池田亀鑑「源氏物語と晶子源氏」

源氏物語はどのような作品か、まずそのことから概説しよう。源氏物語は、今から九百五十年ばかり前、ダンテよりも三百年、シェクスピアよりも六百年、ゲーテよりも八百年ばかり前に書かれた長編写実小説である。その名まえは「、源氏の物語」とも、「光源氏の物語」とも呼ばれたが、それらは主人公の名に由来するし、別に「紫の物語」とも、「紫のゆかりの物語」とも呼ばれたが、それらは女主人公の名によるのである。おそらく世界最古の長編写実小説の一つと言ってよいであろう。
 作者については異説があるが、わたくしとしては藤式部、すなわち紫式部だとする古来の説をそのまま認めてよいと思う。もちろん五十四帖の中には、どうもおかしいと思われる巻、たとえば匂宮、紅梅、竹河の三帖、特に竹河の巻など、なお十分考えなおしてみなければならぬ巻もあるが、まずだいたい同一作者の手になるものと認めてよいと思う。多人数の作者が、手を分けて書き継いで行ったとか、藤原道長や式部の父の藤原為時などが大部分を書いたとか、全部にわたって加筆したとか、などという説もあるが、まったく問題にはなるまい。ただ源氏物語という壮
麗な一伽藍が成り立つまえに、部分的には相当広範囲にわたり、手のこんだ工作が別々にでき上がっていた。それらを作者が巧みに大きな構想の中に取り入れたのではないか、つまり伊勢物語の一つ一つの段のように、それぞれ女主人公をもつ独立した物語があって、それらを作者が源氏物語の雄大な組織の中に取り入れたのではないかーそういうふうに考える考え方は決して無理ではない。実際はおそらくそうなのであろう。しかし、そのような場合でも、わたくしとしては、それらの要素的な個々の物語の作者も、やはり式部自身にちがいないと考えているつもちろんそれらには民間伝説や、先行作品などが参与したのであろうが、それらはどこまでも素材としてであって、わたくしがここで言う「部分的な物語」としてではない。これは重大な問題であるが、ここで詳説している暇はない。この点において、わたくしは、源氏物語の構成はホメーロス的ではなく、ファウスト的であると考えている。なお詳細については拙稿「源氏物語の構成とその技法」(『望郷』八号所載)を参照せられたい。
 さて源氏物語は五十四帖という驚くべき巨編であるが、その最初の装幀形式はおそらく冊子であったと思う。特別の場合のほかは、巻き物には仕立てなかったものと思われる。枕草子もその原本は明らかに冊子に書かれている。紫式部日記に中宮彰子が物語の草子──これはおそらく源氏物語であろうと思われるが─を多くの人々に手を分けて清書させられることが見えている。この五十四帖という大部の草子は、更級日記の著者の少女時代には、もう相当広く流行していたらしい。これらの各巻々の成立の時期や順位などについては問題があってはっきりとしたことはいえない。ただ今の巻の順位のとおりに成立したものであるまい、また作者は一度草稿を書いて、その後全体的に何回か増補修正したらしいとは言えると思う。そして五十四帖の中には少し疑問の残る巻々もあるが、まず大体作者みずから筆をとったものであると言って大過なかろうと思う。



 作者紫式部はどのような人であったであろうか。紫式部という名前は、おそらく「紫の物語の作者たる藤式部」の意でつけられた呼び名であろう。式部が藤式部と呼ばれたことは伊勢大輔集その他によって明らかであるが、「藤」は藤原の略、式部は兄惟規(のぶのり)が式部丞であったのによるのであろう。「藤」のゆかりで、「紫」に改めたとの説もあるが、そのほかにも藤式部と呼ぶ女房はいたのに、惟規の妹だけが紫式部と呼ばれるのもおかしい。やはり「紫」は源氏物語の別名たる「紫の物語」の作者である点に関係があるものとわたくしは考えている。
