永井荷風「細雪妄評」

細雪妄評
 小説の巧拙を論ずるには篇中の人物がよく躍如(やくじよ)としているか否かを見て、これを言えば概して間違いはない。
 人物の躍如としているものは必ず傑作である。人物が躍如としていれば、その作は読後長く読者の心に印象を留める力がある。作者はその人物を空想より得来ったか、あるいはモデルによろしきを得たか否かは、深くこれを追究するに及ばない。
 谷崎君の長篇小説細雪(ささめゆき)は未完ではあるが、すでに公刊せられた上中の二巻を読んで、わたくしはその人物のさして重要でないものに至るまでその面目は皆活けるがごとく躍如としているのに驚かされた。(篇中なにがしという下女のごとき、あるいは隣家に住む独逸(ドイツ)人の家族のごとき、白系露国人の老婆のごとき皆躍如としている。)
 かつてわたくしは小説作法なるものを草して、小説をつくろうとする青年に示して、小説述作の基礎とすべきものは人物に対する観察と、全篇を構成すべき思想とであることを説いた。しこうしてこの二事はその熟すべき時間を待たねばならない。速急にはなし得べきものでないことを(あわ)せ論じた。
 細雪を見るに、作者がこの一篇をなすに当って多数なる人物の観察と、つづいてその構想とに、かなり長い歳月を必要としたことが推察される。戦争中その上巻の公表よりして今日に至るまでの歳月を数えてもすでに五年を(けみ)している。
 細雪の作風は純然としてまた整然として客観的の範囲を厳守している。明治以来わが現代の小説中、その作風のかくのごとく整然として客観的なるものはいまだかつて見られなかった。田山花袋(たやまかたい)一派の作者が一時小説に客観的作風の重んずべきを説いたことがあったが、その作例にはかえってこれが証となすべきものを示すことが出来なかった。その傑作と称せられる「蒲団(ふとん)」のごときも、今日よりこれを()れば純然たる客観的作品となすには作者の態度において欠くるところが(すくな)くなかった。これに反して、細雪は余の見るところその客観的なることはけだしフローベルのボワリイ夫人、また感情教育の二大作に比するも遜色(そんしよく)なきものであろう。
 元来客観を主とした長篇小説は布局に変化が少いので、ややもすれば読者を倦ましめやすい。これを救うものは深刻なる心理描写を試むるに、洗練の極地に達した文辞の妙をもってするよりほかに手段がない。非凡なる文章家にあらざる限り、客観的長篇の小説は作り得られるものでない。二葉亭(ふたばてい)鴎外(おうがい)二家の著作はよくこれを証明している。  谷崎君が初めて文壇に現われたのは、明治四十三四年であった。歳月を閲すること四十余年である。その間に制作せられた諸名篇のうち、その客観的手法を用いて目ざましき成功を示したもの、この細雪に()くはない。
 細雪の篇中、神戸市水害の状況と、嵐山看花(かんか)の一日を述べた一節とは、言文一致をもってした描写の文の模範として、永遠に尊ばれべきものであろう。わたくしは鴎外先生の蘭軒伝(らんけんでん)のほかに、その趣を異にした言文一致体の妙文を得たことを喜ばなければならない。
 細雪は昭和年代の関西における一旧家族の渾然(こんぜん)たる歴史である。わたくしは今日まで東京以外の生活については全く知るところがない。篇中人物の行動と感情と、また風土気候に関しても、初めて知るを得たものが少くない。細雪閲読の興味はさながらダヌンチオの小説を読んで伊太利(イタリー)の風物を想い見るがごとくである。
 細雪上中の二巻を通読して、わたくしの得た印象を述べると、教養ある関西人の生活の裏面、その感情の根柢には今日もなおゆるやかなる平安朝時代の気味合いの湮滅(いんめつ)せずに存在していることである。この一事は東京に成長して他郷を知らないわたくしには非常なる興味を催さしめた。篇中東京へ移住しなければならない若き婦人が、しばらく関西を後にする名残(なご)りに、家族とともに嵐山に花を見に行く情味のごときは、けだしその一例である。何となく平家物語に見るような情調が、今なお関西人の胸底には(ひそ)み隠れているのである。彼らが嵐山の濟花はわれわれ東京の人がかつて年々隅田川に花を見た時の感情とは全く異なるところがある。
 作者の関西における一般の観察は全く驚くべき境にまで到達している。一年二年の観察をもってしてはとうていよくすべきかぎりではない。小説の巧拙は、その観察と思想との如何(いかん)を見て、これを論ぜよと、わたくしの言ったのは、おそらく大した間違いではあるまい。妄評多罪。
              昭和二十二年十一月草