永井荷風「春情鳩の街」
春情鳩の街 三場 永井荷風
人物
向島鳩の街喫茶店の女 種子 年二十四五歳
同じく 榮子 年二十二三歳
同じく 民江 年二十五六歳
喫茶店藤村の主人 年四十五六歳
喫茶店藤村の女房 年三十五六歳
民江の母 年六十歳
花費の爺 年六十歳
種子の客武田(遊び人)年三十四五歳
種子の客 A(會杜員)
榮子の客寺田(時計職工)年二十四五歳
民江の客 B(闇屋)年四十歳
肴屋 年三十歳
街頭音樂師 三人
客 三四人
通行人 三人
其他
第一場
向島鳩の街喫茶店。
平舞臺、向正面、洋酒サイダの罎を並べた棚。花瓶に花。飮物を出す小窓あり。壁には桃色に塗り裸體畫をかく。
幕あくと喫茶店女房、 (年の頃三十五六。もとは玉の井にでもゐたらしい様子)洋装男ヅボン。手拭をかぶり、硝子戸出入口の外に焜爐を持出し煉炭に火をおこさうとして
年六十ばかりの花賣の爺、切花を載せた小車を曳き下手より出て、
花屋 お早うござい。花はいかゞです。
女房 もう櫻が咲いたね。
花屋 牡丹櫻。一枝いかゞです。
女房 さうねえ。(ト店の中を見返り)店の花はまだ取替へなくツてもよささうだよ。
花屋 姉さん方の御部屋はどうでせう。
女房
花屋 ぢやア
ト上手に入る。此の家の主人、年四十五六。大島紬の一枚小袖。紺足袋。
主人 おいおい烟いな。そこで焚付しちやア。蚊えぶしにやまだ早いよ。
女房 窓を明けて下さいよ。風で吹込むんだよ。こんどの煉炭は
主人 まだ事務所から誰も呼びに來ないか。
女房 誰も來ませんよ。また何か會議でもあるのかね。
主人 滿洲から澤木の
女房 行つてお
ト主人出入口より去る。榮子(年二十二三)シユミーズ一枚。
種子
種子の客(A)會杜員らしき風俗。梯子段を降り、
客A いゝ半靴があるぢやアないか。間違へたふりではいて行くぜ。
種子 これは民江さんのお客さまンだよ。
客A さうか。(卜靴をはき)電車通へ出るのはどつちへ行くんだ。
種子 右の方へ曲つてそれから眞直に行くと廣い通に出るわ。そこから少し行くとすぐに向島の都電の終點だわ。バスの停留場もあるわ。
客A さうか。グツトバイ。
種子 またきてね。待つてゐるわよ。
ト窓から顏を出し接吻を送る。榮子タオルで手をふきながら默つて梯子段を上ると、すぐに民江(年二十五六)と其客(B)ジヤンバア鳥打帽。闇屋らしき風體。話しながら二階より降りて來る。
民江 ねえ。あなた。まだ話があるのよ。
客B あしたア土曜日だなア。
民江 お願があるのよ。實はけふ。
客B あしたの晩。半分で泊らせるつていふんだね。
民江 えゝ。
客B その代りこの次はお前が半分立替るんだな。そんなら借さう。
ト折革包から百圓札五六枚民江に渡す。
民江 すみません。ぢやア
ト客を送り出して二階へ上る。種子壁の鏡に向ひ化粧を直してゐる。民江の母(年六十ばかり)
風呂敷に包んだ布團を背負ひ、片手に山の芋の束をさげ上手より出て、
母 お早うございます。
女房 おいでなさい。民ちやん。降りておいで。
民江 だアれ。
女房
民江 はアい。(ト降りて來て)
母 電車の中で
民江 さう。すまなかつたわね。
母 それから長襦袢の方はね。お尻のところがすつかり弱つてるからね。裏地につぎでも當てなくつちや持たないかも知れないよ。
民江 さう。つい
母 お前、寢てからどうするんだねえ。よつぽど
民江 ほゝほゝ。
母 もう別に用はないかい。このお芋。少しばがりだけど、おかみさんに上げておくれ。
女房 まアいつも/\お氣の毒だね。今お茶を入れるからゆつくりしておいでなさい。
ト焜爐を下げて障子口へ入る。
民江 ぢや
母 さうかい。照子も來月から學校へ行くからね。
民江 あゝ承知してるわよ。二三日中に都合するから。長襦袢成りたけ早くお願ひします。
母 それぢやおかみさん。おやかましう御在ました。旦那にもよろしく。
女房 アラもうお歸り。まだお茶も上げないのに。
母 またお邪魔に上ります。(ト下手に入る)
種子 いゝ
民江 子供と年寄があつちやいくら稼いでも追付かないよ。そこへ行くと種子さんも榮子さんもほんとに羨しいわ。好い人さへできれば、やめたい時やめられるんだからね。
種子 民江さん、あなた。どう思つて。私の武田さん。眞實私のことを心配してくれるのかしら。
民江 大阪から歸つて來ると直ぐ
