三上於菟吉 雪之丞変化 女がた       一  晩秋の晴れた一日が、いつか|黄昏《たそが》れて、ほんのりと空を染 めていた|タ映《ゆうぱえ》も、だんくに|淡《うヂ》れて行く頃だ。  浅草今戸の方から、駒形の静かな町を、|小刻《こきぎ》みな足どり   おくらまえ      おやま            わかもの   かつらした で、御蔵前の方へといそぐ、女形風俗の美しい青年ー璽下 じ  やろうぽうし                 つよ 地に、紫の野郎帽子、襟や袖口に、赤いものを覗かせて、強 い黒地の裾に、|雪持《ゆきもち》の|寒牡丹《かんぼたん》を、きっぱりと|繍《ぬ》わせ、折鶴の 紋のついた藤紫の羽織、|雪駄《せつた》をちゃらつかせて、供の男に、 手土産らしい|酒樽《たる》を持たせ、うつむき勝ちに歩むすがたは、 |手搦女《たおやめ》にもめずらしい|鵬《ろう》たけさを持っている。静かだとはい っても、暮れ切らぬ駒形通り、相当人の往き来があるが、中    としごろ                   やさ でも、妙齢の娘たちはだしぬけに咲き出したような、この優 すがたを見のがそう筈がない。折しも、通りすがった二人づ れ1|対《つい》の黄八丈を着て、|黒編子《くろじゆす》に|緋鹿《ひが》の子と麻の葉の帯、       ふく'づつみ            しゆぼね 稽古帰りか、祇紗包を胸に抱くようにした娘たちが、朱骨の 銀扇で、白い顔をかくすようにして行く、女形を、立ち止っ て見送ると、 「まあ、何という役者でしょう? 見たことのない人-」 「ほんにねえ、大そう|質直《じみ》でいて、引ッ立つ|扮装《なり》をしている のね? 誰だろう?」と考えたが、 「わかったわ!」 「わかって? 誰あれ?」 「あれはね、屹度、今度二丁目の市村座に掛るという、大阪 下りの、中村菊之丞の|一座《ところ》の若女形、雪之丞というのに相違 ないでしょう-雪之丞という人は、きまって、どこにか、 雪に縁のある模様を、つけているといいますからー」 「ほんにねえ、|寒牡丹《かんぼたん》を繍わせてあるわ」と、|伸《の》び上がるよ うにして、 「一たい、いつ初日なの?」 「たしか、あさッて」 「まあ、では、じき、また逢えるわねえ。ほ、ほ、ほ」 「いやだ、あんた、もう|贔演《ひいき》になってしまったの」二人の娘 は、笑って、お互に挟で撲つまねをしながら、去ってしまっ た。美しい俳優は、そうした行人の、無遠慮な曝やきを、迷 惑そうに、いつか、諏訪町も通り抜けて、ふと、右手の鳥居 を眺めると、 「おや、これは八幡さまーわたしは、八幡さまが|守護神《まもめがみ》 ーねえお前は、この、お鳥居前で待っていておくれi御 参詣をして来ますからII」と、供に言って、自分一入、石 段を、小鳥のような身軽さでちゃらくと上がって行った。 八幡宮の、すっかり黄金色に染って、夕風が立ったら、散る さまが、さぞ綺麗だろうと思われる|大銀杏《おおいちよう》の下の、|御手水《みたらし》で うがい|手水《ちようず》、|祠前《しぜん》にぬかずいて、しばし|黙薦《もくとう》をつゾけるのだ ったが、いつかれる神が武人の守護神のようにいわれる八幡 宮、おろがむは妖艶な女形ーこの取り合せが、いぶかしい といえばいぷかしかった。礼拝を終って、戻ろうとしたこの |俳優《わざおぎ》ーハッとして立ち止った。思いがけなく、銀杏の蔭か ら声を掛けるものがあったのである、 一,これ、大願、 二 一そう|根《こん》を詰めねば成就いたさぬぞ」  不意に、奇怪なことを銀杏の樹蔭からいいかけられて立ち すくんだうら若い女形ー胸の|動悸《どうき》をしずめようと、するか のように、白い手で、乳のあたりを押えたが、つづけて、雛 枯れた声が、言いつづける。 「人のいのちは、いつ尽きるか分らぬものーそなたの大 望、早く遂げねば、悔ゆることがあろうよ」女形は、右の手に 持っていた銀扇を、帯の間にーそのかわりに、どうやら|護《まも》 り刀の|柄《つか》に、そっと、その手を掛けたかのよう1|四辺《あた 》を見 まわして、ツカツカと、声のする方へ行った。そこには、小 さな組み立ての机、|笠竹《ぜいちく》、|算木《さんぎ》で暮す、編笠の下から、白い |髭《ひげ》だけ見せた老人が、これから、商売道具を並べ立てようと しているのであった。 「御老人」と、澄んだ、しかし鋭い調子で、「只今のお言葉、 わたくしへでござりますか?」老人は、細長い身を、まっす ぐに、|左手《ゆんで》で、しずかに、|白髭《はくぜん》をまさぐったが、 「左様-そなたの人相、|気魂《きはく》をうかゞうに、一かたならぬ 望みを持つものと観たーと、ゆうても驚くことはないー わしは、自体他人の|運命《さだめ》を占のうて、|生業《なりわい》を立つるものー 何も、そのように驚き、|狽《あわ》て、芸人にも似合わしからぬ護り 刀なぞ、ひねくるには及びませぬよ。は、は、は、は、は」 |錆《さ》びた笑いに、一そう|脅《おびや》かされたように、|右手《めて》を帯の間から 出して、白い頬に持って行ったが、 「ほんに、恐れ入りました御眼力1いかにも、わたくしは 並み/、ならぬ望みを持ちますものー」と、つゝしんで言 って、 「ところが、只今、うけたまわれば、人のいのちは、 限りがあるものとのお言葉iでは、わたくしは、望みを遂 げませぬうちに、この世を去らねばならぬのでありましょう か?」 「そこまでは、わたしも言えぬ」と鐵枯れた声が、突き放す ように言ったが、「が、しかし、そなたの寿命ばかりではな い。相手の寿命ということも考えねばならぬ」 「えッ! 相手の寿命?」女形は、低く、激しく叫んだ。彼 の、剃り痕の青い眉根がきゅッと釣って、美しい瞳が険しく きらめいた。 「左様、そなたは、大方、他人のいのちを狙うているー」 老人は落ち着いた調子で、つ寸けて、「しかも、一人、二人の いのちではない1三人、四人、五人-あるいはそれ以 上、その人々の中、手にかけぬうち|失《 つ》せるものがあったら、 さぞ、口惜しかろうがl」 「一たい」と、青年は、老人が前にした|高脚《たかあし》の机に、すがり 寄って、二たい、あなたは、どのようなお方でござります ーわ、わたくしが何者か、御存知なのでござりますか?」 すッかり、血相が変って、又も帯の間の|懐剣《かいけん》の柄に、手をか けて叫ぶのを、騒がず見下ろす老人、「はて、いずれの|仁《じん》か な? が、わしにはそなたの護り袋の中の、大方、|父御《てヤゴ》の|遺 言《ゆいごん》らしいものゝ|文言《もんごん》さえ、読めるような気がするのじゃ」 三 老人の言葉は、いよ/\出でて、 いよノ\奇怪だ。 その怪 |語《ご》に、一そう急き立つ|青年女形《わかおやま》を、彼は雛ばんだ、細長い手 を伸べて、抑えるようにして、 「その父御の遺言の文句は、随分変妙なものであろう1他 人が、ちょいと覗いただけでは、何をゆうているやらわから ないような、気違いじみたものらしいな。どうじゃ、お若い お方、違うかな?」と、言って、今は、まるで放心したよう に、目をみはり、|唇《くち》を開けて、うっとりと突ッ立ってしまっ た相手を眺めたが、急に、ぐっと編笠に|蔽《おヤ》われた顔を突き出 して、囁くようにー「その、|呪文《じゆもん》のような文には、こう書 いてあるに違いないー(口惜しや、口惜しや、|焦熱地獄《しようねつじごく》の 苦しみ、生きてい難い。呪わしや土部、浜川、横山-憎ら しや、三郎兵衛、憎らしや|広海屋《ひろうみや》-生き果てゝ早う見たい |冥路《よみじ》の花の山。なれど、死ねぬ、死ねぬ。口惜しゅうて死ね ぬ、いつまでつゞく、この世の|苦患《くげん》、|焦熱地獄《しようねつじごく》)1たしか、 こんなものであろうな? お若いお方?」サーッと、青ざめ た若者は、口が利けなくなったように、|土気《つちけ》いろの唇を、モ ガモガやったが、やっとの事で、 「あなたはどなた様? この私さえ、それを見るのが恐ろ しゅうて、覗こうともせぬ、護り袋の|秘文《ひもん》、狂うた父が、いつ 気が静まった折に書きのこしたか、死後に遺っておりました |文《ふみ》1それを、あなたが、まあ、どうして?」と、|吃《ども》り/\ 身を震わせながら言うのを聴くと、編笠の中で、かすかな、 乾いた笑いがきこえたようであった。細長い指が、顎の紐を 解くと、白轟ばかり見えていた、|易者《えきしや》の面相が、すっかり現 れる。すっかり禿げ上がった白髪を|総髪《そうはつ》に垂らして、額に年 の波、鼻隆く、|槌《あ》せた|唇元《くちもと》に、|和《やわ》らぎのある、上品な、六十 あまりの老人だ。じーっと、穴のあくほど、みつめる女形。 老人の顔が、何とも言えず、懐しげな、やさしげな、微笑の 搬で充たされると、はじめて思い出したように、 「お! あなたさまは、|孤軒《こけん》先生!」 「ウム、思い出したかな?」と、相手は、ますく楽しげだ。 役者は我れを忘れたように、高脚の机をまわって、老人にす がりつくようにして、 「わたくしとしたことが、大恩ある先生と、お別れして、た った五年しか経たないのに、お声を忘れるなぞとはーでも、 あんまり思いがけなかったものでござりますからー」美し く澄んだ目から、涙がハラハラと溢れて、白い頬を流れ落ち る。 「おなつかしゅう御座りましたーだしぬけに、大阪島 の内のお宅から、お姿が無くなって以来どのようにお探し申 しましたことかー」 「あの当時、とうに|退《ど》こうと思うていた大阪-そなたを知 って、訓育が面白さに、ついうか/\と月日を送ったもの よ、そなたに|入要《いりよう》なだけの学問は|授《さず》けるし、もうこれで役が 済んだとあれからまた、|翻々《ひよう/\》|四方《よも》の旅1ーは、は、とうとう、 今は、江戸で、盛り場、神社仏閣のうらない者1が、久々 で、めぐりあえて、うれしいのう」老人は、笑みつゾけて、 |青年俳優《わかおやま》をしげ/\と見たが、 「中村菊之丞一座花形の雪之 丞、津々浦々に聴えただけ、美しゅうなりおったの」 四  雪之丞と呼ばれる役者は、 讃められて、小娘のように、 大そう美しゅうなったーと、 ポッと頬を染めたが、つく介、 相手を見上げて、 「でも、先生も、ちっともお変りなさいませんーそれは、 お|髪《ぐし》や、お髭は、めッきり白うお成りなさいましたけれど ー」 「わしの方は、もう寄る年波じゃよ。が、兎に角、生きてい ることは悪うない。そなたに、こうして|避遁《めぐりあ》えたも、いのち があったればこそじゃ」と孤軒先生なる老人は笑ましくいっ たが、いくらか、眉をしかめるようにして、 「わしはそなた も知っての通り、風々来々の|暢気坊《のんきぼう》、世事一切に気にかゝる ことも無いのだが雨の日、風の日、そなたの事だけは、妙に 思い出されてならなんだーもしや、若気のいたりで、力及 ばずと知りながら、|野望《のぞみ》に向って突進し、|累卵《るいらん》を|巌壁《がんべき》になげ うつような真似をして、身を亡ぼしてくれねばよいがーと、 田心うてのー」 「師匠菊之丞からも、よくそれをいい聴かされておりますれ ば、これまでは、我慢に我慢をいたしておりましたが」と、 いいかけたとき、久しぶりに旧師と|避遁《かいこう》して、和らぎに|充《み》た された若者の面上には、またも苦しげな、|呪《のろ》わしげな表情が 返って来た。老人は、ジッと見て、 「我慢を重ねて、来たが、もう我慢が成らぬと申すか?」 「はい。この大江戸には、父親を、打ち|什《たお》し、蹴り仔し、|躁《ふ》  にじ                えいが  ほこ   '、狂い死にをさせて、おのれたちのみ栄華を誇る、あ の五人の人達が、この世を我が物顔に、時めいて暮しており ます。それを、この目で眺めたら、とても|恢《こら》えてはおられま いと、師匠も、大方、今日まで、わたくしの江戸下りを、止 めていてくれたのでございましょうが、今度、一緒に伴れて 来てくれましたはあの仁も大方、もうわたくしに、望みを晴 らせよーと、許してくれたのだろうと思います。それゆえ、 遠からず、たとえ力は叶わずとも、思い切ッて起ち上がりま す覚悟ーその一生の瀬戸際に、ふと、八幡宮に通りかゝ り、祈念のためぬかずいての帰り、先生にお目にかゝれまし一 て、こんな嬉しいことはござりませぬ」青年俳優の眉目には、 最近一身一命をなげすてゝ、大事にいそごうとするものだけ が現わす、あの|動《つよ》く、激しく、しかも落ちついた必死、懸命 の色が|液《みなぎ》るのであった。 「それもよかろうー」と|制《と》めもせず、老人はうなずいた。 「しかし、大事は、いそいでも成らず、いそがずでも成ら ずー頃合というものがある。変通自在でのうてはならぬ。 その辺の心掛けは、|夙《とう》から|訓《おし》えて置いたつもりゆえ、格別、 案じもせねど、まだ、何かと、このようなじゝいでも、頼り になるときがあらばたずねて来るがよい」 「いつも、このお|社《やしろ》に御出張でござりますか?」 「いや、例の風来坊ーが、大恩寺前で、|孤軒《こけん》と訊けば、犬 小屋のような住居におる。さ、売出しの女形に貧乏うらない が|長話《ながばなし》、人目に立っては成らぬ。|去《い》になされ」 「実は、これから、御存知の剣のお師匠、脇田先生へ、顔出 しいたそうとする途中でござりまする。いずれ、では、大恩 寺前とやらへー御免|蒙《こうむ》りまする」深まった|黄昏《たそがれ》の石段を、 雪之丞役者は、女性よりも優美な後姿を見せて下りて行った。 五 雪之丞が八幡宮鳥居前に待たせてあった、 |角樽《つのだる》を|担《かつ》がせた 供の男に案内させて、これから急ごうとするのは、縁あって、 |独創天心流《どくをうてんしんりゆう》の教授を受けた、|脇田《わきた》一|松斎《しようさい》の、元旅籠町道場へ だ。紫の野郎帽子に|額《ひたい》を隠し、優にやさしい女姿、il|小刻《こきざみ》 に歩み行く、璃たけたこの青年俳優の、星を|欺《あざむ》く瞳の、何と 俄に凄じい殺気を帯びて来たことよ! 彼の胸は、|不図《ふと》、八 幡宮境内で避遁した、奇人孤軒先生のあの暗示多い言葉を聞 いてから、日頃押えつけて来た、巨大な仇敵に対する|復讐心《ふくしゆうしん》 に、燃え立ち|焦《こが》れ、動乱し始めているのだった。  代々続いた長崎の大商人、その代々の中でも、一番温厚篤 実な評判を得ていたと云う、|親父《おやじ》どのを、|威《おど》したり、すかし たりして、自分たちの、あらぬ非望に引き入れて、しかも最 後に、親父どのだけに|責《せめ》を負わせ、裏長屋に狂い死にさせ た、あの呪わしい人達が平気な顔で揃いも揃って、栄華を極 めている、その江戸へ、やっと|上《のぼ》って来ることが出来たこの わたしが、どうして手を束ねていられよう。孤軒先生、わた しは屹度戦います。戦わずには置きませぬ。見ていらしって 下さいませー彼は胸の底で、誓うように|岐《つぶや》き続ける。中村 菊之丞の愛弟子雪之丞-生れついての河原者ではなかっ た。長崎人形町の裏長屋で、半ば毫け果てた、落ちぷれ者の 父親とたった二人、親類からも友達からも、すっかり見捨て られ尽くして、明日のたつきにも、|困《こう》じ果てゝいた時、その 頃これも名を成さず、|随巷《ろうこう》に埋もれていた場末役者の、菊之 丞に拾われて、父なき後は、その人を親とも兄とも頼んで、 入となって来た彼なのだった。それなら何故に、長崎で代々 聞えた、|堅気《かたぎ》な物産問屋、松浦糧鯖粧衛門程舅と、その伜 が、食うや食わずの場末小屋の河原者の情にまであずかるよ うに成り果てたのであったろう? すべてが、商売道に機敏 で鳴った同業、広海屋を謀師とした、奉行代官浜川平之進、 役人横山五助1それからおのが店の子飼の番頭、三郎兵衛 の悪業で、|汎《あら》ゆる術策を|揮《ふる》って、手堅さにおいては、長崎一 といわれていた、清左衛門を|魔道《まどう》に引き入れ、密貿易を犯さ せて、彼等自身が各ヒの大慾望を遂げてしまうと、長崎奉行 役替りの時期が来て、その罪行が|暴露《ぱくろ》するのを怖れ、清左衛 門一人に、巧に罪をなすりつけ、家は|闘所《けつしよ》、当人追放、一家 離散で、けりをつけてしまったればこそだった。雪之丞はそ の当時、まだ七つ八つのあどけない頃で、何故、ある晩、あ の美しく、優しい母が|咽喉《のど》を突いて死んでしまったのか、あ の大きな奥深い家から、突然、父親とたった二人、狭い小さ い|汚《きたな》びれた、裏長屋の一軒へ、移り住まねばならなかったの か、また、あの何時も静かな微笑をたゝえて、頭を撫でてく れたり、抱いてくれたりした父親が、ともすれば最愛の、い たいけな伜に|拳固《こぶし》を上げたり、かと思えば、何やらぷつく 独り言をいって、男だてらにほろくと涙を流したりするよ うになったのか、まるで、見当もつかなかった。たゞ、今で もはっきり目に映るのは、その頃雪太郎と呼ばれていた、い とけない一少年に過ぎなんだ自分が、そうした父親の、不思 議な挙動に目を|騨《みは》って、凝っと見詰めては、父親が泣き出す と、自分も一緒にしくくと、何時までも泣き続けていた、 黄昏の灯のない裏屋の中のあまりに佗し気な風情だった。 六 雪之丞は、もっと悲しいことを思い出す-寒い/\真冬 の夜更けだったが、その日一日、物をもいわず、薄い寝具の 中に|潜《もぐ》り込んだまゝ、死んだようになっていた父親が出し抜 けにもくりと蒲団に起き上がって、血走った目で|宙《ちゆう》を睨み、 「口惜しい奴等だ。憎い奴等だ。口惜しがっても、憎らしが っても、生きたまゝではどうにもならぬ。わしは死んで取り 殺すぞ。可愛い女房まで自害をさせ、この清左衛門の手足を もぎ、口を塞ぎ、浅ましい身の上に落した奴等、1どうし てこのまゝに置くものか」と、|坤《うめ》きながら、枕元で途方に暮 れている、吾が子をぎょろりと睨むように見詰めると、枯木 のように|痔《や》せ細った手で、引き寄せて、 「俺は死ぬぞ、雪太 郎。死んでお前の胸の中に魂を乗り移らせ、お前の手で屹度 あやつ等を亡ぼさせずには置かぬのだ」と、世にも凄まじい 調子で眩くと、わが子の身体を、ぐーっと抱きしめた。と思 うと、突然、「うゝむ」と、いうような|捻《うな》り声を立てると同時 に目をつり上げ、|頭髪《かみ》を逆立て、口尻からだらくと血を流 し始めた。雪之丞の雪太郎は、年はもゆかぬ頃、父親が、舌 を|噛《か》んでの狂い死にの、その|臨終《いまわ》の一|刹那《せつな》とも知らず、抱き しめの激しさに、|形相《ぎようそう》の怖ろしさに、ぐいくと締めつけ る、骨だらけの|腕《かいな》の中から、すり抜けて思わず壁ぎわまで遁 げ出し、べたりと坐って、わあくと泣き始めた。そこへ、 入口の建てつけの悪い戸が開いて、顔を出したのが、毎晩小 屋の戻りには、何かあたゝかい物の、竹の皮包でも|提《さ》げて、 見舞ってくれる、場末役者の菊之丞だった。菊之丞は、この 有様を眺めると、持っていた包を投げ出して、清左衛門を抱 き起した。顎から胸へかけて、 |霧《おぴたぜ》しく血を流し、いまはも う、目を|逆釣《さかつ》らせてしまった、哀れな男の顔を|窺《のぞ》き込んで、 菊之丞は涙をこぼした。 「とうとう、おやりなすったな! 無理はござりません。御 尤もです。松浦屋ともいわれた方が、役人や、渡世仲間や、 悪番頭の悪だくみにはめられて、代々の御身代は奪い取ら れ、如何に|密貿易《ぬけに》の罪をきたとはいえ、|累代《るいだい》御恩の子分児方 さえ、訪ねて来る者もない始末。天にも地にも見放されなす って、死んで仇を|呪《のろ》い殺そうとなさるのは、当然です。如何 なる御縁かわかりませぬが壁一重隣に住んで、御懇意申すよ うになった、この菊之丞、日頃の御心持は、よく知っており ます。身分違いの河原者、しかも、世の中に名も聞えぬ、|生 若《なまわか》い身にはございますが、|痔《や》せ腕ながら菊之丞、屹度、雪太 郎坊っちゃまを、お預かりいたし、必ず御無念を、このお子 の手で晴らさせて御覧に入れます」ほんに、どのような|宿世《すくせ》 であったか、その晩以来、雪太郎は、菊之丞の手に引き取ら れて、やさしい愛撫を受ける身となったのだ。菊之丞は、大 方、松浦屋の旦那が、草葉の蔭から、力添えをして下さるか らだ、1と、時々、雪太郎だけには|囁《ユ こや》いたが、アての後めき めき芸が上がって、雪太郎が十二、三になる頃には、だん だん|世上《せじよう》に名が聞え、いつか、大阪の名だたる小屋を、|常小 屋《じょうごや》とするまでの、名優となることが出来たのだった。雪太郎 は十二の年雪之丞という名を貰って、初舞台。子役として芸 を磨きながら、一方では菊之丞の心入れで、武芸、文学の道 に突き進むことが出来たのだ。 七 その頃の雪之丞の師匠だったのが、つい今し方、八幡さま の境内でめぐり会った、奇人孤軒先生1そして、剣道の師 範がこれから訪ねて行こうとする、今はこれも、江戸へ出て |御蔵屋敷《おくらやしき》の近くに、道場を構えている、脇田一松斎なのであ った。雪之丞は、|東下《あずまくだ》りをしたばかりの今日、この二人の恩 人たちに、会うことが、出来たということが、何となく、|幸 先《キ いいきしヰ 》がいゝように思われる。  これも大方、日頃から信心の、八幡宮の御利益だろう。  と、岐いたが、直ぐ首を振って、  1いやく、人間一生の大悲願、恩人でも師匠でも、頼 りにしてはかないはせぬ。矢張り、身一つ、心一つで、どん な難儀にもぷッつかれーそれが、あの方々の、日頃の|御庭 訓《ごていきん》でもあったのだー  そんなことを思いながら、道案内の供を先に、もうとっぷ りと暮れかけた、御蔵前を急いで行くと、突然、つい鼻先で、 「無礼者!」と、叫ぶ、荒くれた一声。|吃驚《びつくり》して見上げると 腰を|屈《かく》めた供の男の前に、立ちはだかった一人の浪人-|月 代《さかやき》が伸びて、青白い四角な、長い顔、|羊嚢《ようかん》色になった、黒い着 附けに、茶黒く汚れた、|白博多《しろはかた》の帯、|剥《は》げちょろの大小を、 落し差しにした、この府内には、到るところにうよくして いる、お定まりの、|扶持離《ふちぱな》れのならず|士《ざむらい》だ。供の男は、く どくど詫び入っている。雪之丞は傭向いて、考えごとをして 歩いていたので、何も気がつかなかったが、供の男が、通り すがりに、この素浪人の袖たもとに、思わず触れたものであ ったろう? ならず士は、いきり立つ。 「武士たる者に、けがらわしい。見れば貴様は、河原者の供 ではないか。身体に触れられて、その儘では措けぬ。|不慰《ふぴん》な がら、手打にするぞ」 「何分、日暮れまぐれの薄暗がり、あなたさまが横町から、, お出になったに気がつきませず、お召物のどこぞに、触った かも知れませぬが、それはこちらの|不調法《ぶちトモつほう》、どうぞ、お許し 下さいませ」と、供の男は、ひたすら詫びている。 「何に? 気がつかなかったと? その一言からして、無礼 であろう。さては貴様は、この方が余儀ない次第で、|尾羽打《おけう》 ち枯らしている故に、士がましゅう思わなんだというのだな。 いよノ\以て聞き捨てならぬ。それへ直れ」と、|猛《たけ》り|喚《わめ》く。 雪之丞は、困惑した。江戸にはこうした無頼武士がはびこっ て、相手が弱いと見ると、何かにつけて言がかりをつけ、金 銭をゆするはおろか時によると、剣を抜いて、|挑《いど》みかけるこ ともある故、気をつけるがいゝと、いわれていたが、早くも、 かような|破目《はめ》に落ちて、どうさばきをつけたらよいか、途方 に暮れた。それに、この浪人の唇から|漏《も》れた、河原者という 一言がぐっと胸にこたえたので、|平謝《ひらあやま》りに謝るのもいま/\ しかったが、虫を押えて、一歩進み出た。 「これはくお士さま。供の者が何か御無礼いたした様子、 お腹も立ちましょうが、御堪忍あそばして、許してやって下 さいませ」と、町嘩に挨拶する雪之丞の、たおやかな姿を、 素浪人は、かっと見開いた、毒々しい目でぐっと|睨《ね》め下ろし た。 八  おどくと、恐怖にみたされて、腰も抜けそうに見える供 の男を、いつか後に囲うようにした雪之丞は、浪人者の毒々 しい視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、重ねて詫びた。 「何分、わたくしは、御当地に始めての旅の者、殊更、取り 急ぎます日暮れ時、何事もお|心寛《こちろひろ》うお許し下されますよう ー」 「うゝむ」と、浪人者は|坤《うめ》いた。「重ね《\奇怪だ、無礼だ。 身分違いの身で、土下座でもして謝るならまだしも、人がま しゅう目の前に立ち|塞《ふさ》がって、それなる奴を、かばいだてし ようなどとは、いよく以て許されぬ。それへ直れ、押し並 べて、二人とも成敗する」雪之丞は、|微塵《みじん》、怖れは感じなか った。相手の|面構《つらがま》え、体構えに、本気で刀を抜こうとする汽 合が、籠っていないのは勿論1よしんば、斬りつけて来た にしろ、たかの知れた、腕前なのも見抜いている。  ーこの男、|威《おど》しにかけて、いくらか、|黄金《こがね》をせしめる気 だなー  人気|渡世《とせい》の女がた1豫更、始めて|上《のぽ》った江戸。こんな奴 を相手にするより、小判の一枚も包んだ方が、とくだとは思 ったが、尾羽打ち枯らして、たつきに困ればとて、|大刀《だトとう》をひ ねくりまわし、武力に|想《うつた》えて、弱い者から呑み代を、稼ごう と言う|了簡《りようけん》を考えると、人間の風上に置けない気がした。そ の上、辛抱がならないのは、天下の公道で、二言めには、河 原者の、身分違いのと、|喚《わめ》き立て、言い|罵《のもし》るのを聞くことだ った。  ーー何が、身分違い、河原者。舞台の芸に心を|刻《きざ》み、骨を 砕き、ひたすら、一流を立て抜こうとする芸人と、押し借り |強請《ゆすわ》の悪浪人と、何方が恥ずべき|境涯《きようがい》なのだー-  そヶ思うと、腕に覚は十分ある身、取って伏せたいのは山 山だったが、  1いや/\こゝで腕立てなどしたら、師匠の迷惑は言う までもなく、殊更、自分は、大望ある身体、千丈の|堤《つモみ》も蟻の 一穴。辛抱だII  と、胸を撫でて、 「では、こうして、お詫びいたします程に、お通しなされて 下さりませ」雪之丞は、膝まずいて、白くしなやかな指先を 土の上に並べてついた。 「何に?(では)だと?」と、浪人は笠にかゝって、「では Ilとは何だ? 心から済まぬと思うなら、そのような言葉 は出ぬ筈だ。許されぬ。堪忍ならぬ」と、大刀の|鯉口《こいぐち》を切っ て、のしかゝる。タまぐれとは言え、人通りの絶えぬ巷。い つか、黒山のように、人立ちがしているが、如何にも相手が 悪いので、雪之丞たちのために、扱おうとする者もない。雪 之丞は、本当に刃が落ちて来たなら、降りかゝる火の粉。引 っぱずして、投げ退けようとじっと気合を|窺《うかく》いながらも、胸 の中は煮えくり返った。  Ii大道の泥に、手を突かせられ、人さまの前で、|辱《ぽず》かし められるのも、もとはと言えば、役者渡世に、身を落してい ればこそ、それもこれも、みんな、|呪《のろ》わしいあの悪人共が、 親父どのを、悲しい身の上に、蹴落したからだ。この浪人を 怨むなら、彼奴らを|怨《さつら》み抜けー  浪人者も、|騎虎《きこ》の勢い1止め手がないので、 「う\おのれー」と、叫ぷと、とうとう、腰を|捻《ひね》ってギ ラリLし抜いた。       九  浪人が抜いたと見ると、雪之丞は大地に片手の指先を突い たまゝ、片手で、うしろに|鋸《うずくま》ってわなゝいている供の男 を、|庇《かぱ》うようにしながら、|額越《ひたいご》しに上目を使って、気はいを 窺った。雪之丞の、そうした|容態《かたち》は、相ち変らず、|淑《しと》やかに、 優しかったが、しかし、不思議に、五分の油断も隙もない気 合が|液《みなぎ》って、どんな、太刀をも、寄せつけなかった。浪人は、 まるで電気にでも触れたように、パッと飛び退って、|驚樗《きようがく》の 目を見はった。彼は、|白刃《はくじん》を振りかぶったまゝで、 凹,うゝむi」と、神いた。勿論、この浪人、雪之丞を、真 二つにする覚悟があって抜いたわけではない。が、相手の身 体から|送《ほとぱし》る、奇怪な、|霊気《れいき》のようなものを感じると、顔色 が変った。  ーこりゃ、妙だ。この|剣気《けんき》はどうだ? が、この河原者、 兵法に達しているわけはない。  彼は、そう心にいって、乗りかゝった船、思い切って斬り 下げようとしたが、駄目だった。振り下ろす|刃《やいぱ》は、ピーンと、 |弾《はじ》き返されるような気がした。 「うゝむ、1」と、彼は、また坤いた。雪之丞は、さもし おらしく、片手を土に突いたまゝだ。するとその時、取りま いた群衆の中から、 「うむ、面白いな。こいつあ面白いな」と、言う呑気な声が 聞えて、やがて、人山を割って、一人の職人とも、遊び入と もつかないような|風体《ふうてい》の、縞物の|素袷《すあわせ》の|片棲《かたづま》をぐっと、引き 上げて、左手を弥蔵にした、苦みばしった若者が現れた。 「おい、浪人さんーその刀は、どうしたんだ? |赤鰯《あかいわし》では ねえということは、御連中さま、もうよく、お目を止められ ましたぜ。斬るなら斬る、おさめるなら、おさめるーどっ ちかに片づけたらどうだ?」その吉原かぷりの若者は、ぞん 気にいって、雪之丞をながめて、 「ねえ、役者衆ー売り出 しの身で、大道に手をついているのは、あんまりいゝ図じゃ ねえ。おいらが引き受けたから、さあ早く行くがいゝぜ」そ の言葉を聴くと雪之丞は、 「御親切はかたじけのうございます」と、そう言いながら、 チラと、若者を仰いで、すらりと身を起した。 「お言葉に|従《したが》い、ではわたくしは、行かせていたゾきます。 さあ、そなたも」と、腰が抜けたような、供の男を|促《うなが》して、 素早く人混みの中に、くゞり込んだ。その彼の耳に響くのは、 吉原かぷりの若者の、きびくした|淡呵《たんか》だった。 「さあ、お浪人、相手が変ったぜ。弁天さまのような|女形《おやま》の かわりに、我武者らな、|三下《さんした》じゃあ、変りばえがしねえだろ うが、たのむぜ。その斬れ味のよさそうな刀の、始末を早く つけたらどうだ?」.雪之丞は、急に駈けるように急ぎ出した 供の男の跡を追いながら、小耳をかしげていた。  ーあのお若い衆は、何者だろう? |余程《よつぼど》すぐれた、お腕 前|御練達《ごれんたつ》の方に違いないが、それにしても、あの姿は?  いつか彼はもう、|御蔵役人《おくらやくにん》屋敷前の、脇田一松斎道場の、 いかめしい構えの門前に近づいていた。 新しき敵       一  脇田一松斎道場は、|森閑《しんかん》としていた。丁度、昼間の|稽古《けいこ》が 済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。雪之丞が|訪《おとな》う と、直ぐに、書斎に通された。武芸者の居間に似合わず、三 方は本箱で、一杯で、床には、|高雅《こうが》、|狩野派《かのうは》の|山水《さんすい》な一てが掛 けられている。それを背にして、一松斎は、桐の机に坐って いた。年の頃は、四十前後1。|頭髪《かみ》を打っ返しにして、|鼠 紬《ねずみつむぎ》の小袖、茶がかった|袴《はかま》をはいて、しずかに坐ったところ は、少しも武張ったところがない。殊更、その|風貌《ふうぽう》は、眉が 美しく、|鼻梁《はなすじ》が通り、口元が優しく緊っているので、どちら かというと、|業態《ぎよ りてい》には|応《ふさ》わ七からぬ位、みやびてさえ見え る。一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微 笑を含んで、 「そなたが、江戸に下られた噂は、|瓦版《かわらぱん》でも読んでいた。い やもう、大変な評判で、嬉しく思う。さあこれへ進まれるが よい」雪之丞は、燭台の光に、半面を照らされている旧師の 顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄 った。 「一別以来、もう四年だ。日頃から、蓬いとう思って いたがー」 「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べ上げぬこと はござりませんでしたーーが。でも、今度は、 |滞《とサこお》りなく江 戸|下《くだ》りが出来ましてへお目にかゝられ、かように嬉しいこと はござりませぬ。それに、た冥今道すがら、八幡さまにお詣 りいたしますと、孤軒老師にはからず御対面。文武の両師に いちどきにお目にかゝれましたも、神さまのお引き合せと、 嬉しゅうてなりませぬ」 「ほう、孤軒先生に?」と、一松斎はいくらか、|吃驚《ぴつくり》したよ うに、「それは珍しい。かのお方も、|御出府《ごしゆつぷ》なされていよう とは、存じよらなかった」 「何しろ八幡さま御境内で、|売《ぱいぽく》トをなされておりますよう で、すっかり、驚かされてしまいました」 「相変らず、|意表《いひよう》に出でた暮しをなされているな!」一松斎 は笑って、「あれ程のお方になると、並の生活は、なさりか ねると見えるの」そう言う彼も、依然として、独身生活を続 けていると見えて、茶菓をはこんで来るのも、内弟子らしい 少年だった。「拙者の方は、例によって、|竹刀《しない》ばかり持ち続 けているが、どうもまだ、山林に隠れる程の覚悟も決まらぬ よ。慰めは酒だ。そう申せば、只今は、|灘《なだ》の|上酒《くだむ》を頂いたそ うで、何よりだ」それから一松斎は、満更、芸道にも|昏《くら》から ぬ言葉で、江戸顔見世の狂言のことなど、訊ねるのだったが、 ふと、|梢鋭《やもするど》い、しかし、静かさを失わぬ目つきで、雪之丞を 見詰めると、「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず 第禁番の、贈り物をして|遣《つか》わそう」雪之丞は、師を見詰めた。 「外でもないが、拙者幼年の頃より、独立自発、|心肝《しんかん》を砕い て、どうやら編み出した流儀の、|奥義《おくぎ》を譲ろう」雪之丞は、 一松斎の言葉を聴くと、のけ反るばかりに|驚愕《きようがく》した。 「え? わたくしに、御奥義を、お譲り下されると仰有るの で?」一松斎は、微笑していた。 「如何にも、 その時がまいったようだ」       二  奥義を許されると聴いて、雪之丞は、|狂気仰天《きようきぎようてん》したのも無 理はない。脇田一松斎の奉ずる、独創天心流は、文字通り、 一松斎自身の創意から編み出されたもので、彼の説によれ ば、剣の道は、一生一代i真の|悟入《ごにゆう》は、次々へ譲り渡すこ とは出来ぬものだといわれているのだった。一松斎その人 が、既に、その極意を、何人から得たわけではなかった。彼 にも、そこまで剣を練るには、いうにいわれぬ、|悲苦報難《ひくかんなん》が あったのだった。彼の父親は、大阪城代部下の、一勘定役人 であったが、お城修理の|瑚《みぎカ》、作事奉行配下の、腕自慢の侍と 口論し、筋が立っていたので、その場は言分を通したが、程 経て、闇撃ちに会ってしまった。文武は車の両輪というが、 なかく一身に両能を兼ねられるものではない。代々|算筆《さんぴつ》で 立っていた、脇田家に生れた一子藤之介、1いま現在の一 松斎も、父を討たれた当座は、刀を|揮《ふ》るさえ、腕に重かった のだ。だが、それからの幾年月を、天下諸国を流浪して、各 流各派の剣士の門を|敲《たも》き、|心肝《しんかん》を砕いて練磨を遂げているう ちに、いつとはなしに、自得したのが、|所謂《いわゆる》j独創天心流な る、一種、独特な剣技だったのだ。 「教えられるだけのものは、既に教えてある気がするが、た った一つ、深く心に、噛みしめて貰いたいことがある。道場 の支度が相済んだら、早速、伝授し遣わそう」彼は、そうい うと、手を鳴らした。内弟子が現れる。 「御神前の|御燈明《みあかし》を か冥やかし、|御榊《おさかき》を捧げなさい。道場にて、この者と、用事 あるによって、人払いをいたすがよいL内弟子は、かしこま って去った。間もなく一松斎は、起ち上がった。秘義伝授と 聴いて.胸おどり、足の踏み所を知らぬ雪之丞-強いて、心 を静めて、跡につく。最早、夜稽古が始まる時刻で、道場に 詰めかけていた、通いの門弟たちは、控え所の方へ追い出さ れていた。道場壇上の正面、天照皇大神宮、八幡大菩薩1 二柱の御名をしるした、掛軸の前には、|燭火《しよつか》が輝き、青々と した|榊《さかき》が供えられていた。その壇上に、ピタリと端坐した一 松斎、道場の板の間に、つい一松斎の足下にひれ伏した雪之 丞-|粗朴剛健《そぼくごうけん》で、何等の装飾もない十間四面の、練技場、 ガランとして人気もない中に、雪持寒牡丹の模様の着つけ に、紫帽子の女形が、たった一人、坐った姿は、異様で且|妖《あや》 しかった。「ではこれから、秘伝々授の儀に移ろう」一松斎 はそういって、|額《ぬか》ずく雪之丞を見下ろすと、祭壇に向って、 柏手を打ち、深く、|脆拝《きはい》して、いつも神霊の前に供えてあ る、黒木の箱の蓋をはねると、中から、一巻の巻物を取り出 した。そして、元の座に戻って、「雪之丞、まいれ。遣わす ぞ」その一巻を、壇下から、震えるばかり白い手をさし伸べ て、受けようとする雪之丞、師弟の手が触れ合おうとした、 その刹那だ。道場外に声があって、 「その御伝授、お待ち下さい」と、切羽詰まって、荒々しく 響いた。開き|扉《ど》を音高く開けて、走り入って来たのは、大阪 以来、一松斎につききりの一の弟子、師範代を勤める、門倉 平馬という、髪黒く眼大きく、面長な、|梢顎《やちあご》の張った、青白 い青年だった。 「お待ち下さい、先生1」と、彼は、雪之 丞と押し並んで坐って、|遮切《さえぎ》るように手をさし伸べた。 κ 三  突然の閣入者門倉平馬、必死の形相で、またも叫んだ。 「先生1お止まり下さい。その一巻の|披見《ひけん》、雪之丞にお許 し、お止まり下さい」雪之丞は、伝書を受け取ろうと、伸べ た手を、思わず引いたが、師匠一松斎は、たゞ静かな瞳を、 平馬に向けただけだった。 「日頃にもない平馬。その|乱《ろう》がわしさは、何事だ」 「何事とは、お情ないお言葉1ー」と、平馬は、血走った目 つきで、師匠を睨め上げる様にしたまゝ、「かね六、仰せら れるには、独創天心流には、奥義も秘伝もない、自ら学び、 自ら|悟《キにと》るを以て、本義となす、1と、繰返しての仰せ。そ れを何ぞや、この場にて、門下とは申せ、言わば列外の雪之 丞に、秘巻拝見をさし許されるとは、あまりと申せば、理不 尽なおなされ方1この門倉平馬、幼少よりお側に|侍《はんべ》り、と にもかくにも、到らぬながら一の御門下、1御師範代をも 仰せつかっております以上、万一、御秘義、御授与の儀あり とせば、先ず以て、拙者に賜わるが順当、-他のことにご ざれば、恩師より、蹴られ、打たれ、如何ようの折濫、お辱 かしめも、さらくお怨みはいたしませぬが、こればかり は、黙して、忍びかねます。順に従い、御披見を、先ず拙者 に許されますよう、平にお願いいたしまする」武道の執念、 |栄辱《えいじよく》の憤恨、常日頃の沈着を失った平馬は、いまは、両眼 に、大粒な口惜し涙を一杯に浮かべてさえいる。 「平馬1」と、一松斎は、顔色を動かさずに呼びかけた。 「わ↓はこれまで、その方はじめ、門下一同に向い、拙者一 流の兵法を、よう自得いたしたとか、自傳せぬとか称めもく さしもしたことがあったか? わしは何時も、たゾ、竹刀木 剣を持って、その方たちの打ち込みを受け、|隙《すき》があればその 方たちを、打ち倒してつかわしたまでだ。わしの修行が、自 ら悟る一方でまいった故、その流儀で、その方たちを訓育し たまで、1順の、列外のと、その方は申すが、わしにおい ては、昨日の弟子も今日の弟子も、全く同じもの。その方に 師範代などと言う名義を与えたこともない。単に、居つきの 古い弟子故、門弟一同の方から、その方を立てているまで だ。と、申すは何も、その方を、|蔑《さげす》んだり、その方の剣技を 認めぬと言うわけではない。わしはわしの流儀で、人間を縛 るのが厭だからだ。いつも申す通り、業も一代、人も一代、 いかにその方が、わしの流儀を尊んでくれたればとて、わし とて、剣の神ではない。その方自身の悟入の結果、わしの流 儀に|反対《うらはら》な、説を立てねばならぬことにならぬと、誰に言え よう? そうしたわしの心構えを、満更知らぬその方でもあ るまいにー」 「それは十分呑み込んでおりまするが、それなれば何故、こ れなる|俳優《わざおぎ》に、事々しゅう、秘巻伝授などと言う事を、仰せ られましたか?」平馬は相変らず、|湧氾《ぼうだ》たる目で、師匠を見 詰めつゞける。 「方便だ」と、一松斎は、強くいった。 「雪之丞は、一方な らぬ大事の瀬戸際、これまで不言不説のうちに過ごしたこと を、きっぱり、思い知らせつかわそうとしたまでだ」 「然らば拙者にも、恩師御覚悟の御精髄を、改めてお示し下 さるようー」平馬は、どこまでも退かなかった。 〃       四  門倉平馬が、面色を変じて、強請をつゞけるのを眺めて、 一松斎は、別に怒るでもなく、 「そこまでその方が申すなら、見せても|遣《つか》わそう。したが、 この独創天心の流儀は、そのように焦心、狂躁いたすようで は、なかく|悟入《ごにゆう》することは|覚束《おぼつか》ないぞ!」そして手にし ている巻物を、 「雪之丞、まずその方より、ー」と、若女形の方へ差しだ した。雪之丞にすれば、何も、兄弟子平馬に先んじて、秘伝 伝授を受ける心はないが、折角の折柄を|妨《さまた》げられて、不安を 感じていたのを、師匠が、片手落なく両方へ、披見を許すと いってくれたので、やっとほっとして、白い手を|恭《うやく》しく差 し伸べたのだった。すると、その刹那-間髪を入れず、ぱ っと躍り上がった門倉平馬、師匠から雪之丞へと、渡されよ うとする巻物を、傍からひっ掴むと、飛鳥のような素早さで 道場外へと、飛び出した。はっと驚樗した雪之丞、 「|狼籍《ろうぜき》!」と、叫んで、これも飛び上がって跡を追おうとす る。 一松斎は、呼び止めた。 「追うな。心を静めて坐れ」 「と、仰せられてもー」と、雪之丞が、踏み止まりながら も、心は、無礼|暴虐《ぽうぎやく》な平馬の姿を追って、うわの空i一松 斎は、寧ろ悲し気に微笑していた。 「天から|授《さず》からぬものを、強いて暴力で奪おうとしたところ で、何も得られはせぬ。平馬は、わしの側について、十年あ まり、剣技を学んだが、業よりも大事なものを、学ぶことが 出来なんだ。雪之丞、彼が奪い去った一巻に、何が記してあ ると思ったか? 実はあの一巻-単に|空《く つ》の白紙に過ぎなか ったのだ」いつか、雪之丞は、師の前に、膝まずいていた。 ー師匠は続けた。「わしの流儀には、不言不説を、旨とす るのは、そなたたちも、よう知っている筈だ。奥義とて、文 字に現せる筈もなし、それを強いて現し得たとしても、その 一巻を、如何に御神霊の繭なりとは言え、守る人もなきとこ ろに、捧げて置く筈があろうか? あの巻物は、何人のため でもない。わし自身の、増上慢を自ら|誠《いまし》めようための、御神 霊への誓いだったのだ。とかく術者は、業を自得し、その名 が世間に認められ、慕い寄る門下も、多くなればなる程、最 初の一念を忘却し、己が現世の勢力を、押し拡め、流派を盛ん にして、我慾を張らんとし、秘術の極意のと、事々しく、つ まらぬ箇条を書き並べて、痴者を|威《おど》そうとするものだ。わし とても、神ならぬ人間。1いつ何時、心が魔道に|墜《お》ちぬと も限らぬと、自誠のために、わざノ\白紙の一巻を、二柱の 御神前に供え奉って置いたわけ。そなたに今宵、白紙の一|軸《じく》 を贈ろうとしたのも、今度こそ、大事を思い立っていると、 見極めた程に、改めて、わしの日頃の魂そのものを、伝えよ うとしたまでだ。何も、平馬を追うには及ばぬ。彼はたゾ、 師を失い、友を失って、全く|空《くしつ》なるものを掴んだだけじゃ」 雪之丞は、ひれ伏した.まゝ、深い感動に満たされた。 「さあ、会得したら、彼方の室にて、そなた持参の、|銘酒《めいしゆ》の |酒盃《さかずき》を上げよう。まいれ」師弟は、神前に|額《ぬか》ずいて、道場を 去った。 応 五  一松斎も雪之丞も、酒盃を傾け始めると、もう今までの道 場での事件などには、何も触れなかった。言わば、浮世話と 言ったような、極めて|暢《の》びやかな会話が、続くだけだった。 朗かな談笑の笑声さえ漏れていた。酒だけが楽しみのような 一松斎の頬に、赤い血の色が、ぼうっと上る頃、雪之丞は、 暇を告げようとした。 「ゆっくりお相手をいたしたいのでござりますが、宿元に戻 りましてから、狂言の打ち合せもござりますので、これでお 暇が願いとうーその中に、必ずまた、御機嫌伺いにまいり まする」 「さようか。iわしも、近々、必ず、そなたの舞台を拝見 に、まいろう」と、いつくしみの目を向けた一松斎は、ふ と、思い出したという風で、極めて何気なく、 「これは、心 得のためにいい置くだけだが、彼の門倉平馬は、この頃、|土 部駿河守《つちぺするがのかみ》の屋敷に、出稽古にまいっておる。それだけは心に 止めて置いてよいだろう」土部駿河守というのは、大身旗本 で、名は繁右衛門。浜川、横山などが代官又は、手附役人と して長崎に在任、雪之丞の父親を|籠絡《ろうらく》して、不義の富を重ね ていた頃、最高級の長崎奉行の重職を占め、本知の他に、役 高千石、役料四千四百俵、役金三千両という高い給料を幕府 から受けながら、|猶且嫌《 なおかつあキにた》らず、部下の不正行為を煽動して、 ますく松浦屋を窮地に落させた、いわば|漬職事件《とくしよくじけん》の|首魁《しゆかい》と いってもいゝ人物なのであった。この人間には、不思議な病 癖があって、骨董珍器、珠玉の|類《たぐい》を蒐集するためには、どの ような不徳不義をも、甘んじて行おうとする気性。松浦屋の 手から召し上げた珍品だけでも、数万両の額に上ると言われ ていた。それが今では、隠居して、家督を、伜繁助に譲り、 末娘が将軍の閨房の一隅に寵を得、世ばなれた身ながら、隠 然として権力を、江都に張っているのであった。 「はゝあ、さようでござりますか、1それは何よりのこと でござりますなあ」と、雪之丞は、兄弟子が出世の|緒口《いとぐら》を、 首尾よく掴み得たのを喜ぶというような、極く気軽な挨拶で 受けた。起ち上がる雪之丞を、師匠は、室の出口まで見送っ た。雪之丞は、供の男を従えて、外へ出る。晩秋の夜気は、 しんと|沁《し》み通るようだ。無月なのに星の光りが、一層鮮か に、冷たい風が、あるか無きかに流れている。供男は、供待 ちで、これも一口馳走になったと見えて、浪人に|脅《おぴや》かされて 以来、びくつききっていた、来る途中の|萎《しお》れ方は何処へや ら、元気な声で、 「この分では、初日二日目、三日目l大した人気にきまっ ておりますぜ。何しろ初下りの親方衆の、顔見世と言うのだ から、座が割れっ返る程、大入り請合いだ」 「そうなれば宜しいが、1何分始めての御当地故、入りば かり気になって、1」雪之丞は謙遜深く、そんな|相槌《あいづち》を打 ちながら、さしかゝったのが、横町を行きつくして、御蔵前 通りの、暗く淋しい曲り角1。すうっと、ある肌冷たさ が、雪之丞の、白くほっそりとした首筋に、感じられた。と 思う刹那、闇をつん裂いて、無言の|烈刃《れつじん》が、びゅうと、肩口 に落ちて来た。ぎゃっ、とおめいて、遁げ出す供男。雪之丞 は、ひらりと|蝶《かわ》すと、じっと身をそばめて、気はいを窺っ た。       六  闇を|透《すか》して、相手をうかゞう、雪之丞の細っそりした右手 はいつか、帯の間にはいって、懐剣の|柄《つか》にかゝっていた。|縣《かわ》 された敵は、|退《す》さって、じいっと、剣をあげて、次の構えに 移ったと見えて、青ざめた星の光が、刀身にちらくときら めき、遠い常夜燈のあかりに、餌食を狙う動物のように、少 しばかり背か冥みになった姿が、黒く、物凄く看取された。 雪之丞は、気息を整えた。相手の荒らいだ息も静まって、死 の静寂がおとずれた。と、ー見る間に、かざされた大剣が さっと走って、雪之丞の頭上に|閃《ひら》めき落ちる。じいんと刃金 が相打って、響きを立てゝ、火花が散った。それなりまた、 二つの姿は、少し離れて、互に|隙《すき》を窺う。暗殺者の刀は、下 げられた。懐剣をまともに突き出すようにしていた雪之丞の 手先が、ぐうっと、引き上げられると、それに吸い寄せられ たように、たっと土を蹴って、|薙《な》ぐと見せて、突いて来る相 手-長短の剣は、一瞬間、からみ合い、二つの黒い影は、 もつれ合った。どうした羽目か、短い剣が、長い剣の持主 の、腕の何処かに触れたらしく、あっと低く、|坤《うめ》く声がした と思うと、黒影は|咄嵯《とつさ》に二つに分れて、暗殺者が、傷ついた 獣物の素早さで、闇に消え行く姿が見えた。雪之丞は、懐剣 をかざしたまゝ、追おうともせず、見送ったが、相手が余程 の強敵だったと見えて、呼吸は乱れ、全身に、ねっとりと汗 だ.  llあれは|確《たしか》に、天心流。矢張り、あのお人だー  彼の心の目に浮んだのは、当然門倉平馬の、あの青ざめ た、|顎《あご》の張った顔であったろう?  1何という浅ましいお人! お師匠さまが、何となく当 になさらなかったのも、お道理じゃ1  雪之丞は、そう心に咳きながら、懐剣に懐紙で拭いをかけ て、|鞘《さや》に収めると、供男の姿をあたりに|探《もと》めたが、 「ほゝ、1ー遁げ脚の速い|和郎《わろ》じゃ!」と、口に出していっ て、不敵な微笑を|唇元《くちもと》に浮かべたが、しかしいつかまた、か すかな|縦鐵《たてじわ》が、美しい眉根の間に陰をつくった。彼は、門倉 平馬が、彼にとっては、仇敵の総本山であるような、土部駿 河守の|摩下《きか》に、新しく属しているということを、一松斎が、 わざく囁いてくれたのを思い出したのだ。今夜こそ、平馬 の一刀が、自分の生命を奪い損ね、まんまと|敗劔《はいじく》の姿を見せ たものゝ、決して油断のならぬ、技禰の持主であるというこ とは、十分に知っている。彼は、自分の|希望《のぞみ》を成しとげる に、あらゆる意味で、大なる困難が横たわっていることを、 改めて思わずにはいられなかった。雪之丞は、しと/\と、 夜道を、御蔵前通りを、駒形の方へ、歩を運ぶ。すると、思 いがけなく柳のかげか二.、 「太夫さん、何とまあ、素晴しいお手のうちじゃござんせん か!」と、いう、若々しい、しかし、いくらか錆びた声がい いかけて、はゾからず歩み近づいた一人の男。見れば、それ は、|黄昏《たそがれ》どき、浪人者に難題をいいかけられた折、割っては いった、あのいなせな、若衆だった。 「あなたは先き程の、1?」と、そういいながら雪之丞 は、御高祖頭巾を取ろうとした。 七  雪之丞が、両手を膝のあたりまで垂れて、先き程、はから ず難儀を救って貰った、礼を言おうとするのを、若い衆は、 押えて、 「何の、太夫、ーお言葉に及びますものか、一寸一目見た だけでも、あの浪人者なんぞは、お前さんの、|扇子《せんす》がちょい と動きゃあ、咽喉笛に穴をあけて、引っくり返るのは、わか っていたが、人気渡世が、初の江戸下りに、血を流すのも、 縁起がよくあるめえと、持って生れた、|癒癩《ふうてん》根性ーつい飛 び出してしめえやした。あの野郎、ちっとばかし、|威《おど》してや ると、すっ飛んで行きゃあがった」雪之丞は、べら/\と立 て続けに|喋舌《しやぺ》りつゾける、この吉原かぷりの、|小粋《こいき》な姿を、 不思議そうに見つめるばかりだ。  ーほんに一たい、この|御仁《ごじん》は、如何なるお人であるのだ ろう? 如何にもあの時の、わたしの構えは、あの刀が振り 下ろされたら、|縣《かわ》したと見せて、咽喉元を、銀扇の|要《かなめ》で、突 き破ってやるつもりだった。それを見抜いた眼力は、大きく 見れば程知れず、低く見ても、免許取り。それ程の方が、こ のお姿、ー1ますくわたしには解らない、ー  若者は、雪之丞の|瞳目《どうもく》の瞳を、暗がりの中で感じたか、カ ラカラと笑って、 「お前さんは、多分、あの時、あっしが、飛び出して、その 場をさばいた揚旬、扇の構えが、どうのこうのといったの で、やっとうの力でも解るように、お思いなすって、吃驚な すっているのだろうが、なあに、何でもありゃしませλ、ご ろん棒のあっし達。喧嘩に場慣れているだけでさあ」と、事 もなげにまくし立てたが気がついたように、「実はあれから、 この近所に、あっしも用達しがあったので、その戻り道。た った今の剣の光を見たわけですが、太夫さん程の腕がありゃ、 どんな夜道も安心だとはいうものゝ、其しおらしい女形姿 で、夜更けの】人歩きは考えもの。ついそこに辻駕籠があ る筈だ、ちょいと呼んで来てあげましょう」気軽にそういう と、もう、姿をすっと闇に消して、間もなく、向うの方で、 「おい、駕籠やさんーあそこにお客が待っている。山ノ宿 まで一ッ走り、送ってあげてもれえてえ」と、いう声がして いる。そして直きに、辻駕籠は思わぬ客を拾った喜びに、い そいそと、こちらへ近づいて来る様子。すると、突然、たっ たいま、あの|諾《いぷか》しい若者の、声がしていた方角で、 「御用だ。闇太郎! 1」 「闇太郎、御用!」と、けたゝましい叫ぴが起り、足音が、 荒々しく入り乱れる。雪之丞は、はっとして、日頃の仕来り で、女らしく、振りの挟で胸を抱いた。  ーまあ、あの騒ぎはー  彼は、直覚的に、夜廻り役人から、御用の声をあびせかけ られている当人は、いまこゝを退いたばかりの、あの若者で あるに相違ないと思うのだ。雪之丞は、この府内に最近下っ て来たばかり。闇太郎という名から|推《お》して、大方、盗賊、夜 盗の|緯名《おだな》とは思ったが、それにしても、あの|粋《いき》で、いなせ で、如何にも明るく、朗かな若者が、そうした者とも思われ      かし                 すわ ない。首を傾げていると、目の前に、辻駕籠がとんと据っ て、 「へえ、 i?」 お待ち遠さまー。駕籠の御用は、 と、先き棒が言うのだった。 あなたさんで、       八  雪之丞が、通りの向うの闇を見つめたまゝ、前に据えられ た辻駕籠に、乗ろうとしないので、|駕籠昇《かごかき》が、 「さあ、どうぞお召しなすってー1」雪之丞は相変らず、瞳 を前方に注いだまゝ、心がこゝにない風で、 「たしか、闇太郎、御用と言ったように聞えましたがー」 「へえ、何だか、そう申したようでございましたね」と、後 棒が答えて、|蔑《さげす》むような口調になって、「なあに、あなた、 この辺の見廻り役人や、目明し衆が、十人十五人で追っかけ たって、闇太郎とも云われる人を、どうして、捕っつかめえ ることが出来ますものかー」その調子に、何となく役人に 追われる者の方に、|却《かえつ》て同情が|漉《そち》がれているのを感じなが ら、心を残して雪之丞は、しとやかに駕籠に身を入れる。脱 ぎ捨てた|雪駄《せつた》を、ぼんと|塵《ちあ》を払って中に突っ込んだ駕籠界 -肩を入れて、息杖をぽんとついて、掛声と一緒に小刻み で走り出す。雪之丞の胸の中は、今の、闇太郎問題で一杯 だ。その人物は、たしかに、つい今し方、この駕籠を、自分 のために、呼びに行ってくれた、あの若い衆に相違ない。し かもそれが、この駕籠昇たちにさえ、すっかり名前が通って いる、名うての悪者らしいとはー 「それで、-若い衆さんー」と、雪之丞は、語かしさに 訊ねかけざるを得ない。「その闇太郎というお人、ーー一た いどんな方なのだね?」 二では、ご存じがありませぬかー? あなたは、江戸が初 めてだと見えますね?」と、先棒が、「何しろ闇太郎といっ ちゃあ、大した評判の人ですよ。いわば|義賊《ぎぞく》とでもいうので しょうかi大名、豪家、御旗本やら、御用達、1肩で風 を切る、勢で、倉には黄金が、山程積んであろうところか ら、気随気儘に大金を掴み出し、今日の|生計《たつき》にも困るよう な、貧しい者や、病入に、何ともいわずに、バラ撒いて、そ の日を救ってやるという、素晴しい気性者、そんなわけで、 江戸中の人気が一身に集まっているのです」 「そういう人のことですから、いつどんな場所で、御用の声 がかゝっても、元より当人は素ばしっこい腕利きですが、町 の人達、通行人も、役人に腕貸しをするような、出過ぎたこ とはいたしません。いまのいまだってなあ-iー先棒?」 「そうよ。たったいまだって、この方が駕籠が欲しいようだ ぜ、と、声をかけてくれたその人が、五間と向・つへ行かねえ うちに、御用の声だ。闇太郎という声がなけりゃあ、役人衆 に手貸しをして、捕めえるが、こっちらの務だろうが、あの 呼びかけがあったので、わざと、聞えねえ振りをして、後も 向かなかったわけなのです」雪之丞は、始めて、一切が呑み 込めたのだった。彼は、駕籠界たちよりも、一そう強く、あ の若い生き/\しい、いなせ男を、思慕せずにはいられな い。賊と聞いても、怖ろしいどころか、却て懐しく、どうか して、もう一目逢いたいようにすら思うのだった。辻駕籠 が、月なき星空の下を、北へ飛ぶ。もう直き、旅籠のある、 山ノ宿だ。       九  雪之丞の駕籠は、間もなく、大川の夜の霧が、この辺ま で、しめ六\と這い寄って、ぽうっと薄白く漂っている、|山《やま》 ノ|宿《しゆく》の、粋な宿屋町までやって来た。 「山ノ宿へ着きましたが、-ー」と、先棒が言った。 「あゝ、御苦労さま、1ついそこの、花村と言う、|旅宿《やど》の 前に着けて下さい」と、雪之丞は答えた。駕籠は、屋号をし るした行燈が、ほのかに匂っている一軒の、格子戸の前に降 された。駕籠やは、|酒代《さかて》にありついて、喜んで戻って行く。 格子が開くと、玄関に、膝をついて出迎える女中たち。揃っ て、小豆っぼい|唐桟柄《とうざんがら》に、襟をかけ、|黒縄子《くろじゆす》の、粋な昼夜帯 の、中年増だ。 「若親方1お帰りなさい」と、いう声々にも、上方の人気 女形の宿をした、旅籠の召使いらしい、好奇と喜びとが盗れ ている。うしろから、眉は落しているが、歯の白い、目にし おのある、内儀が顔を出して、 「ついさっき、お供のお人が|周章《あわ》てゝ、駈け込んでおいでだ から、どうしたのかと、親方さんに伺ったら、なあに何でも ない。もう追っつけ、お戻りになるだろうと仰有る故、その まゝにしましたが、何か途中で、変ったことでもIi?」 「いゝえ、何でもありませぬ。途中で、辻斬りらしいお侍に 出会いますと、案内に立ってくれた、|義《よし》さんとやらが、御当 地のお人にも似合わない、弱虫で、横っ飛びに遁げておしま いでしたが、1では、こゝまで、夢中で飛んでお帰りだっ たと見えますね」と、雪之丞は、そらさぬ微笑で答えなが ら、白い足袋裏を見せて、内輪の足取りで階段を踏んで二階 へ上がる。表二階を通して、四間。雪之丞とその師匠、中村 菊之丞のための部屋になっていた。菊之丞一座は、一行、二 十数人の世帯であったが、江戸へ来ると、|格《かえ》で分れて、この 界隈の役者目当の宿屋に、|分宿《ぶんしゆく》していた。雪之丞とて、師匠 の隣部屋に、宿る程の分際ではなかったが、弟とも、子とも 言う、別種な関係があり、殊更、今度の江戸下りは、彼にと って、重大な意義があるのを、知り抜いている菊之丞故、わ ざと、身近く引き寄せて、置くわけだった。師匠の部屋に、 灯がはいっているのを見ると、雪之丞は、静かに廊下に膝を ついて、障子の外から、 「お師匠さま、たゾ今戻りました」 「おゝ、待ちかねていましたぞ、さあ、おはいりー」いく らか錆びのある、芸人独特の響を含んだ声が答えた。雪之丞 は、部屋にはいる。師匠菊之丞は、厚い紫地の|友禅《ゆうぜん》の座布団 に坐って、どてら姿だったが、いつもながら、行儀よく、キ チンとした態度で、弟子を迎える。部屋の中には、何処とな く、|練香《こヤつ》の匂いが漂って、手まわりの用をたす、十三四の子 役が、雪之丞が坐ったとき、燭台の、|芯《しん》をなおした。「何か 妙なものに出会ったと聴いたが、そなたのこと故、別に気に もせず、帰りを待っていましたぞ」と、菊之丞は、微笑し た。彼は、この|愛弟子《まなでし》の不思議な、手練をよく知っているの だ。 「は、ちょいと、光り物がしましただけでーI」と、雪之丞 も、微笑を返した。 一〇  それから、師匠菊之丞は、脇田一松斎の機嫌は、ど・つであ ったかーなどと訊ねながら、自分で愛弟子のために、茶な どいれてくれるのだった。雪之丞は、行く道で、|孤軒《こけん》老師に |避遁《かいニう》した一条や、脇田道場での門倉平馬との|経緯《いきさつ》や、|匿《かく》すべ き相手でないので、一切を告げ知らせるのであった。 「ほゝう、それで、そなたの前に、きらめいたという光り物 のわけも、大方解ったようだ」と、師匠は頷ずいて、「して その、門倉とかいうお方は、余程のお腕前かな?」 「それはもう、一松斎先生が、一のお弟子と、お取り立てに なった程の|仁《じん》、まず何処へ出しても、引けをお取りになる方 ではござりませぬ。わたしが、あのお方の、暗中からの不意 打ちを、どうやら防ぐことが出来ましたのは・何しろ、あの お方は、闇打ちは卑怯なことゝ、お胸の中で、何処か|怯《おくれ》がお ありでありましたろうし、それに、日頃信心の、神仏の御加 護があったためでもござりましたろう。決して、油断も隙も なるお方ではござりませぬ」と、雪之丞は、いつもの|謙遜《へめくだり》で 答えた。菊之丞は、弟子の顔を見詰めて、 「そうじゃ、そうじゃ。いつもその謙遜を忘れねば、芸術も 兵法も、必ず、至極の妙に達しることが出来るであろう。そ の志は、わし達のような年になっても、構えて忘れてならぬ ものだ」などと、話しているところへ、来たのは、今度の座 元、中村座の奥役の一人だった。かたばみの紋のついた、|小 豆色《あずきいろ》の短か羽織。南部|縞《じま》の着付。髭を細く結った、四十あま りの男は、町嘩に、菊之丞の前に挨拶して、 「大分、時刻が遅うござりますが、太夫元の方で、是非お耳 に入れて、お喜ばせ申した方がいゝと申しますので、出まし たが、-1」と、言いながら懐中から、書類のようなものを 取り出して、「まあ、御覧なさいませ。初日から、五日目ま で、|高土間《たかどま》、|桟敷《さじき》ももうみんな、売切れになりました」菊之 丞は、拡げられた|香盤《こうぱん》をのぞき込む。成程、何枚かの図面に は、総て付け込みのしるしが一面に書き込まれているのだっ た。 「ほゝう、これは素晴らしい景気でござりますな!」 「なおまた、御覧に入れたいのはお客様の顔触れで、1」 と、奥役は何やら細々記した|罫紙《けいし》を見ながら、「駿河町では、 三星さま、油町では、大宮さま、お蔵前の札差御連中。柳 橋、堀、吉原の|華手《はで》やかなところはもとより諸家さま、お旗 本衆-日頃御直きくには、中々お顔をお見せにならぬお 人たちも、今度は幕を張っての御見物のように承ります。そ の中でも、長崎の御奉行で、お鳴らしになり、御隠居になっ てからも、飛ぷ鳥も落すような、土部さまなどは、御殿に上 がっておいでの御息女が、お宿下がりのお日に当るとかいう ことで、初日、正面の|桟敷《さじき》を、御附込みになりました」 「なに、なに? 土部-?」と、菊之丞は、雪之丞の方 を、チラリと眺めながら、「どれく、その書き物を、お見 せ願わしい」と手をさし伸べた。 一一  雪之丞の、星にもまがうような、 ら、土部駿河守の名が洩れた時、 美しい瞳は、奥役の唇か 異様なきらめきを|籏《みなぎ》らし て、思わず、何か口に出そうとしたようであったが、チラリ とこちらに向けられた、師匠の視線に、|辛《かろ》うじて、|己《おのれ》を制し たのであった。菊之丞は、 「どれノ\わしに、お書き附を、お見せ下され」と、いっ て奥役から、書き込みを受け取ると、「雪之丞、そなたも拝 見なさい。成る程、さて、さて、素晴らしいお顔振れ。こう した方が、揃っての御見物では、こりゃ、うかとは、舞台が 踏めませんわい」雪之丞は、目を輝かして、師匠がさし示す 見物申込の書き込を、のぞくのだった。そこには、多くの、 江戸で名だたる、|花街《いろまら》、富豪、貴族たちの、家号や名前が、 ずらりと並んでいるのだったが、彼の瞳は、たゞじっと、土 部三|斎《さい》という、駿河守隠居名に、注がれて離れなかった。彼 の胸は、激烈な憎悪と、|憤恨《ふんこん》とに|焦《こ》げるのである。父親を、 破滅させて、|随巷《ろうこう》に窮死させた、あの残忍な一味の|首魁《しゆかい》が、 今や、一世の栄華を|檀《ほしいまち》にして、公方の外戚らしく権威を張 り、松浦屋の残映たる、自分の舞台を、幕を張り廻らした、. 特別な桟敷から見下ろそうとするのである。雪之丞は、夕 方、|路傍《ろぽう》でいいがかりをつけて来た、あの素浪人の口から叫 ばれた、  -河原者! 身分違いー  と、いったような言葉を思いだして、奥歯を噛みしめるの だった。師匠、菊之丞は、愛弟子の、そうした胸の中を察し たように、わざと、上機嫌な語調で、 「のう、雪之丞、これは、そなたも、|怠慢《なまけ》てはいられませぬ ぞ。御歴々の御見物、一足の踏み違えでもあっては、お江戸 の方々から、|上方者《かみがたもの》は、到らぬと、一口に|嘲《わら》われましょう」 「はい、|慎《つヤし》む上にも、慎んで、一生懸命、精進いたす覚悟で ござります」奥役は、師匠が前景気に十分喜ばれたように信 じて、いそノ\と帰って行った。彼の|敏捷《びんしよう》な、表情には、  1これはいよく大当りだ! 並の役者とは違った、一 風変った気性と聴いた菊之丞が、あれ程、嬉しそうな顔をし たので見ると、狂言には、屹度、魂がはいる。この頃不入り 続きの中村座。この顔見世で、存分お釜が起きようわい11  奥役が去ってから、師弟は、|灰《ほの》かな灯の下に、じっとさし 向いになっていた。 「雪之丞、とっくりと見たであろうな?」 「はい、拝見いたしました」菊之丞は、考え深い目つきで、 |諭《さと》すように、 「だが雪之丞、申すまでもないことだが、桟敷に、土部三斎 を始め、どのような顔を見たとても、構えて心の動きを外に 出してはなりませぬぞ。そなたの腕なら、舞台から|笄《こうがい》を投 げても、三斎めの息の根を止めることは出来ようが、それで は、望みの十分一を、達したとも申されぬ。その辺のこと を、ようく思案して、そつなく振舞うようにー」雪之丞 は、青ざめて、美しい前歯に、紅い唇を、噛みしめながら、 |懇《ねんご》ろな師匠の言葉に、素直に|首肯《うな》ずいているのだった。 「い つか、夜も更けたようだ。そろく床を|敷《と》らせようか?」 と、師匠がいって手を鳴らした。       一二  雪之丞が師匠の次の間に延べられた、|臥床《ふしど》の中に、静かに 身を横たえて、  ー何事も思うまい。お師匠さんの仰言る通り、じっと|泳《こら》 えて、いざと言う場合まで、自分の力を養って行く他はない のだ。気を|嵩《たか》ぷらせてはならぬ。女の子のように、めそく してはならぬ。また、じり/、と|焦《 せ》ってもならぬ。姿こそ、 |変生女性《へをまによしヨ》を|装《よゑ》っては居れ、胆は、あくまで|猛《きぐ》々しいわたし でなければならぬ。眠ろうー  と、胸の上にそっと手を置いて、咳やいて、やっとうとろ とと、まどろみ始めた頃のことであった。この山ノ宿から、 ぐっと離れた柳原河岸、i細川屋敷の裏手。町家が続くあ たりに、|土蔵《くら》造りの店構え。家宅を囲む板塀は、忍び返しに |厳《いか》めしい。江戸三金貸しの一軒と、指を折られる、大川屋と 言う富豪の塀外を、秋の夜の、肌寒さに肩先をす、・、めるよう にして懐ろ手。吉原冠りの後ろつきも小粋な男が、先ず|遊興《あそび》 の帰りとでもいうような物腰で、急ぐでもなく歩いていた。 その男が、遠い灯りがさすだけで、殆んど真っ暗がりな夜中 の|巷路《こ つじ》に、ふと立ち停まって、|件《くだん》の大川屋の板塀の方へ、す っと吸い込まれるように身を寄せたその刹那、 「闇太郎ー御用」と言う叫びが、|稽間《やトま》を置いたところから 聞えて、町家の|庇合《ひあわい》から、急に涌き出したように現れた、二 つ三つの提灯の光。吉原冠りの若者は、丁度いま、大川屋の 裏塀に這い上って、忍び返しを越えようとしていた折も折、 この呼び掛けでじっと身を固くしたが、しかし、別に|周章《あわ》て るでもなく、 「うむ、|執拗《しつ》っこい奴等だな。御蔵前で見ん事、|撒《ま》いてやっ たと思ったに、し太く|眼《つ》けて来やあがったのか」と、咳くと、 そのまゝ、すうっと、下に降りて、板塀を後ろ|楯《だて》。ぴったり と背を貼りつかせた。この闇太郎と言う盗賊ー先き程、雪 之丞を乗せた駕籠屋が、まるで江戸自慢の一つのように、|謡《うた》 った通り、今や江都に、侠名|噴《きしくきにく》々たる怪人物。生れは、由緒 正しい御家人の家筋。父親が、上役の憎悪を受けて、清廉潔 白の身を殺さねばならなくなったのを、子供心に見て以来、 いわば、社会の不合理な組織を、憎み|嘲《あざ》む、激情止み難く、遂 に、無頼に持ち崩し、とうとう、賊をすら働くようになった 若者なのだ。したがって、天晴れの気性者。その上、身の働 きの素早さは、言語に絶し、目から鼻へ抜けるような鋭い機 智で、どんな場合にも、易々と、危難の淵を乗り切るのだ。 闇太郎という名乗りも、大方、自分がつけたのではなく如何 なる真の闇夜をも、白昼を行く如く、変幻出没が自在なの で、世間で与えた、|揮名《あだな》が、いつか、呼び名になったのであ ろう。江戸|司直《しちよく》の手は、最近殊に手きびしく、この怪人の行 方を、追い|究《モし》めていた。あまりに|屡調《しぱく》、権門富豪の厳重な|緊《しあ》 を、自由に破られるので、今や、警吏の威信が疑われて来て いるのであった。その闇太郎の姿を、ふっとこの晩、御蔵前 通りで、見つけた町廻り同心の一行。あまりに|咄嵯《とつさ》な出会い なので、はっとする間に、強敵の姿を見失ったが、非常警報 は、八方に伝えられ、こゝまで遁げ延びて、大仕事に司直の 鼻をあかそうとした彼を、再び網にかけたわけなのだ。 「闇太郎、遁れぬぞ!」と、呼び立てる声は、ますノ〜近寄 って来た。 一三 しいーんと寝静まった秋の真夜中、江戸三金貸しの 一軒、 大川屋の裏塀に、ピタリと背を貼りつけて、白木綿の腹巻の 間に、手をさし込んで、ヒ|首《あいくち》の|柄《つか》を握りしめながら、じっと、 追って来る捕り方たちの様子を|覗《うかぐ》う闇太郎だ。捕り方たち は、御用提灯を振りかざして、獲物を狙う|獣物《けもの》のように、背 中を丸めるようにして、押しつけて来るのだったが、さりと て急には飛び込めない。相手は何しろ、当時聞えた神出鬼没 の怪賊。|迂澗《うかつ》に近寄っては、怪我のあるのは当然として、却 って、またも取り逃すことになるかも知れぬ。 「馬鹿め。何をうじくしているんだ! 秋の夜は長げえと     なま                 そ.・の いっても怠慢けている中にゃあ、直ぐ明けるぜ」と唆かすよ うにいいながら、たゝっー-と、空ろ足を踏んで見せたその 響に、寄せられたように二人の手先が、銀磨の十手を振りか ぶって、|毬《まり》のように飛び込んで来た。その出鼻を、ぱっと、 塀を蹴放すように、飛び出した闇太郎。振り込んで来る得物 の下をかいくぐって、横っ飛びに、もういつか、五間あまり、 駆け抜けていた。 「わあゝッ!」と追い|槌《すが》る捕り方たち。するといつの間に か、この|騒擾《そうじよう》が知れ渡ったと見え、どろゝんどろゝんと、陰 にこもった太鼓の響が、遠く近く、聞えて来る。町木戸の閉 される合図だ。捕り方の方では、その響を聞いて、ほっと気 が|緩《ゆる》んだであろうが、そうした気持を、よく見抜いている闇 太郎は、あべこべに、 「ざまあ見ろ。木戸が閉まりゃあ、|却《かえ》って此方のものだ」と、 心の中で|嘲《 ざ》み笑いながら、|威《おど》すように振りかざしたヒ首を、 星の光にきらめかし、軒下の暗がりから暗がりを、ばっく と、闇を喜ぷ|編幅《アごつもあ》のように縫って行く。iとある横町の角 まで来て、軒に沿うて曲ろうとすると、前を|塞《ふさ》ぐ、十人あま りの同勢、 「上意」 「御用」の|大喝《だいかつ》を発しながら、突棒を振り上げて、待ち構え ているのだ。闇太郎の細っそりした手先は、つと、町家の|庇《ひさし》 にかゝる。と、見る間に、彼の姿は、いたちのような素速さ で、屋根を越えて、見えなくなった。彼が飛び降りたのは、 裏新町の狭い路地。その路地を、足音も立てず、ひた走りに 走って、梢広い通りへ出る。闇太郎の行動は、例によって、 敏捷を極めているのだが、今夜は、相手は、なかなか厳しい 準備が出来ていた。その中をくゞりく、やっとのことで、 遁げ延びて来た柳原河岸。一方は大名屋敷の塀続き、一方は          ポたか ござ 石置場。昼間でも、夜鷹が莫産を抱えて、うろついているよ うな、淋しい場所だ。闇太郎IIこゝまで来て、もう此方の ものだと思った。石置場の暗がりに飛び込んでしまえば、ど のような鋭い探索の目も、及ばぬであろう。その上河には、 主のない小舟も、|何艘《なんそう》か、かゝっているのだ。その石置場へ、 今や遁げ込もうとした闇太郎。激しく何者かに呼びかけられ て、はっとして立ち|煉《すく》んだ。 「待てッ、怪しい奴」見れば、つい目の前に、大たぷさの侍 が、突っ立っていた。       一四  石置場の暗がりに、飛び込もうとした闇太郎i出し抜け に呼びかけられて、向き直った目の前に、大たぶさの若い武 士の、立姿を見出した刹那、いつになく、はっと、衝撃を感 じた。無造作に突っ立った、相手の体構えに、不思議な、圧 力が|濃《みなぎ》っていたのだ。何十何百の、捕り方に囲まれても、一 度も|周章《うろた》えたことのないような、不敵者の彼だった。  ーーこいつあ、一通りでねえ、|代物《しろもの》だぞ!  と、心に咳いて、いまゝで、単に、捕り方たちを威すため に抜きかざしていた短刀を、握りしめて、前屈みに、上目を 使って、じっと侍の様子を覗った。幸い、捕り方たちは見当 外れの方向へ、駆け去ってしまっていたものゝ、この侍が大 声を発したら、またも、|五月蝿《うるさ》く、まつわって来るに相違な かった。 「夜中、怪し気な風態で、ヒ首なぞをきらめかしているその 方は、何者だ?」闇太郎を見下ろして、鋭い調子で、|詰問《きつもん》す るこの武家こそ、これも今夜、雪之丞への奥義伝授の|経緯《いきさつ》か ら、突如として、十年も側に仕えた、恩師の許を飛び出し た、門倉平馬に他ならなかった。彼は、雪之丞を、闇打ちに かけ、一刀の下に斬り伏せようとして、却って、左の二の腕 に、傷を負わされ、不首尾に終って遁げ延びてから、捨て鉢 の気持で、とある、小料理屋で酔いを買ってから、松枝町に ある、土部三斎の隠宅を頼って行こうとする途中だったの だ。 「旦那ー|見遁《みのが》してやっておくんなせえ」と、闇太郎は、と にかく下手に出るのだった。 「つまらねえ仲間喧嘩に、お上の手がまわったので身を匿そ うとするところなんでー」 「いい遁れはきかぬぞ」と、平馬は、口元に冷たい微笑を這 わせて、言った。「その方は、うち見るところ、たゞの|博変《ぼくち》 打ちや、小泥棒ではない、拙者に油断が、毛程でもあったら、 もうそのヒ首を、とっくに胸元に突き刺していた頃だ。|無頼 漢《ならずもの》には珍しい|気魂《きはく》-何れ、名のある曲者だろう。見遁すわ けには、断じてならぬ」 「見遁さぬといって、1それじゃあ、どうなさるんで i?」 「いうまでもなく、引っ捕えて、役向へ、突き出すまでだ。 その方如きをうろつかせ置いては、市民の|眠《ねむら》が乱されよう」 「ふうん、して見ると旦那は、岡ッ引の下職でもしていなさ るんですかい?」と、闇太郎の調子は、急に|不邊《ふてぐ》々々しく変 った。「無頼漢を一人突き出して、いくらか、お手当でも頂 こうという腹ですかい? とかく窮屈になった御時勢で、お 侍さんも、とんだ内職をなさらなけりゃあ、-食えなくなった か?」闇太郎は、相手の武士が、素晴らしい腕を持っている ので、十分自分を手捕りに出来ると、自信しつゝあるのを見 て取った。  ーー何を! 相手が|鬼神《おにがみ》だって、俺が必死に突っかゝりゃ あ、打っ倒せねえことがあるものかー  彼は、奥歯をじっと噛んで、ますく殺気の振る瞳で、門 倉平馬の睨め下ろす視線を、何のくそと、|弾《はじ》き返そうと|足掻《あ 》 くのだった。平馬は、敵の激しい目を、ニタリと冷笑で受け ていた。       一五 闇太郎の背は、ますく丸まって来た。足の構えは、|鰐足《わにあし》 になった。目は、|欄《らんく》々ときらめき全身に強烈な、兇暴な気が お 濃った。まるで、狼が、いけ|牲《にえ》に最初の一撃を与えようとし て、|牙《きぱ》を現し逆毛を荒立てたかのようである。彼の息は、押 え難く、荒らいだ。 「むうんー」と、いったような|坤《うめ》きが、咽喉の奥から、絞 り出されるように|送《ほとばし》った。相手の武士は、じいっと、突っ 立ったまゝ、殆んど、身構えを直そうともせず、たゞ、何時 の間にか、腰から抜いた扇子を、右手に握って、突き出すよ うにしただけだった。 「ほゝう、感心に、鉄壁微塵と、突っ込んで来る覚悟を極め たな!」と、苦笑いのような調子でいって、「なかく凄い 度胸だの、それに、普通の修行では、到り得ない、必殺の|業《わざ》 も、得ているようだ。どうだ、そこで、ぐっと、斬り込んで 来て見ぬか?」闇太郎は、 「むうんー」と、再び坤いた。鰐足に踏ん張った。脚部に、 跳躍の気勢が現れたが、直ぐに失われた。 「やっぱり、駄目だろうー」と、相手はいったが、しかし、 その口調には、今までのような、冷笑と、|侮蔑《ぶべつ》とは、響かな かった。ある感歎と、好奇心とが、|灰《ほの》めいて来γ、いた。「どう だ、貴様1もうそこいらで、そのヒ首をおろしたらーと 申しても、拙者ももう貴様の首根ッこを捉えて、番所へ引き 摺って行くような気持もなくなったよ」その言葉を聴くと、 闇太郎は、|譜《いぶ》かしそうな目つきになって、 「何だと? じゃあ、俺の勇気が、怖くなったというのか?」 そう咳きながらも、まだ、|餓狼《がろう》のような、猛悪な構えは、止 めなかった。武士は、カラカラと笑った。 「いや、大きにそうかも知れぬ。実は拙者、貴様のその、突 拍子もない度胸が、|惜《お》しくなったのだ。それに、貴様の必死必 殺の気組の底には、た冥喧嘩慣れた、無頼漢には、|応《ふさ》わしか らぬ、剣気が蔵されているような気がする。貴様、何か、い わく因縁のあるものと睨んだ。一たい、名前は何と言う?」 この言葉の間には、二人の間の殺気は、自から|鎗沈《しようちん》した。闇太 郎の姿は、静かな立ち姿に変り、武士の扇子は、下げられた。 「この場を、見遁してくれるというのは、有りがてえが、人 の名を聴くんなら、自分から名乗るが、礼儀でしょうぜ」武 士は、白い歯を見せて微笑した。 「成る程、それも理窟だな。それなら申そうが、拙者は、|独 創《どくそう》天心流を|騨《いさし》か修得した、門倉平馬という者だ」 「独創天心流」と、闇太郎は|首肯《うなず》いて、「それでは、例の、 御蔵前組屋敷近所の、脇田さんの御門人か?」 「うん、今日まではなあ。今日からは、自流で立とうとする、 門倉平馬だ。それは兎に角、貴様こそ、わが名を名乗ったら、 名乗るがよいではないか?」 「あっしは、世間で、闇太郎と言ってくれている、妙な人間 さ」 「ほう。貴様が、名代の闇太郎か!」門倉平馬の物に動ぜ ぬ、不敵な瞳にも、ありくと、驚愕の色が濃るのだった。       一六  門倉平馬は、闇太郎という名乗りを聴くと、ますく好奇 心に燃えて来たらしく、闇を通して、ためつ、すかしつする ように、相手を見て、またも、坤くように咳いた。 「ふうん、貴様が例の闇太郎か! 大名、富豪の、どんな厳 重な|緊《しまり》さえも|呪文《じゆもん》で出入するかのように、自由に出没すると 言う、稀代の賊と言うのは、貴様か?」闇太郎は、|騒然《ひようぜん》とし て笑うのだった。 「はゝゝーー、あっしだって、何もそんな、魔術使いじゃあ りません。物を盗むにゃあ、これで相当に、苦労が要るもの ですよ。誰だって、盗ませるために、|蓄《たくわ》えている奴もありま せんからね」そして、ニタリとして、「第一、今夜のように、 捕り方の五十人や百人は、わけなく潜って抜けられても、お 前さんのような強敵に、行手を|塞《ふさ》がれるときも、ありますか らね」 「強敵に、出会ったと言っても、矢張りその敵に、敵意を失 わせるだけの、秘術を知っているのだから、いよく以て妙 な奴だ。成る程、ふっと噂ばなしを、小耳にはさんだのを思 い出すが、貴様も元は、武家出だそうだな? 剣術は、何処 で習った?」と、平馬は最早、全く、害意のない調子で訊ね かける。 「御冗談でしょうーー」と、闇太郎は気軽にいって、「こん な場合に、身の上調べは恐れ入りますね。お前さんも、立派 なお武家-一旦、あっしを、見遁そうと仰言った以上は、 もう綺麗さっぱりといざこざなしに、放してやっておくんな さい」 「いや、いや、そうも|罷《まか》り成らぬ」と、平馬は、真面目にな って、「実は拙者、貴様の様子を見ているうちにこの儘、別 れたくなくなって来た」 「ほゝう、そうすると、どうなさろうと仰言るんでー1?」 「貴様のような、世にも珍しい才能と、度胸とを持った奴、 泥棒渡世にして置くのが惜しくなった」闇太郎は、手、ういう 平馬の顔を、チラリと見詰めて、|潮《あざ》むように笑った。 「御酔狂も、いゝ加減になさいましよ。人間一度染ったら、 もう二度と元の白地にゃあ、なれねえものなんだ、旦那も、 そんな仏くさい事をいうようじゃあ、なかく一流は立て抜 けねえね。聴けば、今日までは、お師匠さんがあったが、今 夜限り、自流で行くのだとか仰言ったがーし恐れ気もなく いってのける闇太郎に、|気骨稜《きこヨえようく》々たる門倉平馬の気持は、ま すます|惹《ひ》きつけられて、行くらしかった。 「それではどうだ? 拙者ももう、泥棒渡世の足を洗えの、 なんのとは、申すまい。その代りせめて今宵だけでも、拙者 が連れてまいろうとする所で語り明かき.ぬか? その位なこ とは、うべなってもいゝだろう。いくらか、義理がある筈 だ」 「真綿で首と、お出でなすったね」と、闇太郎は、ちょいと 頭へ、手をやるようにして、首をすくめて、「どうもそうや んわり出られてはそれもいやだとも、言えませんね。ようが す、お供を致しやしょう」 「早速、承引してくれて、嬉しい」と、平馬は、|幡《わだかま》りなく言 って、 「では、こう参れ」彼は先に立って、スタスタと和泉橋の方 を向いて、暗い柳原河岸を、歩き出した。懐手で、その後に 続く、|吉原冠《ましわらかぶ》りの闇太郎だ。       一七 ■吉原冠り、下ろし立ての麻裏の音もなく、平罵の後からつ いて行く闇太郎、ー河岸は暗し、頃は真夜中、い、気持そ うに、弥蔵をきめて、いくらか、鐵枯れた、錆びた調子で、    たまさかに    一座はすれど    忍ぶ仲    晴れて    顔さえ    見交わさず    まぎらかそうと    |自棄《やけ》で飲む    いっそしんきな    茶碗酒    雪になりそな    |夜《よる》の冷え  などと、呑気そうな、|隆達《りゆうたつ》くずしが、しんくと、更け渡 るあたりの静けさを、寂しく破るのだった。和泉橋の角まで 行くと、橋詰の火の番所。破れたところが一つ二つある、腰 高障子が、ぼんやり灯影を宿した中に話し声が聞えていた が、平馬の雪駄の響が耳にはいったら、がたりと、立てつけ の悪い、開けたての音がして、ぬっと顔を出した親爺-で も、油断はなく、六尺棒を手にしたのが、左に持った提燈。 それを突きつけるようにしてじっと、二人連れを|透《すか》して見 る。左肩をそびやかすようにした平馬-歩み過ぎた時、連 れを先に立てるようにして、 「親爺、-先っきの太鼓は、何の固めだ?」 「へい-l」と、辻番は、提燈を下ろして、 「あれでござい ますか? 江戸を名打ての大泥棒が、大川屋さんの、塀際に いたとかいうことで、いやもうこの界隈、やかましいことで .こざりましたL水ッ|漢《ばな》を畷りながら、闇太郎の後姿に、眼が 触れたか触れぬか、 「とかくこの頃は、物騒な市中の形勢1お互に、苦労が多 いな。まあしっかり、役目をするがいい」と、いい捨てゝ相 変らずの雪駄の音を、のんびりと響かせて、遠ざかって行く 平馬であった。何気なく、するりと抜けて、歩んで行く、闇 太郎の、肩越しに追い抜きながら、 「隆達くずしでもあるま いぜ、あの小屋の中に、鍋焼きを畷っていた人数は、七八 人、か奴らが、十手を振って向って来れば、一度あずかった 貴様の身体だ。役にも立たぬ殺生をせねばならなかった、拙 者の立場。着くところまで大人しく、ついて来たがいゝでは ないか」 「ところが旦那、あっしはね、何の因果か熱湯好きで、五体 が|縮《ちぐ》み上がるような湯から出ると、そそりの一節も、唄わね えじゃいられねえんでー」 「持ちくずした男だな」|蔑《さげす》むともなく、咳いた平馬、ーー自 分もひどく楽しそうに、橋弁慶の小謡を、柄に扇子で、軽く 拍子を取りながら、口ずさんで、月の無い夜を、ちゃらく と、進んで行く。松枝町の角に、なまこ塀の、四角四面の屋 敷。門は地味な|冠木門《かぶきもん》。それが当節飛ぶ鳥を落す、将軍|寵姫《ちようき》 の|外戚《がいせき》、土部三斎の住居であった。       一八  吉原冠りに懐ろ手、1ー何処に|誘《いざな》う風であろうと、吹かれ て行こうといったような闇太郎を|後《しトリヌ》に従えた、門倉平馬。土 部三斎隠居屋敷、通用門の潜りを叩いて、 「御門番、御蔵前の門倉だ」長屋門の出格子から、不精そう な門番の顔が覗いたが直きに、扉が開く。 「連れは、拙者、 知り合いの者だ」と、言い残して、闇太郎を導いたのが、脇 玄関。 「お遅いお訪ねでござりますな」と、顔見知りらしい若侍。 平馬から、諺かしい服装で、のっそりと後に立った、闇太郎 へと目を走らせる。 「遅なわって、相済まぬが、平馬折入ってお願もござるし、 且は、是非とも御目通りいたさせたい人間を拾いましたで、 |柾《ま》げて御面謁が願いたいと、仰せ入れ下さい」若侍は、 「まだ、|御寝《ぎよしん》にはなりません様子、とにかく御来訪、お伝え だけは、申上げることにいたしましょう」と、奥にはいる。  闇太郎は、懐ろ手から、手こそ出したが、その両手を前で ちょっきり結ぴにした、|平縮《ひらぐけ》の間に挾んで、じろくとあた りを眺めまわすようにしながら、 「成る程、噂には聞いていたが、土部隠居。狭いが、豪勢な 住み方をしていやあがるな。黄金の香が、ぷん/\と、そこ ら中に渦を巻いていやあがる」 「これく、-1つまらぬことを言うな」と、平馬が|流石《さすが》 に、あきれ顔だ。 「つまらぬことって、i門倉の旦那、あっしに取っちゃ あ、この嗅ぎが、身上なんでi。こいつで、見当をつけね え限りは、他所さまの金蔵になんぞ、手がつけられるもんじゃ ござんせん」|金網行燈《かなあみあんどん》がぼんやり照らしている、脇玄関で、 彼等が、こんなことをいい合っている頃、土部三斎は、奥ま った蔵座敷で、黒塗り朱塗り、|堆朱彫《ついしゆぽり》、|桐柾《きりまさ》1その他さま ざまの、什器を入れた箱類を、前後左右に置き並べて坐って いた。頭こそ丸めて、|斎号《さいごう》をば名乗って居れ、六十に手が届 いているのに、|賭《あか》ら顔。眉も黒く、目は細く鋭く、ぶ厚い唇 も、つやくして、でっぷりと肉づいて、憎らしいまでの、 |壮《わかく》々しさが手足の先まで溢れているような老人だ。黒の十|徳           bんれ    しとね に、黄八丈の着付。紫編子の厚い褥の上に坐って、左手の 掌《とくたなそこ》に、処女の血のように真赤に透き通る、|径五《わため》分程の、|燦《きら》 めく|珠玉《たま》を乗せて、明るい燈火にかざすように、ためつ、す がめつ、眺め入っているのであった。若侍が、襖の外まで来 て、|樽《うずく》まると、その気はいに、慌てゝ、珠玉を、手の中に握 り|匿《かく》したが、 「誰じゃ? 何用じゃ?」 「わたくしでござります。御蔵前、門倉平馬、町人体の若者 一人召し連れ、折り入って御意得たいと申し、たゞ今、脇玄 関まで罷り出て居ります」 「何に? 平馬が?」と、老人は咳いて、 「かゝる夜陰に、 何の|所存《つも 》でまいったか、1会うてとらせる。あちらに待た せて置け」そう命じると、三斎、掌の中の珠玉を、|黄《きい》な、拭 き|革《かわ》で、町檸に清めて、幾重にも真綿で包み、小さな青色の 箱に納め、更に、三重の桐箱に入れると、今度は、取り散ら かっていた箱類を、重そうな扉を持った、戸棚にしまって、 |錠《じよう》を下ろし、灯を消して、さてやっと、起ち上がるのであっ た。 鴛 一九  土部三斎が出て行ったのは、彼の何時もの書斎に続いた、 一間だった。床には、彼の|風雅癖《ふうがへき》を思わせて、|明人仇英《みんじんきゅうえい》の、 豊麗な|孔雀《くじやく》の、|極彩色大幅《ごくさいしきたいふく》が掛けられ、わざと花を生けない |花瓶《かへい》は、|宋代《そうだい》の|磁《じ》だった。既に敷かれてあった、床前の白編 子の褥に僧形の三斎は、|無手《むず》と坐って、会釈も無く、閾際に 遠慮深く坐った平馬と、その|傍《かたわら》に、膝こそ揃えているが、 のほほんと、目も伏せていない、町人体の未知の若者とを見 較べるようにした。平馬は、三斎の姿を見ると、礼儀正し く、畳に手をついて、 「夜陰、突然、お|樗《おどろ》かし申し、何とも、相済まぬ儀にござり まする」 「うむ、よいくー」と、三斎は、頷ずいて物珍し気な目 を、連れの闇太郎から離さずに、 「して、それなる人物は、 何者じゃ?」 「平素より御隠居さま、一芸一能のある者共を、あまさず、 御見知り置き遊ばしたいという、お言葉を承り居りましたれ ばー」と、平馬は手を突いたまゝ、「これなる者は、今 宵、御隠居所をさして参りまする途中、|測《はか》らず、柳原河岸に て出会いました人物。1多くの捕り方に取り囲まれしを、 |巧《たくみ》に遁れ、拙者、眼前に現れましたで、引っ捕えて突きだそ うと、存じましたなれど、聞けばこの者、当時、大江戸に名 高い、例の怪賊、闇太郎に|紛《ずまさ》れなき由、承って、御隠居さま へ、御土産として召し連れました次第でござりまする」 「何に? 闇太郎i?」と擁ら顔の老人の唇から、その刹 那、流石に、樗きの叫が洩れた。彼の目は、相変らず、薄寒 そうに膝を揃えて坐った、粋な格子|縞《じま》の若者に、鋭く注がれ たまゝだ。平馬は、権門の前に、別に、|礼譲《 いじよう》を守ろうともせ ぬ連れの方に、責めるように目を向けて、 「これ、御挨拶を申し上げろ。土部三斎さまに、渡らせられ る」闇太郎は、片手を畳に下ろしただけで、さも懇意そう に、三斎隠居の顔を見上げるのだった。 「成る程jこれまで世間の噂で、御中年に長崎奉行をなすっ て、たんまりお儲けになった上、今じゃあ、御息女を公方さ まの、御妾に、差し出しなすったとかで、いよく天下の切 れ者、土部三斎さまの名を聴けば、大老、老中も|怖《お》じ気を振 うとかいうことですが、お目に轡って見りゃ、あっし達でも お交際が出来ねえでもねえニコニコした御隠居さん。今、門 倉の平馬さんが、お引き合せになった通り、あっしは世間 で、闇太郎と、ケチな|潭名《あだな》で通っている、恩百中、大手を振 っては、歩けねえ人間でござんす。それでよかったら、これ から先、お見捨てなくお願いいたしやす」三斎は、ます/\ 鋭い凝視を、|瓢乎《ひようこ》たる面上に、注がざるを得ない。土部三斎 は、これまでの六十年に、実に、さま人\な人間を見て来て いるのだった。将軍、大名、小名、旗本、陪臣、富豪、巾着 切りから、|女白浪《おんなしらなみ》ー長崎で役を勤めるようになってから は、|紅毛碧眼《こうもうへきがん》の|和蘭《オランダ》、|葡萄牙人《ボルトガルじん》、顔色の青白い背の高い唐人 から、|呂宋《ハソン》人まで善悪正邪にかゝわらず、|凡《およそ》ありと|凡《あら》ゆる、 人間という人間に接して来ていた。しかし彼は、今目の前に 見る江戸名打ての、大賊のような自他にこだわらず、何時 も、悠々として、南山を眺め続けているような、自得の風格 に染っている下郎に、 会ったことはないのだった。       三○  三斎は、しげくと、闇太郎を見詰め続けたが、相手は例 によって、膝を揃えて、坐ったまゝ、片手で顎を撫で上げな がら、天井に目を向けて、平気な顔だ。三斎は、日頃、自分 の前へ出ると、いやに|阿訣《あゆ》の色を見せたり、不安の挙動を示 したりするような、人間ばかり見て来ているので、闇太郎の この冷々とした物腰に、一層、心を|惹《ひ》かれるらしかった。 「1ーで、何か貴様は?」と、老人は、親しみの調子さえ見 せて、「闇太郎ともいわれる男なら、どんな厳重な宝蔵の中 にある秘宝でも、自由に、盗み出すことが、出来ると申すの か?」 「そりゃ、あっしも人間ですから、どんな物でもともいわれ ませんが、まあ大ていの代物なら、一度思い込んだとなりゃ あ、これまで、盗りっぱぐれはありませんでした。まあいわ ば、|病気《やまい》のようなものでー。御隠居さんだって、覚えがお ありなさるでしょうが、お互に、若けえ頃娘の子に思いつく と、どうしても、物にしてえ、物にしてえで、寝つかれね え。あれと同じことさ。あつしは、一度|盗《と》ろうと考えたら、 そいつを手に入れねえ中は、おちく夜も眠れねえんでー。 因果な根性で、自分でも愕いていやすよ」と、ぬけくと並 べる盗賊の、報らめもせぬ面魂を、三斎隠居は、まんじりと もせず眺めたまゝ、 「しかし世間では、貴様のことを、義賊の、侠賊のと、いっ ているそうだが、本当にそうした、慈悲、善根も積んでいる かの?」 「冗談仰言っちゃいけません。泥棒に、慈悲、善根なんても のが、ある筈がありますものか。た努、片一方にゃあ、|黄金 や、宝物が山程あって、片一方じゃ、あすの朝の、一握りの 塩噌《かねえんそ》にも困っている。|讐《たと》えば、こちらさんのような御大家か ら、ものゝ百両とものして|出《  》て、いゝ気持になっていると き、そんな貧乏人の歎きが耳にへえりゃあ、百両の中から、 一両ぐれえは、分けてやるのが、誰しもの人情でしょう」 「わしにも、貴様の気持は、いくらか解るようだ。是非に欲 しいと思い込んだら、手に入れぬ中は、|目蓋《まぶた》も合わぬという ような気持は誰にもある」三斎隠居は、自分の考えているだ けのことを、どんな人間の前でも、ずばくいってのける、 この不敵な盗賊と対坐している間に、ついぞ覚えない、胸の 開きをさえ、感じて来るのだった。青年の頃から、彼自身の 心に、喰い込んでしまった、不思議な慾望ー|骨董癖《こつとうへき》、|風雅《ふうが》 癖が昂じた結果の、異常な蒐集慾、それを満たすために、ど れ程、うしろ暗い、|汚《けが》らわしい行為を、繰り返して来ていた 彼であったろう! その衷情を、三斎はいま、不図言葉に漏 らしてしまったのだ。闇太郎は、きょとくした目で、相手 を見た。 「へえ、御隠居さんも、それじゃあ、ぬすっと根性が、おあ んなさるんですか!」平馬は聞きかねたように咳払いをし て、 「これ、無遠慮も、いゝ加減にいたせ」 「かまうなー」と、三斎隠居は言って、「この者の物語は、 なか〜、面白い。正直に申せば、わしだとて、そう言う根性 は、無いとも言われぬかも知れぬ。まそっと|詳《くわ》しく、盗みの 話をしてくれまいか。とにかく、一|蓋《さん》つかわそう」と、言っ て、軽く手を打つのだった。       二一  深夜ではあったが、前髪の若小姓と、紫|矢緋《やがポリ》に、立矢の字 の侍女たちが、盃盤を|齋《もたら》して来た。三斎隠居は、小姓一人を 残して、他の者を去らせると、平馬と闇太郎とに"酒盃を勧 めるのだった。闇太郎は、隠居の言葉までもなく、すっかり |寛《くつろ》ぎきった態度を見せていた。 「ごめんなすって、おくんなせえ。この方が楽にお相手が出 来ますからi-」と、膝を崩して、長崎風のしっぼく台に、 左の|肱《ひじ》さえつくのだった。門倉平馬は、苦々しげだ。彼は相 変らず、きちんと坐って、三斎隠居から渡された酒盃を、口 に運ぶのさえ、遠慮しているように見えた。隠居よりも闇太 郎が、口を出した。 「平馬さん、土部の御隠居さまは、いっ て見りゃあ、公方さまの御親類、当時、飛ぶ鳥も落す勢力か も知れないが、こんな夜更けに、あっしのようなお欝ね者の 泥棒風情を、一緒にお目通りまで、連れて来る程の、御懇意 な伸でしょう。だのにあんたが、そんなにしゃっちょこばっ ていなすっちゃあ、初めてのあっしが、どうにもならねえ」 「如何にも、闇太郎が申す通りだ」と、三斎は平馬の方に目 をやって、「そういえば門倉、この|深更《しんこう》に、何で、わざく 訪ねてまいったのだ?」門倉平馬は、食卓から退るように、 畳に両手を下ろした。 「実は、御隠居さま、拙者、止むに止まれぬ、武道の意気地 により今晩限り、旧師脇田一松斎と別れ、未熟ながら一芸一 流を立て抜く決心、iそれに就き、御隠居さまの、御配慮 を|煩《わずら》わしたく、深夜ながら、お袖に|纏《すが》るため、まかり出でま した次第でござります」 「なに? 脇田の門を捨てたとか? それはまた何故」と、 さすがに土部三斎も|愕《おど》ろきの色を浮べて、 「それはまた、ど うしたわけだ?」 「御存じはござりますまいが、今度上方より初下りの、中村 菊之丞一座の雪之丞、之が、不思議な縁あって、拙者よりも 前かたより、一松斎門にて剣技を学んだ者でござります。今 宵この者に、旧師が、秘伝奥義の、伝授云々のことあり、拙 者へも伝授なきものを、河原者風情に、授けられては、面目 立ち難く、当方より、師弟の縁を切り、直に、脇田家を後に いたした|理由《わけ》-拙者といたしましては、武芸にては、|強《あなが》 ち、師に劣るとも思われませぬ。|御鴻恩《ごこうおん》にて、御地を賜わ り、道場禁軒なりと、開かせいたゾかば|辱《かたじ》けなくー」この 言葉を聴くと三斎よりも、闇太郎の瞳が異様な|煙《かぐやき》を帯びて 来るのだった。 「へえ、平馬さんは初下りの雪之丞と、そんな仲でござんし たかい?」平馬は、闇太郎を|顧《かえめ》みた。 「では貴様は、雪之丞と、存じ合いか?」闇太郎は、事もな げに、例の|顎《あご》を|逆《さ》か撫でに、撫で上げながら、 「何んの、江戸ッ児のあっしと、下り役者と知っている筈が ありますものか、たドあんまり評判が高いんでねi」 「不思議なことを聴くものだな!」と隠居は咳やいた。 「当 節女形として響いている雪之丞、脇田の門人とは、思いもつ かなんだ」       二二  三斎隠居は、|猶《なお》も|鵬《ふ》に落ちぬように、 「実は、御城内に上がっている、娘の|浪路《なみじ》が、この間、会う たとき、江戸初下りの上方役者、雪之丞という者の舞台を、 是非見たい故、宿下りの折、連れてまいってくれと申すの で、中村座の方へ、すでに桟敷の申込もして置いた次第、ー 1江戸まで名が響いている、当代名代の女形に、そのよう な、武術があろうなどとは、存じもよらなんだ。平馬の申す 男と、中村雪之丞と、真に同一人であるのであろうか?」 「お言葉ではござりますが、|紛《まが》いもなく、女形雪之丞い脇田 一松斎の愛弟子に、相違ござりませぬ」と、門倉平馬は、キ ッパリといったが、その調子には、明かに、憎悪が籠められ ていた。 「拙者、一松斎の手元にまいって、既に十年、1 その頃、彼も幼少にて、大阪道場に通ってまいるのでした が、雪之丞を見ると、旧師は、別扱いで、必ず、自身で、稽 古をつけておりました。何でも、一方ならぬ大望を抱いてい るとかの、話も、ふっと、耳にしているようにござります」 「一方ならぬ大望と申して、1役者風情が、まさか、親の 仇というのでもあるまいが、1?」と、三斎は、|猶《なお》、不審 顔だ。闇太郎は、いつもの顎の逆か撫でをやりながら、 「ふうん、じゃあ、あのピカリっと来たのはー?」と、咳 いた。 「何に? ピカリとは何だ?」と、平馬がじろりと観ると、 「いゝえ、何でもねえんで、Ii。た繋、やっぱし舞台で、 光るくれえの奴あ、違ったもんだ、1と感心したんで、1 ー」と、その場を|言濁《いひにご》したが、心の中では、ーそれじゃ、 御蔵前の暗やみで、あの時、女形に斬りつけたのは、この平 馬だったのだな。道理で、素晴らしい|気息《いき》だと思った。しか し、懐剣一本で斬り返されて、どじを踏んでしまったので見 ると、一松斎さんが、この男に、奥義を譲らなかったのも、|流 石《さすが》目があるというもんだ。、闇太郎は、彼独特の、闇を見通す 程の、鋭敏な心の目で、一切を見抜いてしまうと、門倉平馬 の後について、三斎屋敷へなぞ、はいり込んでしまった自分 が、身に汚れでもついたように、悔いられて来るのだった。  1さあ、そろくお暇としようか。だがお蔭で、要害き びしいなまこ塀、土部三斎の、住居の中の秘密も解った。聞 きゃあ、この隠居、、長崎奉行の頃から、よくねえ事ばかり重 ねて、いまの暴富を積んだのだと言う。いずれ、その中出直 して、何か目星しいものを、頂戴してやろうIl 「平馬さん、お蔭で、自身番にも突き出されず、こんな結構 なお屋敷で、御隠居さまとも、お目に掛らせて、、貰いやした が、あっしのような男が、いつまで長居も怖れです。もうお 暇を頂きゃしょう」 「これく闇太郎、1」と、隠居は制して、「わしは何分、 年を取って、寝つきが悪い身体だ。貴様のような、珍らしい 身の上の人間から、いろく話毛聴きたい故、もう少し|喋舌《しやべ》 って行け。これ、|紅丸《べにまる》、その者の酒盃を満たしてやれ」 「そうまで仰言るなら、|暁《あ》け方まで、御造作にあずかりや しょうかー」と、闇太郎、振り袖小姓の酌を受けて、今度 こそ、腰を落ちつけて飲み出すのだった。       二三  三斎は、一度、腰を上げかけた闇太郎が、また坐り直して 飲み出したので、上機嫌だった。 「実は、闇太郎、わしも、役儀は|退《ひ》いているといっても、矢 張り、江戸に住んで、公儀の御恩を受けている身体だ。貴様 のような人間が、屋敷にはいって来たのを、そのまゝにして 置くということも、ちと、出来難いのじゃ。だが、平馬もゆ うたであろうが、わしには、妙な望みがあって、この世の中 で、一芸一能に|秀《すぐ》れた者に、交わりを求めたいと、かねぐ 願っているのだ。絵の道であれ、|刀鍛冶《かたなかじ》であれ、|牙彫師《けぼりし》から 腰元彫の名人iまあ、江戸一といわれる人間で、わしの許 に出入せぬ者はない。|仮令《たとい》泥棒にもせよ、貴様程の奴が、姿 を現してくれたのだから、一概に野暮な業もせぬつもりだ。 こう申したとて、貴様を、|威《おど》そうとする気持ではない。そこ を間違えては困るが、こちらがそういう存念なのだから、貴 様の方でもこれからは、わしにだけは、害意を捨てゝ貰いた いな」 「と、仰言っても、御隠居さんー」と、闇太郎は、先き程 までの、夜の|巷《ちまた》での、悪戦苦闘の、|忌《い》まわしい追憶は、とう に忘れてしまったように、美酒の酔に、陶然と頬を、ほてら せながら、「何しろ、性分が性分で、さっきにから、申し上 げるように、一度盗みたいとなると、どうも遠慮が出来ねえ 生れつき、こちらのようなお屋敷に、足踏をしていると、た まにゃあ、素手では、帰えられねえような気持になることも あるでしょう。だから、まあ、出来るだけ、この近所へは、 足踏をしねえことに、いたしやしょうよ」 「ところがわしは、何となく、貴様が|好《この》ましくなって来た よ」と、老人は、手にした酒盃をさしてやって、「何の、泥 棒の、盗賊のというと、聞えが悪いが、忍びの|業《わざ》は、立派に武 士の、表芸の一つ。音無く天井を走るだけでも、その業を申 し立てればお取り立てになる程のものだ。貴様も、つまらな い遠慮を抜きにして、この家へだけは、一芸の達者として、 威張って出入りするがいゝ」闇太郎は、礼儀にこだわらず、 三斎隠居に直かに、酒盃を返しながら、きらりと鋭い目で、 相手を見上げて、 「どうも恐れ入った、|御懇志《ごこんし》のお言葉ですが、御隠居さん、 ざっくばらんにいって、おめえさんは、このあっしを、どん な時に、役に立てようとなさるんですね?」  三斎隠居は、ぎょっとしたように、闇太郎を見返したが、 その目を外らして、苦が笑いした。 「ふうん、成る程、ますく気鋒の鋭い奴だな!」そして、 わざとらしく取ってつけたような快活さで、「如何にも、旗 本の隠居と泥棒でも、一度懇意になった上は、何かの場合、 折り入って、相談ごとをする時が無いとも限らぬ、だがま あ、当分は、別に頼むことも無いようだ」 「そりゃあ、泥棒は、あっしの渡世、御隠居さんは、書画骨 董、珠玉刀剣が、死ぬ程お好きだということ、何処そこの蔵 から、手に入れられねえ宝物を、盗って来い位なら、御相談 にも乗りましょうが、弱い者|虐《いじ》めや、清い人を、難儀させる ようなことだけは、命を取られても、出来ねえ闇太郎、i それだけは、御承知下せえまし」と、天地に身の置き所も無 い若い盗賊、権勢家三斎を前に置いて、虹の如き気を吐くの だった。       二四  平馬は、三斎隠居の機嫌をとるために、夜陰ながら、路傍 で拾って来た、怪賊闇太郎、ーそれが、隠居の気に入った らしいのが、初めの中は嬉しかったが、いつまでも、闇太 郎、闇太郎で、自分の方を、ついぞ、老人が、振り向いても くれぬので、何となく、不機嫌になって来た。  ーそれにしても、|不邊《ふてぐ》々々しい奴だ。この調子では、こ 奴、隠居の首根っこに食い下がって、行くく、どんな大そ れた考えを起すかも知れない。とんだ者を、ひっぱって来て しまったー  と、心に咳くのも、狭量な心を持った男の、妬み心からで あった。隠居は、それからそれへと、闇太郎から、これま での、冒険的な生活の、告白を聴きたがって、話の|緒口《いとぐち》を、 手繰り続けていたが、ふと、平馬の存在を思い出したよう に、 「おゝ、そう申せば、平馬、その方、一松斎に別れて、自流 を立てるという、決心をしたそうだが、まずさし当って、如 何いたすつもりだ?」平馬は、隠居の|賭《あか》ら顔が、自分の方へ 向けられたので、漸くほっとして、険のある目元に、急に、 |諌《へつら》いに似た、徴笑さえ浮かべて、 「実は、それにつき、日頃の御恩顧に甘えて、真直ぐに、御 当家に|拝趨《はいすう》いたした次第でござりますが1一松斎、年来の |情誼《じようぎ》を忘れ、 |某《それがし》を破門同様に扱いました限りは、拙者も意 気地として、どうあっても、彼の一統を見返さねばなりませ ぬ。就きましては、彼の道場の近所に、新らしく武道指南の 標札が|掲《かも》げたく、御持地所を賜わらば辱けない仕合せでござ りまする」 「うむ、それも面白かろうー」と、三斎は|首肯《うな》ずいて、 「世間では、とかくこの三斎を、権勢家の、我慾者のと、善 からぬ噂を立て、不平不邊の浪人共、物の解らぬ直参旗本の 尻押しで、ともすればわしの身に、危害を加えようとする企 らみもある由、ーなに、彼等が、|喬動《しゆんどう》いたせばとて、びく びく致す程の、小さな胆も持ち合せぬが、伜どもゝ、何か と、心痛し、身辺を警戒せよの、用心せよのと、うるさいこ とだ。