神西清「ロマネスクへの脱出 太宰治の場合」

神西清「ロマネスクへの脱出 太宰治の場合」


 太宰治が死の直前、猛烈に志賀直哉に食つてかかつたことについては、いろんな見方があるやうだ。『如是我聞』もあの辺になると、痛々しい錯乱が文脈をまで侵してゐて、不吉なものの近まりがかなりはつきり現はれてゐる──そんな感想をさへ、ぼくは二三の若い人の口から聞いてゐる。だがこれには、「あとになつて思ひ合せれば」といふ心理が作用してゐることは明かで、もしあの部分の載つてゐる雑誌が彼の死より前に世に出てゐたら、あの文章に却つて彼の健康の回復を感じたやうな人々も、決して少くはなかつただらうと思はれる。あの志賀文学への烈しい反撥に何か異状なものを見ることは、さして根拠がありさうにも思へない。
 死の影とか匂ひとかを云ふなら、太宰文学はそもそも出発の第一歩から、死との距離はまさにゼロであつたではないか。この距離ゼロなる膚接、あるひは死そのものが生きてゐる状態が、つまり太宰文学をしてあらしめ得た唯一無二の実質ではなかつたか。彼の文学は所詮、連作『虚構の彷徨』(あるひは、一そう的確にいへば「ファントームの彷徨」)にはじまり、第二の「虚構の彷徨」(すなはち『人間失格』に終るところの、「生ける死」の十五年ほどにわたる彷徨ではなかつたか。死が死くさいのは、味噌が味噌くさいのと同じことだ。古人はただ、その臭さだけであつてはならぬと教へてゐるのである。太宰治のいはゆる遺書なるものが、単に酔余の漫筆に終つてしまつたことは偶然ではない。スタコラ・サッチャンと一本の腰紐だかなんだかで結へつけられて、水かさの増した上水道へとびこむぐらゐのことは、このファントームにとつてはほんの家常茶飯事にすぎなかつたはずだ。
 そこには感動も、悲壮感も、瞬間的な後悔も満足感も、おそらくその一切がありはしなかつたらう。よしんばウィスキーを二本飲んでゐようがゐまいが、それは同じことだったに違ひない。いや、ある種の満足感ぐらゐは、はたらいてゐたかも知れない。つまりサッチャンなる女性になりと、これで幾分はサーヴィスできるといふ気持であるが、これにしたところでこのファントームの生涯中、はたして何百回目のサーヴィスであつたらうかを思つてみるがいい。退屈きはまる感激だらうではないか。要するにあの情死(?)そのものには、なんの意味もありはしないのだ。太宰治の変死は、有島武郎や芥川龍之介の変死の場合とはちがつて、おそらく実に不愉快な印象を社会にあたへた。その理由は今では明かだ。完全に無意味な自殺──言ひかへれば「死の死」といふやうな奇怪な現象は、人間の常識にたいする侮蔑以外の何ものでもあるまいからである。これを疑ふ人は、あのスタヴローギンの首繩にべつとり塗つてあつたシャボンを思ひだしてみるがいい。それと山崎富栄さんの腰紐だかなんだかとの間には、本質的にいつて大した違ひはないはずである。
 その「不愉快な」情死が行はれてから、もうニケ月あまりたつ。その間にぼくは、かれこれ二十篇ちかい追悼文を読ませてもらつた。そのなかで、読過なかばにしてぼくが思はず膝を正した文章が二つあつた。一つは亀井勝一郎氏の『思ひ出』(新潮六月号)であり、もう一つは太田静子さんの『「斜陽」の子を抱きて』(婦人公論八月号)である。前者はその冷たさでぼくを打つた。浄土の信仰がこれほど冷徹な眼を持つものであらうとは、ぼくにとつて実に意外でもあり、また文字どほり敬服させられた。後者がぼくを打つたのは、ぼくがひそかにこの女性について予想してゐたことが期せずして満足されたからであり、いはばこれは私的な感動にすぎない。私事にわたつたついでに言へば、もう一つぼくの耳を打つた言葉があつた。それはある朝ぼくの細君が新聞を読みながら、なぜ太宰さんの家は雨漏りするのでせうといふ素朴きはまる疑問を、ただそれだけの素朴きはまる形で口にのぼせたことだつた。これにはぼくもグウの音も出ず、甚だ残念であつた。
