三遊亭円朝 怪談乳房榎 十



 重信は喜びまして、
「これはまことにかたじけない、私は下戸(げこ)だから、菓子を喰べたいと思うても、ここらは辺鄙(へんぴ)ゆえ菓子といっては毎朝(まいちよう)本堂へ上った落雁などの、とんと甲子(きのえね)七色(なないろ)菓子のような物ばかり茶受けに出るので、じつは弱っておったところじゃ、そこへ金玉糖とはかたじけない。さっそく頂戴いたそう。」
「浪汀様、茶を上がれ、まだ少しぬるい、いまじきに熱いのを入れて上げべい。」
「いえもうお構いなさるな。」
「だがね浪江様、まことに先生さまア(なが)(あいだ)だが、今度は御自分が好いた仕事だって、この暑いのに夜なべえかけて画を描いているで、おうちへもえんつう不通(、、、、ふつう)だから、おれちょっとおうちへ参って、御新造様や坊ちゃんのう安否を聞いで()べい来べいと云っても、なにうっちゃっておけ、沙汰アねえのが変わりがねえのだって、いや画にかかっちゃア可愛い坊ちゃまのことせえ忘れてござる、.だがおめえ様がおうちへたびたび見舞って下さるって、ありがとうごぜえやす、先生様も浪江が見舞わってくれべいから安心だって。」
「いえ先生のお留守へは折節伺いまして……しかしあまりお気をお詰めあそばしては、かえってお身のお毒にはなりませぬか、ちと御精が出過ぎはいたしませぬかな.。」
「はゝゝゝ、いやもうわしも凝り性でいけんが、かねて生涯に一度は何かと思うておったところゆえ、この寺などの天井などは後世に残る物だから、精神を入れて描かんければならぬが、それに杉戸や襖へも、これここにあるような花鳥か、または四季の耕作なぞを書くつもりじゃ、これは皆彩色をしなければならぬから、先へと存じて墨書(すみがき)に取りかかると、世話人だの何のと申す百姓衆が来ては、いや先生それより両国の花火のところがよいの、やれ役者の似顔がええなどとくだらぬことを申すので煩さくってならぬから、彩色ものはみんな後廻しにいたして、まずこれはと思う天井に取りかかったのじゃ、おゝこれは茶か、よいよいまず浪江殿に。」
「いえどういたして、まずまずお先へ。」
「いやこれはなかなか上製、久し振りで味を覚えました……いや、天井の画はたいていどの画師が描いても、丸竜(がんりゆう)とかただし一(びき)の竜を(したた)めるのが通例じゃが、面倒でもわしは雄竜雌竜の二匹の描きわけをいたそうと、いや拙ない腕でとんだ望みを起こして、まアようようのことで雄竜だけは出来(しゆつたい)いたしたが、只今は雌竜の右の手を描いておるところじゃて、まアお前見て下さい。」
 と重信も一生懸命に腕を磨いて描きましたから、少し自慢気で見せます。
「いえこれはなるほど活きておりますようで。」
「ところが聞いて下さい、昼のうちは講中が見ておっていかぬから、気の散らぬように二、三日後から、夜分暑いが、本堂の広い、こう広いところへ障子や屏風なぞを立て廻して夜なべにやっておるのさ、まアこれを描き上げればすぐに彩色ものに取りかかるつもりだから、お前もちっとその時は来てどうか絵の具でも解いておくれか。」
「いえもう修行のためでござりますから、その時はぜひお手伝いに参じますつもりで、しかしどうも大した御精の出ましたことで……私も先生のお側で拝見をいたしても、幾らか稽古のたそくになりますから、とうより上がりましてお手伝いをと存じておりますが、何がはや繁多ゆえ御無沙汰を……それに今日は少々よんどころない用事もござりますればお(いとま)いたし、また近日お邪魔でも賢手伝いにまかり出まするでござりましょう。」
 と天井の画を見まして、悪人の浪江でございますが、よくできたのは存じておりますから、
「この雄竜のこうやった意気込みはどうも凄いようでじつに恐れいりましたな。」
「これはまアできんながらも精神を入れて書いたつもりで。」
 と重信は、傍らにござります厨子へ入っております仏像へ指をさしまして、
「浪江さんこの薬師如来の御像を御覧よ、何かこれは聖徳太子のお作だともいい、また(えん)小角(しようかく)の作だともいうが生きておいでなさるようで、じつに霊験あらたかの薬師仏でね、私もこのお傍に朝夕(ちようせき)おるのも何かの因縁と思えば、信仰いたしておるよ。」
「いかさま、なアる、これはありがたい、じつにお顔の容体御柔和で、南無薬師瑠璃光如来南無(なむやくしるりこうによらいなむ)……」
 などと、横着者め、殊勝らしく拝みなどいたしておりましたが、急に身支度をいたしまして、
「先生、さようならば今日は少々早稲田(わせだ)の親族のところへ寄ります約束もござりますからこれでお暇を。」
「まアよい。」
「いえ遠方でございますからこれでお暇を、いや先生へお願い申しますが、正介殿へちと上げたいものがござりますから、ちょっとお借り申してもよろしゅうござりましょうか。」
「よいどころではない、連れていってもよろしいが、しかし一泊いたしてはどうだね。」
「へえ願いたいのはやまやまでござりますが、今日は只今のわけゆえ、ひとまずお(いとま)を、また出直しまして。」
「ああそうかえ、それでは是非がない御随意に、これ正介や。」
「へえ、何の御用で。」
「これ何か浪江殿がそちに上げたいものがあるといわるるから、御一緒にまいるがよいそ。」
「え浪江様、わしイ上げべえ物があるって。」
「それゆえ只今願ったからどうか一緒に。」
「へえ、どこまでも行くべい。」
「何のことじゃ行くべえなどと、困った老爺(おやじ)じゃ。」
「さようならば、いずれまた近日に。」
 と浪江は(いとま)を告げまして、正介を連れまして南蔵院を立ち出で、馬場下町(ばばしたまち)の花屋という料理屋へ入りました。