない作者の作ではあるが、非常に出来がよく、誰が見ても応挙と立派に通る作だといふやうな場合、その原作 者の落欸を抜いて之に値売りの出来る応挙の落欸を新らしく入れて市へ出すといふやうなのもあるので、仔細にこれを分類して行くと、その内容は極めて複雑を 極めて居るのである。
 支那あたりから来る古名家の法帖などは、大抵偽物だといつてもよい位真物の少いものだ、その多くは双鈎法といつて王羲之ならば王羲之の真蹟を俗にいふカ ゴ字に摸し、その中へ墨を填充したもので、この法は古くから支那に行はれて居る、而して斯ういふ方法によつて作つたものを版としてドシドシ摺り出して居る のである。
 元来此双鈎法は支那人が古人の書を学ぶ一つの方法と心得て居る結果、支那の書家で此双鈎法を巧にやらぬ者は一人もないといはれて居る、その為め万一これ を偽作に悪用されゝば具眼者と雖も又斯かれる事はいふまでもない話である、殊に其双鈎法による偽作を行ふのに、例於ば先人が或る長巻へ他日先輩に題跋のや うなものでも書かせるべく多くの余白を残して置いたその長巻を手に入れた者があり、その余白を利用して更にその筆者の書を双鈎法を以てこれに偽作し、長巻 と切り離して商品とするやうの事があつたとすれば、これも亦なかく観破する事は能きない、夫れは何故かといふにその紙の時代がその筆者の時代と合致して居 るからである。
 素より偽作でもしやうといふ者の用意は寔に周到で、前にも記した通り偽作すべき作者の時代に適した紙や絹及び顔料等を用ひ、尚一層綿密な者になるとその 作者が使用して居た印肉まで研究をするのであるから容易に鑑別は能きない、併し少しく注意をして見るとその墨がその絹紙に馴染んで居らず絹紙の上に浮き上 つて居るので略見当はつく、その時代に合つた絹紙を用ゐその時代の墨を用ゐて描いたのだからそんな筈はないと思ふのであるが、肝腎その墨をすり下す水が若 い為めに斯うした結果を来たすのであるといふ、けれども之れを識別するまでにその眼を肥やす事は一通りの練習では能きない。
 又新らしい絹や紙に時代をつけて偽作するのもある、伝世によつて変色したものは大抵鼠灰色又は青黄色に変じて居るが、仔細にこれを点検すると全紙面同一 の色ではなく、原料によつて若くは織りムラ等によつて一見鼠灰色と見られる色の内にもいろ/\の斑紋等があり、且つその色はよくその紙絹に透徹して居るの である。これに反し染料を用ゐてやつたものは大抵刷毛を以て全紙を塗るので、然うした自然の味を出す事は能きない、何処かにこれを見破り得る箇所が残され て居る事をも学んで今日尚盛んに斯うした偽作贋物を造る者の多いのは、畢竟する処其師に忠なものとして見なければなるまい、さりとは寒心な次第である。
 といつて了へばモウこれでこの物語もめでたし/\となつて了ふのだが実のところはマダ/\書き残した事が随分と多いので、更に興味の多い方面の事に筆を 進める、先年歿くなつた大山元帥に偽筆問題の起つた事があつた、これは元帥に能筆の芸がなかつたので代筆を命じた為めであるとその当時云はれて居たが、こ れに就いて思ひ起すのはなき土方久元伯が未だ宮内大臣として元気で居られた時の事である、明治大帝の御前に於て当時の顕官連が御陪食の栄に浴した事があつ た、その内には大隈重信侯も大山元帥も加へられて居た。
 土方伯は予てから此両氏が代筆をさせて居るといふ一事を不快に思つて居たので御陪食後スツクと起ち上り「今日のやうに一同顔を揃へて御陪食の栄に浴する といふ事は全く例の少い事だから、記念の為めに皆此席で署名して献上したらよからうと思ふ」と口を切つた処、大帝にもこれを少からず興がらせ給ひ「皆の書 風中知つて居るのもあるがまだ見た事のないのもあるから皆書いたらよからう」との御詞があつた、土方伯は直ぐと料紙硯を取り寄せ「大命でござるから一同此 席に於て謹書されたい」と暗に大隈、大山両氏の困惑振りを見やうと態と斯ういつた、果して両氏は酢の昆蒻のと却々応じない「家へ戻り謹書をして奉ります」 といつたが、土方伯なかく承知をせず「大命でござる」を真向上段に振り翳し「万一此席に於てお認めにならぬやうな方は大命に反く不忠の方と見なします、上 (かみ)は書の巧拙を御覧になるのではありませんから、お考へ違ひのないやうに」と殊更ら意地悪く出たので、万已むを得ず両氏も渋々認めて奉つたといふ事 を土方伯から直接聞いた事があつた。
