E.S.モース・石川欣一訳『日本その日その日』「一八七七年の日本――横浜と東京」
一八七七年の日本――横浜と東京
サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海をすませて上陸したときの喜びやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見たときから書き始めよう。
われわれが横浜に投錨したとぎは、もう、暗かった。ホテルに所属する日本ふうの小舟がわれわれの乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が、乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工なしろもので、犢鼻褌だけを身につけた三人の日本人-小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろした――が、その側面から櫓をあやつるのであった。われわれを海岸まで運ぶニマイルを彼らはものすごいほどの元気で漕いだ。そして、彼らはじつにふしぎな呻り声をたてた。おたがいに調子を揃えて、ヘイ ヘイ チャ、ヘイ ヘイ チヤというような音をさせ、ときにこの船唄(もしこれが船唄であるならば)を変化させる。彼らは、船を漕ぐのと同じ程度の力をこめて呻、る。彼らが発する雑音は、こみいった、ぜいぜいいう、汽.機の排出に似ていた。私は彼らが櫓のひと押しごとに費やす激しい気力に心から同情した。われわれが岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」 「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。
小舟はやっと岸に着いた。私は叫びたいくらいうれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上がった。税関の役人たちがわれわれの荷物を調べるために、落ちつきはらってやってきた。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙にみえる、小さな日本の人たちである。われわれは海岸に沿うた道を、暗黒のなかへ元気よく進んだ。われわれの着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人たちがわれわれの部屋を準備するために右往左往した。やがて床についたわれわれは、境遇の新奇さと、早く朝の光を見たいという熱心さとのために、ちょうど独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、ほとんど眠ることができなかった。
私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、ジャンクや、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めたとき、なんという歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。われわれの一角には、田舎から流れてくる運河があり、この狭い水路をしつにおもしろい形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄をうたう。道をいく人々はきわめてわずかな着物をきている。各種の品物を持っている者もある。たいていの入は、粗末な、木製のはき物を
朝飯が終わるとすぐにわれわれは町を見物に出かけた。日本の町の
誰でもみな店を開いているようである。店と、それからその後ろにある部屋とは、道路に向かって明けっぱなしになっているので、買物をしにいく人は、自分が商品の問から無作法にもその家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰のはいっている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒いときには手を暖めるのだが、もっとも重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で
この国の人々がどこまでもあけっぱなしなのに、見るものは彼らの特異性をまざまざと印象づけられる。たとえば往来の真ん中を誰はばからず子どもに乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見うける。また、つづけざまにおじぎをするところをみると非常にていねいであるらしいが、婦人に対する礼譲にいたっては、われわれはいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みにきた三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼らが飲み終わるまで、辛抱強く横に立っていた。われわれはもちろん彼らがこの婦人のためにバケツにいっぱい水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それどころか礼の一言さえもいわなかった。
いたるところにひろびうとしたイネの田がある。これは田を作ることのみならず、毎年イネを植えるとき、どれほど多くの労力が費やされるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分かたれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり、他では桶から液体の肥料をまいており、さらに他の場所では移植が行なわれつつある.、草の芽のように小さいイネの草は、いちいち人の手によって植えられねばならぬので、これはいかにも信じがたい仕事みたいであるが、しかも一家族をあげて渚、とごとく、老婆も子どももいっしょになってやるのである。小さい子どもたちは赤ん坊を背中におって見物人として田の
私は野原や森林に、わが国にあるのとまったく同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。シュロ、タケ、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、粋な帽子にはでな藍色に白の飾りをつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生まれてはじめてチャの栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目にはいった。
はじめて東京――東の首府という意味である――にいったとき、われわれは横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都市である。古い名まえを江戸といったので、以前からそこにいる外国人たちはいまだに江戸と呼んでいる。われわれを東京へ運んでいった列車は、一等二等三等から成りた?ていたが、われわれは二等が十分清潔でかつらくであることを発見した。車はイギリスの車とアメリカの車とアメリカの鉄道馬車との三つをいっしょにしたものである。連結機と車台とバンター・ビームはイギリスふう、車室の両端にある昇降台と扉とはアメリカふう、そして座席が車と直角についているところはアメリカの鉄道馬車みたいなのである。われわれは非常な興味をもってあたりの景色をながめた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがるイネの田は、いまや(六月)水におおわれていて、そこに働く人たちは膝のあたりまで泥にはいっている。淡緑色の新しいイネは、濃い色の木立にいきいきした対照をなしている。百姓家はおそろしく大きな草葺きの屋根をもっていて、その脊梁にはイチハツに似た植物が生えている。ときどきわれわれはお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした気持のいい、絵のような場所に建ててある。これらすべての景色はもの珍しく、かつ心を奪うようなので、一七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終わってしまった。