丁度幸い、この屋敷の間近に、道場を立てるにはもっ てこいの空地がある。早速そこに、脇田道場に、勝るとも劣 らぬ|道場《やつ》を、建てゝ遣わそう。その代り平馬、わしの一身 を、身に替えて守ってくれねばならぬぞ」三斎隠居、どんな 場合にも、交換条件を、口にせずにはいられぬ老人だ。立派 過ぎる程の武門に老いながら、とかく、商取引を忘れられな い気性だ。平馬、この男も、ぬからぬ人物。直ぐにその場に 両手をついて、 「申すまでもござりませぬ。御恩顧に相成る上は、一身一命 は、申すまでもなく、御隠居さま、御自由でござります」闇 太郎は、二人の問答を聴いて、片手に|酒盃《さかずき》、片手に例の顎の 逆か撫で、  -・1たったいま、十年旧恩の親にも勝る脇田先生の道場 を、後足に砂、飛び出して来やあがった、人畜生の門倉平馬 に、今更、つまらねえ約東を、強いようとする隠居も隠居。 鱒 その前に手をついて、ぬけくと、一身一命、御自由でござ りますーなどと、並べ立てゝいる奴の、奴根性は、ちょい と、この世で、二人とは見つかるめえ。いつか、白んで来た ようだ。そろくこの薄汚ねえ場所を|亡《ふ》けるとしようかー 「大分頂き過ぎやした。これで御納杯とー」闇太郎は、口 では吋檸にいって、酒盃を隠居の方へさし出すのだった。       二五  三斎隠居も、もう闇太郎を、強いて引き止めようとはしな かった。 「さようか、-もう世間が白んで見れば貴様を狙 う、鵜の目鷹の目は、却て、視力を失う頃だ。だがそれにし ても、あまり危いことは、せぬがよいぞ」と、言って、振り 袖小姓に、手箱を持って来させると、|二十五両《きあもち》包を、一つ、 ずしりと膝近く投げてやった。  が、闇太郎は、押し返した。 「あっしあ、この方とは、少し渡世が違うんで-御大家に 伺って、こんなものを頂く気なら、何も好んで、夜、夜中、 塀を乗り越えたり、戸を外したりして、危ない仕事はしては いません。まあ、お預かりになって、置いて下せえ。その中 に、頂戴したくなったら、御存じのねえ中に、そっと頂いて めえりやすからIlその方が御隠居さんにとっても、面白か ろうと思うんでー」三斎隠居は、苦笑した。 「あゝいえば、こういう。ー始末にゆかぬ奴だな。それな ら、貴様自由にしたらよかろう」闇太郎は、門倉平馬にも、 軽く会釈をすると、「じゃあ、御隠居さん、ーいつかま た、お目に掛りましょう」といい残したなり、案内も待た ず、廊下に、辻り出してしまっていた。闇太郎は、晩秋の暁 け方の|巷《ちまた》を行く。乳色の朝霧が、細い巷路を、這い寄るよう に、流れて来る。まだ人通りは無い。何処もこゝもが、しい んとした静寂に|蔽《おお》われて、早起きの、豆腐屋の腰高障子に、 ぼんやり、|灯影《ほかげ》が見えるだけだ。住所不定の闇太郎、1ど こをさして行く当もない。持って生れた、性分で、安心な方 より、危険な方へ、爪先を向けたいが病い。|昨夜《ゆうぺ》、捕り手に 囲まれた、柳原河岸を目指して、例の鼻唄で、ぷらりく歩 いてゆく。橋際に、小さな夜明しの居酒屋1この辺に、夜 鷹を|漁《あさ》りにくる、折助どもを目当の、乏し気な店だ。夜が明 けたので、もう客が|杜絶《とだ》えると見た爺むさい老人がーいま 店をしまおうとするところへ、闇太郎は、ずっとはいった。 「とっつあん、睡いだろうが、一本つけてくれ」爺さんは、 頷ずいて、|銅壼《どうこ》に、|燗瓶《かんぴん》を放り込む。直きについたやつを、 きゅっと引っかけた闇太郎は、独り言のように、「どうも、 権門、富貴の御馳走酒より、自腹の|熱《あ》つ|燗《かん》がこてえられねえ な」 「親方は、大分いけると見えますな。もういゝ機嫌で、お出 でなのにー」 「なあに1飲みたくねえ酒を飲まされた口直しさ」と、若 者は苦っぽく笑って、「そういやあ、この河岸で、昨夜は、 騒ぎだったそうじゃあねえか?」 「へえ。大捕物がありやしてね」と、老人は、水ッ|漢《はな》を|畷《すし》っ て、目を輝かして、 「といったって、手も足もないような手 先衆が、翼の生えている大泥棒を追っかけたんですから、捕 まりっこはありませんよ。お蔭で大分、|燗酒《かんざけ》は、売れました がね」 「はゝゝ、1それじゃあ、その大泥棒が、|爺《とつ》さんにはいゝ 恩人だったじゃねえかi」闇太郎は、のんびり笑って、樽 にかけた片足を、片一方の股の上に組むのだった。 滝夜叉諏       一  猿若町三座の中でも、|結城孫《ゆこつキにきネハ》三郎あやつりの常小屋の真向 うの中村座は、江戸随一、選りすぐりの名優を座付にして、 不断の大入りを誇っていたのが、物の盛衰は理外の理、この 春ごろから狂言の立て方が時好と妙にちぐはぐになって、と もすれば、軒並のほかの小屋から圧され勝ちに見えて来た。 ことさら、気負った盆興行が、大の不入り、そこで座元も策 戦の秘術をつくして、この大切な顔見世月には、当時大阪で めきくと売り出している、門閥外の中村菊之丞一座を招 き、これに、座付の若手を加えただけで、思い切った興行ぶ りを見せようと試みたわけであった。菊之丞一座といって も、見込んでいるのは、艶名を|謳《うた》われている女形雪之丞の舞 台で、それゆえ、出し物も、もっぱらこの青年俳優の|芯《しん》に出 来るような台本が選ばれた。阪地の作者、春水堂がかねて雪 之丞に|嵌《は》めて書き下した、 「|逢治世滝夜叉讃《ときにあうたきやしやぽなし》」で、|将門《まさかど》の息 女滝夜叉が、亡父の|怨念《うらみ》を晴そ,つため、女賊となり、遊女と なり、肝胆を|砕《くだ》いて、軍兵を集め、妖術を|駆使《くし》して、時の|御 門《みかど》を悩まし奉ろうとするとき、|公達《きんだち》藤原治世の征討を受け、 敵と恋に落ちて、非望をなげうつという筋の、通し狂言ー どこまでも、荒唐の美をほしいまゝにして、当時江戸前の意 気な舞台に対抗させようというのであった。この、一座の、 江戸下りが、ぱあっと府内の噂に上ると、|贔眉《ひいきく》々々で、 「ー何だって、上方役者を|芯《 しん》にして、中村座を開けるッ て! 馬鹿くせえ話もあるもんだーおいらあ、もう、あの 小屋のめえも通らねえつもりだ」 「そうともよ! 江戸に役者がねえわけじゃあなしさ。今度 連中を作る奴があったら、一生仲間づきあいをしてやらねえ ぞ!」なぞと、気負った|淡呵《たんか》を切る人達もあるが、 「何でも、中村菊之丞一座というのは、上方で、遠国すじの 田舎まわりをしていた|椴帳《どんちよう》だったのが、腕一本で大阪を八丁 荒しした奴だということだ。おいらあ、一てえに、役者、芸 人が家柄の、門地のと、血すじ、芸すじばかり威張り合っ て、一家禁門でねえことには、どんな腕があっても、てんか ら馬鹿にするのが、癒にさわってならなかったんだ。それ を、|将《らち》も塀もぶち破って、芸で来いと、天下に見得を切った というんだから、すばらしいものじゃあねえかi-おいら あ、ひとつ、うんと、肩入れをしてやるつもりだぜ」 「ほんとうに、そうですとも。江戸っ子は、強きをくじき、 弱きを助けるが身上ですわ。あたしたちも、及ばずながら一 生懸命駆けてあるきますから、うんと賑やかに蓋をあけさせ るようにしてやって下さいましよ」そんな風に、たのまれも せぬのに、血道を上げる男女もあるのであった。そして、と うとう、初日が来た。座の前には、二丁目の通りに、華やか に|幟《のぽり》が立ちならび、積樽は、新川すじから、あとからあとか ら積み立てられ、時節の花の黄菊自菊が植込まれて、美々し げな看板が、人目をそばだたせる。|暁方《ホけがた》から今日の観劇をた のしみに、重詰を持たせて家を出るのは山の手の芝居ずき だ。かごで、舟で、|徒歩《かち》で、江戸中から群れて来た老若、男 女で、だんまりの場が開くころには、広大な中村座の土間桟 敷、もはや一ぱいにみたされているのであった。 二  初日早々、父親の仇敵どもの、最上位に坐して、あらゆる 便宜をはからってやった上、最後に、松浦屋|閾所《けつしよ》、追放の裁 断を下した長崎奉行、土部駿河守の後身、三斎隠居一門の、 華々しい見物があるということを知った雪之丞、いかに心を 静めようとしても、さすがに、その朝の楽屋入りは、気軽く は出来ないのだった。宿を出る前、師匠が、顔をじっと見て、 「少し、顔いろが悪いようだがー」と、いったとき、.日ご ろの教訓を忘れたかと思われる恥かしさに、 「いえ、さすがに、江戸の舞台が、怖いような、気がいたし ましてー」と、微笑んで見せようとしたが、その口元は、 われながら|硬《こわ》ばるのだった。■ 「重ねて言うにも及ぶまいが、今日は、ことさら、胸を静め て舞台を踏まねばなりませぬぞ」師匠は、それだけ言って、 例の端然としたすがたで、膝の上にひろげた書き抜きに、目 を落してしまった。雪之丞は、やがて、菊之丞と一緒に、中 村座を指して出かけた。|初下《はつくだ》りの上方役者の、楽屋入りを見 ようとする、若女房や、娘たちが、狭い道の両側に立ち並ん で、目ひき袖ひき、かまびすしくしゃべり立てゝいる。そし て、彼女等の視線は、あからめもせず、半開きにした|銀扇《ぎんせん》 で、横がおを|蔽《かく》すようにした雪之丞の、白く匂う|芙蓉《ふよう》の花の ようなおもばせにそゝがれているのだ。食い入るようにみつ めながら、彼女等は囁やき合う。 「まあ、ゾーッと、寒気がするほど、美い男だわ」 「江戸で並べて、はまむら家、紀の国家1いゝえ、ぞれほ どの人は、くやしいけど、いやしない」 「あれで、芸が、そりゃ、すばらしいんだと、言うのだも の!」こうした言葉は、いくら低く語り合われているとして も、雪之丞の耳には、はっきり響くはずだ。いつもの彼であ れば、芸人|冥利《みようめ》、讃歎のさゝやきを咳やいてくれる、そうし た人たちの方へ、礼ごころの一|瞥《べつ》はあたえたかも知れない。 が、彼の胸は、土部三斎で、一ぱいだ。  1わしに、今日、満足に、舞台がつとまろうか? その 三斎という人間を、同じ屋根の下に見ながら、落ちついて、 |技《わざ》が進められようか?  彼は魂の底に、日ごろ信心の、神仏をさえ念じる。  ーどうぞ、神さま、仏さま、舞台の上にいる|間《うち》は、この わしを、役に生きさせて下さりませ。さもなくて、心が散 り、とんでもないことをしだしますと、第一、師匠にすみま せぬ。  彼は、楽屋入りをすました。師匠と並んだ部屋の、鏡の前 にすわって、羽二重を貼り、|牡丹刷毛《ぼたんぱけ》をとり上げる。いくら か、心が澄んで来た。|将門《まさかど》の|遺《のこ》した姫ぎみ|滝夜叉《たきやしや》が、序幕の だんまりには、女賊お滝の、金銀繍い分けの、よてん姿、あ らゆる幻怪美をつくした扮装で現われるわけであった。開幕 を知らせる拍子木は、廊下をすぎ、舞台の方では、にぎわし い難子の響が、華やかに波立ちはじめていた。雪之丞は、心 で、手を合せた。江戸下り初舞台、初日の日に、早くも|怨敵《おんてき》 の一入を引き合せて呉れようとする運命に対して::: 三  幻惑的な舞台は、二度開いて、二度幕が下りた。雪之丞は、 生れてはじめてといってもいゝ程、激烈、熱心な|喝采《かつさい》を浴ぴ ることが出来た。これまで観なれ、聴き慣れた、|科白《せわふ》、仕ぐ さとは、全く類を|異《こと》にした、異色ある演技に魅惑された江戸 の観客たちは、最初から好奇心や、愛情を抱いて迎えたもの は勿論、何を、上方の|綴帳役《どんちょう》者がと、高をくゝっていた人達 までも追力のある魔術のために陶酔境に引き込まれて、われ を忘れて、手を拍ち、声を揚げずにはいられなかった。 「花むら屋!」と、いう、聴きつけぬ屋号は、江戸ッ子たち の、歯切れのいゝ口調で、嵐のように投げかけられるのであ った。楽屋に戻ると、あたりの者は、目を輝かして、菊之丞 と、その愛弟子とに、心からの祝辞を述べずにはいられなか った。 「親方、これで、いよく日本一の折紙がついたわけでござ いま.弓」 「負けず嫌いの江戸の人達が、あんなに夢中になっての讃め 言葉、わたし達は、只、もう涙がこぼれました」と、弟子ど もの中には、ほんとうに、涙ぐんでいるものさえあった。雪 之丞も、勿論ホッとした。これで、長年育てゝくれた恩師に 対する、報恩の万分の一を果したと思うと、肩の重荷が、だ んだんに下りてゆく気がするのだった。しかし、彼は、言い 難い、不安に、一方では襲われている。胸をとゞろかせ、心 をおどらして、今日こそ、その|生面《いきづら》が見られると、待ちこが れている土部三斎の一行が、二幕目が下りるころにも、場内 にあらわれて来ないのだ。東の桟敷に、五間、ぶっとおし て、|桔梗《キこきよ コ》の紋を白く出した、紫の幕を吊ったのが、土部家の 席にきまっていたが、もうびっしりと、一ぱいに詰まった見 物席の中で、そこだけが、ガラ空きだ。いうまでもなく、大 身、大家の一行、出かけるにも手間が取れようとは、思って も、万一、模様変えになって、今日、その顔を見ることが、 出来ないようなことになると、何となく、大望遂行の、辻占 が悪くなるような気がされて、雪之丞、胸が|欝《うつ》してならない のだった。1  ーあまり、とん/\拍子に、前兆がよすぎるような気が したが、この辺から、何か、ケチがつくのではあるまいかーー・  雪之丞は、そんな豫感に、心を暗くしながら、滝夜叉の変 身、清滝という遊女すがたになって、何本となく差した|笄《こうがい》 も重たげに、華麗な|禰櫨《うちかけ》をまとい、三幕目の出をまってい た。出場が、知らされて、遊里歓会をかたどった、舞台に出 る。師匠菊之丞が扮する、身を|商質《しようこ》にやつした藤原|治世《はるよ》との 色模様となる場面であった。にぎわしい下座の|管絃《いとたけ》のひゾき の中に、雪之丞は、しっとりと坐りながら、なまめいた|台詞《せめふ》 を口にしつゝ目をちらりと、例の東桟敷の方へと送った。雪 之丞は、受けた|朱杯《しゆはい》が傾くのを、その瞬間、禁じ得ぬ!1見 よ! その紫慢幕がしぼられたあたりに、十人あまりの男女 がしずかに控えて、熱心な注視をそゝいでいるのだ。彼は、 その人達の瞳と、自分のそれとが、はっきりと、真直に衝突 したのを感じた。そして意識的に、一種|娼《こ》びを含んだ微笑を すら口元にほのめかして、見せるのだった。 四  雪之丞の、ほのかな微笑で飾られた、呪いの目は、その桟 敷に、とりわけ、一人の宗匠頭巾の、でっぷりした、黒い十 徳すがたの老人と、それに並んで、いくらか、身を|退《しざ》らせて いる、限りなく艶麗な、文金島田の紫勝ちないでたちの女性 とを見る。一目で、雪之丞に、それが、曾て長崎で威を張っ た土部三斎と、当時、柳営の大奥で、公方の枕席に|侍《はべ》って寵 をほしいまゝにしているという、三斎の末むすめであるのを さとった。女性が、さも一個の処女らしく、髪のゆいぶり、 着付の着方をしているのは、公衆の前に、大奥風のすがたを 現すのをはゾかってゾあろう。その、左右に、直参髭の武家、 いずれも中年なのが二人、うしろには、富裕なしかし商略に 鋭そうな目付をした、|顧骨《かんこつ》の張った痩身の男が控えていた。 その外は、供の者であろうーと、雪之丞は、その後方の男 女の中に、ふと、自分に向けて注がれている、激しい憎悪の 視線が、まじっているのを感じた。すべての目が、讃美と、 いつくしみを液らしているのに、たった二つの瞳だけが、|嘲《あざけ》 りとも、怒りとも、いいようのない、きらめきを宿している のに気がついた。  i不思議だ!あの目は、わしを憎んでいるらしいがー  さり気なく、じっと見たとき、雪之丞は了解した。  …ーさようか? それなら、いぷかしゅうも無い。  彼は、そう心にいって、もうその方に注意しなかった。こ ないだ、脇田一松斎を久々でおとずれた晩、旧師の口から、 あのようないきさつで、師門に後あしで砂を轡けた、例の門 倉平馬が、最近、三斎の子土部駿河守家中のために、剣をお しえているということを、聴かされたのを思い出したのだ。 が、雪之丞は、それを余り問題にする必要はない。平罵の挾 禰と心構えについては、もう知り抜いているし、また、この 昔の兄弟子が、一松斎、孤軒、それに菊之丞をのぞいては、 天下の何人も知らぬであろう、彼自身の、一代の大望を知覚 しているはずもないのだった。つゾまるところ、油断をして はならぬだけの力のある、一人の敵が、自分がつけ狙}つ|仇敵《かたき》 の味方に立ったーと、いうことを、覚悟すれば、それでい いわけなのだ。雪之丞は、それだけを見届けると、もう、こ とさら、三斎隠居一行の桟敷に、特別気をくばりはしないの だった。師匠から、重々言われている通り、たとい、先方か ら、名乗りかけたとて、舞台の上で一芸をつとめる身が、こ の場で、相手になることは出来なかった。|況《ま》して、当の三斎 隠居はじめ、感に堪えたように、うっとりとした様子で、こ ちらの容姿と技芸とに酔っているのである。  1まず今日は、大切なお客さま、それから、ゆっくり と、御覧じて下さりませ。  雪之丞は、冷たく心に笑って、やがて、専念に、役の性根 に|揮身《こんしん》を傾け出すことが出来た。その幕が下りて、顔を拭く か、拭かぬかに、隣の師匠の部屋から、男衆が迎えに来た。 すぐに、出向くと、あらかじめ人を払っていた菊之丞が、 「案じることもいらなんだな」と、まず、讃めてくれるのだ った。 五  雪之丞は、言難い涙が、こぽれ落ちそうになるのを抑えな がら、師匠の言葉を、うなだれて聴いていた。菊之丞は、撫 でさするような目つきで、 「しかも、舞台が、寸分の隙なくつとまったのは、あっぱれ 日ごろの心掛けが、しのばれました一てーあれでのうてはな らぬ。万人と変った、大きな望みを成し遂げるは、一通りの 難儀でないのが、当り前だ」と、いって、口調をあらためて、 「実は、そなたが今日、心みだれるようなことがあると見れ ば、知らすまいと思うたことじゃがー世にもたのもしゅ う、大事の幕を済ましたゆえ、申し聴かせようと考えます が、雪之丞、そなたは、今日の桟敷の、顔ぶれ、すべてしか と見覚えましたか?」雪之丞の目は、涙の奥で、きらゝか に、きらめいた。 「は」と、|唾《つぱ》を呑むようにして、「僧形は、土部三斎どの:… それに並んだは、大奥にすがっておるとうけたまわる、息女 でいられると存じましたが……」 「その外は?」 「その外は、うしろの方に、脇田先生に背きました、例の門 倉平馬と申すが、控えておるのが見えました」と、答える と、師匠は、取るに足りぬと、いうように、頭を振って、 「そのような者は兎に角、そなたに取っての怨敵、一人を除 く外はこと戸、く、あの東桟敷におりますぞ」心を動かすま いと、あらゆる折に気を引きしめる雪之丞、そう聴くと、思 わず、 「おッ!」と、叫んで、膝を乗り出して、「して、それは、誰 誰にござりまする?」 「さ、すぐに、そのように、血相を変えるようではー」 「おゝ、あしゅうござりました」と、雪之丞は、両手をぴた りと突いて、「お師匠さま、お前をもはゞからず、取りみだ し、申しわけもござりませぬ。心を平らに伺いますゆえ、な にとぞ、仰しゃってー」菊之丞は、愛弟子の、思い入った 容子を、あわれと見たように、やさしくうなずいて、 「そのように、しとやかに訊ねるなら、いかにも申してつか わそうが、実は、今日、土部一門の見物があると知ってか ら、何となく、そなたのための仇敵の一人々々、同座するこ ともないではあるまいと、一行の名前を、茶屋の者よりうけ たまわって見たところ、案にたがわず、当節、病気にてひき こもり中の、広海屋主人をのぞく外は、江戸に集まって、昔 の不義不正を知らぬ顔に、栄華をきわめておるやから、こと ごとく、あの、紫幕ばりの下に、大きな顔して見物というわ けー」  iうlIむー  と、いう、激しい心のうめきを、強いて、抑えるように、 雪之丞は、白い前歯で紅い下唇を噛みしめたまゝ、瞳をこら して、師匠をみつめつゾけている。菊之丞は、いよ/\、声 をひそめて、 「土部三斎、隠居して、ますく栄耀の身となったゆえ、も はや、旧悪が暴露するうれいもないと考えているのであろ う、一味の|奴原《やつぱら》が、われとわれから、そなたの面前に、みに くい顔をさらして見せたも、こりゃ、亡き父御の引き合せに 相違ない。心をしずめて、めいくの面体見おぼえるがよろ しかろうよ」 「は、して、まそっと|詳《くわ》しゅう、居並ぶ人々の、順、なりふ りをお聴かせ下さりませ」雪之丞は、乾いた舌で歎願するの だった。 六  菊之丞は、あたりを見まわすようにして、ぐっと、身を乗 り出して、 「忘れまいぞ、雪之丞、向って右のはしが、あの頃の長崎代 官浜川平之進、左のが横山五助、そして、息女浪路のうしろ に控えた、富裕らしい町人が、そなたの父御が、世にも信用 の出来る若い手代と頼んでいたに、その恩を忘れて広海屋と 心を合せ、松浦屋を破滅へみちびいた三郎兵衛-今は、長 崎屋と名乗って、越前堀とやらの近所に、立派な海産閥屋を いとなんでいるそうなーいわば、一ばん、悪だくみの深い 奴1よう、見覚えて置きなさるがいゝぞ」 「では、右のが、代官浜川、左が、横山ー」と、雪之丞は 喘ぐように、繰り返して、 「1あの町人体が、三郎兵衛手 代liし 「そうじゃ/\、今度の幕に、そつのう見て置いたがよいぞ」 その時、もう、二人とも、次の中幕、所作ごとの支度をいそ がねばならなかったので、めいく鏡に向う外はなかった。 雪之丞は、夢の場での、優雅な官女の顔を作りながら、とも すれば、心のけんが、|外《  》にあらわれるのを、いかに隠すべき かに骨を折るのだった。  1わしは、舞台に出るまえに、何も思うてはならぬの だ。心を平らに、狂言の人に、なりおおせねばならぬのじゃ。 それを忘れるゆえに、こうも、顔が怖くなるー  と、そう自分を叱りながら、にもかゝわらず、つい、その あとから、胸の中にくりかえさぬわけに行かぬのが、父親 の、あの、奇怪凄惨な、|遺書《かきおき》だった。  口惜しや、口惜しや、焦熱地獄の苦しみ、生きていがた い。呪わしや。土部、浜川、横山ー憎らしや、三郎兵衛、 憎らしや、広海屋-生き果てゝ、早う見たい|冥路《よみじ》の花の 山。なれど、  死ねぬ。いつまでもつ繋くこの世の苦難、焦熱地獄。  その遺書に、書き呪われた人々の中、広海屋をのぞいて は、すべて、あの東桟敷、ほこりかな、紫慢幕の、特別な場 所で、雪之丞の演技を眺めていると、いうのである。  ーもし、憎らしやと、|父御《てしご》の呪った広海屋さえ、同じと ころに居合せているなら、たとい師匠の言葉に、そむこう と、斬り入って、あますまいものを1  雪之丞は、紅い唇に、べにを塗りながら、じっと鏡をみつ めて、顔の凄さを消そうと、強いて微笑して見ようとするの だったが、その笑いには、却って言いがたいすさまじさが添 って見えるのだった。舞台の方では、山台の、笛、太鼓、歌 ごえが、美しい朗らかさで鳴りひゾきはじめていた。雪之丞 は、山ぐみが、さも重畳として見える、所作舞台へと、間も なく現れた。中幕は、滝夜叉の夢の場11官女すがたの彼 と、公卿若ぎみの、藤原治世とのハ色もようで観客を、悦惚 たらしめるに十分なはずであった。 「ほんに雨夜の品定め、かまびすしいは女のさがー」と、 いうところが、きっかけで官女たちが大勢つどっている場 に、出現するわけなのだ。揚幕が上がって、彼は、かけごえ に迎えられて、花道をふんで行った心       七  雪之丞の官女が、花道の七三にかゝって、|檜《ひ》おうぎをかざ したとき、東桟敷の紫慢幕の下に、そッとつゝましく坐っ た、高島田の美女のひとみに、あり/\と、讃歎のかゾやき が滋った。 「ふうむ、見事じゃ」と、吐息に似たつぶやきが、三斎老人 の唇から洩れた。 「何と、所作ぶりも、達者だの」と、横山が、扇で、手の平 を打つようにした。息女浪路は、横山の方を、満足げにかえ りみた。横山が、その目を捉えて、 「な、浪路どの、あでや かなものでござりますな」 「ほんに、わたくしも、ゾーッと背すじが冷たくなりまし た」浪路は、美しい口唇を、いくらか引き曲げるようにして 告白した。雪之丞が、あらわれて、鳴り物も、うた声も一そ う際立って聴えて来た。観客席には、今や、さゝやきさえ聴 えなくなってしまった。人々は|固唾《かたず》をのみ、瞳を見据えるよ うにして、見入りつゾけるのだった。その幕がしまると、人 人の咽喉から、喝采のかわりに、深い歎息が出た。 「いゝなあ」 「よかったわねえ」そうした言葉が、土間でも、廊下でも、 いつまでも語りかわされるのだった。ところが、不思議な現 象が浪路の上に起った。彼女はかなり朗らかな気性で、絶え ず微笑を消さないような娘であったが、急にぱったりと黙り 込んで、杯にも手を出さなくなってしまった。 「御気分が、お悪くなったのでは?」と、老女が、気がつい たように訊ねた。 「いゝえ、何でもないのだけれどー」小さい絵扇で、顔を かくすようにして目をそむけるのだった。浪路が、勿論中心 をなす】行のことだ。茶屋で仲休みしている間にも、どうか して気を引き立たせようとこゝろみるのだったが、しかし、 さっぱりその反応は見られなかった。彼女は、じっとうつむ いて、白い手先きを、膝の上にみつめたり、ぼうっと遠くを 見るような目をしたりしたまゝ、はかぐしく受け答えもし ないのだった。 「気先きあしければ、立ち戻ろうか?」三斎がいった。 「いゝえ、いゝえ」と急に熱心に、浪路は、かぶりを振っ た。「みんな見てもどりましょう1折角たのしみにしてま いったのでござりますものー」浪路のこの言葉は、つき添 の女中たちをよろこばせるに十分だった。だが、浪路の、こ うした心の変化の奥底の秘密を、いつかすっかり見抜いてい たのが、長崎屋三郎兵衛であった。  1ふうむ、倒巧なようでも、やっぱし娘ッ子だなあ。上 方役者にぞっこんまいッてしまったらしいぞ。ふ、ふ、ふ、 もっとも公方のしなび切った肌ばかりじゃあ、物足σないだ ろうでなあ。  冷たく、独り笑って、やがて真面目な目つきになって、何 か考えてみはじめるのだった。 八  三郎兵衛はもう舞台には、注意を払わなくなった。  ーiこの娘に、思うようなことをさせてやって置けば、わ しの日頃の望みは、千日かゝるのが、十日で成就するわけ だ。こんな折がなかく三度とあるものではないぞ。  この猛悪な食慾漢は、主家を陥れて、現在の暴富を積んだ にもかゝわらず、なおこの上の希望として物産用達の御用 を、柳営から受けたいのだった。この大望は、三斎父子を背 景としている彼にも、なかくむずかしいものに思われた。 幕府にも手堅い組織があって、私情、自愛では、突破し難い 鉄柵が存在していた。だが、そのような非望者に取っての大 障害も、道を以てすればたやすく破壊し得るであろうー三 郎兵衛は、日ごろから、浪路を、その材料としてえらんでは いた。とはいえ、普通ではさすがに、この娘にむかって、そ こまで頼み込むことも出来なかった。現に、たびく、三斎 から、 「長崎屋、お互に、昔は昔、慾を張ることもいゝが、そなた も、そこまでになって見れば、この上は、万事、良いほど に、我意をつゝしむ方が、身のためだろうぞ」などと、忠言 をうけているのだった。  1三斎隠居が、何といったところが、娘が一あし踏みそ こなって見れば、もう何の口出しも出来なくなるわけだ。ど うなっても、この娘に、あの役者をおしつけてしまわなけれ ばーなあに、おとなしぶって、白い顔をしているが、あの むっちりした胸の中は、淫らな気持で一ぱいなんだ。片一方 の役者の方は、これは高が、陰間あがりの女形。なんでもあ りはしないさ。  三郎兵衛のたぐいに取っては、彼自身の慾を遂げるため に、どんな毒気を吐き散らして、他人を|轟毒《こどく》しようとも意と しないのだ。只、どこまでも、我慾を果してゆけばよかっ た。たとい来世は、地獄の黒炎に魂を焼きこがされようとも  …彼は、幕が下りると、わざと浪路をわきにして、横山に いいかけた。 「どうでござります。横山さま、雪之丞とやらいう役者- 広い日本にもまず二人とは珍らしく思われますが、聴けば、 今日の、三斎さまの御見物を、大そうありがとう思うて、舞 台を懸命に踏んでいるとの、幕内から9つわさ1殊勝なこ とに存じますで、はねましてからどこぞで、お杯を取らせつ かわしたらと考えますがー」 「それく。拙者もそのごとを、思わぬではなかったが ー」と、横山は、うなずいて、「御隠居の御都合さえおよ ろしければ、そういたしておつかわしになったら、ことさら 上方からの、いわば頼りすくない彼、なんぼうかよろこぶで ござろうがー」この問答は、三郎兵衛によって、とりわけ 浪路に、聴えよがしにはじめられたのだ。彼の視線は、冷た く、鋭く、彼女にちらくと投げつゾけられる。  ーそれ、見るがいゝ。あの娘、まるで相好がかわってし まった。屈託らしい顔が、急に生きくとかゾやき出した。 ふ、ふ、この三郎兵衛さまの眼光におそれ入ったか?  勿論、三郎兵衛のこの発議を、しりぞける三斎ではない。 彼は異った世界の人間に接触するのが、一ばんのたのしみで もあった。 「おもしろいな。どこぞで、招いてやろうよ。浪路、そちに もいゝ保養であろう」彼はそうのんびりした調子でいった。 九  父親から、雪之丞を、どこぞ会席にでも招いて、贔慣の言 葉をかけてやろうではないかーと言いかけられて、浪路 は、ときめく胸を隠すことが困難なように見えた。見るく、 瞳は新らしい望みでかゾやき、頬には熱い血のいろが上って 来た。 「よろしいようにー」と、彼女は、やっと、心の昂奮を抑 えて、かすかに、去りげなく答えた。三郎兵衛は、その横が おを、冷たい微笑で眺めて、 「ですが、浪路さまが、もし御気分がお冴えにならねば、又 の日にいたしましてもー」 「いゝえく」と、彼女は、美しくかぶりを振るようにし て、 「久しぷりで、人中に出ましたので、さっきまで、どう やら気持が重うござりましたが、もうすっかり晴れ人\とい たしました」 「それは何よりでござりました」と、言って、三郎兵衛は、 立ち上がりながら、 「それでは、ひとつ、その旨を、茶屋の 者に申しつたえ、雪之丞の耳に入れ、よろこばせてつかわし ましょう」雪之丞を酒席に招くということが決定すると、よ ろこびの色を蔽い得なんだのは、浪路ばかりではなかった。 つき添いの女中たちも急に、今から、衣紋を直し合ったり、 曝やき交したりして、一座はもう落ちつきを失って来たよう にさえ見えるのだった。やがて、狂言もすゝんで、もう|大喜 利《おおぎり》という幕間ー今日の演技に魅惑しつくされて、新らしい 渇仰の熱を上げた男女が、雪之丞の楽屋に、山ほど遺物をか つぎ込み、めいく一ことでも、やさしい挨拶をうけたそう に、どかくと押し寄せて来るのだったが、そこへ、茶屋の 若い者が、顔を出して、男衆に、何かさゝやく。男衆が、雪 之丞に、 「今夜、さじきにお見えになっている土部さまから、はねて から、柳ばしの川長で、一|献《こん》さし上げたいというおはなしだ そうですがー」 「え! 土部さまからー」雪之丞は、刷毛を持っていた手 を止めて、相手をじろりとみつめた。 「へえ、例の三斎の御隠居さまが、犬そうお讃めになってい らっしゃるそうでー何分、お客さますじがお客さまのすじ ですから、ほんのちょいとでもお伺いになった方が、よろし かろうと思いますのでーへえ」この瞬間ほど、美しい女が たの面上に、複雑な表情がうかんだことはなかったであろう i彼は、自分を取りまいて、まるで酔ったように化粧ぶり を眺めている贔贋の客たちを忘れてしまったように、じっと 唇を噛み締めて、空をみつめるようにしたが、やがて、決心 がついたようにー 「ようございます。かたじけなく、お言葉にしたがいましょ うーと、土部さん御一同に申し上げて下さるようー」 「かしこまりました。さぞ、さきさまもおよろこびなさるで ございましょう」雪之丞は、しずかにふたゝび鏡にむかっ た。彼はだが、もう、さき程のように殺気をあらわしてはい なかった。心は澄み切り、魂はしずもっていた。  1ーじっと落ちつけよ! 雪太郎ーじっと落ちつけ、大 事のときじゃ。彼は呪文のように胸の底で繰り返していた。       一〇  大喜利がにぎやかに幕が引かれると、雪之丞は、|潮汲《しおく》みの、 仇ッぽい|扮装《ふんそう》のまゝで、師匠の部屋に行った。 「お目出とうござります」 「お目出とう、御苦労だったの」とてお互に、初日をことほ ぎ合ったあとで、雪之丞、手を突いて、 「さて、わたくしは これから、お客衆にまねかれまして、柳ばし、川長とやらへ まで、顔出しをいたしてまいるつもりでございます。おゆる しが願わしゅうー」 「ほゝう、それはありがたい御贔虞だの。して、どのような 筋のお客さまだな」菊之丞は、わが|愛弟子《まなでし》が、江戸人から歓 迎されるのを聴くのが、一ばんうれしいというように目顔に 微笑をみなぎらした。雪之丞は、きわめて落ちつき払った、 さりげない調子でー 「土部さま御一行からでござりますとのことー」 「えゝ、土部から?」かえって、師匠の瞳に、不安と恐怖と がきらめいた。 「して、そなた一人、よばれましたのか?」 「はい、わたくし一人、お名ざしでござりますーが、かま えて、悪うはふるまわぬつもりでござりますゆえ、御懸念に は及びませぬ」菊之丞は、じっと愛弟子をみつめたが、 「何となく心もとないが、しかし、そなたの|身性《みじよう》を、あの人 人が、気がついているはずは、万に一つも、あるはずがない と思われる。大方、そなたの芸が気に入っての招きであろ う。先方が、そう申すのを断ろうともせず、ふみ入って見よ うという、そなたの了見は結構だ。が、決して、今夜、その 場で|暴《あ》らくしゅうしてはなりませぬぞ」 「申すまでもござりませぬ。雪之丞、必死にて、みずから を、おさえて見るつもりでござります」雪之丞が、きっぱり そう言うと、 「それ/\、その覚悟が、大事の前には是非とも入用だ。今 夜は、相手が、どのように出ようともー百万に一つ、そな たの身にうたがいをかけているような気ぶりが見えようと も、必ずいいまぎらして、手荒くしてはなりませぬ」と菊之 丞はいって、 「あまり、気にしすぎるようだが、そなたの、 肌身はなさぬ懐剣、今夜だけは、わむにあずけて置いて貰い たい」ニッコリした雪之丞I 「はい、かしこまりました。お預けいたすでござりましょ う。では、御免こうむって、支度をー」雪之丞は、ざっと 舞台化粧を拭き落すと、かつら下地に紫の野郎帽子、例のこ のみの、雪持南天の衣裳、短い羽織をはおって、あらためて 師匠に挨拶した。 「では、脇田先生よりたまわりましたまも り刀、今宵一夜、おあずかり下さりませ」 「たしかにあずかりました。行って来なさい」師弟は別れ た。楽屋口から、男衆を供に、役者の出入りに、好奇な目を かゞやかして立ちならんでいる女たちの間を抜けて、茶屋の 前から駕籠に乗るのは遠慮して、しばし、夜風が織をはため かしているあたりをあるく。そして、雪之丞、やがて、駕籠 に揺られて、 大川端をさしていそぐのだった。 一一  料亭の、白く、明るい障子は、黒く冷たい大川の夜かぜを 防いでいた。大広間には、|朱塗《しゆぬわ》の燭台が立て並べられて、百 目蟻燭の光が昼をあざむくようだ。床前には、三斎父娘が控 えて、左右には浜川、横山、それに三郎兵衛、芸者、末社 も、もうおいおい集まりはじめていた。帯間遊孝が、額を叩 くようにして、 「それは、とのさま方、結構なことでございますな。実は、 この土地でも、かりにも猿若町の三座の随一、中村座ともあ ろうものが、上方役者を芯にして、顔見世月の蓋を開けるな んざああんまりなやり方ー見下げ果てた仕打だ1今度だ けは見物も、見合せた方がなんぞという人もありましたが、 相手は、遠い旅をかけて来た芸人、まして、あの人達のおか げ宕、くさりかけた中村座が立ち直れば、これに越したこと はないという論も出まして、まあ、幟、そのほか、飾りもの もいたしましたが、実は、わたくしも、今日の舞台をのぞき まずと、何が、|けれん《   》芸、立派な舞台で、あれでは、ちっ と、当地の役者も、顔まけをいたすかも知れませぬ。アてれで .早速、手配をしまして、三日目の見物は、土地をすぐって押 し出すことにいたしました。そこへ、とのさま方が、あの雪 之丞を、柳ばしにお招きくださって、言わば、この土地のも のにも、おひき合せ下さろうと言うのは、われくども、芸 人仲間としても、うれしいことでございます」なーてと、これ は、男同士から、心からよろこぷように言うのだった。芸者 たちも、雪之丞と一座が出来るというので、何となく浮き立 って、 「そんなにいゝ役者なら、もう上方へ帰してはやり度くない ねえ」 「ほんとうに、芸も、位も、江戸が一ばんですのにーみな さんで可愛がって上げたら、屹度こっちに居着いてしまうで しょうよ」三斎隠居が、ニヤくしながら、 「と、申して、あまりその方たちが愛しすぎると、折角の、 彼の芸がどんなことになるかも知れぬぞ」 「ふ、ふ、素手で蝿を追うようになるより、いっそ、一日も 早う、西へ帰してやるが、雪之丞のためになろうも知れぬ」 と、浜川が、尾についてざれ口を叩く。浪路は、明らかに眉 をひそめた。彼女の、白魚のような右の指先が、美しい額を おさえる。  ーふ、ふ、ふ、まだ雪之丞を手に入れもしないのに、も う自分の|情人《トいひと》のことをかれこれ言われてでもいるように、や きもちを焼いている。まあ、待っていなさいよ。きっと、こ のわしの力で、何とかまとめて上げようからねーそのかわ り、わしが頼むことがあったら、お前さんも、よろしく肩入 れをしてくれるのだねー  と、顔には追従笑いをうかべて、心にはさげすむ長崎屋三 郎兵衛、「浪路さま、お一つ、お盃をいたgきたいものでご ざりますがi」 「わたくしは、また頭が痛んでまいるといけませぬゆえ ー」と、いうのを、 「いゝえ、召し上がりなされませ。何でもにぎわしゅう、陽 気にあそばせば、お風邪気なんぞは、飛んで行ってしまいま す」 「では、差し上げましょうかー」と、いくらか微笑して、 盃をさしたのも、彼女にすれば、雪之丞に今夜逢えるのも、 心利いた三郎兵衛のはからいだと思えばこそであったろう ーところへ、女中が、 「中村座から、お着きになりましたがー」と、顔を出す。 一二 「ほ! 待ち人がまいられたそうなーお出迎えーお出迎 え!」と、遊孝が、元気よく立つと、芸者、女中が、雪之丞 のために席を設ける。一座の目は、こと人\く、はいって来 ようとする珍客の方をみつめる。いかなる事にも、物驚きを しないような、生ッ粋の柳ばし連の、美しい瞳さえ、一度に きらめき輝くのだった。三郎兵衛は、相変らず、必要な方へ だけ視線を走らせる。  ー大丈夫、安心しておいでなさいよ。どんな美形連が、 こがれ、あこがれて近よりたがっても、お前さんにはかなわ ないのだからね。何しろ、公方さまの、お側女なんだ。大し た御身分。うしろには、お父上ばかりじゃあない、この三郎 兵衛という軍師がひかえているんだ。  見つめられて当の浪路は、顔色さえサーッと青ざめて見え るほど、明らかに昂奮して来た。膝に置いた、白い手先き が、小さな金扇を、ぎゅっとつかみしめて、息ざしが喘ぐよ うだ。 「さあ、こちらへー」と、いう、遊孝の、案内のこえi 「みなさま、おまち兼ねでー」|閾外《 リヨこいニ エし》の畳廊下に、ほっそり としなやかな手を突いて、艶やかな璽下地の自く匂う頸すじ を見せた雪之丞、真赤な下着の襟がのぞくのが、限りもなく なまめかしかった。 「わざくおまねきにあずかりまして、何とも|辱《かた》じけない儀 にござります。わたくしは大阪よりはるばると、御当地を頼 りまいらせて下りました、中村雪之丞、いく久しく御贔贋、 おん引き立てのほど願わしゅう」 「さあく、遠慮のう、前へ進め、これへまいれ」と、三斎 老人、例の気さくな調子で、じかに声をかける。 「御前は、悪固いことが一ばんおきらい。さあ、そこの席ま でおいでなさい」三郎兵衛が、身を乗り出すようにして迎え た。頭をもたげた雪之丞、|珠玉《たま》のかんばせに、|恒《つね》ならず血を 上らせているのは、心中にむら/\と燃え立ち渦巻く憤怨の ほむらを、やっとのことでおさえつけているためなのだろう が、しかしよそめには、舞台で眺める濃い化粧の面かげとは ちがった、いうにいえぬ媚びさえ感じられるのだった。  ーま、うつくしい!  ー何という、おとなしやかで、品のいゝ人なのだろう!  一座にいあわせる女たちのみか、浪路の供をして来て、控 えの間につゝしんでいた女中たちさえ、廊下までのぞきに来 て、お互に手を〆め合って、といきを洩らしている。三斎の 言葉と、杯とが皮切りで、一同から、讃歎が、雨のように雪 之丞の上に降りかゝって来る。雪之丞、つゝましやかにうつ むいて、 「左様なお言葉をうけたまわるも、何と申し上げてよろしい やらー只、もう嬉し涙が、とめどもござりませぬ」事実、 彼のまつげには、熱い珠がまつわっているのだ。何の涙か i真実うれし涙であろうはずもないーいうまでもなく、 この世でもっとも憎悪すべき、親のかたきから、うけねばな らぬ杯から呑む酒は、沸き立つ鉛の熱湯にもまさったものに 感じられたのであろう。 二一一  一座の酒は、はずんでいた。三郎兵衛は、どんな太鼓持よ り気軽な、調子のいゝ態度で、出来るだけ、雪之丞を浪路に 近づけようと、試みるのだった。雪之丞が、浪路から差され た盃を、ゆすいで返そうとするのを、わざと、その儘、もと に納めさせたのも、彼だった。 「この頃、江戸の流行で、彦、なたのような秀れた芸道の人 が、口にあてた盃は、お客が持ち帰るのが、慣わしとなって いる。そなたも、御息女さまに、お願いして、そのお盃を、 お持ち帰りを願うがよい」なぞと、いったのは、何事も心の 中を、口に出せぬ浪路の、胸のうちを、代っていってやった までなのだ。浪路は、嬉しさを強てかくすようにして、懐紙 を出して、小さな|猪口《ちよく》を包み、大事そうに帯の間にしまっ た。太鼓持は、芸者の歌三味線で、持芸を並べたてゝいた。 雪之丞はつゝましやかに、江戸前の遊芸を眺めているふりを していたが、その胸のうちは、まるで烈風に煽られる火炎の ように渦まき乱れていた。呪いのほむらは、魂を灼き焦し、 あおりたてた。  ーたとい、懐剣は、お師匠さまのお手にお預けして来て も、この手刀が身についている限りは、こゝに並んだ四人、 五人、瞬く間に打ち倒して、父親の恨みをお晴らし申すは、 わけはない。この場に、広海屋さえ加わって居ればー  そして、再び彼は、無理々々己れを抑える。  いゝえ、駄目だ。早まってはならぬ。今度の江戸下りは、 お師匠さまや、一座のためには大事の場合。わたくしの恨み を晴らすために、ともかくも花形なぞと、数えられるこのわ しが、血なまぐさい事をしてのけたら、何も彼も、滅茶々々 だ。折角、向いて来ている江戸の人たちの人気が、そのため に一座をすっかり離れるだろう。わしは、胸を撫で、さすろ う。わたくし事は、人に気づかれぬよう、そっとく、ひと りで暗闇で、なし遂げる外はない。  雪之丞は、やっとのことで、自制して、心を落ちつけて、 居並ぶ仇敵たちの様子を探ろうとするのだった。誰は、どん な癖があるか、どのような性格だか、それを知れば知る程、 彼の目的は、安全に的確に達せられるであろう。箒間の芸が すむと、三郎兵衛が、雪之丞にいいかけるのだった。 「太夫、そなたの舞台の芸は芸として、お歴々様に、日頃の たしなみを、何かお目にかけたらよかろうがi」雪之丞 は、とりわけ、この三郎兵衛から、ものをいいかけられる と、|憤《いきどお》りに全身が、こわばって来るのだった。しかし、彼 は殊更、しおらしく頭を下げた。 「未熟者で、何も覚えて居りませぬが、折角のお言葉ゆえ ー」と、そう答えて、一人の芸者から、三味線を借りる と、かすめた調子で、爪弾きで、低く粋な加賀節を歌いだし た。    つとめものうき    ひとすじならば    とくも消えなん    露の身の    日かげしのぶの    夜なくひとに    遇うをつとめの    いのちかや  紅の唇が、静かに動くのを、吸いつけられたように、浪路 は、見つめて、手にしていた金扇を思わず、畳にとり落すの だった。       一四  |梶《ぴち》々、切々たる、哀調は、かすかに弾きすまされた爪びき の絃の音にからみ合いながら、人々の心を、はかない、やる 瀬ない境に引き込んでゆくのであった。芸者たちは、雪之丞 がうたいおわって、頭を下げ、三味線をさし措いたとき、深 い吐息をついた。 「加賀ぶしも、あゝうたわれると胸を刺されるようだの」と、 通人の三斎がつぶやいた。それは一座の気持を、代っていい あらわしたものといってもよかった。雪之丞に対する人々の 態度は、ますくいとおしみと、なつかしみに満たされて来 た。あるものはひそかな恋ごころを、またあるものは尊敬の 念をすら抱くのであった。三郎兵衛は、ふと、浪路が、うつ むいて、白い細い指先で、こめかみを押えるのを見ると、|透《すか》 さず言いかけた。 「浪路さま、また、お|頭《つむゆ》がお病みなされてまいりましたか?」 「いえ1少し|上気《のぼせ》たようですけれど、別に左まではー」 と答えるのを、大仰に眉をひそめて受けて、 「それはいけませぬ。大方、芝居小屋から、この席と、つゞ いてやかましい所に御辛抱なされたので、御気持があしゅう なられたのでしょうゆえ、しばし、あちらで御休息なられて はー」と、云って、三郎兵衛の胸の寸法を、十分にのみ込 めぬ浪路が、拒もうとするのを、しいるようにして、「それ、 女中ども、御息女さまをしずかなお部屋に御案内いたしてく れ。少し横にお成りあそばすとじきにおなおりであろうから ー」浪路は、みんなから強いられて、いつまでもいたい、 雪之丞の前を立たねばならなかった。そして、連れてゆかれ たのは、奥深い、丸窓を持った一間だった。軽い|褥《しとね》に、枕も なまめかしく、ほのかな灯かげが、ろうたく映えている。女 中たちは、供の小間使の一人だけを、枕元に残して、去って しまった。そこへ、三郎兵衛が、顔を出して、 「実はな、あなたさまがおいでになると、これから御酒をす ごそうとするわれくに、ちと、遠慮がちになりますので Ilへ、へ、御休息を願ったような次第でござりますが、そ のかわり只今、もうじき、よいお話相手を必ず連れてまいり ます。たのしみにおまち下さりますようー」  1よい、話相手!  浪路は、いぶかしく、小くびをかしげて、そして、やが て、白梅の花びらのように、ふくらかな頬に、パアッと、紅 |葉《じ》を散らして、三郎兵衛の後すがたの方を、見送るようにす るのだった。  ーでは、長崎屋どのは、何もかも、わたくしの胸の中を 知ってしまっていたのだ1雪之丞を、この席に招こうとい い出したときから、もう知ってしまっていられたのだ。  毒々しい野心に燃えている三郎兵衛を、深く知らぬ、この 美女は、たズ、はずかしさと感謝とに一ぱいになるばかり だ。  iでも、雪之丞は、ほんとうに、この場に来てくれるで あろうか? まいったら、うれしいけれどーまあ、どんな ことをいゝ出したらよろしいやらー  わくくと、少女の胸はと冥ろき躍る。彼女は、小間使 に、朱塗りの鏡台をはこばせて、髪かたちを直させながら、 躍る血潮をしずめようと、両手でそっと、乳房のあたりをお さえるのであった。 一五  こちらは、雪之丞、あとからあとから降って来る杯の雨 を、しずかにうけながら、心の中に仇敵の一人々々を観察し ているのだったが、なるほど、どれを見ても、一ぱしすさま じい面がまえと、胆の太さを持った、なかくたやすくは行 かぬ人々だ。三斎老人はやはり、芸道の話をしきりにしかけ て来るが、その|和《やわ》らかい言葉がふくむ鋭い機鋒は驚くばかり で、浜川旧代官は、邪智深さで随一、横山というのは、狡猜 無比、これに、広海屋、長崎屋の毒々しい下品な知恵を加え たら、なるほど、どのような悪事をも、天下の耳目をくらま して、押し切って行えるだろうと思われた。こうした連中が 心を合せて、正直、まっとうに暮して来ていた、父親を|陥穽《わな》 に|陥《おとしい》れ、一家を離散させ、母親を自害させ、限りない苦悩 のどん底に投げ入れたのだと思うと、雪之丞は、只、すぐに 《イ》|5 一刀に斬り殺したのでは、復讐心が満足出来なくなって来る ような気がする。なぷり殺しーそれも、ある場合は、刀で |行《や》るもよいが、それは最後で、もっとく、別の手段で、心 も魂も、生きながら地獄の苦しみを味わせてやらねば、辛抱 ならぬものに思われはじめた。  1いそぐでないぞ! 心を引きしめて、わし自身が身に 覚えた、長いく間の苦悩をも、父御の恨みに加えて、こや栞 つ等に思い知らせてつかわそう。  そう考えて、奥歯を噛み〆めたとき、ふと三斎の声が、彼 の心を引いた。 「おゝ、そう申せば、門倉は1平馬は、どこへ行っている のじゃ1席に見えぬがー」雪之丞は、さっき桟敷に見 た、あの、憎悪に充ちた門倉平馬の顔が、こゝに見当らぬの が不思議だったのだ。 「おゝ、なるほど、阻倉1つい、さっきまでそこにおりま したがー」と、横山が、末座に目を走しらせる。 「あ、そこにおいでのお方さまは只今、少し酔いすぎたと申 されまして、風に吹かれておいでゝございます」と、女中が 言った。 「ナニ、平馬が、酔うた1珍しいこともあるものだな?」 と、老人はいったが、急にあけっぱなしに笑って、 「いやそ うでもあるまいi大方お客がお客ゆえ、わざと、この座を はずしたのであろう-胸の小さな男だな」そう岐くと、雪 之丞に、鋭い視線をちらと送って、 「のう、太夫、うけたまわれば、そなたは舞台の芸ばかりで はないそうじゃの?lIと、いうことを漏れ聞いたが-ーー」 雪之丞は、さては平馬が、すでに何か耳に入れたなーと、 悟ったが、さあらぬ体で、 「と、おゝせられますと?」と、ほゝえましく、 「舞台の芸 さえ未熟ものーその外に何の道を、習い覚えるひまとて、 あるはずがござりませぬ」 「いやく、そなた、武士の表芸にも、練達のものと聴い た。三斎、実は、ひそかに感心いたしおったのだ」老人がこ ういうと、座中の人々には、一そう感歎の曝やきがかわされ る。 「脇田門では、一二を争うものとうけたまわった。いず れ日を期して、その方面の技も見せて貰いたいな。それにし ても、門倉を呼べ、あれにようゆうて、何かわけありげな太 夫と|和《やわ》らぎ合せたいと、わしは思うIl門倉を呼べ」と、三 斎は、あたりにいった。 一六  女中たちが、二人ばかりで、平馬を探しに出かけたが、間 もなくいくらかこめかみのあたりを青くした剣客が、広間に はいって来て、末座に手を突いて、 「中座をいたし、はなはだ失礼つかまつりました。ちといた だき過ぎたよう存じましてー」 「よい、よい」と、三斎は、明るくうなずいて、 「ちと、そ ちに訊ねたいことがあってな、わざと呼びにつかわしたが ー」と、いって、雪之丞に目をうつして、 「雪之丞、そな た、これなる者を見覚えているであろうな?」雪之丞の、美 しい優しい瞳が、まともに門倉平馬の上にそゝがれた。と、 彼のいくらか酔いを帯びて、まるで桜の花びらのように思え る面上に、さもなつかしげに笑みが液った。 「ま、これは門倉さま、思いがけないところで、お目通りい たしますな」と、しずかに挨拶する。平馬は、苦がくしさ を、あらわにして、 「これは、雪之丞、舞台を見たが、なるほど、男ながらに、 女そのまゝ1生身の変性女子を眺めて、何とも驚き入りま したぞ」そういう言葉には、あり/\と、役者を身分ちがい と見、女がたを片輪ものとさげすむ侮辱がふくめられてい た。しかし、雪之丞は、別にいかりの気色も見せぬ。ほがら かに笑って、 「あなたほどのお方から、女そのまゝとの仰せを伺えば、わ たくし、これ以上のうれしさはござりませぬ」あっさり受け るその容子を、三斎はゆたかな目つきで眺めて、 「平馬、その方、ふだんからどうも気性が固苦しゅうていか んーもっとも、武芸者は、そうあるべきだが、雪之丞とも、 年来の馴染とあれば、双方とも、芸術の達人、今後、したしゅ ういたしたがよろしいぞ」隠居は、雪之丞を、闇討に掛よう としたほどの、心肝に徹する平馬の憎悪を知らないのだ。 「お言葉でござりますが、年来のなじみと申しましても、拙 者と雪之丞とは、道がことなりますので、さまで親しゅうも いたしてはおりませなんだ」 「これさ、そう申すのが、その方のいつもの癖だ。さ、杯を つかわせ」平馬は、よんどころなげに、杯を干す。芸者が、 雪之丞に取りついで、 「あちらさまからー」 「|辱《かたじけ》のうござりまする」うけて、清めて返したが、アてれで、 ひとまず、一座の話題は、別の方角へ|反《そ》れてゆくのだった。 やっと、みんなの注目からのがれることが出来た雪之丞、座 を立って、手洗場の方へゆこうとすると、あとから、呼びか けたものがあって、 「太夫」ふりかえると、昔の松浦屋の手代、今は一ばん恨み の深い長崎屋三郎兵衛だ。 「御用でござりますか?」胸をさすって、小腰をか穿める と、狡そうな目つきに、妙な微笑を見せて、 「折り入って、話があるのだがi」と、あたりを見まわす ようにして、 「御隠居の御息女が、あちらで、酔をさまして いらっしゃる。話相手に行って見てはくれまいか?」 一七  三郎兵衛から、息女浪路が、別間で休息しているゆえ、話 相手にその部屋を訪れてはくれまいかと、突然、思いがけな いことを聞かされた雪之丞。その刹那、かあーと、全身の血 が逆流するのを覚えるのだった。  ーさては、ひとを河原者、色子あがり同然とあなどっ て、婦女子の、|弄《もてあそ》びもの、つれ人\の伽として、淫らなこ とを、させようとしむけるのだな。しかも、相手は恨み重な る土部三斎の娘ー  と、顔色さえ変って、すぐに、はげしい言葉を|酬《むく》いようと したのであったが、  ーいや、いや、こゝが堪忍のしどころ、胸の、さすりど ころじゃ。今夜は、どのような仕儀に|臨《のぞ》んでも一|憾《こら》えに像 え、たゾ敵方の懐に喰い入り、のちくの準備に備えようと いうのが、覚悟なのだー  と、自分を叱ったものゝ、しかし、三郎兵衛の求めには、 どうしても、応じられない気がした。彼は、顔に、|愚慧《いんぎん》な笑 みを作って、 「それは、有がたいお言葉ではござりますが、わたくしは、 女形、たゾさえ世上の口がうるそうござります。御女性がた ばかりの御席へは、かね六\から、お招きをお断りして居り ますので、何分ともに、御前態よろしゅうお詫びを申し上げ ておいて下さりませ」三郎兵衛は、うなずいて、 「なる程、そなたの申し分には、道理がある。そこまで、身 を慎んでこそ、日本一の芸人と、名を|謡《うた》われることも出来よ う」と、さもく感に堪えたように、いって見せて、一段と 声を低くし、「だが、のう、雪之丞殿。それは十分、理窟だ が、ものにはすべて、裏がある。相手が|普通《かいなで》の娘だとか、後 家だとか、いうような者どもなら、それは、そなたの、名の ために、断りをいうもいゝであろうなれど、土部三斎様とい えば、何分、当時、大江戸で、飛ぷ鳥を落す勢い。その御威 勢の半分は、当の、あの、浪路さまを、大奥にさし出してい るからだとさえ、いわれているのじゃ。そこを、よう考えた ら、そなたも、日頃の心がけを、今夜だけは忘れても、損は ないように思われるがー」雪之丞は、三郎兵衛が、例の|悪 狡《わるこす》い眼を細めるようにして、こんな事を、くどくと述べた てるのを聞いているうちに、だんく気持が変って来た。  iなる程、ものは考えようじゃ。相手が土部三斎の娘 の、浪路であればこそ、却って、こゝは、いつもの気持を捨 て、側に近づく用があるかも知れぬ。わしは、今まで、恨み を晴らすに、太刀、刀を使おうとばかり思うていた。だが、 それでは存分の、念ばらしが出来る筈がない。世間で、女子 にもまさるとか、たゝえてくれる姿、形に産みつけて下され たも御両親1その御両親の御無念を、おはらし申すに、|練《き》 緻を使ったとて、何が悪かろろ。世の中の、噂なぞは、わし には少しも苦にならぬ。よし、よし、向うから、しかけて来 たのを倖い、公方の随一の|寵愛《ちようあい》とかいう、あの浪路とやら を、巧言をもって、たぶらかし、思い切った仕方で、かの三 斎めに、先ず第一の、歎きを見せて遣わそう。何事も大望へ の道だ。ためらう事はならぬのじゃ1  雪之丞は、自分に、そういい聞かせて、じっと、思案に暮 れる様子を作って、 「如何にも、これは、わたくしの考え違い。相手のお方が、 御息女さまとあるからは、うっかりお断りなぞ申上げたら、 飛んだ失礼になるところでござりました、お言葉に、何もか も、お委せ致すでござりましょう」と低く、低く、腰をかゞ めるのだった。 一八  雪之丞が、手の裏を返すように、折れて出たのを見ると、 三郎兵衛は、ニヤリと|猫族《ぴようぞく》に似た白い歯を現して、 「そうじゃ、そうじゃ、そのように物わかりがよう無うて は、芸人はなかく出世がなりませぬ。いかに名人上手とゆ ろても、やはり上つ方の、ひいきが無いと、人気は持ちつ寸 けられぬものーそなたのようにおとなしい気持でいれば、 一生、現在の評判をもちこたえること疑いなしじゃ。ことさ ら、浪路さまは、今夜こそお|微行《しのぴ》なれ、大奥の御覚第一、こ のお方の御機嫌さえ取って置こうなら、どんな貴いあたりに も、お召しを受けることも出来よう。そうなって御覧じろ、 役者としては、日本|開闢《かいぴやく》以来の名誉ではあるまいか」と、べ らべらと、しゃべり立てたが、 「そういう中にも、何か邪魔がはいるとならぬ。さあ、こう 来なさい。御息女のお小やすみの部屋に、わしが案内をして 取らせましょう」江戸で、物産問屋としては、兎に角、指を 折られるまでに、立身をしている身で、自分から|淫《いた》ずら事の 手引きをしようとする、この三郎兵衛の態度に、雪之丞は堪 えがたいいまわしさを覚えて、ほとんど吐き気すら感じて来 るのだった。けれども、どこまでも頭を下げて、 「何もかも、あなたさまの御恩でござりまするーわたくし 風情が御息女さまのお側に出していただけるのは、思いがけ ないことで、どうぞあなたさまよりも、よろしゅうお口添を 願い上げまする」 「よいとも、よいとも、この三郎兵衛が、呑み込んだ上は、 大丈夫。まあ、何事もまかせて置きなされ」一歩、一歩、拭 き込んだ廊下を、まるで汚物でも撒かれている道を歩かせら れるような、いとわしい、やり切れない気持で、雪之丞は、 奥まった茶室風の小部屋の方に導かれて行くのだった。三郎 兵衛は、しいんとした小部屋の前まで来ると、軽い咳ばらい をして、襖をあける。控えの三畳に、つゝましく坐った、小 間使に、笑がおを見せて、 「御息女さまに、三郎兵衛、まいった由、申し上げて下さ れ」と、礼儀だけに言って、かまわず、雪之丞の手を引くよ うにして、小間使のあとからはいって行った。休息用の、ふ さ飾りのついた朱塗蒔絵の枕は、さすがに、隅の方に押しや って、やゝ居くずれて、ほのかな灯影に、草双紙の絵をなが めていた浪路、三郎兵衛が来たというので、目を上げると、 パアッと、白い頬に血を上らせた。 「ま!」彼女の、紅い唇から、驚喜のつぷやきが、思わず漏 れざるを得ない。|閾《しきい》うちに膝を突いた三郎兵衛に並んで、そ こにしずかにひれ伏しているのは、今日偶然舞台でその姿を 一目見てから、ゾーッと身ぷるいの出る程の恋ごころをおぽ えてしまった、上方下りの雪之丞その人ではないか! 三郎 兵衛は、さも、内輪な、したしげな調子で、親密なまなざし を送りつゝ、 「浪路さま、雪之丞が、おつれ人\を、おなぐさめいたした いと申しましてまかり出ました。上方のめずらしいお話もご ざりましょう。お相手おおせつけ下されまし。さ、雪之丞ど の、まそっと、お進みなさるがいゝ」       一九  雪之丞が目をあげると、その瞳は、熱い、燃えるような視 線を感じるのだった。愛の、悶えの、執着の熱戦だった。そ して、それは、浪路の魂と肉との|哀訴《うつたえ》だった。  浪路は、片手を脇息にかけて、紅唇にほゝえみをうかべよ うとするのだったが、その微笑は口ばたに|硬《こわ》ばりついて、か えって、神経的な痙璽をあらわすにすぎなかった。三郎兵衛 は、二人の目が、ピタリと合ったまゝ、うごかぬのを見る と、チラリと冷たい笑みを見せて、 「では、わしは|彼方《むこう》のお座敷でまだお相手をせねばなりませ ぬゆえ、ゆかせて頂きます。雪之丞どの、御息女さまは、よ うくおたのみいたしましたぞ」そう、いい捨てると、そのま ま姿を消してしまった。浪路の、白い|咽喉《のど》から、いくらかか すれたような声が、はじめて洩れる。 「さ、これに、進みや」雪之丞は、しおらしげに膝をすゝめ た。 「いそがしいところを、今宵は、とんだ目に逢わせまし たな」浪路は、相手に遠慮を忘れさせようとするだけの、心 の余裕を持つことが出来はじめた。彼女は、かね人\、大奥 の、口さがない女たちが、宿下りの折々に、贔贋の役者と、 ひそかに出逢いをして、日ごろの胸のむすぼれを晴らす、そ の時のたのしさ、うれしさを聴かされてもいた。  ー何も、こわがることも、うじくすることもない、だ れもがすることだ。この男だとて多分、多くの女たちの、も てあそびものになって来た身であろう1  自分をはげますように、そんな風に思って見たが、する と、又、激しい愛慾の悩みが、白くむっちりと|膨《ふく》れた胸を、 噛む。  iでも、わたしには、辛抱出来ない。一度、この人をわ が物にすることが出来たら、|他人《ひと》の手には渡せないー1  彼女は、雪之丞が、あまりにつゝましすぎるのを、怨じが おに、 「その上に、又、わたしのようなものゝ、つれ六\の伽まで たのまれて、さぞ、心苦しゅうありましょうな」 「いゝえ、御息女さま」雪之丞の、澄んだ、しかし、ねばっ こさのある声が遮った。「何でそのようなことが、ござりま しょう。わたくしのようなものが、貴いお身ちかく出ますの が、あまりこ勿体のうてー」 「また! 何ということを!」浪路は、媚びられて、うれし さに沸きたつ胸を、しいて、つんとして見せて、「そなたは、 どこまでも、他人行儀にして、わたしを近づけまいとするそ うな」そのとき、しずかに、小間使が、蒔絵の膳に、酒肴を のせて運んで来て、また、音もなく立ち去るのだった。浪路 は、まだ遠い二人の仲を近よせる、いゝ仲立を得て、 「もう いつか、秋も深うなって、夜寒が、沁みるーさ、酌をしま すほどに、ゆるりとすごすがようござります」と、ほっそり した手に、"杯を取って、雪之丞にすゝめる。雪之丞は、・い え、わたくしが、お酌をさせていたゾきまする」と、いなむ のを、 「ま! いつまで、そんな堅苦しいー」そして、二人の杯 は美酒に充たされた。       二〇  雪之丞は、出来るだけすなおに、浪路と、さかずきを、さ しつ押えつするのであった。しかし、彼に取っては、いかな る美酒の香料も、まるで鉛の熱湯を呑みおろすような気持を あたえるに相違なかった。  -辛抱だーこれが、男の辛抱だ!  と、彼は魂に叫ぶ。  1この人の肺脇に食い入って、身も心も迷わせてやれ ば、お城づとめがおろそかになるに相違ない。この人が、お 上をしくじった暁には、三斎の、いまの勢力は地を払うであ ろうー  1それが、一ばんいたい心の手傷となるわけじゃ。どζ までも、美しい胸の奥をとろかさねばならぬー 「ほんに、何という冥加なわたくしに、こざりましょうなし  と、彼は、片手を襟にさし込むように、いくらか流し目さ え使って、浪路をながめる。 「やんごとないお方さまの、お身ちかく、この世でならびな い、御栄華にお生きなされているあなたさまのお側で、たと え、たったしばしの間でも、こうして御贔贋をおうけいたせ るなぞとは、上方をはなれますとき、思いも及ばぬことでご ざりました」 「何をいやるぞIlそなたは?」と、浪路は、恨みをふくめ た目で見返して、 「わたしが、上さまのお側にはべる身ゆ え、それが仕合せでもあるように、そなたは思うていやるそ うなi」 「それが、仕合せでのうて何が仕合せでござりましょう? この日ッ本国中の、女性という女性、それをうらやまぬもの が、あろうはずがござりませぬ」雪之丞はべったりと、居く ずれるようにして、横がおを見せるのだった。浪路は、この |爾《ら つ》たく、しとやかな優人と、世情にうとく、色黒な小柄な貴 人とを思い比べて見ることさえ、苦しく、やるせなく、心恥 かしかった。 「もうそのようなこと、いわずに置いてたも。さも、わたし が、好んで大奥にあがったものでもあるようにー」雪之丞 は、それが耳にはいらぬものゝように、ホーッと、深い吐息 をして、 「わたくし、おいとまをいたゾきとうござりますがー」急 に、サッと、浪路の顔いろがかわって、 「なぜーにわかに、そのような!」 「でも、考えて見ますと、あまりに空おそろしくiー」「何 が、おそろしいと、いやるのかー事ごとに、わたしのこゝ ろに針を刺さいでも!i」浪路は、べったりと、雪之丞の方 へもたれかゝるようにして、 「そなたには、わたしのこのこ ころが、わからぬと見えますなー舞台の上では、あのよう にやさしく、しおらしゅうお見えであるに、あんまりおもい やりが無さすぎます」 「御息女さま」と、雪之丞は、かたちをあらためて、膝を正 して、「あなたさまは、わたくしを、おなぶりあそばすので ござりますか? いやしい稼業はいたしておりましても、男 のはしくれ、あまりのおたわむれは、罪ぶこうござりましょ うにー」 「わたしが、そなたをなぶるといやるかえ?」重ねた杯に、 ぼうと染まったまなじりに、限りない媚びを見せて浪路は、 一そう若きわざおぎにもたれかゝるようにするのだった。 二一  雪之丞は、だん/\に酔い染まって来るような、浪路を眺 めていると、胸苦しさが募ってゆくばかりだ。  1この人は、たしかにもう、わしの手の中に落ちてしま った。この人はわしからはなれることは出来ぬ。  そう思うと、自足のおもいにおのずから、冷たい微笑が、 唇を軽くうごかさずには置かぬ。 「御息女さまに、こうしてたった一夜でもお目にかゝって、 このまゝ一生、お召しもうけなかったら、わたくしは一たい どうしたらよろしいのでござりましょう」 「何といやるーこのまゝ、もうあわずなるi1そのような ことがありましたら、このわたしこそ、とても生きてはおら れませぬ。そのようなこと、いいだして下さるな」少女の、 熱いく吐息は、みじんいつわりをまじえていない。蔑すみ と呪いとに充たされた雪之丞の、目にも魂にも、それはよく 感じられるのだった。すると、彼も亦、多恨の青春に生きる 身ではある。思わず、美しい浪路から瞳をそむけないではい られない。  ーかわいそうに、この人は、何も知らないのだ。この人 には、罪も恨みもあるはずがないのだ。それなのに、わし は、ひたすら、いつわりで心をとろかそうとばかりしている 1空おそろしいわざではあるまいか1  胸の奥底を、その瞬間、いうにいえぬ痛みが突き刺す。  ーあわれな、罪深いわざは止したがよくはあるまいか? 「わたしは、癩さえとり詰めるような気がしてなりませぬ」 と、浪路は訴えた。 「もうじき、こよい、お別れせねばなら ぬと思うとー」  雪之丞は、咄嵯に答えることが出来なかったー彼の舌は |硬《こわ》ばった。  -わしには、これ以上のことは言われぬーこの人は、 ほんとうにわしのことを思いつめておいでなのだ。こんな に、こんなに手先がふるえていられる。  けれども、やがて、彼の激しい熱情がよみがえった。  1いゝえ。わしは、こんな気弱いことでどうするのだろ う! この人は三斎の娘なのだ! 三斎の分身なのだ。この 人を苦しめるのは、憎い三斎を苦しめることなのだ。わしは どこまでも、土部一家に崇らねばならぬ。この人の身も、魂 も、かき裂いてやらねばならぬ。この人を公方さまの側から 引き離して、にがいく味を、三斎にまず味わせねばならな いーわしは、気を弱らしてどうするのだ。雪之丞は、父親 の、あの悲しみと憎しみとに燃えた、みじめな最後のすがた を思い出す。彼は、力ーッと、全身が地獄の炎で焼き焦され るような気がした。父親の、まぼろしの顔が物すさまじく|痙《ひ》 き|轡《つ》るのが、まざくと見られる。彼は、|苛責《かしへ く》の毒煙にまか れながら、わが子を呪う11怒るー1責めるI  l不孝者め! 心弱い、愚か者め! 誓いを忘れたか! この父親の冥府の苦しみを忘れたか! 浮かばれぬのだ。浮 かばれぬのだ! 早く、早く修羅のうらみを晴らしてくれぬ ことには、いつまでも成仏出来ぬこの身なのだ-雪太郎 よ! 雪太郎よ! この怖ろしのさまが見えぬか!       二二  相手が女性、しかも、父にこそ恨みはあれ、何の|罪科《つみとが》もな い人と恩うと、自分のもくろみがあまりに悪辣な気がして、 やゝ、心が屈しかけた雪之丞、ふと、不幸薄命に狂死した親 のまぼろしを目にうかべ、冥府からの責め言葉さえ耳にし て、ハッと我れに返った。  llそうじゃ、わしは父御の子じゃ、父御のうらみをむノ いるために、この一生を賭けた身じゃ。今更、何をためら二 のかー・どこまでもどこまでも、鬼になり、悪魔とならね一 ならぬー  そう、胸の中に、おのれを叱って、 「御息女さま、それなれば、これからのわたくしは、いつ' いつも、あなたさまが、見守ってくだされているつもりで曹 しまする。舞台に立つときも、ほかのお客さまに見せよう」 は思わず、たゞもう毎日あなたさまが、あの桟敷においで一 されると考えて、懸命につとめまする」 「ほんに、何というやさしいことをー」と、浪路は、ゆ仏 み心地に、 「わたしも、御殿にいるうちも、いつもそなた一 忘られるはずはありませぬ1上さまお側にはべるとき」 て、屹度々々そなたのことのみ思い暮らしましょうi」 「この雪之丞、上方にても、たゾくさま人\なまどわし一 逢いかけましたこともござりますが、たゞ一すじに芸道竹 一、ほかのことには心をひかれずくらしてまいりました。- かし、今日からはさぞや変った心となりましょうー恋と( らはせぬがましときいてはおりましたが、たやすくお目によ かれぬ、とうといお身の上のお方さまを慕いまいらせては、 いのちさえ細るに相違ござりませぬ」浪路も、ホーッと熱h 息をして、雪之丞の女にもまがう手先をじっと引きしめると 「こよい、一夜でも、ゆるりと話が出来たらばのうー」一 人は、目と目を見合せて、しばし言葉もなかった。すると、 そのとき、廊下の方で、軽い足音がして、例の三郎兵衛の- わぷきの音-のこり惜げに、若い二人の手がはなれる。一 郎兵衛がさも生真面目な様子で現われて、 「浪路さま、御気分がなおりましたら、御かえりの時刻も迫 りましたゆえ、お支度をとの、お父上さまからのお言葉でご ぎります」 「あい。すぐに支度をいたしましょう」と、つやゝかな、|蟹《ぴん》 のあたりに、そっと手をふれて、浪路が答える。三郎兵衛 は、雪之丞に、 「御隠居さま、仰せには、折角、なじみになったそなた、こ のまゝ別れるのも心のこりがするゆえ、お屋敷まで、見送っ てはくれまいかーとのお話、-明日、楽屋入りも早いこ と、迷惑ではあろうが、どうであろう、御一緒に帰ってほし いと思うがー」浪路の、しおれた風情に、サーッと活気が よみがえる。雪之丞は、元より渡りに船1ー一度は、三斎住 居の模様をも、十分に見きわめて置き度いのだ。 「お言葉までもござりませぬ。お門までは是非お送りさせて いたゞきまする」 「門までといわず、ゆるりとお邪魔いたして、かさねて上方 の話でも申上げるがよい。御隠居さま、そなたが、大そう気 に入られたようじゃ」浪路の挙動は、急に生きくしくなる のだった。 闇太郎繊悔 一 冷え六\と、胸の底に沁み入るような、 晩秋の夜風が、 しゅう/\と吹き抜いている、夜更けの町を、吉原冠り、み じん柄の|素袷《すもわせ》、素足に麻裏を突っかけた若い男、弥蔵をこし らえて、意気なこえで、    道のちまたの    二もと柳    風にふかれて    どちらへなびこ    思うとのごの    かたへなびこぞ  なぞと、菅垣を鼻うたにしながら、やって来たが、これ が、常夜燈のおぼろな光りに、横がおを照らされたところで 見ると、まぎれもない、大賊闇太郎だ。江戸中の、目明し、 岡ッ引き、この男一人を捕るために、夜に日を継いで狂奔し ているにも|拘《かちわ》らず、どこに風がふくかと、相変らずの夜ある きをつゾけている彼、しかも、爪先を向けているのが、つい こないだ、門倉平馬に連れられて無理に引き込まれた、松枝 町、土部三斎屋敷の方角だった。闇太郎、弥蔵を解いて、片 手で、癖の顎の逆撫でをやりながら、ブツブツと、口に出し てつぷやきはじめた。                 `  1どうしても、今夜は、もう一度、ゆっくり、あの屋敷 をたずねてやらなけりゃあ、ならねえんだ。人をつけ、泥棒 こそはしていても、天下にきこえた闇太郎さまさ、まるで化 ものあつけえに、物珍らしげにあっちから眺めたり、こっち から眺めたり、明け方までつき合せやがって、あげくの果て が、二十五両包一ツ、えらそうによくも投げてよこしなんぞ しやがったな。そのお礼を、早くしてやらなけりゃあ、闇太 郎、腹の虫がおさまらねえや。  と、急ぐでもなく歩いていたが、ふと、行く手に、黒い塀 をめぐらした角屋敷を見つけると、  1おッ1 そういううちに、とうとうやって来てしまや がった。どれ、まず表から、ぐるりと拝見に及ぶかな。  さしかゝった表門前ーそれが、こんな夜更けだというの に、半開きになっているのを見て平気で通りすぎながらも、 小首をかしげて、  IIこいつあ、妙だぞ。なるほど、三斎も変りものだな。 もうおッつけ丑満だろうに、門内に、お客かごがあって、供 待に、灯がついているので見ると、例の手で夜明しの客とい うわけか。  通り越して、鼻先で、へんと、笑って、  ーだが、お客で、家の中が、ざわめいているなんざあ、 闇太郎さんに、わざく仕事を楽にさせてやろうというもの だー1まっていろ、今、目のくり玉の飛び出るような目に合 せてやるから1  闇太郎、塀について、屋敷横にぐるりと廻って出ながら、  1こう見えて、このおれが、一度足を踏み込んだ以上 は、屋敷ん中の隅から隅まで、蔵の中、小屋の蔭、すっかり 瞳に映して来ているんだ。門倉平馬も、恩人とやらの三斎さ んのところへ、とんだ客を連れ込んだものさ。ふ、ふ、ふ。 あの宝ぐらの中にゃあ、公方さまからの頂きものから、在役 中の不浄な財宝まで、うんと積んであるだろうi少し今夜 は慾張って、貧乏人助けをしてやるかーー寒さに向って、ま だ|単衣《ひとえ》ものでふるえている奴もあるんだ。       二  闇太郎、盗んだ宝は、一物のこさず、片っぱしから、|恵《カぐ》ん だり、使ったりしてしまう性で、新らしい施しがしたくなる と、どこからか仕入れて来なければならないのだ。今夜、そ の|目的《めど》に選んだのが、三斎屋敷-この家こそ、彼に取っ て、いわば、わざくお得意として存在しているようなもの だった。彼の主義として出来る限りは、ふところ手で、楽々 と大きな富を慾の熊手で掻き込んで暮しているような相手に しか、手を出さぬことにしているので、その点で、三斎隠居 のような人物は、なかく二人とは見当らぬはずであった。 屋敷の横手から、裏にまわった闇太郎、まん中ごろに立ち止 って前後を見とおし、ちょいと耳を傾けるようにしたと思う と、  1案の定、家の中が、みんなお客に気を取られていやあ がる。よっぽどの珍客らしいが、どれ、ひとつのぞいてやろ う|力《ユ》1  と、独りごとをいうなり、ぴたりと、土塀に貼りついて、 指先をどこかに掛けたが、いつかからだは、塀内に、ついと、 飛び下りている。塀下に、つゝじのこんもりした灌木1ーそ の蔭に、ぐっと一度うずくまって、気はいを覗うと、植込み の幹から幹、石から石を、つうくと、影のように渡って、 近寄った軒下。その軒下づたいに、たちまち辿りついたの が、こないだ通されたのとは別の、書院仕立の大きな客間の 外だった。耳を澄まして、家内の容子をうか冥ったがー  ーはてなー  と、闇太郎、いぶかしそうに、  iはて、こいつあ、いよく以って面白いぞ。なるほ ど、こないだ、猿若町を見物するとかいっていたが、今夜、 あの雪之丞が、こゝに来ているとは、思いもかけなかった。 一芸一能の人間に逢って見るのが楽しみだと、生意気なこと をいっていたが、三斎め、妙な道楽を持っていやがるな。そ れにしても、あの雪之丞という役者、只のねずみとも思われ ぬが、どこか、好いた奴llあの男ならこのおれも、一度は ゆっくり話して見てえとおもっていたんだ。  闇太郎は、いつか、盗み本来の目的を忘れてしまったよう に、中から洩れて来る話しごえにばかり耳を傾けはじめた。  ーあの男が、いつぞや平馬の奴に、暗討の迎え打ち、タ ッと斬りつけられたとき、ひらりかわして、短刀であべこべ に、相手の二の腕を突いて退けたあの手際は、なみ一通りの ものではないーー聴けば御蔵前の脇田の高弟とのことだが、 一てえ、何のつもりで、そこまで剣法なんぞ習い覚えたのか、 人間、あてのねえことには、なかく手を出さぬものーし かも、あの気合には、すばらしいけわしさが合んでいるー さすがのおれにも、あいつの胸の中だけは解けねえがー  と、腕を組んでいるところへ、だしぬけに、う、う、うー と、低く捻りながら、怪しい奴ーと、いうように近づいて 来た一頭の大犬1それと見ると、闇太郎、巧な擬声で、 う、う、うーと、小さく挨拶するように隠り返す。大犬は不 患議そうに、しかしもう敵意を亡くして、尾を垂れて足元に まつわるのを、手の平に唾を吐いて嘗めさせて、 「黒、温和しくしろーこれからときん〜たずねて来るから なーまあ、 少しの間おれに中の話を聴かせてくれ」 三  闇太郎は足許にまつわってくる黒犬を、片手で頭をなでて やりながら、おなじ軒下にじっとたゝずんだまゝ、なおも家 内からもれてくるかすかな気はいに耳をかたむけつゾける。 .-それにしても、あの雪之丞もこんな屋敷に引っぱりだ されてくるようじゃ、やっぱり高のしれた芸人根性の奴だっ たのかな。この三斎屋敷に出はいりをするような奴は、きま って、あの隠居の、髭のちりをはらって、何か得をしよう と、目論んでいる奴等に、きまっているんだ。おい雪之丞し っかりしろ。娘が公方の妾になっていたって、それがなん だ。全体、芸人なんてもなあ、公方や大名の贔慣をうけたっ て、何の役にもたゝねえものなんだ。それより、世間一統皆 皆様の、お引立にあずからなけりゃならねえのは、頭取の口 上できいたってわかるじゃねえか。却って、こんな屋敷に出 入りなんぞすると、気っぷのいゝ江戸ッ子たちからは笑われ るぜ。  なぞと、例の調子で、心の中につぶやいていたが、  -おッ、何かざわくしだしたぜ。ふン、雪之丞が、い よく暇乞いをしているな。ところでおれはこれからどうし たものか、折角もぐりこんできたこの三斎屋敷、小判の匂い がそこら中にプンプンして、どうにもこうにも堪えられねえ が、といって、なんとなく今夜のうちにあの雪之丞の面が一 目見てやりたくってならねえ。どうしようかな、おい、黒!  と、闇太郎は、黒犬の頭をもう一撫でしたが、やっと決心 がついたように、  1やっぱりおれは、雪之丞のあとを付け、しおを見て話 しかけてやろう。それにしても上方くだりの、あのなまっ白 い女形がなんだって、おれの気持ちを、こんなに引付けるの か、宿場女郎のいゝぐさじゃねえが、大方これも御縁でござ んしょうよ。  闇太郎は、書院づくりのお座敷の軒下を、ついとはなれる と、またしても、例の|編蟷《こトつも り》が飛ぷような素早さで、ぐるりと 裏庭に廻って、木石の間をかけぬけ、見上げるばかりな大塀 の下に来て、そこまでついてきた黒犬さえびっくりするよう な、身軽さで、声もかけず塀の上に飛上がると、もうその身 は往来におりていた。おりた瞬間からこの男、どこぞ遊び場 のかえりでもあるような、悠々閑々たる歩きぶりだ。素袷に 弥蔵をこしらえて、すた〜、と表門の方へと廻っていった。 門前にさしかゝると、恰度、たったいま、一挺の駕籠が出た ところーなかく結構な仕立の駕籠の、土部家の客用乗物 に相違ないが、|陸尺《ろくしやく》が二人でかいているだけで、供はない。 闇太郎は門中をちらりと覗いてすぎる。供待ちにはまだ二三 挺の駕籠が残っている。  -あの駕籠に乗っているのは、てっきり雪之丞だ。そ ら、この辺にすばらしく好い匂いがプンプン残っているじゃ あねえか。  と、鼻をひょこつかせるようにしながら、この|嘉落《らいらく》な大泥 棒は、そのまゝいゝほどの間合をおいて、雪之丞の乗物を|眼《つ》 けはじめた。駕籠は、早めもせずゆるめもせず、ころ合な速 度で、松枝町から馬喰町の方へ東をさしてゆくのだった。闇 太郎は首を振ってつぷやいた。  ーさあそろく一声かけてやろうかな。 四  雪之丞を乗せた駕籠と、それをつける闇太郎とは、し9つ しゅうたる晩秋の夜更の風が吹きわたっている夜道を、いつ か駒形河岸にまで来ているのだった。闇太郎は、だしぬけに 小刻みな早足になって、駕籠のそばまで駆けつけて、わざと 息をきりながら、かぶった手拭をとって小腰をかゾめ、 「お|陸尺《ろくしやく》、お前さんたちの足の早さにゃびっくりしました ぜ」だしぬけにいゝかけられて、陸尺の足が一度とまる。俵 棒が変な奴だというように、眉をひそめて、 「おめえは一体なんだ。何用だ」闇太郎は、にこりと笑って 見せたが、この男の笑顔には、一種独特な、どんな人間でも ひきつけずにはおかない朗かさがあった。 「およびとめ申して済みませんが、実はあっしは、この駕籠 の中の太夫さんに逢いたくって、松枝町のお邸の前から|眼《つ》け て来たものなんです。通りすがりに御門前で、駕籠に乗る姿 を、ちらと遠くから見て、こいつあてっきり、雪之丞さん、 ぜひ禁目とおっかけたんですが、何しろ駕籠が早いんで、や っと追いついたわけー」 「おめえさんは、太夫さんの御存じのお人か」と、先棒がふ りかえってじろりと見る。 「そりゃあもう、よく御承知の男ですよ。ねえ太夫さん、あ っしだがll」今日の初日の幕が明いてから、次々と我身の 上におこっていった、思いがけない|種《さまみ 》々な出来ごとを、胸の 邸 うちにもう一度くりかえしながら、かくもたやすく、仇敵ど もに接近することの出来たのも日頃信心の神仏や、かつはな き父親の引きあわせと、心で手をあわせるように、いや更 に、復讐心に燃えつ緊けていた雪之丞、突然駕籠を呼びとめ たものがあるのを知ったその瞬間、早くも胸に来たものがあ った。  ーおゝ、この声は、たしかに三三度聞き覚えのある声 じゃ。  と、考えてみて、  liたしかにこないだ、所も恰度この界隈で、悪浪人にい いがかりをつけられた時、割ってはいってくれたお人の声が これだ。それからその晩、脇田先生の道場を出て、平馬どの に斬りかけられたあと、供をなくして困っていたとき、駕籠 を呼んでくれたお声がこれだ。してみれば、呼びとめたお方 は、あの闇太郎とやらいう、江戸名代の泥棒さんー  と、思いあたると、彼の胸は不思議ななつかしさにとfろ いて、白い手が駕籠の引戸にかゝる。白く匂う花のような顔 が、窓から出て、 「おや、あなたは、いつぞやのー」 「へい、あっしでございますよ。是非に今夜、お前さんとお 話したいことがあって、こゝまであとをしたってきまし、た が、迷惑でしょうがほんのちょっとの間、そこまでお付合い が願えませんか」雪之丞はためらわなかった。相手が泥棒に しう、やくざにしろ、|二《 ヤモ》度まで恩をうけた上、どういうわけ か、その後ずっと心から離れぬ面影だ。それに彼の渡世がら 大泥棒につきあっておくのも、いつかは屹度芸の上でも役に 立とう。 「わたくしもお目にかゝりたく思っておりました。何処なり と、お供いたしましょうがー」 「あっしの住居は浅草|田圃《たんぽ》、こゝからついじきです。そこま でひとつ、来ちゃあくださいませんか」 五  闇太郎,はそういいながら、雪之丞の顔に-例の愛想笑い をあびせかけて、  「あっしは、なにしろ変人なもんだから、町家住居が大きれ えで、田圃の中の一つ家におさまっていますのさ。太夫さん のような花やかな渡世をしていなさるお方にゃ、けえってめ ずらしいかもしれません、来てくださりゃあ、このあっし の、一世一代の冥加というもの、ぜひに聞入れておくんなさ い」雪之丞は、にこりと笑いかえして、  「わたくしもどちらかというと、稼業ににあわず静かが好み でございます、早速おともいたしましょう」そういって、ふ  っと、闇太郎の顔を見詰めたが、  iこのお人は泥棒だといえば居どころを他人にしられる のは都合がわるかろう。このさびしい秋の夜更けを、江戸一 番の大盗賊と、たった二人で歩いてみるのも一興じゃ。  と心でいって、  「お陸尺御苦労になりましたが、これからさきは、このお方 ,と、ぶらイ、歩いて|見《 》るつもり、御酒をいたゞきすぎたの で、そのほうが|酔《えい》がさめてよいだろうと思いますからー」  「それでも、それじゃあ殿様から、たしかに宿までお送りも うせと、いいつけられた役目がすみません」と、先棒がかぶ りを振ったが、 「いゝえ、御前様の方へは、宿まで送り届けたといっておい てくだされば、それで済んでしまいます。ほんの|僅少《わずか》なもの ですけれど」小さく包んだものを、早くも大きな|掌《てのひら》に握ら せてしまった。 「後棒、それじゃ太夫さんのお言葉にしたがったほうがー」 「その方が気持がいゝとおっしゃるならー」一人が揃えた 雪駄に、|内端《うちわ》な白足袋の足がかゝる。 「じゃあ、気をつけてお出でなすって」 「御苦労さん」  そこで駕籠にわかれて、二人連れになった雪之丞、闇太 郎,。河岸通りを北へ千束池へほど近い、田圃つゾきの方角さ して、急ぐでもなく歩きはじめた。闇太郎はさびしい田圃路 に出ると、 「太夫さん、寒かありませんか? この辺も、夏場は蛙がた くさん鳴いて、なかく風情があるのだが、これからさき は、空っ風の吹き通しで、あまりほめた場所じゃあなくなり ますよ」 「いゝえ、わたしは|先刻《さつき》も申した通り、賑やかな渡世をして いながら、どうもさびしい性分、ことさら御当地にまいって からは、たゞもう御繁昌をながめるだけで、上ずって心がお ちつかず困っておりましたところ、このような場所こそ、一 番保養になる気がいたします」 「そういってくださりゃあ、あっしも鼻が高けえというもの さ。そら、あすこにこんもりした森があって、そばに小家が 二三軒あるでしょう、あの右のはずれが、あっしの御殿でさ あ」闇太郎はひどく上機嫌で、こんなことをいいながら、雪 之丞に足許を気をつけさせながら、くだんの一ツ家の方へ と、導いてゆくのだった。いよく|小家《こや》にたどりつく。「女 房ども、只今もどったぞーと、いうなあ、実は嘘で、猫ッ 子一疋いませんのさ」そんな|戯言《じようだん》をいいつゝ闇太郎、入口の 戸をがたびしいわせはじめた。 六  建付けのわるい戸を、がたびし開けると、振りかえって、 「いま燈りをつけるから、ちょっと待っておくんなせえ」 と、いった闇太郎、|室内《なか》にはいって火鉢を掻きたてゝ、付木 に火をうつすと、すぐに行燈がともされて、ぱあっと上がり はなの一間があかるくなる。 「さあ、どうぞ、おはいり」雪 之丞は長旅にゆきくれた旅人が、野っ原の一ツ家にでもはい ってゆく時のような気持ちで、「ごめんくださりませ」と挨 拶して、土間に立つ、家は三間ほどの小ぢんまりした建てか たで、男手ひとつだというのに、さっぱりと掃除もゆきとど き、長火鉢に茶だんすーその長火鉢には、ちゃんと火が埋 けてあり、鉄瓶も炭をたせば、すぐに煮えがくるほどになっ ている。闇太郎は八|端《たん》がらの、あまり大きくない座布団を、 雪之丞のために勧めた。 「ごらんの通り、さっ風景な住居なんで、おかまいは出来ま せんが、そのかわりどんな内証ごとを大声でしゃべりあって も、聞く耳もねえ。あっしはこれでも堅気一方な|牙彫師《けぼあし》とい うわけで、御覧の通り、次の間は仕事場ですよ」闇太郎は面 白そうに微笑して、間の襖をあけて見せた。行燈の灯がさし 入る小部屋には、なるほど厚い木地の仕事机、いちく鞘を かけた、小形の|繋《のみ》やら、小刀やらが道具箱のなかにおさまっ ているのが見えた。現に机の上には、根付けらしい彫りかけ の象牙が二つばかり乗っている。 「あなたは、なんでもお出来になる方と見えますな」雪之丞 がそういうと、闇太郎はいくらか、きらりとしたような|瞳《ヤ  》 を、一瞬間相手になげて笑いだした。 「こいつあいけねえ、実は、お前さんはまだあっしの身の上 を、なんにも御存じねえと踏んで今夜こそ打ちあけ咄もし、 また伺いもしてえと思ったのだがー」彼は、別に声をおと しもせず、 「それじゃあ、お前さんは、あっしが闇太郎とか いうあだ名をもった、泥棒だっていうことをしりながら、平 気でわざ/、ついてお出でになったんですかい」 「この間、御蔵前というところでお目にかゝったとき、お別 れしたあとで、ついした事からそのお名前を、|他人《ひと》から伺い ましたのでー」闇太郎は頭を掻いてみせて、 「隠すより現れるはなしっていうが、その諺は、ちょいとこ ちとらにゃ辻占のよくねえ文旬さ」そんな戯言をいいなが ら、茶道具を並べて、器用な手つきで、きゅうすに|湯《 ヤ  》をそゝ ぐのだった。雪之丞は、苦い、香ばしい茶を、頂いて服ん だ。今夜一晩、飲みたくもない酒を強いられたあとなので、 この一碗にまさる美味はないように思われた。闇太郎は、雪 之丞が心おきなく、目の前に坐っているのを見るのが、嬉し くてたまらぬというように見えた。 「それにしてもお前さん が、あっしの身許をしりながら、家まで来てくれた気持は、 この闇太郎一生の間わすれられねえだろう」と、 い眼付きでいうのだった。 七 人なつッこ  雪之丞はさり気なげに、 「たといあなたが、どのような御商売をなさってお出でなさ ろうと、あなたとわたくしの間は、そういう方にかゝわりな く、御縁があったのですからーあなたは最初から、わたく しに、御親切でござりました」 「なあに、あの並木の通りで、つがもねえ素浪人が、お前さ んに喧嘩を売ったとき、お前さんの眼のくばり、体のこな し、差出たことをするにもおよばねえとは思ったのだが、な にしろ、お前さんにははじめての土地ではあり、遠慮をなす っていると見てとったので、ちょっと口出しをしたばかりな のさ。それはそうとして雪之丞さん」と、闇太郎は、これま でにない真面目な眼つきになって、対手を見詰めて、「これ はあとから、ある人の口から、はっきり聞いた話なのだが、 やっぱし、あっしの眼に狂いはなく、脇田先生の道場で、免 許皆伝だというじゃあねえか。いまじゃ、三都で名高けえ、 女形のお前さんが免許とりだと聞いちゃあ、誰だって驚かず にはいられねえ。お前さんも不思議な道楽をもっていなさる ね」 「皆伝などとはめっそうな」と、雪之丞は白い手を振るよう にして見せたが、「一体、わたくしの身について、どなたが そのようなことを、もうされておりました」雪之丞は、我身 についた武芸について、世間に評判が立つのは好ましくなか った。門倉平馬の|告口《つげぐち》で、三斎一党にそれを知られてしまっ たのにもすくなからず当惑を感じたが、しかし、対手方が自 分を松浦屋の一子雪太郎の後身とは、すこしも気がついてい ないのだから、まず警戒する必要はないとして、そうじて復 讐というような大事業は、こちらがいつも目立たぬ身でなく ては不便だ。世間の注目があつまればあつまるほど困難だ。 彼は、女形という仮面のもとにかくれて、専ら|繊弱優《せんじやく》美を装 っていてこそ、どんな、あらくしい振舞いを蔭でしても、 それが自分の仕業だと、一般から目ざされるわけがないのを 喜んでいたのに、この闇太郎の耳にさえ、脇田一松斎皆伝の 秘密が洩れるようでは、ともすれば、今後の行動に不便が生 ずるかもしれぬ。 「どなたからお聞及びかはしりませぬが、 どうぞそのようなことは、お胸におさめておいてくださるよ う、女形の身で、竹刀をふるなどということが、世間さまに 知れわたりましては、それこそ、御贔屓の数がへります」 と、重ねていうと、闇太郎は、にこりともせず謄めたまへ、 「だがなあ、雪之丞さん。おれの眼には、お前という人は、 舞台の芸も、世の中の人気も、あんまり用のねえ人間のよう に思われてならねえんだよ」と、これまでとは違って、ざっ くばらんな敬称ぬきの言葉でいいかけるのだった。 「どうしてでしょう。親方」と、雪之丞も親しげに、「わた しは上方の女形、芸道一途でいくらかは、人さまにも知られ てきましたが、もとはといえば親一人、子一人、長屋ぐらし も出来かねた体、芸と人気だけが、命のような身の上ですの にー」 「どうにもおれには解せねえんだ。こうして行燈の薄暗い光 りで眺めていても、お前のそのうつくしい顔や体に、なんと なく殺気が感じられてならねえ」闇太郎は長火鉢のふちに、 両手をかけるように、強い眼で、艶麗な女形の顔を真っすぐ に見据えるのだった。 八  闇太郎から、自分の体に殺気が感じられると、だしぬけに 言われた雪之丞、眼を反らして、にわかに笑いにまぎらし た。 「それははじめてうかゾいます。かえって師匠などからは、 いかに女形だとゆうて、平常はもっと、てきぱきしなければ ならぬ。そなたは兎角因循すぎるなどとさえもうされており ますのにー」闇太郎は、大きくかぶりを振るようにした。 「誰がなんといおうと、おれの目にゃあ、ちゃんと感じられ るのだ。実は今日も、中村座へ、おまえの芸を見たさに、そ っと覗きにいったが、他人の眼にはいざしらず、舞台の上で さえ、おまえは剣気をはなれられぬ。滝夜叉が、すっかり恋 にうちまかされ、相手に取り槌って、うっとりするときで も、どうも今にも懐中から刃ものが飛出しそうで、おれにゃ 危なくってならなかった」雪之丞は、まじくと、呆れたよ うに対手を見詰めたが、だしぬけに、からくと、ひどく朗 らかに笑って見せた。 「まあ、お前さまは、渡世のほかに、人相も御覧になるのか え」 「はぐらかしちゃあいけねえ。おれは真剣にいっているの だ」と、闇太郎はどこまでも、逃さぬ顔色で、 「もしやおま えが、天下を狙う、大伴の黒主なら、おれも片棒かついでや ろうかと、疾から心をきめているのだ。どういうものか、は じめて顔を見たときから、他人と思われなくなったのが因果 さ」 「わたしが大伴の黒主ですって?」と、美しい女形は微笑し て、「そういう役は、わたしとはまるで縁がない筈ですよd それにしても、わたしの舞台に、そんな凄味が出るようで は、芸が未熟な証拠です。矢っ張り道楽でならった武術の方 が、表芸に崇ってくるのですねえ。有難いことを聞きまし た」闇太郎は、雪之丞を険しすぎる眼で、睨むようにした が、これもがらりと気を代えて、 「は、は、は。なるほど、こいつあおれが出過ぎていた。実 はな、雪之丞さん、おれは、たズさえ気短な江戸生れ、そこ へもってきて、こんな境涯になってからは、何日なんどきど んなことがあるかもしれぬと、一日一刻を、ゆるがせに出来 ないような、気持ちに時々なって困るんだ。考えて見りゃ あ、おまえさんが、たとい、どんな秘密に苦しんでいても、 はる人\遠い、東の都で、だしぬけにあった赤の他人、しか 本、大泥棒から、なにもぶちまけて、胸の中を見せてくれと頼 まれても、すぐに、べらくしゃべるわけにもいかねえだろ う。おれが悪かった、|免《ゆる》してくれ。これで、せめて、このお れが、昔の身分で両刀を腰にさしてでもいた時なら、お前 も、もっと信用してくれようがー」闇太郎の言葉は、妙に 理につんで、その面上には、いつも見られぬ寂しさが、薄暗 くさまよっているのだった。雪之丞は、気の毒そうに、 「ゆるせの、謝びるのと、まあなんというお言葉です。わた しとてもお前さまの真心を、感じぬわけではありませぬ。そ れにしても、今うか繋えば、昔はお武家であったらしいー そのお前さまが、まあどういういきさつで、今のようなお身 の上にー」 「また、しくじった。詰らねえことをーどうも愚痴っぽく なっていけねえ」闇太郎は、両手そ頭を|抱《かか》えるように、苦く 笑った。 九 「お前さまは、わたしのことを、かれこれ言ってくださいま すが、わたしの方でも、いつか、わたしの難儀を救ってくだ されたときの御様子で、たしかに、由緒のあるお方と見てと ってはおりました」と、雪之丞は一歩を進めた。 「矢っぱり、このおれも、いくら素姓を隠そうとしていて も、あらそわれねえものがあるのかな」と、闇太郎は両手で、 顔をつるりと撫でるようにして、 「おれが、おまえの身の上 を、根ほり葉掘り聞くのは、なる程、無理かもしれねえが、 おれの方は、もうとっくに、大泥棒と知られてしまっている のだ。今更、何をかくしだてしても仕方があるめえ。不思議 な縁で、こうやって、田圃の中の一ツ家で、秋の夜長を語り かわす仲にもなったのだ。下手な作者のくさ草子を読むつも りで、じゃあ、面白くもねえ昔話しをきいて貰いましょうか ね」闇太郎は冷えた茶で咽喉をしめすと、煤けた天井を見上 げるようにして、 「つい、いま、口がすべったように、おれの家は、これでも 代々御家人で、今だって弟の奴は、四谷の方で、お組屋敷の 片隅に、傘の骨削りの内職をしながらも、両刀をたばさんで、 お武家面をしているのさ。父親はなかく仲間うちでも聞え た才物だったとかで、一時は、お組頭にも大変寵愛された身 だったそうだよ。なにしろ、筒持ち同心といやあ、御家人仲 間では幅のきいた方で、一時は随分暮しむきもよかったの だ。ところが、おれが十七の時、元服のついあとだったが、 ちいさいながら呑気な一家に、だしぬけに思いがけない、ば かげた不幸が見舞って来たのだ。なあにそれも、父親の奴が 悪堅かったからだがね。あたりめえの人間なら、なんとでも 切りぬけられたのだがー」雪之丞は天井を見詰めながら、 そこまで話してきた闇太郎の表情に、暗い憤怒が、ひとしき り濃るのをみた。闇太郎はちょいと黙って、唇をかむように したが、 「いまいう通り父親の奴は、依信地のくせに算筆も 人より長けていたというので、お組頭の側にいて、種々な仕 事があるたびに、帳付けをさせられていたというが、そのこ ろ異人の黒船が日本国の海岸に、四方八方から寄せてくると いう噂が高く、泥棒を見て縄をなうというような腰抜けな|政 府《おかみ》も、狼狽くさって、それ大砲、それ鉄砲と、えらい騒ぎを はじめたのだ。筒持ち同心組頭の佐伯五平という奴が、これ がまた上役に取り入るのが上手な奴、異国の鉄砲を見本にし て、江戸中の大きな鍛冶屋たちに、鉄砲造りを仰せつけると き、その検分の役に廻されたそのそばに、何時もついていた 家の父親ー衣笠貞之進というのだが、律儀の根性から、こ れも一生懸命になって、|頭《かしら》の仕事を手伝っていたわけさ。そ のうちに、曲りなりにも異国まがいの鉄砲が、だんく山と 積まれて来た。御上納も、二度三度と無事に済んでいったの だが、その鉄砲を、兵隊にもたせて、いざ、ためし打ち序し てみると、どうも工合がよくねえんだ。そこで、その道で、 音に聞えた、|秋帆流《しゆうほんりゆう》の達者たちが、一挺々々を、きびしく 吟味ということになるてえと、困ったことになったのだ、形 こそ見本通りに出来ているが、中の機械がやってつけで、と ても役にはたゝねえというー当然、御上納のときの検査方 やら、職場検見の役人たちに、お答めがくることになったの さ」 一〇  闇太郎は、これまで誰にも口外したことのなかった身の上 ばなしを、話しだしてはみたものゝ、矢張り持って生れた気 質で、自分のことゝなると、  ーこんな泣ごとをならべたって、今更どうなるんだ、ば かばかしいじゃあねえか。  というような自嘲に、言葉がとぎれそうになるのだった が、雪之丞が熱心に聞入っている姿にはげまされて、 「なあに、いつの世にだって、ざらにある話なんだ。長いも のは短いものを巻くし、強い奴は弱い奴を喰うー今更、あ りきたりのことなのだが、そのころ、おれはまだ十七にしか なっていなかった。どうも、このごろ父親の様子が、変だ変 だと思っているうち、或るタ方、剣術の道場から、何気なく 帰って見ると、家の中がざわついているのさ、駈込んでゆく と、父親の奴腹を切っていやがったんだ。書置きでみると、 佐伯五平が検査する筈の上納鉄砲は、そのころ五平が病気を していたので、全部父親が代って、吟味をし、上納を許した のだとか、そのとき懸りの鍛冶屋から、貧にせまっていたの で、つい、賄賂を飼われたのだとか、そんなことが書いてあ った。父親が死んだので、佐伯五平の奴は、軽いお答目があ っただけで、なんの事もなく済んでしまった。だが、おれ も、もう、物心がついていたから、本当に父親が不浄の金を 商人から取ったかとらなかったかぐれえなことは、よく分っ ていた。おれの家は、父親が死んでも、葬式の金にも詰って いたんだからね。おれにゃ、ばかくしくって、家督をもら う気になんぞなれなかった。た間父親がどんな成行で死んだ のか、その本当のことが知りたかった。こんな気質のおれだ から、何度でも五平の家に押しかけていっては、面会を願っ たのだがきいてくれねえ。若いも若し、かッとして、ある 日、五平の外出を狙って、素ッ首を叩きおとしてやろうとし たが、かすり疵をつけただけさ。おれは父親が憎らしかった よ。馬鹿な奴だと口惜しかった。お役目の上から、いかに日 頃、側につかえていたって、その上役がやった|不正《いかさま》を、だま って自分で背負いこんで、腹を切り、女房や子たちにまで、 嘆きをかける唐変木があるものか。おれは、代々、僅少な扶 持をもらって、生きている為に、人間らしい根生をなくして しまった、侍という渡世が、つく,バ\厭になったんだ。それ で五平を叩っきりそくなうと、すぐその場から、おさらばを きめて、それからはお定まりの、憂き難難というやつさ。身 体は身軽、年齢は若し、随分乱暴な世界を平気で歩いたが、 しかし、まだそのころは、泥棒だけはしなかったよ」闇太郎 はそこまで話してきて、火鉢の火を見詰めるように、うつむ いている雪之丞を見て、 「どうも、あんまり結構な話でもね え。面白くねえだろうから止めにして、台所には白鳥が一本 おったっている。熱燗をつけて、これで中々好い|音声《のど》なん だ。小意気な江戸前の唄でもきかせようか」 「どうぞ、お差支えがなかったなら、もうすこし話してくだ さいまし。わたしも、身につまされることもあるのですか ら」と、雪之丞が顔をあげて、いくらか磐ったような瞳で、 相手を見上げた。晩秋の真夜中の風が、田圃を吹きわたって、 背戸口の戸をかすかにゆすぶっていた。 「そうか、じゃあ、もう少し聞いてもらおうか」と、若き盗 賊は、ふたゝび話をつゾけた。       一一  闇太郎が、それから例の鉄火な口調に、しんみりした|佗《わぴ》し さもまじえて、話してきかせたのはおおよそこんな事であっ た。彼は、父衣笠貞之進の上役、佐伯五平を暗打ちにかけよ うとして、流石、年のゆかぬ彼、まんまと斬りそこね、その 場から家も、母親も、弟も捨てゝ、何処ともなく逐電してし まったのだった。闇太郎の貞太郎は、それまでは極めて物堅 く青てられ、世間のことはなにも知らなかった。|素無垢《すむく》な、 武術文学に、貧しいながら身を入れてきた少年だった。しか し、今や、彼は突如として、これまでの一切に背中をむけ、 まるで反対な方角へ駈込もうとするのである。彼は、出来る だけ権力から、武門から、今まで彼が、もっとも尊敬せねば ならぬとしていたものから、離れようとした。憎もうとし た。ぞこで当然、落込んでいったのは、市井無頼の徒のむら がっている、自由で放縦な場所だった。そんな仲間にはいる η のに、なんの手間暇がいるであろう。四谷舟町の彼の家に、 二年前まで折助をしていて、打つ、飲む、買うの三道楽に身 がおさまらず、さん人\一家を手こずらせたあとで、主家に 毒口を叩いて出ていった、弁公という若者が、つい、内藤新 宿のある小賭博うちのもとに厄介になって、ごろくしてい るのを、彼は知っていた。その弁公が、不思議にも若旦那の 彼に好意をもっていて、その後偶然道であうたびに、さも懐 しげに話しかけることも度々あった。 「若旦那、お前さんが、町人に生れりゃあ1町人も、せめ て、人入れ稼業か、賭博打ちの伜に生れりゃあ、てえしたも のなんだがー貧乏じみた御家人の、左様しからば家の跡取 りじゃ一生お気の毒というもんだ。かっぷくといい|面《ヤ も 》つきと いい、気合から、腕前、ひとの上にたてる人なんだがーお 前さんも何かのきっかけがあったら、あんな渡世はお見切り なさいよ。扶持切り米でしばられていたんじゃあ、この世の 中はわかりませんぜ。一番汚ねえところばかり一生覗いて過 すのが、1お前さんの身上が、そうだという訳じゃねえが、 i三人扶持一両手当の、|駄一三《ださんぴん》という奴さ」そんな事を、 弁公は、憎まれ口のようでいて、そのくせ心から、市井生活 を|謡歌《おうか》するようにいいくするのだった。生家を飛出した貞 太郎、いきどころがないので、弁公をたずねると、相手は額 を叩いて、飛上がってよろこんだ。 「そうだ、そうこなくっちゃあいけねえ、なるほどなあ、親 父さまも、とうとう腹を切んなすったかい。あの人は、そん な人だったよ。お前さんは、好い時に見切りをつけなすっ た。これから、おれが、弟分にして、この江戸中を、ぐんぐ ん引廻してやるから、勝手気儘に羽根をのばしなせえ」そし て其日から、彼は弁公の親分のもとに寄食する身となった。 賭博も、女買いも、酒もi世の中で、これほど訳なく進歩 してゆく、修業の道はすくなかった。半年もたゝぬうちに、 いかさま賓のつかいかたも覚えれば、そゝり節の調子も出 せ、朝酒の、 |腸《はらわた》にしみわたるような味も覚えた。喧嘩とき ては、そこらの度胸一方のやくざどもが|及《 ヤ 》びもつく筈がなか った。もとく若いながら、叩きにたゝき上げた武術なの だ。 「そんなこんなで、十九の声をきくころにゃ、内藤新宿 の宿場じゃ、めっきり、これで顔が売れてきたものだったの さ」 一二  だが、闇太郎は、売れっ児の若い衆として、地廻りのなか で、顔を利かせてばかりはいられなかった。ひょんな事か ら、元は家来で、今は兄貴分の弁公が、親分を縮尻ると、彼 ばかり、もとの土地に居残っているわけにも行かなかった。 気早やで、ひょうきんで、兎角、やり損いの多い弁公と彼と の、大江戸の日影から日影を、さ迷い歩くような、流浪生活 は、それからはじまった。 「おれ達は、随分、ありとあらゆる世間を、経めぐったもの さ。おれは、武家が嫌いだから、渡り中間こそしなかったも のゝ、小屋者の真似さえ、やらかしたよ。どんな事でも平気 でやッつけて、幾らでも銭になりゃ、そいつを掴んで、方々 の部屋をごろついて歩いた。なんしろ、弁公の奴が、ちっと も顔負けのしねえ男なので、とうとう二人で、吉原のチョン チョン格子の牛太郎にまでなったこともあるんだ。ところ が、何しろ二人とも、野放図もない我儘者だったから、何処 にも永く尻が落付く筈がねえ。仕舞には、流れくて奥州街 道を、越ケ谷の方まで、見世物の中にまじって落ちて行きさ えしたのだ。その越ケ谷で、えらい目に遇うことになったの だ」闇太郎の口元には、苦いくるしい思い出を、まぎらそう とするような笑いが浮かんだ。 「その越ケ谷で、見世物師同士がぷッつかって、思いがけな く飛んだ修羅場が始まったのさ。