伊藤銀月「日本警語史」

日本警語史
 伊藤銀月

はしがき
 ()がいわゆる警語(けいこ)は何を意味するか。警語の歴史とは何なるか。何故(なにゆえ)に警語の歴史を編成(へんせい)せざるべからざるか。警語の歴史は趣味(しゆみ)に属するものなるとともに、また必要に属するものなりと()うは、何が(ゆえ)か。
 以上は、ある試験的創始的(しけんてきそうしてき)なる特殊の事業としての本書に対する読者が、まず当然に起すべき疑問ならざるべからず。ここにおいて、予は諸君に乞うに、まず、最初の一章なる『緒論(ちよろん)』を熟読玩味(じゆくどくがんみ)し、これによって本書の性質を理解せられんことをもってせんとす。
はしがき
著者

緒論 警語と日本人
警語もしくは警句と称せらるるものの意義内容1ー鰮の頭  猫の尻尾  肥柄杓
語もし人を驚かさずんば死すとも休せず  何ぞ警語の日本史あらずして可ならんや

 ()は、今春(こんしゆん)初めて衆議院(しゆうぎいん)の議事を傍聴(ぼうちよう)する機会を得たり。しかも、内閣不信任(ないかくふしんにん)問題の沸騰(ふつとう)したる(さい)にてありき。ただ見る、政府党の一少壮議員壇上に立ちて快弁(かいべん)(ふる)い、身振(みぶ)沢山(だくさん)抑揚頓挫(よくようとんざ)の応接に(いとま)あらざること、声色(こわいろ)を使うが如く、しかもすこぶる得意(とくい)(いろ)あり(御当人の名誉(めいよ)のため本書においてはその名前を(あず)かる)。議場の一(かく)たちまち古鈴(これい)打振(うちふ)るが如き冷やかにして(かた)き声あり、曰く「活弁(かつべん)!」と。満場これがために哄笑(こうしよう)を発し、壇上の大議論は(なさけ)なくも冷殺(れいさつ)せられて、名誉(めいよ)ある議員君をして、あわれ立往生(たちおうじよう)憂目(うきめ)を見んとするの苦境(くきよう)(おちい)らしめぬ。警語(けいこ)とはそれ(かく)の如きものを意味するなり。
 なおこの種の例において、一の心胆(しんたん)を寒からしむるものを()えん。かつて古今無二
の名人と称せられし故九代目市川団十郎が、生酔(なまよい)五斗兵衛(ごとうびようえ)歌舞伎座(かぶきざ)中幕(なかまく)において演じたることあり。(しん)穿(うが)てる酔態(すいたい)(あいだ)に例の名調子(めいちようし)()って、「小気味好(こきみよ)()こし()したじゃテ、なんと無理か、無理でないか?」と喝破(かつば)したる時、、これ団洲(だんしゆう)か、これ五斗兵衛(ごとうびようえ)か、芸術と人物と、混然(こんぜん)として彫琢(ちようたく)(あと)(ぜつ)せんとす。突如(とつじよ)として(らい)の如き大声(たいせい)をもって「いや御尤(こもつと)も!」と応ずるあるを聞く。これ、大向(おおむこう)の最高地より投げ()だされたるものなり。(たくみ)()(とう)じて寸分(すんぷん)隙間(すきま)もなく、あわや、舞台(ぶたい)の上の五斗兵衛をして、退(しりぞ)いて名優市川団十郎の地位に(とど)まる(いとま)だにも()せしめず、ただちにただの老人堀越秀(ほりこししゆう)なる者の面喰(めんくら)いたる生地(きじ)を暴露せしめずんば()まざらんとせり。
 ただし、さすがは団十郎にて、咄嗟(とつさ)機転(きてん)、「(たれ)じゃ、御尤(こもつと)もと申したはー」との振威(しんい)(かつ)をもって、(あやう)くこの大難関(だいなんかん)を突破し、千(じん)の絶壁より(さかさ)まに墜落(ついらく)する途中において、宙に身を(ひるがえ)して絶壁の上に逆戻(ぎやくもど)りするが如き、人間業(にんげんわざ)にあらぬ奇蹟(きせき)を行いつつ、(から)くも五斗兵衛の立場に()(とど)まることを()、かえって一段の喝采(かつさい)(はく)したりと(いえど)も、当時看客(かんかく)の一()たりし()に至るまでも、一時はまったく面色(めんしよく)を失いて、双手(そうしゆ)に縄の如き冷汗(れいかん)緊握(きんあく)することを(まぬが)れざりき。警語(けいこ)とはそれ(かく)の如きものを意味するなり。
 ある意味においての名物男某なる者ありき。欧米(おうべい)における軽薄(けいはく)なる方面の流行を()して、ただ(いた)らざらんことを(おそ)れ、その人目(じんもく)に新たなる特徴として、元来短く出来たる(くび)に、(きわ)めて高き(えり)()け、これがためにほとんど咽喉(のど)()めて(あご)を突き上げられたるが如き痛苦(つうく)不便(ふべん)とを感じつつも、ひとえに外観の犠牲(ぎせい)となりて忍耐(にんたい)し、(おのれ)足許(あしもと)を見るべく要する時には、(おもて)(うつむ)くること(あた)わざるをもって腰を直角に曲げ、背後(うしろ)より()びかけられたる場合にも、(くび)だけ廻らねば、くるりと全身の方向を転ずるの労力に甘んぜざるを()ず。かくて、その着くるところの標識(ひようしき)たる高襟(ハイカラ)は、同時にその人格の浅薄劣悪(せんばくれつあく)をシンボライズするところの標識となり、「ハイカラ!」の一語よく彼を冷殺(れいせつ)もし、時人(じじん)嘲笑(ちようしよう)(まと)とも()し、ついには、彼をして社会に安住するの重量を失わしむるに及びて()みぬ。
 (いな)、この語の感伝力(かんでんりよく)の強大なる、すでにその本来の目的を達するに到りてもなお()みしにあらず、さらに広布(こうふ)して、「ハイカラー」より転化したる「ハイカラ」となり、あるいは「灰殻(はいから)」という宛字(あてじ)によって変形せしめられ、あらゆる皮相(ひそう)の欧化者流を嘲笑(ちようしよう)する目的に供せられ、女性にしてその頭髪を洋風にする者もまた、「ハイカラ」の部類に編入せらるるを(まぬが)れざるに到りたるが、広布の範囲の大なるに(したが)って、これに含まるる嘲笑味(ちようしようみ)もまた稀薄(きはく)とならざるを得ず、何時(いつ)しか、「ハイカラ」の称呼(しょうこ)がこれを受けたる者を(きず)つくる力を失うを(いた)せり。しかも、一面よりこれを見るときは、またこれ、「ハイカラ」なる冷語(れいこ)のはなはだ有力なりしを(しよう)するものにあらずや。
