三遊亭円朝 怪談乳房榎 三十三

三十三

 浪江は竹六の帰りますのを待っておりましたから、
「おゝ竹六か、御苦労御苦労、さぞ暑かったろう、さアさアまア肌でも脱いで涼んで、それから向うの話を聞こう。」
「いえ道で日が暮れましたから、思いのほか涼しゅうございました、昼は恐ろしい暑いところで、なんだといって大根畑ばっかりあって、木という物がございませんところですから、ちっとも蔭なし、じつに汗びっしょりの衣類(べべ)濡し、……いやそんなことはよいが、御新造様はいかが、少しはお痛みが去った方でいらっしゃいますか。」
「さようさ、今日はまず大出来の方で好かったが、日暮からまた痛むといって、あの通り呻っておるよ、そうして乳はもらって来ておくれかえ。」
「へい大貰い、これでございます、この竹筒の方へ入れて参りました、御新造さま早く召し上れ、じきにお癒りで、不思議だそうでございます、へいずいぶん大きな榎の木で、その前に棚が釣ってありまして、その上に癒った人がお礼に上げたという、やっぱり竹づっぽうへ入れた乳が名前が書いて上っておりますが、江戸からわざわざ願懸けに行くものがあるそうで、名前を読んで見ると小網助(こあみちよう)だの橘町(たちばなちよう)だのというのがたくさんあります。外に土器(かわらけ)へ絞って上げる人もございますそうで、その土器(かわらけ)はじき門の(わき)の茶屋で売っておりますが、そこにあなたあの正介が……いえ、なに、正、正直そうな親父が。」
 とつい口走りましたから、
「さア御新造お早くお頂きなさい。」
 などとごまかしましたが、日頃から心にかかる正介のことゆえ、浪江はハッと胸へ当たりまして気になります。
「いや流行神(はやりがみ)というものは利く利かないにかかわらず、自ずと人気がそこへ寄るものだから、(いわし)の頭も信心柄(しんじんがら)とやらで、こっちの心さえ通じればそれはきっと利益のあるもので、え、早く頂くがよい、なに気味が悪い、なにそんなことはない、竹六。」
「へい。」
「今、お前が正と云いかけたが、一昨年(おととし)駈落ちをいたした下男の正介は元は練馬在の生れで、たしか赤塚とか申したが、かれが故郷ゆえ、もしや正介がそこにおって逢いでもいたしはしないか。」
「え、なに正介どんに、なに逢いはしません。」
「逢わなければそれでよいが、あいつが故郷はたしか赤塚と聞いておったから、よい逢わなければ。」
「なに逢いませば何もお隠し申しはしません、だが御新造、さアお乳を上れ、じきに(しるし)が見えます、私がそれに一生懸命にお願い申して来ましたから、御願(ごがん)が利きますことは竹六お請合い、その替りにすっぱり好くおなんなすってお礼参りという時は、私はぜひ御案内かたがたお供でござりましょうね、その節は御褒美に、それ、いつかほしいと申し上げたお帷子(かたびら)でもおみ帯でもどちらか頂戴、こう両天秤(りようてんびん)を引っ懸けておけば大丈夫、ハ丶丶ヽ旦那さまお大事に、さようならまた明日、お休みあそばせ。」
 ととんだことを口走ったと思いますから、よけいな世辞をいって、竹六は口を押えて浅草田原町の我が家へ帰りました。
 後で浪江は疵持つ足でございますから、今竹六が正介と云いかけてよしたのは、なんでもあいつ正介に逢ったに違いない、我が悪事の片腕をいたした老爺(おやじ)、あいつを生かしておいては枕を高くは寝られぬ、どうかいたして根を断ち葉を枯らして安堵したいものだと思いましたが、佞奸(ねいかん)の浪江少しも色には出しませんで、おきせの枕元へまいり、
「どうだな、腫物(できもの)がそう痛むのは、それは吹っ切るから、それで痛みが烈しいのであろう、せっかく竹六が親切に貰って来てくれたのだから、この乳を、なるほど、飲むは気味が悪かろう、もっともだ、それじゃア筆の先か何かで痛むところへ付けるがよい。」
「はいありがとう存じますが、まことに夕方から別段に痛みが烈しいようで、じつにこらえにくいほどでございます、それではその乳を。」
「おれが付けてやろう、画筆が柔かくてよいから。」
 と浪江はくだんの貰って参った乳を画筆の先へ付けまして、
「いやこれは痛そうだ、真赤になった、しかしこれはもうじきにふっきりそうだ、総別(そうべつ)頭のない腫物(しゆもつ)は悪い物としてあるから、なかなか苦しいものだそうだが辛抱も今夜ぐらいなもんで、(のう)さえ出ればけろけろと好いから我慢をしな。」
 と乳を付けてその晩は浪江も眠りに就きましたが、おきせも乳を付けましたせいかして、宵にはすやすや眠りますあんばいだから、夜伽などをいたします下女や雇い女などは喜びまして、次の間へ来て皆寝てしまいました。……
 これより重信の崇りでおきせがいよいよ苦しみまして、ついに浪江の手にかかり非業な死をとげますという、雀の怪談のお話は明日のことにいたしましょう。