種子 私にはさう言つて行つたんだけれど、あれつきり手紙も何も來ないのよ。二度も三度も私の方から手紙を出したんだけど、うむともスンとも返事がないのよ。私だまされたんぢやないかと思ふのよ。
民江 まさか。そんな事はないと思ふわ。あなた。武田さんには何のかのと隨分お金の立替もしたんでせう。
種子
民江 あなたの方で、それほど
種子 民江さん。もしか此れつきり逢へなかつたら、私もう
(ト民江の方に寄掛つて泣沈む)
民江 種ちやん。大丈夫だよ。あんまりやきもきしないで、待つてる方がいゝよ。
ト種子を言慰めてゐる。主人歸つて來る。
民江 お歸んなさい。
主人 みんな病院へ出かけるやうだぜ。お前逹も今の
民江 はい。
ト主人上手障子口に入る。
種子 今日は診療日だつたのね。忘れてゐた。
ト種子民江手を取合つて同じく障子口に入る。
梯子段より榮子と其客寺田。(年廿四五。時計職工。色白おとなしやかな顔立。新しき作業服)
梯子段より出て榮子半靴をそろへる。
寺田 歸りたくないな。夕方まで遊んで行かうよ。
榮子 今日はおかへんなさいよ。そんな事言はないでさ。今日は診察日なんだから。これから病院へ行くんだからさ。
寺田 榮子さん。(ト椅子へ掛け)あの話、僕の安心するやうな、ちやんとした返事聞してくれゝばすぐ歸るよ。
榮子 あら、もう知らないわ。わたし。
寺田 また怒るのか。榮ちやん。僕の氣持。どうして分らないんだらう。
ト榮子を膝の上に抱寄せる。
榮子 分つてるわよ。分つてるからさう言ふんぢやないの。無駄なお金つかはずに今日はお歸んなさいつて、さう言ふんぢやないの。私のことを思つてくれるのなら毎日遊んでゐないで勉強してよ。
寺田 ちやんと約束してくれゝば、僕の氣のすむやうにちやんと約束してくれゝば、僕は勉強するよ。工場だつて一日も休みやしないよ。榮ちやんが來ちやいけないつて言へば
榮子 そんな人なんかないわよ。そんな人があつたらこんな商賣なんかしてゐられやしないわ。
寺田 それなら約束してくれるね。僕のお願きつときいてくれるね。
榮子 えゝ。ですからさ。もう暫く待つていらつしやいつて、私の方からお願してゐるんぢやないの。
寺田 榮ちやんの暫くつて言ふのは一體いつの事なんだよ。約束した其時分になると、もう暫くもう暫くでのび/\になるんぢやないか。ほんとうなら、去年の暮にこの商賣をやめて、僕と一緒に今頃は樂しい家庭をつくつてゐる筈ぢやないか。それが正月になり二月になり、もう櫻の花もさいてしまつたぢやないか。
榮子 だから、私申譯がないつて、逢ふたんびに
ト障子口の方へ行きかける。民江と種子の二人各好みの洋裝にて出で、
種子
民江 この煙草。貰つたのよ。一本上げませう。
トハンドバッグから舶來煙草を出してやる。
寺田 ありがたう。
トライターを出して火をつけ民江の煙草にもつけてやる。
種子 榮ちやん。一足先へ行くわよ。あんたの番取れたら取つて置くわ。
榮子 お願します。
ト民江種子正面出入口より外へ行く。榮子好みの洋服にて障子口より出てコンパクトにて顏を直しながら寺田に目くばせして默つて出て行く。
寺田その後について同じく出て行く。女房障子口より出て椅子を片寄せ掃除にかゝる。花賣の爺手車を曳き上手より出て、
花屋 先程はおやかましう。
女房 今日は檢査日でみんな出掛けてしまつたよ。
花屋
女房 おぢさんいくら。
花屋 いくらでもお
ト店に入り古い花と入れかへる。
女房 さうかい。ぢや五拾圓に負けといてよ。
おぢさんとも古いお
花屋 燒かれた晩の事を思ひ出すと、夢のやうだね。あの時にやお互に、かうして話ができやうとは思はなかつたよ。
女房 全くだよ。玉の井は今でも原つぱになつたまゝかね。
花屋 ちらほら
女房 さうかね。ぢやこの商賣もどうやら此處で落付くんだね。
花屋 淺草から都電で
女房 何のかのと言ふ
旦那 おぢさん。相變らず逹者だな。
ト障子口より出る。
花屋 旦那も逹者で何よりだよ。
旦那 かう云ふ世の中になつちや、雨の漏らねえ處に寢て、白いお米がたべられりや、何よりの
花屋 全くだ。一本頂戴します。
ト
寺田 忘物をした。鏡臺の
女房 さう。取つてくるから、お掛けなさい。
ト女房二階へ上る。旦那は上手に花屋は下手に入る。寺田立つたまゝテーブルの上の新聞を取上げてよむ。女房
女房 寺田さんこれ?
