お前たちのおじい様(旧幕新撰組の結城無二三)    結城禮一郎 目次  お前たちのおじい様 家の系図 お若い時 京都時代 戊辰の際 明治初年 神の召命 その晩年 お前たちのおじい様      -旧幕新撰組の結城無二三1 お父さん手記 お前たちのおじい様  お前たちのおじい様がお亡くなりになってからもう十三年になる。建ちゃんや英五さんは無論 お顔鞄も知らないし、閑野や平四郎もおそらく|記憶《おぼ》えてはいないだろう。十年といえば一ト昔だ。 その時「注射はもう御免だ、痛いばかりで|無益《むだ》だから」とおっしゃったのを、「今慎太郎がまい ります、待っていて下さい」と、申し上げたら、「そうかそれじゃアもう一本やるかなア」とお 笑いになり、そして慎太郎が来ると「おお慎太郎か、よく来た、偉くなれよ」とおっしゃって手 をお握りになった、その慎太郎すら今では記憶がかすかにたっていることだろう、それで今日は 一つお父さんが、おじい様のことをゆっくり|一同《みんな》にお話して上げようと思う。  おじい様は偉い方だった。そしてまた善い方だった。実際お前たちが知っておくべき方、知っ ておかねばならぬ方なのだ。世が世ならば一国一城の主ともなるべき人で、しかもそれが失敗し たからといって、少しも天を怨まず人を各めず、静かにその運命を楽しみながら、このお父さん のために残りの生涯の全部を犠牲にして下さったのだ。お前たちが大きくなってもし少しでもお 父さんに感謝すべきことがあるとするなら、それは当然すべておじい様に振り替えらるべきもの で、お父さんの今日あるはまったくおじい様のおかげ、おじい様の大きな愛を感ずることがなか ったなら、お父さんは本当にどんなになっていたか分らないのだ。  足らないところもあったろう、間違ってたところもあったろうが、しかしその一生を通じて、 常に「|爾《なんじ》の隣を愛し」身を殺して仁をなしていた点については、おじい様に接触した人のほとん どす●てが一様にこれを認めこれを徳としている。お前たちはこういう人格をそのおじい様に持 ち得たことを本当に名誉と思わねばならぬ。どれ、それではそろそろお話を始めよう。 家の系図 先祖は関東の名族結城朝光  おじい様は武田浪人で甲州のお生れなのだ。|日下部《くさかべ》の南に日川村というのがある、その中の一 町田中というのがおじい様の故郷で、おじい様のお父様そのまたお父様も、ずっとそこにお住い になっていたのだが、もっともっと|遠《ご》くに|湖《さかのぽ》るとどうしても|下総《しもうさ》の結城まで行かねばならぬ。結 城というのは上野から青森へ行く鉄道で、小山で乗り換えて水戸へ行こうとするとその途中にあ る町だ。いつぞやお歳暮に御自身炭俵を持って来てお母さんをびっくりさせた水野さんの旧領地 で、『八犬伝』の初めの方にもいろいろ結城のことが書いてある。  この結城に今から七百三十年前、頼朝が征夷大将軍になった時分に、結城七郎|朝光《ともみつ》という人が いた、家の系図で見ると立派に田原藤太|秀郷《ひでさと》の後畜で、|下野大橡《しもつけのだいじよう》小山小四郎政光の子になって いるけれど、他の系図には頼朝の子だともしてある。そうすると結城は藤原氏でたくて清和源氏 の嫡流になる訳だが、どうもこの説は信じられない。多分頼朝が当時日本一の偉い人で、その頼 朝に非常に可愛がられ、ほとんど異数ともいうべき抜擢を蒙り、それほど大した戦功もなかった のに、どしどし所領を増やして貰ったりしたので、後世の人が多分頼朝の子だろうぐらいに想像 して、いい加減に系図を作ったものと思われる。家の系図はそれから約二百年たった時分に書か れたもののようだが、その時分にももうこの説が大分行われていたとみえて、「右大将廿歳母廿 二歳生朝光云々此説難知、当系図為藤原氏」と断り書がしてある。やっばり田原藤太秀郷の後喬 というのが本当だ。  朝光は「仁和二年生、母八田宗綱女」と家の系図には書いてあるが、その時分に仁和という年 号はない、たぶん六条天皇仁安二年のことだろう。系図の書かれた時代はちょうど天下戦乱の真 最中で、歴史などろくろく調べている暇がなかったとみえ、この種類の誤りや文字の書き違えは 沢山ある。それをまた後世になって書き写しした時一字一句ことごとく原文通りにしたので、仁 安がとうとう仁和になってしまったのだ。それで仁安二年というのは平清盛が太政大臣になった 年で、それから八十七年たって、後深草天皇の建長五年、すなわち北条時頼が鎌倉に建長寺を建 てた年に朝光は死んだ。かなり長生きをしたものだ。  朝光の子に朝広というのがあり、朝広の子に広綱と祐広というのがあった。広綱は父の家を継 いで結城におり、祐広は奥州の白河へ移っていわゆる白河結城の御先祖になった。元弘・建武の 際、勤王で鳴らした結城宗広、結城親光なぞはこの白河結城から出ているので、あらましのこと は『太平記』に書いてある。それで本家の広綱の方には時広、宗重、盛広、重広、泰親という五 人の子があって、時広が家を継ぎ、盛広は相模国飯島郷に移って飯島と改姓した。これが当結城 家の御先祖で、それからずうっと徳川時代まで飯島で通して来た。結城に復姓したのはほんの近 代のことで、他の結城がだんだん絶えてしまったからだ。  時広から貞広、朝祐、直朝、直光、基光、満慶、泰朝を経て氏朝になった時、あの有名な結城 合戦が起ったのだ。『八犬伝』にあるのがそれだ。義によって起ち、天下の兵を引き受けて三年 籠城した事蹟は、今でも世の中の人の賞嘆おく能わざるところであるが、不幸にしてこれは我が 結城家には関係していない。それに前にも言ったように元弘・建武の際の結城もまた、我が家に は何の関係もないので、結城という条、家の結城は実はそんなに威張れた結城ではないのだ。考 えてみるとまことにお恥かしい話だ。ただ系図が古いというだけのことで、おじい様の代までほ とんど世にも人にも何の寄与するところもなかったのだ。寄与するならこれからだ。お前たちの 責任だ。  話は元へ戻る。盛広は飯島摂津守というて「正慶二年足利尊氏へ|奉仕《つかえたてまっる》」と系図に書いてある。 正慶二年というのは元弘三年のことだ。足利へ仕えていたので系図にはすべて北朝の年号を使っ ている。貞和元年(すなわち後村上天皇の興国六年)八月十五日に卒し、子の飯島彦四良国永が後を 継いだ。国永の|条《くだり》には「父盛広と共に尊氏へ召出され奉仕す。建武二年将軍鎮西より帰洛の時、 兵庫合戦の場に於て彦四良将軍の左右に在りて守護す、後将軍|太《はなは》だ之れを誉む、貞和年中天竜寺 供養の節御供す、応安五年卒す」としてある。  国永の次は飯島加賀守国広で「将軍|義詮《よしあき》及び義満に奉仕す、国広小土なるが故に赤松一族に加 はり菊池合戦の時敵一人を討ち取り剛名す、嘉慶二年義満富士山御覧の節御供す」とある。この お供の時御紋拝領したのだ。一体なら結城の|家紋《もん》は巴であるべきのが、家のに限って二つ引にな ってるのはこの時御紋拝領したからのことで、後世飯島を改めて結城に復ったけれど、家紋だけ はやはり拝領をそのまま使っている。紋なぞ今ではどうでもいいようなものだけれど、その当時 にあっては非常の名誉だったのだ。 京都を離れて甲州へ土着  国広から国盛、国長を経て国清になった。「明応二年細川右京大夫政元、義村を捕へて押籠め 奉る、舷に因て国清浪人す、永正六年二月卒す」と系図に書いてある。|義村《フフ》というのは|義材《フフ》の誤 字で、|義材《よしもとえ》はすなわち十代将軍足利|義植《よしたね》のことだ。  系図では国清の後がすぐ小十良国永になっている。しかして国永の|条《くだり》には「武田信縄及び武田 左京大夫信虎に仕ふ、信州川中島合戦の時軍功有り、弘治三年正月二日卒す」としてある。とこ ろが困ったことにはその子の小太良国久の代にたって「母は小泉志摩守氏信の女なり、信州に住 し伴野庄の将軍義清へ奉仕す、元亀三年六月廿九日卒す」とある。いつの間にか武田をやめて村 上義清へ寝返り打ったものとみえる。いかに京都から流れて来て一族郎党も何も持っていたい痩 せ|武士《ざむらい》だからというて、これでは余りひどいと思ったのでおじい様にも訊いてみたが、おじい様 の御意見によると、家の系図はこの国久かまたはその次の国信あたりで一度写し替えられた形跡 がある。その際家の系図に属していない国永というのが誤って書き込まれたのではあるまいか。 すなわち国清から国永になった方が本家で、家の系図になってる国久は別家に違いない。別家し て系図を写した時、本家の分をも一人書いてしまった。それがこの綜錯を招致したのではあるま いかということだった。そう伺ってみるとなるほどとも思われる。国清が浪人してその子が東国 へ流れて来て、まず信州に落着き、一人は村上義清へ仕え、一人は武田信虎へ仕えたと見るのが 妥当かもしれない。元弘・建武の頃には|一廉《ひとかど》の武将でしばしば戦陣の功名もしたようだが、中頃 からはまったく文官になりすまし、その頃の旧記を調べてみると大概御相伴衆というところに名 を掲げている。相伴衆というのは初めは旧勲ある者、材武抜群なるものを択び、将軍に陪侍させ たものだが、その後ただ虚名を擁する式部官のようなものになってしまった。したがって少しも 実力はなく単に儀礼典故に明るいというだけが取り柄で、世がいよいよ戦国となるや、風にまか るる落葉のごとく、一たまりもなく吹き飛ばされてしまった。ところが何が幸いになるか分らぬ もので、ちょうどその時分頭を擾げ出した地方の豪族らは、実力はよい|塩梅《あんばい》に充実して来たが、 儀礼典故は少しも知らない、隣国から使者が来てもその応対は愚かなこと、返事の手紙を書くこ とさえできない、そこで銘々手を廻わして足利幕府の役人どもを招き下してへ式部官にしたり秘 書役にしたりかなり手厚く待遇した。家の御先祖もこの手で村上や武田に召し抱えられたものと みえる。こう考えると一族で両家へ奉仕した訳も分る。  国久の子は飯島力弥国信といって「母は伴野大膳大夫朝康の女たり、信州更科郡富田の城主村 上義清信州御持の節、伊奈義清へ人質として参る、義清没落の後、武田信玄へ召出され、富田城 に住し、飯島民部少輔と改む、其の後天正六年甲斐国山梨郡に浪人す」とある。義清の故城を預 かったところをみると、武田方から相当の敬意を払われていたものらしい。それがまた何故あっ て浪人したか、別に旧記の徴すべきものはないが、たぶん信玄は死ぬ、その子の勝頼は宿将の諌 めを用いず長篠で大敗する、長坂|釣閑《ちようかん》、跡部|勝資《かつすけ》らがことをもっばらにして士卒|離畔《りはん》すという有 様だったから、その離畔の一人となり、天正十年天目山の武田氏終焉を待つに及ばなかったのだ ろう。それ故厳重の意味においては家は武田浪人ということはできたい。武田浪人というのは武 田家代々の家来か、それでなければ天目山の最後まで付いて行った人たちの遺族を、徳川家で特 に表彰したもので、甲州では今でもこれを御浪人様と言って一般に特別の敬意を払っている。家 なぞはどの方面から言っても御浪人様と言われる資格はない。ただ、今言った国信がとにかく|民 部少輔《みんぶしようゆう》まで任官したのと、その後が長く甲州に落着いていたのとで、いつの間にか御浪人様待遇 を受けるようになったまでのことだ。  国信に男の子が三人あった。惣領が国光、次が国行、|季《すえ》が国房といって、国光は家を継ぎ、国 行は江戸へ出て徳川家へ仕えた。この国行の家に別に飯島家の系図というのがある。上野の図書 館に収めてあるのがそれで、これによると「助二郎国信、加賀守、武田信玄に仕ヘ三千貫文を領 す、信州高遠に於て戦死す」とあり。惣領の国光も「飯島小太郎、父と同じく高遠に於て戦死 す」としてある。国信も国光もこっちの御先祖だ、それが高遠で戦死して子もない後もないとあ っては少し困る。お父さんもおじい様もどこかへ消えて失くたらなければならぬ次第だ。当時の 系図にはよくこんなのがある。家の系図だってそうだ。盛広で別れて国長で別れて、すっかり書 き直したのが国久か国信の時らしく、それをまた国光の次の代あたりで分家して写し直したのだ から、実際はどうなってるのか分ったものではない。ただ、朝光以来僅かに続いているというだ けが事実で、ことに家紋に二つ引をつけてるのでおよその由緒を知ることができるまでである。 それに前にも言った通り、今まで歴史上何の顕わるることもなかった家なのだから、お前たちも ただ長く続いてる家だそうなぐらいに思っていればいい。万事はこれからだ。お父さんもこれか らだと思っているが、お前たちはなおのことだ。歴史のある間は系図もある、一生懸命奮発して 系図を飾ることのできるような人になるがいい。終り(次頁)にちょっと系図の|概略《あらまし》を示してお こう。 秀郷-千常Lー公修-兼光-行隆-武行i宗行-行政-行光小山四良   小山小四良 政光下野大橡   結城七良上野介 朝光治承四年結城移ル 朝広結城大蔵少輔従五位下    結城上野介  広綱 -祐広 白川左衛門尉 宗広-親光 一 盛時 広広 飯島摂津守 正 慶 年氏 足利尊氏 奉晴 仕朝 結城七良左衛門 氏朝 晴朝-秀康 国水ー 飯島彦四良父盛広 共将軍尊氏へ被召出   飯島加賀守将軍 国広義詮及義満奉仕 「瓢翻醸 国盛飯島加賀守   飯島彦四良 国長将軍義尚奉仕   飯島彦四良 国清明応二年浪人 国永飯島小+良    飯島小太良. 1国久村上義清奉仕   飯島力弥民部少輔武田信 国信玄被召出天正六年浪人 国光驚小太郎 正国飯島助+郎 匡口 正行-正光-正長-正景i景光-景仲 お若い時 ひいじい様は有名なお医者様  おじい様のお生れにたったのは仁孝天皇の弘化二年四月十七日で今(大正士二年)からちょうど 八十年前になる。『日本外史』を書いた頼山陽が死んでから十二年、大塩平八郎が大阪で乱を起 してから八年、徳川幕府の栄華がほとんどその頂点に達したともいうべき十一代将軍が没してか ら三年。世の中はもうそろそろ騒がしくなってきた折であった。  おじい様の家ではそのよほど前から農業のかたわらお医者様をしていた。お医者様といえば昔 は髭を結わずに坊主か総髪にしていたものだが、おじい様の家ばかりは先祖が先祖でいわゆる御 浪人様の中に加わっていたので、頭髪も普通の人のように結い、刀もさしていたそうだ。そして おじい様のお父様すなわちお前たちのひいじい様にあたる方は、医術が非常にお上手だったので 近在は無論のこと、遠く韮崎・市川の辺から患者が押しかけて来て、終いには医者が本業のよう になってしまった。それ故お名前も|景仲《かげフなか》というのをそのまま|景仲《けいちゆう》といって、お弟子をもお取りに たった。そのお弟子の一人が同じ甲州のうちで大月という所へ行って開業した。星野玄仲といっ てお父さんが子供の時分、よくおじい様を訪ねて来たものだ。  おじい様のお母様は同じ郡中め御代咲村からお嫁でになった方で、実家の名は代々長谷川友右 衛門といっていた。ひいじい様との間に子供が三人あった。惣領が女の子で、それからおじい様、 おじい様の下に虎王丸という方があった。この方は中年どこへか行ってしまってその後ちょっと 帰ってみえたが、また間もなく行衛不明になった。戸籍にはまだ名前が残っているけれど、たぶ んもうどこかでお亡くなりになったのだろう。お父さんは子供の時分よくこの叔父様の夢を見た。 なんでもどこか南洋あたりの島へ渡ってその島の王様になり、立派な船でお父さんを迎えに来た 夢を見たものだ。  おじい様のお姉様というのは十七で、東山梨郡大藤村字|粟生野《あおの》の三枝忠兵衛というのへお片づ きになった。当国切っての美人で、忠兵衛さんが懇望に懇望を重ねて貰ったのだということだが、 惜しいことに男の子を一人生んで間もなくお亡くなりにたった。男の子というのが隆造さんで、 梅ちゃんや竜雄さんのお父様なのだ。隆造さんの奥様すなわち竜雄さんたちのお母様は同郡七里 村字|不於曾《しもおぞ》の田辺家から来た方で、その田辺家の二番息子すなわち粟生野の叔母様の真実の甥に 当る人が今三ッ引商事にいる田辺叔父ちゃんなのだ。田辺叔父ちゃんのところへは知っての通り、 おトミ叔母ちゃんが片づいてる。つまり親類が二重にたってるわけだ。田辺叔父ちゃんの胤違い の兄さんが大阪の小林一三さんだ。毎年帝劇へ来るお前たちの大好きな宝塚の歌劇を作り上げた あの小林さんだ。  この小林さんはまた、お前たちのお母さんの方の親類にもなっている。何でも小林さんのお父 様という方が一度韮崎の小林家へ養子に行って二二さんができたのを何かの都合で離縁になり、 改めて於曾の田辺家へ養子に行って田辺叔父ちゃんや加多丸さんなぞができたのだ。韮崎の小林 というのはお前たちのお母さんの|実家《おさと》の親類だ。お母さんの実家は島屋といい、小林さんの家は 布屋といい、ともに韮崎での一番旧家でまた一番大きな家だ。  粟生野の忠兵衛さんはお父さんもよく|記憶《おぼ》えている。中鳳にかかって寝ていらっしゃったが、 始終ニコニコした福々しい方で、寝床の下からお菓子を出してはお父さんや竜雄さんに下さった ものだ。その時分はただ優しいお爺さんとばかり思っていたが、後で|雨敬《あめけい》さんに聞いたら、あれ でなかなか偉らい人で、雨敬さんは若いうち、あのお爺さんにいろいろ教って、それが基であれ ほどの事業家にたったのだそうな。雨敬さんというのは甲州から出た実業家の中で一番傑出して いた人で、東京へ初めて電車を敷いて、それを三銭均一で乗せることにした人だ。今でも電車が ほかのものに比較して一番安く、お前たち学校へ通うにも非常に助かっているのはまったく雨敬 さんのおかげだ。お父さん、|以前《まえに》、雨敬さんの伝記を書いたことがある。『過去六十年事蹟』と してあるのがそれだ。いつか一度読んでみるがいい。  隆造さんは惜しいことに若死をした。東京へ出て服部誠一の門に遊び、漢学は一通りできてい た。お父さんも学校のお休みにはよく粟生野へ行って隆造さんから『史記列伝』や『唐宋八家 文』を教えて貰ったものだ。初めて漢詩というものを作ったのもやはり隆造さんの手引きだった。 一人息子だったので長く東京にいることもできず、呼び返される、お嫁さんを貰う、そのうちに 忠兵衛さんが病気になる、とうとう青雲の志を|郷《なげう》たねばならぬことになったが、それでもまだ未 練があったとみえて、東京からわざわざ先生を聰して英語を習ったり、講義録で法律を勉強した りしていた。お前たちのおじい様を非常に敬愛して、何事でも伯父さん伯父さんと言って、おじ い様のおっしゃることはどんな無理でもよく聴いていた。おじい様の方でもほかに親類というべ き親類もたし、ただ一人の甥のことだったから隆造隆造といって可愛がっておいでだった。若く てお亡くなりになったのは本当に残念だった。 江戸へ出て大橋順蔵へ入門  おじい様は幼名を米太郎、名乗りは景祐《かげすけ》といっておられたが、ひいじい様と同様、人からは景 |祐《けいゆう》さん景祐さんと呼ばれていた。十六の歳まで家にいて、ひいじい様から漢学を習ったり、見よ う見真似でお医者様の稽古をしたりしていたが、天下の形勢はだんだんむつかしくなってくる。 おじい様九つの時にペルリが浦賀へ来て、それから海内一時に騒然となる、十五の歳にはいわゆ る安政の疑獄なるものが起って、橋本左内や頼三樹三郎が殺される、その次の歳には水戸の浪士 がとうとう井伊大老を桜田門外で討ち取るという有様で、甲州の山の中にいてもそれらの噂は頻 頻と耳を打つ。ちょうどその時分おじい様は結城家の系図を見て、今こそこんなところでこんな に小さくなってはいるものの、昔を尋ぬれば関東一の名族として勢威天下に比びなかったものだ。 どうかしても一度家風を振い興し、祖先を顕彰したいものだと思っていた矢先きだったので、「機 |当《まさ》に乗ず可し、|昌《いづく》んぞ遅疑す可けんや」と、さっそくひいじい様に向って我が志のほどを打ちあ け、ぜひ江戸へやって下されと嘆願に及んだ。  ひいじい様という方も、かねておれの家はもう今までにかなりの善根を積んできた、何かよい 報いがあってもいい時分だ、それも天下に秩序が立っていて、各人の分際がきまっている間は大 したことも望まれないが、この頃のように|閨国《こら こさち》騒然として、いつ東西の乱れとなるかもしれぬ時 勢には、腕さえあればことによったらおもしろいことができるかもしれないと思っていたので、 よくおじい様の決心のほどを確かめた上、それではと言うて江戸へ出すことをお許しになった。 かなりの英断だったのだ。  しかし表向きはどこまでも医術修業ということにして江戸へ立たせた。おじい様十六の春だっ た。風雲に乗じて一国一城の主にならなければ帰りませぬ、おお帰って来るなという塩梅で、旅 の|扮装《いでたち》なぞも思い切って派手にしてひいじい様は笹子峠まで送って来られた。天成の美男が凛々 しく装うて大小さして笠を抱えて紫の包みを斜に背負って、気負うて峠へ登っで行った様fは、 まるで芝居でする武者修行のようだったと、いつぞや粟生野の大叔母様がお話しなさったことが あった。さぞ立派なことだったろうと思う。  江戸へ出たおじい様は少しの縁故を辿って、まず旧幕御典医の某方へ書生に住み込んだ。とこ ろがその御典医というのが非常に厳しい人で、朝早くから夜遅くまで仲間代りにこき使う。お医 者様のことなぞ少しも教えてくれない、|薬研《やげん》で薬を磨らせるばかりで、『傷寒論』一つ読ませて くれない、食べ物なぞは月六菜といっておかずのつくのは一ヵ月たった六度ぎり、その六度も半 分は豆腐の八杯汁、半分は塩鰯とか油揚げとかいうもので、後は全部ひね沢庵が三切れ、それで もおじい様は辛抱なさった。学問や剣術はまたの折を待って稽古しよう、いまはただ辛抱力を養 おうと決心なさって、約一年というもの辛抱なさった。  一年たって新参の書生も増え仕事が楽になると同時に時間に余裕もできてきたので、初めて近 所の町道場へ行って剣術の稽古をし、漢籍は一生懸命独習なさった。しかし天下の形勢はますま す切迫して、水戸の浪士が高輪東禅寺の英国公使を襲うやら、清川八郎が京都へ行って粟田宮を 奪って撰夷の義兵を挙げようと企てるやら、若い人の血を躍らせるようなことが毎日毎日各所に 起ってきた。おじい様これを見てはもうじっとしていることができない。とうとう御典医のとこ ろを逃げ出して大橋順蔵の思誠塾へ入門した。  大橋順蔵というのは訥庵と号し、佐藤一斎の門から出た人で、当時撰夷論者の|鐸《そうそう》々たるもので あった。妻の縁故により宇都宮藩の士籍に列し、向島の小梅村に塾を開いていた。かつて『辟邪 小言』という書を著わして撰夷のやむべからざるゆえんを論じたので、幕府からは始終睨まれが ちであったが、その代り諸国の浪士の間には非常に人望があって、長州の高杉晋作なぞも門生の うちに名を列ねていた。おじい様はここの塾へ入って勉強はそっちのけにしてその浪士の間に伍 し、眉を上げ肱を張ってひたすら国事を論議しておられた。しかし何か身に業を持っていないと イザという時に困る、そうかといって今から剣術に精出したところで下らない、軍学・兵法だっ て知れたものだ、これからの世の中はどうしても洋式調練だ、洋式調練の中でも砲術が一番だ、 砲術にさえ秀でていたなら:.…というので、たちまちまた幕用の講武所へ入った。講武所には当 時まだ高島四郎太夫が奉行格でいたそうだが、おじい様は直接高島の教えを受けたのではない、 初心でもあり年齢も僅か十七かそこいらだったので、高島の弟子のそのまた弟子ぐらいのところ に教わっていたのだが、それでも大砲の打ち方一通りは間もなく卒業なさった。青山辺の御家人 のところへ名義だけ養子におなりになったのはこの時のことだ。それは講武所へ入るのは幕臣で なければならなかったので、資格をつくるため一時養子におなりになったのだ。養家の名前は確 か長谷川だったと思う。  そうしていると文久二年正月、大橋順蔵が横浜襲撃の密謀露顕して捕縛された。同志の一人が 変心して密告したため、むざむざ捕縛されてしまったのだ。おじい様は初めからこの陰謀には加 わっていなかったが、それでも門生の一人になっていたのでたちまち嫌疑を蒙り、身を匿すべく 余儀なくされた。しばらく知る辺の許に身を潜めていると、悪い時には悪いことの重なるもので、 甲州から使いが来て、ひいじい様病気危篤の報を齎らした。親の病気とあれば致し方ない、おじ い様は取るものも取りあえず帰国なさった。  ひいじい様は間もなくお亡くなりになった、それは文久二年おじい様が十八の時だった。親類 や知人たちは大先生がお亡くなりになったのだから、若先生にぜひ家業を継いで頂かねばならぬ としきりに引き留め、中には妻帯を勧めるものもあったけれど、おじい様はかつてひいじい様と お約束したこともあり、江戸の様子も気にかかるので、一々それをお|郷《しりぞ》けになって、家業はその まま門弟中に預け、家産は粟生野の忠兵衛さんに託してまた江戸へ上られた。 京都へ上り見廻組へ寄食  おじい様が再び江戸へ上られた時には、まだ大橋順蔵は伝馬町の牢獄へ繋がれていた、正月十 五日に捕縛されて七月六日まで別に何のお調べもなく繋がれていたのだ。そしてその間に漏れな く同志同類を探索していたのだから、おじい様もうっかり外へ出ることができない、あっちへ隠 れこっちへ隠れしていると、五月(文久二年)にかねてお|各《とが》め中だった一橋慶喜公が謹慎御免に なり、七月には将軍後見職になった。大橋は前から慶喜公の知遇を辱のうしていたのだから、す ぐまた御赦免で藩主戸田越前守の邸へお預けということになった。そしてその申渡しを受けるべ く町奉行黒川備中守のところへ行くと、備中守が「順蔵、長の牢舎で大分疲れたなア、一幸いよい 薬があるから遣わそう」と言って、同心に丸薬を持って来させて与えた。呑またければよかった のをついうっかり呑んだ。すると藩主の邸へ来てから急に苦しみ出し、七日間苦しんだ揚句に死 んでしまった。慶喜公が後見職になれば大橋も自然用いられることになる、大橋が用いられるよ うになったら、自分もその尾についてここに出世の道も開かれることと、心ひそかにほくそ笑ん でいたおじい様は、たちまち木から落ちた猿になってしまった。仕方がないからまた町道場を廻 わり歩いたり、諸藩の|士《さむらい》と往来したりしていると、そのうちに薩摩の士が生麦で英人を斬った、 次で長州の士が横浜へ行って外人を斬ろうとして途中で捕えられた。おじい様はこれを見て、何 だ、横浜襲撃はこっちの先生が先口だ、先生が死んだからというて他人に先を越されるのは残念. だ、こっちはこっちでぜひ先生の志を遂行しようじゃないかと、ひそかに同志を募りはじめた、 するとそれをまた幕府へ密告するものがあって、今度はいよいよ江戸に留まることができず、や むを得ず京都へ逃げて行った。けだし京都は当時勤王撰夷党の巣窟で、ここへ行ったら必ず自分 らの志を遂ぐることができるだろうと思ったからである。  ところが来てみると大違い。勤王というのは畢寛幕府いじめの口実で、撰夷さえも真剣にやろ うというものはない。たまたまあればそれは諸藩の極く末輩で、巧みに先輩浪士に煽動され、一 途に外夷討つべしと叫んでいるばかり、肝腎の先輩連はこれを機会に幕府を倒そう、そして自分 らが代って幕府を作ろうという野心の塊りであることを発見した。正直無垢の若い心にはこれほ どいやな現実暴露はなかった。それで撰夷なぞということは二の次にして、まず彼ら浪士の暴横 を懲らしてやろうと思い立った。それには幸い江戸にいる時知り合いだった村田作郎というのが、 見廻組の肝煎りになって来ていたので、それを訪ねて当分見廻組の厄介というごとにして貰った。 厄介というのは寄宿人ということで、正式の組員ではないが、用事万端組員同様に立ち働いてた もので、つまり幕臣でない組員の総称だったのである。  見廻組というのは当時京都がどうも騒がしくて困る、一つ大いに取り締らねばならぬというの で、旗本・御家人の中から腕の利いてる者ばかり選んで一隊を組織し、松平出雲守、蒔田相模守 が組頭になって堂々繰り込んで来たもので、後から来た別手組、大筒組、小筒組とともに京都守 護職松平肥後守(会津の殿様)の手に付いて働いていたのだ。  松平肥後守は元尾張の高須家から養子に行った人で、一番の兄が尾州様、二番目が肥後守、三 番目が桑名の殿様で松平越中守といっていた。この越中守はその後京都所司代となり、兄弟揃っ て禁裡を守護し、孝明天皇の御覚えことにめでたかった人たちである。京都には元来守護職とい うようなものはたく、治安の保持は所司代の手一つでやっていたのだ。ところが嘉永・安政以来 浪士がしきりに入り込んで非違を謀り、所司代だけではやり切れなくなったので、一時彦根の兵 を駐屯させておいたが、文久二年閏八月|朔日《ついたち》、新たに京都守護職を置き、職禄五万石を給し松平 肥後守を抜擢してこれに任じたのである。肥後守はその時、当家は一門御譜代の班に列しながら 関ヶ原のお間にも合わなかった、しかるに追々加増を受けて今は三十万石になっている、今度の このお役こそ当家一期の御奉公で、家臣も一同京都を墳墓とする心得で罷り上りますと言うて深 き決心を言明して赴任したそうだ。それでその時まで盛んに町々辻々へ落首張紙をしたり、あっ ちこっち火を放けて歩いたり、諸公家はじめ富有の市民を脅喝したり、甚しきに至っては御所の 中へ生首を投げ込んだりして、乱暴狼籍の限りを尽くしていた浪士ども、会津の上洛とともに一 時に|屏息《へいそく》してしまった。  その代りとして今度は暗殺が|流行《はや》り出した。九条家の家来の宇郷玄蕃を殺して松原通りに|臭首《きょうしゆ》 したのを手はじめに九月には幕府の与力・同心が三人近江の石部で殺されて粟田ロヘ彙される、 十月には金閣寺の多田|帯刀《たてわき》が殺される、翌年一月には池内大学というのが大阪で殺される、|千種《ちぐさ》 家の家来の賀川某が殺される、少し温和な意見を主張する廷臣浪士は片っばしから狙われるとい う有様になったので、幕府の方でも暗殺に報φるには暗殺をもってするほかないと思うて、そこ で見廻組がいよいよ活動し出した。その後近藤勇が新徴組から分れて新撰組を組織するや、これ に集ったものはいずれも剣術勝れた浪士連だったので、暗殺ならこっちの方が本家だと言わんば かりに見廻組と相策応して盛んに京都中を斬って廻わった。おじい様が京都へお上りになったの は形勢かくのごとく紛乱していた時であった。 新徴組及び新撰組の成立ち  おじい様が京都へお上りになったのは文久三年のことかその翌年の元治元年のことであるか、 よくお聴き申しておかなかったので分らないが、何でも新撰組が盛んに活動していた時だったこ とは、おじい様が晩年ある人にお話しになった『新徴組及び新撰組の由来』によって想像するこ とができる。新徴組とおじい様とは別に何らの交渉もないが、新徴組から分れた新撰組とはもっ とも密接の関係があるのだから、ここで一つ右のお話の筆記を読んでみよう。 「私が正式に新撰組へ入りましたのは慶応三年のことですが、関係は随分古くからあり、ことに 近藤とは京都におりました間、始終別懇にしておりました。