 さて紫式部は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)の後裔の越後守為時の(むすめ)である。父の為時は漢学者であり、歌人としても有名である。曾祖父堤中納言兼輔(かねすけ)は三十六人歌仙の中に列し、祖父雅正(まさただ)、その弟の清正(きよただ)、伯父の為頼(ためより)などみな歌人として知られている。兄の惟規も和歌に巧みであり、母方の祖父為信は最近発見された家集によって本院侍従などとともに有名な歌人であったことが知られ、式部がどの血統からも源氏物語の作者としてふさわしい天分を恵まれていたことが証明された。
 式部の生没年代は明らかでない。ここでは安藤為章の考証によって、かりに円融帝の天元元年ごろの生まれと見る通説に従っておこう。老後は出家したであろうが、その年代はわからない。おそくとも長和二年五月から万寿三年正月ごろまでの間に宮仕えをやめたらしい。そのときもう死んでいたか、出家中であったかは不明である。彼女は小さい時から聡明で、その逸話が彼女みずから書いた紫式部日記に見えている。一条帝の長徳二年、十九歳のころ、父の為時が越後守となって赴任するとき、父に伴われてその任国に下り、約一か年ののちに京都に帰った。そうして右衛門権佐(うえもんのこんのすけ)藤原宣孝(のぶたか)の求婚があり、長保元年に結婚した。その時、宣孝は四十八歳ぐらい、式部は二十歳ぐらいであったらしい。やがて二人の間に賢子が生まれた。この人は太宰大弐高階成章の妻となって大弐三位と呼ばれ、また後冷泉帝の御乳母となって越後の弁と呼ばれた。式部はまもなく夫宣孝と死別し、父のもとに帰った。そしてこの一女をかかえて、中流階級の女性のだれもがそうであるように、生活の苦とたたかわねばならなかった。この苦しい生活の中に、源氏物語の構想は成り、そして次々と執筆されていったのであるとわたくしは考えている。
 式部は寛弘二、三年ごろ(四年とする説もある)に一条帝の中宮彰子に仕えた。それは家庭教師というような立場であったらしい。この宮仕えの間に見聞した事柄を日記に書いたのがあの紫式部日記である。今日伝えられているこの日記は、寛弘五年七月、中宮が御懐姙によって里邸たる土御門殿に退出されているところから筆をおこし、後一条帝御降誕の模様を詳しく述べ翌々七年正月、後朱雀帝御五十日の御儀式に終わっている。この日記は、彼女の歌を集めた紫式部集とともに、彼女を知るたいせつな資料である。
 式部はもの静かな、思慮深い、知性的な婦人であったようである。源氏物語に現われる明石の上という女性は、彼女の自画像であったかもしれない。外見はすこし冷たさを感じさせるような女性であるが、あたたかい愛情をもって人間をみつめている。その美しい人間愛がなくてはこの源氏物語は創作されなかったであろう。彼女においては、温良恭謙譲という東洋的な生き方が女性の美徳とされているが、人間の真実なるものに対しては世にも崇高な美を感じ、その美に酔いしれてわれを忘れるという作家的なほほえましい一面をもっていた。そのことは、彼女の日記の随所に見えるところである。彼女は人間探求の記録とー,)して源氏物語を作ったが、その後もなお探求の手をゆるめず、永遠のヒューマニストとしてその生涯を送った。



 源氏物語は三つの人生のあり方を描こうとしたもののようである。すなわち光源氏的人生と柏木右衛門督(かしわぎうえもんのかみ)的人生と、(かおる)大将的人生とがそれである。これを別の言葉で言うならば第一は天皇統治下の明るい叙情的な人生であり、第二は摂関制下の幽暗な悲劇的な人生であり、第三は荘園社会と僧庵生活者の暗黒な求道的な人生である。この三つの人生がいわゆる宿世(すくせ)──宿命の人間観によって結びつけられているところにこの物語の主題と構想の雄大さがあると思う。この物語は、巻から巻へと無方針に書き継いでいったものではない。また右の三つの人生の物語を単純につないでいったものでもない。これらは三部作としてはじめから雄大豪華な長編的組織内のものであったと思う。