 土方伯は常に書は自分の心で書くもので手の技ではない、随つて拙からうと歪んで居やうと精神さへ籠つて居れば好いのだと説いて居た人だから、拙いといつ て代筆をさせる等とは以ての外だといふ意見を持つて居たので、その不心得を矯めるべく機会を覗つて居たのであつた、而して図らずも此御陪食に顔を揃へたの を見て好機逸すべからずとなし、殊更ら此問題を持出し両氏に一寸の動きもとらさず無理遣りに執筆せしめたのであつたといふ、「腹を切れ」と大命が下つて居 るのに「宅へ戻りましてから謹んで釖腹いたします」と御答へ申上げて夫れで済むと思つたら大間違ひだよ、書を書けと仰せになるのも腹を切れと仰せになるの も受ける臣下の身にとつては同じ大命だからナと、伯はその時斯うつけ加へた、而して「二人の困る様子がをかしくてナ」と呵々大笑した、思へば秦山伯もなか /\の茶目公だが、併し伯の目的を考へると双手を挙げて共鳴される。
 代筆問題については支那の名家董其昌にこんな話がある、董其昌は曩の大山元帥とは違ひ、自身に筆墨の芸能がなかつたといふのではなく、晋唐以降の支那歴 代に於ても蘇東坡や趙松雪などと倶に其能書を天下に知られた人であるだけに、その代筆問題は甚だ興味深く感じさせられるのである。
 董其昌の門下に呉楚侯(ごそこう)とよぶ者がある、名を翹といひ、能書によつて中翰に挙げられた程の名士であつた、其書生時代には董其昌の許に起臥し て居た、天性筆墨に妙を得て居たところから、其昌も少からず之れを愛したばかりか其昌が其心血を注いで研究した書法の総てをこれに授けて少しも惜まなかつ た、而して来訪の客に対しても一々此楚侯を紹介し、私の衣鉢を伝へ得る者だといつたといふ事であるから、大凡その芸能の奈何を窺ふ事が能きる。
 董其昌も老境に入つてからである、日夜相踵いで来る依頼者との応酬も懈く且つ執筆も面倒臭く感じて来てからといふものは滅多に自ら筆を採らなかつたそれ にも拘はらず市場には其昌の新作がドシ/\と現はれ、又一方直接の依頼者へも新作の書が次ぎくに渡されて行つた、これは寔に不思議な事であるが其昌の家か らいへば少しも夫れが不思議ではなかつた。
 其昌は楚侯に命じて代筆をさせ印章だけを自から捺して人に与へて居たのであつた、けれども世人は誰一人としてこれを楚侯の代筆だなどとは甞て思つて見た ものもなかつた、夫れ程楚侯の筆は其昌の夫れに酷似して居たのである、こんな風で其昌の書斎よりも楚侯の書斎には多くの絹楮が積上げられて居たといふ。斯 うして其昌は晩年顕貴の御用以外は概ね楚侯に代筆せしめて居たのであつた、其昌の生活は老いて益々盛んの方で、暇さへあれば多くの内寵の房室を訪れ美姫の 膝に凭れながら痛飲して居た、而して興が湧いて来ると美姫の需めに任せて小絹に筆を執つては与へた、此事が何時か世上に漏れてからは其昌の真筆を求めよう とする者は競つて皆美姫の許に多くの贈物をしてこれを得たといふ話である。
 万巻の書を読まず万里の道を往かずして画祖たらんと欲するも夫れ得べけんやと、其識見の高きを誇った当年の玄宰董其昌(げんさいとうきしやう)も老来 内寵に耽溺しては芸能家の最も忌むべき作品の代筆を甘んじて門下に命ずるのみか、自ら印章をとつてこれを検しつゝベタ/\押捺したといふに至つては、寔に 沙汰の限りといはなければならない。されば斯うした関係から我国などへ古く舶載されて居る董其昌の書画にも、真に其昌が毫を揮つたものゝ如きは実に少く、 其多くは楚侯の代作になつた物が多いのかも知れないが、中には又その楚侯の書を偽作した物が大分に加へられて居るかも知れない。
