久米正雄「熊」
熊
久米正雄
北海道で生れた私の友達が、或日私の近所の子供たちの前でこういう熊の話をして行きました。
一
熊といいますと、いうまでもなく恐しい猛獣ですが、熊だって何も好き好んで人を殺すのではありません。人が熊を恐しがるように、矢張熊の方でも人が恐いのです。そして人が来るのを知れば、熊の方で
私はある時、一人の
するとその間が僅か五間ほどになって、よくその黒いものを見定めますと、それは思いがけない、「
行商人はびっくりして立ち竦みました。それと同時に、熊の方でも、初めてこっちの姿を見て、今まで舐めずっていたほの赤い舌の動きを
とたんに、彼はふと神様のお
彼はこうして洋傘を
彼は思わず今までの
二
もう一つ、これはある
北海道では御承知のとおり、広い野原がありますので、牧畜が大へん盛かんです。そして大抵の
これもある夕方です。いつも放し飼いにしてある牡牛が、日暮になれば小屋へ帰って来るのに、どうしたものかその時戻りませんでした。
で、不思議に思った牧夫は、まさかそんな大事が起っているとは知らず、
すると、そこの
彼は驚いて逃げようといたしました。が、足が竦んで走れません。それにまたこの二匹の睨み合が、果してどうなるかと思うと、こわいもの見たさに魂を奪われ、
熊と牛とは猶も永い間睨み合っていました。けれどもその間に、牡牛は
熊の方でも気味が悪いから、おいそれとすぐ手出しはいたしません。牛の様子をじっと見ていながらただ
牡牛の方では戦闘準備が出来たから、もうちょっとも動きません。ただ赤く血走った目を明けて、じっと低い所から熊を窺っているばかりです。熊は永い間睨んでいましたが、もう自分の方から進まなければ、いつまで立っても埒が明かないと思ったものか、今、じりじりと牡牛の方へ、黒く重たそうな体を押し進めて
彼等はもう三尺ほどを隔てて、向い合いました。が、まだ熊は襲いかかりません。牛も黙っています。こうして、また五分間ほど睨み合いました。まるで二匹の様子は、はち切れるほど力が
するとそのとたんに、牛は待っていたと言わんばかりに、全身の力を角に集めてぐいと熊の腹を突き上げました。ふいを
一突きつき上げてしまってからは、もう何と言っても勝負は牛のものです。一たん突ぎ上げられた熊が必死になって、掻き裂こうとするけれど、突き上げ突き上げ
こうしていつまでも動かないので、やがて恐る恐る牧夫が行って見ますと、お腹を滅茶々々に突き裂かれた熊を、しかと幹へ抑えつけた儘、いつの間にか牡牛の方も死んでおりました。さすがに強い牡牛さえも、その争いに力を出し尽して、相手が死んだのを見て取ると、ほっと安心して息が絶えてしまったものと見えます。牧夫はそんな
次の本で校正しました:「北海道文学全集 第5巻」立風書房
1980(昭和55)年5月10日第1刷発行