菊池寛「碧蹄館の戦」

碧蹄館(へきていかん)の戦
菊池寛

   鶏林八道蹂躙之事

 対馬(つしま)宗義智(そうよしとも)が、いやがる朝鮮の使者を無理に勧説(かんぜい)して連れて来たのは、天正十八年七月である。折柄(おりから)秀吉は関東奥羽へ東征中で、聚楽(じゆらく)(だい)に会見したのは十一月七日である。この使が帰国しての報
告の中に、秀吉の容貌矮陋(わいろう)面色薫黒(れいこく)、眼光人を射るとある。朝鮮人が見ても、猿らしく見えたのである。又曰く、「宴後秀吉小児 を抱いて()で我国の奏楽を聴く。小児衣上に遣尿す。秀吉笑って一女倭(じよわ)を呼びて小児を託し、其場に衣を()う。傍に人無きが如くであ る」この小児と云うのは東征中に淀君が生んだ鶴松の事である。まだほんの赤坊であるが、可愛い息子に外国の音楽を聴かせてやろうとの親心であったであろ う。傍若無人はこうした応待の席ばかりでない。朝鮮への国書の中には、「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に()え、帝都の政化を億万斯 (しねん)に施すは方寸の中に在り」と書いて居る。朝鮮は宜しく先導の役目を尽すべしと云うのであった。
 朝鮮の王朝では驚いて()す所を知らず、()(かく)と云うので、明の政府へ日本来寇(らいこう)の報知を為したのである。秀吉朝鮮よりの返答を待つが来ない。
 天正十九年八月二十三日、ついに天下に唐入(からいり)即ち明国出兵を発表した。
 兵器船舶の整備を急がせると共に、黒田長政、小西行長(ゆきなが)、加藤清正をして、肥前松浦郡名護屋(なごや)に築城せしめ、更に松浦鎮信(しげのぶ)をして壱岐風本(いきかざもと)(今勝本)に築かしめた。
 松浦郡は()つての神功皇后征韓の遺跡であり、湾内も水深く艦隊を碇泊せしめるに便利であったのである。秀吉は、信長在世中、中国征伐の大将を命ぜられたとき、私は中国などはいらない。日本が一統されたら、朝鮮大明を征服して、そこを頂きましょうと云っていた。
 それは、大言壮語してしかも信長の猜疑(さいぎ)を避ける秀吉らしい物云いであったのであるが、そんな事を云っている内に、だんだん自分でもその気になったのか、それとも青年時代からそんな大志があったのか、どちらか分らない。
 明けて文禄元年正月、太閤秀吉は海陸の諸隊に命じて出発の期日並びに順序を定めた。一番は小西摂津守行長、松浦法印鎮信以下一万三千、二番加藤主計頭 (かずえのかみ)清正以下二万二千、三番黒田甲斐守長政以下一万一千、更に四番から二十番まで総軍合せて二十八万である。(もつと)も実際に朝鮮に上陸 して戦闘に参加したのは十五万内外の人数であった。秀吉が本営名護屋に着いた四月の末頃には、既に行長清正相次いで釜山(ふざん)に敵前上陸し、進んで数 城を占領して居る。行長と清正とが一番乗りを争って、清正が勝ったと云う話は伝説である。三番隊以下の後続部隊も日を隔てて次々に上陸した。先鋒の三軍各 々路を三つに分ち、京城を目指して進んだが、処々に合戦あるものの、まるで無人の境を行く如しと云ってよい位の勢いであった。
 これに対する朝鮮軍の行動であるが、日本軍出動の報が入ると、申硅(しんりつ)李鎰(りいつ)の二人をして辺防の事を(つかさど)らしめた。申竝は 京畿、黄海の二道、李鎰は忠清全羅の二道を各々巡視したが、ただ武器を点検する位に止った。申竝の如きは眼中に日本軍なく、暴慢で到る(ところ)で徒 (いたず)らに人を斬って威を示す有様なので、地方官は大いに怖れてその待遇は大臣以上であったと云う。李鎰は尚州の附近に駐屯して居たが、小西行長の先 鋒は既に尚州に迫りつつあった。朝鮮軍の斥候(せつこう)はこの事を大将李鎰に報告したが信用しない。(かえ)って人心を乱す者であるとして斬って仕 舞った。その(うち)に陣の前の林中に怪しい人影が動く。人々どうも日本軍の尖兵ではないかと疑ったが、うっかり云って斬られてもつまらないと誰も囗に しない。