E.S.モース・石川欣一訳『日本その日その日』「一八七七年の日本――横浜と東京」


一八七七年の日本――横浜と東京
サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海をすませて上陸したときの喜びやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見たときから書き始めよう。
われわれが横浜に投錨したとぎは、もう、暗かった。ホテルに所属する日本ふうの小舟がわれわれの乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が、乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工なしろもので、犢鼻褌だけを身につけた三人の日本人-小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろした――が、その側面から櫓をあやつるのであった。われわれを海岸まで運ぶニマイルを彼らはものすごいほどの元気で漕いだ。そして、彼らはじつにふしぎな呻り声をたてた。おたがいに調子を揃えて、ヘイ ヘイ チャ、ヘイ ヘイ チヤというような音をさせ、ときにこの船唄(もしこれが船唄であるならば)を変化させる。彼らは、船を漕ぐのと同じ程度の力をこめて呻、る。彼らが発する雑音は、こみいった、ぜいぜいいう、汽.機の排出に似ていた。私は彼らが櫓のひと押しごとに費やす激しい気力に心から同情した。われわれが岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」 「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。
小舟はやっと岸に着いた。私は叫びたいくらいうれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上がった。税関の役人たちがわれわれの荷物を調べるために、落ちつきはらってやってきた。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙にみえる、小さな日本の人たちである。われわれは海岸に沿うた道を、暗黒のなかへ元気よく進んだ。われわれの着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人たちがわれわれの部屋を準備するために右往左往した。やがて床についたわれわれは、境遇の新奇さと、早く朝の光を見たいという熱心さとのために、ちょうど独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、ほとんど眠ることができなかった。
私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、ジャンクや、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めたとき、なんという歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。われわれの一角には、田舎から流れてくる運河があり、この狭い水路をしつにおもしろい形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄をうたう。道をいく人々はきわめてわずかな着物をきている。各種の品物を持っている者もある。たいていの入は、粗末な、木製のはき物を穿()いているが、これがまた固い道路の上でふしぎな、よく響く音をたてる。
朝飯が終わるとすぐにわれわれは町を見物に出かけた。日本の町の街々(まちまち)をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――ふしぎな建築、もっとも清潔な陳列箱に似たのが多い見慣れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々のたてる奇妙な物音、空気をみたすスギと茶の香り。われわれにとって珍しからぬものとては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光とくらいであった。ホテルの角には人力車が数台並んで客を待っていたが、われわれが出てゆくやいなや、彼らは「人力車?」と叫んだ。われわれは明瞭にいらぬことを表示したが、それにもかかわらず二人われわれについてきた。われわれが立ち止まると彼らも立ち止まる。われわれが小さな店をのぞきこんで、なにかを見て微笑すると、彼らもまた微笑するのであった。私は彼らがこんなに遠くまでついてくる忍耐力に驚いた。なぜかなればわれわれは歩くほうがよかったから人力車を雇おうとは思わなかったのである。しかし彼らはわれわれよりも、やがてなにが起こるかをよく知っていた.、歩き回っているうちにくたびれてしまうばかりでなく、。路に迷いもするということである。はたしてこのとおりのことが起こった。 一歩ごとに出くわした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れきったわれわれは、喜んで人力車に乗って帰る意志を示した。いかにも弱そうに見える車に足をかけたとき、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。もし私が車をおりて、はだしの男と位置をかえることがでぎたら、これほど而くらわずにすんだろうと思われた。だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテルまでの道程(みちのり)を一休みもしないで、自分の前を素敵な勢いで駆けているということを知ったときの陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚くべきことであった。ホテルへ着いたとき彼らは一〇セントとった。このために彼らは午前中をまったくつぶしたのである!