寺田 さうです。すみません。(ト紙包を受取り) おかみさん。榮子の歸つて來るまで待つてゐてもいいですか。
女房 えゝ。お掛けなさい。だけど病院から髮結さんにまはつたら、 一時間やそこらちや歸れないかも知れませんよ。
寺田 いゝですよ。待ちきれなかつたら歸るから。(ト椅子に腰をおろし)おかみさん。用がなれけば僕のはなし聞いてくれない? 僕いろ/\話したいことがあるんだよ。
女房 何です。
寺田 榮子の事さ。榮子は眞實ほんとに、僕と
女房 さアねえ。私にやよく分らないけど、榮子がさう言つたのなら、さうでせうよ。だけど寺田さん。
寺田 それは承知してゐるよ。然し僕どうしても諦められないんだよ。
女房 私の口からは何ども言へませんよ。寺田さん。私なんかよりあなたの方が知つてるでせう。あの子はほんとに氣立のいゝ、惡氣のない、おとなしい子なのよ。だけど生れつき浮氣つぽい
寺田 さうかなア。ぢやアやつぱり諦めるより仕樣がないかなア。
女房 あなたより
寺田 ありがたう。ぢや
女房 さうなさい。榮子には私から能くさう言つて置きます。
ト寺田萎れ返つて出て行くのを女房心配さうに窓から首を出して見送る。主人上手障子をあけ、
主人 どうしたんだ。あのお客は氣でもちがつてるんぢやないか。
女房 あゝ夢中にさせてしまつちや手がつけられない。榮子も
主人 しやうがねえな。男も女も、此頃の若い者のすることは全くおれ達にやわからねえ。榮子も榮子だが、それよりか、おれは泣蟲の種子の方が心配だよ。お前、どう思つてる。大分男に入り上げてるやうだが、あの武田つていふのは
女房 私も心配してゐたんだよ。
ト此時窓の外から
肴屋 配給があります。
女房 あゝ。びつくりした。
肴屋
呼びながら入る。
女房 毎日鯖と比日魚にや
主人 赤くッて目の大きな、口のとんがつた肴だ。事務所の大澤見たやうな顔をしてゐる。鹽焼にすりやアまんざらでもねえよ。
女房 へえ、さう。ぢや、ついでに野菜も買つて來るから。あなた。留守番して下さい。
主人 うむ。
ト女房買物籠を手にして出て行く。主人椅子にかけて新聞を讀んでゐると榮子歸つて來てすぐに二階へ上りかける。
主人 おい。榮子。
榮子 なアニ。
主人 こゝへおいで。すこし聞きたいことがあるんだ。
榮子 かアさん。居ないの?
主人 お
榮子 寺田さんのこと?
主人 さう/\寺田さんよ。さつきお前と
榮子 アラさう。かアさん。何て返事をして?