両方何十人という若い奴等 が、あいつ等の喧嘩のことだから、生命知らずに切っつはっ つだ。その時、間抜けな弁公の奴、|鈍刀《なまくら》で、横っ腹を突かれ たのがもとで、身動きも出来ねえことになる。喧嘩は仲直り で済んだが、一番手傷の重い弁公は、もう見世物に、くッつ いて、旅から旅を歩くわけにゃあ、いかねえ。 |拠《よんどこ》ろなくこ のおれも、あいつと一緒に越ケ谷に、居残ることになったの だ。あの小さな宿場町の、裏町の棟割長屋の一軒を1一軒 といったって、たった二間の汚ねえく家だったが、それで も小屋の親分から、|別離《わかれ》に貰った二分か三分の銭があったの で、そこを借りることは出来+、のさ。だが、弁公の看病か ら、薬代、その日くの暮しの稼まで、おれ一人で稼がなけ ればならなかったので、直きに、いいようのねえ、みじめな ことになってしまった。しかし、何しろ、町が町、猫の額の ようなところだ。おれたちのようなごろつきを喰わせるよう な仕事があるわけはねえ。貧乏な、御家人風情ではあって も、兎に角両刀を差したあがりのおれが、水ッ漢をすゝりな がら、町内のお情で生きている夜番の爺と一緒に、拍子木を たゝいたり、定使いをする始末だ。それもいゝが、その内 に、弁公の奴は、だんく身体が弱る、傷から毒がはいる。 いや、もう、浅ましい姿になって、あの野郎、強情を張って、 捻りをたてめえ、音をあげめえとするのだが、噛みしめた歯 の間から洩れる坤きが、長屋中に聞える程になって、今まで、 時々は外の稼の出来たおれも、始終そばについていてやらな ければ、どうにもならなくなってしまった。そりゃ、貧乏人 同士の|交際《つきあい》で、軒並の奴も出来るだけのことはしてくれた が、向う様だって、その日くに追われているのだ。そこへ 持って来て、何しろ、こっちは流れの身。土地に馴染がある わけではなし、仕舞には、医者どのさへ診に来てくれはしな くなった。恨めた身ではねえ、喧嘩にもならねえ。おれは、 その時ほど、この世の中が、辛く思えたことはなかったよl l」闇太郎は、もう笑わなかった。彼は、■じーっと、空を見 つめるようにしたまゝ、腕を組んだ。 一三  闇太郎は思い深げに、話しつ冥けた。 「渡る世間に鬼はなしーなぞというが、といって、仏の顔 も三度ともいうからね。世間だって、そうくいつまでも、 おれ達をかまってくれるはずがねえー前かた懇意にしてく れた、江戸のごろつき仲間にも、飛脚を立てたり、手紙をや ったりして見たのだが、ろくに返事も来なかった。売食いす るにも種もなし、二人ともー病人ばかりか、この俺まで、 もうアゴが千上りそうになっちゃったのだ!とうとう、こ れまで、あわれみをかけていてくれたような、差配さえ、い つか出てゆけがしのそぷりも見せないでもなくなった。そい つが、ピーンピーンと、こっちの胸にひゾくんだね!そこ で、おれも考えたんだ。もうよんどころないーうちへ帰っ て、おふくろに、何とか泣きつく外にないII-友だち一人 の、一命にかゝわることだlこの決心がつくまでπは、ず いぶん苦しんだがねー」闇太郎の顔に、苦笑がうかんだ。 「あの頃の、おれのように、捨て身になり切っていても、人 間って奴あ、やっぱし人間らしい気持がのこっているもので ネ。生みの親、親身の兄弟なんてものに、どこかこゝろが引 ッかゝっていると見えるーおれは、弁公を、|合壁《がつべき》に頼んで 置いて、のこく江戸まで引ッ返したのさ。秋ももう大分深 いころで、左様さ、ちょうど今日このごろの季節だったが ー」雁が、北の方へ、浅草田圃の、闇の夜ぞらを、荒々し く鳴いてすぎた。主人も客も、その声のひゾきが、遠ざかっ てゆくまで、黙り合っていた。若い盗賊はしんみり聴き入っ ている女形に、 「風邪でもひかせちゃあ済まねえ。どてらを掛けて上げよう ねI」と言って、立ち上がって、押入れから、南部柄の丹 前を取り出すと、ふうわりと、細そりした肩先にかけてやっ て、火鉢に炭をつぎ足したが、 「さて、久しぶりに江戸入りをしたおれは、さすが、日の高 いうちには、うちの近所へは近よれなかったので、日ぐれま ぐれを狙って舟町の生家の背戸の方へ、まるでコソ泥のよう に、びくくもので忍び寄ったわけさ。すっかり日が暮れか けていたが、こっちは、もう冬ぞらがくれかゝっているの に、洗いざらしの縞の単衣ものを引ッ張っているだけなん だ。手拭で鼻までかくして、裏の方へ廻ってゆくと、幸い人 ッ子一人、あたりに見えないllおふくろか、せめて、弟の 奴でも出て来たらと、塀のふし穴に耳をつけるようにしてい ると、茶の間でタ飯中らしく、皿小鉢の音がしたり、一家中 で、何か、面白そうに話し合って、笑っている声までが聞え て来るんだ。もう、親父が腹を切ったことも、おれが、佐伯 を斬りそこなって家出をしてしまったことも、家督を、次の 弟がついでしまって見りゃあ、もう大風が吹いたあとのよう に、かえって、さっぱりしたというようなありさまなんだ。 そんな中へ、おれが、首を突っ込んだら、晴れた空に、黒く もが射すようなものだー1はいってゆきたくねえなあーーと ためらって、大凡、小半ときもそうしていたろうか? その 中に、タ飯がすんだらしいから、思い切って、台どころか ら、おふくろに声をかけようかーこゝで、気を弱くしちゃ あ、友だちが、どうなると、決心すると、塀をはなれようと すると、そのとき、妙なひそくばなしが、ついうしろの方 で、きこえたんだ1一てえ、どんな事をいっていやがった と思う?」 一四  そこまで話して来て、闇太郎の目は、異様にふすぼり、語 調はためらい、低まるのだった。 「そのとき、おれの耳を打ったひそくばなしというのが、 何だったと思うね? つい裏の、小さく並んでいる組屋敷の 勝手口の方で、御新造が娘にいっているんだーあれ、変な 奴が、衣笠さんのお裏口をのぞいている、このごろこまかい 物が、よくなくなるが、屹度あいつが盗るんだよ、泥棒だ、 早く衣笠さんに知らせて上げたいがーーアての囁きが、耳には いると、おれは、あわてふためいて、力ーッとからだ中が熱 くなって、前後の考えも無くして、そのまゝバラバラと逃げ 出してしまったんだ。ねえ、雪之丞さん、お前にも、その時 の、おれの気持はわかってくれると思うがー」いかにも、 雪之丞にも、それはよく呑み込めるのだった。一度、家も世 も捨てゝ、零落し果てた青年が、冬空に、|浴衣《ゆかた》を引ッ張っ て、親、兄弟の家に、そっと裏口から、合力を受けようと忍 び寄って、|中部《なか》の歓語にはいりかねていたその折、合壁か ら、泥棒よばわりを、されたとしたら、どうして、その顔 を、そのまゝなつかしい家人たちの前に|曝《さきつ》すことが出来るだ ろう! 彼は、一さんばしりに、逃げ去る外はないのだ。雪 之丞は、涙があふれて来た。 「わかります、わかりますーまあ、そのときの気持は、ど んなでござりましたろうね? して、それからどうなされま して?」闇太郎は、突然、きょとんとした目つきになって、 雪之丞をみつめた。 「それから? それからーその晩から、おれは泥棒になろ うと決心したのさ。どうにも、友だちのいのちにゃあ代えら れねえと思ったのでねi」彼は、平然として言って|退《の》けて、 「おれは内藤新宿に長くうろついていたので、その界隈のこ とはよく知っていたから、強慾非道な質屋の蔵をすぐに荒し てやったわけだ。生れてはじめてって程の大金をつかんで、 夜道をかけて、越ケ谷に引返して、さて、翌日から、人参を、 山ほど積んで浴びせかけるようにしてやれば、江戸から通し かごの外科も呼んだが、もう手遅れで、弁の奴、二三日し て、死んでしまやがったがーしかし、あいつあ、何もかも 知っていやがったーかたじけねえ、貞太郎、だが、悪いこ とはこれからはしてくれるなよーって、涙をボロボロ流し やがったよ。それでも、息を引きとる真際まで、うれしそう に、おれの両手を握りしめていたがーその顔は、今も忘れ られねえんだー」闇太郎は、また耳を傾けるようにした。 ふたゝび雁が、過ぎていたが、その淋しく荒々しい声の中 に、わが魂の悲泣を聴き分けていでもするかのように1雪 之丞は、これ以上、この新しい友だちの秘密に触れたがる必 要はなかった。 「でも、その弁さんとやらは、仕合せな人でござりました な。お前さまのような、お友だちを持ってー」 「おれも、弁公のような奴と、この世で知り合えたのは、一 生の思いでさ。いゝ奴だったよ。こんなおれのような入間 を、あいつだけは、人間づき合してくれたんだー生きてい ると、お前にもひきあわせてえ奴だった。一度、ほんとうに つき合ったが最後、いのちがけだったぜII」大賊のひとみ が、無限のなつかしみで、うるんで来るのだった。雪之丞は、 この人物に、ますく新な良さというようなものを感じて、 はなれがたなさを覚えたのである。 一五 「面白いものだね、俺がこんな泥棒渡世になったのも、いっ てみれば、あの時、お長屋の女房が、俺のことを、こそ泥と 間違えて、あんなことをいやあがったからだともいえるんだ。 その後の俺は、ずっと、その商売をやりとおして来た。一度 その道にはいってみると、他人にはわからねえ好さも、嬉し さもあるものなんだよ、有りあまる所に有るものを、だまっ てとってきて、足りながっている所へ、配ってやるー勿論、 俺も、その間で、手間賃だけは貰うんだがー」闇太郎は、 又もいつもの、呑ん気な調子になって、しゃべり出した。 「俺は、理窟は一切抜きにしているのさ。早い話が、理窟で 世間がどうかなるなら、もう、とうに人間はみんな幸福にな っているだろうと思われるんだ。日本にゃあ、神の道がある し、唐天竺にゃあ孔子、孟子、お釈迦さんもおいでなのだ。 そして、何千、何万という、代々の学者が、理窟をこねつ努 けて、人間てもなあ、こうすべきものだ、こうありたいもの だとしゃべりつゾけ、書きつゞけてきた。それなのに、この 世の中が昔に較べて、どう違った? いつでも強いもの勝ち で、こすい奴が利得を占めて、おとなしい、正直な奴がひど い目に逢いつゾけだ。俺は江戸の生れで、気短だからもう、 下手談義を聞いて、じっと辛抱していろ、明日は今日より、 きっとよくなる、なんていう、だまし文句にのっているわけ にゃあ、いかなくなっているのさ。俺は、こんなけちな奴だ から、大したことは望まねえし、又、出来もしねえと諦めて いる。そこで、ちょっくら、有りすぎる所から、小判を捉み 出しちゃあ、無さすぎる方へ撒いて歩くのよ。それが、今の 俺の仕事さi」雪之丞は、今は、ますく心をひかれて行 く、この新らしい友達の考え方が、羨ましくてならぬのだっ た。  i江戸の生れの方は、何とキビキビ思った方へ、突き進 んで行くことが、できるの七ろう、それに較べて、このわし は、小さな望みを果すために、二十年を傾けてきて、まだ、 何にもしていはしない。  闇太郎は、対手の、そうした心の中を、見てとったかのよ うに、言うのだった。 「俺は、お前が胸の中を割ってみせて呉れねえと言って、先 刻も言う通り、少しも恨みに思いはしねえ。だが、・一度思い 立ったら、ぐんくとその方角へ、とびついて行く外は、仕 方がないだろうと思うのさ。ためらっていても、どうせ、老 少不定のこの世なんだ。今この一時が、人間には、一番大切 だとしか思われねえんだ。お前は、た冥の役者として、日本 一になりたけりゃあ、そのつもりでおやんなせえ。それと も、何か他に、望みがあるなら、何もかまうもんか、明日の 無え命と思って、やんなせえ。へんな気焔を上げるようだ が、この俺も、お前のためには、どんな時、どんな場合でも、 命をかけて、後見をするつもりだよ。それにしても、お前は 今夜三斎隠居の屋敷へなんぞ、何だって、出掛けたのか。俺 にゃあ、あんな奴が一番胸くそがわるく思われるんだ」と、 いって闇太郎は、ジロリと対手を見たが、急に笑って、「イ ヤ、これや、とんだいらねえ世話だ。冷酒で一杯景気をつけ て、もう夜も更けた。お前の宿の方へ送って上げるとしよう か」彼は、そういうと、立上って、台所から大振りな白鳥徳 利をぶら提げて来た。 一六 闇太郎は、白鳥徳利の酒を、 |燗《かん》もせずに、 長火鉢の|猫板《ねこいた》の 上に、二つ並べた湯呑みに、ドクドクと注ぎ分けるのだっ た。 「うちの酒は、三斎隠居の邸の奴より、うまくはねえかも知 れねえが、又、別な味があるかも知れねえ、夜寒しのぎに、 ひっかけて行って下せえ」雪之丞は、白く、かぽそい手で、 なみくと満たされた湯呑みを取り上げた。そして、美しい 唇で、うまそうに、金色の冷酒をすゝった。ごくくと、咽 喉を鳴らしながら、一息に湯呑みをあけた。闇太郎は、その さまを、さも満足そうに眺めて、「並木の通りで、はじめて 逢ってから、一度は、ぜひ胸を割って話してみたいと思って いたお前と、やっとのことで、今夜逢えた、これで、俺の、 この世の望みが、まあ、果せたというものだ」雪之丞は、対 手のそうした言葉を聞くと、この人の前に、自分の秘密をか くし通しているのが、何となくすまぬように思われてなら ぬ、せめて、輪郭だけでも話してしまおうか。どんな事を、 告げ知らせたところが、他人の大事を、歯から外に洩らすよ うな男ではない。とは、思うものゝ、さりとて、言い出しか ねる話だった。ことによれば、対手の一身一命まで、自分の 運命の渦巻に、巻き込んでしまわねばならぬかもしれないー ー闇太郎は、例の鋭いかんで、こちらの|気《ヤヤ》持を、素早く見て 取ったのでもあろう。「なあに、太夫、俺たちの交際は今日 明日に限ったものでもない。お前も知らぬ土地に来て、当分、 苦労を仕ようというには、俺のような男でも、いつか又、用 になろうも知れぬ。その時には、これこれだから、急に、お 前の命が欲しいど知らせてくれゝば、どんな所へでも飛んで 行くよ。男同士が、好き合ったからには、遠慮は少しもいら ぬことだ」闇太郎は、そんな事を言って、二杯目の茶椀酒を ほすと、フーと息をはき散らすようにして、「それじゃあ、そ こまで送ってゆこうか。朝の早い渡世の人を、引止めてすま なかった」と、言ったが、ふと、思いついたように、「折角、 此処まできて貰って、何の愛想もなかった代りに、一つ上げ てえものがある」彼は、立上がって、次の間にはいった。そ して、象牙彫の仕事の隅におかれた、手箪笥をゴトゴトやっ ていたが、やがて、小さな象牙彫の印寵を持って来た。 「御 覧なせえ、なかく上手な細工だろうがー」雪之丞は、掌 のひらに受けて見つめた。それは、とても罷用な、素人細工 とは思われぬ、三つ組みの、親指程の印寵で、細かく楼閣や ら、人物やらが刻まれていた。赤い、細い緒が通って、緒じ めには、何やら名の知れぬ、青く輝く珠がつけてあった。 「まあ結構なお晶で。お前様がお彫りになったのでー」闇 太郎は得意気に微笑した。 「代々、観世よりの細工をしたり、から傘を張って暮らして きたりしたお蔭で、これで、滅法手先きが器用なんだよ。何 でも世間じゃあ、変った彫りだといって、珍しがっているそ うだが、彫り師の本体が、泥棒と知れた日にゃあ、大事にし てくれる者もあるまいがーそれはそうと、その|中子《なかご》をはず して見ねえ、とほうもねえものがはいっているよ」 一七  雪之丞は、いわれるまゝに、印寵の中子をあけて見た。す るとそこには、吉野紙で、叶檸に包んだ丸薬がはいってい る。茶褐色の粒々を、彼はそっと嗅ぐようにして見た。する と、甘く、香ばしい匂いが、かすかに感じられて来るのだっ た。 「わかるかね? 何の薬か、見当がつきますかね?」闇太郎 は、おもしろそうな調子でたずねる。 「いゝえ、とんとー」  と、雪之丞は、やさしく、小首をかしげて見せる。闇太郎 は、いくらか重い口調になって、 「それはね、実は系図ものなのさ。ある強慾な|紅毛流《オランダリゆう》の医者 の家に、ちょいとお見舞申したとき、さも大事そうに|蔵《しナホ》って あったので、序でに持って来て置いたのだが、まあ、なかな か珍しい効能があるのだ。怖ろしいほど、利く奴サ」 「どんな病気に利くのでございましょう?」 「病気? いんや、病気とはあべこべに、達者な奴に利く薬 なのだ」 「まあ!」と、雪之丞が、美しい目をみはる。 「まあ、その薬をたった'つぶ、そっと誰かに飲ましてごら んなせえ、ついじきにこくりく居睡りをはじめて、叩いた って、ぶったって、目をさましっこはねえんだよ。飲ませる 間がなかったら、その薬を今度はふた粒、莫盆の火入れの中 にでもくべて御ろうじ、たちまち一座がその場で睡ってしま うんだ」 「ホ、ホウ、じゃあ、ねむり薬でi」 「ねむり薬も、ねむり薬、こんな利くのは天下に類がねえー ーしかも、こっちは、|明饗《みようばん》をしめした布で鼻をふさいでいれ ば、いっかな薬をうけつけずに済むというのさ。おれが、実 地をためしているのだから、間違いはねえのだ」そうした秘 薬を、何のつもりで与えようとするのだろう? i雪之丞 は、何となく、もうとっくに、相手が、こちらの望みをすっ かり見抜いてしまっているような気がしてならぬのだ。闇太 郎は、平気でつゞける。 「お前は、聴けば、武士の表芸の中 でも随一番の、剣法ではだれにもひけをとらねえというー だが、世の中は、すべて表裏があるもので、裏の用意もなけ りゃならねえ。忍術の方でもねむりの法は大切なものだ。ま あ、用心のために、身につけていて、決して損はねえだろう よーおれの細工物の中に入れたまゝ、たえず、からだをは なさぬがいゝぜ」 「何にいたせ、すばらしい印籠に、かてゝ加えて、世界一の 珍薬までいた間いて、お礼の言葉もござりませぬ」と、雪之 丞は、素直におしいたゞいて、すぐに腰につける。「では、 もう、夜明けも近いこと、これで今夜はおいとまを戴きま しょうか?」 「おゝ、この田圃はずれのかご屋まで、おれが見送って上げ ましょう。まあ、もう一ぱい引っかけて行きな」名残りの茶 わん酒を汲みかわして、いつか、露が深くなって、それが薄 霜のようにも見える|暁闇《ぎようあん》の浅草田圃を、二人はまた辿って行 った。吉原がよい専門の、赤竹というかご屋で、乗物をした てゝくれて闇太郎、「じゃ、また逢おうぜ」 「その日をたのしみにいたしております」雪之丞が、しんか らそう答えたとき、たれが、ぱらりと下りた。 敵 一 杯  中村座の菊之丞一座の人気は、日ましに高まるばかりだっ た。飾り布団、引幕飾り、茶屋の店さきはどの家も、所せま いまでに送り込まれて、下ッぱの役者までが、毎晩新らしい 轟展から、宴席にまねかれぬことゝてなく、江戸中の評判 を、すっかり擢った形であった。雪之丞は、三斎一党から贈 られた、黄金、呉服のたぐいを、目にすることさえいとわし く、片はしから一座の者にバラ撒いてしまうので、二しの無慾 さに一同驚きあきれ、 「大師匠も、あの通り、芸道一図のお方で、神さまとまでい われているが、若い太夫のあの気前は、お,それ入ったもの だ」 「あれで、もう四五年たって、|尾鰭《おひれ》がついたら、芸人として は、日本一の男になろう」 「それに今度の狂言で見ても、女形ばかりか、立役をして も、立派なものであろうとの、見巧者連の噂-大師匠も運 がよい。すばらしいものを見出されたものだ」そうしたさゝ やきが、上方から来た一座一行の間ばかりか、江戸の芸界に もさかんにいいかわされ、このところ、どのような大立物た ちも、まるでこの他国者のために、光りを蔽われてしまった のである。菊之丞師匠は、雪之丞の好評を、耳にするたびに、 おりくは溜息をつかずにはいられないーあゝ、これで、 あの人が、芸道のみがいのちの男なら、どんなにわしもうれ しいことか1腕一本、熱心一途で仕上げて来た、この中村 菊之丞の名跡、あれでなければ継がせたいものもなく、あれ が襲名して<れさえすれば、わしの名は、未来永劫、芝居道 の語りつたえにものころうものーだが、それは出来ぬ望み だ。かなわぬ夢だ。かれには、人並はずれた大望がある。あ れは、それを成就するためばかりに生きている男だ。ほん に、この世は、まゝならぬことばかりだなあ。  師匠の、そういう気持は、雪之丞にもよくわかるのだ轟  iお師匠さまも、わしのようなものが、この大江戸で、 分外の人気を得たのを御覧になるにつけても、いつまでも手 元に引きつけ、面倒を見てやりたいともお思いになっていよ うにーわしのこの一身を、お師匠さまと、芸術とー1この 二つのためだけに、さゝげることが出来ぬというのは、何と かなしいことであろうーすまないことであろうーお師匠 さまの、寝られぬ床のためいきが、耳につくたび、申しわけ がない気がしてなりませぬ。  雪之丞は済まぬと思う1申しわけないと思う。が、どの ような私情も、恩義も、彼の一徹な復讐心を磨滅させてしま うことは出来ない。  1いゝえ、お師匠さまは何もかもゆるしていて下さるの だ。万一、世間の評判なぞに捲き込まれて、一生一願のこの 気持をにぷらせでもしたら、それこそ、今日が日までの厚恩 を忘れたというもの、却って肉を裂きたい程のお腹立ちにな るであろう。  と、つぷやいて、かろうじてわれを慰めるときもあった尊 七日目の大喜利の前に、鏡台に向っていると、楽屋にぬっと すがたを現した男- 「おや、長崎屋の旦那さま。この程から、かずくの御恩1 ーさあ、どうぞ、お敷きあそばしましてー」  と、雪之丞、客のために手ずから座布団を押しやった。       二  相変らず、はしッこそうな、キラくした目付きをした長 崎屋、結城縞に、鉄錆いろの短羽織という、がっちりとした なりで、雪之丞の鏡台近くすわると、 「いやこないだは、いろく我儘を申して相すみませなん だ。その後、すぐ見物ながら楽屋をたずねようと思うていた に、さまぐ多用、失礼をしました。ます/\人気絶頂お目 出たい」雪之丞は、そらさずに、 「|何《いずれ》もさまのお蔭でござります。あなた様お力にて、江戸一 ばん、心強い御贔鳳さまがたのお近づきになれまして、一生 の面ばれ、御恩は決して忘れませぬ」 「そのように申してくれると、わしも何ぼうかうれしいの だ。あちらさま御一統も、お目にかゝるたび、そなたの噂が 出ぬことはない。それにつき、今一人、是非、そなたに逢い たいという者があるので今夜、また、そこまでつき合っても らいたいのだ。都合はどうであろうな」 「申すまでもなく、旦那さま、おっしゃりつけとあれば、い ずれへもお供いたしますが、そのお方さまは?」長崎屋の目 つきに、複雑な、神経的なものがた冥よった。 「実は、わしと似寄りの渡世をしているものーわけあっ て、何事につけ、共に事をしようと、約東のあるお人だ。 と、いって、いうまでもなく、お互に、商売がたきでないと もいわれぬのだが、まず、今のところ、ある仕事を、一緒に 進めてゆかねばならぬのでなーそなたは上方のお人。かな たにも出店もある、広海屋という海産商人なのじゃ」 「お\'、広海屋さまーお噂は、とうから伺っております」 雪之丞、何で忘れてよい名であるだろう。長崎奉行、代官を あやつって、松浦屋を陰謀の|牲《にえ》にした頭人ともいうべき好商 ではないか! 「御存知か? なかく大きゅう店をしていられる方じゃ。 わしなぞは、まだ足下にも及ばぬ」長崎屋の表情に、あらわ に嫉視のようなものがうかぶのを、雪之丞は見のがさなかっ た。 「実はな、わしと、広海屋、心を合せて、江戸中の大商人と 張り合い、お城の御用達をうけたまわろうともくろんでいる のでなー」と、悪ごすい商人は声を落して、 「そこで、そ なたを見込んで、一ツ力が借りたいと考えているわけーお 城のことは、浪路どのゝ口入をうけるが便宜1その辺のこ とを、今夜二人で、くわしゅうそなたに頼み込みたい仕儀な のじゃ。もっとも、そなたとしても、わしが、どれほどそな た贔贋かを知っていてくれるはずだ、平たくいえば、広海屋 さんより、わしの方へ、そなたも肩入れはしてくれるであろ うと、それはもう安心し切っているのだ」楽屋内をもはゾか らず、ひそひそと、こんなことをいい出す長崎屋の心の中 は、今迄のゆきがかりで、広海屋とどこまでも同体せねばな らず、また二人心を合せた方が、望みを果すに便利だとは思 田 うものゝ、この場合、何とかして、この先輩同業を乗り越し てやりたい野心を捨てることも出来ぬ。つまり、雪之丞によ って、浪路をうごかし、広海屋よりもーあし先きに御用|允可《いんか》 のはこびをうけたいのである。雪之丞は、万事、のみこんだ というように、 「それはもう、あなたさまのためには、叶いますだけはいか なことなりとー」 三  長崎屋は、言葉せわしく、胸の一物を、概略ながら、雪之 丞に囁いてしまうと、 「そなたは、こゝろの|聡《オマこ》い方、大ていのみ込んでくれたであ ろ。不思議な縁で、したしくなったからは、わしが良ければ そなたもよし、そなたがよければ、わしもよいというように やって行って貰いたい。な、頼みますぞや」 「ようくわかりましてござります」と、雪之丞、うわべは、 どこまでもやさしく、「あなたさまも、幾久しく御贔属をー」 「いうにゃ及ぶじゃ」と、相手は、トンと胸を打って、 「で は、今夜は、根岸の|鶯春亭《おうしゆんてい》でまっていますほどに、|閉《は》ねたら すぐにまいッてくれ。乗りものを待たせて置きますぞ」言葉 をつがえて、長崎屋、楽屋を出て行く。  -あの人は、骨の髄まで慾念で固まった、この世ながら の獄卒だ。とはいうものゝ、あの人みずから、わしの望みの 手引をしながら、好んでだんく死地に近づいてゆこうとす るのも、みんな因縁というものであろう。今夜、広海屋とい うのに逢えば、それで仇敵という仇敵の顔が、すっかり見ら れるわけ。その上で、きっぱり仇討の手立を立てねばなら ぬ。  そんな風に、心につぶやいた雪之丞は、大喜利をつとめて しまうと、ふじいろのお高祖頭巾もしっとりと、迎えのかご に身を揺られて、長崎屋から示された、根岸の料亭をさして 急ぐのだった。その当時、大江戸に、粋で鳴った鶯春亭の、 奥まった離れには、もう、|主人《あるじ》役の長崎屋、古代杉の|手焙《てあぷ》り を控えて坐っている。 「おゝ滅法早う見えられましたな。さあ、これへ」と、ちこ ぢこと、笑がおを作って、 「広海屋は、どうしたことか、ま だ見えぬ。もうおッつけまいられるであろう。それまで、こ の家自慢の|薄茶《おうす》でも|服《まい》っで、おくつろぎなさるがよい」雪之 丞がよいほどに、長崎屋と世聞ばなしをつ冥けていると、そ の中に、廊下でしとやかな足音がして、 「お連さま、お見えなされました」と、知らせる、女中のあ とから、 「やあ、おまたせしましたな。お屋敷の御用で、急 に顔出しをしなければならなかったのでII」と、その場に すがたを現したのが、もう|六十路《むそじ》を越したらしい、|蟹《びん》が薄れ て、目の下や、頬が|弛《ゆる》んだ、えびす顔の老人、福々と、市楽 柄の着つけ、うす鼠の縮緬の襟巻を巻いた、いかにも大商人 と思われる男だ。 「いや、待ち兼ねました。太夫もさき程から来ていられまし てなーあ、これが、初下りの雪之丞|丈《じしさつ》、こちらが、お噂し た広海屋の御主人じゃ。このお方も、そなたの舞台をつい、 昨日のぞかれて、いやもう、大そう讃めておられましたぞ」 雪之丞、広海屋を一目見て、その福々しさがのろわしい。貧 翻 しく乏しい裏長屋に蹴落され、狂い死にに、この世を呪って 死んだ、父親の、あの|翼《やつ》れ|削《こ》けたすがたが、今更のように思 い合わされる。  1おのれ、見ておれ、間もなく、おのれも八寒地獄に落 ちる身だぞ。  憎みを、満腔に忍んで、彼はやがて仇敵どもがすゝめる杯 を、今夜も重ねゝばならぬのだった。 四 「ところで、長崎屋さん」と、富裕な大商人は、仲間の方を 向いていいだした。「今夜、松枝町のお屋敷から、ちょいと 御用で呼ばれたで伺いますと、思いも寄らぬ話がござりまし たぞ」 「思いも寄らぬ話とは?」と、長崎屋は、広海屋の|籟《あか》ら顔を 見返した。松枝町といえば、三斎屋敷を意味するので、この 連中に取っては重大な関係がいつもあるのだ。三斎一家に関 する情報は、従って聴きのがすことが出来ない1長崎屋の 顔さえ、ぐっと、向きかわる。 「何でも、お城のお嬢さまが、おからだがいけないとかで、 当分お屋敷の方へお戻りになるというのだ」 「えッ、何だって! 浪路さまが、お戻りになるッてー」 長崎屋の顔に、ありくと驚愕のいろが液った。その浪路 が、大奥にいればこそ、その手一すじをたよりに、城内に深 刻な発展を試みようと努力しているのではないかーその手 つきを失ったらー「まさか、ずっとお城をおさがりになる わけではあるまいな!」「それはそうであろうともI」 と、広海屋はうなずいて、 「わたしも、実は、それが懸△-心 で、さぐりを入れて見ると、こないだの芝居見物以来、何と ないブラブラ病い、それで、御本人が、のびくと、おうち で保養をしたら、すぐによくなろうと、いい出されたとかで な。だから、大したこともなく、すぐに|快《こころよ》うなられて、大奥 にお帰りになるに相違あるまいーまた、上つ方でも、浪路 さまを、お手ばなしになるはずはなしさ」 「なあるi読めた!」と、長崎屋、ずるい笑いに、目顔を ゆがめるようにして、手を打った。 「浪路さまの、御病気の |原因《もモご》は、結局、この座敷にいるのじゃよ」 「うむ。わたしもなー」と、広海屋が、これも意味ありげ な微笑を雪之丞の方へ送るようにして、「そなたから、こな いだの事を聴いていたので、大方そんなことではあるまいか と思うているのだ」 「いやもう、てっきり、それにきまっている」と、長崎屋 が、あからさまに、雪之丞を見て、 「太夫、そなた、お嬢さ まが、帰り保養ときまったら、すぐにお見舞にゆかねばなり ませぬぞ-御病気のもとは、そなたにきまっていることゆ えー」 「何とおっしゃります!」と、雪之丞、さも仰山に驚いて見 せるのだった。 「御贔演にあずかりました身、それはもう御 病気とうけたまわれば、すぐにお見舞に伺うはずでござりま すがーーわたくしが御病気のもととは? 一たいどういうわ けでござりましょうか!」長崎屋は、笑いつ冥けて、 「何も不思議がることはない、御息女は、恋の病にかゝられ たのじゃ。のう、広海屋さんーー」 「いかにもそれに違いない。わたしもそう思いますよ。太 夫」と、広海屋主人も、大きく合点々々をして見せて、真顔 になって、 「何にしても、すばらしいこと、そなたのために も運開きじゃ」 五 「そりゃもう、このお人に取っては、これ以上の運開きはな いがー1」と、長崎屋も、合槌を打って、 「この際、うんと 本気に腰を入れてもらわぬことには、われくの方のもくろ みも、うまくゆかぬことになろうも知れぬでー」雪之丞 は、全身を|汚臓《おあい》などろで塗りこくられでもするような、言い 難い悪感をじっと堪えしのびながら、二人の言葉に耳をかた むけるふりをしていた。「のう、雪之丞どの」と、広海屋 が、 「長崎屋から、くわしゅう聴いているらしいが、そなた が思いの儘に腕を振るってくれさえすれば、未来|永劫《えいごう》、この 二人で、そなたの一生のうしろ身は必ずして上げますぞ。何 分、人気渡世は、一時の栄えは見せようが、行末長く同じ繁 昌がつ罫くとも限らぬーいや、そなたは格別であろうが、 用心にしくはないのが、人の生涯じゃからな」  1この手で、父親のことをも、汚らわしい深みに引き入 れたのであろうー  雪之丞は、胸の中でそんな風に呪いながらも、 「全く以てお言葉通りでござります。ことさら以て、わたく しなぞは、たよりすくないみなし児の身、お二人さまがそう 仰せられますと、夢のように嬉しくて、天へも上る気持でご ざります」 「うむ、のみ込みの早いお人で、わたしたちも大助りだ。人 間はそう無うてはならぬ」と、広海屋は、ますく膝を乗り 出して、 「今も、冗談のように言ったことだが、あの御息女 が、一目そなたを見て恋い焦れ、一身一命さえ忘れかけてい ることは、この長崎屋さんが、見抜いた通りに相違ない。あ のお方を、そなたがたとえいとわしゅう思うていても、そこ を辛抱して、皮肉に食い入り、魂にまといつき、心をとろか してしまったら、そなた一人の幸福ばかりではない。われ われ一生の大願も、それに依って定まるのじゃ。こゝのとこ ろ、十分に、打ち込んで貰いたいがII」 「|大凡《おおよそ》のことは、もう胸にはいっております。位高い御女性 を、たぷらかすの何のとは、怖れ多いはなしでござりますけ れど、一生懸命御機嫌を取りむすぷだけのことはいたして見 るつもりでおります」雪之丞は、はっきりと、二人の前に誓 うようにいい切った。 「うれしいな、広海屋さん」と、長崎 屋は、そゝるようにいって、 「これだからーこのわかりの よさゆえ、浪路どのばかりではなく、男のわたし達も惚れ込 まずにはいられぬのじゃ。では、御息女が、帰り保養ときま った上は、すぐに見舞に行って上げるようなすってなー」 「かしこまりました」 「と、きまれば、芸者を呼んで、一つさわやかに騒ごうか」 と、長崎屋が、手を鳴らす。もうとうに、柳ばしから呼び寄 せてあった男女の芸者達が、すぐに現れて、一座が、だしぬ けのにぎわしさに変った。 「さあ、お互のための、前祝いの盃、太夫も、心置きなく飲 んだり、飲んだり」広海屋は、|粋《すい》な老人らしく、ほがらかな 笑いを見せて、 「太夫ほどのものを、江戸を見限らせては土 地ッ子の恥だ。さあ、女たち、しっかりつかまえて、上方を 思い出させぬようせねばなりませぬぞ」       六  広海屋、長崎屋、二人とも、雪之丞をすっかり|与《くみ》し易いも のと考えて、只、おだて上げ、|唆《そヤ》り立てゝ置けば、好餌にさ そわれて、どのような犬馬の労をも取るであろうと、すっか り信じ込んでしまったように見えた。芸者、末社のにぎわし い騒々しさの中に、長崎屋は、雪之丞に、杯をまわしながら 囁く。 「そなたは、今、こうして、このせち辛い世の中に、賛沢な 杯盤を並べ立てゝ、うまい酒を呑んでいるわれくが、はじ めから、いゝ月日の|下《もと》に生れて来たものと思うていられるか の? 大違いだ。のう、広海屋さん、お前とても、一時は、 店の大戸を下ろさねばならないような羽目になったこともあ りましたな?」 「そうく」と、広海屋は、昔の零落を語るのさえ、今の身 の上になった以上は、それも誇りの一つであるようにー 「店の大戸を下ろすはおろか、借財に追いつめられて、首を くゝろうとしたこともありましたがなーそれも、これも、 みんな夢物語になってくれましたで!ハ、ハ、ハ」 「今だから、何もかもいえるのだが、その頃このわしは、広 海屋さんと同業の、手がたい見世の奉公人でありましたの さ。ところが、この広海屋さんと、不思議に話のうまが合う ので、主人を捨ててこの方と合体し、あらゆる智謀をしぼり 合うた甲斐があって、広海屋さんの見世も持ち直し、以前よ り十倍もの勢いとなり、わしもわしで、まずどうやら一人前 の町人になれました。この世の中は、いゝも悪いもないー たゾ、お互に出世しようと|目的《めど》を立てたら、心を合せて、他 人をかきわけ、踏み落して、ぐんく進んでゆく外はありま せぬーそなたなぞも、雪之丞どの、よいうしろ立てをつか んだなら、それを力に、遠慮のう威勢を張ってゆかねばなら ぬ。と、まず、わしどもは思っています」 「それじゃ、それじゃ。それにかぎるてー」と、広海屋 は、てかくした顔を、酔に染めて、しきりにうなずいて見 せるのだ。雪之丞は、冷たく、心にあざわらうー大きな声 で|喧《わら》いたい-唆って、喧って、喧い抜いてやりたい1  ---ようも自分の口から、旧悪をさらけ出しおったな! これ三郎兵衛、おぬしが恩を売ったという主人は、松浦屋 ーこの雪之丞の父親なのじゃ。広海屋、おぬしが三郎兵衛 と心を合せて、深味につき落したのも、わしの父親なのじゃ ーーその一子、雪太郎、いのち懸けでおぬしたちの、首を狙 っているとは知らぬか!  雪之丞は、出来るだけ気を平らかにしていようと、沸き立 つ胸をさすっているのに、先方から、あまりに浅ましい泥を 吐いて見せるので、  iいっそ、今夜のかえりに、この二人を、まとめて成敗 してのけてつかわそうか? 高の知れた素町人、当て殺そう も心のまゝじゃ。  そう思うと、殺気が、サーッとわれとわが|背《そび》らに流れて来 て、ブルブルと手足がわなゝくのだ。  もう、彼の目には、江戸生っ粋の美妓たちも映らぬi耳 にいかなる歓喜もひゾかぬ。  ーわしは、手を下そう1今夜、のっぴきさせず手を下 そう。  雪之丞は、ジーッと伏目に、二人を見上げた。       七  雪之丞、一たん、意を決してしまうと、もうじッとしてい られない。  -i早うこの場を退散して、この二人の帰りを待ち受け、 こよいの中に冥府に送りつかわそう。どれ、その支度にかゝ ろうか?  わざと、しなを作って、長崎屋の方へ身を擦りよせるよう に、 「旦那さま、実は今夜は、宿元にて、役者の寄り合いがある はずのところ、外ならぬあなたさまのお言葉にて、この場に 伺わせていたゾきましたので、お名残惜しゅうはござります が中座いたさせていたゾきます。あなたさまより、広海屋の 旦那さまへも、よろしゅうおわびをなされて下さりませ」 「なに、中座したいといわれるのか。それは残念なー酒宴 もまだはじまったばかり、今しばし待たれたらiIわしも、 広海屋さんも、更けたなら、よいところまで、そなたとかご を連らねられると楽しみにしていたにー」と、三郎兵衛が いうのを、 「お言葉に従いとうはござりますが、役目も大事にいたさね ば、舞台に何かと障りも出来、御贔眞様に、相すまぬような ことにならぬとも限りませぬゆえ」と、辞退すると広海屋も 聴きつけて、 「太夫が、かえられますとかーのこり惜しいな」  1ー残り惜しがりなさるには及ばない。ついじき、そこに 待ち合せておりますぞ。  いゝ程に、言いこしらえながら、店中の形勢を眺めると、 ことに依れば、この一座、これから吉原仲の町へでも、繰込 もうという気はいも見える。封巾間、末社が、しきりとはしゃ ぎ立てゝいる折を見て、座を与L董之丞、そのまゝ、見 世口へ出て来ると、 「おかえりなら、乗ものをー」 「かごをー」と、ひしめく家人を制して、 「どうぞ、それには及びませぬ。はじめての御当地、お店前 から乗ものに乗るなぞとは、旦那衆と御一緒なら、兎に角、 勿体ない。実のところついそこに、迎えのかごを待たせてあ りますゆえ、御容赦1」そう、いい捨てゝ、雪之丞は、小 走りに外へ出てしまった。 「感心なお方i」 「ほんとうに程のよいー」見送りに出た芸者、女中が、そ んな風に曝き合うのを聴き流し巷路の闇にまぎれ込むと、闇 の夜風が、鋭く頬を撫でる。あたりは、|杜《もり》と、茶畑、|市《まち》の灯 りからはるかに遠い根岸の里だ。人ッ子一人に出逢いはせ ぬ。|木下蔭《ニのしたかげ》の暗がりで、|長裾《すそ》をぐっと引き上げ、|小棲《こづま》をから げ、お高祖頭巾をまぷかにして、帯の間に手をやると、師匠 が返してくれた一松斎譲りの銘刀が、体熱に熱くなって、一 刻も早く血が吸いたいというように渇している。 .ーおまちよ、もうすこしすると、渇きを止めてやります ぞ。  身支度をすませて、細道に出ると、向うに、遠火事の炎が 映っているように見えるのは、まぎれもなく、たった一度客 すじから招かれて行った、新吉原の灯のいろに相違ない。彼 等が、そこを指して押し出す下ごころを知り抜いている雪之 丞、とある杜かげにじっとたゝずんで、時のうつるのを待と うとするのだった。すると、ふと、その中に、むこうからト ボトボと近づいて来た、細長い人影ー雪之丞が身をひそめ た、つい側まで来て、ピタリと草履の音を止めた。 「ほ1人くさいぞ!」       八  雪之丞、だしぬけに、不思議な|頃《しわが》れごえのつぷやきを耳に して、暗々たる杜の中に、ハッと立ちすくんでしまった。老 い、掠れた声がなおつゞく。 「人臭いぞー路上にすがたがないのに、人臭いとは、いぶ かしいな? ふうむ、さては物どり追剥のたぐいでも、この 杜中に隠れておるかな?」そして、杖で、大地を、トンと突 くような響がして、 「これ、物蔭にうごめいているのは、何 者じゃ? 姿を見せい! この界隈に、|魑魅魍魎《ちみもうりよう》を住まわせ ぬことにしている、このじゾいに、貴さまの、異形をあらわ すがよい。さも無いことに於いては、この|破邪《はじや》の杖が、ずう んと、飛んでゆくぞよ」雪之丞は、怪しくも、この低い、地 を這うような|音声《おんじよう》に威迫された。  1おのれ! 貴さまこそいぶかしい奴-他人の大事の 瀬戸際に、邪魔を入れようとしおって! 猛然として、圧迫 をはじき返そうと、心で叫んだが、相手は、まるで、こちら の心中を読み取ったように、 「突いて来るか、斬って来るか? ハ、ハ、面白い。早う出 い。出ればよいのだ」雪之丞は、殺気を削がれた。  ー1何者だろう? ひどく、年を取っている奴のように思 われるがー 「出ぬか!」と、突如として、|雷窪《らいてい》のように、一喝されて、 こちらは、身を隠して、隠密に事を成そうとしつつある、い わば、後暗い彼ー 「出ます」と、思わず、受けて、そのまゝ差しかわす|下枝《しずえ》を かき分け、道に出る。闇空の下に、細長く、|漂亭《ひようてい》と、|白髭《はくぜん》長 き老人が、長い杖を突いてすらりと立った立ち姿を、彼は見 るー  と、|咄嵯《とつさ》に、  ーあ、老師だ!  と、|瞠目《どうもく》した。意外にも、それは、こないだ、蔵前八幡の 境内で避遁した、雪之丞に取ってば、かけがえのない文学の 師、孤軒先生にまぎれもなかったのだ。逃げることもなら ず、その場に膝を突いて、 「これは老師でござり玄したか?」とうなだれただけで、口 がどもる。 「ふうむ、これはく、また、思わぬところで、そなたに逢 うたものだな?」孤軒老人も、いくらかびっくりした調子で 咳いたが、 「今宵、ちと風流のこゝろを起して夜の上野山内 から、不忍池を見渡してまいった戻り道、こゝまで差しかゝ ると、妙な気はいを感じたで、いたずらをやって見たが、そ なたに逢えるとは思わなんだ。ハ、ハ、ハ、これも尽きせぬ えにしというものだな」雪之丞、孤軒老師が、この付近根岸 御行の松に近く住んでいるといっていたのを思い出した。 「恐れ入りまするーかゝる|痴《おろ》かしきすがたを御覧に入れま してー」と、詫び入るように言うと、 「まず、立ちなさい。さ、立ちなさい」  と、手を取るようにして、老師は、じっと見下ろしたが、 「さるにても、そなたは、今宵は、|恒《つね》ならず事を急いている ように思われるな。水、到って|渠《きょ》なるーの|象《かたち》には遠いく。 悪しゅうはせぬ。わしのかくれ家までまいるがよい」       九  雪之丞は、老師のそうした言葉にも拘らず、すぐに|後方《しりえ》に 従うことがためらわれた。もうしばし、この杜かげに待ち受 けていさえすれば、|仇敵《かたき》二人を、まとめて始末することが出 来るのにーーと、思うとこの場を去るのが、のこり惜しくて ならぬのだった。しかし、孤軒老師は、恒になくいかめしく 言った。 「これ、わしと一緒にまいれと申すにー」 「は、はい」今はやむなく、雪之丞は、星の高い闇空の下 を、導かれるまゝに眼いて行った。孤軒は、ひと言も、ロを 利かなかった。雪之丞も黙ったまゝだ。二人は枯葉が、踏む たびに乾いた音を立てる森下路をしばし歩いた。やがて、大 きな松が、ひと本、黒く枝をひろげたのが見えるあたりの、 生け垣の、小家の前まで来ると、老人は、|枝折戸《しおりど》を外からあ けてはいる。狭い前庭1 「戻ったぞ」 「あlIい」と、少年の声が、奥で返事をして、入口の戸が あく。 「お客だ。香ばしゅう茶をいれるのじゃよ」と、目つきの可 愛い、クリクリ坊主の小僧に命じて、「これが、わしの|佗住居《わぴずまい》 じゃ。上がりなさい」と、雪之丞にはじめていった。雪之丞 は、ホッとした。老師が、あまり黙り込んでいるので・何と なく、|轡《とが》められているようでならなかったのだ。老師と、彼 とは、炭火が赤々と|熾《おこ》っている炉ばたに向い合った。 「さ て、雪、そなた、あそこで、どのような狂言の、幕を開けよ うと思っていたのじゃな?」雪之丞は、キラリと底光りのす る孤軒の目から、わが目をそむけた。「しかし、わしは、よ いところに通り合わせたと思っておるー」と、老人は、刺 すような調子で、 「敵を什すには、その根幹を切らねばなら ぬーあゝした場所では、とても大物を仕止められようとは 思われぬでなーいたずらに、枝葉にこだわって、大立物を 逃すようなことはせぬものだ1雪、そなたは、折角、松枝 町に近づいたであろうにー」 「えッ」と、雪之丞は、おどろかされて、「三斎と知り合い ましたを、どうして御存知でいられます?」 「わしの八卦、観相は、天地を見とおすーと、言いたいが 実はな、この老人も、中村座の初日が、気になって、のぞき にまいったーすると、あの一行の幕張があって、大分、そ なたに執心しているよう見えたゆえー」老人は、いくらか 微笑して言って、「いま俄かに、そなたが動き出したら、抜 β 目のない三斎、何となく危なさを感じて、他国者なぞ、身近 く寄せるようなことはせなくなるぞ。まず、じっと像えて、 存分に彼等を|籔《なや》ます策を立てねばならぬ」 「それは、わたくしも考えておりますものゝ、今宵、この広 海屋、長崎屋、二人を目の前に並べて見ましたゆえ、休えか ねて」 「ふうむ、それで、待ち伏せしようといたしたか? が、一 思いに仕止められたら、彼等はこよない幸福者ーなぜ、今 しばし浮世に生じ置いて、苦痛を嘗めさせてやろうとはしな いのじゃ?」 一〇  雪之丞が、うわべでは、うなずきながらも、心にはなお不 承らしいのを、老いたる孤軒はなだめるように見て、 「わしはいつぞや、八幡境内で、油断のう進めとはゆうた が、しかし|暴虎漏河《ぽうこひようが》こそつゝしむべきだ。第一、今も言う通 り、今夜この二人を合せて討ったなら、物盗と見られまい し、誰かの目に、そなたの姿が映らぬとも限らぬ-十に八 九は、一座していたそなたに疑いが、かゝるであろう。ジロ リと、土部一味の目が光ったら、明日はそなたの舞台はもう 江戸の人は見られなくなる。それよりも、広海屋、長崎屋、 お互に同業、胸の中に、修羅のほむらを燃しているに相違あ るまいが、それを|用《つこ》うて一狂言、そなたにも書けそうなもの だがー」 「左様、それにつきまして、実はー」と、雪之丞が、長崎 屋の、広海屋に対する反抗心を、あけすけ聴かされた旨を逐 一打ち明けると、孤軒は、にこ/\して、 「それが、この浮世で利慾に生きるものゝ、浅ましい望みな のだ。我慾に熱して、友も主も売るーそなたの父親を売っ た二人は、今度はお互にお互を喰らおうとしてもがき焦せる ーそなたとしては、今の場合、その二人をどこまでも争わ せ、魂をも肉をも、現世で食い散らさせるのを眺めるのも一 興じゃと思うがな。そこでわしに一案がある」孤軒は童子 が、運んで来た茶を、うまそうに畷って、 「わしは、夜目で はわかるまいが、この|小家《こや》の入口に、これでも堂々と易の看 板をかけておるで、金、銀、米、そのほか、相場の高低を争 う、はしッこい町人たちが、慾に瞳が暗んだ折に、よりより わしの|塑竹《ぜいちく》をたのみにして駆けつけてまいるが、その者ども に聴けば、かの長崎屋、一度に|資財《たから》を数倍させようと、今年 北国すじの不作を見込んで、米を買っておるそうな。ところ が、広海屋一派の商人たちの方では、西国に手持の米が多分 にあるで、利害が反対になっているが、今のところ、広海屋 も、目前の利に欺かれて、却々売り叩こうともせず、もっと もっと値の出るのを待っているらしい。が、こゝで、そな たが、|富楼那《ふるな》の弁口を|揮《ふる》うて、西の米をどしく売らせたな ら、米価は、一どきに低落し、長崎屋方は、総くずれになる は必定だ。しかも、江戸の人気は、一時、広海屋方に集まっ て、あれこそ、廉い米を入れてくれた恩人と持て|唯《はや》されるで あろうよ。 一人は泣き、一人はよろこぷー」 「お言葉ではござりますが、それでは、長崎屋をくるしめる ことは出来ても、広海屋は、旭の勢いとなって、さ一てよろこ ぶことでござりましょうがー」と、雪之丞が、進まぬげに 艀 言うと、 「そこが、若いと申すのだ」と、孤軒がおさえて、 「落ち目 に蹴落された長崎屋は、牙を剥いて噛みつくに相違ないの だ。あれたちはこれまで、あらゆる慾の世界で、合体して働 いて来た、狼同士、二人とも泥の|腸《はらわた》について知り抜いてい るのだ。それがいがみ合いはじめたら、そなたはまず、側で 手を|拍《たも》いていてもよいということになるであろうーそなた が、最後の|刺止《とずめ》だけ刺してやればいゝ」雪之丞は、了解し た。 「いたして見ましょう1広海屋さんとも、いつでも御懇意 に出来ますように存じますからII」 一一  その場の胸中の憤癒に、日頃のつゝしみを忘れ、軽はずみ に事をいそいで、大事をあやまろうとした雪之丞、測らず避 遁した孤軒老師から、新らしく知恵をつけられ、翌日、翌々 日、無事に|艶冶《あでや》かなすがたを、舞台に見せつゞけていた。す ると、三日目に、こちらから手を伸ばす必要もなく、広海屋 の方から、例の鶯春亭まで、出向くようにとの迎えがある。  早速行って見ると、奥座敷に、長崎屋の姿はなく福相な広 海屋が、封巾間を相手に世間ばなしをしていたらしかったが、 かねて打合せてあったものと見えて、雪之丞の姿が現れる と、居合せた男女が、席をはずす。辞儀が済んで、 「今晩は、長崎屋さまは、お見えあそばさぬのでござります か?」と、さり気なく、尋ねると、 「おゝ、あの男は、昨日今日、商用で大そういそがしがって おるのでなーそれはそうと、例の松枝町の御息女、たった 今日、向う半ヵ月のお暇を頂き、自宅保養のため、大奥か ら、お屋敷に戻ってまいられたで、この事を、是非、耳に入 れて置こうと思うてなーわしは、お屋敷には伺ったが、御 当人には、お目にかゝらぬ。御隠居さまは、別にこれという |病気《いたつき》も無いらしいに、気先だけがすぐれぬとゆうているが、 おつとめが急に厭わしゅうなったのではあるまいかーなぞ と、しきりに心配していられました。あれほどの鋭いお方に も、娘御のお胸の中は、図星を差すことはならぬと見える。 長崎屋もいうとおり、そなたが、その美しい顔を見せたな ら、忽ちほがらかになるに相違ないにー」 「わたくしに、それだけの力がござりますかどうかーで も、折角のお言葉でござりますし、明日にもすぐにお見舞に 上がって見るでござりましょう」と、雪之丞は、しおらしく 受けて、ふと、思いついたように、孤軒入知恵の問題に、|探《さぐ》 りを入れて見るー「それとは、お話が違いますが、昨晩、 去る御城内お役向の御一座から、お招きをうけました節、あ なたさまの御評判を洩れうけたまわって、かずならぬ身も、 大そう嬉しゅうござりました」 「ほう、役向の衆から、わしの評判を聴いたとな!」と、人 気渡世の役者以上に、世評が気になってならぬような、大商 人が、膝を乗り出して来た。 「それは、また、どんな評判 を?」 「わたくしに、江戸では、|主《おも》にどのような方々の御贔贋にな っているかーーなぞ、お尋ねでありますゆえ、こゝぞとばか り、|口幅《くちは モ》ったくも、お名前を申し上げました。すると、う む、それは、よき人々に贔虞れておるなー広海屋と申せ ば、名うての大町人、やがて江戸一にもなるべき人だー」 「うむ、左様なことを、お城御重役が申されていたかー」 広海屋の、栄達を望んでもがきつゝある心は、すぐに激しく 動揺して、喜色満面。 「えゝ、もう、大したお讃めでー」と、雪之丞は|唆《そも》り立て て、 「その上、わたくしにはわかりませぬが、何か、よほど むずかしげなお噂もありましたようで、あなたさまについて のお話ゆえ、一生懸命理解いたそうといたしましたが、くわ しゅうはのみ込めませず、残念に存じました」 「わが身についての、むずかしい噂1」広海屋は緊張し て、「気にかゝるな? 何事か聴かしてくれ」 一二  雪之丞は、広海屋が、こちらの口車に乗せられ、ぐんと乗 り出して来るのを、浅ましいものに眺めながら、 「只今も申しますとおり、わたくしなぞには、良く、呑み込 みのいかないお話でござりましたが、何でも、貴方さまが、 一決心なされました、お持米とやらを、|東《あずま》におまわしになり ませば、大したことになるであろうーと、いうようなこと を、しきりに仰有ってゞござりました」 「何と? 持米を東に廻す!」広海屋はするどい目つきにな って、「それは、どんなわけなのか?」 「わたくしが伺いましたところでは、あなたさまは、海産物 とやらばかりではなく、上方、西国で、沢山にお米を買い蓄 めておいでなそうでー」雪之丞が、相手をみつめると、 「ウム、いかにもー」と、広海屋は、いくらか得意そうに うなずいて、 「何百万石という米を、実は妙なゆきがかりか ら、去年この方手に入れたところ、今年の|東《あずま》の凶作ーもう しばし持ちこたえていたら、莫大な利得が生まれようとまず たのしみにしている次第だ」 「お武家さまたちの仰せでは、そのお米を、あなたさまが、 男なら、一度に江戸にお呼びになり、こちらの米価とやら を、一朝に引き下げておしまいになると、お名前が上下にぱ ッと輝くばかりか、関東米相場の神さまにもお成りになり、 一挙に、江戸一の勢いをお示しになれるに相違ないに、何を ためらっているのであろうーやはり、町人と申すものは、 目前のことにのみ、心を引かれて、大きな企みが出来ぬと見 えるーと、まあ、あの方々でござりますから、そんな無遠 慮なことも仰せられておりました」 「ふうむーその方々が、そのように仰せられていたか? ふうむ」と、広海屋は、腕を組んで、伏目をつかって、 「この広海屋が、男なら、上方西国の手持の米を、思い切っ て東に呼び、江戸市中の米価を引き下げ一時の損をして、未 来の得を取るべきだーと、つまりはそんなことをいわれて いたのだな?」 「いかにも左様でーーその暁には、上つ方のお覚えよくなる は勿論、江戸の町人で、あなたさまに頭のあがるものもなく なるであろうにーと、まで仰せになりましたがー」 「うゝむ、成るほどなあ、御もっともなお言葉だ。太夫、ほ んとにいゝことを、耳に入れてくれましたな。だが、こゝ に、さりとて、その言葉を、すぐにお受けするわけにいかぬ 義理もあるのでー」と、広海屋は、考え込みながら、 「そ なたも知る、長崎屋、あれが、中々、目から鼻に抜ける儲け 師、東の不作と見て、これからもますく騰貴すると見込み をつけ、今になって、買入れ、仕込みをいそいでいるのじ ゃ。そのために、まず、全力を集めていると言ってもよいの で、こゝへ、西から廉い米が、大水のように押して来たら、 あの人の見込みは、ずんとはずれ、飛んだことになるであろ うーそんなわけで、実はわしも手持の米を、あの人達の方 へ少しずつまわして、利を刎ねて行こうと考えているわけな のだがーしかし、損して得とれーとの、そのお武家方の お考えは、あっぱれな名案だ」 一三  商利を、一生の目的とし、そのためには、一切の恩愛義理 をも犠牲にしようとするような人間に対しては、利害一途 で、相い争わせ、相い喰ませ、骨髄まで傷つけ合わせるのこ そ、最大苦痛をあたえることだと、孤軒老師の|訓《お》しえからし て思い到った雪之丞、広海屋の顔いろが、すさまじく変って 来るのを見きわめると、一そう煽りを掛けてやらずにはいら れない気がして来た。 「わたくしどもには解りませぬが、芸道の方なぞでは、どの ように日頃親しくしていましても、舞台の上で蹴落し合わず にはおりませぬが、お話をうかゾっておりますと、さすが、 あなたさま方は、お立派なものでござりますな。長崎屋さま に御不便だとお思いあそばしますと、あなたさま、見す見す 莫大な御利分があると御存じでありながら、お手をおゆるめ になるとは、全く以って、恐れ入る外はござりませぬ」する と、広海屋が、組んでいた腕を、ぎっと引きしめるようにし ながら、じろりと、雪之丞を見て、 「太夫、そなたは、長崎屋にも、贔贋にされている身、だ が、そこまで申してくれる故、打あけるが、商人道というも のも、そなたが、今、言われる通り、どんな恩入、友達の仲 でも、いざという場合は、武士の戦場、かけ引きがのうては 叶わぬ。わしと長崎屋の間柄とて、今日までの味方、いつ、 明日の敵とならぬとも限らぬのだ。その上、当の長崎屋と て、つねぐ、わしを出し抜こう出し抜こうとはかっている すじが、見えぬでもないのじゃ」雪之丞は、やはり、蛇の道 は、へびだトと、思わずにはいられなかった。  長崎屋が、広海屋に対して、どんなに修羅をもやしている かは、雪之丞がよく知っているーそれに負けぬ妄念を、広 海屋の方でも抱いているのは当然と思われた。彼は、眼の前 に、餌食に餓えた、二匹の野獣をみつめているような気がし て、いつもであれば浅ましさに眼を|反《そむ》けずにはいられないの だが、今の場合、二人の姿がみぐるしく映れば映るほど、頼 み甲斐のある世の中でもあるような気がするのだった。 「そう仰せられるのを伺いますと何とのう、この世が佗しゅ うもなりますが、しかし浮世と申せば、よろず、止むを得ぬ 儀とも思われますな」と、雪之丞、しんみりいって、相手を 見上げると、 「心弱うては、此の世界では、乞じきに、身を落すほかはな いーそれにしても、太夫、よいことを耳に入れてくれまし たな、このことは、長崎屋には、当分のあいだ、耳に入れぬ よう頼みますぞ」 「あなたさまが、そう仰せあそばせば、決して、どなたの前 でも、歯から外に洩らすことではござりませぬ」 「折角、そなたの話もあったゆえ、わしも性根を据えて、こ こらで、ずんとひとつ考えて見ねばならぬ」と、広海屋は、 思い入ったようにいったが、ふっと、気がついたように、腕 組をほどいて、 「さて、では、心置きのう、杯をすごして貰 おうかーわしも、久しぷりで、何かこう大きな山にさしか かった気がして、心がいさんでまいったようだ。は、は、 は、幾つになっても、商人は、商いの戦いをしたがっていて な」彼は、パンくと、手を拍って、座をはずしていた取り 巻きを呼ぷのだった。 狂 羅 の 恋       一  |嚢日《さきのひ》の宿下りに、中村座顔見世狂言で、江戸初下りの雪之 丞女形の舞台を、はじめて見物しその夜、長崎屋三郎兵衛の 心づかいで、料亭の奥の小間で、はからずこの絶世の美男と、 親しく語り交わすことが出来た三斎息女浪路は、翌日大奥に 戻ったが、かの|優人《わざおぎ》のいかなる美女よりも美しく艶やかなお もかげが、たえず目の前に彷彿するにつれ、今更のように、 只栄華権柄の慾望を満足させるために、心にもなく日本一の 勢力者、時の公方の|枕席《ちんせき》の塵を払うことの、いかに妄虚に満 たされたものであるかゾはっきりと感じられて、もう一日も この偽りに汚された生活に、堪えしのぷことは出来ないよう な気がされるのだった。そこで彼女は、その晩以来、病気届 けをして、公方のお成りをさえきっぱりとことわった。すぐ に典薬が、何人か閨房に派出されたが、彼等は、たゾ、小首 をかたむけるばかりだ。勿論、彼等とても一代の名医たち、 中には浪路の|病《いたつ》きが、秘密な気苦労から出たものであろう位 なことは、診て取ったものもあったであろうものゝ、うっか りした事のいゝ切れぬ人達のことゝて、当らずさわらずー 「これは大方、心気のもつれと存じます。しばらく、心静か に御静養なされましたならー」 「申すまでもなく、このお城内にて、何の御不自由、御不満 足もござらぬはずでござりますが出来ませば、温泉、海辺に てなり御養生なされましたなら、日ならず御快癒に相違ござ りますまいがー」なぞと、老女にいゝのこして|退《しヰぞ》いてしま ったのだった。これこそ、彼女が、どんなに期待した|診立《みたて》で あったろう! 「わたくしも、せめてこの一月なり、|自宅《うち》に戻って楽々とし ていたら、このような病い、じきに癒ろうと思いますがー」 と、中老たちに対して、相当の権威を持っている、取締りの 老女にさゝやくと、寵愛ならびない浪路のいゝ分に背いて得 はないと知る彼女、すぐに、 「左様に御座りますな、何にいたせ、気のつまる大奥、時々 はゆるりとなさらないではー」と、うなずいて、諸役人と の相談ごとを、すぐにまとめたと見えて、三日と経つか経た ぬに早速、自宅保養の許可が下りたわけなのだった。浪路 は、天にも上る気持だ。松枝町の屋敷へさえもどれば、父親 はどこまでも愛に目がなく、長崎屋はじめ、自分の秘密な想 いに気がついているものもある。たちまち、恋しい雪之丞 に、一目逢わせてくれることがあろうし、さもなくとも、ど のような手立を講じてでも、彼に消息を交わして、逢瀬をた のしむことが出来るであろうi  iこゝ、この恋に比べて、これまでのいつわりの栄華の 月日が、どのようにつまらない、取るに足らぬものであった ろう! 影の影をつかんでいたようなものだ!  しかし、名目が名目だけに、浪路は、屋敷に戻ると、奥の 離れにしつらえられた|臥床《ふしど》に、さも苦しげに身を横たえて、 医師の加療に身をまかせねばならなかった。だが、その医者 も、城内典薬たちの診断と違わなかった。 「お気まかせに、のびくと御保養が何よりーお気うつか ら飛んだわずらいをお引き出しなさらぬとも限りませぬでー ー」       二  浪路は、わが家の病室に、|和《やわ》らかく瞥沢な褥につゝまれて すんなりとした肉体を横たえ、母親こそとうに世を去ったが |愛娘《まなむすめ》への愛には目のない、三斎はじめ、老女、女中の隙間も ない|慈《いつ》くしみの介抱を受けながら、その癖、心のいら立たし さは、募って来るばかりだった。たった、向う半月か、一月 が、わが物の月日なのに、このまゝで時を無駄にしていなけ ればならぬのが、彼女には辛いのだ。たゞ、どうにかして、 この世でゆっくりと、雪之丞に蓬いたいためばかりにこそ、 あらゆる苦労をして、大奥を抜け出して来たのにーしかし 浪路の、その憂欝の胸に、突然パアッと、赤い火が点ぜられ た。老女の一人が、妙に浮き浮きした調子ではいって来て、 「たゞ今、広海屋が、お見舞と申して伺っておりますが、何 でも、先日まいった、あの女形の雪之丞に、御病気、御保養 の由を、申し聴けましたら、大そうびっくりされて、更けて は却て失礼ではありましょうが、昼間、わが時のないからだ ー今宵芝居が閉ねましたら、お門口までなりと、罷り出た いと申しておりましたそうでー何とまあ、御恩を忘れぬ、 感心な役者ではござりませぬかー」と、いうのを聴いて、 浪路は、床の上で、膝にひろげていた草双紙を投げ捨てるよ うに、 「まあ、雪之丞が、見舞いたいと申しておると申すのかえ?」 「はい、今夜必ずとのことでござります」もう、五十をとう に越したような、奥女中の心にさえ、あの絶世の美男のおも かげは、ある若やぎをあたえずには置かないように見えた。 彼女は、膝を進めて、 「それにつきまして、お願いがあるの でござりますがー」 「何あに? 願いとい・つのはーー-」 「雪之丞も、いそがしい間を盗んで、折角お顔出しをいたし たいと申すのでござりますゆえ、お声がかりで、お病間まで、 招き入れてやりましたら、どのようによろこぷかわかります まいと存じますがー」それこそ、浪路にとって、わたりに 船であった。彼女の瞳は、美しく輝いた。 「そうしてやった方がよければ、まかせるほどにー」老女 は去った。浪路はうれしさで一ぱいだった。雪之丞が尋ねて 来るというのに、不機嫌ソてうに、髪さえわざと乱していられ ない。彼女はやがて、懐紙を押してあった金の鈴を、リーン とかすかに鳴らした。侍女が手を突く。 「お湯が引きたいゆえ、|支度《したく》をi」 「は?」若い、やさしげな娘は、聴き違いではないかという ように、浪路の顔を見上げた。 「|湯室《ウどの》の用意をしゃ」 「でも、おからだにー」浪路は微笑した。 「いゝえ、大事ない。今日は、すぐれて心地よいゆえ、湯を 引いたなら、もっとく気持が晴れるであろうと思うのじ ゃ。早うしてたも」浪路が、笑顔を見せれば、一家中は、そ れが何よりなのだった。三斎屋敷の奥向は、急に活気づいて 来た。浪路は、|檜《き》の香の高い風呂の中で、澄み切った湯に、 すんなりした手足を透かして見て、心からのほゝえみが止ま らないのだった。       三  その頃、雪之丞が、松枝町屋敷玄関先まで|艶姿《あですがた》をあらわし たとき、 「いえく、夜分と申し、お敷居外にて、どうぞおいとまを 1御前のお目通りなぞ、あまりに恐れ多うござります」と 平に辞退したに拘らず、切なるす\一めで、三斎の居間に招じ られてしまったのだった。三斎は、ひどく興味を持ってしま ったこの上方役者の来訪をよろこんで、何かと歓待を忘れな かった。何かの参考にもなろうかと、見つけて置いたなぞゆ うて、|梁塵秘抄《みようじんひしよう》そのほかの、|稀《めず》らしい|古謡《こよう》の写し本をあまた 取らせ、一ぱしその道の通のこととて、さま人\物語りに更 かしていると、そこへ、例の老女が現れて、 「御息女さまが、太夫、わざくの見舞とお聴きになり、直 き直き逢うて礼をいゝたいーとの仰せでござりますゆえ、 のちほど、御病間まで、おはこびをー」と、いうのであっ たが、雪之丞は、その場にひれ伏して、 「卑しき身分が、御隠居さまにお目にかゝり、お情深いお言 葉をうけたまわるさえ冥加でござりますに、お奥向へなぞな かなか持ちましてーI」三斎もかゝる夜半、俳優を、いかに 病中なればとて、愛娘の部屋に通すなぞとは、世の聴こ え、家の名聞1と、思いはしたが、この者が訪ねて来ると 聴いてから、めっきり元気がつき湯さへ引いたと耳にもした し、浪路を大奥に送って、公方の寝間の伽をさせたことそれ 自体、いわば、親兄の犠牲としたのにすぎないのを考え合せ ると、此処でその望みを阻止することもあまりに思いやりが なさすぎる気がした。 「いや、なに、雪之丞」と、老人は、手を振るようにして、 「娘も、見苦しゅう取りみだしてはおるが、これも、日頃、 窮屈な御殿暮しの気づかれが出てのことであろうと思えば、 わしもあわれに思うているのじゃ。あれは、元よりそなたが 大の贔贋-美しい顔を見せてやって、にぎわしゅう世間ば なしも聴かしてやってくれたなら、心のもつれも晴れるであ ろう。折角、あいたいと申すのじゃ。つい、ちょっと、|病室《びようま》 をの一ていてやってくれまいかー」 「ま、勿体ないお言葉-」と、雪之丞は、どこまでも、礼 を忘れぬ風で、「いやしき河原者、身分ちがいの身にて、御 女儀さまのお居間へなぞ全く以て思いもかけませぬー」 「その物がたさは感じ入るがーしかし、相手は病人じゃ」 と、三斎は心安げに笑って・ 「ま、望みを叶えてやるよう頼 む。老いては子にしたがえーとか、申すが、このわしは、 とりわけ|彼女《あれ》が可愛うてな」 「すぐに、お供いたしとうござりますがー」と、老女が強 いるようにいった。雪之丞は、さも当惑したようによそおい ながら、ようやくのことで決心がついたというように、三斎 の居間を|辻《すぺ》って、老女の導くまゝに、冷たい、薄暗い長廊下 を踏んで、やがて、|木犀《もくせい》の匂う渡りを、離れの方へと辿って ゆくのだった。やがて、渡りを行きつくすと、|茶室風《ムバこいもふちり》の小家 になる。老女は、雪之丞をちょいと振り返って、 「ほんとうに一生懸命おまち兼ねでござります」 四  老女の案内で、この館の中でも一ばん静かな、浪路の病間 にはいったとき、雪之丞、|緋《ひ》いろ勝ちの|臥床《ふしど》の上に、楚々と 起き直っている彼女を一目見て、なるほど公方の寵をほしい まゝにするだけの、一代の美女だと思った。この前の、わざ と結った高髭とは変って、今夜は、長い、濡羽いろの黒髪を うしろに辻らして、紫の緒でむすんで、|緋《あか》い下着に、水いろ の梢ヒ冷たすぎるような綾の寝間着-単に、口実ばかりの 病気でもなかったと見えて、いくらか、頬にやつれが見え て、じっと、こちらをみつめて微笑んだ瞳に、かぎり無い淋 しささえ溢れている。手を突くと、 「ま、そのような辞儀なぞーどうぞ、ずっとこちらへiI」 なつかしげに、親しい人にいうように、「|煩《わずら》ったお蔭で、つ いじき逢えて、うれしゅう思います」雪之丞は、そうした表 情や言葉に、すこしもまじり気を感じることが拙来なかっ た。恋に焦がれつゝある、一人の女性が、その恋を強いてほ んのりと包もうとして、悶えている|遣瀬無《やるせな》さを、察してやる ことが出来るのだった。  1わしは、わしをしんから想ってくれている娘を、欺き おおせねばならぬのであろうか?  けれども、彼は、浪路の、しっとりした姿の背景をなす、 古土佐絵の、すばらしい金屏や床の唐美人図や、違い棚の豪 奮をきわめた置物、飾物を眺めたとき、弱まった気持を、ふ たゝび緊張させることが出来た。  ーこの娘の父親が、この豪華をむさぼるために、どんな に悪業を積み重ねているのだろう-|虐《しいた》げられ、苦しめられ、 狂い死に死んだのは、わしの父御ばかりではあるまい。 「御病気とうけたまわりまして、どんなに驚きましたことか ーなれど、お姿をおがみまして幾らか安心つかまつりまし た」老女が去ったので、浪路は、ぐっと|態《しな》を変えていた。 「まあ1 何ということをいうのであろう。何という他人行 儀なことを!」怨じて、一度、顔をそむけるようにして、激 しく|流肺《ながしめ》を送って、「わたしの気持は、この前の時から、よ うく知っていてくださるにーこの病気にしても」 「そのようなつもりで申したのではー折角うかゞって、御 意にそむいてはーそれなら、おいとまいたした方がー」 雪之丞も、つんとしたように、わざと冷たくいった。 「いや、いや」と、将軍の寵姫は、一俳優の莇で、だゝっ子 らしい愛らしさで激しくかぷりを振って、 「おおこりにまっ た? それなら許してtわたくし、でも、そなたの他人行 儀が、苦しくってー-」彼女は、膝の上に、綾の寝巻の袖を 重ねるようにして、頭を下げて見せた。「気に障えたら、詫 びます、あやまりますー-今夜こそ、ゆっくりしていてー 頼みますぞえ」女の童さえ、黄金瓶に、銀の盃を二つ添えた めを、そこに差し置いたまゝ去ってしまった。もう二人は、 何を言っても、してもよかった。       五  美しい|彫刻《ほ 》のある、銀の台付の杯を、二つ並べて、浪路は、 黄金のフラスコ型の壌から、香りの高い酒を充して、 「さあ、お取りなされまし」と、白い、細い指先で、自分も その杯を取り上げた。雪之丞も飲んだ。|何処《いずく》から渡って来た 銘酒か、何ともいい難い芳醇さと甘さとを持った液体が、舌 の先から咽喉の奥にーそれから胸の中に、じっとりと溶け 流れると、すぐに目先きがチラチラする程、軽い酔が感じら れて来るのであった。 「太夫、そなたは、わたしの病気を、どんな煩いと、思うて か?」浪路が、杯を手にしたまゝ、じっと小首をかしげるよ うにして訊く。 「どんな煩いとゆうて、くわしゅうはどなたもおっしゃって は下さりませぬのでi-」 「わたしの病いが、どんな煩いか、どなたにわかっていましょ うや」と、浪路は、意味ありげに、「それは、わたしだけ が知った煩いーなぜ、御殿にもいられぬほどの病気になっ たか、そのわけは、どんなお方も、知ろうはずがありませぬ 1でも、太夫、そなただけは、いくらか気付いてくれそう なものにーー-」怨じ顔の目元が、密酒の酔いに、薄っすりと 染まって、言うばかりなく艶だ。雪之丞は、頭を揮って見せ て、 「これは御難題1」と、いったが、わざと冷たく戯れて、 「あまりに、御寵愛がおすぎあそばされて、そのためのお疲 れでもー」彼は容顔を、妖しくひそめたが、それは恐らく、 あまりに汚らわしいことをいわねばならなかった自分を、呪 いそゝらずにはいられなかったのであろうーそれを、浪路 は、別の意味にi言わば、雪之丞の、嫉みの表現のように 取ったに相違なかった。 「まあ、何ということを! このお人は!」浪路は、心から おこったように、大きな目で、彼を見据えて、「お上の御寵 愛が、どのように深かろうと、それが、わたしに何のこと!」 と、激しくいって、「そなたは、わたしが、好んで、御殿へ なぞ上がったとお思いなさりますの? あの、窮屈で、いか めしい、何のよろこびもない、牢屋のようなところへーそ して、お上が、どんなお方かさえも、御存知なさらぬ癖に、 憎いく、そのようなことをー」 「恐れながら、上さまは、この世のいかなるお方さまより も、御権威のお方とのみ、存じ上げておりますゆえ、世上の 女性方は、あなたさまの御境涯を、お羨み申さぬものとてご ざりませぬーそのおん方さまのお愛を、お身お一つにおし めなされていられますあなたさま、こうして、直きくお言 葉を交していたゾきますさえ、何とのう|辱《かたじけ》なさすぎる気が いたしましてー」雪之丞は、ますく女ごころを、焦ら立 黒 たせようとする。浪路は|唆《そも》り、煽られるばかりだ。 「まあ! いつまでもそのような、憎らしい口l顔立の美 しい殿御は、とかく、こゝろが冷たいといゝますが、そなた はその諺、そのまゝでおいでなさるIIそれなら、わたしの、 病気の程、はっきりいって聴かせましょうぞえ」彼女は半身 を、ぐっと雪之丞に擦り寄せるようにした。 六  浪路は目元に、しおを含ませて、美しき俳優を、睨めつゾ けるようにして、 「そなたが、わたしの|病気《いたつき》の種を、知らぬなぞと言わせませ ぬぞ、そなただけが知っていることーみんなく、一目、 蓬うてからの、この悩みではござりませぬか?」雪之丞は目 を反らさず、寧ろ冷たすぎる微笑で受けて、 「わたくしが、あなたさまのお煩いの因になったとおん仰せ なさりますかーほ、ほゝ」と、まるで、女のように、|艶冶《なまめ》 かしく笑ったが、 「あまりお言葉がうるわしゅう響きますほどに、わたくしの ような|痴《おろ》かなものは、とかくそのまゝに思い込みますと、ど のようなことになるかわかりませぬi御戯れは、大がいに なされて下さりませ」 「太夫、まだ、それを、お言いなさるか?」と、浪路は、ぐ っと、杯を干して、下に置いた。雪之丞が、酌をしようとす ると、それを、白い手で蓋をして、浪路が、「わたしは、も ういたゾかぬー飲みませぬ。そなたのような人と、|酒《 ルも》ごと なぞいたしたとて却って胸が塞がるばかりでござります」 「ま、どうして、急に、そのように、お機嫌を損じましたの かーわたくしが、こゝにおりまして、お心地があしゅうご ざりませば、おいとま申すほかにはー1」両手を、畳に|下《おろ》そ うとすると、浪路は|狽《あわ》てゝ、 「太夫、雪さま!」と悲しげに、「わたしは、見得も、外聞 も、恥も捨てゝいます。わたしは、いのちさえ賭けているの にーそなたは、何というひどいことを1大川ぱたで、し みじみ二人でお話したときでも、わたしのこゝろは、よう判 っていて下さるはずなのに-太夫、ほんとうに、この気持 が、おわかりになりませぬのかえ?」 「わかりませぬ」と、雪之丞こそ、いみじく淋しそうであっ た。「わたくしは、しがない河原ものーそしてそなたさま はー」 「芸に生きるお人にも似合わない!」と、じれったげに、浪 路はいった。「恋に、身分の、わけへだてが、ありますもの か! わたしは、いわば、今夜これから、二人だけで、どこ の山奥に、落ち伸びようとも、いって貰えば、すぐに、大奥 も、親の家も、捨てゝ行こうとまで思い詰めていますのにー ー」 「浪路さま!」と、雪之丞は、思い入ったように、|貴女《きじよ》をみ つめた。「あなたさまは、しんじつ、そのように、思ってい て下さりますのか!」 「わかり切っていることーあの晩以来、一刻とて、忘れたこ とはありませぬ。夢に見るのはまだ浅いー昼間の想いが、 夜よりも深いということを、はじめて、わたしは知りました」 浪路は、しっとりと、雪之丞にもたれかゝってしまっ七鴇 「のう、雪さまーこのわたしを、どうしてくださりますえ」 「そのお心もちが、ほんとうならー」と、雪之丞、「わた くしとて、指も、髪も|勢《ヨ》りましょうーそのかわり、一時の おもてあそびなら、死ぬほかにはー」       七  二人の手はしっかりと結ばれ合っていたが、浪路の目かお には、からみつくような執念が、ますます燃え|熾《さか》って来るば かりだった。 「ね、太夫、わたしには、まだそなたのこゝろが、しっくり と判らない気がしてなりません。引く手あまたの人気役者 が、こんな不意気な女なぞを、しんからかれこれ思ってくれ るとは、ほんとうとは思われませぬものー」 「わたくしこそ、本気には出来ませぬ」と、雪之丞が、上目 で見上げて、「もしほんとうのお言葉なら、いのちも賭ける と、たった今申したことを、いつでも行いにあらわして御覧 に入れますけれどー」 「では、太夫、わたしが、この場で、死んでくれと申したら ー」浪路の全身は、火のようだーその躯を、もっとく 抱き〆めて貴いたい。「そなたには、何となく愛がないー わたしを出来るだけ、遠くにはなして置きたいと思っておい でに相違ない」雪之丞は、ほうっと、深い吐息をして、顔を そむけてうなだれた。「わたくしの、あれからの気持を、御 承知でいて下すったらi」 「あれからの気持とはえ?」浪路はぐっと、身をもたせて、 そむけた顔を追うようにのぞき込む。 「とても、張り合うことの出来ない、しがない身と、天上の お方1それを考えると、同じ人間に生れながら、何という はかないことかとー」 「そなたが、しがないと、おっしゃるのかえ?」 「公方さまと、河原者1これほど天上、地下とはなれた世 界がー」浪路はパッチリと、目を|暉《みひ》らいて、雪之丞の両手 を取って、ぐっと顔をみつめるのだった。 「それを言われるのか? 太夫」 「申しますともー」 「そなたが、そう言うならー」と、浪路の声は、|掠《かす》れもつ れて来た。 「わたしにも覚悟がある」雪之丞は、舌の根を噛み切りた い。  1何をわしは言うているのだ。この女にこんなことを言 っていて、よくも、口が|竪《たて》に裂けずにいるものじゃ。けれど も、彼は、もっとく言うであろうー 「お覚悟とは?」 「もしも、お上の側にいるのが悪いというなら、いつでもわ たしは、御殿を出ますーはなれます。それで、そなたが、 ようしたと、讃めてくれるなら」雪之丞に|唆《ルしト》られて、浪路は、 どこまでも言い|証《あか》したい。雪之丞は、更に迫り言い寄らねば ならぬ。 「ま、お口の美しさ!」 「口! 口と、そなたはお言いやるなーよくも、まあ!」 と、浪路は、紅い下唇を、白いく、真珠を並べたような歯 で、血の出るまでに噛みしめるようにしながら、「それなら、 わたしは、もう、御殿へは、二度と上がらぬ」 「滅相な」と雪之丞は叫んだ。「そのようなことを!」彼は、 引きしめられた両手を、しめ返した。 八  1この娘が、今後、どこまでも、公方を嫌い通し、大奥 づとめを拒ぞけて、二度と城内にはいろうとしなかったら、 三斎父子の驚きと狼狽とは、どのようなものであろうーそ れこそどうしても、一度は見てやらねばならぬものなのだ。 この娘には、気の毒だが、わしはこゝろを鬼にせねばーー  雪之丞は、浪路が、みだりがわしく、しなだれかゝるに任 せた。 「ほんとうに、恋というものは、どうしてこうまで|酷《むご》いもの でありましょうしと、浪路は、事実、身分も、格も、振り捨 てゝしまったように、深いく吐息で、自ら歎息するのであ った。 「たとえ、日本国中、いゝえ、唐、天竺に身のおきど ころがなくなっても、わたしは少しも厭いませぬ。そなたさ え、側にいて下さればー」 「わたくしにしても、あなたさまさえ、まごころを下さりま せば、生きながらの焦熱地獄-|炮烙《ほうろく》、|鼎煮《かまうで》の刑に逢いまし ょうとも、いっかな怖れはいたしませぬ。たゾ、いつまでも、 |存《ながら》えている限りは、只今のお気持を、お忘れなさらずに下さ りませ」絶代の女形、三都に亙っての美男から、かくまで、 手管をつくした言葉を聴かされては、どのような木石の尼御 前でも、心を動かさずにはいられまい。まして、浪路は、青 春妙齢の艶婦1しかも、彼女の方から、すでに身も心も打 ち込み切っているのだ。雪之丞の、二一一三旬が、まるで、甘 い、しかし鋭い、蜜蜂の毒針のようなものとなって、心臓の奥 深いあたりをまで突き貫かずには置かぬ。 「まあ、うれしい! 1この胸にさわって見て」彼女の、 白い手が、雪之丞のほっそりとした手首をつかんで、わが胸 に、掌を押し当てさせるのであった。胸の動悸の激しさ! いきざしの荒々しさ1 「おゝ、咽喉がかわいて、干ついてしまうようじゃ」と、浪 路はやがて、又も、銀の杯に、甘い酒を充して、一つを雪之 丞の手に持たせ、 「固めの杯1そなたも、一どきに飲んで i」雪之丞、胸苦しさを、やっとおさえて、その杯を干す。 「わたしが、御殿のおつとめを拒んだなら、当分、この江戸 に住むこともなりますまいーその時には、世を忍んで、そ なたの郷里へ落ちてゆき、町女房のいでたちをして、ひっそ りと送りましょうーたとえ、明日のたつきに困るようなこ とがあったとて、それが、ほんとうの恋に生きるものゝなら わしと思えばー」浪路は、そうした苦しい境涯に対する空 想を、さも、楽しい未来を想像するものと、同じような嬉し さを,以って語るのであった。恰度そのころ、三斎隠居は、わ が居間で、例の、珠玉いじりをしながら、ふと、考え込んで いた。  ー浪路は、とかく、雪之丞めを贔眞にしすぎているよう じゃ。もしもの事があっても困るが、日ごろの欝散に、あの 子も、何か楽しみが無うてはなるまい。と言って、あれもお のれを忘れ、家を忘れ、名を忘れるほどの馬鹿でもあるまい しー  彼は、紅い宝玉を、灯に|透《すカ》し見つゝ、自ら安んずるように つけ足した。  ーあれがあって、上さまは、わしたちのいいなりとなっ て下される。そこでわしと伜とも世には冥かっていられるの だ。大切な大切な、この宝玉よりも大切な娘だ。      九  三斎隠居は、|蚕豆《そらまめ》ほどの大きさから、小さいので小豆粒位 の透きとおり輝く紅玉の珠玉を、一つ一つ、灯にかざしては、 うこんの布で拭きみがき、それを|青天鷲絨《あおびろうど》張りの、台座に|嵌 めながら、つぶやきつゾけるのだ。  iお城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくて も、あれで、なかくお狡いお方なのだ。どんな女や男を、 愛《はいと》しんでやったらよいか、ちゃあんと、御承知なのだ。つま りはな、浪路ほどの女が、この世に二人と、.なかくないこ とを知って、あれを手放さないーその親兄に当るわしや、 伜駿河守なればこそ、出来るだけ、愛してやろうとお思いに なっているーが、若し、あれが、御機嫌に背くようなこと になると、その方は、手の裏を返したように、白い目をお剥 きになるに相違ない。そんなことがあったら一大事ーあれ が、お側にいるというので、大名、旗本、公卿、町人-総 がかりで隠居々々と、わしを持てはやし、さま六\な|音物《いんもつ》 が、一日として新しく、わしの|庫《くら》を充たさぬということもな いのだ。むすめや、むすめや、わしの方でもどんな我まゝで も許すほどに、どうぞわしのために、末ながく、あの鼻の下 長さまの、思召しにだけは、そむかぬようにしてたもれよ。 ほ、ほ、ほ! この珠玉のいろのすばらしさーわしが死ん だら、みんな娘に譲ってやろうのうー死なないうちでも、 ほしいというなら、いのちより大事な、この珠玉だって、そ なたにはつかわそうものー  隠居は隠居でそんな風に、自分勝手なことを、口に出して、 ブツブツと繰り返しながら、更に、新らしい、宝石箱の蓋を 刎ねて、今度は、灯の光りをうけると、七彩にきらめく、白 い珠玉を、ソッと、さも大事そうに、つまみ上げて見るのだ った。この三斎屋敷の、奥深いところで、奇怪な親子が、め いめいの慾と執着とに、魂を、燃やしている頃、此屋敷から 程近い、とある普請場の板がこいの物影に、何やら身を寄せ 合うようにして、ひそくと物語っている男女の影!さて は、人目を忍ぶ逢い引きか? いゝえ、二人の話に、耳を傾 けるものがあったら、どうしてなかノ\、そんなありふれた 者どもではないのを、すぐに発見したであろう。 「だが、姐御-11」と、背の低い、ずんぐりした黒い影が、 「いゝんですかえ? 松枝町の隠居ッて言えば、公方さまで も、おはゾかりなさるってお人だ。その人の庫なんぞを荒し たら、並大ていのことじゃあ済みませんせ。遠島か、首斬り 台にすわらなけりゃあならねえ。そんなところを目がけず・レ● も、本町通りへ行きゃあ、ずうっと、大きな|金庫《かねぐら》がならんで いるのにー」 「黙っておいでよ、むく犬」と、ひ冥きの強い、張り切った 女の声が、高飛車にいった。「公方さまが、はゾかったって、 おれたちあ、ちっとも遠慮することはありゃあしねえよー どうせ天下のお式目、御法度ばかり破って、■今日びをくニノし ρ 〜 一 問 ている渡世じゃあないかーおめえは知らず、このおれと来 ては、どうせ首が、百あっても足りねえからだIl⊥度、見 込んだら、屹度やる。万一、ほかの仲間に、この屋敷を先き 駆けられちゃあ、つい鼻の先に棲んでいる、黒門町の、お初 姐御のつらがつぷれてしまうじゃあないか?」 一〇  普請場の板囲いの、暗の影、低いながら、ピチピチとした 鉄火な口調で、|伴《つ》れの男を叱るように、こういい放った女l lでは、これが、当時、江戸で、男なら闇太郎、女ならお初 と、並びうたわれている女賊なのだ。 「そういえば、そうですがねえー」と、ずんぐりした男 は、詮方ないといった調子で、 「なるほど姐御が、一たんい い出して、引ッ込めるような人間じゃあねえことは、だれよ りこのあッしが知っています。じゃあ、一ばん、今夜、これ から、三斎屋敷に乗り込みますか?」 「いうまでもなく、この足で忍び込むつもりだが、お前は、 このまゝ引ッ返して、|隠家《 な》で、首尾を待っていなよ。つまら ねえ思いつきで、小さい仕事に手を出して、ドジを踏まず、 寝酒の支度でもしてお置きよ」お初が、そう言うと、 「へえ? じゃあ、あッしは要らねえんでー」と、男の手 下は、不足顔。 「まあ、わたし一人がいゝようだよ。相手はおめえのいう通 り、ちっとばかし大物だ。大物狩には、足手まといは困るか らね」 「へ、あッしを、足手まといと、いいなさるんでー1」 「いゝえ、おめえも、相当なものさ。これが、どこぞ、唐人 の、|土蔵《むすめ》でも掘るときならね。だが、武家屋敷を攻めるにゃ あ、そのガニ股じゃあ、駆け引きがおぼつかないよ」 「どうも、手きびしいなあ。あッしはまた、いつかのやり損 ないを今夜あ取りけえして、お讃めにあずかりてえと、思っ ていましたにi」 「なあに、また折があらあな。さっさと行きねえー」お初 は、相手が、ためらうのを、追っ払うように、「さっさと、 行きねえと言ったらーそら、向うから、人影が差している じゃあねえかー」と、強く言う。 「じゃあ、姐御、上首尾にー」 「おゝ、土産はたんと忘れねえよ」ずんぐり男は、板囲い沿 いに、黒いむく犬のように、どこへか、消える。自ら、お初 と名乗る、女賊ーそれを見送ると、大胆に、物影をはなれ て、町角の常夜燈の光りが、おぼろに差している巷路に、平 然と姿を現わした。見よ! そのすんなりとした、世にも小 意気な歩みぶりー水いろ縮緬のお高祖頭巾、滝縞の小袖の 裾も長目に、黒編子と、紫鹿の子の|昼夜帯《はらあわせ》を引ッかけにし て、町家の伊達女房の、夜歩きとしか、どこから見ても見え ないのだ。|顔容《かおかたち》は夜目、ことには、頭巾|眼深《まぶか》1ちょいとハ ッキリしないのだが、この艶姿から割り出すと、さもあでや かだろうとしか考えられない。現に、今、通りすがった、二 人づれの、職人らしいのが、振り返って、うしろ影をつくづ く見て、 「ヘッ、たまらねえなーどこのかみさんだろう?」 「畜生! 亭主野郎、どんな月日の下に生れやがったんだ!」 つり お初は、そんな冗談口は耳にも止めず、かまわず間近な、三 斎屋敷の方へしとくと歩いている。彼女も亦、闇太郎同 様、この権門の財宝を狙っているものにきまっていた。 一一  黒門町のお初は、しゃなりしゃなりと三斎屋敷の門前に近 .ついたが、扉こそとざされておれ、耳門はまだ閉っていない ・りしく、寝しずまるには、間があるようだ。  Il宵っばりな家だのー1お客か? が、そんなこたあ、 こっちには、何のかゝわりもありはしない。  いつぞや、闇太郎がしたように、この女も、塀に沿うて、 まわり出した。越すに易い足場のいゝところを見定めようと しているのだろう。このお初というのは、以前は、両国の小 屋で、軽業の太夫として、かなり売った女だった。足芸、綱 渡り、|剣打《つるぎうち》、何でも相当にこなして、しかも、見世物切って め|練緻《きりト モつ》よし、身分を忘れて、侍、町人、随分うつゝを抜かす ものも多かった由だったが、いつの間にか、その引く手あま たの一少女の、青春の魂を|囚《とら》えてしまったのが、界隈によく 姿を見せる、いつも|藍《あい》みじんを着て、|銀鎖《ぎんぐさり》の守りかけを、胸 にのぞかせているような、疽性らしい若者1いずれ、やく ざに相違ないと知って、出来合ってしまったところが、これ が賭博うちと思っていたのに、|東金無宿《とうがねむしゆく》の長二郎という名代 の泥棒-1男は|美《トよ》し、肌も白し、虫も殺さぬ顔をしているか ら、人殺しの兇状こそなけれ、自来也の再来とまでいわれた 人間だった。お初も、馴染むうちに、いつか、相手の本体を 知った。が、知ってしまうと、尚一そう、一〃、の性格や渡世に まで愛着を感じないわけにはいかなかった。  ー長さんは、盗んだって、悪党じゃあない。困った人達・ はにぎわすし、パッパッと綺麗に使ってケチ臭く世の中を逃 げまわってなんざあいやあしない。いつだったかも、主人の 金を淘られたお手代が、橋から飛ぼうとしているのを見て、 大枚百両をつかましてやったようなお人だ。  1長さんの足がひょいく遠のくのは、吉原の火焔玉屋 のお職が此ごろ血道を上げているからだそうな。ようし、そ れがどんな気ッ風の女か知らないが、両国のお初が、どうい う女か、長さんに、ひとつ、とっくり見て貰いましょう。あ たしだって、身も軽いが、手足も動くんだ。長さんの、百分 の一位なことなら、出来るだろう。彼女は、そう思いつめて、 軽業はわき芸、いつか、掬摸を本業にしてしまった。勿論、 主人持の小僧や、年寄の巾着なぞは狙わない。彼女が狙った のは、浅黄裏の、|権柄《けんべい》なくせにきょろくまなこの勤番侍 や、乙に気取った町人のふところだった。どうかすると、長 二郎のI今自来也と呼ばれた大泥棒のかせぎより、お初の 方が、ぐっと良いこともあった。 「お初」と、ある晩、逢ηたとき、出逢茶屋の二階の灯の下 で、長二郎は、いいかけた。 「お初、おめえ、大それたこと をやらかしているんじゃああるめえな?」ジロリと、鋭い、 まなこだ。 「大それたことって?」十九むすめのお初は、赤い布をかけ た髭を揺するようにして、ほゝえんだ。 「あたし、大それた ことなんざあ、なんにもしやあしないさ」 「が、ふところが、いつも不思議だぜ」と、長二郎が、首を J |揮《ふ》るようにして、「無間の鐘や、梅が枝の手水鉢じゃあある めえし、そんなにおめえの力でー」 一二  今自来也の長二郎から、  -無間の鐘をついたわけでもあるまいし、いつも、あん まりふところが豊かすぎるII何か、大それたことをしてい るのではないかー  と、そう問い詰められた、軽業のお初は、苦にもせずに笑 ってしまった。 「あたしが、どうしてこのごろ、お金持だっていうんです か? そりゃあ、働くからですよ。無心ばっかりして、おま えに愛想をつかされてはかなしいと思うものだからi」 「女のおめえが、働くといって?」と、相手が、小首をかし げて見せるのを、さえぎるように、 「あたしゃあね、こんなお多福だから、吉原のおいらん衆の ように、お客からしぼることも出来ねえしー」と、梢する どく、皮肉にいって、「と、いって、まさか、莫座をかゝえ て、柳原をうろつきもしねえのさ、たゾね、手先きが器用な ものだから、おのずと、この節お金が吸いついてならないと いうわけですよ、ほらねー」と、ふところから、|緋《あか》いふく さ包を取り出して、小判や、小粒をザラザラと膝にこぼして 見せて、「今夜だって、こんなに持っているわ」 -「じゃあ、てめえ、拘摸をー」と、声をとっぱらかした長 二郎が、やっと、低めて、「掬摸をはたらいているんだな?L 「びっくりなさることはねえよi」と、お初は、紅い唇で、 むしろ、あどけ無く笑って見せて、 「おめえの縄張りを荒し ているわけでもなしさ。鹿の女房に何とかいうから、あたし もいくらか働かなけりゃあ、釣り合いが取れ無いと悪いから ねI」さすが、長二郎ほどの男も、このときほどびっくり した目がおをしたことはなかった。 「あたしもこれで、思い 込むと、何をやらかすかわからない娘さ」お初は、おどすよ うにつゞけた。 「もし、おめえが、うわ気ッぽく捨てでもす ると、覚えておいでなさいよーどんなことになるかー」 「わかったよ」長二郎は、小娘の激情に威嚇されるはずむな かったが、それもこれも、自分の心をはなすまいとする気持 からだと思うと、いじらしくあわれに思った。彼は火焔玉屋 から、遠のいてしまった。長二郎、お初の恋は、そして、ま すます熱度を加えたものゝ、そうした生活に、破綻の来ない はずがない。間もなく、長二郎もお初も御用になって、男の 方は、首の座が飛ぶところを、侠気の点を酌量されて佐渡送 りーお初は、一年あまり、牢屋ぐらしをして、出て来たの だったが、それ以来、彼女は一生かえれぬところへ送られた 情人の渡世に転向して、やがて、押しも押されもせぬ女賊と なり、変幻の妙をきわめて、男の手下を養い、おれ、の、て めえ、の、というような、荒っぽい調子で、鬼をあざむく奴 等をこきつかっているわけだった。そのお初、素姓が素姓ゆ え、身が軽かった、手先きも鋭かった。であれば、三斎屋敷 への出入なぞは、塀が高かろうと、低かろうと、物のかずで はなかった。彼女は、だんく、|灯光《あかわ》に遠い、横手の方へ、 塀についてまわって行った。 J       一三  軽業のお初は、三斎屋敷裏塀まで来ると、ちょいと前後 を、闇を透して見まわしたが、まるで操りの糸に引かれた人 形のようにふうわりと塀上に飛び上がったが、その上で、小 手をかざして、ちょいと|忠信《たぐのぶ》のような恰好をした。  ーへん、どんなもんだね? こんなけちな屋敷!  さっき、あのずんぐりが、土部一家の権柄に圧されたよう なことをいったのが、今も癩にさわっているのであろう。さ て、それから、彼女は、ひらりと、|地下《した》へ下りた。別に、|小 棲《こバ ま》をからげるでもなく、そのまゝ奥庭のくらがりの、植込み の蔭につとより添って、|母家《おもや》の方をじっとみつめる。お初は 別に、闇太郎のように、この|館《やかた》の研究がつんでいるわけはな い。たゞ、何かしら、人も知ったるこの屋敷から、目の玉を でんぐりがえさせるような一品を盗み出し、仲間のものに、 ひけらかしてやれば、それでいゝのだi  iまあだ起きてやあがるーうち中が起きてやあがる。 いつまでぺちゃくちゃやっているんだね。人の眠る頃にゃ あ、やっぱし横になる方が、お身のためなんだよ。例の|黒犬《くろ》 は、今夜は、この犬の方が、家人たちのかわりに、まどろん でしまっていると見えて、クンクンと、鼻を鳴らして寄って は来なかった。  1三斎屋敷というから、どんなに用心がきびしいかと思 ったら、これはまた、どこもかしこもあけっぱなしだ。くそ、 おもしろくもねえ。世の中に、泥棒がいねえわけじゃあない んだよ。人を馬鹿にしてやがら!  お初は木蔭をはなれると、離れのようになっている別棟に 近づいて行った。その一棟の横手に、ずっと立ち並んで、文 庫ぐらがある。二戸前、二戸前、三戸前!、彼女は、蔵は 望まないー土蔵までを切ろうとは思わないーその、三斎 とやらの寝間にしのび込んで、枕元から盗み出してやりたい のだ。  ーその|木菟入《ずくにゆう》の寝部屋というのは、一たい、どの見当な んだろう?  離れと、母家をつなぐ渡り廊下の近所まで来ると、そのと き、ふッと、何か物音がした。ハッとして、立ち止まって、 身を硬くする。じっと、|暗闇《やみ》に棒立ちになれば、大ていは物 にまぎれて判らなくなるのが|恒《つね》だ。お初は、じっと突ッ立っ たが、もう遅かったのかも知れないー 「どなた?そこなお方、どなた!」離れの、手水場の、小 窓から、白い顔がのぞいて、そうしたやさしい声が掛ったの だ。お初は、その声が、あまりに優しくほのかだったので、 覚えず、 「あたくしー」と、かすかに返事をした。答えぬところ で、向うはもう、ハッキリ、こっちの存在を、見て取ってし まっているに相違なかった。 「どなたさま?」追い打ちに来た。どことなく、凛とした、 許さぬ調子が、ふくまれていた。お初は、はじめて、ぎょっ とした。その声と一緒に、戸が開いて、白い顔の持ち主が、 闇に下り立とうとしているのだ。  1まあ、あいつ、あんな声で、男だ。  お初は、帯のあいだに手を入れて、ヒ首の柄にさわった。 Z       禁四  iあいつ、あの白い顔の奴、男だ!  と、咄嵯に悟って、ヒ首に手を掛けてお初、  iなあに、男だって、化け物だって、怖いものか!  近づいて、切ッ払って、|亡《ふ》ける覚悟をしーいたずらに騒 いでは、却て、此の場合、逃げ場を失うのは、知れ切ってい る。庭下駄を突っかけた、不思議なしとやかさを持った人物 はしずかに近づいて来て、 「そこなお人、御当家のお方か」寄って来るのを寄らせて置 いて、 「ちくしょう! 出鼻を挫きゃあがったな」低く、刺すよう に叫んでお初、キラリと抜き放ったヒ首をかざして、ぐっ と、突いて行ったが、相手は、ほんの少し身をかわしただけ だ。 「おや、では、泥棒だねーしかも、女子i」引ッぱずさ れて、よろめく足をふみこたえて、ビュッ、ビュッと、切っ てかゝるのを、すっと隙につけ入って、利き腕を逆に取った、 白い顔、匂いの美い女装の男性。 「騒ぐと人が来ますぞ。わしは、当家に恩のあるものでもな いi見のがすほどに去ぬがいゝ1ー」裏庭の暗がりを、肉 体のしなやかさにくらべて、驚くべき|胃力《いリト  リよく》を持った不思議な 人間は、ぐいぐいと、お初を塀の方へ曳いてゆく。 「なら、人の仕事の、邪魔をせずともいゝだろうにーこん ちくしょう!」お初はもがいている。 「もっともじゃ、じゃが、わしとても、この家から、泥棒を 追いはらったとなると、鼻が高いゆえーほ、ほ、ほ」女装 の男は、妙な笑いを笑った。 「一てえ、おめえは何だ? 女見てえななりをしやがってi l」  塀際に近く、お初が坤く。 「わしが何だと不思議がるより、こちらが倍もおどろいた わ。江戸には、大した女泥棒がいるものじゃなーさすが、 お膝下だi」そして、ふッと、相手が、びっくりしたよう こー 「おやッ、おまえは、江戸下りのi中村座の!」と、叫ぶ ように、何で気がついたかそう言うのを、おッかぶせて、 「そのようなこと、どうでもよい。早う逃げなされ! わし が、今、騒ぎ出しますぞ!」  塀の方に、突っぱなすようにした白面女装ー裂くような 声で、 「泥棒でござります! 盗賊でござります!」バタバタと、 庭下駄の音をひゞかせて、高く叫び出した。そのときには、 もう、軽わざお初、ひらりと塀を越えて、影のように、どこ となく消えている。 「泥棒でござります! 早う、お出合い 下さい!」ガタガタと、家中の戸が開く音がして、六尺棒や、 木刀を押ッ取った若党、中間がかけ出して来る。 「おゝ、雪之丞どのか! して、泥棒は!」 「太夫、盗賊めは?」  口々に、提燈で、雪之丞の艶姿を振り照らしながら呼びか けた。       一五  雪之丞は、いかにも申しわけ無げに、若党たちに挨拶する のだった。 「お|手《し》洗|場《む》のお窓から、ふと眺めますと、黒い影が見えまし たので、みなさまに、先きにお知らせせずに、飛び出しまし たものゆえ、むこうも狽てゝ、逃げ去りました。差し出たわ ざをいたして、折角捕えることが出来たものを、取りにがし 申しわけござりませぬ」 「いやく、見つけ下さらねば、害をうけたかも知れなんだ i捕えると捕えぬとは二の次」と、いつか、これも押ッ取 り刀で、飛び出して来ていた用人が、いって、 「して、賊の 風体は?」 「黒いいでたちをしておりましたが、とっさに逃亡いたしま したゆえ、ハッキリとは見分けられませずー何でも、お|庫《くら》 を狙っていたように見うけました」雪之丞は、かの女賊に、 不思議な好奇心と、興味とを感じていたので、彼女に出来る だけ有利なようにいって置こうとするのだったiiつゾまる ところ、三斎一味に敵意を抱く人々は、みんな自分の味方で あるーと、いうような観念を捨てることが出来なかったの であろう。 「それに致しても、そのやさしい姿で、心の|猛《た》けだけしさ は、われくも三舎を避けるのう」と、用人は、讃めて、 「お負傷がなかったのは、何よりー」塀外をあらために出 た、若侍たちも、空しく帰って来た。 「怪しい影も見当りませぬ。たった一人、町女房らしいもの が、歩いておりましただけー1その女性が、つい今し方、風 のように、追い抜いて駆け去ったものがあると申しましたれ ば、大方、そやつがー」 「土部屋敷と知って押し入る奴、大胆不敵だのうIIが、事 が未然に防げたのは、太夫のお骨折だ。明夜から、警戒を、 十二分にせねばならぬ」用人は、首を振りく、そんなこと をいっていた。雪之丞が、元の離れに帰ると、顔いろ峯.失く して、懸念にわなゝきながら浪路がむかえた。 「まあ、そなたは、向う見ずな!泥棒などに近づいて、も し、負傷などなされたら、わたしがどのように心を痛めるか ー」 「いえく、たゞ、言葉をかけてやりますと、バラバラと逃 げ去ってしまいました。泥棒などと申すものは、みな、気持 に|後《おく》れがござりますゆえ、案じたものではありませぬ」 「でも、これからは、決して、そのような危い場所に、お近 づきなされてはなりませぬぞ。そなたのからだは、そなた一 人のものではない程にー」浪路は、もう強くく決心して いるのだった-柳営大奥へは、二度と足ぶみをしないとま で思いつめてしまったのだった。  1わたしは、もう、出来るだけ、父上、兄上の便利にな った。この上は、わたし自身のために生きねばならぬ。自分 の恋の真実に生きねばならぬ。だれが何とゆうても、わたし はわたしの道を行く1恋しい人を、はげしくく抱きしめ てー  だが、憎や、そこへ、老女があらわれた。 「太夫、おかえり前に、御隠居さまが、お礼を申したいゆ え、 お居間にとのことでござります」       一六  折角、|羽翼《はね》美しい|小禽《ことり》を、わが手先きまで引き寄せなが ら、き伊っと捉まえる事が出来ずに、また飛び立たしてしま うような、どこまでも残り惜しく恨めしいのが、わが居間か ら、このまゝ雪之丞を去らせてしまわねばならぬ浪路の胸中 であったろうーi老女が、三つ指を突いているので、存分に 別れることばさえ掛けられず、 「では、また折もあったら、見舞ってたも」と、いうのが、 関の山。雪之丞は、恋する女の激しい、強い視線に、沁み入 るような瞳を返して、 「必ずともに、明日にもまた、お目通りいたしまする」二人 の今夜の逢瀬は、それで絶えて、それからの雪之丞は、心の 中で、この世の鬼畜の頭目と呪う三斎から、聴きたくもない ほめ言葉を受けにゆく外はないのであった。こちらは、軽業 のお初、松枝町角屋敷の塀を刎ね越して出ると、そのまゝ、 程遠からぬわが佗住居i表は、磨き格子の入ロもなまめか しく、さもおかこい者じみてひっそりと、住みよげな家なの だが、ここに戻って来ると、 「|婆《ぽあ》や、何か見つくろって、一本おつけよ」と、いくらか、 突ッけんどんにいゝ捨てゝ、 「.おや、姐さん、もうお帰り」と、けゾんそうに、這い出し f、来た、例の、ずんぐり者の、むく犬の吉に、 「余計なこと! 勝手なところをぞめいておいでー」と、 紙にひねったのを投げてやって、茶の間にはいって、ぴたり と、襖を閉ざしてしまった。むく犬の吉、ペロリと舌を出し て、  1だから、いわねえこっちゃあねえ1松枝町の角屋 敷、なかノ\七面倒な場所なんだ。出来ごころで、のぞいた って、そう易々、向うさまが出迎えちゃあくれねえのだ。姐 御も女は女、とかく、痛癩で、気短で、やべえものさ。で も、引っかえして来てくれてよかった。  いろ気が薄くっていゝというので、たった一人、側に置か れているむく犬、駄犬ほどには主人おもいだ。  1ーどれ、じゃあ、ひとつ、あいつのつらでも見てくるか な。  裏口から、草履を突っかけて出ようとすると、婆やが、 「吉ッつあん、あしたは、お湯にはいって、浄めてから帰っ ておくれよ、ほ、ほ、ほ」気の利いた大年増だが、毒口は、 生れつきだ。その婆やが、小鍋立ての支度をしている頃、女 あるじは、朱羅宇の長ぎせるを、白い指にはさんで、煙を行 燈の灯に吹きつけるようにしながら、しきりに考え込んでい る。  不思議なばけ物だねえ? あの女がたーひとの利きうで をーヒ首をつかんだ利きうでを、怖がりもせず掴みゃあが ったが、その力の強さ。おいらあ、思わず声が出そうだっ た。ほんとうに、何てにくらしい奴だったろう?  と、咳やいて、また考え込んで、  1それにしても、妙だねえ、おいらをとっつかまえるの でもなく、わざく逃がしてくれたのはどういうものだ? あの力だ。おいらなんぞは、赤んぼのように、どうにも出来 たろうにー- 壁に耳あり 一  軽業のお初、婆やが、小鍋立てをして、酌をしながら、何 かと世間ばなしをしかけようとするのを、今夜にかぎって、 邪魔な顔1 「うん、そいつが聴きものだねえー面白いはなしだ。だ が、またあとで聴こうよ。あたしはちっとばかし考えたいこ とがあるんだからー」婆やを追いやって、年酌で、ちびち びやりながら、  iおいらほどの泥棒を、とッつかまえたなら、御贔慣す じの三斎から、どんなにか讃められるばかりではなく、それ こそ、江戸中が、わあッと沸いて、人気はいやが上にも立つ だろうのは、目に見えたはなし、それを知らねえような、雪 之丞でもあるまいが、何として又、追い出すようにして、お いらを逃がしてくれたのか? 何にしても、妙な奴だなあ。  そう心に咳きながら、|猪口《キつよく》をはこぷ、彼女の仇ッぽい瞳 に、ほんのりと浮んで来たのは、夜目にも、白く咲いた花の ような、かの女がたの艶顔だった。  iだが、あの生れ損い、何という縞麗さなんだろうね え、あんまり世間の評判が高いから中村座をのぞいたときに も、思い切って舞台すがたの美しい役者だとは思ったが、素 顔が、又百倍増しなのだもの、三都の女子供が、血道を上げ るのも無理はねえ-li  と、讃めて置いて、又、おこりっぼく、  ーおいらあ、しかし、今夜のことは忘れはしねえぜ。逃 がす、逃がさぬは別として、とにかく、お初姐御の仕事は、 てめえが立派に邪魔をしやがったのだ。てめえがよけいなこ とさえやらなけりゃあ、三斎の奴の枕元から、せめて葵の紋 のっいた印籠の一つも盗み出して、仲間の奴等に威張ってや れたのにーほんとうに、憎らしい奴ッたらありゃあしな い。ようし、どうするか、覚えてやあがれー三斎から盗む かわりに、てめえの部屋から、一ばん大切な物を取ってやら ずには置かねえからー  盗みが渡世になってしまっているお初、雪之丞に、不思議 な好奇心を懐くと同時に、妙な発願を立てゝしまった。  