 一時株相場の乱調を利用して暴富(ぼうふ)(いた)したる者を、将棋(しようぎ)()(きん)()るに(たと)えて「成金(なりきん)」と呼び、また、ある一時両国(りようごく)の本場所における力士(りきし)が、正々堂々の角抵(かくてい)()け、(ふんどし)(ゆる)くして敵の()()を無効ならしめんことを試むるところの、卑劣なる計画の流行を(きた)したりしより、「緩褌(ゆるふん)」の一語もって軟骨陋心(なんこつろうしん)政客(せいかく)冷罵(れいば)するの目的に応用せらるるに(いた)り、人をしてその婉曲(えんきよく)にしてしかも痛切なるに感歎(かんたん)を禁ずる(あた)わざらしめしも、またこの類にあらずとせざるなり。警語(けいこ)とはこれ(かく)の如きものを意味するなり。
 さらに進んで、内外の歴史を点検し、その適例の一、二の、比較的異色なるものをここに引き来らん。
 徳川氏(とくがわし)天下を定めて、江戸城を修築(しゆうちく)するや、石垣の築造(ちくぞう)浅野氏(あさのし)の担任となり、その重臣亀田大隅(かめだおおすみ)(めい)()けて工事を監督せり。すでにして、石垣()りてまた(おお)いに崩る。そのおもいきって小気味好(こきみよ)滅茶(めちやめ)々々なる状態(ちやありさま)、あたかも故意に()したるものの如し。左無(さな)きだに創業当時の徳川氏にて、豊臣氏(とよとみし)遺臣(いしん)等に向い、(あん)鬼胎(きたい)(いだ)きつつありたる際なれば、豊臣氏の近親なる浅野氏のかかる失態に、いかでか猜疑(さいしつたいさいぎ)(まなこ)(みは)らざるを()べき、ために、浅野氏はまさに罪に問われんとするの(あやう)きに(ひん)したり。
ここにおいて、戦場生残りの名物男なる亀田大隅(かめだおおすみ)は、その不敵の面框(つらがまち)(ひつさ)げて幕府に出でたり。自若として老中の詰問に対えて曰く、 「この大隅使い慣れし手槍を取って固め候陣(そうろうじん)は、未だ一度も崩れたること(そうら)わねど、石は心()きものにて詮方御座無(せんかたござな)(そうろう)
と。一語剛強(こうきよう)にして淡泊(たんぱく)、幕府の(うたが)(すなわ)()けて、ふたたびこれを修補(しゆうほ)せしむ。
 すでにして工成(こうな)り、幕府(ばくふ)大隅を(しよう)するに斑毛(まだらげ)駿馬(しゆんめ)をもってす。大隅(おおすみ)かえって(おん)(しや)せず、ただちにこれを幕府(ばくふ)突返(つつかえ)して曰く、「あら不思議(ふしぎ)や、武夫(もののふ)二毛(ふたげ)(うま)に乗ることの(そうろう)べき。逃げたることも御座無(ござな)(そうろう)に、口惜(くちお)しう(そうろう)」と。幕府(ばくふ)はついにこの()えぬ老爺(じじい)面喰(めんくら)わせられてしまい、浅野氏に手を加うること(あた)わずして()みぬ。「石は心無きものにて詮方御座無(せんかたござな)(そうろう)」1ー[武夫(もののふ)二毛(ふたげ)の馬に乗ることの(そうろう)べき」1
警語(けいこ)とはこれ(かく)の如きものを意味するなり。
 ヨーロッパ紀元前の大英雄(だいえいゆう)アレキサンダー、哲人(てつじん)ジオゲネスの学徳(がくとく)を聞き、(みず)から()()げて(いち)にこれを()う。哲人(てつじん)の有するところただ一個の巨樽(きよそん)のみ。()ぬるときはこれを横たえてその(うち)()し、()むればこれを(さかし)まにしてその上に(きよ)するなり。大王到りたるとき、哲人(てつじん)まさに樽の上に在り。平然(へいぜん)として知らざるものの如し。アレキサンダーすなわち近づき進んで、その求むるところを問う。ジオゲネス答えて曰く、「求むるところ無し」と。しかも、再三これを(しい)たるによって、わずかに哲人をして、「果して(しか)らば、一些事(さじ)の特に大王を(わずら)わすあり」の言を()さしむることを得たり。アレキサンダー欣然(きんぜん)として曰く、「先生の求むるところ何ぞやー」と。ジオゲネスかすかにその歯端(したん)を示して曰く、「()う速やかに去りて、()に注ぐ陽光を(さえぎ)るなかれ!」と。ここにおいて、「不能(キヤンナツト)」の語を辞書に存在せしむることを必要とせざるアレキサンダーの権勢も、その富貴(ふうき)も、ついに樽犬先生(たるいぬせんせい)如何(いかん)ともすること(あた)わず、彼をして、惆悵(ちゆうちよう)として退(しりぞ)いて、「鳴呼(ああ)、我もしアレキサンダーたらずんば、必ずジオゲネスたらざるを()ず!」の歎声(たんせい)を発するの(ほか)あらざらしめぬ。ジオゲネスの一語、もって全世界を征服(せいふく)するに足る。警語(けいこ)とはそれ(かく)の如きものを意味するなり。
 西大陸の植民(あら)たに独立を企て、亜米利加(アメリカ)合衆国建設の萌芽(ほうが)を見るべき機運まさに到らんとせし(さい)衆心(しゆうしん)なお疑懼(ぎく)(あいだ)にあり。このとき、火の舌と(ほのお)()とをもって天より(くだ)されたる革命の子バトリック・ヘンリーあり。狂的熱弁(きようてきねつべん)(ふる)って同胞を鼓舞(こぶ)し、最後に寸鉄(すんてつ)殺人的一句を添加(てんか)して曰く、「未だ諸君(しよくん)()ずる所(いず)れに()るかを知らずと(いえど)も、()はただ予自身のために祈る。神よ、予に自由を授けよ、しからずんば死を授けよ!」と。自由にあらずんば死、なんぞそれ語の沈痛(ちんつう)なる。これを()く者ためにひとたび陳然(しようぜん)として黙思(もくし)し、しかして(のち)、頭脳破裂(はれつ)して血液迸発(へいはつ)せるが如き喝采(かつさい)の声を(あわ)せたり。この声須臾(しゆゆ)波動(はどう)を伝えて、すなわち、新大陸を震撼(しんかん)するの激浪洪濤(げきろうこうとう)となり、人として革命の歌に合唱を与えざる者あらざるに至りぬ。警語(けいこ)とはそれ(かく)の如きものを意味するなり。
