三遊亭円朝 怪談乳房榎 三十六(大尾)

三十六

 おきせが死んだと聞きまして、扇折りの竹六は飛んで参りまして、
「へい竹六でござい、さて旦那様申し上げようもない次第で、御新造様が御急変でいらっしゃったって、じつに驚き入りました、御愁傷(こしゆうしよう)なんぞということは通り越して、本当に夢でございます、昨日赤塚から貰って参った乳を私が上げた時、竹六や御苦労だったね、さぞ途中が暑かったろうね、とおっしゃったお声がまだ半分ばかり耳に残っております。」
 などと悔みを申しておりましたが、浪江は悪人でも首ったけ惚れておりますおきせが死んだので、少しとりのぼせたと見えまして、かの正介のことを竹六が口走ったのが気になってなりませんから、さっそくおきせの死骸を棺へ納めまして、温気(うんぎ)の時分だからといって、すぐに菩提所(ぼだいしよ)へその夕方に埋葬をいたしてうちへ帰って参り、その晩はわざと竹六をうちへ泊らせまして、翌朝竹六を自分の居間へ呼びました。
 「へい旦那、さぞお労れでいらっしゃいましょう、しかし御葬式も御都合よくすみまして御安心さまで。」
 「大きにお前お骨折りで、いやお前とは久しい馴染みだが、先生の葬式から引き続いて坊の死んだ時、また今度の不幸にもいろいろ厄介をかけると云うのもこれは何かの縁で、時に一昨日(おととい)赤塚からお前が帰った時、正介に逢ったと云いかけたが、あれは本当に逢ったのかえ。」
「へえ、なに正介には。」
「いやいや隠してくれては、かえってお前の為にはならない先生の遺子(わすれがたみ)の真与太郎を(さら)って逐電いたした不忠者、居所が知れてはうち捨ておかれぬやつ、逢ったら逢ったと有体(ありてい)に云っておくれ、もし隠しだてをするなら、お前も正介と同類ゆえ、よんどころなくこういたすから。」
 と刀を捻くりますから、
「いえ、申します申します。』
 と竹六も浪江の眼の色が変わっておりますから険呑ゆえ、じつはこれこれしかじかと、赤塚で正介に逢ったことを申しましたから、それでは片時(へんし)も捨て置かれぬ、と自分の悪事のあらわれ小口でございすすから、すぐに竹六を案内に連れて浪江は赤塚へ赴きました。
 お話は二つに分れまして、赤塚の正介は今日は七月十二日で、お精霊(しようりよう)さまのおいでの日だというので、お迎い火というやつを焚いております。
「さア坊さま、お前も今年は五つだから、少しは物心もつく時分だが、こうやってお迎い火イ焚くもおめえ様のお(とつ)さまがお精霊様になって来なさるから、さア、お念仏を云わっしゃい。」
 と仏壇から線香の(けぶ)(くすぶ)った白木の位牌を持って来まして、
「坊ちゃまこれがおめえの(とつ)さまだよ。」
「なにおれの(とつ)さまアお前だア。」
「もってえねえ、おれは草履取だア。」
「草履取だ、草履取たア何のことだア。」
「草履取たア履物(はきもの)を取るこったア。」
「それじゃア坊の草履を取るかの。」
「まアそんなものだが、これ、よく聞かっしゃいよ、お前様の(とつ)さまは浪人こそなすったが、元は二百五十石取った立派なお侍で、画えお好きなばかりで朋輩(ほうばい)(そね)みい受けて、菱川重信といってついに画描きになられたが、器量好しの御新造持ったのが身をほろぼす瑞相で、五年前の六月六日の晩に落合で磯貝浪江という悪人のために殺されただ、その時アおれ余儀なく悪人の荷担してすまねえから、お前さまア殺せと言いつかったのを(さえわ)えに、この赤塚へ隠れてお前さま成人させ、どうかして親の(かたき)い討たせてえとお前が背丈のびるのを待っていただ、ええか、今にもその浪江というやつに出会(でつくわ)したら、この刀で横腹(えぐ)って(とつ)さまの(あだ)ア討たんければなんねえ、ええか、この刀アお前様を角筈の十二社の滝壷へ(ぶこ)()めっていった時、犬威(いぬおど)しにさして来た(なま)くらで、こんなに()びているだが、こっちが一生懸命ならこれだって怨みはけえせる、おれが助太刀するから親の敵をええか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
 と麻幹(おがら)をくべて今念仏を唱えております。こなたの窓から覗きました磯貝浪江はずかずかと入って参ったから、正介はびっくりいたしたが、一方口のことゆえ逃げるところがない、浪江は上り(がまち)に片足踏みかけ刀の柄へ手をかけまして、
「珍らしや正介、おのれが悪事を隠さんために、この浪江を敵と狙うなどとは片腹痛し、いで小児もろともまっ二つにしたしくれん。」
 と居合腰に(たい)を縮めて刀をすらりと抜き、(おのれ)っ。と真向に振り上げましたが、葺下(ふきおろ)しの茅葺(かやぶ)き家根ゆえ内法(うちのり)が低いから、切先を鴨居(かもい)へ一寸ばかり切り込んでがちり。.正介は逃端を失いましたから一生懸命、
「坊ちゃまそら(かたき)だッ。」
 と仏壇にあった瀬戸物の香炉を取って浪江へぶっつけましたから、灰は左右へ散乱して浪江が両眼へ入ったゆえ、あっといって思わず眼を塞ぐ、刀は鴨居へ切り込んであるから体を屈めて取ろうといたせど、辺りは灰神楽(はいかぐら)で少しも見えませんから、さすがの浪江も少し慌てで脇差を抜こうというところへは気がつきません。こなたの正介はここぞと思いましてありあわした樫の木の心張棒(しんばりぼう)でめった打ちに腰の(つがい)のところを三ツ四ツ喰わした、不思議やこの時まだ五歳の真与太郎でございますが、さながら後ろで誰かが手を持ち添えてくれますように、例の錆刀(さびがたな)を持ちまして、
「お(とつ)さんの敵思い知れ。」
 と高らかに呼わりまして、浪江が横腹へ突き込み一抉(ひとえぐ)り抉ったから何かはもって堪るべき、浪江はアッと苦しみ立ちすくみというやつで、あゝとそれへばったり倒れたから、正介は南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら、めった打ちにのしかかってぶちましたから、ついに浪江の死骸は顔も何も分らぬようになったとやら申します。
 ちょうどこれは宝暦の六年七月十二日の暮合のことで、さっそくこの辺はお代官支配でございますから、手付衆(てつきしゆう)の御検視が参って浪江の死骸を改め、一通りお尋ねがあって正介真与太郎は名主預けになり、法のごとくお咎めを受けましたが、正介は後に髪を刺りまして廻国に出て亡き人々の回向をいたし、真与太郎は五歳で親の敵を討ったのは珍しいと、旧主秋元家へ十五歳になったら帰参させようと御奉書を賜わり、遠縁の者が引き取りまして世話をいたすことになり、このお話はまず今日で千秋楽と相成りました。
永らくの間お耳を拝借いたしてお退屈でございましたろう。
                       大尾