 斯うなつて来ると彼の王を買はんとして羊を得れば望むところを失はずとの諺通り、董を得んとして呉を得れば望むところを失はずといふ事になる、此其昌の代筆とは稍その根本に於て異るが茲に松村景文にも一寸似た話がある。
 松村景文の兄弟子に呉嶺(ごれい)とよぶ者があつた、運筆設色ともに景文よりはその技遥かに秀れてゐたのであつたが、惜しい事には一向世上に用ゐられ ず、家には米塩の貯へは素より着るべき衣類さへ碌にはなかつた、然うした状態であるのに家には妻子の外に年老いた父母さへあるといふ大家族であつた。
 一日景文の許へ箱書を依頼に来た者があつた、書斎に在つた景文はその作品を取寄せて見るとどうも自分の描いた作ではなかつた、景文の眉宇の間には一種の 憂色が漲つた、依頼者には預り置くと称して帰宅せしめると入れ違ひに使を呉嶺の許へ走らせた、何の用事かと呉嶺は早速やつて来た「わざ/\御呼び申して済 みませんでしたが実は貴方に見て頂きたいものがございましたので」と云ひながら、景文は曩の幅を取り出して壁間へ掛けた、呉嶺は一心にこれを見戊つて居た が幅の図が現はれて来ると同時に真蒼な顔をしてうつ向いて了つた、而して畳に両手を仕へ「面目次第もこざいません」といつた。
 景文は気の毒さうな顔をしていつた「貴方程、立派な伎倆をお有ちになりながら何故私如きものゝ偽作をなさるのですか、私としては貴方程のお方に代筆されるのは寧ろ名誉にも思ひますが、夫れでは肝腎貴方のお名前の出る時がありません」とその偽作の理由を尋ねた。
 呉嶺は自分の名では買人のないこと、家族が多くて生活に窮した事などを細々と語り、悪いとは知つて背に肚は代へられず万策尽きた儘やりましたと涙ながら に物語つた、景文は呉嶺の憎い仕業を心の裡で怒りながら、呼び寄せたのであつたが、今筆者が何の隠す処もなくその悲しい実情を物語つたので胸に燃凄さかつ て居た怒りの焔も打ち消されて了つたと同時に、今度は反対に同情の念がムラ/\と胸にこみ上つて来た、而してこんな悲しい物語を聞くのであつたなら何もわ ざ/\呼び寄せるのではなかつた、仮りにも自分の兄弟子、夫れにこんな恥辱を与へるのではなかつた、アア済まなかつたと思ふと景文の眼にも露の玉が光つ た。
 景文が然うした思ひに打ち沈んで居るのを呉嶺は適切り怒りの為めに黙つて居るものと考へ、更に諄々と陳謝するのであつた。
 軈て景文は斯ういつた「お話はよく分りました。お話が分かると同時に貴方を此処へ呼び付けた事を私は悔いて居るのです、私よりも遥かに秀れた伎倆を持つ て居られる貴方が、時勢とはいへ私如き者の名を借りねば其作品を金に代へる事が能きぬとは世は全く逆様です、私の名が貴方の仰有るやうに幸ひにも貴方の御 家族の方々をお救ひする役に立つと仰有るのならばどうか御遠慮なくお使ひ下さい。そしてモツトお描き下さい、ドシ/\景文の名を使つてお売り下さいこれが 私よりも伎倆の落ちた方であつて私の今日の地位を傷つけんが為めにされたり、又は自分一人の酒食の費を作らんが為めにやつたりされるのであれば私は断じて 許さないのですが、貴方の事情は全く斯ういふものとは違ひますので、私としては決して悪い気持ちはいたしません」と、親切に語りながら傍の印箱を引寄せ 「折角やられても此幅に押してあるやうな印では余りにお粗末で不可ません、丁度私が常に用ゐて居る印がコ丶に在りますので夫れを進上いたしますからこれか らはこの印をお使ひ下さい」といつて、二三顆の印章を取り出して与へた。