 ぼくは太宰さんに一面識もなかつた。たしか去年のはじめ項、会談の機会が与へられたが、これはぼくが都合で不参してしまつた。今になつてみると心のこりである。告別式にもぼくは行かなかつたが、あとでK氏から聞いたところでは、それは頗る文壇臭のない、いかにも太宰治らしい葬式だつたといふことだ。つまり文壇の大家小家が肩をいからして(これがぼくの偽らざる印象だ)、織るがごとくに焼香するあれではなしに、会葬者は多く羞ぢらひがちの男女学生だつたといふ話である。なるほどありさうなことだと僕は思つた。太宰治の真の人気を支へてゐた人々が、つひに姿を現はしたのだ。数は多くはなかつたらうし、また一言の弔辞めいた文句も述べはしなかつたらう。だが彼らの背後に、太宰文学を自己の良心として生きてゐる純真潔癖な青年男女が少なからず控へてゐることは疑ひない。
 彼らにとつて太宰治は決して頽廃の神などではない。恐らく俗天使ですらもない。まさしく清純無垢な唯一神であるに相違ない。 「この人なければ世は闇」と言ひきれる最後の精神的拠点だつたに相違ない。もし頽廃とか絶望とかいふ文字を使ふとすれば、それは全く変質せしめられた意味においてでなければならぬ。つまりその頽廃なり絶望なりを内から支へてゐる堅固な骨──その表示として頽廃なり絶望なり道化なりがあつたに過ぎない。青年たちの信頼は、あやまたずその「骨」そのものを指してゐたのだ。終戦後の日本のむざんな混乱のなかで、折れぬ心棒をもつて生き抜いた唯一人の人間らしい人間が、実は死のファントームのごとき太宰治だつたといふことは、思へば皮肉な事実だが、事実はあくまで事実なのだ。青年の曇りない理想主義は、あらゆる詭弁的な影を敏感に嗅ぎわけるはたらきがある。そして皮肉であらうがなからうが、事実を事実として素直にみとめる大胆さがある。ただしこの嗅覚には言葉がないのが常なのだが。……
 さうした青年(もちろん一部の青年──)にとつて、太宰治はまさに「神」であつた。小説の神ではなくて、人生の神であつた。ぎりぎり決着の生き方の「旗手」であつた。話がここまで来ると、われわれは自然にもう一つの名を思ひだすはずである。それは志賀直哉といふ名だ。食つてかかつたりかかられたりした御両人を、ぼくが何も嫌がらせのために並べて見ようといふのでないことは、恐らく分つてもらへるだらうと思ふ。青年にとつて生き方の上の神であつたそのあり方において、この二作家には見れば見るほど深い共通点があるのだ。もちろん志賀文学がとらへた青年層は殆んどその総体ともいつていいほどであり、太宰文学の場合はこれに反して、青年層そのものも割れてゐれば、票も従つてひどく割れてゐるだらう。だがその票がおびてゐる至醇な献身性といふ点では、両者は深く共通する。
