怪談牡丹燈籠 第九回
怪談牡丹燈籠第四編
第九回
狡児授 レ計欲 レ除 レ害
鼠輩遮 レ途漫挑 レ闘
飯島の家では妾のお国が孝助を追い出すかしくじらするようにいろいろ工夫を凝らし、このことばかり寝ても覚めても考えている、悪いやつだ。殿様は翌日御番でお出向きになった後へ、隣りの源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お国はしらばっくれて、
「オヤ、いらっしゃいまし。引き続きまして残暑が強く、皆様ご機嫌よろしゅう。こちらは風がよく入りますからいらっしゃいまし。」
源次郎は小声になり、
「孝助はゆうべのことを喋りはしないかえ。」
「イエサ、孝助がきっと告げ口をしますだろうと思いましたに告げ口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってネ、その時わたくしは弓の折れで打 たれたと云わなければよいと胸がどきどきしましたが、あのことは何とも云いませんが、云わずにいるだけおかしいではありませんか。」
と小声で云って、わざと大声で、
「お暑いこと、この節のように暑くっては仕方がありません。」
また小声になり、
「イエ、それに水道端の相川新五兵衛様の一人娘のお徳様が、うちの草履取の孝助に恋煩いをしているとサ。まアほんとうに茶人もあったものですネー。ばかなお嬢様だヨ。それからあの相川の爺さんが汗をだくだく流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も贔負 の孝助だから上げましょうと相談ができまして、相川は帰りましたのですヨ。そうして、今日は相川で結納のため取りかわせになるのですとサ。」
「それじゃアよろしい。孝助が行ってしまえば仔細はない。」
「イエサ、水道端の相川へ養子にやるのに、うちの殿様がお里になってやるのだからいけませんヨ。そうすると、あいつがこの家 の息子の風をしましょう。草履取でさえ随分ツンケンしたやつだから、そうなればきっとこの間の意趣を返すに違いはありません。何でもあいつが一件を立聞きしたに違いないから、あなたどうかして孝助めを殺して下さい。」
「あいつは剣術ができるからおれには殺せないヨ。」
「あなたはなぜそう剣術がお下手だろうネー。」
「イイヤ、それにはうまいことがある。相川のお嬢にはうちの相助 という若党がたいそうに惚れているから、あれをうまく欺かし、孝助と喧嘩をさせておき、後で喧嘩両成敗だから、おいらの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理でも孝助を出すに違いがないが、ついちゃア明日伯父さんと一緒に帰って来ては困るが、孝助が一人で先へ帰るようにはできまいか。」
「それはわけなくできますとも、わたくしが殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、きっと先へ帰して下さるに違いはありませんから、大曲りあたりで待伏せてあいつをぽかぽかおなぐりなさい。」
大声を出して、
「まことにおそうそうさまで、さようなら。」
源次郎は屋敷に帰るとすぐに男部屋へ参ると、相助は少し愚か者で、鼻歌でデロレンなどを唄っているところへ源次郎が来て、
「相助、たいそう精が出るノウ。」
「オヤ御次男様、まことに日々お暑いことでございます。当年は別してお暑いことで。」
「暑いノウ、そちは感心なやつだと常々兄上も褒めていらっしゃる。主用がなければ自用を足し、少しも身体に隙のない男だとおっしゃっている。それに手前は国に別段身寄もないことだから、当家が里になり、大したところではないが相応な侍の家へ養子にやるつもりだヨ。」
「恐れいります。何ともはやまことにどうも恐れいりますナー。殿様と申しあなたと申し、ふつつかな私をそれほどまでに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ。何ともヘイわからなくありがとうございます。それだが、侍になるにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだからまことに困るんで。」
「実はきさまも知っている水道端の相川ノゥ、あすごにお徳という十八ばかりの娘があるだろう。きさまをあすこの養子に世話をしてやろうと兄上がおっしゃった。」
「これははやモウどうも、ほんとうでごぜえますか。はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います。頬ぺたなぞはぽっとして尻などがちまちまとして、あのくれえないいお嬢様はたんとはありましねえ。」