 事の意外に呉嶺は驚いて直ぐには詞も出なかつた、而して贈られた印を押し戻しながら「貴方の御同情は余りに過分です、自分の絵が自分の名で売れないのは 自分の伎倆が足りないからです、夫れを食へぬからといつて他人様のお名前をお借りするといふのは間違つて居る話です、夫れにも拘はらず今日までお詫びにも 参らず過ごしましたのは全く人間としての心を捨てた悪魔の仕方です夫れに斯うした御同情に預ります事は冥加に尽きて末が怖ろしうございます」と、心から其 罪を陳謝し且つその同情に対しては涙ながらに感謝したが、景文は兎も角もと彼の印に幾干かの金まで添へて呉嶺に与へた。
 其後呉嶺は此印章を用ゐて更に景文の偽物贋作を作つたかどうかは知らないが、景文の作に対しては景文の生前既に斯ういふ事件さへあつたのである。
 以上の外伝へる話は残つて居ないが応挙にも、呉春にも、芦雪にも、探幽にも、常信にも、抱一にも、文晁にも、崋山にも、竹田にも、直入にも山陽にもその他相当市場で喧しくいはれる画家や書家の作には多くの偽作がある。
 近くは鉄斎、拝山、栖鳳など随分多くの偽作が世間を横行して居る、殊に吉嗣拝山などは偽作七分に真物三分とさへいはれその為め価額も偽作相場として安い のは寔に気の毒な話だ、又東郷元帥の書にも少からず偽作がある而して偽物の方が文字も巧くこれも偽物本位の相場になつて居るからおかしい、山陽の偽物につ いてこんな話がある。
  夫れは明治二十年頃であつたが、中国辺のある書画屋が山陽の真蹟を豊富に蒐蔵して居るといふので山陽好きの連中は次ぎから次ぎと買出しに行つたもの だ、ところが夫れが悉く偽物で見るに堪へぬ物が少くないのでツイに山陽の偽せ物師などと呼ばれるやうになつたが、併し其家の主人は一向平気なもので、依然 として山陽を売つて居た、ある時一人の男が談判に出掛けた「こんな酷い書を山陽などとは実に怪しからん」といふと主人は「何が怪しからんのです、私は頼山 陽外史の筆だとは只の一度も申したことはありません、山陽といふのは私の号です、此辺にある書は皆私が書いて売って居るのです、夫れにも拘はらず山陽とい へば頼氏のみだと早合点され、一つ掘出して大儲けをしてやらうなどといふ慾張つた考へで此店へ来られるから、此真蹟偽りのない私の山陽書を何の彼のといは れるのです、私も永年此商ひをして居りますが未だ曾て此山陽を頼襄の作だといつて売つた事は只の一度もありません、書いた本人が売る山陽に偽物も贋作もあ りやうがありますか」と一本逆さにキメ付けたので、客は這々の態で逃げ出したといふ話である。
 これは或は慾張り連を戒める為めに何人かが作つた話かは知らぬが、併し頗る面白い味のある皮肉な話である、慾の深い連中は大に此話を玩味するのも一種の良薬かも知れない。最近の話にこんなのがある。
  大阪のある入札に安田靱彦の描いたものが出品されて居た、それを、ある書画屋が落札したところ箱書がないので註文主から箱書の依頼を受けた、丁度東京 へ商用で出向く用事があつたので途中靱彦の処へ立寄つて見せたところ「よろしい書いた上で大阪へお送りいたしませう」との事に彼の依頼者は東京の用を済ま して下阪した、半月程経つとその箱は約の如く届けられた、これで事が済むと此話もものにならずに終つて了ふのだが其後三月程経つと靱彦から妙な書面が来 た。
  夫れには先般箱を書いて渡した幅は一度見直したいから送つて呉れうといふのである。妙だナと思ひながら上京の序でに靱彦の許へ立寄ると、実はその後ア レと同じ絵を持つて来た人がある、私は一枚しか描いた覚えがないのに絵が二枚あるといふのは甚だおかしいので較べて見たいと思つて手紙を上げたのですとの 話。
  書画屋は曩の幅を見せたところ靱彦はジツとこれに見入つて居たが軈て斯ういつた「寔に申わけがありませんが此幅は贋物です」書画屋はびつくりした、何 故それなら箱書をしたかと詰問したが靱彦は「貴方も商売人の方ですからそのお埋め合せはキツト致します、代償に一枚描いて差上げます」といひ出したのでそ の書画屋も強くはいへず下阪して来た、やがて作品は届けられた。