私は一体京都では見廻組の厄介にな ってたものですが、見廻組の方は旗本の集り、新撰組の方は浪人の集りだったので、当時浪人の 私は自然新撰組の方へばかり行っていたのです。ところでこの新撰組のことですが、これをお話 するにはどうしてもまず新徴組のことをお話しなければなりません。 「新徴組は文久三年の二月に鵜殿鳩翁と、山岡鉄舟とで集めたものですが、実際の黒幕は庄内の 清川八郎でした、清川はまア策士といえば策士、山師といえば山師といったような男で、撰夷を 看板に諸藩を遊説して九州まで行ったのですが、思わしいこともなかったので江戸へ帰って来て ふと思いついたのが浪士の糾合ということでした。その時分京都にも江戸にも大分浪人者が集っ ていました、それが勝手な論を立てては幕府へ建白をします、無論撰夷です。建白している間は 何でもなかったのですが、だんだん熱が高くなって撰夷実行ということになった、これには幕府 も手こずりました。それへ目をつけたのが清川です。しかし自分は評判がよくない。そこで松平 |主税介《ちからのすけ》忠敏という人を抱き込んで一芝居打たせたのです。 「松平主税介というのは芝居でよく演る馬斬りの松平長七郎の後喬です。領地は持っていません が格はなかなか高い、その当時は講武所へ勤めて剣術の先生をしていたのです。清川はうまくこ の主税介を説き込みました。それで主税介がある日、本格の行列を作って登城しました、殿中で はびっくりしましたが、格が格ですから疎略にすることができず、御老中が会って用向きを訊き ますと、主税介酒々として浪人糾合の議論を申し述べました、集めて置いて取り締ろうというの です。御老中もこれはうまい考えだと思いましたので、早速御採用になって改めて主税介に浪士 募集の命令があったのです。主税介は大悦びで清川に伝えます、清川は前方から懇意にしていま した石坂周造、池田徳太郎と手を別けて募集に着手しましたが、清川ではどうも信用が足りない ので本当の浪士は集りません。そこで、致し方なく近国へ出張して百姓や博徒を集めて来ました。 甲州の博徒で甲斐の祐天といった有名な男も子分を連れて加入しました、近藤勇も土方歳一、一と一 緒に馳せ参じましたがまだ伍長にもなれず、平の一兵卒として新見錦という人の下に付いていま した。甲州からは祐天のほかに大分加入者がありました、於曾の田辺の一族で田辺富之助という のも加入しました。私も無論勧められましたが、清川という男を好かなかったので断わりました。 「ところが幕府の方では集った顔触れを見てこれは少し約束に違うと思いました、集った方では またすぐ旗本にでも取り立てられることと思っていたのに一向その様子もないので清川や石坂に 喰ってかかります、無論その命令なぞは奉じません、それで清川はじめ主税介までが今でいえば 責を負うというのでしょう、自ら身を引いて改めて幕府から鵜殿鳩翁を頭に、山岡鉄舟、松岡 |万《よろず》の両人を取締りに任命しました、後に見廻組の頭に転じた佐々木只三郎もこの時何かの名義で 役人になっていました。そして一同二百三四十人だったと思います、将軍家御上洛につき先きへ まいって市中を警衛するという名義で、二月の幾日かに中山道を通って京都へ上りました。上る とすぐ一騒動持ち上りました。それは清川が浪士組の名前で一篇の上奏文を出したからです、何 でも私ども幕府の世話で上京はしたが食禄は受けておらぬ、一意ただ皇命を奉じて尊撰の主意を 遂げたいばかりだというのです。これには組頭もびっくりしましたが、朝廷もお困りになりまし た、それよりも組の者が承知しません、けしからんことをする、清川をやッつけてしまえという 声が高くなってきましたので、幕府でも持てあまして朝廷とも相談の上、生麦事件がどうなるか 分らぬ、ことによると戦端を開くかもしれぬから一まず帰って江戸にいて尽忠報国したらよかろ うという御沙汰で、ものの二十日と滞在せず、体よく江戸ヘ追い返されました。その時、隊と分 離して京都へ残ったのが芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、長倉新八、|山南《やまなみ》敬介ら十三人で、会津侯の 手へ付いて独立して市中警衛の任に当ることになりました。宿舎は浪士組の宿舎をそのまま壬生 の地蔵寺におって、隊の名前を新撰組としました。江戸へ帰った隊の方は帰ってから新徴組と名 をつけたので、京都にいる間は単に浪士組浪士組と申しておりました。 「ところが十三人では一隊とするに足りない。そこで京都に集っていた浪士の中から有志を募集 して頭数を揃えましたが、その中にはかなり品行のよくないものがあります。第一、隊長と仰い でる芹沢鴨が隊の威勢を笠に着てよくないことをする、酒を飲んで乱暴したり、無暗に人を苛め たりするので、近藤がこれはいかぬ、これでは我々京都へ踏み留まった甲斐がない、隊長だから というて用捨する訳にはゆかぬというて、土方と相談して芹沢を斬ってしまったのです。一体近 藤という男はどちらかといえば潔癖過ぎる方で、人の悪いことをするのを黙って見ていられない |質《たち》でした。会津侯の手に付いて京都であの通りの働きをしましたのも、本当は幕府へ忠義を尽く したというのではなく、勤王勤王と騒ぎ立てる人々が、口では立派なことを言っていながら陰で はひどいことばかりしている。第一国許から禁裡手入れと称して莫大な金を取り寄せ、それを祇 園や島原で湯水のごとくに費消する、つまり自分らの遊びのために勤王の看板をかけてるものが 多かったのです、それが非常に近藤の績に触ったものとみえます、けしからん奴らだ、叩き斬っ てしまえといって端からやッつけたものです。私なぞも実はやはりそれと同じ心持で京都で働い てたのです。 「もっとも近藤も土方も腕は十分利いていました、長倉も山南も達者でした、勤王の浪士が大阪 の鴻池を|強請《ゆすウ》に行った時なぞ土方と山南とたった二人で行って十五六人の浪士と渡り合い五人ま で斬り殺して来ました。一番評判だったのは四条小橋の升屋喜右衛門という奴、これは|古高《とだか》俊太 郎という浪士の化けたのですが、ひそかに御所を焼打ちしようという計画をしていた。会津が守 衛していたからです。西南諸藩の浪士が五六十人も集っていました。それを近藤が手の者二十人 ばかりで襲撃して、七人斬って二十三人檎にした、味方には|微傷《うすで》が一人あつたばかりです。これ には京都中本当に驚いてしまいました。そしてその後新撰組の提灯を見ると高慢なことを言って る勤王浪士がこそこそみんな逃げてしまうのです。 「元治元年七月、長州が禁闘を犯しました時には、新撰組は蛤門に向ってかなり働きました。そ して長州勢が敗れて逃げて行くのを追いかけて行って、別手の大将真木和泉が天王山によってお ったのを一気に攻めて|繊《みなごろし》にしました。今までのことといい今度の働きといい、まことに何とも 申し分のない働きだ、重く賞すべしという上意で、近藤、土方の両人を両番頭にしましたが、両 人とも御辞退して受けなかった。私どもはどこまでも壬生浪人でよろしいと言って、とうとう慶 応四年将軍家と一緒に江戸へ還るまで浪人で通しました。本当に召抱えにたったのは私と同じく 甲陽鎮撫隊を組織した時のことだったと思います。 京都時代 武田耕雲斎が西上した当時  元治元年の暮におじい様が見廻組の探索になって、水戸から西上して来た武田耕雲斎を追い掛 けたお話がある。武田耕雲斎というのは水戸の重臣で、前から烈公を助けてもっばら勤王のため に奔走していた。当時水戸には天狗連と諸生連という二つの党派があって、天狗連は過激な撰夷 論を唱え、諸生連は温和な幕府擁護論を唱えていた。ところが文久三年から翌元治元年へかけて 諸生連が勢力を得て、ひどく天狗連を圧迫し出したので、天狗連は田丸稲之右衛門、藤田小四郎 らを首領と仰ぎ、元治元年四月、故烈公の神輿を奉じてまず日光山に詣で、帰って筑波山へ立て 籠って撰夷の旗揚げをした。耕雲斎は旗揚げ当時にはまだこれに加わっていなかったが、その後 幕府が田沼|玄蕃頭《げんぱのかみ》を総督とし、関東北十余藩の兵を出してこれを攻めしむることとなったので、 耕雲斎もついに激徒に投じその総大将になった。しかるに諸藩の兵筑波山を囲むこといよいよ急 にして、激徒ら手も足も出すことができず、即ち急に議を決し一方の囲みを破って、一橋慶喜に 嘆願の筋あり、同志相率いて上洛すと称し、まず道を上野信濃に取り、中山道を美濃まで押して 来た。耕雲斎は実際慶喜公に信頼せられその|帷握《いあく》に参していたのだから、こうなっても慶喜公に すがりさえすれば何とかなるだろう、それに筑波山の挙兵というのも、元来が勅旨を奉じ、慶喜公 の意中を|付度《そんたく》してやったことなのだから慶喜公さえ言葉をかけて下さったなら、幾分穏便の沙汰 にあずかることができようと思って、ちょうどその当時慶喜公が禁裡守衛総督兼摂海防禦指揮と いう名義で京都へ行っていたので、そこで慶喜公に嘆願の筋あり上洛ということにしたのである。  しかるに慶喜公の方では耕雲斎らの志は憐むべし、かわいそうにはかわいそうと思ったけれど、 とにかく幕府の討手を切り破って脱出した手合いである。官紀の体面上そのままに差しおく訳に ゆかぬ。それに慶喜は思召しをもって将軍後見職となり、次いで将軍代理として京都鎮撫の御委 任を受けたけれども幕府の御用部屋1すなわち内閣には慶喜反対党が虎視眈々としている、う っかり私情に引かされて公事を誤るようなことでもあろうものなら、たちまち身に禍いの及ぶこ とを知ってたのでかわいそうとは思ったが、おれはそんな嘆願なぞ受ける必要はない、来たら二 念なく打ち払うべしという命令を出し、十二月五日には慶喜自身、見廻組、別手組及び歩兵二大 隊を引率して京都を出発しこれに|対《むか》った。加勢は加州、筑前、小田原、桑名の四藩で、大目附は 滝川播磨守及ぴ織田市蔵の両人だった。  おじい様も見廻組に従って出陣なさった。その時のお話をお父さんが直接お伺いしてかつて 『国民新聞』へ掲載したことがある。天下の大勢にはあまり関係のないことだが、おじい様の面 目いささか躍如たるものがあるから、ちょっとここで紹介しておこう。 「耕雲斎西上の報知が京都へ達しましたのは元治元年の十一月半ばで、私が|二十歳《はたち》の時でした。 何、六百や七百の兵で何ができるものか、途中できっと討ち取られてしまうに違いないと別段注 意もせずにおりますと、さア美濃路へ出た大変だという騒ぎ、そのうちに柳営からお指図があり まして、当時京都へ詰めていた見廻組・別手組なぞがいずれも出陣ということになりました。忘 れもしない十二月四日のことで、私はかねて厄介にたってる村田作郎と一緒に一足先ヘ出かけて 大津の宿割を定めました。この時の大津は諸方の手が同時に入り込んで我れ先きに宿割を定めよ うとしていますので、その混雑といったら一通りではありません。中には宿が取れなくてひどく 弱ってた手もありましたが、見廻組ばかりは後から来てずっと先へ宿を取ってしまいましたので、 組頭は非常に私たちの働きを褒めてくれました。ところが諸隊がかように進発してまいりまして も肝腎の敵の居処がさっぱり分りません。あるいは柏原まで来ているともいい、あるいは彦根へ 廻って彦根を攻めてるともいい、中にはもう草津が落されたなどというものもあって、浮説紛々 少しも取り留めたことが分らたいのに、どこの隊からも一向探索を出さないのです。 「それ故私は組頭に向って申しました。|戦《いくさ》をするのに敵の居処が分らなくてどうします、なぜ隊 では探索を出さないのですかと申しましたら、組頭もそれはよいところへ気がついた、早速人を 出すがいいと言うて、青山助十郎というのが選に当りました、モ一人誰れかという時にその青山 が人選は私にお任せ下さい、私はぜひこのことの献策者結城有無之助を同伴致しとうございます といいましたので、組頭もそれはよかろう早速出発せよとのことで、私も急に支度をして青山と 一緒に出かけました。  「二人で軽装して前へ進んでまいりましたが、醒ヶ井へ来ても消息が分らぬ、柏原へ来ても消息 が分らぬ、途中はただワイワイ7イワイ騒いでいるばかりで一向様子が分りませなんだが、その 間を潜り抜け潜り抜け美濃路へ入って初めて耕雲斎は今関ヶ原の向うの|谷汲《たにくみ》にいるということを 突きとめま七た。そこで青山は早速その趣きを注進するため大津へ引き返し、私はなお深く探索 するため後に残りました。  「ところがどうしても分らないのは耕雲斎らの目的です。いくら京都には勤王の同志が集ってい るからというて、僅か七百人ばかりの手の者で、京都まで押して行くことはできますまいし、そ れたら東海道ヘ出て四日市あたりから船を奪って長州ヘでも落ちるのではないかと思いましたが、 海道筋には尾州という親藩がある、もう兵を出して関ヶ原の南を立ち切ってしまった。これは必 定山越しに越前へ出てこっちの虚に乗じ敦賀から船に乗るのではあるまいかと思いましたから、 `それなら一つ先きくぐりをして越前で待ち受けてやろうと思って、早|速踵《くびす》を廻らし伊吹の下を通 って北国街道へ向いました。  「しかるにお話にならないのは当時の幕府の軍隊組織で、各組各手には随分屈強な兵士もおり、 新しい武器をも備えておりましたが、全体として少しも組織が立っておりませんから味方同志の 間に連絡がなく、そのため私もとんだひどい目に遭いました。と申しますのは私がこうして北国 街道へ向いました時、彦根の藩で耕雲斎に備えるため郡上というところへ急に関所を設けて通行 人の検査を始めたのです。私はそうとも知らず|早《は》駕|籠《や》で郡上へかかりますと、いきなりその関所 で各められて何者だという、見廻組探索人だと答えて手形を出して直ぐ通してくれと申しますと、 当関所にはまだ見廻組の手形が廻わっておらぬから真偽を確かめることができない、通すことは 罷りならぬと言う。こっちは先を急ぐことですからいろいろ論判致しました末、あたかも由比図 書という御目附がその近所へ来ていましたから、それへ引き渡して貰うことにしました。ところ がこの御目附がまた訳の分らぬ人で、おれも見廻組の手形はよく知らないと言うて、さっばり培 があきません。私も癩に触って、御目附が組々の手形を御存知ないとは甚だもってその意を得ぬ 次第と申しますと、何しても御目附といえば飛ぶ鳥を落す勢いのある人です、たちまち大喝一声、 おれを何と心得る、天下の御目附だぞ、言葉を返すとは無礼至極と散々のお叱り、ついに彦根に おいて御沙汰相待つべしということになりました。 「仕方がありません、郡上の関所から附いて来た彦根の藩士に取り巻かれて彦根の城下へ着きま すと、市中では浪人者を生捕って来たという評判で、子供までが街の両側へ立って見ているとい う有様、実にこれくらいばかばかしいことはありませんでした。彦根では福田吉次という重役の 邸へ預けられ、まったく生捕同様に取り扱われました。私も随分我儘をいうて主人を困らせてや りましたが、向うでは多分今に見ろ打首か晒首にしてやるぞ、言いたいだけ我儘を言わせておけ ぐらいに考えていたのでしょう。すると四五日たって用人が恐る恐るやって来て、もうよろしゅ うございます御自由に御出立下さいという挨拶です。そこで私もただ御出立下されでは訳が分ら ぬと、ふんぞり反って突き込んでやりましたが、何分先を急ぎますこと故、いい加減にして出立 しました。後で聞きますと、見廻組へは別に何の掛合もなく、ただそっと人をやってその手形を 取り寄せ、それと引き合せてみて、さてこれはとんだことをしたわいとあわてて御自由に御出立 下されをやったものだそうです。 耕雲斎一党の最期を見届く  おじい様のお話はまだ続く。耕雲斎の最期まで行ってる。すなわち、 「私はそれから大急ぎで越前へ入ってみますと、もう遅うございました。耕雲斎は十二月の十二   しか           きのめと"げ   しんぽ 日(確とは覚えておりませんが)に木芽峠を越して麓の新保という村へ陣を取り、一方は加州の 家老でこの時まで京都へ詰めていた永原甚七郎というのが一隊を率いて、新保の手前の葉原とい うところへ陣を取っていたのです。そこで私は早速加州の陣へまいって右の永原甚七郎に面会し て様子を訊きますと、耕雲斎は美濃からあのひどい山路を十日かかって山越しをして来たので、 後は既に大垣の手で立ち切ってしまったからどうしても私どもと一戦しなければなりますまい、 明日はいよいよ耕雲斎の|白髪首《しらがくぴ》と永原甚七郎の白髪首との遣り取りですと言って笑っていました。 永原という人は京都でも相当評判のあった人です。 「そのうちに耕雲斎の陣から使者がまいりましたので私は別室に避けて控えておりますと、やが て話も終った様子、玄関から帰って行くところを見ますと、一人は年の頃二十三四で、色白く筋 骨逞しく額のところに生傷があって、身には羽二重の紋附を着し、その上へ陣羽織を纏うており ました。側にいた人に訊くとこれが水戸の小天狗藤田小四郎で、一橋公に嘆願の筋あり同志上洛 致すについてはなにとぞこの処道を開いて通行させてくれと申し込んで来たのだそうです。無論 一橋公自身が討取りに向われていることなぞは知らなかったのです。 「耕雲斎の方はこの時既に兵糧に窮してしまって明日が日も支え兼ねると}う危急に瀕しており ますところへ、後は立ち切られる、前には加州の兵がいる。耕雲斎の陣から加州の陣まではただ 一本道で、道の尽るところには六斤の大砲が据え付けられてある、一方は山一方は谷でもう北国 名物の雪が十分降り積ってるという有様、実際進退に窮していたのです。 「私はこれだけのことを見届けましたからもうよかろう、実は少しく手間取り過ぎたくらいだと 思って、早速葉原から引き返して江州の山中駅までまいりますと、そこに滞陣していたのが大目 附織田市蔵という仁です。名前を通じて通り越そうとすると、イヤしばらくお待ち下され大目附 がお会いになるからというのでその宿へ案内されました。この人は前の由比図書とはまったく別 でごく気さくなおもしろい人で、いろいろ言葉をかけられ、大儀であったいずれ松平出雲守に面 会したらよろしく取り次いでやろうと申され、すこぶる面目を施しました。ところがここに困っ たことというのは自分の隊の居処です。もう大津にいようはなし、いずれどこかへ進軍したので あろうが、さて今どこにいるのか少しも分らぬ。敵を探索するために派遣された人間が、今度は 味方を探索するという始末で、今から考えてみると本当にばかばかしかったのです。 「そのうちに見廻組は既に若州小浜へ乗り込んだということを聞きましたから、琵琶湖の西を今 津まで出て若狭街道へかかりました、途中で慶喜公が今津から海津へ進発するのに出会いました。 ところがこの時分はすべての街道引続き|早《は》駕|籠《や》ばかり出ましたので、当り前の|駕籠屋《かごや》ばかりでは 間に合いません。そこで村送りといって村中総がかりでお早だお早だと叫びたがら駕籠を担いで 飛ぶ、村外れへ行くと隣り村の者が待ち受けていて駕籠を次いで担いで行くという有様、ところ によっては駕籠のない村もありまして、坊主の駕籠へ乗せられるかと思うと花嫁の駕籠へ乗せら れる、そうかと思うとまた|番《もつこ》へ乗せられる、一番困ったのは駕籠はあったけれども昇き手が一人 しかいない、今に向うから帰って来ますから少しお待ちなさい、イヤ待ってはいられぬおれが片 っぼ担ぐから貴様そっちを担げといってお客様がたちまち駕籠屋になったのです。すると旦那空 駕籠では飛びにくうございますと言う、よし来たそれじゃアこうしろと|路傍《みちぱた》にいた十三四になる |比丘尼《ぴくに》を引っ撰って無理に駕籠へ入れて飛ぶ、比丘尼は泣き出す、道を行く人はあっけに取られ る、いやはや随分奇談もあったのです。 「そしてやっと本隊へ帰って探索の次第を注進しようとしますと、何にせよ彦根で四日も拘留さ れ若狭街道で二三日まごついていたこと故、本隊のカがずっと耕雲斎の近くへ進んでいて、こっ ちよりも詳しいことを知っている。すなわち藤田小四郎が帰って行った後、永原甚七郎から一橋 公に向って右口上の趣きを申し上げると、一橋公から構わず討ち取れという御沙汰でその旨耕雲 斎へ達しました。ところが耕雲斎はよくよく困っ、ていたとみえまして、ついに十二月二十日軍器 差し出し降服ということになっていたのです。私が本隊へ帰り着いたのはちょうどこの時でした からもう何も報告する必要がありません。ただ御苦労という言葉を頂いてそれなりけりになりま した。気の毒だったのは村田作郎で、私がいつまで経っても帰って来ないところから、きゃつき っと逃亡したに違いない、以前大橋順蔵のところへ出入りしていたというから、ことによると耕 雲斎の方へ加わって味方の機密を漏らしているのではあるまいか、あんな者を推挙したのはお手 前の手落ちだというて、村田は私のために誕責を受けたということです。けれどこの疑いは後に 織田市蔵が松平出雲守に会ってよく話をしてくれたので氷解したそうですが、とにかくばかばか しいお話だったのです。私もかなり腹が立ちました。 「そのうちに事件も歩を進めまして耕雲斎以下七百人縄つきで見廻組へお預けになりました。そ れまでは加州の手で預って敦賀の本勝寺、本妙寺、長遠寺という寺へ入れ置き、士分相当の取扱 いをしていたのですが、見廻組の手へ移るとすぐ船町の|干鰯蔵《ほしかぐら》へ叩き込んでしまいました、これ は前に申しました由比図書の計らいです。一つの蔵に五十人ずつ入れて蔵の窓はすっかり塞ぎ、 土間の上へ莚を敷いてそれへ坐らせました。そして耕雲斎以下重立ち三十人はそのままにしてお きましたが他の者にはことごとく|足枷《あしかせ》をはめ、食事は入口の戸へ穴を開けて一日に二度握り飯を 一人あて一つずつ投げ込んでやったのです。耕雲斎はじめ藤田小四郎なぞ初めは奥の方ヘキチン と坐っていましたが、そのうちだんだん餓えてきたとみえまして、入口まで進んで来て握り飯を 待っている、下人がソオレと言って投げ込みますと、天下に名を轟かした英雄が先を争って拾っ て食べるのです。私はこれを見て武士は相見互い、これほどまでにしなくてもと思いました。実 際それはひどかったのです。  しばらくたって見廻組はまた京都へ帰ることとなり、耕雲斎以下は小浜十万石の酒井若狭守へ お預けになった。おじい様は何という名義もなく、一統の成り行きを見て来いということで、ひ とり敦賀へ残っていた。すると二月朔日(慶応元年)田沼玄蕃頭が敦賀へ到着していよいよ糺弾 が開かれた。別手組からは浅井武次郎、見廻組を代表しておじい様がその席へ列なった。これは お話のうちにある大目附織田市蔵が立会いに来て、特におじい様を引き立ててくれたからだ。糺 弾の結果脅迫されて党中に加わった者及び途中から馳せ加わったもの三百五十人は追放または流 罪になり、十五歳以下の少年十人は本妙寺ヘやって坊主にし、残り三百六十人を二月四日から二 十三日にかけて、順次に町外れの松原ヘ引き出して皆斬ってしまった。おじい様はおかげでその 最期まで見届けたのだ。その時には一同もう力も何も抜けていて一言も言葉を出すものなく、こ ろりころりと斬られたそうだ。斬ったのは刑場の前へ大きな穴を掘っておいて側から側から蹴込 む、一々葬るのが面倒だったのでこうした簡便法を取ったのだ。すっかり斬ってしまってから土 をかけて、|記念《しるし》に木を一本立てて置いた、御維新後勤王がまた繁昌してきたので改めてそこに墓 を立て、後から神に祭って松原神社と称し、今ではなかなか立派なものになってる。お父さん先 年わざわざ尋ねて行ってみた。今は敦賀名勝の一つだ。 大砲組へ召し出され長州征伐  おじい様は慶応元年の二月の末にまた京都へ帰って来て、あいかわらず見廻組へ籍を置いて市 中警衛に任じていたが、見廻組より新撰組の方が馬が合っていたので大概は新撰組の方へ行って いた。そうするうちに長州再征が決定した。おじい様は多少砲術の心得があるところから新規召 抱え小十人格で|大砲《おおづつ》組ヘ編入され、竹中丹後守の手に付いて出征することになった。  そもそもこの長州征伐というのは元治元年蛤御門の変に起因したもので、その蛤御門の変とい うのは前にもちょっと話したがここでモ一度説明しておこう。  すなわち嘉永・安政以来、諸藩の浪士が京都へ集ってしきりにできない相談の鎖港撰夷を唱え ていた、そのうちでも一番騒いだのは長州の人間だった。それで朝廷の不平分子と気脈を通じて とうとう文久三年八月十三日、天皇大和ヘ行幸して神武天皇の陵を拝し、親しく撰夷の詔勅を発 せらるべしというところまで漕ぎつけた。ところが幕府ではそんなことをされては大変だと思っ たので、京都守護職松平肥後守に旨を含め、急に中川宮や近衛関白をして闘下に伏奏して行幸を 延期せしめ、同時にそれまで堺御門の警衛をさせておいた長藩の任を解き、藩士の在京を禁じ、 過激派の首領三條実美以下の官爵を削ってその参内を停止した。この時薩摩の人たちは会津を援 けてもっぱら長州を押えることに力を致したので、長州では薩賊会好、必ずこれを屠らざるべか らずと、歯がみをして口惜しがった。  そこで長州では家老福原越後、国司信濃、益田右衛門介に兵を授け、翌年(改元して元治元年) 七月←八日から同十九日にかけ、乱暴にも禁闘を襲い火を放って宮中ヘ乱入しようとした。かり そめにも天子様へ鉄砲を打ちかけて焼き立てようとしたのだ、北条・足利の暴虐でさえあえて自 ら為すことを難んじた所業を平気で決行したのだ。それでいながら後年、勤王はほとんど長州の 一手専売のように口幅ったいことを言ってるのはむしろ滑稽ともいうべき次第だ。  御所はその時会津と薩摩でお護りしていて見事に長州勢を撃退した。長州勢は初めの広言に似 もやらず海路本国へ逃げて行った。その結果として長州征伐の勅命が下り、尾張大納言が征討総 督となり、同年十月、関西三十六藩の兵一万七千を催おして安芸の広島まで進んで行った。する と長州では見苦しくも前記三家老に自殺を命じ、その首級を蘭らして悔悟伏罪の意を表して来た ので、総督も満足し、いずれ後日何とか処分するからと言うて、翌年正月ひとまず師を還した。 ちょうどおじい様が耕雲斎一件で敦賀へ出張していた時のことだ。  この時処分を後日に譲るなぞと言わずに、乗り込んで行って藩主を搦め捕り、不邊の輩を一気 に叩き潰しておいたなら後の禍いはなかったのだが、なまじ方々へ気兼ねをして寛大を示し手を つけずにおいたため、すぐ高杉晋作一派の過激党が藩論を一変し、幕命に抗して戦備を整えはじ めた。ここでけしからんのは慶喜と西郷だ、慶喜は元来が徳川家というものに対して誠意がない、 国家の前途に対しても定見がない、いわば場当り専門で無責任の言辞を弄し、ただ天下の人望を 一身に集めようとばかりしていたので、ことごとに幕府の政策と衝突する、ことに当時国家の一 番難問題であった諸外国との開港談判については、できないことを十分承知しておりながら反対 の態度を取る、それで慶応元年十月には将軍家茂が怒って慶喜への|面当《つらあて》に辞職を申し出たという 騒ぎもあった。この慶喜が内部にいて何事にも反対するということがどのくらい幕府の力を鈍ら せたかしれない。そこへ持っていって薩摩の西郷だ。これも曲者だ。蛤門の戦いは言うに及ばず、 最初の長州征伐の時にはほとんどその参謀長格で立ち働いていたにかかわらず、風向きがだんだ ん変ってきて、幕府がどうも怪しくなったわいと見ると、君子たちまち豹変していつの間にか長 州の高杉晋作や桂小五郎らと手を握ってしまった。無論筑前辺の有志や土佐の坂本竜馬、中岡慎 太郎なぞがその間に周旋したには違いないが西郷の腹はその前にもうきまっていた。死生をとも にした会津を売って長州とともに天下を取ろうという腹案ができていた。それ故長州の藩論一変 に対し、幕府で長州再征の議を決するや逸早く反対したのは西郷だった。いろいろ牽強附会の理 窟をこね廻わして、今度の長州征伐には薩摩は出兵御免蒙ると言い出した。そして自分のところ だけでは力が足りないと思ったので手を廻わして越前の松平春嶽や津の藤堂を説きつけ、長州征 伐反対の意志を表明せしめた。藤堂は後に鳥羽・伏見の戦争の時立派に幕府へ裏切りをした家、 春嶽は文久三年政事総裁職で撰夷の不可能を論奏すべく京都へ上ったところ、浪士がその旅宿高 台寺へ火を|放《つ》けたのに驚いて、将軍を置き去りにして福井へ逃げて帰った人だ。形勢危険と見て 取ってたちまち西郷の言うところに賛成したのも無理はない。しかし人間はとにかく、津も越前 も雄藩だ、その雄藩が薩摩と一緒になって長州征伐に反対したのだから幕府も困ってしまった。 一旦三家老の首を斬って謝罪の意を表したのをことごとく取り消して幕府に反抗し出したものを、 そのまま打ち棄てておく訳にはゆかない。多少無理とは知っていたがいよいよ長州再征を断行す ることとなり、慶応元年十一月三日将軍家茂京都を発して大阪城に入り、越えて七日大目附永井 主水正を訊問使としてまず広島へ赴かせた。この時新撰組の近藤勇は部下の伊東|甲子太郎《きねたろう》を引き 連れ、名前を変えて主水正と一緒に行った、訊問使警衛のためだ。おじい様にも一緒に行かない かと近藤から誘いがあったが、既に大砲組へ編入済みになっていたので断った。主水正一行は十 六日広島に入り、長藩の|宍戸《ししど》備後介を呼び出して訊問を終り、十二月十六日に帰って来た。とこ ろが後になってその宍戸備後介は本人でなく偽者だったことが分った。  そこで今度は御老中の小笠原壱岐守が自分で出かけて行って、長藩の封地十万石を削り藩主父 子を蟄居せしむべし、と家老を呼び出して厳命した。それは慶応二年四月二日のことで、二十一 日までに返答しなければ断然兵を差し向けると通告した。すると長州の方では何だかだと言って 日を延ばしていて、五月の二十五日になって今度はあべこべにこの二十八日限り壱岐守に広島を 退去すべし、しなければ兵を差し向けると通告してきた。もうこうなっては仕方がない。征長総 督紀州家がいよいよ御進発となり六月五日広島到着、七日から周防国大島郡の各村を攻略し、久、 賀港の砲撃を始めた。紀州の家老水野忠幹よく戦い、七月まで互いに勝敗あり相対峙していた。 おじい様の属していた竹中丹後守の手は十三日に尾瀬川というところまで行って初めて長州の兵 と接戦したが、小筒の打合いばかりで大砲を打つまでに至らなかった。  芸州口の方はこうして互角の戦いをしていたが石州口は非常の苦戦だった。それで講武所隊の 中から八百人選抜してこの方面へ差し向けることになり、おじい様もそれに加わってまさに出発 しようとする際、たまたま津和野藩が|款《かん》を長州に通じたので浜田城が陥り、おじい様たちはまた 芸州へ引き返して来た。「何のことだかさっばり分らなかった、どこで戦いがあるのかも分らな かった刀つまり幕軍の編制が悪かったからだ。先の方へ出ていた彦根の兵が泡を食って逃げて来 るから必定負け戦になったのだなと思って、こっちも一生懸命逃げにかかると、イヤ待て、敗け たのではない勝ったのだという知らせで、何が何だか少しも分らぬ、先手の者に押されて進んだ り退いたりして、とうとう玉一つ打たぬ間に引揚げになってしまった。