「向うは高がすけないから、若党でも何でもよいから、堅い者なればというのだから、手前なればごくよかろうとあらまし相談が整ったところが、隣りの草履取の孝助めが胡麻をすったために、縁談が破談となってしまった。孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけないやつで、大酒呑みで、酒を呑むと前後を失い、主人の見境もなく頭をぶち、女郎は買い、博奕 は打ち、その上盗人 根性があると云ったもんだから、相川も厭気になり、話がもつれて、今度はとうとう孝助が相川の養子になることにきまり、今日結納の取りかわせだとヨ。向うでは草履取でさえ欲しがるところだから、手前なれば真鍮でも二本差す身だから、きっとよかったに違いはない。孝助は憎いやつだ。」
「なんですと、孝助が養子になると。憎 こいやつでごじいます。人の恋路の邪魔をすればっても、私が盗人 根性があって、おまけに御主人の頭を打 すと、いつ私が御主人の頭を打 しました。」
「おれに理屈を云っても仕方がない。」
「残念、腹が立ちますヨ。憎こい孝助だ。ただ置きましねえ。」
「喧嘩しろ喧嘩しろ。」
「喧嘩してはかないましねえ。あいつは剣術 が免許 だから剣術 はとても及びましねえ。」
「それじゃア田中の仲間 の喧嘩の亀蔵というやつで、身体
中疵だらけのやつがおるだろう。あれと藤田の時蔵と二人に鼻薬をやって頼み、きさまと三人で、明日孝助が相川の屋敷から一人で出て来るところを、大曲りで打殺 しても構
わないから、ぽかぽかなぐりにして川へほうりこめ。」
「殺すのは可哀そうだが、打 してやりてえチア。だが喧嘩をしたことが知れればどうなりますか。」
「そうさ、喧嘩をしたことが知れれば、おれが兄上にそう云うと、兄上はきっと不届なやつ、相助を暇 にしてしまうとおっしゃってお暇 になるだろう。」
「お暇になってはつまりましねえ。止しましょう。」
「だがノウ、こちらできさまに暇を出せば、隣りでも義理だから孝助に暇を出すに違いない。あいつが暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う気遣いはない。そのうちこちらでは手前を先へ呼び返して相川へ養子にやるつもりだ。」
「まことにお前 様、御親切が恐れ入り奉ります。」
と云うから、源次郎は懐中より金子 いくらかを取り出し、
「金子 をやるから亀蔵たちと一杯呑んでくれ。」
「これははや金子まで、これ戴いてはすみましねえ。せっかくのお思召しだから頂戴いたしておきます。」
これから相助は亀蔵と時蔵のところへ行き、このことを話すと、面白半分にやっつけろと、手筈の相談を取極めました。さて飯島平左衛門はそんなこととは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りになりました。
国「殿様今日は相川様のところへ孝助の結納でおいでになりますそうですが、少しお居間の御用がありますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし。用がすみ次第すぐにまたお迎いに遣 しましょう。」
と云う・飯島は、
「よしよし。」
と孝助を連れて絹川のうちへ参りましたが、相川はごく小さい家 で、
孝「お頼み申しますお頼み申します。」
「ドーレ、これ善蔵や玄関に取次ぎがあるようだ。善蔵いないか。どこへ行ったんだ。」
「あなた、善蔵はお使いにおやりあそばしたではありませんか。」
「おれが忘れた。牛込の飯島様がおいでになったのかも知れない。煙草盆へ火を入れてお茶の用意をしておきな。たぶん孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳にそのことをいいな。コレコレお前よく支度をしておけ。おれが出迎いをしよう。」
と玄関まで出て参り、
「これは殿様だいぶお早く、どうぞすぐにお上りを願います。へーまことにこの通り見苦しいところ、孝助殿も、御挨拶は後でします。」
相川はいそいそと一人で喜び、コッツリと柱に頭をぶッつけ、アイタヽ、とにかくこちらへと座敷へ通し、
「さて残暑お暑いことでございます。また昨日は上りまして御無理を願ったところ、さっそくにお聞ずみ下されありがとう存じます。」
「昨日はお勿々 を申しました。いかにもお急ぎな溝いまし
たから御酒も上げませんで、大ぎ西お勿々 申し上げました。」
「あれから帰りまして娘に申し聞げまして、殿様けお承知の上孝助殿を聟にとることにきまって、明日は殿様お立合の上で結納取かわせになると云いますと、娘は落涙をして喜びました。というと浮気のようですが、そうではない。お父様 を大事に思うからとは云いなから、只今まで御苦労をかけましたと申しますから、早く丈夫にならなければいけない。孝助殿が来るからと申して、すぐに薬を三ぷくたてつけて飲ませました。それからお粥 を二膳半食べました。それから今日はナ、娘がずっと気分がなおって、おとっさまこんなに見苦しいなりでいては、孝助さまに愛想を尽かされるといけませんからというので、化粧をする。婆アもお鉄漿 をつけるやらたいへんです。私ももはや五十五歳ゆえ早く養子をして楽がしたいものですから、まことに恥入った次第でございますが、さっそくのお聞ずみ、まことにありがとう存じます。」