 支那戦国(しなせんごく)の末、(しん)強大にして他の六国を(あわ)せ、天下の形勢(けいせい)すでに(さだ)まれり。しかも、安陵君(あんりようくん)わずかに五十()の地を(よう)してその面目(めんぼく)を保てるを見る。支那の五十里は日本の十里に足らず、強秦(きようしん)の威力に対しては、太陽の前の蛍火(けいか)にだも()かざるなり。ここにおいて秦王(しんおう)恫喝(どうかつ)(もち)いてこれを滅尽(めつじん)せしめんとし、他の広大なる封土(ほうど)(あた)うるを名として、その地を(けん)ぜしむ。安陵君あえて(むね)(ほう)ぜずして、秦王すなわち(いか)る。かくて、安陵君の客唐唯(とうすい)なる者、(きた)って秦王に(えつ)す。王と客との問答漸次(ぜんじ)進捗(しんちよく)して、王はいよいよ熱し、客はますます(ひや)やかなり。
 王ついに()えず、(まゆ)()げ声を(はげ)まして曰く、「(なんじ)かつて天子の(いかり)を聞くか?」。客平然(へいぜん)として曰く、「(いま)だ聞かず!」。王胸を張り肩を(そぴ)やかして曰く、「それ天子の怒るや、伏屍(ふくし)百万、流血千里!」。客微笑(びしよう)して曰く、「王またかつて布衣(ほい)(いかり)を聞くか?」
と。この言は()うまでもなく秦王の限りなき冷笑を()い、口を(きわ)めて布衣(ほい)()すなきを説き、侮蔑(ぶべつ)(たい)(つく)したりと(いえど)も、最後に唐唯(とうすい)が一冷語(れいこ)、「それ()必ずしも怒るや、伏屍(ふくし)(にん)、流血五()天下縞素(てんかこうそ)今日(こんにち)これなり!」と。匕首(ひしゆ)ただちに対者(たいしや)の心臓を刺すが如く発するに及んで、蛍火(けいか)かえって太陽を(おお)うの奇観(きかん)を呈し、ついに強秦(きようしん)の威力をして、風吹鴉(かざふきからす)(ひと)しき一孤客(こかく)脚下(きやつか)に屈服せしめて、「先生()()めよ。それ、斉魏晋韓(せいぎしんかん)すでに(ほろ)びて、安陵(あんりよう)わずかに五十里の地をもって(そん)するものは、ただ先生あるをもってなり」との、あわれなる弱者の諛辞(ゆじ)秦王(しんおう)の口より聞くに到りぬ。
伏屍(ふくし)百万、流血千里」の言の誇大(こだい)にして威嚇的(いかくてき)なるに対し、「伏屍二人、流血五歩」の反語(はんこ)、なんぞそれ緊縮(きんしゆく)にして剴切(がいせつ)なる。しかも、なんぞそれ皮肉にして奇抜(きばつ)なる。しかのみならず、()うるに「天下縞素(てんかこうて)」の四字をもってするに至りて、絶奇(ぜつき)絶妙(ぜつみよう)鬼神(きじん)をして(きも)を破らしむるに(そい)れり。素衣(そい)支那(しな)喪服(もふく)なれば、天下の人ことごとく素衣(そい)(ちやく)すと()うは、すなわち天子(てんし)の死を意味するものにあらずや。警語(けいこ)とはそれ(かく)の如きものを意味するものなり。
 ここにおいて、吾人(ごじん)はほぼ警語(けいご)あるいは警句(けいく)()う、それの何物(なにもの)なるかを解し()たるが如し。その性質および効用の大要(たいよう)を知り得たるが如し。その応用(おうよう)せらるる範囲(はんい)のはなはだ広く、応用せらるる場合のはなはだ多きを(みと)()たるが如し。
 警語は、時として熱語(ねつこ)なることあり、冷語(れいこ)なることあり、正語(せいご)なることあり、奇語(きご)なることあり、軟語(なんこ)なることあり、硬語(こうこ)なることあり、柔語(じゆうこ)なることあり、豪語(ごうこ)なることあり、温語(おんご)なることあり、痛語(つうこ)なることあり、甘語(かんご)なることあり、苦語(くこ)なることあり、倹語(けんこ)なることあり、誇語(こご)なることあり、また、必ずしも毒語(どくご)悪語(あくご)邪語(じやご)なるを(さまた)げざることあり。要するに、これを発する場所と時機とに適応して寸分(すんぶん)過不及(かふきゆう)
なく、剴切(がいせつ)にして徹底(てつてい)、人の胸を刺し貫いて、鋒尖白(ほうせんしろ)脊梁(せきりよう)()ずるものなれば足れるなり。したがって、警語(けいこ)如何(いか)なる場合にも決して冗漫(じようまん)なるを得ざるの約束に支配せらる。(せつ)の長短、調(ちよう)緩急(かんきゆう)は、場合によりての手加減(てかげん)あるべしと(いえど)も、必ず常に、十二分に鍛練緊縮(たんれんきんしゆく)せられて、精髄(せいずい)を結晶せしめたるが如く簡潔純粋(かんけつじゆんすい)なるものならざるべからざるなり。
 されば、警語の内容は、その高級なるものどなるにしたがって複雑に、冷語(れいこ)にしてかえって熱語(ねつご)よりもさらに(ねつ)なることあり、熱語(ねつこ)にしてかえってさらに冷語(れいこ)よりも(れい)なることあり。一言にして十、百の寓意(ぐうい)を含み、半句(はんく)にして千、万の諷刺(ふうし)(たくわ)え、これに接すれば、底知(そこし)れぬ深淵に(のぞ)むが如く、(すご)く恐ろしく、戦慄(せんりつ)を禁ずる能わざるものこそ、すなわち最上の警語(けいこ)()うべきなれ。されど、快刀乱麻(かいとうらんま)を断つが如く、一()して紛糾(ふんきゆう)()き、痛快淋漓(りんり)、また余蘊(ようん)を留めずして、人をして、呆然自失(ぼうぜんじしつ)せしめ、もしくは、辟易(へきえき)して却走(きやくそう)せしむるものも、また警語(けいこ)上乗(じようじよう)なるものにあらずとせざるなり。
 しかして、警語(けいこ)はある場合において批評(ひひよう)たり、ある場合において形容(けいよう)たり、ある場合において告白(こくはく)たり、ある場合において主張(しゆちよう)たり、ある場合において論詰(ろんきつ)たり、ある場合において断定(だんてい)たり。もしそれ、特殊の事実(じじつ)、特殊の現象(げんしよう)、特殊の問題(もんだい)、特殊の事件(じけん)の起れるに対して、他の多数人が数百千言を(つら)ぬるも、これを批評(ひひよう)し形容して剴切(がいせつ)なるを得ざる時、ただちに片言隻語(へんげんせきこ)()だして、()くその肯綮(サうけい)(あた)り、人をして点頭(てんとう)して心服(しんぷく)を表せしめ、もしくは破顔微笑(はがんびしよう)(きん)ずる(あた)わざらしむるもの、すなわちこれ、警語(けいこ)の効用の現実せられたるなり。