その内、李鎰自身も怪しく思って騎馬武者を斥候に出すと、(たちま)ちに銃声響き、その男は馬から落ちると、首を()られてしまった。まさ しく日本軍である。令して矢を放つが届かない。忽ちにして全軍敗走した。李鎰自身、馬を棄て、衣服を脱ぎ、髪を乱し、裸体で走り、開慶に至って筆紙を求 め、使をして敗戦を報じた。朝鮮側の記録に書いてあるのだから嘘ではなかろう。これが四月の二十四日の事であるが、二十七日には忠州に於て申位が敗れた。 申砒は最初の大言に似ず、日本軍連勝の報に恐れをなして、忠州を出動して南下し、鳥嶺の(けん)()える時に行方不明になった。大将が居なくては 陣中騒擾(そうじよう)するのは当然である。処が斥候の報ずる如くに翌日になっても日本軍が現れないので、安心して何処(どこ)からか出て来た。そして 先の斥候は偽りを報じたとして之を斬った。虫のいい話である。間もなく現れた日本勢と闘ったが忽ちにして敗れ、申位は南漢江に投じて溺死して果てた。この 戦場は弾琴台と云って、稲田多く、馬を(はし)らせるのに不便な処であった。この戦場より南一里の処に姑母山(こぼざん)と称する古城がある。山峡重 なって中に川が流れ、一夫守って万夫を防ぐに足る要害である。日本軍は必ずや此処に朝鮮軍が()って居るだろうと斥候を放ったのに、(ただ)一人も 守って居ないのに驚いた程である。(あき)れながら越えて見ると、稲田の中に陣を()いて居た。後に明将李如松(りじよしよう)が日本軍を追撃し て此処(ここ)を過ぎた時、申竝の無策を嘆じたと云う。折角頼みに思った二将が手もなく敗れた報が京城に達したから、上を下への大混乱である。朝廷諸臣を 集めて評議を行ったが、或者が建議するに、敵軍の(たの)む処は利剣長槍である。厚い鉄を以って満身の(かぶと)を造り、勇士を募って之に(かぶ) らせ、敵中に突入させれば、敵は刺す隙を見出せずして勝を得る事必せりと云う。試みに造ってみたが重くて、誰も動く事が出来なかった。更に一人は漢江の辺 に多くの高い棚を築き、上から伏射すれば敵は上る事が出来ないであろうと進言した。少し気のきいたのが、(しか)らば鉄砲の(たま)も上る事は出来な いのであるかと、反問したのでそのままになった。結局王子臨海(りんかい)君をして咸鏡道(かんきようどう)に、順和君を江原道に遣して勤王の軍を募ら しめ、王李昭、世子光海(こうかい)君以下王妃宮嬪(きゆうひん)数十人、李山海、柳成竜等百余人に(まも)られて、遠く蒙塵(もうじん)する事に なった。四月二十九日の午前二時、士民の哀号の声の中を西大門を出たのである。
 行長、清正の二軍は、忠州に相会した後再び路を分って進み、五月二日の夕方に清正は南大門から、行長は東大門から京城に入城した。京城附近の漢江に清正 行き着いた時、河幅三四町に及ぶが、橋が無いので渡れない。対岸を望むと船が多く(つな)いであるが、敵の伏勢が居ないとも限らない。清正(しば ら)く眺めて居たが、『(かもめ)が浮んで居る処を見ると敵軍既に逃げたと覚える、誰か泳いで彼の船を漕ぎ(きた)る者ぞ』と云った。従士曾根孫六進 んで水に入り、一隻を漕ぎ還ったので、次々に船を(らつ)し来って全軍を渡す事が出来た。清正は更に開城を経た後大陸を横断して西海岸に出で、海汀倉 (かいていそう)に大勝し長駆豆満江(とまんこう)辺の会寧に至った。此処で先の臨海君順和君の二王子を(とりこ)にした。まだそれで満足しなかった と見えて兀良哈(おらんかい)征伐をやって居る。兀良哈は今の間島地方に住んで居る種族で、朝鮮人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものであ る。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したと云うが、まさか富士山 ではあるまい。この情景は昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸軍数百里望郷の情は、武将の心を(いた)ましむるものがあったであろう。清正の話では虎 狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀でつい に仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で射止めた事はあるらしい。
 さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中心とした日本軍の配置はほぼ次の如くである。即ち京城には、総大 将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八千の勢、牛鋒(ぐうぼう) には、立花宗茂、高橋統増(のぶます)、筑紫広門(ひろかど)等四千の勢。開城には、小早川隆景(たかかげ)吉川(きつかわ)広家、毛利元康以下 二万の勢。其他占領した各処には、部将それぞれ守備を厳重にして居たのである。

   於二平壌一行長敗退之事

 日本軍襲撃の報を、朝鮮の政府が明第十三代の皇帝神宗(しんそう)逸早(いちはや)くも告げた事は前にも述べたが如くである。明では最初この急報を 信じて居なかったが、追々と琉球(りゆうきゆう)や福建(あたり)からも諜報が飛んで来る。ついに朝鮮王は義州にまで落ちて来た。救援を求める使は、 (さびす)を接して北京に至る有様である。あんまり朝鮮王の逃足が早いので、一明使は朝鮮王が、日本軍の先鋒を承って居るのではないかと疑ったが、王の 顔色憔悴(しようすい)して居るのを見て疑を晴した程である。明朝(ここ)に於て、遼陽(りようよう)の一部将祖承訓(そしようくん)に兵三千を 率いしめて義州に南下し、朝鮮の部将史儒(しじゆ)以下の二千の共と合して、七月十六日平壌を攻撃させた。平壌を守る小西行長、宗義智、松浦鎮信、黒田 長政等之を迎えて撃破した。長政の部下後藤又兵衛基次が、金の二本菖蒲の指物を朝風に翻えし、大身の槍を馬上に(ふる)ったのはこの時である。
 さて朝鮮の武将史儒はこの役に死し、祖承訓は残兵を連れて遼陽に還ったが、明の朝廷へは、我軍大いに力戦して居た際に、朝鮮兵の一部隊が敵へ投降した為 に戦利あらず退いた、とごまかして報告した。朝廷では、群臣をして評議せしめた。或者曰く、南方の水軍を集めて日本の虚を()くべし。他は曰く、兵を 朝鮮との国境に出して敵をして一歩も入らしむる(なか)れと。他は曰く講和するに()かじと。議論は色々であるが(いず)れとも決定しない。しか し朝鮮は必争の地であり、自衛上放棄する事は出来ない。今()く朝鮮を回復する者があったら、銀一万両を賞し伯爵を授けようと懸賞募集を行った。悪 くない賞与ではあるが、誰も自信がないと見えて応ずる者が無い。そこで今度は意見書を広く募った。その中で予選に当ったのが、程鵬起(ていほうき)が海軍 をして日本を襲う策と、沈惟敬(ちんいけい)遊説(ゆうぜい)をもって退かしめる計とである。前者は行われなかったが、海軍をもって日本を衝く説は良策 であったに相違ない。当時朝鮮海峡に於ても日本の水軍は屡々(しばしば)朝鮮の水師に敗れ、なかなかの苦戦をして居る。今()し優秀強大な艦隊が朝 鮮海峡に制海権を握るならば、遠征の日本軍は後方との連絡を絶たれ、大敗したかも知れない。バルチック艦隊を日本海に撃滅して置かなかったなら、満洲に於 ける日露の戦局はどうなったかわからないと同様である。朝鮮、明にとって惜しい事には、この海軍出動説はついに実現しなかった。一方の沈惟敬の説は直ちに 採用されて、惟敬は遊撃将に任命された。この男はもと無頼漢であったが流れ流れて北京に来て居ったが、交友の中に嘗つて倭寇の為に(とりこ)にされ、久 しく日本に住んで居た者があった。その友人から予々(かねがね)日本の事情を聴いて居た惟敬は、身を立つる好機至れりとして、遊説の役を買って出たのであ る。