長谷川時雨「明治美人伝」


明治美人伝
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空の(うるわ)しさ、地の美しさ、万象の(たえ)なる中に、あまりにいみじき人間美は永遠を誓えぬだけ
に、(もろ)き命に(はげ)しき情熱の魂をこめて、たとえしもない刹那(せつな)の美を感じさせる。
美は一切の道徳規矩(どうとくきく)を超越して、ひとり(ほこ)らかに生きる力を許されている。古来美女たちのその実際生活が、当時の人々からいかに罪 され、(さげ)すまれ、(おと)しめられたとしても、その事実は、すこしも彼女たちの個性的価値(ねうち)抹殺(まつさつ)する事は出来なかっ た。かえって伝説化された彼女らの面影は、永劫(えいこう)にわたって人間生活に夢と詩とを寄与(きよ)している。
 小さき夢想家であり、美の探求者(たんきゆうしや)であるわたしは、古今の美女のおもばせを慕ってもろもろの書史(ふみ)から、語草(かたりぐさ)か ら、途上の邂逅(かいこう)からまで、かずかずの女人をさがしいだし、その(ひと)たちの生涯の片影(へんえい)(しる)しとどめ、折にふれて世の 人に、紹介することを忘れなかった。美しき彼女たちの(小伝)は幾つかの巻となって世の中に読まれている。
 そしてわたしの美女に対する(こま)かしい観賞、きりきざんだ小論はそうした書にしるしておいた。ここには総論的な観方(みかた)で現代女性を生んだ丹の「明治美人」を記して見よう。
 それに先だって、わたしは此処(ここ)にすこしばかり、現代女性の美の特質を幾分書いて見なければならない。それはあまりに急激に、世の中の美人観が 変ったからである。古来、各時期に、特殊な美人型があるのはいうまでもないが、「現代は驚異である」とある人がいったように、美人に対してもまたそういう ことがいえる。
 現代では度外(どはず)れということや、突飛(とつぴ)ということが辞典から取消されて、どんなこともあたり前のこととなってしまった。実に「驚異」横 行の時代であり、爆発の時代である。各自の心のうちには、空さえ飛び得るという自信をもちもする。まして最近、(おり)を蹴破り、桎梏(しつこく)をか なぐりすてた女性は、当然ある(たか)ぶりを胸に抱く、そこで古い意味の(調和)占い意味の(諧音)それらの一切は考えなくともよいとされ、現代の女性 は(不調和)のうちに調和を示し、音楽を夾雑膏のうちに聴くことを得意とする。女性の胸に燃えつつある自由思想は、各階級を通じて(化粧)(服装)(装 身)という方面の伝統を蹴り去り、外形的に(破壊)と(解放)とを宣言した。調(ととの)わない複雑、出来そくなった変化、メチャメチャな混乱ーーいかに も時代にふさわしい異色を示している。
 時代精神の中枢は自由である。束縛は敵であり跳躍は味方である。各自の気分によって女性は、おつくりをしだした。美の形式はあらゆる種類のものが認識される。
 黒狐の毛皮の、剥製標本(はくせいひようほん)のような獣の顔が紋服の上にあっても、その不調和を何人(なんぴと)も怪しまない。十年前、メエテルリン ク夫人の(ひよう)外套(がいとう)は、仏蘭西(フランス)においても、亜米利加(アメリカ)においても珍重されたといわれるが、現代の日本において は、気分的想像の上ですでにそんなものをば通り越してしまっている。
 その奔放な心持ちは、いまや、行きつくところを知らずに混沌(こんとん)としている。けれども、この思い切った突飛(とつぴ)の時代粧をわたしは愛し尊 敬する。なぜならば進化はいつも混沌をへなければならないし、改革の第一歩は勇気に根ざすほかはない。いかに馴化(じゆんか)された美でも、古くなり気が 抜けては、生気に充ちみちた時代の気分と合わなくなってしまう。混沌たる中から新様式の美の発見をしなければならない。そこに新日本の女性美が表現される のであるからi
 なごやかな、そして湿(しめ)やかな、()みしめた味をよろこぶ追懐的情緒は、かなり急進論者のように見えるわたしを、また時代とは逆行させもする が、過激な生活は動的の美を欲求させ、現代の女性美は現代の美の標準の方向を表示しているともいえるし、現代の人間が一般的に、どんな生き方を欲している かという問題をも、痛切に表現しているともいえる。で、その時代を(かも)した、前期の美人観をといえば、一口に、明治の初期は、美人もまた英雄的で あったともいえるし、現今のように】般的のー1おしなべて美女に見える――そうしたのではなかった。
[。とても昔なら醜女(しこめ)とよばれるのだが、当世では美人なのか。」と、今日の目をもたない、古い美人観にとらわれているものは歎声を発しるが、徳川末期と明治期とは、美人の標準の度があまりかけはなれてはいなかった。
 無論明治期にはいって、丸顔がよろこばれてきていた。「色白の丸ポチャ」という言葉も出来た。女の眼には鈴を張れという前代からの言いならわしが、力強 く表現されてきている。けれど、やはり瓜実顔(うりざねがお)(しも)ぶくれー鶏卵形が尊重され、(かく)ばったのや、(ひたい)の出たのや、顎 (あご)の突
出たのをも異国情緒ー個性美の現われと悦ぶようなことはなかった。
 瓜実顔は勿論徳川期から美人の標型になっていた。その点で明治期は美人の型を破り、革命をなし()げたとはいえない。そして瓜実顔は上流貴人の相で ある。その点で明治美人は伝統的なものであり、やはり因習にとらわれていたともいえる。維新の政変はお百姓の出世時(しゆつせどき)というようなことを、 都会に生れたものは口にしていたが、「お百姓の出世」とは、幕府直参(じきさん)でない、地方(ざむらい)の出世という意味で、決して今日のように 民衆の時代ではなかった。美人の型もおのずから法則があった。