 といふのである、自分の描いたものと他人の偽作との見さかひがつかぬなどとは甚だ困つた事だが、つまる処夫れだけ迫真の作であつたのだ、夫れにしても自 分の偽物を見誤つた陳謝に、書き下した作品を贈るなどといふことは全くその作家にとつては飛んだ災難といはなければならない。これなどは偽物の挿話として は近頃面白い話の一つである、夫れは兎に角斯うなつて来ると古いものは危ないが、新作物は慥だと初めから安心してかゝる訳にも行かなくなる。
 さる横浜在留の外人で我国の古美術品を愛玩して居る一人が顕微鏡を持たないと日本の書画を買ふ事は能きないと語つたさうであるが、強ち侮辱した詞だと一 図に排斥して了ふ事も此調子だと出来難い事になる、夫れが書画だけでなく、彫刻その他の器物にまで皆此偽物が作られ大手を振つて市場を横行して居るのだか ら無理もない、書画の偽作に就いての話は先づこの位にして打切り次きに書画以外の偽作について面白い処を少し紹介する。
 彫刻といつても木竹金属といろいろあるが先づ木彫品から初める、木彫刻で値売りの出来る品といへば少くとも藤原鎌倉時代から足利の初期時代になる、慾を いへば推古、天平となるのである事敢て断るまでもない、ソコで同じ偽物を作るなら儲けの多い方をといふやうな事で推古、天平の物を作るとする、大抵は仏像 であるがいつれもその時代々々の手法に特徴があるので夫れを模したら事はすむといふ勘定だが一番困るのはその材料である、夫れで斯うした贋作や偽物でも作 らうといふものは絶ぬず奈良辺の古い寺の潰れたものや、又は修理等に不用となつた古材を仕入れて置き、その材料が天平であればこの材を以て天平物を刻む、 又その材が鎌倉時代であれば同時代の物を刻むのである、併し然う/\この時代に合つた材料のありさうな事がない場合にはどうするかといふと新らしい材料に 時代をつけるのである。
 書画に用ゐる絹紙であれば顔料を塗り又は煤ぼらせるなどといろいろあるがこれは木材料の事とてその儘の事では一廉の人々の眼の玉は抜く訳には行かない夫 れで古材同様古い寺の埃を蒐集して置き例へば夫れが藤原期に建てられた寺の天井にでも溜つて居た埃であればこれは藤原期、足利期ならば足利期といふ風に貼 紙をして甕か何かへ貯蔵して置く、而して先づ刻んだ物体を蒸籠に入れて蒸し上げるなりその埃の内へ放り込んで置く、斯うすると一度熱によつてその木目 (きめ)の分子を()らけた木材は冷却すると同時にその埃を十分に吸収する。
 斯ういふ方法を幾度か繰り返しくしてその地肌から一遍に天平なり藤原なりに()け込ませるのであつて、夫れは丁度白髪の老人が白髪染めを行ひ顔の皺を押ばし若くは生理的に若返り法を行ふのと反対な方法によつて老込ませるのである。
 けれどもこれだけではマダ/゛\十分とはいへないので、更にその材料によつて自然の裂け割れ等が夫れ夫れの特徴を現はして生じるので、夫れをも巧みに作 るのである。無論科学の力を以て十分に乾燥させる事などはいふまでもない話である。斯うして作る偽物は相当加工に多くの日子を費し、又工程も要されるだけ 出来上つたものは殆ど実物と見分けのつかぬ程立派な物となる、随つてその作の多くは実物として市場を横行するのであるが此外にも立派な方法がある、夫れは 俗に張付(はりつけ)などと称し例へば藤原時代の仏像の顔面の五六分通り残つたものがあるとする、するとそれを他の新らしい木へ張り付けて他をその時代 に合った手法によつて彫刻し彩色して全然その時代の作として了ふのである、この方法は兎に角その時代の実物がその彫像全体の内の最も肝腎な顔面に一部分で あつても実際に残されてゐる関係上、これを真物として通す場合には一番有利な処があるので、これには一廉の具眼者と雖も引つかけられて了ふ。