 第一部においては、平安京を背景として、はなやか源氏の青春が描かれる。幾多の女性とのさまざまな恋愛が語られる。すべては明るい春の楽しさである。第二部においては、六条院の壮麗な大達築を背景として、人生の分裂と葛藤が描かれる。第三部への橋わたしをなすところの世にも悲しい恋愛の宿命と、破局と、そして深刻な死が語られる。第三部においては、父なる人の罪の重荷を負うてこの世に生まれてきた薫の君の苦悩に満ちた半生が描かれる。はるかに救いを浄土に求める憧憬がしみじみと語られている。この間に、作者は、藤壷、紫の上、葵の上、六条の御息所、明石の上、宇治の姫君、浮舟、夕顔、空蝉、末摘花、花散里、雲井の雁、朧月夜の内侍、玉鬘、近江の君、女三の宮、落葉の宮などさまざまの女性を登場させ、あらゆる女人の群像を克明に描こうと努めている。それらの女性たちは、一人一人はっきりした個性と、それぞれの立場とを与えられ、あたたかい愛情によって見守られた女性たちである。しかも彼らは、彼らを支配する大きな人間の世の宿命の中に、その好むと好まざるとを問わず漂うてゆかねばならない人たちであった。この巨大な物語は、こうして五百人に及ぶ人物と、三代にわたる世の動きを描き、女主人公浮舟の姿を最後に大きく点出し、その心境を象徴的に描写点出することにより、五十四帖の長編の幕を閉じている。そこにぱ幾多の問題が薄明の中に残され、深々とした余情が後ろに遠く引かれている。まさに巨大な小説にふさわしい静かな、そして美しい結末である。
 この小説は、古代小説には珍しい手がたい写実的手法によって一貫している。これは作者が螢の巻に有名な小説論を展開して力説したところを、みずから誠実に実践に移した結果として注意すべきものである。真実性は、筋の上にも、性格表現の上にも、心理描写の上にも、徹底したものがある。たかまりゆく情緒や、精密にして美しい背景の描写、薄明のような象徴性をたたえた文章の風格、あらゆる点において近代的な技法の上乗なものを備えている。約十世紀も昔に書かれた作品であるからには、言語の上にも、環境の上にも、現代人の理解を困難に陥れるもののあるのは当然であり、また小説技巧それ自身としても多少の欠陥があり、いわゆる構図の弱さが感じられないでもないが、まさに稀有の古典的傑作であると断言しておそらく何人といえども異論はなかろうと思う。



 源氏物語は後代の日本文学に著しい影響を与えた。まず平安時代から鎌倉時代を経て室町時代および江戸時代に至る小説形態の諸作品の上に、どうすることもでぎない日本的性格というものを与えた。狭衣をはじめ平安朝後期の物語はいうまでもなく、苔の衣以下中世の物語は、ことごとくこの物語の影響のもとに成立しないものはない。近世の仮名草子はもとより、文芸復興期、すなわち市民文芸の栄えた元禄期の諸作品、たとえば近松や西鶴の芸術にも、この物語の影響は決定的であった。また和歌の方面においては、早く藤原俊成が歌人必読の書としてこの物語を推称して以来、甚大な感化を与え、ついにこの物語を規範とする古典主義を確立させるに至った。ことに連歌や俳諧に影響を与えることは非常に多く、ここでいちいち説明している暇はない。こうして源氏物語は日本のあらゆる文芸作品を完全に支配したのである。
 源氏物語の影響は、ひとり文芸作品の世界ばかりでなく、広く日本文化の全面にわたり、生活の諸方面に及んだ。この感化は、よい意味でも悪い意味でも、国民生活の各層にしみこんでしまった。こうして一方では不倫の恋愛を取り扱っているとか、皇室の尊厳を傷つけるとか、さまざまな低劣な議論があらわれ、軍閥政権のはなやかであった時代においては、ついに焚書の論さえも一部の過激派の問には叫ばれるに至った。この狂躁は今日から考えると愚にもつかぬことながら、その当時としては真剣な問題であった。この古典を護り続けることは容易ならぬ、命がけの仕事であった。