主人 榮子。あの寺田さんていふのは全く見たところから、おとなしさうな純情な青年だな。
榮子 えゝ。さうよ。
主人 榮子。お前、あの人と一緒になる氣はないのか。
榮子 とうさん。ひやかしちや。いや。
主人 おい。
榮子 えゝ。
主人 お前。あのお客、きらひぢやないんだらう。
榮子 えゝ。嫌ひぢやないわ。好きなのよ。だけど、わたし今から世帶の苦勞なんかしたくないのよ。とうさん。わたし、まだ二十二になつたばツかりですもの。もうすこし、もう暫くのあひだ、面白をかしく暮して見たいのよ。着物ももつとこさいたいし、それから
(ト主人の手を握り)もつと獵奇的な、いろんな事して見たいのよ。
主人 さうか。 (ト驚いてぢつと榮子の顔を見詰める)どんな事がして見たいんだ。
榮子 とうさん。わたしの氣性知つてる
とうさん。とうさんはかアさん位な年の女でなくツちや、面白くないんでせう。わたし見たやうなものは、いゝも、わるいも、てんで
主人 仕樣のねえ女だな。お前にあつちや
榮子 とうさん。かアさんのやうな三十女の愛慾ツて一體どんななの。ね、とうさん。わたし一度でいゝから、とうさんと浮氣してみたいわ。(ト抱ぎつく)
主人 榮子。お前、ほん氣か。
榮子 ほん氣だか、冗談だか、とうさん次第だわ。かアさんの歸つて來ない中よ。
ト榮子突然主人の頬に接吻して上手に入る。主人頬邊の紅をふきながら、
主人 町内で知らぬは亭主ばかりの反對で、家中で知らぬは女房ばつかりとでもしやれるかな。
ト主人出入口へ氣をくばる。榮子早くもシユミーズ一枚になり半身を障子口より出して手招ぎする。双方の見得よろしく黒幕を引く。
第二場
寺田 榮ちやん。(ト呼ぶ)
榮子 アラ今夜駄目なのよ。濟まないわ。(トわざとらしく悲しい調子)
寺田 いそがしいのか。
榮子 えゝ。お泊り二人受けちまつたの。
寺田 かまはないよ。僕一人で寢て行くからさ。今日。晝間から何だか、急に逢ひたくなつて、たまらなくなつたんだよ。
榮子 こんな晩に上つたつてつまらないわ。お金捨てるやうなもんだから。
寺田 でも。このまゝぢや、歸れないなア。
(ト未練らしい調子)
榮子 ぢや、お店でお茶でも飮んで入らつしやいよ。種子さんも民江さんもまだ店にゐるから。暫くみんなと話でもして行くといゝわ。氣がまぎれるわ。
寺田 種子さん。どうした。彼氏に捨てられたつて悲觀してゐたけど、どうした。
榮子 あの人、何か言ふとすぐ悲觀して泣くのが癖なのよ。あの人見たやうに悲しいことばつかり考へてたら
ト喰べかけた林檎を寺田の口へ押付け、其手を取つて、下手に入る。
×× いゝ女だなア。
○○ 知らねえのか。向角の藤村にゐる女よ。もう三年越の古狸だ。
□□ 女は化物だな。
ト上手より種子の客武田(年三十四五。にがみ走つた好い男ぶり。ジヤンバア)摺れちがひに下手へ行きかける。
×× お、兄貴。どうした。暫く會はなかつたな。この頃はどこへ河岸をかへたんだ。あの兒が心配してゐるぜ。
武田 あの兒ツてな誰だ。
□□ 藤村の種坊よ。手紙を出しても返事もくれないツて。ふさぎ込んでゐるぜ。たまにや顏を見せてやんな。惡くすると、言問橋からどんぶりやらねえとも限らねえよ。
武田 まさか。そんな馬鹿な眞似もしねえだらうが、實はあの女にや持てあましてゐるんだ。
×× 早く行つて嬉しがらせてやんな。
□□ おれ逹はいつもの處でとぐろを卷いてゐるからな。
武田 ぢや、後で逢はう。グツドバイ。
ト
第三場
平舞臺。中央より上手にかけて狹き部屋二間あり。正面に各室とも出入の障子。上手袖際に窓。上手の方は種子の部屋。鏡臺、違棚、其上に硝子箱入の人形。電燈スタンド。壁のところどころに映盡女優の写眞。
流しのギタア聞える。
武田 たね子。まだ泣いてゐるのか。
種子 いゝえ。わかつてます。
武田 わかつたらもう泣くなよ。何もこれつきり逢へないと言ふわけちやなし。今夜は泊つて行かないといふだけの話ぢやないか。
種子 えゝ。もう泣きません。
武田 ぢや機嫌よく笑顔をして返してくれ。なア種子。
種子 あなた。ほんとに逢つてくれるわね。きつと此れつきりぢやないわね。わたし、何だか、これつきり逢へないやうな氣がして仕樣がないのよ。 (ト取縋つて男の胸の上に顏を押付ける)