  大分前の話であつたが一流のある骨董家が大阪の八幡筋で天平仏の首を見付け、よくもこれだけの立派なものがこんな処にころがつて居るものだと思ひ、買出しに行かうとして居る処へ昵懇な彫刻家が遊びにやつて来たので、骨董家は此話をして聞かせた。
  ところが其仏の首は既にその彫刻家が見て知つて居たので「イヤあれならば私も知つて居ますがあれは大きなまやかし(、、、、、)です、あれを真物と 御鑑定になるやうでは不可ませんネ」と答へたので骨董家は少からず驚いたが、併しどうしても自分の眼を疑ふ訳には行かず「そりや君の方が見誤つて居るの だ」となかなか負けて居ない、暫く斯うした押問答に時間を費したが「ぢや論より証拠をお目にかけますから御一緒に見に参りませう」と揃つて出掛けて行つた 「何処が不可ませんか」と骨董家はまだ自説を主張して居た。
  彫刻家はその首の耳の際から顔へかけて指さし「これが継ぎ目です第一此耳は後作ですよ、真物は此顔のホソの一部分でそれも極く薄く丁度仮面のやうに残 されたものを新らしい木へ着せ付けてあるのです、よくこゝを御覧なさい」といつたが、容易にウン然うかとはいはないので、更にその耳の後ろから下へかけて 見事に作られた天平割れの割れ目へ指頭を挿入し「一寸此処へ指を入れて御覧なさい、此天平割れも真物の割れではなく作りものなんですヨ」といつた。
  骨董家はいはれる儘にその裂ケ目へ指頭をさし入れて、木材の乾燥程度を調べようとしたが指を入れるなり「オヤッ」と妙な顔をした、而して更に入念に彫 刻家の言のまにまにその総てを見直したが果ては唸るやうに「ナンと巧くやつたものではないか、私程の者でさへこれには一本参つて了つた、ウーム」と初めて その作の真物でない事を知つて少からず驚嘆した。
 此骨董家といふのは骨董王と呼ぼれた先代の山中■篁翁で、又彫刻家といふのは大阪難波橋の橋頭に飾られた石のライオンの原型を作つた天岡均一であつた、而してこれが即ち張り付けの偽作であつたのだ。
 此外古い手、古い胴体、古い足等を骨子として他を補作してそれを全部古い作としたものなども随分と多い、斯ういふものは全然偽作でなくその一部分に真物 が使用されて居るのであるから補作品として堂々と売つても売れるのであり、又相当の利潤を見る事も能きるのであるから其方が却つてその作家の技術も認めら れて佳いのであるのに、然うはせず大利を得ようとする結果、折角の作品が贋物とされ、又自身も偽物造りとされて了ふのである。
 又此彫刻にも書画同様銘の入れ代へや又は無銘物へ名家の名を入れて売るのもある、此外石刻物、乾漆彫像、金属物とそれ/゛\に従つて皆斯うした偽作をや る、先年も金属製の六朝仏を幾体も偽作しその原物の所有者を驚嘆せしめた彫刻家があつた、又酷い輩になると原物へ直接膏土をあてゝその形をとり、これを原 型として偽作の用に充てるのもある、石像物になると古拙な手法で彫つたものを小便壷へ抛り込んだり、或は又溝へ埋めたりして時代のサビをつけるが、これな どは先づ相当具眼の人々ならば大抵は鑑別が能きるさうである。以上の外漆器物の偽作もなかくに多く又陶磁器物にも少くない。
 京都のある陶匠などは今日でこそ自分の名に於てその作品を市場へ出して居るが、これまでには可なり多くの偽物を専門にやつて居た、無論夫れは日本陶器の まがひではなく支那古窯の贋作であつて、此作者の偽作品で今日名家の倉庫に支那の名作として納められて居るものも亦少くない。
 前にいつた漆器物で断紋(だんもん)といつて漆面にヒビの入つたものがある、即ち黒無地断紋の平卓(ひらしよく)などと呼ぼれ相当の高価に売買される、これはその製作の時代が古い為めに自つと漆にヒビが入り断紋が現はれるのであるといはれてゐる。
