森鴎外「北清事件の一面の観察」

北清事件の一面の観察
   (明治三十四年十二月二十三日於小倉偕行社)
 師団長閣下。旅団長閣下。並に満堂の諸君。今夕は上長官会の例月の集同なるが、庄田軍医正の功労あり名誉ある北清行より還りて、随即異数の抜擢を蒙り、第九師団軍医部長となりて、しかも其郷里なる金沢に赴任せらるゝに値ひて、兼ねてこれを餞することゝなりたり。
 筵を開くに先だちて、旅団長閣下は庄田軍医部長に一場の講話を求めらる。部長は北清に在りて列国の将士と相馳(てい)せられたり。其談固より諸君の傾聴に値する者あらん。然るに旅団長閣下は、同時に小官に談話を求められたり。敢て空拳場に上りて、諸君の清聴を煩はすは、此を以てなり。
 歳は将に暮れんとす。而して此歳を送る情は、尋常一般歳晩の感と同じからず。此の送る所の年は、彼北清事件をして結局せしめし年なればなり。世界の歴史は悠遠なりと雖、北清事件の如き活劇は、種々の観察点より見るに実に希有に属す。
 小官は今単に一の観察点よりして、此活劇を見んと欲す。何ぞや。一時代の数種の民族が一斉に軍を起して、一個の目的を立てゝ驀進したること即是なり。これを史に徴するに、此の如き現象は、前代には唯ど一の十字軍ありしのみなるが如し。十字軍は、西暦千零九十六年より千二百七十年に至るまで、即ち我源平時代より北条時代に亘りて、凡そ七たび起りたり。当時の北京はJERUSALEMにして、其の救ひ出さんと欲せしところは、列国公使に非ずして耶蘇基督の墳墓なり、其の撃ち破らんと欲せしところは、団匪に非ずして回回教徒なり。然れども一時代の勢力ある民族が、一斉に軍を起して、一個の目的を立てゝ驀進せしは全く同じく、且其諸民族が轡を並べて一種の別天地に入りしことも、亦頗る其趣を同じうせり。
 古の十字軍が欧洲列国の風俗習慣に大変動を起したるは、著明なる開明史上の事実なり。今の欧人に一種の武士道ありて、独にRITTERLICHと云ひ、仏にCHEVALERESQUEと云ひ、英にKNIGHTYと云ふは、皆当時の遺風より出づ。
 今の北清事件は、果して風俗習慣上の影響を我に及ぼすことなきや否や。我の触接せしところの欧洲列国兵の状態は、固より維新以来既に久しく研究し、摸式する所なり。然れども書籍に依り、聘するところの洋人に依り、二三留学生及旅行者に依るは、皆間接なり。今や上将官より下兵卒に至るまで、直接に相触れたり。啻に然るのみならず、我師団の如きは、現に将校を派遣して観察せしむ。因りて想ふに、これを大にしては我国民、これを小にしては我軍隊の、多少の影響を蒙るべきは、殆ど疑を容れざる者の如し。
 果して然らば、此影響は我に利あらんか、我に害あらんか。是れ刻下の一問題なり。此問題は、国家に於いては一時の先覚者たる有識家、軍隊に於いては上級下級の指揮官の立脚地より見るときは、此影響を利導して勉めて其利に収めんか、又は之を放任して其の或は応に生ずべき害をも防止せざらんかの二途を生ずる者の如し。
 小官は此影響を利導することの必要を感ず。小官は北清より還れる諸君の談話を聴くごとに、其報告を読むごとに、此必要を感ずること次第に深くなりたり。此に利導と曰ふ。或は術策作略に似たる嫌あり。必要なるところの者は、唯ど一々の観察に就いて、正当なる判断を下さしむるに在るのみ。
 然るに此判断の正当を得ること容易ならず。姑く一例を挙げん乎。観察して曰く。列国兵中、最も注目に値する者は独逸兵なり。而れども共の優れたる処は軍紀儀容に在りて、退いて裏面を察すれば、敗徳汚行甚しと。此観察は、事実に基づく者たるを疑はず。其判断は奈何。
 若し断じて、独逸の兵は唯ゼ軍紀といふ形式に縛せられて戦ふのみ、道義心ありて戦ふに非ずと曰はん乎。此判断は頗る我等の為めに意を彊くする者あるに似たり。然れども恐らくは錯ならん。昔は平実盛源軍の武勇を語りて平軍の士気を沮喪せしめたり。小官は今の我兵の勇悍なること、平軍の怯惰と殊なるを知るを以て、此の如き判断を破壊する危険を慮ることを須ゐず、却りて此思量の、我勇兵をして驕兵たらしめざるに於いて、有利ならんことを信ず。
 此判断は固より一分の道理なきには非ず。我兵は嘗て欧洲兵に墓式せり。故にこれを尊重すること甚だ過ぎたり。これを買被り居れり。此買被りを打破するは至当なり。然りと雖、他の一面に於いては、軍紀の厳粛といふもの丶、道義心なくして能く維持せらるゝ者に非ざることを忘る可からず。独逸兵の軍紀の厳粛なるは、恐らくは其底に道義心の存ずるあらん。彼の愛国は恐らくは我愛国に劣らず。彼の忠君は、縦令我に及ばざらんも、亦頗る薄からず。然らば此道義心ある兵にして、何故に彼敗徳汚行ある乎。此疑問にして解決せられざる限は、正当の判断を下すに由なかるべし。