「あれから孝助に話しましたところ、当人もたいそうに喜び、私のようなふつつか者をそれほどまでにお思召し下さるとは冥加 至極と申してナ。あらかた当人も得心をいたし
た様子でナ。」
「いやもう、あの人は忠義がからいやでも殿様のおっしゃることならはいと云って云うことを聞きます。あのくらいな忠義な人はない。旗本八万騎の多い中にもおそらくはあのくらいな者は一人もあり戔すまい。娘がそれを見込ましたのだ。善蔵はまだ帰らないか。これ婆ア。」
「なんでございます。」
「殿様に御挨拶をしないか。」
「御挨拶をしようと思っても、あなたがせかせかしているものだから、御挨拶する間もありはしません。殿様、御機嫌様よういらっしゃいました。」
「これは婆 ヤア、お徳様が長い間御病気のところ、さっそくの御全快まことにおめでたい。お前も心配したろう。」
「お蔭様で、私はお嬢様のお小さい時分からお側にいて、お気性も知っておりますのに何ともおっしゃらず、やっとこの間わかったので殿様に御苦労をかけました。まことにありがとうございます。」
「善蔵はまだ帰らないか。長いなア、お菓子を持って来い。殿様、御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと尾頭 付きで一献 差し上げたいが、まアお聞き下さい。この通り手狭ですからお座敷を別にすることもできませんから、孝助殿もここへ一緒にいたし、今日は無礼講で御家来でなく、どうか御同席で御酒を上げたい。孝助は私が出迎いま
す。」
「なに私が呼びましょう。」
「ナアニあれは私の大事な聟で、死水 を取ってもらう大事
な養子だから。」
と立ち上り、玄関まで出迎い、
「孝助殿、まことによく、いつもお健やかに御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で、御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳をちょっと上げたい。」
「これは相川様御機嫌様よろしゅう。うけたまわればお嬢様は御不快の御様子、少しはおよろしゅうございますか。」
「何を云うのだ。お前の女房をお嬢様だの、およろしいもないものだ。」
「そんなことを云うと孝助が間をわるがります。孝助せっかくのお思召し、御免を蒙ってこちらへ来い。」
「なるほど立派な男で、なかなかフウ、ヘエ、さて昨日 は
殿様に御無理を願い、さっそくお聞ずみ下さいましたが、高は少なし、娘は不束 なり、舅 は知っての通りの粗相者、実に何と云って取るところはないだろうが、娘がお前でなければならないと煩うまでに思い詰めたというと、浮気なようがが、そうではない。あれが七つの時母が死んでそれから十八までわしが育った者だから、あれも一人の親だと大事に.思い、お前の心がけの良い、優しく忠義なところを見て思いつめ、病いとなったほどだ。どうかあんなやつでも見捨てずに可愛がってやっておくれ。私はすぐにチョコチョコと隠居して、隅の方へ引っ込んでしまうから、時々少々ずつ小遣をくれればいい。それからほかに何もお前に譲る物はないが、藤四郎吉宗の脇差がある。拵えは野暮 だが、それだけは私の家についたものだから、お前に譲るつ
もりだ。出世はお前の器量にある。」
「そういうと孝助が困るヨ。孝助もまことにありがたいことだが、少し仔細があって、今年いっぱい私の側で奉公したいというのが当人の望みだから、どうか当年いっぱいは私の手元において、来年の二月に婚礼をすることにいたしたい。もっとも結納だけは今日いたしておきます。」
「ヘェ、来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二正 二と今から八ヵ月間 があるが、八ヵ月では質物でも流れてしまうから、あまり長いなア。」
「それは深いわけがあってのことで。」
「なるほど、アアー感服だ。」
「お分りになりましたか。」
「それだから孝助殿に娘の惚れるのはもっともだ。娘より私が先へ惚れた。それはこうでしょう。今年いっぱいあなたのお側で剣術を習い、免許でも取るような腕になるつもりだろう。これはそうなくてはならない。孝助殿の思うには、なんぼ自分が利口でも器量があるにしたところが、すけなくも高のあるところへ養子に来るのだから土座がなくってはおかしいというので、免許か目録の書付を握って来る気だろう。それに違いない。アヽ感服、自分を卑下したところがえらいネー。」
「殿様、私はちょっとお屋敷へ帰って参ります。」