 とはいえ、徳川三百年の時世にも、美人は必ずしも同じ型とはいえない。浮世絵の名手が描き残したのを見てもその推移は知れる。春信(はるのぶ)、春章 (しゆんしよう)歌麿(うたまろ)国貞(くにさだ)と、豊満な肉体、丸顔から、すらりとした姿、脚と腕の肉附きから腰の丸味ll富士額(ふじびたい)   触覚からいえば柔らかい慈味(じみ)のしたたる味から、幕末へ来ては歯あたりのある苦みを含んだものになっている。多少骨っぽくなって、頭髪などもさ らりと(あら)っぽい感じがする。羽二重や、(ぬめ)や、芦手(あしで)模様や匹田鹿(ひつたが)()の手ざわりではなく、ゴリゴリする浜ちり めん、透綾(すきや)、または浴衣(ゆかた)の感触となった。しかしこれは(おも)に江戸の芸術であり、風俗である。京阪移殖(けいはんいしよく)の美 人型が、(ようや)く、江戸根生(ねおい)の個性あるものとなったのだった。錦絵、芝居から見ても、洗いだしの木目(もくめ)をこのんだような、江戸 系の素質を(みが)き出そうとした文化、文政以後の好みといえもする。  その問に、明治中期には、中京美人の輸入が花柳界を風靡(ふうび)した   が、あらそわれないのは時代の風潮で、そうしたかたむきは、京都を主な生産地としている内裏雛(だいりびな)にすら、顔立ち体つきの変遷が見られる。内裏 雛の顔が(とが)って、神経質なものになったのは、明治の末大正の初めが(はなはだ)しかった。
 上古の美人は多く上流の人のみが伝えられている。(まれ)には国々の(うる)わしき少女(おとめ)を、花のように()めるおもわ、月の光りのよ うに照れる(おもて)とうたって、肌の(つや)極めてうるわしく、額広く、(うれい)の影などは露ほどもなく、輝きわたりたる面差(おもざし)晴々 として、眼瞼(まぶた)重げに、眦長(まなじり)く、ふくよかな匂わしき(ほほ)、鼻は大きからず高すぎもせぬ柔らか味を持ち、いかにものどやかに品位 がある。光明皇后(こうみようこうこう)の御顔をうつし(たてまつ)ったという仏像や、その他のものにも当時の美女の面影をうかがう事が出来る。上野博 物館にある吉祥天女(きつしようてんによ)の像、出雲(いずも)大社の奇稲田姫(くしいなだひめ)の像などの貌容(がんよう)に見ても知られる。
 平安朝になっては美人の形容が「あかかがちのように(れいれい)々しく」と讃えられている。「あかかがち」とは赤酸漿(たんばほおずき)()の 古い名、当時の美女はほおずきのように丸く、赤く、艶やかであったらしくも考えられる。赤いといっても色艶(いうつや)うるわしく、匂うようなのを言った のであろう。古い絵巻などに見ても、骨の細い、肉つきのふっくりとした、額は広く、頬も豊かに、丸々とした顔で、すこし首の短いのが描いてある。そのころ は、髪の毛の長いのと、涙の多いのとを女の命としてでもいたように、物語などにも姿よりは髪の美しさが多くかかれ、敏感な涙が多くかかれてあるが、徳川期 の末の江戸女のように、加息婦曜と張りを命にして・張詰めた滞灑ドぼろぼろこぼすのと違って、細い、きれの長い、情のある(まなじり)をうるませ、几帳 (きちよう)のかげにしとしとと、春雨の降るように泣きぬれ、(うち)かこちた姿である。鎌倉時代から室町の頃にかけては、前期の女性を雛、または藤の 花にたとうれば・梅舞しさと、山桜の、無情を観じた風情(ふぜい)を見出すことが出来る。生に対する深き執着と、(あきら)めとを持たせられた美女たち は、前代の女性ほど華やかに、湿やかな趣きはかけても、(さび)渋味(しぶみ)が添うたといえもする。この期の女性の、無情感と諦めこそ、女性には実 に一大事となったのだが、美人観には記す必要もなかろう。
 徳川期に至っては、元禄の美人と文化以後のとはまるで好みが違っている。しかしここに来て、くっきりと目立つのは、上流の貴女ばかりが目立っていたのか ら、すべてが平民的になった事である。ひとつには当時の上流と目される大名の奥方や、姫君などは、(かご)(とり)同様に檻禁(かんきん)してし まったので、勢い下々(しもじも)の女の気焔(きえん)が高くなったわけである。湯女(ゆな)遊女(ゆうじよ)、掛茶屋の茶酌女(ちやくみおんな)等 は、公然と多くの人に接しるから、美貌はすぐと拡まった。
  当世貌(とうせいがお)は少しく丸く、色は薄模様にして、面道具(めんどうぐ)の四つ不足なく揃へて、目は細きを好まず、(まゆ)厚く鼻の問せわし からずして次第に高く、口小さく、歯並(はなみ)あらくとして白く、耳長みあつて縁浅く、身を離れて根まで見えすき、(ひたい)ぎはわざとならず自然に 生えとまり、首筋たちのびて、(おく)れなしの後髪、手の指はたよわく、長みあつて(つめ)薄く、足は八(もん)()の定め・親指炭つて 裏すきて・胸間常の人より長く、腰しまりて齔踐たくましからず、尻はゆたかに、物こし衣装つきよく、姿の位そなはり、心立(こころだて)おとなしく、女に 定まりし芸すぐれて(よろず)(いや)しからず、身にほくろひとつもなき
井原西鶴(さしカく)はその著『一代女』で所望している。
 明治期の美女は感じからいって、西鶴の注文よりはずっと(あら)っぽくザラになった(身にほくろ一つもなき)というに反して、西洋風に額にほくろを描くものさえ出来た。
 徳川期では、吉原(よしわら)島原(しまばら)(くるわ)が社交場であり、遊女が、上流の風俗をまねて更に派手やかであり、そして、女としての教 養もあって、その代表者たちにより、時代の女として見られた。それに次いで、明治期は、芸者美が代表していたといえる。貴婦人の社交も(ひろ)まり、女 子擡頭(たいとう)の気運は盛んになったとはいえ、そしてまた、女学生スタイルが、追々に花柳界人の跳梁(ちようりよう)駆逐(くちく)したとはい え、それは、大正の今日にかかる(かけはし)であって、明治年間ほど芸妓の跋扈(ばつこ)したことはあるまい。恰度(ちようど)前代の梓交が吉原であっ たように、明治の政府と政商との会合は多く新橋、赤坂辺の、花柳明暗(かりゆうめいあん)の地に集まったからでもあろう。芸妓の鼻息はあらくなって、真面 (まじめ)な子女は眼下に見下され、要路の顕官貴紳(けんかんきしん)、紳商は友達のように見なされた。そして誰氏の夫人、彼氏の夫人、歴々たる人々の 正夫人が芸妓上りであって、遠き昔はいうまでもなく、昨日まで幕府の役人では小旗本といえど、そうした身柄のものは正夫人とは許されなかったのに、一躍し て、雲井に近きあたりまで出入することの出来る立身出世ー(たま)輿(こし)の風潮にさそわれて、家憲(かけん)厳しかった家までが、(しもじも) 々では一種の見得(みえ)のようにそうした家業柄の者を、いきなり家庭の主婦として得々としていた-liこれは中堅家庭の道徳の乱れた源となった。
 しかしながら、それは国事にこと茂くて、家事をかえり見る(いとま)のすけなかった人や、それほどまでに栄達して、世の重き人となろうとは思わなかっ た人の、軽率な、というより、()むを()ぬ情話などが(から)んでそうなったのをfしかもその美妓たちには、革進者を援ける気概のあ