変な戦争だった」とおじ い様のお話しだった。折角出かけて行って本当に詰らなかったことだろう。  石州口がこうして敗れる。一方海を渡って九州の方では小笠原壱岐守が自分で出かけて行って 指揮したにかかわらず、逆襲を受けて小倉の城を攻め落される。まことにもって散々の体たらく だ。そうすると芸州口はまた芸州口で、折角老中水野出羽守が新鋭の兵を提げて八月二日大野に 迫り大いに長州の兵を破ったと思うと、何のことだ芸州藩で戦争を休止させようと企て、幕兵と 長兵の間にその手の者を進めて両軍を遮断してしまった。何をする、けしからんと交渉している うちに、突如、将軍嘉去の知らせが来た。これで戦いはもうおしまい。自然の間に休兵となり、 八月二十五日には勅命でしばらく征長の兵を停むということになった。 「いくら幕府だってそう容易く敗れる訳のものではなかったのだが、京都及ぴ江戸において内輪 もめが絶えなかったのと、出先の軍隊に統一がなく銘々勝手な戦をしていたため見苦しい負け方 をしたのです。幕府の方でも旗本の士ことに講武所出の隊はかねて洋式調練を受けていたので身 軽に|扮装《いでた》って敏捷に働きましたが、諸藩の兵はことごとく旧式で、なかんずく石州ロの方なぞは 関ヶ原以来の甲冑に業々しい旗差物を指して出かけたものもあったくらいで、これが軽快な長州 の奇兵隊に遭ったのですからひとたまりもなくやられたのです。それに驚いたのは長州の武器で す。最新式の物を持っていると自ら誇っていた講武所隊よりももっと新しい精鋭なのを持ってい ました、芸州口で弱らせられたのはこの武器です、後で聞いてみましたら戦争前にすっかり上海 から買ってきたのだそうです。何でもあの時には|英吉利《イギリス》が長州の尻押しをしていたのですから、 武器なぞ潤沢に供給したものとみえます。この長州が英吉利の援けを求めたということは御維新 後までも非常に我が邦に崇りました。つまり国を売ったと言われても仕方がないような約束をし ておいたので長州が政府へ立つようになった時、英国公使から尻尾を押えられてギュウの音も出 すことができず、何でも英国の言うなり次第にならなければならなかったのは笑止の至りです」 とおじい様よく憤慨してはお話しになった。これはいささか疑うべき余地のないことで、「あれ ほど撰夷撰夷と騒いでた長州の殿様が、その懐夷の真最中に英吉利の|甲必丹《カビタン》をお城へ招いて歓待 し、一緒に写真を撮ったことがあります6この写真が何よりの証拠です、今もどこかに残ってい ましょう」と、これもおじい様のお話だった。 いよいよ正式に新撰組へ加盟す  長州征伐にいらっしゃった後だったか前だったか、とにかくその辺のところで一度江戸へお帰 りになったようだ、何のためにお帰りになったのか分らぬが、何でもその時初めて山岡鉄舟に知 られたものらしい。何分おじい様はお若い時分のことを滅多にお話しにならぬ、おばあ様にさえ 砥々お話しにならなかったくらいだから、御経歴のところどころ甚だ不明なものがあって困る。 お父さんは新聞記者になってから|材料《たね》にするつもりーというては甚だ相済まぬ訳だがlI実際 は材料にするつもりで、いろいろ鎌をかけては聴き出してみたが、大概の時には笑って敗軍の将 兵を談ぜずさとおっしゃっておいでだった。それで長州再征前後の辺は甚だ不明瞭になっている が、慶応二年十二月孝明天皇崩御の際に京都におられたことだけは確実だ。そしてその時には既 に正式に新撰組へ加入しておられた。  孝明天皇の崩御は幕府にとっての大打撃だった。同時におじい様たちにも大打撃だった。世間 では天皇が幕府に対して常に不満を抱いて加られたように伝えているが、事実はその正反対で、 おじい様のお話によってみると、天皇は諸藩の野心家が皇室をダシに使って天下を騒がせている のを御立腹になってたそうだ、ことに岩倉具視は非常にお嫌いで、あれはいつ何をするか分らぬ と仰せられてたそうだ。そして会津の松平肥後守の誠忠無二なのにことごとく御信頼遊ばされ、 肥後守がしばしばお暇を願い奉ったにかかわらず、いつも思召しをもって留任ということになり、 前後五年間京都で御用を勤めていた。後年会津が若松城であの華々しい籠城をしたのは単に薩長 に対する意地ばかりではない、深く先帝の意を体し何か特別の御委託を受けていたからだという ことである。おじい様はその任務の関係上しばしば会津の邸へ行き、殿様にもじきじきお目通り したことがあって、その都度先帝のありがたき思召しを拝し、大いに発憤されたもので、本当の 勤王はむしろ会津だと堅く信じておられた。  その天皇が崩御されたので会津は本当に力を落した。御遺託によって中川宮朝彦親王が国事係 という名義で事実においての摂政の職をお執りになっていたが、肝腎の十五代将軍職についてる 慶喜公が始終ぐらぐらしているのでどうともすることができない。それに例の岩倉が蟄居の身で ありながらちょいちょいちょっかいを出す。幕府の方は幸い小笠原壱岐守、板倉周防守が老中に なり、京都へは永井玄蕃頭が新たに町奉行になって来たので、備えは相当に立て直ったのだが、 将軍家が常に首鼠両端を抱いてるのだから困る。恭順なら恭順で終始一貫していてくれたたらま たそのようにやり方もあるのだが、時々は強くなる、そしてすぐ弱くなってしまう。これには本 当に困らせられた。小笠原壱岐守というのは唐津の殿様で、さきに撰夷なんてべらぼうなことが できるものか恐らく天子様の御意志ではあるまい、おれが行って撰夷の詔勅のお取消しを願って くると、単身京都へ馳せ上ったことのある快男児だ。鳥羽・伏見の戦争後東北に走って東軍の黒 幕となり東軍敗戦するや外国ヘ逃げて行って、明治になってからやっと赦されて帰って来た人だ。 この壱岐守の旨を受けて京都町奉行になった永井玄蕃頭もまたなかなかのしっかり者で、函館戦 争まで終始幕軍のために働いた男だ。この人たちが幕府の実権を握り、力でもって一つ時局の解 決をしようとしていると、何のことだ、慶応三年十月十四日突如として慶喜から大政返上の上奏 文が提出された。これで何もかも滅茶滅茶、おじい様たちの憤慨実に一通りでなかった。すると その十四日に討幕の密勅が薩長ヘ降った。当時新帝はまだ御幼少で親しく機務を御覧になるよう なことはなかった。勅旨といっても左右奉侍の人々の取計いで、甚しきに至っては酒楼一〃の座 談が翌日すぐ詔勅になるというようなこともあった。討幕の密勅もたぶんこの気味合いだったの だろう。  新撰組ではその前からどうも中山家の挙動がおかしいと睨んでいた。中山家は新帝の外戚だ。 野心家が担ぎ上げるにはもっとも適当の人だ。おじい様は近藤の密命を受けてそれとなく中山家 出入りの者を注意していると、ある夜、夜更けてから薩摩の浪人が入り込んでしばらくして出て 行ったのを見届けた。早速その旨を近藤に報告すると近藤はそれでは明日はモ少し厳重に網を張 ってみようと言うので、藤堂平助ほか三人の者を付けて寄越した。後で考えてみるとこの藤堂が よくなかった。浪士組として上洛の当時から近藤の四天王として十分信頼されていたにかかわら ず、いつの間にか薩摩に買収されていたのだ。この時もきっとこっちの手筈を内通したに違いな い。それでいつまで待ってても中山家には何の変ったこともなく、かえって中御門家の方へ薩長 の浪上が四五人入って行って裏門から何か大切そうに持ち出した。それが討幕の密勅だったのだ。 その時には誰も密勅とは知っていなかったが、慶喜の大政返上が十五日に発表になると、中山家 で|忙《あわ》てて|嚢日《のちえじつ》の一物しばらく実行を見合せさらに勘考すべしという訳の分らぬお達しが出た。大 政返上になれば討幕の必要がないと見たからであろう。そのお達しを見てさてはあれはそんなも のであったかと一同びっくりしたということだ。  この密勅一件でどうも藤堂が怪しいと思って密々に調べてみると、藤堂ばかりではない、伊東 甲子太郎も怪しい、服部三郎兵衛も怪しい。これは大変だというので一類ことごとく斬ってしま おうということに一決した。伊東は蛤門の戦が済んだ折近藤が江戸へ行って連れて来た男で、深 川佐賀町に道場を開いていた有名な剣客だ。服部もまた手は非常に利いていた。当時京都へ来て いた者のうちで剣術といえば見廻組の今井か新撰組の服部かと言われた位のもので、これを討ち 取るには生半可のことではだめだ、計略にかけねばだめだというので十一月十八日の夜山陵衛土 のことでちょっと話があるからと言うて伊東を呼びにやった。山陵衛士というのは伊東初め十一 人の者が近藤の諒解を得、先帝の陵をお守りするため朝廷から拝命していたので、一同高台寺中 の月真院というのへ集っていた。しかしこの山陵衛士というのがそもそも喰わせもので、その前 彼らは既に薩州の中村半次郎(桐野利秋)に買収されて新撰組撹乱を企てていたのだ。けだしそ の時分京都で一番幅を利かせていたのは新撰組だった。見廻組の方は人は揃っていたけれども何 分徳川家の家来だから自由がきかぬ、そこへゆくと新撰組はしばしば召抱えの話があったにかか わらずいつも御辞退申してあいかわらず浪人を通している。それでいて京都守護職から特別の御 委任で京都市中の警察権の一部を握っていたので、かなり思い切ったことをやってのける。勤王 をロにする野心家連には邪魔になって邪魔になって仕方がなかったのだ。それで薩摩の西郷なぞ が寄り寄り相談してどうもあの新撰組を潰してしまわなければ我々の働きが自由にならぬ、何と かする工夫はないものかと思っていると、幸い新撰組の中に大分不平分子がある、近藤があの通 りの潔癖家だから部下が少しでも間違ったことをするとガミガミやっつける、衆人|稠座《ちゆうさ》の中で構 わず侮辱する、それを第一に含んでいたのが伊東甲子太郎、それから近藤ともっとも古き関係を 有しているにかかわらず、品行のことから始終近藤に叱られる、ことに近頃はまったく疎外され てしまったような藤堂平助、こいbらを一つ取り込んで、新撰組を引っくり返してやろうという ので、中村半次郎がもっぱらその運動に取りかかった。しかるに新撰組には中途脱退すべからず という規約がある、脱退したものは理由のいかんにかかわらず斬ってしまう、今までにも人分斬 られたものがある、それで一策を考え山陵衛士拝命ということにして、近藤の諒解の下にとにか く十一人だけ分離させたのである。その間に汚い金銭上の話が取り交わされたのは無論のことだ。  伊東らの方ではまさか計画が漏れたとは思わなかったからハイ来たと一言って迎えの者について 駕籠へ乗って来たところを、おじい様たちが油小路七条上るところに待伏せしていて、物をも言 わせず駕籠の外から刺してしまった。そしてすぐ小者を高台寺へ走らせて、大変でございます、 伊東先生が油小路で斬られましたと言わせた。夜の十二時過ぎだった。それはまたどうした訳だ、 ほかに怪我人はなかったか、とにかく行ってみようと言うので、居合せていた八九人の者が宙を 飛んで駆けて来た。そうすると物かげに隠れていたおじい様たちがヤッと言ってその者たちをお っ取り囲んで斬りかけた。激しい斬り合いが始まった。敵の中でも服部はさすがに評判のものだ けあってなかなか鋭い、一人で五六人を相手にして少しもひるむ気色がなかったが、多勢に無勢 とうとう斬り伏せられてしまった。藤堂平助も続いて驚された。ほかにも二人殺された。そこで 残った三四人の者は一散走りに北へ逃げて薩摩の邸へ逃げ込んだ。斬り合いにかれこれ一時間も かかったので、逃げ込んだのは二時過ぎだったが薩摩の邸では何の苦情もなくすぐ門を開けてそ れを収容した。この一事をもってしても彼らがかねて薩摩と通謀していたことが分る。その逃げ 込んだうちの一人に加納というのがあった。これがそのまま薩摩の犬になって江戸へ乗り込み、 後年近藤が大久保大和と称して下総の流山で捕えられた時、障子の穴から覗いてあれは確かに新 撰組の近藤だと言って、そのため近藤は京都へも送られず板橋で斬られてしまった。加納は明治 三十年頃まで生きていた。 坂本竜馬を斬った今井信郎 伊東甲子太郎らが斬られたのは慶応三年十一月十八日の夜で、その三日前の十五日の夜に土佐 の坂本竜馬、中岡慎太郎が河原町蛸薬師の油屋という旅宿の二階で斬られた。世間ではこれも新 撰組だといっているが、実際は新撰組ではない見廻組のしたことだ。新撰組の方では十五日の夜 はちょうど伊東一類を斬るため重立ちが密議を開いていて、なかなか蛸薬師なぞへ出かける余裕 はなかった。それに市井の|破落漢《ごろつき》が途上で乱暴していたのを通りがかりに斬って捨てるというの たらとにかく、かりにも土州の坂本ともあろうものを斬るのに重立ちが関係せぬということはな い。あれはまったく見廻組だ、見廻組の今井信郎という男が二三の同志と一緒に踏ん込んで斬っ たのだとおじい様もかねがねおっしゃってだった。  この今井というのはおじい様と別懇のお友達で、三河御譜代の立派たお旗本だ。その年まで江 戸にいて剣術師範をしていたが、見廻組の佐々木只三郎に見出されて十月に初めて京都に上りた だちに頭並みに抜擢された。その時坂本は才谷梅太郎と変名して盛んに薩長の間を斡旋していた、 志士というよりむしろ策土といった方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二 郎ということになってるがその裏には坂本がいた。その坂本が最近また福井へ行って春嶽さんに 会ってきた、何をしてきたか分らぬ、こういう危険な人物は斬ってしまった方がよかろうと思っ て、桑名の渡辺吉太郎と京都の与力の桂準之助とを連れて、十五日の夜今井が蛸薬師の油屋へ行 った。そして名札へよい加減の名を書いて坂本さんにお目にかかりたいと言うと、取次の者がハ イと言って立った。こいついるナと思ったので取次の者についてすぐ二階へ上った。二階にはち ょうど二人の人がいた、どっちが坂本か分らぬから探りのため坂本さんしばらくと声をかけた、 するとそのうちの一人がどなたでしたナと言ったので、これが坂本に違いないと思って踏ん込ん でまず坂本を斬り、それから中岡を斬った。坂本はすぐ死んでしまったが中岡は翌日まで生きて いた。この今井は鳥羽・伏見の戦争には一番先へ進んで一番先に鉄砲を打ち、関東へ帰ってから は越後口に転戦して|饒名《ぎようめい》を馳せ、とうとう函館まで落ちて行って、維新の戦争の最初の幕から最 後の幕まで戦い通した人だ。御維新後は遠州の金谷へ引っ込んで村長なぞしていた。お父さんが 『甲斐新聞』の主筆をしていた時、わざわざおじい様を尋ねて来て一晩話して行ったことがあっ た。  その時おじい様がお父さんに向って「これがそれいつか話した坂本竜馬を斬った人だ、参考の ためよく聴いておくがいい」とおっしやったから「いや詰らんことです。お話しするほどのこと ではありません」とどうしても口を開こうとしなかったのを、無理にお願いして一通り話してい ただいた。そのくらい今井さんという人は謙遜の人だった。もっとも以前はそんなでもなかった そうだが基督信者になってからガラリと変って、御維新当時のことなぞ誰が何と言っても喋った ことなく、敬慶なる信者として篤実なる老農として余生を送っていた。  今井さんから伺った話をそのまま蔵っておくのも勿体ないと思ったから、少し経って『甲斐新 聞』へ書いた。もとより新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、竜馬を斬った瞬 間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向うをやんやと言わせるつもりで書いた。ところがこれが悪 かった。後になって大変なことになってしまった。というのはその時『甲斐新聞』の編輯長に岩 田鶴城という男がいた、京都の人で、その後お父さんが大阪で『帝国新聞』を起した時にも参加 して京都支局で働いてた者だ。この岩田が『甲斐新聞』をやめて京都へ帰った時、京都で発行さ れてる『近畿評論』という雑誌へ、お父さんの書いた今井信郎の話をそっくりそのまま寄稿した。 たしか明治三十三年頃のことだったと思う。  そうするとそれを見て、これはけしからぬ事実を誤ってると言って怒り出したのが谷干城さん だ。谷さんは坂本の殺された時逸早く駆けつけた人で、その時まだ死に切れずにいた中岡慎太郎 から斬られた刹那の有様を一通り聴いていたので、それを『近畿評論』と比較して、ここが違っ てるあそこが違ってる、話はどうしても捏造したものとしか思えぬといって、公開の席で演説し たりまたその演説の筆記を諸方へ配ったりした。島内登志衛編『谷干城遺稿』の中にもちゃんと 蒐録してある。谷さんは第一、今井という男が今頃になって私が坂本を殺しましたと名乗って出 るのが怪しい、畢寛売名の手段に過ぎぬとまで罵っているがこれは谷さんの方が無理だ。今井さ んは決して自ら名乗って出たのでも何でもない、滅多に口を開かなかったのを、自分の旧友の息 子が強いてとせがんだのでやむを得ず話したのだ、無論それが新聞や雑誌へ出されようとは思っ ていなかったのだ。谷さんも『近畿評論』の記事の出所をお調べになったなら、あんなにまでム キになる必要もなかったろう。  本当に残念なことをした。と同時にまたお父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さん にとんだ迷惑をかけたことを衷心からお詫びする。ことにその後谷さんの議論が世間の注意を惹 き起したため、一しきり坂本竜馬の刺客問題がやかましくなり、今では歴史上の一疑問として史 学専門家の間にいろいろと攻究され、しかもその多くは谷さんの所論を真実として今井さんを偽 者と見るようになってしまった。いよいよもって申し訳けがない。しかし今井さんが坂本竜馬を 斬ったということは実際動かすべからざる事実で、当時新撰組に籍を置き、同時に見廻組ともも っとも親しく往来していたおじい様がそうおっしゃるのだから少しも疑う余地はない。「あの晩 はおれたちは近藤のところに集っていた。(谷さんが疑いをかけてる)原田佐之助も一緒にいた。 次の日にその評判を聞いて、これはなかなか腕の利いた奴が出て来たわいと話していたくらいだ。 そしてその後それは今井がやったのだと聴いて今井ならなるほど無理はないと噂したものだ。実 際今井の短剣は当時江戸でも有名なもので、やっと言って構えると、体が剣の中へ隠れてしまう といわれたものだ。あの狭い座敷で咄嵯の間にあれだけの働きをするのは今井でなければできな い業だ」とおじい様極力推賞しておいでだった。今井さんは今井さんでまた、上り立てではある し、癩には触わってる、一つおれの腕を見てくれくらいの気を起して、勢い込んでやったものと みえる。  坂本の斬られたのが幾分刺激にたったとみえて、十二月の九日、維新史で有名なIいや日本 の歴史で稀に見るクウデターが行われた。大山師の岩倉が急遽参内して中川宮以下二十七人の参 朝を停止し、会桑二藩の禁裡守護を免じた。これからがいよいよ維新の大変だ。 その時分のおじい様の御様子  おじい様その時分には結城有無之助藤原景祐と名乗っておられた。おれほどの豪傑が天下にあ るかないかというのだ。その後明治元年四月田安亀之助(今の公爵徳川家達)が入って宗家を|紹《つ》ぐ こととなり、臣下一同|助《フ》という字を御遠慮することになったので、有無之助を改めて無≡、τし た。いよいよおれほどの豪傑は天下に二人も三人もないというのだ。それで髪を大たぶさに結っ て、|燭腹《しやれこうべ》の紋をつけて、朱鞘の大小を反りかえらせて、京の町々を潤歩していた。無論お酒は斗 もなお辞せず、酔うと調子外れの詩吟をなさる。稚気甚だ愛すべきものがあったが、何にしても 怖いということを少しも知らず、どんな危険な場所へでも平気で飛び込んで行ったので、|濟輩《せいはい》か らは非常に尊敬され、近藤勇からはこの児大いに用ゆべしとしきりに重い用事を言い付けられた。 お金は隊から潤沢に支給され、それを盛んに振り撒いたので、羽振りはなかなかよかった。御自 身では「なアにそんなに人を殺しはしなかったよ、罪だからなア」とおっしゃってだったが、は たの人の話によるとかなり盛んに斬って廻わったそうだ。ことに長州を目の敵にしていらっしや ったそうだ。  その癖おじい様の剣術といったらそれはみじめなもので、ただ気で勝っていたばかりだった。 今井信郎さんも「実際結城さんは不思議の人だった、竹刀を持たせて立ち会ってみるとカラだめ だがいざ真剣となると私たちよりもずっと勝れた腕前を見せる。それで私も一時は剣術なんてば かばかしいものだ、苦労してやるがものではないと思ったくらいだ」と言われたほどで筋も型も なってはいなかったそうだ。加じい様もまた「なに、斬り合いは気だけで沢山だ、対手が十人で も二十人でも構わぬ、さア来いっといって上段に振りかぶってかかると大概はすくんでしまうも のだ。まア気を呑むといったようなものさ」とおっしゃっていた。剣術ができなかった代りとい う訳でもあるまいが、おじい様は道楽半分に棒の稽古をなさっていた。当時棒は足軽の稽古する ものとされていたのをおじい様は何とかいう名人について一通り稽古なさった。そして免許皆伝 をお取りになった。この棒は年をお取りになってからも運動だというてよくお使いになった。お 父さんも子供の時にちょっと教えていただいたがもう忘れてしまった。今、家の下駄箱の上にこ ろがっていて、時々平四郎が持ち出しては|一同《みんな》を追いかけ廻わす、あの棒がおじい様のお使いに なった棒だ。あとで訊いたらおじい様の棒は神伝流の正統で、おじい様がお亡くなりになったの で日本には最早その伝が絶えてしまったのだそうな。そうと知ったらお父さんモ少し身に染みて 習っておいて、お前たちの誰かに伝えてやるのだったに、知らぬこととて本当に惜しいことをし た。  剣術がそんなだったから無論弓術も馬術も心得てはいらっしゃらなかった。できたのは砲術ば かり。学問の方もやはり当座一通りだけのことで、字は今のお父さんと似たり寄ったり、漢籍な ぞは本当に知れたものだった。お父さんが七ツ八ッ時分、毎日『文章軌範』を教えて下さったが、 後で粟生野の隆造さんに習ったら、おじい様のはうそ読みばかり、しかもそれがすっかり頭へつ いてしまってたので|正《なお》すに骨が折れて困ったことがあった。しかしおじい様のこの時代において は、どれもこれも本当はその必要がなかったのだろう。因襲に捕われて役にも立たぬことを教わ ったところで何になる。おれはおれで新たにおれの天地を開拓してゆくのだ、おれ白身に必要の ないものを見得や外聞のために習ったりする必要があるものかという意気込みだったのだ。初め に有無之助と称し中頃無二三と改めたのなぞもまったくこの意気から割り出されたもので、そこ におじい様の面目がありありと現われている。  しかしこの無二三ではおじい様も後で少しお困りなさったようだ。明治になって翻然その生活 をお改めになった時、「顧みて何だか気恥かしい思いがして、いっそ博文とか有朋とか改名しよ うと思ったが、それも何だかわざとらしい、自分さえ改ってゆけば名前なぞどうでもいい」改む るも妨げず改めざるも妨げずというので、そのまま無二三をお続けになったが、初めての人には 一々字を書いて見せなければ通じない、ことに田舎なぞでは訳が分らないためついに麦造さんに されてしまい、お父さんまでが「お前の|爺《とつ》さん麦造さん」なぞと子供の時分|一同《みんな》からからかわれ て一方ならず閉口したものだ。  しかし何といってもこの京都時代が、おじい様一生のうちで一番華やかな時代だった。時勢は だんだんおもしろくなってくる、自分の身も人から重んぜられる、前途にはただ希望があるばか り。国を出る時一途に思い込んでいた一国一城の主もどうやら夢でばかりもないように思われ、 深夜幾度か会心の笑みを漏らされたことだろう。それが一転、敗軍の将となり、志業伸ぶるなく、 平凡に世を終っておしまいなされたのは、それはおじい様が悪かったからではない。時勢が悪か ったからだ。イヤ時勢が悪かったのでもない、廻り合せがふとそうなってしまったのだ。世間で はよく旧幕失意の人々を目して、時勢を見るの明がなかったというけれども、時勢を見るの明は 薩長の人たちよりむしろ旧幕の人たちの方が勝っていた。世界の大勢を心得、民心の帰饗を察し、 それに適応すべき政治をしようとしていたのはかえって旧幕有司のうちにその人多く、薩長のい わゆる先覚者なぞはこの点においては遙かに一簿を輸するものが多かったのだ。それがただ時の 廻わり合せが悪かったばかりに、主客地を異にし、旧幕有司の志が時を遅れ姿を変えて薩長の手 で行われるようになったのだ。あの時もし慶喜公が十五代将軍にならなかったならば、なっても 鳥羽・伏見であんな見苦しい振舞いをすることがたかったならば、日本はもっと昔にもっとよい 政治を布き、もっとよい文化を得ることができたろう。たまたま変な廻り合せになったため、天 子様に御心配をかけることも多く、人民の福利もしばしば阻害されがちになったのである。何と も残り惜しいことだ。 戊辰の際 二条城退去と近藤勇の負傷  十二月九日のクゥデタlはかたりひどいものだった。岩倉は懐ヘ短剣を呑んで御前ヘ坐り込ん で、函の中からかねて用意して行った書付を出して、一々勅談だと言って押しつけてしまった。 慶喜が大政返上の上に将軍職の辞表まで|上《たてまつ》ったので、この隙乗ぜざるべからずと一気に押して出 たのだ。後ろ立ては無論西郷だった。  幕府の方ではまったく面くらってしまった。会津も桑名も御門から追い払われて薩摩や土佐の 兵がそれに代ったのでやむをえず一時二条城へ引き揚げた。慶喜も二条城にいた。この時は真剣 に怒ったそうだ、人が|温和《おとな》しく出れば付け上って踏みつけにする、誓って君側の好を除かなけれ ばならぬと息巻いたので、お側にいた人たちもそれでは仕方がない蛤門の二の舞にはなるがとに かく兵を進めてみようという気になり、新撰組へもその内達があった。しかるにまた誰れかが、 イヤ待て、今、尾州も越前も御所へ詰めてる、この人たちが何とかするだろう、兵を進めなくて も趣意の立つ仕方はいくらでもある、禁裡へ発砲して朝敵の汚名を蒙っては取り返しがつかぬと |切諌《せつかん》したので、慶喜の考えがぐるりと変ってしまった、単に変ってしまったばかりならいいが、 十二日の夜になってお側の者ばかり連れて提灯もつけずに二条城を脱出し、その晩にこっそり|牧 方《ひらかた》へ泊って次の日大阪城へ入った。歯ぎしりして口惜しがったのは新撰組だった。↓会津の殿様を 探したがどこにいるか分らない、それで若年寄永井玄蕃頭のところへ近藤自身駆け込んで、どう も慶喜公がけしからぬ、しかし今はそんなことを言ってる場合ではない、慶喜公はいなくてもわ れわれが京都に留まっていて十分好賊どもを退治してみせよう、それには二条のお城が大切だ、 あれを取られでもしたら大変だから、ぜひわれわれにあのお城を預からせて下さいと談判した。 永井は前に主水正といっていて近藤を連れて長州訊問使になって行った人だ。もとより強硬論者 だったので破格の沙汰ではあるがよろしいお前たちに預けようと言って、永井自身近藤を連れて 二条城へ乗り込んだ。隊員五十名も一緒に付いて行った。ところがお城の中には水戸の大場一進 斎というのが手の者三百人ばかり率いて坐り込んでる、われわれは将軍家からお直にここを預っ たのだ、ほかの手の者は一切入れることはならぬという、お直の御沙汰とあれば致し方がない。 しかしここは徳川家にとっては大切なお城だ、二百や三百の人では手が足りない、われわれも御 加勢申そう、一緒になって固めようじゃないかといったが、一進斎頑として聴き入れない。それ じゃアどうするつもりだ、今にも薩長が押し寄せて来たらお手前たちだけで見事にお禦ぎなさる かというと、いいや禦ぎなぞ致さぬ、当家は烈公以来勤王の家だ、朝命とあれば二義なくお引渡 しするまでだという、こいつめ、それではお預りしたとはいえないじゃないか、獅子身中の虫も 同然、ぶったぎってしまえとおじい様たちは非常にお怒りになったが、永井玄蕃頭が今ここで内 輪喧嘩をされては困る、とにかくおれが大阪へ行って改めてお指図を受けて来るからそれまで控 えていろとおっしゃるので、あなたが大阪へいらっしゃるなら手前どももまいりましょうと、近 藤初めそれに付いて行った。  途中伏見まで行くと、伏見もがら空きになってる、これは困ったことだ、近藤お手前の手でこ こを守っていてくれないかと、永井さんがおっしゃるので、近藤ももっともと思って大阪へ行く のを止めて伏見に留まることにした。ところがこの伏見には薩摩の屋敷がある、薩摩の屋敷には 先頃伊東甲子太郎に一味し新撰組を撹乱しようとしたため油小路で隊の制裁を受けた者どもの生 き残りが匿まわれている。そいつらが近藤が来たというのでひそかに狙いはじめた。卑怯なやつ らだから刀を抜いて切り込んで来るようなことをしない、飛び道具で狙っていた。こちらはそん なことを知らないから、ある日近藤はじめ十二三人の者が馬へ乗って墨染の街を通ると突然物蔭 から一発の銃声が響いて、馬上の近藤は右の肋をやられた。しかしあッともうんとも言わず、そ れ狼籍だ、そっちへ逃げたと叫んだので一同ばらばらッと追いかけて行った。その間に近藤は悠 悠と屯所へ引き揚げて来た。引き揚げて来てから傷を調べてみたらかなりの深手だった。それを 一向平気で悠々と帰って来たにはおじい様も底の知れぬ豪胆だといって驚いておられた。兇行者 を追いかけて行った人たちは一人を殺し一人を生捕って帰って来たが、生捕られたのは薩摩の武 士で殺されたのは果して油小路で討ち漏らされた旧隊員の一人だった。近藤は何、このくらいの 傷がと言っていたが土方なぞが心配してとにかく大阪へやって傷養生をさせることにした。とこ ろが近藤は傷養生しながらも毎日登城して謀議に参画し、常に強硬論を主張していた。隊員は半 ば大阪へ行き半ば伏見へ留まっていた。  するとこの時江戸でまた一騒動が持ち上った。それは三田の薩摩屋敷の焼討ちだ。薩摩の屋敷 には前から不遅の徒が集っていた。それが十二月九日の例のクゥデタI以後、どんなもんだおれ たちの天下になったじゃアないかと大手を振って市中へのさばり出した。そしておおっぴらに市 中の金持を脅迫して天朝のお為めと称して金穀を徴集し出した。この時江戸のお城にいた御老中 は例の小笠原壱岐守だ。何でだまって見ていよう、市中取締りの酒井左衛門尉に言いつけて、い きなり薩摩屋敷へ大砲を打ち込んで思い切った焼討ちをやった。これには大目附の滝川播磨守も 与っていた。そしてこの滝川播磨守はその足で事件の報告かたがた大阪へ上って来て、慶喜に向 って何をぐずぐずしておいでなさる、こうしていれば何とかかとか口実を設けて追討の兵を差し 向けられるのは必定だ、先んずれば人を制す、ぜひ御決心なさい、御決心なさって君側の好をお 払いなさい、それが本当に天朝へ対しての御忠義だ、岩倉一輩の徒が幼主を挾んで非違を行う、 憎みてもなお余りがあると、非常な勢いで説き立てた。