ー一てえ、あいつの宿はどこなんだろう? あしたは、 芝居町の方へ出かけて行ってくわしく訊してやらざあならね え。  パンパンと手を打って、婆やに、 「お銚子のお代りだよ」と、いったが、それが来ると、 「ね え、婆や、おまえも立派な江戸ッ子だが、今度はちっとばか し口惜しいわけだね?」 「何がで、ございます。御新造さん」 「何がってtー中村座の大阪役者に、すっかり持っていかれ てしまったじゃあないかね? 折角の顔見世月をさ、江戸の 役者が、一たい、どうしているのかねえ?」 「それがやっぱし、珍しもの好きの江戸ッ子だからでござい ましょうねえ-聴けば、雪之丞とかいうのが、あんまり大 評判、上々吉の舞台なので、来月も、つゾけて演たせるとか 言っているとか申しますがーー」 「もちつき芝居まで引き止めるのかえ」 「はい、忠臣蔵で、力弥とおかるの二役で、大向うをうなら せたらーと、いう話があるそうでーお湯屋なんぞでは大 した噂でございますよ」この婆や、こんな話になると、じき に乗り出して来る方なのだ。お初はしきりに考えこみはじめ るのだった。 二  軽業のお初、その晩は、婆やと、中村座の噂ばなしなぞで |更《ふ》かして寝についたが、翌朝、目がさめる早々、何となく後 味が残っていて、どうもこのまゝでは済まされぬ気がしてな らぬ。  iあのばけ物は、おいらが、江戸で名代の女白浪だと、 まさか気がついてはいなかったろうが、瞥六風情に、邪魔立 てをされて、このまゝ引ッ込んでいたんじゃあ、辛抱がなら ぬ。どうなっても、あいつの宿に逆寄せをして、目に物見せ てやらなけりゃあならない。  朝風呂にはいって、あっさりと隠し化粧をすると、軽く朝 げをすまして、例の町女房にしては、ψし小意気だというみ なり、お高祖頭巾に、顔をかくして、出かけてゆく先きは山 ノ宿の方角だ。芝居町で、出方にいくらかつかませれば、役 者たちについての、表立ったことはじきに何でも判って来 る。菊之丞、雪之丞の、切っても切れぬ親子のような師弟が、 一緒に棲んでいる宿屋の名を聴きだし、ちゃあんと、日のあ る中に、所もつき止めると、夜更けまで用のないからだ。  ーあいつの舞台を、もう一度みてやろうか知ら!  と、つぷやいたが、ちょいと癩にさわる気がして、中村座 のつい前の、結城座で、あやつりを見たが、演しものが、何 と「女熊阪血潮の紅葉」ー  i畜生め、昔の女熊阪は、死に際に、恋人の手にかゝっ て、女々しく泣いて俄悔をしたかも知れねえが、このお初 は、そんな性とは丸っきり違うんだ、おいらあ→三尺高い木 の上から、笑って世の中を見返すだけの度胸はちゃんと持ち 合せているんだぜ。人をつけ、馬鹿々々しい。  あやつりを出て、どこをどうさまよって、時を消したか、 すんなりとしたお高祖頭巾の姿が、影のように、まぼろしの ように、山ノ宿の、宿屋町にあらわれたのは真夜中すぎー 芝居者相手の|雑用宿《ギしつよ りぬしドこ》のいじけた店が、二三軒並んでいるの を、素通りして、意気で、晶のいゝ「花村」というはたご屋 の前に、ほんのしばし、立ち止って行燈を眺め、二階を見上 げたお初、ニッと、目で笑った。  ーふうむ、もうかえっていやがるな。待っておいでよ。 おめえの枕上に、ついじきに立ってやるから、1  こうした家の、裏口を、あけ閉てすることなんぞは、お初 に取っては、苦でもない。まるで風が隙を潜るようなもの だ。何分、朝の夙い役者を泊めている家、すっかり寝しずま っていることゆえ、裏梯子を、かまわず上り下りしたところ で、見とがめる目も耳もあるはずがなかった。  iあいつ等あ、表二階を打っとおして借りているっては なしだっけ。 θ  と、お初は、裏梯子の、上がりつめたところで立ち止まっ たが、ふと、その表二階の、すっかり灯の消えた部屋々々 の、一番奥の一間に、かすかにあかりが差しているのを認め た。  1おや、あすこだな、起きているな。そういえば、何だ か、もそく、話しごえがしていやがる。厄介なー  お初は、すうっと、薄暗い廊下を、通り魔のように抜け て、その部屋の前まで行って、立ち止まった。話しごえは、 男二人だ。稽ヒ鐵枯れた年輩ものゝ声と、もう一つは、たし かに聴き覚えのある、あの雪之丞の|和《やわ》らかく美しい声が、ひ そひそと囁き合っているのだった。       三  水いろちり|緬《めん》のお高祖頭巾をかぷったまゝの、軽業お初 が、廊下の薄暗さを幸いにして、そッと、障子越しに片膝を つくように、耳をすましているとも知らず、夜更けの宿の灯 の下に、ひッそりと、昼間は語れぬ秘事を囁やき合う、雪之 丞とその師匠だ。 「いかにもそなたが、そこまで腰をおとしてしずかに事を運 ぼう気になったのは何よりだ」と、これは、菊之丞の、梢錆 びた声で、 「何分にも、かたきの数は多いのだし、すべてが この世にはゾかる程の、それ《、の向きの大物たち、首を並 べて取れるわけがないー1ゆるくと、人目に立たず、一人 一人亡ぼしてやるのが一ばんじゃ、しかし、わずかの間に、 それだけ事を運ばせたは、さすが、そなただの」雪之丞、師 匠の前で、だんノ\に着.手し進行せしめている、復讐方略の 説明をしているものらしい。が、お初に取っては、今夜、こ の役者の宿で、こんな密話を聴こうとは全然予期していない ことだ、思いもかけぬ物語だ。  -ー何だねえ? かたきの、首のと!  と、彼女は呆気にとられながら、  ーこの次の狂言の、筋のはなしでもあるのかしら? い いえ、それとは思われないーでも、あの、雪之丞がかたき 持ち? あろうことかしら?  妙に胸が、どきついて来るのを押えて、耳をすますと、中 では、当の女がたがi 「わたしにいたせば、思い切って、一日も早く、片っぱしか らいのちも取ってつかわしたいのでござりますがー父親 の、あの長い苦しみ、悶えを考えますと、さんざこの世の苦 しみをあたえたあとでのうては、 一思いに刃を当てたなら、 かえって相手に慈悲を加えてやるような気がされますので ーでも、お師匠さま、三斎の娘ずれと、言葉をかわし、へ つらいを口にするときの、心ぐるしさ、お察しなされて下さ りませ」この人にだけしか、口に出来ぬ愚痴をも、今夜だけ はいえるよろこびに、雪之丞の言葉は涙ぐましい。 「じゃが、心弱うては!」と、師匠が、「悪魔にも、鬼にも ならねばーこの世の望みは、いかにたやすいことも成らぬ のが恒じゃ」 「は、わたしとても、その積りでござりますれどーー」お初 の、まるで無地のこゝろにも、いくらか、事の真相がわかっ て来るような気がされた。  ーやっぱし、人は見かけに寄らぬものーあの雪之丞、 ▼ヱ では、一方ならぬ大望をいだいている男だと見えるーーそれ でこそ、あの腕の強さ、気合のはげしさ!  彼女は、昨夜、咄嵯、さそくの一瞬の、雪之丞の働きに、 今更、思い当るのだった。  -1そして、しかも、その相手の一人が、土部三斎のじゝ いだとすると、こいつあよっぽど舞台の芝居よりも面白い。 ことによったら、このお初も、一役、買ってやってもいゝが ーーそれにしても、あの優しい、なまめかしい女がたの身 で、随分思い切ったことを考えるものIi  お初は、かぼそい、白い手で、巌石を叩き砕こうとしてい るのを眺めてでもいるような気がして来て、自分のからだが 痛くなるのだった。彼女は、雪之丞に、ある同情を、今やは うきりと抱きはじめたのだ。 四  軽業のお初と、世に聴えたほどの女泥棒、師弟二人の秘話 を、思わず耳にして、さすがに枕さがしもしかねて、そのま ま煙のように役者宿を出てしまったが、このまゝ、これほど の他人の大事、歯の中におさめたまゝ辛抱していれば、見上 げたもの、さすがはいゝ悪党と、讃められもしたろうに、お 初とても、凡婦-凡婦も凡婦、いかなる世上の女よりも、 慾望も感情も激烈な、おのれを抑えることの出来ぬ性分だっ `た。  ii役者の身でIIあんななまめかしい女がたの身で、聴 けば、江戸名うての、武家町人を相手に、一身一命を賭けて 敵討をもくろんでいるとは、何という殊勝なことであろう。 そしてあの、おいらを捕まえたときの、騒がずあわてぬとり なし、役者を止めさせて、泥棒にしても押しも押されもされ ぬ入間だ。  と、そんな風に、すっかり感心してしまったのが、運のつ きとでも言おうか、その晩以来、寝ても醒めても、どうして も忘れられないのが、雪之丞の|艶《あで》すがたとなってしまった。  1ほんとうに、どうしたらいゝのかねえーおいらあ、 生れてから、こんな気持にされたことははじめてだがi--ま さか、このおいらが、あんな者に恋いわずらいをしているの だとは思われないけれどi  相変らず、長火鉢の前、婆やに、燗をつけさせて、猪口を 口にしながら、疽性らしく、じれった巻きを、かんざしで、 ぐいく掻きなぞして、  iだけれど、そういうものゝおいらだって、まだ若いん だ。ときさ、、男が恋しくなったって、お釈迦さまだって叱 りゃしめえよ。なんなら、ひとつ、ぷッつかって見るか? くよく、物案じをしているのは、娘ッ子のしわざだ。軽業 のお初さんが、恋の病1か、ふ、世間さまが、さぞお笑い だろう。  そこは、年増だ、欄熟のお初だー-じりくと、妄念とい う妄念を、胸の奥で、沸き立てゝ見たあとは、そのほとばし りで、相手のからだをも、焼き焦がして見ずにはいられなく なる。  ーそれに、いかに方便だってあの晩の話で見りゃあ、三 斎屋敷のわがまゝむすめ、大奥のこってり|化粧《づくり》にも、何かた らし込みをしている容子1あれほどの男を、しいたけ|髭《たぽ》な フ】 ー ノ んぞだけに、せしめさせて置くってわけはねえよ。おいら あ、もう、遠慮はいやになった。  根が小屋ものゝお初、こう思い立つと、火の玉のようにな って|目的《まと》をさして飛びかゝってゆく外にない気がするのだ。  iそうだとも、愚図々々しているうちにゃあ、いつかこ の|髪《あたま》だって、白くなってしまわあねーそれどころかー  と、さすがに淋しく、  -いつまで、胴についている首だかわかりゃあしない よ。  彼女は、だんく|木枯《こがらし》じみて来る夜の、風の音を聴き分け るにつけ、現世の望みを、一ぱいに、波々と果してしまいた い気持に、身うちを焼かれて来るのだった。  1おいらあ、あの太夫を口説いてやろう。江戸のおんな が、どんなに生一本な気持をもっているか知らせてやろうー ーなあに、あいつが、肯かねえというなら、そのときは、あ いつの敵の味方になって、さんざ泣かせてやるだけだ。  お初はあらぬ決心をかためて、茶碗に酒をドクドクと注い で、紅い唇でぐうっと引っかけるのだった。 五  ひたむきな、突き詰めた恋ごころが、女ぬす人の魂を荒々 しく蝿き乱した。お初の情熱は、いわば、将を刎ね越えた|奔 馬《ほんぼ》のようなものであった。軽業おんなのむかしの、向う見ず で、無鉄砲で、止め度のないような、物狂おしい狂奮性が力 iッと、身うちによみがえって来たのだ。小屋もの、女芸人 とあざけられて、人並の恋さえゆるされなかった世界に、少 女時代をすごした彼女は、むしろ反抗的な、争闘的なものを ふくんでいない愛情なら、決して欲しくないような気さえす るのだった。  ーあの女がたのまわりに、何百人の女がまつわっていた って、それが何だ? どんな家柄や金持の娘たちが、わがも の顔にへばりついていたって、それが何だ? おいらだっ て、生っ粋の江戸ッ子なんだし、どんな男の奴も、一目見れ ば、ぼうッとなってしまうだけの色香もまだ残っているんだ よ。ようし、三斎のむすめとだって、立派に張り合って見せ ようじゃないか。そう思い立って、愚図々々していられるお 初ではない。 「婆や!」と、叫びながら、手をパンパン鳴らして、「婆や、 お|湯《ぷう》の支度をしておくれよ。急ぐんだよー大いそぎ」 「お出掛け?」と、台どころから言うと、 「うん、出かけるのさ。ちょいとめかして出かけたいのだ よ」小さいながら、|檜《き》の香の高い、小判型の風呂が、熱くな るのを待ちかねて、乱れかごに、パアッと着物をぬぎすてる と、大ッぴらに、しんなりとしていて、そして、どこにか、 年増だけしか持たないような、脂ッ濃さを見せた全裸に、ざ あざあと、湯を浴びせはじめるのだった。胸も、下腹部も、 股も、突然かけられた熱い湯の刺戟で、世にも美しいもゝい ろに変わる。  ーおいらだって、|文身《いれずみ》ひとつからだにきずをつけずに、 今まで暮して来たのだー長さんの名前だって、二の腕に刺 れやあしなかったーだけど、ねえ、太夫、おめえの名な ら、このからだ中に一めんに彫ったっていゝと思っているの さ。  ふっくらした腕を、左右、そろえて、見比べるようにしな がら、こんなことを、彼女はつぶやくのだった。いつもの、 薄化粧を、今日は、めっきり濃くして、旺檸に髪を掻いたお 初、大好きな西陣ちりめんの乱立じまの小袖に、いくらか堅 気すぎる厚板の帯、|珊瑚《さんご》も、ベッ甲も、取って置きのをかざ って、いゝ時刻を見はからって黒門町の|寓《やど》を出る。芝居町の まがきという茶屋の前まで来て、かごを捨てると、奥まった 一間に通って、糸目をつけぬ茶代や、心づけを、はずんだ が、 「ちょいと、たよりをしたいところがあるから|硯《すぐり》ばこをー !」女中が、持って来た、紙筆を取り上げて、小椅麗な、筆 のあとでお初は書いた。   折り入ってお話しいたしたきことこれあり候まゝ、ちょ   いと、お顔拝借いたしたく、むかし馴染おわすれなされ   まじく候。お高祖頭巾より。  この手紙はすぐに中村座楽屋に届けられた。 六  お初が、そんな境涯に育ったにも似合わず、器用な生れつ きで、さして金釘という風でもなく、書き流した手紙が、中 村座の楽屋に届けられたとき、雪之丞は、それを読み下し て、ジッと考えたが、思い当ることがあるように、目にきら めきを湛えた。使の女中に、 「このお女中、背のすらりとした、物言いのきびくしたお 人でありましょうね?」 「ええ、さよでございます。よく気のおつきになるような、 下町の御新造さんというような方ですが、手前どもへは、は じめてのおいでゝ、くわしくは存じません」 「お目にかゝり度いが、何分、今晩は、先きにお約束したと ころがありますゆえ、またいゝ折にお招きにあずかりたい と、そう、町檸に申し上げて置いて、下さるようにー」茶屋 の女中は、たんまり心付けを貰っている事ではあるが、雪之 丞ほどの流行児を、そう気まゝに扱うことが出来ないのは承 知ゆえ、 「さぞ、残念にお思いなさると存じますが、よんどころござ いませんからー」その返事を持ってゆくと、お高祖頭巾の 女と名乗ったお初は、別に失望したようでもなく、さもあろ うというように、うなずいて聴いて、 「大方、そんなことを言うであろうと思うていたがーお気 の毒だけれど、もう一度、手紙を届けては下さるまいかi l」そして、新しく、結び文をこしらえた。その文面は、   壁にも耳のあることにてござそろ、密事は、おん宿元に   ても、かるく\しく申されぬがよろしく候、くわしくお   物語いたしたけれど、おいそがしき由ゆえ、今宵は御遠   慮申し上げまいらせ候、かしく  茶屋の女は言われるまゝに、又も雪之丞の楽屋をおとずれ ねばならなかった。もうすっかり滝夜叉の出の支度をしてい た雪之丞は、結び文を解いて一瞥したが、この刹那彼の顔い ろは、濃い舞台化粧の奥で、サーッと変ったように思われ た。 「このお女中、この手紙を置いて帰られたか?」と、彼は、 いくらか震える唇でたずねるのだった。 「いゝえ、まだー多分、お返事を、おまち兼ねと思います カー《ヰコ》|」 「では、はねたら、すぐに伺うゆえ、しばしおまちをー と、そう申して置いて下され」出場だった。稀世の女がた は、楽屋を出て行った。お初は、女中から、二度目の手紙 が、十分に奏功したということを聴くと、ニンヤリと、染め ない歯をあらわして笑った。 「まあ1現金な」そして、女中に、あらためて骨折を包ん でやった。「太夫が来たなら、お酒の支度をして下ざいよ」 女中が去ってしまうと、お初は、ジーッと、瞳を見据えるよ うにした。  ーあの人は来るそうな、来ずにはいられぬわけさ。で も、怖は面で口説くのはいやだねえ!おいらの気持をじき に判ってくれて、たった一度でも、やさしい言葉をかけてく れゝばいゝけれどiーとのおいらは、敵にまわると、どんな ことをするかわからないからー 七  芝居茶屋の奥ざしき、女客と役者の出逢いのために出来た ような小間には、手を鳴らしてもなかなか女中さえはいって は来ないような工合になっていた。その、しいんとした、静 かな部屋に、珍しく襟に顎を差し込んで、うなだれ勝ちな、 殊勝なすがたをしているお初、やがて、小屋の方で大喜利の 鳴物、しゃぎりの響きが妙な淋しいようなにぎわしさで聴え ると、|唆《ヰトヤ》られたように顔を上げた。  ーーおや、もう、|閉場《はね》るようだが1  聾にさわって見たり、襟元を気にして見たりしているうち に、間もなく、廊下がかすかに鳴って、女中の案内で現れて 来たのが、朱いろの襟をのぞかせた黒小袖に|金椴子《きんどんす》の帯、短 い小紋の羽織i舞台化粧を落したばかりの雪之丞だ。 「ようこ二、iさぞいそがしいからだでしょうにー」お初 はいくらか上ずったような調子で迎える。 「長うはお目にかゝれませぬが、折角のお招きゆえー」女 中は、ほんの形ばかりの酒肴を並べると、去ってしまった。 雪之丞がまるで容子を変えて膝に手を、屹ッとお初を見上げ たが、 「いつぞやは、思わぬところで逢いましたな?」 「おかげさんで、あの折はー」と、微笑したお初、もう、 心の惑乱を征服した体で、猪口を取ると、「太夫さん、まあ、 おひとついかゾi」 「いや、ほしゅうござりませぬ」雪之丞は見向きもせず、 「二、れよりも、今宵、話があるとて、わざくのお呼びーー その話というのを、伺いたいもの」 「まあ、三斎屋敷のお|局《つぼね》さまとは、深更の|酒《さも》ごともなさるく せに、あたし風情とは杯もうけられないとおっしゃるのー ほ、ほ、ほ」お初は、冷たく笑って、手酌で、自分の杯に注 ぐと、うまそうに一口すゝって、「やっぱし、お前さんも芸 人根性がしみ込んでいるのかねえliそれ程の大事を控えた 身でもー」雪之丞の、美しい瞳に、冷たい、刺すようなき らめきが走った。彼はあの二度目の|手紙《ふみ》を受けてから、何か しら決心しているに相違ないー壁に耳ー1若し、大事を真 実この女白浪に気取られているとしたら、生かしては置けな いのだ。 「わたしとそなたとはあの夜だけ、ほんのかりそめに出逢う た伸、それなのに、なぜまた立ち入ったことを言われるの じゃ」 「ほ、ほ、袖擦り合うただけのえにしでも、一生の生き死に を、一緒にせねばならぬこともありまさあね!わたしが、 お前さんが、どんな大望を持っているか、それを知って、か ずならぬ身でも、力を添えようといったとて、何の不思議も ありますまい。わたしは、ねえ、太夫お前を敵にまわし度く はないのですよ」お初の目付には、相手の胸の底に食い入ろ うとするような、荒々しいものが濃ぎった。雪之丞は、その 瞬間、ハッと、何ものかを感得した。  -この人は、わしに何か望みをかけている。世の中の、 多くの女子のように1  彼は一種の恐怖と嫌悪とを感じた。そしてその女が、しか も、自分の大秘密をかなりくわしく知ってしまっているらし いのだ。 八  しかし、雪之丞に取っては、一生の大秘事を、感付いてい るらしい、この女白浪のお初が、自分に対して、毒々しい恋 慕の情を抱いているのがまだしもな気がした。事を仕遂げる まで、何とか綾なして置くことが出来るとすれば、手荒くふ るまわずとも済むであろう1女一人の、いのちを断たずと へ済むであろう。けれども、お初は、恋にかけても、|強《した》たか なつわものだ。すこしも緩めを見せようとはしない。ぐっと 飲んだ杯を、突きつけるように差しつけて、 「ねえ、太夫、何もかも、不思議な縁と、きっぱり覚悟をし ておくんなさいよ。すこしはこれで、鬼にもなれば、仏に も、相手次第でどうにもなる女なのさーだけど、ねえ、い のちがけで想い込んだお前、決して、御迷惑になるようなこ とは、したかあないのですよ」雪之丞、苦い思いで、杯を干 して返して、 「思召しは、ほんとうにうれしゅうござります。もうじき今 月の狂言もおわりますゆえ、そうしたら、ゆっくりお目にか かりたいものー」 「何ですッて! 気の長い!」と、お初はジロリと、流し目 をぐれて、「あたしが、どんな世界に生きている身か、知ら ないお前でもあるまいにー」彼女は、別に、声も低めなか った。 「いつ何どき、見る目、嗅ぐ鼻、ごずめずの、しつッこい|縄《  ヤ 》 目が、この五体にまきつくかわからないからだなのですよl I明日のあさっての、まして、十日先きの二十日先きの、そ んなことを楽しみにしてはいられないのですi」じれった そうに、お初は唇を噛みしめて、ぐっと、からだを擦りつけ るようにするのだった。 「それは、よう知っているなれどーしかし、そんなに性急 にいわれてもー」雪之丞は、そこまでいって、女の了見 が、怖ろしいまでに据わっているのを見ると、いっそ正直 に、何もかもを打ち明けた方がー1と、思って、 「実は、そなたは、どう思うていられるか、この雪之丞、心 す栞 〜 願のすじがあって、女子に肌をふれぬ決心をかためている身 iそなたなら、この気持を、察して下さるだろうと思うの でござりますがー」 「ほ、ほ、ほ、ほ!」と、お初は突然、すさまじい声で笑っ た。 「ま1 本気そうな顔をしてーほかの人なら、その一刻の がれもいゝだろうが、このあたしにゃあ通らないよ。なぜと 言って、お前は三斎の娘御の、お局さまを、どん底までたら し込んでいるというではないか1見通しの、あたしの目 を、めくらにして貰いますまいi」ちょっと、指で、雪之 丞の口元を突くようにして、「まあ、こんな、可愛らしいロ 付をして、何という嘘ばっかりー」と、笑ったが、急に、 頬を|硬《こわ》ばらせて、「太夫、用心して口をおきゝなさいよー 相手が、ちっとばかし変っているのですからねーそして、 そういっては何だけれど、あたしの口ひとつで、お前の望み がけし飛ぶのはおろか、いのちさえあぶないのだ」 九  ーこの女、捨鉢に、どこまでも追い詰めて来る気じゃ な?  雪之丞は、浅ましいものに思って、ゾッと寒気さえ感じた が、お初の方では、相手の気持の|付度《そんたく》なぞは少しもしなかっ た。見れば見るほど美しいし、こちらの身分を知って、厭気 を露骨に見せているのを見ると、ねじくれた恋ごころが、却 ってパアッと煽り立てられて来る。 …,ねえ、太夫、あたしを、清姫にならせずに置いておくんな さいよーあたしは自分で自分をどうすることも出来ないよ うに、いつの間にか成ってしまっているのです。あたしは、 お前をちっとも苦しめたいことはないのですよ。たった一 度、可哀そうな女だと、抱き締めてくれさえしたらi」 「そなたは、わたしが、どんなに本気に申しても、わたしの 心の誓い、神ほとけにも誓ったことを信用が出来ないのだ」 雪之丞は、困じ果て\ 「わたしは何も、そなたがどんな渡 世をしているからとゆうて、それをいとうではさらくない なれど、今この場で、望みを叶えて上げることは、何として も日頃の高言に思い比べても出来にくい。そこを、よう聴き わけてくれたならー」 「いゝえ、いやじゃく」と、女賊は、髭がゆるみ、轡の毛 がほつれるほど激しく、かぷりを振って、ぎゅっと、雪之丞 の二の腕を、爪の立つほどつかむのだった。 「あたしは、思 い立ったら、ついその場で、火にも水にも飛び込んで来たか らだーことさらこゝまで思いつめ、こゝまで口に出した願 い、この場でなくては泳えられぬ。いやなら、いやで、あた しだとて、可愛さ、憎さーどんなことでもしてのけますぞ えー」事実、この女、自分を捨てる気になったら、こうし て一緒に地獄の底までも引き落してゆくだけの、怖ろしい決 心をつけかねぬ形相だ。雪之丞は、運命のいたずらに、呆れ 果てた。  -蝿一匹殺したくはないのだけれどーことに依ったら この女を、何とか始末せねばならぬか知れぬ。  雪之丞、毒蛇のように、火を吐かんばかりに、みつめて来 る、相手をチラリと見返して、 7, 〜  -t思い直してくれゝばいゝのに、何という執念ぶかさ! 「何をじっと見ていなさるのさ」お初は、手酌で、杯をふく みながら、 「あたしの顔が、蛇にでもなったの? 角でも生 えたの?」 「ではこういたそうかしら」と、雪之丞は、強いたやさしさ で、「折角の、そなたの心持、このまゝ、別れてしまうのも 何となく、わたしも淋しいーさりとて、この家では、どう いたそうとて、人目もある」 「ま!」と、お初は、急に、生きくと躍り立つような目顔 になって、「嬉しい!」 「大分更けたようだし、そろくこの家を出た方がー」 「で、これから、どこへ行くつもり」お初は、猪口を器用に 水を切って、 「外は寒いから一つおあがんなさいな」雪之丞 は、うけたが、呑まずに、膳に置いた。「待乳山とやらの下 に、しずかそうなうちがありましたが」       一〇  二人一緒に、芝居茶屋を出ることが、はゾかられるので、 山ノ宿、文珠堂の裏手で、まち合せる約束をして、まず、雪 之丞が座を立った。お初が、追ッかけるようにー 「いゝ加減なことをいって、待ちぼうけを食わせると、噛み つくからー」 「大丈夫、わたしとても男-二言はない」あとを見送って 「あいつのいったこと、ほんとうか知ら?」と、口に出して つぶやいた、お初、胸の中で、  Il一時のがれの嘘っぱちとも思われないが、さりとて、 おいらのこの思い詰めた気持を、あんなに急に聴き分けると も思われないー口説にかけて、たぶらかす気か、それとも ことによると、大事を知られて、生かして置けずというわけ かーふ、ふ、いずれにしろ、おいらも、飛んだ奴に、想い をかけてしまったものさ。  銚子に残っていた酒を、湯呑に注いで、煽りつけて、ふう と、熱い息を吐いたお初は、やがて、これも茶屋を出て行っ た。|屋外《モと》は、もう、いつか初冬らしい、木枯じみた、黒く冷 たい風が吹きとおしている。立ちつゾく、芝居小屋前の幟が ハタハタと、吹かれて鳴るのも、寒む六\しい。森閑とした 通りを、お初は、小刻みに、走るようにいそいだが、その中 に、めっきりあたりが淋しくなって、田圃や、杜つゾきとな る。この辺、芝居町が移って来たので、急ににぎやかになっ たが、ちょいと外れると、まだ田舎々々したものだ。山ノ宿 の文珠堂iもうじき、大川も近い、寂莫たるお堂で、小さ いが、こんもりした木立を背負っていた。そのお堂前に、黒 く、ぼつりと仔んでいた、これも、お高祖頭巾の人影1ま るで、女だが雪之丞に、まぎれもない。 「お待ち遠さん」と、さすがに、お初、女らしく、歩みちか づいた。 「いゝえ、土地なれないもんだから、迷って歩いて、やっ と、辿りついたばかりー」雪之丞は、お高祖頭巾の間から、 星のように美しい目で、お初を迎えた。 「さあ、では、待乳 山の方へ出かけましょうよーお話の家は、たしか小舟とか いう茶屋でしょうー」 「そうく、そういう家号でありました」と、雪之丞は、う / なずいたが、ふと、調子を変えて、 「ねえ、御寮人さん1 名さえまだうかゾわないが、こんなことになった以上、お互 に何もかも底を割った方がよいと思うゆえ、訊くことを、は っきり答えて貰いたいけれどー」 「何でも、訊いて貰った方が、あたしの方もいゝのですよ」  お初は、即座にいって、チラリと見返した。 「では、うかゞうが、あの文にあった、壁に耳のーわたし の大望のと、いうのは何を言うのでありますえ?」雪之丞は キリ・としたロ調で言った。お初の目が、これも、お高祖の 隙で笑った。 7ての言葉のまゝなのさ。壁に耳があることゆえ、うっかり 胸の中は、しゃべれないと言ったまでー」雪之丞は、お初 に寄り添うように近づいて、 「もう少し|濁《にご》さず言うて貰いたい」 一一  雪之丞、今は思い切って、ずっと、お初に寄り添うと、ぐ っと、和らかい二の腕を掴むようにした。 「ねえ、何もかも、ハッキリいって貰いたいのだがーー」お 初は、腕に、指をまわさせたまゝ、振りほどこうとはせず、 あべこべに、先れかゝるようにして、 「おや、また、腕立てかえ?」彼女は、三斎屋敷での、一条 を、思い出したに相違なかった。 「腕立てというわけではないけれど」と、雪之丞は、低い、 強い調子で、 「万一、このわたしに、そなたの言うとおりの 大望というものがあったとするーいゝ加減なことを小耳に はさんで、兎やこう噂を立てられたら、その迷惑はどんなだ と思います」 「だからさ、わからないお人だねえ」と、お初は、一そう、 男の胸に、全身を押しつけるようにして、 「あたしは何度も 言ってるだろう? あたしの気持さえ察してくれたら、たと えばお前が、人殺し、兇状持ちの人にしろ、決して歯から外 へ、出すことじゃあないと。そこは、それ、魚ごころあれ ば、水ごころと言うことがある」白く、匂わしい顔を、振り あおぐようにして、頬を、雪之丞の横がおに、擦りつけるよ うにするのだ。梅花のあぶらが、なつかしく香るのが、雪之 丞には却って胸苦しい。 「と、言って、それはあんまりな押しつけわざーそなた も、見れば、江戸切っての女伊達とも思われるのにー1」 「いゝえ、あたしゃあ、そんなにえらい女ではありません よ。きらわれものゝ女白浪、それもお前というお人を一度見 てからは、意馬心猿とやらが浅ましく乗り移った、さかりの ついた雌犬同然さーそれで、悪いかえ? 悪いといったっ て、今更、どうにもあとへは引けないんだからー」お初は、 ぐっぐっと、雪之丞にしがみつくようにして喋舌ろのだ。雪 之丞は、からだ中に、沸かし立てた、汚物をでも、べと/\、 となすりつけられるような、いいがたい悪感に、息もつけな い。  !何というおそろしい執着だろう? この女は、わしの 見かけに寄らぬ腕は、十分知っているだろうにiーいのちを 賭けて横恋慕をしているのじゃi-1さて、どうしたら? 「こゝまで来れば、二つに一つさ」と、お初は、炎のような / 息を吐いて、 「あたしの心を受けてくれるかーそれともあ たしを敵にまわすかー」 「もし、わたしが、そなたを突きのけたらー」 「さっきからいっているように、鐘の中に逃げ込んでも、蛇 体になって巻きついて、お前のからだを熔かしてやるよー あたしは、お前が、どんな人達を、敵としてつけ狙っている か、ちゃあんと知っているのだからね。上方のおんなに、ど んなにしッこしが無いか知れないが、江戸のおんなは、思い 立てば屹度やるのさ」雪之丞、淫らな雌狼にでもつけまわさ れているような怖れと、煩わしさとに、一生懸命おさえてい た、殺気が、ジーンと衝き上げて来た。 「これ、どうあっても、そなたはわたしを邪魔する気か!」  つかんでいた二の腕を、ぐっとねじり上げようとすると、 お初はパッとすりぬけて、 「おや、人を殺す気かえ!」       一二 「ホ、ホ、大方、こんなこともと思っていたんだ」お初は、 雪之丞から、パッと飛び退くと、右手を帯の間に突ッ込んで いた。 「だが、太夫、お前は兎角うで立てが好きらしいが、そんな 生れぞくないに、手込めにされるようじゃあ、このお江戸 で、人前でハッキリいえない商売は出来ないんだよ-ー1ちゃ んちゃらおかしいや1 人の生き口を|閉《ふさ》ごうなんてー」彼 女は、別に、とっかは逃げ出そうともしないのだ。黒門町のお 初ともいうものが、下り役者にうしろを見せるのは、一生の 恥辱とも思っているのであろう1雪之丞はジリジリと進ん で行った。もう彼は、今眼前へ毒口を吐いている人間を、女 子供と曝っていることが出来ないのだ。  iこの場を、生けて逃がしたら、この女、三斎屋敷へ、 このまゝ、駆け込むに相違ない1許せぬ。  ぐうっと、迫ってゆくと、闇の中で、お初の目が凄じく光 って、 「こんちくしょう! 殺してやるから! そんなに寄って来 るとー」お初、もとより、雪之丞の、真の|手腕《うで》を知ってい るわけがないi嚇して、追っぱらおうとしたが、例の、帯 の間の合口を、キラリと抜くと、 「こいつめ!」と、ビュウと、突ッかゝって来る。雪之丞 は、さすがに、自分は懐剣をひらめかせる気にはなれない。 十分に、突ッかけて来させて置いて、たぐり込んで、一絞め に絞めてやろうと、身をかわすーお初は、その隙をくゾっ て、二の太刀を斬り込もうとはせず、 「馬鹿め! あばよ…」と、闇にまぎれて、パアッと、駆け 出してゆくのだ。軽業のお初ー名うての女賊だけあって、 その飛鳥の身のこなしは、なか〜、、ありふれた剣者なぞの 及ぶところではない。  -おのれ、逃がしたら、それまでー雪之丞は、追いか ける。  ほとんど、真の闇の、山ノ宿裏道の真夜中ii人ッ子一人 通るはずがないのだが、その時、思いがけなく、駆けゆくお 初の行手から、二人づれの、黒い影Il 「何じゃ! 夜陰に?」と、武家言葉が、とがめるのを、お 初、 「おたすけ下さいまし、いま、あとから乱暴者がー」 「なに、乱暴者?」と、 一人が、透して見て、 「お\なるほどー」雪之丞、とんだ邪魔がはいったと、 ハッとしたが、お初を、どうしても、このまゝには逃せない のだ。  iえゝ、面倒な、邪魔立てしたら、どんな奴でもー  これもはじめて、懐剣の柄に手をかけて、かまわず、飛び 込んでゆくと、 「おのれ、何で、人を追う?」二人づれの武士は、立ちふさ がって、 「や! これも女だな?」 「どうぞ、お通しをーあれに逃げてまいる者に、どうあっ ても、用のありますものー」すばやい、お初、もう、その 時には、くらがりの中にすがたを溶けこませかけている。 「待て! 穏かならぬー」二人の武士は、雪之丞をさえぎ りつゞけた。       一三  前を閉ぐのは武家だが、雪之丞、大したことには思わない。 右手の方の男に、隙が多いと見たから、 「どうぞ、お通しを!」と、叫びざま、サッと、袖の下を潜 り抜けると、もう一人が、また前にまわって来て、 「女だてらにあぶない1刃物なぞ手にして?」 「ですから、おあぶのうござりますぞえ!」雪之丞、煩わし くなって、嚇すように、懐剣を、わざと、チラと、閃めかし て見せたとき、 「や! おのれは!」と、鋭く、しかしびっくりしたような 声が、立ちふさぐ侍の口から洩れた。と、同時に、トントン と、二あしばかり退って、踏みしめると油断なく構えて、刀 に、手をかけた容子-  雪之丞も、相手が、本気になって、身を固めたので、屹ッ と闇を透かしてみつめると、あろうことか、それが、昔の兄 弟子、今はあきらかに、敵とみとめずには置けぬ、門倉平馬 なのだ! 「ほう、そなたは?」と、思わずいうと、 「江戸は、広いが、狭いのう1雪之丞、久しぶりだな? よう逢えたな?」 「なに、雪之丞?」伴れの武士も、おどろいたように咳やい た。「今夜も、今夜、貴公から聴いた?」 「うむ、その女形だ」と、黒い影が、うごめいて、「のう、 雪、今夜は、始末をつけてしまった方が、お互に為めであろ うな?」 「そなたが、その積りなら、それもよいが、今は、気にかゝ ることがあるーたった少しの間待ってくれなば、引ッかえ すほどに、あれなる者に、どうしてももう一度逢わねばー」  雪之丞、今の中なら、逃げ伸びたお初を、追いつめること が出来ようが、いかに腕に劣りは感ぜずとも、平馬ほどの 者と、その伴れとを打ち仔してからでは、もう追いつくこと が出来ないとしか思われないのだ。 「何を馬鹿な!」と、平馬は毒々しく、「こういう仲になっ た貴様の便利が計っていられるか? それとも、拙者に伴れ があるので、怖ろしくなったのか?」 「門倉、やっておしまいなさい」と、伴れの武家が、右手の 腕まくりをしながらいった。 「一度、からだに傷をつけられた奴、生け置いては、武士の 恥辱だ。いつ、何を申し触らさぬとも限らぬー拙者、後を かためる程に、やっておしまいなさい」  1何を、平馬は、こうまで|執拗《しつこ》く、自分を恨むのであろ う1出逢い次第、果し合わねばならぬほどの事が、どこに あるのだろうか?  雪之丞は、心で、考えて見るだけの余裕があった。が、相 手は、|掛酌《しんしやく》がないーギラリと、太刀を引き抜くと、一松斎 仕込みの、上段、それに自分の趣向を加えた、みずから龍爪 と呼んでいた、烈々たる殺気を見せた構えに取って、 「行くぞ!」と、叫んだ。 一四  雪之丞は、平馬が、荒々しい上段に刀を振りかぶったのを 見ると、スッと、横にはずして、うしろを田圃に、もう一人 の敵を用心しながら、身を沈めるように、懐剣をぴたりとつ けた。彼はいつも一松斎道場で、平馬が、この位を取るとき には、ひどく勝ちをあせる場合なのを知っていた。工夫の多 い雪之丞、かね人、から、若し、平馬が、立ち合いのとき、 この上段を取ったら、どう破ったらいゝかーと、いうこと を、以前から研究していた。それを、いま、実地でためすと きが来た。が、こんなに突きつめた、迫った場合にも、彼の 心はためらわずにはいないのだ。  ーー大事の前の小事1いま、この男を殺して、それが、 きっかけで、自分が法の網を怖れねばならぬことになった ら? あの不思議な女盗賊は、秘密を知って、それを逆手に つかって人を脅かすのゆえ、殺さずには置けぬーが、平馬 は、別の意味で、つまらぬ意趣で、自分を恨んでいるだけだ ーこやつ等と、いのちのやり取りをしては、間尺にあわぬ 煩いをのこすかも知れぬ。}松斎、孤軒、菊之丞1すべて、 自分の指導役に当っている人達は、軽はずみをするなー と、だけいましめてくれている。では、いかゾすべきであろ う? {何の、たかぐ、この二人、当て什して、通りす ぎよう。  大胆な、雪之丞、二人の相手のいのちだけは、助けて置く が、便宜だと考えると、もうサアッと、気が落ちついて、氷 のような冷たさが、頭をハッキリさせた。|右手《めて》の短刀を低め たまゝ、左の拳を小脇に引きつけて、じっと、目をくばる。 と、そのとき、呆れたことには、つい、平馬のうしろまで、 いつか、お初の、黒い影が、取ってかえしていたのだ。彼女 は、藁を積んだ、こんもりした稲塚の蔭から、嘲けりの笑い を笑って、 「ホ、ホ、ホ、ホ! 生れぞくない! 患いがけないことに なって、どうするつもりだね? あたしのことは、絞めも斬 れも出来ようが、今度は、ちっと、相手が強いねえ? ホ、 ホ、ホ」彼女に、どうして、雪之丞の手の中がわかり抜いて いるであろう!「それにしても、あたしにしたってお前を、 こゝでお侍さま方の刃の|錆《さび》にしてしまうには、惜しい気がし てならないのだよ。もし、お前があたしにたのむなら、何と でもおわびをして上げるがーi」お初は、雪之丞、平馬のい きさつを、これもわかっているはずがない。只この場のゆき がかりで、こんなことになったのだと思い、そして、事実、 彼女としては、今、彼を斬らしてしまうのは、あまりに勿体 ないような気持もするのであろう。雪之丞は、お初が、不思 議ないたずら気から、取って返したのを見ると、ホッとし た。  1痴かな奴だー飛んで火に入る虫じゃ。  気が楽になって、スウッと、身を、左にまわすと、伴れの 侍が、それに誘い込まれたように、中段に取っていた刀を一 閃させて、 「やあッ」と、薙いで来るのを、かわしてやりすごすと同時 に、左手の拳がパッと伸びて、十分に、|脾腹《ひぱら》にはいった。ウ ウウンと、のけぞる侍i       一五  当身を食って、大刀こそ放しはせぬが、 「む、うゝむ」と、うめいて、のけぞって、体が崩れて、そ のまゝ、苅田の|畔《あぜ》の中に、溜り水を刎ねかして倒れてゆく 侍ーー 「雪、さすがだな!」平馬は、それと見て、奥歯を噛むよう にして、うめいて、 「生意気な!」彼は、雪之丞が、剣を使 わず、拳を用いたのが腹立たしかったのだ。彼等二人は、こ の先きに、最近出来た、川岸の料亭に、剣客仲間の会があっ た崩れで、かなり酔っていたのだ。当て落されたのは、間柄 助次郎といって、鳥越に道場を出している男、さまで、劣っ てもいない身が、一瞬で敗を取ったのを見ると、平馬も、今 更、警戒せざるを得ない。が、憎い! 出逢い次第、どうし ても、生かしては置けぬほど、彼は、雪之丞が憎いー.その 憎みが、どこから来たかは、彼にも、はっきりいえないのだ ー師匠が自分を疎外して、あの白紙の巻軸を譲ろうとした のが、原因とはなったが、そればかりで、こんなに憎悪を忘 れかねるのは、彼自身にも不思議な位だ。恐らく、この女に も見ぬほどの、なよくしい、さも、無力にしか見えぬ、女 がたが、舞台の芸の外に、かくも、神変幻妙な、武術の才を 持っているのが、先夫的な、異常な嫉妬を、平馬に感じさせ てもいるのであろう。  ーどうでも、今夜は斬るのだ!殺さずには置かぬのだー  彼は、心に、叫んで、最初の、独特な上段に構えたまゝ、 「やあゝ!」と、誘う。雪之丞も、つい今し、間柄をあしら ったように、軽くは、動かぬ。相変らず、沈めた構えで、真 の変化が、相手に現れて来るのを待つ。                        いな一み 「でも、その生れぞくない、何て強いのだろうねえ」稲積の 蔭で、お初の声は、|嘲《あざ》けりから、だん/\讃歎に変りつゝあ るのだった。 「大刀を振りかぷった、お武家二人を相手にし て、平気で戦うばかりか、見る間に一人の先生を、叩き倒し たのはえらいもんだ。よう花村やあーと、讃め言葉がほし いねえ-生憎と、田圃外じゃあ、おいら一人の見物で、物 足りねえ」お初は大胆不敵だ。 「それにしても、じれってえ なあーお武家さん、そんな女形一人を、いつまで、持てあ ましているのかねえi相手がもっと弱むしなら、このおい らが助勢に出てやるのだけれど、どうもあぶなくって近づけ ないよ!」その、嘲罵に、唆り立てられたのでもあるまい が、その刹那、平馬の振りかざしている烈剣が、闇の中で、 キラリと一閃したと思うと、二闘士のからだがからみ合っ て、大刀と、短剣とが、火花を散らした。そして、次の瞬間 には、二人の中のいずれかのからだが、ぐたりと、地面に崩 れるのを見た。 「ほ! やりやがった」お初は、そう叫ぷと、またしても、 早い逃げ足だ。平馬を、水月に一本入れて、その場に気絶さ せた雪之丞が、稲塚の方へ突進して行ったときには、もう三 町も先きを、黒い影が、風のように、煙のように駆け去って いるのだった。       一六  夜の|禽《エいり》のように、闇に溶けゆく女の影を追うて、雪之丞 は、ひた走りに走る。が、彼は、土地も不案内、まがりくね った路ー1ー息を切らして、駆けつ穿けたが、いつか、大川の 河岸に出たときには、もういずれにも、それらしい姿をみと めることも出来ない。雪之丞は漫々たる、黒い流れを見下ろ して当惑するばかりだd  -しまったことをした! しまったことをした! 千丈 の堤も、蟻の一穴!あのいやしい女白浪の、恋のやぷれ た、口惜しまぎれの口から、大事が敵に洩れたら、それまで だ! どうしよう? どうしよう?  剣を取っては、いかなる大敵をむこうにまわそうと、決し  ひ」る て怯みは見せぬ雪之丞も、思いがけないところから現れた、 根性のひねくれた、浅ましい望みに狂った、つまらない踏み はずしの女を敵にして、今や途方に暮れざるを得なかった。 そのとき、彼のこゝろに、ふッと、浮んだのが、浅草田圃 に、牙彫り師らしく隠れ棲んでいる、あの闇太郎のことだっ た。  iそうだ! こんなときこそ、あのお人に相談しよう ーあのお人なら、望みを打ち開けても、決して歯から外に 洩らすことではあるまい。そして、今の、あの、不思議な女 とは、いわば同業、世にいう、蛇の道はへびとやらiIかな らず何とか、渡りをつけ、うまくさばいて下さるに相違ない ー相手も女ながら、泥棒渡世をしている身、黄金を山と積 んだなら、どこまでも、わしにあらがおうとはせぬであろう ーそのほかに道はないー  と、思い当ると、雪之丞は、丁度、むこうから来た、戻り の辻かごを見つけると、 「かごの衆、浅草田圃までー」もはや、棲もおろして、や さしいものごしだ。 「へえ、ありがとうさんーお召し下さいまし」トンと、下 りたかごに乗ると息杖が立って、 「ホラショ! ホイヨ!」 「ホラショ! ホィヨ!」かごは、命じられた方角を指して いそぎはじめた。雪之丞の懸念は、たゞ、目あての人が、夜 の渡世1うまく今夜、うちにいてくれゝばいゝということ だけだ。其ころ、もう落ちついた足どりで、さも、ほろ酔い を川風に吹かせでもしているかのように鼻うたまじりで、大 川ぱたを、川下に、あるいているのは、軽業のお初ー  ー畜生メ! お初ちゃんともあろうものが、今度はすこ フ一 / L味噌をつけたよ。  と、自らあざわらうように、  11どうしたわけで、あんな出来そくないの、野郎のくせ に、内股にあるいているような奴に惚れたかねえーおかげ で、いのちを取られかゝった。畜生! ほんとうに、いけず うずうしい奴ったらない。たしかに、土部三斎や、日本橋の 大商人、長崎屋なんぞを、かたきと狙っている奴1どっち へ売り込んでも、こいつあ大した代ものだがー  と、咳いて、ぐたりと、うなだれて、火を吐くように吐息 をして、  1でも、おいらには、何だかそれが出来ないんだ。あい つのあの根性と、あのすばらしい剣術ーどこまで考えても 不思議な奴11肘鉄砲をくわされゝばされるほど、殺そうと まで嫌われゝば嫌われるほど、妙に心がひかされてならない んだよ。 一七  こちらはlI  例の細工場で、シュウ、シュウと、かすかな音を立てさせ ながら、まるで、一個の芸術家のごとくーいゝえ、どんな |技巧家《たくみ》より、もっとく熱心に、小さい象牙の|塊《くれ》に、何や ら、細かな|図様《ずがら》を彫り刻んでいた、闇太郎だ。とんくと、 遠慮深く、戸が鳴って、やさしい声で、 「若し、お宅でござりますか? わたくしでござりますがー ー」と、いうのが聴えると、ハッと、さすがに油断なく、あ たりを屹と見まわすようにしたが、 「おッ! 太夫だな!」と、叫ぷと、世にもうれしげな表情 が、きりッとしたこの男の顔にうかぷ。「あけますよ! ム禁、 すぐ!」狽てたように、立ち上がって、膝から、前かけを払 い落すと、とっかは、入口に出て行って、ガラリと開けて、 「思いがけない! こんな時刻にー一たい、どうした風の 吹きまわしでーさあ、上がっておくんなせえ」細工場に導 いて、行燈を掻き立てゝ、つくぐ、雪之丞をみつめるよう にしたが、急に、暗くなって、 「おや、太夫、お前さん、恒 ならねえ、顔をしていなさるねえ1何かあんなすったの か? さあ、すぐに話しておくんなさい」闇太郎自身の面上 にも、にわかに不安の影が射す。雪之丞は、さも心配そうに、 そういってくれる、この不思議な心友を、たのもしげに仰い だが、 「実は、身に差し迫った難儀が出来まして、是非ともお前さ まのお手、お力がお借り申したく押しつけわざに伺いました がー!」口ごもるのを、 「そりゃあありがてえ、おれのようなものを力にしてくれた 以上、どんなにでも及ぶだけ働くがーそれにしても、気に かゝる、その難儀というのを、早く聴かして貰いてえもの だー」と、膝がすゝむ。雪之丞、今は、何を包みかくす気 持がないーまず、三斎隠居屋敷での、女白浪との出逢いか ら、デての女のしつッこい、執着、威嚇ーそれから、その女 が、耳にしたという秘密が、実は、どんなものであるかー つまり雪之丞自身の木体がなにもので、いかなる大望に生き ているか、敵はだれだれで、味方は何人か、一切、合財をぷ ちまけて聴かせたのだった。闇太郎は、あるいは怒りあるい だ) は歎き、悲槍な雪之丞の身の上ばなしに、耳を傾けて、あま たゝびうなずいたが、 「おゝ、そういうお前さんだったか? 何か、大きな望みを 持つ人とは思ったがーよく打ちあけて下すった。かずなら ねえ身も、どうにかして力になりてえものだ」と、言って、 「その、女泥棒の方は、心配なさるな。聴いているうちに、 おれに、ちゃあんと思い当って来やしたよ」 「多分、容子をお話したら、大てい見当はつけて下さろうと 思いましたが、一たい、それは、どのような女子で?」 「大方、そりゃあ、軽業お初とりつ奴さ」と、闇太郎は、い くらか笑って、 「なあに、なかく気性のある女だが、思い 立ったら利かねえ|性《たち》で、このおれとさえ仕事を張合うような 阿魔さ。あゝいうのが思い込むと、どんなことでもしかねね えよ。が、まかせて下せえ。おれが、必ず何とかするからー」 一八  闇太郎は、雪之丞の物語を聴くと、すぐに大きくうなずい て、こんな風に慰めたが、 「それにしても、太夫、物事は、ケヂがつきはじめると、あ とからあとからヘマが出るものだー大望といって、あんま り大事を取っていると、どんな|障《さまた》げがはいるかわからぬ。お 師匠がたの言葉も言葉だが、精々、思い切ったところを見せ てやるのもいゝと思うがi」 「いかにも、お言葉どおりでござります」と、雪之丞も、合 点して、 「せめて、こゝ十日も、経ちましたら、お前さまに も、何か、お耳にひゾくでござりましょう」 「折角たずねてくれたこと、茶も出さねえで失礼だが、お初 と来ると、|先方《さいキし》も勾配の早い奴i阜速、穴をさぐって、ひ とつ何とかとっちめて置いてやろうー」闇太郎は、そう言 うと(立ち上がって、八|端《たん》の平ぐけを、ぐっと引きしめて、 腹巻の間に、合口をひそめて、豆しぼりの手拭を、ビュウと 振ってしごいたが、「じゃあ、そこまで、一緒に出ようかi ;なあに、おれのカンは、はずれッこねえ。必らず、今夜中 に、あの色気違げえをとッつかめえるよ」闇太郎は、辻かご のいるところまで、雪之丞を送って来て、「そんなら、別れ るがー-安心して|吉左右《きつそう》を待ちなせえよ」 「どうぞ、お願いいたします」雪之丞は、やっと、ホッとし て、かごに揺られて、旅宿の方へー闇太郎、例の吉原かぷ り、ふところ手で、  1人は見かけによらねえものというが、女がたの雪之 丞、}てこまでの大望をいだいていたのかなあi何か一癖あ る奴とは思ったがー1何にしても、変った奴だ。おらあ、あ いつのためなら、死んでやりてえような気持までするんだ。 だが、お初ッて奴も、いゝ加減な茶人だなあー-見す見す泥 棒と見ぬかれているのを知りながら、こわおもてゾロ説くな んて、ちっとばかしだらしがねえ。ふ、ふ、ふー何だって、 世の中の奴あ、色恋ばかりにそう狂っていやがるんだ。  闇太郎は、お初が、さも、|通番《かよい》頭のお妾さんらしく、黒門 町の新道の奥に、ひっそりと隠れていることを、すっかり知 っているのだ。雪之丞が、話したような出来ごとがあったあ とで、まさか、商売に手を出すはずもないーやけ酒の一ぱ いも|岬《あお》って、|自家《うち》に戻って来るだろうという推量i夜更け 、- の裏通りで、警選の見廻り同心が、手下をつれて、歩いてい るのに、一二度出逢ったが、闇太郎は平気で、鼻唄でやりす ごして、やがて、しいんとした黒門町の細い巷路にさしかゝ る。どぷ板を、無遠慮に踏んで、路地奥にはいって、磨きの 格子戸ーまだ雨戸がはいっていない、小家の前に立つと、 ためらわずに、 「御免ねえ! ちと、急用だがー」どこまでも、無垢のも のらしく住みなしている一家ーばあやが平気で出て来て、 「どなたさんか? おかみさんは、ちっと用があって出て、 戻りませんがー」 「それじゃあ、上げて貰って待って見ようi-ちっと、大事 な話なんでー」ばあやは、透かして見て、遊び人が、何か 筋をいいに来もしたかと思ったか、 「でも、今夜は、遅いから、あしたのことにーもう、お前 さん、夜更けですよ」 一九  闇太郎と、婆やとの押問答が、二階に聴えたと見えて、晩 酌に一本つけて貰って、女あるじ-女親分の留守の間を、 楽々とごろ寝を貧っていた例のむく犬の吉、むくりと起き立 って、鉄火な口調がまじっているので、さては、|探偵手先《いつけんもの》 か? それとも、弱味を知っての押しがりか? と、耳をそ ば立てたが、そのまゝ、とんくと、荒っぽく、段ばしごを 駆け下りて、 「誰だ、誰だ? 何だ? 何だ? こう、小母さん、退きね えー」と、婆やを、かきのけるように格子先を、白い目で  十 睨んで、 「おい、おまはん一てえ、どこのどなたゾ? よる 夜中、ひとの格子をガタピシやって、どぎついことを並べる なあ、あんまりゾッとした話じゃあねえぜ!」と、まず、虚 勢を張って見る。ピカリと、しずかに、つめ★く光る十手の きらめきも見えなかったが、しかし、相手の答えは小馬鹿に したほど、落つき払っていた。 「は、は、は、むく犬、大した気合だな、度胸だな、機嫌だ な! 俺だーわからねえか? 久しぶりだのー」吉原か ぶりを、解いて、突き出すようにした顔1-その浅黒い、き りっと苦味ばしった、目の切れの鋭い、その顔を、むく犬 は、 一瞥すると、ぎょっとしたように、 「へえー-こりゃあ!」と、叫んだが、また、ひどく、なつ かしくもあるように、 「まあ、何と珍しいーどうした風の 吹きまわしでー親分、あっしゃあ、合わせる顔はねえのだ がー」と、いいさま、土間に、殆どはだしではね下りて、 びっくりする婆やには見向きもせず、格子の止め釘をはずし て、ガラリとあけて、 「あねはんはいませんが、さあ、ずっ と、お上がんなすってー」 「そうか、じゃあ、けえるまで、またせて貰おうかー実は、 ちっと、姐御と、折り入って、話があってなー」闇太郎、 手拭で、裾を、パンパンと叩くと、吉の案内で、茶の間に通 る。見まわして、 「ほう、いゝ、おすめえだな? 姐御のこのみが見えて、意 気で、しっとりと落ちついているな」むく犬の吉、婆やをた のまず、自分で、小器用に、茶をいれてすゝめて、 「ひとしきり、御厄けえになりながら、顔出しもしません で、どうぞ、まっぴら、御免なすってli」 「なあに、いゝってことよ。おれもつき合い下手で、このご ろ、だれにも逢わねえ1御無沙汰はおたげえだ。それにし ても、吉、美しい親分を持って、さぞ、働き甲斐があるだろ うなー」 「御冗談をーー」むく犬は、親分のお初が、あんまり綺麗な ので、色気にひかされて、かくれ家にゴ口ついているなどと 思われるのが恥かしいのだ。その上、お初の、負けじ魂で、 ともすれば男の闇太郎に張り合って、悪口の一つもきくの が、ひゞいていやあしまいかと、気にもなる。が、闇太郎 は、むく犬なぞは眼中にない。 「かまわずに油を売っていてくれ。おらあ、姐御に、ひと 言、話があって来ただけだからー」 二〇 一,大丈夫なのかえ? 吉さん、こんな人を通してさ?」と、 心配そうな婆やを、台どころへ出て来たむく犬の吉は、目つ きでおさえて、 「どうしてどうして、そんなお人じゃあねえんだよーあれ で、あのお人は、江戸で名うての人間で、名前を聴きゃあ、 小母さんなんざあ、腰を抜かしてしまうのさーそれより も、何か、有り合せのもので、親分に一口差し上げなけ りゃ」狭いうちなので、その話ごえは、茶の間に筒抜けだ。 苦わらいした闇太郎が、 「おい、吉、構ってくれるにゃ及ばねえ、姐御の留守に、そ んなことをして貰っちゃあーそれより、もう一ぺえ、茶が 頂戴してえな。おめえ、煎茶の心得でもあると見えて、豪 勢、うめえ茶をのませてくれたよ」吉は、闇太郎のような、 |斯道《しど つ》の大先輩と、同じ部屋に坐っているのさえ幸福だ。まし て、今、いれて出した茶を讃められて、ますく歓喜に堪え ない。うれしさに、背すじをゾクゾクさせて、戻って来て、 「なアにね、おほめに預かれるほどのものじゃアありやせん が、あッしも酒のみゆえ、酔ざめに、ほろ苦い茶がうめえも のだから、だんく今の年で茶好きになりやしたのさ」 「結構だ、話せらあ。江戸ッ子だよ、おめえはー」 「へ、へ、へ。冥加なわけでー」闇太郎は、からかいなが ら、吉と世間ばなしをしているうちに、心の中で、  1お初の奴、今夜、はやまって、三斎屋敷へでも駆け込 まなきゃあいゝがーまさか、そんなこともしやあすめえが ー女という奴は、一度、惚れ込んだとなると、ちっとやそ っとのことでは、あきらめやしねえーまだく未練がある にきまっているーその中に、ふくれッつらをしてけえって 来るだろうー  すると、やがて、路地でかすかな足音。それが家の前で止 まって、荒っぽく格子戸が、あけたてされてー 「おい、何て、留守番だ! よる夜中、格子をあけッぱなし にしゃあがって!」と、キンくする、女の声が、角立った が、 「おや! お客さんかえ? 見なれねえ草履がーー」吉 公が駆け出して、 「おゝ、姐はん、思いがけねえお客人でー」 「こんな夜中に、だれだえ!」と、お初の声。 「それが、姐はん1全く思いがけねえお方でーまあ、顔 フ一 -化 .変 ,丞 ・之 一雪 を見て御覧じろ」 「厭に気をもたせるねえーどなたがお越しだってえの き?」お高祖頭巾をとりながら、茶の間をのぞいたお初、行 燈の光に、闇太郎の半面を、くっきりと見わけると、さすが にびっくりして、「おや! まあ! 闇の字親分i」闇太 郎は、白い前歯をあらわして笑って、 「姐御、久しぶりだったな、急に逢いてえことがあって、お 邪魔をしていやしたよ」 「まあ、ほんとうにお珍しい-親分が、こんなところへ出 向いて下さるなんてーそんなら、途中で愚図々々なんぞし ているんじゃあなかったっけ」お初は、長火鉢の前の、派手 な友ぜんの座ぶとんにべたりと坐って、 「実はネ、ちっとばかしぐれはまな目になって、屋台で燗ざ けをあおって来ましたのさ」酒気をホlッと吐いて、彼女は 艶に笑った。       二一  お初は、湯呑に|素湯《さゆ》をついで、うまそうに飲んだが、気が ついたように、 「おい吉、一たい、てめえ、何をしていたんだねえ? 親分 が、折角いらしったというのに、空ッ茶を上げて置くなんて ーなんにも無くとも、一くち、差し上げなけりゃあー」 「おッと、姐御、御馳走にはいつでもなれる。まあ、おれの 話というのを聴いて貰ってからにして貰いてえ」と、闇太郎 がおさえる。お初は、素直な口調で、 「そうですかーじゃあ、お話というのを伺いましょう? 何か、女手のいる大仕事でもありますのか? なあにね、あ たしもこれまで、女だてらに、親分たちを向うにまわして、 大きな口を利いていましたが、やっぱし、女ッ切れの}本立 ちに、くるしいこともありますのさ1親分の方から、⊆つ してわざく来てくれたのですもの、どんなことでも、否や はいわずに、働かせていたゾきたいものですよ」 「そうかえ。気がさものゝお初さんから、そんなやさしい言 葉が聴けるとは、これまで思いがけなかったよ」と、闇太郎 はうなずいて、 「そう言ってくれりゃあ、ちょいと、口から 出しにくい話でも、遠慮なく言い出せるというものだ」 「で、親分、お話とは何ですえ?」と、じっとみつめるお初 を、闇太郎は、まじろぎもせずに見返して、 「お初さん、頼みというのは外でもねえが、おまはんが現に 手を出しかけていることから、一ばん綺麗に、身を退いて頂 きてえのだ」 「身を退け? 手を出している仕事から?」お初は、解せぬ らしくつぶやいて、美しい、切れの長い目を、きらりとさせ て、「親分、何か、間違いじゃあありませんか?わたしは、 今のところ、別に大きな仕事ももくろんではいませんがー」 と、言って、ニタリと、異様に微笑して、 「実はねえ、親分さん、お初もこれで、やっぱし女で、柄に もなく優しい苦労をおぼえて、いまのところ、渡世の方に御 無沙汰さ」闇太郎は、そういうお初の、淫らな、あでやかな 笑いを見ると、あやしい悪寒のようなものを覚えた。  ーなるほど、この女、夢中になっていやあがる。とりみ だしていやあがるーおれほどの男の前で、ぬけくと、心 の秘密をのろけるまで、魂をぷち込んでいやあがるー雪之 丞が、震え上がるのも無理はねえ; 「姐御、お前の、そのやさしい苦労というのが、どんなもの か知らねえが、ぶちまけて言えば、おれの知っているある他 所のものが、大きな望みを持って、この江戸に足をふんごみ、 いのちがけで大願を成就させようとあせっているのさ。とこ ろが、ある人の耳に、誰にも知られてはならねえ大望が洩れ て、敵方に、それが筒抜けになりそうになり、今のところ、 大迷惑さ。お初さん、お互に江戸ッ子iーかよわいからだ で、大敵を向うにまわした奴にゃあ、入情をかけてやりてえ ものだのー」闇太郎が、これだけ言って、相手の顔いろを うかゾうと、お初は、眉を釣るようにして、紅い唇をぐっと ひきゆがめ、さげすむように、じろりと一瞥して、 「親分、おまはん、たのまれておいでなすったねi」 二二  お初は、嘲りのいろさえ見せて、闇太郎を尻目にかけるよ うにしながら、言葉をつぐ。 「親分、お前さんが、他人の色恋の、間に立ちまじって、口 をお利きになろうなぞとは、わちきは思いもかけませんでし たよ」 「そうだ、全くだ」と、闇太郎は、ざっくばらんに、 「おれ だって、今日が日まで、こんな役割をつとめようたあ、思っ てもいなかった。ところが、世の中のめぐり合せという奴は 不思議なもので、思いがけなく、とんだ不意気で、不粋なこ とを、おまはんに聴かせなけりゃあならねえ羽目になった。 ねえ、姐御、くどくは言わねえが、あの雪-ーi上方ものゝか らだから、さっぱりと手を退いておくんなせえ、何もかも知 らぬ昔と思い切っておくんなせえ。このおれが、こう手を突 いて頼むから」と、膝に手を、ピョコリ頭を下げて見せる。 「まあ、親分、馬鹿らしいー」と、お初は手を振って、「女 のあたしに頭なんぞ、お下げになることがありますものかー 1だがねえ、親分、ほかのことなら、どんなことでも、おっ しゃるまゝにしたいけれど、このことばかりは堪忍して下さ いな」闇太郎は、黙って、相手を、じろりと見る。お初は、 じれったそうに、口を引き曲げるようにして、いくらか、頬 さえ紅くしながら、 「あたしは、自分でも、自分がわからな い位なんですよ。女だてらに、|紳名《あだな》の一つも持ったものが、 娘っ子じゃあるまいし、舞台の上の男に惚れて、追っかけま わす;-身性を知って、嫌いに嫌っていると知りながら、あ きらめず、相手の秘密を知っているのをネタに、おどしにか けさえするー浅ましいとも、あつかましいとも、お話にも なりゃあしませんーだけど、恋しいの、好きだの、と口に 出してしまったからには、いうことを肯いてくれゝばよし、 さもなくば、一緒に地獄へ引き落してやらなければ、辛抱が 出来ないのが、あたしの生れつきなのだから、あの人にも、 まあ、何もかも因果だと、あきらめて貰う外はありません よ。それというのもあの人が、世間の女という女の、こゝろ を乱して来た天罰というものかも知れませんねえーーほ、 ほ、ほ、ほ、ほ」やけに、笑うお初の顔いろには、思い入っ た、沈痛なものが液っている。闇太郎は、苦っぼく笑って、 「あの人も、お前さんほどの気性ものに、そこまで思い込ま れたのは仕合せといってもいゝだろうが、しかし、何しろ大 願のあるからだー-今のところ、色恋に心を分けるひまのな いのも当り前だ。だから、せめて、あの人が望みを果す日ま で、何もかも待ってくれることにして貰えればi」 「ほ、ほ、ほーー親分にもないお言葉です」と、お初は、捨 て鉢に、「親分、お前さんだって、このあたしが、どんな身 の上か、よく御存知のはずでしょう。高い声では言われない が、明日にも運が傾けば、どんな|暴《あら》しが吹いて来て、このい のちを、吹き散らしてしまうか知れないのです。あたしの一 臼は、世間の女の人達の、一年にも向っているーその辺の ことは、親分も、御自分で、よーく知っていなさる筈ではあ りませんか?」 二三  お初は、もう、闇太郎の言葉は、耳に入れたくないという 風で、 「ねえ、親分、このことに就いては、黙って下さいよ。あた しを、とんだ色きちがいと笑ってくれてもいゝからーそし て、暫くのことだから、まあ、機嫌よく一口飲んで、世間ば なしでもして行って下さいな。おい、婆や、そう言ってある ものを、出しておくれよ」 「へえ、へえ、只今i」婆やは、高調子なお初の声の下か らそう答えて、小皿盛なぞを並べ立てた膳をはこんで来るの だった。 「親分、おひとつIl」と、お初は、|猪口《ちよこ》を突き出 す。闇太郎は、受けは受けたが、すぐに伏せて、 「まあ、姐御、もう少し聴いて貰いてえ。お前だって、生ッ 粋の江戸ッ子じゃあねえかー自分が辛いこと序.忍んでやっ てこそ、あッばれ意気な女というものだぜ。それに、若し、 お前が、こゝで、女を見せてくれりゃあ、あの男だって、お れだって、決して忘れやあしねえよ。何かで屹度恩を返さあ な」 「闇の親分。お前さんにも似合わずくどいねえ」と、お初は 皮肉に言って退けて、 「これが、渡世の上のことなら、お前 さんは立派な男、あたしは女のきれッぱし、あの縄張から手 を引けとか、あの仕事は、おれにまかせろとかいうのでもあ れば、へえ、そうですかーと、身をひこうが、色恋は、女 のいのちなんですよー八百屋の小娘だって色男に逢いたけ りゃあ、火をつけて、火あぶりにさえなるのです。叶わぬ恋 の恨みのためには、どんなことでもしてのけるのが、あたし 達さ。この事だけは、別なのだから、どうぞほうって置いて おくんなさいよ」と、手酌でわざとらしくうまそうに飲む。 闇太郎は、腕組をしたまゝ、 「じゃあ、お初さん、どこまでも、お前は意地を張るつもり なんだね?」 「意地を張るというわけではないが、あき昌、められなけりゃ 仕方がありませんよ」闇太郎、慣れぬ問題だけに、当惑して、 考え込んでいたが、こゝで、痛癩を起してしまったら、相手 はいよくねじけるばかりであろうーそして、自分が帰る とすぐに、三斎屋敷に駆け込むかも知れないのだ。引き据え て、江戸ッ子の恥さらし、渡世仲間の恥辱と、撲りつけてや りたいのを像えて、 「じゃあ、こうしようーーもう一度、このおれから、雪之丞 つコ 〜 に、お前の気持をようく話して見るから、その返事が来るま では、どうぞ、軽はずみなことをせずに待っていて貰いてえ がi」お初も、あわれといえばあわれだ1叶わぬ恋を叶 えて貰うためには、|焙《やけ》火箸でも、蛇の尻尾でも甘んじて掴も うとするのであろう1身を乗り出すようにー 「そんなら、親分、親分が、何とか仲に立って下さろうとお っしゃるの! まあ、うれしいーあの入と親分との間柄は 深いらしいから、ひとつ打ち込んで下さったら、屹度何とか なるでしょう。あたしは、慾はかきません・ー1たった一度、 しんみり話さえ出来るなら」闇太郎は、驚かないわけには行 かないi恋に狂う女の、|痴《おろ》かさを、浅ましさを、いじらし さをー       二四 「あたしゃあね、闇の親分II」と、お初は、一度|醒《さ》めた酒 が、今の一杯でまたボウと出て来たように、目元を染めて、ホ ーッと吐息をして、 「今度ッくらい、自分の身の上が|拶《はか》なく 思われたことはないんですよ。世の中では、河原者の身分ち がいのとさげすんでいる、舞台ッ子にさえ、わけへだての目 で見られなけりゃあならないなんてーあたしだって、小屋 ものゝむすめなんぞに生れなかったら、女だてらに、こんな 渡世には落ち込んではいなかった、それを考えると、ときど きはこれでも、遅まきながら改心してーなんて考えること はあっても、また、やけのやん八になってしまうんですよ」  闇太郎は、お初の、そうした愚痴に、同情しないではない ー1が、彼は聴き度くない。彼自身は、もう世の中に、ちゃ あんと見切りをつけているのだが、仲間うちが、こんな弱音 を吹くのを耳にすると、  -人をつけ、後悔しているんなら、とッとゝ坊主にでも 商売換えをしてしまえ!  と、でも、男同士なら怒鳴りつけたいのだ。相手が、女、 折も折、じっと、憾えて、苦く笑って、 「まあ、姐御、そんなに腐らねえでもいゝじゃねえかーど うせ踏み込んだ泥沼だよーそれに、素ッ堅気がっている奴 だって、大ていおれ達と違ったものでもねえようだ。おれた ちは、正直ものだから、正直に渡世をしているだけさ。何で もありゃしねえじゃねえかーくよくしなさんなよ」 「くよくなんかしたくはないけれど、此の世で二度と色恋 なんかするんなら、こゝまで持ちくずすんじゃなかったと思 ってー」と、言って、お初は、またも、槌りつくような目 つきになって、 「親分、恩に|被《キし》ますよーほんとうに、さっ きから言うとおりーね、たった一度、ゆっくり話せればい いのだから-因果な女だと、喧ってねー」闇太郎は、も う、一刻も早く、この痴情に心魂を|欄《たく》らしてしまった年増お んなの前が、逃げ出したくなった。 「わかった、出来るだけやって見ようが、ーそのかわり、 おまはんも、じっくり待つ気になって貴いてえ」 「あゝ、辛抱出来るだけ辛抱していますからねーまあ人三 日四日にネ」闇太郎は、淋しいひゾきを立てゝ、冷たい風が 流れている往還へ出て、はじめて、ホッとすがくしい息を した。  lI何て、こったい! あゝ意気地なく出られちゃあおい らにゃあ、ロが利けやあしねえよ。女って奴あ、おれには苦 手だ。  だが、彼は、雪之丞に誓った手前、どうしても、お初の口 をふさがねばならぬのだ。  ll太夫も、もう少し不男に生れて来りゃあよかったにー ー知らずに罪をつくつているというものだ。が、このま\'に はすまされねえーお初には、未来までうらまれるだろう が、あいつを何とかして、世間と縁を切らせて置くほかはね えかなあ、当分の間でも1  闇太郎は、妙に陰気な気持ちになったが、  ー1なあに、大の虫、小の虫だーお初、気の毒だが、お らあ、敵になるぜ。  どう、魂胆したか、闇太郎、その夜はそのまゝ、浅草田圃 の仕事場にもどって行くのだった。 二五  闇太郎は、浮かなかった。翌日一日、隠れ家で、細工場の 机に坐っても、仕事に気が乗らず|彫刀《こがたな》を取り上げてはすぐに 投げ捨てたり、腕組をしては生あくびをしたりしつゾけてい た。たそがれが来て、彼は欝陶しそうにつぷやいた。  ーほんとうに、厄介なこッたなあーおらは全く厭だ。 お初なんて女の子とかゝり合うのはやり切れねえーが、あ いつは気違いだ。あのまゝで置きゃあ、雪之丞の、向うにま わって、どんなことでもする奴だ1女の執念は怖ろしいも のだからなあ! ところでと、どんな風に始末したらいゝも のか?  雪之丞の前では、何とか必ず処理するとはいって見たもの の、最初から、一すじ縄で行かないのはわかっていた。日ご ろの気ッ風として、金に目をかける女ではなし、どんな場合 でも、あとへ引くような|性《たち》ではなし、結局は、何か、荒っぽ いことになる外はないと思っていたのが、とうとう、その日 が来てしまったのだ。  1あれだけ、このおれが頼んで見ても、いっかなうけひ かねえのだから、もうこの上は、無理にこっちのいうことを 肯かせるばかりだ。あんなに一心になっているのに、可哀そ うな気もするが、大切な雪之丞のためにゃあ、鬼になる外は あるめえよ。  闇太郎は、一人ぐらしの気易さ、二たまわりの平ぐけを、 きゅッと締め直すと、入口の戸を引き寄せて、突ツかけ草履 li三の輪の方へ出かけたが、婆さんが、駄菓子をあきなっ て、伜はふらふらして、手あそび稼業、闇太郎と、しじゅう 賭場で顔を合せる、ならずの新吉という男を訪ねた。 「儲け仕事というんなら、いくらでも乗りやすぜーこのご ろ、ずッと|勝負《でき》が悪くって、すっかりかじかんでいるんです からー」 「まあ、外へ出て呉れ-歩きながら話そう」闇太郎は、新 吉を連れて、大恩寺の方へあるいた。まだ、宵にもなってい ないのに、新吉原の方角からは浮いたくの、その癖不思議 にさびしい太鼓の音が流れて来る。 「なあに、今夜、おれがしょびき出すから、女を一匹、谷中 の鉄心庵ッて古寺にかつぎ込んでくれりゃいゝんだ」と、闇 太郎が言うと、 自へえ! 女の子をl」と、闇太郎を、いぶかしげに眺め て、新吉が、 「親分が、女の子とかゝわりが出来たなんて珍 しいね」 「なんの、人をつけ! 今更、女ぎれえで通ったおれが、阿 魔ッ子風情に目をくれるもんか!ただ、当分、日の目を見 せられねえわけのある奴がいるんだーそれで、|暫時《ちつとのま》、鉄心 庵の和尚に引ツくゝツて置いて貰おうと思ってー」 「相手は?」 「ちっと、筋のわるい女さ。彫ものゝ一ツもあろうというよ うなーふ、ふ、妙なひッかゝりで、とんだ罪を作らなきゃ あならねえんだ。そこで、腕ッぷしの強い若者を二人ばかり 支度して、湯島の切り通しに、ずッと張っていて貰いてえん だが、寛永寺の鐘が四ツ打つころ、つた家ッて|提灯《かんぱん》のかごで 通る。そいつを、そのまゝ、鉄心庵にかつぎこませりゃあい いんだよ。わかったか?」 「かごの中でじたばたしても、引ッくゝって持ってきゃあい いんだねi-わけはねえ」と、新吉は何でもなげにうなずい た。       二六  その夜更け1湯島切通しの、大きな|椎《しい》の樹の下の暗がり に、人目を避けるように、何か、待ち合せでもしているよう な振りで、三人の若者が、いずれも、素袷に、弥蔵をこしら えて、夜寒むに胴ぶるいをしながら仔んでいたが、これは、 いうをまたず、闇太郎に頼まれて、お初櫻いの役目を買っ た、ならずの新吉と、その一味だ。 「ハ、ハックショイ! やけに冷えて来たぜ」 「うん、もう、じきに師走だものなあー!こんなことなら、 燗ざけの二三本も、注ぎ込んで来るんだっけ」若い者がつぶ やき合うのを、新吉が、 「何でえ、江戸ッ子が、その若さで、水ッ漢をすゝる奴があ るか11雪が降っても、着物を素で着一-、素足に草履、それ が、おいらの心意地だぜーなに、もう少し辛抱しろよ。今 夜、仕事がすめば、ゆっくり遊ばしてやらあーこう、作蔵、 てめえ、千住に深間が出来たって話じゃあねえか?」 「え、へ、へ、へ」と、若者の一人が、笑って、「なあにネ、 そいつがついこないだ、羽州羽黒山のふもとから出て来たと いうんでしてネ。ねやの|睦言《むつごと》って奴も、なかく呑み込めね えんでーおみいさまあ、また、ずくに来てくんろよーと、 来やがらあーへ、へ、へ、へ」 「|生《なま》、いうなッてことよ、作に|情女《おんな》が出来るなんて、年代記 ものと、こちとらあ思っているんだぜーまあ、せいぐ大 事にしてやるこった」馬鹿をいっているところへ、向うから 上って来る町かご! 「おッ!」と、新吉がみつめて、 「こんどは間違いッこなし だぜ1|提灯《かんぱん》に、赤い字で、つた家と書いてあらあー1かご 屋はぐるなんだ。押えて、垂れの外から、八公に渡して置い た縄でぐるくまき、池の端から、お山の裏へ抜けて、谷中 の鉄心庵にほうり込みゃいゝんだ。わかっているな」 「うん、合点」ホラショ! ホイ! と、切通しのだら/\ 坂を、半ば上って来た、つた家のかごに乗っているのは、勿 論軽業のお初だ。闇太郎から、雪之丞がさすが身につまされ たと見えて、今夜、湯島境内の出逢い茶屋で、|閉場《はね》てから逢 おうといってくれたと聴いて、恋には、前後の分別もなく、 カーッと胸をおどらせてしまった彼女であった。闇太郎が、  このかごが、茶屋をよく知っているからというまゝに、迎え の乗物に身をまかせて揺られて来る道々、お初ほどの女、た だもう、十八の小むすめのようにワクワクして、それ以外の ,ととに気をくばるひまもない。  1たった一度でいゝ1と、誓ったあたしだ、さきにも 大望があるというからには、しつッこく、二度、三度、と又 の逢瀬はねだれないーせめて、今夜一晩は、明けるまで、 夜っぴて、恩いのたけをいってやらなくっては1  雪之丞の、あの凛として、白梅のような美しい顔が、目に うかんで、彼女の魂を、鋭く、しかし、甘たるく、噛み破ろ うとするのであった。  1たった一晩、-iあたしはそれを一生ほどに思ってい るのだよ、太夫1       二七  ひたむきの執念に、燃え焦れたお初、かごに揺られながら も、もう広小路を越して、いよく湯島の切りどおし、それ も、半ばは上って来たと思っていると、ふと足音がだしぬけ に近づいて、 「おい、そのかご、待って貰おう」と、低い|脅《おぴや》かすような声 がいって、棒鼻を抑えた容子1それで、彼女の、甘たるく、 遣る瀬ない、恋路の夢が、突如として、中断されてしまった。 ハッと、さすがに、びっくりすると同時に、手が帯の間の合 口にかゝって、  1ー畜生! 岡ッ引きか?  万一、このかごの主を、軽業お初と知って、押えにかゝっ たのなら、遮二無二、切ッ払って逃げる外はないーこゝで、 縄目にかゝれば、どうせ、二度と、娑婆の、明るい日の目を 見られぬからだー恋も、色も、それどころか、明日のいの ちが、それっきりだ。  1それとも、追剥ぎ、ゆすりか? それなら、いかに物 騒な世の中だって、おもしろすぎるーこの黒門町のお初を おどしに掛けようとはー  かごが、とんと下に下ろされたので、 「若い衆、何ですね? こんなところへ下ろしたりしてー-」… と、わざと、中から、探りの声をかける。 「何だとおっしゃってーどうにも仕方がねえんでー」 「うるせい! 黙っていろ!」と、叱ったのは、癒癩持らし い若い声だ。 「かごの中のお人、しずかにしておいでなせえ よ1騒ぐとために成らねえー」と、同じ声がI「さあ、 愚図々々しねえで、からげてしめえ」お初は、その言葉で・ 何かしら|巧《たくみ》にかゝったのだと直覚した。  1そうか! 闇太郎の奴、苦しまぎれにハメやあがった な1男らしくもねえ。  垂れを、パッと刎ねて、合口をつかんで、飛び出そうとし たが、もう遅かった。その時にはかごを|続《めぐ》って、丈夫な縄が、 ぐるノ\とまわされて、切り破るにも法がつかない。 「姐御、まあ、おとなしくしていさッし」と、馬鹿にしたよ うに若者はいって、 「なにも、いのちを取るの、奉行所へか つぎ込もうというのじゃあねえんだ。姐はんがのさばり出し ては、都合がわるいんで、一時、寺あずけというわけさ。ま あ、まかしておきなせえーさあ、若い衆、いそいでくれ」  かごが、荒っぽく、ぐっと上がる。そして、突然、飛ぷよ うにいそぎ出すのだった。お初は、かごの中で、青ざめて、 唇を噛んだ。  1おいらも、焼きがまわったよーあんな男女みてえな 奴にいのちまでもと惚れ込んだのも、只ごとじゃあなかった んだーだが、じたばたしたってはじまらねえ。もとく、 泥棒になり下がったのも恋のため1二度と、男なんかに見 向きもすめえと思っていながら、こんなことになったのもめ ぐりあわせだ11たゾ、このまゝ、闇太郎の野郎なんぞに、 おッ伏せられているおいらじゃあねえ筈だ。お初ちゃん、落 着いて、一思案というところだぜ。  かごは、なおも一散に走っていた。かご脇を二三人の男 が、駆けている足音も聴えていた。 堕ちよ! 魂 一  雪之丞は、今、目的の遂行をいそがねばならぬのだった -追ッかけられるような不安が、いつも落ちつきを失わぬ 彼の胸をも、いらくと焦り立たせるのだった。師匠すじの、 先輩たちは、絶えず、狽てふためくな、しずかに、しっかり  まんでゆけと、忠告するのだが、闇太郎だけは、そうはい わなかった。あまり大事を取っているうちには、どんな邪魔 がはいらぬものでもないと、いってくれた。彼には、この言 葉に、真理があるように思われてならない。  1ほんとうに、こゝまで苦労して来て、思わぬことから、 たくらみが|暴《あら》われてしまったら、それまでだ。敵は強いー 敵は多い。一どきに、わしの一身なぞは粉微塵にされてしま うであろう。こうしてはおられぬ。あのお初とやらのことに しろ、魔が差したのだとゆうてもよろしい。闇太郎に、お初 の始末をたのんでから、あの不思議な友だちが、あゝいって くれたものゝ、どうなったかと、まだ心に悩みも残って、芝 居が開ねると、招宴をことわって、宿に戻り、じっと灯の下 に腕を組んでいたのであったが、女中が来て、 「浅草のお知合いーと、申せば、おわかりとのことでござ いますが、お客さまがlI」雪之丞は、沈思から醒めて、  iお\では、闇太郎親分がー  と、思い当ったので、 「どうぞ、こちらへ」客というのは、案の定、あの江戸名代 の怪賊だった。闇太郎、今日は、いつものみじんの素袷、素 足ではない。髪もおとなしやかに、細く結って、万すじの着 物、短か羽織1はいって来ると、|態勲《いんぎん》そうに坐って、 「御注文の、根付が出来ましたので、持参いたしましたi 遅く、御迷惑でありましょうが、楽屋より、お宿で、ゆっく りと仕上げの御覧を願いたいと存じましてー」女中の、見 ている前で、ふところから、大事そうに取り出した祇紗づつ み、それをほどいて、小さな桐の箱を、雪之丞の前に置く。 明るい世界に顔を出すので、用心に用心を重ねている闇太郎 の気持を察して、雪之丞も、手際よく受ける。桐の小箱を取 り上げて、中から、精巧な牙彫の根付を出して、じっと、灯 にかざして、 「これは、まあ、結構に出来ましたな。上方へ戻っての、い い自慢ばなしーほんに、この鷹のすがたは、生きているよ うでありますな」 「絵柄は、わたしも、随分と吟味いたしたつもりでー鷹は、 百鳥のつわもの1一度見込んだ対手は、のがしっこがない といわれていますゆえi」して見ると、闇太郎、出入の口 実のために、出たら目の細工ものを持参したのではなく、と うから、雪之丞に贈ろうと、この鷹の根付を苦作していたの に相違ない-iー雪之丞、感謝のおもいを、一そう深めないわ けにはいかぬ。 「縁起をかつぐ渡世柄ーありがたいお見立1」 「こないだお訪ねのときも、実は、一生懸命、これを彫って おりましたわけー」と、いったが、闇太郎、女中が茶を進 めて出て行ってしまうと、 「耳は?」と、あたりを兼ねるようにして、囁くように訊ね た。 二  雪之丞は、あたりを見廻すような闇太郎の目つきに答え て、 「今夜は珍しく、お師匠さんも、鍋島さまのお留守居のお招 きで、お出かけ1隣は|空間《から》でござります」闇太郎は、うな ずいて、一膝すゝめて、 「実はな、あれから、直ぐに、お初のところへ押して行き、 一通り理解しようとしたが、知っての気性、あゝいえばこう 1捻じまがったことのみいうので、仕方がねえから、一先 ず、陣を退き、今夜あらためて策を立てゝ、あいつを誰も知 らねえところに、押し込めてしまったゆえ、当分はまず安心 しなせえ」 「まあ、では、どこぞ遠くへでもー」いくらか、ホッとし たように、しかし眉をひそめるように、雪之丞は目をみはっ た。 「いんや、つい、近間さー江戸というところは不思議なと ころで、お寺の縁の下に|害《あなぐら》が出来ていて、ことによると、一 生日の目の見られねえようなことにもなるんだからねー」 「まあ! 怖ろしいことでござんすなあ」 「向うが油断すれば、こっちの餌じき、こっちが|抜《ぬ》かれば、 向うの食いものになるのが、御府内さー活馬の目を抜くと はうまく言っているなーーだから、みじん、隙は見せられね え。お初の奴が、片意地を張るにまかせて置きゃあ、あべこ べにおめえが、どんなことになるかわかったものじゃあねえ から、思い切って荒っぽく出てやったのよ。しかし、何も、 いのちを取るわけでもなし、おめえの仕事がすんでしめえ ば、すぐ引き出してやるつもりさ」と、いって、闇太郎、雪 之丞をじろりと見たが、 「とはいっても、先きも軽業お初だ。あんまり安心している と、鉄鑑でも脱けかねねえ奴iおめえの方も、きび/\|行《や》 らかす心支度が出来たかな?」 「はい、もう、|鈍《たま》ってはいられませぬ。必ずすぐに、敵のふ ワ+ 〜 ところに食い入るつもり?」雪之丞は、脇目になって、うめ くように答える。 「十何年のつもる恨み、心の刃に錆はついていねえだろう が、なあ太夫、望みを果したら生きていぬ気で、存分にやる がいゝぜ。骨はおいらが拾ってやるからな」闇太郎の言葉 を、たのもしげに聴く雪之丞、 「万一、わたしが、望みの半分をのこして死ぬことがありま しても、|魂碗《ニんぱく》をこの世にとどめて、必ず、生きのこった人達 を、呪い殺してやるつもりでござります」 「おゝ、その覚悟が第一だー}てれに、のう、太夫、はたか らいらざる差し出口だが、この闇太郎とて、いわば一心同体 のつもりi-もしおめえが|行《や》りそくなったら、必ずおいら が、残る恨みを晴らしてやるからーー」 「かたじけない!1親分」と、雪之丞は畳に手を、 「|冥土《めいど》の 父親母親が、草葉の陰から、さぞお前さまのお心持を、あり がたがっておりましょう」 「いやく何でもねえことだ」と、闇太郎は、かなしげに微 笑して、「おいらも、五体五輪をそなえてこの世に生れて出 ながら、こんな始末、せめておめえの大望を助けるのが、現 世にのこす善根ーその善根を、おめえなりゃあこそ積ませ て呉れるというものだ。礼をいうのは、こっちのことだ」       三  -大事を取れと、言うて下さるも、わしを思うておいで なさればこそ、油断なく、いそげと言ってくれるも、わが身 の心を推量していればこそー  雪之丞は、この世に享けたいのちを、呪わしく怨じつゾけ ている身ながら、思いやりの深い、師匠、心友の情を想え ば、うれしさに涙ぐまれて来る。  ー若し、かゝる方たちと、何のかなしみも、怒りもな く、楽しく交際うて生きて行ける世の中であれば、どんなに うれしいことであろうーそれを叶わずさせたもあの|敵《かたき》ども のなせる業-ーよし、とてものことに、現世ながら、魂を地 獄に|堕《おと》し、悪鬼羅刹の権化となり、目に物見せてつかわそう 「親分、今宵を限りで、雪之丞は、人界の者ではないとお思 い下さりませ。明日よりは、鬼のこゝろとなるつもり-ーーレ  闇太郎は、励ますように、 「噛まれたら、噛め、斬られたら、斬れーおめえが、どん な|酷《むご》いことをしてやろうと、お父さんお母さんの恨み、おめ え自身の苦しみに比べりゃあ、物のかずではありゃしねえ、 気を弱く持っては駄目だ。敵というかたきの、咽喉笛に喰い ついてやんねえ。曾我兄弟は十八年Ilおめえの苦心も、ず い分長いものだったなあ」雪之丞は、行燈の光をみつめるよ うにしながら、じっと、唇を噛んでいた。闇太郎は、ふと、 気がついたように、 「あの女のいきさつを知らせてえし、何だか気にもかゝるの で、やって来たのだが、長居は怖れだ。師匠でもはいって来 ると工合がわるい、じゃあ、けえるぜ」 「何から何までお心添、一生、未来、忘れることではありま せぬ」 「おいらも、おめえのことは、一刻も忘れねえつもりだー しがねえからだだが、いつもく、うしろには、田圃の職人 がついていると思って、存分にやってくんなよ」闇太郎は、 古ち上がった。見送る、雪之丞ー-女中どもの前では、どこ までも、役者と、|牙彫師《けぽゐし》1 「では、雪之丞親分、いずれそのうち」 「二、なたにも御機嫌よろしゅう」  その翌夜。雪之丞は、魚河岸から、美しい交ぜ魚、上方か ・b侍って来ていた京人形、芝居錦絵、さまぐな品を、とり プてろえ、二度目の病気見舞として、三斎屋敷に、例の浪路を 音ずれた。こないだ、盗賊の害を、未然に防いでくれたとい うので、土部家の歓待は、前にもまして、今は殆ど、内輪の 者も同然の心易さだ。隠居は、一恰度、入浴中とかで、すぐに、 浪路の病間ー奥まった離れに通される。実家に戻ったばか りには、恋にやつれて、正真の病人らしく見えるまでに、や つれ衰えても見えた浪路、雪之丞と、かたく誓いをかわした と信じ切った今は、頬のいろも生きくと、瞳には、きらめ かしい輝きが添わって、唇の艶は、まるで、春の花のようだ。 その目、その口が、雪之丞を見たとき、燃え、|喘《あえ》いだ。 「まあ、いそがしい中を、よう忘れずにー」と、飛びつく ・ように、彼女は迎える。 「お忘れして、どういたしましょうー」と、雪之丞、媚び て、怨じて、 「お言葉が、うらめしゅうござりますー--わた くしの胸を、どう思召しておいでやらー」       四  人を交えぬ、二人だけの、離れ家め静寂-絹張、朱塗の 燭の火が、なつかしく輝く下に、美しい、若い男女は、激し い情熱の瞳を見かわしたまゝ、いつまでも、手を取り合って いた。浪路の、息ざしは、荒々しく、喘ぎもだえる。 「どのようにわたしが、逢いとう思っていたかーとても、 にぎわしい日を送るそなたには、推量も出来ぬことだと思い ます1昼も夜も、|現《うつミ》にも、夢路にも、たゞもう、そなたの おもかげばかりがうかびつゾけて別れている間がこのように 苦しいと知れば、いっそ、逢わずにいた方が、ましであった とさえ怨みました。怨んでならぬことではありますけれど ー」 「わたくしとて、百倍のおもいに、わが身でわが身を、どう することも出来ず、大事な舞台の上ですら、ともすると、御 見物衆の中に、あなたさまのお顔が見えたような気がします と、手ぶり、足のはこびも|狂《くる》い、何度、ハッと|胆《きも》を冷やした かわかりませぬ。さりとて、しげくと、お見舞に上れる分 際ではなしーひたすら、われとわが素姓のいやしさが悔ま れてー男のくせに、と、おわらいなさるかも知れませね ど、浅草寺の鐘のひゞきを聴きあかす宵に、枕がみを涙でぬ らしたことでありましょう」雪之丞は、口の中に、苦い、|辛《から》 いものが、一めんにひろがるような気持右感じながら、狂言 の台詞をいうより、もっと情をこめて、輝きの美しい瞳に、 涙をさえ見せて、こんなことを囁くのだった。浪路の|情緒《おもい》 は、唆り立てられ、煽り立てられ、沸き立たせられるーー彼 女の全身は、いかなる炎よりも熱く燃えて、殆んど焼け死ぬ かと思われるばかりだ。 「まあ、そなたも、ほんとうに、それまでにわたしを思うて いておくれでありましたか?」笑っていゝか、泣いていゝか わからないものゝように、白い匂わしい美女の顔は歪み、紅 い唇は、熱烈な呼吸に乾いて来る。 「ほんとうにそうなら ーでもわたしには、何となく、まるで夢を見つ冥けている ような気ばかりされてー」と、彼女が、一そう強く、手を 引きしめると、雪之丞も、|緊《し》めかえして、 「夢でもござりませぬーまぽろしでもござりませぬーわ たくしの手を、こうしてつよくくお握りになっておいでで はござりませぬか」 「うれしい!」と、浪路は、|歓喜《よろこび》に戦傑して、「わたしはも う死んでもー」 「又しても、もったい無いー」雪之丞は、あわたゾしく抑 えた。 「わたくしこそ、このことが、御前さまにお気づかれ 申して、この場でいのちを召されましょうと、いっかな後悔 はいたしませ.ぬ」 「のう、雪之丞どの!」と、切なる声で、浪路は激しくさゝ やいた。 「わたしには、もう、一刻も、そなたとはなれて は、生きていられぬような気がしますーわたしは、うれし い1苦しい! 切ない! 雪之丞どの」 「浪路さま!」雪之丞の、腋下からは、冷たい汗が、しとゾ に流れ落ちて来るi  Iあゝ、何という浅ましいいつわりがこの口から出るの であろう! だが、わしはもっと、嘘をつかねばならぬのだ。 五 「のう、太夫-雪どの」と、浪路は、 なおも焼け付くよう な目で、あからさまに、雪之丞を凝視して、烈情に、身もが きもせんばかりに、 「わたしは、まそッと、まそッと、そな たにぴったり近よりたい。身も、こゝろも、魂も、二度とは なれることのないように、ひとつになってしまいたいーー」  それが、叶わぬ、この生れた家の一間を、彼女は呪い、憎 まざるを得ないのだった。雪之丞は、たゾ、深く、熱い歎息 をむくいるだけだ。 「のう、わたしには、もはや、こんなよそよそしげな仲で は、いられないー雪どの、たとい、今夜、死なねばならぬ としても、わたしは、そなたと|夫婦《めおと》になりたいー」 「あなたが、このお屋敷の御息女であるかぎりはー公方さ まの、おん想いものであられるかぎりは、プてれは存じもよら ぬことーわたくしこそ、お目もじいたさぬ昔が、恋しゅう ござります」雪之丞が、さも悲哀に充ちた調子で、そう言っ て、うなだれてしまうと、火のように熱い息が、彼の|耳朶《みモ》に ふれて、そして、驚くべき曝やきが、聴かれるのであった。 「では、わたしは、この家を、抜け出しましょうー」 「ま、何ということをーー」と、雪之丞は、びっくりしたよ うに、「このお家を、お抜け出しになる?」 「いゝえ、あとで、そなたに迷惑のかゝるようなことはせぬ ーお城へ二度とかえる位なら、死んでしまおうとまで決心 している身、姿をかくしたとて、何で、情深い父上が、しん からお答めになるでしょうlIそなたの名はださず、わたし は、町家に身を|堕《おと》してしまいましょう」 「いゝえ、わたしの迷惑なぞ、少しもいといはいたしませぬ が、もし、公方さまのおいかりにふれたならー」 「公方ざまとて、同じ人間-女の魂までも、自由になさる ことは出来ませぬ。いつぞやもこのわたしは、そなたと一緒 に棲めようなら、どのような山家をも、いといはせぬとゆう たはずじゃ」 「浪路さま! わたくしを、それほどまでにー」雪之丞 は、ともすれば、相手の至情、至恋に、哀れさを覚えようと するのであったが、浪路の白い|和《やわ》らかい肌の下には、親ゆず りの血が交うているのだとおもえば、いい難い汚らわしさが 感じられて来るのだ。  iこのわしに、人がましい心さえ持たせぬようにした も、みんな、二-、なたの父親たちの悪業からーわしを怨む な! 父を怨め! 「それほどまでにーなぞ、言われるとは、そなたも、あま りに、女ごころをお知りにならぬーー雪どの、そなたのうつ くしい姿に迷うて、身も世も要らぬとまで恩い込んだ女子 は、かず多くありましょうが、この浪路は、日本六十余州 を、おんあずかり申される、将軍家の、限りない御寵愛を、 弊履のように打ち捨てゝ、そなた一人と思いかえたのではあ りませぬかーさらくそれを誇るではなけれども、今少 し、この胸の中を察してたもー」 「冥加とも、かたじけないともーこの雪之丞とても、尽未 来、あなたさまのほかに、世上の女性にこゝろをうごかすよ うなことはいたしませぬー」二人は、抱き合うようにし た。美女の、髪の香の、何という悩ましさ! 六  浪路は、雪之丞の胸にすがりつくようにしたま\昂奮と 感動とに、声をわなゝかせて、誓うように言うのだった。 「雪どの、わたしの言葉が、真実であるか無いか、もうじき に、そなたは思いあたりなされますぞえ、iこの生|家《ず》に、 いっまでも日を消していたなれば、御殿から、かえれ、もど れと、申して来るは知れたことー現に今日も、|重役《おもやく》の老女 が見舞に見えられて、今は|竃《やつ》れ衰えも見えずなったゆえ、一 日も早う、大奥へ上がるようにーと、くりかえしていって でありました。のッぴきならぬお迎いが見えぬうち、わたし は、この屋敷から、屹度々々、すがたを消して見せまする。 そして、しばらくするうちには、慈悲ぷかい父上、かならず 御殿を何とかいいこしらえ、晴れて、そなたと共ずみも出来 るようにいたして下さるに相違ないーのう、雪どの1早 う、その臼が来ればようござりますなあ」 「ほんに、たった一度でも、そのような日に生きることが出 来ませば、はかないこの身、いかなる科に逢うともくやみま せぬ」雪之丞は、ひたむきに、恋に焦れ、ひとすじに、父親 の愛情にすがろうとする、浅はかな女の心根が、不欄にも思 われる。  ー哀れな女性よ! そなたは、わしの心の中には、いう までもなく気がつかず、また、あの三斎隠居の、やさしげな 顔に、どのような冷たさがかくされているのかも知らぬの だ。あの老人は、なるほど、良いむすめである間は、そなた をいかほども|愛《いつ》くしもうが、一度、心に背き、自分の栄華栄 達の道具に使えぬとわかったときには、子にもせよ、娘にも せよ、もはや敵として憎むほかはないであろうー -一  雪之丞の胸は、暗くなり、気弱ささえ出て来たが、そのと き、廊下で、足音がして、|衣《きぬ》ずれが近づいた。浪路は、うら めしそうに、その方へ目をやると、雪之丞から、やっと離れ る。いつもの老女がはいって来て、 「大分、おはなしが、お持てになりますようなi」と、何 もかもアのみ込んだように微笑したが、 「太夫どの、御隠居 さま、おたずねをおよろこびなされ、お杯を下さるとのこと ーお居間まで、おいでなされませ」 「かたじけのうござりまする」雪之丞は、浪路の許をはなれ る機会を得たのをよろこんだ。じっと、浪路を見上げて、手 を突いて、 「それなれば、御隠居さま、お召しでござりますゆえ、これ にてお別れをつかまつりまする」 「それなれば、そなたも気をつけてー」と、だけ言うの が、浪路には、一ぱいのように見えた。そして、熱にうるん だような目で、  ーー今の一一、日葉は、かならずともに、おぼえていてたも。屹 度屹度誓いを果アてうほどにー  必らず、その日を、まちまする。  と、いうように、雪之丞も、今一度、浪路と目を見合せ た。居間では、三斎隠居、湯上がりの顔を、テカテカさせ て、上機嫌だ。 「おゝ、忘れず、ようこそ娘を見舞うてくれたの。今宵は、 めずらしく、客もなく退屈のところ、ゆるく相手をしてく れますようー」  雪之丞は、かぎりない恭敬さを以って挨拶するのだった。       七  五日ばかりが過ぎて、江戸は、いよく真冬らしかった。 芝居小屋の前に立ちならぶ、|幟《のぼピ》の、青、紅、|藍《あい》の、派手々々 しい色も、いくらかくすんで来て、中村座の顔見世狂言も、 干秋楽の日が、そう遠くないことを思わせる。その晩、雪之 丞は、すばらしい贈りものを受けた。さる|贔眉《ひいき》よりという名 義で、彼自身へは、越後屋見立の、名にちなんだ雪に南天の ーその南天には、正真の|珊瑚《キ いんご》を用いたかと思うばかり、染 いろも美しい衣裳一かさね。外に、金欄の帯ー1師匠菊之丞 へは、黄金彫の金具、黄金ぎせるに、南蛮更紗の萸入ーほ かに、幕の内外、座中一たいに、一人残らず目録の祝儀とい う、豪勢な行き渡りだった。雪之丞にも、この無名の贈り主 に、ちょいと、心当りがなかった。  ;-大方、どこぞの、大名隠居か、お金持の仕わざであろ うが、さすが、江戸の衆は、思い切ったいたずらをなさる。  なぞと、思っていると、楽屋に一通の文が届いて、ひらい て見れば、珍しく、広海屋主人からの招きのたよりだ。  ーおゝ、広海屋! あの人は、いつぞやの、わしの言葉 を、どう聴いたであろう! 上方持ち米の、江戸廻送を、ほ んとうに行ったであろうか?  孤軒老師のおしえで、広海屋と長崎屋を、深刻に噛み合せ るために計った、あの|策略《きくめやく》が、どんな効を奏したか、もう結 果がわかるころであった。雪之丞は、否やなく、閉場をまち かねて、かごに揺られて、例の根岸の、ひっそりした鶯春亭 の奥座敷に、広海屋の席へ出た。広海屋は、今夜、いつもよ 〜 り一そう福々しく、しかも、細い、象のようにまぷたの垂れ た目が、生きくと、きらくと輝いているようだ。 「さあく、これへ1健固で、相変らずの高評、お目出た いな」と、富豪は迎えて、 「ときに、今夜、楽屋に、思いが けぬものが届いた.であろうがー1」雪之丞は、広海屋の極上 の笑顔を見て、-ーさては、あの贈りもの、主、この人だっ たのだーと、思い当った。 「はー」と、何か、答えようとすると、押っかぶせて、 「いや、つまらぬもので、礼には及ばぬが、実は、あれは、 そなたへ、お礼と言い、かつは、心いわいのしるしじゃ。こ ころより、受納にあずかり度い」 「お礼と、おおせられますと?」  雪之丞-例の一件に関してのこととは思ったが、気がつ かぬふりでーi「何やらわかりかねまするがi」広海屋の 声は、急に低くくひそまった。 「おわかりにならぬかな? 思い当ることはないかな? の う、太夫、そなたのおかげで、この広海屋、どうやら、江戸 指折りの男になれそうじゃがー」 「お言葉、狐につまゝれもいたしたようでー」どこまで も、雪之丞は、芸道一すじの、邪気のないふりでいう。 「忘れられたかな? そなた、いつぞや、お重役衆が、わし について何か仰せられていた話を聴かせてくれたであろうが なーな、思い出したであろ?」広海屋は、ますく目を細 めて、雪之丞をみつめるのだった。 八  広海屋の、さも満足げな目つきを、じっと見返した雪之 丞、ハッと、思い当った風で、軽く、しなを作って、膝を打 って、 「はあ、いかにも、思い出しましてござりまするー江戸 表、米穀払底の折柄、上方のお持米をおまわしになりました ら、さぞ.世間がよろこぶであろうというーあの、お噂ばな し」 「そうく、その事じゃて!」と、広海屋は、大きくうな ずいて、 「商売のことは、何がきっかけになるかわかるもの ではない。|他人《ひと》さまのお噂を、すぐ告げてくれられた、そな たの心入れもうれしいが、それを|仇耳《あだみモ》に聴き流さず、早速決 心、手配した、わしの心持も、まず讃めて貰わにゃならぬ。 わしが、上方で買い〆めて置いた米を、東へ、のこらず一ど きにまわすといい出すと、店の番頭手代どもゝ、持ちこらえ ておれば、高う売れるものをと、否やをいうものもあった が、押し切って、大荷を、船積させたほどに、もう二三日 で、晶川の海から、米船が、ぞくくとはいって来るわけ ーこれで、江戸表の、天井知らずに|騰《あが》っている米価が、ず うんと下るは必定1その上、施米なぞもいたすつもりで、 お上役向、名高い御寺の上人さまにも、御相談申しておれ ば、おかげで、広海屋の名は、天下にひゞきますぞー」 「それは、また、思い切ったなされ方--江戸の人々はさぞ よろこびましょうが、、それにしても、大した御損を見るわ けーわたくしは、よけいなことを申し上げたような気がし てなりませぬ」雪之丞が懸念そうに、眉を寄せて見ると、相 手は、かぶりを振って、 ノ 「いやく、もとく、上方、西国の田舎に手をまわし、貧 しい百姓のふところの窮迫を見とおして、立毛のうちに、ご くやすく手に入れて置いた米、なんぼう安く売ろうと、儲け は十分、ことさら、一どに大金がはいるわけゆえ、その利分 がまた格別じゃ。世間さまの、評判をいた讐いた上、大金も うけも出来るというので、このところ、広海屋万々歳1そ なたには、どれほど礼をいっても足りませぬ」雪之丞は、し かし、ため息を吐いて、 「とは申せ、米価騰貴をお見越しになり、商いをされておい でだとうけたまわる、長崎屋さまにはさぞ、お手傷でござり ましょうーわたくしは、あのお方にも、一方ならず肩入れ をいたゞく身、今更、何となく、申しわけない気がいたしま する」と、わざと、しおれて見せると、広海屋が、きっぱり とした表情になって、 「その辺は、わしも考えて見ましたが、長崎屋が江戸の人々 め困難をつけ目に、すわこそと、安く仕込んだ米に十二分の 利得をみて、只今の高売りをいたしておるは、どこまでも、 人の道にはずれたはなしーわしもあれとは、仲の良い友達 だが、また、今度のうめ合せは、あとでいたして上げられも しましょうゆえ、この場合は、世間さまの御便利をはかる が、何よりと思つたでなーま、そのようなことは、わしに まかして置きなさいーなんの、そなたが、長崎屋一入を贔 演のかずから失おうと、わしがついている限りは、大船に乗 った気で、安心して貰いたいーときに、今夜こそは、前祝 に、これから、吉原へ、是ッ非、一緒にいって貰いたいな」 ぷンノ\と手を鳴らして、「末社どもに用談すんだと申して くれ。 そしてすぐに|吉原《なか》へゆくゆえ、 九 乗物の、支度々々」  雪之丞も、つね介\ならば、仲の町のお供なぞは、平に辞 退するのであるが、今宵は、自分の差し金で、広海屋が、上 方米を廻漕し、やがて、長崎屋と一戦を、開始することにも なろうと言うことを、ハ旧ノキリと聴いたので、一種、異様な 満足を覚え、なおもとくと、この大商人の有頂天なありさま を見聞し、やがて打って変った大打撃をあたえた場合、喜悲 両様の表情を思い比べて見たいというような、意地の悪い好 奇心にさそわれ、とも人\北廓への乗りものをつらねたので あった。花こそなけれ、菊こそすぎたれ、不夜城のにぎわし さ! 明るさ! 引手茶屋に着くと、いつか、先乗りが触れ 込んでいたと見えて、芸者、太鼓持が、かごを下りる姿茄見 かけて、ずらりと顔を揃えて迎える。 「よう、お大尽の御来駕!」 「名古屋山三さまの御着到!」錆びごえを、ふりしぼるのも あれば、金切ごえを振り上げる女もあり、すぐに、かつぎ上 げるようにして、一行を、二階に押し上げる。百目蝋燭を、 ともしつらねた|灯光《ひかげ》が、金屏風に、|度強《どぎつ》く照り映えるのも、 この土地なれば、浅ましからずふさわしく見える。琉球朱の しっぼく台に、料理がはこばれ、めぐる杯と一緒に、お座つ きは、太鼓がはいって、 「執着」のひとふしーそれが、済むと、浮いた浮いたと、 太鼓持が、結城つむぎのじんくばしょり、|甲斐絹《かいき》のパッチ のとりもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑 ■轟L栞丁 榊 湧くがごときところへ、広海屋の馴染の、玉葉太夫というの が、たいまいの|鉾《こうがい》、 蒔絵の櫛も重そうに、孔雀の尾のヶち かけを羽織って、しずかに現れる。 「イヨ、弁才天女の御来迎!」何やかやと、あり来たりの掛 ごえがあって、酒興はいよくたけなわになるのであった。 明日は、大切な舞台を控えている雪之丞、いゝ程にして、戻 ろうと、杯の水を切って、 「逆にて御無礼ではござりますがー」と、広海屋に献し た、そのときだった。階下で、何やら女たちのかしましい歓 迎のこえが聴えたが、その中に、ふッと、 「これは、まあ、ようこそ! あちらさまは、もうとうにお いでになっております。さあ、どうぞー」と、いうような 言葉がまじるのを聴くと、広海屋は、屹と、鋭い目つきをし て、眉根をぐっと引き寄せた。そして、雪之丞にちらと目ま ぜをして、 「ほう! 長崎屋が見えたらしいぞ。いつも、わしと一緒 じゃで、此家では今夜も伴れと思うている」雪之丞は、胸が 躍るような気持がした。自分の、ほんのちょいとした暗示か ら、百年の親友が、一朝にして仇敵と変じるのだと思うと、 二人の顔を、見比べてやることの、どんなに痛快なことであ るか! 「そうくその広海屋さんが、今宵、大方、こっ|家《ら》へこられ たように聴いたので、来ましたがーそうか、やはりおいで なされたかー」そんな声が、階段の方で聴えたと思うと、 女房が入口に手をついて、 「日本橋河岸さまがお見えなされました」 「蛇の道だなーさすがにー」と、広海屋が、わざとらし く笑って、「さあ、長崎屋さん、おはいりなされ」  雪之丞も、かたちをあらためた。       一〇  長崎屋三郎兵衛は、茶無地の羽織に、細かい縞物、みじん 隙のない大商人風だが、今夜の顔色は、いつに似ず、青黒く、 目が吊って、表情にあからさまな不機嫌さが、液っていた。 その長崎屋、座中の男女が、かまびすしく、喋々しく、歓迎 の叫びを揚げるのにも、広海屋の笑顔にも、殆ど無関心に1 1と、言うよりも、寧ろ煩さげに、座にはいっ`たが、 「御酒宴中を、迷惑とは思ったが、広海屋さんーこなたか ら、是非、伺いたいことがあって、行先きをたずね/、、ま いりましたがー」長崎屋の、沈痛な顔いろに、側に寄って 行った芸者も、太鼓持も、盃をすゝめることも出来なくなっ たようであった。 「訊きたいこととは? 更まってーそなたと、わしの間で ー」広海屋は、持ち合せた盃を献そうとしたが、長崎屋 は、それを、押しのけるようにして、 「いや、まず、おあずけにいたそう!実はそこどころでは なく、わしの店でへ騒いでいるのでー」と、いって、屹ッ と、相手をみつめて、「こんな場所で、どうかと思うが、い そぐゆえ、伺いますが、こなたの上方の持ち米が船積みされ、 今ごろは、もう、伊豆の岬にも、さしかゝっているであろう ーとのこと、実証でありますかな?」 「おゝ、おゝ、そのはなしでしたか?」