「行くのは、御主用だから仕方がないが、何もないがちょっと御膳を上げます。少し待っておくれ。善蔵まだか、長いのう。ダガ孝助殿、またすぐに帰って来るだろうが、主用だから来られないかも知れないから、ちょっと奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ。徳が今日はお白粉をつけて待っていたのだから、お前に逢わないとつけたお白粉がむだになってしまう。」
「そうおっしゃると孝助が間をわるがります。」
「とにかくアレサどうかちょっと逢わせて。」
「孝助ああおっしゃるものだからちょっとお嬢様にお目通りして参れ。まだこちらへ来ないうちは、手前は飯島の家来孝助だ。相川のお嬢様のところへ御病気見舞に行くのだ。何をうじうじしている。お嬢様の御病気を伺って参れ。」
と云われ、孝助は間をわるがってヘイヘイ云っていると、
婆「こちらへどうぞ、御案内をいたします。」
とお徳の部屋へ連れて来る。
「これはお嬢様、長らく御不快のところ、御様子はいかがさまでございますか。お見舞を申し上げます。」
「孝助様、どうかお目をかけられて下さいまし。お嬢様、孝助様がいらっしゃいましたヨ。アレマア真赤になって、今まであなたが御苦労をなすったお方じゃアありませんか。孝助様がおいでになったらお怨みを云うとおっしゃったに、ただ真赤になってお尻で御挨拶なすってはいけません。」
孝「お暇 を申します。」
と挨拶をして、主人のところへ参り、
「いったん御用を達 して、早くすましたらまた上ります。」
相「困ったネー、暗くなったが何があるかえ。」
「何がとは。」
「何サ提灯があるかえ。」
「提灯は持っております。」
「何がないと困るがあるかえ、何サ蝋燭があるかえ、何あるとえ、そんならよろしい。」
孝助は暇乞いをして相川の邸を立ち出で、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待伏せをしているのだが、孝助の運が強かったと見え、隆慶橋を渡り、軽子坂から邸へ帰って来た。
「只今帰りました。」
と云うからお国は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の仲間 に真鍮巻の木刀で打 たれて殺されたろうと思っているところへ、ふだんの通りで帰って来たから、
「オヤオヤどうして帰ったえ。」
「あなた様がお居間の御用があるから帰れとおっしゃったから帰って参りました。」
「どこからどうお帰りだ。」
「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を上って帰って来ました。」
「そうかえ、わたしゃまた今日は相川様でお前を引き留めて帰ることができまいと思ったから、御用は済ませてしまったから、お前はすぐに殿様のお迎いに行っておくれ。そしてもしお前がお迎いに行かないうちにお帰りになるかも知れないヨ。お前ほかの道を行って、途中でお目にかからないといけない。殿様はいつでも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方から行けば、途中で殿様にお目にかかるかも知れない。すぐに行っておくれ。」
「ヘイ、そんなら帰らなければよかった。」
と再び屋敷を立ち出で大曲りへかかると、仲間三人は手に手に真鍮巻の木刀をひねくり待ちあぐんでいたのも道理、来ようと思う方から来ないで、後 の方から花菱の提灯を提げて来るのを見つけ、たしかに孝助と思い、相助はズッと進んで、
「ヤイ待て。」
「誰だ。相助じゃネーか。」
「オー相助だ。きさまと喧嘩しようと思って待っていたのだ。」
「何をいうのだ。だしぬけに。きさまと喧嘩することは何もネー。」
「おのれ相川様へごまアすりゃアがっておれの養子になる邪魔をした。そればかりでなくおれのことを盗人根性があると云やアがったろう。どういうわけだ。ごまをすって、てめえがあのお嬢様のところへ養子に行こうとする憎 いやつ、ほかのこととは違う。盗人根性があるといったから喧
嘩するから覚悟しろ。」
と争っている横合から、亀蔵が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持ってる提灯をたたき落す。提灯は地に落ちて燃え上る。
「てめえは新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻にかけ、大手を振って歩きゃアがる。いっていきさまは気に入ら
ネーやつだ。こん畜生め。」