誰でもみな店を開いているようである。店と、それからその後ろにある部屋とは、道路に向かって明けっぱなしになっているので、買物をしにいく人は、自分が商品の問から無作法にもその家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰のはいっている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒いときには手を暖めるのだが、もっとも重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で()はアシみたいなものである。タバコは色が薄く、こまかく刻んであり、非常にかわいていてかつ非常にやわらかい。雁首(がんくび)には小さな豆粒くらいのタバコの玉が納まる。これを詰めさて例の炭で火をつけると、一度か二度パッと吸っただけで全部灰になってしまう。このような一服でも十分なことがあるが、つづけて吸うために五、六度詰め替えることができる。またお茶はいつでもいれることができるようなぐあいになっていて、お茶を一杯出すということが、一般に店にきた人をもてなすしるしになっている。かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。ある点でこれらの店は、床が地面からもち上がった明けっぱなしの仮小屋を連想させる。お客さまはこの床の端に腰をかけるのである。商品は――ーかわいそうになるくらい品数の少ないことがままある――低い段々みたいな棚に並べてあるが、いたって手近にあるので、お客さまは腰をかけたまま手を伸ばして取ることができる。この後ろで家族が一室に集まり、食寅望をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、もしこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他なんであろうと商品の製造場として使用される。子どもがおおぜい集まってままごとをやっているのを見ているような気がする。ときに簟笥(たんす)がある以外、椅子、テーブルその他の家具は見あたらぬ。煙筒もなし、ストーヴもなし、地下室もなし、ドアもなく、ただすべる衝立(ついたて)があるだけである。家族は床の上に寝る。だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの筵が、あたかも子どもの積み木が箱にぴったりはいっているようなぐあいに敷きつめてある。枕には小さな、頭をのせる物を使用し、夜になると綿の十分はいった夜具を上からかける。
この国の人々がどこまでもあけっぱなしなのに、見るものは彼らの特異性をまざまざと印象づけられる。たとえば往来の真ん中を誰はばからず子どもに乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見うける。また、つづけざまにおじぎをするところをみると非常にていねいであるらしいが、婦人に対する礼譲にいたっては、われわれはいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みにきた三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼らが飲み終わるまで、辛抱強く横に立っていた。われわれはもちろん彼らがこの婦人のためにバケツにいっぱい水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それどころか礼の一言さえもいわなかった。
いたるところにひろびうとしたイネの田がある。これは田を作ることのみならず、毎年イネを植えるとき、どれほど多くの労力が費やされるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分かたれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり、他では桶から液体の肥料をまいており、さらに他の場所では移植が行なわれつつある.、草の芽のように小さいイネの草は、いちいち人の手によって植えられねばならぬので、これはいかにも信じがたい仕事みたいであるが、しかも一家族をあげて渚、とごとく、老婆も子どももいっしょになってやるのである。小さい子どもたちは赤ん坊を背中におって見物人として田の(くろ)にいるらしくみえる。この、子どもを背おうということは、いたるところで見られる。婦人が五人いれば四人まで、子どもが六人いれば五人までが、かならず赤ん坊を背おっていることはまことに著しく目につく。ときとしては、背おう者が両手を後ろに回して赤ん坊を支え、またあるときは赤ん坊が両足を前につき出してウマに乗るようなかっこうをしている。赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、また私はいままでのところ、おかあさんが赤ん坊に対してかんしゃくを起こしているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤ん坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ん坊ほどよい赤ん坊は世界中にないと確信する。かつて一人のおかあさんが鋭い剃刀(かみそり)で赤ん坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤ん坊は泣ぎ叫んでいたが、それにもかかわらず、まったく静かに立っていた。私はこの行為をわが国のある種の長屋区域で見られるところのものと、何度も何度本くり返して対照した。
私は野原や森林に、わが国にあるのとまったく同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。シュロ、タケ、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、粋な帽子にはでな藍色に白の飾りをつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生まれてはじめてチャの栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目にはいった。