と、広海屋はさも、 つまらないことのように、軽くうけて、「いかにも、さるお 方のおすゝめで、江戸はかように、米穀払底、今にも、米屋 こわしでも、はじまるばかりになっている折柄、そういって は何だが、裕福な、物穀商人、さては、扶持取り|禄高《ろく》とりの お武家衆のみが、遊蕩の、道楽のと、のんきでいるのは、天 地に済まないことー広海屋は、幸い、豊作の上方、西国に、 たんまり米を持っているとのことゆえ、この場合、思い切っ て、持ち米を東にまわし、損を覚悟で売ったら、江戸の人々 への恩返えしになろうー第一、その方は、西の果てに生 れ、江戸で商人の仲間にはいっていること、こんなときこそ、 一肌ぬがねばすむまいが、1そんな風に申されたので、の ッぴきならず、大損を見こしての回漕ーいや、もう、長崎 屋さん、お互のことだが、他国者はつろうござんすな」ひど ぐ、気軽に、しかも、不平たら人、のように、広海屋はいっ て、吸いつけた莫を、輪に吹いた。長崎屋は、腕組をして、 そのはなしを、じっと聴いて、上目.つかいに相手をじろりと 見て、 、、なるほど、それで、おはなしの筋は呑みこめました。で は、町奉行所にお願いを立て、貧民への施米、破格の廉売と いうのも、まことのことでごげ、」りますな?」 「さ、それも、こちらから申し出したわけではなく、お役向 からの、ねんごろな談合、わしとて、爪に火もともしたい商 人、すゝんでのことではありませぬが、この際、おえらい方 方に憎まれては、広海屋の見世の立つ瀬がないと思われたで なーはい」広海屋は、|活然《てんぜん》として、いって、「実は、そな たにも、おめにかゝって、施米、廉売の、片棒をかついで貰 いたいと思っていた・ところじゃ」長崎屋は、下唇を、 噛み締めるようにして、目を伏せて聴いていた。 一一 ぐっと 「広海屋さん、おぬし、まだ、物忘れをなさるお年とも、思 われませぬがなー」突然、モソリとした口調で、長崎屋が 言いかけた。明らかに、反感と憤怒とがふくめられているそ の言葉を聴いたとき、雪之丞以外の一座の男女も、はじめ て、この二人の間に、いつもとは全く反対な、暗い、怖るべ き空気が流れているのに気がついた風で、ぴたりと、曝やき ごえさえ止ってしまった。 「は、は、は、わしも、もう六十1少し碧けているかも知 れぬが、まだく、大事なことは、そう|胴《ど》忘れもせぬよう じゃ。は、は、は」広海屋は、歯牙にかけぬように笑って、 杯に注がせて、口に運んだ。 「はて、それにしては、いぶかしいーおぬしは、わしとい う人間がそなたの友達の一人でいるのをすっかり、忘れてお しまいになっていると思いましたよ」長崎屋は、広海屋と は、言わば振り出しの分際が違っていた。長崎屋は、雪之丞 の|故家《こカ》、松浦屋を好計に、陥いれて破滅せしめたころは、ま だその店の番頭にすぎなかったし、広海屋は当時すでに、長 崎表で、海産問屋の相当なのれんの主であったのだ。年も違 う。それゆえ、二人とも、浅ましい慾望の一部を成し遂げ て、とも人\、江戸にまで進出して来て、世間から、記めら れるよ.つになったのちも、長崎屋は、広海屋を、どこまでも、 先輩、上座として、表面に立てゝいたのだ。腹の中では、い +'昏 つか雪之丞に打ち明けた通り、広海屋を、乗り越そう乗り越 そうと計っているのではあったがーi-  されば、呼びかけの名にしてもー1  !!広海屋さんーとか、  ー…お前さまーとか、  --1こなた-1ーとか、いうような言葉を使って、ついぞ、 長崎屋の口から、  -iおぬしーなぞという、ぞんざいな言葉が洩れたこと はなかったのである。  -この人達には、何か、わだかまりがあるな?  と、心利いた太鼓持、年増芸者なぞは、思い当りもしたで あろう。そして、座をはずした方が、よくはないかと、考え たで・あろ」つ-ー、-  しかし、彼等は、途方に暮れた風で、そこに、そのまゝ、 居すくんでいる外はないのだった。  i弱ったな! どっちも、しくじっては困る客だしiI  ひそくと、彼等は目と目を見かわしていた。 「どうしてまた、長年懇意にしている友だちを、忘れるよう なことがありますものかーそなたは、何か、勘違いをして いなさるようじゃ」  広海屋は、相変らず、落ちついた調子で言って、 「一たい、なぜに、そのようなことをお言いなさるのか? わしには、見当もつかない」 「広海屋さん、この長崎屋は、今、手一ぱいな商いをしてい ますのだが、それは、よう知っていなさると思うのでー」 長崎屋は、食い入るような目つきで、坤いた。「その商いを、 おぬしは、片はしからこわそうとたくんでいなさるーーそれ が友達か?」       一二 「長崎屋さん、そなた、少し食べ酔ってでもいなさらぬかー -わしが、そなたの商いを、片はしからたゝきこわす! そ のようなこと、患うても見なされ、あろうことではない。わ しとそなた、二十年の仲じゃーノてなたの仕合せをこそいの れー」広海屋が、長崎屋の憎悪に充ちた言葉を聴いて、こ う答えて、猫なで声になって、「それに、この座で、其のよ うな話はちと不似合-商売のことなれば、あとでゆっくり 談合いたすことにして、そなたも、まず、機嫌よく、一ぱい すごしなさいよ。福の神は、渋面づくっていると、とかく、 向うを向くと、言うによってなー」 「いやく、わしは、そんな心の|閑《ひま》はない-場所柄も何 も、言っていられぬ破目なのじゃ」と、長崎屋は、あたかも 嘲けりでも浴びせられたかのように、却って、ますくいき り立ったが、ふと、心を持ち変えたように、急に、両手を膝 に置いて、 ¶これは、広海屋さん、わしが、すこし、からん だ物の言い方を、しすぎたかも知れませぬiIそなたに、折 り入っての頼みがありますので、一それを、肯いていたゞきた いのでござりますがi」 「え? 頼み? 何なりと-身に叶うこ亡なら」何でもな げに広海屋は答える。 「有ようは、広海屋さん、折角そなたが、上方から、江戸表 まで回漕なされた、五|艘《はい》の米船iIそれを、大阪に引ッ返さ 〜 せなさるか、それとも、例の廉売、投げ売りを思いとまっ て、わし達の手に渡してはいたゞけないか?」長崎屋は鐵枯 れた声で、思い入った調子で、こう言い切った。広海屋は、 あからめもせず、相手の顔を跳めたーむしろ、呆れたとい う表情でII 「長崎屋さん、少しばかり、それは無理な御注文だの」 「いかにも、無理は、よう知っています。そこを、何とか、 御勘考なされてi」長崎屋は、頭を下げて見せた。広海屋 は、首を振って、 「どうも、ほかのことなら、そなたとわしの仲、何ともしよ うが、今度のことばかりは、この広海屋も、損得を捨て、た だ人さまの為めになろうとして、思い切っての大仕事1す でに、お上すじとのお約束もあり、こればかりは堪忍して貰 いたい」 「では、おぬしは、年来の|交誼《よしみ》を捨て、この長崎屋の、咽喉 をおしめになるつもりだの?」 「何の、そんな、馬鹿らしいことがi」と、広海屋はカラ カラと笑って、 「長崎屋さん、お互に、米穀のあきないにまで、手を出して はおれど、そなたも物産海産の方で、立派なのれんを持って いなさるお方-思わくの米商いが少しばかり痛手を負うた とて、世帯に何のかゝわりがあるではなしーそれに、今度 の米の値上がりでは、これまでに、たんまり儲けてしまわれ ている癖に、は、は、は、は、は」長崎屋は、ぐっと、広海 塵を睨めつゞけた。今まで、辛抱して、妙な座敷に坐りつゾ けていた芸者、末社は、いつかコソコソとはずして、広海屋 買なじみの太夫と、雪之丞とがいのこっただけだった。広海 屋の、皮肉な笑がおと、長崎屋の|憤《いきどお》りに充ちた顔とが、向 け合わされたまゝでいた。       一三 「おぬしは、いろくと言うてくれるがなあ、広海屋さんー ー」長崎屋は、青ざめた|泥焔《でいえん》を吐くように、|坤《うめ》くように言う のだ1限りない怨みをこめた目で、睨め上げながら、「な るほど、わしは物産問屋のはしくれ、米が主なあきないでは ないけれど、商人は、ひともわれも同じこと、大がねを儲け るには、時には、思い切ったばくちを張らねばならぬ1折 も折、関東一帯の大不作、これが三年もつゾけば、磯鐘も来 ようかといわれている昨日今日、こゝらで、一つ度胸をきめ ねばと、手一ぱいに、米の買い〆めーどこまで、わしが乗 り込んでいるかは、おぬしも知っていてくれると思ったがな あ・ー1」広海屋は答えずに、|煙管《きせる》を取り上げて、たばこを詰 める。「その手一ぱいの買い〆めが、これまでは図星に当っ て、たとえ世の中からは、何といわれようと、この分で、あ きないが続くことには、長崎屋の世帯も、その中には、倍に はなるーと考えていたところへ、おぬしの今度の采配II 関東の凶作に引きかえて、九州、中国にだぶついている米が、 どうッと潮のように流れ込んで来たならば、わしの思わくは 丸はずれーこれまでの儲けを吐き出すはおろかハ長崎屋の、 |財産《しんだい》を半分にしてしまっても、まだ帳尻はうまるまいーな あ、広海屋さん、おぬしだとて、このわしと、まるく赤の 他人でもない筈だ。昔のよしみで、こゝのところを、何とか 一思案して貰われまいかー」と、長崎屋はきつくいって、 また|梢《しお》れて、「もう、こうなっては、恥じも、外聞もない1 長崎屋、こうして、この色ざとで、そなたの前に手を突くゆ え、どうぞひとつこのわしを、助けてはくださらぬか?」必 死のいろをうかべて、畳に、手を下ろそうとするのを、広海 屋は押し止めて、 「何をなさる長崎屋さん、そなたは、何か思いつめて、考え 違いをなすっているようだーそなたとわしとは、同格、同 業、そのように頭なぞ下げられては、罰が当る。さ、どうぞ、 手を上げて下さい」 「それなら、広海屋さん、わしの願いを聴き入れてi」 「そなたと、わしの仲、そこまで申されるのを、押し切って 否むのは、何とも心苦しいが、さっきにもいうとおり、上方 米の、東まわしは、わし一存のことではなく、実は、さる筋 からの耳うちがあって、このまゝ、米の値を上げてゆくとき は、世間が騒々しくなり、貧しい人達が、一|撲《キい》騒ぎを起さぬ とも限らぬ-広海屋、そちは、幸い、上方に持ち米多きよ し、思い切って御奉公せよーとのお言葉-わしも、辛い が、よんどころなしの仕事ー長崎屋さんに、今度のこと で、ほんの僅か損をかけようとも、又の日、何かでうめ合せ もいたしましょう。この話だけは、まず打ち切りに願います よ」長崎屋の、噛み〆めた下唇からは、血がにじんで来るか と思われた。 「うゝむ」と、槍って、「そんなら、おぬしはどうあっても!」 ギリノ〜、と、奥歯が鳴った。 「商売は、いわば戦さ、親子兄弟、敵になることもあるによ ッてなー」広海屋は、平気で答えた。長崎屋は噛みつくよ うな表情になって、 「広海屋さん、おぬしは、長崎以来のことを忘れたかな?」  その一語は、広海屋よりも、まず雪之丞の胸を激しく突き 動かしたに相違なかった。       一四 「広海屋さん、おぬしは長崎以来のことを忘れたかな?」 と、毒と呪いとをふくませて、長崎屋が言いかけたとき、雪 之丞こそ、ハッとしたが、案外広海屋は平気だった。 「ナニ、長崎以来のこと? それはもう、そなたもくりかえ し申されたとおり、古い馴染じゃ。さまハ\のことがあろう なあー」 「わしは、そのようなことをゆうているではないー」と、 長崎屋は血走しった目で、 「そもくおぬしが、今にも傾き かけた広海屋の店を、急に何倍にももり返すには、わしの力 が加わってはおらなかったろうか? そなたは忘れてしまっ たかなれど、わしにはまだ昨日のようじゃーあの人の好い 松浦屋さんを、いゝ加減な嘘八百でたらし込んでーー」と、 いいかけて、さすが絶句して、荒々しく喘いだ。雪之丞は、 顔いろが変るのを感づかせまいとしてうつむいた。  --あゝ、みんな、父御のお引き合せ、御亡魂の御念力 じゃーこのわしの前で、二人が二人べらくと、昔の悪事 をしゃべり出そうとは!  彼は、ガクガクと、身ぷるいがして来るのを、一生懸命に 押えながら、耳をすます。 「なあ、あの、悪いこととゆうたら、夢にも見たことのない ような松浦屋の旦那を、魔道に落し、骨をしゃぶり、血を畷 って、一家退散させ、気ちがいにまでしたのは、どこのどな たじゃ」と、長崎屋は、一度はためらったもの\'広海屋の悠 悠とした表情を見ると、煽られ、唆られるように、べらく とこんなことをしゃべり出す。広海屋は、軽く、冷たく笑っ た。 「ふん、そう言うと、わしばかりが悪人のようなれど、その 松浦屋に、子飼から奉公して、人がましくして貰うた癖に、 主人に煮湯をのませたのはどなただったといいとうなるー が、のう、長崎屋さんー」肥満した大商人は、迫らない調 子で、むしろ、逆におびやかすかの如く、 「まず、あまり、 そういうことには触れない方、お互のためであろうがー長 崎の昔ばなしには、かゝわりのあるお方が、外にもたんとあ ることだ。そのようなことを口外したら、そなたのためにも なりますまいぞ」長崎屋は、一そう焦ら立たずにはいられな いのだ。 「いやく、もう、こうなれば、どんなお方も怖うはない! 1わしは、大ごえで、今どき世にはゾかる、えらい権威を持 たれた人も、昔はこれくの悪事に一味して、罪ない町人 を、浅ましい目にあわせた1今の栄華も、不義の宝ゆえこ そじゃーと、世間一帯に触れてまわるわ」 「ほ、ほ、ほ、ほ!」と、広海屋は、口をすぼめるようにし て、笑殺して、「たわけたことをーそなたが、そのような ことを、どんなにしゃべりまわったとて、世の中で信用する ものもなければ、つまらぬことで捨て鉢になり、馬鹿なこと をいいふらすのが、耳ざわりと思召せば、あの方々は、そな たを二日とは、この世に生かしてはお置きあそばすまい。ま あ、悪しいことはいわぬ。気をしずめたがよかろうにーー」 長崎屋は今は憤怒に堪えかねたように、相手の袖をぐっとっ かんで、 「広海屋、では、わしを殺す気だな?」と、隠るようにいゝ かけた。 一五 「そなたを殺す? 殺したとて、わしに何の役に立とうー まず、気を鎮めたがよいと申すにi」と、広海屋は、長崎 屋がつかみ〆めた袖を、振りはらって、 「そなたは、ちと、 気がどうかしたそうな!」 「気も狂おう! 二十年の、苦労、難難、おぬしのために滅 茶滅茶じゃ1覚えておれーどうするか!」長崎屋は、ズ イと立って、荒々しい足どりで、広間を出て、そのまゝ階下 に下りてしまったが、荒れすさんだ気色を見て、茶屋を出て ゆくのを、引き止めるものもないらしかった。 「は、は、は、は、人間も下ると怖いものだのうーー-同業切 っての凄腕と言われた長崎屋、あの血迷い方は何としたもの じゃ」雪之丞は、わが身の|科《とが》がおそろしいというようにー 「こうしたことになると知りましたら、いつぞやのようなこ と、申し上げはしませなんだにil」 「いやく、そなたに何のかゝわりもない。みんな商売道の 戦いじゃ」広海屋は、得意満面で、「もう決して気に|病《や》まぬ がよい。一たいに、あの長崎屋、功をあせって、一の力で二 の働きをしようとのみもがき、おとなしく本業をいとなむこ とを忘れ、米あきないなぞという、大きな|資本《もと》がなければ叶 わぬことに手を出したが、あやまりじゃ。その上、今度の、 米価の釣り上げでは、お上はもとより、御府内の人々のいか りを買っておるゆえ、今夜にも明日にも、店をこわされ、む ごい目に逢うかも知れぬーそんなこんなで、あのように、 気も狂わんばかりあがきおるが、それも身から出た錆1せ ん方もあるまい」雪之丞は、その時、不思議な衝動に駆られ て、じっと、広海屋をみつめて、しかし、さり気なく、 「そ れにしても、何やら、長崎以来のことを、とやこうと、あの お人はおいいなされましたが、あなたさまに、御迷惑のかゝ るようなことがありましてはlI」広海屋の目つきが、キラ リ不安そうにきらめいたが、 「は、は、なるほど、そんなこともゆうていたの? なに、 何でもないはなしーお互に長崎にいたとき、わしの商売が たきに、ある老舗があったのを、あの男と、力を合せ、あき ないの競り合いに、競りまかして、のれんを下させたのだ が、そんなことは、商人道の恒i罪も、とがもあろうはず がないのじゃ」  ーー悪逆無道な、罠にかけ、父御を破滅させ、母御まで死 ごせて置いて、罪も科もないー商人の恒だとは1  雪之丞の、腸は、煮えくりかえる。が、彼は冷たく誓うー  ーまず、しばしの間、存分なことを言うておるがよい。 長崎屋の|股鑑《いんかん》は、見る間にそなたの身の上であろうー- 「又しても、興ざめのことばかりーさ、にぎやかに一はしゃ ぎしようのう。これ芸者たちはどこへ行った? 今夜は、 小粒かくしをして遊ぼう。わしが隠す銭、探しあてた者は、 いくらでもにぎわそうぞ」酒興は、狂おしく起った。雪之丞 は、もとより廓内に足ぶみを、公けに出来ぬ役者の身、それ を口実に、いゝ頃合いを見はからって姿を消したのだった。 一六  仲之町の引手茶屋から、複雑な気持で、かごを走らして宿 に戻った雪之丞は、真夜中にもかゝわらず、そこに、一人の 男が自分を待ち兼ねていることを、召し使から告げ知らされ た。雪之丞は、寒そうな顔をして、小部屋で、小火鉢をかゝ えていた、その男から、 一通の封じぶみを渡された。開いて 見ると、匿し名にはなっているが、それが、浪路からの密書 であるのは、すぐにわかった。浪路は、美しい|水茎《みずくき》のあとで、 こう書臼いている。   おめもじいたしてより、胸もこゝろも、たゞノ〜焦れた   かぶるのみにて御座候、されば、若き身をとじこめ候鑑   より、今日ようやくのがれいだし、古き乳母のもとをた   より、その者の手にて、小石川伝通院裏の、小さき家に   しのびかくれ申し候。|椎《しい》の大木のそばたちたる蔭の、さ   さやかなる宿をおたずね下され候わば、そなたさまのみ   恋明し申しおり候、あわれなる女のすがたをこそ、お見   いだしなさるべく候。更け渡り候えども、こ・、ぴい、お越   したまわることをのみ念じ上げまいらせ候。かしく。  !さては、浪路どのも、とうとう、屋敷を抜けいでられ たのじゃな?  苦がい、     、、美しい女形の口元をよぎった。  ー-家は愚か、父兄は愚か、公方の威光までも、恋のため に土足にかけようとするとは、あのお人も、思い詰められた ものと見えるー  ともすれば、哀憐の情が、湧いて来そうになるのを、彼は 圧し伏せて、  ー1ともかくも、返じだけは書かずばなるまいーもう、 二度と、逢う要のないお人ではあるがー  と、思ったが、その返じを書くことさえ、この場合、つゝ しまねばならぬと、すぐに反省するのだった。  iいやくどこまでも、今後は、かゝわりをつけてはな らぬ-1恨まれ、呪われるのは、はじめから覚悟の上じゃ。  雪之丞は、使の男の前で、文を読んでしまうと、巻きおさ めながら、いぷかしげな表情をうかべて見せて、 「これは、どなたよりのお文かは、存じませねど、わたくし には、のみこめぬことばかりでござります。どうやら、ゆき ちがいがありますようなー」 「はて、わたくしは、雪之丞さまにこのお文をおわたし申 し、なるべくは、御一緒に、おともない申すようにとの、お たのみをうけてまいったものでござりますがーわたくし は、あのお方の、乳母の伜にあたるものでござりましてー」  実直そうな男は、もぞくと、そんなことをいったが、雪 之丞は、首をふるようにして、 「さ、それが、わたくしには、何が何やらわかりかねますの でーこのお文は、どうぞこのまゝ、お持ちかえりをー今 宵はひどくくたびれておりますほどに、失礼をいたしますi ーこれは、おかご代」白紙に包んだものを、使の男の前に置 くと、彼は、そのまゝ、つと、立って、わが部屋にはいって しまった。男は、どうしようもなく、戻って行くのだった。 谷中の怪魔       一  上野の|堂坊《どうぽう》のいらかが、冬がすみのかなたに、灰黒く|煙《けぶ》っ て、楼閣の丹朱が、黒ずんだ緑の間に、ひっそりと沈んで見 える、谷中の林間だ。このあたり一帯、|人煙稀薄《じんえんきはく》、枯すゝき の原さえつゾいているのだが、寛永寺末の、院、庵のたぐい が、所まだらに建っていて、おおかたの僧坊は、信心深そう な僧尼によって住みなされていた。が、中には、いつか、無 住になり、荒れ果てゝ、雨風も|漏《も》り落ちそうに、屋根、軒も 破れかたむいたのも多い。そうした荒れ寺の一軒、|老杉《ろうキ しん》の、 昼も暗く茂った下かげに、壁すら落ちて、その破れ目からす さまじい初冬の月も差し込みそうなのが、鉄心庵-ー-|前住《ぜんじゆう》が 建てゝ、四十年あまり、谷中で鉄心といえば、この世の者で ないほどの脱俗ぶり、食べるは生ごめ、飲むは水の脱俗ぶ り、といったような生活をつゾけて名高かった尼僧が、ぼく りと枯木が|朽《く》ちるように|什《たお》れたあと、長く、廃庵になってい たのを、二三年この方、いつとはなしに、図体も六尺近いか と思われる、いが栗あたまの坊主が、住みついてしまって、 世間が何といおうと、今は、立派な庵主づらをしておさまっ ているのであった。その鉄心庵の現住ーーとき人\生ぐさ物 の匂いがぷんくとかおって、貧乏徳利がいつも台どころに J ころがっているだけで、経を読む声さえ、通りがかりの誰も が聴いたことがないというのだから、いずれ、|破戒無漸《はかいむざん》の悪 僧とはわかっていたが、さりとて、それをとがめるものもな いのだから、寺法格式が厳重だとはいっても、ゆるやかな時 代には相違なかった。だが、何人も、この坊主の前身を、ほ んとうに気がついているものはすくなかろう1鉄心庵現住 の、大坊主、これこそ、その道では名の通った、島抜けの法 印という、兇悪な|代《しろ》ものなのだ。十三四のころ、さる法印の 弟子となって、厳密な修行をつゾけさせられていたが、持っ て生れた根性から、色慾二道にふみはずし、榑つわ、飲むわ 博徒の仲間にはいって、入殺し兇状を重ね、とうとうほんも のゝ泥棒渡世をかせいで、伝馬町の大牢でも顔を売り、遂 に、三宅島に送られ、そこを破ってからは、|杏《えよヤつ》として消息を 絶していたのが、いつの間にか、鉄心庵主としておさまって いる。その素姓を知っているのが、闇太郎等の、ごく僅な連 中1-軽業お初といわれるほどの女さえ、この|庵《いおあ》の秘密は知 らない。島抜けの法印は、婦女誘拐を職とする、|法網《ほうもう》くゾり の女衝たちのために、仲宿をすることもあるので、女わらべ の泣きごえが、世の中に|洩《む》れるのをはゾかり、|庫裡《くり》の下に|窩《あなぐら》 岸一掘って、そこに畳をしき込み、立派な密室を造っていた。 さればこそ、闇太郎、雪之丞のために、軽業お初を、しばし の間この世から|隔離《かくり》する必要が生じたので、この坊主を思い 出し、湯島切通しから、かごごと盗んで、深夜かつぎこませ たわけであった。島抜け法印、いつもであれば、預かりもの が、年はもいかぬ娘の子なので気も張らぬが、今度は相手が 相手、なかく|気苦労《きぼね》が折れるらしく、例の寝酒も、この四、 五日はつゝしんでいた。が、今夜、どうとう、辛抱がしきれ なくなって、もう、|白鳥《はくちよう》が三本も、そこらにころんでいる。       二  島抜けの法印、破れ行燈の、赤黒い、|鈍《にぶ》い|燈火《あかり》の下に、大 あぐら、古ぬの子から、毛深い胸を出して、たった一人、所 在なさげに、白鳥から、欠茶碗に、冷酒をついでは、ごくり ごくりと|飲《や》っているが、もう一升徳利が一本、五合のが、二 本目も尽きかけて来ているのだ。さすがに、久しぶりの寝酒 が、まわって来て、髭だらけの顔が、赤黒く酔い染っている のに当人は、まだく、どうして飲み足りないー|血濁《ちにご》った 目で、あたりを睨め廻すようにして、独り言ー-  -だからよ、やもめ暮しはやり切れねえってことよ。も う一升のみてえと思っても酒屋まで、ひとッぱしり行って来 る奴もいねえとは、なんて不自由なこッたろう。|三《し》宅|島《ま》にい たころのことを思や、これでも極楽、下らねえ慾をかいて、 変なことから、身性が|曝《ぱ》れでもすると、とんだことだと思っ て、つゝしんではいるものの、精進ぐらしも、これで三年、 てえげえ、辛抱が出来なくなるよ。  ごくりとまた、一口、飲んだとき、床下の方で、かすか に、女の|咳《せき》ばらいのような気はいが聴える。  -ー1おや11-  と、聴き耳を立てて、法印、口に出して、独りごと1  1あの、軽業のお初女郎、勝気な奴だが、さすがに、ろ くろく寝つけねえと見えるなあーだが、俺もこの|庵室《てら》ずま いをしはじめてから、|拐《かどわ》かされの女の子を預かる内職をはじ ノ めて、かなりあゝいう代物も手がけたが、あいつのように、根 性骨の突っ張った奴は、逢ったことがねえぜ。闇の兄貴の|罠《わな》 に落ちて、この古寺にかつぎ込まれた時にも、どうせ逃げら れねえ立ち場だと知るてえと、闇の親分でも、女のあたしを 相手に、こんな|卑怯《ひきよう》なことをするのかえlIと、ひと言、言 っただけで、じたばたさわぎをするのは|愚《おろ》か、溜息ひとつ洩 らしもしやがらなかった。それに、人を、なめくさって、ど うだ、この俺が、飯を運んでやるたびに、まあお気の毒さ ま、大の男にお給仕をして貰ってーなんて、言いながら、 わざと立て膝をして、水いろの|湯文字《ゆもじ》なんぞを、ちら/、さ せて見せやあがる1俺だからいゝが、生ぐさい坊主であっ てみろ、あいつの流し目を食っちゃあ、ちょいと|像《こら》え|性《しよう》が、 なくなろうってもんだー  と、言って、また、ごくりくと、岬りついだが、  ーいや、この俺さまにしたって、まだ四十をほんのちょ っぴり越したばかりだーあれほどの女と、たった二人の荒 れ寺ずまい-闇の兄貴の|睨《にら》みが怖くなけりゃ、どんなこと になるかも知れねえのよ。  島抜けの法印、厚い、紅い舌を出して、物ほし4、うに、ぺ ろりと舌なめずりをして、  Iiとうやって、たった一人、しょうことなしの独酌に、 何のうめえ味があるーこれが、|美女《たぼ》のお酌と来てごろうじ ろ。何の|肴《さかな》がなくッたって、|甘露《かんろ》、|醍醐味《だいごみ》、まるッきりうま さが、違わあなーそりゃあ、俺だって、何も、あいつをど うかしようッていうんじゃあねえ、酌をさせるだけなら、別 にだれから叱られるわけはねえと思うんだがー  島を抜けて来たほどの彼、前世の露見を恐れて、身をつゝ しんでいるのだが、今夜は、少しばかり、とろんこになって いた。  ーほんとによ、|小股《こまた》の切れ上がったあいつに、注がせて 飲んだら、第一、倍もきゝがいゝ酒になるだろうによ。  そして、妙に真顔に考え込んだ。       三  島抜法印の、どんぐり目は、いよくギラギラと、|耀《キモリ》めい て来た。これまで押し伏せに押し伏せていた慾望が、H度、 ムクムクと頭をもたげた以上、それを、もうどうすることも 出来ない。  1ーあれだけの女が、同じ屋根の下にいるのを、ほんとう に勿体至極もないはなしだ。この部屋へ引き出して来たら悪 いだろうが、あの、窓ひとつ大きくは切ってねえ|害《あなぐら》なら、 ちょいと、話をして酌をさせたところで、逃げられる気づけ えは、断じてねえiiそれによ、あの女だって、軽業お初 と、あっぱれ異名を持った奴、ひょんな破目で、敵味方には なったといってあんまり辛く当るのも、泥棒仲間の、仁義道 徳にかけるというもんだーあれだって、茶碗ざけの一杯 も、たまにはやりたいだろう。'そうだ、ひとつ、退屈しのぎ に、からかいに行ってやろうか1  島抜法印、残り(〕白鳥を振って見て、  ーiこんなことなら、独りでがぶ飲みをするんじゃなかっ たが、それでもまだ、あいつが、ほろりとするぐれえは残っ ていらあ。 日 ノ  と、徳利をつかんだま\よろ/\と、立ちあがると、ガ タピシと破れ|襖《ぶすま》をあけ立てして、庫裡の戸棚の中の、揚げ蓋 を刎ね上げる。揚げ蓋の下が、 |害《あなぐら》への、下り口になってい るので、カビ臭い、しめっぽい匂いがムウと来る。中は真暗 なのだが、慣れたわが庵のこと、爪先さぐりで、危なっかし い縄梯子を下りてゆくと、平らな板じきになる。板じきのつ き当りが、木ぶすまi法印、その木ぶすまの、|釘錠《くぎじよう》を引抜 くと、いくらかためらったが、思い切って、ガラリと開けて 中をのぞき込んだ。其処は、六畳はしかれるだけの広さを持 った|害《あなぐら》だ。たったひとつ、ぽんやり|点《つ》いている、|油燈火《あかめ》の 光りで見ると荒木の床に、畳が三畳並べてあって、その上に 唐草の蒲団を、|柏《かしわ》にしてごろりと横になっている。それが、 軽業お初の、|囚《とら》われのすがただ。不貞くされているのか、熟 睡しているのか、寝すがたは、法印が、はいって行った気は いにも身じろぎもせぬ。 「おい、お初つあん」法印は、燈心を掻き立てゝ声をかけ た。パッと明るくなると、木枕をして、向うをむいているお 初の、頸あしが、馬鹿に白く匂う。「おい、お初つあん」寝 すがたが、少し動いて、無愛想な声で、 「何だねえー人が、折角寝ついたところをーもう冬にな っているんだよ、火の気のねえところで、煎餅蒲団1-寒く って、一度覚めたら、なかく寝られやしねえんだよ」 「だからよ、寝酒を持って来てやったんだあな」法印は、ひ どく下手だ。 「まあ、こっちを向きねえよ1何だか、眠れ ねえような咳ばらいが聴えたから、丁度おいらも一口やって いたところで、残りだが|冷酒《ひや》を持って来てやったんだぜ」 と、枕元に、うずくまって、白鳥を、ゴボ"コボ音をさせて見 る。お初は、むくりと起き上がりかけた。 「まあ、どうした風の吹きまわしなんだねえi」       四  煎餅蒲団の上に、起き直ったお初、乱れ髪を、白い指でか き上げながら、片手で、はだかった前を合せる。着たまゝ の、|外出着《よそいき》も、すっかり搬だらけになってしまっているが、 膝のあたりに、水いろの湯巻がこぼれて、ふくらか汀|股《もト》が、 ちょっとあらわれて、じきに隠されてしまった。島抜の法印 は、その方へ、|赤濁《あかにご》った目を吸われたのを、さすがに|反《そ》らし て、白鳥と一緒に持って来た、茶碗を突きつけた。 「さあ、まあ、一ぺえ|飲《や》んねえー」 「まさか、お坊さん、毒酒じゃあるまいね?」お初は、尻目 にかけて、冷たく笑った。 「何が毒酒なもんでーいゝ酒さーいゝも良いー池田の |剣菱《けんぴし》、ちょいと口にへえる奴じゃあねえ。これで、おいら も、何の道楽もねえ堅造だが、酒だけは吟味しねえじゃいら れねえ方だ」 「ほ、ほ、ほ、堅造が、あきれたよ!」お初、今度は、声を 出して笑ったが、 「そこまでいうなら、遠慮なく頂戴しよう かねえ」と、茶碗を受けて、なみくと注がせて、裸火の光 りに|透《す》かすようにして見たが、 「ほんに、いゝ臭いだことー -いたゾきますよ」きゅう、きゅう、きゅう!、とたった 三口で干して、突き出して、「どうぞ、もう一杯」 「へえ、いけるんだねえ、|姐御《あねご》もー」と、法印は、あざや f かな呑みッぷりに敬服したように、お初つあんが、姐御とい う尊称に変って、二つ目を差してやる。お初は、新しい茶碗 を一口飲んで、ふうと、息を吐いて、 「おいしいことーあたしだって、実は、お坊さんだって、 もう少し早く、何とか気を利かして、寝酒の一杯も、差し入 れてくれそうなものだと思っていたのだよII|柄《がら》こそ不意気 だが、どこかこう乙なところのあるお人なんだからー」 「へ、へ、へ、油をかけちゃあ困るぜ、姐御1だが、おい らにも、相当の苦労があるんで、今のところは、人さまのお っしゃるまゝになっていなけりゃあならねえのサ」 「時世時節じゃ、屋形船にも、大根を積むというからねー はい、御返盃!」法印、茶碗は受けたが、もう、|生憎《あいにく》、|白《 》鳥 は空だ。お初は、空徳利を、振って、 「何だねえ、もうおつ もりじゃあないか?」よくまあ、こんなしたみ酒を呑ませに 来たiーけちな奴だーと、いいたげな目つきだ。 「だって、一人で、さんざ飲んでから、お前を思い出したの だものー」と、いいわけするのを、 「でも、お坊さん、ちっとも酔ってはいないじゃないかー」 「種切れなんだ」 「つまらないねえーお坊さん、もう少しどうにかおしよ。 あたしだって、生じっか口をしめしたんで、後を引いてな りゃあしないよ」 「弱ったなあ!」法印、いが栗あたまを叩いたが、折角の、 今夜の歓会を、このまゝには、彼自身も、どうもしがたいー ー物足りない。考え込むのを見て、 「じゃあ、こうおしなさいよ。あたしはこゝで、|錠《じトでり》を|下《トねけり》され て小さくなっているから、そこまで行ってかせいでおいでな さいよ」お初はそんなことをいい出した。       五  お初の気軽げな申しいでは、法印にも活路をあたえたよう に見えた。 「そうか、そうすりゃあ、これからおいらも、|緩《ゆつく》り飲めると いうものだが、しかし、その留守に、おまはんに悪あがきを されると、ちっとばかし、困るからなあ」 「悪あがきをするッて、あたしが逃げ出しでもするというの かえ?」お初は、おかしそうに笑った。 「考えても見るがい い。この|息抜《いきぬ》きもないような|害《あなぐら》で、出入口は、厳重な|木襖《きぶすま》 じゃあないかIlそれを、ぴッたり閉めて、|錠《じよ つ》を下ろされた からにゃあ、たとえ、あたしが忍術使だって、脱けられッこ はないじゃないかね?」 「だって、おめえは、軽業お初とも、異名を取った、途方も なく身軽な女の子だというからー」 「いかに身軽なあたしだって、厚い木ぷすまは、どうにもな らないよ」 「じゃあ、安心して酒買いに出かけて来るか?」 「あゝ、安心して、行って来さッし」と、問答があって、法 印、やっと決心がついたように、空徳利を提げて立ち上っ た。問題の木ぶすまを開けて出て、振り返って、おぽろな、 |裸火《はだかぴ》で、じっと、お初をみつめて、 「ほんとうに、大人しくしていてくれなきゃあいけねえぜ」 「駄目を押しすぎるよ、いゝ悪党の癖にさー」法印は、二 J ヤリとして、締りをしめると、太い止め釘を、ぐっと差し込 んだ。ギチリギチリと、重たいからだが|吊《つる》し|梯子《はしご》を踏んで上 がってゆく。その気はいを聴きながら、お初は|微醸《ぴくん》を帯びた 目の下を、ひッ釣らせて、ニヤニヤした。  1ふうむ、これで、まあいゝきッかけが附いたというも のだよ。さすがの悪党、根まけがして、のこく貧乏徳利を さげてやって来たのは、おかしいじゃないかーー  と、|咳《つぶや》いたが、急に、怖ろしい表情になって、  ー覚えてやあがれ! 闇太郎め! 義賊の、侠賊のと、 人気があるのを、いゝ気になりやがって、よくも人をひどい 目に逢わしゃあがったな! あいつの出鱈目に乗って、のこ のこ出かけたのもおいらの不覚だったが、貧乏寺の穴ぐら に、閉じこめるたあ、何という人情知らずだーこの穴を抜 け出したら、この黒門町のお初の仕返しが、どんなものだ か、見せてやるぞ!  そして、まるで闇太郎その人が、目の前にいでもするよう に、歯がみをして、空を睨んだものの、やがて、瞳の光を消 し下唇をくわえて、うなだれた。  iそれにしても、雪之丞もあんまりだ。こんなに人に物 思いをさせて、ちっとも察しもせず、あんないけない奴の力 を借りて、死ぬ苦しみをさせるなんてーこの可愛さが逆に 変ったら、どんな呪いとなるか、それ位なことは知っていそ うなものじゃあないかーねえ、太夫、おいらあ、どこまで も、恋か憎みで押し通す女なのだが。いずれ思い知るだろう けれどー  とはいうものゝ、雪之丞のことだけは、ほんとうに憎み切 ることが出来ないかして、だんく顔が伏さってしまう。今 夜も、寒い北風か? 古寺の戸障子をゆする冷たげな音が、 この|害《あなぐら》までも淋しく聴えて来るのであった。 六  お初が、怒りと恋慕とを新たにして、後れ毛を前歯で噛み 〆めたり、吐き出したりしているところへ、また、縄梯子の 軋む音がして、木ぶすまが、|開《あ》け|閉《た》てされ、 「うゝ、寒い。外はもうすっかり冬の晩だぜ」と、咳やきな がら、はいって来たのが、今度こそ、たッぷり二升ははい る、貧乏徳利を提げて戻った、島抜け法印i「早やかった ろう!-酒屋を叩き起して、煮売り屋を叩き起して、これで もなかく働いて来たのだぜ」ふところから、竹の皮包みを 取り出して開いて見せる。現れたのは、辛そうに煮〆めたこ んにゃく、里いもの煮ッころがしー「何か生ぐさものか、 塩辛でもと思ったが、この辺の夜更けはまるで山里さ。とこ ろで早速、一ぺえ献そう」 「折角、御苦労をかけたのだから、遠慮なくいたゞこうか ね」と、お初は、ほっそりとした手をのばして、厚ぼったい、 茶呑茶碗に、なみくと注がせて、一口呑んで、じっと、法 印をみつめたが、「それにしても、人は見かけによらぬもの ッてネーお坊さんなんぞは、|鯖《たこ》ざかなかなんかで、かどわ かしの娘の子でもさいなんでいそうに見えて、ほんとうに親 切なところがあるわねえ」 「当り木よ」と、法印、上機嫌で笑って、{,人間が見たとこ 通りなら、世の中に|売僧《まいす》も毒婦もありやしねえわサ、おいら 軸 なんぞは、島抜けの何のと、世間では悪くいうが、本心は、 どんな仏さまよりやさしいのだし 「え? 島抜け?」と、お初は、茶碗を持ったまゝ、大きな 目で、法印を眺めた。「島抜ッて1 お前さん、佐渡でも破 って来なすったことがあるのかえ」島と言えば、誰にも思い 及ばれるのが佐渡、その島には、お初には初恋の、長二郎泥 棒が送られたなり、今ごろは、生きて難儀をしているか、死 んで地獄へ行っているかわからないのだ。法印は、あたまを 掻いて、 「いや、こりゃあ、美い女の前で、つまらねえことをしゃべ ってしまったものだ。なあに、島と言ったって、佐渡が島、 この世の地獄へやられるほど、景気のいゝ悪党でもねえのサ ーおれの送られたのは、三宅島iうわさに聴いた|金山《かなやま》に 比べりゃあ、極楽同然だということだが、何といっても、ど こを見ても、海ばっかり1女と来たら潮風で、髪の毛さえ 赤ッ茶けた奴ばかりだpたまらなくなったから、小舟一ツに いのちをまかせ、荒波を乗っ切ってけえって来て、こんなと ころで世を忍んでいるわけなのだよ」お初は、好奇心に|充《みた》さ れて来た風で、 「思い出したよ、何でも、三宅島を破って帰って、島抜けの 法印とか、仲間で聴えたお人がいるのだが、それっきり姿を 見たものもねえーそんな噂を何処かで聴いていたっけー じゃあ、その島抜けの法印さんというのがおまえさんだった のだね?」 「へ、へ、へ、姐御に、そういわれちゃあ、面目でもあるし、 小ッぱずかしくもある。おッしゃる通りの、ケチな奴がおい らなのさ」 「そりゃ話せるねえーでは、 .ヒ 改めてお近づきの御返杯だ」  島抜け法印、見かけは|怖《こわ ぐ》々しい大坊主であったが、して来 た悪事というのも、どちらかというと、愛矯のある方で、も し、図抜けた眼力や、ずぼらな気性なぞが手伝わなかったな らば、島抜けまでするような身の上にならずとも済んでいた ような人間なのだ。|況《ま》して、好色という方でもない、こんな 連中としては、普通の部類かも知れぬ。しかし、今夜は、ひ どく彼の気持はときめいている。こんな寒い晩、それも夜更 けなのに、まるで、春夜の暖熱に包まれているかのような、 うきくしさを覚えている。なぜだろうと、|訊《と》うまでもな く、それは、|仇《あだ》で、意気で、悪党で、美人で、こうした社会 では、いわば理想の女性の随一としてか"、えられているよう な秀物と、たった二人、酒を汲みかわしているからこそだ。 しかも、その女が、彼を、島抜けの異名のある人物だと聴い て、その名をとうから知っていてくれてー  i話せる人だ。  と、まで、いってくれたのである。法印は、急に歓喜が二 倍になり酔いが二倍になって、からだの節々も|緩《ゆる》めば、いつ か|害番人《あなぐらぱんにん》としての警戒心さえ|緩《ゆる》んで来るのであった。  iやっぱし、悪党は、悪党同士、話がわかっていゝな あ、ほかの渡世の奴等じゃあ、とてもこんな工合に、うまく 飲めねえッてことよ。 「さあ、御返杯」と、ぐうと、一息に千したのを|献《さ》す、お初。 、おッとゝー散りますノ\。へ、へ、ヘー黄金いろだね ーーいゝ香りだね」すうっと匂いを嗅ぎ込むようにして、じ っとみつめて、溢れそうなのを、口から持って行ってきゅう と、|畷《すち》った法印、「う、うめえー」と、歎息して、「と、い って、何も、自分で買って来た酒を讃めているんじゃあねえ んだよ。つまりはな、それ酌がいゝからさ」 「ホ、ホ、ホ、上手だねえ、頭を丸めている癖にさ。あんま りうまい口ぶりを聴いていると、一そ|還俗《げんぞく》させて、こはだの おすしが売って貰いたくなるってネ」お初は、ふたゝび、重 たそうに自鳥を両手でもちゃげて、「さあ、駆けつけ三杯ー 、折角、夜道を買って来てくれたのだから、たっぷりお上がり よ」 「いや、そうはいけねえーーおいらあさっきから、一人で大 分飲っているんだ。この上呑んだら、それこそ意気地なくう たゝねだ。その|暁《あかつき》に、おまはんに、謀反気を起してずらか られでもしたら、法印も、これから世の中へ面出しが出来な くなる」 「まだあんなことをいっている、疑ぐり深い人だねえ」と、 お初は明るく笑って、 「あゝ、いゝことを思いついた。プてん なにあたしのことが心配なら、うまい思案があるよ-二人 で、いくらでもゆっくりのめる思案がーー」 「え? その思案てのを聴かせねえ-11実は、おれだって、 おまはんとなら、夜あかし飲んでいたいんだし },ね、こうおしよ、おまえさんもこの|害《あなぐら》に今夜は、あたし と泊ってゆくことにして、木ぷすまの|錠《じよう》をすっかり下して、 |鍵《かぎ》をふところにしまって置いたらいゝじゃあないか。その決 心をすりゃあ、飲みつぷれても安心だろう」 「へ、なるほどな、おまはんと、この害で一緒に寝るか?」 「手と手をつないでいりゃあ、逃げたくっても逃げられない よ」 八  いっそ、この害に落ちついて、飲み明す気になってくれた らどうだろうかーと、お初にねだられて、島抜け法印、な るほど、それは名案に相違ないと思った。  -ほんとだなあ、あたしは、茶碗酒なんざあ、迷惑だか ら、早くあッちへ行っておくれーでないと、闇の親分が来 たとき、法印坊主、しつッこくって困ったと、言ッつけるよ ーと、いわれても、仕方がねえところなんだ。一〃.んな風に 出られて見ろ、さんざ|艶《なま》めかしいところを見せつけられて、 梅花の|髪油《あぷら》の匂いを嗅ぎこまされて、このまゝ庫裡に引き取 ったところが、思いがのこって、却って、どうにもならなか ったろうぜ。  そんなことを、ソッと心で思って見た法印、 「じゃあ、姐はんのいう通り、こゝヘ腰を落ちつけるとしよ うぜ。そのかわり、お初つあん、-ひとつ仲間仁義は守って貰 えてえな。おまはんが決して、寝こかしをして抜け出さねえ と言ってくれるな∴、なあに、錠にも、鍵にも及ばねえよ」 「当り前だあね。こんな風に閉じこめられているあたしを、 哀れだと思って、寝酒の一杯も、わざわざ飲ませに来てくれ たお前さんだ、煮え湯を飲ませてどうするものかね?.あた しも、随分道楽もして見たが、まだ|窪酒《あなぐらざけ》ッてなあ飲んだこ ゴf とがないんだから、ゆっくり一度、酔って見たいと思うんだ よ」 「どうかまあ、今夜だけは、そういう気持で、いてもれえて えねー敵も味方もなしにしてー-ーおいらも、何だか、いや にうれしくなって来てならねえ」ぐうっと、一息に茶碗酒を つくして、相手に|献《さ》して、法印は、膝がしらを揃えて酌をす る。 「ほ、ほ、ほー膝をくずさないところは、さすが、お庵主 さまだねえー-ほ、ほ、ほ」 「は、は、どうも、姐御は、口がわるいよ」不思議な男女、 荒れ寺のあなぐらで、この初冬の夜を飲みあかそうと、献し つ押えつ、|献酬《けんし う》がはじまった。世の中に、どんな珍景が多い にしろ、この酒盛ほど、めずらしいものは少ないだろうー しかも、場面が凄い筈なのに、すこしも凄惨さがなく、どこ となく伸びくしているのは、島抜け法印の、持って生れた |譜謹味《かいぎやくみ》が、空気を|和《なご》やかなものにしているせいであろう。 「へゝへ、こうして、姐御と、|飲《や》っていると、何か、こう小 意気な咽喉でもころがしたくなって来るなあし 「どうぞ、ひとつお聴かせよ。流行の一中ぶしでもサ」 「まさか、この古寺で、そんなわけにもいくめえわサ。とき に、姐御、たまらねえ顔いろになったぜーほんのりと、目 元が染って、薄ざくらだ。おいらもう少し若くって、たしな みがなかったら、只は置かなくなるぜ」 「まあ、うまいことばっかしーーあたしなんざあ、もう散り かゝった|姥《うぽ》ざくら、見向きもしてくれる人はないと思ってい るよ。さあ、お坊さん、お酌、女のあたしが、 一杯々々のや りとりはき一、'すぎるーまあ、お重ねな」すゝめ士手に、い つか、法印、すっかり酔わされて、まるでうで|蛸《だこ》のようない ろになってゆくばかりだ。「ほんとにサ、お前さんもいゝ加 減に毛を|伸《の》ばしなさいよー!そうしたら世間の女が、うっ ちゃっちゃあ置かないがね」思い出したように、じっと見て 言うお初の、色気のあること: 九  1ふうん、島抜け法印、いよくべろ/\になって行く よーざまあ見ろ。もう四五杯も引っかけたら、泥のように なって、丸太ン棒のようにぶったおれてしまうに相違ない。  冷たく笑うのだが、美しいお初の唇にうかぷ、その|嘲《あざ》けり が、性根をすっかり乱してしまった法印には、心からの、う れしい笑がおとしか思われないのだ。 「ねえ、お初つあん、おいらは、あの荒波にかこまれた、三 宅の島をいのち懸けで抜け出して娑婆の風にふかれてこの 方、こんなにいゝ気持に酔っぱらったことあねえぜ。それと いうのも、おまはんが、程のいゝ人だからよ。何にしてもす ばらしく結構な心持だよ。やっぱし思い切って、浮世へ戻っ て来た|甲斐《かい》があったなあーへ、へ、へ,こんな弁財天女の ような姐御と、膝ぐみで酒が飲める身の上になれたのだから なあi江戸中切ッて、うゝん、日本中切ってのお初つあん と、差しつ押えつーへ、へ、へ、大したもんだ1極楽だ」 「あたしだって、お坊さん、この|害《あなぐら》に叩き込まれてから、 いわばもうこの世の楽しみは見られまいと覚悟をきめていた のだよ。世間で名うての、そういっちゃあ何だけど、悪党た ! ちに見張られている以上は、土の下でもぐらのように、干ぼ しになってしまう外はないと思っていたのさ。そこへ、意気 なおまえさんが、寒かろう、淋しかろうと慰めに来てくれた のだもの、あたしの方こそ、生れてはじめてのうれしさだね ーーiさあ、お酌」 「うれしいな、ありがてえなーおいらあ何だぜ、これが縁 で、おまはんの片腕となって、浮世で働くことが出来る日が 来りゃあ、いのちを|的《まと》だぜ」法印、もっともらしくいいなが ら、いつか目が据わり、からだの中心が取れなくなって、前 に|傾《かた》むくと見れば、つんのめりそうになり、うしろに反ると 見ると、ひっくりかえりそうになる。何しろ、独酌で、飲ん でいるうちに、御禁制の害に、お初に酌をさせに下りて来よ うと思い立つまで、ほの人\としてしまっていた彼だ。その 上、差し向いになってから、飲みも飲んだことであるから、 どんな人間でも、用心も、根性も、すっかり失われてしまう のも無理がない。やがてのことに、なみノ〜とはいった茶碗 をつかんだなりで、|片肱《かたひじ》を突いて、横に伸びて、「もういけ ね工1ーお初つあん、おいらあ、もういけねえー」 「何だねえーまだ、白鳥に半分も残っているじゃあない 力1」 「駄目だよi今度はおまはんの番だー」と、湯呑を、突 きつけようとして、その湯呑を、意気地なく手から取り落し てしまう。茶碗は落ちて、酒が古だたみをだらしなく|湿《ぬ》ら す。じーッと、見ているお初、いつか、真顔になって、下唇 をぐっと噛みしめている。  ーお坊さん、とうとうまいってしまったね。ゆッくりお 寝よ。  落ちた茶碗を取り上げて、手酌で一杯。  1ふ、ふ、ふ、赤ん坊のように眠ってしまった。いゝ恰 好だよ。それにしても、何てうるさいいびきなんだろうね えー  ぐうッ、ぐうッといういびきを、聴きすますようにしたお 初は、やがて、きちんと坐り直して、後れ毛をかきあげて、 自分を眺めなおすようにした。  ーなッちゃいないね、お初つあん、着物は|鐵《しわ》だらけ、帯 も紐もゆるんでしまってー       一〇  やがて、すっと立ち上がったお初、はだかった襟元、乱れ た|棲《つま》をきっと直して、い〜音をさせて、きゅうノ\と帯をし め直したが、その気はいに薄目もあけず、だんノ\いびきを 高める島抜け法印を見下ろして、  -1お坊さん、あたしはこれで、 害からお暇をして、久 しぶりで外の夜風に吹かれて見ますがねi決して逃げやし ない、安心して、お飲りと言った口の手前、すこうし済まな いような気がするものの、あたしだって、軽業お初とも言わ れる女、シラ几帳面のおしろうととは違うんだから、まあ堪 忍して頂戴な。  そう、冷たい笑みと一緒に言って、足音を盗んで、害を姜 ろうとして、  ーと言って、救いの主見たいなお坊さんを、夜寒、|酔醒《よいざ》 めで、風邪を引かしちゃあ申訳ない、これでも掛けて上げま 寸』」 しょうね。  自分が、柏餅になって、くるまっていた蒲団を、それで も、法印の寝すがたの上にふうわり轡けてやって、そこは、 お手の物、殆んどかすかな軋みも立てず、立てつけの悪い木 ぶすまをあけて、ぴたりと閉めた。害から姿を消したお初、 危なかしい吊梯子を、スルスルと見事な足さばきで上がっ てしまうと、|諸手《もろて》でうんと突ッ張って、揚げ蓋をあげて、庫 裡へ出ると、そこに、ぼんやりと行燈がともし放しになって いる。  ーこのまゝ、黙って逃げるのも業腹だねえー  眺めまわすと、カラカラに、墨のかすがこびりついた硯 と、ちび筆がはいっている木箱が棚に|載《の》ってあるのが目につ いた。それを下して、湯沸しの水を硯にたらして、ちび筆 を、うつくしい前歯で噛んだが、ふところ紙に、金釘流なが ら、スラスラと書き下ろした文旬ー   お坊さん、左様なら、おまえさんが、島にしんぼうでき   なかったとおなじこと、あたしも、あなぐら住居は、い   や、いや、いや。のんびりと、手足をのばしてから、ゆ   っくりこのしかえしは致しますよ。とかく|助平《すけべい》が男とい   う男のたまにきず。かしく。  その紙を結んで、ポイと投げると、あの災難の晩、自分が 穿いて来た、綺麗な鼻緒の駒下駄が、麗々しく、ごみだらけ な床の間に飾ってあるのを持ち出して、突ッかけて、初冬の 月が、どこかで淡く冷たい影を投げている瀧れ庭を横切りは じめた。門はあっても、扉もない、出入自在な寺域は、いつ か、彼女のあとになった。  iーホウ、ホウ、ホウ!  と、|臭《ふくろ》が、高く黒い梢で鳴いて、それだけでも淋しい谷中 の深更ーーあまつさえ、狐が通っているのであろうーー  ケン、ケン、ケンケン!  そんな鳴きごえが、はらわたに沁みとおるように聴えて来 るのだ。けれども、お初は、一向、淋しそうな顔もせず、|杜《も り》 の間の|小径《こみち》をいそぎながら、だんくに形相を変えていた。 美しいが、怖ろしい目つきだ。そして、唇が、ぐっと引き|歪《ゐが》 んだ。  ーiさあ、雪之丞さん、闇の親分、これからおいらは、キ ビキビと|行《や》ってのけるよ。ふ、ふ、黒門町のお初ともあろう ものを、あんな助平坊主に預けた程のうすぼんやりが、さぞ 見ッともない吼えづらをかくのだろうねえ。       一一  お初は、杜かげ道をいそぎながら、二三度、小さな咳丸一し たが、  iちくしょう! お蔭で風邪まで引いてしまったよ。憎 らしいねえ、あいつ等はー」何にしても、二日と、あのまゝ にして置けない奴等だ。思いがけなくはたから飛び出して来 やがった闇太郎、まず、一ばんに意趣返しをしなけりゃあな らないが、早速、手配して在家をさぐらせ、お役人へ密告し てやろうかしら? それにしても、あの闇の親分と、雪さん と、どうして一たい知り合っていたのだろう? いくら考え て見ても分りはしない、まさか雪さんが、泥棒の一味をして いるとも見えないしさ。雪之丞、闇太郎の、奇妙な関係につ いて、いかにお初が目から鼻へ抜ける女でも、こればかりは 見当もつかないらしかった。  !1なあに、あの二人がどんな間柄だって、かまうことは ありゃあしないよ。二人が兄弟も只ならず懇意だというこ と、岡ッ引に告げてやりゃあ雪さんだって安穏にいられるわ けがないんだ。  と、咳いたが、また、考えて、  ー早まっちゃあ駄目だよ、初ちゃん、うっかりそんなこ ・とをしたところで、もし、雪さんに、あたくしは一々、|贔贋《ひいき》 のお客の身の上を、しらべておるひまはござりませぬーそ のお人がどんな素姓か、ちっとも存じませんのでil何し ろ、多く御贔慣をいた努いて、そのお蔭で立ってゆく商売で すからとーあの、可愛らしい口ぶりで、申し立てられてし まったら、それまでじゃあないか-仕返しは、やっぱし、 雪さんは雪さん、闇の親分は闇の親分、別々に手ひどい目に 会わせてやる外はないーだが、ねえ、お初ちゃん、お前 は、こんな目に会いながら、まだく雪さんに、あの雪之丞 め奴に未練を持っているのではないかい? 無いって! 意 気地なし! まだ色気たっぷりなのじゃあないか? なぜと 言って、あの|害《あなぐら》の中で、おめえは、何ど繰り返して言って いたのだ? こゝを抜け出すことが出来たら、雪さんが狙・つ 敵の中で、第一ばんの大物、三斎隠居の屋敷に駆け込んで、 何もかも、聴き知っただけ、あらい|俊《ざら》いぶちまけてやると、 そう心に誓ったじゃないかね! それなのに、今になって、 ああしたら、こうしたらーなぞと、迷っていることああ りゃあしない。しっかりおしよ、黒門町の姐御!  お初は、イヤというほど、自分の頬ぺたを撲ってやりたい ようないら/\しさを感じて来た。  1ほんとうだよ、女一匹というものは、しかけた恋が叶 えばよし、叶わぬときは、相手の咽喉笛を食い切ってやるの が捷なんだよ。  ーケン、ケン、コンコン!  淡月が、冷たくノ\射しかける夜の杜の、木立ちのふかみ で、淋しく、凄い、狐の泣きごえだ。お初は、寒}てうに、肩 口をふるわしたが、 -そうだとも、お初、おめえは、わが身を捨てても、こ の恨みを晴さなけりゃあならないのだ。わが身を怖がってい ちゃあならないのだ。自分で自分を、地獄のどん底にほうり 込む気になって、その人をも抱き込んでいかなけりゃあなら ないのだ。この世で叶わぬ恋の夢を、針の山のぼりの道中 で、晴らさなけりゃあならないのだ。お前はこれからどろあ っても、この雛苦茶の扮装のままで、三斎屋敷に駆け込まな けりゃ駄目なのだよ。  お初は、今度こそ決心を固めた。いつか、彼女は谷中の什 を通り抜けていた。 一二  お初は、寺町を抜け出すと、通りかゝった空かごを、もう 呼び止めていた。 「かご屋さん、松枝町まで大急ぎだよ。急病人があるんだか らi」かご屋は、淋しいところで、不意に絵から抜け出た ような、凄味のある美女から呼びかけられて、びっくりした ように、足を踏み止めたが、すぐに、トンと下ろして、 「へえ、お乗んなせえ」息杖を突っ張って、かき上げた先棒 の吐く息がいかにも、冬らしく白い。お初は、背中を、うし ろに|先《もた》して、男のような腕組だ。目をつぷると、まぶたの奥 に、恋しい顔i恋しいが憎らしい顔、恨みの顔、どうあっ ても、|赦《ゆる》してはやれぬ顔ーiさまぐに二人の顔1が、ち らく映って来る。  ねえ、お初、お前は、出来るだけ手ッ取り早く、仕返しを して、さっぱりした気持になんな。  今度こそ、やりそくないのないように支度をして、三斎屋 敷へ、本職の方で改めて乗り込むくらいな気組がなけりゃあ いけないんだーi今夜は、あの三斎隠居とかいういけ好かな い奴をどうしても味方に抱かなきゃあ駄目だけれどー  お初が、自分にいい聴かせているうちに、すでに、もう目 あての場所に近づいていた。自身番の前まで来ると、お尋ね 者の癖に、元気のいゝ声で、 「かご屋さん、御苦労さまー」足から、器用に下りなが ら、「取ってお置きな」小銭を、荒びた|掌《てのひら》に落してやって、 乾いた下駄の響きを立て、、つと横町に曲る。これを真直ぐ ゆけば、三斎の角屋敷の横に出るのだ。コロコロと、小走り に、うつむき加減にいそいでゆくと、これまで見た事のな い、真新らしい板塀がある。  -11おや、何だろう? この家は?  足がおのずと止ると、表つきは武術道場らしい武者窓を持 った建て方だ。  な↓のんだ、やっとうの、|稽古場《けいこぱ》か。  咳やいて、行きすぎようとするときだったー三斎屋敷の 方角から、一人の武家が、月光に、長い影を落してやって来 たが、擦れ違いざまにーー 「お、そなたはー」お初も、足を止めて、 「おやーあなたはi-」二人は、薄い月の光で、顔を見合 せた。お初も、武家も、ハッと何か、思いあたることがあっ たに相違ない。「あのときは暗がりで、はっきりお顔は見え ませんでしたけれどーもしや、こないだ、山ノ宿の|田圃《たんぽ》 で、危ういところを、お助け下されたお方ではー」お初 が、口を切った。相手は、うなずいて、 「おゝ、拙者も、たしかに一度逢ったすがたと思うたが、 では、あの時のー」相手は、少し|渋《しぶ》りながら答えた。して 見れば、この男は、山ノ宿で、雪之丞が、お初を仕止めよう としたとき、邪魔にはいった、門倉平馬か、}ての伴れに相違 ない1彼等としては、雪之丞に、みにくいおくれを取った のを、この女に見られている筈なので、何となく、拙い気持 がしているのであろう。 「あの節は、何とお礼を申してよろし夕つございますやら 11」お初は、しおらしく、頭を下げた。と、いうのは、こ の男、たしかに、三斎屋敷を辞して来たところらしいので、 何かの時の便宜と考えたからだ。       二一一  お初が、この男、三斎屋敷から出て来たに相違ない-ー と、見て取ったのは、さすがに達眼だ。彼女を、月あかりに 見下ろして立つのは、言うま7、もなく、三斎お抱え同然の、 門倉平馬ーーお初が、見馴れぬ|新建《あらだて》があると、目を止めたの は、彼の道場で、一松斎の門に、後足で砂をかけてから、隠 居に頼んで、持地内に建てゝ貰ったばかりの、新居なのだ。 「いや、あの時は、相手が女子と|侮《あなど》ったところ、計らんや、 女装変形の怪しき奴、なかくに手ごわく、手捕りに致そう としたため、思わず取り逃したが、いずれに致せ、そなたに 別条もなく仕合せだった」平馬は、ニ、ういいわけじみていっ たが、これも雪之丞には、奇怪な憎悪を燃やす身、相手が、 あの場合の模様で見ると、彼と敵対の地位に立っているとし か思われぬので、この女にこゝで親しみを結んだなら、何か と役に立つこともあろうと、彼は彼で、考えないわけにいか ない。「それにしても、お女中、そなたも、どこぞ、この辺 にお住いか?」 「いゝえ、あたくしは、黒門町の方におりますが、今夜は、 ちと、人をたずねます用があっての戻りみちi」 「戻りとあらば、もはや、御用ずみでござろうがー」 「はーはい」お初、そう答える外にないー彼女の今宵の 計画は、どんな相手にも、歯から外へは出せないのだ。 「ならば、袖擦り合うも、他生の縁、|況《ムエ》して、あれ程の御縁 もあること、拙宅へ、ちょいと、お立ち寄り願われないか? 伺いたいこともござるでー」 「と、申して、こんな夜中ー-' 「いや、お構いさえなくば、拙者の方は、何でもござらぬ。 住居と申すも、つい、そこの道場11夜分は、内弟子が一 人、老僕一人の、からきし殺風景な男世帯、御遠慮はない」 と、顎で差す、新築-お初は、いなまずに、 「まあ、この御道場がお宅なのでございますかーそれなら ば、この間のお礼も、しみハ\と申し上げとうございますか ら、お供をいたしましょう」 「御承引で、|辱《かた》じけない。では、こうまいられい」お初は. 平馬のあとに眼いた。導かれながら、彼女は、思い出さずに はいられないー道場が、まだ建ちかけで、板構えのあった ころその物蔭で、三斎屋敷|閲入《ちんにゆう》を決心、がに股のちび助、吉 公に打あけて、諌めるのを振り切って、忍び込んだのだった が、その晩、あの雪之丞に見答められ、それがきっかけで、 思わぬ成りゆきになったことをー平馬が、道場、脇玄関の 戸を、引きあけて、 「戻ったぞ」と、いうと、妙に角張った顔の内弟子が、寝ぼ けごえで、すぐ次の部屋から出て来て、 「お帰りなされまし」と、無器用に、手を突いたが、うしろ に、すんなりたゝずんだ、お初をみとめて、いぶかしげだ。 「お客人をおともした」と平馬は、いかめしく言って、「客 間に、|灯《あかあ》を入れろ」その客間というのが、まだ壁の匂いがツ ンツン香る、床に樹物もかけてない、がらんとした、寒む 寒むしい十二畳だった。 四  木口こそ真新らしいが、殺風景な客間に導かれたお初、鐵 ばんだ着物をいくらか苦にして、すんなりと坐ったが、相手 は、そんな細かしいところまで気のつく男でもなさそうだ。 なぜなら、道場主の目は、なりふりよりも、まず、真っすぐ に、こちらの顔にばかり、|注《そヤ》がれて、しかも異常な輝きを、 白目勝ちの、殺気のようなものをいつも感じられる瞳に宿し ているのだ。  ー1ふ、ふん、こいつもやっぱし、男かい? 駄目の皮を 被た仲間なんだね? それならそれで役に立とうよ。  お初が、一目見て、そんな風に心に咳やいていると、|主《あるじ》が、 ¶まだ、はっきり名乗りもいたさなんだが、拙者は、門倉平 馬と申して、いさゝか、武芸を|嗜《たしな》むものーして、そなた は?」と、膝に手を、ぎごちなく言った。灯の下で見るお初 の、思うに増した、すばらしい容色に、五体が|硬《かた》まったかの よ一つであった。 「わたくしは、黒門町の方で、|後家《ごけ》ぐらしを立てゝおりま す、初と思しますものーお見知り置きを-1」 「はて、お一人|棲《ず》みでござるか?」と、怪詩な顔。 hほ、ほ、ほ、あたくしのようなもの、構ってくれ手が、あ るはずはございませんしー」平馬は、黙った。こうした問 題に、これ以上触れてゆくことは、武士の面目に|関《かモ》わると思 ったのかも知れない。 「それにしても、いつぞやは、危ないところであったなー」 と、思い出したように、ジロリと見て、 「一たい、何ぜにあ のようなわけ合いになったのでござるか?」 「詰らぬことからでござりますよー」お初は、もじ/\す るように、|傭《うつ》むいて、 「おはずかしいお話でございますけれ ど、あたくし達のような、からだが暇で、その癖、楽なくら しをしていますものは、どうかすると、間違いを仕出かし勝 ちでーー」後家が、役者に、思いをかけての、痴話喧嘩が、 |昂《こ つ》じたものー--とでも、いったように、お初はいいまわし た'し 「うむ、世間は知らぬ-IIことさら、女子衆はなi外面如 菩薩、内心如夜叉ーという、諺がござるにー!」平馬が、 |嫉《ねた》みさえ、あらわに出して言う。  ーほ、ほ、ほ、外面如菩薩は、つい、お前さんの前にも いるよ。  と、お初は、こゝろで、限りなく嘲けって、口ではしおら しく、 「ほんとうに、あとでは思い当りましたけれどー」そし て、打って返すように、見返して、「でもあの節、あなたさ まも、あの者と前からお知り合のように見うけましたがI i」平馬の眉根は、憎みで、毛虫がうごめくように寄せ合わ された。 「お、お、多少、存じ寄っている奴でーあやつ、本体を、 御存知あるまいが、なかく油断のならぬ食わせものー」 「まあ、そこまでは、存じませぬがー一たい、食わせもの と申して、どのようなー」お初が、訊き返すと、平馬は、 薄手の唇を、ピリピリと、憤りっぼく痙撃させて、 「あやつは、ばけ物でござるi何を考え、何を致そうとし ているか、是非に見抜いてやらねばならぬ奴じゃ」       一五 「お初どのとやら、そなたは、一時、あの河原者の容色に、 迷われたとかいうことだが、女子の身で、あやつのような化 性のものに近づけば、いずれ、魂を|蕩《とろか》され、生き血を吸わ れ、撮なことはあろうはずがないll」と、平馬は、憎々し げに、雪之丞歩、罵倒しつゞけて、「現に、あやつのお蔭で、 御大家の、秘蔵の息女まで、とんだ身の上になられ、いやも う、大騒動が|出来《しゆつたい》いたしたる位だ」 「え? あの雪之丞のために、いず方さまの御息女が、そん な目にお逢いなされたと申すのでござりますか?」お初は、 耳をそばだてる。 「お屋敷の名は申さぬが、その御息女、やんごとなき方にお 仕え申しておるうち、雪之丞の甘言にたぷらかされ、只合、の ところはお行方知れず、おん里方としては、御主入方にはす まぬ儀となり、八方、御当惑-i拙者どもも、お案じ申し上 げておるのだが、未だに、いずくに身を隠されたか、皆目、 あてがないー」平馬は、雪之丞呪わしさのあまり、三斎屋 敷の秘事をIi浪路失踪について、その一端を洩らしたもの の、さすが、屋敷名を出すことはしなかった。が、お初は、 ちゃんと思い当るわけがある、彼女が、雪之丞とはじめて奇 怪な|避遁《かいこう》をしたのは、三斎屋敷の、裏庭の闇の中ではなかっ たかーーそして、しかも、その折、雪之丞は、奥まった離れ の一間にいたに相違ないのだ。そして今の平馬の言葉で聴け ば、行方を|晦《くら》ましたという当の娘は、極めて身分の高い人 に、かしずいている女性だという1三斎の娘の浪路こそ、 公方に仕えて、大奥随一の寵をほしいまゝにしているという ことは、どこの誰れでも知っている。その上、お初は、いつ ぞや、役者宿に忍んで、思わず、雪之丞と師匠菊之丞との、 ひそノ\ばなしを立ち聴きしてしまったとき、あの美しい女 形が、浪路に対して、どのような籠絡の|繊手《せんしゆ》を伸ばしつゝあ るかをさえ耳にしているのである。萬に一つ、間違いのはい ところを、お初は、まるで、女うらないでもあるように、い っア.退けた。 「その、雪之丞にだまされなすったというお方は、土部さま の、御息女さまではございませんか?」 「えッ! それをどうして?」平馬は、顔いろが変るほど、 驚かされて叫んだ。 「知っているのは、当りまえではありませんか?」と、お初 は笑って、 「おはずかしいけれど、あたくしも、一度は、あ の男に、迷わされた身でございますものー!あの晩の騒ぎに しろ、実は、そのように薄情にするなら、御息女のことを、 世間にいいふらすiーと、あたくしが、焼餅が昂じて申した のがきっかけで、あんな馬鹿らしいことになったのでござい ました」 「おゝ、左様か」と、平馬は、いくらかホッとしたように、 「拙者は又、この事が、早くも世間に洩れているのかと、び っくりいたした。実は、大奥の方へは、まだ、浪路さま、お からだ本復せずーと、そう申し上げてあるので、土部家と しては、どうしても、一目も早くあのお方を、探し出して、 お城へお戻しせねば、とんだことに相なるのじゃ。なにし ろ、御息女は、御寵愛が激しかったので、中老方の嫉妬も多 いゆえ、これが|曝《あら》われたら、大事にもなろうというものIl」 一六  美女は、とかく、相手の異性から、秘密を打ち明けさせる ような、一種の魅力を持っているものだ。門倉平馬は、一道 場のあるじに過ぎぬが、世に聴えた権臣土部家の機密に預か るばかりか、柳営大奥の秘事にさえ通じているということ を、お初の前で披漉して、相手から尊敬を買いたいような衝 動に駆られたかのように、今は、つゝしみも忘れて、しゃべ りつ繋けるのだった。 「只さえ、どうにかして、浪路さまを現在の御境涯から蹴落 し、君寵を奪おうと、日頃から狙いに狙っている女性たちの 耳に、この真相が達した破目には、まるで蜂の巣を、突付き こわしたような騒動が起るは必定1しかも、それが、大奥 だけに止まる話であればまだしもじゃが、第一、三斎さま、 |駿河守《するがのかみ》さまの、御威勢も、言わば、浪路さまの御寵遇が、預 かって力がある筋もござるし、このおふた方の権威が、又、 世間の|嫉《ねた》みを買うているわけゆえ、結局、どこまで煩いがか らまってゆくか、見当もつかぬーそれで、さすがの御隠居 も、あらわにはお出しにならね、大分、御心配の御容子だが lIl-」 「でも、妙でござんすねえー」と、お初が、いぷかしげ に、 「雪之丞のために、姿をおかくしになったとしたら、あ の者を責め問うたなら、お行方は、すぐおわかりになるでご ざりましょうにー」 「ところが、それが、あの化粧もの|奴《め》の不敵なところだ」 と、門倉平馬は三白眼の白目を、剥きだすようにして、 「あ れは、 |悉《ことへく》く御隠居の御信用を得ている上、実にきっぱり と、申しわけをいたしておるーいかにも、浪路さまより身 に余る仰せをうけたこともござりますが、当方は、河原者、 人まじわりもつゝしまねばならぬ身、ことさら芸道大切に、 これまでとて、女性の肌にもふれておりませぬで、その御懇 情だけは、平にお忘れ下さるよう、申し上げたことでござり ます。その上、御息女さまの御他行さきより、お招きをうけ たこともござりましたが、来月興行の稽古等にて忙がわし く、おことわりいたしました。して、その後はふっと、おた よりもいたゾきませぬーと、憎いことに表面は申わけが立 つのだ。なぜなら、拙者はじめ、あらゆる手を伸ばして雪之 丞の、挙動を探って見たが、いかにも、彼めの申す通り、隠 れ忍んで、御息女に逢うている容子もない。実証がつかめぬ ー御隠居は何しろ、日頃から、雪之丞愚贋iあの者は、 どこまでも芸道専一のものーiいかにも、浪路のたわけた言 葉を、突きはなしたに相違あるまい。浪路にすれば、雪之丞 に想いを寄せる位であれば、日頃より大奥のくらしが、呪わ しゅうなっておったのでもあろうーまず、手をつくして、 隠れ家を探す外はないー・1と、こう申されるだけだ。たった 一個所、以前の乳母が怪しいで、これも嚇しもし、すかしも したが、どこまでも存ぜぬ知らぬで、そのロぶりにも怪しい ふしもなく、今は、全然、捜索の方途も失っている始末i」 「土部さまと申せば、老中さまより、御権威があるようにま で、いわれているお方、そうしたお方にも、御心配というも のはあるものでございましょうかねー」と、お初は、いっ て、しかし、信ぜられぬというように首を振って、 「でも、 雪之丞が、お行方を知らないなぞというのは、あたくしに は、のみこめませんけれどi」 一七 「変ですことねえー雪之丞が、浪路さまとかのお行方を、 ずこしも知らない? あたくしには・どうものみこめないi i」お初は、そんな風に繰返して、「あの人がそれを知らな い訳がないようにしか思われませんけれどー御隠居さまの 勢力で、あいつをぐんく責めて見たらよさそうなものです のにーi」彼女は、美しい唇を|歪《ゆが》めるようにして、 「素ッ裸 にして、ふんじばり上げて、ピシリくひッぱたいて、海老 責めにしつゾけたら、白状するにきまっていますよ」 「ところが、それも出来かねるわけがあるのよー何しろ、 この事が、世間に漏れたら、恐ろしいことになるので、どこ までも、|穏便《おんびん》、穏便  と、いうわけじゃ」 「いゝえ、あんな河原者の一人や二人、責め殺したってー」 お初は、さも、憎々しげに、そんな風に言いながら、今口に し吐、自分の言葉から、あの|艶《あで》やかな雪之丞が、真白な肉体 を剥き出しにされて、鞭で打たれ、縄で絞め上げられている ありさまを想像すると、その光景がまざくと目に浮かんで 来て、一種異様な、官能的な刺戟が全身を|浸《ひた》し、変態的な愉 悦にさえ駆られて、狂奮が、胸の血をわくくと沸き立たせ るのを感じるのだった。お初の、そうした変態的な気持が、 彼女の表情を、この瞬間、妙に魅惑に充ちたものにしたに相 違ないー門倉平馬は、息をつめたようにして、三白眼の瞳 をギラくとかゾやかしながら、からだを|硬《こわ》ばらせた。 「ね え、先生から申し上げて、あいつを、ぐんく責めでおやり なさいよーあたしもその時には、見せていたゾいて、欝憤 が晴らしたいものですー」お初は、しつッこい口調で言っ たが、平馬はそれには答えずに、じっと、上目づかいで、お 初を、睨むようにみつめつ冥けていたが、モゾリとした語韻 で、 「ま、雪之丞ずれのことはどうでもいゝー」そして、唾を ゴクリと呑むようにして、 「ときに、そなたは、うけたまわ れば、お独り身じゃそうなが-1」 「はい、不しあわせな身の上でござんして、良人に死にわか れましてから、もう長らく、淋しく暮しておりますlI」お 初、心の中で、|喧《わら》っている。  ーよくまあ、口が裂けないもんだねえ。自分ながら、出 鱈目ばかりいっているのには呆れてしまう。 「それはく、しかしそなたほどの美しさを、ようまあ、世 間がそのまゝにして置くものじゃーよほど、操の堅固なお 人と見えるのう」と、|訣《へつら》うように、平馬はいって、 「拙者 も、御覧の通りの男世帯、渋茶ひとつ上げるにも、無器用な 弟子どもの手というわけ、折角立ち寄ってくれられたにお構 いも出来ぬーが、酒ならある。実はこれから、くつろい で、寝酒をと思うたところだが、寒さしのぎ、ひと口つき合 ってまいられぬか?」  -ふうむ、こいつ、変な気持を起しやがったな…男ッ て奴あ、どいつもこいつも何てのろ助ばかりなんだろうi 島抜け法印は、谷中の寺にいるばかりじゃあねえ、こゝにも いたよ-二本差しなだけで、この男も、あのいが栗とちっ とも違やしない。  口では、 「でも、もう大そう遅うござんすしII」と、しおらしい。 「はじめて上がりましたお屋敷でー」 〜 一八 「夜が更けたと申して、拙者に於いては、毛頭かまわぬ,-, とき'バ\、晩酌が長引き出すと、夜を徹して飲むことがある 位だ。だが、お初どの、そなたの方にー」と、意味ありげ な微笑を、ニタリと送って、平馬11「そなたの方にひどう 差し支えることがあらばー誰れか、是非と逢わねばならぬ 人でも待っておッてi」 「ま」と、お初は仰山そうに、「そのようなこと、ござんす はずがーさきほども申したと存じますが、こんなお婆さん になってしまっては、かまってくれるものとてありませぬ」 「その癖、役者ぐるいも、しようというのかな?」平馬は、 ひとからみからんだ。お初は、横顔を見せながら投げやりに 笑い出した。 「ホ、ホ、ホ、あたしだって、木ぷつ金ぷつじゃあござんせ んし、たまには、なまごころも出て来ますゆえil」 「亭主をなくされて、気楽に日を送っているからだなら、ま あ、拙者とつき合ってまいってもよかろうなー」ポン/\ と、手を鳴らして、門弟を呼ぶのを、 「だって、お家の方々が、これから長居をしては、何とお思 いになりますやらー」 「酒じゃよi早う」と、平馬は、膝を突いた弟子に言っ て、「なにが、構うことが-家内でもあれば兎に角-1も っとも、そなたほどの女子を一目見た男は、あった家内も、 じきに去りとうなるかも知れぬがiー」  ー-ふん、またしても、いや味ッたらしいiーでも、こん な奴こそ、馬鹿と鋏は何とやらで、また便利なときもあるか も知れないから、まあ、ちょっと、釣っておいてやろうかー、、,  お初は、そう思案をきめて、 「じゃあ、折角のことですから、お相手させていたゾきま しょうかしら?」 「うむ、そういたしてくれ、かたじけないー1お願い申す よ、何せこの荒くれた世帯、たまには|自家《うち》の中にも、花が咲 いてくれなければiJ門弟が運んで来た、酒肴ー---といっ ても、どんぷりに、つくだ煮をほうり込んだのに銚子ーi  ーまあ、今夜は、何て貧乏たらしいお膳ばかり見なけれ ばならないのだろうねーさっきが、古寺の酒もりで、今度 が、道場の御馳走-  お初は、鼻の先きを鐵めたが、それをかくして、 「御門弟さん、お燗は、そこでつけますから、小出しのお徳 利に鉄瓶を貸して下さいましな。その方が、御面倒が無くっ てようござんしょうからー」 「なにから何まで、よう気がつくな、いやそれが女子-女 子のいない家は、荒野のようなものと、昔からいうが、もっ ともだ」 「先生は、なぜ御妻帯なさらないのでございます? へえ、 お酌ー」平馬は、楽しげに、杯をうけて、 「なぜと申して、拙者も、これまでは、武芸修行に、心魂を 打ち込んで暮していたでなーところがやはり男よ、このご ろは、どうも不自由な気ばかりしてならぬ。そなたにも酌を いたそうー」奇妙な酒宴が、此処でもはじまった。 7J ーイ 一九  お初はいわば、心底からの悪性おんなだ。長二郎泥棒と、 余儀ない破目で、引き離されてから雪之丞に心酔する熱情復 活の日が来るまで、つまらぬ男たちには目もくれなかったの だが、しかし、その本質においては、極めて執勧で、残忍な 悦楽の世界に、激しい思慕を感じていたのだ。  Iiあり来たりの色恋をしたってつまらないよ、そんなこ たあ、素人の箱入さんか、極くましなところで、意気がった |櫓下《も ヘトトつ いトし》の羽織衆にでもまかしておくんだね。おいらなんぞを、 生きるか死ぬかと、のぼせ上がらせる奴はまああるまいが、 それが目の前に出て来る日までじっとしているのさ。そのか わり、一度惚れたら1  恋が叶えば、地獄極楽も一緒に見ようし、叶わねば、相手 を生きながら刀葉林へも追い上げねば置くまいーと、いう ようなことを、いつも考えていたのだ。ところで、今、彼女 は、そうした恐ろしい恋の相手に、雪之丞を見出した。恋は 蹴散らされた。ではどこまでも、その薄情男を苦しめ|虐《しいた》げ、 生き皮剥いでやらねばならぬ。そして、彼女は、雪之丞が、 |畢生《ひつせい》の大願としている、例の復讐の望みを聴き知ったのを幸 い彼の計画の一切を、曝露して、存分に辛い目を見せてやら ねばならないと、決心したのであったが、しかし、この門倉 平馬という、これも、雪之丞に、恐怖すべき害心を抱いてい るに相違ない人物が、たった今、自分の色香にうつゝを抜か しているのを見ると、また、別の考えが起って来た。  …iこの男は、こないだ、田圃の出合いでは、雪さんに、 ひどい目にあわされたが、あれは不意のことだし、人数も少 なかったからだろうーといつを、おだてて、存分に陣立を させ、あの雪さんと噛み合したら、ちょいと面白いお芝居に なるかも知れない。なにも、敵討の邪魔をしたいばかりが、 おいらの望みでもないーあの美しい男の雪さんと、この角 張った剣術使を血みどろに戦わせて、高見の見物は、ちっと、 胸のすくことかも知れないよ。お初の慾望は、平馬の、淫れ 心に充ちた目つきに|唆《そも》られたように、浅ましい、|歪《ゆが》み、|臓《けが》さ れたものになって来た。  1どうせ、雪さんに意趣がえしをするなら、おいらの目 の前で、 一寸だめし、五分だめしに逢って、のた打ちまわる ところを、この目で見てやりたいー一件を三斎隠居に訴え るようなことをしたら、あの人は、おいらの知らない間に、 引っくゝられて、誰も知らない場所で、始末をつけられてし まうだろう。それじゃあ、おいらには、面白くもうれしくも ありはしない。  お初は、気が、がらりと変ってしまった。彼女の瞳は、新 たに胸に|萌《きざ》した、異常な願望に、|度強《ど ぎ》つくギラギラと輝き出 した。猫撫でごえで、 「お杯をさし上げて、失礼でござんせんければ-ー」 「失礼も何もあるものかーいや美婦の紅唇にふれた猪口の ふちーこれにまさるうれしいものはござるまいてー1ー」勤 番ざむらいの、お世辞のような、気障けたっぷりのことを言 って、杯をうける平馬は、お初のけものじみた慾念に燃える 瞳に刺戟されて、顔中の筋肉を、妙に硬ばらせた。「拙者、 今夜は、いかなる幸運かー吉祥天女が天下ったような気が して、とんと、気もそ穿ろになり申すよ。は、は、は、は」笑 いが笑いにならないー情慾が全身を硬直させてしまってい るのだ。 二〇  お初は、門倉平馬の表情に、異常な狂奮が澁って来るのを 見ると、いゝしお時だと思って、 「ねえ、門倉先生、あたし、ちょいと思いついたことがある のですけれどー」 「何でござるな?」杯を手にして、|砂《すが》めたような目で、じっ と見る。 「雪之丞のことですけれどー」雪之丞IIと、いう名が出 ると、平馬の目いろが変るのだ。 「ウム、あのばけ物のことで、何かー」 「実は、あたくしに取っては、土部さまのお娘御のことな〃、 は、どうでもい\一のですけれど、あの男を、あのまゝにはほ うって置くわけにはいかない気がしてならないんです」 「ふむ、まだ、未練が残ってならぬと、申すのかな?」毒々 しくいいかけるのを、お初は軽く笑殺して、 「まあ、先生も、剣術には明るいかも知れないけど、女ごこ ろはおわかりになりませんのねえi江戸の女というもの は、自分の望みをー折角掛けてやった想いを、無慈悲に突 っ刎ねるような男に、いつまでもでれくしちゃあいないで すよ。そのあべこべに、その男を、さんざッばら、ひどい目 に逢わしてやらなけりゃあ、辛抱がなりません。それで、ち っとばかし、お願いが出来たわけなの」言葉つきも、親しみ が加わり、遠慮が無くなった。それが、平馬には、うれしく てならぬ。見る/\活気づいて、 「ほう、雪之丞を、どうしようというのだな? 何か名案が あるかな?」 「あの男を、どこかへしょぴき出すか、それとも、途中で生 け捕るかして、き浄うくむごい目を見せてやりたいのです」 「それ真剣か?」 「真剣ですともi本気ですともI」 「ふうむ」と、平馬は腕を組んで、「女というものの執念は、 怖ろしいものだなあ」 「ほ、ほ、ほ、何を感ずっておいでなのさーそんな事は、 今更言うまでもありゃしない。女という生きものに取って は、いとしいいとしいと、思うこころが、先きの出方で、い つでも憎いくに変るんですよ。だから、先生なんぞも、そ の立派な男前で、あんまり女をいたずらして歩くと、しまい には、飛んだことになりますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」お初が、 冷たい凄い笑いを浴びせかけた。平馬は、顎のあたりに手を やって、 「拙者なぞ、そなたほどの女子に、せめて、毛程でも、怨む なり、憎むなりして貰いたいものじゃ」 「そんな空世辞よりも、先生、あなただって、雪之丞を、あ のまゝにして置いていゝのですかーあんな寒い田圃中で、 ぷちたおされてさ」平馬は、お初を、白い目で見て、その目 を反らして、 「いや、断じて、あのまゝには免し置けんーとは、思って いるがー」 「じゃあ、やっぱし先生も、あんな女の腐ったような男が、 デてんなに怖ろしくッてならないのですか?」お初は、潮けり 茄露骨に出す。 「何を馬鹿な! あの時は油断があったればこそ  」 「阜、れなら、な.せ、手を出さないんです、よう、先生」 二一  お初は、皮肉に、鼻声を出して、物ねだりをするように繰 り、返した。 「わたしが、殺されかけたあの男、あなたが、いかに油断と は言え、あんな恥辱を取ったあの男を、いつまで、あのまゝ に放って置くのですよう、先生」飲めば青くなる方の平馬 は、お初の言葉に、目を釣るようにして、 「拙者だとて、あやつを、あのまゝに放って置く気はない。 いずれ、手痛い目を見せてやる所存でいたが、そなたが、そ う言うなら今晩、これからでも、乗り込んで、素ッ首を叩き 斬ってやる」と、肩をいからせると、お初が|嘲笑《あざわら》って、 「それだから、厭さ。すぐ、そんな風に木ッ片に火が点いた ようになるのは、猪武者というものですよ。ほんとうに、雪 之丞に意趣返しをなさるおつもりなら、ちゃんと、陣立てを なすっていらっしゃい」 「陣立一⊂?」 「えゝ、あなたが、向う鉢巻で、飛びかゝって行ったって、 あ9、子並じゃあ、ちっとばかし、持てあましましょうよ。こ ないだのおつれのお武家さんだって、怨みはあるでしょう し、ほかにも仲のいゝ方がいるでしょう。その方々をかたら って、今度こそ、引ッくゝんなさいましよ。}息に、斬り殺 したりしてしまっては、面白くないから、ふんじばって、誰 も知らないところへ連れて行って、うんと責めてやろうじゃ アありませんか  」お初の目は、ギラギラと輝き出した。 彼女は叶わぬ恋人を、あらん限りの愛撫で、よろこばせてや るかわりに、この世からなる地獄の責苦を浴びせかけてやる 外はない破目になった。そして、どこまでも、プての慾望を突 き貫かなければ、我慢がならないのだった。 「そうか、用心に如くはなしだな、なあに、覚悟さえすれ ば、拙者一人で大丈夫だが  」と、平馬が言うのを、 「そりゃあ、思い切って、叩き斬るなら、うまくいけば、先 生にも出来ましょうよ。でも、それじゃアつまらない  生 殺し、なぶり殺しにしてやらなければ  あたしだって、日. ごろの恨みだから、.短力のきっ先きで、ちくりと位、やッて やりたいもの1ーピ 「ほう、そなたがな?」と、さすがに、平馬、びっくりした 目でみつめる。 「そうじゃありませんか  男と女の仲というものは、惚れ るか殺すかですよ」 「怖ろしいな」 「怖ろしゅうござんすとも  あなただって、今こそ、キのた しをそんな目で見ているけれど、もし、一度何してから、途 中で逃げ出そうとでもして御覧なさい。そのときには、思い 当りますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」 「いや、拙者、そなたに殺されるなら殺されても本望じゃ」 「まあ、それはそれとして、じゃあ、明日の晩、あたしが、 j 必らず、あの入を、柳ばしの方角まで引き出しますーその 途中、どこか淋しいところへ張っていて、盗んで下さい。連 れで.いく場所も見立てゝ置きますから-1」 「そんなことが出来るかな?」 「出来ますともIJ 「では、それで話はきまったーーときに、お初どの、今宵 は、更けたから、こゝで、泊ってまいってくれまいかー な、お初どの」平馬の、手が伸びて、お初の肩にふれた。 二二  手を取って引き寄せようとする平馬から、お初は軽く擦り 抜けて、 「さあ、あたしも、こんなに遅く外を歩くのは厭ですけれ ど、でも、雪之丞のことを考えると、ムラくして、とても のんびり御厄介になれませんし、それに、お宅で泊めていた だいたら、明日、御門弟衆多勢の目にふれると、先生に御迷 惑になると思いますから、今夜は、寒さを辛抱して、黒門町 へ帰りましょうよーそしてーー」と、色っぽく、しなさえ して、「そして、雪之丞へ、お互に意趣がえしをしてしまっ たら、ゆッくり、川向うへでも行って、静かなところで、お 目にかゝりたいものですねえ1向じまの田舎料理が、大そ う評判ですからi」 、,左様か、なるほど、道場内は、何かと窮屈で、落ちついて 話も出来ぬな」と、平馬はいって、それでも、残り惜しそう にーー「何なら、今夜、これから出かけようかーー-静かな晩 だから、左まで寒うもあるまい」 「まあ、楽しみは後からといいますゆえ、今のおはなしの雪 之丞の方を、始末してしまった方がようござんす。それじゃ あ、こうしましょうー-ーあたしはこれから家にかえって、今 夜の中に何かうまい思案をして、明日芝居が刎ねる前この道 場まで、手順をお知らせするように屹度します。どうぞ、こ ちらでも、御同勢を集めて置いて下さいましなーーいつ、何 どきでも押し出せるようにねi-わかりました?」お初は、 そういって、猪口のしずくを切ってカチリと膳に伏せる。 「その方は、承知いたしたが、もう帰られるか?」まだく 未練がましい平馬に、ニッコリと、微笑だけのこして、お初 は立ち上がった。 「かごでもー」と、玄関で、言ったが、 「いゝえ、かえって、歩く方が勝手ですからーー」お初"、 道場の門外へ出て、それからは、もう何も考えずに、小走り に夜道をいそぐ。彼女はしかし、このまゝ、まっすぐに黒門 町へ帰れはしないからだーすでに、谷中鉄心庵で、島抜け 法印を寝こかしてくれたことが、ばれてしまっているかも知 れない。  ー1あの坊主、あしたまで、ぐうく眠っていてくれゝは いゝが、あいつだって、悪党だーことによったら、もう目 をさまして、騒ぎ出しているかも知れぬ。そうすれば、闇太 郎のことだもの、おいらのからだを、ほうり出して置くはず がない。  どこへ行ったものかーと、考えるまでも無く、お初は、 所々に隠れ家を持っで.いる。彼女の足の爪先は、池の端、|錦 袋円《きハたいえん》の裏露地に、 ナ栞  1ーおん仕立物1  と、小さい札を出した小家を差していそぐ。仕立屋の格子 先に立つと、雨戸がしまってもうすっかり寝しずまっている ようだが、コツコツと、軽く叩いて、 「お杉ちゃん、もう、寝んね?」ゴトリと、何か物音がし て、 「どなた? お|銭《セん》ちゃん?」と、中年増の声ーいくらかね むたげである。 「い\一え、あたし黒門町-1」 「まあ、姐さん!」いマていで、入口に近よる気はいがする。       二三  お杉という、三十足らずのぽってり者、寝巻の裾から、紅 いものをこぼして、あわた冥しげに入口の戸を開けて、のぞ いで.、 …,まあ、思いがけない! さあ、早く、おはいんなすって ー1」 「,すまなかったね-1ー遅いのに起してー」はいって、土間 に脱ぎ捨てる駒下駄iそれを、お杉は下駄箱にしまう。 「はゾかりさまだね、下駄をいじらせてi」 「いゝえ、ねIl-だって、姐さん|危《あぶな》いんじゃないの?」お杉 は、行燈の灯を掻き立てながらいう。 「どうしてさ?」 「でも、吉さんはじめ、お身内の人たちが、姐さんの行方 が、出たッきりわからなくなったが、どうしたのだろう? 何でも、闇の親分に|誘《さそ》われて、大きな仕事を目論だらしいと いうので、そッちで訊いて見ると、解らぬというーそれ で、大騒ぎをしているようだから、てッきり、引ッかゝっ て、抜けておいでなのだろうと思ッてさ」と、お杉は、明る くした灯で、お初をみつめた。お初は、お杉の紅勝ちの友ぜ ん模様の寝床の枕元にあった、朱羅宇のきせるを取り上げ て、うまそうに、一服して、長火鉢のふちで、ポンと叩い て、いくらか苦笑した。 「そうかい? じゃあ、留守にしたので、方々へ御迷惑をか けたわけだねーなあに、そんな筋じゃあなかったのさ口l と、言って決して、無事というわけでもなかったのさ。おい らにも似合わねえドジをふんでね、少しばかり馬鹿を見た。 へえ、闇の奴、心あたりがねえと言ったッてかい? まあ見 ておいでIlあの野郎だって、その中、只は置かねえからー ー」と、二ふく目を、やけに、煙を吹いた。 コまあ、そんなら闇の親分と、何か仕事のことで出入りでも あったの?」と、お杉は、茶筒から喜撰を、急須に移しなが ら。お初はうなずくでもなく、 「いゝえね、あの野郎を、使った奴があるのきー…あの野郎 をあやつッて、人をとんだ苦しい目にあわせた奴がーー」 「まあ、あれ程の人をあやつるとなると、誰だろう? 大物 に相違ないがー」 「思いもかけない奴さーーおまはんには、見当もつかないだ ろうよ」 「仕事のことで?」鉄瓶の湯が、まだ熱いので、すぐに、う まい茶がはいった。お初は、フウフウと、軽く吹いて、一 口、飲んで、 j ㎞ ㎞ 仙 |仙《お》 ㎞ 仙 「でもないのさー兎に角、お茶はおいしいね。今夜は、つ まらない相手に|強《し》いられてばかりいたので、やけに|干《かわ》いてな らないよ。もう一杯1」 「それにしても、気になりますねえ1一たい、どうなすっ たのさ?」 「まあ、いゝよ、あとでわかることだからIとにかく、今 夜は、うちへは帰れないからだーゆっくり寝かしておくれ なil話はあととして、お前さんも、寝ておくれ」き唖ッき ゅツと、帯や、下じめを解いて、着物をぬいで、丸めて投げ ると、下には、目のさめるような|匹田《ひつた》ぞめの長じゅばんー fてのまゝ、 「お|寝間《ねま》のはしを汚しますッてさ。ほ、ほ、ほ」 と、冗談をいって、お杉の床にもぐり込んでしまった。 毒 蛇 の 巣 一  世の中が、凶作よ、不作よと、騒々しいためばかりとも思 われぬが、このごろずッと不入りつゾき、毎日、蓋があけら れるどころの話ではなく、やっと開けても、桟敷に何組、土 間に幾十人と、舞台から頭がかぞえられるようなありさま で、十日と持たずに千秋楽になってしまうのが、癖のように なっていた中村座、上方から招いた菊之丞一行が加入して の、懸命の働きが功を奏して、珍しく、その月がもう日が無 くなっても、押すなくの大入り続きなのだ。いうまでもな く、菊之丞一行中の、雪之丞の、天から授かったような美 色、これまでの役者に見られなかった晶の良さ、一挙手、禁 投足につきまとっている不思議な妖気ーと、いったような ものが、この成功の八分を露したのは、誰にも判っていた。 師匠菊之丞の得意は勿論、最初は、  1何しろ上方の、それも|綴帳《どんちよう》から成り上がった器用役 者、あざとくって、けれん沢山で見ちゃあいられねえー  とか、  -ま、見たところは、美しいですが、とんと場違いで、 近海の|鯛《たい》に馴れた舌には、ちと頂けませんな。  とか、尤もらしい顔をして、陰口を|吐《つ》いていた、いわゆ る、通人の連中も、いつとはなし軟化してしまって、昨日の 舌の根を、今日は、どう乾かしたのか、  1いやもう、かの役、至極絶妙、極上々吉、歌舞伎道、 創まっての逸品とでも申しましょうか。  1あれの舞台をじっと見ているてえと、どうもおたげえ に、江戸ッ子の泥ッくささが、小ッ恥かしくってならなくな るから妙だ。あれに付き合っている、座つきの役者たちは、 みんなピチピチした連中なはずなんだが、あれと並ぶと、残 念ながら、月とすッぽんー1たまげやしたねえ。  1何とかして、あの役者を、足止めして、今は若い身を 病気で引っ込んでいる、江戸一の立役者と、並べて眺めたい ものだな。i  な"、と、打ってかえした評判が、渦を巻きはじめる。それ で、目先きの利いた中村座の関係者は、師弟を口説いて、現 在の|滝夜叉讃《たきやしゃぱなし》を、打てるだけ打って、おっかぶせて、師走狂 言の忠臣蔵--ー初春まで、同じ顔ぶれで持ち越して、最近の Z 興行界に、記録を残して見たいー  と、いうような筋を運んだが、その実、師匠の菊之丞も、 そのほかの弟子も要らぬ。たゞ雪之丞一人だけを、未来永 劫、江戸に取ってしまいたいという肚なのだ。座方も、贔贋 も、肚は合った。日ごろは、芸界になぞ、縁どおい一般世界 までが、こうなると、煽られたように、  ・11雪之丞とかが、御当地に居付くだろうかーッて? 当り木だよ。公方さまのお膝元じゃあないか。日本中の結構 なもの、立派なもの、みんな大江戸にあつまるのが、天下の 定法なんだ。  ーへ、へ、へ、その中には、お前さんのように、結構 で、立派で、何とも見ッともなくって、|正面《まきいむ》に見られねえ馬 づらもまじってはいるが1  人を! いゝ加減にしねえと胴突くぜ!  と、いった工合で、雪之丞、人気を振り捨て兼ねて、却て 迷惑げに見えたが、しかし、師弟とも、肚では、  大敵多数を持つ身に、用意の月日をあたえて下さること、 一に仏神の御利益-  と、涙が出るほどうれしいのだ。       二  雪之丞|畢生《ひつせい》の大願は、これまでの経過から言えば、徐々に 確実に運んでゆけば、必らず十分な成果を挙げることが出来 ると信じられるのだった。もはや、土部三斎に対する、第一 段の復讐工作は、完了したと言ってもいゝではないか? 公 方の寵愛をほしいまゝにして父兄栄達の原動力をなしている と言われる、浪路の存在は、大奥から消えてしまった。そし て、浪路が、公方の熱愛を振り捨てゝ、姿を隠してしまった となれば、三斎一家に対する柳営の気持が、どんなに変って 来るかは、言うまでもないことである。世の中の辛酸も、道 理も理解することの出来ぬ、公方というような、最大特権階 級の我儘者の、愛憎が、どのように変化の甚だしいものであ るかは説明を待たない。この不幸をきっかけにして、土部三 斎や、横山、浜川と言ったような、|好妄暴慾《かんねいぼうよく》な武士たちは、 だんくに、雪之丞の計略の罠に陥ちてゆくであろう。父親 の見世の、子飼の手代の癖に、当の主人を死地におとしいれ た、長崎屋三郎兵衛はどうだ? 雪之丞が、孤軒老師の|訓《おし》え のまゝに投げた、恐ろしい暗示によって動いた、長い間、悪 謀をともにして来た、言わば親友の広海屋の詐略のために、 ふたゝび起つあたわぬ打撃をうけてしまった。して、長崎屋 は、あの|射狼《さいろう》に似た根性を以て、当然、ごく最近、今度はあ べこべに広海屋に噛みつくであろう。  -現世の栄華を、いのちよりも、魂よりも貴く思う人達 から、まず、一ばん大切なものを奪い取って、零落の淵に沈 ませ、恥辱をあたえ、さん人\に苦しみ悩ませてから、必殺 の刃で、一思いに一命を絶ってやってこそほんとうの復讐な のだ。一どきに殺してしまうには、あの人達の罪業は、あま りに深いー  そう思っている雪之丞、師走興行に、忠臣蔵が、出るとい うことを聴いて、これも天の配剤なのだろうと考えた。  1赤穂の義士方も、あれだけの辛抱があればこそ、残す なく望みを遂げた。わしも、構えて、あわてまいぞ。  あわてたなら、一人二人を|什《たお》すことが出来ても、五人の敵 を、|剰《 ま》さず亡ぼすことは不可能であろう。そんな覚悟で、も う、あと三日で、千秋楽という舞台を踏んで、楽屋に戻ると ー田圃、と、署名した文が届けられていた。今夜、急用で 打合せしたいことがある故、遅く、旅宿を訪ねるーと、い う意味のことを、知らせていた。  i田圃i  と、いえば、浅草の闇太郎に相違なかった。が、その処を 読みおわらないうちに、男衆がはいって来て、膝を突くと、 「親方、広海屋さんからーと、いって、お迎えのかごが待 っておりますがIl」広海屋と聴いて、雪之丞の心は緊張し た。その、長崎屋との|争論《でいカ》は、どんなことになったであろう ll自分が投げてやった、毒菓子に、ガブリとむしゃぶりつ いた二人の男の成りゆきが聴きたかった。闇太郎の文もあ り、いつもならそう手軽くうけ引きはしなかったのだろう に。 「広海屋さんは、どこにおいでなのだろう?」 「柳ばしの、ろ半で、おまちなそうでございます」 三  それなら、ろ半とやらで、ほんの短かい間、広海屋と逢っ て、それから、闇太郎の、急用というのを聴くために、宿へ 戻っても遅くはないであろうーと、雪之丞は、そんな風に 考えたので、舞台化粧をザッと落して、着類をあらためる と、迎えのかごというのに、騰曙なく身を|委《まか》せた。かごと一 緒に、使に来た男は、小柄な、はしっこそうな若者だった。 乗物の脇に引き添って、 「かごの衆、おまち兼ねだから、いそいでくれよ」 「合点だ」雪之丞は、かごに揺られながら、今夜、広海屋が どんな土産話を聴かせるであろうかを、楽しんでいる。彼の 想像では、広海屋は、あのように、きっぱりと長崎屋と手切 れをした以上は、思い切って圧迫を加えたであろうし、長崎 屋は長崎屋で、自棄になって、どんな非常手段でも取って、 対抗しようとするであろうー  現に、江戸の、お米の値段は、このごろめっきり下ったそ うなi長崎屋一味の店前に、石つぶてを投げる者さえある というはなしー長崎屋も、黙ってはいまい。あの長虫のよ うな執拗さで、広海屋に噛みついてゆくであろうが、それを 相手がどう受けるか-Ii  二頭の猛獣が、四ツに組んでお互のからだに牙を突き入れ たときこそ、雪之丞が、今度こそ秘めた破邪の剣を下すべき ときなのだ。  -一とあし一とあし、わしは目あてに近づいてゆく。  はっきりと、勝利を予想して、彼の胸は躍るのだ。そうし たことを考えている間に、かごは、どこまで来たであろう か? もう大分、長いこと乗っているのに、柳ばしに着いた 容子もない。ふと、気がつくと、かごかきの足音が違ってい る。|草鞍《わらじ》が土を踏んでいるひ冥きではない。  ーおや、橋を渡っているがーそれも、長い橋をf-  雪之丞は、いぷかしさを感じた。耳をすまして、少し考え 込んだが、 「かご屋さん、これは、柳ばしへゆくのではないの?」 「-   「へえ、それが模様換えになったのでi」と、かご脇に引   き添って、駆けていた若ものが、何でも無げに答えた。   「模様換えというとー」雪之丞、かすかな不安を覚えたも   のの、「わたしは、柳ばしろ半とか、聴いていたがー」   「いゝえ、柳ばしろ半の出店が、|深川《たつみ》にありますんでねー   へえ」かごは、いつか、橋を渡り切って、かまわず、急いで   行く。川風が、荒っぼく、垂れの外に吹きすぎるのをきって   走ってゆく。やがて、傾斜を下りて、人気はなれたあたりへ   出たらしかった。すると、とある曲り角を、曲ったと思う   と、そこで、二三人の足音が、乗物にまつわって来た。   1はて?    はじめて、雪之丞は、一種の殺気が、自分を押しっゝむの  ・を感じた。   1早まったかな? わしには、敵がないわけではなかっ   た。   敵、を敵をと、狙う身、あべこべに狙うものがあることを、   とかく忘れがちになるのは当然だった。        四   -ふうむ、先きの奴をまぜて、 一人、二人、三人、四   人、付いたな。|気息《いき》の使い方で見ると、一通り、武芸の心得  もある奴らしいが1   雪之丞は、とにかく、何かしら、陥穴のようなものに、落  ち込んでしまったと、ハッキリ思い知った上は、気を強め   て、難場を切り抜けるだけの心支度をする外はないのだっ  た。  -いつもく、一松斎先生や、孤軒先生から伺っていた 通り、敵を知り、おのれを知らねば、|闘争《たしかい》に勝つことは出来 ぬ。まず以って|直接《じか》に自分にまつわっている人々が、どこま での用意をして置くかを調べて、それによって、|背後《うしろ》の立て 物を見抜くが第一L  四人も、こゝまで出張っていて、なお、手を出さず、ひそ まり返って、乗物の進むにまかせているので、想察すれば、 このかごの行く先きにこそ、この人達をあやつり使っている 大物が、待っているとしか思われなかった。  -やはり、三斎隠居であろうか? 浪路どのの失踪が、 わしの細工と見て取って、窮命するつもりでもあるのであろ うか? どうも、そうは思われぬが1隠居は、わしをまだ まだ信じ切っている。不思議な、非理なわけだが、わしほど の芸を持ったものに、女を奪って隠すような、いやしい私心 は無いものと信じ切っている。どうしても、わしには、この 四人の人形をあやつる糸が、三斎の手から伸びているものと は考えられない。三斎でないと、して見れば、何ものだろ }つ?・  雪之丞の頭の中では、咄嵯にこうした懸念が、火花を散ら しながら渦を巻いた。  -まさか、わし程のものの出迎役を引きうける奴ばら、 いかに未熟でも、途中でかごから抜けさせるような能なし猿 ばかりではあるまい。がー  と、雪之丞は、いつもの凄まじい沈着を失わずに、臆せぬ 口調で、だしぬけにいいかけた。 「かご脇の方々iいずれまで、お連れを願わねばならぬの でござりますか? ちと揺られくたびれましたがー」しい んと、黙りこくって、答えるものがない。  1相当の心構えだな。  雪之丞は、敵が、挑みに応じて、荒ら立って来るのを望ん だ。そこに、彼はたやすく活路を見いだし、左まで精力を費 すこと無しに、身の自由を得られることを信じるのだった。 しかし、案外、相手が静粛を保っているので、追っかけて、 「お許しなされずとも、当方より、乗物を捨てまするぞ!」 グッと、身を斜めに、かごに、重みをかけて、今にも、やわ 作りの乗物を、踏み抜こうやに見せかけたが、相手は、なお も、|応《いら》わなかった。雪之丞は、まざくと、四本の刀の切ッ さきが、垂れの外で、自分を目がけて、差しつけられている のを感知した。  iこやつ等、左までの心得のある者どもでは無いであろ うーうしろで、糸を引く老が、わしの力を、十分に知って いて、大事に大事を取らせていると見えるー  と、考えたとき、パアッと明るみが、彼の胸を射し渡っ た。  1おッ! そうだ! 門倉だ! 平馬だ! あの人こ そ、わしの肉を|喰《くら》いたいとまで思っている随一人だ。  雪之丞の目に、あの無月の夜の、山ノ宿田圃路の一件がう かんで来るのだった。       五  1そうか、やはり門倉平馬の細工だったのか? それ で、広海屋の名を使ったのも読めた。  と、雪之丞は、胸に咳いた。彼は、まだ、軽業お初が三 あの強烈暴虐な執念の女鬼が、鉄心庵から、島抜け法印を盛 りつぶして、抜け出し、ふたゝび浮世に舞い戻って、怖ろし い計画を立てていることに就いては、何等の報告も受けてい なかったので、表面の敵を、只、平馬一人とかぞえているの だった。  ーそれなら、面白い。  と、大胆不敵な、この女装の剣者は、独り|言《ご》つ。  1日頃から、邪智ぶかい平馬、一度ならず後れを取った ことゆえ、今度は、多勢の手をかりて、わしをこの世から、 あの世の闇に送ってしまおうとするのであろうi恐らく は、江戸で聴えた、若手の剣客が、こぞってあの男の味方を しているかも知れない。では、一つ関東風の、鋭い切っ先き というものを、今夜は充分に賞翫して見ようか?  雪之丞は、人間がこの世に生れ出た以上、どんな成り麟き で、強敵を向うにまわさねばならぬかを、知りすぎるほど知 っている。そして、剣技と、士魂とを、一松斎や孤軒から訓 えこまれて、その敵が、多ければ多いほど、心を蓬ましくす べきだということを覚悟している。一個の男子に取って、い わば、敵は多いほどよかった、そういう場合にだけ、人間の 精神力、能力-一切の力は限りなく発揮されるはずなの だ。勿論、雪之丞とても、人。今夜、これから自らが|瀕《のぞ》むべ き危険を想像すると、一種の胸さわぎのようなものは感じる のだ。しかし、彼は、古来の、秀抜な剣士の、|遺《のこ》して行った 歴史に力づけられずにはいなかった。すべての剣聖は、言い のこしていた。  1百人の敵も、一度に、彼等の力を、一人の我れに注ぐ ことは出来ぬ。百の力は、結局、一と一との|比《ひ》で、自分に向 って来るのだ、恐れることはない。一人々々、それを倒せ、 何七もないことだ。  そして、そうした言葉を言い残している古人達は、みん な、実際に於いて、決闘上の、大場面を1大傑作を演じて 見せているのだった。  雪之丞は、自分に言った。  i門倉平馬の力で、まとめられるほどの敵が、何百人あ ろうと、それに打ち負かされるようで、わしの悲願が成し遂 げられようか? わしの敵どもは、もっとく力の強い人達 だα  タ  タ  タ  タ《ヤ  》|ー  と、小刻みに、そういううちにも、かごかきの足どりは進 んでゆく。雪之丞は、乗物の四囲に、鋭い|刀尖《とうせん》が、青い星の 光りを宿しながら、つきつけられているのを感じている。  -抜ければ抜けられる。  と、彼は思う。彼が、かごの中で、激しく身じろぎしたと き、ぐうっと、通して来る刃は、多くて四本ーその四本の 刀尖の交叉する一点を中心に四ツの空間があるのだった。彼 ほどの身のさばきのすばやい人間に取っては、その空間は、 あまりに大きすぎる位の安全地帯。そして、その安全地帯 に、一度身を置いた次の瞬間には、彼の全身は、乗物の外に 飛び出してしまっているだろう。が、彼は、動かなかった。 騒がずに、平馬の目の前に、この身を運んでゆかせたかった のだ。 六  雪之丞を載せたかごは、なおもさっくと、夜の北風が吹 く、田圃みちを進んでゆく。雪之丞は、心の用意が済んだの で、水のように澄み切った気持で背をもたせたまゝ、目を半 眼に閉じて、揺られるまゝに身を任せている。やがて、かご かきの足どりが、少しゆるんで、ゆるやかな傾斜にかゝった ようだ。どこかで、微かに人ごえがしている。  いよく、来たな!  と、雪之丞は半眼にしていた目をパチリと開けた。人ごえ が、やんで、しいんとしたが間もなく、かごわきで、 「止まれ、下ろせ」  と、錆びた声がーその命令で、乗物が、とんと下りる。 