った驟れた婦人も多かったのだ  世人は改革者の人物を鋸儀して、それらのことまで目標とし、師表とした誤りである。ともあれ、前時代の余波をうけて、堅 気な子女は深窓を出ず、几帳(きちよう)をかなぐって、世の中に飛出したものもなかったので、勢い明治初年から中頃までは、そうした階級の女の跳躍にまか せるより外はなかった。
 ここに(さん)として輝くのは、旭日(あさひ)に映る白菊の、清香(かん)ばしき明治大帝の皇后宮、美子(はるこ)陛下のあれせられたことである。
 陛下は(まれ)に見る美人でおわしました。明眸皓歯(めいぼうこうし)とはまさにこの君の御事と思わせられた。いみじき御才学は、包ませられても、御詠出の御歌によって(もう)(けたま)わる事が出来た。
 明治聖帝が日本の国土の(かがや)きの権化(ごんげ)でおわしますならば、桜さく国の女人の精華は、この后であらせられた。大日輪の光りの中から聖帝 がお生まれになったのならば、天地馥郁(てんちふくいく)として、花の咲きみちこぼれたる匂いの(しべ)のうちに、麗しきこの女君(めぎみ)は御誕生な されたのである。明治の御代に生れたわたしは、何時もそれをほこりにしている。一天万乗(ばんじよう)の大君の、御座(ぎよざ)(かたわ)らにこの 后がおわしましてこそ、日の本は天照大御神の末で、東海貴姫国とよばれ、八面玲瓏(れいろうぎ)玉芙蓉峰(よくふようほう)を持ち、桜咲く旭日(あさ ひ)の煌く国とよぶにふさわしく、『竹取物語』などの生れるのもことわりと思うのであった。
 我等女性が忘れてならないこの后からの賜物(たまもの)は、長い間の習わしで、女性の心が盲目であったのに目を開かせ、心の眠っていたものに夢をさまさ せ、女というもの自身のもつ美果を、自ら耕し養えとの御教えと、美術、文芸を、かくまで盛んに導かせたまいしおんことである。それは(すた)れたるを起 し、新しきを招かれたそればかりでなく、音楽や芸術のたぐいにとりてばかりでなく、すべての文教のために、忘れてならないお方でおわしました。主上にはよ き后でおわしまし、国民にはめでたき国の宝と、思いあげる御方であらせられた。
 この、后の宮の御側には、平安朝の後宮(こうきゆう)にもおとらぬ才媛(さいえん)が多く集められた。五人の少女を選んで海外留学におつかわしになった ことや、十六歳で見出された下田歌子(しもだうたこ)女史、岸田俊子(きしだとしこ)(湘煙(しようえん))女史があり、女学の道を広めさせられた思召 (おぼしめし)は、やがて女子に稀な天才が現われるときになって、御余徳(おんよとく)がしのばれることであろう。一条左大臣の御娘である。



 わたしは此処に、代表的明治美人の幾人かの名を(しる)そう。そしてその中からまた幾人かを選んで、短かい伝を記そう。上流では北白川宮大妃富子殿 下、故有栖川宮(ありすがわのみや)慰子(やすこ)殿下、新樹(しんじゆつ)(ぼね)、高倉典侍、現岩倉侯爵の祖母君、故西郷従道(さいこう つぐみち)侯の夫人、現前田侯爵母堂、近衛公爵の故母君、大隈(おおくま)侯爵夫人綾子、戸田伯爵夫人極子(きわこ)を数えることが出来る。東伏見宮 周子(かねこ)殿下、山内禎子(やまうちさだこ)夫人、有馬貞子夫人、前田漾子(まえだようこ)夫人、九条武子夫人、伊藤煙子(いとうあきこ)夫人、小笠 原貞子夫人、寺島鏡子夫人、稲垣栄子夫人、岩倉桜子夫人、古川富士子夫人の多くは、大正期に語る人で、明治の過
去には名をつらねるだけであろうと思われる。
 山県公の前夫人は公の恋妻であったが二十有余年の鴛鴦(えんおう)の夢破れ、公は片羽鳥(かたわどり)となった。その後、現今の貞子夫人が側近(そばち こ)う仕えるようになった。幾度か正夫人になるという(うわさ)もあったが、彼女は卑下して自ら夫人とならぬのだともいうが、物堅い公爵が許さず、一門 にも許さぬものがあって、そのままになっているという事である。表面はともあれ、故(かつら)侯などは正夫人なみにあつかわれたという、その余の輩 (ともがら)にいたってはいうまでもない事であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。
 貞子夫人の姉たき子は紳商益田孝(ますだたかし)男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事(ちやじ)ばかりの朋友(とも)ではない。その関係を 知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。相州板橋にある山県公の古稀庵(こきあん)と、となりあう益田氏の別荘とは その密接な間柄をものがたっている。
 姉のたき子は()せて眼の大きい女である。妹の貞子は色白な(つつ)ましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官 僚式に風靡し、大御所(おおごしよ)公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心の(きず)がある。 彼女たち姉妹がまだ十二、三のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢(むく)な娘心をいためたであろ う。子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する  近松翁の「(てん)網島(あみじま)」は昔の語りぐさでは なく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方である。明治十六年の夏、山工(さんのう)-麹町日枝(ひえ)神社の大祭のおりのことであった。芸 妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞(てニまい)に出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋(かじや)に奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそ ながら別れをかわしたト、檜物町(ひものちよう)の、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。
 彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛(かみやじへえ)は他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋(とうぶつや)吉田