と云いながら孝助の胸ぐらを取る。孝助はこいつらは徒党したのではないかと、すかして向うを見ると、溝 の淵に今一人しゃがんでいるから、孝助はかねて殿様が教えて下さるには、相手の大勢 の時は慌てると怪我をする。寝て働くがいいと思い、胸ぐらを取られながら、亀蔵の油断を見て前袋に手がかかるが早いか、孝助は自分の体を仰向けにして寝ながら、右の足を上げて亀蔵の陰嚢 のあたりを蹴返せば、亀蔵は逆 とんぼうを打って溝 の淵へ投げ付けられるを、左の方から時蔵相助が討ってかかるを、孝助はヒラリと体 をひっぱずし、腰に挿 たる真鍮巻の木刀で相助の臀 のあたりをドンと打 つ。相助打 たれて気がのぼせ上るほど痛く、限も眩み足もすわらず、ヒョロヒョロと逃出し溝 へ駆け込む。時蔵も打 たれて同じく溝へ落ちるのを見て、
「ヤイ何をしゃアがるのだ。サアどいつでもこいつでも来い。飯島の家来には死んだ者は一匹もいねーぞ。お印物 の提灯を燃やしてしまって、殿様に申訳がないそ。」
飯島「マァマアもうよろしい。心配するな。」
「へで、これは殿様どうしてここへ。私がこんなに喧嘩をしたのを御覧あそばして、また私がしくじるのですかナア。」
「相川の方も用事がすんだから立ち帰って来たところ、この騒ぎ、憎いやつと思い、見ていて手前が負けそうならおれが出て加勢をしようと思っていたが、ぎさまの力で追い散らしてまずよかった。焼け落ちた提灯を持って供をして参れ。」
と主従連れ立って屋敷へお帰りになると、お国は二度びっくりしたが、素知らぬ顔でこの晩はすんでしまい、翌朝になると隣りの源次郎が、すましてやって参り、、
「伯父様、お早うございます。」
「イヤ、だいぶお早いノウ。」
「伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と私共の相助と喧嘩をいたし、相助はさんざんに打たれ、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、兄上がたいそうに怒り、けしからんやつりだ、年甲斐もないと申してすぐに暇 を出しました。ついては喧嘩両成敗の譬えの通り、御当家の孝助も定めてお暇になりましょう。家来の身分として私の意恨をもって喧嘩なぞをするとはもっての外のことですから、兄の名代 でちょっと念のためにお届に参りました。」
「それはよろしい。昨夕 のは孝助はわるくはないのだ。孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへかかると、田中の亀蔵、藤田の時蔵、お宅 の相助の三人がいきなりに孝助に打ってかかり、供前 を妨ぐるのみならず、提灯を打ち落し、印物 を燃やしましたから、憎いやつ、手打ちにしようと思ったが、隣ずからの仲間を切るでもないと我慢をしているうちに、孝助が怒って木刀で打散らしたのだから、昨夕のは孝助は少しもわるくはない。もし孝助に遺恨があるならばなぜ飯島に届けん。供先を妨げけしからんことだ。相助の暇 になるはあたりまえだ。あれは暇を出すのがよろしい。
あいつを置いてはよろしくありませんとお兄 さまに申し上げナ。これから田中、藤田の両家へも廻文 を出して、時蔵、亀蔵も暇を出させるつもりだ。」
と云い放し、孝助ばかり残ることになりましたから、源次郎も当てが外れ、挨拶もできないくらいな始末で、なんとも云うことができず邸へ帰りました。
第九回
飯島の家では妾のお国が孝助を追い出すかしくじらするようにいろいろ工夫を凝らし、このことばかり寝ても覚めても考えている、悪いやつだ。殿様は翌日御番でお出向きになった後へ、隣りの源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お国はしらばっくれて、
「オヤ、いらっしゃいまし。引き続きまして残暑が強く、皆様ご機嫌よろしゅう。こちらは風がよく入りますからいらっしゃいまし。」
源次郎は小声になり、
「孝助はゆうべのことを喋りはしないかえ。」
「イエサ、孝助がきっと告げ口をしますだろうと思いましたに告げ口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってネ、その時わたくしは弓の折れで
と小声で云って、わざと大声で、
「お暑いこと、この節のように暑くっては仕方がありません。」
また小声になり、
「イエ、それに水道端の相川新五兵衛様の一人娘のお徳様が、うちの草履取の孝助に恋煩いをしているとサ。まアほんとうに茶人もあったものですネー。ばかなお嬢様だヨ。それからあの相川の爺さんが汗をだくだく流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も
「それじゃアよろしい。孝助が行ってしまえば仔細はない。」
「イエサ、水道端の相川へ養子にやるのに、うちの殿様がお里になってやるのだからいけませんヨ。そうすると、あいつがこの
「あいつは剣術ができるからおれには殺せないヨ。」
「あなたはなぜそう剣術がお下手だろうネー。」
「イイヤ、それにはうまいことがある。相川のお嬢にはうちの