慶喜公のことだから、またふらふらと気 が変ってそれでは打ち立とうと言い出した。そう定まったのは十二月二十八日のことで、滝川播 磨守が自身で、  主上御幼沖の折柄、先帝御依托の摂政殿下を廃し、私意を以て|妄《みだ》りに宮堂上方を|黙防《ちゆつちょく》し、諸  般の処置私論を主張する罪、天人共に憎む所、願くは右好党の者共を御引渡し被下度、万一御  採用相成らざる時は、|不得止訣獄《やむをえずちうりく》を加へ可申云々 という上表文を書き、ただちに部署を定め、正月二日をもって大阪を出発した。総督は老中松平 豊前守で総勢約一万五千、その夜は先鋒牧方に一泊し、翌三日全軍を二手に別け、一つは伏見街 道から進み、一つは鳥羽街道に向った。鳥羽の方の主将は陸軍奉行並大久保主膳正で、桑名を先 鋒とし、滝川播磨守は件の上表文を懐にしてそのまた先頭に立った。伏見の方は陸軍奉行竹中丹 後守が主将となり、会津を先鋒とし、新撰組が別働隊としてこれに加わった。見廻組は鳥羽の方 へ廻っていた。この二隊が斬込隊いわゆる抜刀隊だった。 勇ましかった鳥羽・伏見の戦  この時近藤は伏見で撃たれた傷がまだ癒えず、馬上の働き不自由だとあって大阪に留まり、土 方歳三が隊員を引率して繰り出した。隊員は新たに加入したものがあって百五十人に余っていた。 この時伏見にはすでに薩摩の兵がぞくぞく繰り込んでいて御香宮から桃山へかけて陣を張ってい たが、その前を悠々と通って、前に隊員を半ば残しておいた伏見の役所へ入った。伝習隊三百人 も加勢として続いて来た。そして今まで新撰組には砲隊というものがなかったが、敵は御香宮へ 大砲を据えてるようだからこちらもそれに対抗しなければならぬというて、間宮鉄太郎の手から 砲二門借りて来て役所の中へ据え付けた。おじい様は無論その方へ廻わった。相役は会津の何と かいう人で、一門を八人で受け持った。会津の男は砲術を心得ていたが、他の者はまったく素人 ばかりで、打ち方を教えるのに大分骨が折れたそうだ。  大砲の据付を終ったのが午後の二時頃で、それから一服していると鳥羽の方で銃声が聞え出し た。鳥羽は伏見から田圃一つ隔てた西の方で、風の具合でよく聞える。さてはいよいよ始まった なと思ってると、こっちも桃山の切り取りの上から役所を目がけてドシドシ打ち出してきた。何 を小廣なというのでおじい様がまず打つ、隣りの大砲もまた打つ。そのうちに竹中丹後守は自身 伝習隊を率いて京橋の橋詰で小銃で打ち合いを始めた。会津の兵も加わっていた。新撰組は大手 筋を御香宮へかかって行った、上から見下しに打ち立てられるので大分苦戦した、それに伝習隊 には鉄砲が渡っていたが新撰組には鉄砲がない、あっても|一同《みんな》使い慣れていないので役に立たぬ、 打ち合いが少しでも味方に有利だったらすぐ手許へ斬り込もう、斬り合いにさえなればもうこっ ちのものだと思っていたが、なかなかそこまで行かぬ。仕方がないから肥後橋まで引き揚げて来 た、鳥羽の方では今接戦最中だと聞いたので田圃を越してそっちへ行ったものもあった。この間 に京都へ斬り込もうといって竹田街道を深草まで進んだものもあったが、後に続く勢がなかった ので引き返して来た。おじい様たちは丹後守からの命令で、役所を引き揚げて中書島まで来て放 列を布いた、他の手の大砲もおいおい中書島へ集って来た。それはもう暮れ近い時分だった。中 書島は現今京阪電車の宇治行乗換場のあるところだ。         \  夜になったので打ち方を止めた。銃隊はみんな持場持場で夜営することになったが、その日の 戦は鳥羽も伏見も味方が七分の勝利ということだった。明日は一つこの勢いで京都まで押して行 こう、大津にいる深尾丹波守の四十大隊も明日は|逢坂《おうさか》を越して打ち入るだろう、そうすれば薩長 は袋の鼠だ。幼帝をお連れ申して丹波路へでも落ちるかななぞと噂しながら休んでいた。ところ がその夜も明けて四日の朝となると、これはまたいかなこと、北の烈風が吹いている、これでは 進撃は不利だ、今に止むだろう止むだろうと思って待ってたがなかなか止まない。止まないばか りでなく敵はその風に乗じて盛んに打ち立てて来る。やむを得ず応戦はしているものの砂塵濠々 としてどこに敵がいるか分らぬ、午頃には目を開けていることもできないほどの烈しさになって、 本当に盲目打ちに打っていた。敵の玉はよく傍へ来て破裂する、おじい様のすぐ隣りにいた人九 ちは、玉を込めて打とうとしているところへ敵の玉が来て破裂して、そのため自分の玉も破裂し て、大砲もろとも打ち手が五六人木ッ葉微塵に飛んでしまったそうだ。風は夕方になっていよい よ烈しく、味方の銃隊はどこにどうしているか分らない、一番困ったのは本営から何の命令も来 ないことだ、伝令を出そうにも出しようがなし、仕方がないから御香宮から桃山を目標にして打 てるだけ打っていた。ことによるとその時分敵はもう桃山一帯にはいなかったのかもしれない。 そのうちに敵が後へ廻ったと言うものがある、どうしようかと一同で相談していると初めて伝令 が来た。諸隊は淀の小橋まで引き揚げたからそこの砲隊も引き揚げて来るようにということだ。 何だ、淀といえば蓬かのあなただ、味方は果してそこまで追い詰められたのだろうか、もし追い 詰められたのだとすれば、これから引き揚げようにも引き揚げることはできぬ、伝令に聞いても 一向要領得ぬ、ただ横大路沼付近に敵がいるようだという、それなら大砲たど引っ張って行くこ とはできぬ。まア身体だけ行ってみようと、夜陰に乗じて宇治川の|堤《どて》伝いに淀まで引き揚げて行 った。  淀で聞くとまことに残念千万。やっばり風のためにすっかり|敗《やら》れてしまったのだ。最初鳥羽街 道をまっさきに進んで行ったのは見廻組で、滝川播磨守を護衛して四ツ塚の関門へかかった。関 門は薩摩の五番隊が野津七左衛門兄弟に率いられて固めていた、この野津兄弟が例の鎮雄と道貫 なのだ。播磨守はまず今井信郎と藤沼幸之丞の両人を差し向けて、慶喜の使者として罷り上る旨 通じさせた、ところが野津がどうしても通すことはならぬと言う、しばし論争の揚句、それでは 一応播磨守に右申し通じて来ようと言うて関門を出て二三十間来る、突|然背後《うしろ》から発砲した。何 をするッと言って今井と藤沼が振り向くと引き続き、ハラバラと打ってかかった。かねて期したこ とではあったがまだ手切れにもならないものを、背後から打つとは卑怯千万、よしそれならばと 急いで本隊へ帰って来ると、本隊では既に銃声を聞いたので、それッと言って掛って行く、見廻 組に続いた桑名の銃隊が打ちかかる、敵もなかなか頑強に応戦したが、勝敗の決せぬうちに日が 暮れた。それで少し休んで兵糧を使ってると、夜になって敵が夜襲を仕かけて来た、そんなこと で驚くものかと歩兵頭の窪田備前守が先頭に立って|蓮《むか》え撃ち、見事に撃退してしまった。追い打 ちして二条のお城まで行こうと言うものがあったが伏兵でもかけられるといけないというので下 鳥羽まで引き返して来た。無論四ツ塚の関門は一ト破りに破ってしまったのだ。そこで今日(四 日)は未明から打ち立って攻めにかかるとあの風だ、目が開けない、|呼吸《いき》ができない、それでも 奮進して行くと案の、ことく伏兵が出て来た、これに打ち立てられて残念ながら繰り引きに引いて 来た。風さえなかったなら、手並みは大概分ってる、引くのではなかったのだと一同口惜しがっ ていた。新撰組はといって尋ねてみると、これは半分ばかりになっていた。討死したものだけで も三四十人はあったろうということだった。  その時おじい様のお話に会津の林権助のことがあった。今英国大使になってる林権助さんのお 父さんだ。会津の殿様が京都守護職にたった時に従いて来て、ずっと京都にいた。蛤門の戦争で も功名した。鳥羽・伏見の時には銃隊の長になって三日には伏見で戦い、四日には淀まで下って 兵を休めていた。すると例の烈風で味方がだんだん引いて来ると聞いたので、砲隊長白井五郎太 夫と相談して急に斬込隊というのを組織した。そして淀川堤の下を這って行って竹藪の中へ隠れ ていた。一同鉄砲を捨てて槍と刀を持っていた。しばらく待ってると味方が戦いながらだんだん 引き揚げてくる、それを追うて薩摩と因州の手が下って来る、時分はよしと竹藪の中から一斉に 起って突いてかかった。敵もさる者ただちに備えを立て直したが、斬り合いとなっては段違いだ、 見る見るうちに斬りまくられて、すばりすばり斬り下げられる、それをまた会津の方では鄭寧に 一つ一つ首にして腰へ下げる、中には一人で二つも三つも首を下げてるものもあったくらいで、 敵はほとんど全滅の形だった。この時もし先に引いて行った幕軍が取って返して打ち立てたなら 鳥羽は無論のこと、伏見・桃山も一気に取ってしまうことができたったろうに、烈風のため会津 がそれだけの働きをしていることが分らず、会津はまた無暗に首を大事がってそれを棄てて追い 討ちすることをしなかったため大事の戦機を逸してしまった。惜しいことをした。この林権助は 不幸にして翌五日の戦いに頭を打たれて大阪へ担ぎ込まれ、後順動丸で江戸へ送られたが途中船 の中で死んでしまった。白井も五日の戦いに討死したが、その斬り込みの時の様子といったらそ れはそれは勇ましいもので、元亀・天正かくやと思われるほどだったそうだ。おじい様とは別懇 の間柄だったのだ。 無念を忍んで軍艦で帰東  五日にもまだ風が吹いていた。この風ではとても淀川堤を上ることはできない、強いて上れば また昨日の二の舞をやるばかりだ、堤の外は今行って見ても分る一面の沼や池で枯藍がいっばい 生えてる、砲はもとより兵だって進めることはできぬ。仕方がないから淀の城へ入って防戦しよ うと思って使いを立てた。淀は稲葉美濃守の城だ、美濃守は当時の御老中だ、有無のあるべきは ずはないと思って安心していると、ただいま主人不在中、主人の命令がなければたとい御台命と あっても城をお貸し申すことはできないという挨拶だ、あきれ返って物が言えぬ、それならまず 淀から踏みにじってやれと意気込んだが総督松平豊前守(上総大多喜の殿様だ)が穏便に穏便にと いうので、淀の小橋に胸壁を築いて防戦するこ之にした。おじい様はこの日どこへ付いていいの か分らぬ、大砲は中書島へ置いてきたし、新撰組はしばらく休むと言ってる、おじい様も、緒に なって休んでいた。戦争はあまりはかばかしくたかった。味方は歩兵奉行の佐久間近江守が三日 に伏見で討死する、歩兵頭の窪田備前守が鳥羽で討死する、この日はこの日でまた会津の重立っ たところがバタバタやられる、いささか元気沮喪しているところへ持っていって、号令がとかく 徹底せぬ、戦は五分だったが気は大分腐れかけていた。  それが六日となるとまた大変だ、淀藩が敵へ降参してしまった。もっともこの時には味方の本 隊は既に橋本へ引き上げていたから後を立ち切られることはなかったが、兵糧方なぞ引き遅れて 非常に難渋したものがあった。淀はつまり味方が橋本へ引いたのを見て、あわてて敵に媚を呈し たのだ。しかし淀ばかりなら何でもない、|人数《にんず》も大したことはないから腹は立ったがいずれ後で |鷹懲《ようちよう》してやれくらいに思って、橋本・八幡の線へかけて盛んに胸壁を築いて、ここでとにかく踏 み|耐《とた》えようと決心した、するとその日の午後になって川を隔てた山崎の藤堂の陣から大砲を打ち かけて来た。昨日までも今朝までもこっちから兵糧を送ったり、軍議を通じたりしていた藤堂だ、 それがかく裏切りをしたのは淀藩の反覆よりももっと痛く味方に響いた。これで幕軍は総崩れ、 てんでんばらばらに大阪へ引き上げた。四日にあの烈しい北風が吹かなかったなら、そして六日 に藤堂の裏切りがなかったなら、幕軍はまだ十分盛り返しの見込みがあったのだ、盛り返しさえ すれば京都は手薄だ、薩長に因州、土州それに備前を加えても一万の兵はいない。どうしたって 袋の鼠だ。丹波路へでも逃げ出すよりほか途はなかったのだ。実際西郷はその支度をしていたの だが、意外のことでそんなことをする必要もなくなり、かえって幕軍の方が大阪へ退き、大阪か ら和歌山へ退き、とうとう江戸まで逃げ帰らなければならないことになった。因果な廻わり合せ と謂いつべしだ。  この際にもまた甚だけしからんかったのは慶喜公だ。初め滝川播磨守が非常た意気込みで上っ て来た時、それなら一つ打ち立とうかなと言われた。何、勢いをもって押してゆけば向うは大概 閉口する、戦をするまでもあるまいと仰せられた。それが鳥羽で支えて淀へ退き淀からまた橋本 へ引いてそして藤堂が裏切りしたという知らせが来ると、いつものごとくあわてだしておれは知 らぬ知らぬ知らぬという、会津と桑名がお側へ付いてていろいろ力をつけるにかかわらず、また しても二条城退去の二の舞で、六日の夜ひそかに大阪城を出で八軒家から|苫船《とまぶね》へ乗って天保山沖 にかかっていた榎本釜次郎の軍艦開陽丸へ逃げ込まれた。会津も桑名もまさか上様一人落してや る訳にもいかないから、涙を呑んでお伴した。ところで開陽丸では榎本が上陸不在だったのでそ の帰るまで待って下さいと言ったが上様なかなかお聴き入れがない、副長沢太郎左衛門に臨時船 将代理を命ず即刻江戸へ向け出発すべしという御命令で、沢は仕方がないから僚艦不二山へ委細 を申し残して、榎本を置き去りにして江戸に向った。  橋本から引き揚げて来た幕軍の将士は、大阪でさらに軍議を凝らし、海軍と策応して一戦を試 みようと思って、お城へ入ってみるとお城には誰もいない、上様もいなければ老中もいない、調 度も手廻わりも郷りばなしにしてあるのみならず、御勘定方の小野友五郎が御金蔵の古金十八万 両をどうしようかとうろうろしているという有様だ、あまりのことに物も言えない。海軍の榎本 がブツブツ言いながら跡を見廻っている、やがて御金蔵の金も榎本が受け取って軍艦へ運ばせた。 将士はお城にいても仕方がないから思い思いに退散した。その多くは紀州路さして落ちて行った。 紀州がどうかしてくれるだろうと思ったからだ。  近藤は土方からの報告を聴いて、ただ二言、仕方がないと言ったきりだった。土方は早速人を 出して隊の負傷者を探させた。怪我人はみんなでかれこれ二十人ばかりあった。これに達者な者 を加えて全員はそれでも五十人ばかりあった。そこで土方から榎本に交渉して全部軍艦で江戸ヘ 送って貰うようにした。榎本は新撰組は一纏めにして旗艦不二山へ収容してくれた、そして十二 日大阪を発し十四日に品川へ帰った。途中で負傷者三人落命した。 甲陽鎮撫隊軍監として進発  さて帰りは帰ったものの考えると口惜しくて叶わない。そのうちに薩長は錦旗を奉じて東海・ 東山の両道から進発して来る、ぐずぐずしていると江戸が危ない。どうしても途中で一つ喰い止 めねばならぬということになったから、おじい様はただちに甲州経略を提言した。甲州は昔から の要害の地だ。敵に占領されたらそれこそ風上に火を蓄えるようなものだが味方で押えておけば 百万人の力だ。いざという場合、勢を合せてここへ立て籠りさえすればいい、五年、十年天下の 兵を引き受けるくらい何でもないことだというので、生き残った新撰組を中心にし、これに撒兵 隊、伝習隊、それから会津の藩士を加えて甲陽鎮撫隊というのを組織した。一切は新撰組と縁故 の深い若年寄永井玄蕃頭の計らいで、勝さんなぞは反対のようだったが別に止めもしなかった。 それで隊長の近藤は改めて若年寄格、副頭の土方は寄合席、隊員はすべて小十人格で、青だたき 裏金輪ぬけの陣笠をかぶり、二月の十五日に編成を終った。おじい様は地理饗道兼大砲指図役と いうのだったが、久し振りで故郷へ帰ることでもあり、ぜひ錦を着て行けという人もあってさら に甲陽鎮撫隊軍監という役名を貰った。まだ一国一城の主ではないが、軍監といえば御目附だ、 もう一呼吸で大名になれる、青雲の志ようやく報わるるに至ったかと故山を望見して急に昔を憶 い出し、ひそかに会心の笑みを漏らしたものだ。  同勢は二百人ばかり、少し少なかったが、以前神奈川にいた|菜葉《なつぱ》隊-青い服を着ていたから 菜葉隊と呼ばれたので、格は低かったが当時無役で大層強いという評判のあったものだ、その菜 葉隊二大隊が後詰をすることになり、八王子の千人同心も二小隊ほど繰り出すはずになってたの で、これだけあれば大丈夫だろうと、いよいよ二月の末日に江戸を出発した。この時途中でぐず ぐずせず、一気に甲府まで乗り込んでしまったなら、|彼我《ひが》ところを替え随分おもしろい幕が見ら れたのだが、近藤も土方も日野在の出身で、今度二人が大層偉くなってその地を通行するという ので、親戚故旧が皆道へ出迎え、あっちでもお祝い、こっちでもお悦びと酒ばかり飲んでいたの で、その晩は府中泊り、翌日は四里行って八王子泊り、三日目にようやく甲州へ入り与瀬へ陣を 取るという始末だった。  与瀬でおじい様は近藤と相談して、もう何だか敵が甲州路へ向って来たようだ、誰か一人間者 を入れて様子を探らせてみようというて、伊豆の博徒で熊五郎という者がちょうどその近辺にい たので、旨を含めてその夜のうちに奥へ入り込ませた。すると夜になって甲府城代佐藤駿河守か ら江戸へ|早馬《はや》だと言って陣の前へ来たものがある、どういう早馬かと呼び入れて訊くと、敵が昨 夜信州下の諏訪まで来たというのだ。それは叶わん、下の諏訪から甲府までは十三里、与瀬から 甲府までは十七里、しかもその間には|笹子《ささご》という峠がある、これは今夜のうちに打ち立たなけれ ば大事を逸してしまうと、おじい様しきりに近藤を鞭燵なさったが、近藤は今一同疲れている、 それに大砲は小荷駄にしてまだずっと後にあるから行ってもとても駄目だろうと言うので、仕方 なしに少し休んで七つ立ちと号令を下した。しかるに夜が明けてみると満地の雪で、雪が降って は甲州街道とても人馬の通行ができるものではない。それでその夜は先手が大月、後陣は|猿橋《えんきよう》へ 泊ることにした。それが三月三日のことで、四日には雪で道がひどかったがとにかく笹子を越し て麓の駒飼へ陣を取った。着くとすぐ敵がただいま甲府へ入りましたという注進、熊五郎もまた やって来ていろいろ報告した。しまったと思ったがもうどうすることもできない。僅かに熊五郎 を黒駒の勝という親分のところへやって、一町田中の景仲先生の息子が出かけて来たのだよろし く頼むと通じさせただけだった。  この時甲府へ入ったのは中山道総督岩倉公の手に属する因州・土州の二藩で、饗道として高島 藩から一隊を出し、甲府を取った場合にその守備に任ずべく松代藩からも一隊付いて来た。土州 の大将は板垣退助で、谷干城、片岡健吉なぞがこれに従い、因州は河田佐久馬が大将で、両方の 軍監として岩倉公から西尾遠江介というのを差し添えられた。それで三月二日諏訪で総督の本隊 に別れ、その晩は蔦木泊り、三日に韮崎まで来て探索すると新撰組はもう笹子を越したともいう し、まだ越さないともいう、新撰組と聞いて一同ぎょっとした。それではとてもこの人数では敵 わぬ、総督府へお願いしてぜひ薩州・長州をもこっちへ廻わして貰わねばならぬというて、急に |早馬《はや》を飛ばせたり、一日遅れていた因州の兵を督促したり、大狼狽を極めたが、そのうち新撰組 はまだ笹子の向うにいると判明したので、しからば急いで甲府の城へ入ってしまえと、即夜韮崎 を発し、翌日五つまでに全軍甲府へ入り込んだ。しかるに一方東軍の方では駒飼で徹夜で軍評議 をした。おじい様は敵がよし甲府へ入ったところで城へは入らぬ、市中へ散宿しているに違いな い、これからすぐ打ち立って行けば甲府へは六里だから夜の明けないうちに着く、着いたらそっ と裏手へ廻わり町の西ロヘ火をつける、そうすれば敵兵必ず狼狽してお城は必定こっちのものに なる、ぜひ打ち立とうと主張なさったが、昼峠を越して夜また六里の進軍は兵を損ずるばかりで 功がなかろうという説、ことに甲府へ敵が入ったとすればこの隊だけでは人数が足らない、しば らくこの険地に拠って後から来る菜葉隊を待ち合わせようということに定まった。定まってしま えば仕方がない。おじい様は手の者を連れて駒飼から一里下った柏尾へ行ってその夜のうちに胸 壁を築き、小荷駄でようやく着いたばかりの四斤砲を二門、やっとこさと据えつけた。 柏尾の一戦に脆くも敗走  甲州はお前たちも知っての通り四方は山また山の険阻だけれど、中へ入ればずっと平らで十里 四方目を遮るものはない。柏尾はちょうどその山から平地へ下りようとするところで、道の右手 に平清盛が造営した薬師堂があり、左は断崖絶壁で、下を日川が流れている。胸壁を築いたのは その川が崖へぶっつかってくるりと廻わって平地へ流れ出すところで要害この上もなしだった。 おじい様はお小さい時この辺までよく遊びにいらっしゃったことがあるので、夜目でも間違いな く一番の急所を選ぶことができたのだ。そして一門は西へ向けて本街道から来る敵を撃ち、一門 は南へ向けてもし敵が川向うへ廻って来たらそれを撃とうと構えた。  翌五日におじい様は|逞兵《ていへい》十五人引き連れて敵情探索のため勝沼まで進み、とりあえず勝沼の外 れへ関門を立て、十五人の者に守らせることにした。その時甲府勤番柴田監物の息子の小太郎と いう人が来て軍監にお目にかかりたいと言う、多分勤番が内応する手筈を定めに来たものと思っ たが、前夜軍評議の結果おじい様は農兵募集という大役を引き受けていたので、後から来た会津 の大崎宗助という男にその応接を任せ、その晩は一町田中の自分の家まで行って久し振りで親戚 の人たちに面会して、過ぎ来し方やこれから先きの見込みなぞを物語った。しかし明日の戦争を 控えている身でゆっくりしていることもできず、夜を徹して近所の者を集め、勝沼から岩崎一面 へかけて|筆《かがり》を焚かせた。  六日には村々へ触れを出して名主一同を粟生野の松泉寺へ集め、集ったところで今回甲陽鎮撫 隊の御趣意を説いて聴かせ、徳川家のために応分の力を尽くすよう頼んだところ、何せよ田中の 景仲さんの息子さんが偉い出世をして帰って来たというので、名主連中我がことのように悦び、 一も二もなく進んで承引した。そこで銘々の判を取ってその夜も山々へ筆を焚くことを命じ、さ らに黒駒の勝のところへ行こうとして牛奥村まで来ると、既に柏尾で戦争があって東軍は山を越 して逃げたと噂するものがある、中には勝沼の関門で結城さんが討死したのを見て来たというも のさえあるので、これはうっかり進めぬ、どうしようかと考えていると、雨敬の実の兄で雨宮総 右衛門という牛奥の名主が飛んで来て、こんなところにいては大変です、実はこうこうですと戦 争の様子を語り、さアこれから私が案内しますから天目山を越してお逃げなさいと言う。逃げる のは何でもないがふと気がつくと懐には今朝がた名主連から取った請書がある、もし逃げ損たっ て捕まりでもして、この請書から名主連に迷惑をかけるようなことがあってはならぬと思って、 一里ほどのところをまた松泉寺へとって返し残っていた名主にそれを返し、また後へ戻って栗原 まで逃げ延びた。  けれども街道は敵の往来が繁くて道一つ横ぎることができない。仕方がないからとあるお宮の 内陣へ入って夜の更けるのを待ってるうちに、昨日からの疲れですっかり眠ってしまった。ふッ と目がさめると夜はまだ明けてはおらない、所々に筆が焚き捨てられて人通りもちらりほらりし ている。この間にこそと急いで宿を通りぬけて、|御代咲《みよさき》村の|曾祖母《おぱあ》さんの実家へ落着いて隠して 貰った。折よく曾祖母さんも来ておられた。  この時西軍の人数は三千人ばかりで、谷干城と片岡健吉が先鋒になって進んで来た。勝沼の関 門は難なく押し破られ大崎宗助は|檎《とわこ》にたった。この大崎は|二十歳《はたち》ばかり、眉目秀麗、なかなか胆 の据った男で、捕えられて甲府へ引かれ板垣退助が器量を惜んで朝臣しろ朝臣しろと勧めたけれ ど、我れ死するを欲して生くるを欲せずと言い、|従容《しようよう》として荒川で斬られた。死に際の見事さ、 当時甲府でも大評判だった。勝沼の関門を破った西軍は三手に別れてひたひたと柏尾へ迫った、 本道を進んだのは谷干城の手で、片岡健吉は川を渡って向うの山の際を進み、他に一隊薬師堂の 後の山へ登って横から胸壁へ突入しようとした。ところがどうした間違いか胸壁を守っていた東 軍の方に大砲の打ち方を知ってたものがなかった。おじい様もよもや敵がそう早く来ようとは思 わなかったので、大砲のことなぞ詳しくは申し残さず、ただもし敵が見えたら散弾を打て、ここ では榴弾を打ってはならぬと一冒っておいたのを、打つ者が散弾と榴弾の区別を知らなかったばか りでなく、口火を切らずに打ったので、丸はみんな前の山へすぼりすぽりと打ち込まれ破裂も何 もしなかった。だから敵も初めは大砲を見て無碍には進んで来たかったが、役に立たぬと見たの でドンドン進んで来て、|反対《あべこべ》に大砲を打ちかけた。それでも東軍は新撰組の名を惜んで一歩も胸 壁を退こうとしない、大砲に対する小銃でやや一ト時戦った。川を渡って片岡の隊に向った者ど もは銃をも捨てて刀を抜いて戦った、その時片岡は被っていた陣笠を二た太刀まで切られたとい うことだ。  ところが悲しいことに人数が少ない。薬師堂の後へ廻った一隊が山の上から釣瓶落しに打ちか けて来たが、その方へ向けるべき人がない、ぐずぐずしていると後を断ち切られる恐れがあった ので、胸壁を引き上げて駒飼まで退いた。すると戦というものはどこでも同じもので一度逃げ足 になると容易に留まることのできるものでない。とうとう駒飼をも引き上げ、笹子をも越し、ば らばらになって江戸へ帰った。敵も長追いせず一トまず甲府へ引き返した。この時東軍の方では 戦死したのが五六人、生捕られたのは大崎一人だったが、西軍の方には二三十人の戦死があった、 因州の小隊長も一人やられた。 駿河へ落ち延び大宮在へ潜伏  おじい様は|御代咲《みよさき》村で一日ゆっくり休んだ。|曾祖母《おぱあ》さん初め親戚・門弟なぞはどんなことをし てでも匿まうからこのままここに留まっておれど勧めたが、隊の者のことも気にかかる、戦も味 方が全然負けてしまったのではない、それにその時にはまだ勝さんと西郷と馴れ合って江戸城明 渡しの大芝居をしようなぞとは思いも設けなかったので、どうしてもモ一度江戸へ帰らねばなら ぬ、帰ってそして今度は箱根だ、箱根でぜひ一戦しなければならぬと思うて、急に服装を変えて 百姓姿になり、大小は莚に包んで天秤棒で担いで、夜に乗じて御代咲村を逃れた。黒駒の博徒の 中から心ききたるものが一人送って市川まで来てくれた。市川でちょうどさきに勝沼まで内応に 来た柴田の家族が縛られて通るのに行き遭った。東海道進発の西軍が戦争ありと聞いてぞくぞく 富士川を上って来るのにも遭った。大丈夫だとは思ってもこっちは落武者の悲しさ、路傍の石地 蔵にも心が置かれて昼は安心して道を行くことができたい、富士川を船で下れば造作もないのだ が、それも危険に思われたので、岩間から|本栖《もとす》湖と|精進《しんじ》湖の間を抜け割石峠を越して駿河の大宮 へ出た。  大宮で訊いてみると西軍は既に箱根を越してしまった。これでは箱根の一戦ももう間に合わぬ、 やむを得ずしばらくそのへんに身を潜めることにして、先に御代咲を脱出する時貰って来た黒駒 の親分から大宮の親分へ宛てた添書を持って行って、そこの厄介になった。その時ちょうど総督 府が大宮を通った、おじい様は行列を見ると蹟に触ってたまらない、前後の考えもなく斬り込も うとして出かけて行ったら、親分が後から追いかけて来て引き留めた。しかしどうも江戸のこと が気にかかってならぬ、どうにかして江戸まで行こうといろいろ手だてを講じているとその都度 親分に引き留められた。そのうちに江戸城いよいよ明渡しになったという知らせが来る、慶喜公 は水戸へ行って謹慎しているという知らせが来る。死生をともにすべく誓約した近藤勇がむざむ ざ流山で捕えられ板橋で斬られたという知らせが来る。この近藤が斬られたということを聞いて おじい様すっかり悲観してしまった。我がこと|畢《おわ》れり、もはや何とも仕|方《ナ》がない、|存《ながら》えて薩長の 奴輩に辱められんより死んで同志と|黄泉《こうせん》に会するにしかずと深くも観念して、ある日さり気なき 体で親分のところを出で富士の裾野へ行ってそこでいよいよ自殺と決心した。|遺書《かきおき》なぞというこ とはその当時あまり|流行《はや》らなかったので肌儒神を脱いでそれへ矢立の墨で、   結城有無之助此処に死す行年廿四歳 と書いて腹掻き切ろうとした。それをどうしてまた思い返して中止したのか、おじい様御自身で も訳が分らぬとおっしゃってだった。ただふらふらと死ぬ気になり、またふらふらと止めにした ものと見える、そして何喰わぬ顔して帰って来たところ、後日になって肌儒神を見られてひどく 親分に叱られたとお話しになったことがあった。  そうこうしているうちに慶喜公はいよいよ隠居、田安亀之助が宗家を嗣ぐことにたり、次いで 五月徳川家の処分が定まって八百万石が七十万石になり静岡ヘ移封ということになった、幕府の 陸軍局は全部沼津へ移り、奥州白河十万石の分家阿部邦之助が沼津奉行にたってそれを総轄する ことになった。そして従前朝廷に敵対したものといえどもこの際悔悟自首するにおいては、既往 は答めず寛大の処分をするというお達しが出た。鳥羽・伏見の勇士はもとより、その後四散して いた新撰組の人々もおいおい自首して御処分を仰ぎ出した。そしてそれらの人々は大概阿部さん の手へ引き渡され、沼津において謹慎を命ずということになった。京都以来おじい様ともっとも 親密の交際をしていた南一郎という人も江戸で自首して沼津へ送られて来た。謹慎といっても別 に閉門たぞしているのでなく、自由に沼津の城下へ下宿して陸軍局の賄いを受けていたのだ。こ の南がおじい様の大宮にいることを聞き出して早速尋ねて来た。そしてそんなことをしていてど                   ぱくあうち うするつもりだと言う、おじい様はおれは博徒になるつもりだと言う、博徒もおもしろかろうが まアおれの方へ来い、新撰組の同盟も大分来ている、一緒に集っていたらまたおもしろいことも あるだろう、お前がどうしても来ないというなら、おれは謹慎を破ってここへ転げ込まねばなら ぬ、それよりまアおれの言うことを聴けよと熱心に勧めたので、おじい様もなるほど以前同盟の 者が一緒に集っていたら、また一芝居打てるだろうと思って、南に従いて沼津へ行き型のごとく 自首して型のごとく謹慎仰せつけられ、南と一緒に杉本という家へ下宿することにした。この杉 本というのはその後も宿屋として永く繁昌していた、お父さんが子供の時、おじい様に連れられ て一度尋ねて行ったことがあった、おかみさんだか女中頭だか、何でもお婆さんの人が出て来!-、、 おじい様の素っばぬきをはじめたので、その時分基督教の伝道をしていたおじい様ヒドク恐縮し て逃げ出しておしまいになったことがあった。 明治初年 江原先生と沼津の兵学校  これより先、水戸に謹慎していた慶喜公は銚子から船へ乗って七月二十三日清水港上陸、ただ ちに静岡の宝台院へ入った。亀之助改め家達公も八月十九日江戸を発して静岡ヘ移った。