三遊亭円朝 怪談乳房榎 二




 主人(あるじ)夫婦は恐ろしく怒っておりますところへ、応挙先生がいつものとおりやっておいでなさいました。
「どうだな、今日は珍しい物があるかな、一杯飲ましてくりゃ。」
 とトントンニ階へお上がりになると、昨日の軸が床に懸けてある。日頃贔屓にして下さる大切なお客だから、いつもは婆さんと娘が飛び出して来て世辞をいうのだが、今日はどうしたのか無愛想で付きが悪い。やがて主人(あるじ)の爺さんが二階へやって参りまして、
「旦那さま、昨日はありがとうございます。」
 と礼を云います。
「いや、これは御亭主、きのうの掛け物をさっそくかけてくれて喜ばしい、なんとようできたろうな。」
 と少し自慢気でおっしゃると主人(あるじ)は変なあんばいで、
「へい、ですが先生様、昨日下さいましたお掛け物の画がどうもハヤ少し。」
 といったん腹は立ちましたが、さすがに面と向かってはいわれませんで、口籠っておりますのを、早くも見てとった先生。
「あゝ、そうか何か……凄いところを描いてつかわしたから画柄が悪いと申すのじゃな。」
「へい、なんでございますからなんで、じつは、あの、御存じのとおり商売が暇で、こんなに(さび)れましたもんだから画を願いましたので、それにあんな女の病人なんぞの縁起の悪い淋しい画では、いよいよお客さまが来なくなりますから、あれはまずまっぴら御免下さいまし。」
 と額へ汗をたらして手拭で拭きながら申します。先生はお笑いなすって、
「はゝゝゝいかにも亭主、手前が気にかけるのはもっともじゃよ、はア無理ではない、おれが今参った時に、いつもと違っていらっしゃいともなんとも申さないから、いかがいたした儀かと存じおったところじゃ、これ、拙者が申すことをよくうけたまわるがよいそ、酒を持って参れ、これ、そう真面目でいてはいかんな、困るよ、あれはこういうわけじゃ、陰は陽に帰るといっての、何ごとも極度まで参ればまた元へ戻るのが物の道理で、そちの家もそうじゃ、かように寂れ果てて今日(こんにち)にもよそう止めようと空で決心いたすのは、これすなわち陰の極度まで参ったので、この上は元の陽に帰するより道はない、おれが昨日(きのう)認めてつかわした画もそのとおりじゃ、女が病いに苦しんで死になんなんといたしおる忌わしい図じゃが、これ陰の極度で、もうここまで参っては、これからそろそろ陽気に帰るより仕方がないもので、そちの商売とてもこう寂れて陰気になったから、これからは昔の陽気におもむくのが順道(じゆんとう)じゃ、陰気の画ではあろうが、おれも身不肖(ふしよう)ながら円山応挙じゃ、心に思うところがあって認めたあの軸、はずさずに懸けておけ、陰も陽にかえる時節があるぞ。」
 といつものとおり御酒を召し上って先生はお帰りになりました。後で爺さんや婆さんは、額を集めまして秘談をいたしましたが、まア御贔屓の先生があれほどおっしやったこと、ちょうど掛け物は皆売ってしまって無いところですから、そのまま懸けっ放しにいたしておきました。そういたしますとたちまちこの評判が京都中へ広まりまして、
「お前あすこの幽霊の画を見なはれたか、応挙はえらいもんじゃな、あの女がこう……やっている髪の毛から、血がたらたら滴っておる凄さ、わしなんぞは夜さり寝たら夢に見てうなされました。」
「いや、わしまだ見に行かん、二朱ばかりつこうて飲みにいってその軸を見てきましょう。」
「ほんに見て来やしゃれ、えらいもんじゃさかい。」
 とわいわいと市中で噂をいたします。さア繁昌をいたしましたのはこの料理屋で、一年ばかりの間に、この掛け物の画を見たいといって来る客で、思いがけなく商いがあって、二年目の春にはこわれかかっておりました普請までいたし、元のとおり立派な見世になったという。また応挙先生のお腕前の勝れたところも諸人が知りまして、高名の上にまた高名な先生におなりあそぼして、諸大名より幽霊のごく凄いところを絹地へ描いてくれ、またこっちからは、
「唐紙半切(はんせつ)でいいからちょっと小粋な幽的を」なんぞと山のように御注文があって、只今もって応挙の幽霊の画と申しますと高価なものだそうにございます。
 この応挙先生の幽霊の画は、あながち魂が入って動き出したというわけではございませんが、名人上手となりますと、随分不思議なことがありますもので、高田砂利場村の大鏡山南蔵院の天井へを雌竜雄竜を墨絵で描かれました菱川重信(ひしかわしげのぶ)という絵師の先生は、このお方はもと秋元越中守様(あきもとえつちゆうのかみさま)の御家中で、二百五十石お取んなすった間与島伊惣次(まよじまいそうじ)というお人でございましたが、生得(しようとく)画がお好きで、土佐(とさ)狩野(かのう)はいうに及ぼず、応挙、光琳の風をよくのみこんで、ちょっと浮世絵の方では又平(またへい)から師宣(もろのぶ)宮川長春(みやがわちようしゆん)などというところを見破って、その上へ一蝶の艶のあるところをよく味わって、いかにもお筆先が器用で、ちょっと描く画がいきているようだという高名を慕いまして、画を描いて下さいと頼み手がたいそうあります。家中(かちゆう)ではしきりにこのことの噂が高くなりまして、間与島(まよじま)は画をよく描くそうだ、画の礼ばかりでも楽に暮される、羨やましいなどとやっかむ(やから)がたくさんあります。その頃は世が開けませんから、少し利口だとか学者だとかいいますと、じきに公儀からお(ただ)しがあり、只今なら探偵がありますから、間与島は自然とお(かみ)のお首尾(しゆび)が悪くなりまして、なにもこれという落度はござりませんが、ついに永のお暇になりまして、柳島のある大商人(おおあきんど)がおりました寮を求めまして、これへ引き移りましたが、二百五十石も取っておいでのお人だから、何不自由なく、お好きな画を描いてお暮しなさいましたが、お年は三十七というので、よい男ではないが、元がお武家だからなんとなく立派で、品のよいお人にて、このまた御家内(かない)のおきせ様というのがすこぶる美婦でいらっしゃる、年は二十四でございますが、器量が好いせいか二十歳(はたち)くらいにしか見えませんで、役者の瀬川路考(せがわろこう)にどこやら(おもかげ)が似ているからというので、誰いうとなく柳島路考(やなぎしまろこう)柳島路考と申します。