高浜虚子「虹」

  虹
愛子はお母さんと柏翠(はくすい)と三人で、私と立子(たつこ)敦賀(つるが)まで送ると言った。それに及ばぬ、疲れているであろうから美佐尾といっしょに福井で降りて三国へ帰った方がよくはないかと言ったのであるが、しいて敦賀まで送ると言った。福井を過ぎると汽車もだいぶすいて、私らは片方に腰を掛け、その向い側には愛子とお母さんと柏翠とが腰を掛けた。
愛子も柏翠も私らに別れともないようなそぶりが見えていた。私らはこれから芭蕉(ばしよう)二百五十年忌法要(ほうよう)に列席するため近江(おうみ)、京都、大阪、伊賀と旅行を続けるので、柏翠も同行したい容子(ようす)であったのだが、その健康が心配であったのでそれとなくこれを()めた。愛子も柏翠と同じ病気でこの間もかわるがわる()せっていたという話を私らは聞いていたのである。私は愛子の裏の二階で、九頭竜川(くずりゆうがわ)の吹雪の壮観をぜひ見せたいということを言った時分に、'そんな時電話を鎌倉にかけて、今吹雪がしていますと知らせてくれればいいではないか、と言ったら、それでは今度はそうしますと言ったことを思いだした。
その時ふと見ると、ちょうど三国の方角に当って虹が立っているのが目にとまった。
「虹が立っている」
と私はそちらを指した。愛子も柏翠もお母さんも体をねじ向けてそちらを見た。それはきわめて鮮明な虹であった。その時愛子は独り言のように言った。
「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしましょう。今度虹がたった時に……」
それは別に深い考えがあって言ったこととも覚えなかった。最前から多少感傷的になっているところに、美しい虹を見たために、そんなおとぎ(ばなし)みたようなことが口を()いて出たものと思われた。私もそこに立っている虹
を見ながら、その上を愛子が渡って行く姿を想像したりして、
「渡っていらっしゃい。(つえ)でもついて」
「ええ杖をついて……」
愛子は考え深そうに口を(つぐ)んだ。


愛子とお母さんと柏翠とは敦賀で降りた。そうして私と立子との乗っている汽車がそのまま発車して京都へ向うのに淋しく手を振っていた。
三国の町は九頭竜川に沿うてその河口まで帯のように長く延びている。昔の日本海を通る船はたいがいここに船繋(ふながか)りしたのだそうで、三国港といえばずいぶん殷賑(いんしん)(きわ)めたものであったといわれる。最近まで絃歌(げんか)の湧きたつ妓楼(ぎろう)がたくさんあったそうである。今でも町を通ってみるとそれらしい家が軒を並べておるのが目につく。その九頭竜川に(のぞ)んだ寺に俳妓哥川(かせん)隠栖(いんせい)しておった寺があるが、そうしてそこの住職も永諦(えいたい)といって柏翠の俳句の弟子であるが、その近所の家に愛子とお母さんは住まっている。お父さんは別の大きな家に住まっていて、ときどきこのお母さんの家に来るのだそうである。私は、
川下の()の家を訪ふ春の水 虚子
という句を空想して作ったが、そのお父さんのいる本家というのは町の中央にあって、愛子の家がやはり川下であったことを後になって知った。
はじめ金津(かなつ)で三国線と乗換えた時に、柏翠と愛子とが迎えに来ているのを人中に見出した。時雨日和(しぐれびょり)であったので、その辺が薄暗く、藁頭巾(わらずきん)というものをかぶった人が多い中に、それらの人々にもまれている二人の姿を見出した時は淋しかった。私らはここに来るまで、二人の健康が気にかかっていたのであるが、この時雨日和に三国からここまで私らを迎えに来ているのをまず心強く覚えたのであった。
愛子の家の床脇(とこわき)に愛子によく似た一人の娘さんの大きな写真が飾ってあった。これは愛子の姉さんだそうであるが、若くして()くなったということである。そのほかにまだ一人の兄さんがあったが、それも若い時分に亡くなったそうである。生きていたらばちょうど柏翠ぐらいの年輩であるとお母さんは話していた。今は親一人子一人で、愛子とお母さんと、それに最近は柏翠と、この三人が、互に頼り頼られて淋しい生活を営んでいるもののようにも見えた。
