三遊亭円朝 怪談乳房榎 三



 間与島伊惣次様の御家内おきせ様は、前もって申し上げますとおり、柳島路考という噂をされるほどなすこぶるな美婦でありますが、かえってこれがその身に災いを及ぼす種と、後に思いあたりますが、御夫婦仲はいたってお睦ましいが、満つれば欠くるとやらで、お子さんがない。よく(たとえ)に金のあるお方を禄人(ろくじん)といい、子のある人のことを福人(ふくじん)とか申しますが、この重信先生にはお子がないゆえ、どうか一人ほしいものだと、神へ願込めなどをいたしておりましたが、人の一心は貫くもので、おきせ様が懐妊におなりなすって酸っぱいものが喰べたいという。重信先生は大喜びで、なんともなさらないが、お医者にかけて薬を飲ませる、高い所などへは必ず手を上げてはならんぞ、と大事になされます。十月(とつき)満ちまして、宝暦(ほうれき)二年の正月元日に出産がござりました。しかもお生れになったのは男の子だというので、重信先生はころころ喜ぼれまして、名を真与太郎(まよたろう)と名づけまして、蝶よ花よと慈んで育てられ、成人をするのを待ちかねておいでなさる。
 ちょうどその年の三月のことで、向島の桜がまっ盛りで、とりわけ今日は十五日ゆえ梅若(うめわか)でござりますから、花見がてら参詣しようと、おきせ様は丸髷に結いまして、まだ半元服(げんぶく)で、下女と五十一になります正介(しようすけ)という親爺を供に連れて、重信先生は細身の大小に黒の羽織、浅黄博多の帯、
雪駄(せつた)ばきで、真与太郎を下女におぶせまして、ぞろぞろ雑踏(ひとごみ)の中を梅若へお参りなすって、お帰りにお寄りなりましたのは、小梅の茶屋でござりましたが、この茶店の婆さんは柳島近所のもので馴染みでござりますから、重信先生は門口から、
「どうした、婆さんいそがしいかの。、」
 と声をかけ、
「おやすア、どなたさまかと存じましたら、柳島の先生様、御新造様、おや坊ちゃんをお連れなさいまして……お花見でござりますか、それはまアよくお出でで……おやこれは正介さん、お花どんもお供で御苦労様、今日は梅若様の涙雨って、昔からいいまして、雨が降るもんでござりますが、まア降りませんでよい御都合で、もうお子様方をお連れあそばして、道でお降られなすって御覧あそばせ、それこそたいへんでございます、おやまアまだお礼を申しませんで、せんだってはまことに結構なお菓子をたくさん下さいましてありがとうござります、うちのあなた爺いなんぞは生れてから、あんな結構なお菓子は見たことはないと申して喜びましてさ、あなた、ありがとうござりました、さアお茶を一つ、もういけない渋茶でございます。」
 と一人で喋っております。重信先生を初め皆床几(しようぎ)へ腰をおかけなさって、真与太郎に小便などをやっておられましたが、重信先生は、隅の方に腰をかけて、後ろ向きになって弁当をつかっております三十ばかりの色の黒い男に声をかけまして、
「おいおいそこにいるのは竹六じゃアないか。」
 この竹六と申します人は浅草田原町(たわらまち)におりまする地紙折(じがみお)りでござりますが、只今はそんなものはございませんが、この頃は、地紙折りと申して、扇の地紙と骨を箱へ入れて包んで背負(しよ)いましては、花見なんぞの場所へ商いに持って参りますので、これはよく人が即席に画や書、詩歌などを扇へ書きますことが流行(はや)りましたから、それをすぐにその座で折りまして骨をさして出すという、それは手際なものだそうにござります。竹六は重信でございますから、
「いよ……これは、どなたかと存じましたら、柳島のお先生様、御新造様、坊ちゃんをお連れあそばしてお花見、どうもまことにお綺麗で、いえ存外御無沙汰をいたしました、いよ、これは正介さん、お花さんいつもお美しいね、今日(こんにち)は御新造様のお供で、白粉をおつけなさるとふだんとは違うよ、器量がずっと上るからおかしい……エー御無沙汰をいたしましたのは、この三、四月頃はあなた、書画会が多うございますので、何か席上へ参って慾張り筋で、傍から地紙が売れますもんですから、ついつい御無沙汰に相成りましてどうも恐れ入ります、正介どんあの節はどうも申訳がない、たいそう酔いましたもんだから、さっぱり道を忘れて、とうとうお前さんに送り出されるなんて、それをわたしはちっとも知らないんだから、酔っぱらいぐらいのんきなものはない。」
 などと、如才ないから下女下男にまで世辞をふりまいております。
「イヤそんなことはよいが、あれぎり来んからどうしたかと思っておったよ、少々頼みたいことがあるからちょっと来てくれんか。」
「へい早速上がります、ええ明後日(みようごにち)はきっと上がります。」
「お前が来るというのは当てにならんが、また待ちぼうけはいかんよ。」
「いえどういたして、今度は大丈夫で、なに大丈夫でございます……えゝそれに先日願いおきました、あの絹地の細物(ほそもの)は、まだえゝお認め下さいませんかな。」
「おゝあれか、あれはまだ認めんよ。」
「おおかたまだとは存じましたが、先方でも急には出来んが、そのかわり出来れば、先生様のだから大したことだと申しておりました、どうもいつも御新造様のお美しいこと、この砂っぼこりの中をお歩きなすっても、ちっとも汚れないくらいなものはない、えゝ坊ちゃん、えゝわたくしでござります、竹六で、竹六(じい)やアさ、えゝ先生にょく似ていらっしゃるって、瓜を二つで、一つお笑いなさいまし。」
 と真与太郎をあやしております。
「それじゃア竹六、明後日(みようごにち)はきっとであろうな、よいか待っておるよ、これ大きに世話であった。」
 と茶代を幾らかつかわしまして、重信主従は出てゆきました。
「ヘエ、きっと明後日上がります、御新造様お気をつけていらっしゃいまし、それ、石がありますから、危ねえ、お花どんそそっかしいからいけねえ、坊ちゃんをおんぶだから気をつけなくっちゃアいけません、ヘエお静かに。」
 と重信の影の見えなくなるまで見送っております。
「竹六さん、あの御新造はいつ見てもお美しいね。」
「美しいなんかんて、あの御新造なんぞは美しいを通り越えたのだね。」
 と褒めておりましたが、最前から後ろの方に腰をかけて休んでおりました浪人体の立派な人が、こちらへ出て参りまして、
「えゝちょっとうけたまわりたい。」