八月末、平壌の城北乾福山(かんぷくざん)の麓に小西行長と会見した。何故行長が明の使と会見したかと云うと、行長は既に日本軍遠征をこれ以上に進 める事も好まなかったからである。いい潮時さえあらば講和をなしたいと考えて居たからである。明使沈惟敬が来たのは、行長にとって歓迎する処であっただろ う。そこで行長は明からの正式の講和使を遣わさんことを求め、五十日をもって期限とした。沈惟敬之を承諾して、(しるし)を城北の山に()てて日朝 両軍をして互に之を越える事を禁じて去った。休戦状態である。沈惟敬は北京に還って、行長等講和の意ある事を報じた。処が明政府は既に李如松を提督に任命 して、朝鮮救援の軍を遼東に集中しつつあったので、今更惟敬の説を()り上げ様としない。聴かない(ばか)りでなく李如松は怒って之を斬ろうとさえ したが、参謀が惟敬をして行長を偽り油断させる策を説いたので命(だけ)は助かった。期日の五十日を過ぎても明使が来ないので、行長等怪んで居る処 へ、計略を含められた惟敬が来って、講和使の来る近きに在りと告げた。行長等は紿(あざむ)かれるとは知らないから大いに喜んで待って居たが、其時は李如 松四万三千の人馬が、鴨緑江を圧して、義州に集中しつつあったのである。全軍を三つに分ち、左脇、中脇、右脇と呼んだ。左脇は大将楊元(ようげん)以下 李如梅、査大受等。中脇は大将李如柏(りじよはく)以下。右脇は大将張世爵(ちようせいしやく)、祖承訓以下。兵数各々一万一千を超え、ほとんど全軍 騎兵である。
 文禄二年(明暦で云えば万暦二十一年)の正月元日、この三脇の大軍は安州城南に布陣した。当時朝鮮の非常時内閣の大臣として、苦心惨憺(さんたん)の 奔走をして居た柳成竜(りゆうせいりゆう)が来て、陣中に会見した。成竜平壌の地図を開き地形を指示したが、如松は倭奴(たの)む処はただ鳥銃であ る。我れ大砲を用うれば何程の事かあらんと云って、胸中自ら成算あるものの如くである。悠々として扇面に次の詩を書いて成竜に示した。
 へいをひつさげせいや  こうかんにいたる
 提レ兵星夜到二江干一
 いうならく さんかんくにいまだやすからずと
 為レ説三韓国未安
 みん しゆ ひに かくしようせつのほう
 明主日懸旌節報
 びしん よるすつ しゆはいのかん
 微臣夜繹酒杯観
 しゆんらい さつ き  こころなおさかんなり
 春来殺気心猶壮
 ここにようふんをさる ほねすでにさむし
 此去二妖氛一骨已寒
 だんしようあえていう しようさんなしと
 談笑敢言非二勝算一
 むちゆうつねにおもうせいあんにまたがるか
 夢中常憶跨二征鞍一
 如松、更に進み、先ず先鋒の将をして、行長陣に告げて曰く、「沈惟敬(また)来る。宜しく之を迎うべし」と。行長等喜んで其士武内吉兵衛、義智の士 大浦孫六等二十余人をやった。明軍は迎えて酒宴を張ったが、半ばにして伏兵起り吉兵衛を擒にし従兵を斬った。孫六(ほか)二人は血路を開いて(よう や)く平壌に逃げ帰った。茲に至って行長等明の為に欺かれた事を知ったが既におそかった。
 正月五日には、平壌の城北牡丹台(ぼたんだい)、七星門方面は右脇大将張世爵以下の一万三千が、城西普通門方面は左脇大将楊元以下一万一千が、城南 含毬門(がんきゆうもん)方面は中脇大将李如柏、朝鮮の武将李鎰以下一万八千が、来襲した。東は大同江だから完全な包囲攻撃である。平壌に籠る日本軍は、 一万一千、夜襲を屡々試みたが成功するに至らなかった。七日午前八時如松は総攻撃を命令した。明軍の大将軍砲、仏郎機(フランク)砲、霹靂(へきれき) 砲、子母砲、火箭(ひや)等、城門を射撃する爆発の音は絶間もなく、焔烟は城内に満ちる有様であった。日本軍は壁に拠って突喊(とつかん)して来る明軍に 鳥銃をあびせる。明軍死する者多いが、さすがに屈せず(しかばね)を踏んで城壁を()じる。日本軍刀槍を揮って防戦に努めるけれども、衆寡敵せず内 城に退いた。