古兵衛なのである。
 彼女たちの父は入婿(いりむご)であった。母は気強(きこう)な女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身を(ほろぽ)したので
ある。其処に人世の暗いものと、心の葛藤(かつとう)とがなければならない。結びついて(から)まった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。
 その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手(あいて)の男の遺子たちに向って、お前方も成長(おおき)くなるが、間違ってもこんな真似をしてはい けないという意味を言聞かして、涙一滴(いつてき)こぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。その折、言聞かされて(うなず)いていた少女 が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みと(つつら)みをもたなければならないであろう妓女(げいしや)に、この姉 (きようだい)をした。彼女たちは(すぐ)に新橋へ現れた。
 複雑な心裡(しんり)の解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運を()ち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵に(かしず)いて三十 年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家と いう芸妓屋を出していた。そして後の夫は講談師伯知(はくち)である。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持っ た貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
 その他淑徳(しゆくとく)の高い故伊藤公爵の夫人梅子も前身は馬関(ばかん)の芸妓小梅である。山本権兵衛伯夫人は品川の妓楼に身を沈めた女である。 桂公爵夫人加奈子も名古屋の旗亭香雪軒(きていかせつけん)の養女である。伯爵黒田清輝画伯夫人も柳橋でならした美人である。大倉喜八郎夫人は吉原の引手 茶屋の養女ということである。銅山王古川虎之助氏母堂は、柳橋でならした小清さんである。
 横浜の茂木(もぎ)、生糸の茂木と派手にその名がきこえていた、生糸王野沢屋の店の没落は、七十四銀行の取附け騒ぎと共にまだ世人の耳に新らしいことで あろう。その茂木氏の繁栄をなさせ、またその繁栄を没落させたかげに、当代の若主人の祖母おちょうのある事を知る物はすけない。彼女は江戸が東京になって 問もない赤坂で、常磐津(ときわず)の三味線をとって、師匠とも町芸者ともつかずに出たが、思わしくなかったので、当時開港場として盛んな人気の集った、 金つかいのあらい横浜へ、みよりの琴の師匠をたよって来て芸者となった伝法(でんぽう)な、気っぷのよい、江戸育ちの歯ぎれのよいのが、大きな運を(か け)てかかる投機的の人心に合って、彼女はめきめき(、、、、)と売り出した。その折、彼女の野心を満足させたのは、横浜と共に太ってゆく資産家野沢屋の 旦那をつかまえたことであった。
 野沢屋茂木氏には糟糠(そうこう)の妻があった。彼女は遊女上りでこそあるが、一心になって夫を助け家を(とま)した大切な妻であった。その他に野沢 屋には総番頭支配人に、生糸店として野沢屋の名をなさせた大功のある人物があった。その二人のために、さすがに(おぽ)れた主人も彼女をすぐに家に入れ なかった。長い年月を彼女は外妾として暮さなければならなかった。
 茂木氏夫妻には実子がなかった。夫婦の(めい)(おい)を呼び寄せ、めあわせて二代目とした。ところが外妾の方には子が出来た。女であったので後 に養子をしたが、現代の惣兵衛氏の親たちで、女が野沢屋の大奥さんとして、出来るだけの栄華にふける種をおろしたのであった。
 過日あの没落騒動(ぽつらく)があった時に、おなじ横浜に早くから目をつけて来たが、茂木氏のような運を(つか)み得ないで、国許(くにもと)に居るときよりは、一層せちがらい世を送っている者たちはこう言つた。
 「とうとう本妻の罰があたったのだ。悪運も末になって傾いて来たのだ。」
 なるほど彼女はかなり深刻な悲惨な目を見たのである。彼女は王侯貴人にもまさる贅沢(ぜいたく)が身にしみてしまっていた。そして彼女のはなはだしい道 楽ーー彼女が生甲斐(いきがい)あるものとして、生きいるうちは一日も止めることの出来ないように思っていた、芸人を集めて、かるた遊びをしたり、弄花 (ろうか)(なぐさ)みにふけることは、どうしてもやめなければならないような病気にかかっていた。長い間の酒色(しゆしよく)放埒(ほうらつ)の むくいからか、彼女の体は自由がきかなくなっていた。それでも彼女の(おご)りの癖は、吉原の老妓や、名古屋料理店の大升(だいます)の娘たちなどを、 入びたりにさせ、機嫌をとらせていた。看護婦とでは、十人から十五人の人たちが、彼女の手足のかわりをして慰めていた。風呂に入る時などは幕を張り、屏風 (びようぶ)をめぐらし、そして(しずしず)々と、ふくよかな羽根布団にくるまれて、室内を軽く(すべ)る車で、それらの人々にはこばせるのであっ た。野沢屋の店が、この親子三人i彼女は祖母で、娘は未亡人となり、主人はまだ無妻であった  のために刀々仕払う生活費は一万円であったということであ る。無論たった三人のために台所番頭という役廻りまであって、その人たちは立派な一家をなし、中流以上の家計を営んでいたのである。
 お(かみ)女中、お(しも)女中、三十人からの女中が一日、齷齪(あくせく)とすわる暇もなく、ざわざわしていた家である。台所もお(かみ)の台所、お(しも)の台どころとわかれ、器物などもそれぞれに応じて来客にも等差が非常にあった。
 彼女はそうした生活から、そうした放縦(ほうしよう)の疲労から老衰を早めた。おりもおり、さしもに誇9を持った横浜の土地から、或夜、ひそかに逃げだ さなければならなかった。彼女は幾台かの自動車に守られて、かねて東京へ来たおりの遊び場処ー7一と、それも贔屓(ひいき)のあまりにかい取っておいた、 赤坂仲の町の俳優尾上梅幸(おのえばいこう)の旧宅へと隠れた。