旧幕臣 中ある者は朝臣して新政府の役人となり、ある者は小栗上野介のごとく帰農してその縁故縁故の 田舎へ引き込んだが、一どうしても主家の先途を見届けるという連中が二万人の余あった。それを ことごとく静岡へ収容することはできない、できるだけ駿遠各所へ散住せしめ、それでもなお余 った連中を島田、金谷へ一纏めにして開墾を始めさせた。今井信郎なぞはこの開墾組の方へ廻わ されたのだ。お父さん若い時あの辺を旅行して、路に侍む粗野なる百姓が明快なる江戸弁で挨拶 し合ってるのを聴いて少なからず驚いたことがあったが、彼らは皆こうしてここに落着いた開墾 組の児孫なのだ。  開墾組は多く家族を有している人たちで、若い連中は大概沼津へ集った。二三千人にも余った のでここに学校を設立する相談が始まった。当時徳川家の重役は平岡丹波、勝安房、大久保一翁、 浅野|美作《みまさか》、服部筑前、山岡鉄太郎などという人たちで、ちょうど朝廷から静岡藩で三千人の歩兵 を持えろ、そのために十八万円やるという話があったので、その金で急に学校を建てることに決 し、少参事阿部邦之助と同江原鋳三郎とにその取扱いを命じた。  江原|鋳三郎《いさぶろう》というのが麻布中学の江原先生のことだ。江原先生の家は元来御目見得以上の旗本 だったけれど、極めて貧乏で役高僅かに四十俵の収入よりほかなかったので、先生は小さい時か ら小遣稼ぎの内職に従事し、やがて横浜の番兵に雇われた。この番兵が縁となって先生は洋式調 練を学ぶこととなり、めきめき進んでいってついに十四代将軍長州征伐御進発の際には講武所の 砲術教授として一中隊率いて大阪へ行き、鳥羽・伏見の戦いには歩兵指図役頭取として銃火の|街《ちまた》 に立った。その後常総の野に転戦し、弾丸が腿を貫通したので自分で藁を通してゴシゴシ洗った とか、敵の隊長と組打ちして下になったところを味方の兵が飛んで来てどう間違えたものか自分 を銃の台尻で撲り殺そうとしたとか、数々の逸話があるのだが、それはお父さんが去年こさえた 『江原素六先生伝』に詳しく書いておいた。  さて江原先生は学校設立のことを命令されるやその時、|和蘭《オランノ》から帰朝したばかりの西周助、赤 松大三郎らを教授とし、万事洋式に|則《のつと》り元年十一月兵学校並びに附属小学校を開校した。これが 日本で初めての文明的学校組織だった。赤松大三郎というのは後の海軍中将男爵赤松則良のこと で、文久二年榎本釜次郎らとともに幕府から特に選ばれ和蘭に留学した人だ。  兵学校の方は西周助(後の男爵西周)が頭取で、赤松大三郎、大築保太郎(尚志)、乙骨太郎乙、 山内文次郎(勝明、後に宮内書記官とたる)、黒田久馬介(久孝男爵陸軍中将)、中逸根郎(淑)などと いう人が教授。小学校の方は蓮池新十郎が校長で同氏が鹿児島藩ヘ招聰された後は中根逸郎の兼 任になっていた。小学校の学科は素読、語学、算術、地理、体操、講釈聴問の六科で、ほかに剣 術と水練をも教えた。生徒は朝飯前馬に乗せられ、午後一時まで学課を学び、それが終ると全校 の生徒が同時に体操場へ出て練兵をする、なかなか規律の正しいものだった。入学年齢に制限な く、月謝は二朱で、一学期を一級とし、三年で卒業する、卒業生は兵学校へ入るという仕組みだ った。しかし最初はそう正則にする訳にもゆかなかったのでよい加減に組を別けて授業を開始し た。それで兵学校生徒の中には古川宣誉(陸軍中将)、矢吹秀一(陸軍中将男爵)、村田惇(陸軍中将 男爵)、向田慎吉(海軍中将男爵)などという人があった。小学校の方には佐々木慎思郎、永峰秀樹、 鈴木知言、|三田倍《さんたきつ》、塚原靖、島田三郎、石橋|絢彦《あやひこ》、田口卯吉、浅川|広湖《ひろみ》、新家孝正、渡瀬寅次郎 などという人がいた。  おじい様は沼津へ来てつらつら天下の大勢を察し、これはもう戦はないわい、世の中はおいお い洋式になるに違いないと思ったので、翻然として志を立て、節を屈して小学校へ入った。おじ い様だけの身分と経歴を持っていれば、立派に役人にもなれるし、学校へ入るにしてもだまって 兵学校の方へ入ることができたのだが、自分の今まで学んで来たものは一つとして本筋でない、 今度は一つ本筋に勉強しようと思ってわざと小学校へ入った。しかし素読だとか地理だとかいう ものは既にその必要がなかったのでもっばら算術と語学を勉強した。後年おじい様が変な算用数 字を書いて時々お父さんの学課の復習をして下さるのを、知らぬ人は不思議に思って見ていたが、 何、おじい様この時一年ばかりの間に開平開立までお上げになったのだ。塚本桓輔著『筆算訓蒙』 というおじい様のお使いになった教科書も、お父さんが中学へ行く頃まで本箱の中にあった。  おじい様は一方小学校でこうして勉強すると同時に、赤松さんのところへ行っていろいろ泰西 の新知識の講釈を聴いた。そして一々筆記しておいた。そのうちでも牧畜に関することはよほど おじい様の興味を引いたとみえ、「赤松先生牧牛秘書」として薄葉ヘ一字一字鄭寧に浄書し、一 子相伝のこととまで書き添えてあった、今になってみれば博文館の本にもザラに出ていることな のだが当時にあってはまったく驚異に値する研究だったのだろう。もっともこの赤松さんの牧畜 談に捕えられたのはおじい様ばかりでなく、江原先生もすっかりかぶれてしまって、講釈を実地 に試むべく横浜へ行って英人に頼んで純粋の洋牛を一頭取り寄せて貰った、そしてそれを伊豆牛 にかけ合せて雑種を作り、学校の金を流用して牛屋を始めた、うまくゆきそうだったが朝廷から のお叱りで中止した。そんなこんなでおじい様江原先生とは大分お近しくして加られた。その縁 故でお父さんも江原先生の御厄介になることになり、そのまた縁故で今度は慎太郎や雄次郎が麻 布中学へ入ることになったのだ。おじい様も筋からいえば江原先生の弟子なのだから通計すれば 父子三代江原先生の教えを受けた訳だ。  小学校でのおじい様の親友は鈴木知言とその弟の島田三郎で、これは死ぬまで親密の交際を続 けておられたが、学校以外ではやはり南一郎が一番の莫逆であった。ところがその南がある時何 かの行き違いで沼津の町外れで殺された。今南さんが斬り合いしていますと告げに来たものがあ ったのでおじい様すぐ駆けつけておいでになったら、もう遅かった、南は発れていて、相手は逃 げてしまった。仕方がないから千本松原のさるお寺へ埋葬して石碑一本建てておいたとかねてお じい様に伺ったので、沼津へ行ったら探してみようと思っていてつい忘れてしまった。ところが 先年、長田幹彦君と一緒に修善寺へ行って帰りに沼津へ廻ったことがある。長田君が千本松原へ 行ってみましょう、あすこには私が書生時分兄貴と一緒にしばらく滞在していた|長谷寺《ちようこくじ》という寺 がある、どんなになってるか行ってみましょうと言うから、後へ随いてブラブラ行くと、長田君 「ああここだ、この部屋に僕らがいたのだ、庭も少しも変らない、記念に一つ写真を撮りましょ う、あなた一つそこへ立って下さい」ととある石碑を指さすので、そのままそこへ行って撮して 貰ってからふとその石碑を見ると、「元同盟結城無二三」という字がある、はっと思って前ヘ廻 わると果して「南一郎之墓」としてある。ぞっとしてびっくりした、何だかおじい様がそこにい らっしゃって、平素の温顔で「ほれこれがいつか話した南の墓さ」とおっしゃってでもいるよう な気がして|撫抱《ぷほう》抵個|少時《しばし》そこを去ることができなかった。 沼津時代のおじい様の一挿話  沼津時代にもおじい様はかなり御酒を召し上ったそうだ。したがって居常快潤、やや豪放の嫌 いはあったが若い人たちにはひどく人望があり、町の顔役も何か事があると結城さん結城さんと いって集って来た。それである時顔役連に頼まれ御城内の|狢《むじな》退治に行って狢に化かされたなぞと いうお話もあるが、それよりもこの時分の一挿話としてちょっとおもしろいのは勝さんのところ へ行って叱られた話だ。勝さん箆去の際おじい様から伺って『国民新聞』へ出したことがある。 おおよそは左の通り。 「私が初めて勝先生にお目にかかったのは明治二年の正月です、その時ちょうど私は謹慎御免で 沼津勤番組仰付けられ阿部邦之助の手に付いておりましたが、その前年これもやはり新撰組の浪 土で函館で降伏ししばらく陸中盛岡に謹慎を命ぜられておった、石川、福井、早川と申す者が放 免になったからというので、阿部さんを頼って沼津へ出かけてまいりました。それで阿部さんが いろいろ周旋して三人とも勤番組仰付げられることになったのですが、早川は放免の際大小お取 り上げ、沼津へ来てもまだ丸腰でしたから阿部さんが勤番組の組長から大小を借りてやり、まア どうかこうか藩士の列へ入ったのです。ところが間もなく早川、福井の両名は徳川家の禄制に不 平を抱き、その年の九月の末に江戸へ脱走したので、さア阿部さんは同僚の手前、ことには大小 の貸主に申し訳けがない、ひそかに私と石川、南の両名を呼び、彼らは予が厚意を忘却するのみ ならずお家に対して不忠の輩故召し捕って重き刑罰に処すべきであるが、事を表向きにしてはま た種々の|差障《さしさわ》りもある、足下ら三名密々江戸へ立ち越しきっと両名の首級を携えて帰るように、 ことに早川の帯している大小は組長からの借物故併せて持って帰れとのお頼みでした。そこで私 ども三名は若干の路用を受け取って即日沼津を出発し、大急ぎで江戸表へ着しましたが、当時は 政府から諸国の武士出府の節は必ず藩主より印鑑を付与し着府の上宿主を経て町役場へ差し出す べしとの御制規でしたので、折角着きは着いたものの密々の上京故宿泊致すことができません。 やむを得ずその夜は品川まで引き返し、翌日私の知人を尋ねてそこへともかく潜伏することにた りましたが、広い江戸故どこにいるのか皆目分りませぬ、空しく十四五日を送ります内、ふと本 所で六千石を拝領していた旗本が参謀方の許しを得て盛んに浪士を募集しているということを聞 き出し、探ってみると果してそのうちに早川、福井の両名がおりましたので、即座に打ち入ろう とは思いましたが、向うの用心なかなか堅固で、とても三人ぐらいの力では門さえ破ることもで きませず、表へ出たところをと一生懸命につけ狙いましたが、彼らも一人で他出することなく、 薄々私どもが沼津から来たことを知っているようで、いつも十数人一かたまりにたって出ますか ら、これではとても急速に打ち取ることはできまい、まアゆるゆるつけ狙うことにしよう、それ にしてももう路用が手薄になったからというので、南と石川はひとまず沼津へ帰ることとし、私 だけでやッつけようとそれから毎日毎日本所辺をぶらついていましたが、どうも好い時機がなく て困っている、その歳も暮れだんだん懐中が淋しくなり、沼津へそういってやればいいものの、 まだ大小さえ手に入れないのでそれもできず、仕方なしに勝先生へお願い申そうと思って、青山 紀州邸内のお屋敷へまいりました。当時先生はこういう手合の一手請負問屋だったのです。 「名刺へ『旧新撰組当時沼津勤番組結城無二三』と認めて面謁相願いたき旨申し入れますと、造 作もなくお許しですぐ居間へ案内されました。そこで私は初対面の挨拶をしようと思って丁寧に 頭を下げますと、案外にも先生は、なあんしに来た、静岡藩は公用人の許しがなくて出府できぬ はずだ、お前は許しを受けて来たのかい、おれはまだそんな通知を受け取らぬよ、それにお前の 名札を見ると旧新撰組と書いてあるが、全体近藤だの土方だのという大馬鹿者があってワイワ何 騒ぎ散らしたので徳川家はとんだ迷惑をしたのだ、お前たんぞもやっばり大馬鹿者の手について 騒いでいたのだから今でもどんな馬鹿なことをやらかすかしれぬ、早く沼津へお帰り、お前なん ぞが江戸表に用のあろうはずがない、それとも何か用があるか、とおっしゃったので、私も少し むづとして、さよう、今回の出府は私事に似て私事ではございませぬ、実は阿部氏よりかくかく の内命で早川、福井の首を取るためにまいったのでござりますと、言いも終らぬうちに、阜、れ見 たことか、阿呆だ、阿部が首を取って来いと言うのは表向きだ、それが分らぬか、だからお前は 阿呆だと言うのだ、早く沼津へお帰り、江戸にはな兵隊がいるよ兵隊が、よし早川の首を坂った ところでお前もすぐ加召捕りだ、そうすればさしずめ迷惑するのはこのおれだ、お前なんかの命 は安っぽいから失くなろうがどうなろうが構わぬが、おれが困る、おればかりではない中将様が 御迷惑なさるぞそのくらいのことが分らぬか、と頭から馬鹿呼ばわりです。勝先生の毒口はなか なか有名なものでしたから、あらかじめ覚悟はしていましたが、これはまたあまり甚しいので私 も十分立腹して、それなら御免蒙りますと言うて、ついと立とうとしましたら、先生急に呼びと めて帰るなら飯でも食って行けとのことでしたが、私も血気盛りのこと、ことには必ず書生と一 緒に粗末な物を喰わせられることと思いましたから、イヤ先生私窮しておりますがまだ中食の代 ぐらいはござります、と申しますと、まア喰って行けと言ったら喰って行け、とおっしゃってす ぐに奥様をお呼びになり、書生と一緒と思いのほか結構な膳部を二人前とほかに|肴二品《さかかふたしな》酒一本を 女中に言い付けてその座へ運ばせ、若い者が大酒するは悪い少し飲め、とおっしゃる。けれども こっちは気が立っている時のことでしたから、小さくては面倒、これで頂戴と言いながら茶碗で 三本瞬くひまに呑み干し、先生がもうよい加減にしろと言うにも構わず、奥様に御無心申してと うとう五本やってのけ、それから食事をすまし礼を述べて帰ろうとしましたら、お前おれのとこ ろへ来たのは金がたくたったからだろう、と図星をさされました。さよう、実はその用向きにて 参上致しましたがただいまのお叱りでもう御無心申すもいやになりましたと申しますと、馬鹿、 そんなこといわずこれを持って行け、とおっしゃっていつの間に用意したのか、封筒へいくらか 入れたのをお渡し下さいました。 「私はたって辞退しましたが、お許しがないので、そのまま懐中して席を起ちますと、先生わざ わざ玄関まで送って下さって、私の門を出ようとするのをまた呼びとめて、ちょっと待てここへ 来い、とのこと故立ち帰りますと、おれの言うことが分ったか、阿部の心の裏を行け、血気に逸 るな、それでよし、とおっしゃいました。私も終りの一言が心にこたえ宿へ帰って封筒を開けま すと二十金ありました。それでどうしたらよいのか、阿部さんの心の裏を行くというのはと思い、 二三日考えました末、これは何でも殺伐な挙動がなくてそれで阿部さんの顔の立つようにしなけ ればならぬ、それにはこうするよりほかあるまいと思って、その翌日公然福井、早川両人の屯集 所へまいり、表門から面会を求めました、勿論まかり間違ったら斬りかけられるくらいのことは 承知の上で、両名に会って詳しく事情を話しましたところ、両名もただちに納得して早川は即座 に腰にしていた大小を差し出しましたから、私も先生から頂いた金を早川に遣わし、すぐさま沼 津へ立ち帰って早川はもう死去致しました故刀だけ友人の手から受け取ってまいりましたと申し ましたら、阿部さんも満足され私も面目を施しました。 「ちょうどその次の年勝先生が折よく静岡へお出でなさったので、早速伺いましたところ、どう だ結城、去年のことは分ったか、お前の命はおれがやったのだぞ、あの時無暗たことをしてみろ、 お前の体は今頃腐っていたに違いないとおっしゃいましたが、実際そうだったのです」  お父さんが初めて新聞記者になった時、勝さんのところへ伺ったら、やはりのっけに「なアん しに来た、馬鹿」と喰わされたが、「なに、結城の伜か、お前の親爺も大馬鹿者だったが」とお っしゃって、ひどく懐しがって下さった。おじい様が江原先生の学校へお入りになったのはこの 挿話があってから後のことだ。 大小切騒動でまた甲州へ帰る  おじい様は二十六歳二十七歳と沼津においでたさった、明治三年四年の間だ。ちょいちょい東 京へお出にたったが大部分は沼津で学校へ通って一生懸命新しい学問を勉強しておいでだった。 すると五年の春になって山岡さんや勝さんのお世話でおじい様に牧牛をやらせるという話がはじ まった。おじい様自身からお願いになったのか、それとも赤松先生あたりが発意なされたのか分 らないが、とにかく伊豆の大島全部をやるからあすこへ行って牛を飼え、これも御奉公の一つだ という話だった。その当時は帰農勧業ということが大流行で、士族の子女が我れから進んで活版 職工になったり製糸工女になったり、そしてそれを非常の名誉と心得ていた時代だったので、お じい様もすっかりその気にたり、沼津の方を引き払って東京ヘ出て種牛を仕入れ、御自身宰領な さって伊豆の伊東までお出かけになった。その時突然甲州で大小切騒動が暴発したということを お聞きになった。そうすると沼津以来すっかり押えつけられていた謀反の虫がまた急に頭を鷹げ、 もう帰農勧業どころではない、一番その暴動を指揮して、あわよくば天下を引っくり反してやれ と思って、牛も何も放りばなしにしておき、夜を日に次いで甲州へお帰りになった。「牛の野郎 いきなり置いてけぼりにされてさぞ困ったろう、しかし人間と違ってあいつら|餓《かつ》え死することは ないから、今頃はきっと孫や|曾孫《ひこまご》がうじやうじゃできてるに違いない、お前大きくなったら一度 伊東へ行ってみるがいい、沢山の牛の中でもし一際すぐれて年を取って、こう髭を長くしていた ら(とおっしゃりながら御自分の長いお髭をおしごきになって)それはおれが置いてけぽりにし た牛だ、よろしく言っておくれ」と晩年お父さんに対って|御戯談《ごじようだん》をおっしやったことがあった。  大小切騒動というのは武田信玄以来甲州だけに行われていた独特の税法を、明治政府になって 一律に廃止したため農民が怒って暴動を起したので、その顛末を知るためにはまず昔の禄制とそ れから信玄制定の特別税法とを説明する必要がある。  昔は今のように所得税とか営業税とかいうものはなかった。少しの除外例のほか租税はみんな 田地へかかっていった。それでまず田地を検査して石高を定める。ここは一万石だとかかしこは 十万石だとかいってその田地から上る一年の収穫高を定める。次にその収穫高のうち幾らお殿様 が取って幾ら百姓が取るかという割合を定める。この割合の定め方が以前はかなり乱暴で五公五 民とか六公四民とか、甚しきに至っては七公三民なぞということもあったのだが、徳川時代にな っては万石万俵ということが常例になった。すなわち一万石の大名は三斗五升一俵としてガ俵す なわち三千五百石を租税として取り立てるのである。武田信玄時代の甲州は五公五民ぐらいの割 合になっていたが1他の諸国はもっと重かったのだi一方民力を休養する趣意から、一方ま た軍資を調達する必要から年貢米の一部を割引して金で前納させる税制を立てた。すなわち年貢 米の三分の一を金で納めさせる、当時一両に五石の相場だったのを四石一斗四升替えにして毎年 九月まだ米の取れない時に金納させこれを小切と称した。それからさらにまた残りの年貢米の三 分の一を十月になってから時の相場で金納させこれを大切と称した。そしてそのまた残り全部を 正米で納めさせることにした。ところがこの正米納めは手数がかかって大変だというので、徳川 時代になってから江戸浅草の蔵前値段で金納させることにした。これが御維新の際まで続いた甲 州独特の税法だったのである。  なお実際について説明してみると、ここに一年四百二十石の収穫のある村があると仮定する。 その年貢は五公五民だから二百十石になる。その内の三分の一すなわち七十石は一円につき四石 一斗四升替えで金納する、この金高十六円九十銭でこれが小切りだ。残り百四十石の三分の一す なわち四十七石は時の相場(甲州の相場でかりに一石四円とする)で金納する、この金高百八十八円 でこれが大切りだ。残りの九十三石は蔵前相場(かりに一石五円とする)で金納する、この金高四 百六十五円で、以上を合計すると税金六百六十九円九十銭だ。  ところが明治政府になってこれを廃止した。それでもし甲州相場に換算して納めることとする と八百四十円となって新たに百七十円増税されることになる、もしまた蔵前相場で納めることに すると千五十円になって驚くべし三百五十円の増税になる訳だ。信玄自身|花押《かおう》をもって、永世変 るべからずと定め、徳川幕府またそれを尊重して今日まで踏襲してきたものを、一朝にして廃止 ししかもそれが右いう通り非常の増税になるのだから、たださえ|標桿《ひようかん》なる甲州人、一時に起って その不法を鳴らし出した。もっとも大小切の税法廃止は必ずしも増税になるのではない。新法を 施行してみなければ比較は取れぬが、決して現在の租額二十九万九千九百円を超過させるような ことはしないと、県令土肥|実匡《さねたた》が力を極めて説明したが、いきり立った甲州人の耳には少しも入 らぬ。第一他国人の癖に我が甲州を支配しようというのが績だ、県令が何だ、土肥が何だという ので、明治五年八月二十三日、九十七ヵ村一万有余の人民が竹槍薦旗で、東西並び起って中府へ 押し寄せて来た。  狼狽したのは県庁の役人連だ。警官だけではとても防ぎ切れないと見て、急に旧士族の二三男 まで召集し、八日町見附へ大砲三門を備えつけて脅しにかかった。しかしこっちは信玄以来負け じ魂の甲州人だ。ことにこの五六十年長脇差の本場になっていて、死ぬことぐらい何とも思って いない連中だ。大砲を見たって少しも驚かぬ、打つなら打ってみろと言って向う見ずに進んで来 たので、かえって大砲方へ廻った役人の方がおじけづいて、弾も込めずに退いてしまった。一揆 はざまア見ろと関の声を上げてたちまち八日町見附を押し破り紅梅町の角まで進んで来た。山田 町見附も見る見る押され、南の方相生町の方も破れた。県令、これを見てとてもだめだ、ぐずぐ ずしていると皆殺しになると思って、急いで各見附見附へ「願の趣聞届候間書面差出す可き事」 と、大障子へ大書して掲示した。これを見た一揆の面々は、もともと何人がこれを統率している 訳でもなく、したがって右掲示に対して役人どもになんら応対を試みるものもなく、願いが聞か れりゃア騒ぐことはないと、翌二十四日の朝から、てんでんばらばら各自の居村へ引き揚げて行 った。そのうち少し知恵の足りない連中が、これでは何だかあっ気ない、振り上げた拳のやり場 所がない、何でもいいから一つぽかんとやってみたいものだと思ってる矢先にふと眼にとまった のが山田町の若尾だ、|西郡《にしごおり》の水呑百姓の癖に横浜で少しばかり儲けやがったといってこの屋敷の 有様は何事だ、痛にさわる奴だからやッつけてしまえと、一人が言い出すと我も我も、おもしろ 半分若尾へ乱入して、思う存分打ち穀しをやった。そしてよい心持になって三々伍々里垣村まで 引き上げてくると、これはまたいかなこと、村の要所要所に県庁の役人が手槍抜刀で待ち受けて いた。  大障子の掲示一件で味噌をつけた県令が、後日中央政府から答められた時の申し訳けのために、 多数の暴徒の引き上げてしまった後、「急にまたあれだけの人数が押し寄せて来る気遣いもなし、 来たところで今度は本当に大砲を打っ放せばいい、誰も打たなければおれが打つ、そのうちには 東京から鎮台が来る」と言って尻込みする役人を鞭捷して里垣村ヘ出張させ、若尾から引き上げ て来た連中を不意打ちしたのだ。連中びっくりして狼狽していると片っ端から引っくくられた。 少し抵抗した奴はみんな斬られた。対手が弱いと見るとたちまち強くなるのが役人の常だ。いつ の時代でもこればっかりは変りがない。  一揆はこれで済んでしまった。甚だ簡単に済んでしまったのだが、東京での評判は大変なもの だった。甲州一円もはや収拾すべからざる状態にあるものと報告された。それで急遽東京鎮台か ら一大隊出動して昼夜兼行で甲府へ入った。おじい様も今度こそはモノにたるとお思いになって、 牛も大島も放り出して甲州へお帰りになったのだ。ところが帰ってみるともうどこにも暴動の影 もない。鵬風一過して、国中甚だ静穏だ、暴徒の巨魁と目された小沢留兵衛、島田富十郎ほか十 数人が召捕りになったという噂だけ。そのうちに小沢と島田が絞罪にたる、余はことごとく軽い 流罪でことが落着した。おじい様の手持無沙汰ったらありゃアしない。  おじい様のお考えでは甲州人は標梶だから|謀反《むほん》を起させるにはもっとも適しているが、首領が なくては戦ができぬ、それに武器のほども心許ない、おれが乗り込めば首領になれる、イヤ必ず たって見せる、そして武器としてまず大砲を造る、火薬は市川の花火師に命じて供給させる、そ の大砲を笹子と|御坂《みさか》の天険へ据えつけてまず半月か一月鎮台兵を|拒《ふせ》いでいれば、会津・函館打ち 漏らされの勇士がきっと来り加わって、ことによったら天下を引っくり返すこともできようと思 っておいでだったのだ。県庁や県令なぞは勿論眼中にはなかった。  ところがそれがあまりにあっ気なく終熔したのでおじい様すっかり力を落しておしまいになっ た。おれのすることはなぜこう外れてばかりいるのだろう、おれには運というものがないのかし らとひどく悲観なさって、梢然として一町田中の|曾祖母《おぱあ》様のところへお帰りになった。曾祖母様 は優しい方だった、息子がいつも危ない芝居ばかりしているのを見て始終はらはらしておいでだ った、私には出世も手柄も何にも要はない、ただ息子が落ついていてくれさえすればいいと常々 お思いになってたので、今度という今度おじい様が今までになくしょげているのを見てもうもう どこへもやらぬ、ぜひ自分の側へ落つかせると御決心なさった。そして涙を流しておじい様をお 口説きになった。おじい様も内心甚だ|寂蓼《せきりよう》を感じていた際だったのでとにもかくにもと曾祖母様 の御意志にお従いなさった。 前田長左衛門の女を要る  お年寄のお悦びは一通りでなかった。親類縁者も非常に悦んで、今日も歓迎明日も歓迎、とう とう歓迎歓迎でその年も暮れてしまった。その時分、士族が帰農を願い出る時は、望みの地方で 相当の官有地を無償払い下げる規定があった。おじい様の親類縁者は折角こうしたうまい御規則 があるのに払下げを願わぬというのは損の話だ。また謀反するなら謀反する時のこと、役人にな りたければなってもよし、なるのに別に士族でなければならぬという御規則もないのだから思い 切って帰農して、そして例の無償払下げをお願いなさいと勧めた。おじい様もなるほどとお思い になり、皆さんのよろしきようにと任せておいたら、やがて御代咲村目貫の田を五十俵地と畑五 反だけ払下げになったρ五十俵といえば昔の五十石取りだ、一国一城の主がたった五十石か、お れの値打ちもこうまで安く下がったものかとまたまたひどく悲観なさったが、お年寄のいそいそ 悦んでいられる顔を見ると不平を言う気もなくたり、そのままそこに|曼然《あんぜん》と百姓生活をおはじめ になった。無論お嫁の話はすぐはじめられたけれどそれはモ少し待ってとおっしゃって、毎日毎 日ただお酒ばかり召し上っておいでだった。  お酒を召し上るたびに思い出すのは沼津のお魚のことだ。うまかった、本当にうまかった、一 そう言ってやると、杉本はちょうど魚問屋をもしていたので、よろしゅうござります、これから 引続き生魚をお送り申しましょう、そちらでお捌き下さいと言ってきた。ちょっとした思いつき がついとんだことになっておじい様たちまち魚屋の亭主におなりなされた。こいつは変っててお もしろい、士族の商法も魚屋にまでなれば申し分なしだとおっしゃって、一町田中へ店をお開き にたった。しかし元々の趣意が趣意だったので魚の荷が来ればまず御自分が召し上る、友達を呼 んで御馳走なさる、御老母がまた御老母で、ひどく嬉しがって身内や知り合いへせっせと御馳走 なさるので、いざ勘定となると毎月大した損失だ、こう損をするはずではなかったがと首を傾げ てももう追っつかない、ばかばかしいから|廃《よ》しにしようと、始めるのも早かったが廃めるのも早 い。バタバタ店を畳んでおしまいになった。  魚問屋が縁になって甲府の商人ともお|交際《つきあい》なさるようになった。甲府はちょうど、六年一月土 肥実匡が免官になり大阪府参事藤村紫朗が県令となって来任し盛んに産業奨励をやりはじめたと ころだったので、おじい様も沼津で勉強した新知識を取り出しいろいろ商人連に講釈をして聞か せた。商人連は結城さんは|軍人《いくさにん》だとばかり思っていたら偉いことを知っておいでだ、第一洋算が おできになると言ってことごとくおじい様に推服してしまった。そこでおじい様ある時その連中 を集めて、勧業勧業といったところで今県庁の役人がやってるようなことは勧業にも何にもなら ない、本当に勧業しようと思うなら西洋に博覧会というものがある、銘々がその作り上げた品を 持ち寄って競べ合せをし多くの人にも見て貰って励みをつけるのだ、これをやらなければ本当の 勧業にはならぬと説いた。一同は驚異の眼を見張り、それは非常におもしろいことだ、ぜひやっ てみましょう、結城さん一つ芯になってやって下さいと頼んだので、おじい様も本当はよくは知 らなかったのだが、沼津での聞きかじりを土台にして、とにかく甲州で初めて1恐らく日本で も初めてだったろうーの博覧会を甲府城内に開いた。明治八年十一月のことで、世話人は岩下 善蔵、坂本政太郎、古屋喜代平、雨宮彦次右衛門、雨宮丈左衛門らだった。甲府市中はおろか甲 州中の評判は大したもので、おじい様の名声また変った方面で隆々と揚ってきた。少しく産業に 志ある士は争っておじい様の門を叩いた、県令自身も親しく面談を申し込んできた。しかしその いずれもよりヨリ優れておじい様に傾倒し、この男ならばと見込みを立てたのは旧甲府勤番の旗 本前田長左衛門という老人だった。  前田はやはり菅公の末畜で梅鉢を常紋にしている、三河御譜代のお旗本で、その先々代は将軍 家の御祐筆まで勤めた家柄だった。ところがその子の代になって遊芸に凝り武芸を疎かにしたと いう廉で小普請入り仰付けられ甲府勤番を命ぜられた、小普請入りというのは今でいうと懲戒処 分で、甲府勤番は手もなく山流しの形だった、しかしこの長左衛門という人は父祖に似気なく武 芸にも秀で文事の嗜みもあった人で、しばしば召されて武術上覧の栄をも得たことがある、御維 新の際勤番の多数は何が何やら少しも分らずただ無暗に狼狽していたにかかわらず、この人ばか りはチャンと大勢を見ぬき終始一貫一意恭順、新政御布告になるや一番先に朝臣した。当時稀に 見る識者だった。この人がおじい様にすっかりまいってしまって、隔意なき往来を続けた後、自 分の末女、ふつつかながら妻に貰ってくれないかと申し出た。おじい様も少し突然で面喰ったが、 女はとにかく前田老人とは一見旧知のごとく肝胆互いに照らし合ったので、それではまアあなた をお貰い申すことにしましょうと言って御承諾なさった。やがて黄道吉日が選ばれ、めでたく華 燭の典が挙げられた。博覧会があった翌年のことだ。縁女名はマヅ、安政二年十月の生れでその 時ちょうど二十一歳、おじい様より十歳下だった。これが去年|角筈《つのはず》でお亡くなりになったお前た ちのおばあ様なのだ。  新婚の夫婦は甲府の桜町に家を持った。そして牛を飼いはじめた。桜町の真中で牛を飼うなん て今ではちょっと想像もつかないことだが、その時分にはそんな空地があの辺に沢山あったもの とみえる。