「珍客、召し連れ申したが、いかゞいたしましょうか?.」 と、同じこえが、言った。 「御苦労、御苦労」案にたがわず、門倉平馬の|声音《こわね》だ。それ が、いくらか、高みから聴えるところを見ると、大きな家 の、縁端での挨拶らしかった。「そこに、珍客のための、席 も設けてある。それに、招じるがよいであろう」 「しからばIl」と、錆びごえが答えて、「おのく、御用 意II-」と、言ったと思うと、サッと、急に、かごの垂れが 上げられる。 「河原者、雪之丞、出い!」錆声が、野太く叫 んだ。雪之丞は、すさまじい刀尖が、左右から突きつけられ ているのを見た。そして、次ぎに、そこが古寺の荒庭で、鈍 い|灯火《あかり》に照らされたあたりに、荒ごもが一枚布かれているの を見た。が、まだ、縁の上に、いかなる人々が並んでいるの j か、見ることが出来ない。 ¶出い! 雪之丞!」と、命令 が、ふた\び叫ばれた。 「ほ、は、ほ、ほ!」と、美しい、朗かにさえひゞく声で、 雪之丞は笑った。「これは、まあ、とんだ御念の入った、御 案内ぶりII」そして、冷たい調子で、「わたくしは、ま だ、わが手で、自分の履ものを、揃えたことがありませぬ。 かご屋、はき物をiI」 「何をつべこべ!」と、|刀尖《きつきき》をつきつけている青年武士が、 上釣った調子で|嚇《おど》した。 「たわ言を並べおるうちに、首が飛 ぷぞ。それが怖ろしくば、早う出い!」 「ほ、ほ、首が飛ぷは、怖ろしいに相違ありませぬが、はだ しにては、下に下りられませぬ」 「黙れ! 出い!」 「こなたの申すこと、おきゝ入れなくば、わたくしも、おい いつけを、おことわりいたすばかり1決して、この乗もの の外へ、お手向いなしには出ませぬ!」雪之丞は、相変ら ず、笑みさえふくめた声でいった。  若侍は、怒った。 「おのれ、血迷うたか! 嚇しではないぞーこの|刃《やいぽ》は1 1」 「さようでござりましょうともし立派なお武家が、役者風 情をお連れなさるのに、よほど怖うのうては、これ程のお支 度はなされますまい」       七  落着き払った、雪之丞の嘲笑に憤怒を煽り立てられたよう な、|青年《わかもの》の一人が、 「おのれッ! いわせて置けば!」と、押えかねて、ぐッ と、刀を突ッかけて来るのを、かわして、 「ほ、ほ、これはまた、|性急《せつかち》なお方!」と、笑って見せて、 その手首を、やんわりと、握りしめた雪之丞、ぐいと、引き つけて、|狼狽《あわ》てて、身を退こうとする相手の力に、きかせる ように、スルリと、かごから出てしまったので、たとえ、出 しなを斬ってしまおうと、企んでいたとて、きっかけは失わ れてしまったのだ。 「聴いたにまさる、しぶとい奴だ! さあそれへ坐れ!」ほ かの若僧たち、|太刀《かたな》の切ッさきで、追うように、|荒薦《あらごも》に坐ら せようとする。 「これは、御旺嘩すぎる、おもてなしー」にんまりと、花 のような唇を|綻《ほころ》ばして、まるで、舞台にいるときにも似たし とやかさで、くの字なりに居くずれて、片手を突いて、じっ と、見上げた目の行く先、鈍い燭の灯に照された、縁の上I I思い設けたとおり、そこに、威を張って、肩をそびやか し、三白眼を、光らせて控えているのが、門倉平馬-別 に、雪之丞をおどろかすには足りない。左右に、五人ばか り、これも、いくらか鍛錬を積んでいるに相違ない、面ずれ というのに、小蟹、小額、抜け上がらせた連中が、敵意と、 好奇心とに、目を剥くようにして押し並んでいる。その中に は、いつぞや、山ノ宿の出逢いで、呆気なく、当て什され た、あの浅草の武術家もいるに相違なかった。 「雪、びっくりいたしたか?」平馬が、搬枯れた、毒々しい 調子を浴びせて来た。雪之丞は、相変らず、焦立ちも見せ ず、|含笑《わら》って、 「|最初《はな》は、ちょいとばかり、気に|病《や》みましたが、どうせ、気 がつかずにはいませなんだー矢を射かけられゝば、射手の 在りかはわかりますからねえ」むしろ、旧交に、なんの害意 も持ち合わず、めぐり合ったときででもあるような、しずか な答。その語調に、はじめて、この不思議な存在を認識した であろう武術者たちの目がおに、ありくと、驚異のいろが うかぶ。彼等は、平馬から、雪之丞の本質について、聴かさ れてはいても、その美しさ、その妖しさ、その悠揚さ、その 鋭尖さを、目に見耳に知り、五体に感知するのは今が最初 で、しかも、相当の修行者であるとすれば、相手の一身に、 みじん、隙も退け目もないのは、'瞥で判ったであろう。驚 異ばかりか、恐怖さえ、|漂《たぎよ》うように見えた。平馬は、のしか かるように、 「今宵こそ、雪、生きて、この場を、立ち去れると思うと違 うぞ」 「ほんとうに、凄いようなところですこと」と、女装の若も のは答えた。 「よくもまあ、お江戸に、こうした荒れ果てた お寺もあるものでござりますねーもっとも、川向う、お構 いうちではありますまいけれど1相馬の古御所の、舞台よ りもっと物さびしいすさまじい景色-今度いずれ、こうい う|背景《ぷヤつぐ》で、何か|演《し》て見とうござります」彼は、笑みつゾけて いた..      八 雪之丞の自若とした容子に、 驚歎の目をみはっていた一人 が、傍の、肩の尖った男にいいかけた。 「なるほど、間柄、貴公から、雪之丞という奴、とんだばけ 物と承っていたが、これは又、途方もない|白徒《しれもの》だ」間柄助次 郎1これが浅草鳥越の道場持で、こないだ、安目に踏ん で、手痛いあしらいを受けた人物だ。i憎々しげに、雪之 丞を睨め下ろしたまゝ、 「いや、あの時は、拙者も門倉うじも、少し食べ酔いすぎて いたからよ。今夜こそは、先日の恨みがある。拙者の手で、 皮肉の破れるほどボ打ち据えてやらなければ!ー」 「間柄うじ、そう思したら、遠慮のう、手を下されたがいゝ ぞ」と、平馬がいった。 「お\許すとありゃIi」と、助次郎、今夜も、かなり酔 いがまわっているように見えたが、縁側から、|履脱《くつぬ》ぎに揃え てあった、庭下駄を突かけて下りると大股に、雪之丞の側に 歩み近づいて、 「これ、河原者!」と、鉄扇を突きつけて、 「その方、身分ちがいの身を以て、生意気に、剣技を誇るな ぞ、奇怪至極だ。今宵は、江戸剣者一同の名誉のため、さん ざんな目に逢わせて、御府内に姿を現さぬようにいたしつか わすぞ」そう、濁った声で、嚇したが、次の瞬間、「えい! 鉄扇を受けて見ろ」と叫びながら、真向から額を狙って打っ てかゝった。が、 「これは理不尽なー」と、やさしい声が、答えたと思った とき、助次郎の、右の利き腕がぐっとつかまれて、仰向けざ まに引き据えられていた。「あぷない、御冗談を-御冗談 とは存じておっても、当方にも、手足がござりますゆえ、ど こに当るかわかりませぬーいゝ程になされた方がー」 と、冷たくいって、平馬を仰いで、「只今、うけたまわれば、 わたくしが、御当地におりますことは、御歴々の御名巻、o戸を|傷《そこ》 なうものとかーなぜでござりましょう?わたくしは、御 存知の通り、剣を握る力があるなぞと、|他人《ひと》に明したことも ござりませぬが!」 「はゝ」と、平馬が、艶の悪い唇で笑って、 「貴さま、先夜 にいたせ、懐剣を抜いて、かよわい婦女子に、危害を加えよ うとしていたではないか? それが剣技を汚すものでなくて 何だ?」 「かよわき女性とは、あの折の女子のことでござりますか? あの者は、あり来たりの女ではありませぬ。底には底がある ことでーが、お言いわけは致しますまいーーあれが、気に 入らなんだとの思召しなら、どうぞ、御歴々御一統にて、こ の雪之丞を御随意にi何分、朝の早い渡世をいたします 身、あまり手聞ひま取ってはおられませぬゆえII」雪之丞 は、助次郎の二の腕を、ぐっと、指をまわして、掴み緊めて 置いて、突きはなす。掴まれた腕が、,|痺《しぴ》れたか、つきはなさ れて助次郎、あわてて、よろくと身を退いた。 「御成敗と なら、早うお手をお下しなされませ-但し、雪之丞、生き 物でござりますゆえ、お手向いはいたしますぞ」 「それ、おのく!」平馬が、並居る仲間を、顎で縁側から 追い下ろすようにした。       し       ノ  平馬に|駆《か》り集められて、面白半分、雪之丞折濫の役割を、 買って来た剣術使たち、 「かやつ、御存分にー」と、主人に|唆《そト》のかされて、いずれ も、大刀を引き寄せると、足袋はだしで、庭上に飛び下り た。一人、二人、三人-五人の同勢だ。その連中の先頭に 立った間柄助次郎、いつぞやの恨みもあり、今また|逸《はや》って不 覚をとった不面目をそゝごうとあせる。1近づくのを、物 の数でもなげに、笑みをふくんで眺めている雪之丞の前に、 立ちはだかると、 「こりゃ、生れぞくないー今、門倉うじ仰せの通り、汚ら わしい身を以って、剣法をもてあそぶ奴、生けては、この場 を立たせぬのだ。覚悟するがいゝぞ」 「ま」と、雪之丞は、女のように、紅唇の間から、白い前歯 をチラリとさせて、 「なるほど、生れぞくないと、おっしゃ るとおり、男ながら、女のように装うている、役者風情のわ たくしに、立派な剣者のあなたがお負けなされては、他の聴 えもいかゞ、お腹立ちは尤もながら、勝つものは、いつも勝 ち、負けるものは、いつも敗れるが、術の道i生けて、立 たせぬと仰せられても、立つ、立たぬは、わたくしの自由と 思いますがー」 「おのれ、いわせて置けば!」さすが、刀に手はかけなかっ たが、掴み直した、南蛮鉄の鉄扇、一尺五寸もあるのを、振 り上げさまに、「えい!」と打ち込んで来る。 「おたわむれを!」と、雪之丞、なまめかしく居くずれたま ま、上体を、ほんの少しかわしたのだが、見当がちがった助 次郎、タ、タ、タ、たゝらを踏んで、よろめいて来るのを、 サッと、白い手を閃めかして、小|腕《がいな》を打つと、脆くも、取り 落す鉄扇ーしずかに拾って、雪之丞、膝の上でまさぐった が、 「だから、何度おかゝりになっても、同じことだと申し 上げておりますのにー」 「うゝむ」憤怒と屈辱とに、ドス赤くなって、たまらず|刀柄《かたな》 に手をかけて、鯉口を切ろうとする1仲間の剣客も、その うしろに、今は、いつでも抜き放とう気勢1そして、当 の、雪之丞0背後、左右には、すでに、抜身の若侍が四人、 退路をふさいでいるのだ。これをしも、袋のねずみといわず して、何であろう。たった一人、縁側に居のこった平馬、白 目を、ギラギラと、すさまじく光らせて笑った。 「雪、虚勢は|廃《よ》せ。なあ、貴さまと、拙者、あの一|剋《こく》の一松 斎の門では、一つ鍋の飯を食うたことがあるのだ。肉をくら っても、あきたらぬ奴と思ってはいても、そうして、逃げ場 を失い、天にも地にも、途方に暮れるのを見ると、あわれに なる。どうじゃ? もうこれまでの生利きな気性を捨てて、 |拙者《わし》に詫びを入れ、酒席の酌でもいたすというなら、御一統 に、拙者から、いのち乞いを願ってもつかわすぞ。どうじ ゃ?」 「それはまた、御親切なーわたくしも事は好みませんが、 お詫びとゆうて、何を詫びたらいゝのでありますえ?」雪之 丞、刀葉林に坐して、まるで平馬と差し向いで、世間ばなし でもしている台詞だ。 一〇 「何を詫びたらよいか? 1と、訊くのか?」と、平馬は、 馬鹿にした調子で、 「一たいに、貴さまが、江戸で舞台を踏 むのなぞ、見るのも厭じゃーまずこれまで、お目をけがし ましてと、言って、役者をやめて、拙者の道場の、下男にで もなれーそれから、従って、一松斎へ、貴さまも、縁切状 をつけねばならぬー」平馬は、自分が|鳥濤《おこ》のこゝろに引き くらべて、雪之丞が、現在、平気をよそおってはいながら も、内心では生きた気持もないものと信じ、さん人\になぷ ってから、残忍なしおきに逢わせてやろうと企らんでいるの だ。雪之丞は、茶ばなしでもしているような、心易げな語韻 で、 「それは困りましたねえ」と、小首をかしげるようにした が、 「わたしが役者になったのは、身すぎ世すぎのためで、 つまりは、どなたかさまの下男になうて、水を汲んだり、庭 を掃いたりするのが、厭だったためでございます。それはも う、堅気衆から御覧になったら、草履をつかもうと、天びん をかつごうと、河原者と一くちに、いわれる渡世をするより も、いくらいゝかわからないと思召すでしょうが、人は顔か たちの違うように、心持もちがっております。わたくしが、 好きでえらんだなりわい、どなたが、何とおっしゃっても、 止めるわけにはゆきかねます。むずかしいことは存じませぬ が、|古《いにしえ》から、匹夫も、こゝろざしは奪うべからずIIと か、ほ、ほ、ほ、生意気なことと、お笑いなされましょう が、わたくしが、役者が、やめられぬのは、あなたさまが、 お武家がおやめになれぬのと、同じわけー」 「なに、何と申す? では、拙者の剣法を、貴さま自身にひ きくらべて、匹夫のこゝろざしーと申すのか? おのれ、 無礼な!」平馬、相手がおどしに乗らぬので、業を煮やし て、いら立って来た。 「ま、お腹立ちなされますな、たゾ、たとえでございます よ」 「こりゃ、おのく」と、おのが|武威《ぶい》を|臓《けが》されでもしたよう に、|恢《こら》え性をなくして、平馬は叫んだ。 「むかしのよしみに て、おのくから、いのち乞いをしてつかわそうと、これま で申すに、重ね重ね雑言を吐く奴ーもはや、止めませぬ。 さ、御存分に、撲って、蹴って、最後は、|瞼《なます》にしておやり下 さい」雪之丞は、いっそのこと、早く始末をつけてしまいた いのだ。宿には闇太郎を待たせてあるし、用をすまして眠り たい。  ー揃っておいでなさい。鉄扇一本で、おのく方も、|寝《やす》 ませて上げますからー  ニッコリ笑って、誘うように、からだ中に隙を見せたが、 相手の五人武者ーいずれも、敵を見る目ぐらいは持ってい るし、現在、軽はずみに、突ッかかって行った間柄助次郎 の、失敗を目に見たことだから、先を切ッて、飛びかゝって ゆくものもない。平馬は、わざと、平然たる態度をよそおう として、くわえていた銀煙管の吸口を、噛みつぶすばかり、 ギリギリと、噛んで、雪之丞の退路を絶とうと、背後に押し 並ばせた、おのが門弟どもに、あたるように、 「貴さまたち、何を愚図々々、それ、引ッ包んで、かまわぬ 斬れ1」これは、生兵法中の生兵法の手合、その中の|癒癩者《ふうてんもの》 が、師匠に煽られて、、 「えい!」と、だしぬけに斜うしろから、斬りつけて来た。       一一  背後から、閃めき落ちる白刃-鉄壁みじんと斬りつけて 来るのを、振向きもせず、体を少しばかり捻った雪之丞、相 手がかわされて、空を斬りながら、つンのめって、蔽いかぷ さるようになった所を、その若者の袴腰に|左手《ゆんで》をかけて、軽 く突くと、 「アッ!」と、あわてふためいた叫びを上げて、たゝらを踏 んで、前に並んだ五人武者の方へ、よろけて行く。と、隙間 あらせまじと、右と左から、 「やッ!」 「とう!.」と、殆ど同時に、無鉄砲に振り下ろして来たが、 いつ、雪之丞の手の鉄扇が働いたか、二人の敵、一人は眉間 を、一人は|鳩尾《みぞおち》を、グッと衝かれて、う、うんと、あおのけ ざまに、弓反りになって、ズーンとぷっ倒れる。雪之丞は、 その瞬間、もう、|荒薦《あらごも》の上に、なまめかしく居崩れてはいな かった。いつ突っ立ったか、五人武者をまともに引きうけ て、スラリと、右入身に、鉄扇を中段に、星の瞳をきらめか して、澄んだ、しかし激しい語調で、 「武芸の師と、自ら言われる方々が、それだけ押し並んで、 子供ばかりを挨拶に出されるとは何ごと? 折角のお招き、 雪之丞、お太刀すじが|賞翫《しようがん》いたしとうござります。いざ!」 臆せぬ挑戦だった。間柄は、五人の中央で、ギリギリと、聴 こえるほど奥歯を噛んだが、只った今の、あの不ざまな負け 目を、一同に、まざくと見られているのだから、こうまで 言われて引っ込んではいられない。    、 「ばけ物! 思い知れ!」ギラリと、抜いた、幅広、部厚の 大刀を、ぐうッと、上段に引き上げて、鉄棒のように硬く長 θ0 いからだを、ずいノ\と進めて来た。と、同時に、あとの四 人、いずれも、抜き連れた刀に、赤黒い|灯火《ひかゆ》を宿らせて、間 柄助次郎の手にあまったら、ほんとうに、即座に斬り伏せよ うという気勢1もはや、弄び嘲けって悪詫をほしいまゝに しようなぞという、いたずら気は毛頭なかった。  1大敵だ! なるほど、門倉や間柄から聴かされていた 通り、こやつまざくと、わが目で見ねば信じ難いほどの業 師ー油断すれば、こちらが危うい。その上、もし討洩らし て、やみく逃れられもしたら、もはや、剣の師として、江 戸で標札が上げられぬことにもなろうーどうしても、斬ッ てしまわねば1  個人としては、雪之丞に、何の恩怨もない彼等だが、不届 きな芸人を、さんぐに、剣の先きでもてあそんだ末、試し 斬りも自由という、平馬の面白おかしい誘引に乗って、こゝ まで来てしまった彼等、いのち賭けの仕事と、はじめて思い 知って、みんな、唇の色が変った。だが、それだけ、殺気が 充実して、すべての面上、必殺の凄味があふれる。それを見 のがす雪之丞ではない。しかし、却って、やっとのことで、 張合いが出て来たというように、 「お\いよく、御一同、抜かれましたな!が、辻斬り で、年寄り小供を斬るとは、ちがって、お手向いいたす|敵手《あいて》 となると、お気おくれがなさるようでー」花はずかしい美 青年の唇の、どこからこんな冷罵が出るかと、思われるよう だ。が、 一同、む、むと、気合をためているばかりだ。 一二 「間柄、|殺《や》っておしまいなさい!」その時、縁側から、平馬 の、|狂犬《やまいぬ》を|嫉《け》しかけるような声-間柄助次郎、そのひと声 に、刺輪で蹴られた桿馬のように、もう、前後の見境もな く、 「だあッ!」と、濁った怒号を|発《はな》つと一緒に、躍り上がった と見えたが、上段に振りかぶっていた一刀を、雪之丞の真向 から叩きつけて来た。|藤《かわ》すかと見えた雪之丞、居なりで、鉄 扇で、ガッと受け止めたが、一尺五寸にも充たぬ扇が長刀の 如く伸びたかのように、ジリジリと、助次郎の刀に捲きつい て、  ーピーンー  と、怪しい響きを立てたと思うと、相州物の大業ものが、 不思議にも、|鍔《つば》から八九寸のところで、ゴキリと折れてしま った。すわやと、おどろいて、|退《しざ》ろうとする助次郎の肩先 に、 「御免!」と、激しい打ちがはいる。 「む、うゝむ」助次郎 は、肩口を抑えて、よろくとよろめいて、しゃがんでしま った。雪之丞の、この太刀折りの手練は、ほかの四人の剣 者、見たことも、聴いたこともない。しかもそれが刹那の成 りゆきで、助次郎、敗れたと見たら、すぐに斬り込もうと考 えていた約東が違った。けれども、その儘には差し置けない。 「行くぞう!」と、右手の一人、グ、グ、グと、荒潮のよう に、押しつけて来て、 「おうッ!」と、|捻《うな》りざま、中段の刀 を、からだごと突ッかける。開いて、空をつかせた雪之丞 の、構えが直らぬ間に、もう一人、 「とうッ!」と、折り敷くように、胴を|薙《な》いで来るのを、ジ ク ーンと弾き返して、利き腕に、一撃、腕が折れたか、その場 に腰をついてしまったのを見向きもせず、突き損じて、のめ りかけた奴が、 「えい!」と、大袈裟に斬って来たのを、肩先一寸で、かわ して、 「む」と、詰めた気合で、心臓に、鉄扇の尖が、真ッ直ぐに はいる。残された二人、 「やッ!」 「や、やあッ1」正面と、横合から、合打を覚悟のように、 斬りかゝったが、雪之丞は、その二本の刃が、触れ合わない うちに、どう潜ったか、潜り抜けて、ズン、ガッと、たった 二打ち、一人は、後頭部を、一人は背を、打ち割られ、突き 破られて、重なり合うように悶絶してしまった。雪之丞は、 しずかに、いつもの微笑の目を、縁側に、さすがに、坐って もいられず、虚勢を失って、青ざめて、立ち上がった平馬に 送って、 「門倉さま、まいられるか? まいらねばなりますまい?」 平馬が、 「悪魔メ!」と、|股立《ももだち》を取って、刀を掴んだまゝ、 庭上に飛び下りようとしたとき、 「門倉さん、お前さんまで、ぶッたおされるにも及びますま いよ」破れ障子の蔭から、そう、|艶妖《あだ》っぽい声をかけて、赤 茶けた灯影が照らす縁側に、すらりとした立姿を現した女が あった。 一三 五人の友輩、幾人かの弟子どもを、 刀を抜かず打ち倒した 雪之丞の、あまりに昂然たる意気に、気圧されはしたが、退 きもならず、勇気を振るい起し、髪の毛を逆立てて、庭上に 跳ね下りようとした平馬を|艶《あだ》っぽく押し止めて、縁側に、ス ラリとした姿を現した一人の女性i  その姿を仰いだとき、さすがの雪之丞の|紅唇《くちぴる》から、  ーアッ1  と、驚きの声がほとばしろうとした。洗い髪にして、縞物 の裾を長目に、素足を見せて、黒嬬子の帯を引ッかけ結びに した、横櫛の女、いうまでもなく、軽業お初だ。闇太郎の手 で、殺しこそはせぬが、谷中の鉄心庵という古寺に、|槌《たし》かに 身の自由を失わせて、監禁しているという、そのお初が、何 ごとぞ、今、雪之丞の前に、而も、門倉平馬の一味女頭目ら しく、悠然として出現したのである。瞠目した雪之丞を、お 初、ふところ手で、柱に|任几《もた》れかゝるようにしたまゝ、冷たく 笑って眺め下ろした。 「どうだい? 女形、驚いたかい? ふゝ、鳩が豆鉄砲を食 ったような、きょとんとした顔をしてサーいゝ流行児が、 日本一の人気者が、何て馬鹿らしい顔をして見せるのサ?」 そして、大刀を抜いて、立膝になっている平馬に、「御覧な さいよ。先生がお手をお出しなさるにゃ及ばないーどこか の|両性児《ふたなり》みたいな人は、あんまり仰天したので、そのまゝ石 になってしまおうとしていますよ」雪之丞は、不思議にも、 これまでにない、ある戦傑に似たものを感じた。  1不思議だ。闇の親分ほどの人が、念を入れた手配を潜 って、ぬけくとわしに顔を見せるとは! しかも、門倉平 馬と、さも一味一体らしくー β β  その上、お初が、こちらの力量を、知りすぎるほど知って いる癖に、仲間の多くはすでに戦闘力を失い、残っているの は平馬一人、その平馬が、いかに阿修羅のように荒れたと て、敵ではないにきまっているのに、さも、|尚侍《なおたの》むところあ りげに、怯れも見せず仔む姿には、必勝を期するものの自信 がありくと見えるのだった。  ー一たい、どうしたというのであろう? お初は、わし に勝ったと信じているーあの気持は、どこから来ているの か?  当然、雪之丞は、お初をかくも勢いづけている、背後の力 というようなものを、想像して晃ずにはいられない。それ は、平馬一味というような存在に比べて、格段大きな、力強 い威力でなければならぬ。  ーでは、あの女、とうとう淫らな慾念の叶わぬ恨みを、 わしの秘密を敵方に売って、世に浅ましい|方法《やりかた》で晴らそうと するものに違いないーと、して見れば、この古寺の物蔭に は、土部一派、横山、浜川の手の者が、あまた隠されている のでもあろうか? 油断はならぬー  と、屹と、唇を噛んで思わず、お初を|睨《ね》め上げる。 「何とかおいゝよー雪之丞さん」と、お初は、ふところ手 のまゝで、流し目のような視線に、嘲笑を|軍《こ》めて投げかける のだ。 「お前さんは、あたしほどの者を、小指の先きであし らったと思っておいでらしいが、どっこい、間屋は、そうは |卸《おろ》しはしないよ。これでも江戸で、いくらか知られた女です からね。さあ、何とか、挨拶ぐらいしたらいゝじゃあない か」 一四  お初の、むしろ、べったりと、ねばッこく響くがゆえに、 一そう薄気味悪い言葉は、なおもつゾく。 「実はねえ、お前さんのやり方が、あんまりいまくしいか ら、ついした事から知り合いになったこの門倉さんに力をか りて、始末をつけて貰おうと思ったのだが、この|剣術《やつとう》の先生 が、折角集めてくれたのが、そこにころがっているお人たち ーやっぱし、門倉さんには、お前さんは荷が勝ちすぎた相 手だとわかったので、とうとうあたしが、顔を見せなければ ならないことになったのだがねー」お初が、べらくと、 しゃべり立てゝいるうちに、平馬、妙な顔つきになって来 た。それも尤も、かなり手ひどいコキ下ろし方なのだ。たま らなくなった風で、 「いや、かゝる|斗宵《としよう》の輩、何が怖いー今夜こそ、拙者、是 非ともー」と、惚れたお初から蔑すまれて、じっとしてい られない平馬、縁側から飛び下りようとするのを、激しく恥 じしめるように、お初が、また止めた。 「お止しよ、門倉さん、ふゝ、いろ男は、金と力が無いから って、何もはずかしいことはありはしないやね。わざく、 お前さんが立ち向って、また、いつぞやのように、当身でも 食って、のけぞってしまったら、それこそ御念が入りすぎる よ。まあ、雪之丞のことは、わたしにまかせてお置きなさい よ」 「じゃとゆうて、このまゝに、こやつを帰すことはー」 「だれも、この人を、こゝから逃がすとはいっていません よ」 「しかし、一味一党、無念や、おくれを取ってしまった今、 拙者が出なんだらー」と、平馬は、青ざめて、油汗を額に うかべて、 「とはいえ、そなたはかよわい女ーとても、あ やつを、押し伏せることは叶わぬ」 「ほ、ほ、ほ、ほ、なるほど、あたしは弱いさ1腕も力も ない筈なのさ。だけれど、ねえ門倉さん、お前さんより、い くらか智慧はあるのかも知れないよ」と|潮笑《あざわら》って、 「それに 比べると、さすがに、雪さんだ。あの人は、何か、心に感じ たねーこゝに集まっていた、でくの坊のような先生方と は、ちょっと変ったところのある女だと、今になって思い当 った風だねえ? ねえ門倉さん、雪さんの容子を御覧なさ い。彼の人は、これまで白刃にかこまれても、びくともしず に坐っていたが、あたしが出て来てから、すっかり容子が変 ったでしょうーあの人は、もう坐っている心のゆとりなん ぞありはしないーあの人は、ちっとも油断も隙も見せなく なった。大方、あたしが、よっぽど力強い味方をうしろに連 れているとでも感づいたのでしょう1全く、それに違いな いのさ。いかに、武芸、才智にすぐれた雪さんだって、あた しの手がー-1」と、ふところ手にしたのを、乳のあたりで ちょいと動かして見せて、 「この手が、ちょいと動いてごらん、お前さんのいのちは、 は努かりながら無いのだよーそのときには、さすがに雪さ んも、あたしのいうまゝになる外はないのさ」平馬、お初の 昂然たる気焔を聴いて、今更のように度胆を抜かれている。  1では、この女、何者を、助勢として別にかくしている のであろうー手をあげて合図をすればわれくより腕の立 つ連中が、いずくからか現れて来もするのか!  平馬は、きょろく、光りの届かぬ植込の影の、暗がりな ぞを見まわすようにするのであった。 一五 「ときに、雪さん、どうだね? あたしが、今夜、何か言い 出したら、今度こそ、うんと言ってくれますかい」お初の舌 鋒は、ふたゝび、雪之丞に、鋭く注がれはじめた。 「今夜こ そ、おまはんに負けましたーと、あたしの前で手をつい て、何でも言うまゝになりますかい? それを聴きたいもの ですね」雪之丞は、心耳をすましている。が、彼の感覚に は、何も怪しい気はいは感じられぬ。目の前に傷つきうめい ている人々の外には、手に立つほどの敵がひそんでいる容子 もない。  1女狐よりも狡い奴iどうせ、狡猪な手段で、囚われ の家を抜け出して来たに相違ないが、今も今、口先きの嚇し にかけて、心を|擾《みだ》させ、何か良からぬ計略をめぐらそうとし ているに相違ない。  雪之丞は、明るげに笑って、 「世の中からは、卑しい俳優と、さげすまれてはいるもの の、魂では、いかなるものゝふにも、負れは取らじと思うて いるわたし、いつ逢うても、汚らわしいことばかり口にする そなたの言葉を聴いて、耳が洗い度いーとにかく、わたし も用の多い身、折角の招きながら、あしらえが気に入らぬゆ え、この場を立ち去りますぞ。門倉どのにも、いずれ又i」 .秤 ツと、立ち上がろうとしたとき、ふところ手をしていた、お 初の右手の|肘《ひじ》が少しばかり動いて、はだけられた襟のあわい から、キラリと、黒く光るものがのぞいた。|冷《つめ》たげな、小さ い、丸い一ツ目1  ー|銃口《つモぐち》だ!  さすがに、雪之丞が、ハッとしたとき、お初は、赤勝ち友 禅の長嬬梓の腕がからむ、白い袖を、ふところから襟にくド らせて、はゾかりもなくずいと突き出した。その手の中に、 軽くつかまれた、ドス黒い武器ー 「わかりましたか? これはついこのごろ、|紅毛《オランダ》から渡って 来た元込め銃-一発、ドンと射つと、それっきり、又込め なければ、つ繋けて射てぬ、あの古ッくさい、不自由な鉄砲 とはちがうのだよ。|曳《ひ》き金を曳きさえすれば、つゾけ射ちに 打てるのです。それに、これでも、このお初は、軽業小屋に いたおかげで、狙った的ははずさないのさ? 御府内の|銃《つち》ば らいは、御禁制だが、こゝは川向う、しかも小梅のはずれ、 おとがめもあるまいから、どれ、ひとつ、久しぶりで、腕だ めしを見せましょうかーそうさねえ、雪さん、ついお前さ んのうしろの、何の木だか、細い|幹《みき》、あの木の|地上《した》から五尺 ばかりに見えている、枝を払ったあとの|瘤《こぶ》、あそこへ|中《あ》てて 見ましょうねー」雪之丞はじめ、平馬も、手負いも、お初 の能弁に魅されたように目をみはって、じッと、手元と、的 を見比べる。お初は、小さな武器を、掌に躍らすようにし             あか           旋、ず て、持ち直すと、裾を乱し、緋いいろをこぼして仔んだま ま、片肌ぬぎの無造作さで、短銃を掴んだ手を、前に出して 片目を押さえて、狙いをつける。 「いゝかい? 射って見せ ますよ」たのしげにいって、曳き金にかけた細い指に、かそ かに力を加える。と、だしぬけに、  iズーンl  と、いう、あまり高からぬ、が不気味なひ穿き1銃口か ら赤い火がパッとほとばしって、青白い煙が交ったと思った が、的に集まった、目という目が、一どきに驚樗の色を濃ら した。薄暗さの中にかすかに見える、木瘤、小さな瘤の真ン 中に、たしかにブスリと弾丸が突き刺さったのだ。       一六 「ね、どう? ちょいと、あざやかな|技鰯《うでまえ》でしょう? 門倉 さん、それからみなさん方-」と、お初は、得意げに笑っ て、 「ことさら、雪さん、この隠し芸には、幾らかびっくり したでしょうね? どう?」と、いったとき、いつか彼女は 短銃を、じーっと雪之丞その人に狙いをつけているのだっ た。「いつもく、いやに落ちつき払ってさ、高慢ちきに取 りすまして、天下で、わたしほど、武術も、芸も、すぐれた ものはあるまいと、いわんばかりの顔をしておいでの、雪之 丞さん、わちきは、刃ものを取っては、おまはんの敵であろ うはずはないけれど、今夜は別だと思ってるのですよ。なぜ ッて、わちきの掌の中には、こんな魔ものが宿っているので すものねえliふ、ふ、紅ッ毛で、天狗鼻の、ちん毛唐とい う人達も、いゝ道具を発明してくれたものさ」と、廟けった が、急に、乱暴な、ぞんざいな、下卑切ッた口調になって、 「えゝ、おい、何とか返事をおしよ。腰が抜けたような顔を して、ぽんやり坐っていないでさ。この短銃はね、決して、 j 舞台の小道具じゃあないのだよ。この曳き金に、お初ちゃん の細い細い、ほ、ほ、白魚のような指がさわりゃあ、この可 愛らしい銃口から、小ちゃい小ちゃい、小豆つぶのような弾 丸が飛び出して、まあ、蝋で作ったといおうか、珠玉をみが いたようだと言おうか、何とも言われず美しい、おまえさん の、その額の真ん中に、ポーンと食い込んでゆくのだよ。 ほ、ほ、口惜しそうに、そんなに怖い顔をしたって、駄目の 皮さ。たとえ、おまはんが、天狗昇、飛び切りの術を心得て いたって、こゝからそこまでは五間もある。飛びついて来る 途中で、一度当ったが最後、はがねの板でも抜こうという、 鉄砲玉が、おむかえにいくのだからねー雪さん、そんなヘ ッぴり腰をして、鉄扇なんど振りまわすのは、やめたらどう だい? えゝ、こう、そんな物は、捨ててしまえと、言って いるのに!」紅い唇を、食い反らすようにお初は罵り続け た。雪之丞は、しかし、別に、恐怖に度を失った容子はな い。彼はしずかに考える。  ーなるほど、お初の申すとおりじゃ。こちらから、飛び かゝって行ったところで、あの弾丸が迎えに来れば、途中で 射什されてしまうにきまっている。闇夜のつぷては避けよう があっても、まともに狙われた鉄砲では、どうしようもな い。つねみ、師から鉄砲で狙われたら、一がいに敵対しよう とせず、策を以て対する外はないとうけたまわっていたー こゝのことだ。  雪之丞は、どんなときも度を失わぬ、心の余裕を保ってい た。  !1それに、若し、あの女がわしをすぐ射ち殺すつもりな ら、四の五の並べず、射ちかけて来るはずだ。それを、あん なにべらくと、しゃべり立てているところを見ると、今、 この場で、殺す気はないのであろう。  いやく、一時にいのちを取るには、あまりに憎らしい奴 と、思い詰めているのであろう。鉄砲をつきつけて、さんざ んに嚇したり罵ったり、あらゆる残忍なしもとを加えたあと で、殺そうとでもいうのだろう。そ.こをうまくあやつらねば ならぬ1今こそ、大事な場合なのだ。  雪之丞は、鉄扇を、ポ!ンと闇に投げて、その場に膝を突 いた。 「なるほど、飛道具にあらがうすべはない。持ちあわさぬ。 お見やるとおりにするほかはありますまい」 闇 の 瞳       一  闇太郎、例の堅気な牙彫の職人らしい|扮装《つくり》、落ちつき払っ た容子で、雪之丞の宿の一間に、女がたの戻りを待っている のだが、もう顔を見せそうなものだと思いはじめてから、四 |半駒《はんとき》、半駒、一賄1なかノ\、帰って来る模様がないの で、何となく落着かなくなって来た。それも、単に、逢いた いとか、話しがしたいとかで、尋ねて来た彼ではない。今日 昼すぎになって一日一度は、見まわることにしている、鉄心 庵1そこを覗いて見ると、何と、おどろいたことには庵中 に人気は絶えてなく、 |害《あなぐら》の揚蓋も、あけッぱなしになって ●調一 縞    躍、 いて、さては、しまった、島抜け法印、見込んでまかせとい たお初の色香にまよって、駆け落ちをしたのかと唇を噛んだ が、よく調べると、首欠け阿弥陀仏の前に、置手紙が載って いて1   親分、すまぬ、大切な預りもの、ちょいと気をゆるした   ひまに、姿が無く、このまゝにては、生きて、男同志、   お目にかゝれぬ仕儀、これより草の根を分けてなりと、   お初をたずねださねばならぬゆえ、二つあって足りぬ首   をしばらくおかり申し、行方をたずねに出かけ申し候、   おわびは、たずね出しての上、いかんとも窮命に逢い申   すべく候。  と、書きのこした、いが栗坊主の、ざんげ文だ。  -やっぱし、無理だったのだ。法印は、すばしッこく智 慧のまわる方ではねえ。お初といえば女狐よりも狡い奴1 だまされたと見えるが、みんな、俺の罪だ!  闇太郎、地団駄が踏みたいのを、やッと押えて、すぐに、 気のきいた仲間、若い者を集めて八方、お初殊跡の捜索に出 してやったものの、夜になっても、消息が知れぬので、何よ りも、雪之丞に頼まれ甲斐のなかったのを、今更わびても始 まらぬが、善後策を相談し、身辺の警戒を忠告するために、 この旅宿屋に駆けつけて来たわけだった。闇太郎、まちにま ったが、老年宵ッ張りの師匠の菊之丞さえ、もう床について しまったというのに、いつになっても、雪之丞が戻らぬの で、気にもなり、いら立たしくもなって来た。  -ーもしや、もう、お初の奴が、何か小細工をやりはじめ たのじゃあねえか知ら? いかに素早い奴でも咋夜の今日で は、意趣がえしの法もつくめえがー  もっとも、お客と、ちょいと付き合って、じきに戻ると、 男衆を通じてことづてもあったことだーもう少し、辛抱し て見ようと、心を強いて落ちつけて見もしたが、自分が待っ ているということを、忘れるような相手ではないので、あま りに時刻が経つと、気が気でなくなるばかり-|階下《した》の小部 屋に泊っている男衆を呼んで、呼ばれた先きは、どこだ? 1ーと、たずねると、客は広海屋で、茶屋は、柳ばしのろ半 だという答ーー 「じゃあ、まち切れねえから、こっちからろ半へ出かけて見 ましょうー入れちがいになったら若親方に、寝ずに待って いるように言って下さいlIすぐ引っかえして来ますから ーぜひに今夜中、話して置きたいことがあるのでしてネ」 彼は、男衆にそう頼んで、辻かごで、柳ばしへ急がせて行っ た。 二  初冬ながらも、澗れもせず、恒にかわらぬ、漫々たる夜の 大川を、見渡す、料亭ろ半の門を潜って、今夜は、広海量の 一座は、顔をも姿をも見せぬーと、いうことを、帳場から ハッキリと聴いたとき、闇太郎は、今迄の胸さわぎを、まさ かと抑えていたのが、現実となって、思わず、 「やっぱし|行《や》りやがったな!」と、坤いて、奥歯を噛んでし まった。いかに、江戸の隅から隅まで、闇夜も真昼のよろに 見とおす心眼を持った闇太郎にしろ、ろ半を出て河岸に突っ 立った刹邪、 j  1…ウーム! と、吐息が出てしまった。計りに計って、 軽業お初が雪之丞を|陥穽《おとしあな》にあざむき入れたとしたなら、事は 重大だ。その上、長い時間を費しながら、あれだけの技禰を 持った雪之丞が、斬り抜けて、戻って来ぬので見れば、お初 の掘った穴の深さも暗さも、十分に了解出来る。闇太郎は、 日ごろ感じたことのない戦懐さえ覚えた。背すじを、川風よ りも寒いものが、ゾーッと走った。  1あま! たくみやがったな! それにちげえねえlf  闇太郎は、黒い川水のおもてに、蛇体になって、口から火 を吐きながら泳いでいる、執念の女鬼が、こちらに、嘲けり のろいを投げつけているような気がした。が、彼は、|憤《いか》って、 誓うように、低い怒号を叩きつけた。  -ー負けるものか! 畜生! あまッ子風情に!  彼は、一種独特な思索の|綾《あや》いとを、たぐり寄せて見ようと した。闇の水を睨んでいたが、しかし、結局、うかんで来る のは、白い、美しい、仇ッぽい女の、嘲笑の顔だけで、その 女が、どの方角を差して動いたか、どんな手段を取って、雪 之丞を|陥《 としい》れたかは、判然しない。  -だが、あまた手下を集めての仕事としたら、高が知れ たものだのにIIあいつは、いかに狡狐でも、女の身で、立 派な仲間も子分も持っていねえ、またどんな同類が、百人あ つまったところで、雪之丞に|敵《かな》いッこはねえのだがー1して 見ると、いよ/\、雪之丞の大敵の方へ内通しやがったか!  闇太郎は、そうした場合の、雪之丞の胸の中を思うと、 |腸《はらわた》が千切れそうだ。  i折角、十何年、一心不乱に、|父御《てもゴ》、匿御、一家ー門の かたきが討ちてえばっかりに、肝胆を砕き、苦難をかさねて 来たあの人が、いよ/\という瀬戸際に、つまりもしねえ女 泥棒風情の、恋のうらみから、底を割られ、剣の山に追い上 げられたら11それこそ、死んでも死に切れめえ? もし、 そんなことがあったら、此の世に、神も仏もねえというもん だ。畜生! 方一、声、んな場合にゃあ、この闇太郎、あの友 達の恨みをついで、百倍干倍にして、仕けえしをしてやるか らーこの大江戸を火の海にだってしてやるから1  闇太郎は沸き立つ憤怒にわげのわからぬことを、叫ぴ立て そうになって、辛うじて自分を抑えた。  ・ー馬鹿! 貴さまが、あわてふためく時じゃあねえli 心をしずめて、何とかひとつ方便をめぐらさねえことにゃ あー  しかし、うまい考えも、頓みには出ずに、両国広小路の方 へうつむき勝ちにやって来ると、フッと、向うに一群の人数 ー1十人ばかり、いそがしげな捕物勢らしい。闇太郎、棒立 になってみつめた。       三  闇太郎、一たん、立ち止ったが、ためらわず、来かゝる一 隊-二人の同心に指揮された、白鉢巻、手ッ甲、脚絆、素 わらじの、すでに物々しく十手を掴んだ捕手どもの方へ、怖 れ気もなく近づいてゆく。堅気をきわめた、縞物ぞっき、髪 のかたちさえ直しているから、どこから見ても、これが、本 体は江戸切っての怪賊と、見抜くほどのものが、あの中には、 まじっていないと、とうに|悟《さと》ってしまったのだ。うつむき勝 ちの、用ありげな足どり、通りすがろうとすると、向うは、 橋詰にさしかゝりそうになったので、捕ものは川向うか、あ らためて、同心から、みんなに訓示というわけだ。 「おい、いよく、いつ出ッくわすか知れねえぞ」と、鉄火 なロ調で、 「先きに出してある、竹町の半次や、子分どもか ら、橋を渡りゃあ、知らせがあるはずだ。お杉を締めて聴き 出したところじゃあ、あいつと一緒に、今夜おさむれえがた んといる模様だ。どうせ、やくざ浪人、すぐ抜いて来るだろ うが、そいつらあ、いゝ加減に、どこまでも、お初に、ぐッ と引ッついて、逃がしちゃあいけねえぜ」  iお初! お杉!  同心の唇から漏れた、その名ほど、闇太郎をびっくりさせ たものがあるであろうか! さすがに、棒立ちになろうとし たが、じきにいつもの彼に帰って、捕物隊が、かたまって、 こっちに目が無いのを幸いに、ぴたりと、つい其所の天水桶 に吸いついてしまうと、夜の蠕蟷か、のぞいて見てもわから ぬ程だ。  Iiじゃあ、あま、今日、古寺を抜けたうれしさに、のこ のこ市中を歩きまわって、こいつ等に嗅ぎつけられたのだ な。ふん、唐変木の、薄野呂のこいつ等だって、馬鹿にすり ゃあ、とんだ目を見るものさ。だが、それにしても、こりゃ あ、思いがけねえことが耳にへえった。こいつ等のあとを慕 えば、十に八九、お初の奴のいどころが知れるだろう。そこ には、必ず雪之丞が苦しめられているのだーーさむれえを仲 間にしたというからにゃあ、こいつあ、いよく大事になっ たーー何にしても、あいつ等のあとを|眼《つ》けて仁  闇太郎、羽織をぬいで、ふところに、頭に手拭をのせ、裾 を割って、片ぱしょりにすると、急に、いつもの、身軽さを きわめた姿となる。  同心の、指揮で、駆けゆく一隊-一てえ、どけえ、い きゃあがるんだ?  彼等が、両国ばしの、中ほどまで、渡りすごしたのを見る と、サッと、天水桶をはなれて、ヒラリと飛ぶ、夜の鳥のよ うーもう、捕物隊のついうしろに引ッついてしまった。橋 を渡りつめたところで、どこからか、飛び出して来た、一人 の男1-…目明しの子分体1 「旦那、やっぱし小梅の方角ですぜ」 「小梅たあ、一てえ、とんだはずれへ行きゃあがったー-浪 人ものを連れて、押し込みを働こうてえわけかー」 「さあ、あっしあ、まだ、どんづまりまでは突きとめていね えんでiー業平ばしから先きのことは、親分や、作太が、嗅 いでまわっているはずです」 「遅れちゃあ、いけねえ、いそげ!」同心ー行、先きをい、て いで、うしろに目がない。闇太郎の尾行は、楽々だ。 四  軽業お初が、浪人組を引率して川向うに姿を消したという 聴き込みに、検察当局にこそ、この目的が判明しなかった が、闇太郎にはあまりに明らかすぎるほど呑みこめるのだ。 それゆえにこそ、彼は矢も楯もたまらない。一刻一秒を争わ ずにはいられぬ。  -こゝまで来て、どうして雪之丞を、敵の手に渡した か! たとえ今夜、このおれの姿がばれて召し捕られること になっても、友達だけは助け出さねばならぬ。おっと、また、 諜者の奴が、出て来たぞ。今度は何をいやがるのか?  淋しいく、夜の流れ1業平橋とは、名こそ美しけれ、 野路をつないで架った橋の挟で黒い影が待ちうけていて、 「旦那、たしかに、お初をはじめ浪人ものは、この橋を越し たに相違ねえんです。ですが、うちの親分はじめ、一生懸命 嗅いでいるものの、こゝから先きは、見当がつきませんー この近所にゃあ、奴等が、荒っぼい腕をそろえて、乗りこま なけりゃあならねえほどの、豪家もなし、さりとて、生半可 の家へ押し込むに、それほど人数をそろえるわけもねえで しょう? 実は旦那がたがいらしってから、いつもの勘で、 考えていた冥きてえと思いやしてi」 「何だ! 何をまごノ\していやがったのだ」と、同心の一 人が|障《たけ》った。 「|小半駒《こはんとき》も、さきに出張っていやあがって、今 までそこらをウロくしているたあ、あきれかえった奴だ! それで、竹町の親分づらが出来るのか? そんなことなら、 申し上げて、十手を取り上げてやるからそう思え!」 「ほんに、驚き入った野呂間だな! 竹町も、焼きが、まわ ったの」と、今一人もつぷやいたが、「しかし、この場で、 腹を立てていてもはじまらぬ、これ、貴さま達の中で、この 辺の地理に明るい奴はないか! 金持という金持の屋敷を知 っているものはねえかー」 「へえ、あッしは、つい、この近所の生れでしてi」と、 名乗って出る、同心手付の捕り方が、何やらしゃべり出そう とするのを、もう、闇太郎は聴いていない。  ーようし、これから先きは、この俺が、立派に嗅ぎ出し て見せてやるぞ。何が、あいつ等金持の|蔵《むすめ》を狙うか? 奴等 は荒屋敷、荒寺を目あてにして、今夜の陣を張っているの だ。もうこの橋を渡ったと、見当がつけばこっちのものii  役人たちが、土地を知っているという捕り手を案内に、バ ラくと、駆け去ったあとで、橋を渡り切って、うしろを見 送った闇太郎ー  1ペッ、間抜めえ! どこへでも消えていきあがれ! あばよ! と、|曝《わら》って、冷たい夜風が、しゅうくと、淋しく 溢れる堤に立って、薄雲に下弦の月は隠れているが、どんよ りとした空の|下《もと》に、森々と眠っている村落を見晴るかす。そ れから、その堤根を、ましらのような素早やさで、南へ駆け る闇太郎の、目あてとするのは、これから五六町行った辺に 住持が女犯で|晒物《まニリし》になってから、住むものもなく大破した、 泰仁寺という寺があるのを思い出したからだ。彼は去年の冬 ざれ、例の野見と酒落たときに、その寺の境内で、休んだこ とを思い出した。キーンと感じた勘を、闇太郎は疑わぬ。駆 けろ! 駆けろ! 大丈夫、間に合うぞ!       五  女犯廃寺の泰仁寺1その荒れ森や、黒い|彊《いらか》は、やがて闇 太郎の鋭い目の前に、どんよりして来た、初冬の夜空の下に 見えた。闇太郎は、立ち止って、じっと耳をすますようにし て、その耳を地に伏せるようにする-ilこう、こう、こうーー と、淋しい夜風の漂う底に、やがて、何を聴き出したか、二 ーッと、白い前歯が現れる。 .0 !  ー1ふうむ、どうだ、自慢じゃあねえが、江戸御府内の隅 から隅まで、闇の中で見とおすと、人に言われるこのおいら だーー目ばかりじゃあねえ、耳もやっぱり、順風耳だぞ! この夜ふけに、あの阿魔でもなくッて、荒れ寺の中から、金 切ごえを聴かせる奴があるかーな、あの、かすかなかすか な物の気はいーありゃあ|夜禽《しヰししヒ》の声でもねえ、物ずきが、胡 弓を弾いている音いろでもねえ、女のこえだぜーーふ、ふ、 やっぱしあのおしゃべりおんなが、何かしゃべっていやあが るんだ。気軽になって、もう、はっきりと、目的成就の一歩 手前まで来たように、声さえ出して笑おうとしたのだった が、その瞬間、 「あッ!」と、仰天したように、大きく叫んで、ほとんど、 地を蹴って飛び上がった。鋭い彼の耳の鼓膜に、ズーンとい う、さまで高くはないが、不気味なひゾきが伝わったのだ、 声に出して、 「あッ、ありゃあたしかに|銃《つも》おとだ! はドか りもなく夜中の鉄砲! こいつは大変だ! こうしちゃあい られぬ!」と、叫ぷと、タッと、両の|股《もも》のあたりを、平手で 叩くと、それこそ、鉄砲玉のように、闇太郎は、泰仁寺の、 寺域めがけて駆け出した。闇太郎は、明るい光の下で見たら、 このとき紙のようにも青ざめていたであろう! 夜の銃声 ー物ずきに射つものがあるはずはないーたしかに、きっ ぱり、物のいのちを絶とうと決心した者だけが、敢てする業 なのだ。  雪之丞、いかに強くっても、鉄砲玉は避けられめえ! し、 しまったことをしたな! 雪! 無事でいてくれ! 頼んだ ぞ! 今、すぐに、おれが助けに行くんだぞ!  打ッつかりそうになった、崩れかけた高い土塀、パッと、 地を蹴るようにすると、いつか、寺の裏手の杜の中へ1落 ち積った枯葉の上に飛び下りて、ちょいと止って、全身を耳 に、呼吸を詰めたが、まるで肉食獣の足裏を持っているかの よう、カサというひゾきも立てず、杜の右手の墓地を潜って 鐘楼の方へ近づいてゆく。そして、鐘楼の石垣にとりついて 前庭の方へ目をやったとき、彼は、覚えず、抑え切れず、 「あッ! 〆めた!」と、わめきそうになって、声を呑ん だ。その刹那の、闇太郎のうれしさ! 見よ、二十間あまり 離れた、本堂の縁先、鈍い、紅い、おぼろな光りに照らされ て、あの、なつかしい、心の友が、相もかわらず落ちつきを 失わず、しっとりと|荒菰《あらごも》の上に坐っているのだ。  1ふうむ、じゃあ、あの銃音は、おどかしのためだった のか? おどかしだとすれば、あゝしてじっとしているから には、いのち取りの弾丸にやられるはずはねえ。  と、見つめていると、何やら、女の声が、嘲けるように聴 えたと思うと、ひらりと、本堂の高縁から、飛び下りた人の 影!  1よッ! お初の奴だ! しかも、短銃を持ちゃあがっ て!  闇太郎は、息を呑んだ。       六  白い|脛《はぎ》もあらわに、棲を蹴りみだして、沓脱に跳ね下りる と、庭下駄を、素あしに突っかけて、短銃を片手に、雪之丞 の前に歩み寄るお初-闇太郎は、俄に咲き出した毒の花の 〜 ようなすがたを、呪いに充たされて、みつめ続けた。  ーi畜生! いけねえ魔物を掌に握っていやあがるIiあ れせえなけりゃあ、糞! こうしちゃあ見ていねえのだがー  |荒薦《あらごも》の上に、坐っている雪之丞は、しかし、じっとりと、 身じろぎもせず、お初を、澄んだ目で迎えているようだ。 「ねえ、雪さん!」甲高な、お初の声が、鐘楼の蔭の、闇太 郎の耳まで筒抜けにひゾいて来る。 「おまえさんへの、あた しの怨みは、ことぐしく並べるまでもないよーだけれ ど、ねえ、あたしだって、これで、やっぱし只のおんな。一 度、惚れたおまえさんを、|穽穴《おとしあな》に追い落して、生き地獄の苦 しみに逢わせようとまで、憎み切るには、随分、手間ひまが かゝったよ。おまえさんの秘しごとを、あたしがちゃんと掴 んでいることは、おまえさんがようく知っている。でも、今 だって、それを歯の外に出しちゃあいないのだ。今夜、こん なことになったのは、おまえさんが、あの生け憎らしい、野 郎なんぞを使って、あたしをひどい目に逢わせようとしたか らさIIあの、闇の野郎なんぞを」闇太郎、突然、自分の名 が出たので、首をすくめて、小さく舌打をした。  -ちょッ! 闇の野郎だって! 生け憎らしい野郎だっ て! きびしいことをいやあがって! 「雪さん、おまえさんは、あの野郎が、今、江戸で、どんな 羽振りを利かせているか、ようく知っていなさるはずだ。あ たしにゃあ目の上の瘤さーそれを知って、あの狐野郎をつ かって、あたしをあんな古寺なんぞの穴ぐらへ押し込めると は、あんまりじゃあないかねえーだから、今夜、あたし は、わざ/\、同じような、古寺をえらんで、おまえさんをお 招き串したのだよ。それも、お礼ごころに、あそこよりか、 もっと淋しい、もっと怖ろしい、女犯でさらし物になって、 舌を噛んで死んだ坊主や、坊主にだまされて、怨み死にに死 んだ女たちの幽霊が、丑満すぎには屹度出て来るというこの 寺をさIIこゝの|須弥壇《しゆみだん》の下の隠し穴は、女たちを絞め殺し て、生き埋にほうり込んだあととかで、そりゃあ、陰気で欝 陶しい所だが、おまえさんほどの美しい男が、そのあだすが たではいって行ったら、御殿女中のしいたけたぼ、切髪のご けさんといった、坊主に生き血を畷られた揚句、くびり殺さ れた女たちの怨霊が、さぞ、うつゝを抜かすだろうよー ふ、ふ、このお初ちゃんほどの女を振りとおした雪さんで も、相手が幽霊じゃあ振り切れまいね。その、真白い頬ぺた を噛み切られたり、くびすじを食い切られたり、からだ中を 嘗めまわされて、狂い死にに死んでやったら、幽霊たちがそ れこそ大よろこびでござんしょうよ。ほ、ほ、ほ、ほ。あたし のお礼は気に入りましたかい? 芝居がかりで、面白いと、 感心してくれますかい?太夫さん!親方さん1えゝ 大阪表、大江戸切っての、人気者の女がたさん! おまえさ んが、怨霊どもに|奪《と》られたら、天下の御ひいきの御婦人がた は、ずいぶんがっかりするだろうねえIiさあ、あたしにば かりしゃべらせていないで、雪之丞さん、何とかお言いな。 浮世での、台詞の言いおさめになるのだろうからII」お初 の毒舌は、雪之丞へよりも、闇太郎の癒癩に、ぴんくと響 いて来るのであった。 七  さんざ、毒舌を|弄《ろう》しつくしたお初は、ます/\雪之丞に迫 り近づいて、掌にもてあそぶ短銃を、ひけらかすようにして 見せながら、 「さあ、|技備《うで》自慢のおまえさん、何とか、すばらしいところ を見せたらどう? 気合の術から、白刃とり、お芝居や講釈 で、評判だけを聴いている、武芸の奥義を、あらん限り知っ ているような、おまえさんじゃあないかll高々、この弱む しおんなの、手の中のいたずら物が怖いといって、そんなに すくんでしまわなくたっていゝよ。大方、さすが、人をそら さぬ人気渡世1わざと怖ろしがって見せているのであろう がーーほ、ほ、ほIIこれだけいっても、飛びついて来ない ので見ると、ほんとうに怖気をふるっているのかねえi」  ーi-雪之丞、何だってあんなにじっとしているんだろう?  と、闇太郎は、はがゆく咳いた。  f-日ごろのあの男にも似合わねえがーもっとも、武芸 という奴は、出来れば出来るほど、用心深いというから、萢 立つことをして、毛を吹いて傷を求めるより、あとでしずか に手だてを凝そうとしているのかも知れねえがllえゝ! じれッてえなあ、こんなことなら、この俺も、どこかで短銃 を盗んで来るんだッけーこれでも、二本差していた昔は、 銃ぱらいじゃあ、ひけを取らねえ男だったー  お初の方では、細い、白魚にも似た人さし指を、|曳金《ひきがね》にチ カリと掛けてちょいと、雪之丞に狙いをつけながら、|犠牲《にえ》を じゃらす雌豹のように、 「どうでしょうねえ、太夫さん、親方さん、今・そこで、十 八番の所作ごとを演って見て下さいと頼んだら、否やをおっ しゃるでしょうかねえ? でも、鳴物もうたもないから、い けないというかしらーじゃあ、あたしの足の指に、つい泥 が着いてしまったから、拭いて下さいと頼んだら、首を横に おふんなさるでしょうかねえ? いゝえ、あたしは、そんな 失礼なことは言いませんーあたしと一緒に、どうぞ、座敷 へ上がって下さいな。さっきから言う通り、|須弥壇《しゆみだん》の下に、 設けの|陥穽《おとしあな》が、お前さんを待って、ロを開けていますからね ーなあに、お怖いことはない。急に、いのちを取るよう に、慈悲深く出来ている穴じゃあないー1息も出来れば、手 足も伸ばせるtお上のお手入れがあったとき、ゴロゴロし ていた白骨も、かたづけてしまったから縞麗なものさ。さ あ、あたしが、入口まで、連れて行って上げるから、こうお いでなさいよーほ、ほ、ほーこないだの意趣晴しに、じ き上の本堂で、ちょいと一ロ|飲《や》って、娑婆というものが、ど んなに楽しいかというところを、見せつけて上げましょう ね? ふ、ふ、こゝにいなさる門倉さん、武術にかけては、 おまはんに敵わないかも知れないが、これでなかく情があ って、どこかのお人のように、木仏金仏石ぼとけというの じゃあないのですよ。今夜はひとつ、みっちり仲のいゝとこ ろを、見せつけて上げますかねー」お初は、冷たく笑った が、急に意地悪い悪どさで、 「さあ、おしゃべりはするだけ した。雪さん、起って頂戴1-御案内をしますからー」銃 口が、ぐっと、雪之丞に、突きつけられる。無言に立ち上が る雪之丞1「歩くんだよ。生れぞくない!」僧々しく浴び せかけて、お初は行手を顎で示した。 八  お初の持った短銃の銃口に追われるように、しんなりした うしろ姿を見せて、縁側へ上がってゆく雪之丞1お初がふ りかえって、門倉平馬が、|御《くわ》えぎせるでいるのに、皮肉な、 苦い言葉1ー-  「ねえ、門倉さん、煙を輪に吹いて、ぼんやりしていないで さ。そこらに、ゴロゴロころがっている、河岸のまぐろの生 きの悪いような先生方を、もう一度、息を吹っ返させてやっ たらどんなものだねーそれでもみんな、道場へかえりゃ あ、先生だろうから。ほ、ほ、ほ、門弟衆に、見せてやりた いわね」平馬は、唇をゆがめるようにして、煙を吐くと、萢 っぽく、ぽんと雁首を灰吹きに叩きつけて、立ち上がって、 庭に下りようとする。闇太郎、その方には目もくれない。物 蔭を放れると、本堂の裏手にまわって行ったが、あらび果て ている戸じまり、別に工夫を要するでもなく、雨戸を外し て、すうと、影のように中にはいる。ジャリジャリと、|埃塵《ほこむ》 が、一めんな廊下を、つたわってゆくと、お初の、例の、ね ばっこいような、色気と皮肉とが、ちゃんぽんになっている 声が、「雪さん、さあ、今が娑婆と、お別れですよ。おまえ さんの子分か友だちか知らねえが、あの闇太郎の薄野呂のよ うに、あたまこそ丸めておれ、生ぐさものが一日も、無くッ ちゃあ生きていられねえような、あんな和尚を番になんぞ、 っけて置きはしないけれど、だから、却て、一生、おまえさ `んの目はおてんどさまを見られないのさ。生じッか番人もい ない、穴ぐらの中で、話相手は、おばけや怨霊、とゞのつま りは、生きながら、可愛らしい鼠やいたちに、生血を吸わ れ、生き肉をかじられておさらばさ。ちっとばかし凄いねえ ーふん、この場になっておまえさんは、いやに落ちつい て、すましかえっているんだね? 何という意地ッ張りだろ う?」お初は、少し思わくが、はずれているに相違なかっ た。どんな性根の雪之丞にしろ、何しろ大願を抱く身、い ざ、いのちの問題となれば、哀訴もし、懇願もして、どうに かして、生きのびさせて貰おうと、あがきまわるに違いない ーそれを眺めて、存分に、せゝら笑ってやろうともくろん でいたのが、相手が、落ちつき払っているので、計画、|画餅《がべい》 では物たりない。何よりも、彼女としては、雪之丞が、もが きにもがき、もだえにもだえて、最後は、感情や官能で、媚 びて来たとき、自分が、どんな態度に出るだろうかと、それ を想像することが、不思議な、変態的な歓びでもあり、期待 でもあったのだ。  ーそんなとき、あたしに、あの人を、どこまでも突っ擾 ねてしまうことが出来るだろうかIlとりすがって、どんな ことでもしようというのを、穴ぐらに、蹴落すことが出来る だろうか? あたしは、してやるつもりだけれど、ことによ ったら、あの人の、涙ぐんだ目でも見たら、こっちの気持が くたくになってしまうかも知れないーあたしは、そのと きの自分が見たいのだ。  そんな、悪どい妄念まで抱いていたのに、雪之丞は、殆 ど、一世一代の重大な危機にのぞんでいるという自覚さえな いように、たゾ彼女のいうまゝに、動いているだけだ。お窃 は、歯がみした。 θ 「雪さん、あたしのいったり、 じゃあないのだよ」 九 したりしていることは、 冗談  闇太郎のような強敵が、つい障子外まで、忍び寄っている とは、さすがのお初も気がつかず、当のその人の耳があるの にお構いなしで、いら立たしさまぎれに、 「どうも、雪さん、あたしという女が、田圃の親分や、島抜 け法印みたいな、業さらしでなくってお気の毒さまーじゃ あ、・まあ、しばらく、穴ッぱいりをしておいでなさいよー じきに、あたしが、来て見るからねーそれまでに、その大 切な、美しい、やさしい顔を、おねずさんに噛じられない用 心をなすった方がようござんすよーーさあ、おはいりf」 ガラガラと、引き戸になっている、|陥穽《おとしあな》への入口が、あいた らしく、やがて、顧みられぬ女のやけ腹な、おこりッぽい調 子で、 「さあ、下りなと言ったら、下りないか! 愚図々々 していると、お初ちゃん、気が短いよ、上方ものとは違うん だ。どてっぱらへ、ドーンと一発ぶち込むよーふ、ふ、一 度惚れた女だなんぞと思って、甘ったれッこなしにしてさー ー下りなよ、雪之丞1」雪之丞は、何と観念したかlー手 向いは、大けがの元と、胸をさすったのであろう1|梯子《はしご》 か、それとも綱か、それをつたわって地下室へ下りて行った 容子1「大人しくしているんだよ、御府内御朱印引の中と はちがうんだよーじたばたすると、火をかけて遠慮なく、 古寺ぐるみ、焼き殺すから!」と、おどして置いて、ガラガ ラピシャリと、下り口の戸を閉めると、ガチャガチャと、金 物のひびきをさせたのは、錠を下ろしたのであろうー 「ふ、ふ、可愛さあまって、憎さが百倍ッてネ、これで、胸 がせいせいした」と、捨鉢につぶやいたお初、門倉たちがい る方へ、出て行ったが、相変らずのキンキンした調子で、 「さあ、これから、勝祝いに酒盛りと出かけますかねー-1皆 さん、ごくろうさまIlでも、あんまり、手もなくたおされ てしまったので、見物の仕甲斐がありませんでしたよ。ほ、 ほ、ほ、それでも、あたしのために、気まで失って下すった のだから、お礼を申しますーことに、鳥越の先生なぞ、二 度まで、生き死にの思いをなすったのですからねえ-i・-ま あ、ほ、ほ、ほ、みなさん、おつむを布でしばったりして、 大そうな御容体ですことー」かまわず、毒のある言葉と笑 いを浴びせかけて、 「さあ、これから飲みあかしましょう。 お礼ごころに、お酌をして上げますー」「雪めが、ぶちこ まれた穴の上ー本堂で酒盛りは、一しおうまいだろう」 と、門倉平馬の、野太い声。 「駄目ですわ、行って見たら、ごみだらけで、坐れたもの じゃありませんーこの座敷が、このお寺では一ばんさ。お い、重詰や、|樽《たる》を、おだしよ1吉」と、連れて来た乾児 に、命じるお初だ。  1へえん。  と、嘲笑うのは、本堂障子外の暗い廊下に立つ闇太郎I  -田圃や島抜けのような、のろ間でなくってーー業さら しでなくってお気の毒だって? はゞかりさまさーまあ、 一ぱいやってから、雪之丞をからかいに来て見るがいゝi きもッ玉がでんぐりがえって、腰を抜かさずにはいられめえ からliは、は、は、やっぱし、女さかしゅうして、牛うり 損うだなあ1大人しく、万引でもしていりゃあい\'に、あ ばずれ奴!       一〇  座敷の方で、酒宴のにぎわいが陽気らしくはじまったこ ろ、闇太郎は、いつか、荒れ障子を開けてもう、真暗な、本 堂の中にはいっていた。だが、夜と、暗がりが世界のような 彼、足元にも、手元にも、迷うことではない。まるで、明る みの中を歩くように、雑多にころがっている、仏具や、金仏 の間を、巧に爪先さぐりに通り抜けて、近づいたのが、須弥 壇の前ー抹香臭さ、かび臭さが鼻を撲つ。おぼろかな気は いのうちに、さすがに荘厳味を感じさせて、高く立っている 如来像には見向きもせず、壇下を、手さぐりで、一探り、早 くも、台の前かざりの、浮き彫の、嵌め込みの板を、触れて 見て、彼は、それが、引戸になっているのを悟った。  ー1-はゝあ、これだな、お初の奴が、ガラガラと開けたの はーつまり、こゝから壇の下に潜ると、陥穽になるわけな のだ。  お初は、遠慮する必要がないから、出入りの秘し戸を、思 い切って開けることが出来たのだが、こちらはそうはいかな いi闇太郎は、油断のある男ではない上に、今夜は、つい 鼻のさきに、目も耳もはしっこい、敵を控えている身だっ た。大事を取って、息をとゝのえて、指先を、秘し戸にかけ ると、いつか錠がはずれて、スッ、スッと、小刻みに開いて ゆく。お初の場合には、あんなに|鰻《きし》んだ引き戸が、闇太郎 の、用心深い手にかゝると、まるで丹念に油をくれた溝を走 るかのように、辻るようにひらかれるのだ。闇太郎は、うま うま、おのが姿を、須弥壇の下に|蔵《かく》すと、元の通りに閉め て、さて、心耳をすます。今度こそ真の闇!床下から湧き 上がって来る毒気が、息を|窒《つま》らせるばかりで、この中に押し 込められた、雪之丞、どこにどうなりゆいたのであろう? いきざしも聴えない。  1ふうむ、俺が、もぐって来たのを、俺と知らずに、静 息の法で、在り所を隠したな? 静息の法というのは、人、 近づくと知れば、相手の、呼気、吸気と、あるか無きかの息 を合せて、物の気はいを相殺させ、その間に容子をうかゾっ て、避けるか、戦うかの判断を加えるための、秘密の術のひ とつーその間に、闇太郎は、切り穴が、板張りに開いてい るのを探り当てたが、案の定、そこから一本の綱が、下にお ろされているー  ーふん、綱をたぐり上げても置かねえところを見ると、 お初の奴、勝ち誇りやがったなー1どうするか見ていろ1  闇太郎は、切り穴の中に、首を突き入れるようにして、か すかなかすかな咳ばらいを、一つした。と、殆んど、間を置 かず、ひどく深い穴の底でも、同じような咳ばらいがする。 これがこんな場合それといわずに、自分の本体を、知らせ 合う法で、咳ばらいには、めいくの特長があるから、ほん のかすかな、小さな、低いひゾきでも、お互に、はゝあー近づ いて来たのは、誰れだな? 何人だなということが呑み込め るわけだ。闇太郎が、綱の一たんを掴んで軽くゆさぶった。  ーーとの綱にすがって、上がって来い。  と、すゝめたのだ。すると、たちまち、その綱が、ピーン と緊張して、スルスルと、上がって来る者があるのが、闇太 郎の指に感じられる。上がり口まで来たところで、手を腕に かけて、引き上げてやる。 「太夫、わびはあとだ。さあ、先きへ戻りな」と、雪之丞が 板張に立ったとき、闇太郎は曝やいた。 一一  須弥壇下の闇の中ー-手と手を取り合ったが、雪之丞、闇 太郎、多言の場合でないーー 「外ヘー早く1宿へ戻るがいゝ」 「かたじけない」外の気はいを、じっと、うかゾった雪之 丞、ふたゝび、引き戸をあけて、つい、一瞬に、すがたは、 もう、消え失せる。本堂にたゝずんで、コソリと、杉葉が、 たった一度、裏庭でかすかに鳴るのを聴いた、闇太郎、i ウム、これでよしー  と、心の目で、雪之丞が、もはや、寺後の杜を抜けて、塀 さえ越してしまったのを、見届けてつぶやいたが、  ーそれにしても、俺にゃあ、このまゝじゃあ、帰えられ ねえーお初の奴に、ちょッぴり礼を言わねえことにゃあー  スウッと、本堂を、物の影のように抜けると、いつか、庭 へ下りて、さも遠くから、たった今、駆けつけて来たかのよ うに息をし、妙に掠めた、低い調子でー 「吉ッつあんー黒門町の、もしや吉さんというお人が、こ のお寺に来てはいやあしませんかね?」庫裡の、上がりがま ちに、腰を下して、いずれ、悪徒らしいかごかきを相手に、 これも寒さ凌ぎの、冷酒をかぷっていた、がに股の吉がー1 「たれだ? 俺の名を言うなあー」と、不気味Ψてうに、び っくりしたような、「手めえは何だ?」どこから、出し抜け にあらわれたか、突如として、暗がりの庭にはいって来た男 を見て叫んだ。相手は、そんなことには、頓着なく、 「おゝ、お前が吉ッつあん1安心しやした。さっき、池の 端を駆け出して、川向うまで、一足飛びー大てい、この辺 だろうと、お杉の姐御が言うものだから、見当はつけて来た が、若し一あし違げえになったら大変だと思ってー」さ も、安心したらしい、しかし、意味ありげなロ上1、吉は、 立って来て、手拭を盗ッとかぶり、尻をはしょって、空脛を 出した男、闇を透してみつめるように、 「じゃあ、おめえは池の端の、お杉姐御のところから、来た って言うのだな1一あし違げえたあ、妙な文旬だがー」 「いやもう、今夜という今夜は、、面くらってしめえやした よ。お杉姐御も、かわいそうに、お番所さ」 「えッ1お杉さんが、番所へ引かれた?」と、吉の声が、 つッぱしる。 「へえ、なあに、ゆうべ、黒門町のお初さんの宿をしたの が、判ったというのでネーー奴等あお初姐御が、浪人衆をか たらって、川向うへ来たということまで、ちゃあんと知って いやあがってー」 「何だと! じゃあ、奴等が、川のこっちへ出張ろうッてえ のか?」吉は、せかくしくいって、 「奴等に知れるわけ が、あるはずがねえがー」 「あッしにゃあ、詳しいわけはわかりませんーだが、お杉 さんが、引かれる真際に、役人に薬を使って、着物を着更え ながら、紅筆で、あっしに書きのこして行ったんですよ。お 初さんが、川向うの泰仁寺へ行ったはずだーー吉ッつあんが 眼いているから、駆けつけて、知らせろッてネーII|小女《ちび》が、 その手紙をあッしの穴へ持って来てくれたんです。それを読 むと足を空にかけ出して来たんですがi」 二一  二度三度、顔を合せているがに股の吉、相当、目はしの鋭 い男だが、闇太郎の、ひょいとしたいきでガラリ調子を変え て見せる、不可恩議な技術と、擬声の巧さとに、すッかり相 手を見ザてくなってしまった。もっとも、それを、責めるわけ にはいかないのだ1闇太郎の、この種の技巧は、江戸切ッ ての目明し、岡ッ引の、心眼をさえ、何度、くらまして来て いるか、わからないのだからー コ七んなわけで、黒門町の姐御に、是非とも、一刻も早くこ のことをお耳に入れなけりゃあ、お杉さんにあッしが済まね え1吉ッつあん、姐御が、この寺にいるなら、早速知らせ て上げておくんなせえ」 「いうにゃ及ぶだーー-お杉さんはまさか口は割るめえが、浪 人衆の方の門人か何かが、行く先きを知っていて、しゃべっ てしまえばそれッきりだ」と、前庭を、書院座敷の方へ駆け 出す吉のあとから、闇太郎は、ぬからず眼いて行った。 「姐御! 酒盛なんぞ、暢気らしくやッている場合じゃあり ませんぜ!」吉が、庭先から叫ぶと、 「何だい! 仰山らしい! 何がどうしたって言うんだ い!」と、きめつけるような、お初の声。 「今、池の端から人が駆けつけて、手入れがあって、お杉さ んが、番所へ引かれたというのですよ」 「何だって! お杉が!」さすがに、お初の語韻に、驚きが まじる。 「姐御が、立ち廻ったのが、ばれたんだそうですよ」 「ふうむ?」 「それで、若し、どうかした拍子で、川向うへ来たことが知 れたら、一騒動、とにかく、容子を知らせろと、頼まれて、 お杉さんの懇意な人が、飛んで来てくれたのですが!ー」 「では、役人に、今夜のことが知れたというのか?」と、門 倉平馬が臆病風に誘われたようにいう。 「お杉さんは、何もいいはしますめえが、あそこには、雇婆 あもいるし-万一、底が割れたら、もうじき奴等が押しか けて来るものと思わなけりゃあー」吉が、そう答えたと き、お初はもう、すっと立ち上がっていた。立ちながらー! 「平馬さん、奴等が近づいていると、あたしの武器じゃあ、 音がして悪いーーあんたの手を借りなけりゃあー」お初、 吉の言葉に|動顛《どうてん》させられて、今は、雪之丞に対する複雑な気 持をじっと、持ち休えることさえ出来なくなり、一思いに、 殺害してしまおうと、決心したものと見えた。 「心得た」相手が、穴ぐらの中で、自由を失っているのであ れば、大して手向いも出来るものではないと、考えたらし く、平馬は言下に大刀を掴んで突ッ立った。 「あたしが、鉄砲でおどかしているうちに、ズバリと殺って おくんなさいよ1本堂へ引き出すからさ」  ーケッ、ケッ、ケッ!  と、闇太郎、声を呑んで|喧《わら》わざるを得ない。  ー1ざまあ見ろ、須弥壇下へくゾって見ろ、雪之丞にゃ ひの、いつだって、この闇太郎が附いているんだ。馬鹿老め!  怪賊は闇の中で、ニヤリと白い歯を現して、本堂の方をの ぞき込んだ。       一三  一度、雪之丞に打ち倒されて、半死半生の目に合された、 剣客や、門弟たち、さすがに不死身で絶気のあとでは、第一 の妙薬と、大杯を傾けていたのが、これ等もドヤドヤと立ち 上がって、お初、平馬のあとを、本堂の方へ眼いてゆく。そ れを、錆びた燭台の、裸蟷燭のあかりで、ニヤニヤしながら 眺めていた闇太郎、やがて、奥でーー 「おや! これは不思議だ…」と、お初の、里高な、いくら か取りみだしたような声がして、 「だれか、もっと大きな蟻 燭を持って来ておくれよ」 「どうしたのだ! 姿が見えぬのか?」と、平馬のハッとし たような叫び。 「いゝんですよ、その手燭では、あかりが届かないんだから ーー隅々までわかるように、向うの百目蝦燭を持っておいで なさいよ」お初の声の下から、平馬の門弟の一人が、座敷へ 来て、燭台から、百目蝋燭を火のついたまゝ、抜いて掴んで ゆく。が、どんな灯りも無駄だ。 「まあ… あいつ、どうしたのだろう? 厳重に錠を下ろし て置いたのに!」お切が、さすがに、絶叫した。  ーへん、外からあけて、抜け出さして、また、ちゃあん と、しまりをして置いたんだ。  と、闇太郎は、赤い舌さえ出して、嘲けって、  ーもっとくびっくりしゃあがれ!  平馬の声が、 「どれ、拙者に蠣燭をーどんな、隠れ穴があるのかも知れ ぬー下りて、見てまいるー」 「お気をつけなさいよ1隠れていたらあぷないからi」 ¶なあに、こうしてまいればー」抜き身の刀を提げて、綱 をつたわって下りてゆくつもりらしい。門倉平馬、惚れたお 初の目の前で、何とかして勇気を示し、いつぞや以来の、不 信用を取りかえしたいのであろうー自分だけは、今夜同伴 の剣士たちとは、ちっとはちがったものだということを示し たいのであろう。平馬が、穴の底に下り着いたと思うころ、 闇太郎、突然、バラバラと、縁端に走り寄って、大きな透る 声で叫んだ。 「ざまあ見ろ! お初、手前ッちが、このおれさまに張り合 えるかい!とんちきめ、尋ねる人は、もうとッくに楽々 と、蒲団の中で楽寝をしていらあーあばよ!」 「やッ! ちくしょう、うぬあ何だ!」と、がに股の吉、び っくりして、闇太郎に掴みかゝるのを、突きとばして、尻餅 をつく上へ、あびせかけるように、 「三下! 引ッ込んでや がれ! 馬鹿、俺がわからねえか!」 「あッ、お前は、闇のi」 「うるせえ!」と、一喝して、 「手めえに恨みはねえ、早く |亡《あ》けろ! 役人が来るなあ、ほんとうだぜ!」タッと、一跳 躍して、暗がりの庭を、突ッ切って、塀を跳ね越えようとし たとき、  ーズーン! と、いう銃の音ーIつい側の庭石に|中《あた》っ て、火花が散った。 「間抜けめ!」と、塀外へ下りたとき、 「卑怯だぞ! てめえ、密告したんだな!」と、憤怨を投げ つけるお初の声がひゾいた。 牙 と 肉       一  闇太郎の、思い掛けない救いの手で、急には逃れ出ること が出来ないかも知れぬと、覚悟していた真暗な陥穽から、や すやすと抜け出すことの出来た雪之丞、その翌日、舞台から 見渡した土間の一隅に、さも呪わしげな目つきをして、めっ きり青ざめてさえ見えるお初が、どこぞの内儀らしい|扮装《よそおい》で まじっているのを見出しても、別に、気にも止めはしなかっ た。彼は、自信を褥ていたのだ。  1わしが、一生、一念を賭けた大望、そなたなぞが、身 から出た執着の悪念で、どのように呪って見たとて、どうに もなるものではないぞ。神、ほとけが、さま人\なめぐみの 手を差し伸べて下されて、わしをあらゆる難儀から救うて下 さるのじゃ。  雪之丞の、昨夜の、生き死にの難儀に対する恐怖すべき追 憶なぞは、どこにも残っていないような態度で、自由澗達 に、演技をつゞけているのを、じっとみつめて、唇を噛んで いるお初の胸の中は、さてどんなものであろう? 彼女は、 いきどおりに燃えて、三斎隠居一味に、彼の秘密を告げ口す る決心が、ますくかたまってゆくのであろうか? と、ば かりは言えなかった。彼女は、美しく、たわやかで、その中 に限りない凛々しさをほの見せている雪之丞の舞台すがた に、食い入るような瞳を投げつ繋けながら、罵しり、もが き、もだえているのだ。  Il意気地なし、甲斐性なし! 何という、しッこしの無 いおいらなんだ! なぜ、あの小生意気な、上方ものを、あ のまゝにほうって置くのだ? あゝやって、昨夜の今日、平 気なかおで人を馬鹿にするように、舞台を踏みつゾけている あいつを、どう始末をする気にもならないのだ? お初、お めえは、この場から駆けつけて、申し上げますー1あなたさ まの、おいのちを狙っている奴が、ついそこにおりますー と、言いつけることが、なぜ出来ないのだ? お初、おめえ は、馬鹿か、阿呆か?  だけれども、彼女には、それが出来ぬ。雪之丞の、五体か ら発散する、微妙精美な光の糸のようなものに、ますノ、|縛 呪《ぽくじ 》されてしまって、身じろぎが出来ないのだ。  三うゝ、くやしいッ!  と、お初は、わが身をつかみしめる。  {どうして、あいつの、あの色香や、あの心意気を、蹴 飛ばすことが出来ないのだ! 畜生ッ!  呪えども、憎めども、彼女が、不思議な恋の|轍《ま》じの環を、 θ 2一  どうしても抜けることが出来ぬうちに、大喜利も幕になっ  た。しおくと、引かれた幕をみつめて、出てゆかねばなら  ぬお初iー雪之丞は、雪之丞で、楽屋に戻るーこの興行も  大入の中に、明日が千秋楽-十日ほど休んで、新らしい狂  言の蓋が、あけられる予定だ。さま方\な思いが、湧き乱れ  て来る胸をしずめて、鏡台の前に坐って、おしろいを軽く落  していると、外から飛ぴ込んで来た男衆の一人が、だれにい  うともなく……   「いや、おそろしいことだ! 浅草から下谷へかけて、大変  な騒ぎですが!」   「何、大変な騒ぎ?」と、居合せた若い役者が、 「一たい、  何がはじまったのですね?」   「何でも、日本ばしの方で、ぶちこわしが始まったとかで、  あぶれたものたちが、血相を変えて走っているのですよ」        二   ーーぶちこわしが、はじまったといって、あぶれたものた  ちが、町を走っているー    この言葉を耳にしたとき、雪之丞には、ハッと、思い当る  ものがあった、つい昨日、今日、彼は聴いているのだ。   1日本橋、通三丁目の米屋が、打っこわされるそうじゃ  あねえかIlあんまり高値を、ボりゃあがったからだ。ざま あ見ろ!   1うん、おれッちも、暇がありゃあ、一さわぎ、さわい ざ来てえがなあ。そんなことを、道具方が、並べているのだ   った。通三丁目の、米屋というのは、長崎屋三郎兵衛が、仲 間と組んで、出している米穀間屋、つまり、この二三年の、 関東、東北の不作状態を見込んで、上方西国から高い米を廻 し、暴利をむさぼって、|恒《つね》、日ごろから、市民の恨みを買っ ていたのだ。しかし、市民たちは、これまでこの大問屋が、 殆ど唯一の配給の元だったので、いわば、咽喉を絞められて いるかたち、直接に反抗手段を取ることも出来なかった。 が、今は、まっさきに、広海屋が、数艘の大船の舶櫨をあい 接させて、西の貯蔵米をまわしはじめたのを切ッかけに、富 裕の商人がこの流儀を学んで、市民の心を得ようと企てたの で、急に米価は墜落し、江戸の民衆は、久しぶりで、たッぷ りと鼓腹することが出来たのだった。こうなると、長崎屋た ちが、今更、値を下げて見たとて、恨みが晴れるものではな い。  ーやッつけろ! あの大問屋をやッつけろ! こんなに 安い米が食えたのに、あいつ等が、それを食わせなかったの のだ!  ーぷちこわせ! ぶちこわせ!,悪どい奴等を根だやし にしろ!  iやッつけろ! やッつけろ!  いつの世でも、リイダーはある。それに盲従する暴民はあ るー今や、彼等は、これまでの憤怒を晴らす、当然の機会 を得たように、めいくに起ち上がった。それに、裏長屋の 軒並からー大江戸の隅の隅のどぶという、溝の近所から、 急に|発《わ》生き出した、毒虫のように、雲霞のように飛び出して 来た。男も、女も、老いたるも、稚なきものもーみんな が、みんな、何か、|桝《ます》や|策《ざる》のようなものをつかんで、振り立 てゝ、冬の宵の口を、大通り目ざして、馳け出すのであった。 .ー!-どれほどでも、蔵にあるだけ奪ってやれ!  ーこれまで、高値で買わせられただけの損を、今夜一度 に取りかえせ!  この騒ぎは、昨夜も、小さく起ったのであったが、検察の 当局も見て見ぬふりをしたのであった。彼等とても、お蔭 で、扶持米を切り替えるのに、大分損をしているのだから、 恨みは、民衆と同じであった。長崎屋たちが、取締りを求め ても、 「いや、当方では、言うまでもなく、十分に警戒する。騒ぎ は今夜だけであろう。が、めいくに、十分に気をつけるよ うにー何しろ江戸には、何百万とない貧民がいるので、こ ちらの手でも、そう完全に押し伏せるわけにいかない」こん なたよりない答えがあるだけだった。大問屋すじでは、びく びくして、今夜、夜が深まるのを迎えていたが、案の定、第 二夜の|騒擾《そうじよう》は昨夜に輪をかけたものだった。薄暗い横町とい う横町から、貧しげな男女は、わめき立てながら押し寄せて 来た。  1ー米をくれ、米をくれ、米をくれえ! 三  そうした市民どもの、荒くれたぶちこわしさわぎが、楽屋 の雪之丞の耳に、今あらためてはいったのだった。彼はさら にー1と、思い当ると蹟躇もなく、男衆にいいかけた。  「その押し入れの、下積のつ冥らの中に、目立たない糸織縞 ・の着物がありますから、黒嬬子の帯を添えて出して見て下さ い」そして、着ていた舞台着の帯紐を解きはじめた。 「え? 糸織の縞物を? 何になさるんで!」男衆は、異様 な、のみこめぬというような目つきをした。 「何でもいゝから、出して見て下さいよ」|質素《じみ》な縞の着物 に、黒嬬子の帯、何か役の都合で、必要もあるかと用意して ある自前の衣裳i町家のかみさんにでも扮するときしか、 用のないものだ。重ねて言われて、男衆が、それを、取り出 すと、雪之丞は、手早く着更えて、手拭いを吹きながしに冠 ると、棲をちょいとはしょって見て、姿見にうつしたが、 「すっかり、江戸前のかみさんでしよう?」 「ほんとうになあ-ー1ちょいとしたとりなしで、かわるもの だ」と、男衆の一人は感心したようにつぶやいて、 「で、そ んな|扮装《なしり》をなすって、どうするおつもりで」雪之丞は微笑し た。 「まあ、黙っていて下さいよ。今夜、これから、この姿でお たずねして、ある方を、びっくりさせるつもりなのだからi ー」そして、彼の姿は、唖然たる、弟子や男衆の前を、すぐ に消えてしまった。楽屋番のじいさんさえ、雪之丞の、簡単 な変装を見やぶることが出来ないようであった。どこの女房 が楽屋へ来ていたのかという表情で、ちらりと見たッきり、 二度と目もくれない。雪之丞は、ありあわせた、尻切れ草履 を穿いたまゝ、寒風が、黒く吹いている通りへ出て、少し行 って、辻かごで、日本橋近所まで来て、乗ものを捨てた。も う、このあたりまでくると、町家の大戸という大戸は、ぴっ たりと閉されていて、軒下に、小僧や手代が、軒行灯のおぽ ろな光りの下に三人、五人たゝずんで、近所の人達と、妙に ρ, 野一と.一自デN量」 ,● 千イト 禁辱. 」畦,手,-} 1.彗栞手 ひそめたような声で、話し合っている。 「ほんとづに、物騒千万なことでーあの人達が、うらみの ある米屋ばかり、狙っていてくれゝばいゝが、とばっちり が、こっちまで飛んで来てはやり切れません」 「まあ、多分大丈夫と思いますがねー物産屋の長崎屋とや らは、大そう狡猜な人だそうで、米商いにまで手をのばし、 一息に大もうけをしようとしたのでしょうが、こうなっては 滅茶々々ですね」 「ほんとうに1上方出のあきんどは、目先きが大そうする どいようですが、今度は味噌をつけましたね」そして、だ が、聴け! 行手に当って、真黒な潮騒のような、何とも言 えずすさまじいわめきの声が、地を這うようにひゞいている のだ。雪之丞は、その方角を指していそいで行った。逢う男 女は、みんな走っている。目をきらめかしている。人波が前 方で押し返しく、、こんなことを叫び立てゝいた。 「火の用心を忘れるな! 火を出さねえようにぶちこわせ! 手向ったら、半殺しにしろ!」       四  片褄をはしょって、吹き流しの手拭を|衡《くわ》えるように、暴動 市民の群から少しはなれて仔んだ雪之丞1じっと、みつめ る目の前では、市民どもが、かゾんでは小石を拾い、拾って は、十間間口、大戸前の表の戸を、すっかり下ろして、灯とい う灯を、こと人\く消してしまった、米間屋に向って、バラ バラと|投《ほ》うりつけ、すさまじい憎悪の|叫喚《きようかん》をつゞけている。 「出ろやい! 長崎屋! 人鬼! 生血吸い! 出ろやい」 「手めえに、ひと言いってやらねえことにゃあ、こゝをどく おれッちじゃあねえぞ」すると、一人の指揮者格が、煮しめ たような手拭を、すっとこ冠り、素肌の片肌脱ぎ、棒千切れ を、采配のように振り立てゝ、 「やい! みんな! うしろへまわれ! 石をほうっていて も仕方がねえ! うしろの米庫をたゝきこわせ! 米庫は板 がこいに、屋根がしてあるだけだーたゝきこわして、ふん だんに頂戴しろ! 長崎屋さんは、今まで儲けたお礼に、お めえたちに、いくらでも、拾っていけっておっしゃってる ぜ!」 「わあい1 米庫だ! 米庫だ 米を貰え! 米を貰え!」  叫び、わめきつゝ、指導者の棒千切れのゆび差すまゝに、 群衆は、建ちつゾいた、蔵の方へ走ってゆく、しかも、その 群衆を制するものが、殆どないのだ。 「騒ぐな! 退け! 騒ぐな! 退け」と、御用提灯を振り 立て\同心どもに率いられた下役が、棒を突き立てゝいる が、その人々は、群衆とは、かなり距離がへだっている。彼 等も亦、心の中では、このぶちこわしを、無理もないこと と、思っているに相違ない。雪之丞は、群衆とは反対に、問 屋の内部を覗こうと、右にまわって行った。家内に、何とな しに、いゝ争うような声が聞えるよ一つに思われたのだ。右手 の、隣家の土蔵との|庇合《ひあわい》から、すべり入って、暗がりを、境 の板塀を跳ね越すと、奥庭1この辺によくある、大店の空 家を買って、そのまゝ、米間屋をはじめたわけなので、なか なか凝った茶庭になっていたが、大きな|木概《もつこく》の木かげから、 じっと見ると、奥座敷では、今は浅ましく取り乱した、長崎 θ 屋が、着物の前もはだからせて、立ち上がって、何か大ごえ で騒ぐのを、左右から、二人の番頭が取りすがるように、前 には、雪之丞、見覚えの武家が、立ちふさがっているのが見 える。武家は、長崎以来、長崎屋等と、悪因縁を持つ、浜川 平之進にまぎれもなかった。 「もう滅茶々々だ! 滅茶々々だ! 畜生! 役人さえ、あ ぶれ者の味方なのだーー見ろ! 聴け! 空地に建て並べた 米庫を、あいつ等は荒しているのだ。大手をふって盗みをは たらいているのだIIそれなのに止めようとするものがな い、見世の手代、小僧、みんな逃げて行って、,誰れも防ぐも のはないーあゝ滅茶々々だ! これというのも、みんな、 あの広海屋の畜生のなせるわざーあいつを、取り殺す! 食い殺す! さあ、放せ! おれはこれから龍閑町の、あい つの家へ行って来るーあいつの咽喉ぶえを食い破ってやる ー」燭台の赤茶けた燭の火を宿す、血ばしった目つきの怖 ろしさーそれを鎮めようと、浜川が、 「ま、下にいなされ!そう狂っては、却ってお身の不為ー 1あぷれ者の目にも触れなば、いのちがござらぬぞ」       五  |障《たけ》り狂う長崎屋の形相は、いよく物すごく|歪《ゆが》むばかり だ。 「いえ浜川さん、おはなし下さい。わしはもう、腹にも、肝 にも据えかねた。あの憎らしい広海屋を目の前に、いってや るー呪ってやるー肉を|食《くら》ってやるーそうせずには置か れませぬ。元-元をた努せば、わしの助けがあったればこ そ、傾いた広海屋が、松浦屋を破滅させて、独り栄えること が出来たのだーそれは、浜川さん、あなたがよく知ってい るはずではないかーさ、はなして下さい、|遣《や》って下さい!」 「わかっている1貴公のいうことはわかっている」と、以 前に長崎代官をつとめて、これも暴富を積み、お役御免を願 って、閑職につき、裕福に暮している旗本、三郎兵衛の前 に、立ちふさがって、「だが、商人の戦いは、そう荒立って もどうもならぬ1口惜しかったら、やはり、商いの道で、 打ちひしいでやるがいゝーま、下にー」 「何とおっしゃる! 浜川さん! じゃあ、そなたも、あッ ち側なのだね! 広海屋の仲間になってしまっているのだ ね!」と、長崎屋、歯を噛んで、浜川旗本を睨みつめ、「商人 は、商いで戦えと! それを、こうまで、ふみにじられた、 わしに言うのか! わしにどこに、商いそ戦える力が残って いる? 十何年の月日をかけて、一生懸命働いて来た黄金と いう黄金、江戸に見世を移すに使った上、短い一生、出来得 るだけ富をふやそうと、さまぐな方角へ資本を|下《おろ》し、その 上、今度こそ、最後の決戦と、手を出した米商いにー乗る か反るかの大事な場合と、知り抜いた広海屋にハメられたの だ。うしろから突き落されたので、もはや起き上がる力もな いーそれを知らぬ、あなたか? 浜川さん、あなたにして も、長崎以来、わしのためにも、利を得ていられるお人では ありませぬかーそれを、広海屋ばかり身贔屓してー」物 蔭に、窺う雪之丞、長崎屋の、血の涙のくり言を、苦い微笑 で聴きながら、老師孤軒先生の、先見に、今更感動を禁じ得 ぬのだ。  -1向もかも、老師のおおせられた通りだ。広海屋、長崎 屋、商いの道で自滅する。噛み合って共だおれになろうとの お言葉-長崎屋は、もはや、あのざま!  そのとき屋敷うらの空地の、俄立ての米庫の方で、わあッ と起る、民衆の|城《とき》のこえーさえぎるもの、ない彼等は、今 や、戸前という戸前を破壊して、存分に米穀を掴み出してい るに相違ない。 「,あれノ\! あの、あぶれどもたちの大騒ぎ! あれを、 わしが、じっと聴いていられるかー」と、三郎兵衛は、左 右の袖にすがっている手代どもを、振り切って、浜川の方 へ、突ッかゝるように、 「出して下され! 邪魔立てなさる と、おぬしとて、許しはせぬぞ!」ふところに、手を突ッ込 んだと思うと、キラリとひらめくヒ首1 「あッ、あぶない!」と、たじろぐ浜川1ー「長崎屋、気ば し狂ったか!」 「狂おうとも1気も、こゝろもー」ヒ首をひらめかし て、三郎兵衛、人々を威嚇しながら、雪之丞が身をかくして いる裏庭に跳ね下り、そのま\非常門から、暗い巷路に駆 け出してしまったのだった。 六  雪之丞の姿は、咄嵯に、塀を越え、長崎屋のあとを追う。 |動顛《どうてん》したのは、浜川はじめ手代たちだ。 「あぷないー・ほうって置いたら大変だ!」 「浜川さま! どうかなされて!」と、叫ぶ家人たち。浜川 はうなずいて、 「仕方のない奴だ。あゝ取り乱してはどうにもならぬ。よ し、拙者、あとを慕って、間違いのないように致そう」 「どうぞ、お願いいたします」 「あまりその方たちが、騒ぎ立てると、却て気が立つ-拙 者にまかせて置け」浜川平之進、大刀を、ぐっと腰に帯びる と、そのまゝ、これも非常門から出たが、敢て、三郎兵衛を じかに追おうとはしない。 「かご屋!」と、巷路を通りすがった、辻かごを呼び止め て、「急用だ-龍閑町まで行け!」立派やかな侍、いゝ客 と思ったので、かごが、すぐに矢のように走り出す。狡いの は、長崎屋三郎兵衛であった。彼は塀外に出ると、すぐには 広海屋の住居を差して駆け出そうとはせずに、物影に身を潜 めてしまったのだ。こんな場合でも、日ごろの悪どい智慧が はたらいて、必ず迫って来るにきまっている人達を撒いたあ とで、何か、怖ろしい行動に移ろうとするものに相違ない。 雪之丞は、影のように、ぴったりと、彼にくいついている。 とは、流石に知らぬ、長崎屋、浜川が、露地を出て、かごに 乗ったのを見ると、ニタリと、白い歯をあらわして、闇に笑 って、 「ふうむ、広海屋に先ばしりをして、告げ事をしようという のだな! おのれ、にくい奴だ!」  ーだが、何の!  と、いうように、忽ち、ぐるりと、尻をはしょると、目あ ての、龍閑町を差して、これは細い抜け道から抜け道を、夜 のけもののようなすばやさで、走り出した。なるほど、辻か ごが、どんなにいそいでも、抜け裏から抜け裏を、駆け抜け たら、この方が、早いにきまっているのだ。  ーとうするつもりか?  雪之丞、小棲も、ちらほらと、踏み乱七て、軒下から軒 下、露地から露地を、目の前を|翔《かけ》りゆく、黒い影をひた慕い に慕う。とうとう出たのは、掘割を、前にひかえた、立派な 角店i総檜の土蔵づくり、金看板を夜中ながらわざと下ろ さず、堂々と威を張っているのが、いわずと知れた広海屋の 本店だ。その前まで来て、白く光る目で、あたりを見まわす ようにした長崎屋ー 「そうら、見ろ、こっちが早かった!」もう一度、じろりと 眺めて、見つけた天水桶-黒く、太ぶりなのが、ニツ並ん だ間に、犬のように潜り込んだ。雪之丞の背すじを、ぞうッ とした戦傑が走った。  ーこりゃ、浜川が、あぷない!  若し、広海屋に、すぐあばれ込むつもりであれば、身を忍 ばせる必要はないであろう。待ちかまえて、何かするつもり に相違なかった。彼は、河岸に積まれた、空箱でもあろう、 うずたかい物に身を貼りつけた。と、聴け! 「ホイ、ホイ!」と、かなたの闇から近づく辻かごだ。       七  i-いよく、浜川が、着いたな。  と、雪之丞の、冷厳な瞳が、闇を貫いて、広海屋の店前を みつめたとき、飛ぶように駆けつゞけて来た辻かごー 「ホイ! ホイ! ホイッ!」と、先棒、後棒、足が止まっ て、タンと立つ息杖、しずかに乗りものが、下におろされる。 「旦那さま、お約束のところまでー」と、先棒が、汗をぬ ぐって、いいかけたとき、突然、天水桶の間から、ぬっと魔 物のように現れて、ふところに、右手をー1恐らく、ヒ首の 柄をつかみしめているのであろうーつかくと、かごに歩 み寄った長崎屋1ーその、|髭《まげ》がゆがみ、|蟹《ぴん》はみだれ胸元もあ らわなすがたに、びっくりして、かごかきがー「わりゃ あ、何だ? 気ちげえかー」息杖を取りなおすひまもない ーキラリと、白く、冷たく光る短い刃が、鼻先きにつき出 されたので、「わあゝッ!」と、後、先、一そろって、大の男 が、しかもからだ中、|文身《ほサもの》を散らしているのが、一どきに、 五間も飛び退いてしまう。そのさわぎにー「何じゃ?」 と、聴きとがめたが、まさか、まだ、三郎兵衛が、先き潜り をしているとは、思わぬ浜川平之進、左に刀を抱いて、 「下 りる1穿きものをlI」と、垂れを自分で上げかけたと き、 「へ、お穿きものー」妙に、|掠《かす》れた、笑うような、ばけ物 ごえで言った三郎兵衛、かごに引ッついて|屈《かサ》む。かごにはさ んであった雪駄が、揃えられているのへ、足をのせて、やが て、上半身が外へ、出かかったその刹那、 「おのれ! 片割 れ!」ぐうッと、抱きすくめるようにして、切ッ先きを、脇 腹に、突ッ込んだに相違ない。 「わあッー」と、叫んだが、平之進、引く息を、一つ大き くして、「う、う、う、うi」と、叫びが、坤きに変っ て、地面にのめる。 「人殺しだあ!」と、駆けゆくかご昇。平気な三郎兵衛!  ートン、トン、トン、トン手・ ?}  と、大戸を叩いて、 「お願いだ! あけてくれ」  ートン、トン、トン!・ 「松枝町からまいった! 広海屋! あけてくれ!」いつ か、平之進の、頭巾を奪って、顔だけ包んで、臆病窓のとこ ろへ、わざとその頭を近づけて置いて、武士らしい作りご えi 「おい、広海屋! 急用じゃ! 松枝町じゃー」松枝町と は、勿論、土部三斎屋敷を言っているのだ。相変らず、狡い 手ロー中では、寝入りばなを起こされたらしく、やがて、 案の定、大戸の臆病窓が開いて、寝とぼけたこえがー 「どなたさま?」 「松枝町というが、聴えぬか? 主人に急用で、お文を持っ てまいった」 「松枝町さまーそれはく」じきに、大戸が開くようだ。       八  ー|行《や》りなされ、お行りなされーどんなことでも、おぬ しの望むまゝに、お行りなされー  広海屋、見世うちへはいろうと、開けられた大戸の潜り、 腰をかゞめてもぐりこむ長崎屋の、異様なすがたを見返っ て、雪之丞が、そう咳いたとき、かゝり合いになるのを怖れ たか、かごかき達は、浜川の死骸はそのまゝ、かごを引っ凌 って、またゝく間に飛んで行ってしまったが、こちらは、ま んまと、手代をあざむきおおせた三郎兵衛、中にはいると、 すぐにまた、血みどろの短刀で、何か、|行《や》ったに相違ない;  飛鳥のように、広海屋軒下に近づいて、耳をすました雪之 丞は、つい、その土間で、突然1 「うおッ! う、う、う」と、いう、かすかな、押しつぶさ れたような、うめきを、又も聴いてしまった。戸をあけてや った手代、薄くらがりで、相手を何ものとも見分けぬ暇に、 もはや、ヒ首の一突きを背中に受けて、高く叫ぶことさえな らず、そのまゝ、どたりと、倒れてしまったものと見えた。 それなり、しいんと、ひそまりかえった|家内《やうち》-大方、三郎 兵衛の音ずれを聴きつけたのは、見世番の手代でほかの店の ものは、寝入りばなーーこれまでの一切に、気がつかず、つ い、そこで、同僚が殺害されたのも知らず、ぐっすりと、寝 込んでしまっているのであろう。  1ーこれで、二人目!  と、雪之丞は、心にかぞえた。  i三郎兵衛、何を行ろうとするのであろう? 広海屋の いのちを狙うに相違ないが、まさか易々と、あの剛腹な男を 殺すことは出来まい。  彼は、しかし、三郎兵衛が、成し遂げえぬことを今夜自分 の手でやりおおせようとはしなかった。三郎兵衛、広海屋ー 1この二人は、孤軒老師が豫言したとおり、十中八九は、ガ ッと組み合ったま\いのちの尽きるまで、噛み合い、食ら い合うであろう。  ーどっちが強いかーおぬし達、二匹の狼-弱い方か ら、死ぬがいゝー  じっと、いつまでも、聴きすます、雪之丞i  と、かなりながい時が経って、一たい、どうしてしまった 〜 2+ かと、心にいぶかしみが湧き出したころ、だしぬけに、奥の 方でー 「火事だあ!」と、いう、叫び! 「火事だあ! 起きろ!」と、けわしい声が、つズいて起っ て、急に、しいんとしたしずけさが、一どきに破れたと思う と、まだ、火は見えぬが、物の爆ぜ焼けるひ繋きが、ピチピ チ、ギシギシと、いうように、雪之丞の耳を掠めた。  i点けたな! 火を! 「油樽に気をつけろ! 油樽に燃えつきそうだ」と、あわた だしい声々。広海屋は、その頃、|紅毛油《オランダあぶら》を盛んに売り出して いた。|轍撹《かんちん》という|果《こ》の|実《み》、木の皮をしぼって作ったという、 香いのよい、味のいゝ、すばらしい油-富みたるものは、 それを|皮膚《はだ》のくすりとして塗りもすれば、料理にも使って、 こよない自慢にしていたのだ。その貴重な油樽が、見世奥に 積んであったのへ、長崎屋、いみじくも、火を点したものと 見えた。たちまち、ズーンという、樽の|爆《はじ》ける音。もう、駄 目だ! ぼうくと激しい炎が捻りを立てゝ、猛火が、|家内《やうち》 を一ぱいにきらめかすのが見えるのだった。       九  il|放《り》けたな! 火を! |点《さ》したな! 火を! ほ、ほ、 ほ!  さすがに、雪之丞、家内から洩れる炎のいろ、|爆《は》ぜ燃える ひゾきを感じると、胸が躍った。その|業火《ごうか》は、いよく彼の 一生の悲願が成就する、幸先を祝った|筆火《かくあび》のようにも思われ るのだ。|退《さが》って、例の河岸の空荷を積んだ物影に立って、な おも、成りゆきをみつめていると、だしぬけに、横手の塀 を、ムクムクと、乗り越えて来る、黒い人影-瞳を定める と、人を殺し、火を放って、しかもうまく、現場の混雑に乗 じて、逃げおおせた長崎屋三郎兵衛の浅ましい狂いすがた だ。その三郎兵衛、ふところに、妙なかたまりのようなもの を、しっかと抱いたまゝ、一さんに、河岸まで来た。雪之丞 の近くで、立ち止まって、その抱きしめたものを、両手でか ざすようにしたが、 「ほ! こりゃどうじゃ! 死んだかな? 死にはすまい? たった今まで、おぎゃくいっていたんだーおい、目をさ ませ! 赤んぽめ」ハッとして、雪之丞は、目をみはった。 恩いがけなや、何と、それは、やッと当歳か、それとも生れて 年を重ねたばかりのむつき児なのだ。三郎兵衛は、ようやく にして、屋根|廟《ぴさし》のあわいから、赤黒い火焔の渦を吐き出しは じめた広海屋の方をも、突如として起ったあたりの騒擾を も、見向きもせず、 「ふ、ふ、ふ、あの馬鹿乳母め1火事 と聴いて、|動顛《どうてん》しくさって、店の者と間違ったか、このおれ の手に、広海屋が六十の声を聴いて、やっと出来た一つぷ種 ーあの若い後妻に生ませた大事な赤児を、うまく渡して 行きゃあがった。広海屋を|殺《や》られなかったのは、残念だが、 これは、いゝものが手にはいったわいーと、思って、盗ん で来たが、死なせてしまっては仕方がないー」と、独り言 iこゝまでは大分正気らしかったが、やがて、また、異常 な笑いを笑って、「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ! これ赤児! き さまは、やっぱり、あの後妻の、間男の子でもなかったなー 一似ているぞ、広海屋にーあの与平の奴にーおや、何だ って、友だちでも、仲間でも、商いの道は別だってー商人 は、商いの道で戦うのだって? 長崎屋、つぶれて消えろー ーだって? よくもいったな? が、まあ見ろ、おぬしの家 も店も、そうら、あの通りの大火事だ! ヒ、ヒ、ヒ、あれ をよく見ながら、畜生! おのれ、冥途へゆけ」気を失って いる赤んぼの、晒喉を絞めかける三郎兵衛-雪之丞は、思 わず、それへ飛び出して、長崎屋の腕の中から、あわれな、 肉のかたまりを引ッたくった。 「おや! 貴さまは何だ! 乳母か? 乳母が取りかえしに 来やがったか?」と、血走った目で、掴みかゝろうとする三 郎兵衛を、雪之丞はなだめるような微笑で、 「まあ、心を落ちつけて、あの火の燃えている方を御覧なさ れ! それ、あそこへ、お前があんなにさがしている、広海 屋のあるじが逃げてゆく1赤児なぞに、かゝわっている時 ではあるまいーそれ、あそこへゆくのが、わからぬか!」 片手で、指さして見せる、火事場の方角、三郎兵衛は口をあ けて、 「どれ、どれ、どこに?」と、眩きながら、フラフラと、そ の方へ歩み出すのだった。       一〇  もはや、炎々と燃え|熾《さか》って来た広海屋の大屋台1そのほ むらの明るさは、既に、そこら中人の顔、眉毛の数までわか るほどだ。ごく近い、火の見では、激しい|摺《す》り|半鐘《ぱん》のひゾ き! 雪之丞は、今にも咽喉笛に、爪を立てられて、いのち を落そうとした広海屋の、老いの|初児《ういご》というのを、長崎屋三 郎兵衛の手から事なくうばい取ったが、あとの、成りゆきを 見さだめるために、いつまでも、この河岸に仔ずんでいるこ とが出来ない。怪しげなすがたが、何ものかの疑いをまねく かも知れないのだ。彼は、ぐったりとした赤んぼをふところ に、抱き締めるようにして、わが体熱に温めながら|濠端《ほりぽた》添い に、一切の騒擾からとおいところまで逃れ来て、さて、捨石 の上に腰を下した。ふところの赤児は、ますく、冷え切ッ てゆく。が、どこにか、いのちの種の火は、辛うじて、残っ ているのが、感じられはするのだ。膝に載せて、星あかり に、じっとみつめると、この愛らしい、ふっくらと肥えた|嬰 児《えいじ》のいずくに、親どもの、あの剛腹な、ふて・バ\しいものが 見出せるであろう! 武術の|活《かつ》ーそれを、そのまゝソッ と、指さきが、絶気している子どもの、|鳩尾《みぞおち》に当てられる。 かすかに、その先きに力がはいるとピリピリと、小さい、|和 らかいからだが、神経的にうごめいた。そして、しばく と、まぶたがうごいて、 「1ぎゃあ、ぎゃあ! 省やあ! ぎゃあ!」と、息を吹 っかえすと、すぐにもう、むずかり泣きだ。 「誰れがよ/、」雪之丞は、あやして見た。ぎゃあ/、と、 反《やわそ》りかえるのを、思わず、ソッと頬ずりしてやったが、この 刹那、彼の内心に、激しい争闘が行われているのは、美しい 眉目の歪みでも知られるのだった。  ーどのように、愛しげに見えても、かたきの片割れだ!  と、いう思念と、  iーいゝえ、かたきの片われにしろ、かくも無心な、いじ らしい赤児をlI  どうして、憎み苦しめられようかという感情と、相打ちつ づけているに相違ない。が、彼は、泣き止んで、やさしい、 むちくした手を出して、顎のあたりを、つかんだり、なで たりしている赤児に気がつくと、もう、複雑な、あらゆる気 持から解放されることが出来た。  広海屋へ、返そうにも、今夜は仕方がないーどのみち、 今のとこは、わしがあずかって、あとで何とかしてやる外は ないであろ。両手に、ふたゝび、抱上げて、 「ほいよ、ほいよ、だれが泣かした!わるい奴のうー さ、わしと一緒に、あたゝかいふしどにまいりましょうの、 泣くでない、泣くでないー」揺り上げ、揺り下げしなが ら、雪之丞は歩き出した。長崎屋や広海屋Ilまた、長崎屋 の|狂刃《きようじん》に|什《たお》れた、浜川平之進に対する追憶さえ、このやわら かい小さな生もののためには、忘れさせられてしまうのだっ た。彼は、かごを拾って赤児に頬ずりをしてやりながら、山 ノ宿をさして急がせた。広海屋を焼く業火は、まだ、後方遠 く赤黒く夜空をこがしているのであった。       一一  |扱《さて》も、暴富を積んで宝が恒に身の仇、いつ何どき、いかな る禍が身に及ぶかと、絶えず畏怖心から離れられぬ広海屋の 主人は、|常住座臥《じようじゆうざが》、一刻一寸も警戒を忘れることが出来なか ったので、とりわけ夜の居間や寝室は、念に念を入れたいか めしい用心ぶりだった。彼と妻女との部屋は、店と、文庫蔵 との間の、七間ばかりの別棟で、廊下で四方に連絡されてい るのだったが、樫の部厚な板戸で仕切った上に、薙目な格 子、その内に|木襖《きぶすま》、更に、普通の唐紙や障子が入れてあると いう工合で、更に、寝室の地袋戸棚の中には、地下へ下りる 道が出来ていて、それが、裏庭に通じるような仕組になって いた。そうした要害を、あらかじめ知りながら、憤怒のあま り、夜よ中に、広海屋の屋形に飛び込んで行った長崎屋が、 易々と憎い相手に行き合って、恨みのヒ首を、肥え肉づいた 横腹に、突き込むことが出来なかったのは無理もないが、し かし、何分、|紅毛油《オランダあぶら》の大樽に、わざく火を点されたこと、 火の手の廻り方が存外に早かったので、 「火事だあ1 火事だ!」と、叫ぶ店の者どもの大声に、寝 入りばなを目をさまして、パッと跳ね起きたときは、夫婦と も、尋常では、幾重の締りを潜って、逃げおわせることは出 来ないのを知ったのだった。 「まあ! どうしましょう! 八方が、すっかり火になって しまったようですがー」と、おろ/\ごえで、取りすがる 女房の、顔には血の気もなかったが、さすが、主人は驚樗の 中にも沈着さを失わず、 「落ち着け、落ち着け! こんなときは落ち着きが何よりだ 1日ごろから、そなたにだけに知らせてある地下道i今 夜のような場合のためだ」そう言いさま、広海屋は、寝巻の 上にどてらを羽織って、脚のすじの抜けたような妻女を引ッ かかえるようにしたまゝ、地袋にく穿り入って、秘密のバネ を押して床板を擾ね上げると、真暗の中を、ゆるやかな傾斜 を辻るように、真直に辿りはじめた。恐らく、そのときに は、さすが広海屋ほどの狡猜な人間も、まだ失火の原因につ いては知らなかったろう1知らぬも道理、店の次に、大勢 寝ていた若者たちさえ、魔物のようにはいって来て、たった 一人目ざめて大戸を開けた手代を刺し殺し、主人夫婦に接近 しがたいと知るとすぐに目にはいった油樽に火を入れた、三 郎兵衛の姿に気がつくものはなかったのだ。