 とはいえ彼女はさすがに苦労をした女であり、また身にあまる栄華を尽したことをも悟っていたのか、家の退転については、あまり見苦しい態度はとらなかっ たということである。病床にある彼女はすっかり諦めて、これが本来なのだ、もともと通りなのだと達観しているとも聞いたが、何処(どこ)やらに非凡なとこ ろがある女という事が知れる。
 そうした幸運の人々の中には現総理大臣原敬(はらたかし)氏の夫人もある。原氏の前夫入は中井桜洲(なかいおうしゆう)氏の愛嬢で美人のきこえが高 かったが、放胆(ほうたん)な家庭に人となったので、有為の志をいだく青年の家庭をおさめる事は出来にくく離別になったが、困らぬように(ないない)々 面倒は見てやられるのだとも聞いていた。現夫人は、紅葉館の(ひと)だということである。丸顔なヒステリーだというほかは知らない。おなじ紅葉館の舞妓 (まいこ)で、(さかえ)いみじい女は博文館(はくぶんかん)主大橋新太郎氏夫人須磨子さんであろう。彼女は何の理由でか、家を捨て東京へ出て来ていた ある旅館の若主人の、放浪中に生せた娘であったが、舞踊にも(ひい)で、容貌は立並んで一際美事(ひときわみごと)であったため、若いうちに大橋氏の夫 人として入れられた。入人の子を生んでも衰えぬ容色を持っている。越後から出てほんの一書肆(しよし)にすぎなかった大橋氏は、いまでは経済界中枢の人 物で、我国大実業家中の幾人かであろう。(かたわ)らに大橋図書館をひかえた宏荘の建物の中に住い、令嬢豊子さんは子爵金子氏令嗣(れいし)の新夫人 となっている。よろずに思いたらぬことのない起伏(おきふ)しであろう。明治の文豪尾崎紅葉氏の「金色夜叉(こんじきやしや)」は、巌谷小波(いわやさざ なみ)氏と須磨子夫人をとったものと噂されたが、小波氏は博文館になくてならない人であり、童話の作家として先駆者である。氏にも美しく(けん)なる伴 (はんりよ)がある。
 大橋夫人は美しかった故にそうした艶聞誤聞を多く持った。
 長者とはーただ富があるばかりの名称ではない。渋沢男爵こそ、長者の相をも人柄をも円満に具備した人だが、兼子夫人も若きおりは美人の名が高かった。彼 女が渋沢氏の家の人となるときに涙ぐましい話がある。それは、なさぬ仲の先妻の子供があったからのなんのというのではない。深川油堀(あぶらぽり)の伊 勢八という資産家の娘に生れた兼子の浮き沈みである。
 油堀は問屋町で、伊勢八は伊東八兵衛という水戸侯の金子御用達(きんすごようたし)であった。伊勢屋入兵衛の名は、横浜に名高かった天下の糸平と比べられて、米相場にも洋銀(に.し,)相場にも威をふるったもの
であった。兼子は十二人の子女の一人で、十八のおり江州(こうしゆう)から婿(むこ)を呼びむかえた。かくて十年、家附きの娘は気兼もなく、娘時代と同 様、物見遊山(ものみゆさん)に過していたが、(かたむ)く時にはさしもの家も一たまりもなく、(わず)かの手違(てちが)いから没落してしまった。 婿になった人も子まであるに、近江(おうみ)へ帰されてしまった。(そのころ明治十三年ごろか?)市中は大コレラが流行していて、いやが上にも没落の人の 心をふるえさせた。
 彼女は溜う人ごとに芸妓になりたいと頼んだのであった「大好きな芸妓になりたい」そういう言葉の裏には、どれほどの涙が秘められていたであろう。すこし でも家のものに余裕を与えたいと思うこころと、身をくだすせつなさをかくして、きかぬ気から、「好きだからなりたい」といって、きく人の心をいためない用 心をしてまで身を金にかえようとしていた。両国のすしやという口入(くちい)れ宿は、そうした事の世話をするからと頼んでくれたものがあった。すると口入 宿では(めかけ)の口ではどうだといって来た。
 妾というのならばどうしても(いや)だと、口入れを散々手古摺(てこず)らした。零落(おちぶ)れても気位(きぐらい)をおとさなかった彼女は、渋沢 家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。その家が以前の我家(わがや)  倒産した油堀 の伊勢八のあとであろうとは  彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
 彼女はいま財界になくてならぬ大名士(だいめいし)の、時めく男爵夫人である。飛鳥山(あすかやま)の別荘に起臥(おきふ)しされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。

 三

 さて明治のはじめに娼妓解放令の出た事を、当今の婦人は知らなければならない。それはやがて大流行になった男女交際の(さきがけ)をしたもので、いわ ゆる明治十七、八年頃の鹿鳴館(ろくめいかん)時代ー;華族も大臣も実業家も、令夫人令嬢同伴で、毎夜、夜を徹して舞踏に夢中になった、西洋心酔時代の先 (せんく)をなしたものであった。その頃吉原には、金瓶楼今紫(きんぺいろういまむらさき)が名高い一人であった。彼女は昔時(いにしえ)太夫職(た ゆうしよく)の誇りをとどめた才色兼美の女で、廃藩置県のころの諸侯を呼びよせたものである。山内容堂(やまのうちようどう)侯は彼女に、その頃としては 実に珍らしい大形の立鏡(たてかがみ)を贈られたりした。彼女は今様男舞(いまようおとこまい)を呼びものにしていた。()(はかま)に水干立烏 帽子(すいかんたてえぼし)、ものめずらしいその扮装(ふんそう)は、彼女の技芸と相まってその名を高からしめた。明治廿四年依田学海(よだがくかい) 翁が、男女混同の演劇をくわだてた時に、彼女は千歳米坡(ちとせべいは)や、市川九女八(いちかわくめはち)守住月華(もりずみげつか)と土ハに女軍 (じよぐん)として活動を共にしようと()せ参じた。その後も地方を今紫の名を売物にして、若い頃の男舞いを持ち廻っていた様であった。一頃(ひとこ ろ)は、根岸に待合めいたこともしていた。晩年に夫としていたのは、()の相馬事件i子爵相馬家のお家騒動で、腹違いの兄弟の家督争いであった。兄の 誠胤(せいいん)とよばれた子爵が幽閉され狂人とされていたのを、旧臣錦織剛清(にしごおりこうせい)が助けだしたfの錦織剛清であった。