はじめて東京――東の首府という意味である――にいったとき、われわれは横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都市である。古い名まえを江戸といったので、以前からそこにいる外国人たちはいまだに江戸と呼んでいる。われわれを東京へ運んでいった列車は、一等二等三等から成りた?ていたが、われわれは二等が十分清潔でかつらくであることを発見した。車はイギリスの車とアメリカの車とアメリカの鉄道馬車との三つをいっしょにしたものである。連結機と車台とバンター・ビームはイギリスふう、車室の両端にある昇降台と扉とはアメリカふう、そして座席が車と直角についているところはアメリカの鉄道馬車みたいなのである。われわれは非常な興味をもってあたりの景色をながめた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがるイネの田は、いまや(六月)水におおわれていて、そこに働く人たちは膝のあたりまで泥にはいっている。淡緑色の新しいイネは、濃い色の木立にいきいきした対照をなしている。百姓家はおそろしく大きな草葺きの屋根をもっていて、その脊梁にはイチハツに似た植物が生えている。ときどきわれわれはお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした気持のいい、絵のような場所に建ててある。これらすべての景色はもの珍しく、かつ心を奪うようなので、一七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終わってしまった。
われわれは東京に着いた。汽車が停まると人々はセメントの道におりた。木製の下駄や草履がたてる音は、どこかしらウマがたくさん橋を渡るときの音に似ている――――このカラコロいう音には、ふしぎに響き渡るどっちかというと音楽的な震動がまじっている。われわれの人力車には、肩に縄をつけた男が一人よけいに加わった――なんのことはない、タンデム・ティーム(縦に二頭ウマを並べた馬車)である――そしてわれわれはいい勢いで走り出した。横浜が興味ぶかかったとすれば、この大都会の狭い路や生活のありさまは、さらに興味がふかい。人力車は速く走る、一軒一軒の家をのぞきこむ、異様な人々とゆき違う――僧侶や紳士や、はでに装った婦人や学生や小学校の子どもや、そのほとんど全部が帽子をかぶっていず、みんな黒い頭の毛をしていて、下層社会の人々の、全部とはいわぬが、あるものどもは腰のまわりに寛やかに衣の一種をまとっただけである――これはまったく私を混乱させるに十分であった。私の頭はいろいろな光景や新奇さで、いいかげんごちゃごちゃになった。
古ふうな、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走るうちに、まもなくわれわれはドクター・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜をもつ高さ二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取り囲んでいる。堀の水は一五マイルも遠くからきているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、たいしたもので魅る。われわれはテーブルと椅子若干とが置かれた低い健物にはいっていって、文部省の督学官、ドクター・デーヴィッp-・・マレーのくるのを待った。テーブルの上には、タバコを吸う人のための、火を入れた土器が箱にはいっているものが置いてあった。まもなく召使がお盆にお茶碗数個を載せて持ってきたが、部屋をはいるとき頭が床にさわるくらい深くおじぎをした。
大学の外人教授たちは西洋ふうの家に住んでいる、これらの家の多くはところどころに出入口のある、高い塀に囲まれた広い構えのなかに建っている。出入口のあるものは締めたきりであり、他のものは夜になるとかならず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキ(屋敷)と呼ばれている。封建時代には殿さまたち、すなわち各地の大名たちが、一年のうちの数ヵ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿ざまたちは、ときとして数千に達するほどの家来や工匠や召使を連れてやってきたものである。われわれがゆきつつある屋敷は、封建時代に加賀の大名がもっていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本について書かれた信頼すべき書類によってこれを知られたい。大名のあるものの大なる富、陸地をはるばると江戸へくる行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これらは封建時代におけるもっとも印象的な事がらのなかに数えることができる。加賀の大名は家来を一万人連れてきた。薩摩の大名は江戸にくるため、家来とともに五〇〇マイル以上の旅行をした。これらに要する費用は莫大なものであった。
現在の加賀屋敷は、立木と藪と、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の鳥が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶるあぶない。カラスはわが国のハトのように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼らは鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