牛を飼ってどうするかというと乳を絞って売るのだ、いかに文明開化の風が全国を吹 き捲くって、政府で産業奨励産業奨励と叫んでいたところで、畜生の乳を人間に飲ませようとい うのは少し早まり過ぎた仕事だった。しかしおじい様は赤松さんの「牧牛秘書」でもうすっかり 牛の通になっていらっしゃる、そして開明になるにはどうしても牛乳を飲まねばならぬと信じ切 っておいでなさったので、売れる売れぬは眼中に置かず、飲めということを宣伝するだけで我が こと足れりとお考えになって、しきりに四方を勧説してお歩きになった。そしてどうにかこうに か信者も増え、毎日の搾取高を多分に捨てなくてもいいほどになったら、突然県庁の勧業課で同 じく牛乳をはじめ出した、これは民業圧迫という種類の訳ではなく、こういう開明の事業を私人 に手を着けられ、県庁で少しも関係しないとあっては政府へ対して面目が立たぬという趣意だっ たのだ。  これを見ておじい様烈火のごとくお怒りになった。今までも随分県庁の役人のするこ、とには腹 の立つことが多かった。薩長を笠にきてかなり暴横を|恣《ほしいまま》にしていた、その薩長が第一おじい様 の気に喰わぬ、それから何かといえば自分たちは勤王のために命を差し出して働いたのだという その勤王が癩に触わる、薩長のどこを叩けば勤王の音が出るのだ、本当の勤王はこっちが本家だ、 彼らは困った時には禁裡へ鉄砲を打ちかけることすら平気でやっていたではたいかというのがお じい様の御持論だった。そして最後に彼らが開明開明を口にするのがけしからぬと思っていられ た。彼らは撰夷の急先鋒じゃないかーおじい様も初めは大橋順蔵の門に遊んで血気に逸った撰 夷党の一人だったが、京都へ行っているうちにその不可能なることを知り、それが原因となって 沼津の兵学校で進んで新教育をお受けになったのだーしかるに彼らはいつその看板を取り替え たとも宣言せず、恥かしくもなく開明屋に早変りした、恥を知れ恥を知れとはおじい様が平素彼 らに対して面罵なさった言葉であった。そういうやつらが寄ってたかって自分を圧迫する、開明 の看板を結城に取られては困るという、まことにもって卑怯千万の理由で自分を圧迫する、甚だ けしからん話だと、今まで押えに押えてきた不平が一時に勃発し、直ちに県令のところへ押しか けて行って激論した上、牛を売って牛小屋を叩き潰して、さっさとまた御代咲の山の中へ引き込 んでおしまいになった。  おじい様はここで深く決心しておしまいになった。自分は敗軍の将である。明治政府に仕えな いまでもその政府の治下にあって何か仕事をしようというのがそもそも間違っていたのだ。もう 何も望むまい、何も企つまい、それが自然だ、自分の執るべき道だ。なまじ世の中へ顔出しして いやな薩長の|践雇《ぱつこ》を見んよりは、しかず山へでも入ってまったく世と絶たんにはとしみじみ御観 念なさって御代咲村へ引退し、ここでもまだ世の中が近い、もっと世離れたところはないものか と、あたり近所をお探しになった末、御代咲の奥の|大積寺《だいしやくじ》という山をお撰みになって、いよいよ そこへお引き移りになった。これがおじい様前半生の終りの幕だ。 神の召命 人里離れた大積寺の山の中  |大積寺《たいしゃくじ》というのは笹子|御坂《みさか》の峰続きで、八代郡一ノ宮から二里、名からして山之神という山村 を通って|樵道《きこりみち》がまた一里、山腹にちょっと平らなところがある、俗に鳥居平といって、そこにそ の昔寛永年中、成田村|九品寺《くぽんじ》の住僧一誉という人の立てた小庵がある。一誉は江戸幡随意上人の 門弟で有識の僧だった。ずっと以前ここに真言宗の大刹があって寮舎千坊、毎年七月十六日の夜 には大文字を焚いて国中を照らしたということを聞いていたし、旧記にはまた往昔国分金光明寺 がここに置かれたともあったので、一宇を草し金光明の|標《しるし》を残して光明寺と称えたのである。し かしもともと人跡絶えたる山中のこととて、一誉が逝いてから誰もこれを守るものなく、荒れは つるに委せてあったところ、御維新後廻国修業の六十六部が一人ふらりとやって来てしばらく寺 に留まっていた。それがほどなく何者にか殺された、殺されても誰も知らぬ、よほどたってから 猟師が発見して、やれ敵討だろうの、いや返り討にあったのだろうのと村ではいろいろ評判した が、来た時を知ってるものもないくらいなので、どこの者とも何者とも分らず、そのまま寺の裏 へ埋めてしまった。それ以来寺には六部の怨念が残ってる。夜になると火の玉が出るといって|樵 夫《しざこり》も近所へは立ち廻わらぬようになった。おじい様はおばあ様止牛二頭を連れてこの廃寺へ入り 住んだのだ。 (後になってから一方大積寺というにかかわらずまた光明寺ともいうのはどうもおかしい。それ に近所に金掘平とか砂坂とかいうところもある。何か昔、金でもあったところではあるまいかと いうのでおじい様が方々お調べになった。不幸にして金を掘った跡だの朱を埋めた跡だのという ものはなかったが、棟木に大永二年云々と書いてあるのを発見した。大永二年といえば足利十二 代義晴の時で、武田信玄の生まれた次の年だ。本当にその時分の建築だとすると、前にいった一 誉上人草創の伝説は怪しくなってくる、あるいは一誉がどこかの寺の古材木を持ってきて建てた のかもしれぬが、それにしては全体の造りが非常にがっしりしていて、どうしても徳川時代の建 築とは受け取れぬ。大仕掛けに付近一帯を発掘でもしてみたなら、何かおもしろい発見があるか もしれぬ。とにかく不思議な草庵だ。現在でも骨組みだけは昔のままで残っている)  おじい様はここに落着いて一生世の中へは出ておいでにならぬおつもりだった。その頃国中で は|武士《おさむらい》さんが大積寺の山へ入って仙人になる修業をしていると評判していたそうだ。そして作男 を一人雇ってまず堂へ手入れをして辛うじて膝を容るるだけの畳を敷き、炊嚢するため形ばかり の台所を造り、牛だけには何も知らぬかわいそうだとあって一番立派な小屋を造ってやった。水 は幸いに堂の裏から清例なのが|猿《こんこん》々として湧出する、米も味噌も当分は不自由なし、やれやれこ れでおれの新生涯が始まるのだと、手足を伸び伸びさせてお寛ぎになった。一つ困ったのは里か ら伴れてきた猫で、鼠がいないから食う物がない、毎日毎日|鰹節《かつぶし》ばかりに飽きたとみえて、裏の 山へ行って兎を獲りはじめた。ばかた兎もあったもので、その後は日に一疋必らず猫に獲られて くる、猫もそうそうは食い切れたいのでお余りをおじい様が頂戴する、時折は雑子も交ることが あって、山家の佗住居にとんだ御馳走ができたそうだ。お父さんはここで生れたのだ。  お父さんが生れた時に何でも狐がコンコンと二声鳴いた「こかいうことで、里の|曾《おば》祖|母《あ》様はひど く縁起がいいといってお悦びなされた。おじい様はまた今にこいつ足柄山の金太郎になる、熊と 相撲でも取るかなと御戯談おっしゃってたそうだが、あいにく熊が出てこないので牛をお友達に して育った。少しむずかって泣き出すとおじい様が抱いて牛小屋へ連れて行って下さる。ソーレ とおっしゃってお父さんの小さい足を牛の鼻先へ突きつけると、牛が長い舌を出してペロペロ舐 める、そうするとお父さんすぐ泣きやんで上機嫌になったそうだ。牛に舐められて大きくなった なんていささかお父さんの威厳に関する訳だが、実際なんだから仕方がない。  おじい様はここで作男を相手に暇にまかせて寺の廻わりをぽつぼつ開墾なさった。地籍なんて いうこともやかましくなかったから、開墾しただけは自分のものにして、ずうっと後まで勝手に しておいでだった。その後おじい様は不思議なる神の召命で山を下ってまた世の中の人とおたり になる、山は全体が御料地へ編入されることになって、村方からちょっと苦情も出たったが、縁 故が縁故だからというておじい様にほとんど無代同様でお貸下げになり、おじい様はそれを村の 小前の者に又貸しなさって、年いくらかの年貢を取って家計の足しにしていらっしゃった。お父 さんが『国民新聞』にいた時、いつまで拝借でいても詰らないと思って、ちょうど渡辺千秋さん が御料局長をしていたので、渡辺さんにお願いして、開墾地は勿論付近の山林数十町歩を無償払 下げすることにした。ところが村方の中に今払下げなさっては御損です、払下げると租税を納め ねばたりませぬ、それよりむしろ今まで通り|無代《ただ》同様で御料局からお借りになってる方がいいで しょうと言うものがあって、おじい様もたるほどとお思いになって、払下げを中止なさった。と ころがこの村方の忠告というのが実際は裏に裏のあったことで、明治四十五年おじい様がお亡く なりになる、次いで大正二年御料地全体山梨県へ御下付にたって県庁の管轄となるや、村方から 競願してこっちがちょっと油断していたら、いつの間にか村方へ払下げになってしまった。後で それを聴いてお父さんは非常に残念に思って、何も自分はあの土地が欲しいのではない。ただお じい様の一生に忘るべからざる縁故の土地だから、名義だけでもこっちのものにしておいて貰い たい、物成り一切村方へ提供するからと申し出したが、もうその時分だんだんの開墾でかなりの 収益があるようになっていたので、村方でとやこういって渡してくれない。廉造叔父ちゃんがわ ざわざ出かけて行って談判したが将があかず、古屋専蔵さんというおじい様のお友達の仲裁で、 毎年幾らかずつ村方からこっちへ寄こすことにして話は全然打ち切られてしまった。(その幾ら かもそっくりおじい様が御創立なさった日下部教会へ寄付し、教会から今でも村の方へ取りに行 ってる)お前たち大きくなったら一度はぜひここへ連れて行って見せてやろうと思っていたのだ が、もう他人の物になってしまったからどうすることもできない、せめて記念に写真でも撮って おこうと思って、先年玄文社の犬飼さんに頼んでわざわざ行って貰ったが、すっかり様子が変っ て、本堂の座敷なぞ見る影もなくなっていたそうだ。ちょっとの油断からここを失くしてしまっ たのはおじい様に対しまことに済まないことだった。お父さんは二三度行ってみただけだが、廉 造叔父ちゃんや朝章さんは子供の折の大部分をここで送ったのだから、余計愛惜の念が強いこと だろう。廉造叔父ちゃんたちに対してもお父さんはまったく済まない訳なのだ。 明治十二年四月六日受洗  お父さんの生れたのは明治十一年でおじい様三十四の時だった。その年の暮近くになって、開 墾もちょっと手があいたし、雪で道が塞がってしまう前にいろいろ食料も仕入れておかなければ ならないし、それやこれやの用事を兼ねて作男に四五日暇をやって里へ下らせた。するとその夜 からおばあ様が大熱を発して倒れておしまいにたった、おじい様以前が以前で少しは医者の心得 があったので、薬を煎じて飲ませたり、頭を冷やしてやったりしていると、次の日になっておじ い様もまた大熱が発して倒れておしまいになった。ほとんど蒲団を敷くひまもないくらいに急に 熱が出て倒れておしまいになったのだ。おばあ様は昨夜から人事不省で|墜語《うわごと》ばかり言っていらっ しゃる、おじい様の熱はだんだん高くなってくる、何も知らぬ赤児は枕許へ郷り出されたなり、 乳を求めて火のつくように泣き立てるが誰も見てやるものがない。白刃の間な往来して死を見る 帰するがごとくだったおじい様も、この泣き声ばかりには|膓《はらわた》を扶ぐられて初めて神頼みというこ とをなさった。  それは最初山へお引き込みになる時、『楚辞』や『荘子』や『杜律集解』などと一緒に、支那 訳の『聖書』を一冊持っておいでになった。そしてそのうちの「詩篇」がおもしろいとおっしゃ ってよくお読みになっていた。訳は分らないが何でも|耶和華《エホパ》という神があって、その神は全智全 能であるということだけ知っていたが、この時ふと思い出したのがその耶和華だった。祈りさえ すれば聴いてくれるということが書いてあったので、耶和華とはどういう神で、祈るにはどうし て祈っていいのか知らなかったが、何でも構わず一心に祈った。どうか我々親子を助けて下さい と言って祈った。後で考えてみたら、自然の習慣、やはり合掌して、耶和華の神様と言って祈っ たらしかったということだ。  すると不思議なことには、ぐんぐん昇りかけていたおじい様の熱がだんだん下ってくる。赤児 は泣き止んですやすや眠り出す、おばあ様までが正気に返って「あなたもやられたのですか」と 言う。さらに不思議なことにはまだ二三日は帰って来るはずではたかった作男までがひょっこり 帰って来るという有様で、おじい様はほとほと耶和華という神様の霊験あらたかなのに感心して おしまいなさった。  それで何よりもまず聖書を仏壇へ上げて合掌してお礼を申し上げ、自分で薬を煎じて上ったり なぞしていると夕方までにはケロケロと癒ってしまった、おばあ様も次の日にはもう床の上へ起 きられるようになって、作男が驚いて村まで迎えに行った医者の必要もないようになった。おじ い様はいよいよ耶和華の神のありがたいことを感じて、その神様のいかたる神様であるかを知る べく、一生懸命聖書をお読みになった。  ちょうどその折、甲府へ異人が家族を連れて切支丹を拡めに来たというので、国内では非常の 評判だった。おじい様も耶和華が切支丹の神様だということは知っていらっしゃったので、歩く に不自由のないようになるとすぐ甲府まで駆け下って|件《くだん》の異人を訪ねた。異人は名をイビイとい って|加奈陀《カナダ》のメソジスト教会から派遣された近代には珍らしい雄僧だった。おじい様を見てただ ちにこの人こそ神が我らのためあらかじめ選別しておかれた聖徒の一人なりと信じ、肝胆を砕い て説明を与えた上、「あなたがこうして私のところへ来たのは一つの奇蹟です、神様はその道を 日本に伝えしむるためあらかじめあなたという人を用意しておいたのです、あなたが御維新の時 死生の|巷《ちまた》に出入したのも、それから一切を棄てて山へ入ったのも、みんな神様の|聖意《みこころ》で今日あら しめんがための|聖業《みわざ》だったのです。あなたはどうしてもこれからの一身を神様に献げなければな りません、明日といわず今日から私と一緒に神様のためにお働きなさい」と言った。おじい様も なるほどと合点がいったので、即座にイビイさんの申し出に同意し、折角開墾しかけた山も、ど うにかこうにかものにしたお堂も、わざわざ連れて行って可愛がうてた牛もすっかり放り出して、 細君と赤ん坊とを連れてまた甲府の人となり明治十二年四月六日親子三人でイビイさんから洗礼 を受けた。そして毎日イビイさんのところへ通って講義を聴くと同時に、我が見たるところは語 らざるを得ずというので猛烈に他に向って伝道をお始めになった。甲府では結城さんかわいそう にとうとう気が違ったといってたそうだ。  イビイさんという人は本当に偉い人だった、今時の宣教師のようにコセコセした意地の悪い人 でなく、どっちかといえば東洋風の豪傑で、よく日本を理解し日本人を理解し、日本を愛するこ とその本国を愛するよりも強かった。、おじい様との間はあたかも青春の血の燃ゆる恋人同志の間 のようで、おじい様は神様のため教会のために働いたというよりはむしろイビイさんのために働 いたという方が妥当だったかもしれぬ、ことほどさようにイビイさんとは肝胆相照らしていた。 後年イビイさんが群小のために陥れられ、|轄輌《かんか》不遇で加奈陀へ帰るや、おじい様また事情さえ許 すなら自分も日本を棄てて加奈陀へ行ってしまおうかとまでおっしやったほどで、おじい様には 、英文が書けず、イビイさんには日本文が書けず、親しく手紙の遣り取りをすることはできなかっ たけれど、双心常に冥々の間に相往来していた。イビイさんの方でもまた深くおじい様に信頼し、 いつかは結城さんの力でまた日本へ行けるものと思っていた。それ故おじい様死去の報知がイビ イさんの許へ達するや、イビイさん手紙を握ったまま日本語で、「ああ、結城さん、|武士《さむらい》」と言っ たままほとんど卒倒せんばかりだったそうだ。お父さんが若くして伝道に従い、当然離るべくし て容易に教会から離れなかったのも、本当をいえばおじい様の志を次ぎ、どうかして日本の教会 をまたイビイさんの教会にしたいと思ったからだ。少年の夢にもよく、今おじい様のお墓のある 差出の山の上へ坊舎整然たる石造の会堂が建てられ、あたかもモーセ士エリヤが栄光の中で笑い 合ってるように、おじい様之イビイさんがそこで白い髭を垂らし合ってるところを見たものだ。 そのイビイさん、今どうなさってることやら、おじい様より年が上だったからもうこの世の方で はあるまい。今時分アブラハムの懐でおじい様と手を握り合って、こうしてお父さんがお二人の 話をしているのを見ていらっしゃるかもしれない。憶えばまことに感慨無量、何だか変に悲しく なってくる。  イビイさんの奥さんというのはやさしい親切な方だった。お父さんが三つか四つの時のことだ からよくは|記憶《おぼえ》ていないが、桜町のお家で白いエプロンをかけてお菓子を焼いていらっしゃった のがまだ目に残っている。そしてナレさんという女の児とチャレさんという男の児がいて、ある 日お父さんがそのナレさんにお灸をすえて奥さんに叱られたことを覚えている。ナレさんはお父 さんより年上だったからもう立派な奥さんになってるだろう、ことによるともうお孫さんがある かもしれぬ。お父さんのことを|記憶《おぼ》えているだろうか、一度逢ってみたいような気がする。 いっさいを投げ棄てて伝道に従事  その当時の基督教界はまだ甚だ幼稚なものだったが、信者はことごとく真剣だった。バ一ノさん ヘボンさんコレルさんカックランさんなんていう名がお父さんの頭に残っている。コレルさんと カックランさんが静岡ヘ一緒に行った時、|虎列刺《コレラ》と|雷乱《かくらん》が静岡ヘ入ったといって大騒ぎした一つ 話を覚えている。カックランさんはイビイさんと同じく加奈陀の宣教師で学者だった、そのほか にはミイチャムさんとマグドナルドさんというのがいた。このマグドナルドさんというのがイビ イさんの反対者で、女の宣教師やAさんなぞとぐるになってイビイさんを虐めたのだ。マグドナ ルドさんは医者を兼業にしていて英国公使館の館員になってたこともあり、人に取り入るのが上 手だったので、戦はいつもイビイさんの方が負だった。イビイさんが甲府へ来た時、マグドナル ドさんは静岡へ行っていた。東京にはカックランさんがいて学校を開いてもっぱら育英に従事し ていた。中村敬宇先生なぞもカックランさんの弟子だった。  おじい様はイビイさんを助けて二年ばかり甲府で働いていたが、本当に働くにはどうしても本 当に神学を勉強しなければならぬとお思いになって、明治十三年の春、おばあ様とお父さんを甲 府に置いたなり、単身上京して麻布の東洋英和学校へお入りになった。そして勉強のかたわら牛 込教会を引き受けて伝道をもしていらっしゃった。お父さんの代りには東京から杉山彦六という 人が来て甲府で伝道することになった。杉山さんはその後遠州森の城主土屋家の養子となり、ず うっと伝道を続けていらっしゃる。今もお達者で遠州の見附においでだ。おじい様とは武士同志 非常に仲がよく、おじい様がAさんと喧嘩をする時にはいつも仲へ入って取りなし役を勤めて下 さった。  おじい様は英和学校へ入ってまず英語を御勉強なさった。かたり苦労してスウィントンの『英 国史』までお上げになったが、どうも三十六になってからの英語は舌が廻らなくてだめだ、こん なことに力を費すよりももっとほかのことに身を入れた方がいいとお思いになってそれきりおや めになった。お父さんが九つの時にサンビイさんのところヘ預けられたのはまったくおじい様こ の時の経験から割り出して、語学はどうしても子供のうちから舌を慣らさなければだめだとお思 ^いになったからだ。  英語はおやめになったけれどほかの学課は一生懸命勉強なさった。その時分おじい様の先輩に は浅川広湖という人があった。イビイさんが甲府へ来た時一緒について来た人で英語も達者だっ たし、西洋の学問も一通りできていた。それから家のすぐ近所へ越してきているあの山中|笑《えむ》さん、 この方も今はあんなお爺さんになっているが、当時においてはパリパリの新知識で英学者として も相当に鳴らしたものだ。Aさんに至っては大学をやめて教会へ入ってきた人でこの頃の大学と いったら本当に大臣・参議に次ぐくらいの勢いを持っていたものだから、自然Aさんの偉がり方 も一通りではなかった。その間に伍しておじい様は経歴こそ尋常でなけれ、学問といっては何一 つ纏まったものを心得てはおらぬ。大橋順蔵の門にいた時は時勢が時勢だったので学問よりはむ しろ諸藩の有志との往来に忙殺され、沼津の兵学校にいた時分にもともすれば天下顛覆の|謀《はかりごと》ば かり廻らしていたから身に浸みて習得したものは一つもなかった。それが今度Aさんや山中さん に伍してゆこうというのだから苦労は並大抵ではなかった。ことにおじい様の柄にない論理学だ とか心理学だとかには一方ならずお悩まされなさった。しかしこれを卒業しなければ伝道ができ ぬとお思いになったので、膝に|錐《きり》して勉強なさった。お蔭で初めは乾燥無味だと思ったものにだ んだん興味を持ち得るようになり、ことに心理学は進んで御研究たさるに至った。晩年上野の図 書館で|髪髭《しゆぜん》銀白の老翁が新刊の心理学書を漁って読んでたといって、『日本』新聞で不思議がっ て書き立てたことがあったが、その老翁はすなわちおじい様だったのである。  かくて神学校一通りの課程を御卒業たさったので、改めて静岡へ派遣されることにたり、甲府 へ帰って家族を引き纏めて富士川をお下りになった。一番力をお落しになったのはおばあ様のお 父さん1前田のお爺さんで、これまでおじい様には一番多くの理解を持ち、世間が耶蘇になっ たからといっていろいろ非難する間に立ってひとりおじい様を庇い、その持てる全力を挙げてお じい様を助けていたのが、今いよいよ遠く別れることにたる、再会の程も期し難いとなったので、 よその見る目もお気の毒なほど失望なさったそうだ。それかあらぬかお爺さんはその後間もなく お亡くなりになった、おじい様はおれは|舅《しゆうと》を亡くしたような気がせぬ、知己を一人亡くしたよう だとおっしゃって、早速お連れ合すなわちおばあ様のお母さんを御自分のところへお引き取りな さった。前田の家には男の子も沢山あった、お前たちの知ってるおテルちゃんのお父さんという のが前田の嫡流で、おテルちゃんの祖父というのが長左衛門の惣領としてまだ達者でいたのだが、 生さぬ仲だったので、「お母さん気がねをなさってはいけたい、それにお父さんに対する私の義 理もあるから」と言うてお引き取りなさったのだ。このお婆さんはその後足を痛めて肢におなり になったが杖を曳き曳き終いまで結城の家にいらっしゃって、明治二十七年東京でお亡くなりに なった。おじい様がよくその面倒を見て上げたのにははたでみんな感心していた。  静岡の教会はその時分呉服町にあって山中さんが牧師をしていた。信者の中の有力者は米山定 昌さんで、この人はその後牧師になり甲州へもしばらく見えていたが、今は退隠して息子さんの ところへ行っている。息子さんは豊さんというて、この人と山中さんの息子さんの|塩《えん》さんとお父 さんとの三人が生徒で静岡で初めて日曜学校というものが開かれた。豊さんも塩さんもなかなか 乱暴者で、塩さんは日曜日のお集まりの時、来た人の下駄へ全部釘を打って後で押入へ入れられ たことがある、豊さんはお父さんを三家番というお濠へ連れて行って泳ぎを教えてやるといって 水の中へ突き落したことがある。塩さんは今『国民新聞』にいる、豊さんは鹿児島の農林学校の 教授になってたびたび洋行した。何せよ耶蘇というものは切支丹|伴天連《バテレン》で、子供の生胆を取るの 魔法を使うのといわれていた時代のことだから、信者や牧師の子はみじめなもので、外へ出たっ て誰も遊んでくれるものがない、仕方がないから遠くをわざわざ出かけて行って三人でよく遊ん だものだ、明治十年代の基督教の迫害ということを、今の教会の故老がよく自慢そうに話すが、 大人は既に大人の心を持って、その迫害に耐ゆるべく決心していたのだから何でもないが、子供 はかわいそうなものだった。大人以上の迫害を受けて毎日泣かされぬ日とてはなかった。したが って子供同志の頼りになりつなられつすることも非常なもので、ばかばかしい話だがどこかの家 で子供が一人生まれたと聞くと、それがモウひとかどの味方でもあるかのように嬉しがったもの だ。この感情は大人もやはり同じだったとみえて、信者が一人でも旅をしてくれば宗派のいかん にかかわらず、必らず教会を訪ねる、訪ねられた方では楠正成千早の籠城にたちまち天兵百万の 来援を得たような気になって、御馳走する引き留める、いよいよ立つ時には定まって五里十里送 って行ったものだ。ある時なぞ伊予の今治で伝道していた横井時雄さん1伊勢時雄といってい たーが東海道を上って来たと聞いたら、米山さん毎日安倍川の橋から丸子の宿まで出張って行 って、それらしい人を見ると、あなた伊勢時雄さんではありませんかと訊いていた、そしていよ いよ当の御本人が見えたら足を宙に飛んで帰って、おじい様の前へ突っ立って伊勢時雄が来た来 た来たといって踊ったものだ。その時お父さんは伊勢と京が来たと聞いて、一体何のことだと訊 き返し、おじい様も米山さんも大笑いしたことがあった。  憶い出してみるとおかしいことが沢山ある、讃美歌だって今のように立派なものはなかった。 バラさんが来て「善い国あります、大層遠方」というのを教えて下さったら、みんな新らしいの をまた一つ覚えたといって悦んだ。There is a Happy Land , Far far awayをバラさんが直訳 したのだそうだが「大層遠方」は少しひどい。それをまた維新の志士結城有無之助が、調子ッば ずれの大きな声で、臆面もなく歌っていたのだ。光景ちょっと想像がつきにくい。おじい様は説 教もあまりお上手ではたかったが、讃美歌といったらお話にならたかった。構わないでおくとど の讃美歌でもみんな「いともいそしめ」になってしまう。それを平気で大きな声でやるのだから、 終には女の信者の方から抗議が出て、一時封じられてしまったことがあった。それからまた当時 の教会に安息豆というのがあった。これは初期の教会、何でもかでも聖書の文字通りに解釈して、 日曜日には絶対に買物をしない、買物をしないから御飯のお|菜《かず》に困る、それで土曜日の晩に|菜 豆《いんげんまめ》を煮ておいて日曜日は一日豆ばかり食ってる、安息日に食べるのだからというので確か米山さ んか誰かが安息豆と命名したのだ。豊さんなぞは大分この安息豆にあてられたものだった。  静岡には慶喜さんもまだおいでだったし旧幕の人も大分いたので、おじい様がそこへ赴任なさ ったのは教会対世間、なかんずく教会対当路の間に非常によい関係を費らした。山中さんは新知 識には違いなかったが、あまり外へ出ることを得意としなかった。そこへゆくとおじい様は以前 が以前だったので県令の前へでも何でも平気で出かけて行って、どのくらい教会のために勢威を 張ったかしれなかった。この点へゆくとその前後に江原素六先生が洗礼を受けて教会の人となり、 時々は説教もされるようになつたのも非常にありがたかった。メソジスト教会が静岡県へ動かす べからざる地盤を据えるに至ったのは江原先生の改宗与って大いに力ありといわねばならぬ。 到るところ前線に立って悪戦苦闘  おじい様はかくして静岡で足かけ三年お働きになった後、新伝道地を開くべく、家族を連れて 浜松へお移りになった。浜松にはこの時大川義房といってやはり旧幕出身の信者が一人あった。 おじい様はその人を頼りに孤軍奮闘すべくお出かけになったのだ、おじい様三十九歳明治十六年 のことだった。ちょうど全国にわたり耶蘇退治の運動が勃発した時で浜松はことにそれが激しか った。初めは連尺町に講義所を置き、それから伝馬町の大米屋という宿屋の隣りへ移った。日曜 日というと|外面《おもて》の戸をすっかり外して演壇を敷居のところへ持ち出しておじい様が演説をおはじ めになる、二言か三言口をおきぎになると、もう石がひゅうひ^ゆう飛んで来る、大川さんのほか に大野さん山口さんという人たちがみえていたが、危険だからというので家の者と一緒に奥の部 屋へ閉じ籠って、間の障子へ戸を立てかけて石を防ぎ、内で讃美歌を歌ってるという有様、石は 多く狙い打ちに来るのだからおじい様には無論あたる、あたっても平気でいらっしゃるものだか ら今度は|洋燈《ランプ》を狙う、洋燈は消える、それでもおじい様は演説をお止めにならたいというのが|始 終中《しよつちゆう》だった。終には見物のうちおじい様に同情するものが出てきて、おれは耶蘇は嫌いだが先生 だけには感心したといって投石防禦に廻ってくれるものができるようになり、町内の有志は有志 で、他町の者に伝馬町を荒されてだまっている訳にはゆかぬといって、頼みもせぬに説教の都度 提灯をつけて警戒してくれるようになった。もっとも滑稽だったのは大米屋で|養《か》っていた|軍鶏《しやも》で、 これが何かの拍子に籠を出て折柄説教の邪魔に来ていた若者を蹴って足へ怪我をさせた。それが 評判になり、軍鶏が耶蘇になった、うっかり近寄るなと言い触らされたことであった。その軍鶏 本当は説教の邪魔する奴を蹴ったばかりでなく、説教者自身をも蹴って血を出させたことがあっ たのだ。この鶏はおマサ叔母ちゃんがよく知ってるはずだ。みんながおマサ叔母ちゃんに「お隣 りのトトは」と訊くと声を張りあげて「お隣りトトハアデカコッコ1」と言ったものだ。日本広 しといえどもどこの国にデカコッコーなんて鳴く鶏があるものか、それでもおマサ叔母ちゃんは そう言ってたのだから仕方がない。今度来たら訊いてごらん。  浜松におけるおじい様の伝道はまったく大成功だった、今日の浜松教会はおじい様が開山さん なのだ。浜松付近の見附、袋井、掛川もみんなおじい様がお開らきになったのだ。ひところ東海 道のムーデーといってその名京・大阪にまで響き渡り、京都からわざわざおじい様を慕って尋ね て来た青年もあった。もっともムーデーはおじい様のように説教は下手ではなかったそうだが、 成功の工合はやや似通っていた。これを見て我がことならず悦んだのはイビイさんで、ひそかに 眉をしかめたのはマグドナルドさんだった。それでマグドナルドさんの片棒担いでるAさんはど うもおじい様が煙ったくてならぬ。この分でいっておじい様にのさばり出されては大変だとでも 思ったとみえ、やがて規定の年限が来ておじい様がいよいよ按手礼を受けて正式の牧師になろう とすると、結城さんは牧師にして一つの教会を牧させるのは惜しい、むしろその|古《むかし》、ポーロがど この教会をも牧せず自由に四方に奔走して福音を宣伝したごとく、結城さんも自由に方々へ伝道 することにした方がよかろう、それにはここに福音士という職を新たに設けて結城さんをもって 日本最初の福音士にしようと提議した。おじい様は名義なぞ一向お構いなさらない方だったから 悦んでそれをお受けなされ、改めてまた甲州へ帰って伝道なさることを御承諾なさった。