 あるいは、喜べる時、怒れる時、(かな)しめる時、楽しめる時、推戴(すいたい)せられ表彰せられたる時、圧迫せられ迫害(はくがい)せられたる時、云うに云われぬ窮地(きゆうち)(おちい)りたる時、訴えんとして訴うるに(よし)なき苦境に沈みたる時、複雑極(ふくざつきわ)まる事情の(もと)(いた)(かゆ)しの奇妙なる感じを味わいつつある時のそれ等に(あた)りて、他人が如何(いか)辛苦(しんく)して(げん)(ふる)い語を尽すも、その告白を妥当(だとう)にし、その主張を剴切(がいせつ)にすること(あた)わざるに、口を開いて一()、ただちに胸中(かぎ)りなき事を説き尽し、もって()く者の肺腑(はいふ)()く、またこれ、警語(けいこ)の効用の現実せられたるものに(ほか)ならずと()す。
 さらにまた、自己と他人との間における、あるいは人と社会との(あいだ)における、人と国家との間における、または、社会と社会との間における、国家と国家との間における、問題乃至(ないし)事件の起れるに際して、他の多数人(たすうじん)が七日七夜、舌を(ただ)らして議論を闘わすも、その解決を見ること(あた)わず、もしくは、多数人が帰着(きちやく)するところを知らずして、(いたずら)に動揺しつつある時、たちまち一(かく)より、(まと)正鵠(せいこう)()て、これを貫穿(かんせん)したる一痛語(つうご)論詰(ろんきつ)()ずるあり、あるいは、突如(とつじよ)爆薬を投じて()石を破壊し、人をして当面(まのあた)り地層の内部を目撃して、礦脈(こうみやく)有無(うむ)を論ずるの余地(よち)なからしむるが如く、切実なる一勁句(けいく)の断定の(くだ)さるるあらば如何(いかん)。警語の効用もまたここに至って偉大なるものならずや。
 聞く、軽快にして多感なる南方(なんぽう)ラテン人は、世界において最も警語を発するに長じたる種族なりと。また聞く、遅重沈鬱(ちちようちんうつ)の底に発作狂的(ほつさきようてき)感情を蔵せる北方スラブ人こそ、さらに一(だん)痛切なる警語を()だすことを()くする種族なるを知らざるべからずと。その他、ゲルマン種を()ぐる者、アングロサクソン族を()す者、あるいは、インデアンを称する者、チャイニーズを(まさ)れりとなす者等、人をしてほとんど(からす)雌雄(しゆう)を知るに苦しましめんとす。しかりと(いえど)も、元来この(あらそ)いには深き根柢(こんてい)あるを得ざるべし。畢竟(ひつきよう)ずるに、警語の言語中における位置は、扇の(かなめ)、車の軸と(ひと)しきものなるのみ。公平の立場よりこれを見るに、(いず)れの種族、(いず)れの国民と(いえど)(いやしく)も言語を有せる以上、(きそ)つて、言語中の精製品(せいせいひん)たる警語を鍛え()だすに努めざるはなかるべく、ただ、その種族もしくは国民の興隆期に()ると衰頽期(すいたいき)に在るとの別に作って、(ひね)り出だすところの警語の性質と効用とに、強弱厚薄(きようじやくこうはく)の変化を(きた)すあらんも、必ずしも、(いず)れの種族、何れの国民も、特にその固有性よりして警語を発するに長ぜりと断ずること(あた)わざらんなり。
 されば、支那(しな)の如き、印度(インド)の如き、その歴史を(ひもと)(きた)るにおいては、警語によって問題および事件の処理せられし例を見出ださんとするに、少なきを憂うるを要せずと(いえど)も、もし現在の支那、印度に対して、警語の有力なりし顕著(けんちよ)なる事実を(もと)めんとする者あらば、予はその徒労なるを断言するに躊躇(ちゆうちよ)せざるべく、これに(はん)して、我が日本の如き、(げん)興隆(こうりゆう)機運(きうん)に乗じつつある国家民族に在りては、警語はいよいよ鍛練(たんれん)せられてますます有効となり、如何(しカ)なる場所においても、如何(いか)なる場合においても、警語と警語と相撃(あいう)相闘(あいたたか)う間より、さらに新たなる警語を産出して、滾々(こんこん)として()きざること、またこれ、怪しむを要せざる現象なりと()うを(はばか)らざるべし。いわんや、人各自尊自負(おのおのじそんじふ)の念あり、国民としても、民族としても、むしろ、自尊自負の念がその存在持続の生命とも云い得べきものなるをや。現に興隆(こうりゆう)機運(きうん)に乗じて、有力なる警語を発し得る可能性に富めるを自信しつつある、予輩(よはい)日本人が、世界において最も警語を()だすに長ぜる種族なりとの自負を(あえ)てするも、また(なん)(さまた)ぐるところあらん。
 この見地(けんち)よりして眼を(はな)つに、ある一(めん)より見たる日本の歴史は、全然、警語の拈出(ねんしゆつ)とその応用との事実の連結によりて(つづ)()されたるものなりと、断言し得るを(おぽ)ゆるなり。しかのみならず、かかる見方をもって日本歴史を研究するは、(ひと)(きわ)めて興味ある行為なるのみに留まらずして、また極めて有益なる事業ならずとせざるなり。
予輩(よはい)は、少なくとも日本人が(すこぶ)る警語を好み、かつ、はなはだ警語を重んずる種族なるを、認識することを()べし。
 禅門(ぜんもん)法語(ほうご)が多方面の人士(じんし)に喜ばれ、その問答棒喝(もんどうぽうかつ)の訓練法が、ある興味観を()びたる眼孔(がんこう)において、一般人より重視せられ、ために今日(こんにち)となりては、世界においても(ただ)日本にのみ禅宗の盛んなるを見ること、またこれ、警語を好み警語を重んずる日本人の習癖と欝てる現象にあらざるなきを得んや・およそ・禅門の法語ほど蘿懇なる辞句の連結にあらざるなきはなかるべく、禅を学び、禅的訓練を積むことが、た
(ちようきようう)