 その共通の尊崇されやうの奥には何があるか? いふまでもなくそれは、自意識のおどろくべき強烈さである。言ひかへれば、自然における個我の絶対専制である。いつさいの非我に対する関連への徹底的な盲目さであり、断乎たる無自覚である。それは傲慢と呼ぶにはあまりにも素朴な何ものかであり、強さと呼ぶにはあまりにもコミックな野狐禅的なものを伴ふ。その発生はあくまで自然発生的であつて陣痛とか産苦とかいふものの痕跡は爪のあかほども見られない。環境への抵抗苦をすら本質的には欠いてゐる。この奇怪なまでに自然な、スポンタネな人格完成のうちに、東洋人──特にわれわれ日本人は、高貴なものを見る伝統的な性癖をもつてゐる。その珍重の念がやがて崇拝となり、はては盲目的な詭拝にかはる。この悟達はあくまで、スポンタネなものであるから、形成もなく構築もなく、したがつて真似のしようもなく、衆愚にゆるされた道はただ一つ、その前にひれ伏して、成り変れ成り変れと叫びつつ身もだえするほかにはないからである。それはいはば構築なき金城鉄壁のやうなものだ。われわれ日本人の眼からすれば、この鉄壁の高貴性の前に立たせるとき、ニーチェの高貴性などは奴隷の高貴性にすぎないだらう。おのづからなるものに及ぶ高貴さはどこにもないはずだからである。
 このやうに個我の絶対専制がすなはち、志賀文学と太宰文学を成りたたせてゐる共通の大黒柱であつた。志賀文学については、多くの人はすでにこの事情に気づきはじめてをり、ぼくが今更こんなことを言つても大して奇矯にひびきはしないだらうと思ふ。だが、この個我の絶対専制から発散される何ともいへず純粋な滑稽味については、案外まだ十分に気づかれてゐないのではあるまいか。それは一見ドン・キホーテのコミックに似通ふものであるが、悲哀を徹底  的に欠くことによつて全く異質の何ものかであり、まさしく東洋に固有の性格であるらしい。それは眼も鼻も口もない徹底的な無表情でもあれば無自覚でもある自然力そのものの仮現の像から、ひとりでに息吹いてくる甚だ原始的なコミックである。
『暗夜行路』の後篇を読むと、次のやうな一節にぶつかる。謙作が直子や赤んぼやお栄などと一緒に宝塚に遊びにゆく。七条駅で汽車に乗る前に直子は赤ん坊のおむつを更へだして、そのうちに汽車が動きだす。赤ん坊を抱きとつた謙作は汽車にとび乗つたが、直子がつづいて乗らうとする頃には汽車は人が歩くくらゐの速さで動いてゐた。駅夫が声で制止する。直子は小走りに駈けながら、「ちよつと掴まへて下されば乗れるから」と哀願する。その瞬間謙作は「殆ど発作的に」片手で直子の胸を強く一突きする。直子はプラットフォームに仰向けに倒れ落ちて、「軽い」脳震盪をおこす。そのまま進行をつづける汽車のデッキで、謙作はお栄が呆れて問ひかけるのに答へて、「危いからよせと言ふのに無理に乗つて来たんだ」と、興奮を抑へながら、答へる。お栄が重ねて問ひかけると「自分でも分らない」と答へる。
 情景はみごとに生かされてをり、その限りではトルストイにも優に匹敵する筆力が感じられる。心理的な裏づけについても、ちょうどその赤んぼを身ごもる前後に直子が幼な馴染の男に犯されたといふ事実があり、そのもやもやしたわだかまりが有機的に働らいてゐることも一応はうなづかれる。だが、実をいふと志賀文学の本質は、絶対にそんなところにありはしないのだ。要は謙作が直子を突きおとした一突きの「発作性」にある。その発作性は、ほかならぬこの謙作が制止してやつたにも拘はらず、聴かずに「無理に」乗らうとした直子の怪しからん態度にたいする突発的な忿懣に唯々もとづくものであつて、その刹那れいの心理的わだかまりなどに対する関連性は完全に切れてゐるのである。それは「怪しからん!」といふ素朴な忿怒をバネとする単なる反射的な暴力にすぎないものであつて、その以前にあつたでもあらうところの心理的なわだかまりや、またはその後に彼を訪れるでもあらうところの心理的な色々な弁明とは、みごとに切断された完全に盲目な「本能の閃光」であるにすぎない。