李如松楊元等は普通門より、李如柏は含毬門より、張世爵は七星門より外城に進入した。此時牡丹台を行長の士小西末郷(すえさと)、鎮信の士 松浦源次郎の同勢固めて居たが、源次郎は逃れ難くなったので、切腹して果てた。此夜、行長は諸将と会して進退を議したが、既に兵糧庫も焼れて居るし、鳳山 (ほうざん)からの援軍も来ない上は、一度京城へ退いて再挙するに如くはなしと決して、(ひそか)に城を出で大同江の氷を渡って京城へと落ち延びた。寒 気厳しい最中の退却であるから惨憺たる有様であった。鳳山の大友吉統(よしむね)は、平壌囲まると聞くや仰天して、行長より一足お先に京城へ逃げ込ん だ。太閤秀吉聞いて、日本の武威を汚すものとして、吉統の領国をとり上げた。
 平壌に於ける敗戦までは、まだまだ積極的な態度であったが、これ以後の日本軍は処々の戦勝あるとは云え、大局に於て退軍の兆が現れるようになった。だが、その間に在って、碧蹄館の血戦は、退()き口の一戦として、明軍をして顔色なからしめたのである。

   碧蹄館血戦之事

 平壌敗れたりとの報が、京城に達したので、宇喜多秀家は三奉行と相談して、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を開城へ遣して、小早川隆景に、京城へ退くよ う勧説した。隆景曰く、「諸城を築いて連珠の如くに守って居るのは、今日の様な事があるが為である。此地は険要であるから、(それがし)快く一戦して明 軍と雌雄を決する所存である。渡海以来の某は日夜戦陣に屍を(さら)すをもって本意として来た。生きて日本へ帰る事など(かつ)て思った事もない。老 骨一つ、よし此処に討死しても日本の恥にもなるまい」と頑張って退く事を(がえん)じない。三奉行の一人大谷刑部少輔(ぎようぶしようゆう)吉継、京 城より馳せつけて隆景に説いた。「貴殿の御武勇の程は皆々存じては居るが、今度は主力を京城に集結して決戦しようと考えて居るのである。且つはこの開城京 城間の臨津江(りんしんこう)が春来と共に氷が融ける事でもあらば、貴殿の進退は困難となろう」と説得して、ついに開城を中心として四方の諸城の軍勢も、 次々に退却して京城に集った。集った諸軍勢も(ことごと)く城内に入ったが、小早川隆景、及び立花宗茂等の諸軍だけは城内に入らず、西大門外に陣を布 き、迎恩門を先陣として警戒怠りない。城中の諸将は隆景に、軍勢を城内に収めるがよかろうと忠告すると、隆景は嘲笑(わら)って答えた。明の大軍南下する からには必ずこの城を包囲せずには置かないのである。今若し我軍悉く城中に引籠って(しま)ったならば、兵糧の道を如何(いか)にして守るつもりである か。各各方平壌の二の舞を踏みたいわけではあるまいと。  こう云われると誰も答え様がなかった。隆景の武略、諸将を圧していたのである。さて隆景等が退 いた開城には、既に李如松等代って入り、京城攻略の策戦を(めぐら)した。銭世幀(せんせいてい)は自重説を称え、奇兵を出して混乱に乗ずることを主張 する。査大受は、勝に乗じて一挙に抜くべしと論ずる。先ず敵情如何と、査大受一軍をもって偵察に出かけた処が、坡州(はしゆう)を過ぎた附近で、日本軍の 斥候隊と遭遇した。僅かな人数なので忽ち日本の斥候隊は大受の騎兵団の馬蹄に散らされ六十数名の戦死者を出した。喜び勇んだ大受は勝報を李如松に告げた。 時に、日本軍の精鋭は平壌で(ほとん)ど尽きて、京城に在るは弱兵恐るるに足りない者許りであるとの諜報も来て居るので、如松は(ただち)に若干兵を 開城に置き、李寧、祖承訓を先鋒として、自ら二万を率いて出動した。大谷吉継が予見したように、臨津江の氷は半ば融けかかって居たので、柳成竜工夫して葛 (かずら)をもって橋をかけたので、大軍間もなく坡州に入った。