「それはわけなくできますとも、わたくしが殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、きっと先へ帰して下さるに違いはありませんから、大曲りあたりで待伏せてあいつをぽかぽかおなぐりなさい。」
大声を出して、
「まことにおそうそうさまで、さようなら。」
源次郎は屋敷に帰るとすぐに男部屋へ参ると、相助は少し愚か者で、鼻歌でデロレンなどを唄っているところへ源次郎が来て、
「相助、たいそう精が出るノウ。」
「オヤ御次男様、まことに日々お暑いことでございます。当年は別してお暑いことで。」
「暑いノウ、そちは感心なやつだと常々兄上も褒めていらっしゃる。主用がなければ自用を足し、少しも身体に隙のない男だとおっしゃっている。それに手前は国に別段身寄もないことだから、当家が里になり、大したところではないが相応な侍の家へ養子にやるつもりだヨ。」
「恐れいります。何ともはやまことにどうも恐れいりますナー。殿様と申しあなたと申し、ふつつかな私をそれほどまでに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ。何ともヘイわからなくありがとうございます。それだが、侍になるにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだからまことに困るんで。」
「実はきさまも知っている水道端の相川ノゥ、あすごにお徳という十八ばかりの娘があるだろう。きさまをあすこの養子に世話をしてやろうと兄上がおっしゃった。」
「これははやモウどうも、ほんとうでごぜえますか。はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います。頬ぺたなぞはぽっとして尻などがちまちまとして、あのくれえないいお嬢様はたんとはありましねえ。」
「向うは高がすけないから、若党でも何でもよいから、堅い者なればというのだから、手前なればごくよかろうとあらまし相談が整ったところが、隣りの草履取の孝助めが胡麻をすったために、縁談が破談となってしまった。孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけないやつで、大酒呑みで、酒を呑むと前後を失い、主人の見境もなく頭をぶち、女郎は買い、
「なんですと、孝助が養子になると。
「おれに理屈を云っても仕方がない。」
「残念、腹が立ちますヨ。憎こい孝助だ。ただ置きましねえ。」
「喧嘩しろ喧嘩しろ。」
「喧嘩してはかないましねえ。あいつは
「それじゃア田中の
中疵だらけのやつがおるだろう。あれと藤田の時蔵と二人に鼻薬をやって頼み、きさまと三人で、明日孝助が相川の屋敷から一人で出て来るところを、大曲りで
わないから、ぽかぽかなぐりにして川へほうりこめ。」
「殺すのは可哀そうだが、
「そうさ、喧嘩をしたことが知れれば、おれが兄上にそう云うと、兄上はきっと不届なやつ、相助を
「お暇になってはつまりましねえ。止しましょう。」
「だがノウ、こちらできさまに暇を出せば、隣りでも義理だから孝助に暇を出すに違いない。あいつが暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う気遣いはない。そのうちこちらでは手前を先へ呼び返して相川へ養子にやるつもりだ。」
「まことにお
と云うから、源次郎は懐中より
「
「これははや金子まで、これ戴いてはすみましねえ。せっかくのお思召しだから頂戴いたしておきます。」
これから相助は亀蔵と時蔵のところへ行き、このことを話すと、面白半分にやっつけろと、手筈の相談を取極めました。さて飯島平左衛門はそんなこととは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りになりました。
国「殿様今日は相川様のところへ孝助の結納でおいでになりますそうですが、少しお居間の御用がありますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし。用がすみ次第すぐにまたお迎いに
と云う・飯島は、
「よしよし。」
と孝助を連れて絹川のうちへ参りましたが、相川はごく小さい
孝「お頼み申しますお頼み申します。」
「ドーレ、これ善蔵や玄関に取次ぎがあるようだ。善蔵いないか。どこへ行ったんだ。」
「あなた、善蔵はお使いにおやりあそばしたではありませんか。」
「おれが忘れた。牛込の飯島様がおいでになったのかも知れない。煙草盆へ火を入れてお茶の用意をしておきな。たぶん孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳にそのことをいいな。コレコレお前よく支度をしておけ。おれが出迎いをしよう。」
と玄関まで出て参り、