だちにもって、警語を発するに長ずるの訓練に供し得べきなり。世尊(せそん)拈華瞬目(ねんげしゆんもく)に対する迦葉(かしよう)破顔微笑(はばんみしよう)倶胝(くてい)が一()の禅などは、警語(けいこ)のただちに言句を絶したる域に昇れるもの、しかして、それ等以下の問答棒喝(もんどうぽうかつ)は皆警語をもって警語と戦うものなり。「作麼生(そもさん)かこれ仏η」の問は一なりと(いえど)も、これに答うるに「(いわし)(かしら)!」をもってし、「(ねこ)尻尾(しつぼ)!」をもってし、「肥柄杓(こえびしやく)!」をも(丿てして、いよいよ()でてますます()なるを妨げずと()す。
 また、警語の戦いは、舌端唇頭(ぜつたんしんとう)における剣道柔道(けんどうじゆうどう)の試合なり。要は、気を満たし節を短くして、我が戯を示しつつ敵の%を嫐み、我が巽を包みつつ敵の戯に剰ずるにあるのみ。世界の人と人と(あい)闘う術において、我が剣道柔道に(まさ)るものあるを見ざる、またこれ、日本人が警語を発するに長ず所以(ゆえん)の、側面的立証(そくめんてきりつしよう)(きよう)すべからずや。「()、人を驚かさずんば死すとも(きゆう)せず」とは、唐代(とうだい)詩聖杜甫(しせいとほ)(げん)なるが、大抵(たいてい)の日本人はこの人と共鳴(きようめい)するところある者なり。すなわち、一警語を拈出(ねんしゆつ)して人のドテッ(ばら)を驟らんがためには・腿製を撫り尽して、瑜庇の艦の如く頭を枯らすことをも惜しまざる者は、他人にあらずして予輩(よはい)の同胞たる日本人なり。
 ことに、日本人中の日本人にして、日本人の長所をもその短所をも(あるいは長所を少なく短所を多く)、共に極端(きよくたん)に代表するところの、昔の江戸っ子、今の東京市民において、「()、人を驚かさずんば」の厄介(やつかい)なる(やまい)のはなはだ重態なるを見る。試みに彼等が日常の会話を聞くに、その普通に用うるところ、多くは警語の常語化(じようこか)したるものなり。警語に時間の加わりて、その(あたら)()を失いたるものなり。しかして、彼等が好んで用うるところのものは、多く誇語(こご)にして、その誇大(こだい)なること(じつ)に驚くに()えたり。
 彼等はややもすれば、「蹴飛(けと)ばした!」と云い、「蹴飛(けと)ばされた!」と云う。如何(いか)力量非凡(りきりようひぽん)の人間なればとて、同じ人間を蹴って飛ばし得る者はあらざるべく、また、如何(いか)非力虚弱(ひりよくきよじやく)の人間なればとて、同じ人間に蹴って飛ばさるるほどの者もありとは信じられず。のみならず、身体が飛ぶほどに烈しく蹴られたるならば、大概生命(たいがいいのち)(まつた)きはずはなく、よし即死(そくし)せぬまでにも、半死半生(はんしはんしよう)大怪我(おおけが)は免れざるべきに、蹴飛(けと)ばされたる者が何の別条(べつじよう)もなく、二本の(あし)にて立ちて、巻煙草(まきたばこ)などを(くゆ)らし()状態(ありさま)の不思議さに、よくよく訊ねて見れば、蹴飛ばされたりとは蹴って()ばされたる意味にあらで、ただ()られたりと云うべきに(とど)まり、「飛ばされた」は余計(よけい)()え言葉に過ぎず。実際は、蹴倒(けたお)されたるよりは遥かに軽易(けいい)の打撃なるのみ。
 されど、(かく)の如きは、左迄(さまで)驚倒するに価せる誇語(こご)にあらずして、さらに、心弱き者を気死(きし)せしむるに()れるは、「喧嘩(けんか)をして頭を()られた!」と云うそれなり。試みに、人間の頭の()()られたる光景を想像して見よ。骨飛び、血(ほとばし)り、脳味噌(のうみそ)露出して、あるいは眼球(めだま)の飛び()だしたるを()え、実に、非常(ひじよう)変事(へんじ)稀有(けう)惨状(さんじよう)にして、到底二目(とうていふため)と見られたるものにあらざるべく、もとより、即死(そくし)して(むし)の息さえも留めざるべきはずならずや。(しか)るに、頭を割られたる亡者(もうじや)が、さらに酒などを(あお)りて、ぶうぶう云い()始末(しまつ)の、(あま)りに(いぶか)しさに()えぬに、(くま)なく(さが)()ても、頭の(いず)れの部分よりもその割れ目を見出だすこと(あた)わず。わずかに血のにじみたる一小局部を認め得たるのみなるより、ついには、頭を割られたりとは事実頭を割られたるにあらずして、ほんの擦過傷同様(かすりきずどうよう)薄手(うすで)()わされたるのみの事実を意味するものなることを、推測するの(ほか)なきに(いた)るなり。ここにおいて、「草履(ぞうり)で頭を()られた!」との不可思議(ふかしぎ)なる言語も、何の怪しまるるところなくして、立派(りつば)に通用しつつあり。しかも、()はただ無数の例中(れいちゆう)より一、二を()(きた)れるのみ。東京人は警語を拈出(ねんしゆつ)するの技術に長ぜる市民にして、なかんずく、彼等が好んで用うるところの警語は、誇大至極(こだいしごく)の形容を()すときにおいてその特色(とくしよく)発揮(はつき)するなり。
 ()()(ろん)(きた)りて、()はついに、日本人に認むるに、世界においてもっとも警語
を発することを()くする種族たるの、資格(しかく)をもってするに到れり。少なくとも日本人は、はなはだ警語を好み、(すこぶ)る警語を重んずる種族なりと、断言することを躊躇(ちゆうちよ)せざるに(およ)べり。ここに到りて、予はさらに一歩を進めて、何故(なにゆえ)に日本に(いま)だ警語の歴史あらざるかと問うことを(あえ)てせんとす。しかして、日本に(いま)だ警語の歴史あらざるは、読書界の一大欠陥(けつかん)なりと(だん)ずることを(はばか)らざらんとす。しかしてさらにまた一歩を進めて、警語の歴史は、興味上より云うも、必要上より見るも、必ず今日の日本にこれあらざるべからざるものなりと呼号(こごう)せんことを思う。かくて、予をしてついに、この至難(しなん)なる創造的事業の一端に指を染めしめずんば()まざらんとす。もとより、一小冊子(しようさつし)(うち)に収め尽さるべき分量の問題にあらず。予はただ、「日本警語史(にほんけいこし)」の粗製(そせい)癒る雛形(ひながた)を示すに過ぎざるのみ。幸いにして、(いま)()らざる重要の物の断片を供給したる小功(しようこう)を認められたるにより、この小冊子もまた江湖(こもつこ)の一()に価するを得ば、予はさらに他日を期して、比較的完備せる『日本警語史』を編成せんことを思うなり。