われわれは外山教授といっし,叭に帝国大学を訪れた。日本服をきた学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、ちょっと妙な気持がせざるをえなかった。この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学にはいる学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。私は文部卿に面会した。りっぱな顔をした日本人で、英語は一言もわからない。若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついてきた。この会見は、気持はよかったが、おそろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。日本語の上品な会話は、聞いていてまことに気持がよい。ドクター・マレーも同席されたが、会話が終わって別れたとき、私が非常にいい印象を与えたといわれた。私はノートなしに講義することに慣れているが、この習慣がこのさい、さいわいにも役にたったのである。私は最大の注意をはらって言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩について文部卿をほめた。
汽車に乗って東京を出るとすぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列に並んでいるのが見える。これらの島が設堡されているのだと知っても、べつにびっくりすることはないが、ただどんなに奇妙な岩層か、あるいは浸食かが、こんなふうにふしぎなほど均斉的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これらの島は人間がつくったもので、しかもそのすべてが五ヵ月以内に出来上がったとのことである。ペリー提督が最初日本を去るとき、五ヵ月のうちにまたくるといい残した。そこでその期限内に日本の人たちは、単にこれら五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、さらにある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じがたいほどの勤労と、労働者や船舶の数は、われわれに古代のエジプト人が行なった手段と成し遂げた事業とを思わせる。ただ日本人は、古代の人々が何年か、かかってやっとやり上げたことを、何日問かでやってしまったのである。これらの島は四、五百フィート平方で約一、○○○フィートぐらいずつ離れているらしくみえる。東京の公園でわれわれは氷河の作用を受けたにちがいないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北のほうから、和船で運ばれた石であるとのことであった。
東京の死亡率が、ボストンのそれよりも少ないということを知って驚いた私は、この国の保健状態について、多少の研究をした。それによると赤痢および小児霍乱(かくらん)はまったくなく、マラリアによる熱病はその例を見るが多くはない。リューマチ性の疾患は外国人がとの国に数年間いると起こる。しかしわが国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は日本にはないか、あっても非常にまれであるらしい。これは、すべての排出物質が都市から人の手によって運び出され、そして彼らの農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかもしれない。わが国では、この下水が自由に入り江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生じる鼻持ちならぬ臭気は公衆の鼻を襲い、すべての人をひどい目にあわす。日本ではこれをたいせつに保存し、そして土壌を富季す役にたてる。東京のように大きな都会でこの労役が数百人の、それぞれきまった道すじをもつ人々によって遂行されているとは信用できぬような気がする。桶は担い棒の両端に吊るし下げるのであるが、いっぱいになった桶の重さには、巨人も骨をおるであろ弓。多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、ふたのない、半分に切った油樽みたいなものに入れられてしばらく放置されたあとで、長柄の木製柄杓(ひしやく)で水田に撒布される。十壌を富ますためには上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥がもってこられる。元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねばだめなのである。日本には「新しい田からはすこししか収穫がない」という諺がある。
この国の人々は頭になにもかぶらず、ことに男は頭のてっぺんを剃って、赫々(かつかく)たる太陽の下に出ながら、日射病がないというのはおもしろい事実である。わが国では不摂度な生活が日射病を誘起するものと思われているが、この国の人々は飲食の習慣において摂度を守っている。
この国にきた外国人がまず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人とわれわれとが逆であるという事実がある。このことはすでに何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるをえない。日本人は鉋で削ったり鋸で引いたりするのに、われわれのように向こうへ押さず手前に引く。本はわれわれが最終のページとも称すぺきところから始め、そして右上の隅から下・に読む。われわれの本の最後のページは日本人の本の第「ページである。彼らの船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から()を漕ぐ。正餐の順序でいうと、糖菓や生菓子が第一に出る。冷水を飲まず湯を飲む。ウマを厩に入れるのに尻から先に入れる。