結局それは、「あの謙作の一突きには血が通つてるね」とでもいつた東洋的にすこぶる明快なる一転語を以てするほかには、批評も鑑賞も一切ゆるされざる一世界なのであつて、この堪らないほどのコミックを解せざる者にとつては、志賀文学はおそらく永延に不可解なる玄妙界であるにすぎないだらう。    志賀文学のもつヒューマニズム的センスについては、しばしば語られるやうである。だがこれまた、それ自体実にコミックな錯覚以外の何ものでもないことは明かだ。それは多かれ少なかれ、直子に脳震盪をおこさせた謙作の一突きに類するものであつた。なるほどあの謙作の一突きには血が通つてゐたかも知れないが、それはあくまで原始的な野性的な血であつて、これをしもヒューマニズムの極致であるだらう。志賀的ヒューマニズムの見本として挙げられるのは、もちろん『暗夜行路』でもなく、また右のやうな場面でもなくて、『網走まで』であり『小僧の神様』であり『灰色の月』である。このうち最も著しい作例である『小僧の神様』については、太宰治が『如是我聞』のなかで、みごとにその本質をつらぬく痛烈な評語をくだしてゐる。「ひとにものを食はせるのは、電車でひとに席を譲る以上に苦痛なものだ」といふのである。言ひ得て甚だ妙であつて、これ以上蛇足を加へることは無用かと思はれる。小僧に寿司を頬ばらせる志賀直哉の風貌には、槍だか太刀だかの切尖に饅頭をさして、さあ食つてみうと臣下に迫つた織田信長と、外観的にはなんの違つたものもありはしない。まさにそれほどの烈しい気魂がそこにはあり、まさにそれほどの滑稽味が同じくそこにはあるのである。
 ただし信長には、その肉薄の底に光るある冷やかな眼があつた。 ただの征服感といつただけでは済まされぬ、ある理知的な、自己を超えた、いはば歴史の必然ともいふべきものに目ざめてゐる者の醒めたる意識があつた。志賀文学はそれをすら徹底的に欠くことによつて、滑稽感を優に倍加するのである。そこにあるのはたかだか、ひとり好がりのお坊ちやんの実に人の好い自己満足であるにすぎない。まさにそれは現代の奇蹟であつた。『転生』といふ軽妙な掌篇が志賀さんにある。気の利かない細君をもつた男があつて、しよつちゆう癇癪をおこしてゐる。この良人にとつては「一から十までいけない、十から百までいけない」のだ。ある日細君は笑ひながら、来世には自分は出来るだけ利口に生れてくることにするが、良人ももう少し馬鹿に生まれて来てもらひたいと言ふ。そこでこの夫婦のあひだに、では今度はひとつオシドリに生れて来ようといふ契約が成りたつ。良人が先に死んで、これは約束どほりオシドリになる。やがて細君も死んで、さて何に生まれ変らうかと思案するが、細君はさんざ迷つた挙句に、「迷ふ二つの場合があると、お前はきつといけない方を選ぶ」といふ良人の口小言を思ひだし、オシドリにならうかといふ自分の気持を抑へて、狐になつてしまふ。やがて夫婦は再会して、「なんてお前は馬鹿だ!」と、雄オシドリが女狐を又してもどなりつけるといふお笑ひである。この一場のお笑ひの中にこそ、志賀文学のぎりぎり結着の本質があるとぼくは確信する。それは実に楽天的な思ひあがつた男の、実に思ひあがつた原始的な笑ひである。無自覚きはまる自己肯定の、ほとんど高天ケ原的な哄笑である。この笑ひがたまたま昭和初年の日本といふお目出たい御代にひびいた。人々がその時代錯誤を疑ふ前に、たちまち畏怖にとりつかれてその前にひれ伏したといふのも、同じく日本的事情のほかの何ものでもなかつたのだ。まつたく白痴の健康ほどに理想的な健康が、この世のどこにあるのだらうか?