 京城の日本軍では、いよいよ明軍来が(たしか)になったので、誰を先手の将とするか詮議区々(まちまち)である。隆景進み出て云う様、この大役は立 花左近将監宗茂こそ適役である。嘗つて某の父元就四万騎をもって大友修理大夫義鎮(よししず)の三万騎を九州多々良浜(たたらがはま)に七度まで打 破った時に、この宗茂の父伯耆守(ほうきのかみ)、僅か二三千騎をもって働き、ついに大友の勝利に導いた事がある。その武将の子である宗茂及びその一 党、皆覚えあるものと思う、宗茂が三千は余人の一万に当るであろうと推挙するので、諸将尤もとして宗茂を先陣と定めた。若輩の宗茂は、歴々満座の中に面目 をほどこして我陣屋へ帰ると、宗徒(むねと)の面々を呼び集めて、十死一生の働きすべく覚悟を定めた。第一陣はこの宗茂、並びに弟高橋直正以下三千であ る。第二陣は、隆景旗下八千の兵、第三隊は小早川秀包(ひでかね)、毛利元康、筑紫広門等五千、第四陣は吉川広家が四千の兵。総勢二万の大将は隆景であ る。秀家始め三奉行、黒田長政等も、各々順序を以って陣構えした。
 先陣宗茂の部将小野和泉は、我に一将を()えて前軍と為せ、敵の斥候隊を打破ろう。斥候が逃げれば後続の大軍動揺するであろう。そこをつけ入るべし と勧めたから、宗茂は和泉に立花三左衛門を副えて前備(まえそなえ)とした。池辺竜右衛門進出で、我日本の戦闘は小人数の打合が多い。しかし明軍の戦の懸 引は部隊部隊を以てして居る。これに対抗するには散兵戦では駄目である。と云うので、中備(なかそなえ)を十時伝右衛門、後備(あとそなえ)は宗茂と定 (きま)った。準備は全く整った。その宵黒田長政例の水牛の角の甲を被って宗茂の陣に来り、一方を承ろうと云った。宗茂の軍、長政の勇姿を見て奮い立った と云う。宗茂長政二人とも、二十五歳で、正に武将の花と云ってよかった。
 正月二十六日の午前二時、宗茂の軍は、十時但馬、森下備中の二士に銃卒各数十人を率いさせて斥候に出した。この時坡州の李如松も(また)出登して京城 へ進軍しつつあった。明軍の方でも既に斥候を放つばかりでなく、遠近(おちこち)の山野に伏勢を布いたりした。十時森下の一隊は伏勢を察して、此処かしこ 距離を置いて鉄砲を放ち、大勢であるが如くに見せかけた後、突入したから伏勢は追い出されて散々である。宗茂この報を受けるや直ちに進登を命じた。この朝 寒風が強い。宗茂(かゆ)を作って衆と共に喫し、酒を大釜に(あたた)めて飲みもって士気を鼓舞したと云う。前備小野和泉が出登しようとして居る処 へ()け込んだのは中備の将十時伝右衛門である。伝右衛門和泉に向って前備を譲らんことを乞うた。和泉は驚き怒り、軍法をもって許さない。伝右衛門は 和泉の(よろい)の袖にすがって、今日の戦は日本高麗(こま)分目の(いくさ)と思う。某は真先懸けて討死しよう。殊死して突入するならば敵陣乱れ るに相違あるまい。其時に各々は攻め入って功を収められよ。先懸けを乞うのは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)私の軍功を()てる為ではない。こう 云って涙を流した。和泉感動して、ついに前軍と中軍と入れ代った。霧が深く展望がきかないままに、明の先鋒査大受は二千の騎兵を率いて恵陰嶺(けいいんれ い)を過ぎて南下したが、十時が五百の部隊、果然夜の明けた七時頃に遭遇した。弥勒院(みろくいん)の野には忽ち人馬の馳せかう音、豆を()る銃声、 剣戟(けんげき)の響が天地をゆるがした。天野源右衛門三十騎計りで馳せ向うが、明軍は密集部隊であるから馬を入れる隙が無い。引返さんかとして居ると十 時伝右衛門内田忠兵衛と名乗って馬を駆け寄せ、槍をもって突崩し五六騎を切って落したとある。名乗った処で相手にはわからないであろうが、やっぱり習慣で 名乗ったらしい。兎に角伝右衛門は必死だから、その(ふう)を見て勢いを得た部下は続いて突入った。明軍は四倍の大勢だから伝右衛門の部隊は忽ちに真中 に取囲まれて仕舞った。伝右衛門は総勢を一所に集めて、「敵を間近に引寄せて置いて急に後方に血路を開き、中備の隊まで引取るべし。然る時は敵勢追って来 るであろう。