日本で出くわす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名とともに劇場に向けて出発するということが、すでにすばらしく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢いよく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景、新しい物音、新しい(にお)い(この最後はかならずしもつねに気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることのでぎぬ経験である。まもなくわれわれは劇場にくる。われわれにとっては、なにがなにやらまるで見当もつかぬようなシナ文字をべったり書いた細長い布や、はでな色の提灯や、怪奇な招牌(かんばん)の混合で装飾された、へんてこりんな建物が劇場なのである。内にはいると、われわれは両側に三階の棧敷(さじき)をもった薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所にくる。劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。床はわくによって六フィート平方、深さ一フィ隠ト以上の場所に仕きられているが、この一場所がすなわち(ポツクス)で、その一つに家族一同がはいってしまうという次第なのである。日本人は足をからだの下に曲げてすわる。トルコ人みたいに足を組み合わせはしない。椅子も腰掛もベンチもない。芝居を見るのもおもしろかったが、観客を見るのも同様におもしろく――すくなくとも、もの珍しかった。家中できている人がある。母親は赤ん坊に乳房をふくませ、子どもたちは芝居を見ずに眠り、つきものの火鉢の上ではお茶に使う湯が暖められ、老人はタバコを吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここ、を歩き、つぎに幅五インチくらいの箱の縁を歩いて自分の席へいく。
舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって観客から隠してある。舞台の中央には床ζ同高度の直径二五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変わるときには幕をおろさず、俳優その他いっさいがっさいを乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具かたが忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せるとともに、いままで使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れるありさまは興味ぶかかった。彼らは、たしかにサンフランシスコのシナ劇場でシナ人の観客が示したより以上の感情と興奮をみせた。ここで私は挿句的につけ加えるが、シャンハイにおけるシナ劇場はサンフランシスコのそれとすこしも異なっていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネクチカット出来の柱時計が、時を刻んでいただけが相違点であった。
劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語はわれわれのために通訳してくれた日本人にζってもむずかしく、彼はときどきある語句をとらえうるのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライーを見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、おおいに酔った勢いを発揮して演出された。剥製のネコが、長い竿の先にぶら下がって出てきて手紙を盗んだ。揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股を踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。そのうちでもっともりっぱな役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蝋燭の光で顔を照らされる。この子どもも役者といっしょに動き回り、役者がどっちを向こうが、かならず蝋燭を彼の顔の前にさし出すのである(1図)。 子どもは黒い衣服をきて、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、われわれとしては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これがごく最新の設備なので、こんなふうなむぎ出しのガスロができるまでは、俳優一人について子ども一人が蝋燭をもって顔を照らしたものである。後見はわが国におけるそれと異なり、隠れていないで舞台の上をことさらに歩き回り、かわり番に各俳優の後ろにきて(私のテーブルはたったいま地震で揺れた。 一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)、隠れているかのようにうずくまり、そして明瞭に聞こえろほどの大声で助言する。舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い縄がかたまって下がっている。オーケストラは間断なく仕事をした1日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのにもってきて、ときどき笛がかん高く鳴る。音楽はシナの劇場におけるがごとく勢いよくもなく、また声高でもなかった。過去における婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(われわれは男、あるいは少年が女の役をやるのだ、と教わった)が、つねにうずくまるような態度をとることによって知られた。幕間には大きな幕が舞台を横ぎって引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、もっとも巨大な模様が目もさめるような色彩で表わしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、そのきわめて薄弱な感じしか出せない。