しかる にその後福音士の位地は漸次低下されて、終いには初めて伝道に志し教職を志願するものはすべ て福音士ということにしてしまった。何のことはないおじい様は日本の教会で第一人者の地位に 置かれたのがいつか知らぬ間にそっとずり落されて、一番どん底の階級へ移されたのだ。本来な ればおじい様は浅川、A、山中、小林(光泰)、土屋の次に牧師になるべき順番だったのだ。  このAさんという人はまだ生きているからあんまり悪口は言いたくないが、単におじい様に対 してばかりでなく、少し能のあるものはいろいろ|手段《てだて》を廻らしてこれを排斥し、その代り自分自 身を進めるためにはどんなことでもあえてするを辞せず、かなり陰険なことをした人だった。教 会の元老浅川さんが教会を去らなければならないように仕向けたのもAさんだったし、死んだ吉 井さんの牧師になるのを拒んだのもAさんだった。それで一度は自分の養成した、高木|壬太郎《じんルろう》、 武田芳三郎、山路弥吉などという人から激烈な排斥を食って東京にいられなくなり、静岡や甲府 を廻っていた。その後メソジスト三派が合同して本多庸一さんが監督となり、その本多さんが任 期中逝去するや自身に何らの権能なきにかかわらず、急遽総会を召集しドサクサまぎれに監督に 選挙されたが、、またしても例のA式を臆面なく発揮したので教会内の不平はいよいよ高く、つい にその後の総会で監督の地位を追い落された。Aさんがいかに厭味な人だったかということは、 山路さんの葬式の時、監督として一場の演説を試み、故人は私が拾い上げて私が養ったものなる にかかわらず、中頃私に反いて私を苦しめたが私は何とも思っていなかったと言ったので、並い る人々、A何者ぞ、故人の遺骸を前へ置いてこんなことをいう法があるかと言って憤慨したので もその一斑を知ることができる。ちょっと御殿女中といったような|質《たち》の人だった。おじい様はお 気の毒にもこのAさんに睨まれてしまったのだ。  おじい様が浜松を後になさったのは明治十八年のことで、お父さんのほかにおトヨ叔母ちゃん とおマサ叔母ちゃんが生れていた。まだ汽車のない時分だったから、長亭短亭|俸《くるま》に揺られながら 東海道を興津まで上って来た刀小夜の中山飴の餅の珍しかったこと、丸子の宿のとろろ汁のまず かったことなど今なおお父さんの記憶に残っている。それよりもなお忘れられないのは興津から 山へ入って富士川に沿うて上った身延街道の怖かったことだ、俸が滑りそうになって幾度胆を冷 やしたかしれぬ。泊り泊りの旅籠屋のみじめさも花屋や大米屋を見ていた目では本当に涙がこぼ れるくらいで、いかに故郷とはいえこれからこんな山の中で暮らさねばならぬかと思ったら子供 心にも何となく悲しくなった。  しかしおじい様はとうの昔に世の中を超脱していらっしゃった。おれは京都で既に死んでいる べきもの、少くとも柏尾では死ななければならたかったもの、いわんや世を捨てて山に入り最早 そこに何の未練も残しておらぬものである。神命じ給えばどこへでも行く、「|胡夷昌《こいいずく》んぞ辞すべ けんや」という意気込みだったから、あいかわらずの元気をもって悦ぴ勇んで甲州入りをなさっ た。ちょうど二十年前甲陽鎮撫隊の軍監として笹子をお越しなさったと同じお心持で切石、万沢 をお越しなさったのだ。けれどもこのお心持は永くは続かたかった、甲州へ入ってひとまず甲府 へ落着いて伝道をおはじめなさろうとすると何だか少し勝手が違う、福音士という名目も考えよ うによっては変に思われる。今までは御自分のお思いになる通り自由に行動ができたのが、今度 は教会条例とか、部長の命令とかいうものでことごとく縛られている。自然働いても一向気乗り がしない。こういうはずではなかったがと我と我が心に鞭打って、勇気を振い起しても、どうし ても手が言うことをきかぬ、足が言うことをきかぬ。そこで深くもお考えなさった末、おれの伝 道の野心ももう終った。不断に平和であるべき神の国にも党争がある|陥掻《かんせい》がある、おれはもうそ んなことに携わりたくない。人は人jおれはおれ、おれはただおれ一人の伝道さえしていればい いのだ。折角肝胆を照らし合ったイビイさんも不平を抱いて|加奈陀《カナダ》へ帰ってしまった。我再び誰 のために我が琴を弾ぜんや。それよりもおれにはここに一人の伜がある、これからおれは一つこ の児の教育に全力を尽くそう、いかなる犠牲もこの児のためには忍ぼう。幸いにものになってく れたならおれが望んでしかして成らざりし志業を受け継がせることもできよう。それには都会に 居るより田舎の方がいいというので、自ら請うて甲府の地を去り、東山梨へ行っていわゆる田舎 伝道を開始した。 心友飯島信明と中沢徳兵衛  最初は七里村の千野というところへ講義所を開いた。これは粟生野のすぐ近くで、隆造叔父さ んが「伯父さんも随分これまでに苦労なさった、これから少しお休みなさい、私が及ばずながら お力になりましょう」と言ってくれたからで、したがって千野ヘ行ってからは御自分も隠居のお つもりで日曜日の説教にも重きを置かず、知人を訪ねてはもっばら膝組伝道をしていらっしゃっ た。しかし千野は少し奥へ入り過ぎていて甲府への往復が不便だというので間もなく日下部村の 八日市場へお移りになり、八日市場からまた八幡村へお移りになった。八幡で飯島信明さんだの 中沢徳兵衛さんだのという有力な信者をおつくりになり、これが基礎となって当今日本メソジス ト教会中で特殊の地位を占めてる日下部教会ができたのだが、飯島さんや中沢さんは信者という よりむしろおじい様の耐久朋で、その後おじい様が天寿を全うせられ大久保でお亡くなりになる まで、このお二人にはどのくらいお世話になったかしれぬ。「おれはあの二人に何もして上げる ことはできぬから、お前一つ何かのお力になって上げてくれ」と生前しばしばお話があったほど だ。しかるにお父さんいまだ微力にしてーというよりお二人の方がいよいよ御盛んなのでお父 さんまだ何も御恩返しする機会がないが、もし永久その機会を見出すことができなかったら、今 度はお前たちの責任だ。お前たちよく覚えていて、この御両家とは長く懇親をお結びなさい。  八幡にいる時におじい様は甲斐田立道という坊さんと懇意にしておられた。この人は以前塩山 向嶽寺の住職だった、塩山といえば甲州ではやかましい寺で、今では臨済宗の本山の一つにたっ てる。そこの住職だったのだから相当にでぎそた坊さんだったのだ。それが明治元年彰義隊と通 謀し兵を峡中に挙げんとして成らず、次いで政府が神仏混清禁止で仏教を圧迫し、ことに耶蘇教 を公許したのに憤慨し、東京へ出て明治政府倒壊の陰謀を企てた。成るに及ばずして発覚し、三 宅島へ流されたのが赦されて帰って来て八幡へ落着いたのだ。この人とおじい様仲善しになって しまって、お父さんは漢学稽古のため甲斐田先生へ預けられた。すると甲斐田先生まだ『文章軌 範』もロクに読めぬお父さんにいきなり『文選』を教えはじめた。『文選』といえば今でも字引 なしでは二行と読めないむずかしい本だ、それを九つや十の子供に読ませようというのだ、読め ないのは無理はない。そうすると甲斐田先生、座禅の時に御師家が持っててよく人をピシャリピ シャリと打つ、あの棒を側へ置いといて頭でも顔でも手当り次第打榔するのだ、何だこの糞坊主 と思って、怒って家へ帰ると、今度はおじい様に打たれる。おじい様この甲斐田先生と慣れ合っ て随分手ひどくお父さんを鍛えたものだ。そしてお父さんが打たれて泣いてるところへ来て、甲 斐田先生とパチリパチリ碁をおはじめになる。本当にあんな口惜しいことはなかった。  耶蘇を退治しようとして謀叛を企てた坊さんがこうして耶蘇の伝道師と莫逆になってしまう、 世の中というものは不思議なものだ。甲斐田先生はその後間もなくお亡くなりになって同じ八幡 の片山というのへ葬った。おじい様のお墓は村の南、甲斐田先生のお墓は村の北にある。ちょう ど向き合っていつでも話ができそうの位置だ。  八幡のお住居は最初は樋口|懇郎《かくろう》さんの長屋で、その後そこヘ甲斐田先生がお入りになり、おじ い様は大村清三郎さんの家へ移ってそれを真中から半分仕切ってお住いになってた。大村さんの すぐ隣りに前田という家があってそこに晃さんという子があってお父さんの喧嘩相手だった。こ れが今文壇でちょっと名を知られてる前田木城君だ。大村さんの邸はかなり広く邸内にいろいろ の果樹があって、それが大村さんのものともつかず、結城の家のものともつかず、取りたいもの が取るという申合せになってたので、お父さん年中果物には事を欠かなかった。それにおじい様 浜松以来のお道楽で、自家特製のテンピをお持えになって始終菓子|麺鉋《バン》を焼いて下さる、この麺 飽がまた日曜のお集りにはなくてならないものになって、飯島さんでも中沢さんでも、お説教が 済むと火鉢を囲んで「先生今日のパンは少しでき損いやしたネ」なんて言いながら、十二時まで も一時までも話し込む。おじい様でき損いましたねなんて言われると、ムキになって怒って次に は秘術を尽くして変ったのをお焼きになる。イビイさんの奥さん直伝で、今甲州にこの麺鉋を焼 くものは一人もないと言って威張っておられたが、焦げたり臭かったり、技巧を凝らせば凝らす ほど変テコなものができ上る。イビイさんの奥さん本当におじい様にあんたものをお教えになっ たとすれば、勢い奥さんの人格まで疑わねばたらぬのであるが、焦げても臭くても砂糖と牛乳が 入ってることだけは事実だから、子供の口には飴の玉や切り芋なぞよりずっとおいしい、お蔭で お父さんたちは子供のうち中お|三時《やつ》だけには常に幸福であった。ところがこのお菓子が終いへい ってとうとう本当に家の商売になり、今度は信者のロを悩ますのでなく、家の|家計《くらし》をひどく悩ま すに至ろうとは、神ならぬ身の誰れ一人予想しているものはなかった。このことは後でまた話す。  八幡に三年いて今度は北|巨摩《こま》郡の韮崎へ移った。韮崎はお前たちのお母さんの実家のあるとこ ろだ。後になってお母さんがお父さんのところへお嫁に来ようなぞとはその当時思いも寄らたか ったことで、おじい様は韮崎で一番大きい島屋という店の持家を借りてそこへ講義所をお開らき にたった。その島屋が加母さんの|実家《さと》なのだ。この時分からおじい様の窮迫がそろそろはじまっ て来た。家族は増えるのに、月給は反対に減ってゆく、福音士という役はいよいよ伝道志願の初 歩の者のする役目になって、毎年の|年会《コンフエレンス》へももう出られないことになった。Aさんに反対して その御機嫌を損じたためだ。韮崎でお父さんが小学校を卒業した。おじい様の考えではどんたこ とをしてでも中学へ入れたい御希望だったのだが、前いうとおりの始末でなかなか中学どころの 騒ぎではない。それで一年遊ばせることにしたが、おじい様それが残念でたまらない。お父さん の成績がずっと優等で通して来たのを見るとどうしてもあきらめることができたい。それでおば あ様とも相談の上、おじい様だけが韮崎へ残り、おばあ様が子供と前田のお婆さんとを連れて甲 府へ出ることにした。  というのはおじい様の月給はその時僅か十五円だった。いかに物価の安い頃だといっても十五 円で大人三人子供五人の口を糊してゆくのは容易のことではなかった。いわんやそれが二軒に別 れるにおいてをや、さらにいわんやそのうちからお父さんの中学の学費を出してゆこうというに おいてをや。そこでおじい様はまず御自分の食い物を詰めることになさった。おれは|鑑鈍《うどん》がすき だ、飯よりも鑑鈍が好きだとおっしゃって、韮崎で自分で鑑鈍を打ってそれを召し上っておられ た。本当に鑑鈍がお好きだったのかどうか知らないが、いかにお好きでも毎日と続くものではな い、それをほとんど毎日鑑鈍ですまされたのはまったく倹約のためだった、倹約してそしてお父 さんを中学へ入れて下さるためだった。たまに御飯をお炊きになることがあっても大根飯といっ て、大根を沢山切り込んで米だか大根だか分らぬものをつくって召し上っておられた。無論お|菜《かず》 などというものはない、大概は焼塩でおすませになった。そして御自分の費用としては何から何 まで一切くるめて二円五十銭で上げて、残りは全部おばあ様の方ヘお渡しになった。韮崎から甲 府まで三里ある、時々出ておいでになるけれどもかつて一度も乗合馬車にすらお乗りになったこ とがない。ほかの子供はどうなってもいいが、禮一だけはとおっしやってすべての苦痛をお忍び になってお父さんを中学へ入れて下さったのだ。思うてここに至るごとに、お父さんはいつも|賭 然《あんぜん》として涙の下るを禁ずることができない。おじい様がこれほどまでにして下さったればこそ、 お父さんは今日あるを得たのだ。もっともっと孝行して、もっともっと楽をさせて上げなければ ならなかったのを、自分が天下を取るのに忙しくて、ろくろくお構い申して上げることもせず、 温泉へ一つ御案内することができずに、急に永いお別れをしてしまったのは何とも本当に心残り でならぬ、済みませんでしたと言ってはいつも心で手を合せてばお詫びをしている。天下に親は 多い、子を愛するの愛も決して少くはない。しかもおじい様ほど徹底的に子を愛して下さった方 はあるまいと思う。口にも出さず素振りにもお示しならなかったけれども、おじい様の心はただ この愛の燃焦によってのみ支えられていたものと思われる。お父さんは今でもその熱を感ずるこ とができる。 魂まで打ち込んだ本郷中央会堂  おじい様が韮崎で伝道なさってる時に、イビイさんがまた日本へ帰って来られた。加奈陀の、、、 ッションではどうしてもイビイさんを日本ヘやることはならぬ、やればマグドナルドさんと喧嘩 をするからというて御自身切に御希望なさるにかかわらず、またカシデーさんとかマケンジiさ んとかいうイビイさん党がしきりに請求なさるにかかわらず、どうしても日本へ派遣することを 肯んじなかった。そこでイピイさん憤りを発して、それならよろしい、・・ッションのお世話にはな りませぬと言うて、単独に資金を募集し、それを携えて日本へ来て、東京本郷春木町ヘ中央会堂 というのを設立した。無論伝道のためには違いないが、単に伝道するばかりでなく、盛んに社会 事業に手を着ける計画で会堂の建築ももっばらそれに適するように設計された。それは明治二十 三年のことであった。  しかるに建つと間もなく本郷の大火で会堂も一嘗めに嘗められてしまった。苦辛十年ようやく にしてでき上った事業を一炬にしたのだ。イビイさんの失望本当にお察しするだに涙であったが、 イビイさんは決してそのために元気沮喪はなさらなかった。すぐまた加奈陀へ引き返し、獅子奮 迅の勢いで資金を募集し、翌二十四年には復ぴ日本ヘ来て焼跡へ再建築に取りかかったρ今度は ミッションでもだまって見ている訳にゆかず、相当援助をしてくれたが、それでもお金が足りな くて表通り半分は未完成のまま取り残された。今度の大地震で焼けたのがすなわちその建物で、 世間では不思議な設計だ、おかめの顔のようだ、正面がザクリと戴ち切られているのは変だとい っていたが、これは決してイビイさん特別の設計だったのでなく、資金ができたら前の方へ継ぎ 足しをしてそこでいろいろの事業をやろうと腹案していたからだ。  この時おじい様はちょうど韮崎に伝道しておられた。十八年に甲州へ帰って二十年に東山梨へ 引っ込み二十三年には韮崎ヘ転任していた。イビイさんからは帰朝と同時に迎いが来たが、馳せ 参ずるに及ばずして焼けてしまったのでそのまま韮崎に留まっていた、スルと二十五年になって 中央会堂の再築ができ上った。そしてイビイさんがわざわざ甲府まで出かけて来て、おじい様の 上京を促したので、おじい様はすぐにも行こうとしたが、教会の方で今動かれては困る、来年の 年会に改めて福音士として中央会堂へ派遣することにするからそれまで待てという、それにその 時はちょうどお父さんが甲府中学へ入学したばかりだったので、せめて一年ここで勉強させよう と言ってイビイさんに待って貰うことにした。  イビイさんは甲府へ来た時、百石町の山梨英和女学校に泊っておられた。女学校の校長はミ ス・ウイントミュiトといって後にコIツさんの奥さんになった方だ。かねてからイビイさんに 敬服し、すべての女の宣教師がみんなマグドナルド党なるにかかわらず、ひとりでイビイ党をも って任じていた。イビイさんがお父さんを呼んでいろいろ質問なさった末、よろしいこの児は私 が引き受けた、加奈陀ではいけない|倫敦《ロンドン》へやって勉強させようと言って下さったら、ウイント、、、 ユートさんはそれなら私は妹さんの方を引き受けましょうと言って、おトヨ叔母ちゃんを引き取 ってすぐ学校の寄宿舎へ入れて下さった。おトヨ叔母ちゃん今でこそ眼鏡をかけて洋服を着て古 屋女子英学塾の校長でございなぞといって威張っているが、この時にはどうしても異人さんの児 になるのはいやだと言って泣いたものだ。おトヨ叔母ちゃんはその時十三だった。  ところがほど経て年会でおじい様を中央会堂へ派遣するというのはまたしてもAさんの嘘だと いうことが分った。そこでおじい様はそんなことなら一刻も猶予する訳にはゆかぬとおっしゃっ て、二十六年の三月、教職を辞して家族を引き連れて上京たさった。いかにその上京が急だった かということは、お父さんの学年試験がもう一月で済むというにかかわらず、それをも待たず、 お父さんを甲府教会の牧師館へ預けて置いて出発なさったのでも測知することができる。お父さ んは仕方がないから一月牧師館の御厄介になった上、四月になって韮崎の|百瀬《ももせ》松太郎さんと一緒 に上京したのだった。  おじい様が上京なさった時イビイさんはもう盛んに活動しておられた。助手としては温厚の秀 才コーッさんと、教界第一の新知識小林光茂さんがいて、別に江原先生が毎日曜に聖書の講義を 受け持っておられた、山田耕搾さんの義兄に当るガントレットさんも|悪戯《いたずら》をしてはイビイさんに 叱られながら専属音楽師として働いていた。信者はイビイさんの目ざすところが大学だったので 自然若い人ばかりで、今医学博士になってる稲田竜吉、その後松江かどこかの中学校の教頭にな った永野武一郎、ずっと|紐育《  ユ ヨ ク》へ行って落着いてる山口三之助、大阪逓信局長から同電燈会社の 専務になって死んだ河合|驚《ごう》なぞという人がいた。おじい様はこの若い人たちの世話方という格で、 まず湯島天神町二丁目に下宿屋を一軒借りて鶏鳴館という寄宿舎を設けた、山口さんも河合さん もこの寄宿舎からそれぞれの学校へ通っていた。しかし寄宿舎の仕事はむしろおばあ様の担当で、 おばあ様はまたこうして若い人たちの世話をするには打ってつけの適任者だった。初めは|一同《みんな》奥 さん奥さんと呼んでいたが、終いにはお母さんお母さんお母さんといったくらいだった。  だからおじい様は鶏鳴館の方はおばあ様任せで始終会堂の方へ行って働いておられた。会堂に はほとんど毎日集りがあった、その頃日本に初めて来た|瓦斯《ガス》幻燈の器械で、幻燈伝道というのも やっていた、音楽会も頻々と催された、図書室も設けられた、今日のいわゆる人事相談も行われ た、人事相談にはおじい様もっとも興味を持っておられた。それに教会の信者は前いった通り若 い人ばかり、今青山学院の先生をしている桜井成明さんなぞが年寄りの部だったのだから、庶 務・会計ほとんどおじい様一人で処理しなければたらないほどだった。おじい様はここで大満足 でお働きなさった。お金もイビイさんの方から不足ないだけよこして下さる、もう鑑鈍も大根飯 も召し上る必要はない。一番気がかりだった惣領の俸は神田の共立学校(今の開成中学)へ通学し、 帰って来ると竜岡町のイビイさんのお宅へ行って、その書斎を我物顔に勉強している。現在に不 自由がなくて将来に希望がある、人間はやはり窮すれば通ずだ、この頃のように毎日心持よく働 いてることは今までかつてなかったことだとおっしやってはおばあ様と二人で感謝の祈薦を捧げ ておられた。  しかるにその感謝も一年とは続かず、青天の|震露《へききれ》、中央会堂の事業打切りという幕が下された。 これはイビイさんもおじい様ももともと経済だとか勘定だとかいうことは大の不得手で、かなり お金を費い過ぎたためでもあったのだが、実際はイビイさんが一度焼けてまた建てたその資金に 多少の無理があったところへ、例の嫉妬中傷が手伝って後の伝道資金が続かなくなったからだ。 これは困ったことだ、自分が一つ出かけて行ってよく諒解をつけて来ようといってイビイさんが 加奈陀へお帰りになると、再建の際少しばかりミッションの援助を受けたのが崇りとなり、イビ イさんは教職をやめるか日本行きを断念するか、どっちか一つを選ばなければならぬことになっ た。その時イビイさんは思った、中央会堂の仕事は必ずしも自分でなければならないことはない が、資金の調達は自分でなければできない、だからこの際自分は日本行きを断念しプランだけ立 てて金と一緒に送ってやろう、自分の代理にはあのコーツがいい、コーツは温厚すぎるが今度結 婚したウイントミュ1トが稀にみるやり手だ、あれをやっとけば間違いはないと深くも思い定め て、涙を呑んで中央会堂をミッションヘ引き渡すことにした。  驚いたのはおじい様だ。イビイさんが来ないとなれば何もかも滅茶滅茶だ、どうしてもモ一度 呼び返さなければならぬというて必死になって運動した。Aさんのところまで出かけて行って頭 を下げた。が、やはりだめだった。単に呼び返すのがだめになったばかりでなくそのうちにイビ イさんからの送金も途絶え勝ちになった。イビイさん失望のあまり、今でいえば神経衰弱・なのだ ろう、あっちにいて病気してしまった、そのため翌二十七年になってはミッションから来る規定 の伝道金のほか、特別資金は一文も来なくなった。  中央会堂はやむをえず、特別事業をみんな止めてしまった。つまりドク←ル・イビイの折角の 仕事は端から|全部《みんな》消えてしまったのだ。しかし会堂の方は仕事を止めさえすればそれで済むのだ が、済まないのはおじい様の身の上だ。第一その|生計《くらし》だ、幸い今まで寄宿舎をやって相当寄宿料 を取っていたので、まずそれを純然たる下宿に引き直し、おじい様は下宿営業人になり下った。 (その結果一時本郷下宿業組合の副取締りか何かになってよく警察あたりへお出かけになったこ とがあった)お父さんは折角の共立学校を下げられ麻布の東洋英和学校へ入れられた。それでも まだ痩我慢で純然たる給費生にはせずに単に月謝だけ免除して貰っていた、おトヨ叔母ちゃんも 肝腎のウイントミュートさんが東京ヘ引き上げてコlツさんの奥さんになってしかも同じくこの 巻き添えを食ってたので、ウイントミュートさんの口ききで東洋英和女学校ヘ収容して貰い、同 時におマサ叔母ちゃんも同じ学校へ入った。いずれも給費生で卒業したら一定の年限教会または 学校のために働くという条件つきだった。  家族はこのほか、甲府で生れた廉造叔父ちゃんが八ツ、韮崎で生れたおトヨ叔母ちゃんが四つ で、去年東京で生れた朝章さんと足の悪い前田のおばあ様とを合せて六人暮らしだったから、本 来なら十人の下宿人を置けば立派にやって行けたのだが、前来の行きがかりもあり、それにおじ い様がどうしても下宿屋商売になり切れず、おばあさまがまた自分は食わずにいても人にはよく したいという質だったので、家族六人食ってゆくはおろかなこと、毎月毎月欠損ばかり、お蔭で お父さんの方の学費も来たり来なかったりで、お父さんは仕方がないから学校の先生の家の庭掃 除を引き受けたり頼まれた写し物をしたりして辛うじて寄宿舎の賄い費を払っていた、おじい様 にはこれがどのくらい苦痛だったかしれぬ、それで暮夜ひそかにおばあ様が質屋へ通ったり、内 証で屑屋を二階へ呼び上げたりするようになった。おばあ様質屋というものこの時初めて御経験 なさったのだ。  かてて加えて中央会堂の方にはイビイさん仕残しの引っかかりがある。いる時にはだまってい たものが、いないとなると私もこれこれいただくはずになっていました、私は幾ら幾らいただか なければなりませんと申し出してくる、拒絶してもしイビイさんに傷をつけることがあってはと 思って、折角子供のためと思って屑屋にこさえさせた金をその方へ廻わす、仕事が単に伝道に限 られていなかっただけ、その跡始末にはかなり骨が折れた。これをよく見ていてくれたのはコー ツさんの奥さんで、後に至りおじい様が大積寺の開墾地を抵当に入れて金を借り、それが返せな くて危く抵当流れになろうとした時、在留宣教師に激を飛ばし、義金を集めて開墾地を取り戻し て下さったのはこのコーッさんの奥さんだった。  そうこうしているうちに二十七年も暮れて二十八年になった、世間は日清戦争で勝った勝った と大騒ぎをしているが、家の中はそれどころではない、前からいつきの中央会堂の青年たちはう すうすおじい様の窮迫を知って何かと心配してくれるが、内外ことごとく多事なのだから容易に 挽回の道が立たない。そこで今甲府で弁護士をしている山本保さんが、これはわれわれが引き続 き下宿しているから結城先生も下宿商売になり切れないのだ、われわれが親切だと思ってること はかえって先生の仇になるのだ、だからここでわれわれ一同他へ転じ先生もまたこの家を更った ら下宿業で十分やってゆけるだろうと言い出してくれた。一同なるほどそうだというのでボツボ ツ他へ転宿し、おじい様はおじい様で湯島を引き払い両門町の岩崎の邸の裏へ移転して本当の下 宿屋をお始めになった。 その晩年 旗を捲いて郷里山梨に帰る  両門町の下宿屋もまた失敗に終った。なるほど山本さんが心配して下さったごとくまったく教 会関係を離れて純然たる商売になったのだから、おばあ様もその覚悟をして客膳は客膳で定まり 通り請求する、お茶にしブ、も炭にしても原価に幾らかずつ掛けて請求する、菓子を十銭買ってく れろと吾われれば女中を走らせて九銭だけ買わせるというコッまで覚え込んで実行してみたのだ が、下宿人そのものが以前の教会関係の人たちと違ってさんざ諸方を食い荒らしてきた者も交っ ているので、月末になると不払いが多い、不払いだけなら我慢もできるが夜逃げ踏み倒しに至っ てはいかんともすることができない。これではいかにお茶やお菓子の頭をはねたところでとても 追っつけるものではない。そこへ持って行ってもっとも困ったのはお酒問題だった。おじい様は 以前は一升酒を召し上った方で、酔っての上の失策もかなり沢山あったのだが受洗以来きっばり 禁酒なさった。どんなことがあっても一滴もロヘお入れにならなかった。そのためおマサ叔母ち やんなぞ麻布の寄宿舎へ行くまで徳利というものを知らたかった、|猪口《ちよく》は知ってはいたがそれは 薬を飲むものとばかり思っていたくらいだった。しかるにいよいよ下宿商売を始めたらいきなり お客からおかみさん一本つけてきて下さいを食った。(両門町へ行ってはもう誰も奥さんだのお 母さんだのというものはたかった、お父さんがたまたま麻布から家へ帰って行くとよくて小僧さ ん時とするとやいチビと呼ばれていた)  この「おかみさん一本つけて下さい」には本当に困った。初めは訳を言って断ったが、次から は承知せぬ、どうしても買って来いという、おじい様が出て喧嘩にたってお客は翌日大っぴらに 勘定を払わず転宿したが、間もなくまた一人酒飲みが来た。家で飲ませなかったら外で飲んで酔 払って来て女中をからかって大騒ぎをした。これは大変だ困ったことだ、廉造やト、・・のためによ くたい、どんなことでも子供の教育には代えられぬとおっしゃって、たちまちにその下宿屋を閉 じ、新たにお始めになったのが菓子屋だった。下谷黒門町御戒街道の東側ヘ店を開いた、家号は その時分もうよい加減生意気になってたお父さんが、私に撰ばせて下さいといって白雲軒とした、、 雨竜をひねったマークを作っていささか得意になっていた。  甲州にいるうちから貧乏だったのが東京へ出て来てまた下宿屋で失敗したのだ、本当いえばも う菓子屋なぞ始めるお金はなかったのだが、東京には御維新以来のお友達がある、中央会堂の人 も何かと心配してくれる、それでとにかく開業一通りの資本はほかから借りることができたが借 りたものは返さねばならず、返すためにはまたほかから借りねばならず、二三度それを繰り返し てるうち、とうとう行きつまって甲州へ帰り大積寺の開墾地を抵当にして辛うじて難関を切りぬ けたρしかしこれは後のことで、開業当時はそんなことには想い到らず、おじい様なかなかの御 元気で今度こそ成功してみせると威張っておいでだった。|可憐《あわれむべし》白頭翁、もう新撰組もなければ 大小切もない、東海道のムiデ1なぞも忘れ果てて、ただその日その日の家族の口を糊するベく 本当に菓子屋の親爺になってしまったのだ。お父さんは愛しかつ敬服しているおじい様のことだ、 何とか理窟をつけてここでもおじい様は初心を忘れずとか清節を郷たずとかいって、理想の老翁 に造り上げたいのだがそれでは話が嘘になる、嘘はおじい様がお嫌いだから正直にありのままを お話するのだが、実際この時のおじい様はなっていたかった、少なからずあわてていた、教会な ぞもどうでもなれという形だった。一番口惜しかったのは昔の意地がすっかりたくなったことだ った。生きて薩長の粟を食まずと気張ったことや、イビイさんを助けてマグドナルド内閣に反旗 を翻したりしたことなぞ、へえ一体そんなことをしたのはどこの誰ですというような顔をしてい た。ただ一つ昔もその時も変らなかったのは子供に対する愛、たかんずく惣領の倖に対する執着 的の愛で、事いやしくも伜の上となるや、勇気凛然、いかなる犠牲をも忍んでいた。  菓子屋も思わしくなかった。嘘のような話だがいよいよ開店売り出しをやるまですぐその隣り も菓子屋だということを知らなかったのだ。開店祝いに店の菓子を持たせてやって突き返されて 初めてそれと気がついた。何でも徳川時代からの有名な菓子屋で店頭には細工菓子が列べてある ばかりだったのでおじい様玩具屋と早合点しておしまいになったのだ。それでこっちの商売が思 わしくなくても、これは菓子屋がいけないのではない、隣りに|老舗《しにせ》があるからだ、場所さえ変え ればきっと成功する、何しろおれの店にはほかで真似のできないパンがあるからといって、また してもイビイさんの奥さん直伝のパンを持ち出した。甲州以来、中央会堂の寄宿舎当時にも道楽 に焼いてただで振舞ったればこそみんなに賞められたのなれ、イザお|銭《あし》を取って売ろうとすると お客はてんで見向きもしない、それでもおじい様容易にその御自慢を棄てず、ここは場所が悪い からだとおっしやって、またぞろヒトエ面して本郷森川町へ移転し、そこで新規やり直しにパン、 飴、煎餅、干菓子、それに甲州から取り寄せた月の雫や|白柿《とろがき》なぞを売り出した。屋号はやはり白 雲軒だった。  森川町の方は黒門町よりは少しよかった。おじい様の御工夫で水飴へ牛乳を入れた新菓を|製《つく》り 出したら、当時名声ようやく上りかけた新進の医学士高田耕安先生がこれは非常にいいものだと いってすぐ大学病院へ御採用にたり、同時にその飴の推薦証明を書いて下さったので、それを看 板に|掲《か》けたりして景気をつけた。