武田 何を言ふんだな。お前とおれとは、
種子 えゝ。わかりました。ほんとに來て下さるわねえ。
武田 あゝ。きつと來る。ぢやアいゝね。今夜かへるぜ。笑つた顔を見せて返してくれ。
種子 もう泣きません。泣いてやしないでせう。
ト目をぱち/\させながら顏を差出す。武田靜に女の顎に手をかけ仰向かせぢつと見詰めながら、
武田 かわい顏してゐやがるなア。
(トわざと突放して立上り)風邪ひかねえやうに
種子 あなたもね……(ト
武田 四五日したら
種子 うれしいわ。きつとよ。お忘物なくつてね。
ト種子ジヤンバアを着せかける。
武田 ちよいと上野まで行つてくるんだ。千圓貸してくれ。車賃だよ。
ト種子の懷中に手を突込み、札をポケツトに押込み、障子をあけて先に入る。種子後より送つて入ると榮子。浴衣。卷煙草を
榮子 今すぐ來るわね。あつちのお客もうぢき歸るから、もう暫く待つてゝね。
寺田 あゝいゝよ。本讀んでるから。
榮子
ト疊んだ夜具を敷きかける。
寺田 おれが敷くからいゝ。早く行つておいで。
榮子 煙草置いてくわ。
ト煙草
寺田 種子さん。お待ちなさい。その藥。どうするんです。
種子 ア。これ。何でもないのよ。あの
寺田 僕、びつくりした。ほんとに風の藥ですか。
種子 えゝ。さうよ。あなた。何だと思つたの。
(ト淋し氣に
寺田 そんならいゝけど、ほんとにびつくりした。
種子 榮ちやん、もうぢき來てよ。寢て待つてらつしやい。わたしも風引いて心持が惡いから今夜は一人で寢るわ。
寺田 ぢや二人とも一人で寢ることにしませう。ほんとに大丈夫ですか。
種子 大丈夫よ。心配させてすまなかつたわね。
寺田 雨が降つてきた。
種子 アラ。しみ/゛\さむい晩ねえ。
寺田 さむしいねえ。たまらない程さむしい氣がするねえ。寢やうたつて寢られやしない。種子さん。すこし話をしてもいゝだらう。
種子 えゝ。いゝわ。
寺田 たね子さん。僕、たね子さんの心持、僕にはよく分るよ。たね子さん。彼氏に別れて生きてゐてもつまらないと思つたんだらう。その心持、僕には
ト寄添つて手を握る。
種子 私の心持。同情して下さいね。
寺田 種子さん。僕お願がある。聞いてくれないか。その藥。僕に分けて下さい。
ト茶碗を取らうとする。
種子 いけません。あなた。
寺田 あなたの迷惑するやうな事決してしないから。
種子 でも、あなた。
寺田 こゝで、こゝの二階で呑みやしませんよ。
人の知らない處へ行つて飮むから。お願だ。分けて下さい。
種子 でも、わたし、そんな事……
寺田 あなた。自分一人自由に死んでしまつて、あなたと同じ境遇、同じ心持の私には、さうさせないと云ふんですか。それは無情です。
種子 寺田さん。あなたは男ですもの。若いんですもの。今死なないでも。まだ/\生きて行ける未來がありまずよ。私はあなたと違つて女だもの。こんな魔窟に落ちてしまつた女だもの。頼る人に裏切られてしまつたら、死ぬより外に仕様がないぢやありませんか。お願だわ。見ない振して私だけ死なしてよ。
ト寺田の膝に泣伏す。民江でつぷりした年輩の客の手を曳き、下手袖より出で、
民江 あなた。こつちよ。お泊りできないの。雨が降つて來たちやないか。
客 省線竜車のある
(ト醉つて抱きしめる)
民江 知らないわよ。たまにやアゆつくりなさいよ。
ト下手の部屋の障子をあけて入り疊んである夜具を敷き障子を締める。寺田種子をいたはり、
寺田 種子さん。お互に知らない振をして、二人別々にその藥を呑まうよ。そんならいゝだらう。
種子 あなたと私。こゝで一緒に死んだら心中したと思はれるでせうね。
寺田 さう思はれてもかまはない。僕は却つて嬉しいよ。
種子 若しかあなたが、私の彼氏だつたら……
寺田 種子さんが若しか僕の榮子だつたら……
種子 どんなに嬉しいでせうねえ。
寺田 いくらさう思つても、駄目だ。さうなれないのが運命だ。仕樣がないよ。種子さん、一緒に死なうよ。
種子 えゝ。あなた。
寺田 もつと、しづかな暗い處へ行つて、しづうかに死なう。
ト寺田藥を掴んでボケツトに入れ上手袖際の窓をあける。雨の音一際張く聞える。種子男の丹前をはおりスタンドの
民江 アラ。もう眠ちまつたの。あなた。あなたア。
榮子その客と二人下手より出で障子の影繪に心づき