三遊亭円朝 怪談乳房榎 六



 さて、菱川重信は下男の正介を連れまして、高田の南蔵院へ赴きました後は、おきせと子供の真与太郎とお花という下女ばかりでございますから、ここぞと思いまして、お淋しかろうというので、磯貝浪江が毎日欠かさず留守を見舞います。それに地紙折りの竹六も参りましては、いろいろに機嫌をとりまして、おうおといっては、おきせやお花を笑わせますから、昼のうちはずいぶん賑やかですが、皆夕方には、
「また明日伺います、坊ちゃん、明日はよい物をお土産(みや)に上げます、さようなら、お花どんお気をおつけよ。」
 と云っては帰りますので、夜に入ってはひっそりといたします、ことに柳島あたりでございますから、田畑が多く只今のように家並にはなりませんから淋しゅうござります。と或る日のことでございましたが、いつもの通り、浪江と竹六が来まして、暑気払いだと泡盛などを出しましたが、果ては御酒が出まして、飲む口だから竹六はずぶろくに()いました。そのうち日が暮れかかりまして、灯ともし頃浪江は帰ろうといたしまして、
「こう竹六、今日はだいぶ酔ったね、(あかり)がつくよ、もうよかろう、お(いとま)にいたそうではないか、コレサ危ない、そう酔っちゃア困るの。」
「へい帰ります、これからずうっと御帰宅といたしましょう、だがどうも今日はたいそう頂戴したもんだから大酩酊……これはひどい……あゝこれはえらい、どうも名代(ただい)の本所だけひどい蚊だ、これは厳しい、さっきからほうぼう喰われました、御新造様が竹六羽織を脱げ脱げとおっしゃって下さるが、私アわざと脱ぎません、脱がぬのはこうこれを足へかぶぜておくと、少しは足へ蚊がとまらぬ、即席に足だけの蚊帳を拵えるというは、えらい竹六は知恵者だ、こんなひどい蚊の中へ、このお美しい御新造を残して、旦那様は高田へいらっしゃるなんて、お可哀そうたよ……、私アこの中へお一人お置き申すのはお可哀そうでなりません。」
「なんでもよいからお暇をいたそう、竹六もう(あかり)がつくよ、先生がおいでならよいが、お留守のことなりあまり貴公のように物がくどいと、御新造がお厭がりあそばす、さア一緒に帰ろう。」
 と云えば、
「いえ浪江様、まアよろしゅうございます、本当にいつも面白い竹六さんでございますねえ。」
「いえ、それでもあんまり遅うなりましてはすみません、さア、竹六一緒にでかけよう。」
 とせきたてますが、酒飲みの常でなかなか立ちませんで落ち着きくさっており、
「なに一緒に私と帰るからって、いえ、御一緒に帰るとおっしゃったって、あなたは撞木橋(しゆもくばし)、私は浅草田原町だから道が違います、私ア押上(おしあげ)の土手をまっすぐに行きます……エ丶イ……のだから御免を蒙りますさようならお(いとま)、お花どん大きにお世話……どっこいしょ……になりましたはゝゝゝ。」
 とよい機嫌でひょろひょろと立ち上がり、(ない)玄関のところから雪駄をつっかけまして、
「さようならまた明日伺います、御機嫌よう。」
「あれ危ない、花やそこまで見てお上げ申しな。」
「いえお構いなさいますな、打ち捨てておおきあそぼせ、構うときりがござりませぬ。」
「あゝ真暗になった、えゝい。」
 と一杯機嫌ゆえ急いで参ります。浪江は少し後へ残りまして、
「いや困ったやつでござります、御酒を頂くと、平生とはガラリと変りまして、しつこくなりますからまことに、いえ私もお暇をいたしましょう。」
「まア、あなたよいではございませんか、お帰りになりますと、後は女ばかりでございますから、まことに淋しゅうござりまして。」
「お淋しゅうはござりましょうが、そのかわり真与太郎様がいらっしゃるからお賑やかで。」
「なに坊にむずかられますと、まことに賑やか過ぎて困ります、おほゝゝゝ。」
 と愛嬌がこぼれるようだ。
「なんにいたせお暇いたしましょう、お花どん後をよく締りをなさいよ、さようなれば御機嫌よう。」
「まことに今日(こんにち)は失礼を、花や、そのお手燭を、いえ、なければ(かご)ぼんぼりでもよいよ、お送り申して。」
「いえお構い下さいますな。」
 と浪江は礼儀正しく立ち出でましたが、門を出たかと思う頃、
「あいたゝゝゝ。」
 おきせは籠雪洞(かごぼんぼり)を上げまして、
「あたたどうかなさいましたか。」
「あいたゝゝゝゝひどく差込みが。」
 と横腹を押えたなり小戻りをいたしまして、うんと云って玄関の敷台のところへ顔の色を変えて倒れました。おきせもお花もびっくりいたして、
「浪江様どうなされました。」
「あなたお(しやく)でも。」
「む丶苦しい……わ……私は……お……折節かようなことが、手前の薬入れの中に熊胆(ゆうたん)が、いえ熊の()がござりますから、どうぞお湯を一つ頂戴お早くお早くくく下さい。」
 と男の癪とみえて、見る間に顔の色が青くなり、歯を喰いしめまして苦しみ、うんと云って反りますから、
「浪江様しっかりなさい。」
「あなたしっかりあそばせ、只今お湯を上げますから。」
「私が押してあげましょう。」
 とでくでくと肥った下女のお花、力が三人力もあるという真赤な手を出しまして、
「私が押して上げましょうここでございますか.」
「ありがとうこれははばかり、そこで。」
「もうちっと下で。」
「よろしい、あゝこれは苦しい、うんむー。」
 本所に蚊がなくなれば大晦日(おおみそか)、という川柳がございますが、五月というのだからひどうございます、うんうんと蚊が群がりますから、
「あゝこれはひどい蚊で、あんまり端近かだし、ここでは蚊が喰うから奥へお連れ申しな。」
「いえこれでよろしゅうござります、けっして御心配を、いまじきに治まりますから、これでよろしゅう。」
「いえあなた御遠慮あそばしますなよ、こういう時は仕方がありません。」