服部氏総「唐人お吉」


ヒュースケンの日記がアメリカで発見されて、内容はまだ発表されないが、唐人お吉の存在は否定されることになりそうだという朝日新聞のニュースが、下田港の人々を、かくべつ衝撃した様子はなかった。わたしは一週間まえ、はじめてそこを訪れたのだが、仮領事館だった玉泉寺では、ここがハリスの寝室で、お吉が通ってきた室でございますと説明されるし、条約締結に使われた了仙寺では、有名なエロ宝物館のまえに男根型のお吉塚を見るし、そのちかく長楽寺は、これは絵はがきで拝観しただけだが、近作の裸像のお吉観音なるもので、遊覧客を招いているらしい。
凡そ二時間ほどで見つくせる下田名所のどこもかしこもお吉ずくめである。バスの停留所で売ってる下田土産のうちでも、お吉餅というのがいちばんうまい。お吉が生きていたころお吉餅はなかったように、今日の下田のお吉ずくめのお吉は、生きていたお吉とはまるでちがっているにちがいない。そういえば、彼女の墓は宝福寺にあるが、買わされた線香をあげる墓石は水谷八重子が寄進したもので、投身したお吉の薄命を憐んでこの寺の住持が建てたほんらいの墓石は、そのわきに捨てられたように置いてある。
こんにちのお吉がうまれでたのは、十一谷義三郎の小説いらいのことで"駕籠でゆくのは"という西条八十の歌と共に、ポピュラーになった。日米関係が悪化するごとにお吉がはやる、という観察をした人があるが、日米戦争以前のお吉文学が、いずれもお吉びいきで書かれていたことはまちがいない。そのばあい、ハリスお吉の関係を、ハリスに清教徒的ヒューマニストの格調をもたせつつ描いたものに山本有三『女人哀調』いらいの方向がある。歴史家の中でも小西四郎、吉田常吉氏らのように、ハリス潔白論を立てている人々がある。小西氏のその文章は、昭和十年頃の雑誌『歴史』で読んだように思う。
潔白であろうとなかろうと、お吉が実在したことと、ハリスとの間に浮名を立てられたことはまちがいがない。「唐人お吉」の薄命の悲劇は、立った浮名に基いている。
いまわたしがいいたいことは、敗戦後こんにちの下田のお吉は、十一谷義三郎、山本有三いらいのお吉とは、もひとつちがっているということである。絵はがぎで見るあの醜悪なお吉観音は、たしかにパンパンお吉である。舟橋聖一『花の生涯』には、ハリスが玉泉寺の寝室で、赤いナイトガウンをお吉に与えて着替えさせる場面があるそうである。わたしはほとんど読んでいないので、耳学問であるが、ハリスはそのとき、くにの習慣を説明しながら、裸になることをお吉に求めるそうだ。耳学問の教師ひきつづいて教えていわく、こんにちの下田お吉は、つまりオンリーお吉さね。
たしかにそのようなお吉は、十一谷いらいかつてなかったものである。