 わが国において、源氏物語がそのような取り扱いをうけようとしていたときに、外国では早くもこの物語の真価が公正に認められ、その堂々たる全訳が完成していたのである。まことに文化の水準の高さを思わざるをえない。すなわち、英国において、  氏による全六巻の英語訳が成り、それが非常な好評を博し、わずかの間に数版を重ねるという盛況であり、まさに偉大なる世界古典の一つとして全世界に承認されたのである。今日まで源氏物語に対して無関心であった人々も、この英訳源氏物語によって、あらためてその価値を確認しえたというような人も少なくなかった。日本人は、すぐれた外国人に教えられて、自国の古典の価値をはじめて知るという情けない有様であった。これは一つにはわれわれ古典の学問に従っているものの無力無能の責に帰せられるべきでざんきにたえない。今後はそのようなことがないように努力が払われるべきである。



 源氏物語の現代語訳は、今日においては、與謝野晶子夫人の労作をはじめとして、窪田空穂氏、谷崎潤一郎氏、五十嵐力氏のそれぞれの力作がある。いずれも特色があって、それぞれすぐれた全訳である。わたくしの考えるところでは、現代語訳はそれ自身一つの芸術品でありうる。したがって今後幾つ出てもよいのである。それぞれ訳者の個性がそれぞれの作品の上に現われてくるからである。
 晶子夫人が源氏物語の現代語訳に着手せられたのは、明治の末年で、夫人が三十歳を少し越えられたころであったらしい。そのころいち早く源氏物語の偉大さに注目し、これが現代語訳を試みるという大望を抱かれたことは、今日から見れば何でもないように見えるにしても、その当時としては、実に驚くべきことであった。その当時は、湖月抄よりほかに適当な参考書はなかったのであり、一通り全巻を通読するだけでも容易ならぬ仕事であった。主婦の身をもって、しかも多くの子女の母たる責任を負いながら、この五十四帖という大部の古典の翻訳に精進するということは、実に悲壮な決意を必要としたであろう。夫人はあらゆる困難とたたかいつつ、ついにこの驚くべき大事業を完遂されたのである。
 與謝野源氏──わたくしはより親しみ深い名をもって晶子源氏と呼びたい──の特色は、必ずしも原文の逐語訳という点にあるのではない。むしろ大胆な意訳という点にあると思う。そこに夫人の意図された特色が存するのである。あの源氏の難解な文章は、このような方法によってきわめて理解されやすい近代的な表現に変わった。これはたしかに一つの新しい試みであり、夫人の才能はよくこの試みに成功したのである。かような手法は、夫人がのちにおいて完成された新訳栄華物語、新訳和泉式部日記、新訳蜻蛉日記などにも共通するものである。そして、これらはすべて同じように成功をおさめたものである。
 晶子源氏の特色の第二は、女人の心をもって女人の心を見ているという点である。紫式部という古典的古代の女流天才の心は、約十世紀を隔てた近代の女流天才の心にいみじくも共鳴した。それは竪琴の銀線が、風に触れておのずから鳴りいずるに似ている。女性でなければとらえられない繊麗な女性の心が、約一千年の「時」を隔てて近代によみがったのである。
 晶子源氏の特色の第三は、近代の歌人の心をもって古代の歌人の心をとらえている点である。夫人は源氏の中から多くの歌こころを学びとるとともに、またみずからの歌こころをもって源氏を身につけることに努め、その企てに成功している。近代日本浪漫主義の中核をなした「明星」の運動は、源氏における古典的精神と、フランスにおける近代象徴主義精神の美しい抱擁の中に展開した。わたくしはそういう意味でも、この晶子源氏の文学史的役割の重要性を思わざるをえない。
 わが国の女性は、世界の文化に何を寄与したか、この課題について考えるときに、わたくしは世界最古の女流天才紫式部を持つことと、これが精神を近代に展開せしめた女流天才與謝野晶子を持つこととを、何のはばかりもなく誇りとして主張したいと思う。そうしてこの一千年の「時」を隔てた二人の女性が、そろって中流階級の家庭の母であったという点を強調し、現代の同性の謙虚な反省と奮起を求めたいと思う。