現に主人たちの 密室から、廊下を隔てて一間に、うない児を抱き寝していた 乳母さえ、前後をいかに忘失したとはいえ、当の長崎屋に、 この一家に取っては、何ものにも変えがたい一人息子の赤児 を渡してしまっている位ではないか! そんなわけで、広海 屋は、闇を辿りつゝも、まだ、心のどこでか高をくゝってい た。  ーーなアに、総檜、五百坪の普請とはいえ、店の一棟二 棟、焼け落ちたとて、何を驚くことがあろう。うしろに建ち 並んだ、蔵の中には、江戸中の、いかなる大名高家、町人一 統が、どんな注文をよこそうとも、すぐ間に合うだけの材料 は積んであるのだ。その十棟の王蔵は、コテを取っては、日 本一といわれる左官が塗ったもの、どんな猛火も怖れること ではないー「さあ、しっかりせい! そなたも広海屋ほど のものゝ女房i高が、火事ぐらいに、身ぷるいをしてどう するのだ。そら、もう抜け道もおしまいだ。外へ出れば、明 るすぎる程あかるくなろうーしっかりせい!」そう女房を はげましつゝ地下道のどんづまりまで来て手さぐりで、揚げ 蓋を起す|枢機《くるま》をまさぐるのだった。 一二  地下道の揚蓋を擾ね上げて、槌り合いながら、裏庭、築山 蔭に出た広海屋夫婦。二人とも、その瞬間、瞳を射るあまり に猛烈な焔の色に、思わず目を蔽うた。見よ! 眼前に餐え た広海屋本店の頑丈堅固な|大慶《たいか》は、すでに一めんに火が廻っ て、吹き立って来た北風に煽られた火焔は、天井を焼き抜 き、|痛《ひさし》を|葡《は》い上がって、今しも、さしもの大慶の棟が、すさ まじい轟音ともろともに、がらくと焼け落ちつゝあるのだ った。 「あれ! もう、屋の棟が!」と、又しても、泣き叫ぼうと する妻女。 「えゝ! 泣くなというに! 高の知れた小家一軒、そなた がそんなに惜しく思わば、明日が日に百軒も建てて見しょ う! 見るがいゝ1あのいろは|庫《   ぐら》1まだ「る」の十|二《と》月前 だが、あの通り立派に建並んでいる。それなのに、何がー つまらぬ小店、どうせ建て直さねぱ手狭になったところ、却 っていゝ折の火事だと思えばいゝのだ」広海屋は、妻女を抱 き寄せるように、裏庭のはずれ、川岸に近い方角に、黒く輝 いてつ冥いた土蔵を指し示す。ガチガチと、歯の根も合わぬ ながらに、女房も、いくらか落ちついて、広海屋の指先の示 すあたりに眺め入って、やっと泣き止んだころ、主人夫婦の すがたを見かけた手代、小僧、出入りの職人どもが、畳、屏 風、火鉢なぞを、運んで来る。 「何とも、申し上げようのないことでー」 「火の用心、念には念を入れておりましたがー」なぞと、 自分たちの失策でもないーと、いうところを、言外に|香《にお》わ せて、口々に言うので、広海屋は、苦わらいで止めて、 「よいく、店だけで、焼け止まる模様、幸、横手は河岸だ し、隣は間あいがある。一軒焼けで、近所に迷惑をかけね ば、それが何より」と、さすが大腹中らしく言って、 「それ よりも、これが震えている。早よ、温かい着る物と、湯な り、茶なり持って来てくれるがよい」妻女は、和らかものゝ どてらなぞを、誰れかゾ運んで来て、着せかけると、いくら か人心地がついたようであったが、ふと、急に思い出したら しく、あたりを見まわすようにして、 「坊はどうしましたでしょう! 坊が、見えませぬがー1」 「おゝ、そういえば、庫前の座敷に寝ていたはずの乳母i誰 れぞ、そこらで、すがたを見なんだかー」と、広海屋が、 訊ねる。 「わたくしが、火焔のひゞきにびっくりして、目をさまし、 大声で火事よ、火事よーと、叫び立てているうちに、乳母 どのが、坊さまをお抱きして、廊下を駆け出したのは、たし かに見ましたがー」と、手代の一人。 「そうかーそれはよかった」まず、焼き殺されぬというこ とが、わかったので広海屋が、ホッとしたようにいう。 「火 には捲かれずとも、こんな寒さに、|屋外《そと》をうろくしていた ら、大事な坊やに、風を引かせてしまいますー誰れか、早 く、さがして来てー」と、妻女はなおも、気もそゞろに、 「女中たちは、どこにいるのやらー女たちの、立ち退き場 所へ行ったなら、坊も乳母も見つかるでしょうー早う、行 って見て下ざらぬか!」 一三  母親は、きょろくと、あたりを見まわしながら、 広海屋がなだめても、しずまろうともせぬ。 いかに 「坊やを早く! 坊やはどこへ行ったのだろう! ねえ、早 く連れて来て下さいよ!」その不安を|唆《そし》り立てるように、赤 児と乳母を探しに行った小僧出入りも、なかく戻っては来 ない。とうとう、主入までが、落ちつかなくなってしまっ た。 二たい、抱き乳母はどうしたのだ? 誰か、ほかを探 して見ぬか?」と、伸び上っていったところへ、手代ども女 中の一団が、気も狂おしげに、何やら叫び立てている、年増 おんなを、手を|曳《ひ》き、挟を取って近づいて来る。見れば、乳 母のお種、髪も棲も乱れがちに、こんなことを口走っている のだ。 「お坊ちゃまあ! お坊ちゃまを、あたしから取ったのは誰 れだろう! あたしがお抱きしていたのではあぶないといっ て、取って行ったのは誰れだろう!お坊ちゃまあ!お坊 ちゃまあ!」 「一たい、この始末はどうしたのか?」と、さすがの、広海 屋、わが一人むすこ、世取りのうない児のこと、サッと、顔 いろが変って訊ねた。手代の一人が、 「何ともはや、妙なはなしでござります。お種どのの申しま すには、煙に捲かれて、廊下まで来ると、ゆき会った一人の 男1あぶないゆえ、お坊ちゃまを渡すがよいーと、無理 に、お種どのから奪い取るようにして、そのま、》、お坊ちゃ まを抱いて、どこへか行ったーと申しますのでー」㊧ 「その相手が、誰れとも見当がつかぬというのか? 覚えて いないというのか?」と、広海屋が、焦ら立たしげに1手 代は、笑止げに、 「それが、何分、動顧した折-男とのみしか、覚えてはお qイ つ4 らぬと申します」 「と、いっても、うちの中に、他人さまが、はいって来てい るはずはなし!火事が大きくなってからは知らぬことー あのときなら、店の者たちばかりの筈だ。さあ、急いで、探 して見ろ! 店の者で、誰か、見えないものはいないか!」  広海屋は、真赤な火の手のひかりをうけながら、青ざめて 叫んだ。  1ことによったら、一つぶ種-救おうとした者と一緒 に、炎に|捲《ま》き込まれてしまったのかも知れぬ。  と、いう予想に、胸もつぶれるばかりである。母親は、広 海屋の袖をつかんで、 「ごらんなさい、申さぬことか! このごろ坊やが夜泣きを して、考え事に邪魔だとゆうて、あたし達の寝間から遠ざ け、乳母と一緒に、庫前なぞへ寝かしたから、こんなことに なりました。万一、坊やが、火に焼かれて死にでもしたら、 あたしは、恨みます。お前をうらみますぞえーお前が、何 もかも悪いのじゃー坊やが、若しもいなくなってしまった ら、どうしよう! どうしよう!」  ーうわあ! うわあ! と、とりみだして、泣き叫ぶ内 儀のすがたは、いじらしさの限りだ。 「ま、落ちつけ! 居ないはずはない! これ、みんな、火 事なぞどうでもいゝ! 坊を探してくれ、坊を抱いて見えな くなった男を探してくれ!」広海屋は、とりすがる女房を、 突きはなしもし兼ねて、呼びつゾけるのだった。       一四  広海屋、その人までが、わが子の失殊に、平生の落ちつき をなくして、何やら、荒々しく、痛癩ごえで叫び立てている のだ。暗い予感が当って、ことによれば、二度と可愛い顔 が、見られなくなったかも知れぬと知った、内儀、もはや、 真正の気違いだ。彼女は、立ち上がって、髪をふりみだし、 目をいからせて、これも気も狂わんばかりの、乳母を目がけ て、つかみかゝるようにして行くのだ。 「これ、お種! あの子をどこへやった! 坊やをどこへや った! 誰に渡した! お種、さ、言っておくれ! 早く言 っておくれ! さては、お前、日ごろ、あんなに目をかけて いたのを忘れて、坊やを、火の中へ置き逃げして来たのだ な! 焼き殺してしまったのだな!」と、むしゃぷりつこう とすると、相手の乳母、これも気がうわ|擦《ず》ってしまって、 主か他人か、見境もなくしたと見えて、あべこべに噛みつく ように、 「おゝ! お前さんか! 坊ちゃまを盗んで行ったのは! 食べてしまったのは! さあ、坊ちゃまを返せ! 坊ちゃま を返してくれ!おのれ!返さぬか」と、飛びついて、噛 みつこうとする。それを引き分けるに、懸命な女中たち。 「わあん! わあん!」 「ひい、ひい、ひい!」と、引き分けられて、泣きわめく、 女房、乳母! |主人《あるじ》は主人で怒号している。 「早う捜し出せ! 早う、坊を捜し出せ! えい!火の中 へなり水の中へなり飛び込んで探し出せ! 手ぬるい奴等だ -貴さまたちが、出来ぬなら、わしが|行《や》る!どっ、放 せ!」鳶の者、手代たちが、しっかと抱きしめていても、そ れを擦り抜けて、今や、炎々と燃えさかっている、火の中を めがけて突進しようと狂いもがく。こうした、凄惨な光景 を、小高い築山の、灌木の蔭から、じっとみつめて、にたり にたり、白い歯をあらわして、笑っているのが、いつの間に か、ふたゝび、広海屋の屋敷うちに忍び入って来た、長崎屋 だ。火事と、赤児の行方不明とに、自分の方を注意するもの なぞあろうはずがないと安心してか、からだを半分以上のり 出して、真紅な火光を、すさまじく引き歪んだ顔に受けて、 いわば赤鬼の形相ー1声に出して、嘲りつぶやいている。 「は、は、は、ざまを見ろ! 広海屋が、あばれおるわ! 女 房が狂いおるわ! 気の毒だな! 可哀そうだな! おぬし のように、鬼よりも、けものよりも、情も、涙もない奴も、友 だちを売って、破滅させ、おのれ一人高見の見物する奴も、 やっぱし子供は可愛いか? は、は、は、ほ、ほ、ほ、わ めきおるわ!あばれおるわ!もっと/\、さわげ!狂 え!もっとく、苦しめ!もがけ!泣け!畜生! まだく泣き足りぬわ! もだえ足りぬわ! は、は、は、 ざまを見ろ!」彼自身は、まるで、狂気もしておらぬよう に、冷厳な審判者でもあるように、みつめつゞけて、.額を叩 いてよろこんでいる。 「へ、へ、へ、どんなに騒ごうとあの 赤児が、帰って来るものかーこのおれが、盗み取って、と っくに、賓の河原の婆さんの使に渡してしまってあるのだ。 へ、へ、へ、なんと、広海屋、こたえたかー胸に、|胆《ましも》に、 たましいにこたえたかーひ、ひ、ひ、へ、へ、へ、ーざ まあ見ろ!」       一五  嘲けり、蔑み、憎み、呪い、目を剥き出し、歯を現し、片 手の指を、獲物を掴もうとするけだもののように|鈎《かぎ》なりに曲 げ、片手に、浜川平之進の血しおで染んだ短刀を握り締め た、長崎屋、相手に気取られようが、気取られまいが、そん なことは少しもかまわず、今は大ごえに、ゲラゲラと、不気 味な笑いをひゾかせるのだ。 「黄金のためには、どんな友だちに、どんな煮湯を呑まそう と平気な広海屋ー黄金の力さえあれば、人間、買うこと は、何でも出来ると、高を括っている広海屋iへん、どれ ほど、黄金を積んだとて、可愛い子はかえらぬぞーこの長 崎屋、ちゃんと、|奪衣婆《だつえぱ》の手に渡してしまったのじゃ! ふ、ふ、ふ、あの子が生れたときには、有頂天によろこん で、これで、広海屋万代だなぞと、大盤ぶるまいをしおッた な! あれからたったまる一年、へ、へ、へ、もうそなたに 子なし、もとの|杢阿弥《もくあみ》思い知ったか、この長崎屋、仇をうけ れば、仇をかえさずには置かぬ男じゃぞ!」広海屋夫婦の狂 態が、つのればつのるほど、いよく面白さ、うれしさ、小 気味よさに堪えかねて来る長崎屋、とうとう、いつか築山陰 から、すッかりすがたをあらわしてしまったのは愚か、血ぬ られた短刀を振りまわしながら、だんくに近づいてゆく。 はじめて、彼の狂笑に、気がついた一人の手代、ホッとばか り、目をみはって、 「おのれ! 何者だ!」と、大声にとがめる。夫婦をかこん だ一同の目が、一ように三郎兵衛にそゝがれる。しかし、一 目では、何人にも、それが長崎屋だと、わかろうはずがな い。散らし髪同然に、蟹髪は乱れ、目は|洞《うつ》ろに、顔は歪み、 着物の前はすっかりはだかって、何ともかとも言いあらわし ようの無い体たらくなのだ。 「何奴だ! 手めえは?」と、気早やな鳶の者が一人、この 気味の悪い聞入者の方へ飛んで行ったが、手にしたヒ首ーL しかも血みどろなのを眺めると、 「わあッ!八と、叫んで、あとじざりをして、 「貴さまあ、人を殺して来たな!」 「ふ、ふ、ふ、ーふーおのれ等に用はない1広海屋に 逢いに来だのだー」三郎兵衛の、敏枯れた声ー番頭が、 広海屋を、押しへだてるように、 「旦那、あっちへまいりましょうー1血のついた短刀を、あ の変な奴は持っているようでーあぷのうございます」 「それでは、浜川の旦那を|殺《や》ったのはあいつだなー」と、 一人が、ロ走ると、 「ナニ、浜川さまがどうなされた?」と、狂奮の中にも、広 海屋が訊ねる。 「実は、火事の揚句が、坊ちゃまのこともあり、申し上げず に置きましたが、つい、店の前に浜川平之進さまが、何もの にか、脇腹を刺されて、お果てなされておいでになりました のでー」 「何だと! 浜川さまが! うちの前で! そりゃ又、何と いうことだ」と、叫んだ、広海屋の前に、フラフラと近づい て来た三郎兵衛1 「広海屋、そのわけか? あいつが、おぬしに、忠義立てを しようとしたからよ」 「誰れだ! お前は?」と、広海屋は、ひごろの面影をすっ かりなくした、三郎兵衛をみつめて目を|膵《みは》った。       一六 「ハ、ハ、ハ、広海屋ーそれから、手代衆、これだけ大き な|筆火《かサリ》を焚いてやっても、家庫を焔にしてやっても、この明 るさでも、わしが判らぬか? わしが誰だか、わからぬ か?」と、長崎屋は、歪み曲った顔を突き出すようにして、 「さてく明きめくら、このわしが、わからぬかといった ら!」ぐっと、差しつけるようにした、その形相のすさまじ さ! 広海屋は、飛びしさるようにして、 「おッ! おのれは、長崎屋!」 「ほんに、長崎屋の旦那じゃーこりゃ、又、どうしたこ と!」と、手代、小僧も、あっ気にとられる。広海屋は、恐 怖の声をふりしぼって、 「さては、おのれ、浜川さまを手にかけた上、この家に、火 を放けたも、われだな!」 「う、ふ、ふ、いかにも、おれじゃ、長崎屋じゃーな、わ かったか? 業を積みおって、今更何を! ふ、ふ、ふー わしが、人を殺したれば、どうじゃというのだ? 火を放け れば、どうじゃというのだ? それよりも、いのちよりも家 庫よりも、おぬしには、もっと大事そうな、あの、やにッこ い生きもの1禁つぶ種1ーあれが、ほしゅうはないかい? これ広海屋、ほしゅうはないかい?」と、嘲けり叫ぶ。 「おのれ、憎さも憎しーそれ、みんな、こやつをからめ取 って、さん《、に打った上、お役人に突き出せ!」広海屋 が、おめくのを、妻女が、泣きながら、押しと繋めて、 『まあ、あなた、しずまって下さいまし、みんなも手出しは なりませぬぞ」と、いって、長崎屋の前に、地べたにひざま ずいて、 「これ、長崎屋さま、三郎兵衛さまーどんな恨み が、主にはあるかも知れねど、赤児には、罪とゆうてあるは ずはなし、どうぞ、お腹が癒えるよう、わたしの身を存分に なされて、あの子だけは返して下さるようーお返し下さる ようー、」 「は、は、は、その御愁歎は、ごもッともごもッとも」と、 芝居がかりで、三邸兵衛は、あざみ笑って、 「さりながら、 聴かれよ、御内儀、あれも敵の片われ、どうも、お言葉にし たがうわけにはなりませぬ」 「でも、一体、あの子を、どうなされて!」若しや、やは り、たずさえているヒ首で、咽喉ぶえを切り割かれてしまっ たのではないかー、と内儀は、必死の想いでたずねる。 「どうなされたと言って、たった今も言うとおり、通り合せ た賓の河原の奪衣婆に、渡してつかわしたほどに、今ごろは 小石を積んで、あそんでいるにちがいない」と、三郎兵衛 は、けろりと答える。 「それなら、そなた、手にかけたのでは、ありませぬな?」 「つかみ殺そうとしたなれど、ほしいとゆうて、奪衣婆がね だったゆえ、つい、河岸でくれてやったし 「これ、みなの衆-どうやら、長崎屋どののいうことは、 ほんとうらしい。さあ、早う、手わけをして、この人から子 供を受け取った人を、さがして来て! どんな礼でもその人 にしましょうほどにー」妻女が足ずりしてわめくさまは、 ことわりせめて道理に見えた。 一七  広海屋内儀は、主人と、長崎屋との間柄が、現在どのよう に悪化していようと、三郎兵衛が今はもう火つけ、人殺しの 大罪人となっていようと、また、哀れや宿業の報いるとこ ろ、狂人となり果てゝしまっていようと、そんなことを考え て見るひまはない。たゞ、大地に|脆《ひざま》ずき、額で地べたを叩 き、遂には、血のヒ首を持っている三郎兵衛の、物すごい表 情に怖れもせず、,裾をすら掴んで哀願しつゾけるのだ。 「長崎屋どの! 三郎兵衛どの! この広海屋一家に対し て、どのようなお恨みを持っておいでかは知りませぬが、あ の子には罪はない! あの子が、悪さをする筈がない! あ の子をお返しなすって下さいまし、家も惜しくはありませ ぬ! この、わたしが、殺されようと、助かろうと、それも かまいませぬ! あの子だけを、お返し下さいまし!」 「は、は、は! 泣きおるわ! わめきおるわ! うらみが あったら、そこにおる広海屋に言え! 亭主に言え!」と、 こんな言葉だけは、すじが立つことをいって、長崎屋は、ふ たゝび、ゲラゲラ笑いになって、目をあげて、闇空を|焦《こが》す炎 が、大波のように、渦巻き、崩れ、盛り上がり、なびき伏 し、万態の変化の妙をつくしつゝ、果しもなく、金砂子を八 方に撒き散らすのを眺めながら「ほゝう、ほゝ・つ、黄金の粉 が、空一めんにひろがって行くぞ! 広海屋、見ろ、おぬし 一代の栄華、賛沢1ー日本一の見物じゃぞ! すばらしいの う!これを見ながら一ぱいはどうじゃ!酒を持って来 い! は、は、酒肴の用意をとゝのえろ! ほゝう! ほゝ う… 何ともいえぬ眺めじゃなあ」 「おのれ、何をぬかすぞ! それ、この人殺し! 火つけの 罪人、早う、お役人を呼んでー」と、番頭の一人が、手代 どもにいうのを、フッと、何か、思い当ったような広海屋、 狂奮の中にも、キラリと、狡く目をはたらかせて、 「待った! お役人衆に、このことを、お知らせするのは、 まあ、待った!」 「じゃと、申して、みすく、この科人をー」 「待てと言ったら1」と、止めて広海屋は、手鍵を持った出 入りの鳶に、「おぬし達、この長碕屋を、くゝり上げて、ソ ッと、|土蔵《くら》の中へ、入れて置いてほしい」 「でも、お役人のお叱りをうけてはー」 「よいと申したら-気が昂ぶっているによって、落ちつい てから、わしが、必らず自首させるーさあ、あまり、人目 に立たぬうちー」広海屋はセカくしくいった。と、いう のは、長崎屋を、このまゝ検察当局の手に渡したなら、長崎 以来のもろくの悪事をべらくと、しゃべり立てるは必 定、それこそ、わが身の上の一大事と、ひそかに監禁して、誰 れ知らぬ間に始末をつける考えが起きたからだ。鳶の者は、 そう聴くと、これは倒巧な江戸ッ子流-三郎兵衛の側に近 づいて、鉢巻を外して、 「こいつは、お見それいたしやし た。長崎屋の旦那でごぜえますね。あっしは、鳶の、八と申 しやすが、どうも大した御機嫌さんでー」 一八  いなせに、腰低く、べらくと並べ立てゝ近づく鳶の者、 片手に、こぷしを固めて、いざと言わぱ、張り倒そうとして いるのだが、気の上ずった、心の狂った長崎屋には、それ が、気取れない。釣り込まれたように、血まみれの短刀を持 った手をぷらりと下げたま\額を突き出すようにして、 「おや、おまえさんは? とんと、見馴れない人だがII-し と、うっとり言う。若者は追従笑いをして、 「それは旦那、 あっし達は、吹けば飛ぶ、どぷ俊い、あなたさんは江戸で名 高い大商人、あッしの方では、そりゃあもう、御存知申上げ ておりますんでー1」と、いって、ますく近づいて、さす が、大胆者、長崎屋の短刀を持った方の手の二の腕を、やん わり、いつか、つかんでしまって、「ねえ旦那、今夜はお騒 騒しいことで、さぞ、お疲れになりましたろう!さあ、あ ちらで、御休息の用意がしてありやすから、お供を申しや しょう」妙なもので、狂暴な、けだもののようでもあれば、 また、無邪気な子供のようでもある、俄気違い、たちまち、 「おゝ、そうか? なるほど、咽喉もかわいたし、足もくた びれた。じゃあ、一つ、御造作になろうかな?」と、曳かれ るまゝに、立ち並んだ、いろは蔵の方へ歩き出す。その三郎 兵衛が、たしかに、塗り込めの中に、封じ込まれたとまで、 血走った目で見届けた広海屋与平1 「ざまを見ろ! 人殺し! 火放け! かどわかし!」と、 噛みしめた歯の間から、うめくように叫んだが、「よいか、 みんな、あいつを蔵から出すことではないぞ! 坊やがかえ 」 るまで、あいつを出すことじゃあないーいゝえ、坊やがか えっても、あいつだけは、あそこから外へ出してはならぬ。 このわしが、成敗してやる。何という人鬼だ!」 「わあゝ! かなしいのう! かなしいのケ! わあゝ! わあゝ」と、いまだに、地にまろび伏して、泣きわめく女房 ー広海屋は、そのあわれなすがたを、今は、腹立たしげ に、睨めつけて、足をあげて、蹴とばしもしかねぬ形相ー 「うるさい! そなたが、わめかずとも、わしの心まで、狂 いみだれてしまいそうじゃ1坊の行方は知っての通り、多 くの人たちに頼んで、探し求めているではないかー殺され ていない限り、天にかけり、地に潜っても、かならず、見つ け出さずには置かぬのじゃ。そなたが、泣いたとて、何にな る。泣きやめ! 泣きやめ! 泣きやみおらぬか!」 「じゃと申して、かなしいのう! かなしいのう! これを 泣かずにいられるお前こそ、鬼じゃ、鬼じゃ! かなしいの う!」広海屋は奥歯を、ギリギリと噛みつゞけていた。さす がの猛火も、|油樽《たる》がはじけて、油が行き渡っていたせいか、 却て、速かに大きな店づくりを焼きつくして、そして、だん だん下火になって行った。広海屋は、ガクガクと、全身を悪 寒に震わせずにはいられなかった。何かしら、自分達、長崎 以来の一味徒党の上に、恐ろしい破滅悲惨の運命が迫って来 ているように感じられはじめたのである。       一九  こちらは、広海屋いろは|庫《ぐら》の、どん尻の、 の二階に投げられた、長崎屋三郎兵衛I 河岸添いの一棟 「これ、若い衆、約束の、酒は持って来ぬか? 茶はどう じゃ? 咽喉がひりつく。声が苦しいーこれ、何か、飲みも のを、早う持て来い持って来い!」と、呼べど、叫べど、返 事もなく、もとより塗り籠めの中、火事場の騒ぎさえ、響い ても来ず、しんかんと、ひそまり返っているまゝに、わめき つかれて、いつか、睡魔が、うとくと襲って来て、そのう ちに、我れ知らず、眠ってしまえば、狂も、不狂も、おなじ 夢の境。だが、その夢の中でさえ、もはや、たゾ美しい、た だ優しい、ほんのりとした幻しは漂うては来ぬ。それは、遠 い遠い、少年の日にハ置き忘れてしまった。情なや、五慾煩 悩の|囚人《エいりザヤ》である身は、やはり、現も少しも変らず、恐ろし い。激しい不安や恐怖の餌じきにならずにはいられぬのだ。 彼は、見たーこんな夢を。おのが放け火の、すさまじい炎 の渦に、押し捲かれそうになって、逃げに逃げて、やっと辿 りついた崖の上、目の下は、鰐も棲みそうな血潮の流れで、 それで、フツフツと沸きたぎっているから、追う火先きをの がれるために、それに飛び込むこともならぬ。が、どうに も、背すじが焦げつきそうになる、苦しまぎれ、ざぶんと躍 り込んだ、熱い流れーぬらくと、五体にぬめりつき、目 口にはいろうとする血潮を、やっと吹きのけて、対岸に上が ると、足の裏を、突き刺すばかり尖った小石原1その小石 原の果てに、こちらに、背を見せて、小さな子供ーそれ が、その尖った小石を、杉なりに積み上げては、揺りくず され、積み上げては、揺り崩され、それでも何か、消えぐ に、うたっては、積み重ねている。  歌うを聴けば、|停《はか》なげにー    こん、こん、小石は    罪のいし。    つん、つん、積った    罪とがの    数だけ積まねば    ならぬ石。    |永劫《えいごう》つきせぬ    この責苦、    こん、こん、小石は罪のいし。  何となく、可哀そうになって、つい、うしろに近づいて、 何かいいかけようとすると、子供の方で振り返って二iッと 笑ったが、その顔が、盗んで、遣り捨てにした、広海屋の赤 んぼうi  lやあ、おのれ! 迷い出て、恨みをいうか!  と、睨めつけようとした途端、その子供の|顔面《かお》が、急に、 妙に歪んで、ぐたくと、伸び鐵ばんだと思うと、浅まし く、ねじくれた、黄色い老人の顔ー  1見たような? どこかで、いつか? 遠い昔i  と、考えをまとめかけた刹那、思いがけなく、その顔が、 もぐもぐと、土気いろの唇をうごかして、  1久しいのう、三郎兵衛i  と、いいかけたようだ。長崎屋、そのとき、ハッと思い当 って、両手で顔を|蔽《か》くふ、うと、もがいたが、手足が|緊縛《きんぱく》され て、それさえならぬ。       二○  赤ん坊の顔と思ったのが、見るく変って、伸び歪んで、 世にも苦痛に充ちた老人のそれとなった、その|夢裡《むゆ》の変化 が、両手で面を|蔽《か》くして、恐怖に五体がすくみ、声を出すこ とも出来ぬ長崎屋を、嘲けるが如く、追いかけて、岐くのだ った。 「わからぬかな? 忘れたかな? このわしの顔をー」ぐ っと、顎を突出すようにして、一「いかに忘れっぽいそなたで も、まさか、わしを忘れもしまいがな?」 「わ、わすれはせぬーわすれはしませぬーあなたは、も とのー」言い訳をせねばならぬような気がして、長崎屋、 こゝまで言いかけて、舌が|硬《こわ》ばってしまった。 「もとの? もとの、何じゃ? わしは、そなたの、もとの 何じゃ?」 「も、もとの、御主人でござります」と、やっとの思いで、 三郎兵衛は、答えて、逃げ出そうとしたが、膝がしらの力が 抜けて、動かれぬ。 「もとの主人? うむ、覚えていたか? して、その名は、 何と言うた? 忘れたかな?」 「いえ、いえ、何で忘れましょうーあなたは、松浦屋の旦 那さま」 「ひ、ひ、ひ、なるほど、思い出したな? よくぞ思い出し おったな? その松浦屋、そなたの手引きで、|好《 よこ》しまの入々 の陥穿に陥り、生きながら、怨念の鬼となり、冥府に下っ て、小やみもなく、修羅の炎に焼かれての、この苦しみIi おのれ、この怨み、やわか、晴らさで置こうや! 三郎兵 衛、おのれ、いで、魂を引ッ掴んで、焦熱地獄ヘー」と、 一⊃ いい表わし難い、鬼とも、夜叉とも、たとえようのない異形 を見せて、長い|鈎爪《かぎづめ》を伸ばして、つかみかゝろうとするの を、 「わあッ! おたすけ!」と、突き退けようとして、身じろ ぎのならぬ哀しさに、大声をあげた、その拍子に、やっと、 目が醒めた、長崎屋だ。油汗が、顔をも、肌をも、水を浴び たように|湿《ぬ》らして、髪の毛さえ逆立って、醒めて、かえっ て、夢の中よりも怖ろしく、気味わるく、今にも、|旧《もと》の主人 の怨霊に、取り殺されでもするかのように、 「もう、駄目 だ! あの方が、姿をあらわして、お責めになるようではも う駄目だ! 怖わや、怖わや!」と、叫びながら、どうにか して、この蔵二階から、のがれだそうとあせりもがいて、部 屋をぐるくと走りまわりはじめた。壁に突き当る。壁を押 す、戸に打ッつかる、戸を蹴り飛ばす、窓を見つける、鉄 鋼、鉄格子を拳でなぐるーiが、どうして、それが壊れるも のか! 開くものか! いたずらに、手の生爪、足の指先を 傷つけて、だらくと、血がしたゝるのを見るばかり。「怖 わや! 怖わや! わしは、一人ではおられぬ。身の毛がよ だつ! おゝい、広海屋どのう! 浜川どのう! 横山どの う! 土部さまあ! 土部三斎さまあ! わしばかり、こん な恐ろしい目に蓬うわけがない。わしを助けてくれ! お助 け下され! 松浦屋どのが、わしを責めますーわしを噛み ます1引き裂きます! 早う助けてえ、みなの衆、同じ悪 事をして来ながら、わしばかりを怨ませようとはー・あゝ、 堪えがたや、怖ろしや!」わめき立てて、部屋中をのた打ち まわる、長崎屋、やがて生死も知らず、気を失ってしまうの だった。       二一  そこで、生きながら、鬼に化したような、長崎屋三郎兵衛 から、河岸の暗まぎれに、広海屋の赤ん坊を受け取った、雪 之丞は、どうしたろう?彼は、三郎兵衛が、赤子の咽喉 に、手をかけて、掴み殺さんばかりの有さまを見て、われ知 らず、狂い果てた相手を|撫《だま》して、敵の子をわが手に抱き取り はしたものの、そして、西も東もしらない、|頑是《がんぜ》なく、いた いけなこのむつきの子供に、罪も怨みもないと、ハッキリ自 分にいい聴かせはしたものの、さりとて、そのまゝ、広海屋 一家の手に戻してやる気にはなれなかった。かごで、わが宿 を差して戻りながら、赤ん坊を抱きしめて、乳母のふところ と思っているのか、スヤスヤと、眠りはじめた、ふッくらし た寝がおに見入りつゝ、彼は、詫びるように、心につぶやい たのだ。  ー坊や、堪忍おし!ほんとうは、このまゝ、お前を、 おふくろさんの胸に、かえして上げるのがよいのかも知れ ぬ。けれども、それは、わしには、出来ないのだ。お前に は、すまないと思うけど、お前の親御の、広海屋に、どうし ても、この世で、怨みをかえさねば、死なれぬ身1その広 海屋に、苦しい、悲しい想いをさせるには、お前をあずかっ て置かねばならぬ。お前の親御は、わしに取っては、仇なの だ、敵なのだ。わしの父母の家をつぶし、辱しめをあたえ、 狂い死にをさせたほどの人なのだ。お前も、そういう人の子 に生れたが因果1ーそのかわり、わしは、いのちに代えて も、お前に、辛い目は見せぬ、あたゝかく、大切に育ててや るーわしの遣り方を大きくなって考えてくれゝば、お前も うなずいてくれるだろうーそうじゃ、そうじゃ、いつまで も、わしのいうま\一に、スヤスヤと、ねんねしておいで。わ しも、心が責めるが、しかし、お前を、このまま、ふた親の 側へは、どうも返せぬ。  赤児を、責道具に使うことの、よしあしがいっていられる 場合ではないのであった。さて、宿に着くと、出迎えた女た ちは、まず、雪之丞のいつに変った身なりに驚かされたー どこの長屋のおかみさんかと思われるすがたに、びっくりし た。それから、ふところに抱いている、赤ん坊に好奇の目を みはった。  1若親方は、殊によると、ほんとうに女子で、こんなか わいい赤ちゃんが、あったのかしら? なぞと、口の中にい って見た者さえあった。内儀がいぶかしんで、たずねると、 ニッコリと、さり気なく、雪之丞は笑って、 「ほ、ほ、ほ、さぞびっくりなされましたろうが、実は、今 夜、米屋のぶちこわしとやらがあると承り、物ずきに、現場 が見とうなり、わざと、こうしたなりをして、駆けつけまし たが、いやもう恐ろしい大騒ぎ、|胆《きも》も身に添わぬ気がしまし たので、すぐに、戻ろうとしますと、道ばたに、捨子ー寒 さに、泣くこえが、あわれでなりませぬで、拾い上げてまい りました。ね、かわいい子でござりましょう」 「まあ、では捨子でーこんなに、やわらかい寝巻を着せて いながら、どうしたわけで、道ばたなぞへーまあ、ほんと うにかわいらしいー抱かせて下さいましな」子無しゆえ に、 一そう子煩悩らしい内儀が、手をさしのべて抱き取る と、赤子は、夢を破られて、むずかって、おぎゃノ\泣き出 すのだった。雪之丞は、内儀に、乳母の世話をたのんでホッ とした。 歎ける美女 一  1わたしは嫌われてしまった! わたしはあざむかれて いた! いのち懸けの恋i燃えつきる恋-万人の女が、 夢みながら、思い切ってそこまでは誰れもつきつめぬ恋t 親も、家も、わが身もすべて捧げた恋-恥かしい恋ー苦 しい恋ーわたしの恋は、|膝《ふ》み|廟《にじ》られてしまった! あのお 方に取って、魂を焼き焦すほどのわたしの思いは、何でもな かったのだ。あのお方の、舞台の芸と姿とを見て、気まぐれ に、どこかの後家どのや、浮気なうかれ女や、はしたない町 のむすめが、ほんの一夜、ふた夜、ねられぬ枕の上で描いて 見る、まぼろしの恋よりも、もっとく|僅《はか》ない、つまらな い、いやしい恋としか、あのお方は思っては下さらなかった のだー1-わたしはいきる甲斐がないーわたしは、明日のお 日さまを仰ぐ力がないー  わが乳で育てた、家柄の貴い一少婦の、世にも激しく、世 にも哀れな思いつめた望みを果させる為には、いかなる難儀 をも忍ぼうとする、忠実な乳母と、乳兄弟に当る、正直で素             しの 直な伜とで、あらゆる困難を凌いで、見つけてくれた、繁畠 「● な音羽護国寺門前通りのにぎわいから、あまり離れていぬ癖 に、こゝは、又、常緑の森と、枯茅の草場にかこまれた、目 白台のかたほとりの隠れ家に、人目をしのび、世を忍ぶ、公 方の寵姫、権門土部三斎のむすめ浪路に、冬の長夜を、せめ ては、小間に風情を添えようと、乳母がとゝのえてくれた、 朱塗行灯の、ほのかな灯かげをみつめながら、夜毎に小袖の 袖挟を、|湿《ぬ》らさずにはいられない。が、彼女には一生一期の おもいをして、恋のためには、柳営の権威を|冒《おか》し、生死の禁 断を破り、父兄の死命を制するほどの大事になるに相違ない という予覚も物かは、その人ゆえに、御殿もわが家も捨て て、身を隠したということを、はっきりと知りながら、そっ と忍んで、訪ねてくれることは愚か、なつかしい文一つ、こ とづけてよこそうともせぬ雪之丞を、うらむことも、責める ことも出来ないのだった。  ーわたしは忘れられた、捨てられた。あのお方は、やっ ぱし世の恒の芸の人で、いのちがけの女の恋なぞは、おわか りにならないのだ。いゝえ、女の一人、百人、自分のために こがれ死に死んだとて、わが身の罪と、歎くことなぞはして いられないお人なのだ。芸ばかりがいのちの、氷よりも冷た い胸のお人だったのだー  と、そう、思いあきらめようとしながら、しかし、どこ か、胸の底の方では、  !いゝえ、わたしは、わが儘だから、あの方の、深い深 い、わたしたちには解らない、おこゝろづかいをお察しする ことが出来ないのかも知れない。何か、それには仔細があっ て、今当分は、わざと遠お・バ\となされた方が、のちくの ためによいとおもわれての事かも知れないーあのお方には 世間がある、芸があるーそれを、一図に、女気で、おうら みしたら、何というわけのわからない女と、おさげすみをう けるかも知れないーいかに何だと言うて、あれほどまで に、かたくかたく言葉を契ってくだされた雪之丞どの、これ ほどのわたしの思いを、草鞍とやらを穿き捨てるように、投 げ捨てておしまいになる道理がないーじッとく忍んでい ましょうー1そのうちに、この月の芝居もすんだら、世間を 忍んで、必ず、おたずね下さるに相違ないーーわたしは、待 ちます! じっとく、しずかにしてー  と、そんな方に、自ら慰めて見ずにはいられない彼女でも あった。       二  こうも呪い、あゝも、自ら|撫《なだ》め、日を、夜を、垂れ|籠《こ》めて● たった一人小むすめを相手に、せめてもの慰みは、新版芝居 錦絵、中村座当り狂言の雪之丞の姿絵、三枚つゾきの「滝夜 叉」に、その人をしのぶ事だけの浪路だった。あの晩、吹き つゾけた|凧《こがらし》が、しいんと、吹きやんで、天地が、寒夜の静 もりに沈んでゆくような晩だったが、相変らず、錦絵をなら べて、小むすめに、絵ときをしてやったあとで、菓子箪笥か ら、紅い一干菓子を、紙に分けてやって、 「千世、おあがり」と、すゝめてやって、どこか、若衆がお の愛らしい横がおをみつめて、何を思ったか、ぼうと、いく らか、頬をうすく染めた浪路i「ねえ、千世、たのみがあ るのだけれどi」八丈柄の着物に、紅い帯をした小むすめ は、女あるじをみつめた。 「何でござります?」 「いゝえね、格別、六かしいことではないのだよーわたし と二人、夫婦ごっこをしてあそんでおくれなーいゝでしょ .「?」 「みょうとごッこ?」みょうとlIと、いう言葉が、十五の 少女にも、ある恥かしさを、感じさせたと見えて、これも、 顔を紅くした。 「ほ、ほ、何でもないのー只、わたしの言うことに、あい あいと、返事をしてくれゝば、それでい\のだからーして くれるわねえーあそんでくれるわねえー何でも好きな御 褒美をそなたのーほしいものを上げるから」こむすめはう なずいたー千世は、いつもく淋しげな、はかなげな浪路 を、どうにかして、慰めてやりたいと、若いこゝろにも思っ ていたのだった。 「でも、うまく出来ますかしら?」 「出来ますともー」頼りない身には、主も、家来もなかっ た。浪路は、まるで、親友に対するように、千世に頼んだ。 「出来るから、今、いうとおり、わたしの言葉に、あい/\ と、そういってくれるのですよ」 「はい」 「では、はじめますーいゝこと? 何でも、出来るだけ、 男らしく、だけど、やさしく返事をしてくれるのですよ; お前が、旦那さまなのだからi」そう言って、浪路は、小 むすめの肩に、藤いろの小袖の快をかけて、抱き寄せるよう にして、 「まあ、そなたは、こんなに長う、お目にかゝらな んだわたしを、可哀そうとは、お思いになりませなんだのか え? 雪どの、さ、何とか、返事をしてたもー」と、熱く さゝやいて、そして、自分の言葉に、酔い痴れるかのよう に、もたれかゝったが、千世は身をすくめたまゝ、答えられ ぬ。 「駄目ではないの、千世!」と、浪路は夢をさまされた ように、おこりっぼくいったが、また、機嫌をとるように、 「さ、何とか、返事をしてー」 「あいノ\」 「あれ、あきれた千世1わたしが恨んでいるのに、あいあ いではi」 「でも、あいくと、いえとおっしゃいましたからー」      三 「さあ、言ってくれるのですよ-千世、ね、こう言ってく れるのですよーいゝえ、決して、あのときのことを、忘れ はしませぬーと、そう言っておくれな。ね、千世」千世 は、女あるじの、|柔《やわら》かな腕の中に抱きしめられて、ますく 紅くなりながら、それでも、 「はい、では、申しますーいゝえ、決して、あのときのこ とを、忘れはいたしませぬ」 「それなのに、なぜ、いつまでも、お顔を見せてはくれなか ったの? わたしは、うらみつゾけに、うらんでいました」 又しても、千世が、口ごもってしまったとき、外で、 「御免下さりませ」千世がホッとしたように、女主人の脇を すり抜けて、入口の方へゆく。小家なので、音ずれて来た人 のこえは、よく判ったが、それは、乳母の伜の、甚太郎ー 正直、まっとう、主すじの人のためにはいのちまでも、いつ でも投げ出そうとしているような気立てだ。通されると、|闘《しきい》 の外に、小さくなって、節くれ立った手を突いて、オドオド と、辞儀を申し述べる。 「もう、わたくしも、おふくろも、毎日、毎晩、御機嫌をう か罫わなければならないのでござりまするが、何分とも、松 枝町のお屋敷の方が、絶えず、目をつけて、おいでなされま すので、うっかり、こちらへ足を向けましたら、一大事と、 つゝしまねばなりませぬのでー」 「では、まだ、松枝町では、おまえたち母子を、うたがって いるのかえ?」 「はい、お行方をかくされましてから、何度も何度も、お呼 びだし、おどしつ、すかしつのお尋ねでござりましたが、口 を割りませなんだで、どうやら、御嫌疑も晴れたようでござ りますが、それでもまだ、油断がならず、とき人\、不思議 な風体のものが、うちの近所をうろくいたしておりますの でー」 「それは、さぞ、気色のわるいことであろうーみんな、わ たしの罪、お気の毒でなりませぬ」 「いえく、左様なことはござりませぬがー実は、今晩、 人目を忍んで、上がりましたのはー」と、いいかけて、甚 太郎は口ごもる。 「え! 何か、特別な、用事ばし出来まして?」と、浪路が みつめる。 「はい、おふくろが申しますには、お屋敷の方は、あなた様 が、お家出をあそばしてから、それはもう、言語道断の御難 儀、お城からは、毎日のように、御使者で、行方をお責め問 -御隠居さまも、とんと、御当惑-一日のばしに、お申 しわけをなされていたのでござりますが、娘の我儘をそのま ま上意をないがしろに致すは不届至極とーこれは、うけた まわったまゝ、失礼をかえりみず申し上げるのでござります るが、いやもうことく、く御立腹i御隠居さまの御不首尾 は勿論、殿さま1駿河守さままで、御遠慮申さねばならぬ おん仕儀ーこの分にては、折角の上さまお覚えも、あるい は、さんぐに相成るのではあるまいかーと、御一統、御 心痛の御容子ー出来ますことなら、あなたさまに、おかん がえ直しが願えたら、八方、よろしかろうーと、おふくろ も、泣いて申しますのでー」 「で、わたしにそれをいいに来てくれたといやるのか?」 と、浪路が、鋭く遮るようにいった。 四 「まあ、では、乳母も、そなたも、この浪路に、どうあって ももう一度、うちへ戻れと、こういうのだね?」と、浪路 は、甚太郎の、|朴実《ぼくじつ》な顔を、憤りッぽくみつめていった。素 直な男は、あわてた。 「いゝえ、どうつかまつりまして、あなたさまに、戻れの帰 れのと、そのような、失礼なことを、どうして申し上げられ ましょう。たゞ、いかにも、お屋敷の、お父ぎみさま、お兄 ぎみさまの、御当惑がお気の毒でなりませぬゆえ、お城をお さがりあそばすにいたせ、一応は、お顔をお見せなされまし て大目晴れて、お暇を願うことにいたしたら、八方、美しく おおさまりになるであろうーと、そのように、|母親《おふくろ》も、い, い暮しているものでござりますからー」 「まあ、あの乳母までが、それでは、わたしのあのような頼 みをも、打明けばなしをも、裏切って、お城や、お父上の、 味方についてしまったものと見えるーそれも、道理といえ ば道理1わたしは今日、世をしのぴ、お前方の情でかくま って貰っている身、何の権威もなくなってしまっているし、 その上、わたしのいうまゝにしていたら、あとで、きびしい お餐めもあろうかと、案じるのも、無理はない。今更、お前 たちがわたしを、この家に置くのを、迷惑とお言いなら、い かにも、尤もゆえ、早速、こゝを立ち去りましょうー」浪 路は、美しい顔を、青ざめさせて、唇を、血の出るほど、噛 みしめるのであった。甚太郎は、ますく弱り切って、 「めッそうな! われ/、親子が、あなたさまを、おかくま い申すのを、迷惑の何のと、何でそのような罰あたりなこと を思いましょう。あなたさまのお為めなれば、いのちも何も いりはせぬと、とうから言いくらしているおふくろが、それ ではあんまり可哀そうでござります。どうぞ、もう、そのよ うなこと、フッと、おっしゃらずと下さいませ」 「でも、お前がたは、どうでも、わたしに松枝町に戻れと申 すではないか?」 「いやく、もし、そうなされたなら、御一家さまもさぞお よろこびーと、存じ上げたまでの、差し出口でござりま しょう」 「それにしても、あんまり思いやりのない言葉1一たい乳 母は、このわたしが、二度と、生きて、あのいやなく、公 方さまのお顔を見る気があると思うているのであろうか? わたしは、そのような破目になったら、いつでも、・いのちを 捨ててしまう。この咽喉に、懐剣の切ッ先きをつき刺してし まう。いやく、舌を噛み切って死んでしまうーもう、お 父上、お兄上のためには、浪路は、若いく、清らかな清ら かな一身を、すっかり|牲《にえ》にさゝげて、あのいとわしい貴いお 方のお側に、あまりに長う辛抱をしすぎました。これから は、たとえ殺されようと、八ツ裂きにされようと、火あぶ り、しばり首、はりつけの刑に処せられようと、もはや、自 分のためにばかり生きて行く決心ーこのわたしの、激し い、悲しい、たった一つの望みを、甚太郎、そなたすらもわ かってはくれぬのか?」怨じて、じっと注いで来る、美しき 人の目を、相手は、どうそらしていゝか、わからぬもののよ うにー 「そうおっしゃられますると、わたくしめは、申しわけなさ に、それこそ、首でも吊る外はござりませぬ。そこまでのお 言葉なれば、おふくろにいたせ、わたくしは勿論、今後と も、もうくどう|御諌言《ごかんげん》めかしいことは申し上げますまい ー」と、いい切る外はないのであった。 五  浪路は、詫び入る甚太郎の言葉が、耳にはいらぬように、 「いかに、おな子の身は弱いとゆうたとて、どこまでもどこ までも一家、一門のために、|牲《にえ》に生き、牲に死ぬほかはない と言やるのか? 乳母や、そなたまで、わたしを公方のもと に追い戻そうとたくもうとは、何という、頼み甲斐のない J ー-ー」と、言いかけて、哀しみの涙か、くやし泣きか、ハラ ハラと、青白い頬を、|湿《ぬ》らす0だった。甚太郎は、ますく 恐縮して、 「なかくもちまして、そのような、悪気から申し上げまし たでは、さらくござりませぬ。一々、ごもっとものお言 葉、おふくろにも、立ち戻りまして、申し聴け、おわびに伺 わせましょうほどに、お気持を、お直し下されましてーわ たくしどもは、くりかえし申し上げますとおり、あなたさま のお為めのみを、はゞかりながらお案じ申しているぱかりで ござりますー」すると、それを、聴きすましていた浪路、 急に、フッと、涙の顔をあげたが、 「ほんとうに、甚太郎、そなたは、わたしを、あわれと思う ていてくりゃるか?」目を反らさずに、甚太郎、 「申すまでもござりませぬーたとえば、松枝町さまが、御 恩人とは申せ、そな批誌まには、恐れ入ったおはなしなれ ど、乳をさし上げた母親1ーわたくしはその伜iおん家よ りも、そなたさまこそ、くらべようなく大切と、存じ上げて おりますので;」 「それならば、わたしの、生き死にの望みi生れて、たっ た一つの望みを、どうともして、叶わせてくりょうと、日ご ろから、念じていてたもっても、よさそうなものと思います が!」浪路は、いくらか、怨じ顔に、 「実はたった今も、 叶わぬ想いに、胸を噛まれて、うら若い千世を相手に、くり ごとを言うていたところーのう、甚太郎、おもはゆい願い なれど、かくまでの、わたしの苦労を察してくれたなら、ど うにもして、此の世で、今一度、かのお人に、逢わせてくれ るよう、はからっては貰われぬか?」ほんに、いかに、主従 同然な仲とはいえ、女性の口から、このことをいい出すの は、さぞ苦しいことであったであろう。甚太郎にもそれはよ くわかるのだった。 「はい」と、切なそうに甚太郎はうなずいて、「それはも う、わたくしも、あの後、何度となく、人目にかくれて、か のお人のお宿まで、出向きましたなれど、いつも、あいにく お留守のあとばかりi」 「いゝえ、大方、わたしよりの使と察し、間のものが、取り つがぬものであろうーあのお人は、なかくに心のゆき渡 った方でありますゆえ、なまじ逢うては、わたしにあきらめ の心がつくまいとわざとさけておいでのことと思えど、この まゝでは、わたしに、もう、生きつゞけてゆけぬ気がします ーいのちの火が、燃えつきてしまうような気がします。ね え、わたしをあわれと思って、乳母と二人力をあわせ、何と もして、逢瀬をつくってはたもるまいか?」浪路は思い入っ た調子で、 「もし、そなたが、いとわねば、わたしみずか ら、身をやつしてなりと、かのお人の宿元まで、忍んでゆき たいと思うのだけれどー」と、いっているうちに、狂恋の 情が抑えられなくなったように、 「甚太郎、明日といわず、 今夜これから、案内してはくれぬであろうか?」       六  浪路の狂恋は、遂げられぬおのが願望について、くり言を しているうちに、ますく煽られて来るのであった。彼女 は、もう、どうにもおのれを抑えることが出来なくなったよ うに見えた。 「ねえ、わたしを、宿屋の入口まで、案内して たもーわたしはどうあッても、雪どのに逢いたい。蓬わね ば、もはや、生きる気もない。のう、甚太郎、あわれと思わ ば、何とかしてたもれーのう、甚太郎ーそなたと、わた しとは、言わば、乳兄弟ではないかーそして、わたしのた めなら、どんなことでもしてくれると、たった今、言ってく れたではないかー」甚太郎は、とんだ破目になったという ように、うつむいて、|膝《ひざ》に|載《の》せた、わが手の指をみつめるよ うにしたまゝ、|頓《とみ》には答えることも出来ない。浪路は、あせ りにあせって、 「それとも厭と、お言いか? 厭とおいやる なら、強いては頼まぬ1広いとて、江戸の中、わたし一人 でも、よも、尋ねあたらぬことはあるまい」きッと、睨めす -えるようにして、言い放つ、浪路の目つきに触れると、甚太 郎は、|蝋《しよ》,|然《うぜん》と、肌が、粟立つのをすらおぼえるのだi  Iおゝ、何という恐ろしい、女子の執念であるのだろ う? まことや、むかし、清姫は、蛇ともなり、口から炎を 吐いて、旦高川の荒波を渡ったとかーーこのお方を、このま ま、すげなく突き放したならば、あられもなく、夜ふけの道 を、さまよい出すに相違ないーお美しい目に、あの|奇《あや》しい 光り、これは、尋常のことではない。 「のう、甚太郎、どうしてくりゃるつもりじゃ? 厭なら、 厭と言やー頼みはせぬぞえ」柳眉は引き釣り、紅唇はゆが んで、生え際の毛が、ざわくと逆立つようにさえおもわれ るのだった。  -詮方ないことだ。では、今夜これから、せめて、もう 一度、雪之丞どのをたずね、かくまで焦れあがいておいで の、ありさまなぞ打ち明け、足をはこんで貰うことにしよ う。万一、雪之丞どのが拒みもしなば、そのときこそ、たと え、腕ずくにてでも、こゝまで連れてまいる外はない。  甚太郎は、雪之丞の、秘剣秘術を知る由もないゆえ、力立 てをしても、浪路との逢瀬をつくってやらずばなるまいと思 うのだった。  そこで、決心してー 「わかりました。では、今宵こそ、この甚太郎、雪之丞どの に、どうしてもお目にかゝり、是非ともお供を七てまいるで ござりましょうーどうぞ、あてにして、おまちなされて下 さりませ」が、浪路は、荒々しく頭を振った。 「いえく、それは、無駄なこと!」と、彼女はいきどおろ しげに、「雪どのは、もはや、決して、わたしに逢うまいと、 思い定めておいでに相違ない。それゆえ、そなたが、口を|酸《す》 くして、すゝめてくれようと、よも、こゝまで、足を向けよ うといたすはずがないーわたしには、よくわかるーそな たが、心をつくしてくれようとの気持はかたじけないが、お なじことであれば、わたしを、案内してたもーわたしが、 是非に蓬う。逢うて、訊きたいことを、きっぱり聴かねばな らぬ。さ、夜があまり更けぬうち、道しるべをしてたも」彼 女はそう言うと、千世を呼んで、鏡台を運ばせなぞするので あった。 七  この隠れ家に住むようになってから、勿論、髪も、衣類 も、町家風俗、されば、夜あるきをしようとも、さらくだ れの怪しみをも買わないであろう。浪路は、|上鵬《じようろう》に似げない 性急さで、髪をかきつけ、顔を直すと、立ち上がって、 「さ、甚太郎、案内しや1大方山ノ宿と聴いた。そこまで 出て、かごをやとわば、更けぬうちに着くであろうー千 世、蟹守居を、ようしていやれ」甚太郎もはや、思い止まら せることも出来ず、力なく、 「さらば、お供をば致しましょう」ところが、隠れ家の、さ びしい灯の下で、かゝる情景が展開されつゝあったとき、こ の、町並みからかけはなれた、隠宅むきの小家の、生け垣の 外を、さきほどから、黒頭巾、黒羽織、茶じまの袴に雪駄穿 きの、中年をすぎたようなからだつきの武家が一人、さっき から、足音をしのんで、ゆきつもどりつ、|家内《なか》の容子を聴き すまそうとしていたのであった。もとより暗い森かげ、人通 りもないから、この武家のすがたに目をつけるものもなく、 何の邪魔もなく、うかゞいつゾける事が出来たわけだ。この 黒衣の人物は何者だろう? 土部三斎と、長崎以来、これも 深い慾得ずくの関係を結んでしまった、こないだ、広海屋火 事の晩非業に倒れた浜川平之進と、相役をつとめて、賄賂不 浄財を取り蓄め、今は隠居を願って、楽々と世を送っている 横山五助その人なのだった。横山五助は、今でも土部家の言 わば、相談役のようなことをつとめていたが、浪路の失腺以 来、彼女の行方不明が公になったなら、単に、三斎、駿河守 の一身上の大問題となるばかりでなく、それがきっかけにな って、昔の悪業が、天日の下に、曝し出されることになろう とも知れぬという懸念から、どうあっても、彼女を探ね出 し、穏便にすむうちに、大奥へ送りかえさねばならぬと、い みじくも決心している一人であった。何分、この男、長崎代 官所で幅を利かせていたころから、目から鼻へ抜ける才智 と、ころんでも只は起きぬ|狡猜《こうかつ》さとで鳴らした人間だけあっ て、現在は、浮世ばなれた、暢気らしい日を送っていても、 なかくどうして、油断も隙もある男ではない。これが、浪 路の失踪の裏には、何としても、乳母一族が存在して力にな っているに相違ないーさもなくば、世間知らずの彼女に、 世にかくれつゾけていられるはずがないと見て取ってしまっ ていたのだ。一たん、そう思い込めば、たやすく、その考え を捨てる五助ではなかった。  1どうでも、乳母一家があやしい、三斎どのは、すっか り信じ切っておられる乳母や伜だが、その悪堅いところが、 却って、わざをする。浪路どのに頼まれて、一たん、うけあ った以上、死のうと生きようと、便宜をはかろうとするに相 違ない。拙者は、あくまで、あの一家を、怪しく思う。拙者 は、目を放すことではないぞ。じっとく、辛抱して、目を つけているうちには、彼等は、何かしッぽを出すに相違な い。そのときには、この拙者が、ぎゅッとその尾をつかんで やる。そして、浪路どのの行方をつき止めてやる。  そうした横山五助が、黒覆面に顔をかくして、乳母の家の まわりを警戒していた折も折、今夜、甚太郎が、さも人の目 をはゞかるように出かけたのだからたまらないi彼の尾行 は、とうとう成功してしまったのだ。 八 その横山五助、どうにかして、 浪路の行方を突き止め、土 } 部家へ戻そうとして、たった今まで、心を|砕《くだ》き、この小家を とうとう発見したのであったが、人間の慾念というものは、 |奇《あや》しいものだ。日ごろ、ずッと眠りとおしているのが、どん なきッかけから、呼びさまされて、急にムクムクと、頭をも たげて来るかわからない。小家のまわりを、警戒しながら、 ちらちらと、かすかに洩れて来る美しいこえを聴いているう ちにーそして、甚太郎との物語が、なかく尽きそうもな いので、いらだたしい気持を押えかねているうちに、ふッと、  1浪路どの、どんな暮しをしているのか? 大奥で過し ていた身が、こんな乏しげな家でーと、思って、裏手にま わって、閉め忘れたらしい小窓に、灯火がほんのりさしてい るのを見つけ、はしたなく、隙見をしたのが、因果だった。 |怨《えん》じやつれた、美女が、恰度そのとき、おくれ毛もそのまゝ に、雪之丞に対する熱い恋を、甚太郎に、|掻《か》きくどいている ところだったのである。その風情が、何とも言われず、艶 で、仇めいて、横山五助、生れてはじめて接する魅惑的な光 景であった。彼の中年すぎの、汚らわしい情熱が、彼自身、 思いも設けず掻き立てられた。  -なるほど、美しい! なまめかしい! 今までは、こ れほどの娘とは思わなかった!  ゾ:ッと、身ぶるいが通りすぎた。そして、その刹那か ら、どうにかして、浪路に、ぐッと密接したい慾望が、ムラ ムラと湧き上がったのだ。彼は、隙見をしながら、急に、口 じゅうに、睡がたまるのを感じた。五体が、燃え上がって来 た。  -なあに、こうなって見りゃあ、拙者に近よれぬ浪路ど のでもないのだ。  ギョロリと、目を光らせて、彼は、心につぷやいたが、当 の浪路の瞳が、こちらに、ちらりと送られたような気がした ので、ハッとして、窓をはなれた。彼は、たった今、もりも りと盛り上がって来て、胸'ぱいに|蔓《はびこ》りはじめた想念を、も っとハッキリ追って見ようとして、ふたゝび、暗い小路に戻 って、ゆきつもどりつしはじめた。妻に死なれて、まる三 年、異性からすっかり遠ざかっていた彼の煩悩は、暗がりの 中で、ますます燃え上がるばかりだった。  ーあの娘は、案の定、あの女がたに迷って、そのため に、公方の威光も、親の慈悲も、毛ほどにも思わず、家出を したのだ。あの娘は、あの女がたに死ぬほど焦れているのだ が、それが、何だ? 拙者が、一睨みすれば、鷲につかまれ た、小雀ではないか? おどしに掛けさえすれば、どんな言 葉でも、拙者のいうことなら、受け容れる外はあるまいー さもなくば、恋も、夢もそれまで、公方の許に帰ってゆく外 にないのだから1  五助は、一度、胸の底にふすぶり立った、慾情の火を、大 きくならぬうちに消してしまおうとは試みなかった。只、ひ たむきに、その炎が、全身を焼くにまかせた。  1よし、どうしても、拙者、あの娘をあのまゝには置け ぬ。これまでの浪路ではない。世の中に自分から投げ出して いるあの娘だ。  そう独り|言《ご》ちたとき、彼は立ちすくんだ。浪路のかくれ家 の入口め戸が開く音がして、ニツの人影が、黒く、闇の中に あらわれたのだった。      九  隠れ家を出たニツの人影は、いうまでもなく、浪路、甚太 郎だ。 「この辺は何分、町すじからはなれておりますので、かご は、音羽の通りへ出ませんではー」と、甚太郎。 「え、、何でもありませぬ。一里が二里、思い立ったら、歩 けぬことはありますまい」浪路は答える。二人の足が向くの は、護国寺前通りi参詣の善男善女、僧坊の大衆を目あて に、にぎわしく立ち並んだ町家が、今は、盛り場の観をさえ なして、会席、茶屋なぞが、軒を接しているのみではなく、 小さいながら定小屋もあって、軽業、奇芸の見世物まで、夜 も人足を吸い寄せているのであった。横山五助、二人の会話 を、小耳にはさむと、  -うむ、あの通りへ出られてしまっては!  と、咳やいて、瞳に、暗いほのおをふすぼらせる。と、同 時に、狂おしい昂奮が、この中年武士の、|追醗《ついしよう》の足を早めさ せた。チラチラと、雪駄の裏金が、鳴るのをすら、聞きはゾ からせない。その足音に、ふりかえったのは甚太郎だ。まさ か、五助が、こゝまで|眼《つ》けて来ているとは、思いもかけなか ったろうが、闇の夜道なり、人家は途切れた野中なり、ハッ と思った風で、道案内に、先きへ立っていたのが、浪路を|囲《かこ》 うように、うしろへまわって、 「おいそぎ下すってー」と、低く、不安気に囁やく。少し ゆくと、まだ、腰高障子に灯かげが映っている、居酒屋のよ うな小店があるのだ。浪路も、小走りになる。が、横山五助、 もはや、情慾に前後の思慮を失しているのだから、殆ど、駆 けるように近づいて、 「待ちなさい! これ、お待ちなさい!」と、迫った調子 で、|喘《あえ》ぐ。甚太郎、聴き覚えのある声なので、足がすくん だ。浪路失踪以来、何度か、母親と彼とを威迫すべく訪れ た、横山五助だということは、次の刹那に、すぐに思い出せ たのであろう。浪路は、かまわず、走ろうとしたが、無駄だ i!はっきりと、彼女の名を、呼びかけられてしまった。 「浪路どの1 拙者だ! おまちなさい!」  1おゝ、横山どのだ!  悪い人に、悪いところでと、くやまれたが、しかし、立ち 止まらぬわけにはいかない。チャラチャラと、近づいた横山 五助、闇をすかして、二人を、睨め据えるようにしたが、 「甚太郎、貴さま、不届きな奴だな! よくも、拙者ども、 また、お屋敷をあざむいたな!」雛枯れた語韻で、まず、嚇 しが来た。 「はi」何とか、言いのがれようとして、甚太郎はどもっ た。 「お屋敷御高恩を忘れ、何たることだ! 浪路どのお留守の ための御迷惑が、わからぬか!」五助は、いかめしく言っ て、いつか、二人の行手をふさいでしまっていた。甚太郎 は、口をもがくとやるだけだった。       一〇  だが、恐怖と|困惑《こんわく》とに、荘然自失してしまった甚太郎に、 横山五助はいつまでもかゝり合ってはいなかった。彼の、闇 にきらめく、狂奮の瞳は、浪路に向けて、食い入るように注 がれるのだ。夜の深みにうなだれた、白い、|萎《しお》れかゝった花 のような立すがたの1頸あしの、横がおの、何という悩ま しさ、艶めかしさー1五助の魂は、おの、かずにはいられぬ。  iめっきり美しさが増したわい。公方のおもいものであ ったときには、言わば、たゞ綺麗な作り花にすぎなんだよう にしか思われなかったが、今夜の、この仇っぽさ! 恋が、 この|女《ひと》の美しさを、百倍にもしたのだーそれにしても、浅 ましい、河原者風情のために、身を焦し、心を焼くとは!  浪路の胸が、五体が、雪之丞を慕う想いに、燃え立ってい るのだと思い知ると、五助は、|嫉《ねた》ましさを感じるよりも先き に、激しい望みに|揮身《こんしん》、この真冬に、熱汗に濡れたゾようば かりだ。  ・ー-河原者を慕う不所存な女子を、拙者がわが物にしたと て、何が不都合であろう・ーどうせ、汚れてしまっているか、 遠からず汚れてしまうか、いずれかにきまっているのだ。 「浪路どの!」と、いくらかもつれた舌で、五助が呼びかけ て、 「が、そなたの気持が、まん更、わからぬ拙者でもござ りませぬぞ。それにしても、なぜ、子供のときから、いわば 伯父姪のようにも親しんで来た、拙者どもに、心の中を打ち あけては下さらなんだーー-残念だ」  iー何を、この方は、おいやるやら!  と、浪路は、今は魂が据って来て、心につぶやく。  ーこの方々こそ、父上にすゝめて、自分達の栄華を遂げ るために、ひとを、公方への、人身御供に上げたのではない か! 「いずれにせよ、そなたの御決心が、どのようなものか、密 密、拙者うけたまわりたい、その上にて御相談にも乗りた くー」五助は、そんなことを、出鱈目に言いながら、心の 中では、さまん\な妄想を描いている。  -どうしたものか? 今宵、この女子を、これから、ど こへ連れて行ったものか? 思いを果すに便利な家に、とも なって行かねばならないーその場所を、心の中で、探して 見る。  -そうだ! 丸木の寮ならーあそこなら、どんなに、 この女がわめこうと大丈夫ー  連れて行く方法は、いくらでもあった。彼は、大刀を横え ているのだ。切っ先きを突きつけたら、何でもないーその 寮というのは、廻船問屋丸木屋の別荘で、大川端、浜町河岸 の淋しいあたりー1一方は川波、三方は広やかな庭-丸木 屋とは、長崎以来の、これも、深い因縁の仲だ。いかなる秘 事も、洩れっこなしi  邪魔なのは、この伴れの甚太郎、たゾ一人i何と、言い こしらえて、この者を突っぱなそうか、なんとか、よい思案 はi  i待て、この場は追い払おうとも、この者、浪路がこよ い限り又も行方を失うたら、持って生れた正直一途から、ど のようなことを土部家へ訴え出ぬとも限らぬーかまえて、 融通の利く男でない。はしッこい奴なら、利得で、手なずけ ることも出来るがー  五助は、こんな風に考えて、急に闇の中で恐ろしい表情に なった。 っ⊃       一一  ギラギラと、すさまじく、瞳をきらめかした、横山五助、 にわかに棒立ちに突っ立って、唇を噛むと、上目を使うよう にして、甚太郎をみつめたが、雛枯れた調子で、 「甚太郎、ちと話があるが、あの物蔭までー」顎で、指し たあたりに、|茅萱《かや》が|小径《こみち》の方へ、枯れながらなびいていた。 甚太郎は、 「へい」と、腰をかゾめる。びくくと、只、恐縮し切って いた彼、頼むようにいわれて、ホッとしたらしい。 「甚太郎に、ちと、命じることがあって、あれにて、談合い たしますが、お逃げになろうとしても無駄でござるぞ」ジロ リと、一|瞥《ベつ》を浪路に呉れて、先きに立つ五助。しおくと、 甚太郎が、ついて行く。浪路は、何を、横山は、甚太郎に話 し込もうとするのであろう? 1が、事実、逃げても駄目 だ。男の足には、すぐに追いつかれるーそれよりも、言う まゝに、待っていて、あとで、泣きついて見よう。あの男 に、腹立たせてしまっては、大変だーそんな風に思って、 よんどころなしに、寒々と、肩をそばめてたゝずむのだ。こ ちらは、五助、どんより曇って、月もない、|杜下径《もみしたみち》、|茅萱《かや》の なびいた、蔭につれ込むと、小声になって、 「甚太郎-話と申すはなー」正直な男、 「は、何でござりまするでー」と、|前屈《まえかま》みに、身を寄せた 瞬間!  ーシュッ1  と、いうような、かすかな音がしたのは、抜き討の一刀 が、鞘ばしった響ー1  !ピウッ!  と、刃風が立って、ズーンと、この|無享《むこ》の庶民の、肩さき から、大袈裟に、斬り裂いた。 「うーむー・」と、いうような、定かならぬうめきが、聴えた ようであったが、闇を掴むかの如く、犠牲者の両手が、伸び て、|痙《ひ》き|轡《つ》ッて、やがて、全身が突ッ張ったまゝ、ドタリと 斜うしろに什れた。血を浴びぬように、五助が、切ッ先の加 減をして、突き什したのだ。 「あーッ!」浪路は、物蔭の、異様な気はいに、 ハッとし て、つぎの刹那、思い当って、思わず叫んだ。そして、逃げ ようとして、|膝《ひざ》がしらの力が失われて、よろくと、その場 に脆ずいてしまいそうになったとき、まだ、血刀を|提《さ》げたま まの五助が、駆け寄って、|左手《ゆんで》で、抱き止めるようにした。 「おはなしなされて、お、は、なしー」と、叫ぼうとする のを、 「お騒ぎでない。かの者、不忠、不所存きわまるによって、 |諌鐵《ちゆうりく》いたしたまででござる。そなたをどういたそう?何 で、危害を加えましょう? ま、落ちつきなさい」 「お、は、な、しー」浪路は、夢中に、身をもがいた。夢 中ではあったが、女性の本能が、彼女にある|切羽《せつぱ》つまったも のを感じさせたのだ。彼女は、血刀を提げた男性の、腕の中 に抱かれて、何もかも、奥深い秘密を察知したのだ。 「お、は、な、しー」 「これほど申すにー」と、五助の声が、荒っぽく|喘《あえ》いだ。 一二  横山五助が、心の中の暗い願望を、それと口に出さぬう ち、早くも、感づいた浪路は、放して11放してーと、腕 の中にもがいたが、相手は、いっかな放さぬ。ますく、却 ッて、抱き|擁《し》める手に、力がはいるばかりー 「なにも、そのように、怖ろしがるには及ばぬーかやつ を、斬って|退《の》けたのは、むしろ、浪路どのそなたのためじ ゃ。そなたがこゝろを持ち直し、貴い格式にもどられたと き、うるそう噂をいたそうはこの|輩《やから》、それゆえ、斬ってつか わしたばかりー何で、拙者、そなたに|危害《きがい》を加えようー1 それよりもー」と、いゝかけて、乾きついた咽喉を、咳ば らいをして「な、この五助、是非とも、そなたと、たった二 人、人知れず、相談することがあるーそなたの胸の中も、 よううけたまわって、|悪《あ》しいようにははからわぬ。拙者の行 くところまで、これから、同道してたもるであろうな?」 「は、はなしてー」と、浪路は、抱き締められながら、骨 太な|腕《かいな》の圧迫や、毒々しい体熱のぬくもりに、言うばかりな い嫌悪を感じて、相手の言葉が、耳にも入らず悶えた。 「お 放しなされてーわたしは、行かねばならぬところがー」 「は、は、はー例の、雪之丞とか申す、女がたの評へであ ろうーそれもよかろうー親も、家も栄華も捨てて、それ ほどに思い込んだ男の許へ、決して、まいッてならぬとは申 さぬーーが、まず、拙者の話を聴いてからになされたい。決 して悪い話ではない。お為めになることだ」 「いゝえ、わたくしは、是非とも、まいらなければー」 「なりませぬと申すに!」と、五助が、やわらかな肉体との 接触に、毒血が沸き立つように、「浪路どの、子供だくと思 ううちいつか、恋にも|狂《くるオ》うようになられたを見ては、拙者、 これまでのそなたと、考えられなくなった。ー浪路どの、 悪しゅうはせぬほどにー-i」あゝ、いとわしい、顎ひげが、 少し伸びた顎が、|實《やつ》れた頬に触れるのだ。浪路は、わめこう とするーもはや、わが身の上を考えて、じっとしてはいら れないのだ。その口に、かゝえた手の、手先を押し当てた五 助ー「えゝ! おしずまりなさいーどうしても、拙者の 望みを叶えてもらわねばならぬ。ど、どうせ、河原者風情 に、|汚《けが》されてしまうみさおだ! 浪路どの、拙者、洒落に、 物をいっているのではござらぬぞ」  ーわ、う、う、う!  と、出ぬ声を出そうと、あせり切った浪路-  ーおのれ、不所存な! 子供のころから、さも小父のよ うにも物をいゝおりながら、畜生道に、|堕《お》ちたか、おのれー  いつか帯の間をワナワナとふるえる手がさぐる。帯の間に は、肌身はなさぬまもり刀1その体温を宿した柄を、ぎゅ っとつかみ締めると、もう一度、身をもだえで、 「う、う、う、おはなしーなさらぬとー」 「は、は、は、悪あがきは止めになされ。横山五助、やさしゅ うして貰えば、あとでかならず恩がえしはいたしますぞ」 一三 白く、やさしく、 しかし、憤怒と嫌悪とにワナワナと震え る手に、われを忘れて、短刀の|柄《つか》を、つかみしめた浪路とも 知らず、横山五助、なおも、しつッこく、顎ひげののびた頬 を、|擦《す》りつけるようにしながら、 「のう、悪しゅうはせぬー悪しゅうはせぬに依って、拙者 にも、やさしい言葉をかけて下されーわるく、おあがきな ら、止むを得ぬーこのまゝ、この場より、松枝町のお屋敷 にお供するまでじゃーな、お屋敷に戻られてしまえば、今 度こそ、座敷牢。さもなくば、大奥へ、ふたゝび、追いやら れねばならぬおからだでござるぞiIな、そこを、ようわき まえてー-拙者、くだくしゅうは言わぬ。そなたが、これ までに|大人《ひと》になったとは、知らなんだー」抱きしめてはな さず、かきくどくのを、浪路は、振り放そうと、なおも身を もんで、やっと、口を押えた手から自由になると、 「横山さま! わたくし、どうしても、いそいでゆかねばな らぬところがiーいずれ、また、後の日にー」 「ふ、ふ、の、後の日にーとは、あまりな言葉1そなた は、その役者のもとへゆかば、今度こそもろ共に、かけ落ち もいたしてしまわれようーいっかな、放せぬ! さあ、拙 者とともに1騒がば、お屋敷へお供する外、ござらぬぞ!」 「では、どうあっても、おはなし下さらぬのでござります か!」浪路は、声まで、青ざめているようであった。が、相 手は、せゝら笑って、 「放さぬとも!放しませぬとも! さ、こうまいられ!」  引きずって行こうとした、その刹那、どう浪路の片手が動 いたか、ヒ首の、|鍔《つぼ》まで、|心元《むなもと》を、ぐうッと突ッこまれた五 助1 「わあゝ」と、わめいて、女を突きはなし、よろくと、よ ろめいて、しばし|恢《こら》えたが、急に、ガクリと膝を突いてしま った。 「う、う、う」と、血刀を捨てた手で、胸を抱いて、 「わ、あゝ! よくも!おのれー」どうにかして、立ち 上がって、飛びかゝろうとするらしかったが、それが出来な い。片手を、土に、もがき苦しんで、ぐたりとつんのめッて しまった。浪路は、血に染んだ懐剣をにぎりしめたま\棒 立ちに、見下ろしていた。もはや、うめきも、ブツブツと、 血が|湧《わ》く音にまぎれてしまった。闇は、血のいろを見せな い。が、生ぐさい匂いが、プーンと、たゞよいはじめた。  -わたしは、人を殺してしまった。  と、考えたが、悔いも起らぬ。  ーIIけだもののような人ーー何という浅ましい1  当然だーと、いう気持になっていたが、歯の根も合わ ず、ガチガチと、上下の顎が、打ッつかって、立っていられ ぬように、|脚部《きやくぶ》が力を失った。彼女は、血まみれの守り刀 を、投げ捨てたかったけれど、指が、|柄《つか》に食いついてしまっ てはなれない。それを、指を一本々々折るようにして、やっ と放して、|藪《やぶ》の中に、投げ込んだが、突然、おそわれるよう な気持になって、バラバラと駆け出した。いつか灯が消え、 戸も|閉《しま》った居酒屋の前を駈け抜けるころ、彼女の息ざしは、 絶え六\に|喘《あえ》いでいた。 一四  横山五助の、最後のうめきが、まだ耳に残っている浪路、 気も|上《うわ》ずって、闇の|小径《こみち》を、それぞ音羽の通りと思われる方 lt. '土7 角を指して、ひた駆けに駆けつゾけたが、息ははずむ、|動悸《トこ つき》 は高ぶる、脚のすじは、|痙《ひ》き|蟹《っ》ッて、今はもう、一あしも進 めなくなるのを、やッとのことで、町家の並んだ、夜更けの |巷路《こうじ》まで出ると、  ーウ、ウ、ウ、ワン、ワン!  と、突然、吠えついた犬ll人こそ殺したれ、かよわい女 気の、小犬が怖さに、また、やぷけそうな心臓を、|快《たもと》で押え て急いだが、小犬はどこまでもと、吠え慕って、やがて、そ れが、二匹になり、三匹になる。いずれも、寝しずまった、 小家の軒下に眠っていたのが、仲間の小犬がー  1血くさいぞ! |怪《あや》しい奴だぞ!  と、わめくので、目をさまして、  1おゝ、いかにも血が匂う! 奇怪な女めだ!  1のがしてはならぬぞ! 吼えろ、吼えろ、人間の役人 とやらが、見つけるまで、翫えろく。  とでも、いゝ合って、うるさく、まつわって来るのであろ う。浪路は、今は、髭の根も抜けたー後れ毛は、ほつれか かった。|棲先《つまさき》が乱れ、穿いていたものも失くしてしまった。 犬どもならずとも、行き合うほどのもの、怪しみの目を|膵《みは》ら ずにはいないであろう。果して、かなたから、空かごをさし 合って、どこぞで、一ぱいきこしめして、一ばい機嫌らしい かごかきどもが、来かゝったのが、 「おッ! |美女《たぽ》が、犬に追われているらしいぜー」と、先 棒が、いって、足を止めると、 「なに、|美女《たぽ》が犬にーおッ、なるほど1犬だって、美女 は好きだあな」と、答えて、 「おい、ねえさん、駈けちゃあ 駄目だ、逃げちゃあ駄目だ!どこまでも追っかける。先 棒、犬を散らしてやろうぜL空かごを投げ出して、後棒が、 息杖をふりかざして、飛んで来て、「しッ!しッー.畜生! なぐるぞ! ぷち殺すぞ!」と、三四匹の、野良犬を追ッぱ らって、立ちすくんだ浪路に目をつけて、「ところで、ねえさ ん、この夜更けに、おひろいじゃあ、犬も|眼《つ》きやすぜーど こまでか知れねえがおやすくめえりやしょう、おのんなせえ な」と、言うところを、先棒も近づいて、 「犬を散らして上げた御礼というのじゃあねえが、どうだ、 安く、御乗んなすってll」 「まあ、|穿《けき》ものもなにもねえじゃあありませんかー」と、 後棒。 「へ、へ、へ、この夜更けに、夫婦喧嘩と出なすって、飛出 して来やしたのかい? 犬も喰わねえというに、あいつ等あ、 馬鹿に食い意地の張った犬どもと見えるーへ、へ、へ、ど っちみち、お里へなり、いろ男のとこへなり、おいでになる ところでしょうーヘ、へ、へ、そのなりで、夜みちを歩い たら、自身番が、只はとおしやせんぜーへ、へ、へーお のんなすって」浪路も、いくらか気がしずまると、どうせ指 してゆく、浅草山ノ宿とかまで、歩いて行けるものでもない と思った。 「はい、のせて、貰いましょう」       一五 「おい、ねえさんが、乗ってくださるとよ」と、先棒、「どち らまででござんすね!」垂れを下ろそうとしながら訊く。 「浅草、山ノ宿とやらまでーー」 「へえー」先棒が、にやりと笑ったが、 「とやらまでー だとよ、さあ、いそごうぜ」顎をしゃくったが、その顎の長 さーこの寒気に、尻ッ切れ半纏一枚、二の腕から、胸か ら、太股一めん、青黒い|渦《うず》のようなものが見えるのは、定め て雲龍の文身でもしているらしく、白目がきょろついている 男だ。うなずいて、 「どれ、その、とやらまで11一ッ走りか?」肩を入れた後 棒は、ほり物は無いが、頬ッペたに、傷のあとのある、異様 な面相。二人は、もう二度と目と目を見かわす必要もなく、 お互に、これから先きの行動を、以心伝心、のみこみ合って しまったのだ。■まさか、たった今、人を殺して来た娘と知れ ば盗んで逃げようともしなかったであろうが、何分にも、人 も寝しずまった真夜中、夜目にも、白い花が咲き出したよう な、しかも、それが、取りみだし切ッているうつくしいすが たを見たので、持って生れた棒組根性、このまゝには、見の がせぬと思ったらしい。何分にも、浪路も、重なる不仕合 せ、このかごが、町かごで、提灯にちゃんと店の名でもはい っていたのならよかったが、仕事がえりに、一ぱいやった上 がりの、内藤新宿の雲助ども、街道すじでも、相当に悪い名 を売った奴等につかまったのが因果だ。この一挺のかご、走 りは走り出したものの、先棒の|趾先《つまさき》は、いつまでも、浅草の 方向を指してはいないのだ。東南に、急ぐべきをあべこべ に、西北へ、  ーホラショ!  ーホイヨ!  と、走りつゾける。どこをどう駈け抜けたか、淋しい組屋 敷がつゾいている。牛込のとッぱずれのだらノ\坂を、とう にすぎて、こゝは、星かげも|都《ひな》びている抜弁天に近い田圃中 ー一軒家があって、不思議にも、赤茶けたあんどんに、お 泊り宿1お泊り宿とは名ばかり、小ばくちの宿をやった り、兇状持、お尋ね者なぞの、隠れ家になったりしている、 お目こぼれの悪の巣で、お三婆あという、新宿の、やり手上 がりの|佗住《わぴずま》いだ。そのいぶせき軒下に、かごが、とんと下り て、 「おまちどおさん」後棒、先棒、ぎょろりとした目を|見交《みかわ》し て、冷たく笑った。バラリと、上げた垂れーのぞき見た浪 路がーー 「こゝは?」 「こゝは、山ノ宿」ー 「では、この辺に、大阪下り雪どのの1中村座の雪之丞ど のの宿があらばとーたずねてたもポ」浪路が、一生懸命 な調子でいう。 「ナニ、雪之丞の? へえ、あの名うて|艶事師《ぬれごとし》の? いえ、 なに、これが、恰度、その、雪之丞さんの、宿屋で、こぜえま すよ。へ、へ、へ」先棒が、つかんだ手拭で、ちょいと、|額《ひたい》 を拭くようにして答えた。       一六 「出なせえよ、ねえさん、さあ、こゝが山ノ宿、たずねるお 人のお宿ー」と、一人がいって、垂れの中の、白い顔をの ぞき込んでいるうちに、後棒が、どんくと、お三が宿の、   入口の雨戸を叩いて、   「ばあさん、お客さまだー早いとこ、あけてくれ」ドン、  ■ドン、ドンーと、手ひどいひゾきに、中から、まだ、寝つ   いてはいなかったらしく、   「おい、今あけるッたら、荒っぽくされちゃあ、曝れた戸   に、ひゾがはいってしまわあな!」と、鐵枯れた調子。ゴト  リとあいて、   「おや、丑さんだね?」   「うむ、それから、為だ」   「おそいね?」と、のぞき出した半白半黒、それをおばこに  結ったのが、ばらくに乱れて、細長く|萎《しな》びた、|疎《まぱ》ら歯の婆   さんーその顔が|提灯《かんばん》の灯に、おぼろに照らされて、ばけ物  じみている。「して、お客ッてえのは?」   「さあ、ねえさん、出なせえったらー」と、後棒ーさて   は、悪い雲助に、かどわかされたーと今更、思い知った浪   路、逃れるにも逃れるすべもなく、かごの中に、小さく身を   そばめ、しっかと、細い手で、|枠《わく》につかまっている、その白   い手を、つかもうとして、 「さあ、こんな寒いところにいね   えで、うちの中へおはいんなせえよーな、わるいようには   しねえんだll-ねえさんー出なせえよ」   「後棒、何を、やにッこいことをいっているんだ?」と、先  棒が、これは手荒く、ズカズカと寄って来て、 「これ、娘、  出ろッたら出るんだ? 夜よ中、町中を、気ちげえ見てえな  なりで、ほっつきあるいているから、折角、こゝまで連れて㍗ 来てやったんじゃあねえか? あッたけえ、火の側に寄せて                                くそ   やろうというんじゃあねえか? 出ろ! 山ノ宿も、糞もあ るものか?」後棒が、|猫撫《ねこな》で声で、 「さあ、兄貴が、あんなにおこるじゃあねえかー騒いで見 たってこゝは、こんな田ん圃中、どうなるもんだ。痛てえ目 を見るだけよーな、出なせえーさあ、出してやるぜ」 「あれー」と、かじかまるのを、肩から襟へ、ゴツゴツし た手で、抱きすくめて、引きずり出して、 「これ、あばれるな! |脛《はぎ》が出らあな! 白いもの、赤いも の、ちらくするなあ、おれ達にゃあ目の毒だ」 「ふ、ふ、ふ、ふ」と、婆さん、|疎《まば》らな歯を、|剥《む》き出して笑 って、 「丑さん、為さんと来ちゃあ、すごいね。おゝ、お お、いゝお子だこと1美しいことー婆は、六十何年生き たけれど、こんな美しいむすめの子を、見たことがござんせ んよ。ひ、ひ、ひ、さあ、どうぞ、お娘御、おはいりー火 も、|熾《おこ》っているーお茶もあるー1こんなあばらやへ、よう こそーひ、ひ、ひ」浪路は、もだえ狂ったが、何分にも、 さっき、あれ程げ|惑乱《わくらん》のあとで、身も|萎《な》えくと、今は、抵 抗の力もない。引きずりこまれてしまった、赤茶けた畳の、 見るもいぶせき一軒家の中。       一七  ことによったら、返り血さえ浴びたまゝまだ干かず、血し おの匂いも移っていよう、殺人の美女を|行灯《あんどん》の灯かげに近く 眺めながら、髪の艶やかさ、頬の白さ、まつ毛の長さ、居く ずれたすがたのしおらしさに、目を奪われ、魂を盗まれた、 二人の|破落戸《ならずもの》、一人の慾婆、そうした秘密を嗅ぎ分けること も、見わけることも出来ず、たゾ、めいくの煩悩、慾念 に、|誕《よだれ》も流さんばかりの浅ましさだ。 「何だねえ、丑さんも、為さんも、こんなおうつくしい|女《ひと》を さっきのような、野太い声で、おどかしたりしてさ」と、お 三婆さんは、妙にねばっこい調子で、|気棲《きづま》を取るようにいっ て、 「なあに、お前さん、この人達は、見かけこそ荒っぽい が、気はなかノ\やさしい方でねーひ、ひ、ひ、やさしい というよりのろい方でね、ひ、ひ、ひ」 「のろいッて1人を!」と、丑が、苦ッぽく笑って、「婆 さん、べらくしゃべっていずと、一本つけな」 「あいよ、わかったよ、ねえさんだって、寒いわな。熱いと ころを、早速つけるがね。それにしてもまあ、こんなお子 を、どこから拾って来たのだね?」 「なあに、犬に|吼《ほ》えられていたのさ」と、為が、 「はだし で、|髭《まげ》をくずして、夜みちで、犬に吼えられているのを見 ちゃあ、日ごろの|侠気《おとこぎ》で捨てちゃあ置けねえ」 「ひ、ひ、ひ、いつものおとこ気でね!結構な性分、さ ぞ、後生がいゝこったろうね!まあ、何と言っても、こゝ へつれて来てくれたのは、結構なことだ。ねえさんも安心だ し、あたしもうれしいしーどっこいさ。早速、熱いお銚子 をねー」立ち上がって、台どころで、ガタガタはじめる 婆。乳母が、かくれて棲むにいゝように、町家風俗をさせた 浪路、ちょいと見には、町むすめとしか思われないが、丑が 顔をかくした|挟《たもと》をつかんで、 「これ、おむす、いゝ加減に観念しねえか?」と、引っぱり よせようとするのを振り切って、 「放しや! 下郎!」と、いったその調子は、たしかに、彼 等をおどろかせたに相違なかった。 「ナニ、放しや! 下郎ーだって!」と、わが耳をうたが うように、丑は叫んだが、あッ気にとられたような顔をした 為と、思わず顔を見合せて、「こいつ、何をいやがるんだ!」 「兄貴」と、為の目には、絶望のいろがうかんで、がっかり したように、「こいつあ、見そこなったぜ、気ちげえだぜ! え、兄貴!」 「なるほど、さっき、役者の名をしきりと言っていやがった が、芝居ぐるいから、ほんものの、気ちげえになっているの かー」と、丑も、思いちがえて、そんなことをつぶやい て、うなずいたが、妙な笑いで、すさまじく顔を|歪《ゆが》めて、 「気ちげえだって、為、いゝじゃあねえかーてめえ、気ち げえをいろにでも持って、手を焼いたことでもあるのか」 「馬鹿いえ」 「そんなら、おたげえに、七十五日生きのびるって初物だ ぜ。けえって、おもしれえや」       一八 「そりゃあ、そうだとも、気ちげえだって|普通《たく》の女だって、 恋に狂えば紙一重ーーどうせ、おら達だって、|食《く》い|酔《もよ》や、気 ちげえだでなあーへ、へ、へ」と、相棒も、いやしく笑っ て、 「気ちげえの、|普賢菩薩《ふげんぽさつ》なら、正気のすべたと、|比《くら》べも のにゃあならねえや。ふ、ふ、ふ。こいつあ馬鹿におもしろ くなったぞ。ねえさん、さあ、|炉《ろ》の|栂火《ほだび》に、おあたんなせえ と言ったらー」と、しつッこく手を取るのを、又も、引ッ ぱずして、浪路は、 フ一 「無礼もの! 退れと言うたら!」つと、立ち上がるのを、 引きすえるあらくれ男たち、 「へ、へ、へ、おひいさま、まあ、そう、お腹を立てねえで lII」 「えゝ、かしましい! わが身を何と思うー」ぐっと、二 人を睨みすえた瞳は、|呪《のろ》いといかりとに、どす赤くいぶる。 が、もし、この目の光が語る真の意味を、読み取るものがあ ったとすれば、|傑然《あつぜん》として、|肌《はだ え》に粟を生ぜずにはいなかった であろう。二人の雲助は、最初から、狂女と思いあやまって しまっているのだが、今、この刹那、浪路はたしかに正気を 失ってしまっているのだ。正気の女性が、かくもすさまじ く、かくも乱りがわしい瞳の色を見せるはずがないのであ る。 「そちたちも、わが身の手にかけて貰いたいかや? あ の、憎らしい横山のようにi」彼女のうめきの|怖《おそ》ろしさ! だが、あぶれものたちは、世にもまれな美女の色香に、酔い |悶《もだ》えて、言葉をはっきり聴きとることもしない。 「ひ、ひ、ひ1手にかけてくれるとおっしゃるのかねー こいつあたまらねえー早く、手にかけて貰れえてえー ひ、ひ、ひ、こいつあたまらね苓lI」と、為がしなだれか かろうとしたとき、婆さんが、|燗酒《かんざけ》を、自分も傾けながら、 「まあ、そんなに荒っぽくしなさんなIIねえさんは、上ず っているだけだあね1落ち着けば、正気になるかもしれね えi」と、制して、「それより、もっと、ぐんくお|飲《あが》り よ、楽しみは、ゆっくりあとにした方がたのしみだ。どうせ あとで売物、|壊《こわ》しちゃあ駄目だ」 「いゝや、そんなにしちゃあいられねえーなあ、為」と、 丑ーこやつ、慾情に目が|据《すわ》って来ている。 「アてうともそろ とも。婆さん、おめえ、只、飲んでいりゃあいゝんだ。さあ ねえさん、あっちへいこう」為と丑、相手がもがけばとて、 叫ぼうとて、ためらう奴ではないー二人、左右から取りつ いて、腕をつかみ、胸を抱き、 「放せ! 無礼もの1」と、叶わぬ身に、|身悶《みもだ》える浪路を、 奥の方へ、引きずって行こうとするその折だった。二人が、 浪路をかついで潜ろうとする、汚れ切ったのれんのかなた で、 「やかましい! |蛆《 つじ》むしめら!」と、ドス太い声。 「何だ、わりゃあ!」と、丑が、目を|剥《む》く。婆さんが、立て ひざで、 「坊さん、わるいところで、目を|醒《さま》したねし       一九  |否《いな》もうと、叫ぼうと、手どり足どり、木賃宿の奥の一間の 暗がりに、美しき浪路をかつぎ入れようと、荒立って、のれ ん口へかゝった、丑、為の雲助、突如として、鼻の先きで、 野太い声が、そうきめつけたので、少なからずたじろいだ が、利かぬ気の丑、 「おッ! どいつだ! どいつが、ひとの讐め立てなんぞし やがるんだ!」 「わしじゃ! わしが訊いているのだ」と、ぬッと突き出さ れた、いが栗あたま1眉太く、どんぐり目、口大きく、肩 幅は、為、丑二人を合せても敵うまい1六尺ゆたかの大坊 主li|素布子《すぬのこ》の、襟のはだかったところから、胸毛がザワザ 一) ワと伸びたの迄が見える。 「う、うぬたあ、何だ!」と、為が、たじろいで叫んだと き、気早の丑が、拳固を突き出して、 「どけ! 糞坊主、この界隈で、知らねえもののねえ、おれ 達のすることに、ケチをつけやがると、腰ッ骨を叩き折る ぞ! おれさまたちのなさること、九拝三拝、|数珠《ずず》をつまぐ って、拝見していろ」 「ふ、ふ、ふ、ふ」と、坊主は、大きな鼻の孔から、|暴《あら》しの ような息を吐き出したが、それが微笑なのだ。 「大した勢だ の? だが、兄いたち、まあ、夜よ中の、じたばたさわぎだ けは止めて貰おうかい。何をしてもおらあ知らねえーが、 野ッ原もねえじゃなし、おれの寝ている部屋へ連れこまれ ちゃあこまるんだ。わかったか?」 「何を!」どんなものにも、したいことを|妨《きまた》げられ,るのが、 一世一代の誇りを傷つけられるかのように思い込んで、いの ち懸けになるのが、雲助、がえんの根性だ。 「この野郎lI」浪路を、為にあずけて、撲ってかゝった が、振り上げたこぶしがとゞかぬうち、手首を逆につかまれ て、「あ、い、て、て、て!」 「どうだ!かゝるかーこう、雲助、この腕は、こうや りゃあ、おッペしょれてしまうぞ!」 「い、て、て、て1」と、丑はおめいたが、あやまりはせ ず、 「為、|助《す》けねえかーこの坊主、叩き斬ッてしめえi」 「よし! 承知の|助《すけ》だ!」ぐったりと、気を失ってしまって いる浪路を、投げ出すように下に置くと、.為、きょろノ、見 まわしたが、台所にはしり込んで、何か光るものをつかんで 飛んでかえって、「坊主!」と、振りかぶったのが、出刃庖擁 Tlだが、駄目だ。大坊主は、丑のからだを|楯《たて》にして、為 の方へ突きつけるように、 「ふ、ふ、ふ、この友だちが斬りてえかーさあ、斬って見 せろ! これ、斬って見せねえか!おい、雲!斬れッた ら、こいつを斬れ! 斬らねえと、貴さまの素ッ首を引き抜 くぞ!」あべこべに、為は|脅《おど》かされて、振り上げた出刃庖丁 の下しようもない。そのありさまを、冷たく笑って、欠け歯 をむき出して、茶碗ざけを、ぐびり/、やっていたお三婆I iニヤリとして、 「これ、島抜けの! 許しておやりよ、そいつらは、それで なかく気のいゝやっこさん達なんだよー丑さん、為さ. ん、あやまっておしまいよ。不向きな相手だ」       二〇  !島抜けのー  と、お三婆は、呼びかけた。では、今、のれん口からあら われて、雲助二人を突きのけ、ひねり|什《たお》した、この巨大漢、 いがぐり坊主ー鉄心庵の、淋しい夜ふけ、闇太郎から預か った、女賊お初にたぶらかされ、盛りつぶされて取りにがし た、かの、法印であるに相違ないのだ。そうだーまぎれも なく、これぞ、島抜け法印だった。いまさらおのが愚かさ、 淫らさのために打ち負かされたことを恥じ、もがいて、どう しても|屹度《きつと》、おのが手に、お初を生きながら取りもどし、闇 太郎の前に引きずってゆかねばと、誓いの手紙をのこし、姿 をかくした彼の、その後の成行こそ、あわれと言えば哀れだ った。お初どもの巣という巣、立ちまわり先きという立ちま わり先き、あまさず、姿をやつして探ね廻って見ているが、 彼女の消息は絶えて聴えぬ。何でも、川向うの荒れ寺で、何 かたくんでいるところを、役向きに乗りこまれ、すでに危う かったとは聴き知ったが、勿論素早いお初、まんまと捕もの の網の目を潜って、行方知れずーこれだけのことを探り出 したのが、あれから今日までの、やっと、収穫だ。闇太郎 は、相変らず、浅草田圃に、象牙を|彫《いじ》っているようだ。一二 度、そっとのぞいて見たが、さすがに声もかけそびれて、戻 ってしまった。して、今夜、さまよいの果てが、お三婆の宿 の近くまで来たので、一夜のやどりを求めて、はからず、寝 耳をさまされたこの始末なのだ。 「ねえ、法印、そッとして置いてやっておくれよ。折角二人 して、いゝ玉を、わたしのところへ連れて来てくれたのだか らさ」お三婆に、重ねていわれて、法印、ちょいと、仕置き の手をためらったところを、さては、この坊主、婆さんに、 何か弱い尻でもあって、手出しが出来ないものとでも見まち がったか、丑ー 「何の、この坊主、邪魔立てひろげやがってー1」と、わめ くと、振りはらって、歯をかんで、又も、打ちかゝってゆ く。為も、しがみついた。 コのれさ! 家の中であばれちゃあ、戸障子が、こわれる じゃあないか!」と、お三婆は、立ちさわぎかけたが、その 心配には及ばなかった。 「は、は、虫けらめ!」と、法印、ニヤリとしたと思うと、 左右から、撲りかゝる二人の雲助の、耳たぷを両手で、ぐっ とつかんだと思うと、  ーガツン!  と、思い切った、鉢合せー目から火が出たような気がし たが、脳髄がジーンと、打ち割れもしたように覚えて、その まゝ、二人とも、グタリと、つぶれてしまった。 「死んだかい?」と、眉をひそめるお三婆。 「なあに、死にあしねえよーが、どこまでも、|性懲《しト うこ》りのね え奴等だー」島抜け法印は、そう咳やくと、面倒そうに、 二人の雲助の|帯際《おぴぎわ》をつかんで、左右にひッさげて、のッしく と、出口まで歩いて、「婆さん、戸をあけてくれ」お三が、 おずくあけた戸のあわいから、ーズーン! と、ほうり 出して、|唾《つぼ》を吐きとばした。「おとゝい、来い」 二一  美しい娘を、折角連れ込んで来てくれた、言わば、福の神 のようにも思われる、丑、為、二人を、島抜け法印、|襟髪《えりがみ》つ かんでほうり出すのを見たとき、お三婆は、物すごい目つき をした。彼女みずから|脅力《ちから》があれば、法印のうしろからむし ゃぶりついて肩先きにも噛みつきたいと思ったようであった が、案外、雲助どもが、手足が利かず、たちまち敗亡して、 「い、てゝ! 畜生! くそ坊主! 覚えていろ!」 「やい! 今度あったら、生かしちゃあ、置かねえぞ!」と、 わめきながら、軒下に捨ててあったかごを拾って、いのちか らがら逃げ去ったのを見ると、急に、|阿諌追従《あゆつい しトモり》のわらいで、 薄気味わるく、歯の抜けた口ばたを痩がめるのだった。 「え、へ、へ、へーまあ、法印さん、おまはんの強さとい うもなあ、うわさに聴いていたようなものじゃあないね1 何んとも、おどろき入りましたよ。あの、丑、為ときちゃあ、 内藤新宿でも、|狂犬《やまいぬ》のようにいやがられている連中、それ を、何とまあ、二人一度に|征討《せいとう》して、外へほッぽり出してし まったのだから、おまはんの、底ぢからは、程が知れないね ーところで、法印さんー」と、茶碗を突きつけて、「ま、 息つぎに、一ぱいいかゞ?」こやつ昔はいずれ、宿場でも叩 いた上がりか、年にも似合わぬ色ッぼい声でいって、銚子を 取り上げる。法印は突ッ立ったまゝ、手を振った。 「おらあ、酒はのまねえよ」 「えッ! おまえさんが、お酒を呑まぬ? まあ、ほ、ほ、 ほ-法印、|桝《ます》からでなくては、呑まぬのかい?」 「いや、やめたんだ?」と、モゾリと答える。 「おまえが、お酒をやめたって!」と、心から、びっくりし た顔。 「ほんとうだよ、|正真《しようしん》とも!」と、法印は、いくらか力無げ に、 「おらあ、酒を呑み㍗あ、きッと、やりそくなうーい や、もう、大した間違げえをやらかしたんだ。それで、|般若 湯《はんにやエヤフ》はおことわりにしたのよ。だから、呑まねえ」 「へえ、そりゃあ又!」と、お三婆は、持った銚子で、自 分の|杯《さかずき》に充して、 「じゃあ、あたしは手酌でいた冥くがね ーそれはそれとして、法印さん、このお三婆のことは、あ の奴等をあつかうようにはなさるまいね?」 「あの奴等をあつかうようにとは?」 「丑や、為は、|屋外《そと》へ、うっちゃられたが?」 「だって、あいつ等あ、雲助じゃあねえか? おめえは、こ の宿屋の主人だーどうして、おれが、あんなことをするは ずがあるものか?」 「まあ、うれしい!」と、お三、とん狂な調子で、叫んで、 「それでこそ、さすが立派なお人だというものだよ。悪党 も、大きくなりゃあ、仁義を知らなけりゃあねー」 「悪党?」 「わるかったかね?こ止、婆は、ますく、薄気味わるく笑 って、 「なあ、いろく相談があるーすわっておくんなさ いよ。ねえ、法印さんーあたしだって、こんなときには、 なかくいゝ智慧が出るのだよ」       二二 「お酒を、やめておしまいになったというなら、法印さん、 何か甘いもので、お茶でもいれましょうねーまあ、お坐ん なさいったらさ」婆さんは、くりかえした。 「うむ、だが、あの娘御を、あのまゝ、ころがして置いたの ではi」と、島抜け法印、ぐったりと、のれん口にうつぶ しのま\一に什れている、|砕《くだ》かれた花のような浪路の方をかえ りみた。 「いゝえ、大丈夫でございますよ、この婆あが、おあずかり した以上はねー」と、お三は、また、|疎《まぼ》らな歯を|剥《む》き出し て、ニタリとしたが、手早く、火鉢の|熾火《おき》をかき立てゝ、 「さあ、お湯も|沸《た》ちますから、坐っておくんなさいよー御 相談があるんだからさ」坊主は、坐った。お三婆は、ぐっ と、顔を突き出すようにして、 「ねえ、法印さん、この婆さ んを、忘れちゃあいけませんよーなるほど、あの雲助たち が、かつぎ込んで来て、おッぱらわれたには、相違ないが、 この宿の家の中での出来ごとなのだからねllそれだけは、 忘れずにおくんなさいよ」 「何をいっておるのやら、わしには、よくわからぬがー」 と、モゾリと、法印がいう。 「まあ、|葵《たぱこ》でも上がってーソラ、お茶もはいりました」婆 さん、|萎《しな》びた両手で、茶と、煙草をすゝめて、じっと、みつ めて、 「おまえさん、とぼけたり、はぐらかしたり、しッこ なしにしておくれよ」 「別に、はぐらかしも、とぼけもしやあしねえ!」法印、 煙草はことわって、ガブリと茶を呑んで、 「何を考えている のだね? 婆さんは?」 「ひ、ひ、ひ、ひ」と、例の笑いを、笑った老婆、 「いかに おまえさんが、御法体の、上人さまでも、こんな宝を、折角 手に入れて、そのまゝになさるはずがないと思うのですがね ーーお前さんだって、島抜けの何のとまで|紳名《あだな》を持った、お 人じゃものなーひ、ひ、ひ、ひ」 「ふうむ、この女子のことを、いっていなさるのかな?」 と、法印、浪路に目を送る。 「そうともさ、あの女子のことさー」と、婆さんは、酒く さい息を吐いて、 「あれほどの宝を、見すく、手もふれず 置く法もあるまいがね」 「なあに、わしは、あの女子から、家ところを訊きたゞし て、連れ戻ってやるつもりなだけよ」と、法印が手短に答え る。 「何ですって! 坊さん! あの|女《ひと》を、連れ戻してしまうん ですって?-」婆さんは、噛みつくように、「へえ、そりゃあ、 おまはんの気持も読めないわけではないさ。見たところ、豪 家の}人むすめッて風俗さーー連れて行ってやりゃあ、ま あ、包み金にはありつくだろうが、それでこのあたしはどう なるんですえ?」|濁《にご》った目を見すえて、 「このお三は、どう なるんですよう?」 「いや、わしは、礼物を、あてにしているわけではないー ゆきがかりゆえ、面倒見てやろうと思うばかりー」       二三  お三|婆《ぱト》は、どうしても、法印の本心がわからぬというよう に、 「ねえ、島抜けのーまさか、おまはん、本気で、うちへ連 れてもどすの何のといっているのではあるまいねー!若し、 そんな後生気を出したのなら、大馬鹿ものだ」 「どうしてな?」 「どうしてといって、おまはんは、自分が、ソレ、天下のお 訊ね者ではないかー娘がいなくなったどこへ行った、大変 だ11-と、わめき立てているところへ、この|女《ひと》を連れて、の っそりと、あらわれて見なさいよ。町内の岡ッ引き、目明 し、待っていた11で、お礼を頂戴するどころか、お縄を頂 戴してしまいますよ。それよりもサ、まあ、今夜は、落ちつ いて、あたしと二人で、前祝を一ぱいやッて、明日になった ら、この婆さんにおまかせなさいー屹度、うまく、この玉 の始末をして、しばらくぶりで、光ったものの山わけが出来 るようにしますからーさあ、|断《た》ったお酒でもあろうが、約 東かために一ぱいー」 「いゝや、婆さん、おれは、本気でこの娘をとゾけてやる気 なんだよ。雲助の手から奪い上げて、自分のふところをぬく めようとするような、そんな半ちくな悪事は、これまでして 来たことのねえおれなのだ」 「おや、大そう、意気なことをおっしゃるねえ」と、婆さん は、唇を食いそらした。 「それじゃあ、おまえさんは、どう あっても、この娘を、この家から櫻っていこうというのか い?」 「撰うも櫻わねえも、大たい、婆さんと何のかゝわりもねえ こった」 「与つん、えらそうにーようし、覚えておいでi」どこ まで、図太いお三婆だか、そういうと、つと、立ち上がった が、裏戸に行って、水口の雨戸を開けようとする。ガタガタ やっているうしろから、法印が、 「婆さん、何をはじめたのだ?」 「勝手にさせておくれ。あたしはつい、そこまで行って、島 抜けの法印さんというえらいお方が泊っているということ を、知らせたい人があるのだからーー」 「ほう、岡ッ引きへな! は、は、じゃあ、何だな、婆さん、 このおれが後生気が出ているようだから、おどしにかけて も、いのちを取るようなことはねえーと、高をくゝったの だな! ふ、ふ、ふ、いうまでもなく、いのちも取らねえ、 なぐりもしねえーだが、おれは、思い立ったことは何でも |行《や》るのだ。そして、邪魔になるものがありゃあ、それを取ッ ぱらうんだ!」と、言いさま、ぐっと、婆さんの肩をつか む。 「あれ! 何をするのさ! 手を出す気かい!」 「手も足も出しゃあしねえーちょいとの間、じっとしてい て貰えばいゝのだ」 「およしよ! あれ! どろぼうだよう!」と、叫び立てる のも、一さいかまわず、ぐっと引き寄せると、腰の手拭を取 って黄々しく猿ぐつわ。 「手荒くしたくはねえが、婆さんがさわぐからーあとで、 自由になれたら、訴えるもよし、訴人もよしだ。まあ、しば らく、じっとしていて貰れえてえ」両手両足を、くゝし上げ て、大戸棚の中にころがし込んで、両手を塵を払うように叩 いて、「わからねえ婆さんだ。息が苦しいだろうによ」 二四  お三婆をぐるく巻きの猿ぐつわ、押入れに、突き込んで しまった島抜け法印、耳をかたむけるようにしたが、 「まず、これで、ねずみの外には人の邪魔立てするものもな い」  と、つぶやいて、のれん口の、赤茶けた畳の上に、ぐったり と、手足を伸べ、裾を乱して、絶気している浪路に近づくと、 |行灯《あんどん》を引き寄せて、じっとのぞき込んで、口に出して「ほう ほう、これは、うつくしいーあでやかだ、落ちのこった髪 飾り、途方もない上ものだ。こんな女の子がよる夜中、江戸 の裏町をあるいていれば、今の雲助ならずとも、そのまゝ 黙って通そうとは思われぬ。不用心々々ーとかく、つゝし レ」 、之 Jご 晋 むべきは、色の道1-南無阿弥陀仏」と、殊勝げに言って見 て、 「それにしても、早う呼び生け、また、あぶれ者が、申取 って返さぬうち、無事に家まで送り届けてやらねばならぬ」 近づいて、抱きおこそうとするが、その手つきは、まるで、 砕けやすい|陶物《すえもの》か、散りかけた花をでも取り上げようとする かのように、あぶなげだ。  1これ、うっかり触って、細い骨でも折るまいぞ。  と、自分にいゝきかせているように、何度かためらったが、 やっとのことで、抱き上げて、膝の上に、ぐたりともたれか かる、仰向きの美女の、|鳩尾《みぞおち》に、荒くれた太い指を、ソッと 当てたようだった。その、ソッと当てたと思った手の力が、 梱手に、どれほどひfいたか、 「う、うッ!」と、うめいて、身をもだえるようにして、目 が、薄く開く。 「お女中! 気がついたかな?」すぐ、鼻の先に、突き出さ れている、大きなく|髪《ひ  げ》ッ|面《つら》-1ー娘は、何と見たであろう? 見るく大きく|膵《みひら》いたが、二度目のおどろきに、又しても、 気を失ってしまいそうだ。 「これ! びっくりしちゃあいけねえよ、おれが、たすけて やったのだ。雲すけも、お三婆も、おれが征討してやったの だ。これ、お女中、水なぞ飲むか? 安心しなせえ、おらあ、 こんな荒くれ坊主だが、悪いこたあしねえよ11-」島抜け法 印、一生懸命だ。「おらあ、おめえさんを呼び生けてやった のだ。安心しねえよi決して、わるいようにはしねえのだ ーきあ、けえるうちはどこだ? また悪者が来ねえうち、 届けてやる1行きてえところはどこなのだ? 早ういわッ し! お女中!」この法印の、一心の親切、やっとのことで 通じたか、浪路は、いくらかわれに返った風で、相手の抱き しめから自由になろうとする。「おゝ、坐りてえか? 坐ん なせえ、大丈夫かな」浪路を、畳に下ろして、のぞき込んで、 「さあ、出かけよう1歩けねえなら、おれがしょって行っ てやるーどこへ行きてえのか? ここにいちゃあ、ために ならねえー」 「あの方のところへー1雪どののところへー山ノ宿li」 と、かすかに浪路が、いったがまだ、気が乱れていると見え て、フラフラと立ち上がって、「あれ、放しや! 汚らわし い!」 「仕方がねえなi」と、法印、|困《こヤつ》じ果ててつぷやいて、 「兎に角、その山ノ宿へ送ってやろう」 暗 刃       一  こゝは、浅草山ノ宿、雪之丞が宿の一間、冬の夜を、|火桶《ひおけ》 をかこんで、美しい女がたと、ひそひそと物語っているの は、堅気一方、職人にしても、じみすぎる位の|扮装《なり》をした象 牙彫師の闇太郎ー 「どッち道、いよく、枝葉の方は、おのずと枯れて来たわ けだね」と、闇太郎が、いっている。 「浜川の奴は、抜きも 合わせねえで、何ものとも知れぬものに、殺されたというの で、これは、土部の一味が、骨を折ったにも|拘《かちわ》らず、多分、 伜まで、取りつぷしになるだろうという事さ。いかにのん気 な老中以下の役人どもとて、大凡、浜川たちのして来たこと に、気がついているらしく、これを|機会《しお》に、絶家させるのだ ろうといっているがねーL 「それにしても、広海屋が焼けている最中、塀を越して忍び 込んだ、浜川殺しの当の長崎屋-11一たい、どうしてしまっ, たのでござんしょうね?」と、雪之丞、気にかゝるように、 伏目になる。 「そいつが、おめえに頼まれてから、手を代え晶を代え、探 って見ているのだが、どうにも、見当がつかねえのさ」と、 小首をかしげるようにした大賊。 「おゝ方、おれのかんげえ じゃあ、広海屋の悪だくみで、火の中に投げ込まれたか、そ れとも、ひょッとしたら、河岸から舟に|載《の》せられて、海へ突 き流されたかーたった一ツ、生き残っているとすれば、倉 |庫《ら》に閉じこめられているものか? この方も、そのうちにゃ あ、調べ上げてしまうがねー」 「どうぞ、お願いいたします」と雪之丞は会釈したが、 「そ れにしても、おっしゃるとおり、だんく枝葉が枯れてゆき ませば、大根を絶つのも難くはないと思いますれどー一が いに、根をねらい、末々を討つことかなわねば、これまでの 苦心もと存じ、|像《こユリ》えている苦しさも、長いものでござりまし た」 「おゝ、これで残っているのは、武家で土部をのぞけば、横 山ばかり」と、闇太郎が、口をはさむ。その二人、その横山 五助、時も今夜、あの恋に狂った浪路のために、一息に殺さ れてしまったとは知る由もない。 「それもおッつけー」と、雪之丞、|含笑《わら》ったが、その笑い が凄い。 「だが、やっぱし、油断がならぬのは、あのお初の奴と、門 倉平馬だーお初は、おめえが、今でも諦め切れねえから、 感づいている大望についちゃあ、平馬にも|洩《も》らしてはいめえ が、でも、あいつ、おめえを殺すか恋を叶えるか、二つに一 つと、思いつめているんだから、油断はならねえ」雪之丞は、 白い顔を伏せる。彼は、因果を感ぜざるを得ぬ1敵の娘の 浪路の、いのちかけての狂恋ーおたずねものの女賊の必死 の恋-iいずれも、あわれだが、どうにもならぬ成行だ。と、 |屋外《そりこ》で、深夜、暁闇のしずけさを破って、  ードン、ドン、ドン、ドン!  と、旅宿の雨戸が鳴る。ハッと身を起し、耳をすました闇 太郎、みじん、油断のならぬ身の上だ。  