 遊女に今紫があれば芸妓に芳町(よしちよう)米八(よねはち)があった。後に千歳米坡と名乗って舞台にも出れば、寄席(よせ)にも出て投節(なげぶ し)などを唄っていた。彼女はじきに乱髪(らんぽつ)になる癖があった。席亭(せきてい)に出ても鉢巻のようなものをして自慢の髪をーある折はばらりと肩 ぐらいで切っている事もあった。彼女が米八の昔は、時の人からたった二人の俊髦(しゆんもう)として許された男i末松謙澄(すえまつけんちよう)と光明寺 三郎(こうみようじさぶろう)iいずれをとろうと思い迷ったほど、思上った気位で、引手あまたであった。とうとうその一人の光明寺三郎夫人となったが、天 は、その能ある才人に寿(じゆ)をかさず、企図は総て空しいものとされてしまった。彼女はその後、浮世を真っすぐに送る気をなくしてしまって、斗酒(とし ゆ)をあおって席亭で小唄をうたいながら、いつまでも鏡を見てくらす生涯を送るようになった。しかし伝法(でんヂう)な、負けずぎらいな彼女も寄る年波に は争われない。ある夜、外堀線(そとぽりせん)の電車へのった時に、美女ではあるが、何処やら年齢のつろくせぬ不思議な女が乗合わせた、と顔を見合わした 時に、彼女はそれと察してかクルリと後をむいて、かなり長い間を立ったままであった。席はむしろすきすぎていたのであったが、彼女は正体を見あらわされる のを(きら)ったに違いなかった。艶やかに房やかな黒髪は、巧妙にしつらわれた(かつら)なのは、額でしれた。そして悲しいことに、釣り革をにぎる手 の甲に、年数(としかず)はかくすことが出来ないでいた。
 女役者として巍然(ぎぜん)と男優をも撞着(どうちやく)せしめた技量をもって、小さくとも三崎座に同志を糾合(きゆうこう)し、後にはある一派の新劇 に文士劇に、なくてならないお師匠番として、女団洲の名を(はずか)しめなかった市川九女八(いちかわくめはち)i前名岩井粂八(いわいくめはち)1 があり、また新宿豊倉楼(とよくらろう)の遊女であって、後の横浜富貴楼(ふつきろう)女将(おかみ)となり、明治の功臣の誰れ彼れを友達づきあい にして、種々な画策に預ったお倉という女傑(じよけつ)がある。お倉は新宿にいるうちに、有名な堀の芸者小万と男をあらそい、美事にその男とそいとげたの である。彼女は養女を多く仕立て、時の顕官に結びつくよすがとした、雲梯林(うんてい)田亀太郎(はやしだかめたろう)氏ー粋翰長(すいかんちよう)とし て知られた、内閣書記翰長もまたお倉の女婿(じよせい)である。お倉は老ても身だしなみのよい女であって、老年になっても顔は艶々としていた。切髪のなで つけ被布姿(ひふすがた)で、着物の(すそ)を長くひいてどこの後室(こうしつ)かという容体であった。
 有明楼(ゆうめいろう)のお菊は、白博多(しろはかた)のお菊というほど白博多が好きで名が通っていた。それよりもまた、その頃の人気俳優沢村宗十郎 (さわむらそうじゆうろう)-助高屋高助(すけたかやたかすけ)  を夫にむかえたのと、宗十郎が舞台で扮する女形(おやま)はお菊の好みそのままであっ たので殊更(ことさら)名高かった。ことに宗十郎の実弟には、評判の高い田之助(たのすけ)があったし、有明楼は文人画伯の多く出入(でいり)した家でも あったので、お菊はかなりな人気ものであった。待乳山(まつちやま)を背にして今戸橋(いまどばし)のたもと、竹屋の渡しを、山谷堀(さんやぼり)をへだ てたとなりにして、墨堤(ぼくてい)言問(こととい)を、三囲(みめぐり)神社の鳥居の頭を、向岸に見わたす広い一構(ひとかまえ)が、評判の旗亭(き てい)有明楼であった。いま息子の宗十郎が(すま)っている家は、あの広さでも、以前の有明楼の、四分の一の構えだということである。
 此処に若いころは吉原の鳰鳥花魁(におどりおいらん)であって、田之助と浮名を流し、互いにせかれて、逢われぬ雪の日、他の客の脱捨(ぬぎす)てた衣服 大小を、櫺子外(れんじそと)に待っている男のところへともたせてやって、上にはおらせ、やっと引き(いれ)させたという情話をもち、待合「気楽の女 将」として、花柳界にピリリとさせたお(きん)の名も、(もら)すことは出来まい。この女も、明治時代の裏面の情史、暗黒史をかくには必ず出て来なけ ればならない女であった。
 清元(きよもと)(よう)は名人太兵衛(たへえ)の娘で、ただに清元節の名人で、夫延寿太夫(えんじゆだゆう)を引立て、養子延寿太夫を薫陶し たばかりでなく、彼女も忘れてならない一人である。京都老妓中西君尾(なかにしきみお)は、その晩年こそ、貰いあつめた黄金を、円き(かたまり)にし て(とこ)に安置したような、利殖倹約な京都女にすぎない・.ホうに見えたが、維新前の国事艱難(こくじかんなん)なおりには、憂国の志士を助けて、義 侠を知られたものである。井上侯がまだ聞太(もんた)といった侍のころ深く相愛して、彼女の魂として井上氏の懐に預けておいた手鏡-青銅のーーために、井 上氏は危く凶刃(きようじん)をまぬかれたこともあった。彼女は桂小五郎の幾松(いくまつ)-木戸氏夫人となった――とともに、勤王党の京都女を代表する 美人の幾人かのうちである。
 歌人(まつ)門三艸子(とみさこ)も数奇な運命をもっていた。八十歳近く、半身不随になって、妹の陋屋(ろうおく)でみまかった。その年まで、不 思議と弟子をもっていて人に忘れられなかった女である。その経歴が芸妓となったり、妾となったりした仇者(あだもの)であったために、多くそうした仲間 の、打解けやすい気易(きやす)さから、花柳界から弟子が集った。彼女は顔の通りに手跡(しゆせき)も美しかった。彼女の絶筆となったのはたつみや (、、、、)(ふすま)のちらし書であろう。その辰巳屋(たつみや)のお(ひな)さんも神田で生れて、吉原の引手茶屋桐佐(きりさ)の養女とな り、日本橋区中洲(なかす)の旗亭辰巳屋おひなとなり、豪極(ごうき)にきこえた時の顕官山田○○伯を(つか)み、一転竹柏園(ちくはくえん)の女 歌人となり、バイブルに親しむ聖徒となり、再転、川上貞奴(さだやつこ)の「女優養成所」の監督となって、劇術研究に渡米し、米国ボストンで客死したと き、財産の全部ともいうほどを、昔日の恋人に残した佳話の持主で、書残されない女である。