 なお、この章を終結するに臨んで、(ねん)のために、警語と()()なるものとの区別を明らかにしおく必要あり。警語は、その拈出(ねんしゆつ)せられたる当時を始めとして、存続力の比較的長く強きものほど、格言(かくげん)の部類に(せき)を移さるる資格を有する傾きを()(やす)きものなれど、その元来の性質と目的とは、(おのずか)ら格言と異なるものなり。格言の価値は、その始めて(はつ)せられし時の実効如何(じつこういかん)よりも、むしろ、万世(ばんせい)鉄律(てつりつ)として儼存(げんぞん)するに()らざるべからざるに、警語はこれに反して、必ずしも事後における存続力如何(いかん)を問わず、ただ、これを(はつ)したる一時において、よく、事件もしくは問題に対し、妥当剴切(だとうがいせつ)なる効果を奏すれば足れるなり。
 また、世間(おうおう)々、いわゆる「洒落(しやれ)」と警語(けいこ)とを同一視する者あり。(こと)に、浅薄俗悪(せんばくそくあく)()に至りては、低級なる語呂落(ごろお)ちの駄洒落(だじやれ)をも、なお警語の範囲と看做(みな)すべき価値あるものの如く思うの(じよう)ありと(いえど)も、これ全然誤謬(こびゆう)にして、語呂落ちの駄洒落の如き、わずかに最劣等の頭脳を有せる者に興味を感ぜしめ得べく、いやしくも少しく趣味の高き者は、これを聞いてかえって嘔吐(おうと)(もよお)すべし。警語は左様(さよう)馬鹿(ばかば)々々しきものにあらざるなり。()う、最初に掲出(けいしゆつ)したる諸例を復読(ふくどく)して、つらつら玩味(がんみ)せよ。
 (おのずか)ら警語の何物(なにもの)なるかを会得して、格言(かくげん)あるいは洒落(しやれ)との区別を知ると共に、(おの)(みずか)ら警語を拈出(ねんしゆつ)せんとするにおいての、好個(こうこ)の訓練とならん。

その一 神話と()()ぜられたる警語史

面白しとは実に面白き語なり  警語を連結したる歌謡は警語を連結したる演説に優る
  歌唱の戦争、恋愛の戦争ー-歴史を照破するの光焔を帯べる警語  高台より望む
物に二あり、百姓の炊煙と情人の船  獣対人の問題と警語が実際に作用せし一新特例
  警語史とその朧気ながらの過渡期

 我が神代史(じんだいし)も、また人文発達(じんぶんはつたつ)の歴史の原則に基きて、多くの、詩的空想と寓意(ぐうい)とに(ふくしたが)よりて造られたる事実を含みつつあり。随って、警語史的眼孔(けいこしてきがんこう)(えい)ずる我が神代史は、材料はなはだ豊富なるものなり。されば、()をしてまず、我が高祖大日霎貴尊(こうそおおひるめむちのみこと)を中心と()しての崇高(すうこう)なる事蹟(じせき)(うかが)わしめよ。活気(かつき)全身に(みなぎ)って(おさ)うること(あた)わず、沸々(ふつふつ)として外に(あふ)れて、異常破格(いじようはかく)の行為となり、しかも(みずか)らその(しか)所以(ゆえん)を知らざるが如き、弟君素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、あまりに不謹慎の所業(しよぎよう)のみを重ねて、一家一族の首長たる姉君の権威(けんい)無視(むし)せらるるより、女徳(じよとく)に富み給える大日霎貴尊(おおひるめむちのみこと)は、憂慮(ゆうりよ)のあまり御身(おんみ)()め給いて、(あま)窟戸(いわと)の奥深く()(こも)らせ給いぬ。
 されば人倫(じんりん)超絶(ちようぜつ)したる端厳美麗(たんごんぴれい)御姿(おんすがた)も、広大無辺(こうだいむへん)智徳(ちとく)の光を含みて、日輪(にちりん)の万物を養うが如く(たえ)に輝き給う御眼(おんまなこ)も、ひとたびこれを聞かば、病みて死せんとする者も(よみがえ)()つべき慈悲無量(じびむりよう)御声(おんこえ)も、共に衆人(しゆうにん)耳目(じもく)より消え去りて、頼み()ったる首長(しゆちよう)を失いし民族は、さながら常闇(とこやみ)の夜の世界に灯火(ともしび)なきが如く、(かしら)を失いし蛇が進み行くべき方向を定むる(あた)わずして、のたうつに()、世の終り来りぬとばかりに恐慌(きようこう)したるが、かくて()むべき事ならねばと、八百万(やおよろず)の神達種々に評議を()らしたる(すえ)(あま)窟戸(いわと)の前に舞楽(ぶがく)(もよお)して、大神(おおかみ)御怒(みいか)りを(なだ)(まつ)るに決し、美貌(びぽう)にして(したた)るばかりの愛嬌(あいきよう)を有せる天鈿女命(あまのりずめのみこと)が、(ほこ)()って立ち舞うにつれ、群神技(ぐんじんわざ)(つく)して囃立(はやした)てしかば、あまりに(きよう)ありげなるに、大神(おおかみ)御心(みこころ)を動かし給いけん、(かすか)に窟戸を開きて外面(そとも)(のぞ)き給えり。金城鉄壁(きんじようてつぺき)(もの)かは、たとえ全世界の力を集中するも、微塵(みじん)動かし()べしと(おぽ)えられざりし窟戸が、内部(うち)より(おのずか)ら開き(かか)りたることなれば、群神(ぐんじん)勇み立ちて、この()(はず)すなと(しめ)し合い、勇力自慢(ゆうりきじまん)手力男命身(たちからおのみこと)(轟きん)でて進み寄るよと見えたるが、窟戸(いわと)に手を掛けて、遮二無二揺(しやにむにゆ)り立て引き立て、ついに引離して投げ出したるほどに、戸は流星(りゆうせい)の如くに虚空(こくう)を飛び行きて、信濃国戸隠山(しなののくにとがくしやま)に落ち()まりたり。
 ここにおいて、大日霎貴尊(おおひるめむちのみこと)(ふたた)日輪(にちりん)の如くに輝いて世に()で、天地開豁(てんちかいかつ)鶏歌(にわとり)い、鴉啼(からす)き、群神(ぐんじん)夜の明けたる感を()す。しかも、久しく菩薩(ぽさつ)(はい)するが如き(みこと)美貌(びぽう)(かつ)しつつありし群神は、ただ、手の舞い足の踏む所を覚えざる状態(ありさま)にて、何をもってその愉快(ゆかい)に満たされたる情を表わすべきかを知らず、まず雪よりも白き(みこと)御顔容(おんかんばせ)に打たれし感じを口に発して、「あな面白(おもしろ)し! あな面白(おもしろ)し!」と(さけ)()いつつ踊り狂い、