我部隊中備と合したならば直ちに取って返し一文字に突破すべし。かくすれば此敵安く追い払う事が出来るぞ」と下知(げじ)して戦ったが、つい に手負数多(あまた)で討死した。自分が声明した通りであった。部隊の死傷百余人である。中備小野和泉入替って戦うたが易く破れる気色もない。反ってま た危く見えた処に宗茂二千の兵一度に(とき)を挙げて押し寄せた。さしもの明軍も少しく退いたので、宗茂八百を後に固め、あとの軍勢は追撃に移らせた が、此時には既に明軍の後続部隊も到着したから戦は簡単には行かない。池部竜右衛門以下手負死人二百余に及んで居る。折から隆療の先手の兵が来たので宗茂 は、一先ず部隊を引まとめて小丸山に息をつぎ、隆景旗下粟屋四郎兵衛景雄(カげお)、井上五郎兵衛景貞の六千の新手に正面の明軍を譲った。明軍紛雅糧の 有様を書いたものに、 「敵の人数色黒み備閑かにして勢い殊之外見事也。間近になると拍子を揃え太鼓を鳴らし大筒を打(たて)黒烟を立てて押寄す」
 とある。相当なものである。また、
「馬の大きさはけしからず候。男もけしからず大きく候。上方(かみがた)衆(日本軍のこと)もけしからず()じ入り候也」とある。だから、日本軍も勢 い死戦する外はないのである。隆景の先鋒粟屋井上の両人は、両軍を一つに合して当ろうかと相談した。隆景の士、佐世勘兵衛正勝はその儀然るべからずと諌 (いさ)めたから、四郎兵衛は左に、五郎兵衛は右に備を立てて対陣し、大筒小筒を打合ったが、四郎兵衛の手の内三吉太郎左衛門元高の旗持が弾に牌つて倒れ た。其他の旗持之を見て騒いだから、明軍望み見て鬨を挙げて攻め()せた。三千の日本軍浮足立ったのを、四郎兵衛馬を左方の高みへ乗上げて下知を下 す。粟屋掃部(かもん)、益田七内、村上八郎左衛門、石原太郎左衛門、鳥越五郎兵衛、河内太郎左衛門等三十四人の勇士、各々槍を取って踏みこたえた。こ の苦戦の様を見た井上五郎兵衛は高地を下りて援軍しようとすると、佐世勘兵衛また馬の囗を控えて云うには、「暫く待ち給え。粟屋勢崩れるであろう」と止め る。案の定四郎兵衛の軍は崩れて退き、明軍は()く如くに馳せ上って来る。勘兵衛見て、時分はよし(あつま)り給えと云う。即ち井上勢は明軍坂を上 ろうとする処へ上からどっと駈け下ったから明軍は忽ちに追い散らされ、粟屋勢も取って返した。時に十時頃である。隆景本陣を望客蜆(ぼうかくけん)の上に 置き馬上戦陣の展開を眺めて居たが、機正に熟すとして、全軍に進撃の命令を下した。小早川秀包、毛利元康、筑紫広門等五千の軍を右廻して明軍の左側面を衝 かしめ、小丸山に待機中の立花宗茂三千の軍を左廻りして右側面を襲わしめた。隆景自身、井上粟屋勢の後に続いた。追撃して高陽附近に至る頃明将楊元新手を 率いて来り(すく)った。李如松も之に力を得、部将李如柏、李如梅、李寧等も(いず)れも自身剣を執って戦った。しかしこの戦場は水田が多く且つ狭隘 である為に、騎兵の多い明軍は自由に馬足をのばす事が出来ず、又密集体形を展開するのにも苦しんだ。日本軍は三方から攻撃を続けるので明軍次第に敗色を現 した。如松は始め、恵陰嶺を越え来る時にも、落馬して額を傷つけたが、この乱軍の最中にまた馬から落ちた。井上五郎兵衛望み見て忽ち馬を馳せて(まさ) に槍を如松に付けようとした。明将李有昇馬を寄せて之を(さえぎ)り、やっと他の馬に乗せて退かせる事を得たが、有昇自らは弾丸に中って戦死した。李如 梅の如きは、金甲の(やまと)を手ずから射殺すと云うから、日本軍の一隊長と渡合って之を倒しているわけである。この様に明軍も奮戦したけれどもやがて 寒雨到り行動は益々敏活を欠くのに対して、日本軍は左右の高地から十字火を浴せたのでついに支うべくもなくなった。激戦の高潮に達したのは正午頃である が、間もなく明軍の総退却となり、日本軍は之を恵陰嶺まで追撃した。だが長追は無用と云うので立花の先鋒小野和泉馬を(よこた)えて日本軍を制し、隆景 亦休戦を命令した。京城に凱歌(がいか)を挙げて帰ったのはその日の暮方で明国朝鮮連合軍の首を斬ること六千余級であると云う。碧蹄館の戦即ちこれであ る。
