三遊亭円朝 怪談乳房榎 四



 だしぬけに言葉をかけられましたから、竹六はびっくりいたし、
「へえ、これはどなたさまで、少しも後ろにおいでなさいますのを存じませんもんだから、失礼をいたしました、何か粗相いたしましたら御免下さいまし。」
 と何で言葉をかけられたのだかしれませんから、しきりにあやまっております。かの侍は八丈の紐を解いて、冠っておった深い笠を取りました。年の頃は二十八、九ぐらいで鼻筋の通った、色の浅黒い、痩せぎすなお人で、この頃は流行りましたとか申します五分月代(こぶさかやき)というやつで、小髷(こまげ)に結って少し刷毛(はけ)()らしたという、斜子(ななご)かなどの紋付に、お納戸献上(なんどけんじよう)の帯短い大小をさしまして、
「お前にうけたまわりたいと申したのは、今あそこへ行かれたお方はなんと申す画描きの先生じゃな。」
「へえさようで、へえなに、あれは菱川重信先生とおっしゃるお方で、ほんのお内職同様になさるので、お気に向かなければお描きなさいません、それというも御内福でいらっしゃるからで、柳島に立派なお住居で、画はまず探幽(たんゆう)をお習いなすったのですが、土佐(とさ)もよい。浮世絵(うきょえ)もよい、と諸流にお渡りなすったから、一派の風で、師宣をお慕いなさるもんですから、御自分で菱川重信とおつけなさいましたが、ずいぶん御名人でいらっしゃいます。」
「はアさようであったか、じつは手前いたって画を好むゆえ、よき師をとって習いたいと存じおるが、どうもいわゆる長し短かしで、まだ師匠と頼むお人を見当らぬのじゃが、只今の重信先生とやらは、いずれかの御浪人と見えて、威あって(たけ)からず、なかなか御分別がありそうなお人に見受けた、わが師と頼むは重信殿じゃと最前から御様子を伺っておった……どうか手前あのお方の弟子になりたいものじゃが、どうであろうな。」
 竹六は人品のよい人で、第一金銭に困りそうもない立派な侍ですから、世話をしておいたら始終よかろうと思いますから、如才なくすぐに承知しまして、
「ヘエそれじゃアあなたは画がお好きで、重信様へ御門入(こもんにゆう)がなさりたいってそれはよいお心がけで、なに私がご昨今でこんなことを申しては変でござりますが.あのお方を師匠におとんなさろうなんぞは凄いよ、あなたはお目が強いよ、毎度重信先生も、どうか片腕になるような弟子をほしいものだとおっしゃってで、それに御都合はよし、御新造はお美しいし、あなた御門入なさい、先生もきっとお喜びでしょう。」
 とよけいなことをしゃべります。
「しかしお内弟子ではどうでしょうか。」
「いやいや内弟子に参るのではない、手前通って習いたいのじゃ、どうかお世話下さるまいかな。」
「それはお安いことで造作ございません、わけなしでございますね。」
「それはさっそくの御承知でかたじけない、今これにてうけたまわったには、明後日は貴公が先生方へおいでのよしじゃが、相なるべくはその節に身どもを御同道下さるまいか。」
 とかの侍は懐中から紙入れを出しまして、金入れの中からぞろぞろと幾らか小粒を出しまして紙に包み、
「これははなはだ些少じゃがお礼の印じゃ。」
「いえこれは恐れ入りましたね、これはどうも痛み入りました訳合いで、まだお世話をしない前からお礼を頂くとは、いや、せっかくの思召しですからへゝゝゝ頂戴いたしておきます。」
「どうか納めて下されば手前も重畳(ちようじよう)じゃ。」
 竹六は喜びまして、金の包みを懐ろへもじもじやってしまいまして、
「してあなた様のお宅はどちらですか、手前が明後日参る出がけにちょっとお寄り申してすぐに柳島へお供を。」
「いやいや必ずお出でには及ばん、手前が尊公のお宅へ伺うからよい、手前が家はここに手札がござるから差し上げておこう。」
 と手札を出しますから、竹六は、
「ヘエ、これはお手札を、ええなるほど、本所撞木橋磯貝浪江(しゆもくばしいそがいなみえ)様、よろしゅうござります、磯貝浪江さま、へゝゝよろしゅうござります、これで分りますて、きっと明後日は御同道いたしましょう。」
「それではなにぶんお頼み申す、世話であったな。」
 と茶代をおきまして、浪江は立ち出でこの日は互いに別れました。
 竹六は心のうちでまずこの人を世話をしておけば、地紙は売れる、稽古のためだといって礬水引(どうさひき)美濃紙(みのがみ)のほかに画帖が売れるし、書画会などにも一人でも画描きの殖えた方が商いがあっていい、とかく氏子繁昌だと、これから約束をいたしましたその日に、この浪江を同道しまして弟子入りをいたしましたところが、重信もことのほか喜びまして、早速画手本を与えなどしましたが、浪江は少しは下地がありますから、ちょっと、器用な(たち)で、この日より毎日通います。くどくどしいところは省きまして申し上げますが、この浪江は、以前は谷出羽守(たにでわのかみ)様の藩中で百五十石を頂戴した侍の果てで、当時仔細あって浪人はしておりますが、身形(みなり)を崩しませんで、(ぜん)申し上げました通り年は二十九で、ちょっと苦み走った男で、諸事如才なく立ち廻りまして、まず師匠を大事にするのは不思議です。それに真与太郎をしきりと可愛がりまして、かの川柳にも「子ぼんのう親ぼんのうの下心」などと申して誰も我が子の愛には溺れますもので、自然とこのおきせもあゝ浪江さんは親切な人だと思っております。それに下女のお花なんぞへも、折々(かんざし)や前垂れなぞを買ってやりますから、イヤ浪江を褒めますこと、
「御新造様本当に浪江様のようなよいお方はございません。」
 などと評判がよろしゅうござります。
 この年も三月四月と暮れましてちょうど五月五日のことで、御存じの通り端午の節句というので、方々へ吹流しの鯉などが上っております。玄関へ二人連れでやって来た男は、小石川原町(はらまち)万屋新兵衛(よろずやしんべえ)という人で、今一人は手織縞(ておりじま)単物(ひとえもの)に小倉の一本独鈷(どつこ)の帯を猫じゃらしのように締めまして、それで伊勢の壼屋の紙煙草入れをさしておりますが、紐が緩んでおりますから、歩くたんびに取れかかった金物がばくばくいって、煙草の粉が出るというごく質朴の人で、玄関へ来まして、
「へーお頼み申します、たのもう。」