以前柏翠が鎌倉の家へ来た時分に、
「このごろ、愛子と結婚しようかと思うこともあるのですが……」
と私の顔を見てから、
「二人とも体が悪いのですから……」
と言い(よど)んだ。私はしばらく考えてから、
「結婚してすぐ不幸な目に逢う人も多いようだから、まあよく考えてからにしたまえ」
と言った。そうして何だか、そんなことは言うべきことでないような心持もしたのであったが、柏翠は決然とした口調で、
「結婚しないことにしましょう。その方が結局二人の幸福ですから」
と言った。私は今まで私のいうことは何でも正直に守る柏翠であることを知っているので、柏翠のこの言葉に対して、惨酷(ざんこく)申訳(もうしわけ)のないことを言ってしまったように覚えた。しかしそれをまた取消す気にもなれなかった。
柏翠は鎌倉の七里ケ浜の鈴木病院に十年間も入院していた天涯孤独(てんがいくどく)の人で、そこでやはり入院してきた愛子とも逢い、また愛子のお母さんとも心やすくなったのである。愛子が柏翠に俳句を学んだのはそのころである。その後愛子は三国に帰り、柏翠は鎌倉と三国を往来し、今は三国に滞留しているのである。
金沢の俳句会のすんだ翌日、山中の温泉に行くことになって、その俳句会に列席した柏翠と愛子とお母さんと、また愛子の友だちの美佐尾もやはりいっしょに行くことになった。
美佐尾というのは、愛子のお父さんが銀行の頭取(とうどり)をしていた時分にやはりその銀行の重役であった人の娘で、男子を(しの)ぐくらい立派な体格をしているのであるが、よそに()して間もなく不幸にして一人の女の子を速れて里方に帰っておるのである。愛子よりは年上であるが、愛子の俳句の仲間でもあり、また病弱な愛子のために行届いた親切な友でもあった。
その朝早く金沢の宿の廊下で愛子の姿を照らしだした電灯の光は暗かった。「よくおやすみでしたか」と聞くと「よくやすみました」と答えはしたが、顔色も悪く元気もなさそうに見えた。その傍に美佐尾の丈高い幅の広い姿も見えた。
山中に着いた時は非常に寒かった。宿の前の山は一面に紅葉していたが、その全山の紅葉の上に雪がさらさらと降っていた。それが大変に美しかった。寒いのも忘れて、障子(しようじ)を開けて皆それを見ていた。一行は三十人ばかりであった。ハンケチで(のど)を巻いている愛子も人々に交ってその雪を見ていた。柏翠も襟巻(えりまき)に顔を埋めて同じく人々に交っていた。柏翠は時々(せき)をしていた。
また一句会はじまった。金沢の俳句会の時もそうであったように、俳句を作らぬお母さんは、句会の間は愛子の後ろに隠れるように坐っていて、一座の邪魔(じやま)にならぬようにつとめていた。
その晩寒々とした広間に三十ばかりの(ぜん)が並べられて皆そこに坐った。それは温泉宿によく見る演芸場の一端であったが、その三十人ばかりの人が、片隅にちまちまとかたまって坐っていた。
例のとおり主催者側の挨拶(あいさつ)があってから、盃がまわるにつれてだいぶ皆饒舌(じようぜつ)になってきた。一座はざわめきたった。広間の一方にかたまっているように見えた三十人ばかりの人も今は座敷いっぱいにいるようた思えてきた。愛子や柏翠はと見ると皆おとなしく(はし)()っていた。美佐尾もお母さんもやはり汁椀を取り上げて顔を半
ば隠していた。
そのうち座を立って私や立子の前に来る人がだんだん()えてきた。飲みすぎないようにと気をつけていたのではあるが、受けては返す盃が重なってくるのであった。その時私の後ろ脇に来て坐った一人の人があった。それは大阪の本田一杉(いつさん)であった。一杉は小松生れの人でちょうど用事があって帰国したら、私が今日この山中に来たという話が聞えたので、後を追ってきて最前の句会にも列席したのであった。だいぶ席が乱れはじめたころだったので、私の傍に来てこれも私に盃をすすめた。見ると一杉の顔もだいぶ酔がまわっているように見えた。その他人々の顔がたくさん私の前にあったが、それらの人も皆酔うているらしく、しきりに私に盃をさした。その時私の前に来て坐ったのはお母さんであった。
「お慰みに一つ唄わせてもらいましょう」