 三艸子(みさこ)の妹もうつくしい人であったが、尾上(おのえ)いうともいい、荻野八重桐(おぎのやえぎり)とも名乗って年をとってからも、踊の師匠を して、本所のはずれにしがない暮しをしていた。この姉妹が盛りのころは、深川の芸者で姉は小川屋の小三(こさん)といい、または八丁堀櫓下(やぐらし た)の芸者となり、そのほかさまざまの生活をして、好き自由な日を暮しながら歌人としても相当に認められ、井上文雄(いのうえふみお)から(まつ)の門 ()の名を許され、文人墨客の間を縫うて、彼女の名は喧伝(けんでん)されたのであった。その頃は芸者が意気なつくりをよろこんで、素足(すあし)の心 意気の時分に、彼女は厚化粧(あつげしよう)で、派手やかな、入目を驚かす扮飾をしていた。山内侯に見染められたのも、水戸の武田耕雲斎(たけだこううん さい)に思込まれて、隅田川の舟へ連れ出して白刃(はくじん)をぬいて(いど)まれたのも、みな彼女の若き日の夢のあとである。彼女たちは幕府のころ、 上野の宮の御用達をつとめた家の愛娘であった。下谷(したや)一番の伊達者(だてしや)  その唄は彼女の娘時代にあてはめる事が出来る。店が零落してか ら、ある大名の妾となったともいうが、いかに成行(なりゆ)こうかも知らぬ娘に、天から与えられた美貌と才能は何よりもの恵みであった。彼女は才能によっ て身をたてようとした。そして入丁堀茅場町(かやばちよう)の国文の大家、井上文雄の内弟(うちで)子になった。彼女たちは内弟子という、また他のもの は妾だともいう。しかし妾というのは、その頃はまだ濁りにそまない、あまり美しすぎる娘時代であったので、とかく美貌のものがうける(ねた)みであった ろうと思われるが、後にはあまり素行の方では評判がよくなかった。

 四

 我国女流教育家の泰斗(たいと)としての下田歌子女史は、別の機会に残して(つと)に后の宮の御見出しにあずかり、歌子の名を御下命になったのは女史 の十六歳の時だというが、総角(あげまき)のころから国漢文をよくして父君を驚かせた才女である。中年の女盛りには美人としての評が高く、洋行中にも伊藤 公爵との艶名艶罪が(かまびす)しかった。古い頃の自由党副総理中島信行(なかじまのぶゆを)男の夫人湘煙(しようえん)女史は、長く肺患のため大 磯にかくれすんで、世の耳目(じもく)に遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子と いった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。この(ひと)覇気(はき)あるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権 自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説(ゆうぜい)し、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八 の花の盛りの令嬢が、島田髷(しまだまげ)で、黄八丈(きはちじよう)の振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染め られようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂に(みと)られてこの世を去った。
 女性によって開拓された宗教i売僧俗僧(まいすそくそう)の多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず 大本教(おおもときよう)といわず、いずれにしても異なる事であった。その中で皇族の身をもって始終精神堅固に、仏教によって民心をなごめられた村雲尼公 (むらくもにこう)は、玉を磨いたような貌容(おかお)であった。温和と、慈悲と、清麗(せいれい)とは、似るものもなく典雅玲瓏(てんがれいろう)とし て見受けられた。紫の衣に、菊花を金糸に縫いたる緋の輪袈裟(わけさ)、御よそおいのととのうたあでやかさは、その頃美しいものの(たと)えにひいた福 助-中村歌右衛門の若盛りーーと、松島屋ー現今の片岡我童(かたおかがどう)の父で人気のあった美貌(びぽう)立役(たちやく)ーを一緒にしたようなお (かお)だとひそかにいいあっていたのを聞覚えている。また、予言者と称した「神生教壇(しんせいきようだん)」の宮崎虎之助氏夫人光子は、上野公園の 樹下石上(じゆかせきじよう)を講壇として、路傍の群集に説教し、死に至るまで道のために尽し、諸国を伝道し廻り、迷える者に福音をもたらしていたが、病 い重しと知るや一層活動をつづけてついに終りを早うした。その遺骨は青森県の十和田湖畔の自然岩の下に葬られている。
強い信仰と理性とに引きしまった彼女の顔容は、おごそかなほど美しかった。彼女は夫と並んで、その背には一人子の照子を背負っていた。そしていつも貧しい 人の群れにまじって歩いていた。ある時は月島の長屋住居をし、ある時は一膳めしやに一食をとっていた。栗色の大理石(マロプル)で彫ったようなのが彼女で あった。
 宗教家ではないが、愛国婦人会の建設者奥村五百子(おくむらいおこ)も立派な容貌をもっていた。彼女が会を設立した意味は今日ほど無意義なものではな かった。彼女は幼いころから愛国の士と交わっていたので、彼女の血は愛国の熱に燃えていたのである。彼女は尋常一様の家婦としてはすごされないほど骨があ りすぎた。彼女は筑紫(つくし)の千代の松原近き寺院の娘に生れたが、父は近衛公の血をひいていて、父兄ともに愛国の士であったゆえ、彼女も幼時から女ら しいことを好まず、危い使いなどをしたりした。しかし一たん彼女は夫を迎えると、貞淑温艮な、忠実な妻であった。彼女の夫は煎茶(せんちや)を売りにゆく に河を渡って、あやまって売ものを(ぬら)してしまうと、山の中にはいって終日、茶を()しながら書籍を読みふけっていて、やくにたたなくなった茶 がらを背負って、一銭もなしで家に帰って来たりした。彼女は四人の子供を抱えて、そうした夫につかえるために貧苦をなめつくした。ある時は行商となり、あ る時は車をおしてものを(あきな)い、ある時は夫の郷里にゆく旅費がなくて、門附(かどづ)けをしながら三味線をひいて歩いたこともあった。晩年にやや 志望(こころざし)を遂げるようになっても、すこしも心の(ひも)はゆるめず、朝鮮に、支那に、出征兵士をねぎらって、肺患の(おも)るのを知りなが ら、薬瓶をさげて往来していた。

 五