 さて大敗を喫した李如松は開城に退いて明朝へ上奏文を送ったが、その申に曰く、「賊兵の都に在る者二十余万衆寡敵せず、且臣(やまい)甚し、他人を以て其任に代えんことを請う」と。今でもそうだが、工合が悪くなったから、病気辞職をしようと云うわけだ。
 朝鮮の忠臣柳成竜は之を見て、二十万なぞとは嘘だと云うと、「汝が国人がそう告げたのだから、事実は乃公(おれ)の知った事じゃない」と云った。時に兵 糧欠乏を告げる者があったが如松は成竜の責任であるとして、之を廷下に(ひざまず)かしめ、軍法を以って処分しようと怒った。いやしくも一国の廟臣に対 して侮辱もまた甚しいわけである。成竜は大事の前の小事と忍んで陳謝したが、国事のついに茲にまで至った事を思うと、覚えず流涕(りゆうてい)せざるを得 なかったと云う。
 愈々(いよいよ)加藤清正咸鏡道より将に平壌を襲わんとして居るとの流言を聞くや、如松はこれをよい口実として、成竜の切願をも(しりそ)けて開城から平壌へと退いて再び南下しようとはしなかった。
 碧蹄戦後に晋州(しんしゆう)城攻略の戦いがある。朝鮮役の前役即ち文禄の役中に於ては、この二つが最も大きい戦争であった。碧蹄の敗後は、明の意気全 く衰えて、間もなく講和の事がもち上ったのである。日本軍も長い間の戦闘で可なり弱っても居るので、秀吉は一先ず大部隊を帰国せしめた。講和の交渉は色々 曲折があるが、明使、「(なんじ)(ほう)じて日本国王と為す」の国書を(もたら)した為、秀吉を怒らしむることになり、講和も全く破れて再度の 朝鮮出兵が起る。これが慶長の役で、加藤清正の蔚山(うるさん)籠城なぞはこの時の事である。
 碧蹄館の戦いの主動者は、小早川隆景と立花宗茂の二人であることはまえの通りであるが、此の時京城の日本軍は糧食尽き、三奉行を初め諸将退却の止むを得 ざるを知りながら、口先では強がりを云っていたのである。軍議区々であったが、隆景は病と称して評議の席に出でず、いよいよ糧尽くる頃を見計いて、軍議の 席に出て、「日本勢此都にて餓死しても後来日本のお為にはならず、退却こそ然るべし」と云ったので、諸将皆隆景説に一致した。その時隆景又曰く、「と云っ て、仔細なく此都を引き取るべしと思わるるは不覚なり。明人大勢にて押し寄するを知りて、(いたずら)に退く時は逃げたるに当るべし。是非茲は一ト合戦 致し退かでは(かな)わぬ所なり。と云って全軍にて戦わば、大勢退き難からん。明日の合戦は拙者致すべく、その間に人数を繰引(くりひか)せられよ、随 分一ト合戦致すべし」と云って、殿(しんが)り戦を引き受けて大勝したのが、碧蹄館の戦である。此の時の隆景の勇姿は摩利支天(まりしてん)の如くであっ たと云われている。
 隆景に賛成したのが宗茂で、相共に奮戦したのである。加藤清正、安辺に在り、日本軍京城の大勝を聞いて、先陣は必ず立花ならんと云ったが、果してそうであった。
 この戦いの容子(ようす)から考えて、日本軍の不統一が分るわけで、京城在城の諸軍隆景と宗茂だけよく日本のために万丈の気を吐いたわけである。
 ある日、秀吉が諸大老と朝鮮の事を議しているとき、黒田如水壁越しに、秀吉の耳に入るように放言して曰く、「去年大軍を朝鮮に遣わされしとき、家康か利 家か、でなくば(いくさ)の道を知りたる拙者を遣わさるれば、軍法定まりて滞りあるまじく、朝鮮人安堵して日本に帰順し、明を征伐せんこと安かるべし。 然るを加藤小西(ごと)き大将なれば血気の勇のみにて、仕置(しおき)一様ならず、朝鮮の人民日本の下知法度(はつと)を信ぜずして、山林へ逃げか くれ、安堵の思なく、朝鮮の三道荒野となって五穀なし。兵糧を日本より運送するようにては如何で明に入ることを得ん」と。秀吉壁越しに聞き、尤もだと思っ たと云うが、まことに朝鮮出兵失敗の根幹を指摘している。