(はて)は、「面白(おもしろ)し」という語の元来(なに)を意味せしかをも忘却(ぼうきやく)して、これをして、愉快禁(ゆかいきん)ずる(あた)わざる千万無量(むりよう)の感情を表わすところの標識たらしむるに(いた)り、
(おもしろゆえついらくせいご)
     「面白し」とさえ云えば、すなわち、愉悦慰楽を表白するところの成語として、絶対無二なるものと認めらるべく、無言(むごん)の約束の成立するを(いた)せり。
 おもしろ                            ふへんてき             じゆくこ           えんげん
「面白し」と云えば、
          日本において最も普遍的に使用せらるる熟語にして、その淵源の遠きこと()くの如く、しかも、幾年代を()るも常に(あら)たに生れ出でたるが如き活発なる生命を有し、これを反対したる意味を表わすにも、他の語を用いずして、ただ「(おも)(しろ)からず!」と云えば()れるほど、包含(ほうがん)するところ多くして、かつ特殊性の(いちじる)しきものなることを、一般に承認せられつつあり。これ、国史(こくし)において警語(けいこ)の著しく作用したる初めにして、その自然(しぜん)に発しつつ、渾然(こんぜん)として実際と融合(ゆうこう)し、また何等(なんら)渣滓(さし)をも留めざる、(きわ)めて原始的と云うべきなり。しかも、この渾然(こんぜん)として鋒鋩圭角(ほうぼうけいかく)を帯びざる原始的警語の(うち)にも、(はや)くすでに、後代(ごだい)(いた)りて発すべき、奇なるもの、(きよう)なるもの、(らつ)なるもの、(つう)なるものの萌芽(ほうが)の、暗
(あんもく)の間に催しつつあるを看取(かんしゆ)し得べしと()す。
 (あま)浮橋(うきはし)に立つと云い、八尋(やひろ)(わに)に乗ると云い、無目籠(めなしかご)()せられて海神(わだつかみ)の国に(おもむ)くと云い、すべてこれ船舶(せんばく)八尋(やひろ)の小舟もその時代においての大船巨艦(たいせんきよかん))を意味するものなりとすれば、神代(じんだい)においては、奇抜(きばつ)なる形容詞をもって物の普通名詞に()てしものの如く、またこれ、警語の部類にあらずとせざるなり。なお、前に()げたる、大日霎貴尊(おおひるめむちのみこと)(あま)窟戸(いわと)に隠れさせ給いて、六合(りくこう)黯黒(あんこく)となりしと云うが如き、伊弉諾尊天(いざなぎのみことあめ)瓊矛(ぬほこ)をもって滄溟(そうめい)を探らせられしにより、鋒滴凝(ほうてきこ)りてオノコロ島となりたりと云うが如き、あるいは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(つりばり)を海中に失い、無目籠(めなしかご)に乗りて、これを海神(わだつかみ)の国に(もと)めしと云うが如き、その他多くの、神代史における寓意的記事(ぐういてききじ)も、また警語の範囲に属するものと称すること(あた)わざるにあらず。少なくとも、警語の親族と看做(みな)すには()るべきなり。
 我が太宗(たいそう)にして不世出(ふせいしゆつ)の大英雄なる神武(じんむ)天皇が、西陲(さいすい)より崛起(くつき)して中原(ちゆうげん)掃蕩(そうとう)せらるるや、(てき)多くしてしかも強く、孤軍奮闘(こぐんふんとう)しばしば危地(きち)(おちい)り、三人の皇兄(こうけい)、あるいは流矢(りゆうし)(あた)りて(こう)じ、あるいは悲観して海中に投身し、あるいは、絶望して戦いの(なか)ばより海外に(いつ)し去りて、ただ一個の天皇を苦境の正中(ただなか)に残し留めたりと(いえど)も、天皇(こう)も屈し給わず、非運(ひうん)(しよ)していよいよ(ふる)い、敵に対し陣に(のぞ)むごとに、即興(そつきよう)の歌謡を作りて朗々(ろうろう)高吟(こうぎん)し、(へい)(そつ)を激励し給うに、士気(しき)大いに振興(しんこう)して、()めるも、(きずつ)けるも、(つるぎ)をたたいて皆(いさ)み、ために、勝ち(がた)(いくさ)に勝ち、破り難き敵を破りて、ついに大業(たいぎよう)の基礎を定め給いぬ。
 されば、神武天皇が(たたか)いに(さい)して朗唱(ろうしよう)し給いし歌謡は、皆(とき)()っての警語の連結にして、一節一句すべて、天皇と共に在るところの軍士(ぐんし)肺腑(はいふ)()く力あるものに相違なかりしなるべく、今日(こんにち)においても、なお当時の光景(こうけい)と事情とを想像し得ざるにあらざるなり。試みにそれ()の実例を()(きた)らんに、天皇ひとたび長髄彦(ながすねひこ)と戦って()ち給わず、(みち)を転じて再び大和(やまと)に入り、宇陀(うだ)兄猾(えうかし)誅戮(ちゆうりく)して弟猾(おとうかし)の帰服を()れ、(おお)いに弟猾に(きよう)せられるるや、天皇は勝って(かぶと)()()むる(いまし)めを(わす)れ給わで、
                                  ことごと
酒食(しゆしよく)(わか)ちて士卒(しそつ)(あた)え、朗らかに声を()げて、宇陀(うだ)高城(たかぎ)に、鴫羂張(しぎわなは)る、()()つや、
ヤコシヤ、アゝシヤコシヤ
(しぎ)(さや)らずいすくわし、鯨障(くぢらさや)る、
工ゝシ
 こうしよう        しようし      う          わ     し き   だん                  なにもの
                               また疲労の何物
と高唱し給えば、将士皆手を拍ってこれに和し、士気一段緊張して、
たるを(おぼ)えず、さらに進んで戦わんことを思うの色を(しめ)せり。