 太宰治の『如是我聞』第四回は、右のやうな志賀文学の本質を立派にあばいてゐるはずである。ただその筆者は何かの理由によつてひどく興奮してをり、説服の必須的条件である冷静さを欠いてゐることは事実であつた。だからといつてその筆者に巣鴨行きを宣告することは、すこぶる軽率に失する。かのコミックな「人神」のコミックな手振りは、殆どあますところは捉へられ射とめられてゐるのだ。手もとは決して狂つてゐないのである。
 何が太宰治をしてあれまでに興奮させ、しかもその興奮にもかかはらずその手もとを狂はせなかつたか? この間ひに答へることは大して難事ではないだらう。それは明かに、太宰治が志賀的世界の地理の通暁者であつたことを物語つてゐる。そこには同質者どうしの間ならでは到底望むべからざるみごとに浸透的な理解があり、同時にまた、同質者どうしの間に避くべからざる烈しい反撥があつたわけである。「汚はしい、すさりをらう!」──「なにを小癪な、さういふお前こそ……」これでは論争にも何もならぬではないか。夫婦げんかは犬も食はぬといふのは、まさにこのことである。
 もとより志賀的個我は、いかなる意味の危機にも曾てさらされたことのない全国的な、いはば自然鉱のごとき個我であり、これに反して太宰的個我は、何ものか怖るべき天変によつて破砕しつくされたところの、殆ど熔岩のごとくに飛散する個我である。いはば個我の砕片である。その限りにおいて、両者は全く裏はらな性質をもつものであるが、しかも全国的にせよ砕片としてであるにせよ、その個我それ自体の絶対的専制といふ事の本質においては、両者のあひだに一分一厘のずれもありはしない。ともに典型的なお坊ちやん芸であり、ともに純粋無垢な自意識の饗宴であり、ともに何としても憎めない原始的人間性のほがらかなお神楽である。通説によれば、志賀文学はあくまで健康正常であるに反し、太宰文学はあくまで不健康かつ頽廃的だといふことになつてゐる。だがこれは、ほんの見せかけにすぎない。志賀文学を試みに裏返しにして見たまへ。自足せる怠惰といふ形における頽廃性は、見るもむざんなほど露はになるだらう。同様にして、太宰文学を試みに裏返しにしてみたまへ。
 分裂にもめげずあくまで自意識を貫かうとする超人的な健康さは、われらを失明させるに足る光耀をもつてぎらぎらと輝き出るだらう。誰が志賀直哉のやうに陽性に強くあり得たかといふ問ひは、必然的に、誰が太宰治のやうに陰性に強くあり得たかといふ問ひとなつて撥ね返らざるを得ない所以である。真に日本的な私小説が、志賀直哉においてその興隆の絶巓をしめし、太宰治においてその没落の真底をしめしたといふのは、決して偶然ではあるまい。まぎれもなく日本の私小説は、太宰文学によつて燦爛たる終止符を打たれたのである。もはや太宰文学のあとでは、日本にふたたび私小説の復活を見ることはないだらう。
 それにしてもぼくには、ただ一つだけ心残りでならないことがある。それはぼくが太宰文学のうちに、あまりにも懸命なロマネスクへの脱出の企図を、一再ならず認めるところからくる痛恨である。
 終戦後の彼がいちじるしくプーシキンに心を惹かれてゐたといふことを、ぼくは彼の側近の人から聞いたことがある。彼自身の作品にあらはれた所を見ても、この脱出の企図はあの『魚服記』などを始めとして、間歇的に一再ならずくり返され、つひに戦後の『ヴィヨンの妻』および『斜陽』において、一種凄愴な身もだえとなつて極まつてゐる、だからと言つてぼくは何も、この最後の二作をもつて太宰文学の代表作などと言ふつもりはない。代表作は依然として『虚構の彷徨』であり『新ハムレツト』であり、更には亀井勝一郎氏のいはゆる「処女作へ向つての成熟」の極点を示すところの『人問失格』であることは疑ひはない。だが、ぼくは『斜陽』が現はれたとき、うつそ身の悲しさ、そこに脱出への一縷の光明を錯覚したのだつた。ぼくはこの機会をとらへて、彼をロマネスクの世界へSeduceしたいといふ止みがたい誘惑を感じた。それがつまりあの「斜陽の問題」といふ未熟きはまる駄文をなしたのであつたが、もちろん相手がフアウストではなしにファントームなのであつてみれば、この自称メフイストフェレスの誘惑が、喜劇にもならぬみじめな失敗に終つたことは理の当然であつた。手おくれも手おくれ、まさに半世紀ほどの手おくれだつたわけである、彼は唖然たるメフィストを尻眼に、まんまと玉川上水ヘ「脱出」してしまつたのだ。
                        (1948・10)