 時代の古い為めに斯うした現象を呈する事はいふまでもないが、併しナゼ古くなつたらそのヒビ破れが生じるかといふと、それは膝の製法が今日と違ひ精練法 が完全でない為めいろくの不純物が含有されて居るので、その為めに斯うした結果を来たすので、夫れは丁度支那の周や夏の時代の銅器は、製錬の方法が今日の 如く進歩した科学の力によつて些の不純物の含有混合を許さぬまでに発達して居なかつた関係上、時代を経るに従ひそのサビに今日の電気分銅などでは断じて見 る事の能きぬやうな幾多の美しいサビの斑紋を見る事が能き、その為めにその価を貴く珍重されて居るのと同じである、ソコで今日銅器の偽作には幾多の薬品を 用ゐて周銅に見るが如き色付けを行ひ、或は又サビの斑紋を施したりして一見周銅と変らぬやうなものを作るが、併し付け焼き刃は何処までも付焼刃で、そのサ ビの部分とサビのない部分との銅質を仔細に点検すればそれが自然のサビか付け色かといふ事は明かに鑑別される。
 断紋の摸作も盛んに行はれて居るが之れも此銅器の付けサビやつけ色同様奈何に巧にやつてあつても容易に之を見分ける事が能きる。即ち器局、平卓、高卓、 手函等の何品によらず注意深くこれを看ると、その断紋の斑文は人工だけに何処となく天意の妙がなく、且つその隅々或は角々等を見ると摸作の断紋は他の平面 部の亀裂の甚だしいのに似ず少しも然うした形跡もなく極めて滑らかに見られるのである。
 又今日では殊更粗悪な漆を用ゐて此断紋を生ぜしめる方法もあるがその方策のいつれにせよ偽物は依然偽物として具眼者の眼をかすめる事は能きない。
 又近頃は浮世絵の版画等にも幾多の偽物が現はれて居る、これは木版の技術が進歩した結果、いかなる精密のものでも摸作し得られる結果であるが併しこれを看破る事はまたいと易い事である。
 夫れはその木版画の摺つてある紙が承知をしないのである、即ち色彩の色合や調子等がどれ程巧妙に歌麿は歌麿、春信は春信の作に出来てあつても、陽に向つ て此紙の表面を透かし、その表面に毛羽立(けばだ)つて居る処のその毛羽立ちを摘んで見ると実物であればその毛羽は力なく容易にとれるに反し、新作偽物は 毛羽の腰が強く指に力を感じるのである。又着色したり態と煤気さしたりしたものも多い、浮世絵の版画の盛んに売れ出した明治三十年前後には、偽作の版画を 田舎の茶店等へ持ち込み、ソコの壁や襖等に貼らせ十分に煤ぼらせた上、これを探す商人に真物の春信、歌麿と誤認させ、勝手に一枚一円とか七十銭とかに買取 らせ、その利益を茶店の婆さんと山分けにしたものも少くはなかつた、然うして引き剥がされた後へ又新らしい偽作版画を貼り付けて置き、更に慾張つた掘出し あさりの商人を引つかけたので、この方法は可なり盛んに行はれた斯ういふ方法を其道の者の間には埋め物などと呼んで居る、思へば埋め物とは面白い呼称であ る。
 斯ういふ方法を各種のものに就いて一々紹介して居るとなかく際限がないので贋物としては幾多の物の中でヤハリ書画が一番その数に於て多いといふ事を繰り返し、最後に茶器類に必要とされて居る書付けのある古箱について記す事とする。
 茶器類には箱といふものが喧しく騒がれてゐる事は今更いふまでもないが併し局外者の為めその箱のどういふものであるかといふ事から順序立つて記して置か う。茲に例へば楽長次郎の作つた茶怨があるとする、破損を防ぐ為めにその作家は木箱を作つてこれを納めて置く、無論その箱には作家が自作である旨を記して 置くが、これを茶の用具として使用する上には茶道家の権威者に何か銘をつけて貰つたり、又は長次郎作に相違なき旨の証明を箱に書かせて用ゐる風がある、而 してその箱書付けを行つて居る者が斯界の名家であればある程その茶盤は値高く売買される、随つてその中味の茶怨が偽物と入れ換へてあつても此箱によつて夫 れが真物となり、値高く扱はれるので斯うした書付けのある古箱が相当の価に売買されて居るのである、これに就いては面白い話がある。