博物館には完全に驚かされた。りっぱに標本にした鳥類の収集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬けの大きな収集、その他動物各類が並べてある。そしておもしろいことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩ならびに外国の教育方針を採用している程度はまったくめまぐるしいくらいである。
大学を出てきたとき、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、アメリカの辻馬車屋がするように、彼らもまたそろって私のほうに駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なったムギわらを四本拾い、そしてくじをひくのであった。運のいい一人が私を乗せて停車場へゆくようになっても、他の三人は何らいやな感情を示さなかった。汽車にまに合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前にゆく人力車の(こしき)にぶつかった。車夫たちはおたがいに邪魔したことを微笑で詫び合っただけで走りつづけた。私は即刻この行為と、わが国でこのような場合にかならず起こる罵詈雑言とを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫がいかに注意ぶかく道路にいるネコやイヌやニワトリを避けるかに気がついた。またいままでのところ、動物に対してかんしゃくを起こしたり、虐待したりするのは見たことがない。ロ小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を-1もっとも私はつねに注意ぶかく観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言によっているのである。
横浜の市場の野菜部は、私を驚喜させた魚介部とは反対に貧弱である。外国人がくるまではきわめて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。ダイコンと呼ばれるラディッシの奇妙な一種は重要な食物である。それは長さ一フィート半、サトウダイコンの形をしていて、色は緑がかった白色である。付合せ物として生で食うこともあるが、また発酵させてザワクラウトに似たようなものにすることもある。この後者たるや、私といっしょにいた友人の言をかりると、製革場にいるイヌでさえもしっぽを巻くほど臭気が強い。往来を運搬しているのでさえもわかる。そしてそれは(ごみ)運搬人とすれちがうのと同じくらい不愉快である。トマトは非常に貧弱でひどく妙なかっこうをしているし、モモは小さく固く未熟で緑色をしている。町の向こうがわで男の子がモモをかじる音が聞こえるくらいであるが、しかも日本人はこの固い、緑色の状態にあるモモを好むらしく思われる。ナシはたった一種類しかないらしいが、まるくって廿味も香りもなく、外見と形が大きな、左右同形のラセ四、トアップル(朽葉色の冬リンゴ)に似ているので、ナシかリンゴか見分けるのが困難であった。果実は甘さを失うらしく、スウィートコーンはまもなく砂糖分を失うので、数年ごとに新しくしなければならぬ(スウィートコーンは数年ごとに直輸入の種子を蒔かぬと、甘さが減じていったのであろう)。さや入りの豆はおもしろい形をしたタケの筵に縫いつけて売物に出ている(2図)。鶏卵は非常に小さい。われわれが珍しいものとして保存するものを除いては、いままでに見たどの鶏卵よりも小さいのが、大きな箱いっぱいつまっているところはなかなか奇妙に思われた。
人々が正直である国にいることはじつに気持がよい。私はけっして札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子どもや召使は一日に数十回出入りしても、さわってならぬ物にはけっして手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするためにもっていった召使は、まもなくポケットの一つに小銭若干がはいっていたのに気がついてそれをもってきたが、また、こんどはサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もってきた。この国の人々もいわゆる文明人としばらく交わっていると盗みをすることがあるそうであるが、内地にはいると不正直というようなことはほとんどなく、条約港においてもまれなことである。日本人が正直であることのもっともよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も(かんぬき)も戸鈕も――いや、錠をかけるべき戸すらもないことである。昼間はすべる衝立が彼らのもつ唯一のドアであるが、しかもその構造たるや十歳の子どももこれを引きおろし、あるいはそれに穴をあけうるほど弱いのである。
日本人が集まっているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼らがみな同じような顔をしていることで、個個の区別は幾月か日本にいた後でないとできない。しかし、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリアおよび他のヨーロッパ人を含むわれわれが、みな同じに見えたというのを聞いては驚かざるをえない。.どの点でわれわれがおたがいに似ているかをたずねると、彼らはかならず「あなたがたはみなものすごい、にらみつけるような目と、高い鼻と、白い皮膚とをもっている」と答える。彼らがわれわれの個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼らのいっぷう変わった目や、平らな鼻梁や、より暗色な皮膚が、われわれに彼らをみな同じように見させる。だが、この国に数ヵ月いた外国人には、日本人にもわれわれにおけると同じ程度の個人的の相違があることがわかってくる。同様に見えるばかりでなく、彼らはみな背が低く足が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い粛を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かでていねいで、はればれしい。下層民がとくに過度に機嫌がいいのは驚くほどである。