そう言って(うた)いはじめた。さびた声で覚えず耳を傾けしめた。この人が三国で鳴らした名妓であったろうということはかねがね想像したところであるが、この俳句会の一行には今までは蔭に蔭にと身を置いて、あるかなきかの存在であったのである。それはそういう風に振舞っでいることが尋常の人ではなかなかできぬことであろうと思われもしたのであるが、その人が今私の前に坐って、目の前に現れて、きちんと座を正して、唄を謡ってくれたということに私の胸は打たれた。「御立派ですね」と()めることすらがこの人にはおかしいように思われて、私はただ黙って盃をさした。私はこの場合この思いもよらぬ座を引締(ひきし)めた芸の力というよりもこの思いもよらぬ私をもてなすための優れた芸に少し眼がしらが熱くなってくるのを覚えた。
そのうち誰かがすすめたものであったか、またみずから進んでやったものか、お母さんは立上って踊りはじめた。それがまた立派な手ぶりであった。ここにもまた昔の名妓の面影(おもかげ)を見ることができて、私の眼からは涙がこぼれ落ちるばかりになった。もとよりそれは酔が手伝ったためでもあった。
その時ふと座を立ってそのお母さんの後ろに立ったのは愛子であった。それがまた踊るのであった。私はあのかぼそい弱々しい愛子がここに現れようとは予期しなかったので、たちまち胸にこみ上げてくるものがあった。
私はついに涙があふれてきた。覚えずハンケチを取りだして歔欷(きよき)するのを人に見られまいとしたが、及ばなかった。たちまち声を放って泣いた。しばらく()って気がついてみると、私の傍にいた立子も泣いていた。遠くに坐っていた美佐尾も泣いていた。その他の人は皆七十の老翁(ろうおう)が声を放って泣くのを()げんな顔をして見つめていた。第一踊っていたお母さんや愛子は踊るのを止めて、それに柏翠も、心配そうに私の前に来て坐ったが、私はなお泣くのを止めぬために自分らの座に帰って静かに坐った。愛子はしばらく黙ってうつむいていたが、ついにハンケチを顔に当てて泣きはじめた。
その時後ろに坐っていて声高に演説めいた口調で怒鳴(どな)りはじめたのは一杉であった。何を言っているのか充分に判らなかったが、ところどころ聞きとれたところを綜合してみると、それはこういう意味であるらしかった。とかく若い諸君は自分らのために先生を利用しようとして遠方まで引張りだす。それがために先生は泣くのである。諸君は(つつし)まなけれぼならぬ、とこういうことを()り返して言っているようである。噌人の若い幹事は畳の上に平蜘蛛(ひらぐも)のように手をついて、悪うございました、どうか御勘弁(こかんべん)を願います、と私にあやまっていた。かかる騒々(そうぞう)しい間も、愛子はなおハンケチを顔に当てたまま潸々(さめざめ)と泣いていた。私も泣くのを止め、立子も泣き止め、美佐尾も泣き止めたのであるがなおいつまでも泣き続けていた。
私はなぜ泣いたのか、おそらくそれは酔い泣きというものであろう。昔、木賊(とくさ)(おきな)は、子を失いて信濃のそのはら山で木賊を刈り、道行く人をとめて、子に行き逢うことを望んでいたが、時には子を思うあまりに、盃を(ふく)んで酔い泣くことがあると謡曲にある。私が泣いたのはその木賊の翁の酔い泣きに似ているともいえるであろう。
その夜立子と愛子と美佐尾とは温泉にはいった。裸になって湯壷にひたってみると、美佐尾はずばぬけて大きく、立子は小さかったが、愛子はさらにさらに小さかったといった。そうして美佐尾の乳房を愛子は赤ン坊のごとく吸う真似(まね)をしたと。これは立子がその後私に話したことであった。
その翌朝は天気がよかったので皆打ち晴れた顔をして宿を出た。多くの人は北に別れて、私と立子と、愛子、お母さん、柏翠、美佐尾の六人は南下する汽車に乗った。
美佐尾だけ福井で降りてまず三国に帰り、残る五人は敦賀(つるが)に向ったのであった。
その後私は小諸(こもろ)にいて、浅間の山にかけてすばらしい虹が立ったのを見たことがあった。私は愛子に葉書を書いた。
それには俳句を三つ(したた)めた。

浅間かけて虹のたちたる君知るや
虹たちて忽ち君の在る如し
虹消えて忽ち君の無き如し