 かくて、天皇のこの勝利は、却って周囲に多くの敵を造るの動機(どうき)となり、決して心を窟んずべからざる形勢を菠したりと警、すでに奏の轡に暦るものある以上、これとて(あえ)て恐るるに()らず、(かなら)(てき)()たんことを()して、神風(かみかぜ)の、伊勢(いせ)(へつみ)の、しやまむ大石(おほいし)匍匐(はひ)もとほろふ、細螺(しだたみ)の、い匍匐(はひ)もとへり、()ちてと、快く歌いて衆を(はげ)まし給い勢いに乗じて、一撃まず国見(くにみ)八十梟師(やそたける)を破り、次に、磯城(しき)八十梟師(やそたける)を撃たんとして、まず帰順(きじゆん)(すす)めしに、弟磯城(おとしき)はただちに(めい)(ほう)じたりとも(いえど)も、兄磯城(えしき)頑強にして旗を伏せず、皇軍を迎えて悪戦(あくせん)す。皇軍(かろ)うじて勝ちて、また(いた)(つか)れたり。されど、天皇はなお(きゆう)し給わず、(こんこん)々として()きざる詩想(しそう)()りて、楯並(たてな)めて、伊那佐(いなさ)(やま)()()ゆも、(とり)鵜養(うかひ)がとも、今助(いますけ)()
()(まも)らひ、(たたか)へば、(われ)はや()ぬ、島津(しまつ)と、節面白(ふしおもしろ)く歌い給い、もって、()(つか)れたる士卒(しそつ)慰労(いろう)すると共に、やがて(りようし) (よく)の来るべきを信じて心を(やす)んぜしめ、ついに後続隊(こうぞくたい)及び糧食(りようしよく)の到るを待ち得て、兄磯城(えしき)を追撃してその首を斬りぬ。
 すでにして(ふたた)長髄彦(ながすねひこ)と対陣するに(およ)ぶや、天皇(ちか)ってこれを(ほろ)ぼさんことを()し、一(だん)強き意味と(はげ)しき調子とをもって、みつくし、久米(くめ)子等(こら)が、てしやまむみつ/\し、久米(くめ)子等(こら)が、まむ粟生(あはふ)には、(かみらひ) 一(ともと)其根(そね)(もと)其根芽繋(そねめつな)ぎて、()垣本(かきもと)に植し(はじかみ)、口ひびく、我は忘れじ、(、つ)ちてしやの即吟(そくぎん)二首を朗詠(ろうえい)し給い、共に、長髄彦(ながすねひこ)が我が祖宗(そそう)隷属(れいそく)せし天久米命(あまつくめのみこと)の子孫なるを明らかにし、しかも前の歌は必ず長髄彦(ながすねひこ)(ほろ)ぼさんことを期するの()にして、(のち)なるは、流矢(ながれや)(あた)って(こう)ぜし皇兄五瀬命(こうけいいつせのみこと)のために(うら)みを報ぜんとするの意を表するものなれど、士卒(しそつ)の感情を刺戟(しげさ)して、天皇の心をもって心と()さしめんとするの目的においては一なり。
 以上の諸例(しよれい)は、アレキサンダー、ナポレオン等の諸英雄が、(いくさ)(のぞ)むや、好んで奇警勁抜(きけいけいばつ)なる短き演説を試み、もって、士卒(しそつ)鼓舞(こぶ)するところの最良の方法に供せしと、まったくその()を一にするものにして、しかも、かかる場合においての歌唱の効力は、演説のそれに(まさ)るべく、剴切(がいせつ)なる警語(けいこ)連結(れんけつ)によりて()りたる歌唱は、すなわち、剴切(がいせつ)なる警語の連結によりて()りたる演説に(まさ)ること(ばんばん)々ならんなり。後世(こうせい)、警語が歌謡の形式によって(はつ)せらるる場合多く、警語を歌謡化することが、日本民族の属性(ぞくせい)に伴える一特色なるが如き観を()すに到れるも、その胚胎(はいたい)するところこれ等の(へん)()るを知るべし。
 足利氏末世(あしかがしまつせい)の名将太田道灌(おおたどうかん)が、十六歳の初陣(ういじん)に、武蔵国小机(むさしのくにン つくえ)の城を()めるや、馬上に、
  手習(てなら)ひは()小机(こづくゑ)(はじ)めなりいろはにほへとちりぐにせん
の和歌を作り、(くら)を叩いて三度朗吟(みたびろうぎん)せしかば、一軍伝唱(でんしよう)して士気大(しきおお)いに(ふる)い、「いろはにほへとちりノだ\にせん!」の声は、すなわちただちに、城を乗り取りし凱歌(かちどき)となりたりと云えり。これ、神武(じんむ)天皇の吉例(きつれい)によりて、警語を歌謡化したるにおいての成功の著大(ちよだい)なるものならずや。
 なお、警語の歌謡化せられたるものが、(ひと)り戦陣の間に利用せらるるに(とど)まらずして、一転して、恋愛の戦争にもまた応用せらるるに(およ)びたることを記憶せざるべからず。いわんや、その起源(きげん)は同じく神武天皇に在りと伝えらるるにおいてをや。天皇中国を平定(へいてい)して皇后を立てんとし、美人にして家系(かけい)の正しき者を求め給う。大久米命(おおくめのみこと)告げて曰く、大和国狭井川(やまとのくにさいがわ)のほとりに住める女あり、神の子なりと聞くと。神は天皇の同族を意味し、神の子は同族の系統(けいとう)に属せる者と云う。女はすなわち、事代主命(ことしろぬしのみこと)の子
  ひめたたらいすずひめ                          おおくめの
                                    大久米
なる媛韜鞴五十鈴姫その人なり。天皇ここにおいて姫を見んことを要し給い、
(みこと)(したが)えて狭井川(さいがわ)のほとりに遊び給う。
 (みち)に七人の少女に()う。(うち)一人風姿(ふうし)(ぐん)()ける者は五十鈴姫(いすずひめ)なり。天皇見てこれおおくめのみこと(むねほうしだく)
(よろこ)び給い、大久米命をして旨を伝えしむれば、少女はただちに奉仕せんことを諾す。
                                 (まなつろてき)もまた()
時は真夏なり。狭井川の水は油を流したるが如く、蘆荻両岸を埋めて、
ざるの所に、ささやかなる草葺(くさぶき)の家あり。三枝(さきくさ)山百合(やまゆり)の一種)の白き花の、姿気高(けだか)
かお(ゆかきよああなんらふうしゆ)
く薫り床しくあたりに咲き満てるが、すなわちこれ姫の居なり。鳴呼、何等の風趣ぞ、
何等(なんら)情懐(じようかい)ぞ。しかして、天皇は当時の(そく)に随いて、まず姫の家に(みゆき)し、婚儀(こんぎ)を結び、一夜その()()(たま)い、
  葦原