われわれは東京に着いた。汽車が停まると人々はセメントの道におりた。木製の下駄や草履がたてる音は、どこかしらウマがたくさん橋を渡るときの音に似ている――――このカラコロいう音には、ふしぎに響き渡るどっちかというと音楽的な震動がまじっている。われわれの人力車には、肩に縄をつけた男が一人よけいに加わった――なんのことはない、タンデム・ティーム(縦に二頭ウマを並べた馬車)である――そしてわれわれはいい勢いで走り出した。横浜が興味ぶかかったとすれば、この大都会の狭い路や生活のありさまは、さらに興味がふかい。人力車は速く走る、一軒一軒の家をのぞきこむ、異様な人々とゆき違う――僧侶や紳士や、はでに装った婦人や学生や小学校の子どもや、そのほとんど全部が帽子をかぶっていず、みんな黒い頭の毛をしていて、下層社会の人々の、全部とはいわぬが、あるものどもは腰のまわりに寛やかに衣の一種をまとっただけである――これはまったく私を混乱させるに十分であった。私の頭はいろいろな光景や新奇さで、いいかげんごちゃごちゃになった。
古ふうな、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走るうちに、まもなくわれわれはドクター・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜をもつ高さ二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取り囲んでいる。堀の水は一五マイルも遠くからきているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、たいしたもので魅る。われわれはテーブルと椅子若干とが置かれた低い健物にはいっていって、文部省の督学官、ドクター・デーヴィッp-・・マレーのくるのを待った。テーブルの上には、タバコを吸う人のための、火を入れた土器が箱にはいっているものが置いてあった。まもなく召使がお盆にお茶碗数個を載せて持ってきたが、部屋をはいるとき頭が床にさわるくらい深くおじぎをした。
大学の外人教授たちは西洋ふうの家に住んでいる、これらの家の多くはところどころに出入口のある、高い塀に囲まれた広い構えのなかに建っている。出入口のあるものは締めたきりであり、他のものは夜になるとかならず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキ(屋敷)と呼ばれている。封建時代には殿さまたち、すなわち各地の大名たちが、一年のうちの数ヵ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿ざまたちは、ときとして数千に達するほどの家来や工匠や召使を連れてやってきたものである。われわれがゆきつつある屋敷は、封建時代に加賀の大名がもっていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本について書かれた信頼すべき書類によってこれを知られたい。大名のあるものの大なる富、陸地をはるばると江戸へくる行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これらは封建時代におけるもっとも印象的な事がらのなかに数えることができる。加賀の大名は家来を一万人連れてきた。薩摩の大名は江戸にくるため、家来とともに五〇〇マイル以上の旅行をした。これらに要する費用は莫大なものであった。
現在の加賀屋敷は、立木と藪と、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の鳥が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶるあぶない。カラスはわが国のハトのように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼らは鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
われわれは外山教授といっし,叭に帝国大学を訪れた。日本服をきた学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、ちょっと妙な気持がせざるをえなかった。この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学にはいる学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。私は文部卿に面会した。りっぱな顔をした日本人で、英語は一言もわからない。若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついてきた。この会見は、気持はよかったが、おそろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。日本語の上品な会話は、聞いていてまことに気持がよい。ドクター・マレーも同席されたが、会話が終わって別れたとき、私が非常にいい印象を与えたといわれた。私はノートなしに講義することに慣れているが、この習慣がこのさい、さいわいにも役にたったのである。私は最大の注意をはらって言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩について文部卿をほめた。
汽車に乗って東京を出るとすぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列に並んでいるのが見える。これらの島が設堡されているのだと知っても、べつにびっくりすることはないが、ただどんなに奇妙な岩層か、あるいは浸食かが、こんなふうにふしぎなほど均斉的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これらの島は人間がつくったもので、しかもそのすべてが五ヵ月以内に出来上がったとのことである。ペリー提督が最初日本を去るとき、五ヵ月のうちにまたくるといい残した。そこでその期限内に日本の人たちは、単にこれら五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、さらにある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じがたいほどの勤労と、労働者や船舶の数は、われわれに古代のエジプト人が行なった手段と成し遂げた事業とを思わせる。ただ日本人は、古代の人々が何年か、かかってやっとやり上げたことを、何日問かでやってしまったのである。これらの島は四、五百フィート平方で約一、○○○フィートぐらいずつ離れているらしくみえる。東京の公園でわれわれは氷河の作用を受けたにちがいないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北のほうから、和船で運ばれた石であるとのことであった。
東京の死亡率が、ボストンのそれよりも少ないということを知って驚いた私は、この国の保健状態について、多少の研究をした。それによると赤痢および小児
この国の人々は頭になにもかぶらず、ことに男は頭のてっぺんを剃って、
この国にきた外国人がまず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人とわれわれとが逆であるという事実がある。このことはすでに何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるをえない。日本人は鉋で削ったり鋸で引いたりするのに、われわれのように向こうへ押さず手前に引く。本はわれわれが最終のページとも称すぺきところから始め、そして右上の隅から下・に読む。われわれの本の最後のページは日本人の本の第「ページである。彼らの船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から
日本で出くわす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名とともに劇場に向けて出発するということが、すでにすばらしく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢いよく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景、新しい物音、新しい
舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって観客から隠してある。舞台の中央には床ζ同高度の直径二五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変わるときには幕をおろさず、俳優その他いっさいがっさいを乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具かたが忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せるとともに、いままで使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れるありさまは興味ぶかかった。彼らは、たしかにサンフランシスコのシナ劇場でシナ人の観客が示したより以上の感情と興奮をみせた。ここで私は挿句的につけ加えるが、シャンハイにおけるシナ劇場はサンフランシスコのそれとすこしも異なっていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネクチカット出来の柱時計が、時を刻んでいただけが相違点であった。
劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語はわれわれのために通訳してくれた日本人にζってもむずかしく、彼はときどきある語句をとらえうるのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライーを見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、おおいに酔った勢いを発揮して演出された。剥製のネコが、長い竿の先にぶら下がって出てきて手紙を盗んだ。揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股を踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。そのうちでもっともりっぱな役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蝋燭の光で顔を照らされる。この子どもも役者といっしょに動き回り、役者がどっちを向こうが、かならず蝋燭を彼の顔の前にさし出すのである(1図)。 子どもは黒い衣服をきて、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、われわれとしては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これがごく最新の設備なので、こんなふうなむぎ出しのガスロができるまでは、俳優一人について子ども一人が蝋燭をもって顔を照らしたものである。後見はわが国におけるそれと異なり、隠れていないで舞台の上をことさらに歩き回り、かわり番に各俳優の後ろにきて(私のテーブルはたったいま地震で揺れた。 一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)、隠れているかのようにうずくまり、そして明瞭に聞こえろほどの大声で助言する。舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い縄がかたまって下がっている。オーケストラは間断なく仕事をした1日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのにもってきて、ときどき笛がかん高く鳴る。音楽はシナの劇場におけるがごとく勢いよくもなく、また声高でもなかった。過去における婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(われわれは男、あるいは少年が女の役をやるのだ、と教わった)が、つねにうずくまるような態度をとることによって知られた。幕間には大きな幕が舞台を横ぎって引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、もっとも巨大な模様が目もさめるような色彩で表わしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、そのきわめて薄弱な感じしか出せない。
博物館には完全に驚かされた。りっぱに標本にした鳥類の収集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬けの大きな収集、その他動物各類が並べてある。そしておもしろいことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩ならびに外国の教育方針を採用している程度はまったくめまぐるしいくらいである。
大学を出てきたとき、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、アメリカの辻馬車屋がするように、彼らもまたそろって私のほうに駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なったムギわらを四本拾い、そしてくじをひくのであった。運のいい一人が私を乗せて停車場へゆくようになっても、他の三人は何らいやな感情を示さなかった。汽車にまに合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前にゆく人力車の
横浜の市場の野菜部は、私を驚喜させた魚介部とは反対に貧弱である。外国人がくるまではきわめて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。ダイコンと呼ばれるラディッシの奇妙な一種は重要な食物である。それは長さ一フィート半、サトウダイコンの形をしていて、色は緑がかった白色である。付合せ物として生で食うこともあるが、また発酵させてザワクラウトに似たようなものにすることもある。この後者たるや、私といっしょにいた友人の言をかりると、製革場にいるイヌでさえもしっぽを巻くほど臭気が強い。往来を運搬しているのでさえもわかる。そしてそれは
人々が正直である国にいることはじつに気持がよい。私はけっして札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子どもや召使は一日に数十回出入りしても、さわってならぬ物にはけっして手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするためにもっていった召使は、まもなくポケットの一つに小銭若干がはいっていたのに気がついてそれをもってきたが、また、こんどはサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もってきた。この国の人々もいわゆる文明人としばらく交わっていると盗みをすることがあるそうであるが、内地にはいると不正直というようなことはほとんどなく、条約港においてもまれなことである。日本人が正直であることのもっともよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も
日本人が集まっているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼らがみな同じような顔をしていることで、個個の区別は幾月か日本にいた後でないとできない。しかし、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリアおよび他のヨーロッパ人を含むわれわれが、みな同じに見えたというのを聞いては驚かざるをえない。.どの点でわれわれがおたがいに似ているかをたずねると、彼らはかならず「あなたがたはみなものすごい、にらみつけるような目と、高い鼻と、白い皮膚とをもっている」と答える。彼らがわれわれの個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼らのいっぷう変わった目や、平らな鼻梁や、より暗色な皮膚が、われわれに彼らをみな同じように見させる。だが、この国に数ヵ月いた外国人には、日本人にもわれわれにおけると同じ程度の個人的の相違があることがわかってくる。同様に見えるばかりでなく、彼らはみな背が低く足が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い粛を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かでていねいで、はればれしい。下層民がとくに過度に機嫌がいいのは驚くほどである。