ー-ドン、ドン、ドン、ドン! 「何だ? 今時分?」大賊は、曝いて、|階下《した》の容子に耳をそ ばだてた。       二  立ち上がって、|階下《した》をのぞき下ろすように、耳をかたむけ た闇太郎1 「何だって! 妙なことを言っているようだぞ」と、つぶや いた。つぶやいたも道理ーまだ、起き出さぬ家人を、目ざ まそうと、  ードン、ドン、ドン、ドンI  無遠慮に雨戸を打ち叩きながら、太いこえが、|呼《よぱ》わってい 一) るのだ。 「このおうちに、大阪役者が、泊ってはいないかな! 大阪 役者、雪之丞1」闇太郎は、振り返って、 「何かと思ったら、おめえをたずねて来たものがあるらしい ぞIiおめえの名を言っているがi」 「いまごろ、何人が?」 「そら、言っているだろうー聴くがいゝ」外のこえは、つ づいているー 「大阪役者の雪之丞どの、用のあるものが来たのだー」 「おッ! なるほど、たしかに、わたしにー」と、雪之丞 の美しい|眉《まゆ》がひそむ。 「待っていなせえ。おれが、のぞいて来てやろう」深夜の、 雨戸の音ーもしや、自分をいつ何どき襲って来るかわから ぬ、怖ろしい敵の手が、迫ったのではないかと、渡世柄、ハ ッと、心を引きしめたらしい闇太郎、そうでないとわかると、 すぐに|階下《した》へ出て、やがて、はしごを表口の方へ下りて行っ た容子だ。寝入りぱなの家人は、まだ、起き出さぬらしい。 雪之丞も、おのずと、聴き耳が立つ。階下のこえ、闇太郎が 出て行ったので、低くなったから、ハッキリとしなくなった が、気になるので、雪之丞、はしごの下り口まで出て行った。 すると、屋外の、太いこえがー 「ーでね、どうあっても、その、雪之丞という人に、今夜 中にあわなけりゃあ、生きるの、死ぬのと、いうわけなの で、おいらあ、たゾ親切で、こゝまでつれて来たのだがー」 「で、その女子という人のお名前は、おところは?」と、闇 太郎、すっかり職人になって、丁寧な口をきいている。 「そいつがわからねえんでねi実あ、おれの方も、途方に 暮れていますのさ」と、屋外。闇太郎が、|喧《わら》うように、 「困りますねえーそんな方を、夜よ中引ッぱッておいでな すっちゃあー-こちらは、役者渡世、そんなお人にかゝり合 っていては、夜の目もろくく合いませんよ。へい」 「何だって! じゃあ、おいらが、そのかわいそうな女子を、 連れて来たのが、迷惑だって言うのかね!」 「まあ、そんなものでございます」闇太郎が、こんなに言う のも、冗談沙汰ではないのでー雪之丞にも、お初という、 今は大敵のようなものがいる。その方から、どんないたずら を、仕掛けて来ないともわからないのだ。屋外の声は怒っ た。 「何だと! 迷惑だと! 人でなし! てめえが、かわいそ うな女のすがたを一目見たらーおい、てめえ、当人か、番 頭か!」と、わめくと、闇太郎、そのとき、 「おや、おめえの声にゃあ、聴きおぼえがあるようだがー」       三  ーたしかに聴き覚えのある声だー  と、闇太郎が、思わず、そうつぶやいたとき、戸外の相手 も、ギクリとしたもののように叫んだ。 「あゝ、そういやあ、おまえさんの声にも、覚えがあるが ー」 「誰れだ? 名乗れ」 「おッ」と、外の男は、わめいた。 「こいつあいけねえ! おまはんは!」逃げ足が立った容子! 闇太郎もハッキリ 2/ と、今こそ思い出して、ガラリと、遠慮なく、雨戸をあける と飛び出して、 「おめえは、法印! 何で逃げるー1」島抜け法印、まるで 思いも懸けぬところで闇太郎に再会したので、尻尾をつかま えられている相手ー怖い相手1お初を捕え得ぬうちは、 顔の合わせられぬ相手ー逃げようとして、足が動かず、立 ちすくみになってしまったところを、闇太郎の、すばやい手 が、グッと、腕をつかんだ。「何で逃げるー法印!」 「親、親分、許しておくんなせえ!」と、法印、白い息を吹 き散らして、しどろもどろだ。 「貴さまあ、何だな、法印、あの|女《あま》ッ子のーお初の奴の手 引をして、不細工に、夜よなか、この宿屋まで、引ッぱって 来やがったのだな?」と、闇太郎の声は刺すようだ。 「あの|女《あま》、手をかえ、晶をかえやがって、さもしおらしい娘 ッ子が、恋に狂って飛び込んで来たもののように装いやがっ たのだな! 馬鹿め!」 「冗、冗談じゃあねえi親分1おらあ、あれから、あの 女ッ子の行方をさがして、どうにかしておめえに詫びが入れ てえと、夜の目も寝ずに、寒いく江戸の町を、それも、こ のおれが、大ッぴらにゃああるけねえおれが、ほッつきまわ っている気持を知ってくれたら、おめえは、そんなにまで、 いわねえだろうに1親分、そりゃあ、全く、思いちげえだ」 と、島抜け法印、泣かんばかりのオロオロ声だ。 「いゝや、そんな泣きごとで、誤魔化そうとしたって駄目だ i思いもかけねえこの宿屋に、ちっとは骨のあるこの俺が 居合せたんで胆を抜かれて、いゝ加減な出たら目で、人をだ まそうとしやがるんだーー法印、悪どすぎるから俺の方でも ゆるさねえぞ!」 「い、ち、ちーー」  と、法印の盤台づらが、闇の中で歪むのだった。「そんな に、腕をつかまねえでも、逃げやあしねえ、ゆるめてくれ ー」 「弱虫め! ちっとも力なんぞ入れてやしねえー-その弱虫 が、何でまた、あんな女ッ子とグルになって、おいらほどの ものに煮湯を呑ませようとしやがったのだ! して、連れて 来た、お初は、どこにいるんだ?」 「お初じゃあねえよ1親分1お初なんかじゃあねえのだ ーふとしたことから、雲助に、ひでえ目に逢っている娘を 助けて見ると、そいつが、この辺の宿屋に泊っている、上方 下りの雪之丞という、役者に惚れて、何でも、気が狂ってい るらしいのよ。あんまり可哀そうだし、けえる家もねえよう なので、よんどころなく軒別に、宿屋を叩いて、その雪之丞 を探しているんだ。お初なんかじゃあありゃあしねえよ」法 印は、一生懸命にしゃぺり立てた。       "       口  思わぬところで、顔と顔とを見合せた、闇太郎と島抜け法 印、宿屋の軒下の暗がりに、声はいくらか潜めながらも性急 な、隙のない会話のやりとりだ。 「ふうむ、役者をたずねて、雲助にかどわかされた、あわれ な娘をたすけたというのは、なかノ\後生気が出たものだ が、一てえ、その娘の身許は、何ものなのだ?」 「そいつが、何しろすっかり気が昂ぶって、取り止めもねえ ことばかりいっているのでーー大した高慢な口を利くだけ で、わけがわからねえi」と、法印は、しょげて、 「何で も、舞台を見て気がふれた、芝居気ちげえに相違ねえー人 にさんざ苦労をかけながら、早う雪どのの、ありかを探して たも1早う逢わせやーと、来るんだよ」 「へえゝ1」と、闇太郎は、笑いそうになったが、急に何 を思い当ったのか、むずかしげに層を寄せて、 「して、その 娘は、どこにいるんだ」 「あすこの横町にかごを置いて、おれが方々、宿屋を叩いて いるわけさ」 「どれ、 一目その娘をのぞいてやろう」 「親分がか?」 「うむ、まん更心当りがねえでもねえのよ。まあ、逢って見 ねえことにゃあー」闇太郎は、三斎隠居のまなむすめ、大 奥で飛ぶ鳥を落すといわれた浪路が、すがたをかくしてしま ったことを知っているー-・その失腺の原因についても、雪之 丞から打ち明けられている。彼としては、恋に狂い、恋に生 き、恋に死のうとして、一身を|牲《にえ》にしてはゞからぬ、その浪 路という娘の激しい執着の心根を、あわれなものに思わぬこ とはなかったのだ。同時に、どこまでも雪之丞が、彼女の愛 を、払いのけて行かねばならぬ、胸の中をも察して、思いや りの腕組を、何度したかわからぬのだった。  Il若し、法印が、救った、高慢な口を利くむすめが、浪 路とやらであったなら!  その時には、どうしたものか、まだ、咄嵯の場合、闇太郎 にも決心はついていない。しかし、このまゝ知らぬかおで、 突ッぱなすこともならない気がした。 「親分が、肩いれをしてくれるとなりゃあ、おいらあ、安心 だー大船へ乗った気になれるーさあ来て下せえーあす この軒下にいるのだからー」法印は、闇太郎の、手を取ら んばかりにして、物蔭につれてゆく。かごが一挺ー法印 が、近づいて、バラリと垂れを投げるように上げると、その 中に、ぐったりとうつむいていた|砕《くだ》けかけた花のような、白 い顔が、はッとしたように、急に上がって、 「お! 雪どののありか、わかったかや!し 「これだ、親分」 「うむ」闇太郎は、のぞいて見て、つと離れると、「法印、 この娘にゃあ、おれがちょいとゆかりがあるんだーーあとで 判る1一時、このおれに、あずけてくれ」 「えッ! 親分に、ゆかりのある|女《ひと》! これがか?」と、法 印は、呆気に取られた。 「うむ、まかせてくれーなるほど、あわれな身の上なん だ」 五  闇太郎はもう一度、かごの中をのぞき込んだ。 「お娘御、お前さんのたずねる人は、あっしが、よく知って いますがね、今のところ、ちょいと、逢ってはならねえこと になっていますーそりゃあ、芝居をのぞけば、何でもねえ のだが、お前さんも、人に顔を見られちゃあいけねえからだ だろう1屹度、このあっしが、一度は逢わせて上げますか ら、今夜だけ、辛抱しちゃあおくんなさるめえか? ねえ、 お娘御? 何分、夜更けだしー」浪路は、かごの中から、 |強《きつ》い目つきで、闇太郎をみつめたが、大分、気が落ちついて 来ているようだった。 「そなたのいやる言葉は、うそのないひ冥きがあるように思 われますー屹度、うけ合ってたもるのうーでも、あまり 長う待ってはいられぬような1何となく、もういのちの火 がつきかけて来てしまっているように思われてならぬゆえー ー」と、それこそ、消えがての、ともしびよりも|果敢《はか》なげな 風情でいった。闇太郎は、わざと、笑って見せて、 「冗談いっちゃあいけませんよ。その若かさで、いのちの火 が消えるのなんのとーそんな、馬鹿なことをII」と、い って、 「じゃあ、法印、このお人を、 一あし先きに、おれの うちへ連れて行っておいちゃあくれめえかーおれの細工場 へよー」 「あい、じゃあ、田圃へ、連れて行くが、おまはん、すぐ に、あとから来るかね?」と、法印は、かよわい女一人をあ ずかっているのが、心許なげだ1見かけによらぬ気の弱い 奴。 「行くとも、すぐ、用をすまして行く、お娘御、狭くッて、 きたねえが、あッしのうちで、ゆっくり手足をのべて、おい でなせえ」かごの|垂《た》れを下げて、 「法印、そんなら、人目に 立たねえように、たのんだぜ」「あいよ」淋しい、提灯の |灯光《あかり》を見せて、遠のいて行くかごを見送って、闇太郎暗然と して咳いた。  1!おれにゃあ、どうも、あの娘ッ子は、憎めねえ気がし てならねえ、妙なめぐり合わせで、わが産みの親を、かたき と思うものとも知らず、いのちがけで惚れてしまった、あの 子に、何のとががあろうーあわれな女だ。どうにかして、 たった一夜でも、みょうとにしてやりてえが、それもならぬ か1浮き世だなあー  闇太郎に言わせれば、彼自身もほんの行きずりの|避遁《かいニう》が縁 となって、こんなにまで打ち込まねばならなくなった雪之丞 だーまして浪路は、夢多き一少婦、身分も境涯も、この恋 のために忘れてしまったのも無理からぬことと思われ、そし て|同情《おもいやあ》の念を起さずにはいられないのであろう。宿屋に戻っ て行くと、二階の雨戸が、細目に開けられていたのがピタリ としまった。  ー太夫も、気がついていたらしいな。  二階へ上がって、雪之丞の、白い顔と合うと、 「何ともどうも、あわれな人に逢って来たぜ」 「御面倒ばかりかけまして!」と、雪之丞も暗くいった。 「いゝや、そんなこたあどうでもーだが、どうも、こう見 えておれという奴は、気が弱くっていけねえのよ。は、は、 は」笑いにまぎらして、闇太郎が、「鬼の目に、涙ッて奴な んだろうな」       六  二人は顔を見合せるのを怖れるように見えた。 「まあ、仕方がねえや1不運だなあ、あの女一人に限った ことじゃあねえんだーだがなあ、雪さん」と、闇太郎は、 思い込んだような調子で、 「お前のからだがあいたあとで、 ≡}一.薄4冷佳牙 産『量■r     {1 たった一度でも、ゆっくり逢ってやってはくれるだろうなあ ーそれだけは、約束して置いてもれえてえのだがー」 「おたがいに、いのちがありましたならー」と、雪之丞 は、かすかに言った。彼の魂としても、感じ易く、わなゝき 易いーそして、これまで、押えくて来て、一ぺんも、激 しく|撹《か》き立てられたことがないにもせよ、青春の、熱い血し おは、心臓に|液《みなぎ》っているのだ。ーーあのお人は、境涯のため にどんなに|汚《けが》されているにしても、わるい方ではなかった。 わたしを思ってくれるこゝろに、まじり気はなかった。  雪之丞の、胸も淋しい。闇太郎は、急に、語調を、ガラリ と変えた。 「は、は、は、とんだ幕が、 一幕はさまってしまった。それ じゃあ、又、あいましょうぜ。もう、風は、得手だ。潮は、 一ぺえに充ちている-li思い切って、帆をあげて、突っぱし りなせえよ。蔭ながら、じっとみつめているぜ」 「ありがとう。今度こそ、立派に大詰まで叩き込んでつとめ て御覧に入れましょう」と、雪之丞も、強いたほゝえみで答 えた。すんなりと、送って出た雪之丞を、あとにのこして、 闇太郎、さも律儀な職人らしく、寒夜に、肩をすくめるよう にして、出て行った。部屋に戻ると、一間はなれた部屋の、 菊之丞、雛枯れた咽喉が軽く|咳《せ》くのがきこえて、ポンと、灰 ふきの音i 「おや、お師匠さま、お目がさめてでござりますか?」 「おゝ、たった今、|醒《さ》めたところー」と、しずかに答え て、 「何やら、人が見えたようであったなーあの|牙彫《けぼサ》の親 方のほかにーー」ハッと|報《あか》くなって、雪之丞1 「ま㍉  `しー」 「まず、これへ、はいるがいゝ」かすかに娃き捨ての香が匂 うたしなみのいゝ、師匠の寝間にはいると、菊之丞、紫の|滝 縞《たきじま》の丹前を、ふわりと羽織って、床の上に坐っていたが、 「たずねて来たのは、女子衆の使でもあったようだがi」  絶えず、|愛《まな》弟子の上に、心をくばる、老芸人の心耳に狂い はない。 「は!はい」と、雪之丞はうなだれて、 「不仕合せなお人 が、たずねてまいったように見えましたがー」 「わしはな、何も、そなたの胸に、やさしい波がうごいたと て、それを、責めるのではありませぬぞーが、女子のこと が出れば、わしは、そなたの母御の、かなしい御最期のもの がたりを、思い出さずにはいられないのじゃ。そなたの母御 が、松浦屋どの御零落に際して、あの土部三斎どののため に、どのような|虐《しいた》げをうけられて、御自害をなされたか1 1」菊之丞の声は、掠れた。が、彼は語らねばなるまいー 愛弟子の魂に、塵かでも弱まりがあらわれたのを見た瞬間に 十●{ 七  思いがけぬとき、菊之丞が語り出した、なつかしい母親 の、長崎表での、悲惨な最期の物語ーその限りもなく、暗 く、いたましい追憶を、今更、思いいださせようと強いるの は、浪路の身の上があまりに哀れに、かなしく、それゆえ、 彼女に対するおもいやりから、ほんの少しでも、雪之丞の復 讐心に、|弛緩《ゆるみ》が来てはならぬとの、懸念からであるには相違 なかった。しかし、母親の死に方は、あまりに怖ろしかっ た。 「のう、わしが、事あたらしゅう、いうまでもないことじゃ がー」と、老いたる師匠は、煙管を捨てて、 「悪党ばら の、甘言|好謀《かんぼう》の|牲《にえ》となった、松浦屋どのの、御不運のはじめ が、|密輸《ぬけ》出|入《に》の露見1それと見ると、あの人々は、これま で、おだて上げ、|唆《チコ》り立てていたのとうら腹に、おのが身 の、身じん幕をまたゝく間につけ、父御にのみ、罪を被せた ばかりか、御取調べの間の御入牢中をいゝ機会に日ごろか ら、そなたの母御の容色に、目をつけていた、土部三斎- 浪路どのの父御が、そなたの母御を屋敷に招いて、さまぐ うまいことを並べた末、|操《ムさお》を任せなば、父御の罪科を、何と もいいこしらえて、のがれ得させようとの|強面《こわもて》1ーそのとき の、母御のおくるしみ、お歎きは、いかばかりであったろう ぞ! 三斎の意をうけた同類が、どのように、母御をおびや かしつづけたかも、思うてもあまりがあるーとうとう、長 崎一の|繰緻《き トでつ》よし、港随一の貞女とうたわれていた母御は、あ たら、まだ|成女《おんな》ざかりを、われとわが身を殺してしまわれた のじゃーな、雪之丞、それを忘れはいたされまいな?」 「はーいー」と、雪之丞は、とろけた|鉛《なまゆ》が、五臓六脇を 焼きたゾらせるばかりの苦しみを、じっと押し|泳《 ニリ》えながら、 「おぼえておりまするII母親の、あのむごたらしい死にざ まを、子供ごころに、たゞ怖ろしゅうながめました晩のこと は、ありくと胸にうかびまする」 「そうであろ、いかに|頑是《がんザ》ないころであったにいたせ、生み の母御の、知死期の苦しみを、ひしと身にこたえなかったは ずがないーかの三斎どのこそ、父御を|陥《おと》しいれたのみでは なく、母御を手にかけたも同然のお人じゃー」と、菊之丞 は、きびしく言ったが、ふと太い息をして、 「とは申すもの の、あの浪路どのに、何の罪もないのは、わしとても、よう 知っている。あわれは、あわれじゃーが、これが、宿業i i因果ーと、申すもの。せめて、敵討を遂げる日までは、 かの人の父親を仇と思うそなただということを知らせずにす ませるのが情でもあろうがー」そう言った菊之丞。自分 も、限りない淋しさ、はかなさに打たれたものか、「いや、 はなしが、沈んで来た。そなたも眠うないならば、その棚 に、御贔演よりいたゾいた、保命酒がありました。あれな ぞ、汲みかわして、しばし語り合おうぞえ。幸い、芝居も休 みであればー」雪之丞、涙をおさえて、茶棚からとり下ろ す、酒罎、杯1  いよく大事の迫った今日お師匠さまと、こうしてお杯を いたゞくも、これが限りになろうとも知れぬ。  甘い、とろりとした杯をしずかに傾けながら、言葉少なく 語り明していると、ふと、|階下《した》で、又しても、荒々しく、戸 を叩く音。 八  深更、暁明、二度目の、音ないの響きに、今度は、宿屋 の、|不寝番《ねずぱん》も、うたゝねから目を|醒《さま》されたのであろうー臆 病窓があく音がして、何か小さい、.曝きがしたが、やがて階 段を上がって来る足音i 「おゝ、どうやら、そなたのところへ、また人らしいがー」 5, つ幽 と、雪之丞を見て、いった、菊之丞のこえを耳にしたか、若 い衆が、 「若親方、起きておいでですか?」 「はい。起きておりますがー」と、雪之丞が答えると、障 子の外で、 「浅草田圃から、急の用で来たという方が、お見えでー」 もう、来訪者は、何人か、二人にはわかった。 「こゝでも、いゝだろう」と、菊之丞が言った。 「では、どうぞ、これへl」雪之丞の言葉に立ち去る若い 衆1すぐに、入口の戸が開いて、上がって来たのが、廊下 で、 「若親方、わしだがー」闇太郎の声だ。雪之丞が、障子を あけて迎え入れる。闇太郎と菊之丞-名乗り合ったことは ないが、以心伝心、雪之丞を中心にして、もうとうに其の底 まで読み合っている。 「親方、御免なせえ」と|暁明《よあけ》の客は、菊之丞に、ちょいと、 頭を下げると、「雪さん、あの人は、いのちが覚東ねえー」 と、ひと言、 「えッ! いのちが!」と、さすがに、美しい女がたの面上 に、驚きのいろがうかぶ。 「うむ、いままで、張り詰めていた気持の糸が、もうやり切 れなくなって、切れかけちまったようにおれにゃあ見えるの だがI」闇太郎は、低い、すごい調子で、 「なにしろ、人 一人、あの人は、今夜殺して来ているのだ」菊之丞も、息を 詰めた。雪之丞は、 「ま! 人をー」と、叫びかけて、声を呑む。 「うむ、あれから、田圃のうちへ連れて行って、無理に、横 にならせると、すぐに、大熱で、うわ言だーそのうわ言 が、只の台詞じゃあねえー」と、闇太郎は、いつもの快活 さをすっかり失くして、「途切れくに言うのを聴くと、あ の人は、隠れ家を、横山五助に見つかって、つけ廻され、う るさくいい寄られるので、カッとなり、突き殺して来たらし いのだ。そういわれて、気がつくと、右の袖裏、儒祥の袖 に、真黒な血しぶきのあとがあるーたしかに、横山を手に かけて来たものにちげえねえのさ」雪之丞の頬は、紙よりも 青ざめた。彼には|頓《とみ》には返事も出来ぬ。何という、怖ろしい |輪廻《あんね》だろうー彼が自分みずから手を下さぬのに、若し闇太 郎の言葉が真実とすれば、二人の仇敵は、すでに他人の刃で いのちを落してしまったのだ。長崎屋に刺された浜川。浪路 に突き殺された横山。  ーそなたの|怨念《おんねん》が、人に乗りうつッての仕業なのだ。  と老師匠の、じっとみつめる目が、言っているように思わ れた。 九  人間、怨執のきわまるところ、わが手を下さずして、おの ずと、仇敵を亡ぽすことすら出来るという、この怖ろしい|実 例《ためし》を、さま六\と耳にして、雪之丞はもとより、師匠菊之 丞、肌えに|粟《あわ》を生じ、髪の毛も逆立つ思いで、見えざる加護 者に対して手を合せないわけにはいかない。雪之丞は、さ も、こゝろよげな、亡き父、亡き母の、乾いた笑いが、修羅 の炎の中から聴えて来るような気がして、涙が流れて来た。 「あッしも、全くびっくりしやしたよ」と、闇太郎は、菊之 丞を眺めて、「まあ、あのやさしい細い手で、横山五助のよ うな荒武者を、一突きで、突き殺せるたあ、だれにだって、 思いもよらねえこッてすからな」 「うむ、なにごとも、み|旨《むね》でござりましょう」と菊之丞が、 うなだれていう。と、闇太郎が、語調をかえて、 「で、そんなわけだから、どうも、あの娘のいのちが、おい らにゃあ、気になってならねえのさ。人間、とても及びもつ かねえことを仕遂げると、そのあとじゃあ、命脈がつゾかね えこともあるーな、だからよ、雪さん、ちょいとでいゝ、 あの人の枕元にすわって、さぞ辛かったろうなあーと、た ったひと言、言ってやった方が、いゝだろうと思うんだがー 1」雪之丞も、かわいそうだ、あわれだ、このまゝに捨て殺 しには出来ない気がするーけれども、彼は、師匠から、つ い、今し方、言われたばかりだ。心弱くては、この復讐の大 事を、成し遂げられぬであろうことをーそして、まだ、ま だ、大敵は、残っているのだ1土部三斎は、立派に栄えを つゾけているのだ。返事をしかねていると、師匠が、儒祥の 袖口を、そッと目にやったが、 「そういうわけなら、雪之丞、行って見て来てやるがいゝと 思うがー」 「は、では、まいッてもー」 「うむ、浪路どのとやらは、あまりに可哀そうだーわしも な、長い浮世を見て来たが、こんなに涙が出たことはこれま で覚えがないー」 「お師匠さんのお許しが出たら、雪さん、すぐ行ってやって くんなよーそりゃあ、よろこぷぜ。あの人.にゃあ、この世 で、おめえだけしか用がねえんだーおめえが顔せえ見せて やりゃあ、よろこんで、地獄へでも、血の池へでも、下りて 行くだろうよ」闇太郎は、もう、膝を立てて、 「支度も何も いらねえ、そのまゝでーかごは、拾って来た」 「では、お師匠さま、行ってまいりまする」と、雪之丞は、 手をつかえて、|愁然《しゆうぜん》と立ち上がる。門口から、すぐに、かご に乗る、雪之丞、かごに引き添って、|片棲《かたづま》を、ぐっとはしょ って、走りだす、闇太郎、 「おい、若い衆たち、いそぐんだぜ。生き死にの病人が待っ ているんだ!」 「合点だ!」またゝく間に、山ノ宿から走せつけた、田圃の 小家ー1かごが着くと、肩をすくめるように、出迎えた法印 ー闇太郎、いつになく囁やくように、 「どうだ? 病人は?」       一〇  しお垂れ切った顔をして、出迎えた法印を眺めて、闇太郎 が、 「ど、どうした? 病人は?」 「それが、だんく、もう、高い声も出さなくなってしまっ たんだ11おらあ、いつ息でも引き取るかと、一人で、心ぺ えで、おっかなくってならなかったよ」 「おっかねえッて! 何をいってやがるんだーさあ、雪さ ん、お上がり」男手で、それでも、温かい|臥床《ふしど》に、横にして やったー浪路、|髭《まげ》も、|髪《ぴん》も、|崩《くず》れに崩れて、|蠣《ろう》のように、 透きとおるばかり、血の気を失い、|灯《ほ》かげに|背《そむ》いて、目をつ ぷっていたが、どうやら、なるほどもう、死相を呈してしま ったらしく、げっそりと、頬も顎も|削《こ》けていた。「なあ、か わいそうじゃあねえか1公方さまの、|寵姫《おもいるの》とも言われたひ とがよー」闇太郎は歎息した。雪之丞は、そう言われる と、まるで、手を下さずに、このひとを殺して行くような気 がして、何とも言えぬ|罪科《つみとが》を感じないではいられぬのだ。 「でも、この人は、言っているんだぜ。おめえに逢って、ほ んとうの色恋ッてものを知ったのだから、かなしいけれど、 満足だってーもう、命脈が、たえかけていることもちゃん と知っていなさるんだーさあ、雪さん、何とか、言ってや んねえな1医者を呼ぶより、薬より、それが一ばんだー 生きけえるものなら、おめえの一声で生きけえるーなあ、 何とか言ってやれよ!」闇太郎しきりに気をもんでいる。雪 之丞は、|背《そむ》けたかおを、のぞき込むようにして、 「浪路さま!浪路さま!わたくしでござりますぞ!浪 路さま!」それこそ、このまゝ、灰白く、|凍《こお》って行ってしま いそうにも見えた、まぶたが、かすかに動いた。ある|痙轡《けいれん》の ようなものが、|竃《やつ》れ果てた美女の口元をたゞよって、そし て、やっとのことで、いくらか目が開けられた。雪之丞は、 顔を近々と、迫ったこえで、 「浪路さま! 浪さま! 雪之丞で、ござりますぞ! おわ かりになって下さりませ!」 「いゝえ」と、いうように彼女は、死色を呈しながら、かぶ りをふるようにした1出来るなら、近づけられた顔を、遠 のけたがっているようである。 「どうなされたのでござります! しっかりなされませ」か ぼそい、聴えるか聴えない程のこえで、生気を失いつくした 美女はいった。 「わたくしは、人殺しー1どうぞ側におよりにならずにー」 闇太郎も、法印も、むこうを向くようにして、拳固で、目を 引っこすっていたー苦労を積んだ男たちだから、恋に狂 い、恋に死ぬおんなの、世にもあわれな気持は十分にわかる に相違なかった。「わたくしに、寄らずにーねー」雪之 丞は、浪路の、細いく手くびをにぎったー 「いゝえ、このお手で、人を殺しなされたとて、わたくしが 何でいといましょうーそれもこれも、わたくしが、おさせ 申したことですものi」 「じゃー人殺しでも、いゝと、お言やるのか?」やっとの 努力で、彼女はいって幾らか|微笑《ほモえみ》のようなものを、土気色の 唇に浮べるのであった。 一一 「あなたが、どんなことをなされましても、何で、わたくし が、さげすんだり、|厭《きら》ったりいたしましょう」握らせた手 を、じっと握り締める力もなく、たゞ、精一ぱい、思い一ぱ い、瞳をさだめて、みつめていたいという、努力だけが、関 の山のように思われる、浪路を、雪之丞は、わッと泣いてや りたい気持を、無理に押し|像《こら》えて、やさしく見返してやるの だった。 「ねえ、浪路さま、しっかりあそばして、|快《よ》くなっ て下さりませーな、その中、屹度、楽しい日もまいりまし ょうほどにー」彼は、こうした言葉が、とてもこの世では かなわぬ夢を語っているのだとしか思われない。〃、していつ わりを口にせねばならぬ自分を、責めずにはいられぬ。けれ ども、彼自身の魂の奥底を、そのとき流れている真情に嘘は ないのだった。  ーそうだ! 来世で、わしたちは仕合せになれるかも知 れぬ1未来というものがあるならば、そして、|父《エしし》さまも、 |母《かち》さまも、先きの世では、このひとと、したしくすること を、許してくださりもしょう。 「雪-雪どのー」浪路の口元が、そう動いて、凹んだ目 には、涙が一ぱいにあふれかけていた。 「わたしは、早う、 失せとうてならぬi死んでしまえば、魂とやらのみのこる というーそうしたら、いつもくそなたと一緒にいられる ほどにー」プてう言ってしまうと、もう、精魂もつき果てて しまったように、彼女は、目をつぷった-涙が、見栄もな く、目尻から流れて、雪之丞の手先をやっと握っていた指 が、異様に痙簗しはじめた。 「あッ! いけねえ」と、法印が、あわてたようにいった。 「医者を! どこからか! 医者を見つけて来なければー ー」立ちさわごうとするのを、闇太郎が、低く、沈痛に制し た。 「止せ!」 「だってー」 「止せってことよ! このひとのいのちは、太夫に呼びもど すことが出来なけりゃあ、誰にだって、呼び返すことは出来 ねえのだー」彼は、涙が頬を洗うにまかせていた。 「それ に、なあ、この世ってもなあ、だれに取っても、そんなに無 理に、生きのびることもねえものじゃあねえかー生き伸び たって、苦しいばかりよーな、法印、そうじゃあねえかI l」 「うむ、μ、う言やあ、そうだな?」と、島抜けがうめくよう に咳やいて、うなずいた。 「かわいそうなお人なんだーだから、たった今だけでも、 しずかに、やすくと眠らせて上げてえと、おらあ、思うの だよ」そうだー闇太郎こそ、この|権門《にんもん》に生れて、父兄の慾 望の|餌《えば》となり、うわべだけの華麗さに充たされながら、|煩《わずら》わ しく、暗く、かなしい半生を送らねばならなかった美少婦 の、真実の心の悩みを知っていたのであった。彼は、安息し ようとするものの眠りを、|妨《さまた》げるのを恐れるように、うつむ いて、じっと膝の上をみつめてしまった。雪之丞は、衰えゆ く女の手を握り締めてやっていた1細ッそりした、やさし い手先が、だんだんに、冷えてゆくようであった。どこか で、もう、三|番鶏《ぱんどり》が、孤独そうに、時を告げていた。 一  かぼそいからだと、細い神経で、あらゆる苦難を急激に経 験し、人、一人をすら手に|殺《か》けて、今は活力を失いつくさね ばならなくなった浪路は、恋人に、指先を握られたまゝで、 最期の断末魔と戦うかのように、荒々しい息ざしを洩らすの だったが、やがて、その、呼吸すら、だんくにしずかにな ってゆくのであった。島抜けの法印は、くわしく、浪路の身 の上を知らないに相違なかったが、いわば、因縁のあさから ぬものがあるにはあったのだろうーiなぜなら、この荒法師 の、心やりがあったればこそ、たとい、|最期《いまわ》の|際《きわ》にしろ、彼 女は、雪之丞に、一目だけでも逢うことが出来、その抱擁の 中に、命を落せたのだった。だからこそ、彼の、どんぐり目 からも、滝のように、荒々しい涙がたぎり落ちた。闇太郎は、 唇を噛みしめていた。うつむけた顔は、一めんに、|湿《ぬ》れて、 熱いものが、あとからあとから、きちんと並べて坐った膝の 上に、ぼとりくと落ちつゾけた。雪之丞が、叫んだ。 「浪路さま!」そして、声を落して、 「浪さま1これ、今 一度、お返事をーしだが、返事はなかった。しずかに、燃 えつきた、美しい、細い|灯火《あかぬ》のようにも、彼女のいのちの火 は、燃えつきてしまったのだ。闇太郎が涙を、|邪樫《じやけん》に、振り 落すようにして、 「いけねえか? 駄目か?」雪之丞は、顔をそむけるように して、うなずいた。法印が、立って行って、茶碗に水を汲ん で来た。 「さあ、口をしめしてやんねえ」雪之丞は、ふとこ ろ紙のはしを、水でひたして、浪路の、土気いろの唇をぬら した。闇太郎と、法印も、同じようにした。 「不思議な縁だ ったなあーおれたちもよ」と、闇太郎が、つぶやいた。 「お臼、あ、可哀そうでならねえー」と、法印が、声を呑ん で、「死ぬめえによ、たったさっきよ、あんな雲助なんぞ に、いじめられてーこんな、縞麗なひとが生きるにゃあ、 この世の中は、あんまり荒っぽいんだなあー」そうかも知 れぬ。この世の中が、ある人々に取って、あまりに、生き難 く出来ていることは、いなみがたいのかも知れぬ。たしなみ のある、言わば、風雅な職人でもある闇太郎は、香炉に、良 い匂いのする|練香《ねあこう》をくべた。さみしい香りが、かすかにかす かに、部屋に立ちこめて来た。人々は、黙り込んだ。が、間 もなく、闇太郎が、 「ところでと、このほとけの始末だがー」ためいきをし て、 「枕許で、すぐに言うことではないか知れぬが、このま ま、土に入れてしまうわけにも、いかねえような気がする がー」雪之丞は、闇太郎をちらりと見たが、答えなかっ た。 「このほとけだって、もとのまゝのからだなら、公方さ まに、手を取られて死んだ人だーそれに、いかに何でも、 三斎が鬼でも、蛇でも、親子だからなーどうしたもんだろ う?なあ、太夫ー」       一三  若くして、悲しく逝いた、浪路にして見れば、一たん、そ こから|遁《のが》れて来た、松枝町の三斎屋敷になき|骸《がら》を持ちかえさ れて、仰々しく、おごそかな|葬《はふ》りの式を挙げられようより、 いのちを賭けた雪之丞の、やさしい手に手を握られながら、 うれしく|呼吸《いき》を引き取ったこの小家から、誰にも知らさず、 そっと墓地へ送られてしまった方が、百倍もよろこばしいも のであったには違いない。けれども、残された人々にして見 れば、それは出来なかった。第一、闇太郎には、この小家 に、いかなる人物が住みついているかということを、世間の 人に知られてはならなかった。一日、引っ込んで、仕事場に ばかりいる、変人の象牙彫と、どこまでも、思い込ませて置 きたいのだし、島抜けの法印は、当分の間、人前に、顔を|曝《さら》 せたものではない。雪之丞が、浪路の最期の床に|侍《じ》していて やった、なぞということが知れたら、それこそ大問題なの だ。 「ほとけは、気に染まねえか知れぬが、こいつは、一ばん、 この俺の手で、三斎のところへ、連れて行ってやる外はある まい」闇太郎が、しばしして、モゾリと言った。雪之丞は、 答えなかったが、それよりほか、仕方なさそうに思われる。 闇太郎は、ふと、|屹《き》ッとした目で、女がたを見たー悲哀に 閉ざされた横がおを、強く見た。 「太夫、なるたけ長く、枕 元にいてやった方が、いゝにはいゝだろうが、やがて、夜が 明けると、人目に立つぜ」雪之丞は、ハッとしたようだっ た。あまりに、浪路の散り際のはかなさに、物ごころがつい てから、強く激しく抱き締めて来た、たもちつゞけて来た、 復讐の執着さえこの刹那、淡びはてようとしていたのだっ た。闇太郎、それと見て、ぐさりとヒ|首《ひしゆ》を突きつけたものに 相違ない。 「はい」と、彼は、涙を払って、かたちをあらためて、闇太 郎を見返した。「では、もはや、おいとまいたしましょう」 と、言って、なき|骸《がら》に、一礼すると、法印に、 「あなたさま には、何から何まで、お世話をかけましてー」 「うゝん、何でもねえーやっぱし、おいらも坊主のうちだ ったのかも知れねえよ。この|女《ひと》が、こんなことになって見 りゃあ、最期を始末するのが、おいらの役だったのだろうよ。 あ、は、は」法印は、わざと笑った。 「なあ、雪さん、このほとけは、たしかにおいらが、あずか った。そしてな、大方、ほとけも、悪く思わねえように、何, とかはからってやる。安心しな」と、闇太郎。 「どうぞ、何分にもー」雪之丞は、闇太郎のはからいで少 しはなれたところに待っていたかごに、身をゆだねた。  ーあわれなあわれな、人ではあった。  と、彼は|萎《しお》れる花のようにうなだれる。  ー不運な、不運な人ではあった。なぜ、敵同士のわしの ことが、そんなに恋しかったのか?が、それゆえこそ、浪 路が、大奥まで捨て、父三斎に限りない苦痛をあたえたのだ と思うと、今更|輪廻《わんね》の怖ろしさを、たのもしく思って、亡き 父母の怨念に、手を合せずにはいられない。       一四  翌日、浪路の、北枕の亡骸の側に、法印を居残らせて、ど こへか出て行った闇太郎、道具屋の小僧らしいのに、大きな 箱のようなものを、大風呂敷で、背負わせて戻って来たが、 ひろげて見ると、中から出たのは、|丹塗《にぬあ》に、|高蒔絵《たかまきえ》で波模様 を現した、立派やかな、|唐櫃《からぴっ》だった。丁度、人、一人、|屈《かく》ん ではいれようかという、ずッしりした品物1ー法印が、目を 丸くして、 「すばらしい物だなあ1一てえ、何んにするんで? 兄 貴」 「まあ、黙っていろッてえことよーーとにかく、この|櫃《ひつ》を浪 路さんの部屋へはこんでくれ」そして、死床の側に据える と、蓋を刎ねて、 「さあ、この中へ、ほとけを入れるんだ、 手を貸せ」 「あ、そうか、棺桶がわりかー」法印、命じられるまゝ に、やっと、死後硬直が、解けかゝったばかりの、浪路のか らだを、重たそうに抱き上げて、そッと、櫃の中に坐らせ る。 「おッ! 丁度いゝ、すっぽりと、あつれえ向きだー」 と、闇太郎が言って、 「浪路さん窮屈だろうが、ちょいとの 間、辛抱してくんなせえよ。じき、楽になれるのだからー」 蓋をして、錠を下ろしてしまうと、別に、鼠色の頭巾に同じ栞 布子、仕立て下ろしのを取り出して、 「法印、このサッパリ したのに着けえて、櫃をしょッて、おれと一緒に来てくん な」 「一たい、この死骸を、どこへかつぎ込もうというのだ ね?」 「いわずと知れた、親のうちへよー公方さまのお|伽《とぎ》をした という人を、こんなあばら家から、とむれえも出せねえじゃ あねえかー」 「よし来た1少し、重いが、背負って行こうー」 「まだ、すこし早いや11日が暮れてからの仕事にしねえ と、おいらは大丈夫だが、おめえはブマだー島抜けが通っ ているなんて、善悪ねえ岡ッ引きの目にでも触れちゃあなら ねえII・」 「大きにな」悲しい、欝陶しいことがあったあとなので、景 気直しに、一口やって、ほの人\とすると、もう、冬の日 は、とっぷり暮れかける。 「いゝころだi出かけよう」|萌黄《もえぎ》の風呂敷に、|櫃《ひつ》をつゝん で高々と背負った、一見寺男の、法印をしたがえて、闇太郎 は、職人すがた、田圃のかくれ家を出て、さして行くのは、 松枝町の、三斎屋敷。  隠宅ながら、見識ばった門番が|胡散《うさん》くさそうにするのに、 二分にぎらせて、玄関にかゝると、この関門は、なかくむ ずかしい。 「いかなるものかは知れぬが、御隠居さまは、このごろ、ず うっと、御病気、お引きこもりーかまえて、来客をお受け なさらぬ。早う、かえりましょう」 「ところが、あッしの顔を、一目ごらんになりゃあ、御病気 も屹度、よくなるんでーそれにこの男にかつがせてまいっ た品を、どうしても、じきくお渡ししなけりゃあなりませ んし、そこを、どうかー」 「いかに申しても、お取り次ぎ、出来ぬと申すに! 帰れ!」       一五 「へえ、不思議なことをおっしゃるものだね?」と、闇大 郎、玄関ざむらいに、 「折角、御隠居さまの御病気に、かな らずきゝ目のあるものを、持って来たというあッしを、かた くなに木戸をつくたあ、こいつあ変妙だ。いやしくも、家来 |春属《けんぞく》というものは、旦那の身に、すこしでもためになること と聴きゃあ、百里をとおしとしねえのが作法1それを、ど こまでも、突っ張るなんてー」 「何と申そうと、姓名、町ところも名乗らぬ奴、お取りつぎ は出来ぬぞ! 帰れ! 帰らぬか!」玄関の若ざむらいは、 いつぞや門倉平馬とも・バ\、たずねて来た人間と、知る由も ないので、ますく怪しんで引ッぱなす。 「おさむらいさん、お前さんも、融通の利かねえお人だねi 1こうして、表から、是非とも、お目にかゝりたいと、へえ ッて来るからには、まとまった用事があるものにきまってい ∠ロ… る。・見ねえ、この男がしょッているこの大きな箱ー御注文 の晶なのだよ、御隠居さん御注文のーおい、法印」と、島 抜けを、闇太郎は見返って、 「その、この家に取っちゃあ、 大事な品を、玄関へ置いて、てめえは帰ってしまえ!」 「よし来た」法印は、一刻も早く、こんな場所は立ち去って しまいたいのだ。大ごとになって、身許がばれては彼とし て、それッ切りだ。荷右。下ろそうとすると、 「こりゃく・、左様な品、お玄関へ!」と、さむらいが、さ えぎったが、闇太郎、突きのけて、 「これ! この品へ、指でも差すと、この屋敷の家来とし て、腹を切らねばならぬぞ!」 一、何を、申すにことをかいてーこれ、持ち帰れ!」  さわぎは|激《ほげ》しいので、詰所から二三人、どやくと、家芙 どもが出て来る。その中で、年輩のが、 「青井うじ1何じゃ、かしましい1御隠居さま、お引き こもり中にl」 「こやつが、こんな荷をかつぎ込みまして、どうしても、御 隠居に|拝謁《はい  つ》をと、いいはりますのでー」じっと、見て|老臣《トわとな》 ⊥|刀《ヰ 》- 「ふうむ、こりゃ、この荷は、何であるな?」闇太郎、急 に、小腰をかゾめて、 「へ、へ、へ」と、笑って、「あなたは、話がおわかりにな, るようでごぜえますねーちょいとお耳を拝借1」 「ふうむし老臣が、闇太郎の目つき、顔つきに、何ものかを 認めたか、式台に下りて来る。 「お耳を」そして、低く、 「御当家で、鐘、太鼓で、お探し になっているかけげえのねえものが、ござんしょう?」 「うむ」キラリと、老臣の目が光る。 「それについて、是非とも、御隠居さまに1御隠居さま に、闇が来たと、おっしゃって下せえ」 「ナニ、闇1」 「申し上げればわかりますよ」       一六  老臣は、しぶりながらも、|家中《なか》へはいって行った。闇太郎 は、あたりを眺めまわすように、 「ふん、やっぱし、年は取らせてえなーね、お若い方々、 ごらんなせえ、あのお人はじきにむくれ出しはしねえよ、 ちゃあんと、用を足して下さるよー」そういって、式台に しゃがんだが、そのときには、もう、島抜け法印のすがたは、 無かった。「ほ!法印の奴、すばしっこいな」闇太郎、殆 ど、押ッ取り刀で、取りかこんで、|睨《ね》め下ろしている若侍た ちの中で、平気で腰をさぐって、莫入を取りだすと、 「済ま ねえな。火を貸して下せえな」 「何をこやつ1」先程から、威光を損なわれたように、じり じりしていた家来が、いきり立ったとき、脇玄関から、廻っ て来た、一人の人影。闇太郎と、目を合わせると、「やッ! 貴さまは!」と、鋭く叫ぶ。 「これは、門倉さんでしたね? 平馬さんでしたねーひさ しぶりだね」闇太郎は、立ちはだかった、黒小袖に、同じ紋 付、いかめしげな男を見上げて微笑した。この人物、まぎれ もなく、門倉平馬-闇太郎とは小梅廃寺での出会い以来、 一∠ 敵味方に対立してしまっていた。 「こりゃ、おのれ、こないだは、ようも煮え湯を呑ませた な!」と、ぐっと目を|剥《む》いた平馬、 「おのく方、こやつ何 か、ゆすりがましいことでもゆうて、まいったのでござろ う。お手を下すには及ばぬ1拙者がー!」立ちかゝって、 襟髪をつかもうとすると、 「これ、平馬さん、この俺に、指でもふれると、御隠居から 御勘気だぞー見ろ、大事な品物を、御前にとゞけに来てい るのだ」 「何だ! この函は?」平馬が、大きな風呂敷包に、手をか けたとき、さっき、奥にはいった老臣が戻って来て、|狽《あわ》てた ように、 「これ、門倉、何をなさる!」思いがけない一声に、 「はッ!」と、平馬が、すくんで、 「夜陰怪しからぬ者が才 いって、お玄関をさわがしております様子ゆえi」 「心添えはうれしいが、貴公、お出になるところではない」 老臣は、ぴしりといって、ふくれる」平馬には見向きもせず、 「この方、伺ったことを、御隠居さまに申上げたところ、と にかく逢うてとらせようとの思召しーお庭先きにまわ れ!」 「へえ、庭先きへねーへ、へ、へ」と、闇太郎は笑って、 「この前とは、大分、もてなしぶりが違うが、その中に、御 隠居の方で、屹度、この俺を、お座歎へ上げることになる よ。ときに、若い人達ー」と、家来どもを眺めて、 「この 函は、この屋敷に取って大切のお品だ。粗末のねえよう、あ とから持って来てくれ」渋ったが、老臣が、 「いうまゝに、致しつかわすがよい。さあ、こちらへ来い」 と、闇太郎を伴れて、玄関から、庭木戸を潜って、奥庭に面 した座敷の、廊下外に導びいた。 一七  庭上に突ッ立った闇太郎、奥を見込んで例の調子で、ベラ ベラとやっている。 「いゝ気なものだぜ、御隠居もーあんなに猫撫ごえで、い つぞやは大事にしてくれたのに、今夜は打首にでもする積り か、庭先へまわれは、おどろいたなーおッとッと、そんな にその函を手荒くあつかっちゃあならねえぜ。御隠居が、中 を御覧になったら、その荷物は、たちまち奥広間に、大切に 持ち込まれるにきまっているんだからー」やがて、小姓達 の少年が二人、厚い錦の|褥《しとね》と、蔑盆を縁にもたらしたと思う と、鞘形編子の寝巻に、紺羅紗の羽織を羽織った三斎、なる ほど、めっきり|翼《やつ》れを見せて出て来た。 「闇、久しぶりであったな!」 ・「へえ、お久しぶりでごぜえます。お変りもなくってと申し 上げてえが、何だか、どこかおからだがいけねえそうでi 実は、ちょいとそのことを伺ったもんですから、夜分ながら 出向きやした。お目にかゝらせていたゞいて、ありがとう存 じます」 「ふん、それについて、何か見舞の品を持って来てくれたそ うだが、大分大ぷりな荷物だの?」と、浪路が失殊してか ら、絶えざる不安|懊悩《おうのう》におびえつゞけていながらも、いつも の好奇癖で、闇太郎が、何か売り込みものを持って来たと取 上 ると、すぐに、もう内容が見たくてたまらない三斎だった。 「へえ、ちと、かさばっておりますが、まあ、御覧下すった ら、ずい分およろこびだろうと思いますんでー」と、闇太 郎が言う。三斎が、側の若ざむらいたちに、 「これ、荷物を開けろ」と、言いつけると、闇太郎が、 「いけねえよ、それに手をかけちゃあ、大事な品ものだ。あ ッしが自分で蓋を払いますが、御隠居、人ばらいをお願い申 してえんでー」 「ナニ、人払い?」と、三斎は、いぶかしげな目つきをし た。「なにか秘密の品か?」 「まあ、そんなものでー」三斎の顎がうごくと、若ざむら いや小姓たちは、|退《しいぞ》いた。 「さあ、人目もない」 「御隠居」と、闇太郎は、じろりと三斎老人を見上げて、い くらか、こえの調子が変って、 「人間、いつ、どんなものが 手にはいらねえともかぎらねえんでー-中身を御覧になっ て、びっくりなさらぬようおねげえいたしますぜ」三斎の目 口は、好奇の昂露にわなゝき、物ほしげな微笑がたゾよっ た。 「闇、わしもこれで、六十年、天下の珍物を採集するに骨を 折ってまいった。わしの蒐集品はまあ、どんな|貴顕《きけん》の宝蔵に も劣りはせぬつもりだ、大ていの晶では、わしをおどろかす ことは出来まいよ」闇太郎はうなずいて、 「それはそうでしょうとも-御隠居さんの御宝蔵は、まだ 拝見はしておりませんが、大凡の見当はついているんでー なかく品えらみに、あっしも骨を折ったつもりですよ」そ う言いながら、縁側に置かれた、大きな風呂しき包の方へ近 づいて、結び目をおもむろに解きはじめるのだった。       一八  闇太郎、浪路のなき|骸《がら》を入れた|唐櫃《からぴつ》の蓋に手をかけたが、 三斎隠居を見て、 「さあ、御隠居、立ち寄って、御覧が、願げえてえんで」 「おゝ、大分、前口上のある品、定めて、目をおどろかす珍 物であろうな?」ツと、立って、太いのべ金の長ぎせるを手 にしたま\縁側、唐櫃の側に寄る。 「さあ、蓋を払いますが、どうぞ、お目をお止めになってー -己闇太郎、そう言って、ギゝと、蝶つがいをきしらせて、 蓋を開けると、一足、あとにさがって、例にない、つゝしん だ調子で、「|御覧《ごろう》じ下さいまし」 「ふうむ」と、三斎は、美い香の匂いが、ぷうんと立ちのぼ る、函をのぞき込む。中身は何か? それを|蔽《おト》うているの は、美しい、女の着物だ。「は、は、|憾《た》きこめた香の匂い は、ゆかしいな」持っていた、延べのきせるーーそれをのべ て、雁首で、蔽いを、少しかゝげるようにしたと、思うと、 ギョッとしたように、目をみはった、三斎隠居ー「あッ! これは!」グッと、闇太郎を睨んで、 「闇、これは何じゃ! うなだれて、髪のみ見えて、面体は わからぬが、たしかに、死骸と見えるが!か、かようなも のを何ゆえなれば!こりゃ、そのまゝには捨て置かぬぞ!」 「御隠居さま」と闇太郎のこえは沈んだ。 「御隠居さま、ま ず、とっくりと、お目をお止めなすってー1だれの|死骸《なきがら》だか β 6. ーどなたさまの、おなきがらだか、御覧なすって下せえま し」三斎隠居は、青ざめた。思い当ったことがあるかのよう に、身をこわばらせて、丁度、唐櫃のそばにかゞやいている 大燭台の光りをたよりに、もう一度、見込んだがー 「あッ! これは! これは、浪! 浪路f、はないか」さす がに、声が、つッ走しって、その場にヘタくとすわってし まいそうな身を、やっと、ぐっと踏み止めて、 「これは、浪 路だな!」今は、汚れをいとうひまもなく、延べのきせるを 投げ捨てて、掛け|衣《ぎぬ》をつかんで、投げ捨てると、両手で、死 骸の首を抱き上げるようにー「まぎれもない、浪路! ま、 何で、このような、浅ましいことにー」と、㍗つめいたが、 闇太郎を、食い入るような目で、グッとねめつけて、 「申 せ! いかなれば、この品を、手には入れた一て! 申せ! 申しわけ暗いにおいては、きさま、その場は立たせぬし 「御隠居さま、やっぱし世の中は、|廻《めぐ》り合せというようなも のがござんすねえーこのお方さまと、あっしとは、何のゆ かりもねえお方ーそのお方が、たった昨夜、息を引き取る つい前に、あっしと行き合ったのでござんすが、あなたさん の御縁の方とわかって見りゃあ、見すごしもならず、死に水 は、このいやしい手で取ってさし上げましたよ!御臨終 は、おしずかで、死んでゆきなされるのを却てよろこんでお いでだったようで、あの分では未来は極楽1そこは、御安 心なすって下せえましー」三斎隠居は、この闇太郎の物語 が、耳に入るか入らぬか、た冥、ジーッとわが子のなきがら を、みつめつゞけるのみだった。 →九 「ど、どういたして、又、このなきがらが、きさまに運ぱれ て、わが家にかえることになったかi闇、くわしゅう、申 せ!」三斎、パタリと、唐櫃の蓋をとざして、叫ぶ。 「だから、何もかも、只、浅からぬ因縁だと言っているじゃ あありませんかi何でも話を聴くと、どこかに隠れている うちに、横山五助とかいう、お屋敷出入りの悪ざむらいにつ けまわされ、操を守るために、その男を、突ッ殺したとかい うことで!」闇太郎が、そこまで言うと、三斎が、 「えッ! 横山を、むすめがー」 「へえ、よっぽど、しつッこくしたらしいんでごぜえます よ。浪路さまも堪忍がしかねたと見えますね!何にしろ、 そこまで決心なさるにゃあ、なみ/\のことじゃあなかった でしょうーおかわいそうにーそれと言うのも、ねえ、御 隠居、おまえさんが、わが子の心を汲むことを知らねえで、 わが身の出世のために、お城へなんぞ上げたからですぜi」 「む、む」と、隠居はうめいて、「して、むすめは、どこに隠 れていたのじゃな? やはり、雪之丞にかくまわれてil」 「とんだお間違いでごぜえます。雪之丞は浪路さまから、何 度呼び出しをうけても、義理をお屋敷へ立て抜いて、お言葉 にしたがわなかった容子でー」 「では、むすめは、いのちを賭けて恋いした、雪之丞に、逢 わずに死んだというわけかー」と、さすが、わが子のあわ れさに、暗然として、三斎がつぶやいた。 「ですが、そこには、神もほとけも、ねえわけじゃあござん せん1浪路さまは、あっしの小家で、御臨終になるとき に、雪之丞に、手を把られているような、夢を見ていたよう でごぜえますよ」闇太郎は、こう言いつくろって、 「何で も、未来はかならず一緒とか、言っておいでのようでした」 「で、その最期の際に、わしのことは、この父親のことは、 何も申してはいなかったか?」隠居は、だんくに流れて来 る涙を、どうすることも出来ずにたずねた。 「それを訊かれるのが、一ち、あっしにゃあつれえんでー」 ^闇太郎は、わざとらしくもなく、目を反らして、 「何でも、父御、兄御の方々にはうらみのひとつもおっしゃ りたいようでしたが、そこは、おたしなみで、何の御遺言も ござんせんでしたよ」 「う、うむ」と、隠居は腕を組む。闇太郎は、膝を立てゝ、 「じゃあ、たしかに、この唐櫃は、おとゞけ致しやしたか ら、あッしは戻していたゾきますが、まあ早く、縁側から、 お仏間へおうつしになった方がi」 「おゝ、闇、貴さまには、はからず世話になったのう」と、 隠居は目を上げて、 「実は、この死骸が、他人の手に落ち、 公けへ届け出しもいたされたら、当家として、とんだことに なったところー公儀からのおとがめも、おかげにて、事な く済むであろう。きさまには、礼もしたい。まず、客間に通 って休息するようー」 二〇  辞し去ろうとする闇太郎を、 て、 三斎老人は強いて引き止め 「いかに何でも、この唐櫃を届けてくれた仁を、このまゝ返 すことは、わしには出来ぬことだ、それは、ようわかってい ようーさ、ずっと通るがよいーこれ、誰か?」と、手を 拍つと、あらわれた二人の小姓に、 「客仁を、座敷に通し、酒飯の馳走をいたすようにーまだ 聴きたいこともある」二人の小姓が、闇太郎を庭口から、離 れめいた、小間の方へ、無理に導くのだ。闇太郎は、振り切 れずに、広からぬ|漁酒《しようしや》な部屋に坐る。そこは、一切、茶がか った造りで、床の掛ものは、|沈南頭《ちんなんぴん》の花鳥、花生けは、|宋窯《 そうよう》 の水の垂れるような|青磁《せいじ》、|馨《けい》が掛っていたが、その幅が二尺 あまりもあって、そのいずれを見ても、闇太郎の鑑識眼で は、上乗無類、値打の程も底知れぬものだ。娘のなきがらを 一目見て、前後を失した三斎は、世にもあわれな一老父にす ぎなかったが、この部屋の豪蒼さを眺めると、闇太郎、たち まち又、暴富に対する憎悪を感ぜざるを得ぬ。  -ふん、じゝいめ! 若し、雪之丞の仕けえしというこ とがなけりゃあ、この屋敷から、犬よそ目ぼしいものは、こ のおれさまが、みんな抜き取らずには置かねえのだ。あの仕 事の邪魔になってはと、遠慮しているが、癩だなあ、この賛 沢はー  唇を食いそらすようにしていると、いかなる美女も董じら う容色の振袖小姓が、酒肴を運んで来て酌を取る。 「どれ、じゃあ、折角の御馳走だ。一ぺえいた冥こうか?」 と、やけ気味で、闇太郎は杯を取り上げる。そのころ、件の 縁側の唐櫃は、丁寧に、老臣等の手に依って、浪路の居間へ と|担《か》つぎ込まれた。浪路には、兄に当る、当主駿河守の許へ も急使が飛ぶ。腹心の老女どもが、三斎から耳うちをされ て、顔いろを失しながらも、|錦繍《きんしゆう》のしとねを、いそいで延べ て、驚愕と恐怖とに、ブルブルと震えながら、美しく若い女 あるじの死体を窮屈な函から出して、そのしとねに横たえる のであった。三斎老人は娘の枕元に坐って、暫く、何か考え 込んでいたが、やがて、ふッと、思い出したように立ち上が って、わが居間に戻ると小姓に、 「門倉が、まいッていたようだがi」 「はい。溜りの間に、おいでになりまする」 「呼べ」 「は」間もなく、門倉平馬、これも、思いもよらない椿事 が、いつか耳にはいったものと見えて、顔色が変っているの が、|閾外《しきいそと》に手を突いて、 「召されましたか?」 「うむ、近う」老人は、唇を、への字に引きしめて、むずか しげに言った。 「平馬、異なことになった」うなずくよう に、頭を下げる。 「で、そのあと始末じゃがー」と、三斎 はいつならず、重たい口ぶりで、 「この事が、他に急に洩れ ては、当家として困るすじがある。じゃによって頼みたいこ とがあるーまそッと近う」       二一 「わかったな! |善悪無《さがな》い口をふさいでくれるよう、よきに 頼むぞ」と、三斎隠居は、苦みを嘗めるような口つきをして いって、門倉平馬を、ジッと見て、 「但し、仕損ずるにおい ては、恥辱の上塗り1貴さま、二度と出入りを許されぬば かりか、きびしい目に蓬うであろうぞ」 「ハッ、委細、わかりましてござりまする」 「のみならず、このことを知るもの、かの者のみでは無いと 思う。用意をおこたらず、十分に手当して、根だやしにいた せ」 「ハッ、ようわかりましてござりまする」 「行け!」隠居はそう言って、かたわらの蒔絵の手箱から、 取り出した、紫ふくさの包みを、投げるように渡した。ズシ リーと、重たい黄金-押しいた冥いた平馬、1闇太郎 の|技偏《うで》は、すでに知ったことではあり、高の知れた仕事に、 これは過分の前褒美と、胸をとゞろかして、御前を辞して出 る。こちらは闇太郎ー小姓の酌で、遠慮もなく、|飲《や》ってい るところへ、侍が、眼も|綾《あや》な、|錦《にしき》をかけた三方をさゝげては いって来た。 「御隠居さま、お目にかゝるべきところ、何かと取り込み、 今晩はこれにてお引取りを願うなれど、これは寸志、おおさ め下されるようにーとのことー」と、前に、三方を置い て、 「おおさめなさいi」と白巾紗を取る。下には、杉なり に積んだ、二十五両包が五つI 「ほう、これは、立派なお引き出ものでござりますが、今晩 のところは、こいつをいたゾいては、心にすみませぬ」と、 闇太郎は、突っかえして、 「御隠居さんに、そう言って下さ い。いずれ何かいたゞきたいものがあれば、改めて、いゝ時 刻にひとりでうかゾって、黙っていたgいてけえるからー と、ね。は、は、は、そうおっしゃって下さりゃあ、わかる んです。どうも、おとり込みのところを、とんだお邪魔をい たしやしたL持っていた杯を、カラリと捨てた闇太郎、あっ けに取られている侍をあとにのこして、まるで自分のうちを 歩くような勝手なかたちで、脇玄関に出ると、揃えてあった 下駄を突ッかけて、そのまま、屋敷の外へ出てしまった。  -ふ、ふん、さすがの三斎もおどろいていやがったー いかに悪党でも、むすめの死げえをだしぬけに見りゃあ、び っくりするに無理はない。ところで、この|機会《しお》に、雪之丞 に、この屋敷に乗り込ませて、ばたくと、事をすませてし まった方が、いゝと思うがな! いかに|悪徒《しれもの》の隠居だって、 天運が尽きたのを知れば、思い切りよく往生するかも知れね え1  彼の足は、山ノ宿の、雪之丞旅宿の方を向いて進むのだ。 そのあとを眼けているのは、師匠門倉平馬から、闇太郎の行 方を、つき止めるように命じられている、悪がしこそうな、 二人のさむらいーぐっと、間を置いて、ブラリ、フラリと、 歩いてゆく。さすがに、闇太郎、心に思うことがあるので、 うしろに、目が無かった。|眼《つ》けられるとは知らずに、例の暢 気そうなふところ手、のめりの駒下駄をならしてゆくのだっ た。       二二  何も知らぬ闇太郎、山ノ宿、雪之丞旅宿の門をくゞると、 見知り越しになっている店番の若い衆にー 「若親方はいねえかね? 雪之丞さんはlI」 「おッ! 親方i」若い衆はい?も切ればなれのいゝ、象 牙彫の親方と思うので、目顔で、歓迎の意を表して、何もか くさず、 「生憎でござんしたねえ、若親方は、ついさき程、 どこへかお出かけになりましたが11こないだ火事に逢っ た、お贔贋さんへ、見舞にゆくとか。犬師匠に話しておいで のようでしたよ」 「おゝ、そうかいーじゃあ、また来ますよ」のれんを分け て出て、闇太郎、暗がりにたゝずんだがI  lこないだ焼けた贔演といやあ広海屋にきまっている が、さては、いよく、三斎屋敷に乗り込むまえに、あっち を荒ごなしにかけようとするのだな。  と、こゝろにつぶやいて、  ーよし、のぞいて見よう。  海運橋の、広海屋までは、かなりあわいがあるから、辻か ごを呼ぶ。いつともなく、また眼けはじめていた二人ざむら いーこれも亦、かごを小手まねぎして、 「こりゃ、あれへまいる乗りものを、見えがくれに迫うの じゃーとまればとまり、進めば、すゝむーよいか?」 「へえ、あのかごをね? 何でもござんせん。やりましょ う」 「うまくやれ、酒手をつかわすぞ」闇太郎は、広海屋の間近 かまで来ると、かごを捨てる。二人も降りる。闇太郎の方 は、心耳すませば、軒下に立つ家の中のことは、心の瞳に、 あり/\と映り、柱の千割れるのまで、きこえて来るという 男だ。広海屋の、仮宅の前にたゝずんだが、  1変だぞ!  と、小くびが、かたむいて、  1何んにも聴えねえーそれに、表が、こんなにきびし 、三目手j 甘塙# 鼻 士 く閉っているところを見りゃあ、なみのやり方で、訪ねて来 たわけじゃあねえなー  うすわらいが、唇にうかんだが、それから、軒下をはなれ て、店に沿って、ぐっと河岸にまわると、塀になる。その塀 の下を、しずかにあるいているうちに、何を感じたか、足 が、ぴたりと大地に吸いついて、  1やッ! 何か気はいがする。  片手が、土塀に触れたか、触れぬかに、全身が、すうと軽 く舞い上がって、もはや、塀の上-上でちょいと、前後を 見たと思うと、音もなく、ふわりと、向う側へ1  塀の曲り角に、この容子をうかゞっていた二人ざむらい 「貴公! 早かごで、この|赴《おもむ》きを先生へ! 拙者は、のこっ て、あとを見張る!」と、 一人が言う。 「かしこまった。その間に動き出すようであったら、貴公、 ゆく先きをつき止めたまえ!」と、言いのこした今一人、章 駄天ばしりで駆け出すと、河岸で、かごを拾って、「いそ げ! 松枝町まで、一息にいそげ!」かごは、矢のように走 り出した。       二三  眼け人は、いかにもせよ、闇太郎は、広海屋、焼け残り の、倉つ冥きーその一ばん端の土蔵の方を目がけて、まる で、足裏に毛の無い、夜のけもののように、ツウ、ツウと、 伝わってゆく。そして、入口の|土扉《とぴら》が、僅の隙を見せて開い ているのを見出すと、ためらわず、ツイと押してはいって、 しめっぽい埃くさい、闇の中を、.二階への階段を上がって行 った。二階の奥の、金網窓の中に、たよりない赤茶けた|灯火《あかめ》 がさしていて、そこから、人ごえが洩れているのだ。窓口ま で、走り寄って見て、闇太郎、何を見出したか、さすがのつ わものが、目いろを変えて、iアッ! あれは!  と、叫び出しそうになって、狽てて口をおさえた。奥部屋 の、異国物産が、うずたかく|積《つ》まれた中に、闇太郎が見つけ たものは何であったろう。そこには、見るかげもなく、痩せ 衰えた、長崎屋三郎兵衛が、敵味方同然になってしまった、 この広海屋の主人与兵衛と、こともあろうに、お互にすがり つくよう、取り付き合って、恐怖に充ち、苦痛に歪められた 表情で、目の前に立つ、一人の男をみつめているのだ。二人 のからだは、遠くからわかるほど、ガタガタと戦標し、とき どき、 「おゝッ」「うゝッ」と、いうような叫びさえ、咽喉の奥か ら洩れて来る。二人の目がそゝがれるあたりに立った人影 は、年のころ、五十あまり、轡髪はそゝげ、肩先は|削《そ》げおと ろえ、指先が|鈎《かぎ》のように曲った、亡霊にも似た男II 「おのれ! 三郎兵衛、ようも、子飼の恩を忘れ、土部奉行 や、浜川、横山、これなる広海屋と腹を合せ、わが松浦屋を 亡ぼしたなーようもく、むつきの上から拾い上げ、手塩 にかけて育てたわしの恩を忘れ、編笠一蓋、累代の家から追 い出したな!おのれ、そのうらみを、やわか、やわか、忘 れようか!」と、一足、すゝめば、 「うわあ! おゆるし下されく、わたくしがわるうござり ました」と、長崎屋にすがりつきながら、面を|蔽《おも》う。 「いっかな許さぬぞ!」と、乾き、しわがれた、怖ろしい声 がつゾく。 「何をゆるされよう! 恋しい妻は、おぬしの手 引きにて、土部屋敷にいざなわれ、くるしめにくるしめら れ、舌を噛んで、死んだのじゃ1舌を噛んで1舌を噛ん で死ぬ、痛さ、つらさーどうあったろう、のう、三郎兵衛 1おぬしの、今のくるしみは、物のかずではないわーこ れ、三郎兵衛、おぼえたか!」一足、すゝめ、またしりぞ く、此の世のものとも思われぬ、浅ましい怨念のすがた。 「いゝえく、あれはみんな、わたくしの罪のみではござり ませぬーこ、こゝにいる広海屋-采配は、みんなこやつ が、振りましたのでー」 「なにをいうか、長崎屋ーあれく、あの怖ろしい面相 1」広海屋は、怨みをのべるものを、指さして、顔を蔽う た。 二四 「三郎兵衛が申すまでもなく、広海屋どのーそなたには、 また、いうにいわれぬ、お世話になったものでござりますな ー1」と、怨霊に似た、黒い影は、うめくようにいう。 「土 地でしにせの松浦屋、いかにそれが目のかたきじゃとて、甘 い口でわしを引き寄せ、もろともに|密輸出入《ぬけにあきない》-御奉行が承 知の上のことゆえと、いやがるわしに、あきないをさせ、ど たん場で、わが身は口をぬぐい、わし一人を、闘所投獄1-1 して、只今では、この大江戸で、大きな顔しての大商人ー さぞ楽しゅうござろうな、のう広海屋どのうー」怪しげな 手つきで、相手の首を引ッつかむかのごとく近づくので、広 海屋は、たましいも、身にそわぬξつに、 「あ、あゝ! 怖ろしい! 怖ろしい! わしにはわからぬ ー1信ぜられぬーたしかにみまかられたはずの松浦屋どの がーあゝ! 怖ろしいll」 「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」と、黒い影が、笑って、 「わかりませぬか! 信じられませぬか! 与兵衛どのII この顔をじーッとごらんなされ、おみつめなされ1牢屋か ら出されて、裏屋ずまい、狂うてくらしましたゆえ、さぞお もかげもちがったであろうが、これが、だれか、そなたにわ からぬはずがないーのう、ようく、この顔を、御覧なされ や!」 「あッ! ゆるして下され、松浦屋どの、清左衛門どの! わしがわるかった。が、わbばかり、わるかったではない。 第一に、悪謀をすゝめたは、これなる三郎兵衛i」 「又しても、わしをいうか! 広海屋」と、長崎屋は、火災 後、この一室に濫禁されて、骨ばかりになった両手をのばし て、広海屋につかみかゝる。 「あたりまえじゃ。貴さまゆえ、このわしの迷惑-気違 い、失せろ!」と、広海屋も、いつもの落ちつきも、狡猜さも 失って、歯がみをして、相手の咽喉にしがみつく。二人は、 お互の首を絞め合ったまゝ、ごろくと、床を転げて、苦し げなうめきをあげつゞける。 「おゝッ!」 「うわあッ!」 「・つ、 }つ、 ・つ、 ・つ!」 「む、む、む、む」それをこゝろよげに見おろしている、黒 い影1 「は、は、は、何とまあ、二人とも、いさましいことのうl たがいに、咽喉をつかみしめた手先をばはなすまいぞー ぐっと、ぐっと、絞めるがよいーおゝ、いさましいのう」 と、言ったが、㌔この松浦屋を、くるしめた人々の中で、|端 役《はやく》をつとめた浜川どの、横山どのは、めいくに、楽々と、 もはやこの世をいとま乞いして、地獄の旅をつゞけておいで じゃぞIIそれに比べて、これまで生きのこった二人、さ、 もっと、もっと、苦しめ合い、憎み合い、浅ましさの限りを つくすがよい。ほ、ほ、ほ、まあ、何と、江戸名うての、広 海屋、長崎屋L二軒の旦那衆が、狂犬のようなつかみあ い、食いつき合いーおもしろいのう! いさましいのう! ほ、ほ、ほ、ほ!」のぞいている闇太郎、身の毛がよだっ で、背すじが寒くなった。       二五  全く、おぼろかな金網行灯の光りに、|膝薦《もうろう》と照らされた中 で、二匹の夜の|獣《けもの》のようなものが、互に両手で首を絞め合っ て、歯を剥き出し、うめき立てている、その有様ほど凄惨な ものはなかった。闇太郎ほどの、大胆もの、それさえ顔をそ むけずにはいられないのに、二人の争闘を、じっと見おろし ながら、さもこゝろよげに、笑いつゾけている、この黒い影 は何ものだろう? 「ほ、ほ、ほーとうとう、狼が噛み合いをはじめました ね!」その声は、もはや、怨霊じみたものではなかった。美 しい、女のような、|韻《ひず》きの深い声であった。 「もうお二人 が、お互に絞め合った、その乎の力は、尽未来緩みませぬ ぞ! お二人はそのまゝ御一緒に、遠い、暗い旅にお立ちな さりませ! ほ、ほ、ほ、まあ、そのようにお目を剥きにな って-油汗を流されてーお歯を噛み鳴らして、お苦しゅ うござりますかーお二人ともーあれ、お息が、すっかり 詰まって、咽喉笛から、血が流れ出して来ました。お二人の 手は、血だらけでござりますよーお苦しゅうござります か? お互に、もっとく、ぐい/、お絞めつけになれば、 つい、じきにお楽になりますよ、そう、そう、もっとく、 ーもっとく、きつくあそばせ!ぐいぐいと、お絞めあ そばせ。ほ、ほ、ほーお二人とも、お目が、飛び出してお しまいになりましたね。あれ、おロから血がーもっとく 指にお力をお入れなさいと申しますにーほ、ほ、ほーお 二人とも、案外お弱いのねえlほ、ほ、ほlとうとう、 身うごきもなさいませんのねーお鼻やお口から、血あぷく が、吹き出すだけでー」と、いいつゾけた、黒い影-格 闘する二人が互に、咽喉首をつかみ合って、指先を肉に突ッ 込んだまゝ身をこわばらせてしまったのを、しばしがあい だ、じっと見つめていたが、やがて、もはや呼吸もとまり、 断末魔の痙轡もしずまったのを見ると、ぐっと側に寄って、 睨めおろして、「覚えたか! 広海屋、長崎屋-人間の一 心は、かならずあとを曳いて、思いを晴らす1松浦屋清左 衛門が怨念は、一子雪太郎に乗り移り、変化自在の術をふる い、今こそこゝに手を下さず、二人がいのちを断ったのじ ゃ、わからぬか、この顔がーかくいうこそ、雪太郎が後 身、女形雪之丞ー見えぬ目を更にみひらき、この顔を見る がよい」サッと、垂らした髪の毛を、うしろにさばいて、ま とっていた灰黒い布を脱ぎすてると、見よ、そこに現れたの は、天下一の美男とうたわれる、中村雪之丞にまがいもなか った。が、すでに魂魂は地獄の闇に投げ入れてしまった二人 め|悪徒《しれもの》、そのおもかげを見わけることが出来たかどうか? もし見かけ得たならば、因果の報いるところのすさまじいの に、いまさら驚かずにはいられなかったろう。雪之丞は、二 人の死骸を照らす、金網あんどうの灯を消した。そして、真 の闇の中を、三郎兵衛濫禁の部屋をぬけいで、そのま\一、は しご段を下りて行こうとするのだった。と、その闇の中か ら、声があって、 「おい、太夫、待ってくれ」 「え!」と、さすがにギクリとしたようだったが、 「あゝ、 親分でござんすね?」       二六  土蔵二階の、|湿《しめ》っぽい廊下1|内部《なか》には浅ましい二ツの亡 きがらが、お互の喉笛を、掴み合ってころげている、その窓 の外で、雪之丞は、思いがけなく闇太郎を発見して、はずか しそうにいうのだった。 「まあ、では、親分、只今のさまを、そこから御覧になって いたので、ござりますか?」 「おゝ、おれは今夜、かわいそうな人を、生みの家へ届けて やって来たのだが、何しろ先きも、名だたる|猛者《もさ》、ことによ ると、これがきっかけで、こっちの秘密を、ハッと推量する かも知れぬ。そうなると、おめえの仕事も、むずかしくなる によって、この機会をはずさず、三斎屋敷に乗り込んで、始 末をつけてしまった方がいゝだろうIIと、そういおうと思 って、山ノ宿をたずねたのだ。そうするとおめえさんが、こ っちへ出て来たようだとのことーやって来て見ると、何が な秘密がありそうな匂いが、この蔵でしたものだから、つい 癖が出て、へえり込んで、思わぬ場面を見たわけなのさ」闇 太郎は|洒然《しやぜん》としていったが、「それにしても、さすがのおい らも今のを見ちゃあ、少しばかり肌が寒くなったよ」雪之丞 はいいわけするように、 「わたしも、何も、こんな仕儀になろうとは思わず来たので ござんす。只、あの後、どう考えて見ても、長崎屋は、この 屋敷の中に、おし込められているに相違ないと思い、今夜、 ソッと忍び込み、蔵から蔵をしらべて見ますと、この内部で かすかな人ごえー1のぞいて見れば、案の定、長崎屋は日の 目も見られず閉じこめられ、恰度、そこへ、広海屋が、家人 の寝しずま,った頃を見はからって、嘲弄にまいったところー ー二人の会話を立ち聴けば、いやもう、汚れはてた、浅まし いことばかりーことさら、長崎表の昔が、ロに上り、お互 に罪をなすりつけ合ううち、しか毛、わたしの目の前で、天 が言わせるような言葉ばかりーそれを聴いていますうち に、ふと、思いついて、日頃の渡世がら、髪をみだして、顔 を怖くし、ありあわせた黒い布を身にまとい、おぼろげな灯 火の光の中にすがたをあらわし、さんぐおどしてつかわし ましただけーしかし、かようなことになろうとまでは、思 いもかけぬことでござりました」 「いや、因縁だな、応報だな」と、闇太郎は、陰気くさくい ったが、急にガラリと語調をかえて、「そりゃあ、もう、悪 事を働いた奴が、満足に畳の上で死ねねえのはあたりめえ だ、浜川、横山、広海屋、長崎屋1おめえが狙うほどの奴 が、手も下さねえのに、ひとりでに、他人の手で亡びて行っ たのも、悪人の運勢が、尽きてしまった時が来たのだ。この 分じゃあ、一ばんの強敵、三斎隠居だって、怖れるこたあね え1一気に、どしく成敗してやるがいゝ」 「はい、明夜は、あのあわれなお人のお身の上に、何か変事 があったよし、駆けつけてまいったという口実で、たずねて まいるつもりでございます」 「それがいゝ、それがいゝ」と、闇太郎はうなずいたが、 「しかし、用心はどんなにしても損はねえ1早まらず、し っかりさっし」二人は、土蔵を出た。しずかに、星の光が降 って、天地はすっかり死の沈黙-二人は塀に近づいた。そ して同時に手が壁にかゝって、飛び越えの体構えになる。       二七  雪之丞、闇太郎、二人とも身は羽根よりも軽いことゆえ、 片手が壁にかゝったと思うと、まるで釣り上げられるよう に、フワリと、土蔵の上に麺が浮く。闇太郎の目が鋭く、あ たりを見まわして、さて、向う側に跳ね下りると、つ冥い て、雪之丞が、ひらりと飛ぶ。振りかえると、土蔵の屋根 に、|暁《あけ》をよろこぷには、早い、夜がらす、黒い影が二羽1 「早い奴だの! 黒い鳥め!」闇太郎はつぶやいて肩を並べ るように、河岸を歩いて、さしかゝる屋敷はずれ、曲ろうと したその刹那だった。真黒な、野獣のようなのが、  ータッ!  と、飛びついて来たと思うと、闇太郎の真向めがけて・ 「えい!」と、斬りかゝる、すごい白刃。 「プッ!」と、ロをすぼめて、かわした闇太郎、かゞみ腰 に、ふところへ右手を、「妙なものが出て来たぜ」 「一ツ、ニツ、三ツ、五ツ、七ツー沢山影が見えますが、 怖うございますこと」ちっとも怖くない風で、そう答えた雪 之丞、ぐっと、裾をかゝげたとき、どこに身をひそめていた か、うしろから、 「とう!」と、肩先へ来る。スッと、わずかかわした雪之丞 の雪自の手が、右に動いたと思うと、  ーズーン!  と、地ひ冥きを打って、前に飛ぶ人つぷて。雪之丞、闇太 郎、二人の背中がぴったりと合せられて、八方から、いつで も来いの構えになる。それをめぐって、十本あまりの、抜き つれた刃が、低くく、地を葡って来る毒蛇の舌のように、 チラチラと、ひらめきながら、一瞬々々、迫って来る。が、 雪之丞、闇太郎、ほんとうの敵は、その一群の中にはいない のを知っているのだ。これ等の十本あまりの剣には、必死、 必殺の剣気がみなぎってはいない。むしろ、何ものかの命令 で、おっかなびっくり、押しつけて来たものに相違ないの だ。二人は知っている。  lIどこか、見えないあたりに、だれかがいるーこの刺 客隊の頭はほかにいるーそれにしても何で、二人を付け狙 うのか? 三斎だ! 土部一族だ! そして、その土部一族 に使われて、暗殺を引き受けるのは、言うまでもなく、門倉 ク 平馬-小梅以来の|敵手《あいて》であろう。  十本あまりの毒刃は、ズ、ズ、ズと、|趾先《つまさき》ですり寄る刺客 たちと一緒に、=人の前後に押し迫る。それが、二間に足ら ぬところまで来ると、おのずと止って、シーンとした静寂1 1死の沈黙。 「ふ、ふ、意気地なしめ! ドラ猫だって、獲ものを見りゃ あとびかゝるぜ! やって来ねえか? おい!」闇太郎が、 冷たく笑った。「遠慮せずに、斬って来い! 今夜はこっち も容赦しねえぞ。少し癖が立っているのだからー」と、そ れに、そゝられたように、一条の白光が、群れの中ほどでひ らめいて、黒衣の一人が、ピュッと、大刀を振り込んで来る のだった。 二八  「なア、太夫、遠慮はいらねえよ、今夜こそ、毒虫を征討し ようぜ」  「あい。わかりました」うなずき合った、雪之丞、闇太郎I -二人の手のうちに、今は、ギラリと小さく白く光るヒ首I 1そのヒ首のきらめきに、吸いつけられたように、よって来 るのが飛んで灯に入る虫のような、門倉平馬部下の剣士たち だ。  「たっ!」  「とう!」と、四方から隙間もなく斬ってかゝるので、こち らの二人も、いつか背がはなれて、自由なかけ引き。引きつ `けて、突き、退りながら、斬り|揮《ふる》う短刀に無駄がなく、また たく間に、その場に倒れてしまわぬものは、いのちから人、 逃げのびて、河岸にへたばって、|坤《うめ》いている。 「さあ、出て来い。隠れん坊は、もう沢山だぞ!」闇太郎は 意気軒昂、てっきり、そこに伏せ勢があると認めた、河岸小 屋の方へ呼びかけた。のそりとそこから出て来たのは、黒覆 面、黒衣ながら、からだの恰好で、一目に、平馬とわかる男 ー左右に二人の部下をつれている。闇太郎は、しつっこく 斬って来る若侍をあしらいながら、》「太夫、おいらにあ、平 馬は苦手だ。|於掲羅《コンガラ》、|制旺迦《セイタカ》-二人の方はおれがやるか ら、心棒は、おめえが、おっぺしょってくれ」雪之丞は、身 近くのこった最後の一人を、わずらわしげに、突き伏せて、 目をあげて、平馬を見ると、 「お\門倉さま、おひさしぶり」 「ふうむ、死にいそぎをしたがる奴1」と、平馬はうめい て、 「一度、二度、三度1ーよいほどにして置いたが、今 夜、闇太郎と一緒にいたは、貴さまの不運1いかにも、息 の根を止めてやるぞ」 「同門のゆかりこそあれ、うらみはないと思うていました が、ことみ\に、敵にまわる門倉さま、こちらももう辛抱な らぬi今宵は遠慮いたしませぬぞ1」手ごわい相手とわか っているゆえ、二人の部下も、闇太郎の方へ手を分けようと はせぬ。真中に門倉平馬I少し先行して、二人の弟子、大 刀を抜きつらねて、押し並んで迫って来る。|敵手《あいて》を片づけて しまった闇太郎、ヒ首の血を、拭い清めて、別に呼吸も切ら していない。三人を引きうけて、ヒ首をぐうっと引きつけて かまえた雪之丞のうしろから、 「よッ! 花村屋あ!」と、声をかけたが、 「いゝ型だな あ㌔御見物衆が、おいでにならねえのが残念だ」が、二人の 弟子を前に並べた門倉平馬の、覆面のあいだから漏れる眼光 は、刺し貫くようだ。今夜こそ、彼は雪之丞を仕止めねばー 1闇太郎を斬らねばならぬ。一人は、自分に取って憎悪の 的、一人は、三斎から斬れといわれた当の敵手だ。雪之丞 は、引きつけていたヒ首を、サッと揚げた。そこに隙が出来 たと見たか、も一人の弟子、ダッと、躍り込んで、薙いで来 る。かわしたと見ると、もう、ヒ首の切ッ先きが相手の首す じへー       二九  大向うを気取った闇太郎、いゝ気そうに声はかけている が、胸の中は不安におのゝいている。  ー門倉って奴あ、おいらにゃ歯が立たねえが1雪なら 大丈夫だろうが、何しろ狡い奴だ! どんな卑怯な手を使う かわからねえー  ジーッと、みつめていると、雪之丞の方は、門弟一人を斬 って落して、息もはずまさず、次ぎのかゝりを待っている。 が、二人目は出られない。    つ ツー.  1♪㌃  と、鈍い気合1これでは、敵に迫れないのだ。雪之丞、 ズーッと、ヒ首を揚げて、爪先立ちになる。 「退け!」と、平馬、奥歯を噛んで、門人を押しのけるよう に、ギラリと、大剣を上段に引き上げて、 「雪、今夜はのが さぬぞ!」 「十分にi」さすがに、雪之丞のうしろすがたに、サ1ッ と、凄味が添わる。 「う、うむ」と、平馬の息が、引きしまって、上段が、正眼 に下ったが、「やあッ!」と、誘って、大刀をきらめかす。 ジーッと、動かぬ雪之丞。闇太郎が、焦れて、 「太夫、やっちめえー夜があけるぜ!」と、言ったのは、 あべこべに、平馬を煽ったのだ。平馬の切っ先きが、案の 定、動揺した。 「や、やあッ!」 「とう!」二人の気合が、一どきに、物すごく、空でカチ合 って、重ねて、 「たッ!」と迫った叫びが、平馬の咽喉をほ とばしったと思うと、二尺五寸の刀と八寸あまりの刃が、微 妙にからみ合って、赤い火花を、チリチリと、細かく照らし たが、いつか二人のからだが、入れかわって、ジリジリと押 しつけ合う。と、持って生れた、平馬の根性だーその刹 那、やり損なったと、気がついたのだ。たッた今まで、敵意 に燃えていたが、思い当ると、自分は今夜、闇太郎を斬りに 出ただけだ。だのに、強敵に打ッつかって、今更、これは身 の上だーハッと、おびえが来たに相違ない。 11退くなら今だ!  と、いう気はい1雪之丞に、いつ通じたか、冷たい徴笑 がうかんで、ツ、ツと、付いて行ったと思ったが、 「御免!」ビュッ! と、ヒ首が斜めに飛ぶと、平馬の頬先 へー  タラリと、流れる血I  lもう駄目だ、逃げられぬ。  と、思い知ったに相違ない平馬、|窮鼠《きゆうそ》、猫を噛もうと、  ーガーッ!  と、大刀を突くと見せて、胴に来る。雪之丞の全身が、飛 ぴ立つ鳥のよう、 「えい!」烈虎の気合Iうしろにいた闇太郎さえ、ズ1ン と、恐怖が、背すじを走るのをおぼえたが、 「うおッ!」と、いううめきが荒っぽく平馬の咽喉を洩れ た。       三〇  門倉平馬の、咽喉の奥から、雪之丞のヒ首の一|閃《せん》と同時 に、 「うわあ!」と、いう、知死期のうめきが洩れて、やがて、 上半身がうしろにのけぞったと思うと、腰がくだけて、ドタ リと横ざまに朽木のように什れたが、それと間髪をいれず、 今ー人の、生きのこりが、われにもなく、磁鉄に吸われたよ うに振り込んで来る。雪之丞は、かわしもせず、ビュウン と、大刀を、ヒ首の鍔ぎわで擾ね返して置いて、胸元を一突 き-蹴返して、スッと、片入身に立って、あたりを見まわ した。もはや、立ち向って来る者もない。冴えた腕に、処理 されたこととて、いずれも、一突き、一薙ぎで、そのまゝ、 うんともすうとも息を吹くものもない。 「やっぱし、千両役者だなあ!」と、闇太郎は、太い息をつ いて近づいた。 「これだけの騒ぎに、返り血も浴びねえとい うのだから驚いたもんだなあー」 「これで、まあ、長いこと、つきまとった、毒蛇のようなも のを、始末をつけてしまいましたが1親方」と、雪之丞、 なだらかな呼吸で、闇太郎をかえりみて、「もう、残っては おりませぬかi」 「おいらが斬ったのは、フヨくしていたが、それも大てい 片づいたようだ。おまはんの刃にかゝった奴は、ぎゅうも、 すうもなくまいッているよ」 「では、人目にかゝらぬうち、引きとるとしましょうかー」 「おゝ、一刻も早く逃げようぜ」血なまぐさい、生ぬるい風 がた冥よう河岸を、いかつい影と、やさしい姿が、肩を並べ るようにして立ち去った。みちく、闇太郎が、 「何にし ろ、このいきで、ずんく突ッ込んで行くことだ。あしたは かまわねえから、三斎屋敷に乗り込みねえよーなあに、万 事、スラスラと片づくにきまっている」 「何分相手は、土部一族、強敵に相違ありませぬが、一生を かけての仕事、かならずやりとげて、御覧に入れましょう」 「うむ、その決心なら大丈夫だ」と、闇太郎ははげますよう にいったが、ふと、しんみりした調子になって、 「ところで、おいらは、自分のことを、ふッと思い出したん だが、不思議なもので、おまはんと懇意に成ってから、妙 に、盗ッとごころがなくなったような気がするのだ。自分な がら、変てこでならねえのだがi」  雪之丞は、黙していた。 「これまでは、夜道ばかりじゃあ ねえ、まっぴる間でも、外をあるいていて、屋敷、やかたが 目につくと、すぐに黄金の匂いが鼻に来て仕方がなかったも のだ。それが、このごろは、まるで、気がつかず通りすぎて しまって、あとで、オヤと思うようになったのさーこんな 風じゃあ、商べえは上がったりだ1思い切って、転業でも してしまわなけりゃあなるめえよ」 「まあ、親分、それを、本気でいって下さるのですか?」 と、雪之丞は、うれしげに♪手を取らんばかり、 「それが、 ほんとうなら、どんなにうれしいか知れませぬ」 「ウム、おまはんも、よろこんでくれるに相違ねえと思って いたが、しかし、やっぱし、さびしい気がしてなあ」闇太郎 は、はかなそうに、白い前歯をあらわして笑った。 磐 る 微笑 一  浪路の、亡きがらが、闇太郎の手で、思いもよらず屋敷へ はこび込まれた、その翌日、三斎も、当主の駿河守も、さす がに驚き呆れてどのような形式で、喪を発したらいゝかと、 その方法に悩み尽しているところへ、急に先ぶれがあって、 大目付添田飛騨守の出ばりが告げられる。大目付の出張r 三斎、駿河守|相顧《あいかえゆ》みて顔いろを変えざるを得ない。取りあえ ず、駿河守、衣類をあらためて待つところへ、馬上で乗りつ けて来た、添田大目付-清廉剛直な性で、まだ三十を幾つ も越さず、この大役をうけたまわっている人物、出迎えの土 部父子に軽く会釈をすると、 「役儀なれば、上席御免、且、言葉をあらためますぞ」と、 むずと、上座に押し直ると、白扇を膝に、父子を見下して、 「土部駿河守、父三斎、隠居の身を以ってお政治向に口入、 よろず我儘のふるまいなきに非ざる趣、上聞に達し、屹度、 おとがめもあるべきところ、永年御懇旨の思召しもあり、駿 河守の役儀召上げ、甲府勤番仰せつけらるゝことと相成っ た。右申し達しましたぞ」  ーさては、浪路が大奥を出て失踪の身となっている間 に、政敵が手をのばして、営中の勢力を根こそぎにしてしま ったものだな。  と、察した父子1しかし、今更、何と言いわけをするす べもない。 「恐れ入り奉る」と、お受けをして、立ち戻ろうとする大目 付の袖をひかえて、「お役儀、おすみなされたのちは、別間 にておくつろぎをー」と、馳走した上、|音物《いんもつ》を贈って、さ まざま君前を申しなだめて貰いもし、また、営中の形勢をも 問い|訊《たず》そうとしたのだが、飛騨守は、挟を払って、 「いや、なお、御用繁多iそれに、何かお館うちにも取り 込みがある容子、これにて御免を蒙る」と、立ち戻ってしま う。三斎父子は、そこで、荘然たるばかりだ。異常な裏面的 関係で、勢威を張り、利得をむさぼっていただけに、一朝、 土台がゆるげば、もはやそれまで、積み重ねた瓦が崩れるよ うに、ガラガラと滅亡してゆく外はないのだ。土部家を、助 けようためには、たった一ツ、法がのこっていぬではないI lそれは、三斎が、ふくみ状に、一切の罪をわびて自殺し、 公方の哀憐を求めれば、或は、伜だけは、不名誉からすくわ れるかも知れぬが、それが出来る三斎ではない。狡智で、一 生を、楽々と送ることばかり考えて来た人間だ。 「伜、まだ、狽てるには及ばぬぞ-老中、若年寄、わし と、親類同然にまじわったこともある人々じゃ1何とか、 手立が残っておらぬでもあるまい」冬の日が、わびしくタざ れて、夜になって、仏間の方では、枕経のこえが、うら淋し く断続している。今は、父子、死んだ浪路より、わが身の上 と、いそくと談合にふけっているうちに、宵もすぎたが、 すると、家来が来て、中村座の雪之丞が、久々にて、御機嫌 うかゾいのため、参館したことを知らせるのだった。  「ナニ、雪之丞がー」と、三斎は眉をよせたが、さすが、 娘が死ぬ程恋した相手と思えば、すげなくも出来なかった か、「通せ」       二 輝  いつも通される奥まった離れにしずかに坐って、三斎隠居 の出現を待つ雪之丞の心は、水のように澄みかえっている。 こゝまで押しつけて来て、彼は、何を思い悩み、案じ|煩《わずら》う必 要があるのだろうII天意が、力を貸してくれたというか、 神仏が見そなわしたというか、いのちがけで抱いて来た復讐 の大望は、彼が、こうしたいと思う以上に、|先方《むニう》から動いて 来て、父母が呪った悪人たち五人のうちの四人は、もはや生 の断崖のかなたに蹴落されてしまったのだ。しかも、その死 に方の、どれもこれもが、雪之丞自身で手を下したより、百 倍も浅ましくみじめな、けだものじみた最期を遂げねばなら なかった。そして、残っているのは、この土部三斎一人。  -今夜だ。  と、雪之丞は、喪の家の、不思議な沈黙と、佗しい香の匂 いとを、かすかに感じながら、こゝろに咳やく。  -この家のあるじは、わたしというものが、どんな人間 かそれを知らねぱならぬ。それを知ったなら、あるじは生き てはいまい。人間の怨念、執着というものが、どれほど激し 2《ヨ》|8 く|動《つよ》いものかを知ったなら、恐ろしさに生きつゾける気はし なくなるであろう。それとも、さすがは、悪の統領だったお 人、わたしに刃向って見ようとするであろうか?  雪之丞は、好みの、雪投の寒牡丹の衣裳に、女よりもなよ やかな身をつゝんで、つゝましく坐ったまゝ、不敵な微笑 を、美しい紅い口元にうかべた。すると、気はいがして、振 袖小姓がはいって来て、あるじのために褥なぞとゝのえた。 かすかなしわぷき。三斎隠居の姿があらわれた。隠居は、め っきり|翼《やつ》れている。が、彼は、相変らず、不敵なほゝえみを- 絶たなかった。ひれ伏す雪之丞をながめて、 「ようこそ太夫-初下りの顔見世興行も、首尾よう大入つ づきであったよしで、目出たいな」それには、雪之丞は、答 えなかった。平伏したまゝ、なかく面をあげぬ。 「雪之 丞、おもてをあげなさい。何も、そううや/、しゅう致すに も及ばぬことじゃ」雪之丞は、顔をあげたが、その頬が涙に ぬれているように見える。三斎は、その涙を見つけて、 「お、太夫、泣いているな?」 「は、御無礼、おゆるし下さりませーつい、さまぐ、思 い出しましてー」 「思い出したとは? 何を?」 「わたくしめが、顔見世狂言にまねかれて御当地にまいり、 中村座に出ましたはじめ、御一門さまの御見物をいたゾき、 天にも昇る気がいたしましたが、あのおり、おさじきにお並 びなされました方々が、御隠居さまをのぞきまいらせ、こと ごとく、もはやこの世においであそばさぬことを思いまする と、つい、泣けてまいりましてー」 「なんと、雪之丞、しからば、その方、浪路めの不幸をも存 じておるとな!」と、三斎、屹ッとする。 「それを知らずに何といたしましょうーあまりの恐れ多さ に、おぼし召しには、背きましたなれどーーあれまで、お情 をたまわりましたお方のことでござりますものー」雪之丞 は、もはや、三斎の視線を恐れずに答えた。 三  雪之丞は、言葉をつ冥ける。 「それにいたしましても、御息女さまをはじめ、浜川、横山 おふた方、広海屋、長崎屋のお二人ー引きつゾいての御最 期は、何ということでござりましょう。わたくしには、因縁 ごとのように思われまして、空怖ろしゅうてなりませぬ」  三斎は、フッと、何か気がついたように眉をひそめた。 「ふん、浪路のことは別としで、世に秘められた、浜川、横 山の非業の最期、さては、このわしへさえ、たったさっき、 知らせがあったばかりの、広海屋、長崎屋の不思議な死に様 iそれを、そなたは何ゆえに知ったぞ?」と、いかつい目 つきになったも無理はない。雪之丞は、|容《かたち》をあらためた。も はや、彼の目に涙は無かった。 「はい、実は、このわたぺし、浜川、横山おふた方をはじ め、広海屋どの、長崎屋どのにも、昔より深いえにしがある 身でござります。それゆえ、あの方々のお身の上は、いつ も、何から何まで|響《ひず》いてまいりますのでー」 「ふうむ」と、三斎はうなった。「最初から、そなたの身に は、いぶかしいことが、まつわっているようわしには思われ ていた。その|鵬《もら コ》たけたすがたに似もやらぬ、武芸のたしなみ といい、何とはなしに感じられる、身のまわりの妖気-浪 路が、一目見て、いのちもと思い込んだにも、|奇《あや》しさがある ーさては、切支丹ばてれんの術をも学んだものか!」雪之 丞の紅唇が、冷たくほころびた。 「わたくしは、天下の御法を守るということでは、自分でも たぐいないものと存じます。とうに手を下して恨みを晴らす べき人々をさえ、刃にもかけず、じっとながめているわたく し、何で、切支丹の御禁制なぞ破りましょうや!」 「ナニ、奇怪な言葉のはしく、1手を下して恨みを晴らす べきものをも、討たずに忍んでいると言うのか? そなたは 敵持ちか? これ、雪之丞」と、三斎隠居は、相手の冷殺と した鬼気に打たれたように、身震いをするようにしてみつめ たが、 「逢うたはじめより、何とはなしに、誰ぞに、おもか げが似寄ったように思われる太夫f一たい、そなたはどこ の生れぞや?」 「御隠居さまIlいゝえ、そのかみの長崎奉行、土部駿河守 さまーわたくしのおもばせに、それではお見覚えがおあり あそばすのでござりますか?」雪之丞、少し、身を斜めにす るようにじっと相手の面体に、冴えた目を据えた。 「うむーたしかに、誰ぞ、似た顔を見たようなー」三斎 は、ますく魅入られたもののように瞳を凝らす。しかも、 だんく、その表情に恐怖と不安とが添わって来て、やが て、「おゝ、そうじゃ! たしかに、かの者に!」と、叫ん だが、自分を押えはげますように、 「いやく、そのような ことがあるはずがない1馬鹿らしい妄想だ。雪之丞、何で もないのだ。わしは少し頭が疲れていると見えるぞ」       四  雪之丞は、三斎を|勤《つよ》い目でみつめたまゝ、しかし口元の冷 たい笑いを絶たなかった。 「長いようで、短い一生-短いようで、長い一生ーいろ いろなことが、この世では、あるものでござります。わたく しも、こうして、御身分高い、あなたさま方に、お目通りが 叶うことが、この世であろうなぞとはII」 「う、うむ」と、三斎隠居は、だんく青ざめながらうなり つ冥けるのだった。 「う、うむーわしの目に狂いのあるこ とはないーわしの目が、どんな珠玉、|錦繍《きんしゆう》の、まがい、本 物を間違えたことはないーたしかに、見覚えのある顔だ -目だ1唇だーすがただ」 「ほ、ほ、ほ、そんなにお見つめあそばして、お恥かしゅう ござります」と、雪之丞は、紅い口に銀扇を押しあてて笑っ たが、 「一たい、どこのどなたさまに、わたくしが、お似申 しているのでござりましょう?」 「それが、思い出せぬーいまくしいほど、どこかにこだ わりがあって、思い出せぬ」と、三斎隠居は、物に|愚《つ》かれた ように、みつめつドけるのだった。 「では、わたくしが、ほんの心あたりを申し上げて見ましょ うかー」雪之丞は、いよく冷たく笑って、 「わたくしの 方も、思いだせるようで思いだせませぬが、この身もおさな いころ、長崎に生い立ったこともござりますゆえー」 「えッ! そこが、太夫が、長崎で!」と、三斎、叫んだと 同時に、顔いろが、青葉のように|化《かわ》った。 「はい、長崎で、育ったものでござりますが、これ、土部の 御隠居1」雪之丞は、そう凄然たるこえで呼びかけると、 深くうつむいて、しばし荒い息をしたが、サッと、振り上げ た顔i「土部の御隠居1この面かげ、今はハッキリと、 お思い当りましょう!」 「わあッ」と、いうように、悲鳴に似たものを揚げて、三 斎、のけぞるばかりー 「や、や! そなたは、長崎松浦屋のー1」 「はい、わたくしのこの顔に、母親のおもざしが、いくらか のこっておりましょうかI」と、突きつけたその顔には、 恒より|老《ふ》け實れた衰えがすわり、目隈が青く、唇が歪んで世 にもすさまじい、三十おんなの恨みの表情が、一めんに淡っ ている。 「な、これなら、お思い出しになりましたろうが なー」土部三斎、駿河守の昔から、剛復一方、怖れも懸念 も知らずに押し上がって来た人物だが、それが、何たること -片手を畳に、片手を前に突き出して、腰さえ畳に落ちつ かない。 「そ、そのようなことが、あるはずがあるものかー」と、 わなゝいて、 「決してないーそのようなことは断じてな い」 「どのような、不思議なことも、この世にないことはござり ませぬぞ、御隠居さまー」と、ぐうつと、乗り出して、 「御隠居さま、さ、ハッキリと、思い出しなされませーーわ たくしの母のおもかげをーどうぞ、御隠居さま!」 五 「じゃと、ゆうて、わしは、何もそなたの亡き母を、責め殺 したわけではないー」と、三斎老人は、もがいた。 「わし は、そなたの母御が、好きであったのだーどうにもして、 わがものにしたかったのだーーそれは、いゝことではなかっ たーわるいことであったーが、わしが、そなたの母御 を、忘れかねたのは、ほんとのことじゃーいつわりではな しー《 》|」 「母は、父親の女房だったのでござりますーそれを、言う ことを聴きさえすれば、松浦屋を、つなぎとめるの、つぶす のと、くるしめ、いじめーとうく、あわれな母は、舌を 噛んで、こう舌を噛んで亡せたのでござりますぞー」 「ゆ、ゆるしてくれ、雪之丞1ゆるしてくれ! あゝ、今 ぞ思い当ったぞーこの一ヵ月に、思いもよらず、長崎以来 一党の滅亡IIさては、そなたの呪いであったのだなー」  三斎隠居は、部屋の隅に、追いつめられたようになって、 目を両手でふさごうとする。 「ま! ごらんなさりませー母は、こうして、われとわが 舌を噛んで、果てたのでござりますぞ」雪之丞、紅い美しい 舌の先きを歯の間に、ぐっと、噛みしめるようにする。三斎 は、狂おしげに、 「やめてくれ! やめぬか! う、う、う、息苦しい! 息 づまる!」と、胸のあたりを、かきむしるように、「苦し い! 胸が! や、やぶけそうだ!」激しい、心身の動揺の あとで、この夜更け、人無き一間で、雪之丞から、まざく と、昔の罪科を並べられた三斎、恐怖の牲となって、ため に、心臓に強烈な衝撃をうけて、もはや、生き直る力もな い。 「むうむ!」と、一こえ、物すごくうめくと、そのま ま、居すくみに、絶息してしまった。雪之丞は、片膝を立て て、ぐっと、睨めつゞけていたが、やがて、立ち上がって、 「土部どの、これにて、この世の怨みは消えましたぞ!」 と、手を合せる。と、同時に、老人のからだは、ばたりと前 につくばってしまったのだった。雪之丞、何気なく、廊下に 出ようとしたのは、もはや用なき館、今夜の混雑にまぎれ て、忍び出てしまおうとしたのであろう。すると、この三斎 常住のはなれと、例の宝ぐらをつなぐ、暗い、冷たい渡り で、女のこえー「すごいねえ、太夫!」ハッとして見返る と、なんと、そこに、紫いろの、お高祖頭巾、滝じまの小 袖、小腋に何やら角い包をかゝえるようにして、仔んでいた のが、軽わざのお初だ。「ほんとうに、おどろいた事ばかり だよ。なるほど、こうした大望を持っていた、おまえを、あ り来たりの役者のようにあつかおうとしたあたしは、けちだ ったねえ!へまをやったねえ-江戸の女泥棒は、わから ねえと、おかしかったろうねえー」と、いって、淋しげに なって、 「こんなところを見せてしまっちゃあ、なおさら、 この上いろ恋でもあるまい。さっぱりあきらめますから、こ れからさきは仕合せにー」雪之丞は、小膝をかゾめて、そ のまゝ、廊下へ出てしまった。 六  土部三斎を、密室の中で自滅させてしまった雪之丞、これ で、思いのこすこともないーまず、第一に、師匠菊之丞に ーそれから、脇田一松斎、孤軒老師をもたずねて、永年 の、かげになりひなたになっての恩顧を謝し、とにもかくに も、今後の身のふり方を定めようと、松枝町の屋敷から、わ が宿にか、こをいそがせようとしたが、途中まで来て、フッ と、胸に来たのが、昨夜の闇太郎のわびしげな述懐や、うし ろすがたー  1そうじゃ、三人の恩人は恩人、わたしのために、いの ちを的にしてくれた闇さん、今夜の首尾を、あのお人に、お 話しせねば、心がすまぬー  恰度、奥山に近いところまで、かごが来ていたので、 「かごの衆1」 書-へえ」 、「途中、ブラ/\歩きたいゆえ、こゝで下して貰いたい。こ れで一口1」と、酒手を渡して、下りて、さして行く、裏 由圃ー1もはや、闇太郎の隠れ家は、かしこと、指さされる あたりまで来て、雪之丞の足はハタと止り、目は見すえられ た!「おッ、あれは!」まごうかたなき、闇太郎住居とおぼ しき小家を、星ぞらの下、提灯の火が幾つかちらばるように 囲んで、黒い人影が、右往左往している。雪之丞の胸は、早 鐘を打ッた。「あれは、たしかに捕方! さては闇さんを捕 りに向うたかIl」と、口に出して、叫んだが、 「あのよう に、改心したーもはや盗みはする気がないと、あれまで決 心した今日の日になって!」雪之丞、ぐっと、唇を噛むと、 小棲をかゝげて、息をとゝのえて、闇の中を、ひた走りに馳 け出した。捕方勢に、気づかれぬ間に、近づいて、耳をすま すと、|捕頭《とめがしら》が、部下を|環《わ》にあつめて、 「さて、いよくかゝるぞ! 江戸ではじめての、神出鬼没 といわれた闇太郎、かく、隠れ家をたしかめ、たしかに潜み おるを知った上は、捕りにがしたら、お上の御威光に傷がつ くーよいか、しっかりやれ! どじを踏むと、八丁堀の息 のかゝる、御朱引内で、十手は持たせねえぞ! いゝか!」 「わかりやした」と、目明しの親分らしいのが、うなずく。 「それ!」と、同心が、振った十手、バラ/\と、捕手たち が、小家をかこんで、表にまわったのが、トン/\、と、雨戸 をたゝいて、 「もし! そこの休亭から、使いにめえりやしたが、御懇意 のお人が、ぜひ、このふみを届けてくれとのことでござんす カ{《ヰユ》|」 「ナニ、休亭のお客からふみだと! よる夜中ごくろうだな ーその戸の隙から、ほうり込んで行ってくれ」闇太郎の、 落ちつき払ったこえーその語韻を聴きすまして、身を忍ば せた雪之丞、いくらか、ホッとずる。  1おゝ、あれなら、もう知っている、さすがは闇さん、 立派なものだねえ。  すると、突然、裏手の水口にまわっていた五人ばかりの捕 方、肩をそろえて、やくざな戸に、どんと打ッつかると、バ タリとはずれる引戸1それをふみこえて、 「闇太郎、御用だ!」 「御用だ!」と、飛び込んでゆく。       七  ダーッと、踏み込んで行った、捕方たちーそれを、肩す かしで、かわしたように、家内から飛び出して来た、黒い人 影II  ーあ? 闇の親分だ。  雪之丞、じっとみつめて、立木の蔭でつぷやいたが、  ーあれ、また、まつわる捕手1いっそ、一思いに、ヒ 首で、斬っぱらってしまったら、よさそうなものなのに1  雪之丞が、間遠に見て、歯を噛んでいるうちに、又もや、 斬り抜けた闇太郎、結句、またも、多勢にかこまれて、身じ ろぎに、不自由を覚えて来た容子!  1相手は多い! 早う、親分お逃れになってー  が、見るく、ひしくと取り巻いて来る同心、捕り方i  lなぜ、いつまでも、抜かないのだろう。親分はー若 し、つかまってしまったら、どうなさるおつもりなのだろ う。  見るに見かねて、雪之丞、歯を噛むと、帯の間の懐剣を、 ギラリと引き抜いて、立木の蔭を飛び出すと、タ、タ、タ と、近づいて、 「御免!」と、一声、額にかざした紫電のひらめきl「親 分、お逃げなさい!」と、呼びかけるなり、突くと見せて斬 る。斬ると見せて突く。バラノ\と、一どきに散ってゆく捕 り手どもー 「助勢が出たぞう! 気をつけろう!」 「親分、おのがれなさい! あとは、わたしが引きうけます ほどにー」 「それよりも、おまはんの仕事、しすましたか?」と、闇太 郎が、だしぬけの雪之丞の出現にもかゝわらず、驚きもせず に叫んだ。雪之丞はうなずいて、 「かたじけのうござんすー1こよいで、みんな、すみましたし 「それはいゝーでは、このおれにも、心のこりは何もな い。さあ来い! 目明しども!」 「親分、悪い! 早う消えて下さらねばー」 「逃げるなら一緒に逃げよう。雪さんどこまでもー」 「あい。そうしましょうか」闇太郎、雪之丞、ヒ首を高くか ざしたから、近づく相手が、たやすくかゝろうはずがない。 浅草田圃から、いつか、吉原土手を、南につたわって、二人 ちり/\に、見えなくなってしまった。朝になると、雪之丞 は、もう、昨夜のことは(忘れ果てたように、何のこだわり もなく、師匠、菊之丞の前にすわっていた。菊之丞はしみ じみと、愛弟子の顔をながめて、 「して、そなたは、まだ、舞台をつとめる気かや?」 「はい。いつまでも、お側にいて舞台の芸でも、御満足を得 たいものと思っておりますがー」 「それなれば、師走狂言の、顔世、勘平、見ごとつとめて見 なされよ」 「はい。出来ますかぎりは、つとめさせていたゾきましょ う」雪之丞が、このときほど、心たのしげに、役の話をする のを見たことはなかった。       八 ヴノ L  さて、それから、幾日か経って今日は、中村座、師走狂 言、忠臣蔵通し芝居の初日だ。ー初日ながら総幕出揃い、 仕落しなく演じ申すべく候えば、何とぞにぎくしく|云《うんぬん》々。 と、かねて撒かれた散らしで、吸い寄せられた江戸の好劇家 たち、滝夜叉であれほど売った雪之丞が、初役、色事師とし て勘平というのを、どんな風に仕こなすだろうと、暗いうち から、いやもう、はち切れるほどの大入りだ。その見物の中 には、向う正面の、例のつんぼ桟敷というのに頑張った、五 十左右の立派やかな武芸者と見える人物と、白髪白髭の瓢亭 たる老人が、一しんに、舞台に見入っているのが見られた が、これが脇田一松斎と、孤軒老人-雪之丞の|技芸《わざ》に、す っかり魂を吸われた男女が、道行ぶりの華やかさに、うっと りと見とれているとき、 「今度の、あの者の仕事は、わしどもが力を添えねば、仕遂 げえぬかと思いましたが、案外スラくとー」と、孤軒老 人が、「あれも、なかく人間も出来ましたの」 「はい、拙者も、何かの折は、一肩入れねばと、思い設けて いましたが、さすが、おさない折より老師の御教訓ーやは り、ほんとうの修業が出来ておりますと、どんな大事も、一 人立ちで仕上げますな。まずは感心しました」 「それに何よりなのは、かの者、どこまでも、役者で生き抜 こうとすることじゃな。何を致しても一生i芸道も、奥が 知れぬものであろうゆえ、やりかけたわざを、つとめて行く が一ばんi」 「あれは、内気で、しおらしいところがありますからな」  二人は、小さな猪口を、さしつおさえつ、さも楽しげに献 酬しながら、演技に見惚れるのだった。道行が、にぎやかな とったりがからんで、幕になって、当の雪之丞、楽屋にもど ると、そこに待っている男衆の中に、何と、闇太郎がすっか り芝居者になって、にこくしていた。 「親方、来ていますぜ」 「どなた? お二人の方たち?」と、床山に|翼《かつら》をはずさせな がらたずねると、 「いんえ、あれでさーあの軽業がさーあの女も、大そう すまして、ちんとして、淋しそうでしたよ」 「ほう、それは気がつかなかったがー」雪之丞とて、お初 の、うら淋しさがわからぬではないーが、いつまでも、盗 みの道から抜け出ることの出来ない彼女は、その道を行くほ かしかたがないであろう。けれども、闇太郎は別だ。彼は、 この興行がすめば、名残を惜しみつゝも、この大江戸から、 ふたゝび、阪地へと戻るであろう雪之丞の供をして、西へと 上って行く男だ。  ーあッしも江戸ッ子だ。故郷は捨てにくいが、おまえさ んのいなさるところなら、どこへでも行く気になりました よ。  と、あの危急の晩、雪之丞にすゝめられて、しおらしく手 を突いた彼だったのである。この物語りは|舷《こち》に|了《おわ》る。が、悲 しい後話をつたえて置かねばならぬのは、かほど|秀《すぐ》れた性格 の持主雪之丞は、麗質を天にそねまれてか、後五年、京阪贔 贋の熱涙を浴びながら、|芳魂《ほうこん》を天に帰したことである。あま りに一心に望んだ仕事を果したあとでは、人間は長く生き難 いものとも見えるのだ。