「これは殿様だいぶお早く、どうぞすぐにお上りを願います。へーまことにこの通り見苦しいところ、孝助殿も、御挨拶は後でします。」
相川はいそいそと一人で喜び、コッツリと柱に頭をぶッつけ、アイタヽ、とにかくこちらへと座敷へ通し、
「さて残暑お暑いことでございます。また昨日は上りまして御無理を願ったところ、さっそくにお聞ずみ下されありがとう存じます。」
「昨日はお
たから御酒も上げませんで、大ぎ西お
「あれから帰りまして娘に申し聞げまして、殿様けお承知の上孝助殿を聟にとることにきまって、明日は殿様お立合の上で結納取かわせになると云いますと、娘は落涙をして喜びました。というと浮気のようですが、そうではない。お
「あれから孝助に話しましたところ、当人もたいそうに喜び、私のようなふつつか者をそれほどまでにお思召し下さるとは
た様子でナ。」
「いやもう、あの人は忠義がからいやでも殿様のおっしゃることならはいと云って云うことを聞きます。あのくらいな忠義な人はない。旗本八万騎の多い中にもおそらくはあのくらいな者は一人もあり戔すまい。娘がそれを見込ましたのだ。善蔵はまだ帰らないか。これ婆ア。」
「なんでございます。」
「殿様に御挨拶をしないか。」
「御挨拶をしようと思っても、あなたがせかせかしているものだから、御挨拶する間もありはしません。殿様、御機嫌様よういらっしゃいました。」
「これは
「お蔭様で、私はお嬢様のお小さい時分からお側にいて、お気性も知っておりますのに何ともおっしゃらず、やっとこの間わかったので殿様に御苦労をかけました。まことにありがとうございます。」
「善蔵はまだ帰らないか。長いなア、お菓子を持って来い。殿様、御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと
す。」
「なに私が呼びましょう。」
「ナアニあれは私の大事な聟で、
な養子だから。」
と立ち上り、玄関まで出迎い、
「孝助殿、まことによく、いつもお健やかに御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で、御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳をちょっと上げたい。」
「これは相川様御機嫌様よろしゅう。うけたまわればお嬢様は御不快の御様子、少しはおよろしゅうございますか。」
「何を云うのだ。お前の女房をお嬢様だの、およろしいもないものだ。」
「そんなことを云うと孝助が間をわるがります。孝助せっかくのお思召し、御免を蒙ってこちらへ来い。」
「なるほど立派な男で、なかなかフウ、ヘエ、さて
殿様に御無理を願い、さっそくお聞ずみ下さいましたが、高は少なし、娘は
もりだ。出世はお前の器量にある。」
「そういうと孝助が困るヨ。孝助もまことにありがたいことだが、少し仔細があって、今年いっぱい私の側で奉公したいというのが当人の望みだから、どうか当年いっぱいは私の手元において、来年の二月に婚礼をすることにいたしたい。もっとも結納だけは今日いたしておきます。」
「ヘェ、来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二
「それは深いわけがあってのことで。」
「なるほど、アアー感服だ。」
「お分りになりましたか。」
「それだから孝助殿に娘の惚れるのはもっともだ。娘より私が先へ惚れた。それはこうでしょう。今年いっぱいあなたのお側で剣術を習い、免許でも取るような腕になるつもりだろう。これはそうなくてはならない。孝助殿の思うには、なんぼ自分が利口でも器量があるにしたところが、すけなくも高のあるところへ養子に来るのだから土座がなくってはおかしいというので、免許か目録の書付を握って来る気だろう。それに違いない。アヽ感服、自分を卑下したところがえらいネー。」
「殿様、私はちょっとお屋敷へ帰って参ります。」
「行くのは、御主用だから仕方がないが、何もないがちょっと御膳を上げます。少し待っておくれ。善蔵まだか、長いのう。ダガ孝助殿、またすぐに帰って来るだろうが、主用だから来られないかも知れないから、ちょっと奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ。徳が今日はお白粉をつけて待っていたのだから、お前に逢わないとつけたお白粉がむだになってしまう。」
「そうおっしゃると孝助が間をわるがります。」
「とにかくアレサどうかちょっと逢わせて。」
「孝助ああおっしゃるものだからちょっとお嬢様にお目通りして参れ。まだこちらへ来ないうちは、手前は飯島の家来孝助だ。相川のお嬢様のところへ御病気見舞に行くのだ。何をうじうじしている。お嬢様の御病気を伺って参れ。」
と云われ、孝助は間をわるがってヘイヘイ云っていると、