 所謂敗徳汚行中、婦女を犯したるは其の主なる者の一なり。皮相の観察を以てすれば、強姦の悪業たるは、東西殊なることなし。これを敢てするものゝ彼我の多少は、直ちに比較して二者の道義心を度るに堪へたるが如し。然れども実は此間、少くも三の顧慮す可き条件あらん。
 今省略してこれを言はん。第一、欧米白晢人の黄色、黒色若くは褐色人に対する感情は、頗る冷酷にして、全く白晢人相互の感情と殊なり。これを我国人の支那人に対する感情に比すれば、其懸隔甚だ大なり。何を以て然るか。欧米人は自ら信じて、世界最上の人と為す。一の因なり。欧米人は、縦令悉く中心より基督教を信ずるに非ざるも、殆ど皆新旧約全書を挾んで小学校に往反したるものなり。此間父兄及教師は異教の民を蔑視する心を注入せり。二の因なり。猶此条件は次の者と相関聯す。第二、欧米人は賤業婦を蔑視すること我邦人に倍〓し、随て其の婦女を虐遇する習慣には、我邦人の知るに及ばざる所の者あり。我邦人は藝娼妓にもてんと欲す。ほれられんと欲す。欧米人は賤業婦を貨物視し、これに暴力を加へて怪まず。此虐遇の習慣は、或は戦敗国の異色人種に対して発動することを免れざりしならん。第三、欧米軍人は洒脱磊落にして狭斜の豪遊を為し、又同僚相爾汝する間に於いて、公会に非ざる限は、汚漬の事を談ずるを怪まず。婦女を虐遇したる事と雖、又忌むことなし。想ふに我国の如きも、古武士は或は多少これに似たりしならん。松浦侯の随筆中に、幕府の一能吏を賞讚して曰く。某は寡欲なり。長屋に数妾を貯へ、旬日に一たびこれに入り、三絃を鳴らさせ、俚歌を歌はせ、放縦夜を徹す。翌日に至れば復た顧みずと。当時の君臣賢名ある者にして此の如し。余は推知す可し。今の我紳士の品行は、陽に清白を粧ひ、陰に賤業婦に戯れ、其の人を責むるに至りては、繊毫も仮借せす。是気風は、小官其来歴を詳にせずと雖、英国風の学問と与に輸入せられたるKANTと、英国一派の哲学者及宗教家の偏狭なる学
説とは、分明にこれが一因たるに似たり。近日内村鑑三氏の過激なる論説中、偽善を責むる一段には、小官は同情を禁ずること能はず。我国人の観察眼は、冥暗裡に偽善気風に化せられて、多少苛酷なることなきを保し難し。
 これに反して、欧洲人の同人種間良家の女に対する感情はこれを我国人に比すれば、甚だ高尚なるを見る。単に表面の観察を以てするも、中江篤介氏が一年有半に云へる如く、欧洲人は、我国人の如く、良家の女子の面を見て、心に婬褻の事を想ひ、口に卑猥の言を出すこと無し。進んで婚姻の事に至れば、良家の男女は、多少の日子を費して相交り相知り、愛情を生ずるに非では、礼を行はず。嘗て一士官の利害上より富家の女を娶り、一年余の間同衾せず、後に愛情を表白して、同衾するに至れりと云ふ話説あり。此の如きは彼十字軍後の武士道に伴へる、女子を尊崇する遺風にして、一説にはMADONNA信仰より淵源すと云ふ。此思想より見るときは、我国の婚姻は殆ど強姦に近き者となる。
 更に進みて、現時欧洲人中の極めて高遠に馳する論を聞けば、TOLSTOI伯の如く、男女の交接は全廃すべしと云ひ、既に夫婦たる者も、勉めて同衾を避くべしと云へり。然して伯は空論家に非ず、平生自家の説を実行体験する人なり。
 TOLSTOI伯の説は姑く措く。欧洲人のSENTIMENTSLISMUSは、縦令人類の思想として高尚ならんも、これを我国に移植する利害は、容易に決す可からざるが如し。近時軽佻なる少年間には、既に一種多情多恨の傾向を見ると雖、真面目なる教育家等のこれに関する明白なる断案は、小官未だ見るに及ばず。
 以上は一箇の例に過ぎず。然れども此間の微細なる消息は、多数の人をして十分領解せしめ難く、随ひて教師の生徒に授け、士官の兵卒に教ふる上に於いて、直接の関係少きに似たり。小官の論ずるところは主に、軍紀といふものが、道義心なくして維持せられ得べしといふ謬見を生ぜんことを恐るゝに在り。而してこれを論ずるには、勢少しく東西道徳上気習の相異に論及せざること能はざりしなり。小官の所感此に類する者猶多しと雖、今は庄田軍医部長の実歴に本づき、利益饒かなる講話に譲りて、此席を退く。