 高橋おでんも、(まむし)のお政も、(たまたま)々悪い素質をうけて生れて来たが、彼女たちもまた美人であった。おでんもお政も悪が(こ、つ)じ て、盗みから人殺しまでする羽目になった。それにくらべては、花井お梅は思いがけなく人を殺してしまったので、獄裡(ごくり)に長くつながれたとはいえ、 それを囚人あつかいにし、出獄してから後も、囚人であった事を売物見世物(みせもの)のようにして、舞台にさらしたり、寄席(よせ)に出したりしたのは あんまり無惨(むざん)すぎる。社会は冷酷すぎる。彼女は新橋で売れた芸者であったが、日本橋区の浜町河岸(はまちようがし)に「酔月(すいげつ)」とい う料理店をだした。そうした家業には不似合な、あんまり堅気な父親をもっていて、恋には一本気な彼女を抑圧しすぎた。我儘(わがまま)で、勝気で、売れっ 児で通して来た驕慢(きようまん)な女が、お酒のたちの悪い上に、ヒステリックになっていた時、心がけのよくない厭味(いやみ)な箱屋に、出過ぎた失礼な ことをされては、前後無差別になってしまったのに同情出来る。彼女は自分の意識しないで犯した大罪を知ると(すぐ)に、いさぎよく自首して出た。獄裡に あっても謹慎(きんしん)していたが、強度のヒステリーのために、(よよ)々殺したものに責められるように感じて、その命日になると、ことに気が荒く なっていたということであった。
幾度かの恩赦(おんしや)によって、再び日の光を仰ぐ身となったが、薄幸のうちに死んでしまった。

 六

    ももきち  はるもとまんりゆう てるおうみ  こい  とみた や や ち よ   かわかつかちよう  とみぎく
 ささや桃吉、春本万竜、照近江お鯉、富田屋八千代、川勝歌蝶、富菊、などは三都歌妓の代表として最も(ぬきんで)ている女たちであろう。そしても一人、忘れる事の出来ないのは新橋のぽんた-f鹿島恵津子(かじまえつこ)夫人のある事である。
 桃吉の「笹屋」は妓名の時の屋号ではない。笹屋の名は公爵岩倉具張(いわくらともはり)氏と共棲(ともずみ)のころ、有楽橋(ゆうらくぽし)の角に開 いた三階づくりのカフェーの屋号で、公爵の定紋笹竜胆(じょうもんささりんどう)からとった名だといわれている。桃吉はお鯉の照近江に居たのである。照近 江から初代お鯉が桂公の寵妾(ちようしよう)となり、二代目お鯉が西園寺侯爵の寵愛となった。二代つづいて時の総理大臣侯爵に思われたので、桃吉も発奮し たのであろう、彼女は岩倉公を彼女ならではならぬものにしてしまった。そして大勢の子のある美しい桜子夫人との仲をへだてて(やかた)を出るようにさせ てしまった..そして二人は、桃吉御殿(ももきちこてん)とよばれたほど豪華な住居をつくって住んだりした(はて)が、負債のために稼がなければならな いという口実で、彼女が()きていた内裏雛(だいりびな)生活から、多くの異性に接触しやすい、もとの家業に近い店をだしたのであった。彼女は笹屋の 主人となり、ダイヤモンドをイルミネーションのように飾りたてて、幾十万円かの資産を有していたというに、あわれにも公爵家は百余万円の浪費のために、公 爵母堂は実家へ引きとられなければならないというほどになり、(やかた)は鬼の高利貸の手に処分されるようになり、若くて有為(ゆうい)の身を、笹屋の 二階の老隠居と具張氏はなってしまった。桃吉が資産家になり、権力が(くわわ)ってゆくと共に、今は爵位を子息にゆずって、無位無官の身となった具張氏 は居愁(いづら)い身となってしまった。やがて二人の問に破滅の末の日が来て、具張氏は寂しい姿で、桜子夫人の(もと)にと帰っていった。ささやの三階 から立ち出た人には、あまり天日(てんぴ)(かくかく)々とあからさますぎた事であろう。九尾(きゆうびき)狐玉藻(つねたまも)(まえ)が飛 去ったあとのような、空虚な、浅間しさ、世の中が急に明るすぎるように思われたでもあろう。その桃吉は甲州に生れ、旅役者の子だというが、養われたさきは 日本橋の魚河岸だったという事である。
 ぽんたは貞節の名高く、当時大阪の人にいわせると、日本には、富士山と、鴈次郎(がんじろう)(大阪俳優中村)と、八千代があるといった。富田屋八千代 は(すが)画伯の良妻となり、一万円とよばれた赤坂春本の万竜も淑雅(しゆくが)な学士夫人となっている。祗園の歌蝶は憲政芸妓として知られ、選挙違反 ですこしの問(つみ)せられ、禅門に参堂し、富菊は本願寺句仏上人(くぶつしようにん)得度(とくど)して美女の名が高い。
 芳町(よしちよう)(やつこ)嬌名(きようめい)高かった妓は、川上音次郎(かわかみおとじろう)の妻となって、新女優の始祖マダム貞奴(さだや つこ)として、我国でよりも欧米各国にその名を喧伝(けんでん)された。いまは福沢桃介(ふくざわももすけ)氏の後援を得て名古屋に綿糸工場を持ち、女社 長として東京にも名古屋にも堂々たる邸宅を控え、日常のおこないは工場を監督にゆくのと毛糸編物とを専らにしている。貞奴の後に、彼地で日本女性の名声を 芸壇にひびかしているのは歌劇(オペラ)柴田環(しばたたまき)女史であろう。この人々は日本を遠く去ってその名声を高めたが、海外へは(つい)に出 なかったが、新女優の第一人者として松井須磨子(まついすまこ)のあった事も特筆しなければなるまい。彼女は恩師であり情人であった島村抱月(しまむらほ うげつ)氏に死別して後、はじめて生と愛の尊さを知り、カルメンに扮した四日目の夜に(くび)れ死んだのであった。
 それにくらべれば魔術師の天勝(てんかつ)は、さびしいかな天勝といいたい。彼女はいつまでも妖艶に、いつまでもおなじような事を繰返している。彼女の悲哀は彼女のみが知るであろう。
 豊竹呂昇(とよたけうしよう)竹本綾之助(たけもとあやのすけ)の二人は、呂昇の全盛はあとで、綾之助は早かった。ゆくとして可ならざるなき才女とし て江木欣(えぎきんきん)々夫人の名がやや忘られかけると、おなじく博士夫人で大阪の高安やす子夫人の名が伝えられ、蛇夫人とよばれた日向きん子女史は、 あまりに持合わせた才のために、かえって行く道に迷っていられたようであったが、林きん子として、舞踊家となった。
 九条武子、伊藤樺子(あきこ)は、大正の美人伝へおくらなければなるまい。書洩(かきもら)してならない人に、樋口】葉女史、田沢稲舟(たざわいなぶね)女史、大塚楠緒子(おおつかなおこ)女史があるが余り長くなるから後日に譲ろうと思う。
              ー大正十年十月『解放』明治文化の研究特別号所載i
附記 樋ロ一葉女史・大塚楠緒子女史・富田屋八千代・歌蝶・豊竹呂昇は病死し、田沢稲舟女史は毒薬を服し、松井須磨子・江木欣々夫人は(くび)れて死に、今や空し。