婆「こちらへどうぞ、御案内をいたします。」
とお徳の部屋へ連れて来る。
「これはお嬢様、長らく御不快のところ、御様子はいかがさまでございますか。お見舞を申し上げます。」
「孝助様、どうかお目をかけられて下さいまし。お嬢様、孝助様がいらっしゃいましたヨ。アレマア真赤になって、今まであなたが御苦労をなすったお方じゃアありませんか。孝助様がおいでになったらお怨みを云うとおっしゃったに、ただ真赤になってお尻で御挨拶なすってはいけません。」
孝「お
と挨拶をして、主人のところへ参り、
「いったん御用を
相「困ったネー、暗くなったが何があるかえ。」
「何がとは。」
「何サ提灯があるかえ。」
「提灯は持っております。」
「何がないと困るがあるかえ、何サ蝋燭があるかえ、何あるとえ、そんならよろしい。」
孝助は暇乞いをして相川の邸を立ち出で、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待伏せをしているのだが、孝助の運が強かったと見え、隆慶橋を渡り、軽子坂から邸へ帰って来た。
「只今帰りました。」
と云うからお国は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の
「オヤオヤどうして帰ったえ。」
「あなた様がお居間の御用があるから帰れとおっしゃったから帰って参りました。」
「どこからどうお帰りだ。」
「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を上って帰って来ました。」
「そうかえ、わたしゃまた今日は相川様でお前を引き留めて帰ることができまいと思ったから、御用は済ませてしまったから、お前はすぐに殿様のお迎いに行っておくれ。そしてもしお前がお迎いに行かないうちにお帰りになるかも知れないヨ。お前ほかの道を行って、途中でお目にかからないといけない。殿様はいつでも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方から行けば、途中で殿様にお目にかかるかも知れない。すぐに行っておくれ。」
「ヘイ、そんなら帰らなければよかった。」
と再び屋敷を立ち出で大曲りへかかると、仲間三人は手に手に真鍮巻の木刀をひねくり待ちあぐんでいたのも道理、来ようと思う方から来ないで、
「ヤイ待て。」
「誰だ。相助じゃネーか。」
「オー相助だ。きさまと喧嘩しようと思って待っていたのだ。」
「何をいうのだ。だしぬけに。きさまと喧嘩することは何もネー。」
「おのれ相川様へごまアすりゃアがっておれの養子になる邪魔をした。そればかりでなくおれのことを盗人根性があると云やアがったろう。どういうわけだ。ごまをすって、てめえがあのお嬢様のところへ養子に行こうとする
嘩するから覚悟しろ。」
と争っている横合から、亀蔵が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持ってる提灯をたたき落す。提灯は地に落ちて燃え上る。
「てめえは新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻にかけ、大手を振って歩きゃアがる。いっていきさまは気に入ら
ネーやつだ。こん畜生め。」
と云いながら孝助の胸ぐらを取る。孝助はこいつらは徒党したのではないかと、すかして向うを見ると、
「ヤイ何をしゃアがるのだ。サアどいつでもこいつでも来い。飯島の家来には死んだ者は一匹もいねーぞ。お
飯島「マァマアもうよろしい。心配するな。」
「へで、これは殿様どうしてここへ。私がこんなに喧嘩をしたのを御覧あそばして、また私がしくじるのですかナア。」
「相川の方も用事がすんだから立ち帰って来たところ、この騒ぎ、憎いやつと思い、見ていて手前が負けそうならおれが出て加勢をしようと思っていたが、ぎさまの力で追い散らしてまずよかった。焼け落ちた提灯を持って供をして参れ。」
と主従連れ立って屋敷へお帰りになると、お国は二度びっくりしたが、素知らぬ顔でこの晩はすんでしまい、翌朝になると隣りの源次郎が、すましてやって参り、、
「伯父様、お早うございます。」
「イヤ、だいぶお早いノウ。」
「伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と私共の相助と喧嘩をいたし、相助はさんざんに打たれ、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、兄上がたいそうに怒り、けしからんやつりだ、年甲斐もないと申してすぐに
「それはよろしい。
あいつを置いてはよろしくありませんとお
と云い放し、孝助ばかり残ることになりましたから、源次郎も当てが外れ、挨拶もできないくらいな始末で、なんとも云うことができず邸へ帰りました。