十字架や小羊の型を造って打ち物をこさえクリスマスの時に各 教会へ売り込んでちょっと纏まった商いをしたのもこの時だった。ところが月末になって収支計 算をしてみると、やっばり毎月損失だった、これだけ売れて損をする訳はないがとよく調べてみ たら、売れることも売れたが家で食ったのも莫大なものだった。第一おじい様が試製試製でいろ いろなものをこさえてまず御自分が召し上る、おばあ様に食べさせる、よさそうだと思うと教会 へ持ち出して祈薦会の後などで|一同《みんな》に食べて貰う、そのため一時は|祈薦会《きようかい》の出席者が日曜の出席 者よりも多くなったなぞという奇現象を呈するに至った。|加之《くわうるに》、お父さん初めおトヨ叔母ちゃん もおマサ叔母ちゃんも、学校の休みとなると必らず|宅《うち》へ帰ってお菓子を食う、もうお煎餅や水飴 なぞには目も触れない、一番高い月の雫を三つも四つも一時に頬張る、三度に一度はお友達を連 れて来て食いたいだけ食わせるという調子だったので、いくら売れてもとても追ッつきっこはな い。これではいけたいというので厳重に私食を禁止することにしたが、その時には店の方の売れ が止まって、月々の食い込みは増えるばかり、にっちもさっちもどうにもならない羽目に陥って しまった。そこで森川町の店を畳んで新花町のお寺の前へ引っ込み、本当の駄菓子屋をおはじめ になった。貧すれば鈍すで、あのおじい様がすっかり駄菓子屋になり切っていたのは悲しかった。  とうとう菓子屋ではもう食えなくなった。食えたくなると何か食う方法を考えねばならず、食 う方法として伝道が一番手近でまた安全だった。それでおじい様はコーッさんのところへ行って また伝道したいと申し出した、コーツさんは悦んでミッションヘ取り次いだ。ミッションではち ょうど下谷の根岸講義所が空いている、あそこには益田孝さんのお父さんだの、今村銀行の福原 さんだのという人がいて若い者ではちょっと勤まりかねるから結城さんに行っていただけばこれ に越したことはたいといって即座に御採用になった。資格はやはり福音士だった。おトヨ叔母ち ゃんやおマサ叔母ちゃんはおじい様がまた聖職にお帰りにたったと言って非常に悦んでいたが、 内実のことはお父さんよく知ってる、聖職も伝道もあったのではない、おじい様食えなくなった ので食い稼ぎに教会へ転げ込んだまでだ。  するとこれを聞いた甲州の飯島さん中沢さんが、それは勿体ない、結城さんがまた伝道たさる なら何も下谷や本郷へ置く必要はない、ぜひ甲州へ来ていただきたい、私ども及ばずぼがらお力 になりましょうというて、根岸の方でも頻りに結城さん結城さん結城さんと引き留めてくれたの を振りもぎって甲州へ連れて帰った。そして日下部の教会にはちょうど誰やらが牧師になってい たのでとりあえず東八代の|石和《いさわ》へ落ちつかせた。茄じい様は飯島さん中沢さんのこの厚意に感激 し本当に働かねば第一お二人に対して済まぬと、根が正直の方だからすぐ心を取り直して真剣に 伝道をおはじめになった。それが明治二十八年のことだった。  甲州へお帰りになってからのおじい様の様子は、お父さんあまりよく知ってはおらぬ。明治二 十九年朝章さんの下にスヱという女の児の生れたこと、そのスヱをおじい様おばあ様眼の中へ入 れても痛くないほど可愛がっていたこと、同年石和から甲府に転じ三十一年甲府から日下部に移 り翌三十二年さらに勝沼教会へ転じたこと、あいかわらずテンピでパンを焼いてそのパンは以前 とまったく面目を異にしさすが口悪の飯島さんもついに一言も|挾《さしはさ》む余地がなかったことだけぐら いしか知らぬ。二十九年三月お父さん麻布中学を卒業したが伝道の念欝勃として止むあたわず、 自ら請うて遠州の見附へ赴くこととなり、途に甲州へ寄って父母を省した。その時おじい様は石 和においでで、行ったらちょうどパンを焼いていらっしゃった。「お前もいよいよ伝道に行くか、 まアやってみるがいい、やって何かに衝き当ってみて、そこで初めて自分の途がわかる、おれな ぞはさんざいろいろの途を歩いて来たから、どの途を通っても同じだということが分ってるが、 お前なぞはまだそんなに悟りすましてはいけない。伝道師というのは昔の坊主だ、坊主は|戦《 くさ》をし て人を殺してからなる者だ、学校を出ていきなり坊主にたるのは少し変だが、それもお前の志と あれば強いて止めはしない、今日本にも沢山伝道者はあるが親子で伝道するのはお前とおれだけ だ、これだけでも日本の教会歴史へ書き留めておくことができる、まア精々働いて来るサ」とお っしゃって、多年望みを嘱していた惣領息子が、天下も談ぜず国家も論ぜず、田舎伝道になぞ出 掛けて行くのを少なからず失望なさっていらっしゃるようだった。  越えて三年、お父さんいつの間にか新聞記者になり、江原先生に抜擢され、行いて甲府に『甲 斐新聞』を創立することになった。おじい様この時には勝沼教会で伝道していらっしゃったが、 お父さんを迎えて手を取ってお悦びになり、ちょうど来合せていた信者の某氏を顧みて、「私は 二十四の時に新撰組の軍監になって甲州へ帰って来た、こいつは二十三で『甲斐新聞』の主筆に なって来た、軍監と主筆では少しばかり位が違うが、それでもまアその志天下にありだから勘弁 できる」と言い、さらにお父さんに向って、「おれは人からあきらめがよすぎると言って攻撃さ れた。おれもそれを知らぬのではない、もっと一っの事に執着していたなら必らず成功していた と思う、それだから今お前に向ってもこれからの世の中はねばり強く行かねばだめだ、一つ|捕《つらま》え たら決して離すなと言いたいのだが、おれはそう言わぬ、成功するにはその方が利巧なやり方か もしれぬが、何も人間、成功するばかりが能ではない。だからおれもお前に物事執着心が弱くて はだめだのアキラメがよすぎてはいけないなぞと言わぬ。ただいつまでも野心だけは棄てないよ うに、どんなになっても野心さえ燃やしていれば、人間いつでも楽しく暮らせる」と教えて下さ った。  それからまた、人は容易なことで死ぬものではない、また殺されるものではない、だから死ぬ の殺されるのということは決して考えなくてもいい、ということをも話して下さった。この時分 お父さん少し気が傲って、親爺なぞ時勢遅れだ、敗余の人間だくらいに思っていたのだが、これ を聴いて少し驚いた。そして親爺はやっばりえらいわい、生死の|衝《ちまた》に出入して来たのだから言う ことがしっかりしていると思って、やや尊敬の念を起した、しかしまだおじい様の愛ということ には思い到らなかった。それを知ったのはおじい様が明治三十四年いよいよ伝道をおやめになっ て、再び大積寺山中の人とおなりになってからのことだ。 再び大積寺山中の人となる  ここでまたAさんが出てくる。おじい様静岡時代にはよくAさんと衝突なさった、中央会堂時 代にも喧嘩をなさったが、再び教職にお帰りになると同時にすっかりその反抗気分を櫛ちもっば ら下手に出てお|交際《つきあい》なさってだった。ところがAさんの方ではそうは思っていない、少しでも教 会内にAさん反対の気勢が現われてくると、あれは結城さんの仕業だ、結城さんが尻押しをして いるのだと言って目の敵にする。それが嵩じてとうとう辞職勧告になった。忘れもしない三十三 年の暮だ、米山定昌さんがAさんの御使者になって、あなたももう老齢になったから引退しては どうですといってきた。この時おじい様五十六歳、髭こそ白くなったれ、元気決して壮者に劣り はしない、説教は下手だけれど牧会の手腕は他に比嗜なしといっても差支えないほどだった。し かし部長様が認めて老朽事に耐えずというのだから仕方がない、それでは退隠しますが少し都合 がありますから来年の六月まで待って下さいと申し出た。これは六月になれば大積寺開墾地の小 作契約期限が切れる、今さら他に職を求めるのも厭だし、禮一の厄介になるのも心苦しい、辞め たら山へ引っ込んで桑でも作って静かに余生を送ろうとお考えになったからだ。  お父さんはその時ちょうど大阪にいた。三十二年九月に『甲斐新聞』ヘ行って三十三年四月に 東京に帰り、さらに徳富先生から本当の新聞記者になるには一度大阪で修業して来なければいか ぬと言われたのですぐ『大阪新報』へ行き、『新報』から転じて『大阪毎日』の記者になってい た。社内でも重く用いられていたし世間にも相当幅を利かせていたので「山へ引っ込むのは不賛 成です、皆さん大阪へいらっしゃい僕が何とでもします、大阪がいけなければ『国民新聞』へ帰 ってお迎えしますから」と言って上げたら、その時のおじい様の御返事は今憶い出しても本当に 涙の出るほどありがたいものだった。  おじい様はまず「お前の親切を深く感謝する」とおっしゃってそれから「しかしお前はまだこ れから大きくならなければならぬ、大きくなるにはもっと勉強しなければならぬ、父(おじい様 のことだ)は不幸にしてお前に十分な教育を与えることができなかった、済まないことと思って いる、世の中は実力も必要だが肩書もそれ以上必要だ、お前はまだ若い、何かの機会にぜひ洋行 してくれ、そしてモ少し学問してくれ、今おれたちがお前の厄介になることはお前の発達を沮む ことだ、おれにはそんなことはできない、親としてお前に学問させることができなかったから、 せめては今後お前の学問の邪魔だけしたくないと思っている、何も知らぬ廉造やトミには気の毒 だが、おれはお前のためにほかの子供をみんな犠牲にするつもりだ、お前もどうかおれの心を諒 として→,生懸命勉強してくれ」と言って下さった。これを見てお父さんしみじみ、ああ自分は本 当に不孝の子だったなと思った。廉造さんやトミさんを犠牲にするばかりでなく御自分御自身を も犠牲にして下さってたのだ、これは決して今に始まったことでなく韮崎以来ずっとそのお心だ ったということが初めて分った。そしてどうかしてこの児に学問させたいとお思いになりながら、 万事|棚齢《そご》してそれができず、あせりにあせって歯がみをなさってたお心持がはっきり分った。そ れとも知らず調子に乗って自分の功名にのみ焦心していた我身が我身でたまらなく憎くなった。 何、親を養いながらだって勉強できないことはない、それには大阪あたりにぐずぐずしていては いけない、早く東京へ帰って何とか方法を立てなければならぬと思って、すぐ徳富先生へ手紙を 出して、大阪の修業ももう十分と思う、帰京してまた『国民新聞』で働きたいが、今度はこれこ れの事情だから、お金を成るたけ多くいただきたい、そして勉強の時間もいただきたいといって やった。すると徳富先生から事情よく分った、|一同《みんな》とも相談した結果、横浜へ支局をこさえて君 を支局長にすることにした、月給は六十五円やる(当時の六+五円というのはまったく破天荒の給料 だ)、横浜にいれば西洋人とも接触して勉強の機会は十分にあるといってよこして下さった。  しかるに好事魔多し。お父さんその時、病気してしまった、のみならずほかにも少し事情があ って大阪を引き上げることができなかった。するとおじい様は委細構わず六月になると縞麗に勝 沼を引き払い、おトミ叔母ちゃんを校費生として山梨英和女学校へ託したきり、後の家族を全部 引き連れて大積寺の開墾地へ引っ込んでおしまいになった。  その時おじい様は五十八、おばあ様は四十七、廉造叔父ちゃんが十五、朝章さんが九ツ、おス ヱさんが六つで、朝章さんは山から村の小学校へ通ったが廉造叔父ちゃんはまったく学業を廃さ ねばならぬことになった。おじい様も|鍬《くわ》を取り、廉造叔父ちゃんも鍬を取り、おばあ様さえも時 には畑へ出てお手伝いをなさっていた。山は前におじい様がお引っ込みになった時よりもずっと 開けて、家の畑のほかに村方で開墾した畑も多少あって、そこには村方の小作が一家族住んでい たが、それでも寂しいことはかなり寂しい。お|住居《すまい》はやはり以前からあった古いお堂でそれに座 敷を|一室《ひとま》建て増しをして|楯間《びかん》に市川の渡辺さんが書いて下さった静虚窟という額を掲け、おじい 様は自ら静虚窟主人と号して時折は詩を作ったり俳句(無論綿入り)を作ったりたさってだったが、 何しろもうお年がお年だし昼間過度の労働をなさるため、夜になると直ぐお静まりで、本を読ん だり碁を打ったりするお楽しみは少しもなかった。  お父さんはその年の九月にようやく東京へ帰って来た。徳富先生は今まで一体何をしていたの だと頭からお小言だったけれどすぐまたそれなら横浜へ行くがよかろうと親切にお世話下さった。 するとそこへ長野から山路(愛山)さんが出て来た、山路さんはやっぱり東洋英和学校の出身で お父さんを最初徳富さんへ紹介してくれた方だ。その時は『信濃毎日新聞』の主筆をしていたが、 今度その競争者たる『長野新聞』へ茅原華山が主筆にたって来る、茅原は編輯がうまい、これに 対抗するにはどうしても結城でなければならぬ、ぜひ結城を長野へよこしてくれと徳富先生に居 催促をはじめた。先生が「結城君どうする」と言うからお父さんは「それは横浜の方がよい、けれ ど山路さんがお困りというなら一年だけお手伝いにまいりましょう」と言った。無論編輯長とし て行くのだから相当なことはしてくれるだろう、そしたらおじい様たちを長野へお呼びして廉造 も長野の中学へ入れればいいと思ったのだ。ところが長野へ行ってみると意外とも意外とも「結 城禮一郎、記者に採用す、校正係を命ず、月給二十円」という辞令だ。つまり山路さんが前もっ て社長の小坂善之助に相談せず、一人であわててお父さんを連れていったところ、社長がそんな 者はいらぬ、山路に破格の高給を払ってるのにその上また七十円の八十円のという記者を抱える 必要はない、それに見たところまだ小僧ッ子じやないか(お父さん二十五だった)働けるか働けぬ か使ってみた上でなければ承認できぬといったので、気の弱い山路さん、それを押し返すことが できず、気の毒だが結城君辛抱してくれ辛抱してくれというのだ。お父さんいくら山路さんだか らといってこれはあまりひどいと思ったので一週間いて東京ヘ逃げ帰った。すると徳富先生から それでは山路の立場がなくなる、人間には犠牲の精神が必要だ、病気したと思って一年辛抱した まえ、君の御親父も山へ引っ込んだばかりですぐ出てくるのも変だろう、一年ぐらい辛抱して貰 い給えと事を分けての説得にお父さんも仕方がなくスゴスゴ長野へ帰って行った。  先生は御親父にも辛抱して貰い給えと言ったが、実際その辛抱がどのくらい悲惨なものであっ たかは御存じなかった。百姓はどこでも同じこと、初年度には一文の収入もない、とても米の飯 なぞ食ってはいられない、それで蕎麦粉を食う|玉蜀黍《とうもろこし》を食う鯛鈍なぞは上食だ。長野にいてお父 さん本当に気が気ではなかった、それで自分の方を詰められるだけ詰めて毎月送金できるだけ送 金した。それでも間に合わなくて大悲惨事が出来した。  というのはその年の暮になって、おじい様掌中の珠だったおスヱさんが病気して、医者に見せ るに及ばずして死んでしまったことだ。いかに山奥のことだからといって医者を呼んで呼べない ことはない、しかし呼ぶには金がかかる、山道三里を馬で来るのだから相当お礼をしなければな らぬ、それが第一気がかりだったのでまアも少しも少しといってるうちに手遅れになって死んで しまったのだ。おじい様おばあ様の胸中、さぞ残念なことだったろうと、お父さん報に接して涙 の|涛柁《ぼうだ》たるを禁ずることができなかった。同時にこれは一体誰が悪いのだ、おれが悪いのか、親 爺が悪いのか、おれが横浜へ行っていたたら、そして月給六十五円貰って一同を呼び迎えていた なら、でなくとも『信濃毎日新聞』編輯長になっていてせめて十分のお仕送りをすることができ たなら、こうした悲惨事には出会しなかったろうにと思うと、恨みはどうしても山路さんに向け られねばならぬことになる。山路さん決して悪意があってしたことではなかろうが、こういう結 果にたれば善意も悪意になる、いわんや最初から自己不注意のためこんた羽目に人を陥れたにお いてをやと思って、その夜は危く山路さんの家へ荒れ込もうとするところだった。僅かに気を取 り直してそんな乱暴はせずに済んだが、それ以来お父さんは自らひそかに山路愛山の門下生たる ことを取り消してしまった。後年山路さんが物故し、民友社で『愛山文集』を出版した時、こう いう仕事は門下生のすべき仕事だ、結城は一体どうしているのだと言ってた人もあったが、お父 さんは笑って答えなかった。山路さんのためには既に一人の妹を殺している、これ以上御奉公す る必要はないと思ったからである。この心持は今まで誰にも話したことはないが、ことのついで だからちょっと弁明しておく。 全く隠居して東京から大阪ヘ  しかしお父さんが呼ぴさえすればおじい様いつでも東京へ出て来て下さると思ったのはお父さ んの大きな誤りだった。おじい様の愛の深さはまったくお父さんの測定以上だった。  お父さんは約束の一年を長野で送って三十五年の九月に『国民新聞』へ帰って来た。横浜支局 はその後沙汰止みになったが、徳富先生非常にお父さんを可愛がって、社からはそう大して高給 を払うことはできないが、君がもし|御親父《ごしんぶ》を呼び寄せるというならほかで何とか工夫して必要の ものだけは上げようと言って下さった。それ故早速その趣きをおじい様に申し上げた。するとお じい様の御返事はこうだった。 「親切はありがたいがおれはまだ山を下らぬ、決して人は額に汗して食わねばならぬからという 訳のみではない、お前ももう妻帯せねばならぬ、その方が先だ、妻帯して一家を構えてそれでも まだ余裕があったら引き取られよう、しかしそれにしても決して無理な金を取りたがってはいか ぬ、親を引き取る、金がいる、そうすると『国民新聞』以上に給料を出すところがあるとお前は 勢いその方へ行きたくなる、おれはそれが厭だ、もしおれのためにお前が身を売らねばならぬこ とになるならおれは死んだ方がいい、稼げるだけ稼いで取れるだけ取るとなると人間が卑しくた る、おれはお前を卑しい人間にしたくない、おれの方はもう楽になった、今年は桑も幾ら幾ら売 った、麦も幾ら幾ら穫れた、味噌も造ってる、醤油も搾った、買うものは米と塩と砂糖だけで、 よく働くから体も達者で、薬もすっかり必要がなくなった」というておよこしになった。何、実 際は決してそうお楽ではない、第一朝早くから晩遅くまで畑仕事をなさるのは生やさしいことは ないのだが、ただの一度も苦しいの詰らぬのとおっしゃったことはない、たまにお父さんが帰省 でもすると、あらん限りの御馳走をして下さって、わざと快潤にわざと愉快そうに、ただ、お父 さんに心配させまいとのみお努めになった。お父さんには底がすっかり見えすいていたけれど、 おじい様が折角楽しい楽しいとおっしゃるのを強いて楽しくないことにするにも及ぶまいと思っ て、涙を隠して一緒に笑って帰って来たのだった。おじい様がこれほどまでにお父さんを思って いて下さったことがいよいよ明らかになるにつれ、お父さんは本当にどうしてこれにお報いした らよかろうかと今度はそれがひどく心配になり出した。  お父さんは明治三十九年の四月に結婚した。おじい様は前のお話もあったことだから強いてお 呼びする訳にもゆかず、その代りに廉造叔父ちゃんを引き取った。叔父ちゃん昼は神田の学校へ 通い夜『国民新聞』の発送部へ勤めていた。そのうちに日露の風雲が急になり、お父さんは社か ら満州へ派遣された、年末一度帰って来たがまたすぐ佐世保へ出張を命ぜられ、次いで支那へ渡 って|芝果《チモフき》から大連と渡り歩いた。それでお輝さんはひとまず実家の韮崎へ帰り(韮崎で慎太郎が生 れたのだ)叔父ちゃんは草野茂松さんのお世話になってた。  戦争が終ると国民その講和条件に満足せず、不平勃発して暴動となり、『国民新聞』も焼打ち された。お父さんたち三日も社内に籠城してことごとく一死を覚悟した。幸いに戒厳令が発布に なり、暴徒退却して一同無事なるを得たが、その情報を聞いて躍り上ってお悦びになったのはお じい様だ。すぐ山を下って東京へ来て、『国民新聞』を訪問して「よく闘って下さった、私は嬉 しい、天下を敵としながら少しも臆せず、新聞を一日も休まず、日本国中が志士と呼ぶ人たちを 頭から暴徒呼ばわりして叱りつけた意気が嬉しい」と言って、固く徳富先生の手をお握りになっ た。先生の眼にも涙があった。社の人たちはおじい様を見て「あれが東三郎だ東三郎だ」と言っ ていた。東三郎というのは徳富健次郎さんの小説『黒潮』の中に出ている旧幕の遺臣で、その武 田浪人であることから維新当時近藤勇と策応して兵を甲州に挙げ勝沼に戦って敗れたことなぞ、 大分おじい様の経歴と似通ってるところがあったので、|一同《みんな》東三郎のモデルは結城の親爺だと思 い込んでいたのだ。お父さんは健次郎さんに一度もおじい様のことを話したことはなかったが、 ことによると蘇峰さんからまた聞きでもしてそれでおじい様をモデルにしたのかもしれぬ。  この時も徳富先生から「もうよい加減に御上京なさってはいかがです」と勧められたが、「い やまだまだ」とおっしゃってそのまま国ヘお帰りになった。もっともこの時は四年も苦労なさっ た結果山も少しは楽になり、畑仕事の大部分は作男を雇ってやらせるようになってはいたのだが、 それでも冬は寒く魚はなし、決して老人の隠居すべきところではなかった。本当に「もうよし」 とおっしゃって山をお引き払いになったのはそれからまた二年たった明治四十年のことだった。  その時お父さん少しお金ができたので渋谷へ地所を借りてささやかながらおじい様たちのお住 居を建築し、それに附属してかなり広い地所に鶏舎をつくってお慰み半分に養鶏をおさせ申した。 「おれはただ隠居」ているのは厭だ、何でもいいから働きたい」とたっての御希望だったからで ある。養鶏のお手伝いには甲州からお母さんの妹婿の長谷川の家族が出て来てこれも慰み半分に やっていた。この間死んだ道ちゃんはここで生れたのだ。場所は今の天現寺の電車停留場を少し 西へ行って左へ曲り河を渡った左手の山だった。  この隠居家はその後お父さんのお友達の高須賀淳平という人がお金が入用だった時ちょリと貸 してくれというから承知して判を捺して抵当に入れたら、期限が来ても返金せず、たちまら高利 貸しに取り上げられてしまった。おじい様は家の|周囲《まわり》に桐の苗なぞお植えになって、これて今に 箪笥をこさえるのだと言って、すっかり永住のつもりでおいでになったのを、一朝お父さんの失 策から無碍に取り上げられて即時追い立てを食ったのだから、よほど御立腹になるだろうと思っ たところ、「裸で来たのだから裸で出て行くまでサ」と少しもお悔みもなさらず、悠然として目 黒の借家へお立ち退きになった。高須賀が恐縮してあやまりに行ったが一向お答めにもならなか った。ところが同じ御迷惑をかけたのでもBに対しては本当に怒っておいでだった。  Bはお父さんの同僚で社内では女みたような奴だといわれていたがお父さんとは仲善しだった。 それでお父さんがおじい様のために養鶏をはじめるとおもしろ半分に来てはいろいろ世話を焼い ていたがそのうちに仕事に興味を持ち出して、お爺さんではダメだ僕がやってやろうと言い出し た、おじい様もBの講釈を聞いてその新知識に感心していた際だったのでそれではやって貰おう ということになった。するとBはすぐ鶏舎を拡張し"オーピントンだとかハンバーグだとかいう 高価な鶏を買い入れ、養鶏倶楽部(洋鶏だったかもしれぬ)と名づけ、その時分には破天荒な立派 なカタログを作って盛んに玉子や|雛《ひよ》ッ|子《こ》を売り出した、その資金はみんなお父さんが出した。助 手にはBの知り合いの書生を使って、長谷川はまったく御用なしになってしまった。この書生さ んが後に憲政擁護運動や労働運動で活躍した橋本徹馬君だ。玉子や雛ッ子はおもしろいほど売れ た。利益も相当にあったがそれは全部拡張資金へ廻わしておじい様の手へもお父さんの手へも一 文も配当は来なかった。来ないだけなら何でもたかったのだが、そのうちにBが儲けをボツボツ 食いはじめた、拡張資金の方へ廻わさずに自分の道楽の方へ使いはじめた。橋本君が見るに見兼 ねてお父さんに注意してくれたが、お父さんはまさか道楽に使うことはあるまい、今細君が病気 -してBは金が入用なのだ少しぐらいのことは大目に見てやらたければなりますまいとおじい様に も申し上げていた。ところがそれがだんだん少しぐらいではなくなった、売っては食い売っては 食いするので鶏舎がめっきり寂しくなった。それで今度は地方から為替で註文が来ると為替を取 りッ放しにして鶏を送らない、註文主が怒って警察へ訴える、その都度警察へ呼び出されてお叱 りを受けるのはおじい様だ。それでおじい様も我慢しきれなくなってBに厳重な談判をしたら、 それではもう廃めましょうと言ってサッサと倶楽部を解散してしまった。そして一通の清算書を 作って差引き財産三百円、この三百円は僕が君から借りたことにする、いずれそのうちに返すか らと言って結末をつけた。お父さん少し癩にはさわったが、金銭問題で多年の友情を損じてはと 思ってその後なるたけこの事件には触れないようにしていた。  ところがおじい様、Bのこの仕打ちがよほど腹に据え兼ねたとみえて、御永眠になる前日、B のあの問題はどうなってる、何とかその後言ってきたかとお訊ねになったから、イエ何とも言っ てきませんと申し上げたら、それはひどい厳重に談判するがいい、談判には有松をやったらよか ろうとまでおっしゃった。もっともおじい様はこのほかお父さんが『国民新聞』を出た当時のB の態度を蔑んでいらっしゃったので平生に似気なくこんな強いことをおっしゃったものとみえる。 それでお父さんはおじい様のお葬式が済むとすぐ有松君をBのところへ談判にやったら、けしか らんことをいうあれは僕と結城君との間に既に友誼的に解決されている、今頃何でそんなことを 言ってくるかと有松君を脅しつけて帰してよこした。お父さんの方には友誼的にも非友誼的にも テンで何も話はないのだから、Bもあんまりだと思った。ほかのことなら黙してもいようがおじ い様の遺言だからこのまま引っ込む訳にはゆかぬ、有松君は私が行づて郷ってきますと言ったが 郷って済む問題ではない、いろいろ考えた末お父さん一生Bを軽蔑することに定めた。今でもず っと軽蔑している。『国民新聞』の会なぞでよく顔を合せることがある、向うでは何かと話しか けるがお父さんの方ではジッと顔を見詰めてちょっと冷笑してやる。単にそれだけのことだがな かなか痛快だ。Bもこの頃では少し薄気味悪く思ってるようだ。  おじい様は渋谷を退却してから目黒へ隠居して最早何をなさろうともせず、方々の教会を廻わ り歩くのを道楽にして、そのうちにお父さんが大阪へ行って『帝国新聞』を創刊することになっ たら一緒に大阪へ来て下さって阪神沿線の大石にお住いだった。養鶏をおやめになったのが明治 四十二年、大阪へお出でになったのは同四十四年の夏だった。 児孫に擁せられ笑うて永眠 『帝国新聞』が没落したのでお父さんや新谷さんや三井さんなぞはすぐ東京へ引き揚げて来たが、 おじい様とおばあ様は一足後に残り、何でも市川君か誰かがお迎いに行ってお連れ申したと|記憶《おぼ》 えている。そして大久保の聖書学院の前へ一軒家を借りてお住いになった。隣りが大家で植木屋 でその庭をすっかりこっちで見ることができたので、家は狭かったけれどおじい様これはお大名 の下屋敷だとおっしゃってひどく御満足だった。これに限らずおじい様は明治四十年の御出京以 来、時には随分お腹のお立ちになることもあったろうし、困ったなアとお思いにたったこともお ありになったろうが、かつて一言、人に向って不平らしいことをおっしゃったことなく、天に感 謝し地に感謝し、特にその子供らに感謝して、徹頭徹尾感謝の生涯をお送与になってた。あきら めたといえばよくおあきらめになったものだが、そこには人知れぬ克己と苦辛がおありになった こととお父さんは拝察している。  そのうちに時が来た。天に召さるる時が来た。おじい様大久保にいらっしゃってもお達者なこ とは非常にお達者で、若い時鍛えた体は少しは違うサと御自慢なさっていたが、胃は前からあま りお丈夫の方ではなく、久しい前から食後には始終重曹を召し上っておいでだった。それが大久 保へ来た翌年の五月、お腹が痛むとおっしやってお臥みになった。近所の医者に診察して貰った ら何に大したこともありませんと言っていたが、しばらくしてある日魚の膓のようなものをどっ さりお吐きになった。びっくりして浜町の松山先生に来ていただいたら胃癌だと宣告された。そ れにしても胃癌がよくこれまで持っていたものだ、少しも苦しまなかったというのは不思議だと 言われた。おじい様はその前からどうも胃癌らしい胃癌らしいとおっしゃってだったが、苦痛を 訴えないから誰もそうとは思わなかった。宣告されて|一同《みんな》蒼くなったがおじい様は一向平気だ、 スヤスヤと眠ってばかりいらっしゃる。そのうちにだんだん衰弱が加わってきて明治四十五年五 月十七日の払暁永き眠りにお就きになった。しかしその前の晩まで意識も元気もしっかりしてい て、ちょっとお眠りになる、ふと目を開く、何だおれはまだ死ななかったのかとおっしゃってお 笑いにたる、いよいよ注射で持たせるようになっても、時々眼をお開きになっては、ああ|一同《みんな》揃 ってるナ、まだ一同の顔がはっきり見える、ソレこれが彊一、これがトヨ、これがマサ、これが |手前《てめえ》と言っておばあ様をお指しになった。おばあ様を「手前」とお呼びになったことがお父さん にはまだはっきり耳へ残っている。御臨終の時には子供ら一同枕許に揃っていた。おトヨ叔母ち やんもおマサ叔母ちゃんも大阪・京都から駆けつけて来た。おじい様は|一同《みんな》を集めておいてそれ からお父さんに向って「おれは平和だ何も思い残すことはない」とおっしゃり、改めてお母さん を呼んで、「いろいろお世話になって嬉しい」とお礼を述ベられ、さらに慎太郎の手を握ってニ ッコリお笑いになったまま、眠るがごとくに|呼吸《いき》をお引き取りになった。.  葬式は中央会堂で執行し、お墓はおじい様と一番縁故の深い東山梨郡差出磯の山の上ヘ建てた。 すぐ眼の下に日下部教会がある、左はすなわち八幡村で、右の方斜めに御出生地の田中が見える、 遙か向うの山の|峡《かい》が大積寺山で、それからずっと|首《こうべ》を廻わせば柏尾も指顧することができる。お じい様ここに安らかにお眠りにたってからもう十三年。三周忌の時に建てた墓石にはそろそろ苔 が|生《む》してきたが、お父さんの眼には万事なお昨日の夢のごとく、ともすればおじい様そこの橋の 上をお歩きになってでもいるかのように思われてならぬ。  思わず長話になった。もう切り上げよう。ただ一つ残念なのは、これを本にしておばあ様にお 目にかけることができなかったことである。おばあ様まさかあんなに急にお亡くなりになろうと は思わなかったので、原稿も一度もお目にかけず、またおばあ様のことも話の中にあまり取り入 れてなかった。仕方がない。おばあ様のことはまたこの次の機会セ待つことにしよう。 『お前達のおぢい様』大正十三年七月、玄文社